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タイ国ピブーン政権と太平洋戦争 [The Phibun Regime in Thailand and the Pacific War]

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東南 ア ジア研 究 19巻 4号 1982年3月

資 料 ・研 究 ノー ト

タ イ国 ピブー ン政権 と太 平 洋戦争

治 *

ThePhi

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Y osHIKAW A*

lIield Marshal Phil,unsongkhram, the Prime MinisterofThailand during the PacificW ar,is said to havebeen a dictat()r,a challVinistand a mi】itariSt,andtohaveerredintrylngtOreviveold Siam bymilitary means・ Buttheminutesofthe Cabinetconference,Phibun'S speeches,the Rat -t

haniyom principles,Thai Code ()f Valour and Phibun'sown behaviorduring hisreglme reveal histhoughtsand actionsasa campaLIgn tO foster thecivilizationofThailandandtorestoreherhonor andfaceamongnations・

Herenamedthecountry"Thailand"onJune24,

1939becausetheoldnameSiam wasassociatedwith absolute monarchy,W esterner worship,arbitary Chineseaction,anationalinferiorityCOmPlex and oldcustoms.Itwashisaim todispeltheseassoci -ationsandtopromptconstitutionalmonarchy,the

は じ め に づく 「タ イ尽 し (阿 呆 多雁 経 , 盆 蹄 の 唄) 退屈生 目出J.た 目出 タ イ此 タ イ 国で● ● ● ● 二 千 六 百 年 の タ イ鼓 を叩 き● ● 音 頭 と る と は 目出 タ イ話● ● * 大 阪 外 国語大 学 タイ ・ベ トナ ム語学 科 ;Thai& VietnameseDepartment,OsakaUniversltyOfFor -elgnStudies,P.0.Box15Min00,2734Aomadani, MinooCity,Osaka562,Japan

civilization ofthecountry and themodernization orthepeople.

ThePhibunreglmeintended toreduceWestern political power and Chinese economi c power. Japan alsohad an interestin destroying W estern powerin SoutheastAsiaandreplacingltWithher own・ Phibun used Japanesepowerto carry out hispolicy. JapantreatedThailandasanimportant nation in SoutheastAsia beforethePacificW ar,

soshecouldmoveherforcesthroughThaiterritory andobtainnecessaryfacilities. Phibuncooperated w

i thJapanforonlyoneyearduringthewar,then switched to the promotion of an anti-Japanese strategicplan,becausehethough tthatcooperation withJapandidnotI,ringhonorandfaceeitherto Thailand orto himself.

タ イの 暑 さ は タ イ層 の もの と● ● ● ● か ね て大 タ イ聞 いて は いた が● ● タ イ変 ダ イ事 な お 国 と聞 いて● ● ● ● タ イ した こ と はな い此 タ イ国 -● ● ■ ● わ れ もわ れ もと タ イ勢 渡 る ● ● 東 亜 共 栄 新 タ イ制 で● ● タ イ した もん だ よ南 へ 展 び て● ● そん な に お金 を タ イ層 溜 めて ど ろ イ ・ こ タ ′・ と 全 の イ ・ 抵 タ ・ イ ・ 一 夕 ・ うす る積 り イ度 を きめ て

(2)

タ ・ ィ . ィ . 身 タ ・ タ ・ イ大 事 に タ イ切 に して●● 変老 いが住 む タ イ国だ● ● た御 飯 の 自 さを見 やれ タ イ平楽 に暮せ る国 は 今 じゃ南 じゃタ ヨイ ヨ ィ . イ 国ばか り ヨイ トナー 」 東南 アジア研 究 19巻 4号

み込

で は

は狭

へ 急 ぎ

らに

入 り

[泰 国 日本 入会

1

941:1

3

9

]

この歌 は

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年 (昭和

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年),タ イ国 に滞在 す る 日本人 が余 興 に作 った戯 歌 で あ る。 この 年 の

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日,太 平 洋戦 争 が始 ま り, タ イ国 に も5万 の 日本 軍 が陸路,海 路 か ら進 駐 した。 各 句 に 「タ イ国」 の 「タ イ」 を歌 い込 んで あ るが, タ イ国 の 国 名 「シ ャム」か ら 「タ イ国」 に改称 した の は

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日, この歌 ので きる2年 前 で あ り, 日本 人 に はまだ耳慣 れ ぬ 国 名で あ った。 そ して

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1月 ,東京 で は 紀 元

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年 を祝 う記念 式典 が行 われ た。 日本 で はビル マ, マ ラヤ攻 略 へ の拠点 とな るタ イ 国が重視 され始 め, それ まで一般 に は 「タ イ●● した こと はな い」と思 って いた タ イ国 が

,

「タ イ変 ダ イ事 なお国」 と急 に もて はや され るよ ● ● うに な った。「東 亜 新 秩序

「大東 亜 共 栄 圏」 が提 唱 されて, タ イ国 に渡 って い く日本 人 の 数 が急 激 に増 えた 。「タ イ平 楽 に暮 せ る」はず●● の タ イ国 が, 太平 洋戦 争 に巻 き込 まれ, 連合 軍 の空 襲 を受 け

,

「タ イた御 飯 の 白 さ」を誇 っ● ● た米 も,日本 軍 の調 達 で,食糧 不足 を経験 し, わずか 4年 間 に激 しい イ ンフ レに見舞 わ れた ので あ る。 タ イ国 に と って,外 国 の軍 隊 が4年 間 も国 内 に駐屯 して いた とい う事 実 は, 歴史 上 初 め て の経 験 で あ った。 当時 の生 々 しい体験 はい ま もな お語 られ, 回想録 と して記 録 され て い る。 大 衆 の間 で も,例 え ば次 の よ うな語 りの 歌 にな って い る。 「二 千 四百 八 十 五年 日本 軍 が シ ャム湾 -戦 地 -行 くと タイ国越 えて ロ ン ドン目指 し 通 して くれ と 364 頭 の弱 い キ ャプテ ン は 波 の間 に間 に 地 先 は浅瀬 に 狭 い運 河 が つ っ込 んで きた まが り くね って 舶 先 は両岸裂 け 目に 沈 む すペ 船 を操 る術 もな く 入 った り出た り また乗 り上 げて 船 体 を挟 み (以 下略)」

[

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80:3

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年 は仏暦 を指 し

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年 の ことで あ る。 日本 軍 の船 団が シ ャム湾 を横切 り,南 タ イの マ ラヤ半 島東 岸 に大 挙 して上 陸 したの は

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日未 明で あ るが,年 末 で もあ り, 吹 の年 の ことと思 い込 んだ のか も しれ な い。 こ の歌 は, マ ラヤ, ジ ャワの ワヤ ンに源 を発 す る南 タ イの 名物, 影絵芝 居 「ナ ン」 を上演 す る時 に,節 をつ けて語 られ る話 の ひ とつで あ る。 日本 の軍艦 を題 材 に した語 り物 はまだ ほ か に もあ る。 南 タ イの の どか な漁村 に, 突 如 出現 した 日本 の船 団 は, 南 タ イの人 々に と っ て は忘れ難 い光 景で あ った のだ ろ う。 も っと も,この詩 句 はタ イ語 で

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han

「摩珂 不思 議 の句」 と呼ぶ,濡 れ場 を比職 で表現 し て い るの で あ るが。 と もあれ,東 ア ジア,東 南 ア ジ ア全 域 を巻 き込 み, 太 平 洋 戦 争 - と突 入 す る状 勢下

に,

当時 ,東 南 ア ジアで は唯 一 の独 立 国 で あ った タ イ国が,進 出を はか る 日本 に いか に対処 し, ど う行 動 し, どんな感情 を持 って い た のか, 当事 国 の 日本 は知 って お くべ き 事 柄 で あ ろ う。本 稿 で は,

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2

年 の立 憲革命以 降, 特 に 人 民 党 か ら生 まれ た ピブ- ン政権 と日本 との 関係 の 中で, ピブ- ンが何 を考 え, どの よ う に国を動 か そ うと して いた のか, と りわ け タ イ側 の資 料 ,文 献, 研究 書 の 中 に ピプ - ンの 言 動 を拾 って考 察 した い。

(3)

吉 川 :タ イ国 ピブー ン政 権 と太平 洋戦 争

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年 革 命 と 日本 1931年 (昭和6年 ) 9月18日に 日本 が起 こ した満 州 事 変 と,1932年6月24日タ イ国で起 きた立 憲革 命 と は, ア ジア大 陸 の両 隅 で発 生 した , みた と ころ何 の 関係 もな い事 件 で あ る が , このふ た つ の事 件 が奇妙 な関係 を持 ち始 め, 両 国 を太 平 洋 戦 争 の 同盟 関係 へ と導 いて い った ので あ る。 タ イ国の革 命 は, 留 学 帰 りの少 壮 軍人 と官 吏 に よ り起 こされ た立 憲君 主 革 命 で あ った。 人 民 の主 権 を誕 い, 国 の経 済 を人 民 政府 が管 理 す る とい う, 進歩 的 な理 想 を持 って始 め ら れ た革 命 で あ った。 革 命 後 の初 代 首 相 に選 ば れ た の は, 心 理 的 に も姻 籍 関係 で も王族 とつ なが りの 強 い守 旧的 人 物 プ ラヤ 一・・マ ノーパ コー ン- テ ィク ーダ ー(phr ayaManopak6n-nitithada,以 下 , 略 して プ ラヤー ・マ ノ ーパ コー ン) [矢 野 1968:115]で あ り, 外 務 大 臣 は絶 対 王 制時 代 の大 臣 プ ラヤ ー ・シー ウ ィ サ ー ンワ-チ ャー (phraya Siwisanwaeha) [Sathaban phasasat 1980:908]で あ った が, 対 日関係 で は人 民 党 か ら信 赦 され て いた プ ラ ヤ ー ・イ ン タ ラー ウ ィチ ット (phraya lntharawichit)が駐 日公 使 と して 派遣 され た。 駐 日公 使 の派 遣 は特 に 日本 の発 展 を悉 に観 察 して, 日本 側 の指 導 者 と親 密 な安 達 した 関係 を保 つ ことで あ った [Charnvit 1974:52]。 英, 米 に対 して は, 従来 の駐 英公 使 を駐 米公 使 に, 駐 米 公 使 を駐 英公 使 に移 す に と ど ま っ て いた の に対 し, 革 命 政府 は対 日関係 重 視 の 態 度 を示 して いた。 革命 翌 年 の 2月24日, ス イスの ジ ュネー ブで 開催 され た国 際 連 盟 臨 時 総 会 にお いて, 日本 軍 の満 州 撤退 勧 告 案 が42 対 1で 採 決 され た 時, 革 命 政府 か ら派遣 され た タ イ国 代表 が た だ ひ と り棄 権 票 を投 じて , 各 国代 表 を驚 か せ た 。従 来,いか な る国 際会 議 にお いて も, タ イ は英 仏 諸 国 に追 随迎 合 す る の を常 と して いた [在遅 羅 日本 公 使 館 1934: 43]。当時 の駐 タ イ公 使 矢 田部 保吉 が再 三 再 四 に わ た って タ イ外 相 を往 訪 し, 外 相 よ り 「遅 羅 国 -東 洋 ノー 国 ナ レハ 日支 両 国何 レ- モ味 方 シ得 ス, 又 敵 トモ為 シ得 ス 仇 テ 同 国代 表 - 満 州事 変 二 関 スル 国際 連 盟 ノ表 決 --棄 権 ス へ シ

[宮 崎 1942:5]との言 質 を取 り付 け, 早速 , 日本 の外 務 省 -事 前 に打 電 して の 結 果 で あ った。 立 憲革 命 を起 こ した人 民 党 は, 国王 や 王侯 貴 族 か ら政 治 の実 権 を奪 い, 主 権 在 民 を確 立 しよ うと,政 界 か ら王族 や貴 族 を追 放 した が, そ の背 後 に控 えて行 政 を実 質 的 に動 か して い た 欧米 人顧 問 を排 除 しな い ことに は, 政 治 の 実 権 を掌 握 した ことに はな らなか った 。また, 人 民 党 内部 の文 官 派 を代 表 す るプ リ-デ ィー ・パ ノム ヨ ン (PridiPhanomyong,当時 はル ア ン・プ ラデ ィ ッ トマ ヌー タ ムLuangPradit -manutham)が起 草 した 「民 族経 済 計 画 案

で 措 いた ど と く, 政府 の管 理 に よ る経 済 運 営 を革 命 政府 が実 行 す るな ら, タ イ経 済 を牛 耳 って きた華 僑 勢 力 や イギ リス資 本 の企 業 と対 立 せ ざ るを得 な くな る はず で あ った 。 矢 田部 は1907年 に初代 駐 タ イ公 使 稲 垣 満 次 郎 の下 で かつ て 書 記 官 を 勤 め た こ と が あ り [Flood 1967:26],1928年 7月 以 来 , 駐 タ イ公 使 を勤 めて いた。 矢 田部 は稲 垣 と同 様 に

,

「欧州 諸 国 勢 力殊 二英 国 ノ同 国 二於 ケ ル牢 固 タル 勢 力 ヲ 幾 分 ニテ モ減殺 スル コ トヲ目的 トセ ラ レ」[宮 崎 1942:8-9],日本 の 技 術 と 資 本 に よ る タ イ国 の経 済 開 発 と, 日タ イ間 の通 商 関係 増 進 を画 策 して いた 。 そ して, タ イ側 もまた 日本 の力 を 借 りよ うと して いた 。 プ ラヤ ー・マ ノ ーパ コー ン内閣 は組 閣 以 来 , 次 第 に旧勢 力 に迎 合 す る よ うにな り, 立 憲 君 主 制 を確 立 しよ うとす る人 民 党 の方 針 と は合 わ な くな った。1933年 (昭 和 8年) 6月19

夜 半 , プ ラヤ ー ・パ ホ ンボ ンパ ユ セ ナ -(Phraya Phahonphonphayuhasena, 略 して プ ラヤ ー ・パ ホ ンと呼 ぶ) 陸軍大 佐 , ル ア ン

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東 南 ア ジア研 究 19巻4号

・ピ ブ - ン ソ ン ク ラー ム (Luang Phi bun-songkhram, 略 して ピブ- ンと呼 ぶ)陸軍 中 佐 らはクーデ ターを起 こ し,プ ラヤ ー・マ ノー パ コー ンを 内閣か ら追 い 出 し, プ ラヤ ー ・パ ホ ンが 首相 に就任 した。クーデ ター直前,ピブ - ン らは人 を介 して ひそか に在 タ イ公 使 館 に 接近 し, 日本 側 よ り挙 兵 に必 要 な武器 供 給 を 受 けた い と要 請 して きて いた [同上文 書 :

7

]

矢 田部 は極 めて慎 重 な態 度 を と り, クーデ タ ー後 に援 助 を 申請 す るよ うに回答 した。 そ し て6月20日, プ ラヤ ー ・パ ホ ンらは クーデ タ ー本部 の あ るパ ール サ カ ワ ン宮殿 に矢 田部 を 招 いて会 見 し,日本 の助 力 を要 請 した [同所]。 新 しいプ ラヤ ー ・パ ホ ン内閣 で は, 日本 側 の 希 望 を容 れ, 親 日家 プ ラヤ ー ・ア ピバ ー ンラ ーチ ャマ イ トリー (phraya Aphibanratc ha-maitri)を外務 大 臣 に任 命 した [同上文 書 :9]。 矢 田部 は さ らに タ イの経 済 開発 の た め, 日本 人 経 済顧 問 を経 済省 に任 用す るよ う働 きか け た が,タ イ側 は これ を 断 った。 タ イ と して は, せ っか く外 国人顧 問を排 除 して, タ イ人 に よ る政 治,行 政 を 目指 して いた矢 先 の ことで あ ったか らで あ ろ う

た だ し,日本 の技 術 で綿 花 の増 産 を はか り,生 産柏 を 日本 側 に供給 す る 目的 で, 農 学 博 士三 原 新 三 を経 済 省 に雇 い入 れ た 。また,農 業 経 済学 教 授 を 日本 か ら招聴 し た い とい うタ イ側 か らの希 望 で, 九 州 帝 国大 学 農 学部 助教 授 伊藤 兆 司が派 遣 され, タ ンマ サ ー ト大 学 で2年 間 教 えた [同上文 書 :9-10]O タ イ政府 は海 軍 拡大 計画 をた て,1935年 , 海 軍 司令 官 ル ア ン ・シ ン トゥソ ンク ラー ムチ ャイ (Luang Sinthusongkhramchai)自 らが 訪 日 し, 軍 艦20隻 を 日本 に発注 した。 翌 年 に は内務大 臣 プ リ-デ ィー も訪 日 して いた。 革 命以 後 , 日本 の民 間企 業 の タ イ国進 出が 顕 著 にな った。1933年 に は三 井物 産 株式会 社 がバ ンコクに出張 所 を 開設 す る と, 次 いで三 菱 商 事株 式 会 社 も出張 所 を開設 した。1935年 10月 に は横 浜 正金 銀 行 がバ ンコ ク支 店 を開設 366 して [外務 省東 亜 局 1936:32], タ イ国 で の 日本 の経 済 活動 は本 格 的 にな って きた。確 か に, 革命 以 後, イギ リス と フ ラ ンス の勢 力 は 下 り坂 にな って, 日本 の勢 力 が反 比例 して 増 大 した[Crosby 1973:92]。 それ はまた, 従 来 か らの英仏 の勢 力 を排 除 し, タ イ人 に よ る 実権 掌 握 を 目指す 民族 主 義 の台頭 で あ り, さ らに,在 タ イ華僑 に よ る 日貨 排 斥 運 動, 抗 日 戦 基金 募 金 に示 され た, 中国本 土 の民 族 運 動 に連動 した華僑 の民 族 運 動 に対す る反発 が 混 じり合 った民 族主 義 で もあ った。 そ こに,英, 仏 で もな い中国で もな い, タイか ら期 待 され なが ら日本 とい う新 勢 力 が入 り込 んで い く余 地 が あ った。

ピプー ンの民族運 動 1937年 , プ リ-デ ィー は完全 な互 恵主 義 に もとづ く平 等条 約 の改 正 を手 が け,12月 に は 日本 を初 め欧米主要15カ国 との間 に,新 た な 友 好 通商航 海条 約 を締 結 した。 これ で タ イ国 は国 際的 に は完全 な主 権 を 回復 した 。しか し, 国 内で は,未 だ完 全 な権 力 を握 るに は至 って いなか った。 1937年 9月 の 国会 解 散 の の ち,12月 16日に 新 国会議 員 が選 出 され ると, ピブ- ンが 首相 に選 ばれ た。 ピブ - ンは1939年 よ り 6月 24日 の革 命記念 日を国 の祝祭 日と し,当 日,次 の よ うな演 説 を行 な った 。「今 日,われ われ の社 会 の商 業 や職 業 は全 て外 国人 に よ って 占め られ て い ます。彼 らはわれ われ タ イ同胞 を いか よ うに も従 わせ るほ どの勢 力 を持 って い ます 。 この よ うな状 態 の ままで, 子 や孫 の代 に至 る まで放 置 して お いて よい もので し ょうか。純 粋 の タ イ民族 の血 を持 つ愛 国者 な ら,一致 し て許 せ な い と考 え るで あ りま し ょう。 われ わ れ タ イ人 の性 格 と して, われ われ は誰 に も隷 属 したた め しはあ りませ ん。 それ故 , 私 が タ イ人 同胞 にお原餌 、す るの は, この よ うな 国家

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吉 川 :タイ国ピブーン政権と太平洋戦争 の 重 荷 を 適 当 な 時 期 にす っか りな くす の に協 力 して ほ しい と い う こ とで す 。 そ れ で こそ, わ れ わ れ は タ イ人 と して 生 まれ , タ イ 国 を 商 業 や 他 の職 業 で 救 い, わ が タ イ人 に利 益 を も た らす こ と に な るの で す 。 い ま こそ , わ れ わ れ は わ が 国 で 商 売 を 営 む 外 国 人 と競 争 を始 め ね ば な りませ ん 。 わ れ わ れ は彼 らと闘 わ ね ば な りませ ん 。 (中 略 ) しか し,成 功 させ るた め に は, タ イ国 が タ イ人 自身 を 助 け, タ イ人 が 作 り, 売 り, わ れ わ れ タ イ人 が ま ず 買 わ ね ば な りませ ん 。タ イ産 品 を 愛 用 (Niyom)しな け れ ば な りませ ん」[Phanit 1978:1011。 こ こ で い う外 国人 と は華 僑 で あ り, 華 僑 の手 か ら 商 業 , 経 済 活 動 を取 り戻 す こ とを まず 当面 の 目標 と した 。 ピブ - ンは1939年 に 「タ イ米 穀 株 式 会 社 」 や ,1941年 に は 「タ イ ・ゴ ム株 式 会 社」1)な ど,多 くの 国 営 会 社 を 設 立 し,国 の 基 幹 産 業 を タ イ人 の手 に取 り戻 そ う と はか っ た。 ま た1940年 に は商 業 登 記 法 を 発 布 し, 商 店 に登 録 税 を 支 払 わ させ ,1941年 に は職 業 保 護 法 を 発 布 して , 外 国 人 , 特 に華 僑 の商 業 活 動 を 排 除 しよ う と した。 同 じ く1939年 6月24日 に, タ イ 国 の文 化 を 改 善 し, 国 民 の基 本 とな って 実 行 され る よ う ラツタ-ヨム

lThiamehan 1978:171],「愛 国信 条」(Ratt ha-niyom)2)第 1号 を 発 布 した 。 第 1号 で は,国

1)「タイ ・ゴム株式会社」の場合,商務省が半分出 資 し,東京のTheNipponRubberCoリLtd.と

The OrientalCommerce and IndustriesCo.,

Ltd.が三井物産 を 代理人 に半分 出資 した とい う[Phanit 1978:1211。 太平洋戦争が始 ま る と, 日本か らこの会社 に機械が届かず, タイ政 府が 日本側 の株を買い戻 したが,結局,軌道 に 乗 らなか った。

2)「Rattha」はパ ー リ語で"Rattha"r国」をいい,

「Niyom」もパ ー リ語 "Niyama"「決定」か らタ イ語で は 「愛好す る,尊重す る」とい う動詞に用 い られてい る。ピブ- ン以前 に ラーマ6世が,英 語 の術語を タイ語 に訳 し,今後 はこの訳語を使 用 しよ うと提唱 したのを,「phraratcha-niyom」

と呼んだ。「国王のご愛用」 とい う意味である。

Ratthaniyom の制定委員長ルア ン・・ウィチ ッ ト ワ一夕カー ンは これを真似たのであろ うか。

名,民 族 名 ,国 籍 名 を 従 来 の 「シ ャム」(Siam,

Siamese)3)か ら

,

「タ イ 国」(Thailand)「タ イ」

(Thai)に改 称 した 。そ の 理 由 は,本 来 ,タ イ人 は 「タ イ」 と 自称 して い た か らで あ り

,

「シ ャ ム」 は本 籍 不 明 の 名 称 で あ る

,

「タ イ」 に は独 立 民 族 の 意 味 が 込 め られ て い る[Narathi ppa-phongpraphan 1961: 260], と い うの で あ る。 しか し, 絶 対 王 制 下 で 国 王 が 国 名 と して 「シ ャ ム」を 用 い て い た の を 「タ イ 国」 と改 名 す る こ と は, 絶 対 王 制 下 の 国家 と は異 な る と い う こ とを 意 識 した もの で あ り, さ らに, の ちの 失 地 回 復 運 動 の際 の 「汎 タ イ運 動」(Thai Ruam Thai, Pan-ThaiMovement)とな っ

て, タ イ国外 の タ イ族 に 同 胞 と して 呼 びか け るの に効 果 を 持 つ こ と に な る。 「ラ ック - ヨム」は そ の後,1942年 1月28日 の 第12号 ま で 断 続 的 に公 布 され た。1939年 7

3日の 第 2号 は 国家 に及 ぼす 危 険 の 防 止 , 8

2日の 第 3号 は, 北 タ イ, 東 北 タ イ, イ ス ラ ム ・タ イで あ れ , 全 て タ イ と呼 び, 種 族 に よ って 区 別 しな い こ とを公 に した 。 9月 4 日の第 4号 で は, 国 旗 , 国歌 , 国 王 賛 歌 に敬 礼 す る こ と,11月 1日の 第 5号 で は タ イ 国 産 品 の愛 用 ,12月10日の 第 6号 で は 国 歌 改 正 , 1940年 3月21日の第 7号 で は 国 民 全 て が 職 業 につ き国 家 建 設 に あ た る, 4月26日の第 8号 で は 国王 賛 歌 の改 正,6月24日の第 9号 で は, 3)チ ュラーロンコー ン大学文学部で国史を教えて いたスモ ンチ ャー ト・サワ ッデ ィクンは,1942

年ThailandResearchSociety(この名称 もSiam Societyか ら変更 させ られ,のちにSiam Society に戻 った) の雑誌 タイ語版第2号で,古今東西 の文献を引用 した「シャムとは何を意味す るか」 と題す る,長 い論文を書 いてい る。 要 す る に 「シャム」 とい う名称を支持す るために書 いた 論文である。1961年6月22日の制憲議会で国名 を 「シャム」 にす るか 「タイ」 にす るか論争が 起 きた。採決の結果134対5で 「タイ」に決定 した。 サ リッ ト政権下で「タイか シャムか論争」 が起 きたのは,サ リッ トが6月24日の革命記念 日を国の祝祭 日に しなか ったの と同 じ背景を持 つ もの と考え られ る。

(6)

東南 ア ジア研究 19巻 4号 タ イ語 に誇 りを持 ち,全 ての 国民 が タ イ語 を 読 み,書 き,話せ るよ うにす る,

1

9

41

1

月 25日の第

1

0

号で は,公共 の場,人 の集 ま る場 所 で は身 な りを整 えて お く,

9

1

2

日の第

1

1

号 で は,日常 生 活 を規律正 し く送 る こと,最 後 の

1

94

2

1

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8

日の第

1

2

号で は,子 供,老人, 身障者を いた わ るの が文 化で あ る, と説 いて い る。 少 な くと も

1

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4

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年 の第

9

号 まで の 「ラ ックニ ヨム」の内容 は

,

「タイ」の名 の下 で の 国民統合, 国家- の帰 属意識 の高揚 を意図 し て いた。従来,東 北 タ イや北 タイの住民 を「ラ ーオ」族 と呼 び, 話す言語 を 「ラーオ」語 と 呼 んで, 中央部 の住民 「シ ャム」人 と区別す る習慣 が あ ったが

,

「シ ャム」とい う呼称 を全 国 に及 ぼす よ りは,共 通 の民族 名称 「タ イ」 を 国名 と し

,

「シ ャム」語 を 「タ イ」語 と呼 ん で, 国語 と して全 国 に普及 させ る方 が は るか に賢 明で あ った。「ラーオ」族 も 「シ ャム」族 も同 じ 「タイ」族 の-支族 だか らだ。

イ ン ドシナ国境 紛争 と日本 の調停

1

9

3

9

年 (昭和

1

4

年)

9

1

日, ドイツ軍が ポー ラ ン ドに侵入 し,2日後 の9月 3日, イ ギ リス, フラ ンスが ドイツに宣戦布 告 して, 第

2

次世界大 戟 が始 ま った。 ピブ- ンは 「ど ち らにつ いて も何 の利益 もな い。かつ て わが 国 は名声 を求 めて参戦 (筆 者注 :第

1

次世界 大戦 の こと) した ことがあ るが, いまや わが 国 は全 て揃 って い る。例 えば裁 判 自主権 , 関 税 自主権,平等条 約等 々。そ こで従来 か らの政 策 で あ る中立政策 を とるのか最 もよい と考 え る

」[

So

t

s

a

i

1

9

7

7:1

1

9

]

と述 べ,

9

5

日,メ イ国 はい ちはや く中立 を宣言 した。 フラ ンス は第2次世界大 戦 が勃発 す る直前 の8月 に, 駐 タイ公 使

Pa

ulLe

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i

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を通 じて,タイ と の不可侵条 約 を要請 して きた

[

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.

C

3

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.

]

.翌年

6

1

2

日, タ イ国 は英仏 とはバ ンコクで相互 不可侵条 約 を結 び,同 日,日本 とは東京 で友好 368 和親条 約 を結 んだ [西 野

1

9

78:93

]

。 日本 は ことさ らに不可侵 の ことばを避 け, さ らに英 仏 との不 可侵条 約 とは無 関係 とい う立場 を と って

[

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1

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70:29

]

,英仏 と締結 日を同 日 と しなが らも,調 印を東京 で行 な った。 と こ ろが, 調 印の

2

日後 ,

6

1

4

日に フ ラ ンスの パ リは ドイツ軍 に よ って 占領 された。 パ リが 陥落す ると,日本 は,ハ ノ イか ら重慶 に至 る援 蒋 ル ー トを停止せ よとい う重大要 求 を,有 田 外 相 よ りア ン リ大使 に提 出 した [石 川

1

979:

3

3

]

。9

2

3

日,中国 の南 寧か ら鎮南 関を通過 して, 中村 明人 中将 の率 い る部 隊 は トンキ ン 地 方 に進駐 し始 めた。 日本 は イ ン ドシナ にお け る フラ ンスの主権 と髄土 を認 めなが ら,翠 事上 の便宜 供 与 を受 けるとい う協定 に もとづ くもので あ った [同上書 :55]。 中村 が トンキ ン地 方 の ラ ンソ ンで入 城式 を行 な った翌 日の

9

2

7

日, ベル リンで は 日独伊三 国同盟 が結 ばれ た。 一方, タ イは仏 領 イ ン ドシナの事 態 をみな が ら, フ ラ ンス との不可侵条 約議 定書 に盛 ら れ た, 国境 画定 のた めの代 表 を送 るよ う, フ ラ ンスを促 した。ピブ- ンは閣議 で

,

「フラ ン スが イ ン ドシナを 日本 に与 え, われ われ タ イ が, われ われ の失 った領土 に関心 を示 さず に おれ ば, 政府 は黙 って見過 ご した とい うか ど で,次代 の若 人 に対 して責 任 を と らね ばな ら な い

」[

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70:

3

5

]

と述 べ

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2

日フ ラ ンス公 使 を呼 んで国境画定 のた めの代表派 遣 を促 した。 当初,仏領 イ ン ドシナ との 国境 線 で問題 とな って いた の は, メ コ ン河 を フ ラ ンス債 と して いたのを, メ コ ン河 の最深部 を 国際法 に即 して 国境 と して書 き換 え るだ けの ことで あ った。 フ■ラ ンス は逆 に不可侵条 約 の 批准 を早急 に終 え るよ う促 して きた。 タイは 英米 の公 使 を呼 び, タ イの失地 回復 に関す る 本 国政府 の意向打診 を要請 した。両 国 と もに, む しろタイの野心 を なだ め,現 状維 持 を説 い た。 ピブ- ンは これ に満 足せ ず,9月 8日,

(7)

吉 川 :タイ国 ピプー ン政 権 と太平 洋戦 争 バ ンコ クの住 民 に, 失 地 回復 のデ モを起 こさ せ た [Chali 1978:43]。9月10日,フ ラ ンス は批 准交 換 を経 ず に, 不 可 侵 条 約 の 即 時発 効 を要 請 して きた。 ピブ - ンはそ れ に対 し, 9 月11日付 覚 書 で

,

「メ コ ン河 の北 か ら南 の カ ン ボ ジア 国境 まで を,両 国 の 国境 と し,ル ア ンプ ラバ ー ンの対 岸 , パ ー クセ - の対 岸 を返 還 す る ことに よ って,条 約 を発 効 させ る」[Sotsai 1977:155]と回答 した。 こ こで い うメ コ ン河 の北 とは, フ ラ ンス領 イ ン ドシナ とタ イ国 の 国境 とな って い る, タ イ国最 北 部 の チ エ ンコ - ン付 近 を い う. ピブ - ンは広 報 局 の ラ ジオ 番 組 で 「マ ン ・チ ュ- チ ャー ト氏 と コ ン ・ラ ック タ イ氏 の 対 談」4)を組 ませ , 連 夜, タ イ の失 地 回復 の正 当性 , タ イ系 民 族 が 祖 国 タ イ に移 住 した 場合 , 援 助 す る と い う話 [ibz'd.: 176]を対 談 の形 式 で ラオ ス住 民 に 呼 び か け た。 タ イ側 の 宣伝 は, 南 部 ラオ ス の住 民 に は か な りの効 果 が あ った。 彼 らは河 を遡 った ビ エ ンチ ャ ンよ り も, 対 岸 の タ イを常 にな が め て きた か らで あ る[Toye 1968:56]。 「タ イ」 とい う名称 で 国民 の統 合 を はか っ た どブ - ンは, タ イ仏 不 可 侵条 約 によ る国境 画 定 に至 って, 国民 に は失地 回復 とい う名 目 で 世 論 に訴 え,国際 的 に は`ThaiRuamThai" (タ イは タ イを糾 合 す る) [Thani 1979:88] と称 して , 「汎 タ イ運 動」 (Pan- ThaiMove-ment)[Crosby 1973:111]を巻 き起 こ した。 日本 が仏 領 イ ン ドシナを奪 うな ら, タ イの方 は イ ン ドシナ の領 土 を割 譲 して も らう正 当 な 理 由 が あ る とい う論 理 で あ る。1940年11月28 日, フ ラ ンス の空 軍 機 5機 が越 境 して, メ コ ン河 畔 の町 ナ コー ンパ ノ ムを爆 撃 し, タ イ空 軍 機 も報 復 爆 撃 を して [Sotsai 1977:190], イ ン ドシナ 国境 紛 争 は始 ま った。 タ イ陸軍 は 4)「チュ-チャー ト」は 「民族を救 う」

,

「ラックタ イ」は 「タイを愛す」

,

「マン」 と 「コン」 とを 合わせ ると 「安全」という意味になる。 この番 組はその後 もピブ-ンの政策の大衆向け広報宣 伝の役割を果たす。 1941年 1月 5日, ア ラ ンヤ プ ラテ - トか らカ ンボ ジア に侵 攻 した [2'bz'd.:191]O 海 軍 は 1月17日,トンブ リ一号 が フ ラ ンス軍 艦 ラ・モ ッ ト ・ピケ 号 と交 戦 し, トンブ リ一号 は浅 瀬 に乗 り上 げ, 他 の

2

隻 も砲撃 を受 けて破 壊 さ れ, タ イ側 は大 きな損 害 を 受 け た [Thain6i 1974:42]。ピブ - ンは国 際貿 易局 長 ワニ ッ ト ・バ ーナ ノ ン (W anitPananon)を 首相 密 使 と して,そ の 夜急 ぎ二 見 甚郷 公 使 を訪 問 させ, イギ リス公 使 が フ ラ ンス との調 停 役 を 申 し出 て い る と伝 え た [Flood 1967:419-420]。二 見 は1月21日に タ イか ら公 式 の調 停依 頼 文 書 を受 け取 ったが , タ イの閣 僚 が それ を知 った の は1月25日の ラ ジオ東 京 の放 送 に よ って で あ った[zlbz.d.:435]。フ ラ ンス は1月24日に非 公 式 に調 停 を承 諾 し, 1月28日に両 軍 は停 戦 した 。2月2日か ら東 京 で 調 停 会 議 が開始 さ れ た が, タ イ側 は戦 勝 者 の態 度 で,1893年 以 来 の フ ラ ンス に割 譲 した領 土 返 還 要 求 を した た め [Sotsai 1977:205],会 議 は難 航 した。 約 1カ月 後 の3月11日, タ イ側 首席 代 表 ワ ン ワ イ親 王 (Phraw6rawongthoephraongehao W anwaithayak6n, の ち に Phraehao w6r a-wongthoe krommaman Narathi ppaphong-praphan)はや っと 日本 の調 停案 に応 じた 。ワ ンワ イ親 王 は東 京 か らの ラ ジオを通 じて

,

「フ ラ ンスか ら回復 した領土 はた い した もので は な い。ア ジアの平 和 のた め とい う ことで,タ イ 側 は同 意 を 迫 られ た の で あ る」[Direk 1970: 65-66]と述 べ,バ ンコ クに いた外務 副 大 臣 デ ィ レー ク ・チ ャヤナ - ム(DirekChaiyanam) も 日本 の報 道 員 に, 「タ イ が 得 た領 域 は フ ラ ンス に奪 わ れ た領 土 の8分 の 1にす ぎな い」 [Flood 1967:591]と, 日本 の調 停 に感 謝 し な が ら も不 満 を も ら して いた。 仏 領 イ ン ドシ ナか らの失 地 回復 , フ ラ ンス兵 捕虜 を身 近 に み た タ イ人 の感 情 は, かつ て の 日露戦 争 の再 現 の ご と く, ア ジア人 が西 洋 人 を克 服 した感 情 で あ り

,

「も は や 西 洋人 は 思 っ て い た よ

(8)

東 南 ア ジア研 究 19巻 4号 ,,,i;:て 、へ

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年 フランス領

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年 イギ リス領 点線 内は現在の タイ国 図

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世紀末

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世紀初めのタイ領失地図と

1

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年に取得 した髄土図 (斜線の 部分) うな神で はな くな った

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とい うことばを流行 させ た。 イ ン ドシナ国境紛争 の直前

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2

0

日の ラ ジオ演説で, ピブ- ンは失地 回復要求 につ い て長 々と説 明 し, 最後 に 「私 は同胞諸君 に し っか りと心 に留 めてお いて ほ しい ことがあ り ます。 そ れ は, われわれ の タイ国 は 文 明 国

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で あ るとい うことです。タイ 国民 は文 明人

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にな ったのです。 だか ら,われ われ ひ と りひ と りが,あ らゆ る面 において文 明人 にふ さわ し く自己改革 しな け ればな らな いのです。例 えば,人 の集 ま る場 所 での服装 な どです。 そ して, われ われ は国 産品を使用 しな ければ な りませ ん。 タ イ人 は

3

7

0

(文 明人 と して)ふ さわ しい身 な りを しな けれ ばな りませ ん

」[

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1

9

70:

5

7

]と述 べた 。 仏髄 イ ン ドシナ との国境紛 争 は, いままで小 国扱 いにされ,軽視 されて きた タイ国の,威 信 回復 の戦 いで あ り,対等 の文 明国 にな るた めの国境紛争 で あ った。 そ して また,西洋人, 少 な くと もフラ ンス人 を克 服 した と思 うピブ - ンの感情が

,

「ア ジア人 のための ア ジア」と 宣伝す る軍 国 日本 と,一時 は共 鳴 し合 うこと にな るので あ る。

5

8

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7:255

]

5

)の戦死 した将 兵 の名を刻 み込 んだ大 きな戦勝記念塔 をバ ン コク市 内に建立 し,

1

9

4

1

6

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4

日の革命記 念 日に除幕式 が行 われた。 ピブ- ンは この失 地 回復 の功績 で,陸,渇,空3軍 の元帥 に昇 格 した

[

2'bZ.d.:256]

イ ン ドシナ国境紛 争で, 日本 が タイの失地 回復 を成功 させた ことは, フラ ンス は もちろ ん,莱,米 に も, タ イが 日本 陣営 に入 った こ とを確信 させ た。 しか し, タイ国 内の一般 の 雰 囲気 はま るで違 って いた。公 使館付武官, 田村浩大佐 は

1

9

4

1

4

1

6

日に

,

(

1

)

タイ国 に お ける 日本 の影響 力 はあて にな らない 。 (2)大 英 帝 国が敗れ るだ ろ うとは, タイ人 は一般 に 信 じて いない。 (3)国境紛争調停 の 日本 の努力 に タイ人 は感 謝 して いない。(4)日本 側か らの 軍 事同盟 の 申 し出は可能 な限 り延期すべ きで あ る」 とい う内容 の報告書 を陸軍省 に送 って いた

[

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9

]。調停 が妥結 し,失 地 回復 の成 った翌 日の

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2

日に は, タイ全 国津 々浦 々の官公庁,学校 で は, 日タ イ両 国 旗 を掲 げて祝 った はずで あ ったが, タイ人一 般 の民心 は逆 で あ った ことを,冷 静 な武 官 は 見 逃 が さなか った。

1

9

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31

日,横浜正金銀行バ ンコク支 店 は,タイの原材料 を購入す るため

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,

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0

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5)アナン ・ピブ∼ンソンクラームは,戦死者の数 を,陸軍

9

4

,海軍

4

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,空軍

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,警察

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,合計

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名とする

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]

(9)

吉 川 :タイ国 ピプー ン政 権 と太 平 洋戦 争 バ ー ツの借 款 を タイ政府 に要 請 した。 プ リ-デ ィー蔵 相 は, 日本 側 が純 金 を担保 にす る と い うことで, これ を了承 した。 日本 側 は借 款 の1,000万 バ ー ツで米 ,スズ,ゴ ムを購入 した [Direk 1970:83]。と ころが,8月 に入 って, 再 び 日本 は2,500万 バ ーツの借 款 を タ イ政府 に要 請 した

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]

。 7

月25日,ア メ リカが 在米 日本 資 産 を凍 結 し,26日,27日に は イギ リス, フ ィ リピ ン,蘭領 イ ン ドも日本資 産 の 凍結 措 置を と ったか らで あ った。立 憲革 命以 莱,親 日派 と 日本 側 で はみて いたプ リ-デ ィ ー は猛 烈 な抵 抗 を示 した。 日本 側 はイヤ ー ・ マ ー クつ きの純 金 を 日本 鈍 行 に担 保 と して保 管 す るか らと説 得 した が, タ イ側 はバ ンコ ク に移 送 す る ことを主 張 した。 日本 側 が タ イ側 の条 件 を容 れ る ことで, や っとタ イ側 は承知 した [Flood 1967:627]。 この件以 後 , プ リ -デ ィーの 日本 を み る 目 は 大 変厳 し く な っ た 。 8月 16日, 日本 側 の 申 し 出 に よ り [西 野 1978:109],日タ イ両 国 の公 使 館 を 大 使 館 に 昇格 させ , 日本 は坪 上貞 二 を大使 と して 派遣 した。タ イは永年独 立 国で あ りなが ら,常 に二 流 国 と して扱 われ て きて, 指導 者 を くや しが らせ て きたが,この 日本 の措 置 は,ア ジア人 の みが ア ジア人 の気 持 を理解 す る と, タイの指 導 者 に心理 的効 果 を与 えた[CharllVit 1974: 58]。一 方,タ イ国 の 日本 人 の数 は,イ ン ドシ ナ国境 紛 争終 結 後, 急激 に増 えた。旅 行 者 や 様 々な商 売人 の姿 で続 々とバ ンコクに入 って きて は,タ イの あ ち こちの地 方 に散 って い き, 小 さな村 で も日本 人 をみか け るよ うにな り, みた と ころ儲 けに な らな い よ うな商 売 を して も平気 な顔 で いた[Net 1967:222]。 そ して 11月26日の閣議 で は, ピブ- ンが 「日本人 白 身が タ イ国 内で悶 着 を起 こ して い るので す。 円の札 び らで支払 った り,女 性 の胸 元 に タバ コの吸殻 をつ っ込 んだ り, 日本 人 は尊大 ぶ る ので す 。 日本 の天 皇 の映画 を タ イ国で上 映 し よ うとす る と, 日本人 は自分 た ちの崇 拝 の対 象 で あ るか ら,駄 目だ とい うのです 。日本 の大 使 で さえ, 日本 人 は ど こ-行 って も日本 にい るよ うな態度 を と り,他 国民 の文 化 を認 め よ うと しな い とい って い るほ どです 。 い まや タ イ と 日本 との incidentはず い分 増 え ま した」 【Sotsai 1977:2611。 大 使 館 の 田村 報 告 もこ れ を 裏付 け るよ うに, 調 停 後 の 日本 - の感 謝 の気 持 は急激 に冷 え,1941年 秋 には 日本人 は 非常 な 嫌 悪 感 を 持 って み られ て い る [Flood 1967:639],と伝 えた。対 日感 情 は7月 末 の 日 本 軍 の仏 領 イ ン ドシナ南 部 進駐以来 特 に悪 化 し, 英米 側 で は タ イの反 日感 情 を支 援 しよ う とす る動 きが顕著 にな った。 ピブ- ンは7月 31日に ひそか に イギ リス公 使 Crosby と会 見 して, 日本 か らの圧 力 を語 り,

8

9

日に は ア メ リカ公 使 Grant と会見 し, 日本 に対 抗 して積 極 的 な行 動 を期 待 す る と語 った

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:

640]。 ピブ- ンはまた, 国境画 定 の た めサ イ ゴ ンに駐 在す るタ イ側代 表 チ ャイ ・プ ラテ ィ ープ セ - ン (ChaiPrathipsen)中佐 に 9月 19 日付 訓 令 で

,

「国境 線 を決 めて もらえれ ば それ で よ い。はか の こと はた い して重要 で はな い。 われ われ が得 た領土 の意 味 は, 領土 が増 えた とい うよ り,将 来 の 国防上 に関す る意 味で あ る」[Anan 1975:(2)208]と,もはや失地 回 復 の意 味 よ り も, 日本 軍 の進 出を, バ ンコク よ り遠 くで阻止 して お きた い とい う気 持 で あ った。 仏 領 イ ン ドシナ南 部 に進 出 した 日本 軍 とは,新 しい国境 線 で相 対峠 す る事 態 にな っ た。 ピブ - ンは深 い ジ レ ンマ にお ちい った。

8

月23日の閣議 で ピブ- ンは 「た とえ政府 が いか な る国 と も戦 争 もせ ず, 各 国 と友 好 関係 を保 つ よ う努 力す る政策 を たてた と ころで, そ の政 策 が行 き詰 まれ ば, 自国防衛 の た めに 闘 う政 策 を とるべ きです 。 そ の際, ふ たつ の 結果 が起 こ ります。勝 利 と敗北 です。 敗北 し て も戦 った とい う名誉 が残 ります 。独 立 を失 って も戦 った とい う名声 が将来 に残 ります。

(10)

東南 アジア研究 19巻4号 も しわ れ われ が戦 って勝 利 した ら, 独 立 も偉 大 な る名 誉 も手 に します 。 も しわれ わ れ がデ ンマ ー クや イ ン ドシナの よ うに戦 わ ず に いた ら,名誉 も独 立 も失 って しま い ます

」[

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1978:241

]と勇 ま しい 発 言 を し て い た が,

11

26

日の 閣議 で は 「も し日本 が侵 入 して きた らど うな るのか考 え て おか ね ば な り ませ ん 。 戦 うとす れ ば, そ の結果 ど うな るの か, 日本 と戦 って イギ リス が助 けに きて くれ な けれ ば, 国 は滅 亡 です 。 人 民 党 なん て ど こ に も存 在 しませ ん。 まず はお しま いで す よ。 彼 らが勝 利 して, わ れ わ れ が死 なず に済 ん で も, 彼 らは新 しい政府 を樹 立 す る ことで し ょ う。 プ ラヤ ー ・テ ー プハ ッサ デ ィ ンな どを使 った, わ れ われ と反 対 の立 場 の政府 とな るに 違 い あ りませ ん。 戦 え ば われ われ の負 けで, 国家 は滅 び, 人 民 党 も滅 び ます 。 まず残 る も の は勇敢 な戦 士 と い う名誉 で す 。 しか し, 一 体 誰 が血 の最 後 の一 滴 に な るまで戟 うで し ょ うか 。 そ ん な ことをす る国 は ど こに もあ りま せ ん 。 これ らは も し日本 と戦 った場 合 の災 難 です

」[

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242

-243

]と発 言 した .さ らに

12

月 2日の閣議 で は

,

「も しわ れ われ が 日本 の側 につ いた ら, どん な利 害 得 失 が あ るか とい う こ とで す が, か つ て彼 らと話 した 時 , も し日 本 側 につ いて , 彼 らが勝 て ば, 旧嶺 土 が戻 っ て くる とい うので す 。 も しわ れ わ れ が彼 らに つ けば少 しは事態 が よ くな るので す 。 日本 は ど ち らか選 ぶ よ う迫 って きて い ます 。 彼 らと 戦 うこ と も可 能 で す 。 戟 わ な くて もい い ので す 。 戦 った ら, ど うな るか, 彼 らの側 につ く とど うな るか, 国家 の安泰 の た め に は, 政 府 は ど ち らで も選 べ るので す

[

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243

]と発 言 した 。

8

月 末 か ら

12

2

日にか けて の ピブ - ンの発 言 は急 速 に変 化 した。 国民 に も説 い て きた通 りの, 名誉 と独 立 の た め に侵 入 す る 外 国軍 と戦 え とい う勇 ま しい発 言 が,

1

1月 末 に は, 国家 と人 民 党 を存 在 させ るた め に は, 妥 協 も必 要 だ と説 き始 め た。 そ して さ らに, 372 ど ち らにつ いた方 が得 な の か, 安 全 な のか と い う, 極 めて現 実 的, 功 利 的 に判 断 す る よ う 閣 僚 た ち に説 いて いた 。その一 方 で

,1

1月

20

日 に は イギ リス公 使 と会 見 し, イギ リス が タ イ の防 衛 に あた って くれ るか ど うか 打 診 し, ア メ リカ公 使 も副 外 相 デ ィ レー ク と会 見 して, 本 国政府 の 意 向 を伝 えて いた

[

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1970:

98

-99

]。 両 国 と も, 中国 の重慶 政府 の よ うな 形 式 で の武器 援 助 はす るが , 侵 略 に対 す る防 衛 は 自力 に よ って ほ しい と回答 して きた。駐 在 武 官 田村 が,

1

1月 末 か ら

1

2

2

日にか けて ピブ - ンに会 見 した折 , ピブ - ンはす で に 日 本 と戦 う意思 の な い こ とを示 唆 しな が ら も, 日本 が タ イの 名 誉 を傷 つ け る よ う な こ とが あれ ば, 黙 って は い な い と 念 を 押 し

[

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1967:682

],また,タ イの み な らず ピブ - ンの 威 信 を傷 つ け る よ うな, チ ャオプ ラヤ ー平 野 と りわ けバ ンコ ク市 周 辺 で の あ らゆ る 日本 軍 の軍 事 行 動 は避 け る よ う強 調 した。 幾 度 も幾 度 もタ イの 名誉 と面 目 (

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の 問題 を 強調 して いた [3'bz'd.:

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]。

1930

年 前 半 の駐在 武 官 守屋 誠 一 陸軍大 佐 が第

1

5

軍 か ら派 遣 され て, 再 び バ ンコク に 姿 を 現 わ し た

。12

6

日夜, 外 務 大 臣 デ ィ レー クや か つ て の外 務 大 臣 プ リ-デ ィー と会 見 し, 緊 急 事 態 につ いて述 べ , 実 は今 朝 ピプ - ン首 相 に会 いた か った のだ が,会 え なか った,と もか くタ イ軍 が戦 闘 しな い よ う, とい い残 して い った

[

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1978:10

]

日本 軍 の進 駐 と対 英 米 宣 戦 布 告 日本 で は

1941年 (

昭和16年)10

1

8

日に東 候 英 機 内閣 が成 立 し,

1

1月

2

日に は 「帝 国 国 策 遂 行要 領 」 が 決定 され た 。 日本 軍 の動 きは 様 々な外 交 ル ー トを通 じて, また直 接 日本 の 駐 在 武 官 か ら も,タ イの指 導 者 に知 らされ た。 日本 軍 が英 領 ビル マや マ ラヤ に向 けて進 軍 す るた め に は, まず タ イを通 過 しな けれ ば な ら

(11)

吉川 :タイ国 ピブ- ン政 権 と太平 洋 戦 争 ず, 莱 , 野菜 , 午 , ゴム, ス ズ な ど天 然資 源 を持 ち,南 北 に鉄 道 網 を持 つ タ イは格 好 の後 方 基 地 で あ った 。 仏 領 イ ン ドシナの南 部 に集 結 す る 日本 軍 が, タ イ国 に侵 入 す るの は もは や時 間 の 問題 で あ った。 日本 の第

15

軍 が集 結 す るカ ンボ ジア 国境 は 殺気 だ って きた

。1

2

2

日, カ ンボ ジア の ア ンコー ル ・ワ ッ トに近 い シエ ム レア ブ の町 付 近 で , 国境 画 定 の た め に調 査 して いた タ イ ・ 仏

日合 同 委 員会 の タ イ側 委 員 が, スパ イの 容 疑 で逮 捕 され 殴 打 され る と い う 事 件 が 発 生 した。 シエ ム レア プ事 件 の ニ ュ・-ス は

1

2

5

日夕刻 に ピブ - ンに達 した [Fl。od

1

96

7:

6

92

]

。ピブ- ンは タ イ国,特 に タ イ外 交 官 に対 す る耐 え難 い名誉蟹 損 で あ ると激昂 した

[

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C.

tit.]。 翌

1

2

6

日, ピブ - ンは ワ ニ ッ トを 呼 ん で, 抗 議 文 を 田村 まで届 け させ ,. 自 ら部 下 を 連 れ て シエ ム レア プ事 件 究 明 に 出か けた。 その 夜, ドイ ツの駐 在 武 官 シ ョル は, 日本 軍 艦

8

0

隻余 りが 大船 団 を組 んで ,南 シナ海 を南 下 し,シ ャム湾 に向 か って い る,カ ンボ ジア 国 境 に は 日本 軍 が集 結 を終 え, 司令 官 の命 令 で 越 境 侵入 す るば か りの態 勢 とな って い る, と タ イ側 に報 告 して きた

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。 ピブ - ンはそ の時 の こ とを終 戦 直 後 に次 の よ うに書 いて い る。「陸軍 司令 官 が シー ソ ー ボ ン で応 戦 態 勢 に入 った プ ラ-チ - ンブ リ-部 隊 を視 察 した い とい うので , 相 談 して , 日本 軍 は まだ や って こな いだ ろ うと い う ことに な っ て,シー ソ ー ボ ンを視 察 した の ち,急 ぎ ロ ッブ リー の 司令 部 に行 くつ も りで あ った 。 (中略)

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2

月7日 シー ソ ー ボ ンの地 形 を視 察 して, 棉 京 しよ う と した と ころ, バ ッタ ンバ ン もつ い で に視 察 した らいか が で す か と い う 者 が あ り, 私 はバ ッタ ンバ ン- 行 った ことが な いの で,自分 で運 転 して 出か け,バ ッタ ンバ ン県 の 県 知 事 や 警 察署 長 に会 った。 そ して そ の夜, ア ラ ンヤ プ ラテ - トまで戻 る と, 急 ぎ帰京 す るよ う電 報 が 届 いて いた

」[

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。 ピブ - ンは激 昂 も して お らず, シ エ ム レア ブ に も行 って い なか った の で あ る。 シー ソー ボ ンか らは反 対 のバ ッタ ンバ ンに向 か って いた の で あ る。 それ も, まだ行 った こ とが な いか らと, ま るで 物 見 遊 山の よ うな気 分 で あ る。 3軍 の総 司 令 官 が陸軍 司令 官 を連 れ, 6)行 き先 も帰 還 予定 の 日時 も告 げず,無 線 ラ ジオ も携 行 せ ず

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,国家 が ま さに危 急存 亡 の 際 にた って い るに もか か わ らず,バ ンコ クを留 守 に した 。ピブ - ンは3 カ月 前 の

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日に 「仏 暦

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年 )戟 時下 にお け る タ イ国民 の義務 を規 定 す る法

とい う法 律 まで発 布 して, 全 国民 は最 後 まで 敵 と戦 え と規 定 して いた

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も し ピブ - ンが バ ンコ クに いれ ば, 日本 大 使 と交 渉 の上 , 日本 軍 の進 駐 を認 め な けれ ば な らな か った で あ ろ う。 徹 底 抗 戦 を 国民 に 呼 びか けて きた軍 人 宰 相 に と って, それ は面 目丸潰 れ と判 断 した の で あ ろ うか 。察 す るに, 唯 々諾 々と 日本 軍 の進 駐 を認 め る よ り も, 進 駐 して しま って か ら, 余 儀 な く認 め ざ るを得 なか った とい う態度 をみ せ る方 が, 少 しは 日 本 軍 と抗 戦 して みせ た こ とにな り, 国民 を納 得 させ られ る と考 え, 日本 軍 侵 入 の時機 に, バ ンコ クを離 れ た ので あ ろ う。 さ らに 日本 側 に は, い さ さか もタ イの 名誉 と面 目を傷 つ け て はい けな い とい う態 度 を 示 さ ね ば な ら な か った か ら, 抗 議 文 を 届 け, 激 昂 し て 出張 した と伝 え させ た ので あ ろ う。 本 当 は シエ ム

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1では, ピブ-ンが連れていったの はチラ ・ウィチ ッ トソンクラーム中将陸軍司令 官, クワン ・アパ イウォン大佐,ルアン ・セー リーロンリットとな っているが

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では,チラ ・ウィチ ッ トソンクラーム陸軍司令 官,チャルーン ・ラタナクン ・セ- リーロンリ ット少将 (ルアン ・セ- リーロンリッ ト)とな っていて, クワン ・アパ イウォン大佐の名はな

い。

(12)

東南 アジア研究 19巻4号

受 けた 。イギ リス公 使 は,日本 の船 団 が カ マ ウ岬 か らシ ャム湾 に入 った ことを告 げ に きた [Direk 1970:106]。デ ィ レー ク は午 後

7

時 に副 首相 の ア ドゥ ン ・ア ドゥ ラヤデ ー トチ ャ ラ ッ ト(Adun Adula ya-deteharat)警 察少 将 と自宅 で 夕食 を と も にす る ことに な って いて, ア ドゥ ンが来 る と, イギ リス公 使 の話 を伝 え, 首 相 で あ り最 高 司令 官 が こん な時期 に地 方 - 行 くべ きで な いな ど と話 して い た 。す る と, 経 済 大 臣 の プ ラ ・ボ ー リパ ンユ ッタキ ッ

ト(PhraB6riphanyutthakit)が ア ドゥ ン に電 話 して きて, ア ドゥ ンは食 事 もせ ず に飛 び 出 して い った 。 半 時間 後 , デ ィ レ ー ク も首 相 官 邸 に来 る よ う電 話 が あ った

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。首 相 官 邸 にか けつ けて み る と, 坪 上大 使, 浅 田総 飯事 , 田村 大 佐 , 天 田 六 郎 通 訳 官, 守屋 誠 一 大 佐 ら日本 大 使 館 の 約20名が 官邸1階 に揃 って いた[Flood 1967:698]。坪 上 は, 首 相 が い な い の な ら副首 相 に面会 した い と い った が, ア ド ゥ ンは会 いた くな い と, デ ィ レー クに行 か せ た 。 デ ィ レー クが ワニ ッ トを伴 って

2

階 か ら下 りて, 坪 上 と形 通 りの挨 拶 を す る と, 坪 上 は, 今 日, 日本 は米 英 に宣 戦 布 告 す る ことを決 定 した と告 げ, 日本 の敵 で あ る ビル マ とマ ラヤの イギ リス軍 を攻 撃 す るた め, ど う して もタ イを通 過 させ て ほ しい と述 べ た。 デ ィ レー ク は, タ イ は中 立 国で あ るか ら, ど ち らの側 も支 援 で きな い と答 えた が, 坪 上 は, 陸, 渇 , 空 路 を ど う し て も通 過 しな けれ ば な らず, 許 可 を求 め た い の だ と答 え た [Direk 1970:107]。午 後11時 ごろ, す で に ほ とん どの閣僚 が官 邸 に集 ま っ て いた の で, 副 首相 が 閣議 を 開 いた が, 首 相 不 在 で は何 も決 め る ことがで きず, 日本 外 交 団 に は ピブ - ンが 帰 還 後 に会 見 す る とい う こ とで, 一 旦 引 き揚 げ させ た。 まん じりと もせ ず 夜 が 明 け る と,

8

日午 前

5

時 に は再 び 日本 図2 太平洋戦争のころのタイ国 レア プ事 件 は 架 空 の事 件 で あ った の で あ ろ う。7) 1941年12

7日は 日曜 日で あ った。 タ イの 閣 僚 た ち は, 各 自が 安 息 日に憩 って いた。 外 相 デ ィ レー ク は私 宅 に イギ リス公 使 の訪 問 を 7)シエムレアプ事件 を載 せ て い るの は,Flood [1967]だけである。 タイ側の資料,文献は全て 前線視察となっている。 Floodの論文はそのほ とんどを日本の外務省外交史料文書,防衛庁史 料編纂室の史料にもとづいており,この事件 も 田村報告によっている。日本大使館を牽制 し, さらに自ら抗戦命令を発令するのを忌避す るた め,で っちあげ られた事件であった可能性が濃 い。 374

(13)

吉川 :タイ国ピプ-ン政権と太平洋戦争 外 交 団 が首 相 官 邸 にや って きて, ピブ - ンの 帰 還 を待 ち構 えて いた 。 ピブ - ンは午 前 7時 ごろ, バ ンコ クに戻 り,首 相 官 邸 に直 行 した 。 首 相 官 邸 に ピブ - ンが入 るや否 や, 日本 側 は ピブ - ンを取 り囲 み, 日本 軍 の通 過 を認 め る 回答 を 即刻 は しい と訴 え た。 ピブ - ンは, 国 の存 亡 にか か わ る ことで あ り, 閣議 で 審議 し て, 国王 陛下 の政 府 と して , 返 答 す る と答 え た 。す ると浅 田領 事 は ドアを足 げ に して 閉 め, 提 示 す る協 定文 の写 しを床 に投 げ付 け, 日本 軍 は ぐず ぐず して おれ ぬ, と威 嚇 し, ど ち ら か にサ イ ンせ よ と迫 った 。 ワニ ッ トは気 が動 転 し, 日本 人 は タ イ首 相 に敬 意 を表 さな い, と泣 き 出 した。 そ して 日本 軍 が こん な ことを して おれ ば, 全 て の企 て が 烏 有 に帰 す と叫 ん だ[Flood 1967:709-710]。 ピブ - ンが階 段 を上 が ろ う とす る と, 守 屋 が ピブ - ンの腕 を つ か んだ の で, ワニ ッ トはそれ を 離 そ うと し た。 す る と守屋 は軍 刀 に手 を か けた。 プ ラユ ー ン・パ モ ー ンモ ン トリー(PrayunPham6n一 montri)大 臣 と チ ャイ ・プ ラテ ィープ セ - ン 大佐 は階 段 のか た わ らにた って拳 銃 を用 意す る と, 坪 上 が 中 に割 って入 り, ピブ - ンに30 分 の時 間 を 与 えた [Prayun 1975:463]。 閣議 が始 ま ると, ア ドゥ ンが まず事 態 を説 明 し, 次 いで プ リ-デ ィーが発 言 した

。『

「私 に述 べ させ て いた だ きます れ ば, いまや 重大 な時機 に至 って お りま して , 国家 の命 運 がか か って お ります 。 で あ ります か ら, どの よ う な結 論 が 出 よ う と, 私 は反 対 致 しませ ん。 た だ 討議 に入 る前 に, そ の原 因 と結果 につ いて 述 べ させ て いただ きます

」ピブ 一一ン 「ち ょっ と待 って くれ 。私 が先 に しゃべ らせ て いた だ く。 い ま この 時 に も抗 戦 して い るので あ るか ら,今 後 も抗 戦 す るの か停 止 す るのか とい う こ とで す 。 この よ うに話 して い る1分 1秒 の 間 に も, 人 が死 んで い って るの で す 。 停 戦 す るの か戦 うの か, ほか の こ とは あ とで も話 せ ます 。 さ もな けれ ば, 兵 士 は戦 って, バ ッタ - ニ ーで は部 隊 が 消 滅 しか か って い るので す ぞ。 サ ム ッ トプ ラ- カ ー ンで は抗 戦 させ るの か,させ な いの か 。」ピブ - ンは国防大 臣 で あ り副 総 司令 官 で あ るマ ンコー ン ・プ ロム ヨー テ ィー(Mangk6nPhromyothi)中将 に見解 を た だ した 。 マ ンコー ン 「総 理 次第 です 。」ピブ - ン 「そ うで はな い。 戦 闘 を続 行 させ るのか ど うな の か, 閣議 が判 断 しな けれ ば な らな い の だ

』[Pridi 1978:21]。8)遂 に ア ドゥ ンほ どブ - ンに命 令 を求 め る と, ピブ- ンは 「停 戦 命 令 を 出す 方 が先 だ 。 それ か ら 日 本 大 使 館 に頼 も う。 どの よ うに協 議 を進 め るか はま た別 だ 。 今 後 ど う展 開 す るか は外 交 交 渉 の成 行 きを み な けれ ば な るま い」 [i'bid.:22]と答 え,7時30分全 員 一致 で 停 戦 す る ことを決 め た 。 日本 側 が タ イに提 示 した の は次 の3案 で あ った 。 (1) 日タ イ両 国 は共 同 防衛 協 定 を結 び 日本 軍 の通 過 に便 宜 を はか る。 (2) タ イは三 国同 盟 に加 入 し, タ イ国 は 日 本 軍 の通 過 を含 め, 軍 事 協 力す る。 日本 は タ イの主 権 ,独 立 お よび 名誉 を尊 重 し, タ イ国 の失 地 回復 に協 力す る。 (3) 日本 軍 の通 過 を認 め, 便 宜 を はか る。 閣 議 で は, タ イが イ ン ドシナ の よ うに な る ことを最 も恐 れ,ス ウェ ーデ ンの例 を挙 げて, 通 過 だ けを認 め る ことにな った。 また, 失地 回復 につ いて は, 不 必 要 だ と し,何 もふ れ な い ことに な った [Z'bz'd.:31]。 デ ィ レー ク は ワ 8)ここに引用 した閣議での会話 は,プ リ-デ ィー が作成 した資料によるが,閣議の発言は全て記 録 され,総理大臣官房に保存 されている。そ し て現代史資料 として研究者の閲覧を許可 してい る。本稿の閣議での発言は, こうした資料や研 究文献に現われた議事録か ら引用 した。なお, プ リ-デ ィーは, ピブ-ンの長男アナ ン ・ピブ -ンソンクラーム陸軍少将が多 くの資料を駆使 して書 き上げた5巻本の ピブ-ン伝に対 し,冒 本軍進駐の際の閣議内容の解釈の仕方に反論す るため,12月 7日か ら8日の閣議の全記録を掲 載 して,細か く注をつけて批判 している。

(14)

東南 アジア研究 19巻 4号 ニ ッ トを連 れて 1階 に下 りて い き,11時25分 に戻 って きて, 署 名を した と報告 した[2'bz'd.: 35]。 12

8日の政府 声 明で は,「1941年12

8日 午 前2時以 降, 日本 軍 は海 路 , ソ ンク ラー, バ ッタ ーニ ー, プ ラチ ュアブ キ ー リーカ ン, ナ コー ンシータ ンマ ラー ト, ス ラー トク ーニ ーお よびバ ー ンプ -か らタ イ国 に進入 し, ま た陸路 バ ッタ ンバ ン県 , ピブ - ンソ ンク ラー ム県 か ら進入 した。 た いて いの地 区 で, タ イ 軍 と警 察 は頑 強 に闘 った」[2'bZld.:38]と述 べ, 日本 大 使 か ら通 過 の要 請 が あ り, 無 駄 に タ イ 国民 の血 を流 す ことを避 け, タ イの独 立 ,主 権 , 名誉 を尊 重す る とい う文 書 で もって確 約 を得 て認 めた, と発表 した。 す で に司令部 か ら出 され た停戦 命令 や, 政府:声 明 に もか か わ らず, マ ラヤ半 島部 の付 け根 に近 いプ ラチ ュ アブ キ ー リーカ ンで は,40数 時間 もタ イの部 隊 が抗 戦 した。 タ イ軍 の抵 抗 に遭 い, 日本 軍 は死 者250名を 出 し, タ イ軍 は150名 の死者 を 出 した[Flood 1967:715]。飯 田祥 二 郎 中将 を 司令 官 とす る第15軍 は, 8日午前 7時,車 100台 を連 ねて タイ仏 印国境 を越 えて進駐 し, 飯 田 は翌

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日空 路バ ンコクの ドー ンム ア ン飛 行 場 に到 着 した。 進駐 して きた 日本 軍 は約 5 万 といわれ

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1979:169],対 す る タ イ軍 は 当 時

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万 の 兵 力 で あ った

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1977:187]。 12

10日の閣議 で ピブ- ンは

,

「い まの時代 は法 律 で あれ,道 徳 で あれ,われ われ はそれ を 拠 り所 にす る ことがで きな いの です 。 われ わ れ は権 力 に よ らざ るを得 な い。何 か しな けれ ば な らな いの な ら, 権 力行 使 に よ って実 行 さ れ るべ きで す 。彼 らが権 力 を行 使 して い る時, それ が法 律 違 反 で あ るとか, 道 徳 に反す ると か叫 んで みて も, いまの世 の中で は時代 遅 れ で す 。 わ が方 の官吏 が操 欄 され た り,何 か さ れ た時, それ はわれ われ の力が まだ十 分 で な い と悟 るべ きです 。 だ か らわれ われ が生 き延 376 び る方 法 は,まず我 慢 す る ことです 。黙 って, 冷 静 にな って,心 を静 めて わ が 国が生 き延 び られ るよ う最 良 の手 段 を見 出 して実行 す るの が, われ われ の と る べ き 政 策 で す

」[

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1975:(2)306]と発 言 した。 ピブ- ンは,日本 軍 が進駐 して い るい ま,平 常 時 の法 律, 道徳 の無 効 を説 き, 強権 力を発 動 し,新 しい道樽 で社 会 を律 して いか な けれ ば, 日本 軍 に踏 み 荒 らされ ると考 えた。事 実 , ピブ- ンは この 発 言 通 り実行 す る ことにな る。 ピブ - ンは さ らに 「嵐 が来 た時 の よ うに,や り過 ご して,樹 木 が折 れ な い よ うにす る こと, そ うす れ ば, 将 来,果 実 が み の りまた食 べ られ るのです

lz'62-d.:309]と, 日本 軍 の進駐 を嵐 に誓 え,な るべ くしなや か に,柔 軟 にや り過 ごす処世 訓 を述 べ て いた。 この 日, ピブ - ンは全 国 に戒 厳 令 を発 布 した

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1978:4]。 坪 上 大使 や駐 在 武 官 た ち は, 同 日の午 後, ピブ- ン首相 を訪 問 し, 先 の 日本 軍 通 過 の協 定 を軍 事条 約 に改 め,英 米 に宣戦 を布 告す る よ う態 憤 した。 ピブ- ンは戦 争 に巻 き込 まれ た くな い と説 明 したが, 日本 側 は聞 き入 れ な か った。 夜12時 に至 って, ピブ- ンが閣議 の 了 承 を得 な けれ ば同意す る ことはで きな い と 述 べ,明11日11時 に回答す ると発 言 して,日本 の外 交 団 はや っと引 き揚 げた

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1975: (2)317-318]。 翌 11日午前 中 に 閣議 が 開 か れ, ピブ- ンは昨 夜 の ことを説 明 して, 「彼 らは単刀直入 に こうい って きて い ます 。即 ち

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の道 を われ われ に選 べ とい うのです 。 しか し, これ に は私 もど う し て よいのか わか りませ ん 。仮 に, 将 来 に は ど うな って い るか とい う情 報 が得 られ るとす れ ば, 私 は国 の隅 か ら隅 まで を売 り渡 した売 国 奴 にな って い るや も しれ ず,同 意 しな けれ ば, (日本 軍 が)タ イ軍 を武装 解 除 す るか も しれ ま せ ん。 そ うなれ ば, われ われ は ど うす る こと もで きな くな ります 。抵 抗 す れ ば滅 亡す る こ とにな り, こん な風 に座 って会 議 を開 くこと

(15)

吉川:タ イ国 ピ ブー ン政 値 と太 平洋 戦 争 もで きな いで し ょう。 ただ,私 の気 持 で は, われ われ が彼 らの 側 につ くの な ら,100% そ っ くりつ いて しま うのです 。 しか し, それ か ら先 の ことにつ いて は,私 も予 想 で きませ ん」

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(2)318-319]と述 べ た。5万 と

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万 と い う兵 力 を比較 す れ ば, タ イの方 が1万 多 い が, 戦 闘力 や機 動 力 で は, 日本 軍 に勝 て な い の は最 初 か らわか って いた。 後世 に残 す汚 名 を恐 れつつ 強 引 に圧 力 をか け る 日本 側 に抗 し きれず,将来 - の不 安 を残 しなが ら閣議 の了 承 を求 めた ので あ る。 前 日12

1(旧 はマ レー 沖海戦 で, イギ リスの不 沈艦 レパ ル ス号 とプ リンス ・オ ブ ・ウ ェール ズ号 が撃 沈 され, 冒 本 側 は轟 沈,轟 沈 と凱歌 を あ げて い る時で あ った。 日本 軍 の緒 戦 の華 々 しさ, イギ リス軍 の失墜 をみ なが ら も,将 来 へ の不 安 は隠 しき れ ず, 閣僚 ひ と りひ と りか ら意見 を求 め たの ち,

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1日午 前

1

1時, 階下 で待 つ坪 上 らの と こ ら-行 き, 軍事 協 力協定 にサ イ ンを済 ませ た

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(2)327]。12月14日,日本 軍 は早速 タイ 政府 に,雲 南 省 の 国境 に タ イ軍 を派 遣 す るよ う強制 して, ピブ- ンは これ に応 じた

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:

(2)329

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12

21日, 日タ イ同盟条 約 が締結 され た。 相互 の独 立, 主権 を尊 重 し, 武 力紛 争発生 時 に は同盟 国 と して, 政 治 的,経 済的, 軍 事 的 に支 援す る [外務 省 A,7,0,0,9- 3- 1]と い う内容 で あ った。 この条 約 に は 「付 属秘 密 了解 事項

がつ いて いて

,

1

. 日本 国ハ 『タ イ国』ノ失地恢 復 ノ要 求 ノ実現 二協 力 スベ シ」 [同上 文書 ;Thaemsuk 1978:81とい う項 目が 加 え られ た。 これ は,12

8日の 日本 側 が提 示 した第 2案 の 中 にあ った 「失地 回復

が こ こに盛 られ た もので あ った。 この ころ, 日本 軍 は シ ャ ン ・ステ ー ツを手 中 に収 め, マ ラヤ も支 配 して お り, タイの失地 回復 にはいつ で も応 じられ る状 況 に あ ったが, 日本側 は直 ち に与 え よ うと しな い し, タ イ側 もほ しい素 振 りはみせ なか った。 この条 約 は タイ歴史 上末 曽有 の緊 密 な関係 を示 す条 約 で あ った が,王 宮寺 院 ワ ッ ト・プ ラケ オの本尊 エ メ ラル ド仏 像 の面前 で調 印式 を行 うの も, 歴史 上兼 曽有 の ことで あ った。その理 由を,当時 の ピブ- ン の ブ レー ンと して活躍 し,無任 所大 臣で あ っ たル ア ン ・ウ ィチ ッ トワークカ ー ン (Luang Wiehitwatthakan)は

,

「問題 はど う した ら日 本 を条 約 に忠 実 た ら しめ るか で あ る。 特 にわ れ われの独立,主 権 を尊 重す る点 にで あ り,ま た

3

日後 に変 更 した りさせ な いた めで あ る。 彼 らが変 え る時 はわれわ れ に と って不利 な方 に変 え る時 で あ る。 われ われ に は 日本 の権 力 につ け る重 しはな い し, 厳重 に 日本 を条 約 に 忠 実 で あ るよ う規制 させ る もの はな い。 しか し日本 は儀式 を重 ん じる国で あ り, 日本 と一 緒 にな って儀式 をす れ ば, 少 しは誠実 にな る で あ ろ う し,日本 人 は仏教 徒 だ とい って い る。 (中略) 仏 , 法, 僧 の前 で の調 印式 は, 日本 側 に条 約 を尊 重 させ るの に, いか な る方法 よ り も拘束 力 を持 つ だ ろ う。 われ われ は 日本 側 に, エ メ ラル ド仏像 は タイ人 の みで な くカ ン ボ ジア人 , メ コ ン河 左岸 の人 々, ビル マ人 , イ ン ド人 の崇 拝 の対 象 にな って い るのだ と伝 えた。 エ メ ラル ド仏像 の前 で調 印 した条 約 に 達 反 して, タ イの独 立 と主 権 を犯す よ うな こ とが あれ ば, ア ジアの仏 教 徒 た ちは 日本 を嫌 悪 す るで あ ろ う

[W iehitwatthakan 1950: 252-254]と述べ て い る。 この意 見 に対 して, 「タ イ政府 は本気 で尊 重す るとい う確信 を得 た いがた めに,ワ ッ ト・プ ラケ オ の エ メ ラル ド 仏 像 の面 前 で調 印式 を行 いた い と, 日本 側が 希 望 した」とい う見方 もあ る。[Anan 1975: (2)332]。仏 前 に誓 うとい う発 想 は,日タ イど ち らの民 族感情 に強 いか はわか らな いが, 冒 本 , タ イ双方 と もに狩 疑心 を持 って調 印式 に 臨 んで いた よ うで あ る。 この条 約 調 印後, バ ンコクを初 め 日本軍 の駐屯 す る 地 方 都 市 に は, 日タイ 合 同 委 員 会 (Khanakammakan phasom thaiyipun)とその支部 を設 けて ,冒

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