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朝鮮半島のヘゲモニー競争がもたらした産業技術の脆弱性

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(1)

朝鮮半島のヘゲモニー競争がもたらした産業技術の脆弱性

1.はじめに

 2004 年には 244 億 4300 万ドルであった対日貿易赤字は、2005 年は 243 億 7600 万ドル、2006 年は 253 億 9200 万ドル、2007 年は 298 億 8000 万ドル、2008 年は 327 億 400 万ドル(約3兆円)

と、増加を続けている

1)

。対日貿易赤字が生じる最大の理由は、日本から輸入されるものが多 すぎるからである。日本からの代表的な輸入品として、鉄鋼版、半導体製造装置(韓国の国産 化率:20%程度)、プラスチック製品、光学機器などが挙げられるが、所謂「中間財」と呼ば れる製品である。韓国の貿易構造は輸出が増加すれば増加するほど、中間財の輸入も増加する パターンであるが、日本から輸入されるものの内、70%以上が中間財である。このように、韓 国は中間財の国産化率が低く、核心部品技術の脆弱性が問題視され続けている。なぜ、韓国は 中間財産業が弱いのか。本稿は、朝鮮半島におけるヘゲモニー競争がその最大な要因をもたら したと考える。

 朝鮮半島は新羅の統一以来、高麗、朝鮮といった単一国家体制が 1300 余年間も続いたので、

Competing initiatives on the Korean Peninsula and the vulnerability of industrial technology

− Focusing on the 1970s of South Korea − 趙     承  勲 *

CHO Seunghoon

 2008 年、韓国の対日貿易赤字は 327 億 400 万ドルと増加を続けている。その最大の要因 として、韓国の中間財産業が抱える技術の脆弱性が指摘される。本稿では、朝鮮半島にお けるヘゲモニー競争が中間財産業の脆弱性をもたらしたと考え、1970 年代を中心に韓国 の防衛産業育成戦略の落とし穴を追究した。当初、韓国は防衛物資の核心部品は生産せず、

日米等の先進国からの輸入に頼りすぎ、防衛産業における基盤技術が造成されなかった。

防衛産業のみならず一般産業においても核心技術を造成・振興させる措置は取らないまま、

大企業における最終財(防衛物資の完成品)の大量生産だけが経済成長戦略あるいは防衛 産業育成戦略を成し遂げる要であると過信した。それ故に、今日では防衛物資のみならず、

鉄鋼、半導体、家電製品など、輸出主力商品の中間財の大半を日本などの先進国に頼らね ばならないジレンマに陥っている。

キーワード:朝鮮半島、貿易依存度、ヘゲモニー競争、中間財産業

−1970 年代の韓国を中心に−

2011 年3月7日受理   * 尚絅学院大学 非常勤講師

 1)2009 年 10 月6日、韓国・知識経済部が国会知識経済委員会所属議員に提出した国政監査資料による。

(2)

永い歴史のスパンで考えると、今日の分断状況は高々 60 余年に過ぎない。しかし、朝鮮半島 の統一を考える際には、以下のことを見落としてはいけない。朝鮮半島は朝鮮戦争を機に東西 冷戦のシンボル的地域となり、朝鮮半島を巡る東西陣営と歩調を合わせねばならず、南北コリ ア共に東西陣営の言いなりになる傾向が強かった 60 余年でもあったこと。アメリカが日韓両 国間と結んだ安全保障条約は東北アジア地域におけるアメリカの世界戦略を支えるものであ り、韓国にとって日米両国は欠かせない同盟国であったこと。北朝鮮の場合、中国外交政策の 転換はあったものの

2)

、この 60 余年間一貫して中露との伝統的な友好関係を維持してきたこ と、などである。したがって、朝鮮半島における統一への道のりはその主体である南北コリア に留まらず、周辺諸国の利害関係にまで絡んでいる険しい旅程でもあったといえる。

 朝鮮戦争以後、梗塞状態の朝鮮半島情勢が 2000 年の南北首脳会談を機に一変したものの、

2007 年末に韓国側に保守派政権が再登場することによって再び熾烈なヘゲモニー競争に火が 掛けられている。筆者はヘゲモニー競争の激化は朝鮮半島の永久分断を促す恐れがあると推察 するが、ここでは直接この問題には踏み込まない。

 そこで、本稿では韓国の維新体制期(1972 〜 79 年)の政治文化の特徴を再検討したうえ、

韓国の防衛産業政策の仕組みを追究し、朝鮮半島におけるヘゲモニー競争が生み出した弊害の 一端を明らかにする。まず、同じく分断状況下にある台湾との比較からはじめたい。

2.分断状況下の台湾と韓国の相違点

 台湾は、1970 年代初頭、政府介入志向の強い蒋経国

3)

の登場とともに、一貫製鉄所、大型 造船所、大規模石油化学コンビナートを柱とする重化学工業化を中心とした 10 大建設プロジェ クトを推進した。この点は韓国と似ている。しかし、1980 年代に入ると重化学工業化路線は 放棄され、むしろ抑制された。代わりに新竹科学工業園区の設立(1980 年)にみられるように、

電子・情報産業と機械産業に重点が移された

4)

 分断国家としての共通性を持つ韓国と台湾のほぼ同時点での重化学工業化政策の展開が、途 中から大きく異なっていくのはなぜだろうか。それは、アメリカの対アジア政策に対応する両 国のおかれた立場の違いが大きな理由といえよう。1970 年代初めのアメリカの対アジア戦略 の変化(ニクソン・ドクトリン)は、朝鮮半島にはむしろ局地的な競争関係の激化をもたらし た。南北離散家族再開など一時的には「融和」ムードに包まれたが、「統一」を視野に入れた 南北のヘゲモニー争いはいっそう激化した。それが韓国をして防衛産業を含む重化学工業化に 邁進させ、資源配分を重化学工業に過度に集中させる結果をもたらしたということになる。一 方、台湾はアメリカの対中戦略の変化によって「孤立化」の道を歩まざるをえなくなった。国 際社会のなかで中国とは台湾ではなく、大陸中国を意味するものとなった。日本が大陸中国と

2)建国直後の中国外交はアメリカを主要敵とし、ソ連と同盟を結んだ。その後、1960 年代後半からの中ソ対 立を経て、今度はソ連を主要敵と設定し、1972 年にアメリカとの和解を果たした。しかし、1982 年9月、

特定の敵や同盟国を想定しない「独立自主外交」への外交政策の転換を発表した。これは「一つの朝鮮」

政策にも影響を与え、中国は北朝鮮、そして韓国の関係を「ゼロ・サム」から「プラス・サム」ととらえ るようになり、1992 年8月に韓国と国交を樹立した。

3)中華民国(台湾)の第6期・第7期総統、蒋介石の長男(1910 〜 88 年)。

4)服部民夫・佐藤幸人編『韓国・台湾の発展メカニズム』,アジア経済研究所,1996,p.90.

(3)

国交を回復するのは 1972 年であり、アメリカは少し遅れてカーター政権期(1979 年)であっ たが、台湾の国際政治における地位は、間違いなく 1970 年代初めのアメリカの対アジア戦略 の変化によってきわめて弱くなった

5)

。そこで台湾がとった政策は、「大陸反攻」のスローガ ンを実質的に降ろし、世界のなかでいっそうの孤立化を回避すべく純粋な「経済国家」として 生きる道を選択したと見ることができよう。

 つまり、アメリカの対アジア戦略の変化によって、朝鮮半島では南北統一の可能性が生まれ、

それがヘゲモニー争いという競争の激化をもたらし、防衛産業・重化学工業化に力点が置かれ た政策が展開される誘因となった。一方、台湾では「統一」の可能性、少なくとも台湾のヘゲ モニーによる「統一」の可能性は否定されたため、別の道を模索させる契機となったのである。

3.維新体制期における韓国政治文化の特徴

 本章では、分断状況と 1970 年代初めのアメリカの対アジア戦略の変化(ニクソン・ドクト リン)がもたらした韓国政治文化の特徴を概略してみよう。

 韓国の維新体制期の政治文化については同時期の目まぐるしい経済的躍進に関するイメージ ほどには知られていない。ここでは、その登場から崩壊までの最低限の歴史的イメージをつか むために、まず現代史家姜萬吉の著作から維新体制期の叙述を少々長いが引用しておこう。

   1970 年代に入り、アメリカの世界戦略と朝鮮半島戦略に大きな変化が起こり始めた。

ベトナム戦争の余波で国内の反戦雰囲気が高揚し、莫大な軍事費の投入による経済的負担 の増加に苦しんでいたアメリカは、朝鮮半島からの駐留軍の撤収を論議し始めた(1970 年8月)。大統領ニクソンはニクソン・ドクトリンを発表し(1969 年7月 25 日)…中国 を訪問し(1972 年2月 17 日)共産圏との和解を模索した。ニクソン・ドクトリンに現れ た朝鮮半島政策は、駐韓アメリカ軍撤収と軍事援助を先立たせた南北対話の慫慂、そして

「二つの韓国政策」であった。

   こうした情勢変化に合わせて北朝鮮の最高人民会議は、金日成体制強化、全人民の武装 化、全国土の要塞化等を決議する一方で、アメリカ軍撤収、南北軍 10 万以下への減軍、

韓日・韓米条約の破棄、民族自主権確立、南北総選挙による連邦制の実施、経済、文化、

人事交流、南北政治協商会議開催等を内容とする「祖国統一のための8項目救方案」を提 案した(1971 年4月 12 日)。

   こうした国際情勢の変化にともない朴正熙政権は、大韓赤十字会談を通じて「南北離散 家族探し運動」を協議するための南北赤十字会談を提案し(1971 年8月 12 日)、金日成 政権はこれに応諾した。板門店に常設連絡事務所が設けられ直通電話が開通し、赤十字予 備会談が数回にわたって開かれた。南北要人の秘密往来があった後、ついに「七四共同声 明」(1972)がソウルと平壌で同時に発表された。

   一方国内的には、1970 年代に入って朴正熙政権は激しいインフレと持続的な国際収支 の悪化、経済停滞に悩まされた。このためにソウルの平和市場で働く裁断師(全泰壱)の 焼身自殺(1970 年 11 月 13 日)に代表される労働者焼身事件が起こり、労働運動が激化し、

5)同上書,p.354.

(4)

京畿道広州団地住民暴動(1971 年8月)をはじめ都市貧民の生存闘争も活発化した。そ の結果、第7代大統領選挙(1971 年4月 27 日)で野党の金大中候補が予想をはるかに上 回る 43.6%を得票し、第8代国会議員選挙(1971 年5月 25 日)でも野党新民党の議席が 従前の 44 から 89 席へと2倍以上に増加し、朴正熙政権に不安を与えた。

   国内情勢が「4選改憲」を通じた政権延長を望むべくもなくしたうえ、世界情勢の変化 で従来のような冷戦論理を基盤にした安保イデオロギーで軍事政権の正当性を維持するこ とは難しくなった。また南北関係の進展で朴政権成立以降、主張し続けてきた「先建設・

後統一論」が維持しがたくなったばかりか、政権維持手段である国家保安法や情報機関な どの存続理由が希薄になり、朴正熙軍事政権を危機意識に陥れた。

   朴正熙政権は北朝鮮と赤十字予備会談を開催する一方、政府施策における国家安保の最 優先化、安保上の脆弱点になる社会不安の一掃、安保中心の新しい価値観の整備などを骨 子とする「国家非常事態宣言」を発し(1971 年 12 月6日)、野党の極限闘争を退けて「国 家保衛に関する特別措置法」を変則的に通過させた(12 月 27 日)。さらに物価及び賃金 凍結権、人的・物的資源に対する国家総動員権、屋外集会及び示威規制権、労働組合の団 体交渉規制、予算変更権など広範囲な非常大権を大統領に付与し、「国家非常事態宣言」

を遡及して合法化した。

   朴正熙政権は南北赤十字第1次本会談(1972 年8月 29 日)と南北調節委員会共同委員 長第1次会談を開く(同年 10 月 12 日)一方、突然、国会を解散し全国に戒厳令を布告し、

すべての大学を休校にさせ、新聞・通信に対する事前検閲を実施する「10 月維新」を断 行した(10 月 17 日)。そして「維新」憲法をつくり国民投票を通じて確定したのち、「統 一主体国民会議」の間接選挙制によって単独出馬した朴正熙が、第8代大統領に当選した

(12 月 23 日)。

   「維新」体制の基本性格を盛った「維新」憲法は、「国民はその代表者や国民投票によっ て主権を行使する」として、大統領が重要政策を国民投票で合法化できるようにした。労 働三権に対する制約を制度化し、緊急措置権を置いた。拘束適否審査制を廃止し、自白だ けで処罰をできるようにし、基本的人権は大きく制約された。

   立法府は国政監査権がなくなり、年間会期が 150 日に制限された。国会議員の3分の1 を大統領が推薦し、統一主体国民会議が間接選挙するようにした。国会の機能が大きく縮 小され、行政府とくに大統領に対する隷属度が高まった。司法府に対しては、法官任命権 を大統領が持ち、大法院(最高裁判所)の違憲判決権を憲法委員会に帰属させ、その独立 性を剥奪した。

   大統領の権限は一方的に肥大して三権をほとんど掌握したうえに国民が直接選挙するの ではなく、統一主体国民会議で大統領を間接選挙するようになった。その任期も6年に延 長され、重任制限条項をなくしたので実質的に永久執権が可能になった…。

   「維新体制」が成立した後も南北会談はあまり進展がみられなかったが、日本で維新体 制反対運動を展開していた金大中が国内に拉致されてきた事件を契機に北朝鮮は会談中断 を発表した(1973 年8月 28 日)。張俊河などを中心とした維新憲法改正 1000 万人署名運 動などが力強く起こった。

   朴正熙政権は維新憲法の緊急措置条項を発動し、憲法に対する否定・反対・誹謗行為と

改正・廃止の主張、また発議・提案・請願行為を一切禁止する緊急措置第1号をはじめと

(5)

して第9号までを布告した。緊急措置の発動にもかかわらず維新憲法反対運動は途切れる ことがなかった。「全国民主青年学生総連盟事件」(1974 年4月)高麗大学校に対する休 校令など、緊急措置を発動し続けるしかなかった朴正熙政権は、窮余の策として維新憲法 の賛否を問う国民投票を再び実施し(1975 年2月 12 日)、79.8%の投票率に 73.1%の支持 を得た。

   しかし、それ以降も「自由実践文人協議会 165 人宣言」(1975 年3月 15 日)、「3.1 救国 宣言」 (1976 年3月1日)など知識人と野党政治家の反「維新」民主化運動は、途切れなかっ た。こうした状況で任期6年を終えた朴正熙は、再び統一主体国民会議で第9代大統領に 当選し(1978 年 12 月 21 日)、終身執権を展望するようになった。20 年近い朴正熙政権の 経済開発を看板とした軍事独裁政治は、すでに限界点を達していた。労働者の累積した不 満が爆発した「YH 貿易事件」(1979 年8月 11 日)の爆発と、それに引き続く新民党党首 金泳三に対する国会議員職剥奪、釜山・馬山地方での民衆抗争(10 月 16 日)などが立て 続けに起こった。

   ついに中央情報部部長金載圭が、宴席で権力闘争で対立関係にあった大統領警護室長車 智徹と朴正熙を殺害した「10.26 事件」が起こることによって、18 年間維持された朴正熙 独裁政権は崩壊した

6)

 以上がいわゆる維新体制期の韓国政治文化の概略である。維新体制は民主主義制度における 権力集中・独裁を防止する制度的装置を解体し、「統一主体国民会議」という主権的受任機関 を創設することにより国民の主権行使の機会を吸い上げ、かつ政党活動の領域を狭めることに よって大統領の権限を異常に強化させるものであった。つまり、維新体制が目指したものは、

大統領の権限の絶対的強化と大統領の終身執権であり、「与党が負けない選挙と法案を否決し ない議会をどのように確保するか」

7)

という独裁体制の課題が実現されたことを意味する。

4.分断状況におけるヘゲモニー競争と維新体制の出現

 朝鮮半島の分断状況が韓国政府とくに維新体制期の韓国政府の性格や役割に及ぼす影響とし て、まず世界史上まれな密度の軍事化傾向が挙げられる。朝鮮半島の面積対比軍隊の規模は世 界最高水準であり、巨大な軍の存在がその政治介入の傾向を増大させた。また、分断状況は国 家の社会的統制を容易にした。現に、韓国政府は共産主義の脅威を、政治的反対勢力を除去し たり抑圧したりする口実とすることが多かった。つまり、韓国政府は南北分断状況を以て政権 に対する批判を明白に制限したのである。そして韓国政府は分断状況が提起する安保問題とそ の安保問題が克服できる南北統一問題を政治的に正当化する材料として都合良く利用したこ と、などが挙げられる

8)

 こうした分断状況は維新体制の形成とそれを維持するための重要な環境的要因を提供したと

6)姜萬吉『書き改めた韓国現代史』,創作と批評社,1994,pp.237-240.(韓国語)

7)藤原帰一「民主化の政治経済学−東アジアにおける体制変動」東京大学社会科学研究所編『現代日本社会 第3巻国際比較[2]』,東京大学出版会,1992,p.338.

8)金永明「韓国の政治変動と維新体制」韓国政治学会編『現代韓国政治国家』,法文社,1987,pp.377-408. (韓 国語)

(6)

みることができよう。つまり、維新体制は 1960 年代後半に激化する南北の軍事対峙状況とい う客観的現実とこうした客観的現実を執権延長の格好の材料として利用した朴正熙の執権意志 が相俟って出現した体制であった。また、維新体制による権力の個人集中化は社会体制の漸進 的軍事化と軌を一にするものであり、維新体制は南米の官僚的権威主義体制や戦前日本の軍国 主義体制と似ている側面を有している。同時に韓国の政治文化的特性を秘めた総力安保体制と 名づけられた韓国的権威主義体制のひとつの極端形態を示したものでもある。

 1970 年代初めのニクソン・ドクトリンを筆頭とするアメリカの対アジア戦略の変化を背景 に朝鮮半島の分断状況が維新体制の決定的要因になったと判断できよう。要するに、維新体制 下の朴政権は国家安保を口実に民主主義を棚上げにし、分断状況下における朝鮮半島のヘゲモ ニー競争から優位を確保する手段として、重化学工業や防衛産業の育成戦略に力点を置かざる を得なくなるのである。

5.韓国における防衛産業政策の展開

 韓国は 1960 年代末から北朝鮮の脅威

9)

とは裏腹に、駐韓アメリカ地上軍(第7師団)の撤 収というアメリカの対韓政策の転換を受け入れざるを得なかった。しかし、当時の韓国政府の 立場では、「韓米安全保障条約」に基づいて2個師団以上の韓国軍をベトナムに派兵している にもかかわらず、駐韓アメリカ軍が撤収したことを一種の裏切り行為だとしか考えられなかっ た

10)

。さらに、第7師団の撤収に引き続き、カーター政権においても駐韓アメリカ軍の撤収 計画が発表されるなど、アメリカの対韓政策の方向性が変わるにつれ、韓国の防衛産業政策に 大きな影響がもたらされるようになる。

 こうしたアメリカの対韓政策が韓国側からみると望ましくない方向へと移り変わる一連の状 況を鑑み、朝鮮半島のヘゲモニー競争に勝つためには朴政権自ら防衛産業を育成しなければな らないという一種の危機感があったと考えられる。ところが、防衛産業育成には日米両国の協 力が必須条件として浮かび上がる。

5−1.M16 自動小銃の国産化とアメリカの協力

 1960 年代まで韓国において防衛産業は皆無に等しかった

11)

。当時、韓国の安全保障上の軍 用物資はアメリカの援助によって賄われていたからである。1968 年以降、北朝鮮の軍事的脅 威と駐韓アメリカ地上軍の撤収問題を機に、韓国の防衛産業政策が展開され始めたとされてい

9)1968 年1月 21 日、北朝鮮の特殊部隊 31 人が青瓦台(大統領官邸)付近にまで侵入し、韓国警察隊と撃戦 を展開し、軍事停戦(1953 年7月)以来最大の「武装ゲリラ事件(1.21 事態)」が発生した。さらにその 2日後の 1968 年1月 23 日に発生した「プエブロ号事件」は韓国に安全保障上の危機意識を植え付けた。「プ エブロ号事件」とは、アメリカ海軍所属の情報収集艦プエブロ号(USS Pueblo)が、元山沖で北朝鮮の哨 戒艇に拿捕されるという事件であったが、その乗組員の返還を求めたジョンソン・アメリカ政府が、「武装 ゲリラ事件(1.21 事態)」の優先処理を求める韓国を排除して板門店で北朝鮮と秘密裏に接触していたこ とが後に明らかになった。したがって、この時期韓国が抱えていた安全保障上の危機意識とは、北朝鮮の 対韓国武装ゲリラ活動への警戒と対米不信が一体となったものであったといえよう。

10)「駐韓米軍の減縮を反対する国会の対米決議文及び対政府建議文 1970 年7月 16 日」『韓美修交 100 年史 ; 関連資料及び年表』,東亜日報社,1982,pp.208-209. 韓国国会は決議文の中で駐韓米軍の一部の撤収計画 に対し、露骨な不満を示した。(韓国語)

11)国防部戦史編纂委員会『韓国戦争史』第1巻,1968,pp.394-396.(韓国語)

(7)

る。しかし、韓国自力で防衛産業を興すことはできず、やはり同盟国である日米両国の力を借 りるしか方法はなく、早速アメリカの協力を求める。

 当時、北朝鮮の重なる挑発に対処する目的で、1968 年5月、第1回韓米国防閣僚会議がアメ リカ・ワシントン D.C. で開催され、その一環としてアメリカの軍需会社を韓国に誘致することに した

12)

。翌年の6月には第2回韓米国防閣僚会議が韓国・ソウルで開かれ、M16 自動小銃を生 産する具体的プランが検討された

13)

。その後、1970 年 12 月に軍事借款

14)

及び武器販売授権法 案がアメリカ上院を通過し、2年後の 1972 年に M16 自動小銃の国産化が具現化され、韓国にお ける防衛産業の幕開けとなったのである。しかし、朴政権にとっては辛うじて動き出した防衛産 業政策を持続的に進展させ、朝鮮半島のヘゲモニー争いに勝つためには確固不動の政権を堅持 する必要があった。上述した維新体制がその確固たる政権維持の手段として登場した訳である。

5−2.韓国における防衛産業政策の根幹

 1970 年1月9日、朴大統領は「年頭記者会見」で、「まず、防衛物資の現代化を急がねばな らず…200 余万の郷土予備軍

15)

は一日も早く動員体制を確立し、有事の際には正規軍に転換で きる体制を整えなければならない…徐々に防衛産業を育成していかなければならない」

16)

と述 べつつ、「防衛産業それ自体が経済建設」「防衛産業イコール経済建設、経済建設イコール防衛 産業」とまで断言した。これは、防衛産業育成戦略こそが朝鮮半島のヘゲモニー競争戦略と韓 国の経済発展戦略という当面課題を同時に解決させる政策手段であると確信した発言である。

つまり、その是非はともかくとして、防衛産業育成戦略という一石二鳥の妙案が歴史の表舞台 に現れたことを物語っている。

 ところが、維新体制下の朴政権は M16 自動小銃をはじめとする防衛物資を国産化するには 何よりも浦項総合製鉄所(ポスコ)の完成を急がねばならず

17)

、日本からの経済協力を求める。

1970 年1月、当時の国務総理・丁一權を急遽日本政府に派遣し 5,000 万ドルの借款を依頼する に至る

18)

。同年5月、朴政権は M16 小銃以外の防衛物資を生産する「四大プラント建設事業」

19)

を計画し、プラント建設の所要資金は対日借款で充てることにした。その頃、当時の商工部次 官補であった呉源哲

20)

の「防衛産業に関する建議案」が採択され

21)

、その後、呉源哲建議案 が韓国の防衛産業だけではなく、重化学工業など韓国の産業技術全般に大きな影響を及ぼすこ とになる。呉源哲建議案の骨子は次の通りである。

12)「第1回韓米国防閣僚会議共同声明 1968 年5月 28 日)」『韓美修交 100 年史;関連資料及び年表』,東亜日 報社,1982,p.201.

13)『東亜年鑑 1970』,東亜日報社,1970,p.498.(韓国語)

14)M16 自動小銃の工場建設に要する第1次年度の軍事借款額は 1.5 億ドルである。

15)普段の生活から有事の際に招集される韓国の予備戦力。敵や武装共匪の攻撃への対処、郷土の防衛体制を 確立することが主な役目である。創設当時(1968 年)から廃止論は続いているが、現在まで健在。

16)「年頭記者会見 1970 年1月9日」『朴正熙大統領演説文』第7輯(1970 年),大統領秘書室,1971,p.28.(韓国語)

17)ポスコ建設に関しては、拙著「韓国における一貫製鉄所建設計画の変遷」『国際文化研究』第 12 号,東北 大学国際文化学会,2006,pp.257-272. を参照されたい。

18)『丁一權回顧録』,高麗書籍,1996,p.498.(韓国語)

19)当時の韓国経済政策を総括していた経済企画院は韓国防衛産業の根幹となるプラントを四つに絞り込み、

「四大プラント建設事業」を策定した。四大プラントは鋳物銑鉄プラント、特殊鋼プラント、重機械プラ ント、そして造船プラントのことである。

20)ソウル大学工学部出身(エンジニア)の行政官である。

21)金正濂『韓国の経済発展;「漢江の奇跡」と朴大統領』,サイマル出版会,1991,p.205.(韓国語)

(8)

第一に、兵器・弾薬を製造する工廠の設立はしない方がよい。なぜなら、兵器・弾薬の需 要が製造能力を下回るときの非経済性と技術者の確保が困難であるからである。進行中の M16 自動小銃工場のほかには建設しない方がよい。第二に、民営軍需工場の場合も兵器・

弾薬の需要が不振なときには製造機械の遊休化が生じ、採算性が合わなくなるので望まし くない。第三に、どの兵器も分解すれば一つの部品になる。つまり、兵器の各部品を加工 する工場が数 10 か所あろうとも、部品を設計図通りに精密加工し組み立てれば、兵器の 性能は設計図通りになるはずである。第四に、兵器製造を部品別または部分別に関連民生 工場に割り当て、兵器需要の変動による非経済性を最小限にする。第五に、兵器製造に携 わる技術者の養成と確保が緊要である

22)

 この建議案は有事の際には民生部門を切り替えて兵器生産能力を極大化するという一石二鳥 の新戦略として受け入れられ、関係省庁の協力のもとで進められるようになる。なお、この時 点から朴大統領自らが防衛産業及び重化学工業を直轄するという行政システムが構築され、当 時まで北朝鮮が優位であった軍事力や経済力の劣勢を巻き返す試みが見られた。というのは、

大統領官邸に防衛産業及び重化学工業を管掌する秘書室を新設し呉源哲を秘書官に任命したの である。この大統領直轄システムはたちまちその機能を発揮するようになる。

5−3.韓国の防衛産業政策の萌芽期

 1971 年 11 月 11 日、呉源哲は大統領官邸秘書官として赴任するやいなや、翌日には国防科学 研究所(Agency for Defense Development: 以下は ADD と略す)

23)

に「4ヶ月以内に銃砲・弾 薬など在来式兵器と主な防衛物資を国産化せよ」という密命を下した

24)

。この在来式兵器の国 産化計画は暗号名「稲妻事業」と呼ばれ、暗号名の如く、はやくも1ヶ月後の 1971 年 12 月 16 日には第1次兵器試作品が現れるようになる

25)

。その後、第1次兵器試作品の製作過程で生じ た欠陥を補完しつつ、第2・3次試作品の製作に励む。まさに大統領官邸と ADD が渾然一体と なり、稲妻事業を進めたということになる。この稲妻事業の総指揮官は呉源哲であり、彼は逆設 計工学の概念を強調している。逆設計工学とは、外国製品を逆に分解し各部品の仕組みを理解し、

製品の国産化体制を構築するという概念のことである

26)

。つまり、稲妻事業では先進国の兵器を 分解した後、その部品の製作技術を理解・模倣・改良し、兵器試作品を製作したということになる。

 この時期、国内外の緊迫した安保状況に否応なく向き合わねばならなかった朴政権は防衛物 資の生産能力を極大化するため、国を挙げて防衛産業振興戦略に取り組む。まず 1972 年2月 の第1回防衛産業育成会議のことである。朴大統領をはじめ国務総理、科学技術庁長官、国防 部長官、そして国防科学研究所(ADD)所長などが参加し、産官学軍ともに兵器開発と生産 に取り組む姿勢を示すと同時に、日米の協力態勢が欠かせない必須条件であることを確認した。

22)呉源哲『韓国型経済建設』第5巻,韓国型経済政策研究所,1996,pp.24-25.(韓国語)

23)1970 年8月に新設された研究所。主な機能は、防衛物資の規格を調査・研究する、防衛物資体制に関する 諸資源と組織・制度を分析・検討する、防衛物資の性能試験、そして防衛物資の試作・試験などである。

24)呉源哲前掲書,pp.39-41.

25)同上書,p.38. カービン M2(10 挺)、M1 小銃 MX(2挺)、機関銃:M1919A4(5挺)、M1919A6(5挺)、

迫撃砲:60mmM19(4門) 81mmM29(6門) 60mm 軽量化(2門)、ロケット発射機:3.5 インチ M20A1(2 門)、M20B1(2門)、手榴弾 MK2(300 発)、対人地雷 M18K1(20 発)、対戦車地雷 M15(20 発)。

26)盧在賢『青瓦台秘書室Ⅱ』,中央日報社,1993,pp.43-56.(韓国語)

(9)

そこで、朴政権はアメリカ・国防部技術研究庁所属のハーディン(Hardin)チーム

27)

を招聘 するに至る。ハーディンを団長とするこのチームは ADD に常駐し、防衛物資の設計図面を含 む各種技術資料を提供するとともに、ADD メンバーをアメリカの軍関連研究所に研修させる など、ADD の研究開発には欠かせない存在であった

28)

。呉源哲が導入した逆設計工学という 概念はアメリカの協力なしには発揮できなかったと言っても過言ではない。つまり、朴政権は 国内における産官学軍の総動員体制に加え、同盟国のアメリカの協力までを求め、朝鮮半島の ヘゲモニー競争に勝つ戦略を企てたと見ることができよう。

 当初、韓国の防衛産業を育成する必要性は北朝鮮の軍事的挑発と駐韓アメリカ軍の撤収とい うどちらかといえば外的要因から求められたが、皮肉にもその解決策をも外的手段、つまり日 米両国の経済的・技術的支援に頼らざるを得なかったのでる。

5−4.維新体制期の防衛産業政策の展開

 ここで、もう一度、1970 年代の韓国内外の状況を整理してみよう。朝鮮半島の緊張ムード は 1971 年の南北離散家族探し運動と南北赤十字会談、1972 年の七四南北共同声明

29)

などで一 時的には緩和されたともいえよう。しかし、1972 年の「10 月維新」、1974 年の第1トンネル の発見

30)

、1976 年の板門店斧事件

31)

、そして 1978 年の第3トンネルの発見など、平和ムード に反する事件が相次ぎ、再び深刻な冷戦ムードへと帰り着かれた。1979 年になると、民主主 義を求める民衆の維新体制に対する対抗が顕著化し、釜馬抗争

32)

に次ぐ朴大統領の暗殺事件 に至った。一方、対外的な情勢をみると、アメリカのベトナム敗退(1975 年5月)、アメリカ と中国の和解ムード、1977 年3月にはアメリカ・カーター政権が 1982 年末まで駐韓アメリカ 地上軍を段階的に撤収すると発表するなど、アメリカの対韓政策が大きく揺らぐ時期であった。

 このような国内外情勢のなか、政権基盤を固めた朴政権は防衛産業を基にいっそうヘゲモ ニー競争に励む時期である。1972 年 10 月、第2回防衛産業育成会議において延べ 29 社が防衛 産業企業として指定され

33)

、基本兵器の試作品生産に挑むようになる。およそ1年後、各防

27)このチームは6ヶ月から長くて2年間、ADD に常駐した。Hardin 氏(レーダー)、Urich 氏(銃砲・弾薬)、

Gardner 氏(射撃統制装置)、Sands 氏(機動装備・ロケット)、Andel 氏(電子通信)からなるチームであった。

28)ハーディンチームが2次兵器試作品、第1回国産兵器試射会(1972 年4月3日)の各種兵器(小銃・迫撃 砲・ロケット砲・地雷・手榴弾)の設計図面を提供したといわれる。呉源哲前掲書,p.50.

29)1972 年7月4日韓国と北朝鮮が共同で発表した声明。その内容は、1)自主・平和・民族大団結という3大 統一原則を基調とし、2)相互中傷・誹謗・武力挑発の禁止、3)南北間諸般の交流の実施、4)南北赤十 字会談への協力、5)南北直通電話の開設、6)南北調節委員会の構成と運営、7)申合せ事項の誠実な 実行などで成り立った。

30)1974 年 11 月 11 日、韓国京畿道高浪浦から北東の方面8 km、軍事分界線から南の方面約 1.2km 地点で北 朝鮮が南侵用軍事通路として掘削した第1トンネルが発見された。以後 1989 年まで3個のトンネルがさ らに発見された。

31)1976 年8月 18 日、板門店の共同警備区域中でポプラ剪定作業を監督していた米軍将校2人が北朝鮮軍に 斧で殺害された事件。

32)1979 年 10 月 16 日から 20 日まで釜山と馬山地域で起きた反政府民衆抗争。朴政権の維新体制は政治的・社 会的対立をもたらしてきたが、その7年目である 1979 年に限界点に至った。この抗争直後(10 月 26 日)

に朴大統領は暗殺された。

33)開発生産 19 社、火砲の試作9社、砲弾及び信管の試作 19 社、そして韓国型小銃の試作 11 社である(重複 あり)。以下に 29 社を記す(韓国機械/東洋ウォナ/東洋精密/大同工業/東優精機/統一産業/三善工 業/大韓光学/大韓電線/大韓重機/起亜産業/韓国化成/韓国ベアリング/韓国火薬/大圓鋼業/金星 社/オリエンタル/国安産業/現代洋行/豊山金属/韓逸鍛造/東洋鉄鋼/順興金属/南鮮アルミニウム/

ナショナルプラスティック/ドレス精密/韓国特殊金属/進亜産業)。

(10)

参考表 租税減免規制法の支援の基準および類型

業種 支援基準 支援類型(14 重要業種)

鉄鋼 年 10 万トン以上の製鉄,製鋼の一貫製鉄施設 直接減免 3年:100%

 選択この中から

非鉄金属 銅鉱(3 万トン/年),鉛鉱(1万トン/年) 2年: 50%

機械 22 品目 投資額控除 8 % 〜 10%

造船 3,000 トン級以上のドッグ造船台 特別償却 100%

電子 11 品目,30 部品 関税減免 70% 〜 100%

化学 ナフサ分解工業,石油化学ユーティリティ事業

資料:韓国経済企画院 ,『経済白書』,1981,p.107. 表 2−3−5 および 2−3−6 より作成 .

注:1)重化学工業部門に対する優遇税制は 1975 年制定された 「 租税減免規制法 」 に基づいて実施さ れたが、14 重要業種のうち , 重化学工業部門が 12 業種を占めていた .

  2)法人税の計画期間中(1973 〜 81 年)の年平均税率は , 非重化学工業が 47.1% に対し , 重化学 工業の戦略部門は 20.9% で半分以下の低税率であった .

衛産業企業は兵器の試作品を製作したものの、兵器の性能に苦心する。当時の試作品は、一応 兵器の形はできあがるが、兵器としての機能・性能を満たさない。要するに、試験発射の初期 段階では一応兵器としての機能・性能をみせるが、続けて発射するとだんだんその機能・性能 が鈍くなる

34)

。その要因として、素材の不適合、加工施設の精密度の低さ、そして加工技術の 低水準などが挙げられたのである。

 この時期の試行錯誤の結果を鑑み、朴政権は防衛産業を育成するには重化学工業の育成が先 決課題であると結論づける。つまり、防衛産業の基本素材である鉄鋼、特殊鋼、銅、亜鉛など を生産するには鉄鋼業と非鉄金属工業を、精密加工には機械工業を、そして電子兵器には電子 工業をそれぞれ育成しなければならないという結論である。朴政権の兵器開発における試行錯 誤の苦い経験から 1973 年1月の「重化学工業化宣言」

35)

が現れたと言ってよい。

 1973 年2月には「防衛産業に関する特別措置法」が制定され、防衛物資の研究・開発、防 衛物資の国産化の促進、防衛産業を育成する基金の造成及び運営、人材育成などの方針が定め られた。また、朴政権は多様な優遇措置

36)

を制定し、防衛産業育成に尽力したといえる。具 体的にみると、資金を長期・低利で融資する、関税・消費税を免税する、割賦制度や臨時支払 いの制度化、科学者・技術者の兵役免除、防衛物資の利潤保障(10%)を制度化する、そして 防衛税法

37)

を制定する他、各種防衛寄付金を募ること、などである

38)

34)金正濂前掲書,p.207.

35) 1973 年1月、朴大統領の宣言文は以下のとおりである。「私は新年を迎え、経済政策に関する新たな宣言 を行いたい。韓国はいまや重化学工業段階に入っている。これから重化学工業政策に全力を注ぐことを宣 言する。また、全国民の科学化運動を提議しようと思う。科学技術開発なしには重化学工業の育成は期待 できず、また、全国民の科学技術開発に向かう積極的な参与なしには経済目標の達成は不可能であると思 う。…将来的には、輸出 100 億ドルが見込まれる 1980 年代には全輸出品の 50%を重化学製品としなけれ ばならない。そのためには、造船・機械・石油化学工業の育成に拍車をかける方針である。…来る 1980 年 代初期の生産施設能力を現在と比較するなら、製鉄が 100 万トンから 1000 万トンに、造船は年産 25 万ト ンから 500 万トンに、製油施設は日産 39 万バレルから 95 万バレルに、エチレンは 10 万トンから 80 万ト ンに、電力は 380 万キロワットから 1000 万キロワットに、セメントは 800 万トンから 1600 万トンに、自 動車工業は年産3万台から 50 万台に、それぞれ引き上げなければならない。…東・南・西海岸に国際規模 の工業団地を造成する方針である。第二総合製鉄所、機械工業団地、蔚山石油化学工業団地などである。

また 100 万トン級造船所2ヵ所、電子部品団地、第二・第三の輸出団地なども造らねばならない。」

36)

37)1975 年7月に、防衛物資の購入と開発に必要な資金調達を円滑にする目的で制定し、1990 年 12 月まで存 続した。韓国の場合、防衛税(法人税率の 25%)を含む場合 37.5%(30%+防衛税 7.5%)が実際に適用 される法人税率であった。

38)Song-HiJoon「経済発展に対する国防技術の貢献度と課題」『国防政策学術会議』,韓国政策学会,1995,p.101.

(韓国語)

(11)

6.韓国の防衛産業政策と産業技術の脆弱性 6−1.維新体制期の防衛産業政策の落とし穴

 以上のような朴政権の多大な後押しを背景に、維新体制期初期、M16 自動小銃をはじめ装 甲車、迫撃砲、対戦車ロケット、手榴弾、地雷、小規模無線施設など 10 個の基本兵器が生産 される。また、1974 〜 75 年には 60 / 81mm 迫撃砲/弾、消火器弾、曲射砲、バルカン対空砲、

各種有・無線装備、高速艇などを生産し始め、サウジアラビアなどの第3世界から発注要請も あった

39)

。さらに、1978 年から 500MD ヘリコプター、155mm 曲射砲/弾、バルカン対空砲火、

装甲車、M60 機関銃、M203 流弾ロケット、20mm バルカン砲、標準戦車、駆逐艦、韓国型戦 闘艦、多連装ロケット砲などを量産するようになる

40)

 1978 年 12 月には航空工業振興法が制定され、1979 年から大韓航空(KAL)がアメリカ・ノー スロップ社の協力の下で F-5E と F-5F 戦闘機を共同生産し始める。また、ミサイル開発では、

1978 年9月に SSM 地対地ミサイルの発射が成功し、その翌年にはアーネスト・ジョン(Ernest  John)ミサイルの改良型を開発し、韓国は世界で7番目のミサイル製造国になる。

 さて、韓国の防衛産業を論じる先行研究(Song-HiJoon、金正濂、黄東準など)では、維新 体制期に基本兵器に対する生産技術体制が構築され、兵器の輸出も可能になり、基本兵器のほ とんどの国内需要を賄うようになったといわれる

41)

。韓国は如何にして相対的に短期間で在 来式基本兵器を生産することができたのだろうか。

 そこで、MIS(Military Import Substitution)概念を取り上げ、呉源哲が強調した逆設計工 学の概念にはどのような落とし穴が潜んでいるのかを追究する。開発途上国が防衛物資を生産 する過程をみると、先進国の「防衛物資を輸入し国産化(MIS)」するのが一般的なパターン である。韓国もこの MIS 概念を導入したが、その展開過程は他所の途上国と多少異なる点が あることに注意されてよい。まず、MIS の5段階を説明することからはじめよう。第1段階は、

先進国から輸入した兵器や部品を単純に組み立てる段階である。第2段階では先進国(技術提 供者)のライセンスの下で兵器部品を生産し、第3段階では兵器を生産する。そして第4段階 では、逆設計工学(reverse engineering)の概念通り、輸入した兵器を分解・再設計・複製す る。最後の第5段階は、防衛物資を独自で研究開発し生産する段階である。

 一般に、MIS は5段階からなるものであるが、韓国の場合は第1・2段階がスキップされ、

兵器部品は生産せず、直ちに兵器を生産する第3段階に先走りした

42)

。それ故に、韓国の MIS 過程は短くなり、前述の稲妻事業のように短期間で在来式兵器が製作・生産できたとみ てよい。これは、防衛物資のコア部品(核心部品)は生産せず、日米等の先進国から輸入した ことを意味している。したがって、防衛産業における基盤技術が造成されず、工作機械をはじ めとする中間財を日米に依存した形で韓国の防衛産業が展開され、その後、一般産業にも多大 な影響を与える。つまり、韓国の防衛産業が基盤技術やコア部品(核心部品)を日米に依存し

39)『東亜年鑑 1975』,東亜日報社,1975,p.324.(韓国語)

40)白光一「韓国の防衛産業政策」『民族共同体と国家発展)』,韓国政治学会,1989,p.472.(韓国語)

41)Song-HiJoon 前掲書,p.103.

42)Lee-ManWoo, Ronald D.McLaurin, Moon-Chungin,

Alliance Under Tension;The Evolution of South 

Korean-U.S.Relations,

Kyungnam University Press,1988,p.84. 出所は、Andy Ross, Arms Acquisition  and National Security in Third World, in Edward E.Azar and Chung-in Moon(eds.),

Third World 

National Security:Internal and External Management(London:Edward Elgar, 1988),Ch.5.

(12)

ながら、安い労働力と国家資本を投入し在来式基本兵器を生産する段階に至ったということに なる。

6−2.貿易依存度の増加と産業技術の脆弱性

 維新体制下の韓国は、朝鮮半島におけるヘゲモニー競争を背景として防衛産業育成戦略を重 んじ、台湾とは異なる大企業を中心とする重化学工業化政策を展開した。上述したように、韓 国の防衛産業育成戦略の根幹である MIS の5段階から2段階を省くという言わば「稲妻作戦」

が根強く蔓延化し、過程より成果を重視するようになったといえる。この「稲妻作戦」はある 程度までは一定の成果を成し遂げることができたものの、その後今日に至るまで、韓国の産業 技術全般が抱える脆弱性を生み出したミナモトであると考えられる。というのは、この「稲妻 作戦・成果主義」のもとで防衛産業のみならず、1970 年代以後重化学工業化が進められたか らである。総じて韓国は防衛物資にせよ産業機材にせよ、核心部品を輸入に任せるパターンが 長年根強く定着してきた。つまり、韓国は部品・素材という中間財を日米に依存するかたちで 最終財(完成品)を生産・輸出する加工貿易型産業構造で成長してきたといえる。それ故に、

そもそも韓国は中間財産業の脆弱性を覚悟したうえ、「稲妻作戦・成果主義」を強行したかも 知れない。

 ここで、韓国の貿易依存度を取り上げ、中間財産業の脆弱性がもたらす貿易赤字の仕組みを みてみよう。貿易依存度は国内総生産(GDP)に対する輸出入総額の割合で計算される(貿 易額/ GDP)。つまり、輸出と輸入の総額を GDP で割った比率に 100 を乗算しパーセントで 表した値である。貿易依存度が高いということは、一国の経済が海外経済事情に大きく依存す ることであり、その分、その国の経済の安定性が低いことを意味する。2008 年度の国別貿易 依存度をみると、韓国(92%)、中国(59%)、英国(41%)、日本(32%)、米国(24%)など である

43)

が、韓国の貿易依存度は比較的に高く、韓国経済は海外経済事情に大きく依存せざ るを得ない。韓国銀行によると、2009 年現在、韓国の主力輸出品目である携帯電話、パソコン、

TV などの輸入誘発係数はそれぞれ 0.532、0.650、0.503 であり、これらの製品を 100 円で輸出 する場合、50 円以上の中間財を輸入しなければならないということになる。主要な産業別の 中間財の国産化率をみると、半導体・LCD・コンピュータ産業は 36.4%、電気機械産業と造船 産業ではそれぞれ 13.3%と 11.6%に過ぎない

44)

。ちなみに、日本の半導体製造装置の国産化率 は 1980 年代初頭に 100%に至っている。

7.おわりに

 以上、朴政権の維新体制下(1972 〜 79 年)を中心に、韓国を巡る国内外の政治的状況を概 観し、朝鮮半島のヘゲモニー競争がもたらした韓国の産業技術が抱える脆弱性を見てきた。朝 鮮半島の分断状況が 1970 年代の維新体制を作り上げ、維新体制という独裁政権下で韓国の防 衛産業育成戦略が展開された。しかし、朴政権は核心部品を研究開発する核心中小企業の育成 には力を入れず、防衛産業のみならず一般産業においても核心技術を造成・振興させる措置は

43)IMF, International Financial Statistics Yearbook 2009

44)2010 年8月 13 日日付「毎日経済新聞」(韓国語)

(13)

取らなかった。朴政権は大企業における最終財(防衛物資の完成品)の大量生産だけが経済成 長戦略あるいは防衛産業育成戦略を成し遂げる要であると過信した。それ故に、今日では防衛 物資のみならず、鉄鋼、半導体、家電製品など、輸出主力商品の核心部品(中間財)の大半を 日本など先進国から輸入しなければならないジレンマに陥っている。

 以上のように、アメリカの対韓政策の転換、北朝鮮の挑発的行為、維新体制の出現などが相

俟って、朴政権は防衛産業育成戦略を通して朝鮮半島におけるヘゲモニー競争に優位を占めよ

うとした。しかし、防衛産業育成戦略の根幹であった「逆設計工学」の概念には大きな落とし

穴が潜んでおり、韓国の産業技術の脆弱性を生み出した。韓国は呉源哲が云うように一石で防

衛産業育成と経済成長という二羽の鳥は取ろうとしたが、結果として日米など先進国に従属せ

ざるを得ない「従属型二鳥取り」とならざるを得なくなったのである。

(14)

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