「
六
大
法 身
」
に
お
け
る
大
日
如 来
に
つい
て
西
川
秀 純
1
は じめ に六
大法 身
なる語句
は興
教 大 師覚
鑁(1195 − 1143)の 『五輪
九字
明秘密釈
』1)(以 下 『五輪 九字』)に は じめてあ
らわされ るもの で、『五輪
九字
』 では大 曼荼羅
・ 三昧耶 曼 荼 羅 ・法 曼 荼羅 ・羯磨 曼 荼 羅の 四種
曼荼
羅に法界曼荼羅
を加 え、自
性 身
・受
用身
・変化 身
・等
流 身の 四種 法 身に法界身
を加 える事
を明か し、 こ の法界 身 ・法
界 曼荼羅 が 六大 法 身である と説か れ て い る。 こ の六大 法身
が後
に聖 憲(1307 − 1392)に よっ て 『大
日経
疏 百 条 第三 重』(以 下 『大疏 第三 重』)の第
1
番 目の 論題 と して用い ら れ るの で ある。 『大 疏 第三 重』 と は、 同 じ く聖憲 の 著作
で ある 『大
日経疏百条第
二 重』(以下 『大 疏第二 重』)の 内容 か らさ らに問 題 点 を明確
に した もの で、 初重
・二 重の 問答
に第
三重の 問答
を加 えて い る。 こ れ ら は題名
の 通り 『大
日経
疏』 の 「住 心 品」 に対 する問題点
を選出 し、 疑義
100
条
に よっ て構 成 されてい る。各条
の論
題 に対 して 、 それ ぞれ問難 答釈 に初重か ら三 重の 問答を設 け、 三重 に至 っ て 決 択 するの である。 本研 究はこ の 『大
疏 第三重』 「六 大 法身
」 の内容
を もと に大
ロ如
来を検 討 する。2
「六大 法 身」概 略『
大疏第
三 重』 とは先に示し た通 り 『大
日経疏
』 の 「住 心 品」 を引用 し、論
拠 として問答 が な され るの であ
る が、 この 「六大法
身
」 は 『大疏第
三重』 における他
の論
題 とは異 な り、弘 法 大 師の 『即身
成仏義』Z)を論 拠 とし て論 義 されてい く。まず、
初
重の難
で 『即 身義』 を引い て 「六大
を もっ て能
生 と な し、 四法 身 ・三種
世 間をもっ て所
生 となす
。 この 所生 の法
は、 上、法身
に達 し、 下 、智 山学報第五十八輯 六道に及ぶ まで、
麁細
隔てあ り
。大小差
あ りとい えども、 しか もなお 六大
を 出ず。故
に仏、 六大 を説
い て法界体性
となしたもう
」 という箇所
を論拠
と し て、 こ こで 言う法身
とは大
日如来
であ
るか否
か を間者
が問い 、答
者は大日如 来で はない と論
じる。続
い て 二重の難に て間者…先 ず、間者は両 方とい う
2
つ の 立場 を取
る。『十住 心
論
』3) 『秘蔵
宝鑰
』4)を根拠
に大
日如
来 と は 四種曼荼 羅
の 仏である。 仏
身
とは四種
法 身で ある事
か ら大
日如来
を自性 法身
、仏界
を法 身
とい
う
として 「法身
」 と は大 日如
来で あり
、 こ の よう
に大
日を四曼に属す
事
か ら法 身と は大日如 来で ある。真
言宗
の教義
は大日如 来を諸 法の 根 源 とな し、 六大
で ある こ と か ら大 日如 来で は無い 。これ に対 して
答者
は答者
…あ くまで も 『即身義
』 にある 「法身
」 と は、大
日如来
ではない との立 場 を改めて
示
し、大
日如来
と は諸尊
の能造
とし て の 総体である。つ ま り 、 こ こで い
う
「法 身
」 とは 四種 法身
の 中の 一法
身 を指 す 。 四種法
身の 一法
身
であ る とい う事
は、 別 相の四種 曼 荼羅の 仏である事。 加 えて 、興
教大師
が大
日如来
を もっ て 六大法身
と示 し て お られ る事か らも大 日如
来と は異な り、 所 変の 四曼に大 日如 来がお られ る こ とは
考
えられ ない と論
じる。 次に、 間者
の 立場
であ
るの
答
えにつ い て、・
大
日を四曼に属 す とい う事
の 意 味は、 四曼
と は別相
であ り、大
日如 来は その総
体
である事
の義
・『大日
経疏
』5)を引い て 、 大 日如 来は諸尊の 総 体で ある事
を示 し、 四種
法
身
の 一身
では無
く、 六大の体 性・六
大
の位
にある法
界 曼 荼 羅は六 大の 位で ある と同時
に、 四曼の相を持つ
事
か ら四曼
を通 して法界 曼荼
羅を帰敬
する・『
菩提
心論
』6) 『金剛
峯 樓 閣一切瑜 伽 瑜 祇經
』7)を引
い て 、大
日如
来が総「六 大法 身」 における大日如来につ い て (西 川)
体で その 外に、 四
種法 身
があ り別相
・『金 剛頂 瑜伽三十 七
尊禮
』8)を引
い て四種法身
の自性身
は阿 閼如 来とい っ た ように、
大
日如 来と は興教 大 師が 六大法 身
と示
して い る事。 『大 日経 疏』 の 引用か ら大 日如来
は 諸尊
の 総体であ り、能造
の六大
であ
る との立 場を取
る。 つ ま り、間者が論 拠 と した 『十住
心論
』 の 箇 所は六 大が四曼の体
性である という事
を言 う為
だけ
に、 四曼
に能造で あ る 六大
を加 えた か 、ある い は 『五輪
九字
』 の法界
曼荼 羅 とは六大
の位であ りな が ら、同時に四曼の 相 を有
し てい る。 この事
か ら四曼
を通 して法
界 曼荼羅
を帰敬
してい る事
を表
し てい る もの で ある と答
える。次 に大 日如来 を四
種法 身
の自性 身
で あるとい う事
につ い て、 同じく 『五輪 九字
』 を論 拠 と して法
界身
を挙
げ、 その法界
身 を大 日如来
で あるす
る。 ま た、 同時に 『菩提 心 論』 『秘 経』 を引 き、大
日如
来の 外に四身が あ り大日如 来
は それ らの総体
であ
り、 四身
における自
性身
とは 『金 剛界
礼 懺』 を引い て、 阿 閼如
来である と論 じる。 以 上の 問答
が第二重の 問答
。 第三 重 の問答
で は、問
者
大 日
如来
は相 好具足
の 仏 身で あるか ら能
造で は な く諸 尊の 一身
。 ま して六
大
で ある な ら羯磨形
と して個 別に図画 すべ きで ない 。 六大の位の羯磨
形と四曼に おける羯磨形
は異 なるの か大
日如
来が六 大法身
であると は、 阿閼等
の 四仏の総 体で ある か ら、総
体 とい う
点
で は 六大
同様
総体
である という意味
の六大法 身
。 あ くまで も別の 中の 総、 総の 中の 総で は ない六
大
が 四曼の 中に配する事 も、六 大の 位に四曼が存 在 する事も理解できない 。 六大が総
体
であ り、 四曼
は別 相こ の三重の
難
は大
日如 来の色形
につ い て問答が な さ れ る。 間者は、大 日如智 山学報 第五十八輯 来は
曼荼羅
中台
の尊
であ
る事
か ら、相好
具足の 羯磨身
と して個別
に描
か れて い る事
を根拠
とな し、仮
に大
日如来 が 六大
で ある とす
る な らば六大
の色形
は 四曼の内
の 一曼である はず
の羯磨形
である という事
になる と論 じる。 これ は 四曼の内
の 一曼で あ る羯 磨 形の 仏身
が、 同 じ く四曼の 内の 一 曼で ある 三摩耶 形を造 るとい う事になる。 この事
は認
め る事
がで きず、 四曼 と は六大の所 造 であるの だか ら、 別相
であ る 四曼と六大の色形
は異
なる色形
で なければ な ら ない 。また、 五
種
法身
につ い て は阿閼等
の四仏
に対
して の 総体
で ある事
か ら、 四 仏の 総体
で ある という意味
で 、 一応
六大法身
と名 付け たの で あろう
と示 し、 大日如 来は 四曼の相 を もつ の だか ら別 相の 四曼に おい ては 総体で あるが 、 総体
の 六大 と して 、 総体
の 中の 総体
で は無い と答 える。次に 、
答
者の 六大
を四曼の 中に配 する とい う事につ い て、 仮に そう
だ とす る と 『十 住 心論
』 の本文
におい て解 釈が為
され る はず
であ
る と し、 ま た、 六大
の位
に四曼がある という
事
につ い て も三大
に おける相大
の 四曼との 違い は どこ にあるの か理解で きず
、 六大
は総体
であ
り四 曼は別 相で ある と改
めて答
え
る。答
者…、
、
に対し て
・『五輪九
字
』 を引い て、 四身の外に法界身
あ り、法
界身
は大日如 来・『即
身義
』9) 『大日経 疏』 を引
い て 、 六大
は大
日如
来・ 人法一致を主張 し、六
大
と一致
する人格
を大
日如 来・ 胎 蔵 曼荼 羅の
大
日如
来は総体
と別 相 の 意 味 を明らかにするた めに仮 に諸 尊に対 して一
身
を図 画した もの で、 諸尊
全て 大日如 来・ 一切の 色 形は四
種曼荼
羅に尽 きる・六大は
挙
一全収
であ り、 六 大の位は 一切の 色形等
の諸相 を合わ せ も ってい る。 こ の諸 相は こ とご と く四
種
曼荼
羅 を構 成 する答者
は 『五輪 九字
』 を改
めて引
き 、大
日如 来は六大 法身
で ある と答
える。 次に 『即 身義
』 の箇所
を引 き 、 六大と は法界体性智
で あ り、法
界体 性 智と は「六大法 身」 における大 日如来 につ い て (西 川 )
大
日如
来で あ る と六大
が大
日如
来で あ る とする。これ に加 え、 人
法
一致を例に挙
げ 、 存在
を存在
た ら しめ る法 を六大、 そ れ に一致
する入格
を大
日如
来で ある と示 し、 間者
の考
えでは法体
で ある六大
に 一致す
る人格
と して の仏身
が無い と主張す
る。また、 中
台
の大
日如来
につ い て の答
えと して 、 た しか に個
別的存在
と して描
くべ きで は無
い が 、 総 体 と別相の意
味を明らか にするため に仮に諸尊
に対 する仏身
と して図画 して い るの であっ て、 諸尊
は全て大
日如来
で ある とする。 次 に六大の色 形につ い て 、 『五輪九字』 10)を引き 、 六大には色形が あ り、 一切 の 色 形は四曼に尽 くさ れ てい る。 六大の 色 形は挙 一全収であるか ら 、 ある 一 相 を挙 げれ ば諸相は悉 く一相と なる。 よ っ て、 六大 には 一 切の 色 形等の諸 相 があ り、 その諸相
が 四曼
を構
成 して い る。 この事
か ら、間者
の示
した羯磨
形 と三摩耶
形の関係性
を論
じる。 次の 難で 、 問者あ くまで も六大は諸 法の 根 源であ り、和 合 共 成の 意味は無い 。 羯磨 形 は方 円、 青黄 等の 色 形によ っ て成立 する こ とか ら和 合 共成。 よっ て大 日は四曼の 仏
答者
・
の 羯
磨
形は四曼の 羯磨
であ り、 六大
の羯磨
は和合共成
で ない 。大
日如
来は唯一の 人 で あ り、 諸縁 に よっ て成 立 してい る 四曼とは異 な り、自
然にその相が ある 間 者 は、 六大 には和合共成の 意味は無 く、羯磨 形は方円 、青 黄等に よっ て 成 立 し、和合共
成 してい る。 こ れ は 四曼
の 相である事
か ら大日は四曼の仏で ある と論 じる。対 して
答者
は、 間者の いう
羯磨
形と は四曼の羯磨
形で あ り、諸
々 の縁 によ っ て成
立 してい るが、 六大位
にある羯磨
形は 自然に その 相 が あ り、大
日如来
が唯一の色
であると して 、 四曼の色形
とは別
の羯磨形
が有る と論 じる。 こ れ に対 し、智 山学報 第五十入輯
間者
大
日如来
の顕色
、形色
は四 曼であるか答
者・四曼の 顕色、形 色で は ない 。 一切の 色 形は六大にあ り、法
界
曼 荼羅間
者
は大
日如
来の 顕 色、形
色は 四曼
で あるの か否
か を問 い 、答者
は四曼
の顕色
、形色
で は ない と、前
の答
え 同様
、 その根拠
を四曼
の顕色
、形色
で は無
く、 一切の色
形は六大
で あ り 、法界曼
荼 羅であるか ら、羯磨
形 を挙
げれば諸 相 を挙
げて い る事
と同様
であ る とする。 最後の 難と して、 間者・六
大
の立場か らい うと、 海 会の諸尊
はこ とご と く六大の尊なのか、 そ れ と も大日如 来の み を六大と して、 諸尊は 四曼の尊とする のか間者は、 六 大の 立場 か らい
う
と、 海 会の 諸尊はこ とご と く六 大の尊
なの か、 そ れ と も大
日如
来の みが 六大
であり
、 諸尊
は四曼
の尊
であるの か否
か を問 う
。答者
・どち らともい える。 曼 荼 羅で は大日如 来 を海 会の 総体 と して中台に配置 し、諸 尊は所 造の 四種 曼 荼羅の 意 味 を表 して
各
々 の姿に相 違がある。しか し、 海 会の 諸
尊
は皆大
日如
来である事
か ら、 こ とご とく六大法 身
である。 諸 尊の 体は皆六 大 法 身で あ り、 四曼は
各
々 の 諸 尊に存 する別 相。各尊
ご と に 四曼
があ り、 三密 はその働
き。新
義真
言教学
で は、 浅略
釈 と して、大
日如
来は普
門の総体
、 諸尊
は 一 門の
尊体
。第
二重は大
日如
来が人々 の救
済の た め に各
々 の三昧に住 する事
を諸 尊。 第三重は 、諸 尊 全 く大 日如 来であるた だ し、 三重の
釈
は教相
の談義
では教
示 すべ きで ない最後
の難
につ い て 、答者
は どち らと も言
える と答
える。曼荼
羅におい て大
日如
来は海会
の 総体
と しての意味
を表す
た めに中台
に配置
さ れ、諸尊
は所造
の四種曼荼羅
の意味
を表す
た め に各
々 の姿
に相違
がある。 しか し、海会
の 諸尊
は皆大
日如来
で ある事
か ら、 こ とご とく六大法身
で ある。 この ように諸尊
「六大法身」 における大日如 来につ い て (西 川) の
体
は皆
六大法身
である か ら、 四曼
は各
々 の諸尊
に存
する別相
がある。 こ れ は各尊
ご とに四曼
がある という事
で 、 三密
は その働
きを示 す。新義真
言教学
で は、 浅略釈
と して、 大 日如 来は普 門の総体、 諸 尊は 一門 の 尊体。 第二重は 大 日如 来が 人々 の救 済のため に各々 の 三昧に住 する事を諸 尊。 第三重は、諸 尊 全 く大 日如 来で ある と論じる。 ただ し、三重の 釈につ い て は教 相の 談 義で は教示
して はな ら ない とす
る。3
体大
・相大
に お け る大
日如来
につ い て続
い て、 こ こ まで見
て きた 「六大法身
」 の内
容か ら、 大日如 来とはい かな る仏 とみ る事がで きる の か を考 察してい く。・
体
大に お け る大
日如
来答 者の 立場 であ る大日
如
来 を体大
であ る と して見た場合、 「六大法身
」 の 中で も答者
の 主張
の根拠
として用い ら れてい る、 『五輪 九 字』IQ ) 、 『菩提 心 論』 より、 答 者の い う大 日如 来は諸 法の 根 源で あるとい う事が い える。 また、 四種法 身
と は別に法
界身
を立 て る ことで、 大 日如 来を能造の 六大で あ り、 四身
と は別で ある と考 え
る事
がで きる。 よ っ て この 立場 か ら大日如 来 を見 ると諸 法の根 源 と しての 六大である大
日如 来 をみ る事
が で きるの である。・
相大
における大
日如来
相 大の 四 曼の大 日如 来を考える と、 先 ず、 間者が根 拠 して用い てい る相
大
の大 日如 来につ い て は、 間者が論 拠 と して 示 して い る 『十 住 心 論』 『秘 蔵 宝 鑰』 よ り考 え られ る。 四曼の 中に大 日如 来 を挙 げ、 六大 と四曼を別々 に帰 敬 して い る事
か ら大 日如 来は四曼の 仏で ある と考 えら れ、 こ れ は曼荼 羅に おい て色 形が ある という
点か らも大 日如 来は四曼の 仏で ある と見る こ とが で きる。 また 、真
言宗
で は四種法 身
におい て自
性身
を大
日如来
とする事
を間者
は示 し、 『五輪
九字
』、 に説
か れ る法界身
は別相
の中
の 総体
を明
かす
もの で 、 総の 中の 総である 六大
とは異
な るとして い る。・
体大
・相大
にお ける大
日如
来この よ
う
に間者答者
の立場
か ら総体
の 中の 総 としての大
日如 来、別相の 中智 山学 報第五十八輯 の
総
と して の大
日如来
をそれ ぞ れ考
えて きた。 こ れにつ い て の解釈
と しては答者
によっ て大
日如来
は法
界身
で あ り、 六大法 身
。 四種法 身
にお ける自性 身
は阿 閼如 来
で あるけれ ど、 『大
日経疏
』 に 厂乃 至世
天等
は悉
くこれ毘盧
遮 那 の 已体な り、 何ぞ浅深の別 あらん や」 とある よ うに、 諸尊
の根 源であると解 釈で きる。 四曼の大日如 来は随 一 の仏で は無 く、 諸尊
の根 源。 人法 不二 を用 い て解 釈で きる。 ま と め「六
大法 身
」 では 『即身
成 仏義
』 の 「か くの如
き経文
は皆
六 大 をもっ て能 生 とな し、 四法 身三種 世 間を もっ て所生 と なす。 この所生 の 法は、 上、 法 身 に達 し、 下、 六 道に及ぶ まで 、麁
細 隔て あ り。 大小 差 あ りとい えども、 しか も六大
を出ず
。故
に仏、 六大
を説
い て法界体
性と な した もう
」 の箇所
を論難
の根拠
とし、 間者
が難
をなす
。こ の
答
え として は大
日如来
に非ず
という答
え をも
っ て決択す
る。 ・「六大 法 身」 か ら解 釈で きる大日如 来 諸 法の 根 源である大日如 来とは、 自然に して唯 一の 色であ り、 四曼に おい て図画さ れ る大日如 来 とは、 四曼 を通 して 興教 大 師の 示さ れた法界
曼荼 羅 を帰敬す
る という事
である。 いず
れの 諸尊
も皆大
日如来
であ
り、 この法界曼荼
羅 と は 六大の位 に し て、 同 時に四曼の 相を有 して い る。 よっ て 、 大 日如
来は 随一の 仏で無 く
、 色形
に関
しては挙
一全収
、諸尊
の総体
、能造
の六大
で ある。 また、 四種法 身
の自性 身
と して説か れる大
日如来
につ い て は、自性 身
は 阿 閼 如 来で あ り、大日如 来は法 界 身である と してい る。 しか し、阿 閼如 来と大 日 如 来は異 なる事は無 く、阿 閼如 来 もまた大
日如
来である。以上 、 こ こ まで 『大 疏
第
三重』 「六大法身
」 の 内容
よ り大
日如 来
を考
えて きた わけで ある が 、 『大疏第
三重』 に おい て なぜ 、 「六大法身
」 の み が 『大
日経疏
』 で はな く、 『即 身義
』 を論拠
としてい るの か。大
日如 来
の色形
の問題 か ら考
える無相
・有相
。法 身説法
の問
題。 「六大法 身
」 の 中で答 者
が 四種 法
身
の 大日如
来 を否定
したこ と に より四種法 身
に関 する一応
の答
えはみ る こ と「六大法 身」 にお ける大日如来につ い て (西 川) がで きた が、 『
弁
顕密
二経論
』 にある四種 法身
との 問題。法身
説法
の 問 題。 と多
くの研究
テーマ を残
す結 果と なっ て い る 。 注 1)『五輪 九字明秘密釈』(『大正蔵』
79
・1
頁 c)以降 『五輪九字』 復 次 法身有五種。 前四身并法界 身故。 曼荼羅有五種。 前四曼加 法界曼荼羅故。
聖位經偈日。 自性 及受用。 變化并等 流。 佛 徳三十六。 皆同自性身。 并法界身故。
成三 十七也。 又禮懺經。 自性身外立法界 身。 依此 等證文。 四身之外有 法界身。 法 界身者六大法 身。
2
) 『即 身成仏義』(『弘法大師 全集』 1 ・511
) 以降 『即 身義』如此經文皆以六大爲 能生。 以四法 身三世間爲所 生。 此 所 生法上 達法身下及六 道。 雖麁細有 隔大小 有差。 然猶不出 六大。 故佛 説六大爲 法界體 性。
3
) 『秘密 曼荼羅 十住 心論』(『弘法大 師全集』1
・125
) 以 降 『十住心論』歸命婀尾羅陶欠
最極大祕法界體
舸 遮 旺多婆埜 慧
暇 汚 哩嘘翳等持
制 體幢 光水 生貝 五鈷刀蓮軍持等 日旗華觀天鼓渤 薩寶 法業 内外 供 捏 鑄 刻業及威儀
能所 無礙六丈夫
如是 自他四法身
法然輪圓我三密
天珠渉入遍虚空
重重無礙 過刹塵 奉天恩詔述祕義 驚覺 群眠迷 自心 平等顯證 本四曼 入我 我入莊嚴 徳 4) 『秘 蔵宝鑰』(『弘法大 師全集』
1
・419
) 歸 命金 剛 内外 壽 離言 ・垢過 ・等空 ・因 作遷慢 如 眞乘 寂 制 體 籏 光蓮 唄 仁日幢華眼鼓 勃駄
金寶法 業歌舞 人
捏鑄 剋業威儀 等
丈夫無礙過刹塵
我今 蒙詔 撰十 住 頓越 三妄入 心眞 寰霧見 光無盡寶 自他 受用日彌新 轅祖 求伽 梵 幾郵 到本床 如來 明説 此 十種 入金場 巳聽住 心數 請開彼名相 心名後明列 諷讀 悟迷方
5
) 『大 日経疏』(『大 正蔵』39
・649b
) 乃 至 諸 世 天等。 悉是毘盧 遮那。 何 有淺深之別。6
) 『金 剛頂瑜伽 中發 阿耨多羅三藐三菩提心論』(『大正蔵』32
・574c
) 以降 『菩提心 、 論』 大毘盧遮那佛。 自性身。 受用身。 變化身。 等流身等流身。7
) 『金 剛峯樓閣一切 瑜 伽 瑜 祇 經』(『大正 蔵』 18 ・254a) 以降 『秘経』 以 五智所成四種法 身。8
) 『金 剛頂瑜伽三十七尊禮』(『大正蔵』 18 ・337a) 以降 『金 剛界礼懺』 南慕 清淨法 身毘盧遮 那佛。 南慕金岡堅固自性 身阿閼佛智 山学報第五十八輯