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紳嘱蘇専制的官僚国家ど官僚11商業資本の蓄積
対満植民の中国経済史的、背景日
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専制君主的官僚国家の成立と傭兵給養の問題
上代は一方、君主的貴族政治が終りをつげ、君主独裁の官僚政治すなわち専制君主的官僚国家が確立したことと、他方 商業が非常に発達し、貨幣経済の顕著な発達を見た点に近世への転換を示したといわれる。かくて藤代以降は商業資本の 発達を⋮媒介として官僚資本も著しい発達を遂げたと見られる。 勿論、宋代以前も秦の国家統一以来、政治的制度としては、一応、地方分権的な封建制度が廃され、中央集権的な君主 棚下に郡県ないし郡国の制度がしかれ、官吏を通じて政治が行われる建前だったわけである。しかし、実質的には、時代 によって消長があるにしても、大体において大土地所有を背景とする貴族階級の勢力が依然強く、君主も貴族に支えられ ての君主であり、官吏も要職は貴族ないし世族によって殆んど璽断されるという有様であった。されば、かかる貴族階級 の存続によって、君主は、その中央集権的専制を確立し得ず、また科挙による官吏制度の確立も出来なかった。何故なれ ば、原理としては貴族による官位の独占を認めない所の﹁科挙は天子の中央集権と相伴って発達し来りし制度であり、同 時に、それはまた天子の独裁権力を輔翼するに役立つ制度でもあった﹂からである。 中国における専制酌官僚国家と官僚H商業資本の蓄積 ㎝齢 中国における專制的官僚国家と官僚11商業資本の蓄積 二 ところが唐の中頃から血気の侵冠に備えて藩鎮の制をしぎ十節度使をおくことになったが、これが契機となって武士階 ⑥ ⑦ ⑥ 遂に唐の滅亡を招き五代の分裂級の勃興を招き、とくに有力な武人が下級の卒伍よりおこって、それが・次女と叛乱を起し、 時代を来したわけである。この動乱と分裂の時代を経るうちに中世の貴族階級が完全に没落したが、これがやがて宋の統 一時代・に入って、君主独裁制と科挙による官吏制度の確立を可能ならしむる原因となったわけである。 宋代に至って専制君主制が確立したということは、裏からいえば軍隊が君主によって独占されたことを意味する。すで に唐の半頃以後、兵農が分離し、傭兵制度に変って来たが、宋代に至って、これが強化されたことはいうまでもない。そ こでこの軍隊、就中禁軍として君主に直属する大軍を養う糧食の確保従って遭運ということが重大な問題となって来るし、 また遭運路としての運河が大きな役割を演じて来る。宮崎市定氏が﹁代汝の都が運河の沿線から暫くも離れられぬやうに なったことが、近世史の↓特徴であり、これは畢寛するに兵制の変化、それによる中央集権、延いて遭運の重大性から来 ているのである﹂と述べ、.また﹁宋は毎年大凡六百万石の米を南支那から運河によって都へ運んだ。宋の立国の根本は大 体において南支の財力と北支の武力を用いて天下を保つにあった。米のぽかになぼ莫大な絹、銅銭、銀が毎年額を定めて 都へ送られ、別に茶が商人によって北方へ運搬された﹂と述べているのは傾聴に値する。 ① 鳥山喜﹃著﹁東洋史観﹂ ︵昭和十六年二月︶五一頁、五七頁。 秦の始皇帝が封建制度を廃止して、郡県制度を施行したことは周知であるが︵右書五一頁参照︶漢の高祖は薬室が孤立して亡ん だのに鑑みて、多く︸族を分封して皇室の藩屏にしたのであって、これが郡国の制といわれる。 ︵和田清著﹁中国史概説﹂上巻 一九五〇年 四六頁.鳥山氏 右書 五七頁︶。 しかし、諸王侯の藩国は天下の三分の二に及び.中央直轄の郡県はわずかに三分 の一に過ぎなかったという。︵和由氏 右書 四六頁︶。されば.戦国時代を通じて現われて来た中央集権化過程は.秦の統一によ って、 一応制度的には中央集権的郡県制度として結実したというものの、実質的、社会的には封建諸勢力は存続し、これを無視し ては.国家統一の出来ないところに.秦の滅亡の原因があると共に.漢の郡国制度採用の原因があったといわれる。 ︵東洋文化史
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大系 漢魏六朝時代 昭和十三年 八五頁︶。 内“膝湖︸南著﹁南又那論﹂ ︵昭和十一二年五口月︶ 一二百︷. 鳥山一団一氏 前一掲出轡[ 一二山ハ頁。 なお、宮崎市定心は中国の申世時代における貴族階級の社会的政治的地位およびその推移過程について述べている︵東洋文化史 大系 宋元時代︵昭和十三年︶=二八頁以下参照︶。 更に羽田重氏は﹁両漢・六朝から階・唐にかけて国家の政権は貴族の閻に掌 握せられたもので、君主も貴族の﹁員として、その位にあったに過ぎず、従って、その君主権は貴族間から、多くの製肘を加へら れ、独裁君主の実を有するものでなかったというのか、近疇の学界の通説である﹂と述べ、この説には夫々の時代と事情によって 或る程度の制限を附せなければならぬとしても、大体にカいて当を得たものであることは認めねばならぬという。 ︵東洋丈化史大 系 宋元時代 二頁︶。 宮崎市定著﹁科挙﹂ ︵昭和二十﹁年十月︶八頁以下。 ④ 右書 =二頁。 鳥山氏 前掲書 鳥山氏 前掲書 鳥山氏 前掲書 東洋文化史大系 一四四頁。 ⑥一四九頁以下。⑨
﹁四五頁、東洋文化史大系 宋元時代 一四二頁。 内藤氏﹁支那論﹂二一頁。 内藤氏﹁支那論﹂二三頁。 宋元時代 一四一頁。 ⑬ 右書 一四一頁。 ⑦右書一=頁。 ⑩宮崎氏﹁科挙﹂ 三頁、こ六頁。 二 便““羅による兵糧調達と商業資本の農村滲透 ① 北宋が北辺の侵冠を防衛するため約百万の軍隊を配備したといわれるが、これを支える兵糧馬草の調達のため、すでに 当時その地方に発展せる商人の勢力を利用したと見られる。そして、その代金は京師︵開封︶支払の手形を以て充当する ② という﹁便羅﹂の方法をとった。 この点に関しては、日野開三郎氏によって﹁聖代の便羅に就いて﹂という優れた研究がなされている。便綴の語についてであるが 繧は本来穀物の買入を意託し.便は唐宋元を通じて金融の意昧から送金手形の制度を示す語として用いられたという。そこで日野氏 は便鯉を定義して次の如く述べている。すなわち﹁電解とは、沿辺駐屯軍の兵糧を調達せんが奨めに、主として商人をして糧草を沿 中国における専制酌宮僚国家と官瞭11商業資本の書積 三中国における専制的官僚国家と宮原11商業資本の蓄積 四 辺州軍に事納せしめ、これと同時に彼等に京師椌喜吉︵京師に在る専売事務所︶に於ける現葺支払を約束せる手形即ち便羅糧草交紗 を交付し、その京師来著を待って手形と引換へに見斐を払渡す法﹂であったといわれる。
日石高による表融 . .あ方法による買上支払
年 号 西 紀 石 同 川 澄 略歴元年 ク ニ年 ク 三年 ク 四年 皇酷四年頃 至和元藪 田和二年頃 煕寧二年 一〇四一 一〇四二 一〇四三 ︸〇四四 一〇五三頃 一〇五四 ︸〇五五頃 一〇六九 八五万石 四五万石 一〇四万石 四〇〇万石 三−四〇〇万石 六〇〇万石 =ハ○万石 三八三万石 本年男謹の為に特にゆし 同 右 稽ζ増加せるもなお常額に足らず 本年豊稔にて常額より稽ζ多しと推測される 本年前後の平均羅額 本年大豊稔にて特に多き耀額 沿辺十四州軍の鯉額 別に草六百万束を牧買す 仁⇒ @ 銭 高 に 依 る 表 示 年号 西一
銭 局 備 記 皇砧四年頃 至和二年頃 煕寧三年頃 煕寧十年頃 元豊六年 紹聖元年 宣和二年 ﹁〇五二頃 一〇五五頃 一〇七〇頃 一〇七七頃 一〇八三 一〇九四 一一二〇約二約四
1 1五〇〇万貫 五〇〇万貫 三〇〇万貫 三〇〇.万貫 二〇〇万貫 二〇〇万貫 二〇〇万貫 内三〇〇万貫は便 耀の不備による冗費 此の外に別の支出あり︵額不明︶ 額が、上の表に見らるるよ 5に驚くべき額に達してい る。 日野氏は色汝な点を考証 した後、﹁要するに河北路の 便羅額は大濠二等の特別の 事情なき限り、少くも百万 石以上多くは六百万石に達焔 し、而してそれは真宗の頃 より北斗末に至る迄約百二 三十年聞連続して行われ、 当路に於ける兵糧調達の最 も重要なる手段となってい たのである﹂と結論してい ⑥ る。.因みに便羅は北恵中葉以前においては河北・河東・陳西の沿辺三重に並び行われ、特に河北路においては中葉以後にお いても盛んに行われたといわれる。 かくの如く便羅の行われた地域は華北の広範な部分に亘り、その期闇は百二三十年間に及んでいること、そしてその額 は右に述べた如き巨額に達していること、最後に、日野氏の説によれば、取扱商人は京師に根拠をおき、この血忌地方の 糧草取幽界を支配していた糧穀取扱専門の客商であったといわれる所から見て、この史実は、当時商業従って商業資本の 農村への滲透が、専制国家の官僚の活動を媒介として、如何に広く、且つ深く行われたかを物語って余りあるということ が出来よう。日野氏の研究では触れていないが、これらの客商は農家から直接或は闇接に買取ったわけであろうが、これ には、農家が販売代金を以て、その必要とするものを購買する半面がある筈で、この中には塩の如きは必ず含まれていた であろ5。そして、これら客商は必ずや農家の購入品を都市または他地方から持込んだと考えられる。このことだけから しても、社会分業的な商晶的再生産体系の展開を読みとることが出来るように思われる。 なお、上記の如く、日野氏は、便益取扱足入は、糧穀取扱専門の客商だといわれるが、日野氏の指摘する如く、壷草の 納入と引換に渡される便羅言草交妙が、京師の専売局たる権貨務で取扱われること及びこの交妙と引換に塩の引換券たる 塩交書を渡し、糧草納入と塩の取扱とのリンク制とでもいうべき入中法が当時既に発達していること、そして糧草調達額 が莫大であり、従って、担当商人の資本力が強大でなければならぬこと、最後に、明代において、二面軍需品の調達に塩 商の大資本を利用ぜんがため専らこの方法が行われた史実が明確である所から見て、言為取扱商人の申には、やはり、明 代に見られる如く、大資本を有する塩商が含まれていたのではないかという疑問が生ずるが、如何なものであろうか。専 門家の教を乞う次第である。 中国における専制的官僚国家と官僚鮭商業資本の蓄積 五
中国における専制的官僚国家と官籐“商業資本の蓄積 ①② 日野開三郎氏﹁宋代の便粟に就いて﹂東洋学報 第二三巻第一号︵昭和十一年︶七五頁。
③右論文七九頁。 ④右論文九二一九三頁。 ⑤右論文九三頁。 ⑥
⑦右論文八二頁。 ⑧右論文八一頁。 ⑨世界歴史大系6東洋中世史
⑩佐伯冨氏﹁清朝時代における塩業資本について﹂東洋史研究第十一巻第一号五二一五三頁。 a三 専制的官僚国家と塩の専売
塩専売の専制的中国社会における歴史的意義 山 ノ、 右論文 九三一九四頁。 第三篇 一二三頁。 われわれはここに塩の問題にふれざるを得ない。蓋し、中国の歴史にとって塩のもつ意義は絶大だからである。塩なく して人間の生活は維持出来ない。然るに、亡国においてその広大な領域に対して海岸と塩を産出する地区は甚しく限られ ている。だから塩は先ず全国的南島となったであろうし、またその交換において他の生産物の商品化を促して行ったであ ろう。塩の取引を集中化し得た商人は巨額の富を蓄積し得たであろうし、さればまた国家としてもその財源を塩の課税に 求め、更に進んではこれが専売制によって雇大な専売利益を牧めようとしたのである。塩の専売制を始めて試みたのは漢 の武帝であり、外征のために財政困難となって、元狩五年︵=八切鯨Q︶に塩と鉄の専売を始めたといわれ、其後時にや め、時に復して雲立となり、密宗の乾元元年︵七五八︶に第五碕によって専売制の実施を見た。代宗の大暦の末年には歳 入銭一千二百万貫の中その大半は塩利によるといわれている。 宋以来専制的統一国家が確立し、広大な傭兵を抱えるに至って、その財政支出が激増したので、その財源を研く塩の専 売益金に求めざるを得なくなった。かようなわけもあって、天下を支配せんとする考にとって塩の生産地を掌握するか、 否かは戦略的に重要な意義をもって来る。 専売制度が一且実施されると、財政的必要に迫られる息合は、専売価格引上げの誘惑に陥ってしまう。例えば、三代の 蝦塩専売制度の.実施によって以前︼斗十銭だったものが、 乾元元年︵七五八︶に百十銭となり、貞元四年︵七八八︶には、一二 百十銭に高騰し、闇もなく三百七十銭に暴騰した。塩の専売価格がかように騰貴するとその闇取引が激化して来る。塩法 による取締が厳重となって来る。これに対して闇取引団が叛徒を結んで武装して横行する。定命、塩徒ないし塩棄といわれ るのがこれである。これを取締るために軍隊が出動する。謂わゆる塩賊は塩価の暴騰と悪政になやむ農民其他の支持のも とに叛乱をおこして来る。唐を滅亡に導いた沖魚の乱︵八七五−八八四︶は塩の闇商人たる黄巣及び王仙芝とこれにつなが る亡命の士及び民衆の蜂起で、約十ケ年間つづき、始め里謡の蜂起から遂に五十万の叛乱となったといわれる。同様なこ とは、元朝末期にも起っている。最初塩引一道、申統宰九貫であったものが延祐元年に百五十貫となっており、ここに私 塩が破写し、遂に謂わゆる塩賊出身の張士誠、六国葦笛が叛乱を起しこれが拡大して元の滅亡の重大.な契機をつくった。 塩の密売は人民の圧倒的な支持をうけた。官塩は値段が高い上に鴇塩質が粗悪で時には運搬の際に突出等が塩を横領して 砂土を混℃,たりすることがあるので、食うに堪えず、而も斤量の足らぬことが往λあった。密売塩は良質であり、遙かに 安い。この民衆の支持が、塩の密売者の秘密結社とつながるし、また政治的反逆者が、その生活ないし活動のため、塩の 密売者と関係をもち、ここに広範な組織が出来上る。清朝以来の紅玉、空幕等の有名な秘密結社は同時に塩の密売機構で もあった。かくて塩の専売価柊の騰貴の度合が中国各朝の財政窮迫及び治安ないしその危機の度合のパローメーターとな るといわれる。 ① ② 中国では塩の産地は海岸の外に、内地に所々あるが.就中.山西省南部の所謂河東の塩池と四川雲南の塩井は有名である。宮崎市 定氏﹁事変と塩・歴史と塩﹂ ︵東亜問題 第三巻第七号 昭和十六年十月 三頁︶参照。 塩の取引と商業資本及び官僚資本の発達との密接な関係については、佐伯富氏﹁塩と支那社会﹂ ︵東亜人文学報 第三巻第一号 昭和十八年 一八○頁以下 参照︶。 清朝時代の塩業資本の発達については、同氏の﹁清代における塩業資本について﹂東洋史研 中国における専制的官僚国家と官僚聾商業,資本の蓄積 七
中国における専制的官僚国家と官僚11商業資本の蓄積 八 究 第十一巻 第一号 昭和二十五年 第二号 昭和二十六年︶参照。 なお清代手政については佐伯民によって詳細な研究がなさ れている。佐伯富著﹁清代塩政の研究﹂ ︵昭和三十一年十月︶参照。 ③宮崎氏右論文五頁。なお佐伯氏は、資治通鑑巻二一九景品宗紀の記事を引用し.椌忍法を作ったのは至徳元年であること を明らかにし.更に同書 巻五四 食貨志の記事を掲げ.これに乾元元年とあるのは、恐らく乾元元年に至って、これが全国的に 確立したのだろうと述べている。 ︵同氏﹁塩と支那社会﹂一七六−七頁︶ ④⑤ 佐伯氏 右論文 一七三頁。 ⑥塩の生産地の争奪・掌握を申心として中国において、如何なる歴史が展開されたかについては、宮崎氏前掲豊里︵八頁以下︶及 び佐伯氏 右論文︵一六六i七頁︶に詳細に述べられている。
⑦佐伯氏右論文一七四頁。 ⑥佐伯氏同論文一七五頁。
⑨黄巣の乱については、東洋歴史大辞典㈹︵昭和十二年︶一〇七頁参照。⑩佐伯氏右論交一七五頁。 ⑪佐伯氏右論文二〇三頁。
⑫宮崎市定氏﹁宋元の経済状態﹂東洋文化史大系宋元時代︵昭和十三年半︶一四四頁。 b・塩専売と官僚”商業資本の蓄積 塩の専売を中心に商業資本及び官僚資本の蓄積が著しく進展した。ところで塩の専売方法には塩の生産、運搬、販売等 すべて政府の手で行う方法︵宋代では禁椌法或は椌塩法という︶と塩を商人に払下げる時に課税するのみで其他は塩商の自由 な販売に委ねる方法すなわち通商法とあるが、特殊の場合を除き大体の傾向としては通商法が主として行われたという。 従ってこの方法においては商人の活動する範囲が広いので、商業資本の蓄積に導く度合が強い。ことに専売上の公の取引 に附帯して闇の取引が行われる可能性が大きくここに官吏との抱合が生じ易く、従って、官僚資本の形成ないし蓄積が進 む。 先ず、塩専売が最初に行われた漢の武帝の時代、東郭成陽が塩商から抜擢されて大農丞になったのであるが、ここに塩業資本の蓄積の程が窺われる。なお、申国では官吏が商売をすることを禁ぜられているが、実際は親戚の名義により、或 は商人と結托して商売を営むことが多く、宋代の列伝等に潔僻な人の伝には商売をしなかったと特に断っているが、それ 程官僚の商人化が普遍化したと考えられる。例えば、宋の開国の功臣趙普や宋の名臣である苑仲流、蘇東披でさえ商売を 行い、ことに蘇東竣は私塩を密売した廉で処罰されており、南宋末の鬼才頁似道は宰相の地位にあり乍ら、やはり塩の密 売を行っている。これらの点について佐伯氏は詳細に史料を引用して考証している。 塩専売は宋代から既に証券的機構をとって発展した。すなわち、産塩地の専売塩を販売せんとする商人は、先ず京師の 椌貨務で代価を納めて塩の引換券たる塩交釧︵略して塩鋤といい、元代より塩引という︶の交付をうけ、これを以て産地で塩 の支給をうけるのである。 この場合、葛西路腕章の塩︵塩沢で産出する盧︶に対する塩紗を領野紗という。これは始め京師の樒貨務より発行した が、慶暦八.年︵一〇四八︶語語の改革で挾撃路の九折搏務︵沿辺地帯の配備の軍隊に対する兵糧調達機関︶で現住または糧草の 納入に対して発行された。すなわち兵糧納入とのリンク制がとられ始めたのである。しかし、これはまた京師の都塩院に 呈示して一砂六貫の割で現銭に乗換することも出来た。都濃院は鴬張の売買と魚価の平準をはかる機関である。このぽか 京師に群生鋪と称する民闇金融業者があって塩砂の売買・を行った。沿辺で糧草または現銭を納入するものは、既に便羅の 所で述べた京師の穀物商であったといわれるが、彼等は辺境で塩砂を入手してこれを京師に送って資金化したという。こ れが便戸立草南無と並んで行われたものか、また漏る時期における便通砂の呉体的形態をなしたかは判明しない。専門家 の教を乞う次第である。兎も角これは現銭との免換もあった関係上通貨として流通したことは勿.論である。北宋の滅亡と 共に解塩地域は金国に奪われたのでこの.解塩砂は南宋では消滅.していたわけである。 准断地方の海塩︵当時無塩といわれた︶に対する末塩紗は、宋代を一貫して京師食貨務より発行された。北宋の時には、
中国における専制的官僚国家と官籐n商業資本の蓄積九
申国における専制的官僚国家と宮瞭11商業資本の蓄積 一〇 南商客に茶商は、商品を運んで京師に至り、ここで南濃と取引したが、その代金は塩砂に代えて東南に持帰り、塩商に売 払ったのである。かくて世界紗も南塁間に盛んに用いられやはり通貨的作用を演じた。単位は五十貫、四十貫、三+貫の三 等で、︸〇六七年には四百余万貫、=一〇年以後は年額一嵩万貫以上に達したといわれる。罷工砂は、北宋末の砂法改 革によって本質的変化をうけ、その通貨的作用も衰えた。それは、塩を受取る場合、更に一定額の追加を支払わねばなら なくなったからである。 この方法は、明代初期において、先ず緊迫せる対馬北辺軍備の銀雪納入とのリンク制に応用され、軍粗調達に塩商の大 資本を利用する開中法となって現われた。この開申法では、塩商をして辺境に糧草軍需品を納入せしめ、その代償として 盛砂を交付する。塩商はこれを塩運司、提挙司に持参して塩引と見換し、現場に行って塩を受取り、行客地に販書するの である。このため、大きな塩商は多く北辺に遊民を奮いで屯田を行い、その牧穫を以て納入した。これが商調といわれる ものである。ところが天順︵一四五七−一四六四︶二化︵一四六五一一四八七︶にかけて、対蒙関係の小康及び北辺開拓の促進 のため穀価が下落し、従来の軍糧交換比率では政府にとって不利になったことと、正統へ一四三六−一四四九︶以後の急速 な銀流通の普及とが墨黒って北辺での輔翼開法の外に、先づ北辺における相銀里中から、塩運司、患苦司における納銀開 申に移行したが、これと共に商屯の意義が薄弱となり、有力な塩商は最も有利な平場の所在地たる東漸に移動した。これ を内商という。北辺に留ったものもあるが、それは資本力が比較的弱小で辺商と呼ばれた。そして塩商の活動の中心が准 漸に移ったのである。 これと前後して野塩の私売買が盛んとなり、ここに官吏と撃墜との結託から両者の資本蓄積が進展した。この酒塩とい うのは竈戸の正課以上の産塩のことで、元来は官売を建前としていた。ところが二化年間頃から官吏と結託して不正配給 をうくるもの多く、所によっては余興はもとより正課にも不足を来し、正当に配給を尽くべき塩商に塩が渡らぬことが生
じ、塩商はこの欠を補うため余塩を私買し、これを下穿ということにして検査を通うしてもろうとい5風になった。これ らのことは、賄路で行われたことはいうまでもない。そこで政府も止むなく、かかる正客の欠額に限って余塩の買補を認め. ることになった。ところが今度砿買補に名を穿りて盛んに私売買し、ここに准断の内商を中心とする塩商資本と官僚資本 の抱合による蓄積が促進されたわけである。例えば弘治十六年忌一五〇三︶寿寧候張鶴齢の家入の名目で魚商朱達等が長 藍玉司の正統五年︵一四四〇︶より成増十六年︵一四八○︶に至る雨水緯上等丁丁塩十六万九干余引を一引につき銀五分の 安値で払下げを受け、これを以て余塩の買補を受けたのを始めとし、それ以後弘治末年より正徳︵一五〇六−一五二一︶にか けて有力官僚と結託して右の如き残塩の開中を奏請する好商が多く塩政が非常に乱脈に陥った喜いう。 ところが其後対質関係が悪化し、北辺軍需の調達促進のため嘉靖初年︵元年11一五二二︶以来、北辺における糧草ないし銀 の納入に対して正塩引を交付する北辺折銀開申が行われるよ5になった。ただ製塩だけは紅蓮において納銀せしめた。嘉 靖七年には正正一引に対して余塩二引の買補が許され︵一引窓二五〇斤︶、ここに朝雲電導は以前の如く正塩の欠額補充で なく、これに添加して行われる余塩添買法に変ったわけである。然るに、政商は概して資本力弱く、糧草納入による正塩 引の入手のために投資するだけで精一杯で、正立の二倍もの軍糧を買う余力がなかったばかりでなく、この余薫添買法に よって商塩の出廻りが急激に増加し、運塩河の輸送力の関係上批験所の検査が甚しくおくれるようになったため、資金回牧 を急ぐ必要から、辺商はその正塩引を内題に転売するようになり、ここに内塩の大資本による正塩の叩き買いと余塩添買 の大規模な活動がおこって来た。しかし加速度化する未検査塩の堆積はやがてこの行詰りを来し、辺商の正塩引の転売さ え困難となり、延いては北辺の兵糧調達にも甚しい支障を来して来た。 然るに蒙古の侵入は嘉事二十年代には愈汝激しくなる、明の北辺防備費は激増する。このため正塩の在辺難中に一時余 塩を含めたり、更に工本塩︵官が雨戸に工本を麦給して牧食した塩︶を加えたり、各種の方策を行ったが、結局、未検査堆積 中国における専制的官僚国家と官瞭11商業資本の蓄積 一一
中国における専制的官僚国家と官僚U商業資本の蓄積 =一 の加速度化を来すのみで︵後に+ヶ年計画で堆塩の整理を行ったことを想起され度い︶鱒があかず、遂に舟行のままで優先的検 査を認める﹁長汀﹂に対する新引を在韓開拓に対して交付し、この行詰り打開の方策を講じた。ところがこれに乗じたの が内商の大資本で、辺商の資金難につけ込んで、新引を買占めし、これに堆積せる旧引解をつめ合せて整商新盤の名で検 査をうけることが行われ巨利を博して来る。このため資本力の弱い詩序及び内商は愈汝圧迫をうけ、かかる薪引買占の 大塩商︵これを圃戸という︶に資本の蓄積が集中するに至った。 ところが万暦二十年代より辺防の増餉、宮殿再建のため支出がかさみ塩引の増発をせざるを得なくなり、嘉靖年間に正余 塩合せて九十五万両だったのが、万暦廿三年来百廿五万両、廿六年には百四十五万両となっている。更にこれは引換塩の なくなった旧引︵例えば当面五年かかる置引六十余万売却︶及び引換準備塩なき浮言︵例えば同三十年五十万引売却その後も盛んに 行わる︶の増発となり、煙雲は塩引のみをうけて、塩受取のあてなく、これを捨売せざるを得ず、平戸はこれを買占めこの 塩引によって自己の堆積塩の検査を受け、更には他から堆塩を捨値で買って検査をうける等、塩専売の利益を全く独占す るに至ったのである。このため小資本の辺土や内商が没落し、辺商の逃亡八割に及んだと述べられている。 かよ5に未検査塩の滞積から来る弊害が愈々深刻となって来たので、遂に万暦四十五年︵二へ一七︶遠野振の塩政綱法 が行われ、十ク年計画でこの整理が実行された。この揚合結局実積によって塩商を登録し、これに登録証ともいうべぎ綱 冊を与えて窩本とし、これなきものは以後専売商の取扱が出来ぬこととした。この中心となり、それを独占したものは圃 戸といわれる大資本の揚州塩商で、これ以後は綱商といわれた。黒鍵になっても、この制度は実質的には継承され、独占 ⑲ 化した揚州塩⋮業資本の蓄積は乾隆朝に至って最高潮に達したといわれる。 揚州三囲も山西商人と同様、合彩組織をとるものが多く明清時代には一般に普及していたといわれる。ここにまた官僚 資本との抱合が見られる。有名な雍正朝の重臣心違尭も塩業に投資し、塩務官等も塩商と結託して資本を提供しこれに運
塩を行わせている。揚州半商申にはその一族中より中央の大官を出して居るものもあれば、中央の大臣と姻戚関係を結ん でいるものも生じた。 乾雲門の時代、軍費、河工費その他のために古製が上納した指納金は四千万両にも達せんとしていたという。これに対し て塩商は官職相当の地位を与えられたのみでなく塩の加価及び加里︵運塩減量の補充塩︶を穂許された。塩商は加耗を口実 として塩を大豆に入れて私塩を運搬し、このため専売塩は停滞して売れず塩法を崩壊に導いた。塩商に与えられた商籍な る特権は、官吏登用に際しての優遇法で、これは清朝にあっては如何なる大官勲臣の子弟と錐も許されなかったところだ ⑳ といわれる。 上述せる所から塩の専売を二心として、如何に、商業資本の蓄積が官僚との結託によって癸達したか、また官僚資本は 商業資本の媒介の下に、如何に蓄積されたかを具体的に看取することが出来るが、実は、ここに、中国における専制君主的 官僚国家の支配と商業資本の発達との闇に本質的内面的な関係があり、ここに官僚資本発達の必然性のあることも明確に 示されていると思う。 この重大な契機をなす専制君主的官僚国家は、漢民族と他民族との対立の5ちに、或は漢民族の自立国家として或は他 ゆ 民族の征服国家としての歴史を殆んど交互に繰返さざるを得なかった所に、その重要な根拠の一つをもっと考えられるが、 この対立が、内部の階級的対立との相互媒介的関係もあって、ここに苑大な軍隊の独占を必要不可欠たらしめ、その糧・ 草・衣・兵器等の調達が、歴代国家の中心的問題となった。また、かかる大国家の行政を担当する老大な官僚群の存在も 不可避であった。軍隊を含むこれらの彪大な消費者群の巨大なる需要によって商品的生産は促進されざるを得ない。また 前記の重要な財源として専売制度がとられる。専売制と軍根調達のリンク制もとられる。官僚との抱合において商業資本 及び官僚資本の蓄積が進み両者の抱合関係も愈汝深まる。そして、商品流通の促進において、統一国家の形成発達と相互 中国における専制的官僚国家と官濠騒商業資本の蓄積 一三
中国における専制的官僚国家と官瞭“商業資本の蓄積 一四 媒介的に発達した所の水運路、従ってこれを根幹とする交通路の演じた役割もまた重大である。これら諸関係の集中的表 現、少くともこの表現の重要な一つを前述の如き塩専売の歴史のうちに見ることが出来るといえよう。 最後に塩の専売が中国の農業生産関係に及ぼした影響は見逃してはならない。中世においては大土地所有者たる貴族が その奴隷たる奴碑、部曲をして耕作させたが、その最小限度の生活費は負担しなげればならなかった。そしてその余剰生 産物が商品として販売され、売買は大商人と貴族との闇になされたのであるから、自然大量取引となったわけで、人民間の 小取引は未だ盛んでなかった。これは中世において銅銭の流通が旺盛でなかったことからも窺われる。ところが唐末の塩 の専売価格の暴騰のため、大地主たる貴族が高価な塩を自己の負担で奴隷に給することは引合わなくなった。そこで、こ れら耕作人には一定の年貢を納めさせ、高価な塩を含む生活費は彼自身の負担とする小作制度を採用するようになった。 これらの貧農は自分で生計をたてるため農産物を売って塩等を購入せざるを得なくなり、ここに貨幣経済は農家に深く滲 ⑳ 透し、小額取引も頻繁となり、これを媒介する銅銭も盛んに鋳造されるよ5になった。
①佐伯氏右論文一八Oi一八一頁。 ②佐伯氏右論文一八一頁。
③佐伯氏右論文一八こ頁、一八六頁。 ④⑤ 日野開三郎氏﹁塩砂﹂東洋史大辞典︵1︶ ︵昭和十二年︶三〇三一四頁による。 ⑥佐伯三等﹁食代に於ける覇業資本について﹂︵上︶東洋史研究第十一巻第一号︵昭和こ五年九月号︶五二頁.藤井宏氏﹁明代 塩商の一考察﹂史学雑誌 第五四編 第五号︵昭浩十八年五月︶五ノ七七︵五二一︶頁。 ⑦佐伯氏右論文第十一巻第一号五三頁。藤井氏譜論文五ノ九七︵五四一︶頁。 ⑧余丁の問題については主に、申山八郎氏﹁明代に於ける余説私買の起源﹂加藤博士還暦記念東洋史集説︵昭和十六年十二︶五〇九 頁以下によった。なお藤井氏 右論文︵二︶史学雑誌 第五四編 第六号 六ノ八九︵六五一︶頁 参照。 ⑨ 藤井氏 右論文︵二︶六ノ九〇︵六五二︶頁。 ⑩ 藤井氏 右論文︵こ︶六ノ九六︵六五八︶頁。 ⑪藤井氏右論文︵こ︶六ノ九六︵六五八︶及び六ノ一〇二︵六六四︶頁。⑫藤井氏右論文︵こ︶六ノ一〇ニー三︵六六四−五︶頁。 ⑬この辺の事情については藤井氏右論文︵三︶史学雑誌第五四編第七号七ノ一九−三〇︵六九五一七〇六︶頁 ⑭藤井氏右論文︵三︶七ノ三一一三三︵七〇七−九︶頁参照。 ⑮ 藤井氏 右論交︵三︶七ノ三六一三八︵七=一一七門四︶頁 参照。 ⑯塩政綱法の詳細については藤井氏右論文︵三︶七ノ四四一四七︵七二〇1七二三︶頁参照。 ⑰藤井氏右論文︵三︶七〇ノ五〇︵七二六︶頁。 ⑱藤井氏右論丈︵三︶七ノ四七︵七⋮ご︶頁。 ⑲佐伯氏﹁清代における塩業資本について﹂︵上︶五四頁。 ⑳佐伯氏右論文五六頁。 ⑳ 佐伯氏﹁塩と支那社会﹂一八三頁。 ⑳ 国騨﹄鋭宅冒♂σq巴餌巳岡⑳腎⑬O巨塑あ冨ロσq讐塚尊。ぎ蔓9Q鶏口㊥器望。聾ざU賦Pおお蝉℃・灯・撃一歩・参照。 ⑳⑳⑳ 宮崎市定氏﹁宋元の経済状態﹂東洋文化史大系 宋元時代 一四七頁。 ⑳ 宮崎氏 右論文 右書 一四八頁。 参照。
四農業の商品生産化と手工業乳の発達
全国的交通の発達及び商業の拡大と深化は社会分業的な商品的再生産の拡大と深化とをもたらす。累代における農業生 産の最も顕著なる趨勢は、農業の地方的専門化であり、商業的農業の成長であるといわれる。例えば綜栽培は荊湖南北路、 江南賢路を中心とし、葛は蜀及び江南東路を池心とし、茶粥は蜀及び長江以南の地に、また比較的全国に普及した桑樹の 栽培さえも蜀・河北・京女・毛蟹・書意等の地方に特に盛んに行われた。穀物もまた地方的分化を示し、両漸・江南等路 の産米額は全産額の過半数に達し、麦は華北に多く作られ、梁もまた主として華北に産出した。かような農業の地方的分 化は主に気候風土の影響によるが、この傾向は各産地相互の間における生産物、若しくはその手工的加工品の交易を刺戟し 商業の発達を促がしたわけであるが、逆に商業の発達は手工業を愈々発達させ、農業の分化及びその商品的再生産化を進 中国における専制的官僚国家と官僚匹商業資本の蓄積 一五中国における専制的官僚国家と宮僚騙商業資塞 一六 めることになった。そして、これが前述の歴史的傾向の下に加速度的に進展して行ったと考えられる。 手工業も藤代から以前にもまして著しく発達した。絹織工業は非常に古い歴史をもつが、これは絹織物が宮廷や貴族用 として用いられるほか、諸外国の貴族のための輸出にも向けられ、更にこれらのことと関連して貴族対象の大量取引ない し貿易の,貨幣として、また貢直物として用いられた関係上、特別な保護もあったからでもある。宋代に至って官僚及び商 人階級の発達と共に、絹織物も次第に広く用いられ、市場目当の生産が各地に勃興した。外国貿易における絹織物輸出の高 利潤もこれを促進した重要な原因で、 例えば、北宋時代における契丹貿易を見るに、 絹の輸出相場は一匹約二千五百丈 で、これを内地相場の一貫二、三百丈なるに比すれば、正に十割の高利を得ることが出来た。絹織物は中国各地に産出し たが、就中大量に供給したのは河北路、京東路、京西路及び両断路であった。蜀錦も伝統的名声は有していたが、商品と しての重要性においては最早緑営地方に及ぶべくもなかった。その総生産額を示す数字はないが、一〇一六年京東路にお いて細霊智が低落したので、これが対策として政府が絹一匹一千丈、紬一匹八百文で買上げ、銭二千万貫を支出したとい う所からその買上総額は二干万匹を超えたと考えられ、この点から推して総産額は億を以て数えたであろうといわれる。 またこれからして、絹商人の資本の蓄積が大きかったことも想像に余りがある。 その他、﹁般日用衣料として需要の多かったのが綜布で、商品としては絹織物に次ぐ重要性をもっていたという。綜布 の産出地域は最も広く、江南西路、荊湖南北路等を中心とし潅南東西、両論、京西南路、成都鳥路等の一部にも産出され ⑥ ⑦ た。その他の衣類の生産についても、また金属工業、窯業製紙業、その他についても日済開三郎氏は詳細に論じている。 これらが家内工業として、また官営工業として行われていたものの如く、前者については、問屋制工業の形態がとられ、 後者については大きな工場内で手工業が行われたというところから官営マニユプアクチアとよばれることもあるが、この 点は、なお研究を要する問題であろ5。ただ北端時代の京師の詐聴に属する織工は四百人居り、京師の都作監︵造兵木廠︶
には四万余の職工が働いていたという。ともかく百万を超える傭兵の武器、衣料が如何にして生産され調達されたか。 の問題を這求していくならば、当時の手工業発達を解明する鍵に到達しうるのではなかろうか。 こ ①② 世界歴史大系6 東洋申世史 第三篇 日野開三郎編︵昭和九年十月︶ ︵同氏執筆 第二編 社会と経済︶九四頁。
③日野氏右書一〇二頁。 ④⑤日野氏右書一〇三頁。
⑥日野氏右書一〇四i一〇五頁。 ⑦日野氏右書一〇五頁以下。 ③ マニユファクチュアは、歴史的範疇としては、産業資本主義成立の初期において、賃銀労働者の存在を前提とし、資本と賃労働と の対立的生産関係の端初的形態として意義を有するといわねばならない。然るにここで聞題とする時代の官営工業は、奴隷労働或 は揺役労働に依存して営まれる専制君主の非営利的工業形態であるというので、これをマニュファクチユァとよぶことば、その用 法が﹁非歴史的矛盾を暴露する﹂として反対される。西嶋定生民﹁一六・一七世紀を中心とする中国農村工業の考察﹂歴史学研究 コご七号 一五頁。 ⑨日野氏前掲書一一二頁以下。五綿業を中心とする農業と手工業と商業資本
中国における農作及び綿布製造は、唐頃から翠霞に行われ、次いで福建に伝わり、宋末、元初頃には江南にまで及ぶに ① 至ったといわれ、同じ頃西域を経由して陳西地方にも意見が見られたともいわれる。しかし、その状態は余り明らかでな い。 ただ京大人文科学研究所の日比野丈夫氏の好意によって、元代の戯曲である﹁元曲選、藏晋叔編 下冊﹂ ︵一四一〇頁︶ ﹁荊楚臣重対曲流記雑劇 頁君名撰﹂の第一折に﹁老身姓顧在這松江府住坐⋮⋮如今有.東平府客人柳茂英。装二+着綿花 野這松江住売﹂の章句のあるのを知り得た。東平府は今の山東省の東平県で大運河の通路たる東平湖の沿岸にある。松江 中国における専剃的官僚国家と官僚“商業資本の蓄積 一七中国における専制的官僚国家と官瞭1一商業盗本の蓄積 一八 は揚子江のデルタ地区にある。ところで、西嶋定生氏によって﹁松江府に於ける棉業形成過程について﹂ ︵社会経時史学 =二巻一一・=一合蝦藻︶ ﹁支那初期棉業市場の考察﹂ ︵東洋学報三一巻二号︶ ﹁明代に於ける書勝の普及に就いて﹂ ︵史学 雑誌五七編四号、五号︶、 ﹁支那初期恒業の成立とその構造﹂︵オリエンタリヵ 二号︶、 ﹁一六.一七世紀を申心とする申 国農村工業の考察﹂ ︵歴史学研究一三七号︶等の優れた研究が発表されたが、それは明代及び清高を中心としている。とこ ろが右の豆油の文旬から察すれば、既に元代において山東で棉花が栽培され、それが商晶化し、大運河によって松江府に 供給されたものの如くである。松江府には既に綿業が成立していたと想像される。二曲作家の種蒔とするところとなった のを見れば、こうしたことは極めて一般に知られている程に行われていたと見ねばならない。 なお、西嶋氏自身元史︵巻十五、十六︶によって、至元二十六年四月、漸東・江東・江西・湖広・福建等に木江提挙司が 設置され、毎歳木棉十万疋を輸薫せしめたこと、この設置は僅か二年余で罷められたが、大徳三年︵一二九九︶には各処の 行省より輸納する木棉布が五十余万疋に達している旨を記している。 年 次 綿 布 月読十八年 洪武十九年 洪武二十年 洪武二十一年 威武二十二年 洪武二十三年 洪貴二+九年 一、 三九、九〇〇二 一、 O一七、〇七四 一、 @一五九、五八五 一、 @一一七、八○〇 一、 O四五、○○〇 一、 l八九、七四〇 二、八八九、九〇〇 棉 花 1 備考 實録記載の給賜.軍士冬衣布花の実例中、数量の判明せる場合のみの合計であり、 果としては常に実数より低い数字が出ているわけてある。⑤ 二八三、三〇〇斤 四二四、三四三 六五、六〇〇 四四一、六〇〇 五六〇、○○〇 五一一、一〇〇 四一五、二〇〇 結 ところで明代においては、北辺警備の将士に支給 する軍衣用として、山東・井井隷・山西・河南・陳 西の地方から毎年合計綿布百事+万疋、棉花数+万 斤が徴牧され、更に高直隷・江西・蕪蒸・四川等の 州県から納入されている。すなわち、洪武十八年, ︵一三八五︶以後における軍士に給賜せる棉花綿布を 実録によって計上すると上の如くなるという。 前に暗示的に述べたように、専制国家が擁する蒐
異な傭兵の軍衣調達の問題が如何に重大であり、それがまた棉作・綿業成立に如何に甚大な影響を及ぼしたかが、このこ とだげからでも充分了解される。 ところで西嶋氏によれば、明の中期以前、北方諸省に於ける綿布産出の記録は税制関係以外に殆んどなく、ただ憲宗実 録︵巻二百五︶成化十六年秋七月丁未の条に⋮⋮至是本府︵山東棊州府︶奏。布花即土産。易古平納。⋮⋮となって、徴牧 される綿布がその地の産出にかかることが明らかであること、そして、他方、農民が綿布を購入して納附したという事実 がないことなどから、これらの微牧綿布は辛うじて農民の家内仕喜として生産されたに相違ないと推定され、そして自己 消費分としては寧ろ不足勝であったと見られる。これに反し、棉花の方は政府の徴牧額が比較的少なく、右の綿布の原料 を除いても山東・河南においては余剰が豊富にあって、これが主に松江方面に販運され、逆,に綿布がこの地方から購入さ れて居った如くである。 南方諸省は北方とは正反対で紡織.の技術は、その伝統と海外技術の影響とによって大いに発達したのであるが、棉花の 産額は不充分でこれを申部地方︵例えば松江府、鎮洋県、太倉州地方︶から買入れたという。 かくの如く、大体北方諸省においては、棉作が盛んで、棉花の産出は極めて豊富であるが、紡織は余り発達せず、明末 に至るまでは、商品生産を目的とする織布業の発生は確認し難いのに反し、南方諸手においては紡織技術は高度に発達し たにも拘らず、棉花の産額が不充分であるという有様であった。そして、この中産のいわば媒介地域たる揚子江のデルタ 地区に松江府を申心として綿業の著しい発達を見ているのである。何故に、綿業が松江府を中心とbて発達したかについ て、西嶋氏がこの地が南海地方との海上交通の要地であった関係から木棉の移植によって原料供給の途が開かれたこと、 同じ地方からの紡織技術の移入と隣接せる蘇州府の絹織物業からの技術的応用とによる高度技術の習得が大切な条件とな ず つたが、松江府地方の農民を駆って綿業に従事せしめた重要な経済的原因は、この地方に対する専制国家による田崎が加 中国における専欄的官瞭国家と官僚H商業資本の蓄積 一九
中国における専制的官瞭国家と官僚巨商業資本の蓄積 二〇 速度的に苛重となり、農耕の外、副業として綿業生産を行うことなしには、生活が出来なかったという点に存する。すなわ ち、入宋紹熈年聞︵=九〇1一一九四︶ には十一万熊石に過ぎなかった松江府の二千は、景定年聞︵一二六〇1一二六四︶ に賞似道が民田を買上げて公田とし、私租即ち小作料をそのまま税額に編入したことを始めとして、その後、数度に互っ て民地の官有化が行われたため、元代に至ると八十万石、明初洪武年聞には遂に百三十余石が課徴されるに至った。尤も 重税を課せられたのは、漸西の諸府に共通した現象であったが、これら諸府には、例えば蘇州府、抗州府の絹織物、常州 府、鎮江府の麻苧布、.湖州府、嘉興奮の養蚕業という風に副業による家計補足の途があったが、松江府ではこれらのもの はうまく行かず、前述の諸条件からして綿業の成立によってこの困難打開の途が開かれたのである。 このように松江府を中心とする綿業は、始め重税に苦しむ農民の生活打開のため農業の副業として成立し、いわば、田賦 弁納手段たるの意義をもった。従って、明初は産出綿布を売却し、その代金で米を購入して納付したと見える。宣徳八年 ︵一四三三︶頃から綿布は金花入︵米麦一石を銀二戸五分に換算納入せしむる折納銀をいう︶と共に、折色解納︵換算納入︶が許さ れ、現物による田賦納入手段たることを公認されたが、これがまた松江の綿業発展の促進に大きく作用したと見られる。 ノ 更に銀流通の普及、一条鞭法︵銀納によって諸税を単一化せる税法︶の施行と共に商晶生産としての綿業は飛躍的発展を遂げ たと見られる。しかしかくの如く松江府の綿業は専制国家による田賦の増徴に伴5農家経済の行詰りの活路として、従っ て農業的副業として成立し、田賦弁納手段たるの性格をもっていたが、当時の貨幣経済の著しい発展に伴う徴税の銀納化 と共に、爾汝商品生産として飛躍的な発達をとげて行った。そして、その発展に伴う牧益は、その商品的流通を担当する 商業資本によって徹底的に搾取さ九、遂に農家副業的地位から独立化への進歩を遂げることが出来なかった。 かくの如く松江府を中心として綿業が発達すると、ここを中心に綿業縫揚が形成され、北方直挿及び揚子江中流地方よ りここに棉花が販入され、更に此処からその土産の棉花が]部南支方面へ販出される。 ↓方これに対して、綿布は此処か
ら北方諸省、揚子江中流地方及び南支方面へ販出される。かくて松江地方の綿業を中心に全国的な棉花、綿布が表裏をな して流通する全国的な再生産的循環が形成されたわけである。ところが清朝になると、北方棉花の寺入が停止すると期を同 じくして、綿布の北方向洋出も停止して来る。そして棉花、綿布ともその取引の重心は揚子江中流地方及び南支方面へ移 聴している。それは、北方諸省にあったいわば徴発用の綿布生産が技術の発達と共に低廉な棉花の獲得と相侯って、松江 府産出品の中等品に匹敵するものが、而も松江製品の六・七割安く生産されるので、明言から清代に入るに従って漸次北方 に綿布と棉花との自給勤市場圏を形成して行ったためと見られる。 松江綿業のための原棉.は、明手までは、山東・河南方面から主に江准の商人によって陥入され、現地の棉花は、徳行と 呼ばれる仲買人によって蒐買された。またこの地の棉花は福建・広東の商人によって、南部地方に販出されている。綿布に ついは、綿布仲買人たる布行によって蒐集されて、布荘に齎らされる。布荘は各郷鎮に在って大資本を有する問屋で旅館 と倉庫を兼営している。布面による直接の買付も行われる。農民の弱みにつけ込んで買値をたたく彼等に対し﹁雷管﹂の 名が生れる程、苛烈な搾取だったことが窺われる。外来の綿布商は布商といわれ、北方向の綿布は、山西、陳西の大商人 によって大規模に販出され、南方向の中機と称する綿布は徽州商人すなわち新安商人によって買付られる。いうまでもな く、これらの布商は布荘に泊り、ここで取引するわけである。明言までは、新増戸の勢力は山西・陳西商人の比でなか。っ たが、北方綿業の勃興と共に後者が松江市場を退いたため、漸く勢力を増して来たという。 右のような商業資本機構の連取の下に、松江の農村綿業は、家計補助的な副業として零細経営を脱し得なかったことは 既に述べた通りである。正徳松江府志︵巻四︶風俗の条に﹁紡織心止郷落。錐城中画然。里姐農圃紗入市。正木棉.以帰。 明旦復抱紗以出。⋮⋮﹂とあるように、農村老婦が朝になると市場へ来て豊幡すなわち木棉系を売り、棉花を求めて家に 帰り、翌朝になるとまた棉紗を売りに来る有.様が述べられている。当時の綿業がこの様に各生産行程が細かに分業化し、 中国における専制的官僚周家と官僚11商業資本の蓄積 一二
中国における専制的官僚国家と官僚匪商業資本の蓄積‘ 二二 その間に商業が介入して市揚的に生産者が支配されるという点で徹底的に商業資本的だったと見られる。しかし当時の綿 業は、全部上述のような農村工業であったのではなく、都市には、 ﹁置戸﹂と称する専業的織布業者があり、ここでは女 子・男子ともに労働に従事していたと推測される。更に重要なのは、天啓︵一六一=i一六二七︶の初期、上海・嘉定地に おいて布教していたイスパニや人のゼスイット宣教師セメドー︵望ヨ巴Pや跨H毒。誉q。冨。匡救’Ho暮霞餌零きσ・駐$霞 9宮=霧伴星警。。。ωq・冨。。暮嘗ぼ9﹄霧器謹直弓弩一望PP器︶が﹁︵南直隷の︶最も東よりの地方は豊富肥沃にして、非常 に多量の棉花を産出するので土地の人汝の確言する所では、広大な上海の町とその領域内だけで、それを原料とする二.十 万台の織機があり、それ故にただこの地域のみから毎年国王に四十五万ダカツトを上納すると云う。織機は布と同様に幅 の狭いものなので、同一家屋内に多数置いてあって、殆んどすべて婦女子がこの仕事に従事している﹂と述べているのを 見ても、都市の綿織工業の発達が略汝窺われる。 ところがもう一つ重要な資料が発見されている。京大の佐伯富氏及び日比野丈夫氏の好意によって引用すると亥の如き ものである。すなわちそれは雍正殊批論旨、語群︵雍正七、八年頃蜥江総督︶の鞍掛に ﹁⋮⋮蘇郡五方雑庭湖百貨聚灘、為言質通販要津、其中各省青藍布疋、倶於瀟瀟免買、染色之後、必用大石墨書黒光、即有一種之入、 名西包頭、置千重角様式巨石・木耳・家株・並屋、招隻端匠居住、塾発柴米銀銭、向客店領布発張.毎疋工連銀一分一喫三毫、皆係 各匠所得、按名遂月、給包頭銀三斐六分、二丁房租家依之費、習此匠業者⋮⋮皆江南江北各縣宮人・⋮ 從前各坊不過七八千入、近因大盗癸二郷虚語.其彩黛小匪散逸、多於此中藏身.現在細査、蘇州闇門外一帯充包里者、共有三百四 十余人、設立罵坊四百五十飴庭、毎坊麗日各数十人不等、萱草血石己有一萬九百飴塊⋮⋮﹂ とあって、蘇州を中心として各省の青藍布がここで取引される。この青藍布の染色後艶出しのため、 今日でいえばローラ
1かけをする工程がある。当時は肝脳皿の上に棒に布をまきこの上に凹型の石をあげ両脚で踏んでゴロゴロさして艶出した ⑦ よ5である。ところで、この艶出工たる蹄匠は今日の粛呈︵苦力請負頭︶の雪ぎ髪頭の配下に数十人あて属し、それが蹄坊 ︵艶出し工場︶で働いたようで、労賃は請負制であったように見える。ところが当時蘇州の闊門外一帯にこの零下が三首四 十人陰居り、蹄坊は四百五十余設置、各坊で蹄匠数十人が働くとある。ここでは綿業の各工程がそれぞれ段階別に細かく 職業的分業となって居り、その各分業段階の間には、商人が介入して商業資本の支配が如何に深刻に滲透しているかを示 している。そしてその規模の大いさは艶出しの︼工程だけで一万九百の喘匠が居った程である。 かくて上述せる所から発展し切った商業資本の支配の下にある綿業の発達程度が戸々了解出来るように思われる。 ①西嶋定生氏﹁明代に於ける木回の普及について﹂︵上︶史学雑誌五七編四号二2九四︶頁。なお、この西嶋氏の見解は、 加藤繁博士に従って述べられたものである。右論文 九︵こ]]︶頁。 、 ②西嶋氏右論文︵上︶三2九五︶、頁、一九︵⋮=︶頁。 ③ 西嶋氏﹁支那初期棉業の成立とその構造﹂オリエンタリカ2︵一九四九年︶八九頁。この記述は同氏の右に述べた論文︵上。下︶ から概括したものである。
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西嶋氏﹁明代に於ける木棉の普及に就いて﹂ ︵上︶九︵二Q一︶頁。 西嶋氏 右論文︵上︶一二︵二一三︶頁。 西嶋氏 右論文︵下︶史学雑誌 五七編 第五・六合併号 三七−八︵二九四−五︶頁。 西嶋民 右論文︵下︶三九−四〇︵こ九六−1七︶頁及び同氏﹁支那初期早業市場の考察﹂東洋学報 三一巻 十月︶二六六−七頁。 ・西嶋氏右論文二六八一九頁。 ⑨西嶋氏﹁支那初期口業の成立とその構造﹂オリエンタリヵ2 西嶋氏右論文九二一九三頁。 ⑪西嶋氏右論文九四頁。 西嶋氏右論文九五一九六頁。 ⑬西嶋氏右論文九七−一〇〇頁。 中国における専制的官僚国家と官瞭ーー商業資本の蓄積 二三 二号︵昭和二十二年 八九頁。申国における専制的官僚国家と官僚”商業資本の蓄積 二四 ⑭⑮ 西嶋氏﹁支那初期棉業市場の考察﹂東洋学報 三一巻 二号 二八五頁。 ⑯西嶋氏右論文二七九1こ八○頁。 ⑰西嶋氏右論文二六四−二六八頁。 ⑬西嶋氏右論文二七一一二七九頁。同氏二六・一七世紀を中心とする中国農村エ業の考察L歴史学研究=二七号︵一九四 九年一月︶一九一二〇頁。 ﹁殺荘﹂という言葉は皇朝経世文編 巻二八 戸政 所載の欽善の﹁松問﹂に﹁託命剣縷。三日両鱗。 二布入市。其事如泥。名日殺荘﹂とあるという。西嶋氏﹁支那初期棉業の成立とその構造﹂オリエンタリカ2一三〇頁。 ⑲西嶋氏右論文オリエンタリカ2一二四頁。 ⑳ 西嶋氏 右論文 ﹂二四−一三〇頁。 ⑳ 西嶋氏 右論文 =ニニ頁、=二七一=二八頁。 ⑫ ﹁御題棉花図﹂ ︵乾隆帝の御題のついた棉作及び綿業の行程を図解したもの︶四花棉産改進会 藤本 参照。