史料紹介 : 遠江国城東郡来福村笠原家文書
著者 今村 直樹
雑誌名 人文論集
巻 67
号 2
ページ 1‑34
発行年 2017‑01‑31
出版者 静岡大学人文社会科学部
URL http://doi.org/10.14945/00009977
史 料紹 介 遠 江国 城 東郡 福来 村 原笠 家 文書
今 村 直 樹
は じ め に 人文 社 会 科 学部 社 会 学科 の日 本 史 学 研究 室 は︑ 毎 年 秋 の大 学祭 期 間 中 当︑ 該 度年 の古 文 書 調査 の成 果 を 発表 す る 文﹁古 書
﹂展 を︑ 一九 七 二年 以来 欠 か さず 催開 し てき た
︒ 二〇 一六 年 度 で 五四 回目 を 迎 え る 文﹁古 書 展﹂ は︑ 同 くじ 考 古 学 研究 室 に よ る
﹁考古 展
﹂ と と も に︑ 本 学 部 の
﹁秋 の風 物 詩
﹂ 的 な イ ベ ント と し て定 着 し て いる
︒ し か し︑ 日本 史 学 研究 室 に は古 文 書 展 の誕 生 以前 か ら継 続 し て いる 事 業 あが る︒ そ れ は︑ 所蔵 者 や自 治 体 か ら の依 頼 に 基 づき 静︑ 岡 県 内
・静 岡 市 内 の古 文書 群 の整 理 や調 査 を行 い︑ 史 料 録目 を 作成 し て所 蔵 者 な ど 進へ 呈 す る事 業 であ る︒ 本 稿 で取 り上 げ る遠 江 国 城 東 郡来 福村 笠 原 家文 書
︵以下
﹁笠︑ 原 家文 書
﹂ と略
︶ は︑ 一九 七〇 年 七 月 当に 時 の所 蔵 者 であ たっ 故 笠 原 清 氏 か ら の依 頼 で日 本史 学 研 究室 が整 理作 業 を 行 い︑ 翌 一九 七 一年 六 月 史に 料 目録 作を 成 した 古 文 書 群 であ る︒ ま さ に︑ 文古 書 展 誕が 生 す る直 前 の時 期 に整 理 さ れ たも の であ たっ
︒
一
二 本 稿 で笠 原 家 文書 の史 料紹 介 行を う こと に は︑ いぐ つか の理 由 存が 在 す る︒ そ の直 接 的 な契 機 と な たっ のは
︑ 現 在 の所 蔵者 であ る笠 原 均氏
︵静 岡 県立 掛 川西 高等 学 校 教諭
︶ が︑ 古文 書 を ひ ろく 公開 し︑ 専 門 研究 役に 立 てる た め の史 料集 を作 成 す る こと を希 望 さ れ︑ 二〇 一五 年 月四
︑ そ の作 業 を 本日 学史 研 究 室 所に 属 す 筆る 者 依に 頼 さ たれ こと であ る︒ 笠 原家 文 書 は︑ 戸江 時 代 に旧 城 東 郡来 福 村
︵旧 小 笠 郡大 東 町 千浜
︑ 現掛 川 市 千浜
︶ の庄 屋 を務 め た笠 原 家 伝に 来 した も ので
︑ これ まで﹃静岡県史料﹄や﹁静岡県史﹂でも紹介されたことがある︑遠州地域の著名な地方文書である︒笠原氏はそれらの文 献 未で 紹 介 の史 料 を中 心 と し た︑ 新 し い史 料 集 の編 纂 構を 想 さ れ て いた
︒ うこ たし 原笠 氏 の熱 意 に加 え て︑ 本 稿 執を 筆 す る筆 者 の原 力動 とな たっ のは 他︑ なら ぬ笠 原家 文書 自 体 がも つ魅 力 であ っ た︒ 実 際 に学 生 た ち 行と たっ 史 料 調査 で は︑ 笠 原家 の歴 史 や近 世 遠 江 の地 域 社 会 史 を考 え る上 注で 目 さ れ る史 料 が数 多 く 見 出 さ れ︑ か つて 一九 七
〇年 代 に日 録 化 され た も の以 外 の新 出史 料 な ど も発 見 され た 本︒ 稿 の紙 幅 では
︑ そ の全 容 を 提 示 す る こと は でき な いが
︑ これ ま 未で 紹 介 近の 世 史 料 か 主ら 要 な も のを 選抜 し て︑ いく つか の項 目 別 取に り上 げ た い︒ 本稿 の作 業 を通 じ︑ 笠 原家 文 書 が も つ史 料 的 価値 の高 さと と も に︑ 近 世 遠 江 の地 域 史 研 究 が も つ魅 力 の 一端 に つい て提 起 でき れば 幸 いで あ る︒ 一 笠 原 家 文 書 の 概 要 笠
原 家文 書 の説 明 を 行 う前 に︑ まず は城 東 郡 福来 村 の庄 屋 職 を 歴任 たし 笠 原家 と来 福 村 の性 格 を簡 単 に述 てべ お うこ
︒ 笠 原 家 は︑ 後述 す る
﹁笠 原 家 歴之 史
﹂ に よ ると
︑ 天 武 天皇 の皇 子 であ る磯 城 親 王 の後 裔 であ り
︑ 三河 国 山本 村 から 遠 江 国 移に 住 し て来 福村 の開 拓 を始 めた と いう 笠 原 源之 亮 寛 光 が︑ そ の始 祖 と さ れ る︒ 笠 原 源 之亮 の生 没年 記は さ れ て いな い
城東郡来福村 関係地 図
*『遠江国十二郡千六三村図」(掛川市、2016年)よ り作成。
が
︑ 二 代 目 の 源 吾 右 衛 門 が 建 武 二 年
︵一 三二 五︶ 没 であ る こと から 十︑ 三世 紀 後 期 か 十ら 四世 紀 前 期 に か たけ 人物 考と え られ る︒ なお
﹁来︑ 福
﹂の 名称 の由 来 は︑ ま す ま す当 地 に福 が来 る こと を 願 う た め 名に 付 け た︑ と いう
︒ 史料 上 で の来 福村 の初 兄 は︑ 大 永 三年
︵一 五 二三
︶ 十 月一 付 の今 川氏 家 臣 由 比豊 前 守 光規 の譲 状 に お け る
﹁壱所 遠 州来 福 事
﹂ と うい 記 載 であ る︒ そ の後 慶︑ 長 年 間
︵一 五 九 六
〜 六一 五一
︶ に は来 福 村 の開 発手 形 が数 多 く 発給 され てお り︑ 近 世初 期 に耕 地 開発 が さ か ん に 行 わ れ た こと が う か が え る︒ 来 福 村 は旧 大 東 町 の南 東端 に位 置 し︑ 菊 川 下の 流 域 にあ たっ
︒ 東 は合 戸 村
︵現 御 前 崎 市合 戸
︶ な ど 西︑ は成 行 村
︵現掛 川 市 千 浜︶︑
南 遠は 州灘 面に し て いた
︵︻図
︼1 参 照
︶︒近 世 期 は 一貫 し て横 須 賀藩 三 領
四 属に
し︑ 村高 は
﹁元禄 高 帳
﹂ では 一〇 四九 石余
﹁天︑ 保 郷 帳
﹂ で は 一二 九 二 石余 と うい
︑ 比較 的 に大 きな 村 であ たっ 主︒ な 生 業 農は 業 あで り︑ か た わ 漁ら 業 を営 ん で いた と され る︒
︻図
︼2 は︑ 原﹁笠 家 之 歴 史﹂ を も と に作 成 した 笠︑ 原 家 の略 系 図 あで る︒ 笠 原家 文 書 に おけ る当 名主 初の 見 は︑ 管 見 の 限 り
︑ 十 一代 目 の源 六 ま で遡 る とこ が でき ると 思 わ れ る︒ 後 掲 す る正 徳 四年
︵一 七 一四
︶付 の
︻史 料 2︼ に は︑ 先 代 の来 福 村 庄 屋 と し て
﹁源 六
﹂ の名 が記 さ れ て いる
︒ 但 し︑ 彼 は
﹁笠原 家 之 歴
﹂史 に よ る と享 保 十 八年
︵一 七 三 三︶ 没 であ り
︑ 没 年 が合 わな い︒ 続 く十 二代 目 の源 五郎 は︑ 後 述 す るよ う 横に 須 賀 藩 の大 庄 屋 を務 め てお り︑ 域地 会社 大で き 影な 響 力 を 有 し て いた こと がう か が え る︒ 同 じ く十 七 代目 の源 左 衛 門 寛 典 も大 庄 屋 を務 めた が︑ 彼 の代 に明 治 維新 を迎 え て いる
︒
① 笠原 源之 亮寛 光
︵没 年末 記載
︶l
② 源吾 右衛 門
︵建武 二年
︹一 三三 五︺ 没︶
③l 源太 郎
︵永 徳三 年
︹一 三八 三︺ 没︶ l④ 源 一郎
︵応 永 二十 八年
︹一 四 二 一︺ 没︶
⑤卜 新十 郎
︵応 仁元 年
︹一 六四 七︺ 没︶ l⑥ 源五 兵衛
︵文亀 二年
︹一 五〇 二︺ 没︶ l⑦ 新 一郎
︵天文 年十
︹一 五 四 一︺ 没︶ l③ 藤 郎十
︵文禄 三年
︹一 五九 四︺ 没︶ l③ 右新 衛門
︵寛 永九 年
︹一 六三 二︺
︶没 l⑩ 六 四郎
︵延宝 三年
︹一 六七
︺五
︶没 l⑪ 六源
︵享保 十八 年
︹一 七三 二︺ 没︶ l⑫ 五源 郎
︵寛 政十 年二
︹一 八〇
〇︺
︶没 l⑬ 源九 郎
︵享和 二年
︹一 八〇 二︺ 没︶
⑭l 市十 郎
︵文 化 三年
︹﹂
八〇
︺六 没︶ l⑮ 新蔵
︵文久 年元
︹一 八六
︺一 没︶ l⑮ 新兵 衛 黛 永 三年
︹一 人五
︺〇 没Y
■0 源左 衛門
︵明治 三十 九年
︹一
〇九 六︺ 没︶ l⑬ 建太 郎
︵昭和 十 二年
︹一 二九 七︺ 没︶
*
﹁笠 原家 歴之
﹂史 よに る︒ 数字 は歴 代当 主の 順番
︒ 笠原家文書の点数は二八七点となっている︒︻表1︼は︑さて︑ 一九七一年に日本史学研究室が作成した目録によるを ︑
図2 笠原家略系国
目録の分類に従って文書の性格の内訳を示し たものである︒これをみると︑最も多いのが Cの貢租関係一五二点であり︑Bの土地関係 四〇点︑Fの山川・海浜関係三二点がそれに 続く︒Cの貢租関係では︑正徳年間︵一七一一 訳〜一七一五︶から明治初年まで︑ほぼ毎年の 内 年貢免定︿割付状︶が存在する点が特筆され ゎ る︒また︑Fの山川・海浜関係では︑漁業権 教 を伴う浦浜の所有をめぐる︑隣村の成行村と 餌 の争論関係の史料が数多く含まれている︒浦 ︲浜をめぐる両村間の激しい対立について︑本 表
稿で具体的な史料を取り上げることはできな いが
︑ 成行 村 の庄 屋 を歴 任 し た岡 田家 の文 書 併と せ て検 討 す る こと で︑ 問 題 の本 質 を明 ら かに す る こと が でき よ う︒ 前 述 した うよ に︑ 笠原 家 文書 の 一部 は既 に
﹃静 県岡 史 料﹂ や
﹃静 岡県
﹂史 紹で 介 さ れ て いる
︻表︒ 2︼ と
︻表
︼3 は︑ 両 文献 で取 り上 げ られ て るい 笠 原 家文 書 の 一覧 あで る︒
﹁静岡 県 史料
﹂ は 一 一点
﹃静︑ 岡 県史
﹄ は八 点 であ る が︑ 重複 し て いる 書文 も多 く︑ 実 際 に紹 介 さ れ た も のは 計 一四 点 であ る︒ 年 代 や表 題 か もら 分 か るよ う に︑ 紹介 史 料 の多 く 近は 世 初 期 来福 村 の耕 開地 発 関に 係 す るも の であ る︒ な お︑ これ ら の耕 地 開 発 に関 す る文 書 は︑ 一 九 七 年一 の史 料 録目 未に 記 載 のも のが 多 く︑ そ のほ と ん ど 近が 年 ま 所で 在 不 明 であ たっ が︑ 本 稿 作 成 に関 わ る 二〇 一五 年 度 以降 の史 料 調査 でそ 多の く 再が 発
五 見 *「 遠江国城東郡来福村 笠原家文書 日録」
(静岡大学人文学部 日本史学研究室、1971年)よ
り作成。
分 類 点 数
A支配関係 (触・ 達・ 布告・ 留帳)
B土地関係(検地帳・ 高反別帳 。名寄
帳・ 質入 。譲渡・ 新 田) 40
C貢租 関係 (免定・ 割付状・皆済 目
録・ 定免・ 年貫・ ガヽ物成) 152
D村方関係 (村政・ 村 由来・村役人)
E戸回関係 (宗門改帳・五人組帳・ 戸
籍) 5
F山川・ 海浜 関係
G絵図関係 (村絵図・ 田畑 図面) 3
H訴訟関係 (境相論・ 出入・ 出訴・ 不
義・ 盗難)
I救血関係 (拝借金・ 拝借米) 1
」 交通関係 (伝馬・ 助郷) 3
K金融関係 (借金証文・ 祠堂金) 5
L宗教関係 (神社・ 寺院・ 縁起) 4
M私的書類 (書状 。日記・覚書) 3
計 287
表2『齢岡県史料』掲載の笠原家文書
年月 (注1) 西 暦 表題 (注2) 輔m
替 備 考
1 (天正10年)3月 3日 1582 小笠原清有外五名連署
手形 O
勝 岡県史 資料編101資 料番顎0に再嬬 なお、
県史 では年代 を慶長11 年に比定。
2 慶長16年2月26日 松下籠久手形 疇 岡県史 費科編10J資 料番号92に醜 3 慶長16年2月26日 松下勘兵衛手形 O 1 織疇 岡県史 費科編104贅
"3に再蔽為 4 優 長 年 ヵ)コロ11日 松下範久手形 O 精 聟 に繭 。疇 岡県史 資料編104資
5 (慶長ly→二月21日 松下範久手形 0
6 寛永11年 10月 12日 1634 永田太郎右衛門・ 雨官 加兵衛連署手形
rFn県史 資簡日lol資 料番号108として再亀 7 (年末詳)8月 9日 片岡孫右衛門手形 O
8 (年味 詳)8月21日 片岡孫右衛門手形 O
9 (年末詢 8月5日 永日権兵衛触状 O
(年末詢 9月6日 大野増瀬 麟
(年末詳)8月25日 権原関螂 O
攣n静岡県史斜 第四韓 違州古X●J(静 岡県、19 牛)よ,作成。
注1・ 2 いずれも『静岡県史料」の記載による。
注3 2015・2016年の笠原豪文書調査で男存力罐 認されたもの。
注4 「遠江国城東が来褐付 金原家文書目鋼 (静岡大学人文学部日本史学研究室、19710による。
*「静岡県史 資料編10近世二J、r同 資料編11近世三]、「同 詢卜編12近世四J(静 岡県、1"3・1994・
1995年)よ り件成。
注1・ 2 いずれもr静岡県史Jの記戦による。
性2催拓ξ跳踊霞
̀増
躍尋F:S甍難番躍郭霞F鶴超殿編日殺罰矩、Ю■0による。
表3『静岡県史』掲載の笠原家文書
巻 号 酬 年月 (注1) 劃 曽 表題 (注2) 欝爾 備 考
慶長11年3月 3日 如水外来福村等開発手形 O
凛りa碑2月26日 1^11 松下籠久来福村開発手形 r静岡県史棚 笙百 文書2に 収鶴 慶長16年 2月 26日 松下範久来福村開発手形 O 1 文書r静岡県史料』牛原3に収鑢
慶長18●I月11日 松下範久来福村 開発手形 O 『静岡県史料文書4に 蟻J笠原
寛永11年10月 12日 6n4永 田・ 雨森来福村開発手
形 O 『静岡県史相 牛直文書6に収銑
軸 11 ヨ 果17年間5月 城東郡来福村の村前浦浜
の新日開発願書 O 207
迪事墾日11 天明7年8月
城東郡今沢新 田他船頭 よ り漁獲物代金滞 りにつ き
一札 O 243
120 覧政12年9月 O 246
につ き二村宛一札
され︑現存が確認されている︒ 二〇一五年度以降の調査では︑ 一九七一年の日録には未記載である近世・近代文書の存在も数多く確認された︒前述し た浦浜をめぐる成行村との争論は︑承応・明暦年間︵一六五二〜一六五七︶頃から断続的に行われ︑最終的には明治十七 年︵一八八四︶に来福・成行両村が合併して千浜村が成立することで終結する︒今回の調査で確認された﹁破魔知論 乾・ 坤﹂は︑この長期的な争論の経緯について︑笠原家十八代目の鮭太郎が関係資料をもとに大正四年︵一九一五︶に編纂し たものである︒これは︑長きにわたる争論の歴史が︑どのように大正期の村社会で認識されていたかを知る上で非常に貴 重な史料である︒ 前述した﹁笠原家之歴史﹂も︑ 一九七一年の目録には記載されていないが︑笠原家や来福村はもちろんのこと︑横須賀 藩領の地域社会を考える上で重要な史料である︒これは︑祖先から多くの事蹟を残してきた笠原家の歴史を子孫に伝える ため︑十七代目の源左衛門寛典によって明治三十三年︵一九〇〇︶に編纂された︒前述のように当主の没年が原文書と符 合しないなど︑その内容に疑間が残る点もあるが︑笠原家文書を引用して記述されている部分も多く︑必ずしも歴代の当 主たちを礼賛するものでもない︒何より︑当主の事蹟に関わる情報量は極めて豊富であり︑本稿では一定の留保をしつつ その記述について紹介したい︒ 例えば︑次に引用するのは︑十七代日源左衛門の項目における嘉永七年
月十安大地震に︵安政元年一八五四︶一の政︑ 関する記述である︒︻史料1︼
安政元寅年十一月六日当国未曽有ノ大震災アリ︑来福村ノ如キ建物九分通倒潰シ︑即死四人︑負傷者若干ヲ生ジ︑加 之藤原源内ハ火災二罹レリ︑当家モ家屋悉ク倒潰シ︑厨壱棟漸ク半潰ニテ残レリ︑近村皆大同小異ナリ︑就中掛川町・
七