• 検索結果がありません。

<研究ノート>文化人の遺産化 : 寺山修司を事例として

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "<研究ノート>文化人の遺産化 : 寺山修司を事例として"

Copied!
14
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

<研究ノート>文化人の遺産化 : 寺山修司を事例と

して

著者

笹部 建

雑誌名

関西学院大学先端社会研究所紀要 = Annual review

of the institute for advanced social research

8

ページ

91-103

発行年

2012-10-31

(2)

!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 研究ノート

0

.有名人としての「文化人」

経済評論家であると同時にその独特なキャラクターで知られる勝間和代(1968∼)。2000 年代後 半の新書バブルに乗って多くの著作を刊行し、テレビなどのマスメディアにも積極的に顔を出して いた彼女は、「ビジネスモデルとして有名人になる」ということを模索していたという(勝間 2012)。彼女の結論は、有名人になることは様々なコネクションが増え利益になるが、同時に多く のリスクも生むため、ビジネスモデルとしてはあまり有効ではないというものだった。確かに、プ ライベートな友人との会食もたまたま隣に座っていた男性に、twitter や Facebook などのソーシャ ル・メディアを使って「実況」されてしまうような衆人監視的状況に、精神的な負担は大きかった だろう。 勝間は自身がテレビに出演し、お笑いタレントやアイドルとは異なる「文化人枠」の中で扱われ ることから、竹村健一(1930∼)や田原総一郎(1934∼)を自らのロールモデルとして位置付けた と書いているが(ibid, 86)、彼らの初期の活動の舞台であったのはまさに 1950 年代におけるテレ

文 化 人 の 遺 産 化

−寺山修司を事例として−

笹 部

(関西学院大学大学院社会学研究科博士課程後期課程) 要 旨 お笑いタレントやアイドル歌手などの芸能人でもないし、また単なる専 門家でもない、独特な有名性を持った有名人、それが「文化人」と呼ばれる人々である。 本稿では、1960 年代から 1970 年代にかけて活躍した文化人である歌人・劇作家の寺山修 司(1935∼1983)の活動と、彼の死後の遺産化のプロセスを見ていくことによって、文 化人の有名性が社会的記憶としていかにその死後に変容していくのかを見ていく。寺山修 司は 1950 年代の歌人としてのキャリアから始まり、1960 年代に文化人化することによっ て有名性を獲得していくが、1980 年代初頭に入っていくと、その有名性はかえってお笑 い芸人たちや週刊誌の揶揄の対象になっていく。そして死後には、彼の本籍地である青森 県三沢市をはじめ様々な場所で彼の作品や証言の遺産化のプロセスが始まり、ついに 2006 年には寺山修司の国際学会が設立するに至る。しかし、その有名性は死去直前のマスメデ ィア上での揶揄の対象としての有名性というよりも、むしろ地域的・歴史的文化遺産とし て保存や記念、あるいは研究の対象と化していく。 キーワード 文化人、寺山修司、有名性、遺産化、社会的記憶

(3)

ビを中心としたマスメディアの新たな再編成の時期であった。テレビの中で有名性を獲得する有名 人とは、お笑いタレントやアイドルなどの芸能人だけではなく、勝間や竹村や田原のような「文化 人」もいるし、また犯罪などの悪名によって知られ、監獄の中で監視の対象となりながらも、著作 活動を通して表現者としての有名性を獲得する永山則夫(1949∼1997)のような者もいるのであ る。 そして時に有名性は、その担い手であった個人が死去してなお継続し、特定の社会の中で社会的 記憶の資源として遺産化していく。それは郷土を愛した文学者や地域の貢献者のみではなく、勝間 のような文化人と呼ばれる人物たちも例外ではないのである。 本稿では、この「文化人の遺産化」という現象を考えるため、歌人・劇作家であり 1960 年代に アングラ演劇と呼ばれる前衛表現の旗手として活躍した寺山修司(1935∼1983)の活動と、その後 の遺産化のプロセスを検討していく。なぜ寺山なのかといえば、彼は先に挙げた竹村や田原と同じ く、いわゆる「少国民世代」と呼ばれる 1930 年代生まれの世代であり、1950 年代の戦後日本のマ スメディアの発達の中で自己の有名性を獲得した人物だったからである。また、彼は同世代の作家 や芸術家の中でもその多彩な活動で知られ、自らの職業を聞かれた際に「寺山修司」という自分の 名を告げたというエピソードが後年語られるほどで(北園 1993)、文化人としての有名性と、それ が遺産化される際にどのように変容するのかといった本稿の問題感心に適合する対象だからでもあ る。以下ではこのような観点から、まずは寺山修司が当時の活動を通して文化人としてみなされる までの過程を、そしてその死後彼がどのように遺産化のプロセスに組み込まれていくのかを見る。 最後に、そのような文化人の遺産化が社会的記憶の再編成にどのように関わるのかを見ていく。

1

.寺山修司の文化人化

1. 1.戦後歌人としての寺山 寺山修司は、1935 年、寺山八郎、はつの長男として青森県弘前市紺屋町に生まれた。警察官だ った父の転勤により、五所川原、浪岡、青森市内、八戸と転居を繰り返し、父が出征した後は母と 二人で青森市内へ転居し、青森市橋本小学校に入学した。1945 年には青森大空襲で家を焼け出さ れ、三沢駅前の父方の叔父が営む寺山食堂の 2 階を間借りし、古間木小学校に転校する。父八郎は セレベス島でアメーバ赤痢によって戦病死し、母はつは三沢ベースキャンプで働くことになる。戦 病死した夫の代わりに米軍基地内で働くはつは次第に帰りが遅くなっていった。その後寺山母子と 叔父の関係ははつの仕事が原因で悪化、ほどなく寺山母子は米軍払い下げの家を改装して住むこと になる。少年修司は小学校卒業後、三沢の古間木中学校に入学するが、母が上司と共に福岡県の芦 屋町へ転勤してからは、青森市で映画館、歌舞伎座を経営する母方の大叔父夫婦(坂本勇三、き ゑ)宅に引き取られ、青森市野脇中学校に転校する。 このように、幼少期の寺山の生活は決して恵まれたものではなかった。その彼が 10 代において 最初に有名性を獲得するのは、短歌という表現ジャンルにおいてであった。戦後直後の短歌否定 論、いわゆる「第二芸術論」1)の余波から未だ抜けていなかった 1950 年代の短歌界は、当時の日本 短歌社から発行されていた雑誌『短歌研究』の編集長である中井英夫(1922∼1993)の案により、

(4)

新人の作品 50 首を募集し、結社誌ではなく商業誌から新たな歌人を登場させることを目論んでい た(中井[1971]1993 : 148−149)。そして 1954 年 11 月号の『短歌研究』には寺山の応募した作 品が特選として選ばれ、寺山は 18 歳にして中城ふみ子(1922∼1954)に続く第二の新人として歌 壇デビューを果たす。このときの第二回五十首応募作品発表は「十代作品特集」と名付けられてお り、寺山は戦後の新たな世代の表現者として中井に見出されたのだった。 アカハタ売るわれを夏蝶越えゆけり母は故郷の田を打ちてゐむ 向日葵は枯れつつ花を捧げをり父の墓標はわれより低し (「チエホフ祭」『短歌研究』1954 年 11 月) 赤旗新聞を売る自分や、故郷の田畑を耕す母というのは寺山の想像上の世界であり、実際には母 は米軍のベースキャンプで働いていたのだが、彼は「東北出身であり、戦争によって父を失った孤 独な 10 代若手歌人」という自己を積極的に装飾して歌った。彼は後に歌人の岡井隆(1928∼)や 塚本邦雄(1920∼2005)と共に前衛短歌運動と呼ばれる短歌運動を推し進めていくが、それは新た な世代による短歌の運動を意味していた。1959 年の座談会で、寺山は小説家の大江健三郎(1935 ∼)に戦争直後の時代のリアリティを表現した詩人たちに較べ、寺山の作品にはそれがないと指摘 されると、「長い間作られてきた短歌の大半はリアリティのないリアリズム、それも体験第一主義 の傲岸さしかない。現代の短歌を占めている結社誌をめくるとメモリアリズムのほこりがいっぱい なんだ。」と答え、これまでの歌壇において主流だった写実的な作風を批判的に乗り越えることに 自らの創作態度を位置づけている。そして「ぼくら、戦争も放蕩も物質的体験でなく、精神体験で しかない世代には、これを再構築するのではなく新構築することしかできないわけで、事実に造化 の力が勝つためにもフィクションをこのまま続けようと思う」と述べる(岡井、寺山ほか 1959 : 103、108)。 ここで寺山は、戦前派・戦中派世代に対する戦後派である自身の姿勢と、前衛短歌における自ら の方法意識という 2 つの視点から作品性を説明する。つまり彼にとって「メモリアリズム」と呼び かえられ批判されるのは、歌壇の主流派であったアララギ派の写実的作風であり、そしてその批判 はそのまま戦争体験を語る先行世代の「体験第一主義」者たちに向けられるのである。 このように、しばしば戦争体験の差異をそのまま世代的な差異に読み替える発言を行っていた寺 山は、同世代との連帯を強め、他の芸術家たちとも積極的に関わっていこうとする。角川書店の商 業雑誌『短歌』で 1962 年に 4 回に渡って掲載された座談会「現代歌人会議」では、児童文学者の 無着成恭(1927∼)や詩人の吉本隆明(1924∼2012)、映像作家の松本俊夫(1932∼)などの短歌 以外のジャンルで活躍する作家・芸術家たちが歌人や短歌評論家と議論しており、そしてその全て の司会を務めたのが寺山だった(表 1)。 ────────────── 1)第二芸術論とは、桑原武夫「第二芸術論」(『世界』1946 年 11 月号)や臼井吉見「展望」(『展望』1946 年 5月号)などの総合雑誌上で行われた短詩型文学の否定に端を発する議論で、その後も短歌雑誌『八雲』 での議論や歌人自身による反省、また小野十三郎などの詩人からの批判(「奴隷の韻律」『八雲』1948 年 1 月号)など様々なかたちをとった。

(5)

前衛短歌運動の中での寺山の役割は、こうした他の芸術家と接触し、いわば短歌というジャンル を外に広げるというものだった。もちろん、そういったことは常に成功したわけではなく、第 4 回 目の座談会で児童文学者の佐野美津男(1932∼1987)は「この座談会みたいな形で、うちの人と外 の人というかみ合わせを考える。このさぐり合いみたいなことが、ぼくにとっては無意味なんで す」と答え、その姿勢は座談会終了後も変わらなかった(佐野、寺山ほか 1962 : 101)。また、彼 は寺山について、「この席のように歌人や俳人を前にして語るのと、日頃ぼくらと語るときと、大 へん語り口が違うわけです。寺山修司にもこういう一面があったのかと驚いたんです」(ibid, 116) と発言する。ここからは、もはや寺山がこの時点で短歌という一つのジャンルに収まりきらない活 動をしており、むしろ歌人としての彼が再発見されるような事態になっていることがわかる。そし て実際に、寺山は 1960 年代後半には短歌を離れ、自らの劇団を旗揚げして演劇活動へと移ってい くのだが、次節で述べるようにそこにはマスメディアとの関わりが必要不可欠であった。 1. 2.「青森県人」としての寺山 1954年に上京した寺山は、ネフローゼを患い新宿区の社会保険中央病院に入院し、退院後は大 学も中退を余儀なくされ、途方にくれていた。そんな寺山に詩人の谷川俊太郎(1931∼)はラジオ ドラマの執筆を薦める。寺山が最初に執筆した『ジオノ・飛ばなかった男』は RKB 毎日放送で 1958 年 10 月 14 日に放送され、日本民間放送連盟賞に入賞する。その後も彼は『山姥』(NHK、1964 年 7月 28 日放送)で、1948 年から創設されたイタリア放送協会が主催する、ラジオ番組国際コンク ールのラジオ・モノラル・ドラマ部門で受賞し、その他にも『コメット・イケヤ』(NHK、1966 年 8月 31 日放送)でイタリア賞の二度目のグランプリを獲得するなど、数々の作品で芸術賞を獲得 する2) ────────────── 2)ラジオドラマだけでなく、この 1960 年代に寺山はレビ・ドキュメンタリーでも活躍している。TBS の萩 本晴彦(1930∼2010)と村木良彦(1935∼2008)との共同制作によるドキュメンタリー番組『あなたは・ ・・』(1966 年 11 月 20 日放送)は第 21 回芸術祭テレビ・ドキュメンタリー部門奨励賞を受賞している。 この異色のドキュメンタリー番組は大きな波紋を呼び、マスコミ関係者に寺山の名を知らしめる結果とな った。当時のドキュメンタリー番組をめぐる状況と『あなたは・・・』の内容については、(丹波 2002) 参照。 表 1 『短歌』座談会「現代歌人会議」の出席者(『短歌』掲載号を元に作成) 掲載号 タイトル 出席者 司会者 1 1962. 4 短歌と民衆をめぐって 無着成恭、森秀人、 寺山修司 篠弘、森岡貞香 2 1962. 5 モダニズムと短歌をめぐって 吉本隆明、松本俊夫、 寺山修司 塚本邦雄、秋村功 3 1962. 6 短歌におけるナショナリズム 佐藤忠男、村上一郎、 寺山修司 前登詩夫、岡井隆 4 1962. 7 短歌における組織の問題 佐野美津男、金子兜太、 寺山修司 島田修二、上田三四二

(6)

谷川との交流は、寺山にとって新たな社会関係資本の獲得に繋がるものでもあった。1958 年に 警察官職務執行法の改正案が国会に上程され、『中央公論』編集者の青柳正美と江藤淳(1932∼ 1999)によって若手芸術家たちの集う「若い日本の会」が設立された。ここに小説家の石原慎太郎 (1932∼)や『劇団四季』創設者の一人である浅利慶太(1933∼)、映画監督の羽仁進(1928∼)や 大江健三郎らと共に、谷川と寺山も参加する。 寺山にとって、この会合は同世代の他/多ジャンルの芸術家たちと触れる大きな機会だった。し かも「若い日本の会」では、大江や江藤、谷川や石原を始め、自分と同世代で他の分野で華々しく 活躍する作家たちが多数いた。この頃から、寺山は短歌・ラジオドラマ共に自身の出身地である青 森の土着性を前面に押し出した作風に変化させていく。

それまでの寺山の作風は、初期の牧歌的なイメージの故郷はあまり歌わず、「The Weary Blues」 (『短歌研究』1960 年 5 月)や「ボクシング」(『短歌』1962 年 2 月)など、都市の周縁に潜む下層 労働者や犯罪者に対するイメージを歌ったものが多かった。しかしこの後、他の都市部出身の他ジ ャンルで活躍する文化人たちとの接触により、寺山は明確に自らの故郷を前近代的なおどろおどろ しさの下に表象しはじめる。 新しき仏壇買いに行きしまま行方不明のおとうとと鳥 大工町寺町米町仏町老母買う町あらずや つばめよ (「恐山」『短歌』1962 年 8 月) 他にも「犬神」(『短歌』1963 年 7 月)や「迷信」(『短歌』1964 年 1 月)などの短歌作品に加え、 1963年から雑誌『現代詩手帖』に長篇叙事詩『地獄篇』を連載し始め、また、ラジオドラマにお いても『恐山』(NHK、1962 年 8 月 5 日放送)、『犬神の女』(NHK、1964 年 2 月 4 日放送)などを 発表している。こうして、もともと米軍のベースキャンプで働く現実の母を、田畑を耕す牧歌的な 虚構に変えて歌っていた彼は、それと同じような手法で自らの出身地=青森を東京から見たエキゾ チズムへと変換することによって、他の芸術家たちとの差異化を図っていくのである。 東京の山の手育ちの評論家である室謙二(1946∼)は、同じく評論家の小林信彦(1932∼)が中 原弓彦名義で出した小説『虚栄の市』(1964 年、河出書房新社)で、寺山修司がそれらしき人物と してデフォルメされ、「東京にあこがれ、間の抜けた野心を持ち、どもりつつ、誠実そうになまり のある日本語をしゃべり、いっしょうけんめい、ジャーナリズムの表現に浮かびあがろうとしてい るイナカ者」として描かれている様子を「楽しんで読んだ」と書き、東京出身者にとって寺山はう さん臭い存在であったという(室 1971 : 71)。 そして「寺山修司は、この故郷というものを、コミュニケーションの道具としてきわめて意識的 に、操作的に使っていると言える。彼は『故郷』を意識化し、典型化している」(室 1971 : 74)と 述べているが、そうした「故郷」の対象化によって、寺山は『家出のすすめ』(1963 年、三一書 房、当初の原題は『現代の青春論』)や『書を捨てよ、町へ出よう』(1967 年、芳賀書店)などの エッセイ集を書き、若者に対するアジテーションを開始していった3) ────────────── 3)若者に対するアジテーションは書物だけではなく、全国の大学などで講演し、学生たちと語り合うこと!

(7)

1. 3.文化人としての寺山 前節で見たような活動を続けるうち、寺山の下には多くの家出少年・家出少女が集まり、1967 年には彼らと早稲田大学の東由多加(1945∼2000)、それに当時の妻であった元・松竹女優の九條 今日子(後に離婚)、そしてデザイナーの横尾忠則(1936∼)と既に歌手として活躍していた丸山 明宏(1935∼、後の三輪明宏)らと共に、演劇実験室『天井桟敷』を旗揚げする。既に唐十郎(1940 ∼)や鈴木忠志(1939∼)、佐藤信(1943∼)などの演劇人たちが活躍していた最中の旗揚げであ り、寺山は唐・佐藤らよりも世代は上であったが自ら劇団を結成して活動を始めるのは遅かった。 通称「アングラ演劇」と呼ばれる 1960 年代後半から 70 年代にかけてのこのような演劇運動は、 一般に演劇と若干の音楽ジャンルに限定される小規模のムーブメントと見なされているが(室井 2009)、実際は講演ポスターを作成するデザイナーや知識人たちも巻き込む多様なジャンルを横断 する運動であった。後年、唐や鈴木は「俺たちは演劇をやったわけじゃない」というタイトルの座 談会で、自分たちの 1960 年代の活動が単に演劇活動に限定されるものではなかったと言う。 鈴木 例えば、大江健三郎が唐の『ズボン』を読んで、「これは戦後文学の傑作だと思う」と、 飯食いながら言ったんだよ。ちゃんと読んでるんだよね。見にも行ってるよね。澁澤龍彦が別 役の評論を読んで、「やっぱり専門家の分析はすごいなあ」とか言ったりするんだよ。つまり、 それはお互いが専門を守ってるという感じがあるんだ。だけど、ジャンルを超えて、クリエー ターとしての緊張関係の共有の場というのが精神的、感覚的にはあった。 唐 忘れ難いのは、演劇畑なのに映画のジャンルが今何をやっているかが気になっていたんで すね。美術でもフォークの音楽でも詩の世界でも。「現代詩手帖」というのがあって、僕なん かの戯曲を「新劇」じゃなくて、「現代詩手帖」にのっけてくれたことがあるんです。そうい うふうにジャンルがクロスし合ってましたね。だけど今はない。 (唐ほか 2010 : 255−256) これらの発言が意味するところは、「アングラ演劇」というものは現代演劇内部の自律的な運動 ではなく、演劇界の外部から(大江などの文学者、渋澤龍彦などの知識人たち)の評価を前提とし た運動であったということである。そして既に前衛短歌運動を経験し、また演劇界の外部から参入 した寺山はそのアングラ演劇の性質に自覚的だった。『天井桟敷』はその旗揚げ当初から横尾や丸 山など、既に他の表現ジャンルで活躍していた有名人を引き入れ、丸山を主演に、横尾をポスター 制作及び舞台美術に割り当て、総合芸術としての演劇の可能な限りにおいて話題性を盛り込んでい ったのである。 しかし、そうしてマスメディアや他ジャンルの中に積極的に露出していこうとする寺山のふるま いは、先に述べた室謙二や小林信彦のような批判や反発とは異なる、マスメディアの側からの揶揄 の対象として表象される。 ────────────── ! も含まれていた。1968 年には関西学院大学にも「詩人から見た大学生」というテーマで講演に来ていたと いう記録もある(寺山 1974)。

(8)

酸素をケチって、あまり口を動かさないでしゃべる。こんなぐあいにね。それで相手が何か いうと「そうではなくて」と相手のいったことを否定しはじめる。これがコツです。やってご らん。ね、みんな寺山修司になっただろ。 (『女性自身』1982. 7. 15 : 57) お笑い芸人のタモリがこう述べるように、寺山はその作品や活動ではなく、見た目や口調などが 物まねの対象となり、その有名性によって笑いのネタにされてしまうようになるのである。 このように、1950 年代の歌壇デビューから、1960 年代のラジオドラマや 1970 年代にかけての劇 団結成などの活動を通して、寺山は様々な手段によってその有名性を獲得していった。そしてそれ は 1980 年代初頭になってしまえば名誉としての有名性というよりも、揶揄の対象としての有名性 に転じていく4)。多様な芸術ジャンルを横断し、単なる作家でも芸能人でも知識人でもない、あい まいな彼の有名性はまさに「文化人」特有のものだったと言えるが、1983 年の彼の敗血症による 死からはそれがどのように変容していくのかを、次章では見ていく。

2

.寺山修司の遺産化

2. 1.寺山修司記念館の設立 寺山が亡くなった 1983 年から、青森県三沢市では様々な追悼展が行われていた。1983 年 10 月 1 ∼5 日にかけて、三沢市教育委員会の主催で、公会堂小ホールにおいて映写会、シンポジウムが開 催され、寺山の九條今日子のプロデュースによって講師に詩人の谷川俊太郎、評論家の三浦雅士 (1946∼)、グラフィックデザイナーの粟津潔(1929∼2009)が招かれた。三浦雅士は雑誌『ユリイ カ』や『現代思想』などの編集長を務めている間に寺山と知り合い、同じ青森県出身ということで 互いに親交を深めていた。同じく粟津潔も、 寺山の本の装丁や演劇のポスターを手がけ、 共に創作活動を行っていた表現者の一人であ った。その後寺山の文学碑建立の発起人会が 行われ、谷川・三浦・粟津は相談役となり、 谷川と三浦は歌碑に刻む歌を選定した。そし て寺山の同級生を中心に 500 人あまりから約 1千 300 万円の募金が集められ、粟津の設計 によって、1989 年に三沢市歴史民俗資料館 付近の小田内沼展望所内に寺山の文学碑は建 てられた(写真 1)。 ────────────── 4)その代表例が寺山の「のぞき事件」に対する一連の報道だろう。これは 1980 年 7 月 13 日に渋谷の宇田川 町のアパートで敷地内に入っていた寺山が警察に通報されたという事件で、それまでも唐十郎との劇団ど うしの乱闘事件などで新聞を賑わしていた寺山だったが、これは「有名人」のスキャンダルということ で、『週刊文春』(1980 年 8 月 14 日号)、『週刊読売』(8 月 17 日号)『週刊プレイボーイ』(8 月 19 日号)、 『週刊サンケイ』(8 月 21 日号)などの様々な週刊誌に書きたてられた。 写真 1 寺山修司歌碑(青森県三沢市)

(9)

発起人会解散後も教育委員会を後援とした寺山の同級生の組織は活動を継続し、名称を「寺山修 司五月会」と改め、1989 年の 6 月 11 日の文学碑除幕式以降も第 2 回(1990 年 6 月 10 日)、第 3 回 (1991 年 6 月 9 日)と寺山修司の式典を継続して行っていた。そして 1991 年 12 月 12 日、寺山の 古間木小学校時代の同級生であり五月会の会長でもある下久保作之佑は、国立東京第二病院に入院 していた寺山の母・はつを訪ね、三沢市に寺山の記念館を建てるのであれば、彼女が保管していた 寺山の遺品や資料を三沢市に寄贈するという約束を取り交わした。さらに 24 日、下久保らは九條 今日子と寄贈目録について話し合い、当時の三沢市長の鈴木重令とのやりとりで用意していた市へ の資料の寄贈受納願に、はつから署名、調印を受け取る(2 日後にはつは死去)。 後に下久保が語るところによれば、記念館は粟津のデザインによって大きく予算をオーバーし、 当初予想されていた 20 倍ほどに膨れ上がったという(総事業費 7 億 1 千 557 万円)。また、「特定 の個人の冠をつけると事業の対象とならない」ため、名称も「三沢市文学記念館」になる可能性も あったが、「五月会」を中心とする建設委員会から「寺山修司だからこそ意味がある」ということ で、当初予定されていた当時の防衛庁からの予算ではなく、通産省資源エネルギー庁からの予算が ついたという(寺山修司五月会 1997 : 55)。 こうして、1995 年 6 月 20 日から 1 年 9 ヶ月あまりの工事期間を経て、1997 年 7 月 27 日に寺山 修司記念館の落成式は行われた(写真 2)。初代館長は寺山修司の従兄弟であり、青森大空襲で寺 山母子が家を焼け出された際には同居していた寺山孝四郎が就任した。 このように、寺山の遺族や親交の深かった詩人・評論家・デザイナーなどとの連携によって、寺 山修司の元同級生らを中心に組織された三沢市の「五月会」は、寺山修司記念館を建設することに 成功した。けれども前章に見たように、寺山修司本人が三沢市に住んでいたのは古間木小学校から 古間木中学校に在籍している期間、すなわち空襲から焼け出され青森市から来て、その後はつの福 岡への転勤に伴い再び青森市の歌舞伎座に住むようになるまでの約 4 年間だけであり、彼が後に自 らの故郷を語るときもそれは「青森」としての「恐山」などのイメージを強く語っていた。俳人の 斎藤慎爾(1939∼)は青森市の観光課の職員が、寺山の取り上げる青森のイメージは捨子、間引 き、老婆、おしさらま、賽の河原などで、「青森が現代にわたる飢餓と因習の後進県」と思われる と嘆いているという挿話を紹介しているが(斎藤 2002 : 231)、それは「青森」であっても「三沢」 ではなかった。彼が 1960 年代に訪れたのは 例えば三沢の米軍基地などではなく、恐山だ ったのである。室謙二が「彼は『故郷』を意 識化し、典型化している。」と述べていたよ うに、彼は上京後の都市の中で自らの「故 郷」をエキゾチックに表象した。そして彼の 死後は、「故郷」が彼を記念し、遺産化して いくのである。 2. 2.ポスターハリス・カンパニー 寺山の活動が遺産化されるのは何も三沢市 写真 2 寺山修司記念館(青森県三沢市)

(10)

においてのみではない。株式会社ポスターハリス・カンパニーの代表取締役であり、現在は寺山修 司記念館の副館長でもある笹目浩之(1963∼)は、寺山ら 1960 年代から 70 年代に活躍したアング ラ演劇のポスターを収集、保存するプロジェクトをすすめ、2000 年には九條今日子らと共に株式 会社テラヤマ・ワールドを設立し、寺山修司のお面などのグッズも販売している。 笹目は 1982 年に上京し、12 月の新宿紀伊国屋ホールで行われた寺山の劇団『天井桟敷』の公演 『レミング−壁抜け男』を観て衝撃を受け、演劇に関わる仕事をしていくことを決意したという (笹目 2010)。野田秀樹(1955∼)の『夢の遊民社』や鴻上尚史(1958∼)の『第三舞台』、木場勝 己(1949∼)の『秘宝零番館』、太田省吾(1939∼2007)の『転形劇場』など、寺山や唐らよりも 下の世代の小劇場運動が盛んだった当時において、寺山の死による解散直前の『天井桟敷』の公演 を目にした笹目は、後に九條今日子と知り合い劇団の仕事を手伝っていくうちに、ポスター貼りを 自らの仕事として位置づけていく。そしてパルコなどから公演のポスター貼りの仕事を受け持ちな がら、1987 年にはポスター貼り専門の株式会社ポスターハリス・カンパニーを設立する。当時は 銀座セゾン劇場(1987 年、現ル テアトル銀座)、東京グローブ座(1988 年)、シアターコクーン (1989 年)など、都内各地に新たな劇場がオープンし、またシネ・ヴィヴィアン六本木(1983 年) やユーロスペース(1985 年)、シネマライズ(1986 年)、シネスイッチ銀座(1987 年)などのミニ シアターもこの頃誕生し、こうした大きな宣伝費をかけることができないところから、笹目らはポ スター貼りの仕事を請け負っていった。 そして 1992 年の青山のギャラリーでの展覧会を機に、笹目は現代演劇のポスターの収集・保存 プロジェクトを立ち上げる。各地の劇場の支配人に連絡を取り、貼られたポスターの回収・収蔵を 続け、2004 年には全国で 1960 年代から 80 年代までのアングラ演劇の大規模なポスター展示会を 行った。 そもそも、唐十郎や寺山らが率いるアングラ劇団のポスター制作を行っていた横尾忠則の B 全 サイズの巨大なポスターは貼る場所も確保しにくく、1967 年に作られた唐の『状況劇場』の公演 『ジョン・シルバー 新宿恋しや夜泣き篇』と寺山の『天井桟敷』の『青森県のせむし男』のポス ターは、共に公演当日に納品されたということで(笹目 2004)、もはや広告としての機能を果たし ているかどうかは疑わしかった。だがこのように後に回収・収蔵された横尾らの作品は、当時の寺 山や唐などが活躍した小劇場運動の時代の社会的記憶を想起させる展示会などの装置の一部となっ ていくのである。 2. 3.国際寺山修司学会の設立 愛知学院大学教授の演劇研究者の清水義和(1946∼)は、ロンドン大学に留学中、ジャン・ジュ ネの研究者であった教授から寺山修司の戯曲を翻訳することを依頼され、それから寺山修司の戯曲 に惹かれていったという(清水 2007)。清水自身学生時代、新劇の『前進座』に在籍しており、寺 山の演劇も見たことはあったが、当時はそれほど心惹かれるものはなかった。しかし留学先で寺山 の戯曲を改めて再発見した清水は、留学から帰り準備期間を経て 2006 年 5 月 6 日に「国際寺山修 司学会」を設立する。 2012年現在は文化書房博文社から『寺山修司研究』が第 5 号まで刊行されており、毎年 2 回の

(11)

大会などが主な活動内容となっている。 もともと寺山は知識人やアカデミズムと独 特の距離を保ち続けていた。先に書いた文芸 評論家の三浦雅士との交流以外にも、『思想 の科学』の編集長であった森秀人(1933∼) や、文化人類学者の山口昌男(1931∼)と も、当時大学院生だったの彼の最初期の論文 (「未開社会における歌謡」『国文学 解釈と 鑑賞』1960 年 12 月号)を、寺山が自身の文 章(「古代歌謡のカオス」『短歌』1963 年 4 月号)で引用したことをきっかけに、親交を 深めていた5) しかしこうした知識人たちとの交流はあくまでジャーナリズム上でのことで、早稲田大学中退の 寺山は大学講演で学生相手にアジテーションを行うことはあっても、アカデミズムに積極的に関わ ろうとはせず、むしろ「反体制」を謳って旧弊な科学的思考と、自らが演出する演劇の祝祭的な実 践を対置させて語っていた(寺山 1977)。 また知識人の側も例えば栗原彬(1936∼)は『天井桟敷』の公演である『観客席』をゴフマンの 議論と重ねて論じているが(栗原 1981)、寺山の活動自身が大きな学問的対象とされることはなか った6) しかし没後 10 年を過ぎたあたりから、何をしですか解らない、うさんくさい存在としてみなさ れていた寺山も、短歌作品やエッセイが大学の入試問題や国語の教科書に載るようになってくると (九條ほか 1993 : 269)、むしろ一定した評価の対象として捉えられ始める。 今こそ、寺山を、海外の作家の視点で捉え直す研究が必要です。ソポクレス、エウリピデス、 ウィリアム・シェイクスピア、サミュエル・デフォー、ジョナサン・スウィフト、オスカー・ ワイルド、テネシー・ウィリアムズ、ジャン・ジロドゥ、ジャン・アヌイ、フェルデナンド・ アラバール、ガルシア・マルケスなどの作家たちと比較し、分析して、寺山の演劇を解読し直 さなければならないところにきています。 (国際寺山修司学会ホームページ) ────────────── 5)例えば山口は寺山の遺作となった映画作品『さらば方舟』(1984 年、アートシアターギルド)公開のため、 原作である『百年の孤独』を映画化するにあたり、作者のガルシア=マルケスにモンパルナスまで了解を 取りに行ったというが、渋谷で寺山の映画上映会の際に浅田彰(1957∼)らと共に彼を訪ねたのが最後の 出会いであったという(山口 1993)。 6)山口昌男においても、彼は後に「寺山修司の死によって我々は同時代の知のかたちの最もすぐれた読み手 を失った。」「私が難しいと言われたり、反動的と罵られながら書き綴ってきた文章を最も丹念に読んでく れた」などと述べており、寺山の作品や活動を山口が批評したり論じたりするのではなく、むしろ山口の 文章の理解者として寺山が位置づけられている(山口 1984 : 246, 248)。 写真 3 国際寺山修司学会第 12 回秋季大会の模様 (2011 年 10 月 29 日、愛知県愛知学院大学)

(12)

死去の直前である 1980 年代初頭には、タモリやビートたけしによって揶揄の対象となり、そこ では他の有名人である五木寛之(1932∼)や村田英雄(1929∼2002)などと並べられていたのが、 ここでは海外の有名作家や芸術家と「比較」され、「分析」されることの必要性が述べられるので ある。

3

.小括──文化人の遺産化

以上、主に寺山修司の活動とその死後の遺産化のプロセスを見ていきながら、彼が如何に「文化 人」としてふるまうようになり有名性を獲得していくか、そしてその有名性が死後どのように変容 していくかを見てきた。1935 年生まれの寺山は戦後最初のティーンエイジャーであり、それゆえ 戦後の混乱によって家族を失い、転校を繰り返し、過酷な幼少時代を過ごした。とりわけその中に は三沢市という米軍基地付近も含まれており、それは彼が少年時代に歌った牧歌的な「故郷」と も、また後年に語っていく土着的な「恐山」や「姥捨て」に象徴されるような前近代的な空間とし ての「青森」とも異なる、総力戦の敗戦による占領という、国民国家の近代化の果てに生まれた周 縁地帯だった。それゆえ宮台真司が述べるように、寺山の 1960 年代における活動は、「急速な高度 成長経済による共同体の空洞化のせいで、それまでの共同体的な作法が通用しなくなるという混 乱」によって生まれたのではなく(宮台 2004 : 9)、むしろそれ以前の敗戦直後の米軍による占領 という、極めて近代的な社会空間の中で生み出されたというべきだろう。 そして彼が最初にその有名性を獲得する短歌や、その後のラジオドラマや演劇活動で表象したの は虚構の故郷であった。それは前世代の戦争体験者(「体験第一主義者」)たちとの差異化を図って いくための戦略であると同時に、同世代のマスメディア上の文化人たちに対する自己呈示でもあっ た。その意味で、寺山は常に一貫して自らを「他者化」してきたと言えるだろう。彼は何か 1 つの 組織に長期間所属することはなく、歌人時代も結社には属さず、演劇も自身で劇団『天井桟敷』を 組織した他はどの演劇協会とも距離を取り、また知識人と交流することはあっても、アカデミズム に属することはなかった。「それ以上さすらいはしないものの、かといって遍歴の自由を完全に放 棄したわけではない、言うなれば潜在的遍歴者、それがよそ者である」というジンメルの定義に従 うならば(Simmel 1908=1976)、まさしく寺山の有名性はこの「よそ者=他者」として得られたも のであったと言える。 石田佐恵子は、有名性が特定の文化的なジャンルのインデックスを生成し、またそれを制度化す ると述べるが(石田 1998)、そうした文化領域の絶え間ない生成化の中で、寺山はむしろ既存のジ ャンルから常に逸脱することでその有名性を獲得していった。また南後良和は、文化人は単なる芸 能人やタレントと異なり、(勝間和代の「経済評論家」や田原総一郎の「ジャーナリスト」のよう に)何らかの肩書き=専門性を持ってマスメディアの中に現れると述べるが(南後 2010)、寺山の 場合はそうした「よそ者」的な立場を続けるうちに、そのうさんくささが却ってマスメディアの中 で揶揄の対象となってしまうのである。つまり、専門家と大衆の媒介役であったはずの文化人的ふ るまいが、いつしかそのふるまいの過剰さから、専門性とそれによる正統性が不可視化するように なったのである7)

(13)

けれども、「不在が言説の第!一!の場だ」とフーコーが述べるように(Foucault 1969=1990)、寺山 の死後「寺山が語ったこと」よりも「寺山について語られたこと」の方が量を上回り、その結果例 えば彼の生前に語られた「うさんくささ」や揶揄の対象としての話口調などは消えていき、「彼が 語ったこと」は作品や証言として希少化し、地域社会で記念され、都市の中で保存され、アカデミ ズムの中で研究の対象と化していく。もっとも、これは「モノが文化遺産化」するではなく、「文 化人が遺産化」するプロセスであるため、その「博物館学的欲望」(荻野 2002)による社会的記憶 の再編成は微妙なかたちにならざるを得ない。寺山が表象した「故郷」(牧歌的、或いは「恐山」 的土着性)と、故郷が表象する寺山の姿(三沢の中の寺山)は必然的に異なる様相を帯びることに なるし、現実的には広告の要を成さなかったかもしれないポスターを「作品」として保存すること は、必ずしも当時の寺山たちのアングラ演劇の活動を残したことにはなるとは限らない。また彼が 専門的な研究の対象となったとしても(本稿もその一部ではあるが)、彼自身の活動の雑多性によ り単一の評価を下すことが難しい。 こうした「文化人」特有の曖昧な有名性が如何に社会的記憶として地域やメディアの中に埋め込 まれていくのか。本稿では寺山修司という対象にしぼり記述を続けたが、他の「文化人」や有名人 たちの遺産化のプロセスは、今後の課題としていきたい。 謝辞 本稿は 2011 年度先端社会研究所リサーチコンペ研究助成を受けた成果の一部をまとめたものである。 このような研究機会を与えていただいた先端社会研究所の審査員の先生方や、提出が遅れた原稿を辛抱強く待 っていただいた編集者の皆さまに、この場を借りてお礼を申し上げたい。ありがとうございました。 参考文献 石田佐恵子、1998、『有名性という文化装置』勁草書房。

Foucault, Michel, 1969,“Qu‘est-ce qu’un auteur? ”(=清水徹訳、1990、「作者とは何か?」『ミシェル・フーコー

文学論集 作者とは何か?』哲学書房、9−72)。

Simmel, Georg, 1908,“Exkurs uber den Fremden”(=丘澤静也訳、1976、「よそものの社会学」『現代思想』1976

年 6 月号、104−9)。 久松健一、2006、「無名時代の寺山修司──「父還せ」に至るまでの文学神童の奇跡」『明治大学教養論集』 (409)、1−46。 唐十郎、菅孝行、佐伯隆幸、鈴木忠志、別役実、森秀男、2010、「俺たちは演劇をやったわけじゃない 演劇 が演劇以外のものによって意味をもった時代 60年代アングラ演劇運動総括」『毎日ムックシリーズ 新 装版 1968 年』毎日新聞社、252−61。 勝間和代、2012、『有名人になるということ』ディスカバー・トゥエンティワン。 北川登園、1993、『職業、寺山修司−虚構に生きた天才の伝説』日本文芸社。 ────────────── 7)それゆえ、脚注 4 で述べた「のぞき事件」の記事に際しても、『週刊文春』の記事によれば、事件直後は 「それほどの有名人とは知らなかった」ということで、「寺山って競馬評論家だろ」と相手にもされず、報 道の予定もなかったという。要するに、寺山修司という人物はある程度は誰でも知っていても、何をやっ ているかはよく分からず、わざわざ記事にするかどうかも躊躇われたということである。もっとも、これ は寺山のみに当てはまるのではなく、例えば冒頭で示した勝間和代の場合も自著の『「有名人になる」と いうこと』の帯に、漫画家の西原理恵子から「あんた有名じゃないって」とツッコまれているように、芸 能人でもないし単なる専門家でもない文化人は、その有名性がどの範囲まで有効なのかが判別しがたいと いう特徴をもつのかもしれない。

(14)

栗原彬、1981、「フィラデルフィアのカッサンドラー」『現代思想』1981 年 10 月号、67−73。 九條今日子、山田太一、白石かずこ、1993、「いまのブームに欠けている寺山修司の『危険な匂い』」『サンサ ーラ』1993 年 8 月号、266−75。 松井牧歌、2011、「寺山修司の牧羊神時代−青春俳句の日々」朝日新聞出版。 宮台真司、2004、「解説−新しい読者のための手引き」『’70 s 寺山修司』世界書院 6−25。 室謙二、1971、「寺山修司論」『思想の科学』2 月号、71−6。 室井尚、2009、「『唐十郎』という視点から見る戦後日本演劇──『アングラ』から遠く離れて」『戦後日本スタ ディーズ 2 60・70 年代』紀伊國屋書店、201−21。 守安敏久、2011、『メディア横断芸術論』国書刊行会。 中井英夫、1993、『定本 黒衣の短歌史』ワイズ出版。 南後由和、2010、「〈文化人の系譜〉──界とマスメディアの交わり」南後由和・加島卓編、『文化人とは何 か?』東京書籍、16−57。 荻野昌弘、2002、「文化遺産の社会学的アプローチ」荻野昌弘編『文化遺産の社会学−原爆ドームからルーブ ル美術館まで』新曜社、1−33。 岡井隆、寺山修司、大江健三郎、江藤淳、堂本正樹、嶋岡晨、1959、「日本の詩と若い世代」『短歌研究』1 月 号、88−109。 斎藤慎爾、2002、「解説 途轍もない歩行者」『ロング・グッドバイ 寺山修司詩歌選』講談社。 笹目浩之、2010、『ポスターを貼って生きてきた。』PARCO 出版。 笹目浩之、桑原茂夫編、2004、『ジャパン・アヴァンギャルド アングラ演劇傑作ポスター 100』PARCO 出版。 清水義和、2006、『寺山修司の劇的卓越』人間社。 ────、2006、「国際寺山修司学会設立総会のご案内 趣旨説明」国際寺山修司学会ホームページ http : // kokusaiterayamagakkai.web.fc2.com/ ────、2007、「寺山修司にとりつかれて 多彩な顔持つ才人の跡追う」『朝日新聞 夕刊』2007 年 5 月 24 日。 タモリ・ビートたけし、1982、「奇才タモリと毒舌たけしの有名人こきおろし大悪口大会!」『女性自身』7 月 15日号、54−7。 丹波美之、2002、「一九六〇年代の実験的ドキュメンタリー──物語らないテレビの衝撃」伊藤守編、『メディ ア文化の権力作用』せりか書房、75−97。 田沢拓也、1996、『虚人 寺山修司伝』文芸春秋。 寺山修司、1974、『僕が戦争に行くとき──反時代的な即興論文──』読売新聞社。 ────、1977、「演劇は社会科学を挑発する」『現代思想』1977 年 5 月号、78−87。 寺山修司五月会、1998、『寺山修司記念館 歩み』青森県立図書館。 山口昌男、1993、「寺山修司との出逢い」『新潮日本文学アルバム 寺山修司』新潮社。 ────、1984、『演ずる観客 劇空間万華鏡・1』白水社。

参照

関連したドキュメント

その詳細については各報文に譲るとして、何と言っても最大の成果は、植物質の自然・人工遺

  「教育とは,発達しつつある個人のなかに  主観的な文化を展開させようとする文化活動

この大会は、我が国の大切な文化財である民俗芸能の保存振興と後継者育成の一助となることを目的として開催してまい

子どもたちは、全5回のプログラムで学習したこと を思い出しながら、 「昔の人は霧ヶ峰に何をしにきてい

子どもたちが自由に遊ぶことのでき るエリア。UNOICHIを通して、大人 だけでなく子どもにも宇野港の魅力

フィルマは独立した法人格としての諸権限をもたないが︑外国貿易企業の委

・私は小さい頃は人見知りの激しい子どもでした。しかし、当時の担任の先生が遊びを

下山にはいり、ABさんの名案でロープでつ ながれた子供たちには笑ってしまいました。つ