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昭和七年十月白根山爆發調査報告

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Academic year: 2021

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昭和七年十月白根山爆護調査報告

草津白根火山は群馬牒吾妻郡にあって北西部は長野燃上高 井郡及下高井郡に跨ってゐる、此の火山は群馬栃木雨豚下に跨 る同名白根山ーと区別するために特に草津白根山左稀せらる L も のである。而して本火山は高原欣をたせる毛無火山実

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南端に 位し庚大な地域を占め山鰹複雑であって一見之れを火山主指示 し得ざる山容を・なしてゐる。然も本火山は富士火山脈に属せし がる人主那須火山脈の一部たる毛無火山脈に属せしむる人'との 一 一 者 あ っ て 共 の 所 属 す ら 分 明 し て ・ 居 な い 。 此の火山の四方の地貌を見るに北方は毛無火山棄に連り、東 は遥かに善光寺子を笠み、西は小雨川を距て L 高岡山等の古火 気象牽技仰

峰 信

た~ 仁=t Hヨ 技手

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・ イむ 山群に封し南は吾妻川の渓流を距て L 遥かに夜間火山之封して ゐ る C 而して白根火山の南方には一冗白根山があって複雑な双子 火山を形成してゐる。命此の火山の東南東約六粁の山麓に・有名 、なる草津浪泉があり、西麓約二粁に高座温泉かある。 白根火山の排水谷は北西の一隅を除いては悉く利根川によっ て太平洋に注がれて居る。而して小雨川、吾妻川の二川は白根 火山に源を愛して利根川に此の山髄の排水をなしてゐる、此の 二川中小雨川に注ぐものは北方横手山附近に渡して東流する長 笹樺及大津川であって、長笹津は花敷にて小雨川の上流たる白 砂川主合してゐる。叉大津川は白根山北方及南方の水を排水し

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て東流するものであいるが、常布瀧附近にて湯釜の)水を排水する﹄ 毒水津を合せ、更に南方弓池附近に稜する入道津及共の下流た る矢津を口問木の西方にて合せ草津溜泉の湯尻たる湯川を品木で 合せて、梨木で小雨川に注ぐものである、 ,次に吾妻川に注ぐものは白根山西側の水を集める寓座川、元 白根山、南側の水を集める今井川、赤津、及東側の水を集めて遅 津等である。而して遅津の上流は賢治津主務してゐる。以上述 ぺた排水津は主・なものであるが此の外にも小渓流、無名の川等 は少くたい。更に北西の一隅は松川及角間川によって排水され るが之等二川は何れも信濃川に合し日本海へ注ぐものである。 白根火山の成生は第三紀末期なりん﹂考へられて居る。卸ち第 三紀の凝友岩等を破りて噴出せるものであって之等基底をなす 凝友岩等は吾妻川、小雨川、高座川、長笹津及之等の支流に沿 ふて露出して居る。而して白根火山の活動によって各積鈴岩が 噴出せられて現在の山鑓を構成するに至ったものである。斯く して現在の白根火山は共の末期たる老衰期に入って居るもので 頂上及共の附近に幾多の爆烈火口を有してゐる。 一克来白根火山は白根山及本白根山の二つによって成生せられ て居る二双火山であるが今岡の爆殻は白根山に起ったものぜあ /1、 四 る故に拾には前者印ち白根山に就てのみ述ぺる事ル﹂ずる、白根 山には犬なる噴火口跡があるが共の内に水釜、湯釜空釜等教仰 の爆烈火口を有して居る。此の内水釜は最も北東に位し弐に湯 釜塁釜の順に北東より南西へ略一直線をなし噴火口跡の東側に 配列して居る。命大きさは湯釜最も大きく長径四百米、短径二 百十米安釜は長径二百米、短径百米、水釜は長径百二十米短径 八十米何れも楕闘欣をなして居る。此の中湯釜は最近にでも度 々活動をなせる l 火口であって水釜及室釜はあまり活動をしな かったものである。之等三爆裂火口の外に水釜の南方約五百米 に営って弓池主稀する爆裂火口がある。同州扶を-なし長径約四百 米、西北西より東南東に長き火口である此火口も近時に活動を たした事がある。 震災諜防調査命日報告第八十六競に土り此の火山 の近時に於ける活動を見るに明治年間・にあっては明治十五年八 月六日の爆設が最も古い。此の爆後以前七十年頃迄は白根山頂 活動の歴史 より噴煙をして居た由であるが共後噴煙を絶ち、水釜には冷水 を湛え、魚族議類の生棲を見、湯釜は北東宇部に冷水を湛え、 西南宇部は、祖渇し水は酸味を帯びて青色をなし、{企釜には草木 の叢生を見た由である d

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斯くて明治十五年八月六日夜突然の爆設によって多量の火山 次を降らしたのであるが此の爆禁は湯釜及び附近に生じた小口 より'注されたものであって、泥土、水蒸気、火山友を噴出し或 は岩石を飛ばしたものである。之等噴出口の主なるものは湯釜 中にて空釜に近く偏せる所に生じたもの及び空釜中湯釜に近き 所に生じたもの L 三例であって高く水蒸気 LC 共に岩片を噴出し た此の爆裂によって山頂附近の樹木は噴出及降友のため枯死し たのである。而して湯釜は此の爆禁以来熱湯之友って南西部に 移り、北東部は泊渇したのである u 然も水釜の水は酸味を呈し 始め、本一釜にも酸水を湛えるに至り、弓池の水も酸味を口主ずる に至った U 向此の爆禁後暫時噴煙を綬けた白根山も弐第に勢力 を 失 っ て 品 識 に み 十 一 く 噴 煙 を 見 な く な っ た の で あ る 。 弐で明治三十年七月八日には前日来鳴響を愛して居た末午後 四時頃噴火して勢凌じく、石塊を飛ばし草津地方迄も降友を生 じた如き爆愛をしてゐる。此の爆禁も湯釜に起ったものであっ て約一ヶ月前から湯釜の噴気盛んとなり絡に噴火に及んだもの であって七月七日には前同即ち明治十五年の噴口から北東約百 聞を隔てた岩山の問から噴出し附近川町凶方に友砂を降らした ものが八日午前五時頃之れより南西約百間以前の湯釜火口から 大噴火をしたのである。此の時も幸に人畜に死傷はなかった。 更に同年七月三十一日午前五時噴火したが此の時は湯釜の南 方隊悶の所直径五間程が破裂して噴口を生じ共の東方約二十聞 の所に亀裂を生ヒて岩石を飛ばし、降次を生ぜしめた U 之れか ら八月十六日に至る迄は度々小爆設をたして石塊次砂を飛散せ しめて居る。然し幸にも下山の詮中にあった人夫一名が軽傷を 蒙ったのみである。 共後明治三十三年十月一日にも白根山は小鳴動を・なして噴煙 したが之れが極めて軽微たものであった。越えて明治三十五年 七月十五日白根山は又も爆裂を・なして居る。此の時の爆護は湯 釜に起ったものではなく、弓池奮火口附近の小丘に起ったもの でるる。元来弓池附近には爆裂火口が集って居るが弓池自身も 二仰の爆裂火口に瀦水したものであると云はれて居る。此の時 の噴火は午前山時頃であって噴火と共に砂石を飛ばして弓池北 方の小丘を破壊し共後数ヶ月も活動を綾けて漸く鎮静したもの でるる。此のために弓池北岸に建てられた硫黄採集事務所は南 東三百米の距離にある高地に噴上げられた程であった。 次で同年八月二十日に第二同の爆禁があったが特に著しいも のではなく、九月四日には第三岡の爆後として与池附近から友 八五

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及水蒸気を噴出し高座温泉附近では一寸余の積友を見た由であ るが、此の爆禁は翌日に至って柊熔してゐる。然し越えて同年 九月十七日に白根山は再度の爆焚をし共の鳴響は草津温泉でも 聞かれたが矢張り石友を降らした。 以来暫らく静結であった白根山は明治三十八年十月に再び噴 火してゐる。之れ定多少の綿製化はあったが兎に角湯釜の水はか たりの高温を保持して居たが大正十四年一月二十二日湯釜の北 準高い所から噴火した後は水温頓に下降して十五度位'となっ た。(梶間氏による) 然るに昭和二年十二月二十九日午前七時頃及翌三十日九時鳴 動左した後三十一日午前十一時噴火をして毒水を吾妻川に流し て魚挨を努死せした U 此の時の活動は矢張り湯釜を中心とした ものであって南東壁の外側主北壁内面下底の部分に鑓勤著しく 前者には多くの裂鰻を生じ、後者には長さ百米の大裂鯵を生じ たのである。市してえ等裂健から噴火した結果湯釜の水は再び 二十五度位の微温政と在った。此の時は翌年二三月頃迄可たり の噴煙を綬けた由である。市して此の時にも岩石の落下降友等 が あ っ た 。 扱此の昭和二年十二月の爆護を最後在して、白根山の活動は 八 六 近年殆んど終熔して居たのである。只大正十四年に活動をたし た湯釜北内壁の高所より時々・水蒸気を噴出して居たに止まる欣 態であった。市して湯釜は北東宇部

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微湿の水を湛へ、南西令 部は湖渇した欣態にあったのである J 角 水 釜 、 出 企 釜 に は 殆 ん ど 愛化なく弓池も従来の偉であった。 今岡の爆禁今岡の爆後は十月一日午後一時冗十四分頃に起 ったものであって一週間程前より山頂硫黄採集に従事せる人夫 は時々鳴動を聞いた由であるが、従来も度々斯様な鳴動を聞い た事があり共の時も何等異愛が無かった由であるから格別気も 止めやに居た所突如湯釜東側内壁下底から爆後し、同時に湯釜 外 壁 南 東 の 外 側 に 十 数 仰 の 短 ・ 裂 を 生 じ て 噴 ム 一 抗 し た 。 此 の 爆 設 に よって山頂では降石、降・一次著しく相営の被害を蒙ってゐる。 爆授の前兆爆畿の前兆主一五ふ可きは前記製剤命日祉の硫黄採 集中の人夫二十九名が一週間程前から山頂附近にて度々鳴動を 聞いた主云ふ事賓のみに止まってゐる。而して之等人夫中昭和 二年の爆畿を経験したもの三名は前夜特に著しい鳴動を聞いた の で 爆 護 山 口 同 日 の 午 前 中 下 山 し て 無 事 で あ っ た ん ﹂ 云 ふ c 爆殺時一日の白根山の爆殻は迫分、長野、熊谷、前橋等各 測候所の微動計に微動を記録してゐるが共の護震時等は左の如

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く で あ る 。 観測所名 追 分 長 野 熊 谷 前 橋 = 時 議 五 = 分 明 ー- μ毛 初期微動 世 路 i 長 d u 司 川 リ e r m e o 小 " 日 n h ド 振 四 三 四 五 狗 ン 震央距離 二九粁 三 九 八 七 五 ニ 子五 四 時 秒 一 七 ・ 五 四 了 三 ニ 七 ・ 二 一 一 一 三 ・ 一 一 九 ・ 七

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斯くの如く護震時が長野勝方面 ξ 群馬、埼玉方面とで可たり 具、るのは大きた爆後前に小爆裂があり、とれを近距離の長野、 追分にて記録した L めではあるまいか ξ 忠はれる。兎に角爆後 時は十三時五十四分頃ーと見受けられる。 爆音今同の爆後は白根山火口を距る東南東六粁の草津温泉 にては殆んど爆音を聞きたるものたく、叉西彼南二粁を距てた る寓座温泉にでも爆音を聞かやノ、只東方三粁三を距てし香草温 泉にては飛行機の如き鳴響を聞きたり左云ふ J A 問小官等の同伴 せし人夫は爆禁山口同時火口の東方約三粁なる毒水津北方山腹にて 伐木に従事せしが遠雷の如き鳴響を聞き且鳴動を感ぜし故念ぎ 下山せん ξ せしが、之れより二粁たる、香草温泉迄逃る L 股な く降友のため天地晦実在・なりたり£云ふ。 被害製剤命日枇にては数年来、本釜南方約二粁宇の地黙に人 夫小屋を建て、湯釜附近に作業所を設け硫黄採集をせるが、此 の爆禁により人夫小屋には何等の損傷がなかった。然し湯釜附 近の作業所の方は降石のため屋根を破られ大破してゐる。叉此 の作業所より索道により硫黄を草津へ輸送してゐるが索道及桂 滑車等凡て降石のため切断或は破損してゐる。前登山者の談に よると二十日頃登山した際には作業所の屋根は小官等の登山し た二十九日に比し破損程度は砂かった由である♂政に二十三日、 二十六日の爆裂も降石在生じ、之れに上り更に大破したものと 考へられる G 爆禁営日は人夫二十九名作業に従事してゐたのであるが午前 中三名は下山し、残り二十六名中二名は降石のため郎死し、三 名は重傷を受けた由である J 重傷者も降石のために打たれたも のらしく翌日草津町より念行救助に従事した人夫の談による主 死傷者を牧容した人夫小屋附近には血痕流れて惨欣を呈してゐ た 由 で あ る 。 .一降友及降石一日の爆裂により降友は草津町にて僅かに屋根 を蔽ふ程度であったが更に二十六日未明にも降友があった、小 官等登山した十月二十九日には火口より東徴西五粁こなる谷津 川附近では一乃至二粍、呑平温泉にて約五粍、芳ケ干にて三糎 乃至四糎、山頂毒水津水源附近にてこ三米位に降友が堆積して A 七

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居た。而して空釜南方には殆んど降・一次なく、人夫小屋にては全 く降友の跡を見たかった U 即 ち 降 ・ 一 次 直 域 は 空 釜 よ り 北 東 方 に 限 られ、空釜より北方へ一線を重き更に同所から、南東へ一線を 劃すると降次は此の雨線に固まれた扇欣区域に限られて居た様 で あ る 。 降石は湯釜附近に著しく径三十糎乃至五十粧位のものが最も 多かった,而して大なるものは径七十糎位のもりもあった。而 して湯釜の南畔では降石間の間隔最短一米位の窮度であったも 然し之は前述した如く一同の爆禁で落下したものでは無いらし い。降石中最大なものは径七十糎程で湯釜南西畔降友上に落下 してゐたが、共の石は一米三以下に却一波して形を見るととが出 来十。深い穴を生ぜしめて居た μ , t 噴出物 斯様に今同の爆禁によって降下した岩石は古い安山 岩であって湯釜北東隅の新爆裂口よりの爆禁により搬榔された ものであって、新らしき溶岩らしいものは全く見ると之が出来 ・ な か っ た u 降友は多量の水分を含み漁策を帯び、降友上を歩む 之きは腔を淡する様た所もある G 然し乾燥団結した部分は粘土 を固めた如く杖で突いても入らぬ位である U 一日の爆裂にて溶岩流が流れた由を新聞紙は報じて居るが溶 八. /1、 岩流等は全くなく、毒水津に小量の泥流を流したものを見誤っ た も の で あ る 。 之 等 泥 流 も 降 ・ 一 次 ー と 質 は 殆 ん ど 同 じ で あ る 。 爆投口今同の爆後には湯釜北東部橡還に生じたこ個左湯釜 南西側に出来た一個主である。前者は二例湯釜の療に並列して 居るが、二十九日小官等登山の際には南東側上り著しき噴煙を ・なし十五分位の間隔にて小爆投をなし彩しき黒煙を噴出し湯釜 上に降友せしめて居た。然し北西側のは会く活動を休止してゐ た。一方湯釜南東側のものよりは絶えや白煙を噴いてゐるのみ であって恰も噴気泉の如き欣態を呈してゐた u 然し二十元日猛 烈な噴煙を緩けてゐた前者も二十日頃には孔内南東部より僅か に白煙を噴いてゐたのみであった由であるから、二十三日或は 二十九日の爆後後勢力を増したものであろう。 此の外湯釜南側にも小量的紅白煙を噴いてゐる噴気孔があっ た。又湯釜南方には水中よ、り沸騰せる湯を噴出せる所があり。 空釜東側にも熱湯を噴出せる庭があった。一日の爆殻営時には {企釜中よりも噴気をたせる所があった由であるが二十九日には 見首らたかった。湯釜北東側に生じた爆後口は南東のもの最も 大きく目測にて短経三十米長径約七十米位、市して共の西北に 遮るものは短径約三十米、長径約五十米位で何れも湯釜の採に

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沿ふて長き楕固形をなしてゐた。 更に湯釜の南東山腹外側に長い亀裂を生じてゐた。此の亀裂 は土地の人に聞いても以前からあるとも一五ひ新らしく出来たと も云ひ、以前の欣態を知らぬ小官等には何れか判断に苦んだ弐 第である。而

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て此の短裂は北西││南東の走向を'とり長さ約 四百米、幅十米以下で深さは三十米位はある。二十日頃には此 の亀裂中に噴気孔を生じ噴気をたし秘めて世親であったと云 ふ。然も噴気孔は三十米位の略等間隔に並び十数仰を算してゐ たさ云ふ。然し二十九日小官等登山の際は僅かに五個の噴気孔 より白煙を噴出せるに止まり共の勢力も微弱であった。 ぬ同白根山今岡の活動は今に︽問機悩積してゐるが売月中の活動欣 態を小官等が土地住民より聴取した所、長野測候所親測等によ り綜合すれば左の如くである。 四 一 日 日 十 十 四 三 時 時 頃 五 十 四 分 頃 爆禁、降石、降友あり c 小爆禁降次あり。 五日五時五十八分頃 噴 煙 あ り 。 六 日 小 活 動 。 八日六時四十分頃 小爆後あり共後初給日噴煙 十八日十時頃 IlJ

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煙 小爆裂噴煙あり︼ 爆設、噴煙、降次、降石あり。 小爆焚柊日噴煙 終日噴煙 絡日噴煙 絵日噴煙 絡日噴煙 結尾以上記載せし今岡の爆後現象注総合して考ふるに、此 の爆裂は老衰期にある火山の活動現象であって何等恐る可きも のではない。而して今後数年を経て或は再び白根山の活動を見 るとしても此の程度の活動に止まる主考へられる c 而して今岡 の活動は此の朕態のま L 常二三個月間治長を繰返し遂に静穏欣 態に復蹄ずるものと忠はれる c 二十三日十時二十八刀頃 二十六日一時十七分頃 二十七日九時三分頃 二十八日 二十九日 二 十 日 三十一日 /ーに ゴL

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