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古代出雲国と「郡的世界」の実像 利用統計を見る

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(1)

古代出雲国と「郡的世界」の実像

著者

森 公章

著者別名

Mori Kimiyuki

雑誌名

東洋大学大学院紀要

55

ページ

211-236

発行年

2019-03

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00010642/

(2)

はじめに

律令体制下の日本では、全国を五畿七道に区分しており、出雲国 は山陰道の一国ということになる。地方行政組織は国郡里制を基本 とし、国には四∼六年の任期で中央から国司が派遣され、郡では律 令国家成立以前から当該地域に歴史的支配を築いていた在地豪族が 終身の郡司に任用されており、その下の五十戸一里の里にはやはり 在地の人物が里長に任じられている。各国の統治はこの重層的な行 政機構によって運営され、最終的には国司が中央に対して代表・責 務 を 担 っ て 完 結 す る し く み で あ る が、 ﹁ 郡 司 是 自 勘 自 申 之 職 也、 国 司 則 隨 レ 覆 検 之 吏 也 ﹂︵ ﹃ 三 代 格 ﹄ 巻 五 弘 仁 十 年︹ 八 一 九 ︺ 五 月 二 十一日官符︶と言われるように、国司の国務遂行は各郡の郡務の集 積、郡司の郡統治が前提になっており、ここには当該地域に勢威を 有する在地豪族を国家の正規の地方行政機構の末端に位置づけた古 代日本の地方支配の特質が存す る ︶1 ︵ 。 日本の律令国家は、中央では官僚制と氏族制、地方では律令制と 在地首長制の二重構造を特色とすると言われてい る ︶2 ︵ 。この在地首長 制による支配構造とは、表題中の﹁郡的世界﹂と近似するものであ り、複数の譜第郡領氏族が並立し、郡領の地位を競望する状態、郡 司の下に郡内の中小豪族が郡雑任という形で郡務に参画し、郡司の 長官・次官である大領や少領がそれぞれに彼らを編成して郡務遂行 を担うといった、律令制成立以前からの歴史的支配のあり方を前提 とした八世紀の国郡制支配の実相を意味してい る ︶3 ︵ 。これらは近年の 研究によって解明された諸点であり、ここではこの﹁郡的世界﹂の 語を用いて、郡支配を支える実態的構造を考えることにしたい。 出雲国に関しては、記紀の叙述とともに、全国六十余国中、まと まって残存する五風土記のうち、唯一完存する﹃出雲国風土記﹄が 伝来していることは重要であり、私も出雲の地域史を検討する際に 大いに活用してい る ︶4 ︵ 。さらに近年では地方官衙遺跡の発掘事例、出 土文字資料である木簡や墨書土器の検出を伴うものが増加している

古代出雲国と﹁郡的世界﹂の実像

文学部史学科教授

  

公章

(3)

点も注目される。出雲国庁跡や各郡家・正倉関係の遺跡、その他多 数 の 木 簡︵ 八 六 点 ︶・ 墨 書 土 器 が 出 土 し た 青 木 遺 跡︵ 出 雲 郡 ︶ の よ うな郡家よりも下位の施設で、郡務に関わると目される事例︵郡家 出先機関︶や道路造営の作業を彷彿とさせる山持遺跡︵出雲郡︶の ような郡務の実際を示すもの等々がいくつか存する。こうした地方 官衙遺跡と出土文字資料は全国的にも年々増加しており、地域の立 体的な歴史像を探る上で貴重な材料となっている。 そこで、小稿では﹃出雲国風土記﹄や出雲地域の地方官衙遺跡を 視 野 に 入 れ な が ら、 こ れ を 全 国 的 な 事 象 と 比 較 対 照 し つ つ、 ﹁ 郡 的 世界﹂の実相を整理することにしたい。出雲の古代史研究における 史料の豊富さを確認するとともに、全国的に敷衍可能な要素を析出 し、日本の古代史全体に対する発信力が持つ魅力を引き出すことが できればと思う。

  ﹁郡的世界﹂とは

﹁ 郡 的 世 界 ﹂ の 概 要 は﹁ は じ め に ﹂ で も 触 れ た が、 ま ず は 出 雲 国 の事例に即して、具体的に説明したい。 a﹃出雲国風土記﹄大原郡条︵ ︹ ︺は細川本による︶ 所 三 号 二 原 一者、 郡 家 東 北︹ 正 西 ︺ 一 十 里 一 百 一 十 六 歩、 田 一 十 町 許 平 原 也。 故 号 曰 二 原 一 往 古 之 時、 此 処 有 二 家 一 今 猶 追 二 号大原 一︿今有郡家処号云斐伊村 一 ﹀。 ︵中略︶斐伊郷、属 二郡家 樋 速 日 子 命 坐 二 処 一 故 云 レ樋︿ 神 亀 三 年 改 二 字 斐 伊 一 ﹀。 新 造 院 一 所、 在 二 伊 郷 中 一 郡 家 正 南 一 里、 建 二 厳 堂 一也︿ 有 二 僧 五 躯 一 ﹀。 大 領 勝 部 臣 虫 麻 呂 之 所 レ 也。 新 造 院 一 所、 在 二 裏 郷 中 一 郡 家 東 北︹ 正 北 ︺ 一 十 一 里 一 百 廿 歩。 建 二立︵ ︶ 層 塔 一也︿ 有 二 一 躯 一 ﹀。 前少領額田部臣押嶋之所 レ造也︿今少領伊去美之従父兄也﹀ 。新造院 一所、在 二斐伊郷中。郡家東北一里。建立厳堂也︿有尼二躯 一 ﹀。 斐伊郷人樋伊支知麻呂之所 レ造也。 ︵下略︶ aによると、大原郡では郡家の移転があったことが知られる。郡 家移転の事例は﹃常陸国風土記﹄香島郡条にも見え、鹿島神社の南 の現郡家の北の沼尾池について、 ﹁前郡所 レ置、多蒔橘、其実味之﹂ と記すが、この場合は低湿地という立地の問題から移動が実行され たものと考えられる。大原郡の例は、大領が勝部臣、少領は松江市 岡田山一号墳出土大刀銘にも登場する額田部臣であり、欽明天皇の 女額田部皇女︵推古女帝︶の額田宮に奉仕する額田部臣の方が六世 紀 以 来 の 古 族 で ︶5 ︵ 、 郡 領 氏 族 の 地 位 の 逆 転 と い う 事 由 が 推 定 で き る。 岩波日本古典文学大系本の記載では旧郡家と少領額田部臣造営の新 造院所在地が極めて近接し、郡領氏族の本拠との関係による郡家の 立地選定を想起させるが、細川本では北と西になってしまい、この 相関関係は薄れるものの、現郡家には大領勝部臣が建立した新造院 が近在し、郡家の移動には大領勝部臣と少領額田部臣との勢力交替 という要素があったと言える。 こうした複数氏族による郡領構成例は、駿河国駿河郡︵壬生直と 図1  『出雲国風土記』関係地図 (条里制・古代都市研究会編『日本古代の郡衙遺跡』 〔雄山閣、2009年〕55頁の図を転載)

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点も注目される。出雲国庁跡や各郡家・正倉関係の遺跡、その他多 数 の 木 簡︵ 八 六 点 ︶・ 墨 書 土 器 が 出 土 し た 青 木 遺 跡︵ 出 雲 郡 ︶ の よ うな郡家よりも下位の施設で、郡務に関わると目される事例︵郡家 出先機関︶や道路造営の作業を彷彿とさせる山持遺跡︵出雲郡︶の ような郡務の実際を示すもの等々がいくつか存する。こうした地方 官衙遺跡と出土文字資料は全国的にも年々増加しており、地域の立 体的な歴史像を探る上で貴重な材料となっている。 そこで、小稿では﹃出雲国風土記﹄や出雲地域の地方官衙遺跡を 視 野 に 入 れ な が ら、 こ れ を 全 国 的 な 事 象 と 比 較 対 照 し つ つ、 ﹁ 郡 的 世界﹂の実相を整理することにしたい。出雲の古代史研究における 史料の豊富さを確認するとともに、全国的に敷衍可能な要素を析出 し、日本の古代史全体に対する発信力が持つ魅力を引き出すことが できればと思う。

  ﹁郡的世界﹂とは

﹁ 郡 的 世 界 ﹂ の 概 要 は﹁ は じ め に ﹂ で も 触 れ た が、 ま ず は 出 雲 国 の事例に即して、具体的に説明したい。 a﹃出雲国風土記﹄大原郡条︵ ︹ ︺は細川本による︶ 所 三 号 二 原 一者、 郡 家 東 北︹ 正 西 ︺ 一 十 里 一 百 一 十 六 歩、 田 一 十 町 許 平 原 也。 故 号 曰 二 原 一 往 古 之 時、 此 処 有 二 家 一 今 猶 追 二 号大原 一︿今有郡家処号云斐伊村 一 ﹀。 ︵中略︶斐伊郷、属 二郡家 樋 速 日 子 命 坐 二 処 一 故 云 レ樋︿ 神 亀 三 年 改 二 字 斐 伊 一 ﹀。 新 造 院 一 所、 在 二 伊 郷 中 一 郡 家 正 南 一 里、 建 二 厳 堂 一也︿ 有 二 僧 五 躯 一 ﹀。 大 領 勝 部 臣 虫 麻 呂 之 所 レ 也。 新 造 院 一 所、 在 二 裏 郷 中 一 郡 家 東 北︹ 正 北 ︺ 一 十 一 里 一 百 廿 歩。 建 二立︵ ︶ 層 塔 一也︿ 有 二 一 躯 一 ﹀。 前少領額田部臣押嶋之所 レ造也︿今少領伊去美之従父兄也﹀ 。新造院 一所、在 二斐伊郷中。郡家東北一里。建立厳堂也︿有尼二躯 一 ﹀。 斐伊郷人樋伊支知麻呂之所 レ造也。 ︵下略︶ aによると、大原郡では郡家の移転があったことが知られる。郡 家移転の事例は﹃常陸国風土記﹄香島郡条にも見え、鹿島神社の南 の現郡家の北の沼尾池について、 ﹁前郡所 レ置、多蒔橘、其実味之﹂ と記すが、この場合は低湿地という立地の問題から移動が実行され たものと考えられる。大原郡の例は、大領が勝部臣、少領は松江市 岡田山一号墳出土大刀銘にも登場する額田部臣であり、欽明天皇の 女額田部皇女︵推古女帝︶の額田宮に奉仕する額田部臣の方が六世 紀 以 来 の 古 族 で ︶5 ︵ 、 郡 領 氏 族 の 地 位 の 逆 転 と い う 事 由 が 推 定 で き る。 岩波日本古典文学大系本の記載では旧郡家と少領額田部臣造営の新 造院所在地が極めて近接し、郡領氏族の本拠との関係による郡家の 立地選定を想起させるが、細川本では北と西になってしまい、この 相関関係は薄れるものの、現郡家には大領勝部臣が建立した新造院 が近在し、郡家の移動には大領勝部臣と少領額田部臣との勢力交替 という要素があったと言える。 こうした複数氏族による郡領構成例は、駿河国駿河郡︵壬生直と 図1  『出雲国風土記』関係地図 (条里制・古代都市研究会編『日本古代の郡衙遺跡』 〔雄山閣、2009年〕55頁の図を転載)

(5)

(備考)10中は『和名抄』の管郷数と郡の等級を示す。( )内は『出雲国風土記』の郷数(余戸・駅家・神戸も 加算)。 表1 出雲国の郡司と豪族分布 【能義郡】10中…意宇郡より分立 【意宇郡】8(18)中 大領:出雲臣、少領:出雲臣、主政:林臣・出雲臣、主帳:海臣 語臣、上腹首、蝮部臣、玉作、額田部臣、日置臣・日置君・日置部、神人公、若倭部 【島根郡】10(10)中 大領:社部臣、少領:神掃石君、主政:蝮朝臣、主帳:出雲臣 神掃石公 【秋鹿郡】4(5)下 大領:刑部臣、少領:蝮部臣、主帳:日下部臣 多米、額田部首、神宅臣 【楯縫郡】4(6)下 大領:出雲臣、少領:高善史、主帳:物部臣 物部臣 【出雲郡】8(9)中 大領:日置臣、少領:太臣、主政:( )部臣、主帳:若倭部臣 阿閉臣、海部首・海首・海部、出雲臣・出雲部、出雲積首・出雲積、稲置(印伎)部、犬幸君、伊 福部、大市部、大伴部、刑部、笠朝臣、語部君・語部君族・語部首・語部、掃守首、辛人部、神門 臣・神門臣族・神門、神奴部、私部、吉備部、日下部首・日下部、坂部、雀部君、佐波臣族、漆沼 稲置(印伎)、勝部首・勝部、財部、健部臣・健部、蝮部臣、田部臣・田部、民臣、津島部、鳥取 部首・鳥取部、舎人臣・舎人、爾麻阿比古族、額田部、漆部直・漆部族・漆部、土師部、間人臣、 丈部臣・丈部、日置部臣・日置部君・日置部首・日置部・日置、品治部、三上部、生部臣族・生 部、物部首・物部、宅部、山長首・山長、山部直・山部、弓削部首・弓削部、若桜部、若倭部臣 〔郷長〕・若倭部 【神門郡】10(12)中 大領:神門臣、少領:刑部臣、主政:吉備部臣、主帳:刑部臣 阿保臣、有臣、不知山部、出雲積、稲置(印色)部、伊福部、刑部臣・刑部、語部、神門臣・神門 臣族・神門部、神奴部、吉備部臣・吉備部君・吉備部、日下部、雀部臣、倭文部臣・倭文部首・倭 文部、勝部臣・勝部、曽根連、健部臣・健部首・健部、財部、田部、鳥取部臣・鳥取部造・鳥取 部、舎人・舎人部、丈部、林臣族・林部。日置臣・日置部、平群部、凡治部君・凡治部、若桜部、 若倭部臣・若倭部 【飯石郡】9(7)中 大領:大私造、少領:出雲臣、主帳:日置臣 大私部首、紀打原直、丹比部 【仁多郡】6(4)下 大領:蝮部臣、少領:出雲臣、主帳:品治臣 【大原郡】9(8)中 大領:勝部臣、少領:額田部臣、主政:日置臣、主帳:勝部臣 金刺舎人︶ 、武蔵国入間郡︵物部直︹入間宿禰︺と大伴部直か︶ 、越 前 国 足 羽 郡︵ 生 江 臣 と 阿 須 波 臣 ︶、 ま た 表 1 の 出 雲 国 の 諸 郡 な ど、 珍しくはない。入間郡では郡家比定の川越市的場の霞ヶ関遺跡から 南東四キロメートル程の場所に所在する同市小仙波町の弁天西遺跡 から﹁大家﹂ ︵八世紀後半︶ ・﹁入﹂ ︵九世紀︶の墨書土器が出土、当 地 は 大 家 郷 に 比 定 さ れ る の で、 郡 領 氏 族 の 関 係 は 不 詳 で あ る も の の、大家郷と郡家郷が並存する郡の通例として、大家郷から郡家郷 所 在 の 霞 ヶ 関 遺 跡 へ の 郡 家 の 移 動 が あ っ た も の と 推 定 で き る と い う ︶6 ︵ 。 次 に﹃ 出 雲 国 風 土 記 ﹄ の 各 郡 に は、 郡 家 所 在 地 以 外 に﹁ 即 有 二 倉 一 と 記 さ れ る 郷 が 存 す る 例 が 知 ら れ る︵ 秋 鹿・ 楯 縫・ 神 門 郡 に は な し ︶。 即 ち、 意 宇 郡︵ 郡 家 は 大 草 郷 ︶ で は 山 国︵ 東 南 三 十 二 里 二 百 三 十 歩 ︶・ 舎 人︵ 正 東 二 十 六 里 ︶・ 山 代︵ 西 北 三 里 百 二 十 歩 ︶・ 拝志︵正西二十一里二百十歩︶の各郷と賀茂神戸︵東南三十四里︶ 、 島 根 郡︵ 郡 家 は 山 口 郷 ︶ で は 手 染 郷︵ 正 東 十 里 二 百 六 十 歩 ︶、 出 雲 郡︵ 郡 家 は 出 雲 郷 ︶ で は 漆 沼︵ 正 東 五 里 二 百 七 十 歩 ︶・ 美 談︵ 正 北 九里二百四十歩︶郷、飯石郡︵郡家は多禰郷︶では三屋︵東北二十 四里︶ ・須佐︵正西十九里︶ ・来島︵正南三十六里︶郷、仁多郡︵郡 家 は 三 処 郷 ︶ で は 三 沢︵ 津 ︶︵ 西 南 二 十 五 里 ︶・ 横 田︵ 東 南 二 十 四 里︶郷、そして大原郡︵郡家は斐伊郷︶では屋代郷︵正北十里百十 歩︶などに正倉所在の記載が見える。これらのうち、山間部の飯石 郡・仁多郡では郡家との距離・地形上の阻害要因などにより、正倉 表2 新造院と建立者 【意宇郡】 舎人郷…教昊寺:五層塔/教昊僧(大初下上腹首押勝の祖父) 山代郷…新造院:堂/日置君目烈(出雲神戸日置君猪麻呂の祖) 新造院:堂/僧1躯/飯石郡少領出雲臣弟山 山国郷…新造院:三層塔/日置臣根猪 【出雲郡】 河内郷…新造院:堂/旧大領日置臣布彌(今大領佐底麿の祖父) 【神門郡】 朝山郷…新造院:堂/神門臣等 古志郷…新造院:堂/刑部臣等 【大原郡】 斐伊郷…新造院:堂/僧5躯/大領勝部臣虫麻呂 新造院:堂/尼2躯/斐伊郡人樋伊支知麻呂 屋裏郷…新造院:層塔/僧1躯/前少領額田部臣押島(今少領伊去美の従父兄)

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(備考)10中は『和名抄』の管郷数と郡の等級を示す。( )内は『出雲国風土記』の郷数(余戸・駅家・神戸も 加算)。 表1 出雲国の郡司と豪族分布 【能義郡】10中…意宇郡より分立 【意宇郡】8(18)中 大領:出雲臣、少領:出雲臣、主政:林臣・出雲臣、主帳:海臣 語臣、上腹首、蝮部臣、玉作、額田部臣、日置臣・日置君・日置部、神人公、若倭部 【島根郡】10(10)中 大領:社部臣、少領:神掃石君、主政:蝮朝臣、主帳:出雲臣 神掃石公 【秋鹿郡】4(5)下 大領:刑部臣、少領:蝮部臣、主帳:日下部臣 多米、額田部首、神宅臣 【楯縫郡】4(6)下 大領:出雲臣、少領:高善史、主帳:物部臣 物部臣 【出雲郡】8(9)中 大領:日置臣、少領:太臣、主政:( )部臣、主帳:若倭部臣 阿閉臣、海部首・海首・海部、出雲臣・出雲部、出雲積首・出雲積、稲置(印伎)部、犬幸君、伊 福部、大市部、大伴部、刑部、笠朝臣、語部君・語部君族・語部首・語部、掃守首、辛人部、神門 臣・神門臣族・神門、神奴部、私部、吉備部、日下部首・日下部、坂部、雀部君、佐波臣族、漆沼 稲置(印伎)、勝部首・勝部、財部、健部臣・健部、蝮部臣、田部臣・田部、民臣、津島部、鳥取 部首・鳥取部、舎人臣・舎人、爾麻阿比古族、額田部、漆部直・漆部族・漆部、土師部、間人臣、 丈部臣・丈部、日置部臣・日置部君・日置部首・日置部・日置、品治部、三上部、生部臣族・生 部、物部首・物部、宅部、山長首・山長、山部直・山部、弓削部首・弓削部、若桜部、若倭部臣 〔郷長〕・若倭部 【神門郡】10(12)中 大領:神門臣、少領:刑部臣、主政:吉備部臣、主帳:刑部臣 阿保臣、有臣、不知山部、出雲積、稲置(印色)部、伊福部、刑部臣・刑部、語部、神門臣・神門 臣族・神門部、神奴部、吉備部臣・吉備部君・吉備部、日下部、雀部臣、倭文部臣・倭文部首・倭 文部、勝部臣・勝部、曽根連、健部臣・健部首・健部、財部、田部、鳥取部臣・鳥取部造・鳥取 部、舎人・舎人部、丈部、林臣族・林部。日置臣・日置部、平群部、凡治部君・凡治部、若桜部、 若倭部臣・若倭部 【飯石郡】9(7)中 大領:大私造、少領:出雲臣、主帳:日置臣 大私部首、紀打原直、丹比部 【仁多郡】6(4)下 大領:蝮部臣、少領:出雲臣、主帳:品治臣 【大原郡】9(8)中 大領:勝部臣、少領:額田部臣、主政:日置臣、主帳:勝部臣 金刺舎人︶ 、武蔵国入間郡︵物部直︹入間宿禰︺と大伴部直か︶ 、越 前 国 足 羽 郡︵ 生 江 臣 と 阿 須 波 臣 ︶、 ま た 表 1 の 出 雲 国 の 諸 郡 な ど、 珍しくはない。入間郡では郡家比定の川越市的場の霞ヶ関遺跡から 南東四キロメートル程の場所に所在する同市小仙波町の弁天西遺跡 から﹁大家﹂ ︵八世紀後半︶ ・﹁入﹂ ︵九世紀︶の墨書土器が出土、当 地 は 大 家 郷 に 比 定 さ れ る の で、 郡 領 氏 族 の 関 係 は 不 詳 で あ る も の の、大家郷と郡家郷が並存する郡の通例として、大家郷から郡家郷 所 在 の 霞 ヶ 関 遺 跡 へ の 郡 家 の 移 動 が あ っ た も の と 推 定 で き る と い う ︶6 ︵ 。 次 に﹃ 出 雲 国 風 土 記 ﹄ の 各 郡 に は、 郡 家 所 在 地 以 外 に﹁ 即 有 二 倉 一 と 記 さ れ る 郷 が 存 す る 例 が 知 ら れ る︵ 秋 鹿・ 楯 縫・ 神 門 郡 に は な し ︶。 即 ち、 意 宇 郡︵ 郡 家 は 大 草 郷 ︶ で は 山 国︵ 東 南 三 十 二 里 二 百 三 十 歩 ︶・ 舎 人︵ 正 東 二 十 六 里 ︶・ 山 代︵ 西 北 三 里 百 二 十 歩 ︶・ 拝志︵正西二十一里二百十歩︶の各郷と賀茂神戸︵東南三十四里︶ 、 島 根 郡︵ 郡 家 は 山 口 郷 ︶ で は 手 染 郷︵ 正 東 十 里 二 百 六 十 歩 ︶、 出 雲 郡︵ 郡 家 は 出 雲 郷 ︶ で は 漆 沼︵ 正 東 五 里 二 百 七 十 歩 ︶・ 美 談︵ 正 北 九里二百四十歩︶郷、飯石郡︵郡家は多禰郷︶では三屋︵東北二十 四里︶ ・須佐︵正西十九里︶ ・来島︵正南三十六里︶郷、仁多郡︵郡 家 は 三 処 郷 ︶ で は 三 沢︵ 津 ︶︵ 西 南 二 十 五 里 ︶・ 横 田︵ 東 南 二 十 四 里︶郷、そして大原郡︵郡家は斐伊郷︶では屋代郷︵正北十里百十 歩︶などに正倉所在の記載が見える。これらのうち、山間部の飯石 郡・仁多郡では郡家との距離・地形上の阻害要因などにより、正倉 表2 新造院と建立者 【意宇郡】 舎人郷…教昊寺:五層塔/教昊僧(大初下上腹首押勝の祖父) 山代郷…新造院:堂/日置君目烈(出雲神戸日置君猪麻呂の祖) 新造院:堂/僧1躯/飯石郡少領出雲臣弟山 山国郷…新造院:三層塔/日置臣根猪 【出雲郡】 河内郷…新造院:堂/旧大領日置臣布彌(今大領佐底麿の祖父) 【神門郡】 朝山郷…新造院:堂/神門臣等 古志郷…新造院:堂/刑部臣等 【大原郡】 斐伊郷…新造院:堂/僧5躯/大領勝部臣虫麻呂 新造院:堂/尼2躯/斐伊郡人樋伊支知麻呂 屋裏郷…新造院:層塔/僧1躯/前少領額田部臣押島(今少領伊去美の従父兄)

(7)

の別置が現出したと目される。 意宇郡については、郡家に近接し、風土記勘造当時の国造出雲臣 広島の次に国造になった飯石郡少領出雲臣弟山が建立した新造院が 存 す る 山 代 郷 が、 山 代 二 子 塚 ︱ 山 代 方 墳 ︱ 永 久 宅 後 古 墳︵ 山 代 円 墳︶と続く国造出雲臣の奥津城所在地で、出雲臣の一大拠点であっ たことに留意さ れ ︶7 ︵ 、当地では実際に山代郷正倉遺跡群の遺構が検出 さ れ て い る。 そ し て、 年 次 は 不 明 で あ る が︵ ﹃ 延 喜 式 ﹄ に は 所 見 ︶、 意宇郡の東部は後代に能義郡として分立する点に着目すると、正倉 のある山国・舎人郷や賀茂神戸ではそうした要因が伏在していたこ とを看取させる。新造院は、上述の出雲国造家の者や国造配下で日 置部管掌者の伝統を引く日置君などの建立が見られる山代郷以外で は、 山 国 郷 の 日 置 部 氏、 舎 人 郷 の 外 散 位 上 腹 首 氏 の 例 だ け で あ り、 能義郡城にはこうした造営を行い得る豪族が存し た ︶8 ︵ 。舎人郷にはま た、欽明朝に倉舎人君らの祖日置臣志が大舎人として供奉したと い う 郷 名 由 来 譚 が あ り︵ b ︶、 山 国 郷 と も ど も、 日 置 部 関 係 の 豪 族 が集住している。ちなみに、能義郡は後代に能義南郡の存在が知ら れ、さらなる分割が行われていく。なお、拝志郷は主政として見え る林臣の本拠地と推定され、ここにも独自の基盤を有する豪族が存 してい る ︶9 ︵ 。 以上の意宇郡は、郡家所在地以外への正倉分置が、郡内諸豪族の 勢 力 関 係 な ど に よ っ て 生 じ た 事 象 で あ る こ と を 窺 わ せ る。 そ の 他、 出雲郡美談郷は、近年発見された青木遺跡の存在や出土木簡の内容 から、主帳若倭部臣の拠 点 ︶₁₀ ︵ 、大原郡屋代郷は、郡内北西端の所在地 とともに、少領額田部臣の拠点屋裏郷︵旧郡家が所在か︶に隣接す る の で、 上 述 の 郡 家 移 転 の 事 情 な ど に 関 連 す る も の と 考 え ら れ る。 こ の よ う な 正 倉 別 置 の 事 例 に は、 ﹃ 越 中 国 官 倉 納 穀 交 替 記 ﹄ の 越 中 国砺波郡の川上村・意斐村の不動倉もある。意斐村=意斐郷の正倉 は、越中守大伴家持が墾田地を検察した際に宿泊した主帳多治比部 北里︵ ﹃万葉集﹄巻十八︱四一三八、勝宝三年︹七五一︺ ︶の拠点荊 波村との関係が推定され、各国正税帳に記されている国司の出挙の 巡行が各郡三日程度であるのは、正倉所在地における関連有勢者の 管理体制・出挙業務などに依存できたためと考えられてい る ︶₁₁ ︵ 。 b﹃出雲国風土記﹄意宇郡舎人郷条 舎人郷、郡家正東廿六里。志貴島宮御宇天皇御世、倉舎人君等之祖 日置臣志、大舎人供奉之。即是志之所 レ居、故云舎人。即有 二 正倉 一 c﹃出雲国風土記﹄秋鹿郡恵曇浜条 ︵ 上 略 ︶ 自 二 川 口 一 方 田 辺 一 間、 長 一 百 八 十 歩、 広 一 丈 五 尺、 源 者 田 水 也。 上 文 所 レ 佐 太 川 西 源、 是 同 処 矣。 凡 渡 村 田 水、 南 北 別 耳 。 古 老 云 、 島 根 郡 大 領 社 部 臣 訓 麻 呂 之 祖 波 蘇 等 、 依 二 田 之 一 所 二彫堀也。 ︵下略︶ d﹃出雲国風土記﹄出雲郡建健部郷条 ︵上略︶故云 二宇夜里。而後改所以号健部者、纏向檜代宮御宇天 皇 勅、 不 レ 御 子 倭 健 命 之 御 名 一 健 部 定 給。 爾 時 神 門 臣 古 禰、 健部定給。即健部臣等、自 レ古至今、猶居此処。故云健部 e﹃出雲国風土記﹄神門郡日置郷条 日 置 郷、 郡 家 正 東 四 里。 志 紀 島 宮 御 宇 天 皇 之 御 世、 日 置 伴 部 等 所 二 遣来 一、宿停而、為政之所也。故云日置 f﹃出雲国風土記﹄神門郡古志郷条 古 志 郷、 即 属 二 家 一 伊 弉 奈 彌 命 之 時、 以 二 淵 川 一 築 二 池 一之。 爾時、古志国人等到来而為 レ堤。即宿居之所也。故云古志 g﹃出雲国風土記﹄神門郡狭結駅条 狭結駅、郡家同処。古志国佐與布云人、来居之。故云 二最邑︿神亀 三年改 二字狭結。其所以来居者、説如古志郷也﹀ 。 以 上、 ﹃ 出 雲 国 風 土 記 ﹄ に 看 取 さ れ る 郡 家 の 移 転 や 正 倉 分 置 と そ の背景を検討した。そこには郡司を構成する諸氏族の勢力関係、郡 内部の地域性や複雑に入り交じる歴史的支配の重層性が存したもの と 考 え ら れ、 そ れ ら を 統 合 す る 形 で 郡・ 郡 司 の 統 治、 ﹁ 郡 的 世 界 ﹂ の 枠 組 が 成 り 立 っ て い た の で あ る。 表 1 の 各 郡 の 豪 族 分 布 を 見 て も、 国 造 出 雲 臣 を 頂 点 と し な が ら も、 様 々 な 氏 姓 の 人 々 が 混 在 し、 額田部臣︱額田部首︱額田部のような階層性を以て、部民制以来の 奉仕・相互の関係が存続していたことが看取される。bの日置臣か ら倉舎人君へ、dの神門臣から健部臣への分出などもあった。dで は神門郡の郡領氏族神門臣一族が出雲郡域に居住しており、eでは 出雲郡の郡領氏族日置臣、あるいは東部の意宇郡にも分布する日置 臣が神門郡域に拠点を築く様子が知られ、f・gの越からの移住者 の存在ともども、様々な交流があったことがわかる。そして、cに は島根郡と隣接する秋鹿郡恵曇浜における島根郡大領の先祖による 開発が記され、各地の豪族がそれぞれの歴史的支配を構築する尽力 が 窺 わ れ る 。 さ ら に は 、 出 雲 郡 条 に 記 さ れ た 出 雲 大 川 は 、﹁ 自 二 口 一 至 二 上 横 田 村 一 間、 五 郡 百 姓 便 レ 而 居︿ 出 雲・ 神 門・ 飯 石・ 仁 多・ 大 原 郡 ﹀。 起 二 春 一 春 一 校 二 木 一船、 沿 二 河 中 一 ﹂ と あり、広域的なつながりを考慮する必要がある。それは自然だけで はなく、上述のように、次代の出雲国造となる人物が意宇郡ではな く、飯石郡の郡司を務めていたり、意宇郡山代郷には出雲臣だけで なく、日置臣も新造院を建立していたり、また意宇郡の各地に居住 する日置臣の広がりや他郡の日置臣との交流如何であったりと、や はり複雑に交錯する豪族同士の関係を考えておくことが求められよ う。 では、このような状況は郡家の機構や人的構成、さらには郡務の 遂行形態などにどのように反映されているのであろうか。章を改め て﹁郡的世界﹂の実像をより具体的に探究することにしたい。

郡家とその広がり

律令条文とその注釈書︵戸令国郡司条、宮衛令兵庫大蔵条、軍防 令従軍甲仗条、儀制令五行条、仮寧令外官聞喪条、衛禁律越垣及城 条など︶や長元元年︵一〇三〇︶ ﹁上野国交替実録帳﹂ ︵不与解由状

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の別置が現出したと目される。 意宇郡については、郡家に近接し、風土記勘造当時の国造出雲臣 広島の次に国造になった飯石郡少領出雲臣弟山が建立した新造院が 存 す る 山 代 郷 が、 山 代 二 子 塚 ︱ 山 代 方 墳 ︱ 永 久 宅 後 古 墳︵ 山 代 円 墳︶と続く国造出雲臣の奥津城所在地で、出雲臣の一大拠点であっ たことに留意さ れ ︶7 ︵ 、当地では実際に山代郷正倉遺跡群の遺構が検出 さ れ て い る。 そ し て、 年 次 は 不 明 で あ る が︵ ﹃ 延 喜 式 ﹄ に は 所 見 ︶、 意宇郡の東部は後代に能義郡として分立する点に着目すると、正倉 のある山国・舎人郷や賀茂神戸ではそうした要因が伏在していたこ とを看取させる。新造院は、上述の出雲国造家の者や国造配下で日 置部管掌者の伝統を引く日置君などの建立が見られる山代郷以外で は、 山 国 郷 の 日 置 部 氏、 舎 人 郷 の 外 散 位 上 腹 首 氏 の 例 だ け で あ り、 能義郡城にはこうした造営を行い得る豪族が存し た ︶8 ︵ 。舎人郷にはま た、欽明朝に倉舎人君らの祖日置臣志が大舎人として供奉したと い う 郷 名 由 来 譚 が あ り︵ b ︶、 山 国 郷 と も ど も、 日 置 部 関 係 の 豪 族 が集住している。ちなみに、能義郡は後代に能義南郡の存在が知ら れ、さらなる分割が行われていく。なお、拝志郷は主政として見え る林臣の本拠地と推定され、ここにも独自の基盤を有する豪族が存 してい る ︶9 ︵ 。 以上の意宇郡は、郡家所在地以外への正倉分置が、郡内諸豪族の 勢 力 関 係 な ど に よ っ て 生 じ た 事 象 で あ る こ と を 窺 わ せ る。 そ の 他、 出雲郡美談郷は、近年発見された青木遺跡の存在や出土木簡の内容 から、主帳若倭部臣の拠 点 ︶₁₀ ︵ 、大原郡屋代郷は、郡内北西端の所在地 とともに、少領額田部臣の拠点屋裏郷︵旧郡家が所在か︶に隣接す る の で、 上 述 の 郡 家 移 転 の 事 情 な ど に 関 連 す る も の と 考 え ら れ る。 こ の よ う な 正 倉 別 置 の 事 例 に は、 ﹃ 越 中 国 官 倉 納 穀 交 替 記 ﹄ の 越 中 国砺波郡の川上村・意斐村の不動倉もある。意斐村=意斐郷の正倉 は、越中守大伴家持が墾田地を検察した際に宿泊した主帳多治比部 北里︵ ﹃万葉集﹄巻十八︱四一三八、勝宝三年︹七五一︺ ︶の拠点荊 波村との関係が推定され、各国正税帳に記されている国司の出挙の 巡行が各郡三日程度であるのは、正倉所在地における関連有勢者の 管理体制・出挙業務などに依存できたためと考えられてい る ︶₁₁ ︵ 。 b﹃出雲国風土記﹄意宇郡舎人郷条 舎人郷、郡家正東廿六里。志貴島宮御宇天皇御世、倉舎人君等之祖 日置臣志、大舎人供奉之。即是志之所 レ居、故云舎人。即有 二 正倉 一 c﹃出雲国風土記﹄秋鹿郡恵曇浜条 ︵ 上 略 ︶ 自 二 川 口 一 方 田 辺 一 間、 長 一 百 八 十 歩、 広 一 丈 五 尺、 源 者 田 水 也。 上 文 所 レ 佐 太 川 西 源、 是 同 処 矣。 凡 渡 村 田 水、 南 北 別 耳 。 古 老 云 、 島 根 郡 大 領 社 部 臣 訓 麻 呂 之 祖 波 蘇 等 、 依 二 田 之 一 所 二彫堀也。 ︵下略︶ d﹃出雲国風土記﹄出雲郡建健部郷条 ︵上略︶故云 二宇夜里。而後改所以号健部者、纏向檜代宮御宇天 皇 勅、 不 レ 御 子 倭 健 命 之 御 名 一 健 部 定 給。 爾 時 神 門 臣 古 禰、 健部定給。即健部臣等、自 レ古至今、猶居此処。故云健部 e﹃出雲国風土記﹄神門郡日置郷条 日 置 郷、 郡 家 正 東 四 里。 志 紀 島 宮 御 宇 天 皇 之 御 世、 日 置 伴 部 等 所 二 遣来 一、宿停而、為政之所也。故云日置 f﹃出雲国風土記﹄神門郡古志郷条 古 志 郷、 即 属 二 家 一 伊 弉 奈 彌 命 之 時、 以 二 淵 川 一 築 二 池 一之。 爾時、古志国人等到来而為 レ堤。即宿居之所也。故云古志 g﹃出雲国風土記﹄神門郡狭結駅条 狭結駅、郡家同処。古志国佐與布云人、来居之。故云 二最邑︿神亀 三年改 二字狭結。其所以来居者、説如古志郷也﹀ 。 以 上、 ﹃ 出 雲 国 風 土 記 ﹄ に 看 取 さ れ る 郡 家 の 移 転 や 正 倉 分 置 と そ の背景を検討した。そこには郡司を構成する諸氏族の勢力関係、郡 内部の地域性や複雑に入り交じる歴史的支配の重層性が存したもの と 考 え ら れ、 そ れ ら を 統 合 す る 形 で 郡・ 郡 司 の 統 治、 ﹁ 郡 的 世 界 ﹂ の 枠 組 が 成 り 立 っ て い た の で あ る。 表 1 の 各 郡 の 豪 族 分 布 を 見 て も、 国 造 出 雲 臣 を 頂 点 と し な が ら も、 様 々 な 氏 姓 の 人 々 が 混 在 し、 額田部臣︱額田部首︱額田部のような階層性を以て、部民制以来の 奉仕・相互の関係が存続していたことが看取される。bの日置臣か ら倉舎人君へ、dの神門臣から健部臣への分出などもあった。dで は神門郡の郡領氏族神門臣一族が出雲郡域に居住しており、eでは 出雲郡の郡領氏族日置臣、あるいは東部の意宇郡にも分布する日置 臣が神門郡域に拠点を築く様子が知られ、f・gの越からの移住者 の存在ともども、様々な交流があったことがわかる。そして、cに は島根郡と隣接する秋鹿郡恵曇浜における島根郡大領の先祖による 開発が記され、各地の豪族がそれぞれの歴史的支配を構築する尽力 が 窺 わ れ る 。 さ ら に は 、 出 雲 郡 条 に 記 さ れ た 出 雲 大 川 は 、﹁ 自 二 口 一 至 二 上 横 田 村 一 間、 五 郡 百 姓 便 レ 而 居︿ 出 雲・ 神 門・ 飯 石・ 仁 多・ 大 原 郡 ﹀。 起 二 春 一 春 一 校 二 木 一船、 沿 二 河 中 一 ﹂ と あり、広域的なつながりを考慮する必要がある。それは自然だけで はなく、上述のように、次代の出雲国造となる人物が意宇郡ではな く、飯石郡の郡司を務めていたり、意宇郡山代郷には出雲臣だけで なく、日置臣も新造院を建立していたり、また意宇郡の各地に居住 する日置臣の広がりや他郡の日置臣との交流如何であったりと、や はり複雑に交錯する豪族同士の関係を考えておくことが求められよ う。 では、このような状況は郡家の機構や人的構成、さらには郡務の 遂行形態などにどのように反映されているのであろうか。章を改め て﹁郡的世界﹂の実像をより具体的に探究することにしたい。

郡家とその広がり

律令条文とその注釈書︵戸令国郡司条、宮衛令兵庫大蔵条、軍防 令従軍甲仗条、儀制令五行条、仮寧令外官聞喪条、衛禁律越垣及城 条など︶や長元元年︵一〇三〇︶ ﹁上野国交替実録帳﹂ ︵不与解由状

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案 ︶ に よ る と、 郡 家 は 概 ね ① 郡 庁︵ ﹁ 院 ﹂ と 称 さ れ る 複 数 の 建 物 と 庭で構成。公文屋で文書を管理︶ 、②正倉︵兵庫もある︶ 、③館︵宿 屋・ 向 屋・ 副 屋 と 厨 家 ま た は 厩、 竈 屋 ︶、 ④ 厨︵ 酒 屋・ 竈 屋・ 納 屋・備屋︶から構成されており、何らかの囲繞施設︵郡垣︶とその 囲繞空間を出入りするための門があった。出雲地域では上述の意宇 郡の山代郷正倉遺跡群、出雲郡家の正倉と目される後谷遺跡、神門 郡家に比定される古志本郷遺跡と正倉の三田谷Ⅰ遺跡、旧大原郡家 比定の郡垣遺跡などが検出されているが、郡家の全体像が判明する 事例はな い ︶₁₂ ︵ 。 全国には約六百の郡があり、美濃国武義郡家の弥勒寺遺跡群や陸 奥国白河郡家の白河郡衙遺跡群では、①∼④が一箇所に集約された 形 で 郡 家 が 存 立 し て い る ︶₁₃ ︵ 。 し か し、 ﹃ 出 雲 国 風 土 記 ﹄ に 見 ら れ る 正 倉 分 置 の 事 例、 ﹁ 上 野 国 交 替 実 録 帳 ﹂︵ ﹃ 平 安 遺 文 ﹄ 四 六 〇 九 号 ︶ に も各郡に共通して記載される一∼四館の館がすべて郡家と同じ場所 にあったとは限らないことや﹃朝野群載﹄巻二十二﹁国務条々﹂第 二十条﹁一択 二吉日、可雑公文由牒送前司事﹂に﹁郡庫院、 駅館、厨家及諸郡院、別院﹂とある郡関係の﹁官舎﹂のうちの別院 に 相 当 す る 小 野 院・ 八 木 院︵ 群 馬 郡 ︶、 長 田 院・ 伊 参 院︵ 吾 妻 郡 ︶ は郡家と別処にあったと考えられることが看取され、分散型の存在 形態も考慮しておかねばならない。その他、長野A遺跡︵郡家比定 地︶で﹁企救一﹂ 、その南二・三キロメートルの寺田遺跡で﹁企弐﹂ の墨書土器が検出された豊前国企救郡、上総国山辺郡山口郷内の千 葉 県 東 金 市 山 田 水 呑 遺 跡 で の﹁ 山 辺 大 ﹂、 ﹁ 山 口 館 ﹂、 ﹁ 山 佐 ﹂︵ 山 辺 郡少領の意か︶などの墨書土器検出による山口館の存在といった事 例も知られ る ︶₁₄ ︵ 。 郡の景観という観点からは、郡家の門前に巨木が植えられている 事 例 が あ る こ と に 注 目 さ れ る︵ ﹃ 続 後 紀 ﹄ 承 和 四 年︹ 八 三 七 ︺ 二 月 甲午朔条/山城国愛宕郡、同十四年︹八四七︺六月甲寅条/山城国 葛野郡、 ﹃常陸国風土記﹄行方郡条など︶ 。山城国愛宕郡家の門前で は遣唐使派遣の際に天神地祇を奉祀し、野郡家の前の槻樹は松尾 大神が憑依する聖樹であり、飛鳥寺の西の槻木など都城における他 の 事 例 と 同 様、 呪 術・ 祭 祀 の 場、 聖 樹 の 広 場 の 機 能 が 看 取 さ れ る ︶₁₅ ︵ 。 また﹁殿門﹂という脇付的敬称があるように、門は施設の内・外を 区画するもので、外に対する郡家の象徴として重要であったと考え られ、上野国多胡郡の建郡状況を伝える多胡碑は、郡家の門前の路 傍に存したもので、郡家に出入りする人々に立郡人の子孫である郡 領の権威を誇示する装置であっ た ︶₁₆ ︵ 。 郡家と祭祀の関係については、富士山の噴火などを被って﹁郡家 以 南 作 二 神 宮 一 て 郡 領 が 祝 と な り、 浅 間 明 神 を 奉 斎 し た 例︵ ﹃ 三 代 実 録 ﹄ 貞 観 七 年︹ 八 六 五 ︺ 十 二 月 九 日 条 / 甲 斐 国 八 代 郡 ︶、 ﹁ 在 二 郡家西北角 一﹂出雲伊波比神が﹁引率郡家内外所有雷神﹂して神 火を起こしたり︵ト部吉田家旧蔵文書・宝亀三年[七七二]十二月 十 九 日 官 符 ︹ 武 蔵 国 入 間 郡 ︺︶ 、﹁ 土 左 郡 家 之 内 、 有 レ 。 神 名 、 為 二 天 河 命 一 其 南 道 下 有 レ社、 神 名 浄 川 媛 命、 天 河 神 之 女 也。 其 天 河 神 者、為 二土左大神之子也﹂と、郡家の西四里に所在した都佐坐神社 ︵ 土 佐 神 社 ︶ の 子 神 た る 木 男 神 社、 木 咩 神 社 が 郡 家 内 と そ の 近 辺 に 存 し た り と︵ 土 左 国 風 土 記 逸 文 土 左 郡 条 ︶、 い わ ば 郡 家 の 内 神 として祭祀面での権威を取り込む事例があ る ︶₁₇ ︵ 。郡家遺跡の実例にお いても、上述の弥勒寺遺跡群では郡家本体である弥勒寺東遺跡の西 方の谷部には祭祀遺跡である弥勒寺西遺跡が検出されている。武蔵 国 幡 羅 郡 家 推 定 地 の 幡 羅 遺 跡 で も、 そ の 東 に 西 別 府 祭 祀 遺 跡 が 存 し、郡家に関わる神祇祭祀が行われていたことが窺われる。 h﹃日本霊異記﹄中巻第九縁﹁己作寺用其寺物作牛役縁﹂ 大 伴 赤 麻 呂 者、 武 蔵 国 多 磨 郡 大 領 也。 以 二 平 勝 宝 元 年 己 丑 冬 十 二 月 十 九 日 一死、 以 二 年 庚 寅 夏 五 月 七 日 一 生 二 斑 犢 一 自 負 二 文 一 矣。 探 二 斑 文 一 謂、 赤 麻 呂 者、 擅 二 於 己 所 レ 寺 一 而 随 二 心 一 借 二 寺 物 一 未 二 納 一之、 而 死 亡 焉。 為 レ 物 一故、 受 二 身 一 也。於 レ茲諸眷属及同僚、発慚愧心 一 。︵下略︶ i﹃ 日本霊異記﹄下巻第二十六縁﹁強非理以徴債取多倍而現得悪死 報縁﹂ 田中真人広虫女者、讃岐国美貴郡大領外従六位上小屋県主宮手之妻 也。 産 二 八 子 一 富 貴 宝 多、 有 二 牛 奴 婢 稲 銭 田 畠 等 一 天 年 無 二 心 一 慳 貪 無 二 与 一 酒 加 二 水 一 沽 取 二 直 一 貸 日 与 二 升 一 償 日受 二大升、出挙時用小斤、償収時以大斤、息利強徴、太甚非 理、 或 十 倍 徴、 或 百 倍 徴、 償 人 渋 レ耳、 不 レ 心 一 。︵ 中 略 / 死 後 に上半身が牛になって更甦︶大領及男女之、愧恥慼慟、正体投 レ地、 発 レ願無量、為罪報、三木寺進入家内雑物財物、東大寺進 二 入 牛 七 十 頭・ 馬 卅 疋・ 治 田 廿 町・ 稲 四 千 束 一 負 二 人 一物、 皆 既 免 之。 ︵下略︶ 弥勒寺遺跡群ではまた、東遺跡と西遺跡の間には法起寺式伽藍配 置 を 有 す る 弥 勒 寺 跡 が 検 出 さ れ て お り、 弥 勒 寺 西 遺 跡 か ら は﹁ 大 寺﹂の墨書土器が出土しているので、弥勒寺は﹁武義大寺﹂といっ た 呼 称 で 地 域 の 人 々 の 信 仰 を 集 め て い た の で あ ろ う。 西 遺 跡 で の ﹁ 大 寺 ﹂ 墨 書 土 器 出 土 は、 こ こ で の 祭 祀 に 弥 勒 寺 の 僧 侶 も 参 加 し て いたことを窺わせ、仏教信仰と神祇信仰の場を区別する配慮はある ものの、郡司の郡内統治には両者の掌握が不可欠であり、時には習 合する形で挙行されていた様子が彷彿される。hの武蔵国多磨郡の 寺院に関しては、武蔵国府関係の発掘調査で国庁跡の東方約三〇〇 メ ー ト ル 周 辺 で 幢 竿 支 柱 の 穴 と 目 さ れ る 柱 穴 や﹁ □ 磨 寺 ﹂・ ﹁ 多 寺 ﹂ の墨書土器が検出されており、多磨寺という名称であったと考えら れ︵ 京 所 廃 寺 ︶、 さ ら に そ の 東 方 四 〇 〇 メ ー ト ル 地 点 で 南 北 に 並 立 する大規模掘立柱建物跡が見つかっているので、ここに多磨郡家が 存した可能性が指摘されてい る ︶₁₈ ︵ 。iの讃岐国三木郡の三木寺も同様 の 事 例 で、 こ う し た 郡 家 に 隣 接 す る 寺 院 は 郡 名 と 同 名 の 場 合 が 多 く、郡寺、郡家付属寺院と考えることもできるが、表2の出雲国神 門郡や大原郡の事例では大・少領がそれぞれに新造院を造営してい るので、むしろ郡領氏族の氏寺としての性格が基本 で ︶₁₉ ︵ 、彼らが自己 の権威を高めることで郡家が維持されていくから、弥勒寺のような

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案 ︶ に よ る と、 郡 家 は 概 ね ① 郡 庁︵ ﹁ 院 ﹂ と 称 さ れ る 複 数 の 建 物 と 庭で構成。公文屋で文書を管理︶ 、②正倉︵兵庫もある︶ 、③館︵宿 屋・ 向 屋・ 副 屋 と 厨 家 ま た は 厩、 竈 屋 ︶、 ④ 厨︵ 酒 屋・ 竈 屋・ 納 屋・備屋︶から構成されており、何らかの囲繞施設︵郡垣︶とその 囲繞空間を出入りするための門があった。出雲地域では上述の意宇 郡の山代郷正倉遺跡群、出雲郡家の正倉と目される後谷遺跡、神門 郡家に比定される古志本郷遺跡と正倉の三田谷Ⅰ遺跡、旧大原郡家 比定の郡垣遺跡などが検出されているが、郡家の全体像が判明する 事例はな い ︶₁₂ ︵ 。 全国には約六百の郡があり、美濃国武義郡家の弥勒寺遺跡群や陸 奥国白河郡家の白河郡衙遺跡群では、①∼④が一箇所に集約された 形 で 郡 家 が 存 立 し て い る ︶₁₃ ︵ 。 し か し、 ﹃ 出 雲 国 風 土 記 ﹄ に 見 ら れ る 正 倉 分 置 の 事 例、 ﹁ 上 野 国 交 替 実 録 帳 ﹂︵ ﹃ 平 安 遺 文 ﹄ 四 六 〇 九 号 ︶ に も各郡に共通して記載される一∼四館の館がすべて郡家と同じ場所 にあったとは限らないことや﹃朝野群載﹄巻二十二﹁国務条々﹂第 二十条﹁一択 二吉日、可雑公文由牒送前司事﹂に﹁郡庫院、 駅館、厨家及諸郡院、別院﹂とある郡関係の﹁官舎﹂のうちの別院 に 相 当 す る 小 野 院・ 八 木 院︵ 群 馬 郡 ︶、 長 田 院・ 伊 参 院︵ 吾 妻 郡 ︶ は郡家と別処にあったと考えられることが看取され、分散型の存在 形態も考慮しておかねばならない。その他、長野A遺跡︵郡家比定 地︶で﹁企救一﹂ 、その南二・三キロメートルの寺田遺跡で﹁企弐﹂ の墨書土器が検出された豊前国企救郡、上総国山辺郡山口郷内の千 葉 県 東 金 市 山 田 水 呑 遺 跡 で の﹁ 山 辺 大 ﹂、 ﹁ 山 口 館 ﹂、 ﹁ 山 佐 ﹂︵ 山 辺 郡少領の意か︶などの墨書土器検出による山口館の存在といった事 例も知られ る ︶₁₄ ︵ 。 郡の景観という観点からは、郡家の門前に巨木が植えられている 事 例 が あ る こ と に 注 目 さ れ る︵ ﹃ 続 後 紀 ﹄ 承 和 四 年︹ 八 三 七 ︺ 二 月 甲午朔条/山城国愛宕郡、同十四年︹八四七︺六月甲寅条/山城国 葛野郡、 ﹃常陸国風土記﹄行方郡条など︶ 。山城国愛宕郡家の門前で は遣唐使派遣の際に天神地祇を奉祀し、野郡家の前の槻樹は松尾 大神が憑依する聖樹であり、飛鳥寺の西の槻木など都城における他 の 事 例 と 同 様、 呪 術・ 祭 祀 の 場、 聖 樹 の 広 場 の 機 能 が 看 取 さ れ る ︶₁₅ ︵ 。 また﹁殿門﹂という脇付的敬称があるように、門は施設の内・外を 区画するもので、外に対する郡家の象徴として重要であったと考え られ、上野国多胡郡の建郡状況を伝える多胡碑は、郡家の門前の路 傍に存したもので、郡家に出入りする人々に立郡人の子孫である郡 領の権威を誇示する装置であっ た ︶₁₆ ︵ 。 郡家と祭祀の関係については、富士山の噴火などを被って﹁郡家 以 南 作 二 神 宮 一 て 郡 領 が 祝 と な り、 浅 間 明 神 を 奉 斎 し た 例︵ ﹃ 三 代 実 録 ﹄ 貞 観 七 年︹ 八 六 五 ︺ 十 二 月 九 日 条 / 甲 斐 国 八 代 郡 ︶、 ﹁ 在 二 郡家西北角 一﹂出雲伊波比神が﹁引率郡家内外所有雷神﹂して神 火を起こしたり︵ト部吉田家旧蔵文書・宝亀三年[七七二]十二月 十 九 日 官 符 ︹ 武 蔵 国 入 間 郡 ︺︶ 、﹁ 土 左 郡 家 之 内 、 有 レ 。 神 名 、 為 二 天 河 命 一 其 南 道 下 有 レ社、 神 名 浄 川 媛 命、 天 河 神 之 女 也。 其 天 河 神 者、為 二土左大神之子也﹂と、郡家の西四里に所在した都佐坐神社 ︵ 土 佐 神 社 ︶ の 子 神 た る 木 男 神 社、 木 咩 神 社 が 郡 家 内 と そ の 近 辺 に 存 し た り と︵ 土 左 国 風 土 記 逸 文 土 左 郡 条 ︶、 い わ ば 郡 家 の 内 神 として祭祀面での権威を取り込む事例があ る ︶₁₇ ︵ 。郡家遺跡の実例にお いても、上述の弥勒寺遺跡群では郡家本体である弥勒寺東遺跡の西 方の谷部には祭祀遺跡である弥勒寺西遺跡が検出されている。武蔵 国 幡 羅 郡 家 推 定 地 の 幡 羅 遺 跡 で も、 そ の 東 に 西 別 府 祭 祀 遺 跡 が 存 し、郡家に関わる神祇祭祀が行われていたことが窺われる。 h﹃日本霊異記﹄中巻第九縁﹁己作寺用其寺物作牛役縁﹂ 大 伴 赤 麻 呂 者、 武 蔵 国 多 磨 郡 大 領 也。 以 二 平 勝 宝 元 年 己 丑 冬 十 二 月 十 九 日 一死、 以 二 年 庚 寅 夏 五 月 七 日 一 生 二 斑 犢 一 自 負 二 文 一 矣。 探 二 斑 文 一 謂、 赤 麻 呂 者、 擅 二 於 己 所 レ 寺 一 而 随 二 心 一 借 二 寺 物 一 未 二 納 一之、 而 死 亡 焉。 為 レ 物 一故、 受 二 身 一 也。於 レ茲諸眷属及同僚、発慚愧心 一 。︵下略︶ i﹃ 日本霊異記﹄下巻第二十六縁﹁強非理以徴債取多倍而現得悪死 報縁﹂ 田中真人広虫女者、讃岐国美貴郡大領外従六位上小屋県主宮手之妻 也。 産 二 八 子 一 富 貴 宝 多、 有 二 牛 奴 婢 稲 銭 田 畠 等 一 天 年 無 二 心 一 慳 貪 無 二 与 一 酒 加 二 水 一 沽 取 二 直 一 貸 日 与 二 升 一 償 日受 二大升、出挙時用小斤、償収時以大斤、息利強徴、太甚非 理、 或 十 倍 徴、 或 百 倍 徴、 償 人 渋 レ耳、 不 レ 心 一 。︵ 中 略 / 死 後 に上半身が牛になって更甦︶大領及男女之、愧恥慼慟、正体投 レ地、 発 レ願無量、為罪報、三木寺進入家内雑物財物、東大寺進 二 入 牛 七 十 頭・ 馬 卅 疋・ 治 田 廿 町・ 稲 四 千 束 一 負 二 人 一物、 皆 既 免 之。 ︵下略︶ 弥勒寺遺跡群ではまた、東遺跡と西遺跡の間には法起寺式伽藍配 置 を 有 す る 弥 勒 寺 跡 が 検 出 さ れ て お り、 弥 勒 寺 西 遺 跡 か ら は﹁ 大 寺﹂の墨書土器が出土しているので、弥勒寺は﹁武義大寺﹂といっ た 呼 称 で 地 域 の 人 々 の 信 仰 を 集 め て い た の で あ ろ う。 西 遺 跡 で の ﹁ 大 寺 ﹂ 墨 書 土 器 出 土 は、 こ こ で の 祭 祀 に 弥 勒 寺 の 僧 侶 も 参 加 し て いたことを窺わせ、仏教信仰と神祇信仰の場を区別する配慮はある ものの、郡司の郡内統治には両者の掌握が不可欠であり、時には習 合する形で挙行されていた様子が彷彿される。hの武蔵国多磨郡の 寺院に関しては、武蔵国府関係の発掘調査で国庁跡の東方約三〇〇 メ ー ト ル 周 辺 で 幢 竿 支 柱 の 穴 と 目 さ れ る 柱 穴 や﹁ □ 磨 寺 ﹂・ ﹁ 多 寺 ﹂ の墨書土器が検出されており、多磨寺という名称であったと考えら れ︵ 京 所 廃 寺 ︶、 さ ら に そ の 東 方 四 〇 〇 メ ー ト ル 地 点 で 南 北 に 並 立 する大規模掘立柱建物跡が見つかっているので、ここに多磨郡家が 存した可能性が指摘されてい る ︶₁₈ ︵ 。iの讃岐国三木郡の三木寺も同様 の 事 例 で、 こ う し た 郡 家 に 隣 接 す る 寺 院 は 郡 名 と 同 名 の 場 合 が 多 く、郡寺、郡家付属寺院と考えることもできるが、表2の出雲国神 門郡や大原郡の事例では大・少領がそれぞれに新造院を造営してい るので、むしろ郡領氏族の氏寺としての性格が基本 で ︶₁₉ ︵ 、彼らが自己 の権威を高めることで郡家が維持されていくから、弥勒寺のような

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事例で は自ず と郡家と一体の支配装置に な る場合が あ る の で あ ろ う。 j儀制令春時祭田条集解古記 古 記 云、 春 時 祭 田 之 日、 謂 国 郡 郷 里 毎 レ 在 二 神 一 人 夫 集 聚 祭。 若 放 二 年 祭 一 也 。 行 二 飲 酒 礼 一 謂 令 二 郷 家 備 設 一 。 一 云 、 毎 レ 村 私 置 二 官 一 名 称 二 首 一 村 内 之 人 、 縁 二 私 事 一 他 国 一 令 レ 輸 二 幣 一 或 毎 レ 置 レ 取 二 稲 一 出 挙 取 レ利、 預 造 二 酒 一 祭 田 之 日、 設 二 備 飲 食 一 并 人 別 設 レ 食、 男 女 悉 集、 告 二 国 家 法 令 一 訖。 即 以 レ 居 レ坐、 以 二 弟 等 一 部 一 供 二 飲 食 一 春 秋 二 時 祭 也。 此称 二尊長養老之道也。 k﹃ 日 本 霊 異 記 ﹄ 中 巻 第 三 十 二 縁﹁ 貸 二 寺 息 利 酒 一 死 作 レ 役 レ之償債縁﹂ 聖 武 天 皇 世 、 紀 伊 国 名 草 郡 三 上 村 人 、 為 二 王 寺 一 率 二 知 識 一 息 二 貸 薬 分 一︿ 薬 王 寺、 今 謂 二 多 寺 一 ﹀。 其 薬 料 物、 寄 二 岡 田 村 主 姑 女 之 家 一 作 レ 息 レ 利。 ︵ 中 略 ︶ 時 寺 之 檀 越 岡 田 村 主 石 人、 夢 見。 ︵中略︶問 二桜大娘、而知虚実︿大娘者、作酒家主、即石人之妹 也﹀ 。︵下略︶ ところで、hでは大領が自ら建立した寺院の寺物を流用したこと ︵ 下 巻 第 二 十 三 縁﹁ 用 二 物 一 将 レ 般 若 一 以 現 得 二 悪 報 一 縁﹂ ︹信濃国小県郡嬢里の大伴連忍勝の氏寺︺も参照︶ 、iでは三木 寺の檀越と目される大領の妻があこぎな出挙活動や酒の醸造・販売 を行っていたことが指弾されているが、kでは村人たちが薬王寺に 供出した米を用いて、檀越である岡田村主石人の妹で、桜大娘と称 される姑女が酒造りを実施し、桜村の物部麿に貸し付けていた様子 が記されてお り ︶₂₀ ︵ 、その他﹁額田寺伽藍並条里図﹂に看取される大和 国平群郡の郡領氏族額田部連︵宿禰︶氏と額田寺の関係などによる と、寺院は郡領氏族の経済基盤としての位置づけも重要であったと 考えられる。同様に、jによると、酒造りや出挙活動は神祇関係の 施設でも行われていたことがわかり、宗教施設が物心両面で郡家・ 郡司の統治を支える装置として不可欠であったと言えよ う ︶₂₁ ︵ 。 その出挙であるが、従来は高利貸し的な租税としての側面が強調 されがちであったものの、近年では当時の基幹産業である農業の維 持・人々の再生産に不可欠な社会的装置としての性格が着目されて い る ︶₂₂ ︵ 。即ち、春の種子下行と夏の田植労働力確保のための魚酒提供 や端境期の食料など、春夏二季の出挙、そして秋の収穫時の返納と いうサイクルが存したのである。地方官衙遺跡出土木簡にも多くの 場合に出挙関係の木簡が見ら れ ︶₂₃ ︵ 、出雲国では青木遺跡の、 ・若倭マ臣細足以上税事 ・上物   上万呂   等当月料 ︵ 196 ︶・ 28 ・ 3  019 ︵七九号︶ 伊丈マ奈次丸 123 ・ 22 ・ 4  051 ︵五二号︶ 伊和丈マ浄刀自女 ︵ 119 ︶・ 20 ・ 6  019 ︵五八号︶ 美吉備マ細女 183 ・ 18 ・ 4  051 ︵四四号︶ などの木簡は、女性名のものが散見し、出雲郡伊和・美談郷の人々 による出挙返納に関わる付札︵荷札︶や返納に関わる文書木簡と目 される。 郡家とその関連の遺跡ではまた、早稲・中稲・晩稲など米の品種 に関わる種子札が出土していることも注目され る ︶₂₄ ︵ 。種子札は東北地 方から九州におよぶ様々な地方官衙遺跡から検出されており、異な る地域で共通する名称の品種が見られるから、広く列島内に共有さ れていたのであろう。島根県内の遺跡では見つかっていないが、山 陰道では鳥取県青谷横木遺跡︵因幡国気多郡︶で﹁須留女﹂ 、﹁長比 子﹂の事例が知られている︵ ﹃木簡研究﹄三八号︶ 。この種子札の存 在は、郡家が種籾の管理、播殖を含めた耕営全般を掌握していたこ とを窺わせ、職員令に規定された郡領の職掌﹁掌 下養所部、検 中 察 郡 事 上 の う ち、 人 々 の 生 活 の 安 定 が ど の よ う に 図 ら れ た か、 勧 農が如何に要務であったかを教えてくれる。 l﹃常陸国風土記﹄那賀郡条 自 レ 東 北、 挟 二 河 一 置 二 家 一︿ 本 二 河 一 謂 二 内 駅 家 一 今 隨 レ 名 之 ﹀。 当 二 以 南 一 泉 出 二 中 一 多 流 尤 清 。 謂 二 曝 井 一 縁 レ 泉所 レ居村落婦女、夏月会集、浣布曝乾。 ︿以下略之﹀ m﹃常陸国風土記﹄久慈郡条 郡 北 二 里 、 山 田 里 。 多 為 二 田 一 因 以 名 之 。 所 レ 清 河 、 源 発 二 山 一 近 経 二 家 南 一 会 二 慈 之 河 一 多 取 二 年 魚 一 大 如 レ 腕 之。 其 河 潭、 謂 二之石門。慈樹成林、上即幕歴、浄泉作淵、下是潺湲。青葉自 飄 二 之 蓋 一 白 砂 亦 鋪 二 之 席 一 夏 月 熱 月、 遠 里 近 郷、 避 レ 暑追 レ涼、役膝携手、唱筑波之優曲、飲久慈之味酒。雖是人 間之遊 一、頓忘塵中之煩。其里大伴村、有涯。土色黄也。群鳥飛 来、啄咀所 レ食。 郡家にはまた、調庸物などの生産に関わる現業の場もあった。浜 松 市 伊 場 遺 跡︵ 遠 江 国 敷 智 郡 家 関 連 ︶ 出 土 の 布 の 荷 札 木 簡︵ ﹃ 伊 場 遺跡総括編﹄ ︹浜松市教育委員会、二〇〇八年︺四〇号︶ 、滋賀県西 河原森ノ内遺跡︵近江国野洲郡家関連︶出土の布の帳簿様木簡︵滋 賀 県 立 安 土 城 考 古 博 物 館﹃ 古 代 地 方 木 簡 の 世 界 ﹄︹ 二 〇 〇 八 年 ︺ 二 二 頁 ︱ 一 〇 号 木 簡 ︶、 長 野 県 屋 代 遺 跡 群︵ 信 濃 国 埴 科 郡 家 関 連 ︶ 出 土の﹁布手﹂木簡︵長野県埋蔵文化財センター﹃長野県屋代遺跡出 土 木 簡 ﹄︹ 一 九 九 九 年 ︺ 一 〇・ 五 九 号 木 簡 ︶ な ど に よ る と、 郡 家 で の 布 の 織 成 作 業 が 窺 わ れ る。 ﹃ 万 葉 集 ﹄ 巻 十 四 ︱ 三 三 七 三 番 歌﹁ 多 摩川にさらす手作りさらさらになにそこの児のここだかなしき﹂な どによると、布生産には女性が関与したことが考えられるが、屋代 木 簡 の ﹁ 布 手 ﹂ は 男 性 名 で あ り 、 男 女 と も に 徴 発 さ れ た の で あ ろ う ︶₂₅ ︵ 。 lの曝井やmの石門はいずれも郡家から離れた地点にあり、布の曝 乾施設や労働の辛苦のつかの間の休息となるような場所が郡内に散 在し、かつ郡家の掌握下にあったことが知られる。 出 雲 国 は 布 製 品 で は 絹 を 出 す こ と に な っ て お り︵ 表 3︶ 、 養 蚕 の 管理が必要であった。九世紀中葉のものであるが、石川県加茂遺跡 出土の牓示札木簡には、農作業への専念とともに、 ﹁一可 レ制无 二 桑原 一養蚕百姓状﹂があり、郡符という形で、郡内に指示が下され て い た。 十 二 世 紀 前 半 の 半 井 家 本﹃ 医 心 方 ﹄ 紙 背 文 書﹁ 国 務 雑 事 ﹂ に も、 加 賀 国 司 へ の 報 告 事 項 の 中 に﹁ 綾 織 事︿ 錦 綾 ﹀﹂ 、﹁ 八 丈 絹 事

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