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日系カナダ人の強制移動に対する補償について : その経緯と問題点

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(1)59. 日系カナダ人の強制移動に対する補償について -その経緯と問題点-. 泉. OII Redress. 谷. 三. for the Uprooti喝Of. Shuzaburo. 1988年(昭和63年). 周. 郎. Japanese Canadians.. IZUMIYA. 4月21日の朝日新聞の夕刊ほ,アメリカの上院が「日系人強制収容. の補償法案」を可決したことを,次のように報じているc 「米上院本会議は, 20日,第2次大戦中に強制収容された日系米人らに対する総額13 億ドル(紛1625億円)の補償法案を67対27で可決した。下院側は昨年9月にほぼ同様 の法案を可決しており,この二法案は一本化された後にレーガン大統領に送られるが, 行政管理予算局は多額の支出を理由に拒否権発動を求めている。 法案ほ強制収容を『人種的偏見と戦時のヒステリーに左右された重大な不正』とし て日系人に謝罪し,生存中の収容体験者6万人に一人当たり2万ドル(紛250万円). を補償するとしている。」 同年4月26日の朝日新聞でほ,岩村特派員が「米の日系人補償法案可決」という表題の もとで,この法案が日系のノーマン・ミネタ,ロバート・マツイ雨下院議貞,ダニエル・ イノウエ.スパーク・マツナガ両上院議員らによって推進されてきたこと, 83年に法案が 提出されてから,審議未了で廃案が2回,三度目の挑戦でやっと両院の支持をえたことな どを伝え,. 「日系人の権利回復の闘いは,建国の父たちが目指した,より完全な連合を築. (歴史博物館の展示より)との理解が深まった結 くための,米国民全体にとっての闘い」 果であり,貿易摩擦のきしみの中で,この法案が通ったことは,米国のふところの深さを 物語っている,と結んでいる。. 私ほ,これらの記事を読みながら,日系カナダ人の多くが,とりわけ同じような強制移 動を体験し,長年の辛苦の末取得した資産を二束三文で宇摩さざるをえなかった一世の人 々が,日系米人補償法案可決のニュースをどのような気持で受けとめたであろうかと思わ ずにはいられなかった。数年前厳冬のトロントに数カ月滞在したとき,日系人の方々と知 り合うことができ,その際戦時中日系カナダ人の味わった苦しみの数々とその補償問題を めぐる意見の対立などについて知ることができた。トロントにほイタリア人街,中国人街,.

(2) 60. 泉. 谷. 周. 三. 郎. ギリシア人街などがあり,多民族のさまざまな生活様式がみられるo. カナダの魅力は,広. 大な国土や多くの美しい湖や山をかかえていることと,いろいろな民族出身の人々が,さ まざまな価値観を承認し合って共存し,人種のモザイクを形成していることである。私は, このようなカナダの魅力のとりこになりながら,他面でほ日系カナダ人がなぜこれほど差. 別されたのか,またその補償の解決がなぜ遅れているのかと考えてとまどいを感ぜざるを えなかった。 日系カナダ人の補償問題は,全国日系カナダ人協会あるいは全加日系人協会(National Association. of Japanese. Canadians)が中心になって連邦政府と交渉に当たっているが, 残念ながら,アメリカのように進展しておらず,基本的な点でまだ合意に達していない。 このように補償問題が難航しているのは,カナダ政府が個人に賠償することを拒否してい ることと,日系カナダ人の一部にそのような政府見解に迎合しようとする動きがみられる ことにもとづいている。大多数の日本人にとってほ,日系アメリカ人がたどった苦難の道 と,日系カナダ人がたどった苦難の道とほ,ほぼ同じようなものであったと想像されるで あろう。たしかに,アメリカとカナダにおける日系人の強制移動という問題は,. 1941年12. 月7日の真珠湾奇襲の結果生じた戦時下のヒステリー現象と人種的差別にもとづく日系人. 排斥運動であったということでは共通しているが,強制収容や財産などの処分の仕方など にはかなりの相違があった。新保満氏は,日系カナダ人の歴史ほ,日系アメリカ人の場合 と比較しても,きわめて悲惨なものであったということを,次のように記している。 「日系カナダ人の歴史ほ,. 『悲史』という文字を当てるにふさわしい。. 1877年に最初. の日系移民がカナダに足跡をしるしてから1941年末までは排斥につぐ排斥であった。 第2次大戦中にほ,米国の日系人よりも早く内陸に強制移動させられ,日系人とちが って移動先で自活させられた。アメリカの敵国人財産等管理局ほ,日系人の財産をか なり良心的に保護したが,カナダでは動産も不動産も本人の承諾なく処分してしまっ. た。終戦後多数の日系米人が日本に送還された事実はないが,カナダ政府の政策では 『カナダに忠誠心をもたない』日系人を,日系人の資産を処分した金で,つまり日系 人の負担で日本に送還することになっていた。戦錬,日系米人は相当の損害に対する 補償を受けたが,日系カナダ人は,日系米人と比較すれば『なかった』といってよい はどの補償しか受けなかった。. -・・・--1949年3月末日まで,カナダに移民した多く の民族の中で最も苛酷な取り扱いを受けたのが日系カナダ人である。」1) 日系カナダ人の強制移動の補償問題は,カナダの国内における人種的差別の問題であり, カナダ国民がみずからの問題として取り組み解決すべきものであって,他国民がその内容 に立ち入って検討することに対して,異議を唱える人がいるかもしれない。この問題はカ. ナダの恥部に言及することであり,日系カナダ人の中にも,このように取り扱うことに対 して不快に感じられる人もいるだろう。しかし,人種差別と戦時下におけるヒステリー現. 象は,カナダとアメリカにのみ起こった問題でほない。そのきっかけや形態はいろいろと 異なるけれども,あらゆる時代にどこかで起こ、ったことであり,どの国においても今後起 こりうる問題であるoわが国においても,戦争中在日朝鮮人などに対して同じような差別 が行われたし,戦後それらの差別に対して十分な補償がなされたという詰も聞いたことが.

(3) 日系カナダ人の強制移動に対する補償について. 61. ない。. 「国家. アメリカの日系人補償法案が呼びかけた一番大事な要点として,岩村特派員は,. の安全の名のもとに,国民が他の自国民に対して憲法上の諸権利を奪う過ちを二度とくり かえしてほならない」というイノウ-議員の言葉をあげている。私もこの言葉を念頭に置 きながら,最初に日系カナダ人のたどった苦腰の道と人種差別の実態の一部を簡単に示し, 次に補償問題をめぐる日系人や他の人々の意見を紹介し,それらの意見に見出される混乱. と問題点を浮きばりにし,最後に日系カナダ人の補償問題から学ぶべきいくつかの事柄に 言及することにしたい。. カナダの先住民族としてほ,インディアンやエスキモーがあげられるが,今日のカナダ 紘,ヨーロッパ系の移民が中心になって作り上げた国である。アジア系移民のカナダ移住 ほ,. 1870年代に中国系移民がブリティッシュ・コロンビア州に入ったことにはじまるo後. から釆たアジア系移民は,白人とは言語や習慣などが異なることもあって最初から排斥さ れがちであった.大平洋戦争が始まるまでは,中国系移民が最も苛酷な差別を受けたo 日系移民の第1号となったのは,. 1877年横浜出航の英国船でブリティッシュ・コロンビ. ア州のヴィクトリアに上陸した永野万歳であると言われている。アジア系移民は歓迎され ず, 1885年には「中国人移住法」が制定され,ヰ国人が移民として入国する場合, たり50ドルを税金として納めなければならなかった。カナダ政府は,. 1人当. 1902年に結んだ日英. 同盟を考慮し,日系人に対してほ比較的に好意的であった。だが,日系移民の数がふえる につれて,ブリティッシュ・コロンビア州に住む白人にとって,日系移民のはうが中国系 移民よりも脅威的存在となっていった。というのは,日系漁者は漁労技術,勤勉さなどの 点で卓越しており,他の仕事についても,日系移民は未熟労働にとどまらず熟練労働に対 して意欲的であったからである。. 1907年,この年に入ってから9月までにヴァンクーヴァ一に到着した日系人の数が約8 千名に達した.アジア系移民の増大を憂える白人たちは,同年8月に「ヴァソクーヴァ・アジア人排斥会」を結成し,. 9月7日にアジア人排斥のデモを計画した。このデモに参. 加した大衆が暴徒と化して日本人街と中国人街を襲った。これが「ヴァソクーヴァ-暴動」 と呼ばれるものである。ブリティッシュ・コロンビア州の白人たちの人種的偏見ほ根強く, アジア系移民を極力入国させないように努めただけでなく,入国したアジア系移民に対し てさまざまな法律を作って差別した。. 1895年州議会は,選挙法を改正して,アジア系移民. に市民権を認めても選挙権を与えないことにした。これ以降州議会ほ22の差別法を作った. そのためにアジア系移民ほ,酒を販売するライセンスなどをもつことができないばかりか, 一切の公職につくことができず,建築士,弁護士,薬剤士,教師になるのにもさまざまな 制約が加えられた2)o. 第1次大戦中,日系の義勇兵がフランスで戦っている間,日系人に対する排斥運動ほ, 幾分緩和されていたが,平時にもどると人種差別ほまたも激しくなった。日本軍が中国大.

(4) 泉. 62. 谷. 周. 三. 郎. 陸に侵攻するようになると,反日感情が高まり,一般市民も「黄禍論」を支持するように なり,. 「カナダほ白人のパラダイスであるべきだ」という言葉が公然と語られるようにな 1940年,日本がドイツ,イタリアと三国同盟を結んだために,翌年になるとブリテ. った。. ィッシュ・コロンビア州に住む16歳以上の日系人は,全員登録させられ,写真と署名入り のカードを常時携帯しなければならなくなった。この頃,日系二世の浜出博氏が「第4回 全加青年雄弁大会」 (1940年)で述べた演説にほ,人種的差別と排斥運動に苦悩する日系 カナダ人の姿がよく示されているo. 「日系市民.′ それは何という運命的な名であり,何という悲壮な名であろう.′. 今. をさる21年前,カナダを故里としてメープルの葉風に祝福され,無心にも弧々の声を はりあげたはずの私でした。だが,ようやく成長し,物心つくと共に,この私こそ世. にも不思議な存在であることに気づいたのです。 カナダに生まれ,カナダに成長し,まぎれもないカナダ人であるものが,カナダ人 として通用しない.香,通用させてもらえないというこの不思議,この不合理oすくo. れた民族性を享け,すく中れた魂をもちながら,市民権を奪いとられている幽霊的な市 民,これが『日系市民』という異彩を放つ市民の群なのです。この日系市民群に対す る差別扱いほいつの日まで続くのであろうか-・-0. 『日系人』という言葉には二つの意味があります。白人が『ジャップ』と路傍の雑 草のごとくに呼びすてる場合,明らかに侮辱の言葉なのですo しかるに,白人が侮辱 に用いる『日系』という言葉を堂々と頭に被って『我こそ日系市民なり』とみずから 名乗りあげる場合,我々は限りない誇りを主張しているのです。. 日系市民という特殊な名称には,悲にして壮,壮にして悲なるひびきが含まれてい ます.我々ほ宿命的にこの悲壮の名を被って進まねばならないのですが,カナダを故 郷として活動するためには,こうして特殊祝されることほ不便であり不快です。. ---. -。」3). 1941年12月7日,日本軍が真殊湾のアメリカ艦隊を奇襲して戦闘力を失わせたことは, 日系アメリカ人と日系カナダ人の運命を大きく暗転させることになった。開戦と同時に, 日系人の夜間外出は禁止され,当時3紙あった邦字新聞は発刊停止となり,日本語学校ほ 閉鎖され,日系人の漁業ライセンスほ無効とされ,漁船は政府に押収された。. 12月16日,. 連邦政府は日系人(日本人,帰化人,カナダ生まれを問わず)をすべて「敵国人」. (enemy. alien)と規定した。 1941年当時カナダにほ約2万1千人の日系人がいたが,そのうちの95 %は,ブリティッシュ・コロンビア州に集中していた。また約1万7千人の人々はカナダ の市民権をもっており,日本国籍をもつものはごくわずかで1割に達しなかった。 1942年1月16日,連邦政府は「対敵国人政策」の大綱を発表した.それは大平洋沿岸か ら100マイル(約160キロ)を防衛地域と定め,その地域内の敵国人をそれより東へ移動 させるというものであった。連邦政府はイタリア系カナダ人とドイツ系カナダ人にも「対. 敵国人政策」を適用したが,これらの人々を総移動させるという処置はとらなかった。同 年2月24日,戦時措置法にもとづいて,防衛地域内に住む日系人の総移動が決定され, 月27日から強制移動がほじまった.ヴァンクーヴァ-市では,一週間前に移動予定の通知. 2.

(5) 日系カナダ人の強制移動をこ対する補償について. 63. を受けた老もいたが,他の地区でほ2-3日の猶予があればよいはうで,最悪の場合にほ わずか2時間の準備時間を与えられただけで移動させられた。. 1942年9月末日までに約2 万1千名の日系人が移動させられた。移動の形態はいろいろあり,約2千名の成年男子が 道路建設のために「道路建設キャンプ」に送られ,約4千名が「砂糖大根栽培」の農業労 働者とLてオンタリオ,マニトバ,アルバ-タの農場に送られた。これらの人々は家族同 伴であった。紛6吉名ほ自分の手づるを療って家族と共に「自由移動」した。紛1万2千 名が内陸のゴーストタウンを利用した収容所に送られた.この集団には夫を道路建設キャ ンプにとられた女世帯が多かった。約7首名が描虜収容所に入れられた。 日系カナダ人は,この移動のとき長年の辛苦の未取得した財産を二束三文で手離し,わ ずかな手荷物のみをもって居住地を追われたo この強制移動は日系カナダ人にとって苦難 の道の始まりであったが,この当時ごく少数の日系カナダ人は「森井委員会」というもの を作って連邦警察に婿態を示して甘い汁を吸ったといわれている。この強制移動が具体的 にどのようなものであったかということを示すために,現在トロント市で日本語学校の維. 持会役員を勤めている北村高明氏の場合を取りあげてみたい。 北村高明氏は,其殊湾奇襲のニュースをヴァンクーヴァ-のリトル・トーキョ-で聞い たが,. 「とても信じられなかった」と語っている4'o. 当時北村氏は,近くの製材所に勤務. しながら,一リトル・トーキョ-内で32室のある下宿屋を経営していた。. 19歳で単身でカナ ダに移住してから19年間苦労を重ねてガレージ付の家をもち,操子夫人との間に2人の子 供があり,やっと安定した平和な日々を過ごしていた。開戦後,北村高明氏は,時給25セ ントの道路建設キャンプに送られるのを経済的理由で嫌い,カナダ当局-の動静報告を拒 んだ.そのために, 1942年8月, 70名の日系人と共にオンタリオ州のアングラー描虜収容 所に入れられた。. 1カ月後,妻子も強制移動でロッキー山脈近くの収容所に入れられた。 以後4年間夫婦ほ引き裂かれて収容所生活を過ごさなければならなかった。北村氏が入れ られたアングラー描虜収容所ほ,以前ドイツ軍人のための収容所で,周囲に二重の有刺鉄 線が張り巡らされ,機関銃を備えた監視塔が6基はどあった。入所したとき,与えられた 服の背に日の丸があるのを見て,老いた一世たちは喜んだが,それは脱走を試みたとき射 殺するための標的であった。. 1943年,連邦政府が日系人の財産を強制処分したとき,北村 氏も家をごく安い金額で処分され, Lかもその代金を収容所の生活費用にあてさせられた。 終戦後,北村高明氏はロッキー山脈以東での生活を強いられたとき,他の日系人と同様, 苦しい再出発を余儀なくされたのである。 「カナダに忠誠を誓わない日系人は 1944年8月,当時の首相マッケンジー・キングほ, 戦後日オに送還する」などの6項目を発表した。翌年2月,移動地の日系人は,東部カナ. ダへ移住するか,それとも日本に帰るかという選択を迫られた。約1万名の日系人が戦後 日本に帰るという書類に署名した。この政策に対して日系人の一部と教会や市民運動に関 心をもつ人々が反対を表明した結果, の日系人が日本に帰っていった¢. 1947年に政府はこの政策を変更した。結局約4千名 1945年8月,第2次世界大戦は終わった。しかし,日系. カナダ人の苦難の道はまだ終わらなかった。. 1946年4月, 「戦時措置法」が引きあげられ, 東部カナダに住む日系人に行動の自由が認められ,農地買収の権利も与えられた。だが,.

(6) 泉. 64. 谷. 周. 三. 郎. 日系カナダ人に対する防衛地域の指定が解除され,日系人が自由に太平洋沿岸に帰ること が許されたのほ,. 1949年3月31日のことであった。 Ⅱ. カナダにおけるアジア系移民に対する多年にわたる不当な人種差別政策に対して,終戦 直後から日系カナダ人と中国系カナダ人などの問で,カナダ政府の謝罪と補償を求める動 きがあったのかどうかということほ,私にはわからない。アジア系移民にとってほ,終戦. 後も彼らの生活そのものを維持することに時間をとられ,連邦政府に謝罪と補償を求める といった余裕がなかったのかもしれないoアメリカにおいても,日系米人の強制収容の問. 題が報道されるようになったのは,. 1970年代以降のことであり,カナダでも日系カナダ人. の補償問題は,ほぼ同じような経過をたどったのではないかと推測される。 1984年5月,当時の野党党首マルル-ニ氏ほ,第2次大戦中強制移動させられた日系カ 「人権が犯され踏みにじられたカナダ市民 ナダ人に対して賠償するという立場に賛同し, に対して賠償されるべきだと強く感じている」,. 「進歩保守党が政権についた場合には,日. 系カナダ人に対して賠償することを確約する」と述べた。しかし,総選挙に勝利したのち, 「今は補償するつもりはない」と語って,その政治的姿勢を批判され マルルーニ首相ほ, ている。. 1982年4月,カナダの新憲法が発布され,すべての個人は,法の下で平等であり,. 人権・民族・皮膚の色・宗教・性別などによって差別されないことになった。だが,かつ てカナダで日系カナダ人に対して行われた人権の侵害に対して,連邦政府によって正式の 謝罪と個人に対する補償がなされないかぎり,人種的偏見と差別とは今後とも起こりうる といえよう。. 他方,日系カナダ人の補償問題をこじらせた責任の一端が,日系カナダ人の問における 意見の対立とその処理の仕方にあったことも認めざるをえない。私ほここでトロント滞在 中に収集することのできた資料の中から,いくつかの見解を取りあげて,その趣旨を伝え るように努めたい。 最初に「全加日系人戦時補償問掛こ寄せて」と題する村田豊恒氏の見解を紹介しよう5'. 村田氏は,冒頭でヴァソクーヴァ-・サン紙のエリック・ダウトン氏の意見-要約すれ ば,戟時中に差別や不公正を行ったのほ,カナダ政府だけでなく,日本政府も同罪であり,. もしカナダ政府が日系人に補償をしなければならないならば,日本政府も中国や東南アジ アの人々に対して補償することを考えなけれはならない-を紹介し,そのあとで1982年 7月の全国少数民族会議のとき,日系カナダ人の補償問題が全体協議の議題として提案さ れた際,中国系の代表が猛烈に反対したことを指摘したうえで,次のように述べている。 「当然私共日系代表は,彼と個人的に話し合いをしたのであったが,. 『戦時中に日本. 軍が中国でどのような大きな被害を中国人民に与えたか。しかも日本は,国民党政府 によっても,中共当局によっても,なんらこれらの莫大な被害に対する補償を請求さ れておらず,日本政府も単なる公式謝罪のみで事を処理してしまっているのではない. か。大体中国民衆が自分の国で他国の軍隊によって塗炭の苦しみをなめさせられたこ.

(7) 65. 日系カナダ人の強制移動に対する補償について. とに比べれば,一体日系カナダ人が自国の政府によってどれはどの被害を蒙ったとい うのか』と憤怒の情をみなぎらせて,彼が主張したとき,私共日系人ほ彼の心情を思 いやって慰めの言葉も知らなかったのであった。理屈では一応戦時中に日本軍が中国 でおかしたさまざまの残虐な行為と,戦時中にカナダ政府が日系人に対してとった戦. 時措置法のもとでの行為とほ,問題が別であるという見解も成り立つだろう。しかし, 問題を本質的につきつめてい桝ぎ,戦時中に日本が各国民に与えた損害という点で, このことほ全然質を異にする問題とは思えない。」 「カナダ日系人に対する政府のとった処置は,法律的にほ一応戦時措置法のもとに. 正当化されうるのであって法的に一概に政府が誤っていたと論証することほ困難であ る。もしカナダ政府に日系人が戦時中にとられた行為の是正を求めるとすれば,人道 上の問題として,事の是非をただす以上にはない。しかし,金銭的な補償をするとい. う点では,事ほ日系人のみでは済まなくなってくる。私は,日系人に対する政府の補 供そのものに決して反対を唱える着でほないが,現実面で日本軍によって被害を蒙っ た人々が,現にカナダ国内だけでも,優に全日系人口の数倍にもおよぷことを思い, 日本政府の,それらの人々に対する金銭的補償が未だになされず,今後もなされぬで. あろうことを考えれば,カナダ政府が人道上の問題として,日系人が戦時中に蒙った 被害に対する金銭上の補償をなそうとする意思をかりに有したとしても,それに反対 する人々の人口が圧倒的に多いとすれば,政府のみの判断でほ,どうにも処置できか ねるのではあるまいかと懸念に思うのである。. --」. 次に,日系人補償問題について「私ほこう思う」と題する中村ラリー氏の見解を紹介し よう6)。中村氏は,戦時中カナダに居住しておらず,補償問題関係者から部外者扱いされ. ると思って黙ってきたが,この問題は補償を受ける資格のある人にかぎらず,すべてのカ ナダ在住の日本人に影響を与えるものであるがゆえに筆をとったと述べている。中村氏に. よれば,すべての事柄の発生にほなんらかの原田があり,それに伴って結果が生まれる。 日系カナダ人が受けたいわれ無き迫害の根本となったのほ,欧米人の優越主義から釆た東 洋蔑視の思想であり,その東洋人から攻撃を受けたことで自尊心を傷つけられたために戦 時法を悪用してしっぺ返しをしたものである.また戦争というものは往々にして人間の正 しい思考力,判断力を奪い,すべての行動が感情によって支配されてしまうo. したがって,. 日系人が米国やカナダで受けた不幸な処置ほ,戦争という突発事態に起こった不幸な出来 事であったo戦時中北釆大陸以外の地にいた日系人ほ,生命の危険にさらされながら,お のれの糊口をみずからの手でしのいできた。これに反して,日系カナダ人ほたとえ満足す べき状態でほなかったかもしれないが政府の責任において家屋を与えられ,食糧を保証さ れたうえに警備員までつけて生命を保護されていたわけである.中村氏は,このように述 べたあとで,さらに次のように語っている。 「かつてトロント日系文化会館の開館式に出席したピアソン首相が『戦時中の財産没 収や給移動はカナダ政府の歴史に汚点を残した』と公衆の前で遺憾の意を表明し,さ. らに次期首相に就任したトルド一首相の初の訪日の折,カナダ首相として同様に遺憾. の意を発表した。政治家がこのような見解を発表することほ大変勇気のいることであ.

(8) 66. 泉. 谷. 周. 三. 郎. るoはたしてトルド一首相の場合,帰国後,野党はもとより国民から首相談話につい て激しい攻撃を受仇. 人気のうえで大変マイナスになったことほ未だ記憶に新しい。. この二人の現職首相の示した素晴らしい勇気のある行動に対し,心から拍手を送ると. 共に,現在の補償運動がさながら,中国の諺である「焼を得て萄を望む」に通ずるも のがあると嘆く所以である。. 40年も過ぎ, ---しかも事が起こった直後ならともかく, 人々の脳裡から忘れ去られようとしている斯こ蒸し返された場合,尚更であろう.」 「したがって,現在考えられる最良の方法は,金銭的な損害は一切不問にして,カナ. ダの歴史の教科書の中にすべての事実を記録させ,いつまでも消すことのできない汚 点として残させ,しかるがゆえに,このような不幸を二度とくりかえさないための市. 民権の確立,擁護に的をしぼることであるoそれほ日系カナダ人のみを対象とする次 元の低いものでなく,現在でも行われている東洋系に対する差別,ユダヤ系に示され. る迫害等を根絶させるための運動の展開でなければならない。」 (東加武道館館長) 中村カ1) -氏のこのような見解に対Lて,日加タイムズに二つの反論が掲載された.一 つは中村氏と同じ新移住者の立場から,高橋和比古氏が中村氏の見解に反論したものであ るo他の一つはカナダ生まれの二世である水薮幸治氏が高橋氏の反論の的確性を指摘した ものである。この二つの見解ほ,短いものであるので全文紹介することにしたい。高橋和 比古氏は,. 「中村ラリー氏の<私はこう思う>に反論」の中で,次のように述べている7'。. 「まず,日系人に対する補償問題を考えるにあたって,その特徴的なことは,加害者 が一国政府であり,被害者がその国民であるという点であるo. これはあえてたとえれ. ば,えん罪により服役した人が無実を立証されたあとに国にその補償を求めるような ものである。しかるに,戦後の国家間による賠償問題とは全く質を異にしたものであ って,それほこの問題を考えるにあたってなんの参考にもならない。日系カナダ人は 国家を形成していたわけでほなく,またそれはカナダ国と交戦状態にほ一時としてな かった。. 次に,この補償問題はしばしば『日系カナダ人に対する補償問題』ととられている ●. ●. ●. が,正確にほ『日系カナダ人被害者に対する-・-・』ととられるべきである。日系人で も被害を受けなかった人々,あるいほ受けなかったと思っている人々は,第三者なの. であるo補償問題は被害者と加害者の問で話し合われ,あるいは裁半附こよって解決さ れるべきもので,第3老は言論の自由はあるにしても,不当な圧力を両者に与えない よう注意すべきであるo. もし被害者たちが第3老の圧力により補償要求を断念するよ. うな事態にでもなれば,この国での人権のあり方,また民主主義の根底をも疑われる こととなろう。民主主義のもとでほ,被害者が加害者に補償を求めるのは当然の権利 であるo. また被害をどのように認定し,金に換算するかについての論議は,ほとんどどのよ うな場合でも,補償問題についてまわるものである。それが容易でないからと言って,. 補償要求を断念させる理由の一つとしようとほ,一方的に加害者側に立った暴論であ る。. 小生ほこの問題が被害者と加害者の間でだけで解決されることを望む。前述の理由.

(9) 日系カナダ人の強制移動に対する補鱗について で,第3老の声が両者にとって圧力とならないことを望むo. 67. -また補償金ほ,当然被害. 者に対して被害に応じて支払われるべきで,第3老には,たとえそれが誰であろうと, 何のためであっても,支払われるべきではない。. この問題について,よく考えてみれば特別なことは何もない。当たり前のことが当 たり前になされればよい。それはつまり,加害と被害があったのならば,加害者が被 害者に補償することである。もLそれがなされないのならば,一体正義ほどこにある のであろうか。」. 水豪華治氏は, 「高橋氏の反論の的確性を歓迎」の中で,次のように述べている8)0 「中村ラリー氏の『日系人補償問題について,私はこう思う』を読み,新移住者たち の日系カナダ人の事情に関する認識が彼の投稿に現われているようなものかと思い, 失望していましたが,. 12月7日号で高橋和比古氏の反論を読み,第2次大戟中の日系. カナダ人の補償問題を的確に把捉している新移住者もいることを知り,大変元気づけ. られました。私は当時10代であったカナダ生まれの二世とLて,高橋氏の投稿内容に 感心させられました。日本語を自由に使えたら,私も同様に,中村氏の投稿に反論し ていただろうと思います。. 新移住者がカナダの市民として成長していくためには,高橋氏のような認識が必要 だと思います。また中村氏の考えのような人でも,カナダに長く住んでいると,だん だんと日本国民と日系カナダ市民を混同しないようになっていくと思います。もちろ ん,なかにほカナダで何十年暮らしても,中村氏の投稿に同感だと言うような一世も. いますが,そのような人はごく少数だと信じます。」 次にブリティッシュ・コロンビア州のフレーザー河沿岸の農村に関係し,閑戦後,ロッ キー山脈の道路建設のキャンプに送られた平松豊志氏の「損害賠償に対する私見」を紹介 したい。平松氏によれば,日系人総移動の損害を物的に換算することほ,きわめて困顛で. あるが,大別して物的損害と精神的損害に分けるならば,前者に関しては損害額を提示で きるとし,フレーザー河沿岸の日系人農家に限定して物的損害額を示しながら,日系カナ ダ人の補償に関して,大変貴重な見解を表明している。平松豊志項ほ,. 「損害賠償に対す. る私見」の中で,次のように述べている9)o. 「1984年も余す日,数日にして新年を迎えんとして過去1カ年をかえり見て誠に感多 き思いがする.第2次世界大戦のため強制移動を余儀なくされた日系人に対する損害 賠償の件が新しき年を迎えて,政府当局の正当謝罪として発表されることを心待ちし ている一人であります。. 当トロントにしても,市民協会を中心としてこの問題が研究論議されながら,全加 日系人の動きの中に,残念ながら意見の統一が見られず,悲しいことに当局をして, 日系人間は意見の不統一と発言され,かかる記事を新聞紙上に見いだすことほ誠に残 念なことと言わざるをえない。. ・・--当時,フレーザー河沿岸の10エーカーの農地地価. は3千ドルから8千ドル,平均価格ほ約5千ドル,住居の平均価格は約4千5古ドル, 納屋,家具類の合計価格約1千5百ドル,それ以外に約10%の農家ほ畜産業を兼業し ていたo. ・.・・・・フレーザーJ(レ-農家一戸の強制移動による物的損害ほ,. -農家約一万.

(10) 68. 泉. 谷. 周. 三. 郎. 40数年の歳月が歩んだ現在ほ 一千ドル,これは当時(1942年)のお金の換算であって, 10倍から15倍はするだろう。物価の値上げを最小の10倍と換算しても, -農家の物的 損害は紛11万ドルになる。これを700農家に合算すると7千7百万ドルになる。」. 「日系人絵移動による損害は,私達日系人の手かげんで尺度されるべきでない.まし てそれに該当する90%の人達がすでにこの地上に存在しないことを考えるとき,尊敬 する私達の先駆者のためにも真実を当局に進言すべきでほなかろうか。今日78歳以下 の人々の中にほたして何人の不動産所有者がいたのかを私は知りたい。当時,私は一 人の労働者としてもてる不動産ほ,. -ネ一に買っていた10エーカーの山林のみで当時 の時価5百ドル,今日物的損害を語るに足りない額である。われわれほ総移動による 物的損害を発言する前に,悲痛の涙を胸に秘めてこの世を去った先駆者(現在生存し ていれば90歳から115歳)の足跡を見つめて発言することを望んでやまない。. 総移動による物的損害は,今日物的損害を有しない人々によって尺度されるべきで ほない。真実を語る以外に何物も存在しない。 ・--当局が政府の不法行為を認めて, 公式謝罪が発表された後に,賠償は全カナダ人注視の下に実行されるものと信じてい るoその賠償がいかなる形式で行われるか知る由もないが,理論的に考えられること 紘,損害賠償ほ強制移動により損害を受けた人々に受理されるべきものである。賠偉 金ほグラント<補償金>ではないo不法なる強制移動により損害を受けた人々が,衣 ずからの権利補償のために受理されるべきものであるo 今日賠僕金を日系人社会にと奔走されている人々が,果たしてこのようなお金を日 系人社会が受理して必ず起こるであろう賠償金分割の大風雪のあることを考えたこと があるだろうか。誠に寒心にたえない。」 ⅠⅡ. 日系カナダ人の強制移動の補償問題は,. 1984年11月21日に日系カナダ人を代表する全国 日系カナダ人協会(NAJC)がマルル-ニ首相に要望書「裏切られた民主主義一補償問 題のために-」. (Democracy. Betrayed-The. Case. for Redress)を提出することによ. って新しい局面を迎えた。これをきっか桝こしてNAJC代表団と政府側代表団との交渉 が2回にわたって行われたが,政府側代表団は,. 「これは交渉でほなく,単に相談してい. るだけだ」と主張して,. NAJC側の同意の有無にかかわらず,与野党の共同支持による解 決案を翌年1月の議会に提出するつもりであることを明らかにした。その解決案の骨子は, 公式の謝罪と6百万ドルの基金を設置するというものであった。. NAJC代表団ほ,. (1)政府. の提案する6百万ドルの基金は受け入れられない, 性がなければならない,. (2)補償額ほ,損害額となんらかの関連 (3)補償には被害者個人に対する個人補償が含まれなければならな. い,として,この解決案を拒絶すると共に,廠府の一方的処理に反対の意向を表明したo この解決案ほ, NAJC側の働きか桝こよって自由党と新民主党の南野党が反対に転じたこ ともあって議会に提出されなかった。また政府のこの解決案は,日系カナダ人の一部の支 持を得ることを目的としていたとも言われる.日系カナダ人の補償問題をめく小ってほ,日.

(11) 日系カナダ人の強制移動に対する補償について 系カナダ人を代表するNAJCとトロント日系市民協会(Japanese. 69. Canadian. Citizens. As-. sociation)一世部の指導者との間に見解の相違が見いだされるo最初にトロント日系市民 協会一世部の渡辺純衛氏.cD 「補償問題の状況」を紹介しよう10'. 「トロントにおける日系市民協会の活動ほ,. 1946年賢からはじめられており,日系社 会の福祉,秩序,友好と啓発を信条として民主的社会形成に尽してきたことは内外の 知るところである。. -・・・日系補償問題は7-8年前から,当時会長であった全加市協 の今井ジョージ氏等が全加にわたって調査を始め, 2回にわたってアンケートを集め た結果,最も多かった社会財産(70%)を提唱され,私達一世間でも大多数がこれに 賛同し, (1)政府ほ戦時中の不正を認めること(謝罪), (2)社会的補償(財団)等をす ること,を決議してこの運動に参加した。そのとき補償額5千万ドル(これには根拠 があるが省略)が発表されるや,俄然一般の関心が高まり,これまで社会的なことに は横を向いていた者達が出向く等,混乱のうちに年を越した。 明けて1984年1月21日ウィニベアクにおいて全加日系人協会年次総会を開き三木ア ートが会長となり,副会長沖ジャック,全加補償委員長今井ジョージが選ばれ,補償 問題についてはトロント・チャプターから提案された. (1)政府は戦時中及び戦後日系人に対して取った不正を認める, (2)左記についての補 償交渉を開始する, (3)戦時令の検討,という決議文を満場一致で可決し,即時オタワ 政府に申請することを決議,実行委員は三木会長,沖副会長,今井委員長ということ で滞りなく進行,一同明るい年を予想して喜んで別れた.しかし,その喜びほ束の間 であった.. ・・・・・・」. 「われわれは復讐をしているのではない。恩讐を超えて,カナダ市民として日系の誇 りと恩義を忘れることなく,今後かかる不正の行われることのない,住みよい民主的 な環競づぐ如こ協力して行かねばならないo野党や報道機関を使って扇動するのでは なく,慎重に誠意をもって現政府と話し合うことが大切だと思う。. ・--」. 渡辺純衛氏ほ, 1985年2月のカナダ・タイムズの「補償問題の状況」の中で,全国日系 カナダ人協会(NAJC)の対政府交渉を批判した。同年4月2日のカナダ・タイムズの記 事は, NAJCのトロント支部,トロントJCCA及び牧師会が集まった席で,三木NAJC. 会長がマルル-ニ首相に要望書「裏切られた民主主義」を提出して政府側代表団との交渉 の経過を報告したが,大多数の日系人はNAJCの対政府交渉を支持したと報じている。 この集会でNAJCの副会長である沖ジャック氏が副会長を辞任している。 ところが,. 1985年8月のカナダ・タイムズは,. 「生存者のためのカナダ日系人補償協会」. (沖ジャック会長)がオタワで記者会見して補償問題の早急決議を連邦政府と議会に要請 したことを,次のように報じている11)0. 「同協会の声明書は,カナダ日系人に対する第2. 次大戦中から1949年までの不正を連邦議会が早急に承認することと,それに従属する補償 問題とは区別して請求している。同協会とNAJC(全加日系人協会)とほ,二つの注目す. べき点で相違しているo第1ほ,会員が第2次大戦中西部沿岸で生き抜いた有力な一世と 二世で占められている。第2は,同協会会員は,同大戦時の不正を公平に個人補償するこ とは不可能だという立場を取っている点。補償に関してほ,同協会ほ連邦政府に議会の協.

(12) 70. 泉. 力を要請,. 谷. 周. 郎. 三. 『カナダ日系人のために基金財産を創設して<歴史的な遺産>として意味のあ. る貢献をしたい』としており,. 『人権,歴史的プログラム等,日系だけでなく,全力ナダ. 人にも価値のあるものにしたい』としている.」またこの記者会見には,一世の代表の一 人として渡辺純衛氏が出席し,. 「現在カナダの一世ほ,社会福祉にも恵まれて満足した生. 活をしていると思う。. 40数年前の過失は,いま金銭で支払うことはできないし,過去の過 失に板をもつとか復讐しようという気持ほ一切ない。東洋哲学にもあるように『善を以っ て悪に報いる』ということを根本に,政府の善意ある不正の承認を期待しています」と述 べている。. また1986年1月のカナダ・タイムズは「トロント日系市民協会,全国組織から分離と発 表」という見出しで,次のように記している。. 「トロント日系市民協会(JCCA)ほ,過去. を通じて全国組織と協力,その範囲内で大きな貢献を残してきた。しかし,全加日系人協 会(NAJC)の処置に合意できず, NAJCの進行方向では,これ以上社会に対する責任は もてないとして,. 1月21日,トロントJCCAはやむをえず独自の方向に進み, 分離することになった,と発表した。」. NAJCから. トロント日系市民協会(JCCA)の指導者を中心とする動きに対して,水薮幸治氏は, 同年2月14日のカナダ・タイムズに「JCCAのNAJC離縁発表について」を投稿して,そ れらの動きを次のように批判している12).. 「トロントJCCAが日系カナダ人の唯一の全国組織である全国日系カナダ人協会 (NAJC)と離縁したと貴紙に発表されたが,不思議なことに,当トロント地区の日系 社会でそのようなことが討議されたとの報道が今まで全然なかった。全加の日系社会 と線を切るというようなことは,賛否両論,はげしく討議されると思うが,そのよう な記事はどこの新聞にも載っていなかった。. JCCA自体も,そのようなことを協議す. るための総会の召集を会員達に通告していない。そのような重大な案件を決定するに は,一千名の会員を召集し,議案を十分討議してから過半数の賛成を得なければなら ない。 1980年より冬眠状態にあるJCCAが急に,そのような行動にでるとは思われな い。. ・--これほ多分,以前報道された『生存者委員会(または協会一睡ニュースの. 捻出老はどちらにするか迷っているらしい)の結成』と同類のものでしょう。あのと きも-般生存者達が全然知らない内に,その結成が報じられていた。」. 「日系統一に対する林氏の答えについて-NAJCトロント支部の日系統一のための・ 呼びか桝こ対する林初太郎氏の答えを読み,彼の暖味な態度にあきれている。彼は補 償問題を全日系の問題と信ずるなら,どうして統一行動に賛成できないのでしょうか。 一世部の会長である彼が,どうして日系の各人がどちらのラッパ吹きに従おうと,そ. れは個人の自由であると言うのでしょうか。どうして大多数の歩調を揃える努力をし ないのでしょうか。小異を捨てる気なら,自分と意見が合わない人達とも話し合うべ きでありませんか。 私は一世の大多数はNAJCとの間に大した意見の相違があると思いません。私は. 二世ですが,一世である父の気持を家族外の誰よりも,よく理解していると思います。 他の二世達も,彼らの親達について同じことを言えると思います。補償問題の解決の.

(13) 日系カナダ人の強制移動に対する補償について. 71. ために,全国の日系が統一行動をとることをはとんどの人達が望んでいると信じま す。」 このように全国カナダ日系人協会(NAJC)とトロントやモントリオールの一世の一部. の指導者たち-との問にほ,補償に関して見解のちがいがあり,それが連邦政府側の利用す るところとなっていた。日本的感覚を体得している一世の人々のなかには金銭的な形で補 償を受けることを望まない人がいる。だが,長年の辛苦の未取得した財産を二束三文で手 離すように強制され,今日でも悲痛の涙を胸に秘めている一世があることも事実であろう。 他方,カナダに生まれ,カナダ社会で成長し,民主主義の考え方を身につけた二世と三世 の人々にとっては,政府が謝罪する場合,その誠意は被害者個人に対する金額で示される ことは当然のことであろうo. 日系カナダ人の間に意見の対立が見られることはごくあたり. まえのことで,非腰に値することではない。だが,戦前から戦後にかけて人種的偏見と差 別に苦しめられてきた少数民族の日系人がその対立を連邦政府との交渉の場にまで持ち込. んだことほまことに憂慮すべき事態であった.しかし,このような日系社会の分裂,ある いは一世と二世や三世との溝をなくそうとする試みが,日系カナダ人の間で行われている. 日系カナダ人が一体となって補償問題を解決するための運動を遂行するとき,戦時中の強 制移動によって破壊された日系社会を精神面で建て直すことが可能になるのでほなかろう か。日系カナダ人の戦時中の苦難の道を措いた『失われた祖国』. (Obasan)の著者である. NAJCニュースレター,第5号の「日系社会の統一を願って一荒. ジョイ・コガワ氏ほ,. 川フレッド氏との対談-」の中で,次のように述べている13)。. 「『補償問題を解決するための運動が始まった当初から,私ほ日系人が一つにまとま って行動をとることが最も大切だと思ってきました。これについては,すでに私の考 えをまとめて発表しております。この間題の解決にあたっては,慎重に慎重を重ねる こと,これによって日系社会が内部で分裂したり,カナダ全体の社会から分離するよ うなことがあってほならないと思います』 去る7月のある日,ヴァンクーヴァ一にお住まいの荒川フレッド氏と一時間余りも. 長距離電話で話をしながら,私は荒川氏が,日系社会の統一と将来の日系世代に深く 心を砕いていることを知らされた。日系紙などの報道によると,荒川氏は『生存者に. よる補償委員会』なるものの名誉会長の任を務める一人ということになっている.こ のグループは,. NAJCの運動に対するグループであることをみずから公表しているo. しかし,荒川氏は,. NAJCと敵対することを目指すグループなどには一切関係してい. ないと強く言い切っている。」 「賠償に関して,荒川氏ほ,金銭的な形で償いを受けるのはよくないと言うo私もそ う思いたいという気持にかられることがよくある。米国の丸谷判事は,金銭的賠償を. 拒否することほむしろ無責任なことで,不義不正に間接的に協力していることになる と言っている。市民としてほ,どこの社会でも正しいことが通じる社会にするように. 努めるのが義務である。北米社会では,ルールに従って過ちは金銭的に償われなけれ ばならないからだという丸谷判事の考え方にほ賛成できないと荒川氏は語る。日系人 にとっては許すという気持を残すことのはうが大切である。政府にも理解を示す。こ.

(14) 72. 泉. 谷. 周. 部. 三. れが一世の心情であるが,他の世代には伝わらないと思うoすでに二世・三世が事を 荒くしているので,一世は無視されてしまった形である。すべては遵すぎると荒川氏 は語る。 適すぎるということはないと私は信じている。かつて二世は,よく一世に逆らった ものである。それは人種偏見に満ちた社会のただなかに生きて,心理的に逆らう必要. があったからである。今は育とはちがってきている。補償問題を解決するための運動 は,壊れかかっている日系社会を建て直す運動にもなっている.各慢代が互いに昔の 傷をいやすときにもなっていると私ほ戟う。 『そうだったら一番いいことであるo れしいことです』と荒川氏も賛成してくれた。. ・--荒川氏と私のある夏の日の対話を. 氏の了解をえて,ここに発表する次第である。」 Ⅳ. 以上において,日系カナダ人の戦時移動の補礁問題について,日系人のさまざまな意見 を紹介し,次に日系カナダ人の間における意見の対立がどこにあり,どのようにして連邦 政府との交渉をこじらせる一因になったかということを示してきた。これらの意見の中に. 紘,この間魔の本質を見落しているものや,政治問題と道徳問題とを混同しているものが あるが,ここでほ個々の意見を取りあげて吟味するという仕方でほなく,それらの意見が 全体として提示している問題を取りあげて,実践哲学14'の立場から考察して検討すること にしたい。. まず最初に日系カナダ人の戦時移動の補償ということは,戦争が終了したのち,当事国 のあいだでの交渉による国家間の賠償とは全く質的に異なる問題であることが確認されな ければならないo戦時中日本軍が中国人や東南アジアの人々などに与えた不正な行為に対 して,戦後日本政府が補償していないから,カナダ政府も,戦時中日系カナダ人になした 不正に対して補償する必要はないといった議論ほ,国家間での賠償問題と国家権力による 基本的人権の侵害という問題とを混同している。カナダでは,アジア系移民は人種的に少 数者であるがゆえに,カナダ国民として認められながら,州議会が作った差別法によって,. その基本的権利を与えられず,しかも開戦後の強制移動によって身体の自由さえ奪われ, 長年の労苦の末取得した財産をただ同然の金額で手離すことを余儀なくされたのであるo -pルド・. ∫ ・ラスキは,. 『近代国家における自由』. (1948年版)の中で,. 「自由とは,. 近代文明の中で個人の幸福を保障するのに不可欠な諸条件の上になんら拘束のないことで. あるo言語の自由がなくては,自由ほありえない.特権が存在し,選挙権を社会の一新こ のみ制限するならば,自由はありえない。合理的理由をあげて納得させることなく,支配 者の一存で爾余の人々の社会的習慣に統制を加えるようでほ,自由は存在しない15'」と記 しているoまた彼は,政治組織の角度からいっても,. 「自由は支配者に対する個人の防衛. である」と述べ,デモクラシーにおいても,多数者に対して少数者を保護する方策がなけ ればならないとし,そのことは人種的少数者,ユダヤ人やチェコ人のごとき宗教的,民族. 的少数者の歴史を想起すれば明白であると述べている。ここでラスキの文章を引用したの. う.

(15) 日系カナダ人の強制移動に対する補償について. 73. は,カナダ国民の中でイギリス系の占める割合が断然大きいからである. 1971年の国勢調 査によれば,イギリス系が44.6%,フランス系が28.7%,その他が26.7%を占めている。 イギリスとフランスとは,デモクラシーの先進国である。イギリス系とフランス系の人々 紘,それぞれの祖国の動向を見つめながら,カナダという多民族国家を形成してきたはず. である。そのカナダにおいて,このような人種差別が行われ,国民の基本的人権が侵害さ れたという事実にとまどいを感ぜざるをえない。 次に,日系カナダ人の補償についての意見の中で,顔著にみられるのが,政治問題と道 徳問題との混同という現象である.道徳ほ,もっぱら個人の内面に働きかけるものであり,. 個人の内面性ないし動機のよしあしを重視する。それゆえ,相手の人間性を信じて,過去 に不正を犯したことに対して,もろもろの事情を考慮して「許す」ということが美徳とみ なされうる。しかし,日系カナダ人の強制移動という問題は,そのような私的領域にかか わる道徳的判断で簡単に片づけることができるものではない.たしかに,実際に強制移動 を余儀なくされ,所有していた財産をごく安い金で手離した一世あるいは二世の中にほ, 今日その補償を金銭で受けとることを承知できない人がいるだろう。その判断自体はごく 当然のことであって認められなければならない。だが,そのような個人の道徳判断を日系 カナダ人の補償問題に適用することには無理がある。政治的決定には多様な要因が含まれ ており,また他の人々への影響が大変大きいので,私的領域にかかわる道徳原理によって. 常に導くことができるとはいえないの七ある.ところで,政治は,もっぱら人間を現実に 動かして人間の人間に対する統制を組織化するものである。そこで政治は,人間の行為を 媒介として成り立っている。だから政治家にとってほ,自分の良心に忠実であるかどうか. ということよりも,対象となった人間が目的通りに動いてくれることやその行為が実際に 効果があることなどが重要である。したがって,政治家の責任ほ徹頭徹尾結果責任なので ある。それゆえ,日系カナダ人の強制移動について,戦時中でやむをえなかったとか日本. 政府も補償していないからといった理由で,個人賠償を逃れようとすることほまちがって いる。日系カナダ人に対する強制移動が,カナダ国民の基本的権利を侵害したことを認め るときには,当然国家権力によって被害を受けた個人が補償を受ける権利をもつのであ る。. 第3に,政治家は,ある情勢のもとである政策が国民の大多数の利益を増進するであろ うと推謝して,その政策を執行する.換言すれば,政治的統治の主要な任務は,ある政策 を選択Lて法を制定し,それを執行することによって社会の幸福を確保することである. 日系カナダ人の強制移動ほ,戦時中に行われたやむをえない処置であり,日系カナダ人に は苦難の道を歩ませたが,カナダ国民の大多数にはより多くの利益をもたらしたものであ. る。したがって,このような政治問題は,日系カナダ人の基本的人権の侵害という狭い視 点からではなく,カナダ国民全体を考慮した大局的見地から判断されるべきであると主慕 されるかもしれない。このような見解は,功利主義的価値観にもとづくものとみなすこと ができよう。功利主義によれば,ある行為ないしある政策ほ,それができるだけ多数の人 々の幸福を増進するならば,正しい。より厳密に言うと,ある政策が,それに代わるべき 他の政策に比べて,大多数の人々により多くの幸福を産出し,より多くの不幸を除去する.

(16) 泉. 74. 谷. 園. 三. 郎. ならば正しい。この場合,正しいの基準は「最大多数の最大幸福」であるoこの最大幸福 の原理の中に,できるだけ多くの幸福をもたらすという「有用性の原理」だけが含まれて いて「正義の原理」ないし「分配の原理」が含まれていないと解釈するならば,少数者か ら幸福を全部取りあげることによって,多数者の幸福をいくらか増進することが正しいと いうことになろう。しかし,このような見解は,多数者と幸福の量だけを重視し,不幸に される人間の人格を無視している点で誤っているo 『正義論』 (1971)の中で,功利主義の正義観一効率としての正. ジョン・ロールズほ,. 義一に対し,公正として正義(justice ように述べている。. as. fairness)を提唱しているoその冒頭で,次の. 「正義は,社会制度の第1の徳目であって,これは真理が思想体系の. 第1の徳目であるのと同様であるo法と制度は・正義にもとるならば,どんなに効率的で. 整然としていても,改正されるか廃止されるかしなければならないo各人には皆正義に根 ざす不可侵性があり,社会全体の福祉でさえこれを侵すことはできないoこのために・あ. る人々の自由の喪失が,他の人々に今まで以上の善を分け与えることを理由に・正しいと されることを,正義は認めない。少数に強いられた犠牲が,多数に享受される以前より多 くの有利性の合計によって償いをうけるということも,正義は許さないo」16' ロールズの見解ほ,日系アメリカ人の補償案の可決に間接的にではあるが・強い影響力 を与えたものと思われる。日系カナダ人の補償問題に関して・日系人以外の人で・きわめ 1986年2月,トーマス・R・バーガーが「日 て卓越した論説を一つ紹介したいoそれは, 系人賠償問題に寄せて」というテーマで講演したものである1"o 「ヵナダの日系人のたどってきた歴史,それほここにいる人ならばよく知っているこ. とだと思う.それほカナダ人として知っておかなければならない歴史だといえる0日 系人が1941年に西海岸を追いだされたのは,日本が真珠湾を攻撃したことに反発して 興った反日感情-だから終戦によって突然のように失くなってしまった一による. ものではない。この年の危機ほ,ブリティッシュ・コロンビア州で長い間積み重ねら れてきた人種差別に扱があった。それは前世紀から今世紀の中ばまで,実に執掛こ生 きつづけていたものであり,そのクライマックスは大戦が始まったあとに釆たのであ る。日系人を追いだしてそのコミュニティを破壊し分散させたのほ・人種差別以外の なにものでもない。 当時2万2千人いた日系人にほ敵こそ多かったが,守って支持してくれる老は経と んどいなかった。日系人の多くほ,カナダ生まれか,カナダの市民権を取っていたo それでも攻撃され打ちのめされている日系人を庇護しようとする政治家・為政者はい なかったo議会にいたただ一人の例外はアンガス・マッキネス氏だったoグレース.. マッギネス氏の同席を得て,アンガスの業績をしのぶのが今夜の集まりの目的であるo 日系人は西海岸で住んでいた家を立退かされ,強制的に収容されたo彼らの財産は 没収され,多くの人が終戦後まで追放されたoすべては日本人という人種-日系人 がその子孫である-であったためである。広島に原爆が投下された1945年・カナダ の当時の首相,マッケンジー・キングは,日記に『原爆がヨ-.,ッパの白人種ではな く,日本人の上に投下されたのは幸いだった』と記している。これはどあからさまに.

(17) 日系カナダ人の強制移動に対する補償について. 75. 少数民族に対する差別思想を標模した記録はない. ・-・・キング首相の日記のような証 拠があるからこそ,日本人が戦時中に受けた被害は正当に償われなければならないの である。日本人のためばかりでなく,カナダのためにも。議会が過去のあやまちを過 ちとして正式に認めなければならないことほ勿論である。しかし,償いもまたなされ なければならない。. -・-償いを金銭的に計算したりすることほできないという考え方 ほ間違っている。たしかに過ぎ去った歳月ほとりもどせないし,失った財産ももどら ない。それでも償いをすることはできる。」 「国ほ,君主とか国旗,国歌とかそんなものではなく,人権を守るという理念によっ て存在するものである。世界は今朝出来上ったものではない。どの国といえども,歴 史の汚れた手を洗い流してしまうことはできない。国は条約を結び,理念としてかか. げる原理によって生きることによって責務を果すのである。責務がなかったら,理念 だけあっても,ただの空念仏としか聞えないだろう。. 最後に,かつて日系人におきたことが二度とおきてはならないという点を指摘して おきたい。カナダの新しい人権憲章にはいくつかの新しい条項が加えられている。戦 時措置法によって通過した条令は裁判で違憲が問われることになっている。しかし, 政府は必要だと判断すれば,民主主義国家でも個人の自由に制限を加えることができ ると主張することはできる。また憲章の33章で,政府は必要に応じてある程度権利を 「乱用」できることになっている。. ・--したがって憲章だけでほ,日系人におきたこ. とが二度とおこらないという保証にはならない。. 40年前市民を拘禁した行為に対して 償いをするための交渉にも応じないような国でほ,口先で大きな理想を述べるだけで, 歴史的エピソードをそう長く記憶しておくこともないだろう。もし生存者だけでも, なにがしかの償いをすることでわれわれの誠意を示すことができるとすれば,また二 度と同じことが起ってほならないし,起らないようにすることを表示することにもな ると思う。 それがわれわれにできるベストのことだと思うし,これだ桝ま最低しなければなら ない。」. Ⅴ. 日系カナダ人の強制移動に関する補償問題は,カナダ政府が財政難を理由にして個人賠. 償を拒否しており,依然として足踏み状態が続いている。しかしながら,数年前に比べれ ば,補償問題は解決の方向に一歩一歩前進してきたとみなすことができる. 1984年6月,自由党政府のコロネット多様文化大臣ほ,日系カナダ人の補償問題を解決 するために,. 「民族間の調和」. (racial harmony)を目的として,. 500万ドルの基金の設置. を議会に提案することを考え,日系社会の一部の指導者の同意をとりつけてオタワで発表 しようとした。この計画は,全国日系カナダ人協会(NAJC)のメンバーに知られてしま い,. NAJCの指導のもとにこの提案に反対する集会等が開催された。その結果,コロネッ. ト大臣は,この提案を引っこめざるをえなかった。.

(18) 泉. 76. 谷. 周. 三. 郎. 1984年9月,進歩保守党による新しい政権が誕生した.マルル-ニ首相ほ,先述したよ うに,日系カナダ人の人権が侵害されたことを認めながら,個人賠償に応ずるつもりほな いとして,. 600万ドルの基金案を提案したが,. NAJCの反対にあい,徹回せざるをえなか. 1985年9月,多様文化大臣に就任したジュレニック氏は,日系社会の一部の指導者 を操作して, 「本当に被害をうけた生存者は金銭による監賠償を求めていない」, 「私ほ金銭 った。. 的補償を申し出ることによって日系人を侮辱するつもりほない」と発言して,日系人の反 発を招き,物議をかもした。 また1986年5月にほ,. NAJCがプライス・ウォーター-ウス社に依癒した日系カナダ人. の損害報告18)がまとまり,日系カナダ人が1942年から1949年の間に蒙った損害の総額は, 1986年の貨幣価値に換算して4億4300万ドルであるという結論がでた。この報告書では, 財産処分による損害が1949年に何ドルであったから,それに物価上昇率を乗ずると現在の 損害額になるというやり方をしている。多分プライス・ウォーター-ウス社が計算してい る損害額が1949年に支払われていたならば,日系人の多くほブリティッシュ・コロンビア 州で失った家屋,農場,山林,漁船などを買いもどすことができたかもしれない。ところ が,. 1949年頃トロントで3000-4000ドルで買うことのできた家屋が今日でほ15万ドルださ. なければ買うことがむずかしいと言われている。だから日系カナダ人が失った財産の額に 物価上昇率を乗じて計算した場合,その金額では,その財産を買いもどすことは不可能 であるo. この報告書では,日系人の財産の長年にわたる使用価値を考慮していないなどの. 問題点もある。. 全国日系カナダ人協会(NAJC)は, た。. 1986年5月,ウィネペック市で全国会議を開催し NAJCほ,それに先立って行われた世論調査とプライス・ウォーター-ウス社の報告. 書をふまえて,補償要求額を個人補償3億ドル(生存者一人当たり2万5千ドル)および 日系社会への補償金5千ドル,合計3億5千ドルと決定した。この要求に対して,. 1987年. 3月,クロンピー多様文化大臣は9カ月にわたって日系人の補償問題を検討した結果,個 人的に賠償するつもりはないとし,. 1200万ドルを投じて基金を設定し,これをNAJCの. 管理運用にまかせたいと提案した。. NAJCの会長である三木アート氏ほ,. 1987年5月,ク. ロンピー大臣へ,次のような返書を送っている19)0. 「クロンピー多様文化大臣殿 3月27日付ご書簡有難く拝見いたしました。また5月9日にほドファリング氏共々, トロントでお会いでき感謝しております。. ご書簡でほ,われわれが1986年5月に政府に提出した『NAJC賠償提案』に盛られ たいくつかの点にふれておられます。例えば,日系人が戦時に受けた不義不正を事実 として認められ,戦時措置法の改正にふれられたことなどです。しかしながら,この. 間題の解決のために貴殿のとられた方法には,私達は失望をかくすことができません。 過去2年半以上にわたって,われわれが申し入れを行ってきたことの中で最も基本的 なもの,すなわち,個人-の賠償と解決のために納得のゆく内容が示されていないか らです。 NAJCは,個人賠償を求めることを基本路戦として,日系人に代って政府と交渉す.

(19) 日系カナダ人の強/rB[]移動に対する補償について. 77. るよう要請を受けています。被害を蒙った日系人が,日系グループとしてではなく, 個人として償われるべきだというのがわれわれの立場です。今回の貴殿の提案にほ, 1万4千人の生存者のひとり一人に償いをすることが全く認められておりません。 ・・・・・・・・・われわれほ, 1984年以来数回にわたって,マルル-ニ首相との会見を願って申. し入れを行っておりますが,今だに実現しておりません。貴殿が仲介の労をとられ, これが早い機会に実現されるよう願っています。 失望はしておりますが,われわれほ今後も交渉を続け,政府が日系人の賠償を重要 な問題として認め!カナダの市民権にとってもっとも根本的な問題を含むものとして. とりくんでいくことを希望しています。この国の名誉の回復のためにも,この問題が すみやかに解決されるよう努力を続けていきますo. この努力が一般カナダ人にも分ち. 合っていただけるものと信じております。被害を受けた日系人が,個人として補償を. 受けることだけが,不義不正を正す唯一の方法だということにカナダ人ほ確信をもっ ています。. --6月1日にオタワでお会いできることを期待しております。 NAJC会長」 アート・三木,. アート・三木氏は,日系カナダ人の強制移動が人種差別にもとづく少数の日系カナダ人. に対する人権の侵害にはかならないことを明示して,個人賠償こそが不義不正をただす唯 一の方法であるとし,この問題を早急に解決するように要請している.国家権力による基. 本的人権の侵害は,単なる口頭での謝罪とか日系社会-の基金の設置とかいうことで償わ れるものではない.国民あるいは市民の権利を擁護するとほ,なによりもー人一人の個人 を尊重するものでなければならない。これこそが民主主義の原理であると言ってもよいで あろう。カナダでは,日系人の補償問題は,個人賠債をめく・-って対立しており,交渉が難 航しているo. カナダ政府の指導者たちが,アメ1)カ議会の例にならって,すみやかに個人. 賠償を認めることが望まれる。カナダ政府が今後とも個人賠償を拒否してこの問題の解決 を遅らせるならば,連邦政府が歴史における汚点に対して責任をとる姿勢がないと解釈さ れてもしかたがないだろう.強制移動の生存者たちほ,戦後40年過ぎた今,きわめて老齢 化しており,解決を遅らせることは,それらの生存者にカナダ国民としての誇りを失わせ ることにもなるだろう. ところで,アメリカでほ,. 1980年7月,カーター民主党政権下の議会で9人から成る 「戦時民間人再定住・抑留に関する委員会」が設置された。 1983年2月,この委員会は, 報告書を公表し, 「強制収容は長期にわたる人種差別と戦時下の異常な心理にもとづくち のであり,軍事的必要から正当化される措置でほなかった」20)という結論をくだした.こ の報告書には,アメリカの歴史における汚点を見つめ,今後いかなる緊急事態においても, 国民の人権を奪う過ちをくりかえしてはならないという精神が貫かれている。だが,アメ リカの議会においても,日系人強制収容の補償法案が可決されるまで5年という歳月を費 NAJCとの交渉を進展 した.このことを考えると,カナダ政府が個人賠償を早急に認め, させることが切に望まれる。 私ほ,日系カナダ人が歩んだ苦難の歴史を知る中で,ブリティッシュ・コロンビア州の. -.

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