夏目漱石の経済感覚
ー他者への経済援助ーー—’
はじめに 漱石が彼の小説の背只として用いたのは、 彼自身が生きた明治 ・大正の近代社会であった。 そし てこの近代社会を支配していた のは、漱石自身が「現代日本の開化 」 で述ぺたように、 ”あくな き生活欲“である。 この世活欲を左右する のは 金銭の問題であろ •つ。 漱石は、 荒正人氏によって、 「一般に、 漱石ほど、作品や他の 文章のなかで、 金銭のことに言及した作家はいない。 漱石は物質 的状況と人生ないしは文学のつな がりをきわめて重くみていたの である。 (r諏石文字の均質的姑磯」)」と言われているが、この傾向 は人間を近代社会の中で兵体的な姿として描く以上、自己の利害 .をす ぺて 金で換雰しててし まおうとする人閻を描くことになるた めの 必然として起こって来ることではあろ。 ただ確かに、漱石が 作品の中で金権を批判し、罵倒したり、 遣産問題を背只に用いた り、生活の行き詰まりを描写したり等々、金銭と人々の心とのつ ・ながりを重視したことは硝かである。 そして又、 伊藤整氏が言われたように「作家の生活様式とその 生活感俯が、作品の形式とその中に盛られる情感を決定する最大 の要素(「近代日本の作家の生活J ) 」であるとするならば、漱石とい う作家の日常における生活感情、 その経済感党を知ろことは興味 深いことであろう。 そこでこの稿では、こ うした漱石に注目して、 38 彼自身が人間社会の一員として、日常生活の中で如何なろ経済感 笈を持ち、金銭に対処して行ったのかを眺めてみたい。 ‘,‘一
( 漱石は日常生活の中で経済(金銭)に対して、 かなり細かい心 配りをした人である。 例えば、漱石の歯簡は現在(昭和五十五年 岩波新困版漱石全巣)二三六四通発表されていろ が、 その内約四 八0通の宙簡の中で、金銭の貸借、給金、物品の売貿、 物価、 金 に対すろ考え万、 その他、 直接閥接に金銭に関迎した甲柄を祖き 残している。 そ こで、この宙簡に残された事項を中心資料として、 漱石の経済感党の特色を追ってみたい。越
智
悦
子
漱 石の生家は江戸の名主であった が、 維新を経た明治初期の頃 には、 すで にそれ程の財力は保持していなかった。 生家の没落に対しては、『硝子_戸の中』 で、 異母姉たちの豪奢 な芝居見物の問き伝えを描写した後、 「斯んな華麗な話を聞くと、 私は果してそれが自分の宅に起った事か知らんと疑ひた くなろ。 . 何 処か下町の富裕な町家の昔を語られたやうな気もする」と述ペ ている。 維新後の漱石の家は、 名主という地位を失った父直克の官吏と しての俸給と、 財産の食い潰しによって生活していた。 こうした 状況の中で学生生活を送った漱石は、 決してのんびりと学生生活 を満喫した訳ではない。学 生当時を回顧した宙簡に明治一二十九年 一月十日、 森田米松宛の書簡がある。 この苔而は衣食の資を得るために精力を費すため、 思う存分学 問に打ち込めな い苦しみを訴えた森田の手紙に対して 、 自 分の学 生時代の窮乏生活を語って 励ましを送ったもの である。 ^ 君 は衣食の為めに 充分 学問が出来んのを苦痛に感じて居ろ様 だが御尤もです。僕も貧乏で十八九の時から私立学校を教へて 卒業迄やり通したが其時分は別に何と云ふ考もなかった。 是が 今日の君の様であったら矢張り大煩悶であったらう。 夏休みに 金がなくつて大学の寄宿に節城した事がある。> 右に語られた「十八九の時から私立学校を教へて卒業迄やり通 した」という思い出は、 漱石が明治十九年、 第一高等中学校の学 生であった時に、 私塾”江東義塾“で今でいうアルバイト教師を 始めたことを皮切りに、 明治二十五年には東京専門学校(現在の 早稲田大学)の講師となり、 大学院生となった明治二十六年十月 からは高等師範学校英語嘱託、 更には国民英学会の講師と して教 鞭をとり、 明治二十八年、 松山中学校へ正式の教師として赴任す るまで各学校で講師を続けながら学資をかせぎ、 自力で卒莱まで (註1) こぎつけたことを語っているのである。 この、 自らがアルバイトをしながら学生生活を切りぬけたとい う経験と、 当時の窮乏生活の体験とは、 後日の貧乏学生に対する 処遇に大きく反映している。 漱石は金銭的な不如意のために存分 の学 問ができない後悲に対しては、常に 暖かい同情をもって金銭 援助をしている。松山中学校時代の漱石には、 子規に対する援助 はあ ったものの、 生徒に対する援助の記事は残されていない。が、 松山中学から熊本の第五高等学校へ転勤した直後の明治二十九年 春頃から、 松山で子規を介して知り合った高浜消(虚子)に対し て月々の 学資援助を行っている。 これが学問に進 ま せようと する 人物ぺの援助の最初のものではないかと思われ ろ。 このこと について、 漱石の側から知られろ賓料としては明治二 十九年六月八日、 子規に宛てた手紙が残されているだけであるが、 そ の 時の経過については、 後年虚子が回想談話『俳句の五十年』 の中で語っている。漱石 の 手紙と並ぺて引用しよう。 -
39-)v ^息Bにて御ヽ駐配の趣御尤に存候先日虚子より も大兄との談 判の校様相報じ来り申候虚子云ふ敢て逃ろAにあらず一年間退 て勉強の上入学する栖り なりと一年間に ど う変化するや計りが たけれど勉強の上入学せば夫で よからん色々の事情もあるぺけ れど先づ堪忍し.て今迄の如く御交際あり度と希望す小生の身分 は固何時免屈になるか辞国するか分ら ねど出来ろ丈は虚子の為 にせんと て約束したる事なり当人も夫を承知で栢発して見様と いひ放ちたるなり双方共別段の祖故新たに出来ざる内は其租り で居らねばならぬと存候 小生が 余慶な事なが ら虚 子に かヽる
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を申し出たるは 虚子が前途の為なるは無論なれど同人の人物が 大に松山的ならぬ淡泊なる処、 のんきなる処、 気のきかぬ処、 原 無気様なる点に有之候(烈29.6.8子凩宛)> ママ ^熊本2盤忘函衿六
赴任する時分に、 漱石がすAめるまヽに巖為 まで一緒の船に乗って行ったことがありました。 その時分に漱 石は私に、 自分は少し月 給を沢山貰うやうになっ たから、 若干 の金を君に やるから少し勉強をしろといふ やう な事をいった事 がありました。 その時分の 私は、 乏しい学資でやうやく下宿料 が払へるくらゐのも のでありまして余分の害物 を質ふといふや うな金 はなかったのでありましたから、 喜んで好意を受けて、 • 月 々五円であったか十円であ ったかの金を 送つて頁ふことにな ったのでありました。 (併句の五十年 右の 漱石の手紙は、 虚子が大学選科への入試を一年先 へのばし 、 漱石からの学資援肋の延期を申し出た事を知った子規が、 虚子の 学問に対する呑気さかげんに 腹を立て 、 虚子を叱り付けた際に、 . 漱石が 子規に宛てて虚子を弁護した手紙であろ。 このように、 漱 石は 学問をさせようとしている人間、 特に漱石が好意を持ち、 優 秀な才能を持っていると見込んだ人間に対 しては金銭的 に非常に 究大であっ た 。 ‘,、 二 ( 漱石は第五応等学校奉磁中に、 数名の五高生を松生として世話 してやっている。 明治三十年には三人 の役生を囚いていたが、 かれ ら三人の内、 土塁忠治と、 協浅孫三郎(廉孫)については、 五高 卒菜後、 東京大学へ進学した後の学資の心配から生活に至るまで の細かい配慮をした手紙が残さ れていろ。、彼らの生活が成り立つ ようにあれこ れと計画しては、 在京の友人たち に宛てて計画成就 への手助けを依頼する手紙も送 っ ていろ。 . ^黄翰拝見致候銀行の件委細承知致候右は卒菜後大分の社に入 りて従m
するといふ条件の如く聞え申候然らば其年限は どの位 に侯や 若し過重の義務と不当の束符ありて忍び難き程ならば出来る 丈他の方法を講ずる方可然か . 小生目下の状況 に て は月々五六円の金は送 る事出来ろぺし其^俣野揚浅土足淋時々参る様子貧 乏し て も貧乏なりによく御遇あ 上に山川狩野一 1 氏に依頼して月々二円宛ももらへば十円の金は 手に入るぺし仮に中根に寄食すろとせば其位にて行き立つゃも 知れず是も一策ならん (狩野山川二氏共貧の方なれど君の学資に関して幾分か補助 の意あるは在熊中明言されたる出あり若し此策をとるならば小 生より懸合て見るぺし)(明⑫・12.(?)去凪忠沿屑)> ^倍兼て御承知の191浅孫儀学資不如意の為め応分の補助致居只 今は拙宅より通学致居候が学年試験も近づき及第の暁は差し当 り東京に参り穎ろ処もなく大に閉口致居候就ては承る処によれ ば大兄の居宅は故の村岡範為馳氏の家屋の由故随分御手広と存 候へば当分 の内宙生として御養ひ被下間舗候や是は甚だ申し液 たる次第には候へども当人も有望の冑年是なりにて学問をやめ 侯は実に気の諾と存候故負宅より大学へ通学し傍ら私立校をか せぎて月謝小使を自弁するの道を悶じ候へばどうにかかうにか 行き立つ可く左すれば本人は無論の事小生も今迄の世話甲斐も 有之好都合此上なくと存候尤も東上の即り直らに私立学校教師 の口も見当り申す間敷か其際には右の方法相立つ迄は小生何と か工夫致し食住の外は御迷惑相懸申す閥敷候朋何卒右御聞済顆 度(明g.6.IOn引>百宛) るぺく僕彼等は余の不在にも関らず訪問致しくれ候は甚だ感心 の事に候( 明35 .4.17911R)v . 第一の手紙で土屋忠治の生活設計として提案されている「中根 に寄食 」 とは、妻鋭の実家中根家 の世話になるという ことである。 当時鎖の実家では、父中根重一が貴族院書記官長として相当な生 活をしていた。それ を見込んで、土屋を書生として醤くことを依 頼したので紐包この時、土屋に援助を申し出た漱石の月給は百 円であるから、その中から五、六円援助をするとなると約五ヽ六 %の支出である。この上に第二の手紙にあるように協浅の学毀援 助を一人で工夫したとすると、月々計十五円余となり相当な額に ・ (紅3) のぼる。ちなみに米価で換算した場合、当時の十五円余は現在の _ ー4 約九万円に相当する。これ程の金を毎月肛なろ教え子のために出 一 (R4) 費するということは 、当時の高等学校教授に金銭的余裕があ た とはいえ、現代の師弟関係ではとうてい考えられないことである。 当時漱石は、東京に住む父親へ十円、義姉へ三円、それぞれに 毎月の仕送りをしているが、それは 身内への援助として納得でき ろとしても、この教え子たちへの援助 は、どうしてこれ程までに 赤の他人に対して、囚情あふれる援助ができるのだろうか、と不 思議に思われる程である。そして 、その究大さ、その親切ぶりに 対する飛嘆は、第三の手紙によって禰増さされろ。 第三の手紙は、明治三十三年九月から、英語研究のためイギリ スヘ留学した漱石が、留守宅の妾錢に宛てて、学生たちへの心過
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右に述ぺたような教え子たちへの援助は、 イギリス留学から帰 国し、 東京帝国大学、 第一高等学校、.明治大学と三校の掛け持ち 教師となった後にも続いて行なわれる。 帰国後の漱石から物心両 面に様々な援助を受けたのは、 第一高等学校や東京帝大での教え 子たらを中心 にして、 特に文学に心酔し、 創作を始めた漱石の傘 下に集まって来た文学育年たらであった。 明治三十九年四月一日、 森田米松宛の香簡に、 「僕多忙採点に 窮し来客に窮し。 色々なものに窮す。 君は金に窮する由。 もし必 要なら少々取りに来給へ」とあ る。 当時漱石は、 一週講蕊二十時 (P s} 閻という大変過密な労慟で家計を支えてしャのにもかかわらず、 であろ。 この過密な労働については、 漱石ら講師の 知らぬ間に計画され、 邪托された英語学試験を彼が拒否したことから起こったいざこざ の際に、 大学側と漱石との間を取り持とうとした姉崎正治へ宛て.た手紙に次のように密かれていろ。 ^辞任の理由は多忙といふ事に帰若する。僕は一週間に三十時間 、 、、、 、 、、、、、、、、、、、 近くの課菜をもつて居ろ。是丈持たなければ米塩の資に窮する のであろ。而してそれ以外にも用出がある。読臼もしなければ ならぬ。だから多忙といふのは伴りのない所で尤な理由である。
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39.2.16傍点箪者)> . た だし右の手紙に述ぺられた「それ以外にも用事が、ある」とい うの は、漱石が前年の明治三十八年から小説を発表し始めたこと を指しており、これらの原 諏氾によって経済的に弱冠のゆとりが 生まれつつあったのは事実である。しかしその原稿料も、この時 点ではまだ漱石の三十時間にも及ぷ教師としての労働を軽減して くれろ程のものではなか った。実際に漱石が、原稿から入る収入 とひきかえに明治大学の講師を辞めることができ、毎週土昭日の 四時間を自由に使えろようになったの は、明治三十九年十一月以 後のことである。それまでの漱石 は、一方では教師として毎団三 十時間の講義をかかえながら、一方で創作 を矢継早に発表すると いう超人的な労動をこなしていたのである。 先に述べたロンドン留学中の窮乏生活の中での俣野、拐浅、土 屋らへの思いやりや、過酷な労働で家計を支えている中からの森 田への金銭援助の申し出等からわか るよ うに、 漱石の弱者に対す ろ援助は、余裕の中で 行なうと いう強者の微笑による援助ではな く、たとえ自分の側にどんなに余裕がなかろうとも、少なくとも ひ と 自分より以上に困難を感じている他者に対して は、常にその切実 さに応じた援助を惜しみなく与えていろのである。つまり自分の 菌に余裕があるからその余 剰金を回してやるという慈善的な施し では9く、自分が切羽詰まっていながらも、そ の中で何とかして 周辺の弱者に手助けをしてやりたいという真の同情からの援助で あった。 こうした漱石の 心情、限度は彼の小説にも反映しており、その 例は「野分」の高柳、「明暗」の小林といった人物に見られる。 「野分」の高柳君は、貧困と結核症状と自分を賭ける創作への魚 蛛とで切羽詰っている育年であろ。が、この高柳君は転地費用と して手にした中野君からの百円、「今の百円は他日の万金よりも 貸い」と説明される百円を、借金で窮地に立たされた近也先生を 救うために臆る。また「明暗」の小林は、定瞬もなく食い演して 朝鮮へ流れて行く男であろ。そして、その 朝鮮行に際して、津田 の若古した外套をもらって行く程、物質的困窮に陥っている男で ある。が、その男が津田からせびろようにして手に入れた銭別三 十円を、貧しい画工の原へ譲るのである。原は小林に、「僕より もまだ余裕の乏しい人」と呼ばれる画工である。 つまり、これ らの登場人物は、自分の切の余裕からではなく、 自分にとってもかけがえのない金を 、その切羽詰った状況の中で 譲っているのである。彼らは、 自分よりもさらに困窮している他 ひと 者 、 その他者にとって金が真に必要であり、その金が意涵深い働-43-きをすると考え得る相手に対しては、何の惜しげもなく温かい金 銭援助を する ことのできる人物たちなのであ ろ. 漱石の金銭援助に関すろこの態度は、朝日新間入社によろ収入 培と、作 品出版の印税 によ る収入の増加があってからも変わ らぬものであった。 ヽノ 四 ( 明治四十年四月、朝日新聞入社によって底菜作家として立った 漱石は、 人気作家として続々とその作品が売れ ていたことと、入 社に際して全ての教団をなげうち、東大教授として祖座を担当し ないかという招聘さえも惜しげもなく断わったということなどか ら、彼に対すろ羨望も 相侯っ てその誼氾については、あらぬ風評 を立てられがちであったらしい。これらの風評について云々した .ものに、明治四十年七月三日小宮翌隆宛、同二十日野間四綱宛の 苔簡があろ。 ^坪内先生来訪早稲田 へこ い と の相 絞 で あ る 。評判 によれば裂応 義塾へも行く さうだ。近々一万円で家を建てるさうだ。(閉40. ^^「日の『国民』 . に あ る如く五割の印税をと . ったら僕も今頃は l 万円のうら位買へるだらうに 。(IJI40.7.20野閥只綱兄)> また、自 伝的小説「道草」の中で金の無心に来た投父島田に、 7.3小官畳隆宛)> 「お前の収入は月に八百円あるさうぢやないか」と言わせ、世閻 で は 非常に拡大された収 入が空想されていることを示している。 これは創作の中で誇大妄想的な表現が使われていろ場面で あると しても、こ れに近い空想を周辺の人々 はして い たらしい。 従って、小説を困き始めてからの漱石に対すろ弟子たら、親戚 たちの無心は多くなる一方で 、彼らへの金銭援助は以前にも増し て相当な栢にのぼったよ うであろ。その中で 、困簡に残されたも のとして は、 漱石 から種々の方面において援助を受けた典型的な 事例として林原耕三の場合があげられる。 (江8) 林原は高須賀淳平(漱石の松山中字での牧え子)の紹介で、明治四十 年頃から漱石山房へ出入りすろ様になる。漱石は明治四十年三月 には全て の教戦から身を引いたため、彼は漱 石が 学校で直接教え た教え子ではない。しかし、この神経が細4過敏 で、や やもすれば神経 哀弱に落ち込みやすい育年を、漱石は優しくいたわり、保証人と なって生活の資金ぐりから学度の心配まで、あれこれと世話をし てやったのである。 林原は明治四 十一年九月に第一店等学校へ首席で入学するが、 二年生の終頃に北海道で父親が事業に失敗し、学代が途絶えてし まう。に わかに 貧乏学生となってしまった林原に漱石は自翠校正 の仕車を同してやり、「校正料二十円もし今御入用ならば春親堂 より其地へ送る事に取計ひ可申候(明45.7.26)」「校正料は御 取りにや遠慮なく御懸合被下度候(大1.9.4)」「校正料を懸
. 合 つて先へもら って急場を凌いでは如何(大3.12.11)」などと 、 .気弱でおとなしい林原の生活を心配してやっている。 そして 、東京大学仏文学科へ進んだ林原がいよいよ学資が捻出 できず、学費滞納による除籍処分警告という切 羽詰まっ た状態に 陥っ た大正二年には、その場その場で援助の申 し出 をし、 急場を 救ってやっている。 この時には、 大学当局から保証人である漱石 .のもとへ、 「負殿保証ノ本学々生岡田耕三儀本期分授菜料未納二 付教室二入ル7ヲ差止メ且本日ョリ七日以内二納付セザルトキハ 成規ノ処分可相成戻条此段及通逹戻也 東京帝国大学文科大学」 という岱促状が来たこともあって、大正二年三月八日、林原に「も し猶在籍もしく〔は〕出府必股なら何うにか工面の辺も可有之小 原 一生立替申てもよ ろし.<候」という援助の申し出をした漱石は、 さらに十日後の十七日には「金 の為め御困りの様子是〔亦〕承知 致侯も〔し〕百円位にて此難OOが切り抜け られるものなら差上げ てもよろしく候」と いう手紙を送っている。 この当時の百円は現 在の約三十二万五千円に相当する大金である。 この金によってそ の場はし のぐことが できても、林原の学賓不 如意は相変わらずで、 彼は次年度の大正三年からは宏徳会奨学金 を受けて学夜をまかなおうという計画を立てていた。が、 奨学金 が手に入るま での月剛の払えぬことを悲観して、 小宮豊隆に洩ら したらしく、 それを小宮から知らされた漱石は、 大正二年十一月 三十日小宮宛に次のような手紙を 祖き送っていろ。 ^岡田(林尿の旧姓)の月謝は僕が保證人だからいづれ学校から何 とか云つて来たら其時出す気 でゐた此閻当人に聞いたら多分年 末だらうとの話故夫迄打棄囮く 気なりし処へ御苔面参り侯 僕 ヽヽ臣‘‘‘ヽ‘‘ヽヽヽ 、や、‘ヽ の方はどっちでもよろ し、 たゞ伯すと しふより出して ろとし つか方卦Kかぼ当なるべぎ枷夫 は いづれにせよさう悲観して ゐろなら君から右の旨を通じて下さい、 又来年四月迄無収入な ら夫迄月々二十円?八十円やってもよろし(E."点巴呑)> この当時漱石から受けた一連の学按援肋につい て、 林原自身は もらったのではなく、 あくまでも惜りたのであると思っていた。 彼は漱石回想記に次のように述ぺていろ。 ^私は 先生に金をご人も無心したCとがない。 (略)但し、 偕り たのはあろ。 私が田痙その他で大学を長く欠席してゐた時、 保 証人の先生へ 大学からnンニャク版の怪促状が来て、 何月何日 まで に納附しな い時は除名すろといつて来た。その時先生はf君、 学校へ出る気があるのかない のか、 出ないのなら、無駄だが ..... ... ‘」と 念を押して、 立替へて下さった。 その時先生は「これは 立替へだよ。 いつでもい いから、 金が出来たら返したまへ」と 附け加へ られた。 ―つには先 生はそれによって、 私のだらしな さを戒め、 気持らを引き締めさせようとさ れたらしい。> このように林原自身は、 漱石に一時的な援助を受けろだけで、 いずれ返金すろものと考えてい たし、 実際返金もしたであろう。 しか し、 援助すろ側の漱石が、 その返金 を当てにし ていなかった
-45-ことは前掲の小宮への昏簡に明らかである。 漱石は、 学生たちに 援助をしてやらうと思った時には、 端からやるつもりであったの である。 林原以外にも漱石が金銭援助をした門弟の数は多数にの ほり、 彼らに関する世商も数通残されているが、 それらには返金 のことは一切笞かれておらず、 たとえむかれていても「手許に十 円ばかりあり。 御不如意の由なれば失礼ながら用を弁ぜられ度し。 御返済は卒業して金がウナル程出来た時でよろし(明40.5.g瓢田 哲太応宛 )」というものであった。 これでは返さなくても良いと言 っているのと同様であろう。 林原の回想によ ろと 、 彼が援助を受けていたと同じ頃、 漱石は 惇田青楓に月々二十円づつ約半年間の援助をしてやったり、東新 が就職口がなくて困窮してい た時などには月々三十円づつ凡そ一 年余りも出してやっていたそうである。 その他にも小宮豊隆、 鈴 木三匝吉、 内田百間らの名前もあがっている。 . . 内田百間の物資的困窮と、 漱石への偕金申し込みについては、 彼自身が多くの随筆に苔き残している。 津田青楓の生活について . は、 やはりあれこれと心配しており、 画の買い手を探してやった り、 旅に誘う際にも、 「奈良へ行くなら此手紙若次第すぐに此所 へき たまはぬか、一所に京都から立たう。抹費は失礼ながら僕が 担任の旧(大4.3.24)」と相手に金の心配をさせぬよ うにとの .心週いをしている。 その他に、 書簡に残されているものだけでも、 「生田先生は正 に二十円を拉し去る(明40.6.21必IQ米松宛)」「三十円君に上げる。 夫で帰国の旅費が足りなければ十月十日になると僕は二三百円金 が這入るそのうら二十円位9ら君にやつてもいA」「森田君に二 捨円かし。 其他へもチョイ/\貸シクリヤッタリ(明40.8.28中村 韮只)」「御用立申侯金子については御心配御無用に侯(明42.I •7市111文九宛)」「御無心の五十円らと辟易なれど外の事にも無之 両三日に御送附可申 (明42.、.12作木三瓜む)」「金を五円上げる から又協にでも逍入つて氷水でも呑み給へ (明42.7.18紙田胄泊宛 )」 といった ものが残されている。 「五円上げる」と簡単そうに田い てはあるが、この五円、今の金で二万六千円ぐらいに相当するの だから驚く。 弟子、門人たちへの援助の他に、 親類縁者への援助もあった。 親族関係では、 高田へ嫁した異母姉刃への月々の仕送り、零落し た鋭の実家中根家への援助、況の弟倫の学毀代弁、 親戚の葬式代 の代弁、捉父母の金の無心等々、 かなりの件数に上っている。 こうした相当額の援助による金銭流出に はさすがの漱石も時に 不安になったらしく、 愚痴めいたことを也簡に洩らすこともあっ た。 明治四十一年七月一日、 高浜虚子宛術簡に次のようにある。 ^盆に つき親類より金を借りに参り 候。 小生から金を借りるもの に限り遂に返さぬを法則と致す やに被存甚だ逍極に侯。 おれが 困ると餓死する許りで人が困るとおれが金を出すばかりかなあ と長咬息を洩らし慈に御返
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を認め申候v-46-しかし「長模息」をもらしながらも、漱石は 相変わらず金に困 る周辺の人々に援助を与えていた。右の手紙も、本心から出た愚 痴にはちがいないが、どことなくューモラスな表現で、金の貸与 をそれ程までに苦にしていろようにも感じ られない。貸 すことの できる金を持っているだけ、今の自分は幸ではないかという気持 ちのほの見えているような文面であろ。 . 漱 石の他への援助の根底を流れろ彼の金銭貸代に関する考えを 述べた困簡に、明治四十年七月二十三日、野間近綱宛の宙簡があ る。野間は第五高等学校、東京大学英文科での漱石の教え子であ る。彼は奇瓢と号し俳句も作り、漱石と俳句や俳体詩を中心に文 学を話り合う仲でもあった。明治三十八年、小説を掛き始めた極 初期の漱石の家へ朝晩出入りし、作品を批評し合い、一種の文学 サロンを最初に構成したメンパーの一人であろ。この時期には、 まだ森田米松、鈴木三重吉、小宮豊隆といった面々は顔を出して おらず、従って当時の書簡は、この野閻奨綱と他には野村伝四、 寺田寅彦宛が最も多い。野間は気弱 な遠慮が ら な青年で、それだ けに漱石は、性格につい て、糊口の資について、生活について、 とあれこ れこまやかな心逍いを見せていろ。 この野間が、友入の皆川正紺かち借金をして結婚資金を調達し ょうとしたことを知った漱石が 、皆川から金を借り ろぐらいなら 自分が出してやるという援助を申し出た際に、自分の黛金態度を 表明したも のである 。 ^君の事を、位配したからといふて感涙杯を出すべからず(略) 僕は君に世話がして上げたくても無能力であろ。金は時々人 が 取り に 来 ろ。 びかいかかん庄偕訟侭の家か逝叫であふ 。 遠慮 に は及ばず。結婚の費用を皆川の様な貧乏人に借りろのは不都合 である。 (0点箪名)> 「有ろものは人に借すが僕の家の通則であろ。」これが漱石の援 助態度であっ た。ないものを貸す訳に行かないのはともかく、漱 石は自分の手元に金があり さえすれば、いつでも快く、温かい言 菜を添えて困窮していろ人々に援助の手を差し伸ぺたのであろ。 しかし、漱石は無朋矢虹に無条件で金を貸したり、やったりし た訳ではない。漱 石は「金のあり丈を使はなくては金を利用した 一 74 と云はれぬ(明39.ID.23狩野亨百宛)」と考えていた人間であ ろが‘-気粉れに金を使ったり、非理性的な金の使い方を すろ人ではなか った 。漱石 が無条件で供話をしたのは、肉親の他は、一甚、東大 という明日の日本の中核 となろこと を前捉とした人々が糊口に因 難を感じていろ場合であった。 先に述ぺて来た学生たちに対しては金 銭面での援助に限らず、 就識の世話をしてやろ ことにも大変熱心であったし、又他の 学生 たらに教師の口を周旋すろ湯合にも、朝日新聞社への就職斡旋を すろ場合にも、更には朝日入社後、後球文学者たらの原禍を新聞 に掲賊す ろ便宜を図ったり、出版社詔介の労を取ろ場合にも、で きろ限りの湿情あ ふれ ろ世話をし てやっていろ 。これらの援助は
註4 註 3 註2 註1 もちろん 、 漱石の入柄によることは言うまでも ない が、 そ れ に加 えて、 日本の文化水準を高めるという一種の使命感に支えられて いたとするなら、 ・ 「 長 疾息」をしながらも支出を惜しま なかっ た 迎由が納得できるのである。 帝国大学文科大学英文科卒業は、 明治二十六年七月。 大 学院をやめ た月日は定かでない。 その後、 中根家は関落し、 漱石 は鋲の弟中根倫の寓等学 校進学の際にはその学資を代弁してやることになろ。 吉野俊彦若『円の歴史』 ( 町30至絨2)に掲戦された「円 の歴史統計表」によると、 明治三十三年の米低は一石建 年中平均価格が一一円九六銭となっている。 こ れ に対し て本年度(昭 59 )の平均価格 は一斗(+五キ 0) 六九五七 円である。 従って一石建六九五七0円となろ。 この米価 の対比によって換算すると明治三 十三年当時 の十五円は 現在の八七二五三円(十六円は九三0七0円となる。 以 下この統計表によって年代別に換界すろ。 税子夫人の回想記によろと、 熊本で の生活は月給百円か ら製艦費として一割 ( +円)、 大学への貸与金返金七円 五十践、 父•姉への仕送り十三円、 家貿十三円、 掛栢代 二十円が毎月出費され、 実際の生活焚は四十円程度で苦 しかったよ う で ある 。 印生たらが符食を始めた頃 は、 貸 註8 註7 註6 註5 与金返金、 父への仕送りの必淡かなくなh余裕ができろように なっていたが、 漱石は 、・「少し楽になると余分に本を買 ったり、 困った学生のめんどうをみてやるというふう」 であったため、 一銭の貯えもなく、 留学に際して上京す ろ折には夫人の実家から借金 をして旅費に 当てた とい う。 鋭子夫入の回想記によると、 この頃の収入は一高、 東大、 明大を合わせて百四、 五十円であった が、 留学から帰朝 した当座の新生活を始めるための偕金や、 岳父の借金の 問代わりのため最も金に困まっていた頃で 、 「 質屋通ぃ などして、 どうやら段ぎをつけて」いたという。 『ホトトギス』誌上に発表された処女作「吾輩は猫であ る」の原稿料は 一頁一円であった。 これは従来原稿料を ほとんど支払って いなかった『*トトギス』としては狐 例の処迎であった。 朝日新聞社での俸給は、 実際には月頷二百円、 貨与年ニ 回(最低一ヶ月分と、 六月に五十円の特別賞与)という ものであった。 この漱石の月給は主箪池辺三山の百七十 円を越すものであり、 漱石と同じ小説担当の半井桃水は 八十五円であろから、 確か に破格の月俸ではあった。 この裔須賀淳 平も 、 漱石に非常に世話になった一人であ る。 金もずいぶん借りたらしく明治四十 二年五 月十六日 の日記に、 「此正月か ら今日迄臨時に人に偕りられたり、
-48-国語研究 甲南大学紀要 文学網 国語学研究� (東北大 学) ... 二 十 三 ... 、. 第二号 (横浜国立大) (甲南女子大学) 2 5 . 第三十一号 四渠 国文学研究賓料詑紀要 第十丹 甲南国文 国文学研究 国文学研究 第十四号 営語学論叢 首語表現研究 第二号 (新潟大学) (跡見学園女子大学) 第二十七号 研究論染 第十九号 研究報告害 店知大国文 (兵血教育大学宮括表現学会) (国立因語研究所) (開成学園) 第十二号 (策波大学) 第三号 国文学 研究紀要 (大阪芸術大学) (尚桐大学) 第七号 国文 創刊号 やったりしたのを勘定して見たら二百円になってゐた。 是では収支償はぬ筈である。 /そのうちで尤も質のわる い、 又尤も大びらなのは淳平であろ。 淳平はにくい奴だ。 もう一文も貸さない。」と柑かれている。 研究室受贈図書雑誌目録 (金城学院大学) 近代文学研究 近代文学諭渠 芸術論集 (上智大学) . (日本近代文学会九州支部) 第十号 金城国文 第六十号 国語固文研究 国語国文論渠 国語国文論集 国語国文学報 (Il) (広島女学院大学) 第十三号 国語国文学会誌 国語困文学誌 国語国文学会誌 (熊本大学) (学習院大学) (福岡教育大学) 第二十七サ 5