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アジアと女性解放 : 9号 (1980.12)特集「第三世界の女と私たち」

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(1)

Asian W omen'

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アジアの女たちの会

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連絡先:

東京都渋谷区桜丘町

14-10

渋谷コープ

2

1

1

集・

三世界の女と私たち

-各国での闘いから

フィリピンのシスタ

ーたち

台湾

獄中の呂秀蓮

香港の女

子労

働者

タイのスラム活動家

ド・強姦

対闘争

韓国・光州の無名の女たち

米国の日系

世女性

南アの人種

別の中で

.コペンハーゲン女性会議

一私たちの視点

か ら 一 一

.マニラ

観光問題会議報告

ヲ住別・民族抑圧からの問竺竺と

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竺士ヨ士盟主士主立主士~ 一一一τ一一一一一一一一一←ー

第三世界の女と私たち

虎のよ

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立婦人教育会館

情報

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亘書室

私 た ち 日 本 の 女 が 第 三 世 界 を 旅 し 、 あ る い は コ ペ ン ハ │ ゲ ン 会 議 な ど 感 じ る の は 、 第 三 世 界 の 女 た ち の 力 強 き で あ る 。 二 本 の 足 を ふ ん ば っ て 大 地 に 立 っ て い る よ う な 存 在 感

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。 因 習 、 伝 統 、 宗 教 、 文 化 の 呪 縛 に 忍 従 を し い ら れ 、 今 ま た 多 国 籍 企 業 の 経 済 侵 略 、 性 侵 略 の 犠 牲 と な り 、 何 重 も の 差 別 の 壁 に 固 ま れ て い る 。 そ れ 故 、 第 三 世 界 の 女 た ち は 、 女 性 解 放 と い う 視 点 だ け で は な く 、 民 族 解 放 、 階 級 闘 争 、 民 主 化 運 動 な ど 、 社 会 変 革 を 目 さ す 運 動 の 担 い 手 と し て 、 独 裁 政 権 や 多 国 籍 企 業 を 相 手 に 戦 わ ざ る を え な い 。 彼 女 た ち の エ ネ ル ギ ー を 伝 え た い と い う 思 い に か ら れ 、 そ し て ま た 、 私 た ち 日 本 の 女 が 彼 女 た ち と ど う つ な が っ て い け る の だ ろ う か と 、 白 か ら に 問 い か け な が ら 、 こ の 特 集 を 組 ん だ 。 ア ジ ア と い う 鏡 に 日 本の姿を、つつし 出 す と 、 日 本 の 女 に は 二 つ の 像 が あ る 。 一 つ は 日 本 の 経 済 侵 略 を 支 え 、 そ の 分 け 前 に あ ず か っ て い る 姿 で あ り 、 も う 一 つ は 日 本 社 会 で 抑 圧 さ れ て い る 姿 で あ る 。 日 本 経 済 の 高 度 成 長 は 、 物 を 享 受 す る こ と が 幸 福 な の だ と い う 消 費 文 化 を つ く り だ し 、 女 性 を 家 庭 の 中 で 物 を 買 う 消 費 者 に 仕 立 て あ げ る 。 こ の よ う な 消 費 文 化 が 他 の ア ジ ア の 国 々 へ 輸 出 さ れ 、 ア ジ ア の 人 々 の 生 活 を よ り 先 鋭 な 形 で ゆ が め 収 奪 し て い る 。 日 本 の 女 と し て 、 私 た ち は 浪 費 的 な 生 活 の 質 を 変 え 、 同 時 に 生 命 を 生 み だ す 性

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女 に お し つ け ら れ る 差 別 ・ 抑 圧 と 戦 い た い 。 今 、 私 た ち が 圏 内 で と り く ん で い る 運 動 を 着 実 に つ み あ げ て ゆ く こ と が 、 第 三 世 界 の 女 た ち と 共 通 の 敵 に 立 ち 向 う 連 帯 を つ く り だ す 。 私 た ち 日 本 の 女 は 、 差 別 さ れ て い る が ゆ え に 、 世 界 の 女 た ち と 痛 み や 怒 り や 優 し さ を 共 有 で き る 。

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年十二月

シ〆 の 女 た ち の 会

リピンのたくましい女たち一一一

初 めて訪れたフィ リ ピン で 素 晴 し い 女 たちに 出 会 っ た 。 タ イ でも 、 マ レ ー シアでも、アジアの国々を旅する と 、 女たちの強さ、たくましさに感 動するが 、 フィリヒンでも、 何 よ り 深く 心 を動かされたのは、やはり﹁パ ワフル﹂(力伯い)としか形芥できな い次たちであ っ た 。 マニラのナボタス漁港の近くに拡 がるスラムで AE ったシスター -ミ リ ンと呼ばれる女性も 、 まさに 、 そん な女性の一人である 。マニ ラ湾の夕 日が美しいロハス大通りの 、 高級ホ テルが立ち並ぶツーリストベルトか ら、山似たち観光問題ワークショップ の参加省たちは 、 ジフニ l ( 乗り合 い ン l プ)で、ナボタスへ向かった。 雨期で水びたしの道路を抜けて 、 ナ ボタスのノ

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ス ・ ベ イ ・ パ リ オ に 着

4 た 。 十二家族がひしめき合って住んで いる仕立家の 家 に案 内さ れ、長男の カルロス青年が、ナボタスの人々と 闘いについて話してくれた。漁港の 港湾労働者の組織、青年たちの組織、 母税たちの組織などがいくつもでき ていで 、 貧困からの解放を求めて、 活動を続けているという 。

松井やより

日本の漁船が魚をとってしまう ﹁われわれにとって、最大の外敵 は日本です。日本の大漁業会社が性 能のよい大きな漁船を送り込んで、 フィリピンの小さな漁船を押しのけ て魚をとってしまうんです﹂とカル ロス青年はいった。ナボタスに日本 の漁業基地を建設する計画も進めら れ、すでに 、 外国船のための漁港の 機械化が、湾港労働者の反対を押 し

「買春観光は許せない、女の怒 りを行動に」と、11月29目、アジ アの女たちの会主催の 「買春観 光に反対する集会」が、東京八 重州口の国労会館で開かれ、五 百人近い参加者が会場にあふれ た。ツルのマークに恥という字 を背景にした舞台で、会員によ るスライドっきの実態報告や寸 劇を行なったあと「、恥を知れ/ 買春観光Jf世界に評判悪いよ、 日本の男性

I

お父さん何しに行 くの?Jなどのプラカードを手 に手に銀座の繁華街をテモ行進 した。 切って 強行され て い た 。 ﹁ ナ ボタスで 、日本帝国 主義との 闘争にまず立ち上がったのは 母親 た ち だ っ た 。七 四 年 、 日本の 東 洋 建 設 の、近 代 漁港建設工事に反 対 して彼 女たちが抗 議 行動の先頭に立っ た 。 そのリーダ ー が 、 シスター ・ ミ リ ン で、彼女は今もナボタスのさまざま な 組 織の連合 体 の委員長をつとめて います 。 ナボタスの女性は強いです よ L と、同夜、シスター ・ ミリンを 連れてきてくれた。 五十歳というのに、兵赤なブラウ スに、大柄のチェックのスカートと いう派手な装いなのに、まずびっく りした。スラム住民のリーダーとい うイメージとはあまりにも違ってい た 。 口を開くと、まるで、機関銃の ようにまくしたてるすさまじい迫力 に圧倒された。 ﹁伝は二回も牢獄にぶちこまれた たんですよ﹂と話はすさまじい投獄 体験から始ま っ た 。 ヒ ヒ年 一 月 、 熱 を 出して泌ているときに連行され、約 二百 人の刑事犯の中で、ただ 一 人 の 女性として拘留されたが、どんなに ひどい拷聞を受けたか、彼会は思い 出すのもつらそうに白をつぶり 、 顔 を ゆ が め て 語 っ た 。 ( 写 真 下 段 ) 全裸の湾問にめげず

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﹁組織の関係者の名前をいえ と 、 私の髪をつかんで、頭を壁に ぶ つ け られたけど、私は絶対に口を割 ら な か っ た 。 すると、時い部屋に連れて 行かれて全裸にされ、 二 十四時間、 丸太のようなもので殴られ通しでし た L と今でも 、 脚 に 残 っ ている傷あ とを見せてくれた 。 ﹁私が気分が悪 くな っ てぐ っ たりすると、何か薬を 飲まされ、病院へかつぎ込まれまし た 。 しかし、目も耳ももうろうとな り、一時間後に 、 声も出なくな っ た んです 。 今でも、頭が痛くなり、毎 週 医 者 に 通 っ ている状態です 。 七九年に再び逮捕され、こんとは 政治犯扱いで、拷問は受けなか っ た が 、 一 日わずか四 ペ ソ ( 百 二 十 円 ) の食事しか支給されず、ひもじか っ たという 。 ﹁政治犯の中には十年間 も裁 判 も受けずに拘束されている人 議Z 泌総動 退きを迫られているトロヤン地区の人々 親たちと 一 緒に活動していますから、 恐れません﹂ 。 ││よめるときは目をつ ぶり 、 あ る と き は 両 手 を 拡 げ て 、 胸 の思いを伝えようと語り続ける。 ﹁私たちが戦わなければ、私たち の 地 域は 、 外 国 人 の た め の 工 業 地 域 としてとられてしまい、生きる手だ て を 失 っ て し ま う で し ょ う 。 な ぜ 、 私 た ち は 食 べ ら れ な い の か 、 と 話 す のですが、みんな外国に盗まれてし まうからですよ﹂││ナボタスには、 政 府 と ア ジ ア 開 発 銀 行 が 作 成 し た 開 発 基 本 計 画 が あ り 、 そ の 中 に 、 日 本 の漁業関係者のための施設を作るプ ランが含まれていることがわかった という 。 この計画は絶対に阻止する と 、 ミリンは闘志を隠さなか っ た 。 日本人として何をなすべきかを考え させられながら、彼女の 一 時間以上 の熱弁に耳を傾けたのだった 。 スラムで闘うシスターたち 最もしいたげられたスラムの人々 と共に生活している活動家の中に、 カトリ y クのシスタ ー が何人もいた。 ツーリスト ・ ベルトと呼ばれる歓楽 街 の マ ピ ニ 通 り か ら 歩 い て 十 分 ほ ど の ス ラ ム で 、 シ ス タ ー た ち が 暮 ら していた 。 一 人は、七七年、マレ ー シ ア の ペ ナ ン で 聞 か れ た ア ジ ア 女 性 フォーラムで﹁今苦しんでいる人々 もいて、驚きました 。 ひどい人権侵 害 を こ の 目 で 見 た わ け で す が 、 家 も な く 、 職 も な い ス ラ ム の 人 々 も 人 権 を奪われています﹂と、彼女がなぜ 戦闘的なスラム活動家とな っ たかを 語 っ た 。 ﹁私は、あるカトリック同体に山 入りしていたので、修道女ではない のに、みんながシスター ・ ミリンと 呼んでいたんです 。 一 九七四年、ナ ボタスで 二 回 火 事 が 起 こ り 、 私 の 家 も焼けました 。 千 何 百 世 帯 が 焼 け 出 され、四人の子どもを含め、七人が 焼け死んだのですが、これは明らか に放火と思われました 。 その直後に、 東 洋 建 設 が 住 民 が 反 対 し て い た 漁 港 工事を始めたわけです 。 そ れ で 、 泥 水が流れ込んできて、まさに火攻め、 水攻めだと、黙 っ ていられな く て 、 私 た ち 母 親 二 百人が泥を袋につめ、 東 洋 建 設 に 押 し か け た わ け で す 。 政府と日本企業相手の彼女の闘い はこうして始ま っ た 。 ﹁ 教 会 や 修 道 院の中で、ただ祈 っ ているだけで、 現実に目をつぶ っ ていることはでき ないと思 っ たのです 。 苦 し ん で い る 人々が目の前にいるのに、自分だけ いい家に住んで、おいしいものを食 べる生活をするわけにはいきません 。 問題が現にあるのですから、人々が 団 結 し て 闘 え ば 解 決 し ま す 。 ﹂ l i l l t 苛 酷 な 現 実 が 一 人 の 平 凡 な 母 親 を 闘 が 求 め て い る の は 、 あ な た 方 の あ わ れみでもなく 、 嘆きでも、一課でも、 祈 り で も な く 、 怒 り で す ﹂ と 訴 え た シスターであった 。 彼女はスラムに 住んで、政治犯救援活動にとび回っ ているが、反政府分子としてブラック リストにのっているという 。 このた め 、 いかにもたくましいがっちりし た 体 を 美 し い ド レ ス に 包 ん で 変 装 し てマビニ通りを案内してくれたが 、 ホスピタリティ ・ ガールと交わすち ょっとした会話にも、暖かくやさし い人柄が伝わってきた 。 ひと回りしたあと、彼女たちの住 まいに立ち寄ると、雨もりはする、 水 道 は な い 、 板 を 張 り つ け た だ け と いうひどいところだった 。 自 分 は 高 級 住 宅 地 に 住 ん で 、 貧 し い 民 衆 の 生 活向上をうんぬんする観念的なイン テ リ と は 違 っ て 、 シ ス タ ー た ち は ま 士に変えたのである 。 左手に赤ん坊、右手で投石 ﹁私の家の裏の五軒の家に、四十 家 族 が ひ し め い て い た の で す が 、 七 八年、十七人の母親が強制立ち退き に抵抗したんです 。 左 手 で 赤 ん 坊 を 抱 き 、 右 手 で 石 を 拾 っ て投げ始めま した 。 答官や消防も、手のつけよう がないぐらい、捨て身の抵抗を試み たのです 。 外国人の会議を開くため に、な 、 せ、私たちフィリピン人が、 不法占拠者だから出て行けと追い 立 てられなければならないのか 。 外 国 人 の た め に 、 住 む 家 も 奪 わ れ て 、 苦 しまなければならないのか・ 。 ﹂ 彼女は涙声にな っ ていた 。 ﹁ 私 は 開 発 そ の も の に 反 対 して い るのではないんです 。 世 界 銀 行 や 外 国 企 業 や そ れ に つ な が る 金 持 ち た ち に、スラムの貧しい人々が利用され る ことがゆるせないんです 。 漁港だ っ て、フ ィ リ ピ ン の 漁民のためでな く、外国のためですよ ﹂ マニラ四百万市民の 三 分 の 一 が ス 一ラムに住むという 。 彼らは農村で生 活できなくで 、 やむなくマニラに流 れ て 来 て 、 公 有 地 に 侶 立 小 屋 を建て て住みついているのだ 。 スラムスク ウ ォ J タ

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不法占拠者)として、 強制立ち退きをいつ迫られるかわか さに 、 ﹁人民の中へ﹂を実践していた 。 カトリックは 、 歴 史 的 に は 、 権 力 支配層と結んで 、 民 衆 を 抑 圧 す る 役 割を果たしてきたことは否めない、が、 そ の カ ト リ ッ ク 内 部 か ら 、 民 衆 の た めの活動家が輩出し、数多くのシス ターたちが、マニラのスラムだけで なく 、 農 村 や 工 場 地 帯 や 辺 地 で、解 放 運 動 に 献 身 し て い る 。 その 一 端に ふれることができたのである 。 観 光 問 題 を 討 議 し た マ ニ ラ で の ﹁観光問題ワークショップ﹂の五人 のフィリピン代表のうち 三 人 が 女 性 で、それぞれすばらしい活動をして い た 。 その 一 人はやはりシスターで、 ﹁イボン﹂(鳥)というミニコミ誌を出 し て い る グ ル ー プ の 中 心 メ ン バ ー だ っ た 。 工 、 不 ル ギ

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の固まりという感 じ で 、 ワ ー ク シ ョ ッ プ で も 、 観 光 問 題 特 集 号 を 片 手 に ﹁ 日 本 人 観 光 客 が フィリピンに来ても、もうけるのは、 日本の旅行会社、航空会社、日系ホ テル、日本人カイド 、 日本人売春ク ラブ経営者と、それに便乗したフィ リピンの金持ちだけ﹂と 、 観 光 が 開 発途上国の経済にプラスになるとい う神話を打ち砕いた 。 あ る デ パ ー ト の 裏 の 、 看 板 も 出 し て い な い ﹁ イ ボ ン ﹂ の 事 務 所 に 私 を 招 い た シ ス タ ー は ﹁ 私 は 、 日 本 の 民 衆 を 非 難 し て る ん じ ゃ な い ん で す 。 そ れ ど こ ろ か 、 日 本 の 闘 う 女 性 た ち らない不安定な生活を強いられてい る 。 ぶの上なら追い立てられずにす むと、海べり、川べりの水面に張り 出すように家を建て、子どもたちが 落ちて木死するという痛ましい事故 も珍しくないという 。 シ スター ・ ミリンたちは、近くの 卜ロヤン地区 二 十 八 世 帯 二 百 人 が 、 道路づくりのために強制立ち退きを 迫られている の で、﹁代替住宅をよこ せ﹂と闘争している最中だ っ た 。 ﹁ 家 を 失 う こ と は 、 港 や 魚 市 場 で の 仕 事 を失うことになる の で、生活できな くなることを意味するんです ﹂ │ │ 畳 間 、 雨 の 中 を 訪 ね た 卜 ロ ヤ ン の 人 々の暗い表情が思い浮かんだ 。 ﹁私も、七年間がんばってきたの で、そろそろ引退したらと娘たちは いうんです 。 でも、私はまだやるつ もりです 。 人々の苦しみを思うと、 神はいるのだろうかと問うこともあ りますが、とにかく、解放のために 闘う 一 生 を 選 ん だ 以 上 、 や り 通 し ま す ﹂ と自分にいい聞かせるようにい っ た 。 ﹁ フ ィ リ ピ ンの女性として思 うんですが、母親であれば、わが子 だ け で な く 、 す べ て の 子 ど も に 責 任を感じなければいけない 。 子 と も が 危 険 に さ ら さ れ て い る の に 、 母 親 はとうして目をつぶ っ ていられるで しょう 。 母税は虎のように強くなけ ればならないと思います 。 私 は 、 母

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の情熱に感銘を受けています 。 みな さ ん が 集 め た 買 春 観 光 の デ ー タ を 活 用させてもらっているわけで、これ か ら も 、 お 互 い 緊 密 に 情 報 を 交 換 し 合 っ て 、 買 春 観 光 反 対 運動を強めま し ょ う 。 ﹂ と 、 私 の手を固く握るのだ っ た 。 ホスピタリテイ¥カールの友として フィリピン代表のもう一人の女性 は若いプロテスタントの活動家で、 ホスピタ リ テ ィ ・ ガ│ルの中へ入って、 孤独と不安を慰める 地 道 な 活 動 を 始 めていた 。 ﹁田舎から出てきて、外国 人 相 手 に 働 い て い る 女 た ち は 、 ま だ 十代の子ともも多く、やはり淋しい んですね 。二 カ月に 一 度のピクニ ッ ク なんかを楽しみにしているんで、 私 も 一 緒 に 参 加 し て 、 彼 女 た ち の 友 だ ち に な る よ う 努 力 し て い る ん で す 。 夜 の 歓 楽 街 に 出 入 り し て い る こ と な と 、 家 族 に も 内 緒 の 活 動 で す が 、 彼 女 た ち の 痛 ま し い 生 活 を 知 る と 、 逃 げ出すことはできません﹂││・目を うるませ、 一屑に垂れる長い髪をかき 上 げ な が ら 般 か に 語 っ た 姿 が 思 い 浮 かぶ 。 同 胞 女 性 の 痛 み を わ が 痛 み と しているのだった 。 売 国 的 観 光 政 策 へ の 怒 り

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びしい表情をしていたのは、彼女が 恵まれた階級の出身であるがゆえの 高慢さのためかとふと思ったが、彼 女のラディカルな訴えを聞きながら 笑顔も見せたくな いという気持が'妬 いほどわかった 。 この八月、フィリピンの女性団体 が ﹁ セ ッ ク ス ・ ツ ア ーを中止せよ﹂と いう抗議文を出したが、彼女こそ、 その推進役であった 。 ﹁現在の社会体 制、経済構造の根本的変革なしに、 買春観 光の問題は解決しない﹂と彼 女ははっきりと体制変革への決意を る。手に手広栂と空きかんを持深夜のナボタス漁港で荷錫げ作業の男性が目ざとく見つげた ε ﹁ あ ち、明白のおかずに魚を拾い歩いに汗を流していた労働者たちの一いつら、まだウロウロし て や が 記 者 ( 松 井 ) は わ ず か 十 日 間 滞 て い る の だ っ た 。 カ 月 分 の 賃 金 三 百 七 十 五 ペ ソ ( 一 る ﹂ と 吐 圭 掻 て る よ う に い っ た 。 在したマニラで、天固と地獄を依﹁母親として黙 っ ていられなか万余円)に近いのに嫌 い た。観光経済大国日本から使いでのある円 験し、且盟主でいものと段も醜いった﹂と ス ラ ム の 住 民 運 動 の 先 頭 答 が 、 こ ん な 濠 瑠 ホ テ ル で 一 自 に の 札 束 主 小 ケ ッ ト に や っ て 来 て 、 も の を 見 た 。 に 立 つ 女 性 ( 5 0 ) が い っ た。投獄ニはたく金は、フ ィ リ ピ ン の 一 鰻民が一瞬もてあそんだ貧レい国の女性 マニラ湾の夕日で名高いロハス因。﹁殺されても活動はやめな何カ月も働いて得るものに相当すを、夜が明げればまるで人間でな + 盆 り に そ び え る 高 級 ホ テ ル 群 。 い 、 と 心 応 決 め て ま し た ﹂ な ど と る の で あ る 。 い か の よ う に 見

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す 。 白い墜の向乙うにはてしなく広が激しい。しかし、﹁売春やっていしかし、天国のようなぜいたくそんな日本の男性たちを、ホス るマニラ湾沿いのスラム地区。フる女の子もこのへんにいます。こな場所で女性とたわむれる日本のピタリティ ・ ガ ! ル も ま た 軽 ベ つ ィリピン大学で見た学生演劇﹁民とで生きていくのは大変なんです男性たちは、すぐ隣旦ロわせの地の回で見ていた。﹁会社でこ毒 衆 の ミ サ ﹂ で 背 わ れ て 、 マ ニ ラ 景 に う っ き ほ ほ 笑 み の 裏 に あ る 悲 し み に息扱きに来 れ た の は ホ テ ル て 、 セ ッ ク ス 、 と ス ラ ム の ス ライドであった。マよ﹂と言葉もとぎれがちになっ獄を見忽い 。 相手の女性が、ナボセックス:。かわいそうね﹂と. 刊 ニ うはまさに﹁ホテルとスラムのた。地獄のような環境でくじけずタスで見たあの貧レさの地獄を背嵯ベっと軽べつという不幸な関 々 ノ 町 ﹂ で あ る 。 毅 然 ( き ぜ ん ) と 生 き る 人 間 の 由 貿 負 っ て い る こ と は 考 え て も み な 係 。

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ナ ボ タ ス 漁 港 に 近 い ス ラ ム に 一 し さ を 見 た 。 ぃ 。 ど こ ま で も 人 な つ こ く 陽 気 な ﹁ 今 菩 p u ん で い る 人 た ち が 求 め

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泊した.雨期でズブズブのぬかる翌日は、孟つ居 F ( 超高級)フィリピン女性たちのほほ笑みのているのは、あなた方のあわれみ

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みの中に軒を並べる家ぺその一のホテル民泊まった。豪華な調度裏に隠されている悲しみゃ屈厚感でも、涙でも、祈りでもない。怒

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軒 の 板 の 聞 に ﹁ ワ 1 クショップ﹂やふかふかのジユウタンの部屋に気づいたら、集団買容にうつりです﹂ │ │ ネ オ ン の 輝 く マ ピ ニ 心 の容加者三人でゴロ寝した。子どで、強制立ち退きを通告されてつを援かすことはできないだろ通りを案門レてくれた近くのスラ 円 も た ち が 雨 に ぬ れ な が ら 水 事 り ﹁ を あ て も な ど と 嘆 い て い た う 。 ム に 住 む シ ス タ ー が い っ た @ 喜 歩いている。夜中近く、漁港に行トロヤン地区の二十八世帯の人々翌朝、ホテルを出るホスピタリ観光に怒りもせず、夫を送り出す 日ってみた。魚市場には公表低学 のととを思った。フランス料理のティ ・ ガ l ル三人を朝食に招 い B 本 女 性 に 対 す る 痛 烈 な 批 判 の 言 創 刊 年ぐらいの子どもたちが大勢いレストラン を の F ミと、一食分がた。前夜の客だった三十代の日本業でもあった。 そして、も う 一 人はフィリピン大 学で 社 会学を教えるかたわら、消費 者グループを組織している活動的な 女性だった。五人のチどもの母線で もあり、いかにもフィリピン的なた くましい知識人女性だと思った 。 ワ ー クシヨ y プでの彼女の発言は、ダ イナマイトのような激烈さで、外国 人に卑屈になって、自分たちの民族 的誇りを傷つける観光政策を批判し た 。 ﹁女性を外国人に売りとばすだけ でなく、文化も何もかも身売りして、 固まで売り渡そうとしている﹂と 、

松井やより

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マニラ買春観光を

取材して思う

権力の座についている特権階級の売 国的観光促進策をやっつけ、﹁フィ リ ピン女性は人なつこく魅力的で、ホ スピタリティに富んでいるからと外 国人がや ってくるのだが 、そのホス ピタリティが禍しているのだ。そんな ホスピタリティなどは、むしろ捨て たいぐらいです﹂とまでいい切 っ た 。 外国のビ ジネスマン、 外国の ツ ー リ ストに祖国を踏みにじられたものの 悲痛な叫びに、胸をつかれた 。 彼 女 が 、 ほかのフィリピン女性たちのよ うに 、 ほほえみを見せず 、終始、き 述べた 。 それは 、 とりもなおさず日 本の経済侵略、性侵略との闘いを意 味していると思った 。 巨大な力を向こうに同しての困難 な闘いだが、多くのフィリピン女性 が戒厳令下の弾圧にもめげず参加し ているのだ 。 ﹁たとえ、勝 利をす ぐに かちとることはできなくても、闘わ ないよりは、闘って敗れる方がまだ ましです﹂

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私たちをナボタスに 連れて行ってくれたスラム活動家の 女性が洩らした言葉が深く心に残っ ている 。

台湾の女性解放・民主化運動の闘士

獄中の呂秀蓮を思う

いまだに国民党の施行した戒厳令 下にある台湾に住む人々は、 三 十 余 年の長い間沈黙をしいられてきた 。 し か し 、 一 九七

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年代後半から、民 主化闘争が静かに始ま っ た 。 七七年 十 一 月の選挙で国民党外の無党派勢 力が大挙進出 。 中国唱では、県長選挙 の不正に抗議する a 万人の扶助が起 っ た 。 政府の人権弾圧 へ の抗議行動 も 銭 り 上 っ て い っ た 。 台湾社会の断 面を鋭く風刺した﹁さよなら・河口先 ﹂ のような郷土文学が、若い世代の作 家によってつぎつ容に生まれてきた のも、こうした民主化闘争を汗対に していた 。 七 八 年 卜 二 月 二 卜 一 二 日の選挙は希 望に満ちたものになるはずだ っ た 。 無党派の立候補者の立会演説会は人 垣ができ、飢(館のるつぼとなり、人 が集まらないため演説会を聞けなか った国民党候補省とあざやかな対比 を見せた 。 国民党はこの勢いを恐れ た。卜六日、折しも発表された米中 国交樹立を活にとり、突然選挙を無 期延期した 。 弾圧が厳しくな っ た が 、 主だった無党派の人々は翌七九年夏 設立された高雄の﹁美鹿島﹂雑誌社を 拠点に、民主化闘争を続けた 。 卜 二 月十日、高雄で開かれた国際人権デ

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記念集会で、 三 万人の市民が答官 隊と衡突 。 高雄事件となる 。 この事 件に関連して四十七人が投獄されて い λ ω

マスコミに錨かれた呂秀蓮 ' K 性解放と民主化運動のリーダー 月秀通もその -人である 。 彼女に対 して、台湾のある雑誌は次のような 言葉を投げつけた 。 速くから見ると江主川に似ている 円秀選は、﹁新

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性主義拘﹂の提唱 おであ る 。 あ る 人は彼火を﹁何秀 子学説﹂のド山崎布だと曲解し、ま た別の人は彼女 と リ ン ダ・アリ l ゴは、ともに﹁フリ l セ ッ ク ス ﹂ を主張しているという 。 実際のと ころ江青と ﹁ 色きちがい﹂という 点でよく似ている 。 彼女は 一 九四 同年に桃園で生まれた 。 家 庭 環 境 はよか っ たが、子供の頃甘やかさ れ て 古 川 ち、同年齢の

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F

と比 べ

早熟だ っ たので、﹁小先生﹂という あだ名をもち、その後台湾大学法 律系司法クラスにはいり(以下略) 昌秀蓮は精 神的肉体的な拷聞を伴 う尋問をへて、今年四月軍事法廷で 十 二 年の刑を諜せられ、他の四人の 女性とともに獄中にある 。 したが っ て 、罵倒 文に反論することもできな いが、獄中の民主化闘争に続 く 人た ちが、この操作されたマ ス コミの行 間にひそむ点実をつかんでいること を、彼女は信じているにちがいない 。 エリートコ

l

スから獄中ヘ 今年 二 卜 六字の口内秀選は 、小さな 府を簡なう両税と兄 -人、姉 二 人の 一 家の末手として、国民党支配下の 台湾に育 っ た 。 台 湾 の 名 門 、 台 北 -女 か ら ム リ 神 的大学法作系叶法クラスに 首席で人 山 下し大学院に進む 。 一 九六 九年にアメリカ、イリノイ大学大学 院に 二 年間留下し、帰国後、行政院 法則委員会科長として、保健法や公 害 法 を つ くるために 川年間働いた 。 昨ち前の字気とカンパリズム、上 H 汁 志向に支えられ、国民党の有能な官 僚としてエリートコ l スを歩んでい た彼交が、なぜ獄中に到るまでの別 な道を行くようにな っ たのだろうか 。 この道は、久性として感じた差別に 対する素朴な悠りを﹁新女性主義﹂ の運動へと具体化してい っ た 道 と 重 力 士 φ

呂秀蓮は両鋭、兄姉の愛にはぐく まれのびやかに生長した 。 それでも ﹁男だったらよかったのに﹂と両親 がもらす繰り言を聞いた 。 どうして 女だ っ たらいけないのか 。 自 分 で 女 に生まれてきたわけでもないし、生 んだのは両税なのに 。 それに男にで きないことが

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にできないはずがな い 。 こ く あたりまえの、しかし世間 では 、 まだ反逆心という言葉で表わ される心意気を、彼女は幼ない頃か ら持っていた 。 小学生の頃、出張し た先生の代治をしたので、同級生は ﹁小先生﹂とよんだというエヒソー トからもわかるように、議にもれけ ないという れ 信もあ っ た 。 八歳 上 の u んは、よき埋

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省 で あ り 競 争 州

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だ っ た 。 医有にしたいという両税の似 いをふりき っ た の は 、 一 法 山 刊 を ⋮ 一 子 ぶ

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への競争怠識と、桃園にはもうすで に次医がいるので円分は桃園で初め て の 女 裁 判 官 に な る と い う 野 心 だ っ た 。 ところが兄と 4 1 仰 な -勺 心 配 は ないと両組が認めると 、 外 交 官 、 政 水道のないスラムで水を売り歩く子どもたち=マニラ・ナボタス地区で=

6

7

(5)

治家へと次々と夢はふくらんでいっ た。アメリカへの留学は、法律しか 知ら ない女学生に、修士の学位以 外 に法律 とは全く別の新しい世界へと 目を聞かせるチャンスを与えた 。む さぼるように本を読み、旅行をした。 そんな過程のどこかで 、 当時世界中 にまき起こっていたウーマンリブの 運動に出会 っ た 。彼女が 抱 き つ ﹀ つ け てきた素朴な疑 問 。﹁どうして女が女 であってはいけないのか、なぜ女で あるということで差別されるのか﹂ という疑問が、全世界の女性に共通 する認識であることを知り、 それを

わたしの遺書

監獄は人類の恥 辱であり、 政治監 獄は更に残酷です 。 しかし 、恥 ず べ き は 囚 わ れ て い る 人 び と で は あ り ません 。 自分の権利を勝ち取り、そ してそれを守り抜くよう人民を激励 するのは 、 人類の良心に基づく行為 であって、絶対に暴力ではないこと を、わたしは死に至るまで確信して います 。 わたしを大事にしてくださったす べての友人に 、 わたしは感謝し、敬 愛の念を懐き続けています 。 あなた 方が台湾あるいは海外におられよう とも、民主のタイマツを燃し続けま した事も、政府を 刺 激 し た 。 民族主義への目ざめ 疲れきった呂秀蓮は 、 三 たび台湾 を離れ、米国のハ│パート大学に留 学した。ここで中絶の合法化と夫婦 の財産共有化に関する 二 つの論文を 書きあげ 、同時に国際政治、台湾の 歴史の書物を図書館にこもって読ん だ。また在米台湾人の生き方への 批 判 から、祖国愛に目ざめ、﹁新女性 主義﹂とともに民族主義を身につけ るようになる 。 外国に財産を移し、 歯ブラ シだけを持ってすぐ台湾を逃 げ出せるようにしている、﹁歯プラン 主義者﹂と 呼ばれる 二万 人の台湾人 五&¥22-aι包 理論化し、運動する必要性を感じた 。 七 一 年に帰国すると、政府の役人と して 働 くかたわら﹁新女 性 主 義﹂と いう言葉をつくりだし 、こ れに関す る文章を発表したり 、 講演すること を 、た った一人で 始めた 。 台北の喫 茶庄の二階に﹁拓荒者(開 拓 者 ) の 家﹂を置き 、 時 代 女性協会を 作 ろう としたが 、 党の反対で果せなかった。 ﹁ 新女性主義 ﹂ のパイオニアとして 呂 秀 蓬 は 七 五 年 一 月から九月まで、 アメリカ 、 韓 国 、 日 本などを訪れ 、

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すよう、お願い致します。 皆 さ ん 、 とうか故郷の人びとの苦しみの叫び を常に聞き取ってください 。 わたしの最も愛する日本の親友

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燦に敬意を表したいと思います。あ なたがわたしの逮捕で、わたし自身 よりも多くの涙を流されたことをわ たしは知 っ て います 。 最後に 、 わたしは両親と兄弟にお 詫び申し上げます。 進 よ 、 雄 よ、強 くおなりなさい。わたしが獄 中 で死 んだら、郷里 三 一 星の 山上に埋葬して ください 。 陳 菊 獄 中 に て 親 筆 削 ・

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・ 羽 風雨の夜 は、アメリカと台湾を行 っ たり来た りするなと 、 台 湾で稼いだお金で賛 沢に暮らしている。彼らに 比 べ 、 台 湾から逃げだすこともできない貧し い人たち 、 月給二万五千 円 で働く女 子労働者たちこそ本当に祖国に貢献 しているのではないかと彼女は考え た 。 一 年間悩んだ末、女性解放のた めに費した 日々を無駄にできないし、 美しい 故郷と祖国の人々を捨てるこ とはできないという強烈なナショナ リズムから帰国を決意した。帰国後、 七 八 年 十 二 月の選挙に、国民大会代 表候 補者とし て 出馬す る 。 ﹁新女性主義﹂と新たに身につけた ナシヨナリスムが新しい友人を作 っ た 。 台湾独立運動の指導者、郭雨新 の秘書 ・陳菊 や、政治犯として長く 獄中にいた施明徳 ( 美 間 島 雑 誌 社 総 経理・高雄事件で無期懲役)の妻、 リンダ ・ アリ l コ。アメリカ人リン ダは 、 文化人類学者で台湾の女子労 働者を調査する 一 方 、夫、施明徳と 共 に 民 主 化 闘 争 を 戦 ったが、高雄事 件の後アメリカに追放された 。 民主 化運動を続け る無党派の 同志た ちと ともに、美鹿島雑誌社を設立、彼女 は副社長とな っ た 。 七九年十 二 月十日、高雄の国際人 権デ l 記念集会で、昌秀蓮は、熱狂 的な聴衆に思い のたけをぶつけた。 このため高雄事件関係者として 三 日 女性運動を見てまわった 。 なかでも 、 メキシコの国際婦人年世界会議に、 台湾の代表として出席した時の衝撃 は大きかった。 中 国 の非難で中途で 帰らなければならなかったが、それ でも世界の女たちの躍動する息吹に ふれた 。 秋に帰国す るとすぐ に、女性解放 運動にもてるカをすべて注ぎ込むた めに 、 政府の職を辞した 。 台 北 と高 雄に活動の場所を置く。女性解放の 思想を広めるために拓荒者 出 版 社 を 設立し、新刊書 十 八 冊 を矢つぎ早に 出 版 し た 。 ﹁ 男 は 外 、 女は 内 ﹂という 役割分担に挑戦するために、男性を 対象にして料理コンクールを開 い た り、女性には﹁台所以外の茶話会 ﹂ と称して座談会を主 催 した 。 資料の 収集、調査活動にもとび回る 。たと えば、女子学生とともに、主婦千人 に対し、私たち日本の女が直面して いるのと同様の家庭 、 教 育 、 姑など の問題に関するアンケート調査をし 、 分析した 。 次にはこの調査結果にも とづき、﹁結婚以後﹂という座談会を 開 く。総勢二万余の人がこの座談会 に参加した 。 次第に運動を 中 下 層階級の女たち にも広げなければならないと痛感す るようになった。女 性 蔑視がまかり とおる台湾では、高度成長に 伴うひ ずみのしわ寄せは 、 あらがう手段と 後に逮捕された 。 呂秀蓮との関係を 疑われるため 、女性解放を唱 えるこ とさえ夕、フーになっているという。 いま台湾には 、 八 千 人 が政治犯と して囚われており、昌秀蓮はその一 人に過ぎない 。そして民主 化 闘 争 を 戦 っている女 性は、呂秀蓮とともに 獄 中 にいる陳菊をはじめ 、 台 湾 女 性 の生活をリアルに描いた郷土文学作 家・曽心儀、アメリカで戦 っている ジャーナリスト陣椀真等、皆 三 十 歳 前 後の若い女性たちである 。 このほか 省議員の蘇洪月矯、黄玉矯、そして 十 二 月の選挙で 、 獄中の夫に代 っ て 立 候 補 し ようとしている妻たちなど 、 政治の世界で活動している女性たち もいる 。 私たちは何をすべきか 日本人は中国大陸には関心を待つ が、台湾についてはまるで知ろうと もしない。台湾で民主 化 闘 争 をして いる人々の思想は、大陸との統 一 派 や台湾独立派に別れている。しかし 私たちが彼らの行動や 言 葉に接すれ ば、私益を捨てて祖国を愛する彼ら の思いに 心動かされ、人間 の尊厳を 感じざるをえないだろう 。 このような民主化闘争の﹁も っ と もすぐれた、も っとも 輝かしい人た ち﹂を 理解し、無 言の支持をしてい てない女たちの一肩にかかってきた。 台湾の工業 化を支え ているのは 、若 い女子労働者の低賃金であり、買春 観光からはいる外貨は数知れない女 たちの肉体によってもたらせられた ものであることを 、 昌秀蓮は知って ミ た 。 台北と高雄に﹁あなたを守る電話﹂ をつくり、医師、弁護士、学者から ボランティアをつのり 、 かけこみ寺 のような機関とした。この電話は社 会の底辺にいる女性たちの 心 をとら えた 。 スラムに住むある女性はこう 言った 。 ﹁私たち、今とても安心し ているのよ 。 だって誰かにだまされ ても、あなたを守る電話が助けてく れるわ 。 ﹂ 当然、旧幣な思想をもっ台湾の男 性たちから反撃を受けた 。 批判 の つ ぶては、反体 制に 属する男性の 一 部 からも飛んできた 。 講演が中止させ られるなどのかずかずの障害にあい はじめる o ﹁新女性主義﹂に関する本 の 出 版 も不許可となる。﹁何秀子﹂と いう売春宿の女主人をとりあげたこ とで非難される 。 そして運動が 社 会 の底辺で 一 番助けを必要としている 女性たちに広がりはじめたために、 国民党政府からの圧力が強ま ったの である 。 ﹁あなたを守る電話﹂の内容 が、台湾社会の暗黒面を浮き彫りに るのは 外 国 へ 逃げだすこ ともできな い一般の人々であろう 。 中 種 事 件 に 一 万 人 、 高雄事件に 三 万人もの人々 が集まったことからも、台湾の民衆 の中に渦巻く、民主化への願いを知 ることができる 。 だからこそ国民党 は 、 彼 らを恐れ 、 活 動 的 な人々を牢 獄へと封じ込めたのだ 。 五 一 年間にわたる日本の植民地統 治の機機を、国民党はそのまま引き ついだ 。 このことを象徴す るかのよ うに、植民 地 時 代 の 地図と現在 の 地 図を見較べれば、日本が建てた公共 施設が国民党政府によりそ っ くりそ のまま使われていることに気づく。 この歴史的事実を無視するわけには いかない 。 今 は、日本の台湾への投 資 累 計 件数 八五 九件、累計額 二 億八 四

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四万ドル(七八年度末 ) からも わかるように、経済という手段によ り台湾を別の形で侵略し、若い女性 の労働者を搾取したり 、公 害 を 輸 出 したり、日本製品を台湾 中にあ ふれ るほど売りつけたりしている。 最後に女性解放にたづさわる日本 の女として、呂秀蓮のバイタリティ にあふれた運動の方法や成果に勇気 づけられる。そして呂秀蓮や彼女と 同じ精神で民主 化 闘争を続けている 女たちに思いをはせると胸、が痛む。 彼女が 一 日も早く釈放されて、戦い の場にもどれるように 、 と願う 。

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観光客目あての宝石底や時計庄が 並ぶ 九 龍 の 中 心 街 に 、

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香 港 キリスト教工業委員会 ) が は い っ て い るビルがある。ウェンデイ(ウェ イ・リング・ プ l ン)は事務所にい た 。 彼女は私を 一 瞬凝視して、女 子 労働者のことを調査しにきた私の訪 問の目的を尋ねた 。 最初、ぶっきら ぼうな態度に困惑したが、私のため にスケジ ュ ー ル をたててくれた抜群 の事務能力に舌をまき 、 すぐに飾ら ない言葉の内側にひそむ暖かさを感 じ た 。 縫製基地として世界に名高い香港 で、女子労働者のはたす役割は大き い 。 八

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万の工場労働者のうち四五 万は女性 。 女子労働者の半数以上は、 繊維関係の仕事に従事し香港経済の 基幹部分をささえている 。 今年にな っ て 、 地価 の高騰とインフレーショ ン に より、香港の縫製工場は次々に 閉鎖し中国大陸や外国に逃げ出し、 深刻な 社 会問題とな っ ている 。 こ の 晩、私は縫製工場で働く四人の女性 た ち に ム E っ た 。

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、 とくにウエ ンディが彼女 たちを助け、閉鎖した 工場から退職金を獲得する闘争をし、 お金が出たので、プレゼントをも っ て お 礼に来た の だ っ た 。 私たちは仕 事のこと、結婚観、自分自身のこと などを大いに語り合 っ た 。 この話し 合いでウェンディは 、彼 女たちと私 プ 1 十 シ フ ず の 唯 一 の 共通語、普通話 で喋るよう など諸活動を通じて、 仲間 の労働者 としての権利意識を高めてゆくシス テムをとっている。 例えば、思想の違いをのりこえ女 性労働者という立場で 一 致 団 結 し 、 香港の女性が最近かちとった 出 産休 暇期間の給料支給も、

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の女子 労働者たちがリ ー ダーシ y プをとっ て 、 調査をし、戦略をたて、他の女 性 グ ル ー プによびかけて獲得した。

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の 理念が現実とな っ て い る の を 私自身が直接体験したのは、地

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ウ工ンディさん、京都で に何回もしいた 。 カタコ卜の中国語 より英語を使 っ て し まう私に、ウェ ンディは言 っ た 。﹁ 中 国語/直接話 すことが大事でしょ/﹂彼女の 言 葉 は胸にいたくこたえた 。 労働者が自分たちで発言し、書き、 調査し、行動することが 一 番重要だ と彼女はつけたした 。 これは草の根 レベルで運動をしている

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の 理 念でもある。労働者のなかからリ ーダーを育て、彼らの住む地域で拠 点をつくり労働法の勉強会をひら く

子どもたちと共に

ータイのプラ

ィープ・ウンソンタムさん

。 フラティープ ・ ウンソンタム、小 柄な体で忙 しそうに動き回っている 彼女に会ったのは 一 九七九年夏であ っ た 。子 ども遠の歌声、黒板を食い 入るように見ている服 、 笑い声、そ んな教室の 一 室 、 だ っ た 。 バンコクの人 口 五 百万、その約二 五パーセントは五百近くのスラムに 住んでいるといわれる 。タ イのバン コク中心街から約五キロ離れた所に 彼女の住んでいるバンコク最大のス ラム﹁クロントイ﹂はある 。 ス ラ ム の人々はほとんど農村から来た 。 農 村の崩壊、農業で食べていけない農 民逮が都会に流入してくる。そして、 低賃金で働かされてい る 。 行商 ・ 肉 体労働 ・ 売春 ・ 空カンやビニールを 集めるなどである 。 スラムは多くの 問題を抱えているが子ども逮はそこ に生きている 。 私の短い滞在期間中、 子ども達がよく働くことに驚いた。 バンコク市街の陪一喚の中、スピード を出して行き 交う車の洪水でも信号 で車が止まればさっと寄って来て車 のガラスをふいて賃金をもらう 。 新 聞を売る 。 車のお守りの花を売る 。 プラティ ー プさん は働 きつつ夜 間 の学校に通い教員の資格をとるとす ぐ 、自分の生まれた スラムの子ども 遂を集めて教育を始めた 。 そ し て 、 今の﹁バッタナ共同体小学校﹂をつ くりあげできた。わずか数人の子ど もたちで始めた学校は 、現在生徒数 九百人、教員数三七名、うち女子教 員は約六割。さらに 、 長年の闘いで 一 九七 六年固から認可され公立とな っ た 。 彼女が闘いにたちあが っ た の は 一 九七 二 年、スラムの立ち退き命令が でたときからだ 。 港湾の拡大計画に よりクロントイ ・ スラムの撤去 、 住 民追放命 令がで た 。 ﹁ ス ラ ム を 隊 れ では生きていけない 。 なぜ自分達の 家があるここに住んではいけないの か﹂そう訴える人々の声を無視して 港湾警察が介入してきた 。 スラムに は反対同盟委員会ができ、彼女はそ 域のリーダーとして働く黄さんと屑 さんに話を聞いた時だ っ た 。 女性差 別が共通の話題 。 香港では女の子が 家の犠牲にな っ て いて、家計の重荷 をせお っ ているという 。﹁

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の 活動に参加すると忙しくてボーイフ レンドをつ くる 暇がないから、結婚 できないのよ 。 ﹂笑いながら、ふと真 顔 に な っ て 話 を つ ず つ け た 。 ﹁ で も

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の活動をするうちに、シャワーを 浴びたようなフレ y シュな気 持にな っ た わ 。 以前は仕事から帰 るとテレ の委員に選ばれた 。 彼女はその委員 会を通していろいろなことを学んだ という 。 代替地もないまま追い出そ うとする非人間的なやり方、また毎日 学 校に来ている子ども遠の事などで あ る 。 あの子ども達は、もしスラム か ら 出 ていけば今より費用のかかる 学校しかなくなる 。 それではとても 学校に通えない 。 こ こ に 学 校がある から子ども透は教育を受けられる 。 撤去問題が大々的にマスコミに取 り上げられるにつれ、 き た 。 支 援 が 憎 唱 え て それと同時に彼女の 学 校も注 目されてきた。ボランティアもたく さんくるようになった。教育はすべ ての子に与えられるべきであり、そ れは国の責任でもあると彼女が主張 したため彼女の学校は共産系だと見 なされて 、 長い間政府の認可がおり なか っ た 。 しかし、このスラム徽 去反対闘争により世論が注目したた め、やっとプラティ l プさんの学校 を政府は認可せざるを得なくな っ た 。 フ ラ テ ィ l フ さ ん は 、 A 7 スラムの タイのスラムの子どもたち 子ども透すべてが教育を受けられる ような運動をしている 。 教育を 受け る受けないはスラムの子どもの責任 ではなく、国の責任である 。バンコ ク にあるスラムす べてにパッタナ 共 同体小 学校のような学校を 作 るのは 予算の関係で無理である 。 だからス ラムの子ども達も 一 般の小 学 校 に 登 ピを見るだけで 何もせ ず 、 労 働者で あることを 恥 じ て い た の 。 A 7 は自分 が労働者であることを誇りに思う。﹂ 香港にいた六日 間 、 ほとんど毎日 ウエンディと顔を合せた。彼女は夜 遅くまで忙しく働いていて、プライ ベートなことをゆっくり話す機会は なかったが、言葉の端々から断片的 に彼女のことを知 っ た 。 ウエンディは コ 二 才で、母と弟夫 婦と暮している 。 高校を卒業し仕事 についたが、ソ l シヤルワ l カ!と して働くために

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でバイトをし ながらカレ y ジを卒業した 。三 年前 卒業と同時に

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の 専 従 と な り 、 労動者のための教育を担当し、こ の仕事を 一 生や っ ていく決心をして い る 。 彼女も戦いや仕事のなかから、 自分をみつめ、多くのことを学び、 人生の方向を見つけてきたように思 え た 。 お 化粧 気のない顔 、ひか え目だけ れど間違で存在感のある女たち 。 私 が香港で出会 っ た若い女性は素敵だ っ た 。 そして無言のうちに多くのこ とを伝えてくれた 。 ﹁ 香 港 は 植 民 地 よ ノ そのことをまず知らなくてはいけ ないの。イギリスは香港から 利益を 得ることしか考えていないわ 。 ﹂ と 言 っ た ウ エンディの 怒りに燃えた瞳が 思いうかぶ 。 今 日も彼女は忙 しく働 いているだろう 。 校できるよう要求し続けている 。 今 まで社会における教育という点が無 視されすぎていたようだという彼女 の考えに基づいた運動でもある 。 スラムにいる子ども透は皆明るく て純真であり、その子ども達 こ そ プ ラ テ ィ l 。 フさんの人生であろう 。 教室 を見学させてもら っ た 。 ちょっとて れながら 、 それでも歌を唄ったり 、 踊りをしたりしてくれたチども達 。 イスの 上に乗 り生き生きと動いてい るチども達 。 プ ラ テ ィ l プさんの黒 い大きな瞳の輝きにも通じるものが 子ども遠の 明るい姿から垣間見えた 気がする 。 一 九七八年八月、 プラティ l プ さ んはフィリピンの故マグサイサイ大 統領を記念したマグサイサイ賞公共 部門賞を 受賞し た 。 第 三 世界においては人々 の置かれ ている状況は厳しく、階層がはっき り分かれ、教育が 一 部階級のものに な っ ている 。 しかし、教育を個人の ものとすることなく社会における教 育を 一 つの営学とし 、 それを次の世 代に引き継いでいかなければならな い 。 プ ラ テ ィ

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プ さんの教育││ 一 人 の女としての生き方││に一つの教育 の 方 向 を 見 、 同じ教 育者として、私自 身現場の中で子ども逮と向かい合 っ ていかねばと思う 。

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-て マ ツ ラ を 呼 ん だ が 、 何 の 応 答 も な 決 で ﹁ 死 ま た は 重 大 な 傷 害 と な る 恐 か っ た 。 そ こ へ 酔 っ た 警 官 が 出 て き 怖 を 伴 わ な け れ ば 強 姦 と は い え ず 、 た の で 聞 く と ﹁ マ ツ ラ は も う 帰 っ た ﹂ マ ツ ラ に 抵 抗 し た と い う 証 拠 は な く 、 と い っ た 。 し か し 、 ま も な く 、 マ ツ 性 行 為 は 平 和 的 に 行 な わ れ た し と し ラ が や っ と の こ と で は い 出 し て き で 、 て 、 高 裁 の 有 罪 判 決 を く つ が え し 、 強 姦 さ れ た こ と を 告 げ た 。 す ぐ 医 者 二 人 の 警 官 を 無 罪 だ と 釈 放 し た 。 の と こ ろ へ 行 っ て 、 事 の す べ て を 話 こ の 最 高 裁 判 決 は 、 イ ン ド の 女 性 す と 、 警 察 に 報 告 す る よ う に い わ れ た ち の 憤 激 を ま き 起 こ し 、 裁 判 の や た 。 事 件 を 知 っ た 近 所 の 人 々 が 警 察 り 直 し を 要 求 し て 、 全 国 で 怒 り の 抗 に 集 ま っ て き て 、 暴 行 警 官 を な ぐ る 議 デ モ が 行 な わ れ た 。 四 人 の 法 律 学 ぞ 、 警 察 を 焼 き 打 ち す る ぞ 、 と い う 騒 教 授 も 連 名 で 、 最 高 裁 あ て に 次 の よ ぎ に な っ た 。 う な 公 開 質 問 状 を つ き つ け た 。 一 九 七 二 年 三 月 に 起 っ た こ の 強 姦 事 │ │ こ れ は 法 と 憲 法 で 定 め ら れ た 女 件 に つ い て 、 地 裁 は ﹁ マ ツ ラ は ウ ソ つ 性 の 基 本 的 人 権 を 踏 み に じ る 異 常 な き だ ﹂ と し 、 警 官 と マ ツ ラ の 聞 で 性 判 決 だ 。 マ ツ ラ が 陳 述 も 終 っ た あ 行 為 が あ っ た こ と は 認 め た も の の 、 と 警 察 に 留 ま る よ う に 求 め ら れ 、 友 マ ツ ラ が す で に 婚 約 者 と 性 体 験 が あ 人 と 親 せ き は 帰 る よ う に い わ れ た の っ た こ と を 持 ち 出 し 、 彼 女 の 体 に 傷 は な ぜ か 。 強 姦 警 官 か ら 彼 女 を 救 い も な か っ た こ と を あ げ て 、 強 制 で な 出 す た め に も う 一 人 の 警 官 は な ぜ 手 く 同 意 の も と で の 行 為 で 、 強 姦 と は を こ ま ね い て い た の か 。 電 灯 が 消 さ い え な い と 警 官 を 無 罪 に し た 。 れ 、 ド ア も 閉 め ら れ て い た の は な ぜ し か し 、 高 裁 は 、 ﹁ 同 意 ﹂ と ﹁ 受 動 か 。 的な屈服 L と は 区 別 す べ き だ と し 、 十 四 │ 十 六 歳 の 少 女 が 、 警 察 署 内 状 況 か ら 見 て 、 強 制 さ れ た 性 行 為 で で 二 人 の 警 官 の ワ ナ に か か っ た と き 、 あ る と 判 断 、 強 姦 警 官 に 禁 鋼 五 年 、 救 い を 求 め る こ と が で き た な ど と 最 未 遂 警 官 に 同 一 年 の 刑 を 宣 告 し た 。 高 裁 は 思 う の か 。 労 働 者 で あ る 少 女 と こ ろ が 、 最 高 裁 が 、 昨 年 九 月 の 判 が 、 体 格 の よ い 警 官 に 対 し て 、 体 に

インドのボンベイに近い農村に住 んでいた十五歳の少女マツラは、幼 いとき、両親を失い、兄と暮らして いた。働いていた家の親類の青年と 知り合い、結婚することにした。と ころが、この結婚に反対だった兄は、 未成年の妹が婚約者とその一族に誘 か い さ れ た と 警 察 に 訴 え た 。 こ の ため、マツラは、兄と婚約み台側の人々 と共に警察に呼ばれた。夜九時ごろ だった。マツラと青年の陳述書をと ったあと、立ち合った三人の讐官の 一人は帰宅した。十時半ごろ、マツ ラがほかの人々と警察の玄関を出ょ うとすると、残っていた警官の一人 に腕をとられ、ついてくるようにい われた。ほかの人たちは帰るように 命じられた。 このあとマツラは警察署の裏のト イレに連れて行かれていたずらされ、 裏庭に引きずり出されて強姦された。 横たわったままのマツラのところに、 もう一人の警官が来て、暴行しよう としたが、酔っていたため、未遂に 終った。 外で待っていた兄たちは不審に思 って、灯の消えた警察署の裏へ回つ 犯すという事件も珍しくないという。 強姦はまさに、インド社会ではあま りにも日常茶飯事のように起こって おり、欧米諸国のレイプとは違って、 カ

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スト制度という階級差別と結び ついた陰惨な形をとっている。低い カ

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ストの女性たちが、性的陵辱の 犠牲になるからである。 加害者の男性は一般に、マツラ事 件と同じように罰せられもせず、被 害者の女性の方は故郷にいられなく なり、絶望のあまり自殺する悲惨な ケースも少なくないのである。たと え裁判に訴えても、女性は(身持ちの) いい女と悪い女に分けられて、被害 女性はちょうどマツラのように不道

女性の問題とは

/ただるう生き延びること

インドのアルナさん

京都アシス力会議での発言から

徳な悪い女だから、 H 同 意 H の上のこ とと見なされ、強姦犯人を無罪にす るような立証にばかり力が注がれる のである。 こうした階級差別、性差別という 二重の抑圧に対して、インドの女性 は闘争を続けてきたが、マツラ事件 の最高裁判決に対しては、今年三月 の国際婦人デ

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で、強姦反対デモを 展開したり、ねばり強い抗議行動を 進めてきた。レイプ・フォーラムと いう強姦問題に取り組むグループも できている。 こうした動きを背景にインド内務 省は三月、警官による強姦を規制す る指示を出した。①夜間は必要やむ この九月、京都で開かれたアシス カ(アジアに社会的関心を持つキリ スト教施設協会)の婦人会議で、イン ド代表アルナ・グナナダソンさんは ﹁女性のセルフ・イメージを変えよ う﹂という問題提起の中で、インド の女性がいかに性的な暴力の犠牲に なっているかの例をあげたのち、次 のように述べている。 -1 インドでは、紀元前二千五百年

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二千年ごろまでは、もっと平等な 社会で女性は自由を享受し、個性を 伸ばす機会に恵まれていたが、紀元 前 千 五 百 年

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紀元五百年から女権に 対する抑圧が強まり、ヒンズー女性 の献身と犠牲の精神が悪用されるよ を得ない場合以外女性を逮捕しては ならない。②逮捕のさい、女性被疑 者の体にふれではならない。③管察 に連行するさい、親類の男性のつき 添いを認める。④警察署内でっき添 いの男性が留まって、暴行を受けな いよう監視してよい。⑤女性被疑者 を長く留置場にとどめず、なるべく 早く保釈する、などだ。 この指示に対して、女性たちは、 女性被疑者の夜間留置禁止、強姦事 件の民間婦人団体による調査権、加 害者の男性の立証義務などをさらに 要求している。 一方、議会では、近く強姦法の改 正を行うことになり、改正案による うになった。当時のヒンズーのマヌ 法典が女性の地位を引き下げる中心 的役割を果たした。﹁女は子供の時は 父に、成長してからは夫に、夫を失 ったあとは息子に従え、決して自立 してはならない﹂と書かれている。 文学や芸術は、男たちの犠牲にな り、貞節、従順な女を理想として描 き、インドの少女たちは、このよう な手本を見習うことができないと恐 しい運命に出会うと脅かされる。絵 画彫刻は女性を女神か母、または娼 婦に分類する。母親として見られる 一般女性について性関係は母親とし てのアイデンティティ確立の手段と してのみとらえられる一方で、娼婦 傷を負うほど強い抵抗ができると思 う の か 。 マツラが、婚約者に貞節を一不すた めに、強姦されたと作り話をしたと いう地裁の判断を信じるのか。 マツラを警察に呼び出して拘留す るという重大な違法行為に対して、 判決は何の非難もせず、讐察を強姦 や性行為への屈服の場に利用するこ とも何ら非難していない。 最高裁は、マツラの社会経済的地 位、法的権利についての無知、犠牲 者の年令、貧しくしいたげられた者 が警察で感じる恐怖感などに何の考 慮も払っていない。最高裁判事たち ょ、どうか、デリ

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の近くの村の警 察を、貧しい身なりに変装して、お しのびで訪ねてみて頂きたい。 このケースを大法廷で再審するよ う訴えたい。これは、異例でナイー ブな提案と思われるかもしれないが、 人権擁護と憲法が危機に頻している のだ。この国の何百万人のマツラの 窮状は、大法廷にかかっている財産 権の制限問題と同じように重大なの で あ る ー ー ー まさに、インドでは何百万人のマ ツラが苦しんでいる。彼女と同じよ うに警察で警官に暴行されるケ

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ス がいかに多いか、女性たちの調査で 明るみに出たが、軍隊が村に入って きて、村の女性たちを手当り次第に と、強姦に対する最低刑が現在は決 められていないのを、最低七年とし、 さらに輪姦や警官、公務員などの強 姦は最低十年としている。また、警 官、公務員などの場合、原告女性が 立証しなければならないことになっ ているのを、被告に立証義務を負わ せている。また、被害女性のプライ バシーを守るために、写真裁判を提 案している。この強姦法改正案には さまざまな議論があるが、少くとも マツラ事件がきっかけで、法的規制 の動きにまでなったのは、インドの 女性たちが女性の人権を守るために 闘ってきたからである。 (松井やより) のエロチックな要素が重視されるの である。男児の出産は大歓迎され祝 われるが、女児の誕生は憂うつなこ とを意味し、﹁葬式のようだつた﹂と 述懐する老婦人もいる。下水溝や寺 院の外に女児を捨てさり、産院で授 乳を拒否したり、殺してしまう話も 時折り聞かれる。 ヒンズーの歴史の多くの時代と場 所で、女は男の財産として、意のま まに処理されてきた。強姦はたんに 性的快楽のためだけでなく、男の財 産を破壊する機能も持つ。地主は反 抗的な小作人に対して、男たちを雇 ってその家を放火させ、その女性た ちを強姦させるのである。村を焼い

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たり、女性を強姦したりという低い カ

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ストに対する残虐行為はますま すあたりまえのことになってきてい る。こういう状態で女性は二重の抑 圧を背負っているのである。 女性の解放はそれだけを切り離し て達成することはできず、階級、ヵ

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スト制度の搾取からのあらゆる解 放闘争の一部として行なわれなけれ ばならない。それは、女性の問題に 的をしぼる必要性を過少評価してい るのではない。この不安定な経済の 下で、最もしいたげられているのは 女性であり、女性なるがゆえに特有 の差別を負わされているからである。 農業で、女性は男性より低賃金と 失業に直面し、性的搾取を受けてい る。工業でも、機械化でまっ先にク ピになるのは女性だし、産休や保育 所はほとんどの女性には手が届かな 世界中の女性解放運動は、まだ根 をおろしていない。なぜなら、中産 階級志向で、教育を受けた余裕のある 都会の女性を中心に行なわれている からだ。大多数の女性が暮らしてい る貧困に打ちひしがれた村やスラム にはその波が浸透していないのであ マ 令 。 インドの多くの女性団体の誤まり は西洋の女性解放運動をそのままイ ンドに持ち込もうとしていることで

チリの独裁者ピノチ

アジエンデ政権が倒れた一九七三 年のチリに h 叩ける軍事クーデター以 来、ピノチェト独裁政権によって殺 された人聞は、人口一千万人の国で 実に五万人と云われている。 当時南米で唯一、社会主義政権が 生まれたチリに、民族解放闘争を闘 う第三世界、発展途上国の人民の熱 い想いが寄せられていた。女性解放 について﹁女性のみの解放闘争であ ってはならない。被抑圧者全体の闘 争が、女性解放のために努力すべき なのだ。それが闘いを自らに引受け る方法であり、それ故、その闘争は

光州の

五月。光州でたちあがった市民の 群れの中に、血を流して倒れた者の 中にいた女たち。息子、娘、孫たち の枢の上に働突する母や祖母たち・:・: .:そして銃剣の制圧と死の沈黙の支 配する町から、それでもなお外部へ 真実を伝えようと生命をかけた女た + り ・ ・ ・ ・ ・ ・ 。 私たちは、その人々の名も知らず、 直接に顔を合わせたこともない。だ が、ゎ、ずかに、テレピのニュースの 一場面や外国通信社のもたらした記 事を通して知ったこの人々のことは、 私たちの胸に焼きつくように残って い る 。 たとえば、﹁外国特派員のみなさま へ﹂と題する英文の手紙の筆者であ る光州市の若い女性市民。この人は 英語を学ぴ、正確な英文を書くこと ができた。光州で起ったことを外国 に知らせるために、彼女はおそらく 夜を徹して、自分の見聞きしたこと を綴り、外国人記者に手渡した。 彼女は自宅にタイプを持つてはいな かったのだろう。文字は一字一字プ ロックで手書きにされている。 彼女はこう記している。﹁私はもし

ト訪日を許さない!

男女双方によって協力されるもので ある﹂と、明快な姿勢を打ち出した アジェンデ政権下において活躍した 数多くの女性組織はすべて壊滅した。 あらゆる社会運動の担い手が、殺さ れ、逮捕され、拷問され、それは現 在もなお続いている。 一九七九年九月

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十二月の第三四 回国連総会に提出された国連経済社 会理事会の報告書﹁チリにおける人 権の保護﹂や、アムネスティ・イン ターナショナルで告発されている女 性政治犯への性的拷聞の実情は、言 語を絶するほど残虐なものである。 ある。アメリカでの女性の問題は、 社会が人格の発展に加える制限、性 別役割、選択の自由などに焦点があ る。しかし、ほとんどのアジアの国 々では、女性問題とはただもう生き 延びることそのことなのである。 現行の政治、社会、経済体制の枠 内で行動するのでは女性の地位も表 面的な変化しか獲得できないだろう。 今、緊急な課題は、女性を、職場や 地域のさまざまな組織に動員して、 日々の問題について闘争を組むこと である。それは、働く人々のさまざ まな部分の民主的な運動の一部とし て、またそれらと同盟して、進めら れるべきだ。働く男性が、女性と団 また年少者の逮捕、尋問、拷聞が普 通のこととなり中学・高校の女子学 生に対する拷問も報告されている。 裸にしてなぐる、蹴る。肉体のもっ とも敏感な部分、男女の生殖器に電 流を通す。旺門に電流の通じた電線 を挿入する。水あるいは汚物のなか に沈める。子、足を宙吊りにしてた えまなく欧打する。生殖器、旺門、 腕に針をさし、超音波を投射する。 裸で何時間も立たせておく。飲料水、 食糧を与えない。プラスチックの袋 で窒息させる。薬剤の使用、他人の 拷問現場に立ちあわせる。性的はず

の女たち

ーー闘いの中からのメッセージ│

ゃ、外人特派員たちが、私たちの町 で起った悲劇の重要な局面を見落し ておられるのではないかと心配して います﹂:::そして、戒厳軍司令部 によって捕えられる危険を承知で、 あえて光州の真相を伝えている。 ※ ※ ※ 五月一八、一九、二

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日の空挺部 隊の残酷な行為はとても信じられな いほどの残虐きでありました。 私は、幾人かの年老いた人々が、 このような残虐な行為は一九五

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年 の韓国動乱(朝鮮戦争)のときにも なかったと発言したことが、市民感 情を奮起させたと想像しています。 私たちは、吸血鬼集団ともいえる空 挺部隊が、殺した数多くの市民の死 体を焼いたりかくしたと信じていま す 。 現在の光州が、学生と市民勢力に よって占拠されるようになった決定 的なできごとは、学生のデモ隊を運 んだという理由で四人の同僚を殺さ れた職業運転手の一団の怒りと、彼 らの車による抵抗に端を発していま す 。 私は道庁舎前の広場での市民集会、 示威運動に二二日の午後七時一

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分 まで参加しました。私は学生指導者 の純粋さにショックを受けました。 私は自由と民主主義がこの集会に具 現化されていたことを誇りに思いま す 。 抵抗運動の主要勢力はずっと秩序 のとれた行動をとっていました。 例えば、市の中央警察署は、すくな くとも三度にわたって戦車が市民を 制 圧 す る た め に や っ て 来 る と い う 極度の興奮状況のなかでさえ攻撃さ れませんでした。

MBC

放送(文化 放送)局が、原因不明の火事に襲わ れた時に、学生たちは消火に努めて いたことを、私の妹が目撃していま す 。 今、私たち光州市民は誇りに思っ ています。しかし同時に私たちは恐 しい孤立感を味わっています。正義 の学生たちは、夜がしのび寄ると寂 しさを隠すことができないでいます。 これは、主にマスコミの海外報道が、 私たちの期待以上に弱く、皮相的な ものでしかないからです。ソウルか らの放送は虚為と不誠実さに満ちて いるので私たちを驚惇させました。 結して闘うときにこそ、男性支配を 打ちこわす条件ができるのである。 と同時に、女性固有の問題に常に注 意を向ける運動でなければならない。 物価上昇や、警官や地主の働く女 性に対する性的暴行などは女性を闘 争に立ち上がらせることができるだ ろう。すでにさまざまな運動が各地 で起こっている。女性によいことを もたらすのは国際婦人年やリブでは なく、こうした運動に参加すること だけが、女性を抑圧と服従の牢獄か ら解放し、女性のセルフ・イメージ の変革へと続いていくのである。 (大石まゆみ抄訳) かしめ、女性に対して調教された犬 をけしかける。看守による暴行など 肉体的・精神的拷問の実例が数限り なく報告されている。 その独裁者ピノチェトが日本を正 式訪問するという。私たちはピノチ ェトの訪日を許してはならないと思 う。アジア・アフリカ・ラテン・ア メリカで民族解放・女性解放運動を 命をかけて闘っている女たちとのさ さやかな連帯のために! (﹁プレセンテ﹂﹁国連資料﹂より) 五 島 昌 子 彼(全斗煉)は吸血鬼かさもなく ば、少なくとも異常な性格の持ち主 だとしか思えません。私たちは全斗 燥のこの先の生きる道は、海外逃亡 か、さもなければ弾圧政策を強化し て、光州市一帯の市民の大虐殺を行 う他はないであろうということを知 っ て い ま す 。 私たちは、私たちの自由が私たち 自身の手によって勝ちとらなければ ならないことを知ってはいます。し かし、私たは、

SOS

を私たちの若 き闘士たちのために千度でも訴え、 祈らなければなりません。 伝えられるところによりますと、 ソウルおよび他の地域から多くの学 生たちが、光州地域を包囲している 軍隊の戦線を幾度も継続して突破し ようとして撃ち殺されたということ で す 。 私たちはまた、死亡した兵士も私 たちの同胞(はらから)であること を忘れてはいません。少数の反逆者 によってべなんと大きな悲劇がもた らされてしまったのでしょう。 このことを報道してくれる人に感 謝をささげると同時に、幸運をお祈 り致します。 一 九 八

O

年五月二三日午後一時

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参照

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