はじめに―境内保存を訴える― まことに残念ではあるが、第二部は、平成二五年(二〇一三)の調査開始後 の七年間に失われた鬼瓦の話から始めなければならない。 時間を令和元年(二〇一九)の夏に戻す。第一部(大脇二〇一九)の原稿が 整い、図版作成の最終段階を迎えてから写真の撮り直しに何回か出かけた。そ のために新しいカメラも買ったが、この間に七つもの鬼瓦が姿を消していた。 一つは、第一部、図 102の田原本町宮森・正法寺の太公望をあらわした鬼瓦で (図 1 )、表門と脇門の葺き替えで捨てられたらしい。もう一つ、桜井市長谷寺 参 道 の 古 民 家 の 屋 根 も 新 し く な り、 桃 を 持 つ 寿 老 人 が 失 わ れ て い た( 図 2 )。 二つとも年号はないが、他の例から天保一五年(一八四四)から慶応二年(一 八六六)頃に、奈良から京都にかけて巧みな造形作品を残したことが知られる 「南都 細工人 米川(米藤) 」の作品である。 三 つ め は「 文 化 七 年( 一 八 一 〇 ) 三 輪 瓦 師 佐 平 治 」 銘 の 桜 井 市 三 輪 の 恵 比 寿 で あ る( 図 3 )。 こ の 民 家 は す で に 空 き 家 と な っ て お り、 取 り 壊 し の 恐 れのある要注意物件だったのだが一足遅かった。歯を見せて笑うその笑顔が幸 いして、どこかに保存されていることを願うばかりである。 四 つ 目 は、 天 理 市 長 岳 寺 近 く の 大 念 仏 寺 の 一 風 か わ っ た 顔 立 ち の 鬼 瓦 で、 「 大 海 か わ ら 屋 惣 兵 衛 」「 宝 暦 五 年( 一 七 五 五 ) 亥 二 月 日 」 の 銘 が あ っ た が 新 築 で 失 わ れ た( 図 4 )。 大 海 と い う 地 名 は 今 の 地 図 に は 見 え な い の で、 は じめはどこの瓦屋か分からなかったが、柳本村(天理市柳本町)にかつてあっ た属邑「おおかひ・おおがい」村で四〜五代続いたと思われる瓦屋である。そ の活動年代や縄張りについては第三部で取り上げる。 五つ目と六つ目は、橿原市大垣町の無住となった親縁寺の鬼瓦である。二〇 一四年の一〇月に訪れた時には、境内に新口村の槌屋伝兵衛の天明四年(一七 八四)作の鬼瓦が四点あった。拓本を取ろうと二〇一九年の夏に出向くと、大 棟用の両脚を備えた阿形(図 5 )と吽形(図 6 )の鬼瓦が無くなっていた。阿 形が下顎を欠損する他は両者ともほぼ完全な鬼瓦である。一方、採拓できた二 例(第一部図 40‐ 13・ 14)は降り棟用の脚を持たないもので、割れた箇所も多 い。こうした状況から推察すると、出入り自由な境内から、残りの良い大棟用 の鬼瓦を誰かが持ち去った可能性が高い。 ネットオークションの画面を開くと、驚いたことに近世から近代にかけての 鬼瓦も取引の対象となっている。売却目的なのか、個人コレクションの対象な のかは分からないが、いずれにしろ無断で持ち去ったのであれば許せない。 こうしたケースは言語道断であるが、考えてみれば屋根の上の鬼瓦も、更新 という危機に常にさらされてきたのである。新品に替えてもらわなければ瓦屋 さんが困ることもよくわかる。 最後、七つ目の犠牲者は、第一部の最後に紹介した仁王堂の清助作の享保六 年( 一 七 二 一 ) の 紀 年 銘 を も つ 小 型 の 鬼 瓦 で あ る( 図 9 )。 桜 井 市 内 を 走 る 横
やまと・まほろば・甍紀行
―三山地域における近世鬼瓦の変遷―第二部
大
脇
潔
ものであるが、その際、降ろされた鬼瓦がいくつか保存されている。そのうち の、 大 棟 の 東 方 用 と 思 わ れ る 額 に 日 像 を あ ら わ す 鬼 瓦 に は( 図 11・ 13・ 16)、 本体側面右に「正徳三年(一七一三)五月吉日」 、左に「かわら町 清七」 、別 作りの向かって右脚に「和州 添上郡 奈良 南都 清七」の銘文(前回分類 したAタイプ)があった。一方、西方のものと思われる額に月像をあらわす鬼 瓦( 図 10・ 12・ 14) に は、 右 側 面 に「 瓦 町 清 七 作 」、 お な じ く 右 脚 に「 正 徳 三 年 五 月 吉 日 南 都 瓦 町 清 七 」 の 銘 文( A タ イ プ ) が 残 る。 両 者 と も に、 本 体 と 別 作 り の 脚 は、 そ れ ぞ れ に 穴 と 溝 か ら な る「 鎹 かすがい 穴 あな 」 を 設 け( 図 12・ 13)、 銅 線 な ど で 連 結 す る よ う に 工 夫 さ れ て い る。 な お、 鎹 穴 に つ い て は 鬼 師 小林章男さんの「裏から覗いた鬼瓦」に記述がある(小林二〇〇五) 。 こ の 他 に、 隅 棟 か 降 り 棟 用 と 思 わ れ る 鬼 瓦( 図 15・ 16) が あ り、 右 側 面 に 「□□□ 清七□ 南都 瓦師 清七」 、左側面に「□癸ヵ巳 新ノ口村 瓦屋 権 兵 衛( 花 押 ) 八 月 八 日 」 の 銘( A タ イ プ ) が あ る。 正 徳 三 年 の 干 支 は 癸 巳 であり、また大棟と、降り棟の鬼瓦の左右の珠紋に残る椀形の施紋具を回した 痕跡も大きさは違うがよく似ているので、この三例の鬼瓦は正徳三年の五月か ら八月にかけての本堂用の瓦作りの際に作られたものであろう。 平 凡 社 刊 の 『 奈 良 県 の 地 名 』 に よ れ ば 、 南 都 瓦 町 は 奈 良 市 西 木 辻 町 に あ っ た と い う 。 し た が っ て 、 本 堂 の 瓦 は 出 職 し た 南 都 瓦 町 の 清 七 と 、 地 元 の 新 口 村 ( 橿 原 市 新 口 町 ) の 瓦 屋 権 兵 衛 が 分 担 し た と 思 わ れ る 。 大 棟 の 鬼 瓦 は 両 方 と も 清 七 が 作 っ て い る の で 、 権 兵 衛 は 従 の 立 場 だ っ た の で あ ろ う 。 こ う し た 分 担 ・ 協 同 製 作 は 、 前 回 紹 介 し た 桜 井 市 の 長 谷 寺 一 切 経 蔵 や 、 あ と で 取 り 上 げ る 京 都 市 相 国 寺 法 はっ 堂 とう で も 認 め ら れ 、 大 規 模 な 造 営 に な れ ば な る ほ ど 、 必 然 的 に 採 用 さ れ る 作 業 形 態 で あ っ た 。 な お 、 こ の 他 に 、 庫 裏 用 と 思 わ れ る 牡 丹 に 唐 獅 子 を あ ら わ し た 鬼 瓦 が あ り 、 正 面 右 脇 区 に 「 南 都 瓦 町 清 七 」 銘 ( A タ イ プ ) が あ る ( 図 17)。 大 路 と 山 田 道 の 交 差 点 に 建 つ 地 蔵 堂 の 建 て 替 え の 際 に 捨 て ら れ た ら し い( 図 7 ・ 8 )。 こ れ で 彼 が 唯 一 残 し た 鬼 瓦 は、 三 〇 〇 歳 ま で あ と 一 年 と い う 時 に つ いに姿を消した。 今は、個々の寺社や民家だけでなく、地域史の生き証人であり、大切な文化 財であるという意識を訴え、古い鬼瓦も捨てずに再利用する。ひびなどがあっ て、それができない場合は境内などに保存するという配慮―境内保存―を、管 理者はもちろん解体や屋根の葺き替えに関わる業者に訴えるしかない。 それでも、近世の鬼瓦がしだいに失われていくのを押しとどめることは無理 であろう。第一部の「鬼瓦余聞 其の二 薬師庵の鬼瓦レスキュー事件」の場 合も危機一髪であった。せめて一つでも多くの鬼瓦の記憶を残すためには、歩 くしかない。ここに失われた鬼瓦の遺影を掲げておく。 一 その後の調査成果 第一部の原稿提出後、それまでの調査で見落としていたいくつかの寺と、よ り西方の大和高田市・葛城市内と、広陵町や田原本町・天理市内の約一三〇の 寺社の調査を断続的に行った。その成果の一部をまとめておこう。 1 安楽寺本堂の造営 橿原市葛本町の安楽寺を六年ぶりに再訪し、前回は日没時間切れで見落とし ていた境内の隅に、本堂と表門の鬼瓦が多数保存されていることを知った。そ の結果、第一部の「新口村の瓦生産」を大幅に書き直す必要が生じたが、まず は安楽寺の鬼瓦の話から始めよう。 本堂は昭和一〇年(一九三五、その前年に室戸台風があった)に再建された 図3 恵 比 寿 文 化7年(1810) 三 輪 村 佐 平 治 桜井市馬場 民家 図5 天明4年(1784)槌屋伝兵衛 図6 この2点の鬼瓦が境内から消えた 橿原市大 垣町 親縁寺 図2 寿老人 南都細工人米川 桜井市初瀬 民家 図4 宝暦5年(1755)大海村 惣兵衛 天理市 柳本町 大念仏寺 図1 太公望 南都細工人米川(米藤) 田原本町 宮森 正法寺 図8 2020年の春?改築 図7 仁王堂の旧地蔵堂 図9 享保6年(1721) 仁王堂 清助 桜井市戒重
図3 恵 比 寿 文 化7年(1810) 三 輪 村 佐 平 治 桜井市馬場 民家 図5 天明4年(1784)槌屋伝兵衛 図6 この2点の鬼瓦が境内から消えた 橿原市大 垣町 親縁寺 図2 寿老人 南都細工人米川 桜井市初瀬 民家 図4 宝暦5年(1755)大海村 惣兵衛 天理市 柳本町 大念仏寺 図1 太公望 南都細工人米川(米藤) 田原本町 宮森 正法寺 図8 2020年の春?改築 図7 仁王堂の旧地蔵堂 図9 享保6年(1721) 仁王堂 清助 桜井市戒重
図13 本堂大棟東の鬼瓦 額に日像と五彩雲 図14 月像を飾る鬼瓦裏面の補強用の突帯 図16 清七(右)と権兵衛作鬼瓦の作風の比較 図15 正徳3年(1713) 新ノ口村瓦屋 権兵衛 図17 清七作 唐獅子牡丹の鬼瓦 図11 正徳3年(1713) 本堂大棟東の鬼瓦と脚 南都瓦屋清七 図10 正徳3年(1713) 本堂大棟西の鬼瓦と脚 南都瓦屋清七 図12 本堂大棟西の鬼瓦 額に月像と五彩雲 3 近世寺院の造営を鬼瓦の銘文から考える 安楽寺の境内に保存された鬼瓦からは、もう一つの情報が引き出せる。近世 寺院の本堂がいつ作られ、門がいつできたかを明らかにするのに鬼瓦の銘文が 役立ちそうなことである。安楽寺の場合は、本堂の建立後、三十三年後に門が 完成したことがわかった。つまり、一つの寺の完成に要した時間がつかめるの である。また、建築様式と鬼瓦から分かる年代が一致するかどうかもこれから 検討できる。興味深い課題なので、次回改めて検討を加えることにする。 鬼瓦余聞 其の五 無銘鬼瓦の作者を推定する(口絵37・38参 第一部の冒頭で紹介したように、桜井市池之内(旧十市郡池之内村)の鎮守 である稚桜神社は「やまと・まほろば・甍紀行」を書き始めるきっかけになっ た 場 所 で あ る( 口 絵 3 )。 そ の 本 本 殿 に は は 世 紀 代 の の 蓮 を を 刻 ん だ 石 灯 の の 台が伏せてあり、 「雷おさえの だ 」として知られており(口絵4 )、また た制 の 殿 には古代寺院の唐居敷と思われる だ 材もある(口絵4 )( (補 )。 こ の 社 は、 宝 暦 九 年( 一 は 五 九 ) の 史 料 や( 平 凡 社 一 九 八 一 )、 明 和 八 年 ( 一 は は 一 ) の だ 石 灯 銘 か ら「 天 満 宮 」 と 呼 ば れ て い た こ と が わ か り、 延 喜 式 に「城上郡若桜神社」とある式内社の稚桜神社と称されるようになったのは明 治一四年(一八八一)の現本 本 建立の頃らしい。桜井市谷(旧城上郡)にも延 喜式内社とされる若桜神社があり、こちらが有力視されているが、ここも「白 山権現」と呼ばれていたようである。 さて 殿 回はこの稚桜神社祓戸の文化二年(一八〇五)銘の鬼瓦から話を始め たが(口絵3 )、その の の の太 台 台 の の屋 に(口絵 絵 )、もっと古い二つの つ 銘 鬼瓦がある(口絵3 ・ ・ )。銘文がないとつい つ 視しがちであり( り( )、その 2 表門の鬼瓦 南面する表門(図 18)は二〇一三年秋に調査済みであったが、南面東降り棟 用 と 思 わ れ る 鬼 瓦 も 境 内 で 見 つ か っ た( 図 21)。 舌 を 大 き く 出 し た 鬼 瓦 で、 右 側 面 に「 延 享 三 歳( 一 は 四 六 ) 丙 寅 三 月 吉 日 」、 左 側 面 に「 新 口 村 瓦 師 治兵衛 板」の銘文( C タイプ)が残る(図 25)。 こ の 鬼 瓦 は、 図 20の、 右 側 面 に「 新 口 村 瓦 子 相 田 傳 兵 衛 板 」、 左 側 面 に「延享三丙寅歳 三月吉日」という銘のある、表門の南面西降り棟の額に宝 珠をつけた鬼瓦と比較すると、作者も珠紋帯の表現も異なるものの、角に一条 の沈線を入れる点や、髪の生え際や上唇に細かい刺突を加えるなどの細かい表 現が一致するので、阿吽の一対で作られたものであろう。なお、舌を出した鬼 瓦 は、 滋 賀 県 小 八 木 廃 寺 に は 世 紀 後 半 と 思 わ れ る 出 土 例 が あ る( 近 藤 一 九 は 六・ 山 本 一 九 は 九 )。 ま た 平 城 宮 出 土 の 奈 良 時 代 鬼 瓦 の の に、 上 下 の 歯 の 間 に 舌を少し出した例があるが、ここまで思いっきり舌を出した鬼瓦は珍しい。舌 を出す獣面・鬼面の類は、ギリシアのメドゥーサをはじめとして古今東西にそ の例が多いが、この鬼瓦も、おそらく 辟邪の意味を込めて造形されたものであ ろう。 これで表門は、地元の瓦 の である新口村の相田傳兵衛と治兵衛が、延享三年 (一 は 四六)に作った鬼瓦で飾られていたことが判明した。この表門の場合も、 波にのる宝珠をあらわした大棟東西の鬼瓦(図 19)と、 の 面降り棟の奏楽飛天 を あ ら わ し た 二 つ の 鬼 瓦( 図 22)、 そ れ に 南 面 西 降 り 棟 の 鬼 瓦 に は 相 田 傳 兵 衛 の名があるので、傳兵衛が主、治兵衛が従という関係になる。なお、奈良文化 財研究所の箱崎和久さ 刻 のご教示によると、この表門は一八世紀 の 頃の特色を もつというので、建立時の鬼瓦がすべて残されていることになる。
3 近世寺院の造営を鬼瓦の銘文から考える 安楽寺の境内に保存された鬼瓦からは、もう一つの情報が引き出せる。近世 寺院の本堂がいつ作られ、門がいつできたかを明らかにするのに鬼瓦の銘文が 役立ちそうなことである。安楽寺の場合は、本堂の建立後、三十三年後に門が 完成したことがわかった。つまり、一つの寺の完成に要した時間がつかめるの である。また、建築様式と鬼瓦から分かる年代が一致するかどうかもこれから 検討できる。興味深い課題なので、次回改めて検討を加えることにする。 鬼瓦余聞 其の五 無銘鬼瓦の作者を推定する(口絵37・38参 第一部の冒頭で紹介したように、桜井市池之内(旧十市郡池之内村)の鎮守 である稚桜神社は「やまと・まほろば・甍紀行」を書き始めるきっかけになっ た 場 所 で あ る( 口 絵 3 )。 そ の 本 本 殿 に は は 世 紀 代 の の 蓮 を を 刻 ん だ 石 灯 の の 台が伏せてあり、 「雷おさえの だ 」として知られており(口絵4 )、また た制 の 殿 には古代寺院の唐居敷と思われる だ 材もある(口絵4 )( (補 )。 こ の 社 は、 宝 暦 九 年( 一 は 五 九 ) の 史 料 や( 平 凡 社 一 九 八 一 )、 明 和 八 年 ( 一 は は 一 ) の だ 石 灯 銘 か ら「 天 満 宮 」 と 呼 ば れ て い た こ と が わ か り、 延 喜 式 に「城上郡若桜神社」とある式内社の稚桜神社と称されるようになったのは明 治一四年(一八八一)の現本 本 建立の頃らしい。桜井市谷(旧城上郡)にも延 喜式内社とされる若桜神社があり、こちらが有力視されているが、ここも「白 山権現」と呼ばれていたようである。 さて 殿 回はこの稚桜神社祓戸の文化二年(一八〇五)銘の鬼瓦から話を始め たが(口絵3 )、その の の の太 台 台 の の屋 に(口絵 絵 )、もっと古い二つの つ 銘 鬼瓦がある(口絵3 ・ ・ )。銘文がないとつい つ 視しがちであり( り( )、その 2 表門の鬼瓦 南面する表門(図 18)は二〇一三年秋に調査済みであったが、南面東降り棟 用 と 思 わ れ る 鬼 瓦 も 境 内 で 見 つ か っ た( 図 21)。 舌 を 大 き く 出 し た 鬼 瓦 で、 右 側 面 に「 延 享 三 歳( 一 は 四 六 ) 丙 寅 三 月 吉 日 」、 左 側 面 に「 新 口 村 瓦 師 治兵衛 板」の銘文( C タイプ)が残る(図 25)。 こ の 鬼 瓦 は、 図 20の、 右 側 面 に「 新 口 村 瓦 子 相 田 傳 兵 衛 板 」、 左 側 面 に「延享三丙寅歳 三月吉日」という銘のある、表門の南面西降り棟の額に宝 珠をつけた鬼瓦と比較すると、作者も珠紋帯の表現も異なるものの、角に一条 の沈線を入れる点や、髪の生え際や上唇に細かい刺突を加えるなどの細かい表 現が一致するので、阿吽の一対で作られたものであろう。なお、舌を出した鬼 瓦 は、 滋 賀 県 小 八 木 廃 寺 に は 世 紀 後 半 と 思 わ れ る 出 土 例 が あ る( 近 藤 一 九 は 六・ 山 本 一 九 は 九 )。 ま た 平 城 宮 出 土 の 奈 良 時 代 鬼 瓦 の の に、 上 下 の 歯 の 間 に 舌を少し出した例があるが、ここまで思いっきり舌を出した鬼瓦は珍しい。舌 を出す獣面・鬼面の類は、ギリシアのメドゥーサをはじめとして古今東西にそ の例が多いが、この鬼瓦も、おそらく 辟邪の意味を込めて造形されたものであ ろう。 これで表門は、地元の瓦 の である新口村の相田傳兵衛と治兵衛が、延享三年 (一 は 四六)に作った鬼瓦で飾られていたことが判明した。この表門の場合も、 波にのる宝珠をあらわした大棟東西の鬼瓦(図 19)と、 の 面降り棟の奏楽飛天 を あ ら わ し た 二 つ の 鬼 瓦( 図 22)、 そ れ に 南 面 西 降 り 棟 の 鬼 瓦 に は 相 田 傳 兵 衛 の名があるので、傳兵衛が主、治兵衛が従という関係になる。なお、奈良文化 財研究所の箱崎和久さ 刻 のご教示によると、この表門は一八世紀 の 頃の特色を もつというので、建立時の鬼瓦がすべて残されていることになる。
れる。無銘の鬼瓦の作者を推定することも不可能ではなさそうであり、老後の 楽しみに取って置こう。なお、拝殿の鬼瓦は棟札が見つかり、大正二年(一九 一三)に瓦葺きに改修した際のものであることが判明した。これについては次 回、明治から昭和までの鬼瓦の変遷を取り上げる中で紹介する。 4 新口村の瓦生産再論 ここでは、以上の成果に基づき、新口村の瓦生産を再度要約しておこう。 ① この村での瓦作りは、田原本町 多 おお に所在する観音堂の鬼瓦銘によって、少 なくとも宝永六年(一七〇九)の瓦屋八衛門まで遡る(唐古・鍵考古学ミュー ジ ア ム 二 〇 〇 八 )。 そ の 鬼 瓦 に は、 右 側 面 に「 多 村 二 ノ 口 瓦 や 八 衛 門 子 権 □ □ 勘 □ 郎 」、 左 側 面 に「 宝 永 六 年 丑 ノ 七 月 吉 日 」 と い う 銘 文( A タ イ プ)があるものの、□部分は読めないとされてきた。しかし、今回の安楽寺本 堂の隅棟か降り棟用と思われる鬼瓦(図 15)の左側面の「□癸ヵ巳 新ノ口村 瓦 屋 権 兵 衛( 花 押 ) 八 月 八 日 」 と い う 銘 文( A タ イ プ ) を 参 考 に す る と 「 八 衛 門 子 権 □ □ 」 は「 八 衛 門 子 権 兵 衛 」 と 読 め る 可 能 性 が 高 く な っ た。 銘文にある「□癸ヵ 巳 」は正徳三年(一七一三)と考えられる。とすれば、二 ノ口の瓦屋八衛門の一子権兵衛が、八衛門の跡を継いで安楽寺本堂の瓦作りに 加わった可能性が高まる。 ② 田 原 本 町 の 鏡 作 坐 天 照 御 魂 神 社 の 旧 神 宮 寺 で あ る 聞 楽 院 の 鐘 楼 大 棟 鬼 瓦 に、 右 側 面「 常 盤 町 住 増 田 太 兵 衛 藤 原 氏 瓦 工 相 田 傳 兵 衛 」、 左 側 面 「 享 保 三 年( 一 七 一 八 ) 戊 三 月 」 と い う 銘 文( B タ イ プ。 た だ し や や 細 い 字 体)があり、相田傳兵衛を名乗る瓦工がここであらわれる。平凡社の『奈良県 の地名』によれば、この常盤町は現在の田原本町の大字八尾にかつて存在した 年代などを深く考えることがなかったが、ひょんなことから思いがけない展開 になった。 安楽寺表門の相田傳兵衛と、新口村の治兵衛作の鬼瓦の特徴については先述 したとおりである。そして、これを書いた直後に稚桜神社の鬼瓦の写真を撮り に出かけた。拝殿の葺き替えが必要になったが、その大棟の鬼瓦が在銘資料の 少ない大正から昭和初めと思われる特徴をもっており、修理で棟札でも見つか れば年代がつかめる。鬼瓦は新調するというので、氏子の一人として境内への 保存をお願いしたが、その修理前の写真を撮りに出かけたついでに太鼓台庫の 鬼瓦も撮ってみた。三山地域の鬼瓦の年代観からすると、その型式は池之内村 最古の一八世紀の鬼瓦であることがわかってきたので、木によじ登って撮り直 すことにしたのである。 写真をよく見ると、書いたばかりの安楽寺表門の鬼瓦(図 20・ 21)の特徴と よ く 似 て い る( 口 絵 3 ・ ・ )。 ) や 髪 だ け で な く、 く に 一 に の 条 の を 線 れ る れ や、 ) の 生 え 際 や 唇 の ま わ り に 細 か く 刺 突 を 加 え る な ど の 細 部 表 現 が 一 致 す る。また珠紋帯もよく似ている。こうして私は、稚桜神社太鼓台庫の二つの鬼 瓦も相田傳兵衛、あるいは治兵衛が延享三年(一七四六)頃に作った可能性が きわめて高いと思うに至ったのであるが、読者の判定や如何。 ちなみに新口村と池之内村は直 の で約四・五キロの距離にあり、前稿で検討 した近世瓦屋の縄張の範囲内におさまる。稚桜神社の西麓に善法寺(現在は池 之内区の公民館として改築)があり、これらの瓦はその屋根に用いられた可能 性もある。また池之内区には、太鼓台は橿原市十市町から譲り受けたという話 が 伝 え ら れ て い る の も 気 に な る( 口 絵 3 )。 十 市 村 と 新 口 村 は そ の の に に 本 村 をはさんでわずか一キロほどしか離れていないからであり、この辺りに相田傳 兵衛の作った鬼瓦が稚桜神社に存在する謎を解き明かす鍵があるようにも思わ 図18 橿原市葛本町 安楽寺表門(北から) 図20 表 門 南 面 降 り 棟 南 西 の 鬼 瓦 延 享3年 (1746) 相田傳兵衛 図22 奏 楽 飛 天 の 鬼 瓦 降 り 棟 北 東 延 享3年 (1746) 相田傳兵衛 図19 大棟東 延享3年(1746) 相田傳兵衛 波 に宝珠紋鬼瓦 図21 舌出し鬼瓦 延享3年(1746) 新ノ口村 治兵衛 図23 図19銘文 図22銘文図24 図21銘文図25
図18 橿原市葛本町 安楽寺表門(北から) 図20 表 門 南 面 降 り 棟 南 西 の 鬼 瓦 延 享3年 (1746) 相田傳兵衛 図22 奏 楽 飛 天 の 鬼 瓦 降 り 棟 北 東 延 享3年 (1746) 相田傳兵衛 図19 大棟東 延享3年(1746) 相田傳兵衛 波 に宝珠紋鬼瓦 図21 舌出し鬼瓦 延享3年(1746) 新ノ口村 治兵衛 図23 図19銘文 図22銘文図24 図21銘文図25
そ の 理 由 は 本 人 に 聞 く し か な い が 、 様 々 な 仮 説 が 浮 か ん で は 消 え 、 ま た 浮 ぶ 。 仮説 1 相田傳兵衛がA・ B ・ C タイプの筆跡を使い分けた。この場合、治 兵衛の銘文は傳兵衛が代筆したことになる。 仮説 2 治兵衛がA・ B ・ C タイプの筆跡を書き分けた。この場合は、相田 傳兵衛の銘文はすべて治兵衛が代筆したことになる。 仮 説 3 A・ B タ イ プ は 相 田 傳 兵 衛 の 筆 跡、 C タ イ プ は 治 兵 衛 の 筆 跡 で あ る。この場合、相田傳兵衛の C タイプの銘文は治兵衛が代筆したことになる。 仮説 4 相田傳兵衛と治兵衛同一人物説。安楽寺で一点だけ見つかった治兵 衛作の鬼瓦は、傳兵衛が何らかの事情により治兵衛を名乗っていた時の作品と いうことになる。三山地域には、こうした例が少なくとも一例ある。 仮 説 5 治 兵 衛 が 傳 兵 衛 の C タ イ プ の 筆 跡 を 真 似 た。 こ の 仮 説 は「 新 口 村 瓦師 治兵衛 板」という銘文と、相田傳兵衛の C タイプの銘文が似ているこ とに基づくもので、相田傳兵衛の C タイプの銘文は、伝兵衛の下で働き、鬼瓦 を細工した治兵衛が親方である傳兵衛の名を書いたという理解である。 仮説 6 もう一つの仮説は、銘文を書く時に鬼瓦が立った状態なのか、寝た 状態なのかによって筆跡が変わるのではないかという憶測である。 民 俗 例 や( 神 谷 二 〇 〇 九、 京 都 府 立 山 城 郷 土 資 料 館 二 〇 一 四 )、 現 役 の 何 人 かの鬼師(鬼板師)の話を参考に、近世鬼瓦の製作技法を述べると次のように なる。 鬼 瓦 作 り は、 作 業 台 上 に ま ず 板( 小 板・ 運 び 板 ) を 置 く。 「 板 」 は 桟 を 打 ち 付けてあり、下駄をはかせた状態になるので持ちやすくなっており、これを多 数 用 意 す る。 作 業 台 上 の 板 の 上 に 粘 土 板( 地 板 ) を 置 き、 そ の 上 に 型 紙 を 敷 く。 鬼 瓦 の 輪 郭 を 切 り 出 し て か ら、 側 板( ハ リ カ ワ ) に な る 粘 土 板 を 接 合 す る。本体部分(モヤ)ができ上ったらもう一枚の板を上に当て、板二枚で挟ん 八尾村の町屋である常盤町であり、増田太兵衛は寄進者と思われる。そしてこ の八尾村は、前回紹介した明和三年(一七六六)銘の鬼瓦を桜井市来迎寺に残 した堀門文右衛門の瓦屋があった八百村のことであるが、相田傳兵衛の居住地 はこの鬼瓦銘からはわからない。 ③ 元文五年(一七四〇)銘をもつ橿原市山之坊町の阿弥陀寺の鬼瓦に「新口 村 瓦屋 相田傳兵衛 板」の名(A・ C タイプ)を確認でき、その所在地が 明らかになる。彼は、旧開楽院と橿原市山之坊町の阿弥陀寺、同葛本町の安楽 寺、同八木町の西福寺(銘文は B タイプ。ただしやや細い字体)と、広陵町安 部の浄徳寺( C タイプ)に延享五年(一七四八)までの鬼瓦を残した。旧聞楽 院例以外の銘文の末尾に「板」という一字を書く特徴があり、延享三年(一七 四 六 ) に 安 楽 寺 表 門 の 舌 出 し 鬼 瓦 を 作 っ た「 新 口 村 瓦 師 治 兵 衛 板 」 も 「 板 」 と 書 く 特 徴 が 共 通 す る の で 治 兵 衛 は 相 田 傳 兵 衛 と と も に 働 く 瓦 師 ら し い ことがわかる。なお治兵衛の銘文は C タイプに分類でき、相田傳兵衛によく似 た筆跡である。またこの銘文末尾の「板」は前回も書いたように、花押ではな く「鬼板」の略と理解すべきである。 ④ ところが、困ったことに、この相田傳兵衛の筆跡には、すでに山之坊町の 阿弥陀寺鬼瓦でも示したように、A・ C の異なるタイプがあり、安楽寺表門の 北 面 降 り 棟 に 残 る 二 個 の 奏 楽 飛 天 の 鬼 瓦 に も、 前 回 分 類 し た A タ イ プ ( 図 24) と C タイプに近い例がある。鬼瓦に限らず、銘文のある製品の作者が同一人物 であるかどうかを見極める際の大前提として、同一筆跡か否かが決め手になる はずである。 5 異なるタイプの銘文―真相は藪の中― 彼 は な ぜ 自 分 の 作 品 に A ・ B ・ C と い う 異 な る タ イ プ の 銘 文 を 残 し た の か 。 ( 一 七 九 五 ) ま で の 四 一 年 間 に わ た り、 前 回 取 り 上 げ た よ う に 槌 屋( こ れ も 槌 谷と書く例が二例ある)傳兵衛が活躍し、その後継者と思われる傳八が寛政八 年(一七九六)まで瓦を作り続けた。また、重要文化財の瑞花院本堂の修理報 告書によれば、江戸時代末期の留蓋に「二ノ口村 槌屋 鳳徳作」という銘文 を残す例があり、彼が傳八の後継者であった可能性がある(奈良県一九七四) 。 ⑥ 前回調査できなかった橿原市八木町の国分寺鐘楼の鬼瓦に「天明乙巳 三 月 吉 日 / 新 口 村 瓦 や 内 惣 治 郎 」 と い う 銘 文 が あ り( 図 27)、 惣 治 郎 と い う瓦工の存在も明らかになった。この銘文にある「天明乙巳」は天明五年(一 七八五) 、「内」は槌屋傳兵衛が経営する瓦屋で働く瓦工をあらわすと考えられ る。なお、この鐘楼には、天明八年(一七八八)に槌谷傳兵衛が作った波頭紋 をあらわす鬼瓦と鯱のセットが良好な状態で残されている(図 26)。 ⑦ この三人のうち槌屋傳兵衛の活躍した時代は四一年と長いので、前回約束 したように、今回、銘文を改めてすべて見直してみた。ほとんどの例が放ち書 きで、文字を太く書く B タイプに属し、筆跡は基本的に一致する。加えて「瓦 だ状態でひっくり返し、その上に内型等を置き粘土で顔を成型する。 その後、完成まで寝かせた状態で作るわけであるが、銘文を刻む段階になる と、 こ れ を 起 こ し、 側 面 に 字 が 書 き や す い 斜 め の 状 態 に し な け れ ば な ら な い。 ところが、そのためにはそれ相応の工程が必要となる。板ごと動かせば少しは 楽になるにしても、同時製作の多数の鬼瓦の中には寝かせたままの状態で書い た銘文もあるのではないだろうか。そして、この状態で書いた銘文は必然的に C タイプに近い直線的な書体になる。同時に作った鬼瓦に、違う書体で書く場 合がある理由の一つには、こうした手抜きがあるのかもしれない。 相田傳兵衛の作品には、橿原市山之坊町の阿弥陀寺の「阿」字や、同市安楽 寺表門の「波に宝珠」と「奏楽飛天」 、同市八木町の西福寺の「菊花と葉」 、広 陵町安部の浄徳寺の鬼の全身像など、鬼面紋以外の作品が多いという特色があ るのも、鬼瓦相互の作風の比較を難しくしている要因となる。 したがって、享保三年(一七一八)に、前項②の聞楽院鐘楼の鬼瓦を製作し た相田傳兵衛が、元文五年(一七四〇)から延享五年(一七四八)までに三寺 の鬼瓦を作った相田傳兵衛と同一人物かどうかはにわかには判断できない。聞 楽 院 鐘 楼 の 鬼 瓦 の 銘 文 は 細 字 の B タ イ プ で あ り、 「 相 」 の 書 体 な ど が 似 て は い るが、作風が「鬼瓦余聞 其の五」で紹介した特徴とは異なるからである。こ れが、年代が離れることによる鬼面紋鬼瓦の作風や型式変化に基づくものか否 かは鬼瓦研究の最も難しい課題である。ここでは断定はできないものの、八木 町の西福寺例の細字 B タイプの銘文との類似点を重く見て、相田傳兵衛は一代 限りで享保三年(一七一八)から延享五年(一七四八)までの三〇年間働いた 瓦工であったと推定しておきたい。 以下は前項からの要約の続きとなる。 ⑤ こ の あ と は、 六 年 の 空 白 を お い て、 宝 暦 四 年( 一 七 五 四 ) か ら 寛 政 七 年 図26 彫りの技が冴える八木町国分寺 鐘楼の鬼瓦 槌谷傳兵衛 図27 同鐘楼 天明5年(1785)新口 村 惣治郎
( 一 七 九 五 ) ま で の 四 一 年 間 に わ た り、 前 回 取 り 上 げ た よ う に 槌 屋( こ れ も 槌 谷と書く例が二例ある)傳兵衛が活躍し、その後継者と思われる傳八が寛政八 年(一七九六)まで瓦を作り続けた。また、重要文化財の瑞花院本堂の修理報 告書によれば、江戸時代末期の留蓋に「二ノ口村 槌屋 鳳徳作」という銘文 を残す例があり、彼が傳八の後継者であった可能性がある(奈良県一九七四) 。 ⑥ 前回調査できなかった橿原市八木町の国分寺鐘楼の鬼瓦に「天明乙巳 三 月 吉 日 / 新 口 村 瓦 や 内 惣 治 郎 」 と い う 銘 文 が あ り( 図 27)、 惣 治 郎 と い う瓦工の存在も明らかになった。この銘文にある「天明乙巳」は天明五年(一 七八五) 、「内」は槌屋傳兵衛が経営する瓦屋で働く瓦工をあらわすと考えられ る。なお、この鐘楼には、天明八年(一七八八)に槌谷傳兵衛が作った波頭紋 をあらわす鬼瓦と鯱のセットが良好な状態で残されている(図 26)。 ⑦ この三人のうち槌屋傳兵衛の活躍した時代は四一年と長いので、前回約束 したように、今回、銘文を改めてすべて見直してみた。ほとんどの例が放ち書 きで、文字を太く書く B タイプに属し、筆跡は基本的に一致する。加えて「瓦 だ状態でひっくり返し、その上に内型等を置き粘土で顔を成型する。 その後、完成まで寝かせた状態で作るわけであるが、銘文を刻む段階になる と、 こ れ を 起 こ し、 側 面 に 字 が 書 き や す い 斜 め の 状 態 に し な け れ ば な ら な い。 ところが、そのためにはそれ相応の工程が必要となる。板ごと動かせば少しは 楽になるにしても、同時製作の多数の鬼瓦の中には寝かせたままの状態で書い た銘文もあるのではないだろうか。そして、この状態で書いた銘文は必然的に C タイプに近い直線的な書体になる。同時に作った鬼瓦に、違う書体で書く場 合がある理由の一つには、こうした手抜きがあるのかもしれない。 相田傳兵衛の作品には、橿原市山之坊町の阿弥陀寺の「阿」字や、同市安楽 寺表門の「波に宝珠」と「奏楽飛天」 、同市八木町の西福寺の「菊花と葉」 、広 陵町安部の浄徳寺の鬼の全身像など、鬼面紋以外の作品が多いという特色があ るのも、鬼瓦相互の作風の比較を難しくしている要因となる。 したがって、享保三年(一七一八)に、前項②の聞楽院鐘楼の鬼瓦を製作し た相田傳兵衛が、元文五年(一七四〇)から延享五年(一七四八)までに三寺 の鬼瓦を作った相田傳兵衛と同一人物かどうかはにわかには判断できない。聞 楽 院 鐘 楼 の 鬼 瓦 の 銘 文 は 細 字 の B タ イ プ で あ り、 「 相 」 の 書 体 な ど が 似 て は い るが、作風が「鬼瓦余聞 其の五」で紹介した特徴とは異なるからである。こ れが、年代が離れることによる鬼面紋鬼瓦の作風や型式変化に基づくものか否 かは鬼瓦研究の最も難しい課題である。ここでは断定はできないものの、八木 町の西福寺例の細字 B タイプの銘文との類似点を重く見て、相田傳兵衛は一代 限りで享保三年(一七一八)から延享五年(一七四八)までの三〇年間働いた 瓦工であったと推定しておきたい。 以下は前項からの要約の続きとなる。 ⑤ こ の あ と は、 六 年 の 空 白 を お い て、 宝 暦 四 年( 一 七 五 四 ) か ら 寛 政 七 年 図26 彫りの技が冴える八木町国分寺 鐘楼の鬼瓦 槌谷傳兵衛 図27 同鐘楼 天明5年(1785)新口 村 惣治郎
だろうか。あとは前にも書いたように、天災でも起きない限り、瓦屋が生き延 びる道はなかったというのが実情だったと思われる。 二 瓦工は何年働いたか さて、こうして相田傳兵衛と槌屋傳兵衛は、それぞれ一代だけであったこと が判明した。しかし、前回紹介した谷本五郎右衛門や三輪佐平次のように代替 わりしたことが明らかな場合、果して何代続いたのかが知りたくなる。 これを突き止めるためには、筆跡と作風の変化を細かく追う必要がある。そ こで今回、一定数以上の鬼瓦を残した数人の瓦工の銘文の筆跡鑑定と、作風の 変化を分析することにした。しかし、一部を除き、相田傳兵衛の場合とおなじ ようにいずれも難しく、なかなか確証は得られないというのが結論である。そ の 最 大 の 原 因 は 製 品 と 銘 文 の す べ て が 残 さ れ て い な い か ら で あ る が、 加 え て、 第一部や前項でも紹介したように、瓦工は同時に作った複数の鬼瓦(同時製作 鬼瓦群)にも、楷書体と行書体を使い分け、また筆づかいや勢いなどに変化を つける例が多く、さらに瓦工集団を統率し、かつ鬼瓦を製作した瓦師(法隆寺 などでいえば瓦大工)と、その下で働く瓦工(法隆寺の瓦大工橘吉重の銘文に は「仕手」とある)や細工人の筆跡の見分けが難しく、その鑑定はさらに困難 になる。 作風の変化も、瓦工の活動期間が長くなるほど、型式変化という大波との識 別が難しくなる。要するに、長く活動した瓦師ほど、当然のことながらその銘 文と作風の変化が大きくなり、おなじ名前を代々名乗った瓦屋を、初代、これ は二代と識別することは至難の業となる。そこで一応掴んでおくことが必要と なるのが、瓦工の平均的活動期間である。 工 」 の「 工 」 を「 ユ 」、 「 傅 兵 衛 」 の「 衛 」 を「 衞 」 と 書 く な ど の 共 通 点 も 多 い。もちろん、前回掲載した図 40‐ 14のように、降り棟用の小型の鬼瓦の一部 に細い字で続け書きする例もある。また、彼が作った鬼瓦に、いわゆる鬼面紋 鬼瓦以外の、文字や装飾豊かな製品が多いという特徴からも別人と判断する根 拠がないので、槌屋傳兵衛は一代、四一年で終わり、その息子と思われる傳八 と、雅号風の鳳徳を名乗る人物が江戸時代末期まで瓦屋を受け継いだという家 族史が描ける。 ⑧ したがって、新口村で瓦生産に携わった瓦工は、八衛門とその子である権 兵衛・勘□郎、相田傳兵衛と治兵衛、槌屋傳兵衛と傳八・鳳徳、それに惣治郎 の九人となる。ということで、新口村の瓦生産が宝永六年(一七〇九)から寛 政八年(一七九六)までの八七年間に限られるという前回の結論は、さらに半 世紀ほど長くなる。また、今回の調査によって、広陵町と香芝市で相田傳兵衛 と槌屋傳兵衛作の鬼瓦が新たに七例見つかり、その縄張りが北西へ約六・九キ ロになったことを付け加えておく。 ⑨ 新口村での瓦生産が一九世紀の中頃に終わった理由はわからない。前回作 成 し た 鬼 瓦 銘 文 年 表 と、 横 大 路 以 南 の 寺 社 に は 基 本 的 に 広 が ら な い 槌 屋 傳 兵 衛・傳八の縄張図(第一部 口絵 図 65)を子細に見くらべると次のように想 定できる。 傳八の名が見えなくなった寛政七年(一七九五)以後、槌屋の縄張に食い込 めたのは十市村(橿原市十市町)の半治良(常盤村の常光寺例)や戒重村(桜 井 市 戒 重 ) の 彌 七 郎( 八 木 村 の 金 台 寺・ 延 命 院 例 )、 箸 喰 村( 橿 原 市 光 陽 町 ) の新七(八木村の平田家例)だけである。それも門や鐘楼の新築などにわずか に 顔 を 出 す 程 度 で、 新 た に 瓦 葺 き の 寺 を 建 立 す る と い っ た 例 は 見 い だ せ な い。 つまり縄張り内の寺社の需要は、傳兵衛がほとんど開拓し尽くしたのではない ぶ こ と も さ ほ ど 難 し い こ と で は ない。 三 山 地 域 で の 最 長 寿 記 録 は、 広 陵 町 百 済 の 常 念 寺 の 留 蓋( 唐 獅 子 ) に 書 か れ た「 瓦 武 七 十 四 才 」 で あ る( 図 28)。 こ の「 瓦 武 」 は、 安 政 四 年( 一 八 五 七 ) か ら 文 久 四 年( 一 八 六 四 ) に か け て の 銘 文 を 残 す 廣 瀬 郡 百 済 の 森 村 出 身 の 武 右 衛 門 の 略 称 と 思 わ れ る。 彼 の 生 年 や 働 き 始 め た 年 は 知 る 由 も な い が、 森 村 に は 安 永 五 年( 一 七 七 六 ) の 留 蓋 ( 竜 ) を 明 日 香 村 の 飛 鳥 坐 神 社 に 残 し た 藤 村 弥 惣 八 な ど の 瓦 屋 の 存 在 が 知 ら れ て お り( 図 29)、 武 右 衛 門 も そ の 末 裔 の 一 人 と 思 わ れ る の で、 利 助 や 彦 次 郎 と お な じ 一 四 歳 や 一 六 歳 か ら 作 瓦 に 従 事 し た と す れ ば、 あ る い は 五 五 年 と い う 記 録 を 破 っ て い た 可 能 性がある。 で は、 瓦 工 の 平 均 的 活 動 期 間 は ど れ く ら い な の だ ろ う か。 橘 1 瓦作りを五五年続けた橘吉重 銘文から一人の瓦工が何年働いたかを調べてみると、多数の銘文に年齢を記 しており、ほぼ確実に最長といえるのは、法隆寺の瓦大工、寿王三郎太夫橘吉 重( 初 代 ) の 五 五 年 で あ る( 佐 川 一 九 九 八・ 石 島 二 〇 一 五 )。 彼 は 永 和 四 年 ( 一 三 七 八 ) 生 ま れ で、 明 徳 四 年( 一 三 九 三 ) に 数 え の 一 六 歳 か ら 瓦 作 り を 始 め、 文 安 五 年( 一 四 四 八 ) ま で、 当 時 と し て は 長 寿 の 七 一 歳 ま で 瓦 を 作 っ た。 ま さ に 瓦 作 り 一 筋 に 生 き た 人 生 で あ っ た。 今 回、 こ れ に 並 ぶ と 推 定 し た の が、 三輪村の瓦屋、谷本五郎右衛門である。 この二人に次ぐのが西京理右衛門(利介・理介・吉重とも名乗った)の四七 年である。彼は天正一八年(一五九〇)の生まれで、慶長八年(一六〇三)に 一四歳で父、新右衛門の下で瓦作りを始め、少なくとも六一歳まで瓦作りを続 けたことが前回の調査で判明した。法隆寺の瓦工では、この他に吉重の祖父と 推定される寿王三郎太夫正重の三八年と、吉重の父、国重の三〇年がこれに続 く。国重は五一歳で没しており、もし吉重並みに長生きすれば、五〇年ほど瓦 作りに従事したことになる。 2 何歳から瓦作りを始めたか 何歳から瓦作りに従事したかわかる例が「法隆寺瓦塼銘文集成」に数例あり ( 法 隆 寺 一 九 九 二 )、 一 四 歳( 利 介、 の ち の 西 京 理 右 衛 門 ) や 一 六 歳( 彦 次 郎、 の ち の 初 代 橘 吉 重 )、 一 七 歳( 那 良 ノ 介、 の ち の 谷 口 奈 良 之 助 ) と い ず れ も 若 いことが一つの特徴である。これがすべて信用できるとはいえないが、一四歳 といえば、満年齢で一三歳、今でいえば中学生だから、体格や体力、それに瓦 屋の生まれなどの条件を合わせれば、この頃から鬼瓦を作り始めたとしてもお かしくはない。そして七十歳まで健康を保てば、五五年という吉重の記録に並 図28 唐獅子の留蓋「瓦武 七十四才」 広陵町 百済 常念寺 図29 安永5年(1776) 藤村弥惣八 竜の留蓋 明日香村飛鳥 飛鳥坐神社
ぶ こ と も さ ほ ど 難 し い こ と で は ない。 三 山 地 域 で の 最 長 寿 記 録 は、 広 陵 町 百 済 の 常 念 寺 の 留 蓋( 唐 獅 子 ) に 書 か れ た「 瓦 武 七 十 四 才 」 で あ る( 図 28)。 こ の「 瓦 武 」 は、 安 政 四 年( 一 八 五 七 ) か ら 文 久 四 年( 一 八 六 四 ) に か け て の 銘 文 を 残 す 廣 瀬 郡 百 済 の 森 村 出 身 の 武 右 衛 門 の 略 称 と 思 わ れ る。 彼 の 生 年 や 働 き 始 め た 年 は 知 る 由 も な い が、 森 村 に は 安 永 五 年( 一 七 七 六 ) の 留 蓋 ( 竜 ) を 明 日 香 村 の 飛 鳥 坐 神 社 に 残 し た 藤 村 弥 惣 八 な ど の 瓦 屋 の 存 在 が 知 ら れ て お り( 図 29)、 武 右 衛 門 も そ の 末 裔 の 一 人 と 思 わ れ る の で、 利 助 や 彦 次 郎 と お な じ 一 四 歳 や 一 六 歳 か ら 作 瓦 に 従 事 し た と す れ ば、 あ る い は 五 五 年 と い う 記 録 を 破 っ て い た 可 能 性がある。 で は、 瓦 工 の 平 均 的 活 動 期 間 は ど れ く ら い な の だ ろ う か。 橘 1 瓦作りを五五年続けた橘吉重 銘文から一人の瓦工が何年働いたかを調べてみると、多数の銘文に年齢を記 しており、ほぼ確実に最長といえるのは、法隆寺の瓦大工、寿王三郎太夫橘吉 重( 初 代 ) の 五 五 年 で あ る( 佐 川 一 九 九 八・ 石 島 二 〇 一 五 )。 彼 は 永 和 四 年 ( 一 三 七 八 ) 生 ま れ で、 明 徳 四 年( 一 三 九 三 ) に 数 え の 一 六 歳 か ら 瓦 作 り を 始 め、 文 安 五 年( 一 四 四 八 ) ま で、 当 時 と し て は 長 寿 の 七 一 歳 ま で 瓦 を 作 っ た。 ま さ に 瓦 作 り 一 筋 に 生 き た 人 生 で あ っ た。 今 回、 こ れ に 並 ぶ と 推 定 し た の が、 三輪村の瓦屋、谷本五郎右衛門である。 この二人に次ぐのが西京理右衛門(利介・理介・吉重とも名乗った)の四七 年である。彼は天正一八年(一五九〇)の生まれで、慶長八年(一六〇三)に 一四歳で父、新右衛門の下で瓦作りを始め、少なくとも六一歳まで瓦作りを続 けたことが前回の調査で判明した。法隆寺の瓦工では、この他に吉重の祖父と 推定される寿王三郎太夫正重の三八年と、吉重の父、国重の三〇年がこれに続 く。国重は五一歳で没しており、もし吉重並みに長生きすれば、五〇年ほど瓦 作りに従事したことになる。 2 何歳から瓦作りを始めたか 何歳から瓦作りに従事したかわかる例が「法隆寺瓦塼銘文集成」に数例あり ( 法 隆 寺 一 九 九 二 )、 一 四 歳( 利 介、 の ち の 西 京 理 右 衛 門 ) や 一 六 歳( 彦 次 郎、 の ち の 初 代 橘 吉 重 )、 一 七 歳( 那 良 ノ 介、 の ち の 谷 口 奈 良 之 助 ) と い ず れ も 若 いことが一つの特徴である。これがすべて信用できるとはいえないが、一四歳 といえば、満年齢で一三歳、今でいえば中学生だから、体格や体力、それに瓦 屋の生まれなどの条件を合わせれば、この頃から鬼瓦を作り始めたとしてもお かしくはない。そして七十歳まで健康を保てば、五五年という吉重の記録に並 図28 唐獅子の留蓋「瓦武 七十四才」 広陵町 百済 常念寺 図29 安永5年(1776) 藤村弥惣八 竜の留蓋 明日香村飛鳥 飛鳥坐神社
吉重のように、ほとんどの銘文に年齢を書いた例が他にないこと、何代か続い た瓦工をその銘文や作風から見分けることが難しいこと、さらに当時の寿命や 時 々 の 経 済 条 件、 鬼 瓦 の 残 り 具 合 な ど が 重 な り、 そ の 算 出 は 困 難 で あ る。 今 は、こうした限界を踏まえた上での暫定値しか示せないが、得られた三二人分 のデータから計算すると三〇・四年、およそ三〇年ということになる。 鬼瓦余聞 其の六 初代橘吉重の署名と花押の変化 橘吉重の五五年が確認できる最長記録であることは、すでに紹介したとおり である。しかし、山崎信二さんはその著『中世瓦の研究』で吉重にふれ、その 最初の仕事を明徳四年(一三九三)の明石市報恩寺とする説に疑問を投げかけ る( 山 崎 二 〇 〇 〇 )。 そ う だ と す れ ば、 記 録 は 五 三 年 と な る が、 そ の 根 拠 と し て図示されているのが、銘文の署名と花押の違いである(図 30)。 こ れ を 見 る と 、 花 押 は た し か に 「 全 く 異 な る 」 と 見 る こ と も で き る 。 し か し 、 今 ま で に と り あ げ た 何 人 か の 瓦 工 の 銘 文 の 変 化 の 多 さ か ら す る と 、 彼 が 報 恩 寺 に 残 し た 花 押 は 「 若 書 き 」 で あ っ た と 思 う の で あ る が 、 読 者 の 判 定 や 如 何 。 また研究史を紐解けば、花押が変化しないとみる説は成り立ちがたい。人生 とともに名も、署名や花押も遷り変る。彦次郎・吉重の銘文と花押も「法隆寺 瓦 塼 花 押 一 覧 」 に よ る と 一 〇 種 類 ほ ど に 分 類 さ れ て お り( 法 隆 寺 一 九 九 二 )、 若年期と老年期では明らかな変化があり、何かをきっかけに意図的に変えるこ ともあったと見るべきであろう。三山地域の瓦工の銘文もその人生の中で変化 があり、それが何代か続いた瓦工の識別を困難なものとしている。 図30 橘吉重(彦次郎)の署名と花押 (2:3) 1・2 報恩寺 16歳 3・4 法隆寺 24歳 5 同 18歳 6 同 29歳(山崎2000の第91図を一部改変) 3 雲梯村の小兵衛は何人いたか 今回試みた分析を通じて、筆跡と作風の変化から、瓦工の働いた年数を追求 する作業が難しいことを改めて感じた。三山地域で活躍した主要な瓦工を取り 上げることは次回以降の課題とし、ここではとりあえず縄張がほぼ確定した何 人かの瓦工について検討し、その実態を知っていただこう。もちろん非常に難 しい場合と、比較的やさしい例があるが、まずは難しい例から紹介する。 雲 梯 村 ( 橿 原 市 雲 梯 町 ) で の 瓦 生 産 は 、 元 禄 一 一 年 ( 一 六 九 八 ) か ら 天 保 一 五 年 ( 一 八 四 四 ) ま で の 一 四 六 年 間 続 き 、 最 後 の 善 六 を の ぞ き 、 何 人 か の 小 兵 衛 が い た こ と が 史 料 と 鬼 瓦 の 刻 印 ・ 銘 文 か ら わ か る 。 ま ず は 初 代 か ら み て い こ う 。 初代小兵衛 初代小兵衛については、葛城市南道穂の重要文化財村井家住宅 の普請文書と、橿原市と大和高田市・御所市内の三寺院の鬼瓦の陽刻の刻印か ら、元禄一一年(一六九八)から正徳四年(一七一四)の一六年間以上の活動 が想定できる。彼は銘文ではなく、長方形の刻印を鬼瓦の両側面に押すという 点において明確に区別できる(図 31〜 35)。 刻印には、御所市柳原の西応寺例の「宝永八庚寅年(一七一一)/二月吉辰 日」 「雲梯村小兵衛作」と (図 35)、大和高田市曾大根の名称寺例の「正徳四甲 午 年( 一 七 一 四 ) / 六 月 吉 辰 日 」 が あ り ( 図 31)、 名 は お な じ も の を 押 す が、 年月はもちろん別物である。 三山地域では、江戸時代に遡るこうした刻印をほとんど見かけない。法隆寺 で も 少 な く、 元 禄 八 年( 一 六 九 五 ) 銘 の「 法 隆 寺 瓦 大 工 / 橘 吉 長 ( 陰 刻 )」 例 が 最 古 で あ る( 図 36、 法 隆 寺 一 九 九 二 )。 年 代 の 近 い 例 を あ げ る と、 同 旧 松 立 院 表 門 の 正 徳 元 年( 一 七 一 一 ) 銘 の 鬼 瓦 に「 橘 氏 」「 谷 口 石 見 掾 」 の 刻 印 を 押 す 例 が あ り、 ま た 普 門 院 表 門 の「 橘 氏 義 長 」 と い う 刻 印( 陽 刻 ) も あ る (図 37)。小兵衛はこれなどを参考にした可能性がある。後述する二代目と目さ 図34 御所市柳原 西応寺の鬼瓦 図35 図34刻印 図36 「法隆寺瓦大工/橘 吉長」 「橘氏 義長」図37 図31 図32刻印 図32 名称寺表門の鬼瓦「正徳四甲午年/六月吉辰 図33 図32刻印 日」 大和高田市曾大根
3 雲梯村の小兵衛は何人いたか 今回試みた分析を通じて、筆跡と作風の変化から、瓦工の働いた年数を追求 する作業が難しいことを改めて感じた。三山地域で活躍した主要な瓦工を取り 上げることは次回以降の課題とし、ここではとりあえず縄張がほぼ確定した何 人かの瓦工について検討し、その実態を知っていただこう。もちろん非常に難 しい場合と、比較的やさしい例があるが、まずは難しい例から紹介する。 雲 梯 村 ( 橿 原 市 雲 梯 町 ) で の 瓦 生 産 は 、 元 禄 一 一 年 ( 一 六 九 八 ) か ら 天 保 一 五 年 ( 一 八 四 四 ) ま で の 一 四 六 年 間 続 き 、 最 後 の 善 六 を の ぞ き 、 何 人 か の 小 兵 衛 が い た こ と が 史 料 と 鬼 瓦 の 刻 印 ・ 銘 文 か ら わ か る 。 ま ず は 初 代 か ら み て い こ う 。 初代小兵衛 初代小兵衛については、葛城市南道穂の重要文化財村井家住宅 の普請文書と、橿原市と大和高田市・御所市内の三寺院の鬼瓦の陽刻の刻印か ら、元禄一一年(一六九八)から正徳四年(一七一四)の一六年間以上の活動 が想定できる。彼は銘文ではなく、長方形の刻印を鬼瓦の両側面に押すという 点において明確に区別できる(図 31〜 35)。 刻印には、御所市柳原の西応寺例の「宝永八庚寅年(一七一一)/二月吉辰 日」 「雲梯村小兵衛作」と (図 35)、大和高田市曾大根の名称寺例の「正徳四甲 午 年( 一 七 一 四 ) / 六 月 吉 辰 日 」 が あ り ( 図 31)、 名 は お な じ も の を 押 す が、 年月はもちろん別物である。 三山地域では、江戸時代に遡るこうした刻印をほとんど見かけない。法隆寺 で も 少 な く、 元 禄 八 年( 一 六 九 五 ) 銘 の「 法 隆 寺 瓦 大 工 / 橘 吉 長 ( 陰 刻 )」 例 が 最 古 で あ る( 図 36、 法 隆 寺 一 九 九 二 )。 年 代 の 近 い 例 を あ げ る と、 同 旧 松 立 院 表 門 の 正 徳 元 年( 一 七 一 一 ) 銘 の 鬼 瓦 に「 橘 氏 」「 谷 口 石 見 掾 」 の 刻 印 を 押 す 例 が あ り、 ま た 普 門 院 表 門 の「 橘 氏 義 長 」 と い う 刻 印( 陽 刻 ) も あ る (図 37)。小兵衛はこれなどを参考にした可能性がある。後述する二代目と目さ 図34 御所市柳原 西応寺の鬼瓦 図35 図34刻印 図36 「法隆寺瓦大工/橘 吉長」 「橘氏 義長」図37 図31 図32刻印 図32 名称寺表門の鬼瓦「正徳四甲午年/六月吉辰 図33 図32刻印 日」 大和高田市曾大根
次 に 作 品 を 検 討 す る。 獅 子 口 一 例 を 除 い た 鬼 瓦 八 例 の 作 風 は 大 き く 異 な り、 銘文による保証がなければ同一の作者か否かは簡単には判定できない(図 38〜 43)。 と い う こ と は、 逆 に 言 え ば 彼 が 注 文 に 応 じ、 寺 院 用 の 鬼 面 紋 と 神 社 用 の 日像(図 41)といったデザインの変化や、図 40のように髭や雲紋に繊細さを追 求した作品と、 図 42のように豪放さを求めた作品 を自在に作り分ける腕を持っ ていたということになる。ここにも銘文が無ければ追及できない鬼瓦研究の難 しさと面白さがあり、さらに言えば、三山地域の近世鬼瓦の中には、いわゆる 型式論の範疇だけでは捉え切れない例があることがわかる。 名人橘吉重も、永享九年(一四三七)に作った法隆寺東院の絵殿・舎利殿北 面西降り棟の鬼瓦に、 「タンナノコノミニヨリテ ソカウニツクルナリ」 (旦那 の好みによりて粗豪に作る也)と書いており、発注者の意向で作風を変えるこ とがあったことを証言している。 三代目小兵衛 三代目は銘文・作風ともにより判断が難しくなる。三代目作 と 思 わ れ る の は 三 点 あ る が( 図 44)、 い ず れ も 共 通 点 が 少 な い。 銘 文 も 太 字 で 書くという特徴以外はかなり異なるが、一応三代目小兵衛と考えておく。ただ し、明和二年(一七六五)銘例は筆跡が大きく異なるので、あるいは別人の可 能性も残る。その場合は短期間であるが彼が三代目であり、あとの二例を作っ たのが四代目ということになる。 四代目小兵衛 四代目の銘文は細い線や角ばった筆致が一致し、しかも松原 氏を名乗る点も共通する。一方、作品には獅子口と波頭紋鬼瓦、それにヘラを 斜 め に 使 い 特 異 な 髪 型 や 髭 を あ ら わ す 鬼 瓦 が あ り、 作 風 か ら の 判 定 は 難 し い。 な お 天 保 一 三 年( 一 八 四 二 ) の 今 井 町 上 田 家 文 書 に み え る 雲 梯 村 の「 瓦 焼 職 一 」 は、 天 保 一 五 年( 一 八 四 四 ) 銘 を 残 す 雲 梯 村 瓦 屋 善 六 を 指 す の で あ ろ う (橿原市一九八七) 。したがって、雲梯村の小兵衛は四代+ α 、それに最後の善 れ る 小 兵 衛 が、 そ の 最 終 段 階 の 製 品 に「 橘 氏 小 兵 衛 」 と 書 く 例 が あ る の は、 こ う し た 刻 印 の 影 響 が あ っ た の か も 知 れ な い。 あ る い は、 初 代 小 兵 衛 は 一 時、 法隆寺で働くなど、なんらかの繋がりがあったのかもしれぬ。 次 に 彼 の 作 品 を 紹 介 す る。 口 絵 6 は は 紋 の 鬼 瓦( 鬼 瓦 瓦 余 其 の 七 参 照 )、 図 32と 34が鬼面紋鬼瓦である。その作風の特徴は、髪型や、髪筋をあらわす粗 いシビ( P44参照)や目鼻立ち、特に耳の形にわかりやすくあらわれており、二 代 目 以 降 と は 明 確 に 識 別 で き る。 な お、 耳 と 角 の 形 は 流 行 と は あ ま り 関 係 な く、瓦師や細工人の個性があらわれやすいので、ここに目を向けると意外と簡 単に作者を特定できる場合がある。 二代目小兵衛 筆跡を詳細に比較すると、二代目小兵衛は享保七年(一七二 二)から宝暦八年(一七五八)にかけての三六年間働いたと推定できる。ただ し、前半の享保七年(一七二二)から寛保三年(一七四三)までの「藤原棟次 (宗次とも) 」と称する時期と、後半の銘文にはかなりの違いがあり、同一人物 と認めるか否かは意見の分かれるところである。私も大いに迷った末、定型化 し た 銘 文 書 式 が し だ い に 省 略 さ れ、 書 体 も 徐 々 に 変 化 し た と い う 結 論 に 至 っ た。万物流転という大前提と、一人の人間の筆跡が、一生変化しないと断じる ことが経験上できないからである。 も う 少 し 詳 し く 説 明 し よ う。 前 半 の 銘 文 は、 「 和 州 高 市 郡 雲 梯 邑 住 藤 原棟次( 棟次氏・家次とも) 瓦子 小兵衛」という長い書式も安定しており、 書体の変化(ぶれ・ゆれ)も少なく、また瓦師を「瓦子」 、年を「稔」 、住人の 住を「任」に近い書体にあらわすなどの特徴(癖)も共通する。 一方、後半の銘文は書式の省略とともに、中には「石村 小兵衛」や「橘氏 小兵衛」を名乗るものがあるなど、にわかに同一人物かどうか信じがたい例も 含まれ、書体にも行書体が増えるなどの変化が認められる。 図40 享保12年(1727) 雲梯村 藤原氏 小兵 衛家次 大和高田市今里町 蓮蔵寺 図44 明和5年(1768) 雲梯村 小兵衛 大和 高田市土庫 弥勒寺 図41 享保17年(1732) 雲梯村 小兵衛 橿原 市今井町 春日神社表門 図42 延 享3年(1746) 雲 梯 村 石 村 小 兵 衛 高取町薩摩 西法寺 図43 寛延3年(1750) 雲梯村 松原氏小兵衛 橿原市西坊城町 西願寺 図45 図40銘文 図38銘文図46 図43銘文図47 図38 享保7年(1722) 雲梯村 小兵衛 葛城 市南今市 現徳寺 図39 享保7年(1722) 雲梯村 藤原棟次 小兵衛 大和高田市松塚 名願寺
図40 享保12年(1727) 雲梯村 藤原氏 小兵 衛家次 大和高田市今里町 蓮蔵寺 図44 明和5年(1768) 雲梯村 小兵衛 大和 高田市土庫 弥勒寺 図41 享保17年(1732) 雲梯村 小兵衛 橿原 市今井町 春日神社表門 図42 延 享3年(1746) 雲 梯 村 石 村 小 兵 衛 高取町薩摩 西法寺 図43 寛延3年(1750) 雲梯村 松原氏小兵衛 橿原市西坊城町 西願寺 図45 図40銘文 図38銘文図46 図43銘文図47 図38 享保7年(1722) 雲梯村 小兵衛 葛城 市南今市 現徳寺 図39 享保7年(1722) 雲梯村 藤原棟次 小兵衛 大和高田市松塚 名願寺
3 五 井 村 の 大 西 又 七 と 治 郎 四 郎の場合 次に検討する大西又七と治郎四 郎の場合は活動期間も短く、鬼瓦 の 個 性 的 な 表 現 も 共 通 点 が 多 く、 識別しやすい例になる。 「 五 位 村 作 人 大 西 又 七 」 作 の鬼瓦には、遠くからでもすぐわ かる特徴がある。これ以上は無理 というまでに誇張された太くて大 き な 角、 大 き な 鼻 や ど ん ぐ り 眼、 尖 っ た 耳 な ど が そ れ で あ る( 図 48)。 又 七 は、 寛 延 四 年( 一 七 五 一 ) か ら 宝 暦 一 三 年( 一 七 六 三 ) までの一二年間に、一〇点の鬼瓦 に銘文を残した。その銘文は「高 市 郡 五 井( 位 ) 村 瓦 師( 作 人・細工人) 大西又七(作) 」と 若干の表記の「ゆれ」があるもの の、筆跡はあまり変化がない。 一方、又七の後継者である大西 治 郎 四 郎 は、 明 和 二 年( 一 七 六 五)から寛政六年(一七九四)ま での二九年間の七例に銘文を残し 六を入れて雲梯村の瓦屋は五人から六人いたという結論になる。一四六年を五 人で割れば平均二九年、六人とすれば平均二四年という数値が得られる。 鬼瓦余聞 其の七 桃の鬼瓦(口絵61・62参 初代小兵衛作の鬼瓦の一つに、古くから辟邪・多産のシンボルとされてきた 桃をあらわす例(橿原市一町 浄念寺)がある。桃は一六世紀末に鬼瓦の意匠 に採用されたと思われ、豊臣秀吉が有馬温泉に営んだ「ゆの山御てん」の跡で ある湯山遺跡出土例(一五九四〜一五九八年頃)や(口絵6 、 、神 市 市教育委 会 二 〇 〇 〇 )、 姫 路 城 例( 一 五 八 〇 〜 一 六 一 七 年 頃 ) が 古 い。 民 家 で は、 寛 永 二 一 年( 一 六 四 四 ) の 橿 原 市 今 井 町 の 旧 杉 本 家 例 や( 口 絵 5 )、 、 慶 三 年( 一 六 五 〇 ) に 棟 上 げ し た 今 西 家 の 例 な ど 各 地 に 類 例 が あ る( 口 絵 6 )。 桃 桃 鬼 瓦 はとりわけ辟邪の力が強いとされ、屋根の丑寅・ 艮 うしとら (北東)の方角に鬼門除け として置かれたという。 さて小兵衛作の桃には、縫合線の左右に小さなぶつぶつが三群一四個ほどあ る( 口 絵 6 )。 初 初 め た た は は 焼 た に で き た た ぶ く れ か と 思 っ て い た が、 大 和 高田市の専修院の庭にあった無銘の桃 桃 の鬼瓦にも似たぶつぶつがあったので め 直すことにした(口絵6 )。 よ く め る と 、 型 作 り の よ う に ど ん ぴ し ゃ り と ま で は い か な い が 、 そ の 配 置 や 大 小 、 円 形 か 楕 円 形 か な ど が ほ ぼ 一 致 す る 。 も ち ろ ん 葉 や 茎 の 長 さ は 大 き く 異 な る が 、 細 部 が こ れ だ け 似 て い れ ば 、 同 じ 作 者 が 作 っ た か 、 ど ち ら か が 真 似 た と 言 う し か な い 。 私 は 両 方 と も 初 代 小 兵 衛 が 作 っ た と 思 う が 読 者 の 判 定 や 如 何 。 もちろん、この場合は、下絵、あるいは実物をもとに小兵衛がていねいに細 工したという話になる。 図48 宝暦10年(1760) 明日香村飛鳥 法満寺 大西又七 図49 明和6年(1769) 橿原市醍醐町 養国寺 大西治郎四郎 戒 重 屋 藤 蔵 作 」 と い う 銘 文 が 残 る 鬼 瓦 は、 そ の 後 の 調 査 分 も 含 め 五 〇 例 と なった。その製作年代は、天明八年(一七八八)から弘化三年(一八四六)ま での五八年間に及ぶ。なお、姓と諱をもつ外嶋藤蔵冨定に対して、彌七郎(弥 七良とも。以下、彌七郎で統一)は、名だけが知られている。 戒 重 村 の 瓦 屋 の 創 業 者 と 目 さ れ る 外 嶋 藤 蔵 と、 そ の 下 で 細 工 人 と し て 働 き、 ま た 後 継 者 と な っ た と 思 わ れ る 彌 七 郎 作 の 鬼 瓦 は 三 一 例 あ る( 図 50〜 58)。 そ のうちわけは、藤蔵作が天明八年(一七八八)から文政五年(一八二二)まで の三四年間に一三例、彌七郎作は寛政 三 年(一七九一)から文政一〇年(一八 二 七 ) ま で 九 例、 連 名 が 二 例 で あ る。 ま た こ の 他 に「 戒 瓦 ヤ 」「 戒 ヤ 」「 カ イ ヤ」と略した例や、紀年銘を欠く例が一六例ある。 5 「ぶれ」が少なく見分けやすい銘文 二人の銘文は楷書、分かち書き、直線主体の字体がよく似ており、他の瓦工 にくらべ「ぶれ」が少なく見分けやすい。めくれがほとんどないので、さらさ らではなく、幅二 ㎜ ほどのヘラを使い、押しの手法を交えながら書いたと思わ れる。ただし、太い字を彫りこんだ際の複数の刻線を藤蔵はていねいにさらっ て一本に仕上げるのに対し、彌七郎はこれを省略し細かい刻線が残る傾向が強 い。また彌七郎は「撥ね」が大きいという特徴もあり、この辺りに注意すると 見 分 け や す い( 図 52)。 要 す る に 藤 蔵 の ほ う が て い ね い で あ り、 几 帳 面 な 性 格 と推定できる。彌七郎は藤蔵の書体を真似てはいるが、模倣しきれなかったと 思われ、最終段階の製品にはかなり手を抜いた書き方もみられる。 そこで、二人の筆跡の差に注意しながら戒重村の瓦作りを辿ってみよう。 ① 天明八年(一七八八)の橿原市法花寺町の地蔵寺例には藤蔵だけの署名が あり、脇区や額に十文字に「瓦藤 かい 十」と刻んだ菱形の刻印を押す(図 た。その銘文は「高市郡 五井(位)村 瓦師(作人・細工人) 大西治(次) 郎(良)四郎(作) 」と又七の場合とあまり差はなく、筆跡もぶれが少ない。 こ の 二 人 の 作 風 は よ く 似 て お り、 大 き な 違 い は 認 め ら れ な い。 強 い て 言 え ば、又七のほうにより誇張された迫力があり、治郎四郎の作にやや弱さがある こ と く ら い で あ る( 図 49)。 オ リ ジ ナ ル と コ ピ ー の 差 と 言 い 換 え る こ と も で き よう。特に鬼面紋鬼瓦は、前稿でもふれたように、橿原市醍醐町の養国寺例が その代表であるが、又七と治郎四郎の作品が二時期にわたり残っている。治郎 四郎は、又七の作品に倣って門の鬼瓦を作ったので、このように似た作品が生 み出されたのであろう。 課題として残るのは、この二人の作った個性的な鬼瓦が、一八世紀後半の鬼 瓦 の 変 遷 の 中 に ど の よ う に 位 置 づ け る こ と が で き る か で あ る。 言 い 換 え れ ば、 又七の個性が誰の影響を受けて成立したのか。また治郎四郎の製作した鬼瓦が 誰に影響を与えたのか、そうでなかったのかという問題である。二人の作品が あまりにも個性的であり、その前後の鬼瓦との結びつきを見出すのが困難であ る、というのが今後の課題となる。 な お、 治 郎 四 郎 の あ と は、 寛 政 八 年( 一 七 九 六 ) 銘 の 鬼 瓦 を 残 し た 伊 三 郎 と、文化四年(一八〇七)から天保二年(一八三一)までの五例の鬼瓦を残し た安治郎が五井村での瓦生産を続けている。伊三郎は製品が少なく比較できな いが、安治郎の鬼瓦は、又七や 次郎 四郎とは異なる一九世紀前半の他の瓦工の 製品と同型式の個性の乏しいものになっている。 4 戒重村の外嶋藤蔵と彌七郎の場合 この二人も銘文は比較的識別しやすい。 前 回 紹 介 し た 戒 重 村( 桜 井 市 戒 重 ) の 外 嶋 藤 蔵 と 彌 七 郎、 あ る い は「 今 井