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世紀東 アジア 漂流民送還体制 と 日本 18

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(1)

『人文コミュニケーション学科論集』10, pp. 139-143. © 2011

茨城大学人文学部(人文学部紀要)

糟谷 政和

1.

はじめに

 津軽郡石崎村の船頭治右衛門と3名の水主が乗った津軽船は、宝暦6年

[1756] 4月11日(以

下、日付はすべて旧暦)に出羽の酒田に向けて蝦夷地の松前を出航した。しかし同月13日に 海上での強風と大波のため方向不明となり、幸い転覆・破船はまぬがれたものの日本海を西 方へ漂流状態で航行して行った。この津軽船は同年5月4日になって、朝鮮半島の中部東側の 江原道という行政地域にあった江カンヌン陵という場所の海岸に無事漂着した。17世紀中頃の当時の 江戸幕府と朝鮮王朝との間にはすでに双方の漂流民送還体制ができていたため、その後、こ の漂着した津軽船乗員4名は鄭重な扱いを受け、最終的には当時釜山の倭館に滞在していた 対馬藩役人によって送還され、同年12月6日に大坂津軽藩屋敷に到着することができたので ある。筆者はすでに、享保10年

[1725] 8月に14名乗組の船が蝦夷地の松前を出航後、海上で

の暴風雨により日本海を漂流して朝鮮江原道の三陟という所に漂着し、その後送還されて翌 享保11年

[1726] 4月に無事大坂に到着した事例を検討した

注(1)

。本稿では、同様に17世紀の日本

船の朝鮮への漂着と送還の事例として、上記の津軽船の朝鮮江原道の江カンヌン陵への漂着と送還に 関する史料のいくつかを検討してその実態解明の準備作業としたい。

 なお津軽郡石崎村は、青森県東津軽郡平舘村石崎であるが、現在合併して外ヶ浜町平舘と なっている。

2 .宝暦 6

1756

津軽船の朝鮮江原道江陵への漂着と送還

この津軽船の漂流と朝鮮への漂着そして対馬藩を通じた日本への送還経緯は、宝暦6年

[1756] 12月6日に行われた大坂津軽藩御屋敷での取調での尋問と回答にもとづき作成された

提出された書付=口上書(「奥州津軽郡石崎村船頭治右衛門船、朝鮮国え漂着の儀、相尋ね られ候に付き差出し書付」、いわゆる「津軽船朝鮮江陵漂着記」)注(2)によってやや詳しくまとめ るとつぎのようなる。

宝暦6年

[1756] 3月21日に津軽郡石崎村(青森県東津軽郡平舘村石崎であったものが、現

在合併して外ヶ浜町平舘となる)の船頭治右衛門と水主3人の合計4人乗船の船は、津軽藩御 用のため石崎村を出航して、出羽の酒田に向かった。しかし、風向きがよくなく蝦夷地の松 前へ寄って風待ちをし、同年4月11日に酒田に向けて松前を出航した。しかし同月13日に海

(2)

上での強風と大波のため漂流し始めた。

4人の乗った津軽船はその後漂流し続け、ようやく5月4日になって船頭治右衛門と水主3

人の合計4人乗船の船は朝鮮江原道の江カンヌン陵の海岸に漂着した。その後5月7日に船で1里ほど の所へ移動し当地に30日ほど滞在した。さらに6月10日には4人が乗ってきた船に再び乗船 して曳航する船と護衛船とともに江陵を出発し南下した。6月20日には江原道と慶尚道の境 界に到着した。ここで江原道からの護送任務の人々から慶尚道釜山牛ウ ア ン ポ岩浦(前掲の山下恒夫 再編集『石井研堂コレクション 江戸漂流記総集』では、「午岩浦」となっている。下線は筆 者による。)から請け取りに来た人々へと津軽船乗組みの4人の警護の交替があった。この牛 岩浦からの人々の中に中に日本語を話す朝鮮人通詞(通訳)がいて意志疎通ができた。6月

24日牛岩浦に到着し、対馬藩の役人とも対面した。この牛岩浦に朝鮮の警護のもとしばら

く逗留した。

ようやく10月15日に漂流民の乗った津軽船は、倭館から来た対馬藩の案内の役人20名程 と3隻の船とともに牛岩浦を出発して、同日夜に対馬の佐さ す須奈に到着した。10月19日に佐須 奈御関所で厳しい取調をうけた。10月20日に佐須奈を出発して金の浦(琴の浦)に到着した。

10月21日に金の浦を出発して同日府中(厳原)に到着した。10月29日府中で再度取調があり、

漂流顚末等を記した口上書の内容に間違いがないかを確認した。閏11月4日に漂流民の乗っ た津軽船は対馬府中を出発したが、府中から大坂までの対馬藩使者の乗った御使者船が同航 した。

閏11月28日に摂州兵庫に到着した。12月4日に大坂木津川口に到着した。同月6日に大坂 対馬守様御屋敷へ行き、さらに大坂町奉行所へ行き、その後大坂津軽藩御屋敷へ行き取調の 後、御長屋に落ち着くことができた。

津軽船の漂流と送還の経緯については以上であるが、この「津軽船朝鮮江陵漂着記」の内 容を通じて、当時日朝漂流民送還の諸側面について理解することができ、すでに韓国でも検 討されている注(3)

。ここでは漂着した地で出会った日本語のわかる人物について検討したい。

「津軽船朝鮮江陵漂着記」6月7日条に、ソウルから来た日本語のわかる人物と出会ったこ

とが語られている。

一、六月七日午うまの刻こく

〔昼十二時〕頃、前

まえかた方に見かけ候二十ばかりの衣冠の唐人一人、上 下四十人ばかりにて、窟炉の前へ参られ、番人へ何やら申され候、私共いかゞと伺ひ居 り候処に、召連れ候唐人の内に、外々よりは衣装も宜よろしく、人体も格別能く見へし候唐 人一人、窟炉の戸を開き候て、その方達は、何い づ こ国の人、何の為めこの所へ参り候哉、と 申され候に付き、私共大きに動転仕り、これまで日数の間、幾千人となく大勢参られ候 唐人に、日本の詞ことばを申し候者、一人もこれ無く候処に、かくのごとく申し候は、神仏 来らいりん

臨と有りがたく存じ奉り、この時初めて人心地申し候故、(以下略)(同書、265頁)

(3)

津軽船漂流民は、この日本語通訳への質問を通じて、津軽船が漂着して現在自分たちが滞 在している国が「朝鮮国」であると理解できたことがわかる。

さて、この御お く に国は、何と申す御国にて御座候哉

、と尋ね申し候へば、これ朝鮮国と申す

国にて候、と申され候に付き、さてはこの国、始めて承り候、その後、私共申し候は、

これまで数百人、数万人の御出で候へども、その元もとさまばかり言葉通じ、大きに力を得申 し候、この間より段々と御介抱成し下され候儀、有難き仕し あ わ合せ、御礼申すべき様も御座

なく候、(以下略)

(同書、265-266頁)

またこの日本語通訳は、当時の朝鮮では朝鮮通信使を通じて日本事情に関する知識を得て いることを語っていた。

我等三使〔朝鮮通信使の三臣、通信正使・同副使・従事官〕、日本へ渡り候故、京、江戸、

大坂へも参り候ゆへ、津軽、松前の事も能く存じ居り申し候、各か く じ事、嘸さぞこれまでは、言 葉通じ申さゞるに付き、大いに難儀致さるべく候、今日相改め候趣き、国主へ申し上げ 候へば、相済み申すべく、左候はゞ、ほどなく日本へ御返し成さるべく候間、少しも気 遣ひ致すまじき旨、懇ねんごろに申し、旅宿へ帰られ候、私共は、窟炉に入り休息仕り候、こ の判事、委細申され候に付き、先づは何なにかど角の儀、互ひに申し承り候に付き、少々は心も

落付き申し候事、

(同書、267頁)

 そしてこの日本語通訳は都(ソウル)から派遣された者であることがわかる。

この判事、能く日本へ通じ申し候に付き、何

なにかと角問尋の義の為め、朝鮮洛らくよう陽〔ソウル〕

より態わざわざ々遣はされ候由に御座候、併しかしこの人の申す言葉も、聢しかとは聞き取りがたく御座 候、私共申す詞も、判事聞き取りがたく御座候と相見え、再三尋ね申さる事共、とくと 申し聞け候へども、不心得成る体成る義〔漂民たちの語る津軽弁が判事をとまどわせた のであろう〕、多く御座候、(以下略)

(同書、267頁)

3 .宝暦 6

1756

津軽船の朝鮮江原道江陵への漂着と送還に関する朝鮮側史料

つぎに、この津軽船の漂流と朝鮮への漂着そして対馬藩を通じた日本への送還に関する朝 鮮側の一史料について検討したい。まず江陵に漂着した津軽船に関する情報を対馬藩へ伝達 した史料として『同文彙考』につぎのようにある注(4)

(4)

礼曹参議押還漂倭書

云云緬惟即辰啓居清裕、膽 亡已獲接東莱府使申牒、本年五月初四日貴国人船隻漂到我 江原道江陵府境、使舌官問情、則俺等四人倶以奥州津軽土佐守所領之民、為貿草持路文 同騎一船、今年三月二十二日自本土発向松前島、四月十一日転進前路、猝遇大洋狂風出 没死生漂盪二十余日、糧饌告絶飢困忒甚、方在垂尽之境、五月初四日漂到江原道江陵地、

幸被救済得以生活云云、茲将各人等 加撫恤資給衣糧并順付帰船、仍此委告統希崇亮不 備 丁丑年 月 日

 この礼曹の書簡に対する対馬藩の感謝の意を表した書簡は、やはり『同文彙考』に次のよ うにある注(5)

   島主謝書

云云向獲華翰宓惟貴国清寧無堪欣忭緊、本邦奥州津軽居民一船四名、客歳漂到貴国江原 道江陵府境、幸蒙優恤且給絮廩附、吾館主送達、弊州乃啓東武嘉歎有余、若非隣誼之篤 争獲還於故土、謝悰 尽緒余在价舌不腆土宜、聊表微忱只希叱納更祈順序珍嗇粛此、不 備 宝暦七年丁丑四月 日 別副、

粋鑞大清皿十箇、彩画有趺中円盆十箇、彩画五寸匳

鏡二面

 一方、江陵への津軽船という日本船の漂着当初、朝鮮王朝での議論の中では、依然として 日本に対する警戒心が語られて、水路で東海岸沿いに回送してゆくことによる海路情報の漏 洩を防ぐため、漂着した4人を陸路で釜山まで送ることに5月16日に決まったことが、つぎ の『備辺司謄録』の関連記事からわかる注(6)

今年五月十四日薬房入 診、領左相、向管堂上同為入 待時、領議政李 所 啓、此乃江 原監司韓光肇状 啓也、因江陵府使李顕重牒報、以為、倭船漂到、而只有倭人四名、故 善待安接之意、自監営論題以送刑止、為先馳 啓、倭人問答手書小紙、并為上送矣、此 是関係辺政、下送倭訳問情、而因其船、給粮回送、何如、行司直韓翼誉曰、勝国時倭船、

嶺東諸郡、無処不到、入我 朝絶無、或言水路変遷而然矣、因其船回送、使倭人習知水路、

有非厳護海防之意、臣謂、焚其船、而由旱路起送、則可以懲後、而亦合於厳海防之道矣、

李 曰、宰臣之言、誠有意見、以旱路還送、亦好矣、

上曰、依為之、

 しかしその後、漂着日本船乗員海路送還の前例としての「乙巳例」、つまり享保10年

[1725]

に江原道三陟に漂着した日本船乗員を海路送還した事 例注(7)に基づき、今回の江陵への漂着日 本船乗員を海路送還することに5月23日に再決定したことが、つぎの『備辺司謄録』の関連 記事からわかる注(8)

(5)

又所 啓、江陵漂倭、以焚其船隻、従旱路護送之意、定奪矣、更見江原監司状本、則乙 巳年漂倭、仍乗其船、従水路還送云、既有前例、則一依乙巳例、自本道別定奪差員、給 粮資送、似好矣、左議政金 曰、自嶺東到東莱、次次定差員護送、当如乙巳前例、分付 東・南道臣、使之依此挙行、為宜、而至於問情、則不可用乙巳之例、当於江陵未発船之 前、趂即為之矣、

上曰、依為之、

4.

まとめ

 今後は、18世紀に朝鮮半島東海岸へ漂着して送還された日本船乗員の送還までの朝鮮での 取り扱い等の詳細をさらに明らかにするとともに、送還された日本船乗員の日本での取り扱 いやその後の生活等についても明らかにしてゆきたい。

( 1 )

拙稿「

18

世紀東アジア漂流民送還体制について」『茨城大学人文学部紀要コミュニケーション学科 論集』第

9

号、

2010

9

月。

( 2 )「津軽船朝鮮江陵漂着記」(山下恒夫再編集『石井研堂コレクション

江戸漂流記総集』第

1

巻、日本 評論社、

1992

年、

253-284

頁)。

( 3 )朴慶洙「東海を中心とした韓日間の民間交流− 18

世紀日本人の江陵漂流について」『わが文化』

1 、

江陵わが文化研究会、

1994

年、[韓国語]

( 4 )『同文彙集』附編、巻 35 、漂風(国史編纂委員会、 1978

年、韓国、

2455

頁)。

( 5 )同上。

( 6 )『備辺司謄録』英祖 32

5

16

日条(国史編纂委員会、

1982

年、韓国)。

( 7 )前掲注 ( 1 )

参照のこと。

( 8 )『備辺司謄録』英祖 32

5

23

日条(国史編纂委員会、

1982

年、韓国)。

参照

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