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ヴェルサイユ体制下ドイツ航空機産業と秘密再軍備(2) 永 岑 三千輝

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はじめに

1.陸軍兵器局と航空機産業─再軍備の基盤の形成─……『横浜市立大学 論叢』第65巻、社会科学系列、1・2・3合併号

2.ヴェルサイユ体制下の戦勝国・中立国の軍需とハインケル社……本号

2.ヴェルサイユ体制下の戦勝国・中立国の軍需とハインケル社

以下ではワイマール期のハインケル社の活動を中心に見ていくが、それ を浮き彫りにするためにほかの航空会社の活動との比較を行い、時期的に も第一次世界大戦期やナチス期の経営の特徴などにも触れていくことにす る。現在、ハインケル関係の文書はミュンヘンのドイツ博物館の文書館

(Deutsches Museum Archiv, DMAと略記)に集められている1

さて、既述のように、陸軍兵器局の評価ないし調査対象に世界的に有名 なフーゴー・ユンカースは入っていなかった。第一次大戦後のユンカース の開発の重点と世界的名声は民需、民間航空の分野にあった2。飛行機に

ヴェルサイユ体制下ドイツ航空機産業と秘密再軍備(2)

永 岑 三千輝

Martin Albrecht, Heinkels Firmenarchiv im Deutschen Museum München, in: Technikgeschichte kontorovers: Zur Geschichte des Fliegens und des Flugzeugbaus in Mecklenburg-Vorpommern, Schwerin 2008, S. 97-103. その中で本 稿の時期と問題の限定との関係で関連する文書群は、ハインケルが自叙伝を執筆す るために集められた史料群であるが、そこには、彼の日記(戦後、フランスとイギ リスに抑留されていた時期のもの、1945年5月26日から同7月30日)その他の資料、

ハインケルのナチ協力者裁判(非ナチ化裁判)関係の資料、彼の私的公的往復書簡

(1928年以降)、ベルリンのハインケル事務所との往復書簡(1927年以降)、および エルンスト・ウーデットとの往復書簡などがある。ドイツ博物館の文書館の検索書 の所蔵文書解説DMA, FA 001 Firmenarchiv Heinkel I, Bestandを参照。

 Wolfgang Wagner, Hugo Junkers, Pioniere der Luftfahrt− seine Flugzeuge, Bonn 1996.

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よる旅客運輸は第一次大戦後、1919年に始まり、飛躍的に発達し、時とと もに不可欠の公的交通手段となった。その最初は、「比較的プリティブな」

飛行機によるもので、しかも、その大部分は「改造された軍用飛行機」で あった3

しかし、フーゴー・ユンカースはすでに19年に新設計の旅客機F13を投 入した。それは改造軍用機をはるかに凌駕していた4。ドイツの旅客航空 は25年時点で、旅客数55,000人以上、便数18,600以上、飛行距離ほぼ500 万キロ以上に成長していた。その主要な担い手が当時のドイツの2大航空 会社であり、その一つが㈱ユンカース航空会社(Junkers Luftverkehrs- AG, JLAG)であった5。国内航路網はドイツの航空会社によるものが、ロ ンドン、アムステルダム、コペンハーゲン、マルメー、カールスハムン、

ストックホルム、ダンツィヒ、リガ、レヴァル、ヘルシンゴール、ウィー ン、チューリッヒ、バーゼル、ローザンヌ、ジュネーブと結びつき、外国 会社によるものがブダペストと結んでいた。独露航空会社Deruluftが、ケー ニヒスベルクをコヴノ経由でモスクワと結びつけていた6。フーゴー・ユ ンカースは、彼が作った飛行機をできるだけたくさんの航空会社が導入す るよう徹底的に追求し、スイス、フィンランド、オーストリア、ロシアな ど9つの外国航空会社に参与した。国内でもJLAGは、地方の11の航空会 社に参与した。JLAGは、25年末時点で45機(製造会社は3社、全8タイプ)

を所有していたが、35機、5タイプがユンカース自身の製造した飛行機で あった7

もちろんユンカースも、軍事や秘密再軍備と無関係ではなかった。むし  Heinkel He 27–“Nighthawk”, in: Deutsches Museum Archiv(DMA),FA 001 / 0769.

 Karl-Dieter Seifert, Der deutsche Luftverkehr 1926-1945 −auf dem Weg zum Weltverkehr, Bonn 1999, S.9.

 Seifelt[1999], S.9. もう一つは、㈱ドイツ航空ロイド社(Deutsche Aero-Lloyd AG, DAL)であった。群小の航空会社が淘汰されて2大航空会社体制になったが、

それも、イ・ゲ・ファルベン社や合同製鋼のような大合同の波に乗って、1926年に はドイツハンザに統合された。

 Ibid.

 Ibid. 飛行機製造会社名は、Junkers Flugzeugwerk AG Dessau. 

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ろ当初は非常に強い関係があった。ヴェルサイユ体制下のドイツの秘密再 軍備の要請と独ソ関係から、ユンカースは国家の要請を受けて、モスクワ 近郊のFilliに飛行機工場を作った。そこで戦闘機、偵察機、爆撃機をソ連 のために製造し、全金属製飛行機の建造をロシア人に伝授することになっ 8。しかし、このユンカースのFilli工場は別稿で見るように、経営難に 陥り、うまくいかず、大変な重荷になった。旅客輸送の分野で、ドイツ・

アエロ・ロイド社と「情け容赦のない」激しい競争をしていることもあっ て余分な投資で経費が膨れ上がり、1925年には負債過多状態になった。そ れが、この会社とユンカースの航空会社との合併への進ませる原因にも なったのだが9、ともあれ、経営的にあまり楽ではない状態だったことも 重要な原因と思われるが、ユンカースは国家の要請による工場建設だった ということで国に対して損害賠償を求め、彼と国防軍は長期にわたる裁判 で争った。ユンカースはゼークトなどにも直接抗議し折衝を行っていた。

ユンカースの軍・国家との疎遠と思われる関係には、こうした負担をめぐ る軍・国家との裁判闘争が関連すると思われる。

さらに彼の政治的思想的立場も影響した可能性がある。ユンカースはド イツ民主党の党員であった10。会社の本拠地デッサウではグロピウスなど バウハウス─周知のようにナチス政権により弾圧される─との関係が密接 であった11。さらにフーゴー・ユンカースの会社は、世界経済恐慌の影響 を受けて経営危機に陥り、1932年3月、破産・支払停止となった12。この  Wolfgang Wagner, Der deutsche Luftverkehr ‐ Die Pionierjahre 1919 ‐ 1925, Koblenz 1987, S.49.

 Seifelt[1999], S.9-14.

 党員証は、Ibid., S.141.

 Walter Scheiffele, Bauhaus - Junkers – Sozialdemokratie: Ein Kraftfeld der Moderne, Berlin 2003. モダンな機能主義の点で共鳴関係にあるバウハウスとユンカ

ースの飛行機は、モンタージュ写真で両者の関係が象徴的に表現されている。Emil Theis, Das Dessauer Bauhausgebäude wird von einer(einmontierten) Junkers F13 überflogen, um 1928, in: Hans Georg Hiller von Gaertrigen(Hrsg.), Junkers Dessau: Fotografie und Werbegrafik 1892-1933, Göttingen 2010, S.30.

 Richard Blunck, Hugo Junkers: Ein Leben für Technik und Luftfahrt, Düsseldorf 1951, S.248ff.

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会社破産に関連してナチスによる「汚職」攻撃があり、ナチス政権誕生で ユンカースはデッサウから追放され、町への立ち入り禁止措置が取られ、

自宅軟禁状態に置かれた。彼の106の特許も強制的に放棄させられ、ナチ スによって利用された13。ユンカースの場合、ワイマール期においては平 和的な世界の航空交通に資する旅客・貨物輸送とその基盤となる飛行機開 発が中心にあったといえよう14。そうしたことが先の陸軍兵器局の評価(検 討対象外)に関係しているであろう15

 Günter Schmitt, Hugo Junkers ‐ Ein Leben für die Technik, Planegg 1991, S.315, 334.

 しかし、ナチスは彼の世界的名声を最大限に活用した。初期の飛行機「鳩」を 設計したユダヤ人のルンプラーの業績の完全抹殺とは違った対応であった。Hans Holzer / Helmut Trischler, Zuschreibungen, Umdeutungen, Ausgrenzungen:

Rumpler, Erich und das Taube-Flugzeug des Deutschen Museums, in : Elisabeth Vaupel / Stefan L. Wolf(Hrsg.), Das Deutsche Museum in der Zeit des Nationalsozialismus. Eine Bestandsaufnahme, Göttingen 2010, S.449-472. Lutz Budraß, Flugzeugindustrie und Luftrüstung in Deutschland 1918-1945, Düsseldorf 1998, S.320-335. ドイツにおける航空交通の初期発展史は、Wolfgang Wagner, Der deutsche Luftverkehr ‐ Die Pionierjahre 1919 ‐ 1925, Koblenz 1987.そのなかでの

ユンカースの「世界規模の」抜きんでた位置を参照。Ibid., S.54ff. したがって、ユン カースの貢献を歴史的に確認するための史料集めと伝記の出版企画は、1937年、彼 の死去直後に開始された。Elisabeth Vaupel / Stefan L. Wolf(Hrsg.), Das Deutsche Museum in der Zeit des Nationalsozialismus. Eine Bestandsaufnahme, Göttingen 2010, S.185.しかし、ナチ体制下のドイツ博物館では、鼻が大きく曲がった顔など「ユ ダヤ人の外見的特徴」なるものを含む非科学的な反ユダヤ主義の展示「永遠のユダ ヤ人」(1937年)が行われ、キリスト教の教会に火を放つ絵をバックにした「ボル シェヴィズム―反ボルシェヴィズム大展示」(1936年)、「大ドイツと海」(1941/42 年)など、体制の宣伝用展示が繰り返された。Wolfgang Benz, Die Ausstellung 》 Der ewige Jude《, in: Ibid., S.652-680; Jobst Broelmann, 》Großdeutschland und die See《. Kontinuität unde Diskontinuitäteines Themas in zwei Ausstellungen im Deutschen Museum, in; Ibid., S.619-651.

 1929年の春、飛行機製造・飛行機エンジン製造の業界が国に対して要請したこ とは、世界での競争に打ち勝つために「ドイツで製造した飛行機の技術的に高い水 神」を維持することに資することであった。ほかの業界とは別の特別の補助金を得 たいということではなく、民需、すなわち郵便業務に飛行機を多用することであっ た。Vorschläge zur Neuordnung der deutschen Luftfahrt-Wirtschaft überreicht von der Gemeinschaft der deutschen Flugzeuge und Flugmotoren herstellenden Industrie, Albatros Flugyeugwerke G. m. b. H, “Arado” G. m. b. H., Flugzeugwerft Warnemünde, Bayerischer Flugyeugwerke A.G., Bayerische Motoren-Werke A. G., Dornier Metallbauten G. m. b. H., Focvke-Wulf Flugzeugbau A.G., Ernst Heinkel Flugzeugwerke G. m. b. H., Junkers Flugzeugwerk A. G. und Motorenbau G. . m. b. H., Leichtflugzeugbau Klemm G. m. b. H., Raab-Katzenstein Flugzeugwerk G. m. bn. H., Rohrbach Metallflugzeugbau G. m. b. H., Siemens & Halske A. G.

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また、ナチス体制下では、ナチ党員の飛行機設計・製造者として活躍す るメッサーシュミットも、先の陸軍兵器局の言及対象になっていなかった。

彼の場合、1913年から23年まではグライダーの設計製造16、20年代から 30年代にかけてはスポーツ飛行機の設計製造が、主要活動分野であった。

メッサーシュミットはグライダーというスポーツ用飛行機の分野で実績を 積み、空軍禁止のヴェルサイユ体制下でそのスポーツ用飛行機の開発で能 力を鍛えていった17。しかし、メッサーシュミット有限会社は27年には過 剰負債の経営難に陥った。バイエルン州政府と国の交通省の努力で、㈱バ イエルン飛行機会社(Bayerische Flugzeugwerke AG)との利益共同体(一 種の合同形態)に進まざるをえなかった。しかも、30年の3月と10月には、

彼の設計した飛行機で、リブの破損や墜落事故が起きた18。それを克服す る過程で、ナチスとの関係を深め、ナチ党員になり、ナチ体制下にいたっ ては軍用飛行機生産の代表者の一人となった。そこに至るには彼の飛行機 Flugmotorenwerk, in: DMA, FA 001 / 1315. 経済恐慌が迫る厳しさの中でも、この 時点での業界の要望は、軍需拡大ではなかった。また、世界最高水準の技術水準を 維持するための公的資金、公的な「研究の発注」であった。また、世界市場でドイ ツ飛行機の半場を促進する国際コンテストなどへの支援であった。

 ドイツのグライダー発達史では、Harth-Messerschmittの貢献が一つの画期とな っている。Günter Brinkmann / Hans Zacher, Die Evolution der Segelflugzeuge, Bonn 1992, S.23-26.

 国際的な航空コンテストは、ドイツ航空クラブや航空スポーツ・航空技術促進協 会のような組織が主催し、たとえば、ミュンヘンで解された1925年の大会の場合、

国の交通省、バイエルン州の首相、商工業大臣、内務大臣、州議会議長、ミュンヘ ン市の市長などが名誉理事に名を連ねている。名誉委員には、国の交通省の航空・

自動車部の部長、自由ハンザ都市ブレーメン市長兼ドイツ航空連盟議長、工科大学 長、ドイツ新聞全国連盟バイエルン州連盟の議長、ドイツ飛行クラブ議長兼ドイツ 飛行機製造工業家連盟議長といった肩書の人物が並んでいる。スポーツ航空のすそ 野が広かったことを示している。Internationaler Flugwettbewerb München, 12-14.

September 1925, Flugplatz Schleißheim, Offiyielles Programm, in: DMA, FA 001 / 1398. ドイツ航空クラブ主催の国内周遊飛行コンテストも、この国際大会に先立って 開催され、リヒトホーフェン賞をはじめとする賞が出されている。DMA, FA 001 / 1397. 国際的な大会は、開催地の航空クラブが主催し参加者を募っている。1929年 の場合、フランス航空クラブが主催した。DMA, FA 001 / 1410. 平時における国際 的な競争がもたらす飛行機開発への刺激が大きかったといわなければならないであ ろう。 Heinz Mankau / Peter Petrcik, Messerschmitt Bf 110 – Me 210 – Me 410: Die Messerschmitt/Zerstörer und ihre Konkurrenten, Oberhaching 2001, S.10.

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と元戦闘機パイロット・飛行機学校教員との間にみられた親和性が形成さ れた時期ということで、ワイマール期は彼が軍用機製造業者への潜在的可 能性を蓄積した時期ともいえよう。そのことは逆に、ワイマール期の彼の 飛行機の事故多発時期(30年から31年)には、飛行機の買い手−被害者 サイド─としてのルフトハンザのエアハルト・ミルヒ─ナチ体制下空軍建 設の中心人物─との間では険悪な関係に陥ることも意味した19

メッサーシュミットの飛行機事故に関連しては、同業競争者としてのハ インケルも、緊張した関係にあった20。墜落事故原因についてハインケル 社も他人事ではなく、会社の設計専門家が調査検討した。そこでは、ナチ 党機関紙『フェルキッシャー・ベオバッハター(Völkischer Beobachter)』

で主張されているような理由─戦闘機パイロットの見地から指摘された理 由−、翼の桁(Einholm)に問題ありとする指摘は当たらない、なぜなら、

その採用自体は、いろいろなグライダーも、ハインケル社も採用している のであって、問題は別のところにある、と21。ナチ党機関紙の記事「飛行 機墜落事故とその諸原因」(Völkischer Beobachter, v. 14./15. Aug. 32)は、

「熟練を積んだ民間飛行機パイロット」によるものとされ、「専門家」とさ れているが、記事の内容と「専門家」であることとは「矛盾している」と  Mankau / Petreick (2001), S.10. 詳しくは、Hans J. Ebert / Johann B. Kaiser/

Klaus Peters, Willy Messerschmitt ‐ Pionier der Luftfahrt und des Leichtbaues, Bonn 1992. 第二次大戦期、英国空軍のシュピットファイアと激しい戦いを演じ、技 術革新でしのぎを削ったFw 190シリーズの設計者、フォッケ‐ヴルフ社の設計者

(31年11月以降)にしてテストパイロットでもあったクルト・タンクも、ワイマー ル期にはロールバッハ社で、30年1月から31年9月まではメッサーシュミット社 で、航空学校用飛行機や偵察機、長距離飛行艇、大型飛行艇の設計・製造などに関 わっていた。その民需用飛行機の能力開発と技術の蓄積が第三帝国期の軍用飛行機 開発で生かされることになる。ワイマール期の公然たる民需用飛行機の開発が第三 帝国の軍用飛行機開発に結び付くわけであるが、この検討も別の機会に回したい。

Cf. Wolfgang Wagner, Kurt Tank − Konstrukteur und Testpilot bei Focke-Wulf, Bonn 1991.

 1928年にライヒ交通省が、ハインケルと利益共同体関係にあったバイエルン飛行 機会社の株を売却する交渉をはじめ、それにはハインケルも関心を示した。メッサ ーシュミットは、これをつぶすべく、エルンスト・ハインケルと彼の設計を非難す る文書を関係の高官に提出していた。Mankau / Petrcik (2001), S.10.

 Schreiben Siegfried Günters vom 25. 8. 1932, Betr: einholmige Fläche, in: DMA, FA 001/0271.

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ハインケル社の設計専門家は会社内部の報告書でコメントしている。パイ ロットは、せいぜいのところ「飛行に関する専門家」でしかなく、設計分 野では決してそうではない、と22

ナチ党のセンセーショナルな記事(事故原因解釈)に対する痛烈な批判 が示され、ハインケルの専門家の観点からすれば、メッサーシュミット 機の事故原因は全く別の原因によるもので、「重さを異常に軽くする設計」

が問題で、それが「残念ながら安全性を犠牲にしている、と23。メッサーシュ ミット社と競争関係にあるハインケル社としては、ナチ党その他の陰謀説 において、「情報提供者」として、あるいは「組織的なウソ」の関係者として、

あらぬ疑いをかけられることも防御しなければならなかった。特に、32年 は経済恐慌が民間経営に厳しい時で、受注競争の上で「ハインケルの名声 にも影の部分がある」などと誹謗されるようなことがあってはならなかっ た。どこに事故の原因があるか、ハインケル社の飛行機にはそれが関係な いか、ハインケル自身、設計専門家の見地から、ドイツ航空機産業全国連 盟の会長(退役海軍大将Lahs)に対して、理解を求める文書を提出した24

しかし、第一次世界大戦期の戦闘機パイロットの観点からは、飛行機の スピードもさることながら、それを補いあるいはそれ以上に旋回性能・方 向転換や操作の柔軟性・反応の迅速機敏性といった戦闘機特有の要素が重 視され、メッサーシュミットの高性能のスポーツ用飛行機には特に関心が 高かったようである。「フューラー副官」ルドルフ・ヘスは、事故多発の メッサーシュミットの飛行機が世論の中で問題となる中、32年の夏、むし  Schreiben Brandts am 26. August 1932, Betr: Die BFW-Unfälle. Stellungnahme zu drei Artikeln, S.1, in: DMA, 001/0271. 

 Ibid., S.2.

 彼の部下Lusserも。Schreiben Heinkels vom 18. Oktober 1932; Stellungnahme Lussers vom 7. 10. 1932, Schreiben an v. Pfistermeister vom 7. 10. 1932, in: DMA, FA 001/0271. このファイルには関連文書がほかにもたくさんあるが、ここでは省 略。1932年はハインケル社設立10周年記念で、各方面からの祝賀が寄せられ、新 聞にも祝賀や貢献をたたえる記事が多く出されていた。その多様性については、Cf. 

DMA, FA 001/0282. しかし、油断はできなかった。それが飛行機事故原因の究明や ナチ党機関紙の議論への批判的解明となっている。

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ろメッサーシュミット機を擁護する論陣を張った25「メッサーシュミット・

スポーツ用飛行機の熱狂的な支持者」、元戦闘機パイロットから、メッサー シュミットは強い支持を得ていた。こうした関連でから彼がナチスとの直 接的関係が最も早かった設計者だったといえるかもしれない26

以上のような意味での、ナチスに疎遠なユンカースやナチス元戦闘機パ イロットに親和的なメッサーシュミットに対して、ハインケル社の場合、

すでに第一次世界大戦中から高速飛行機開発に実績と力点があった27。ド イツ航空技術の発達史を総括した25巻本(当初25巻の予定が現在では33 巻にまで増えている)のシリーズでのハインケルの特徴づけは、「高速飛 行機のパイオニア」である28

彼は飛行機設計に携わった早い時期から、スピードの世界記録樹立を目 指した。世界記録は欧米先進諸国における急速な飛行機の発達により次々 と塗り替えられていくが、その中でトップを走ろうとする競争心・闘争心 がハインケルにはある。たとえば、1939年3月にも、それまでの6年間の 世界記録保持者を凌駕することに成功した。そこで彼は、そのかつての世 界記録保持者・イタリアのFrancesco Agelloを自社工場に招待した。ここ での演説でハインケルは、イタリア、イギリスとの、そして国内のメッサー  Rudolf Heß, Sind einholmige Sportflugzeuge abzulehnen ?, in: Völkischer Beobachter, 20. August 1932, zit. n. Adolf Schustermann, Adressen-Verlag u.

Zeitungsausschnitte, Ausschnitt, in: DMA, FA 001/0271. 同記事でヘスは、ヨーロ ッパ一周飛行の競争で2度、メッサーシュミット機で勝利者となったMorszickの支 持も論拠としている。Morszickは、交通省に対して、例外的に、使用禁止の事故機 タイプM29でのコンテスト参加を―事故原因がまだきちんと解明されていないなど という理由を挙げて―求めている、と。

 ハインケルの場合、自叙伝で―第二次世界大戦後、非ナチ化の措置に引っかか る時期に書かれているものとして割引が必要ではあるが―風貌がユダヤ人に似て いるという理由で殴られたりして、ナチス台頭期・政権初期のさまざまの問題で ナチに対する反感や不服従の態度を示したことを強調している。Ernst Heinkel, Stürmisches Leben, hrsg. von Jürgen Thorwald, Stuttgart / Zürich / Salzburg 1958

(E・ハインケル / J. トールヴァルト著松谷健二訳『嵐の生涯』フジ出版, 1981年)参照。

 Ernst Heinkel, 1910-1925, 15 Jahre Deutscher Flugzeugbau; Die Kriegsflugzeuge der Hansa- und Brandenburgischen Flugzeugwerke AG., Konstruktion Ernst Heinkel, in: DMA, FA 001 / 1566.    

 H. Dieter Köhler, Ernst Heinkel − Pioniere der Schnellflugzeuge, Koblenz 1983.

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シュミットとのしのぎを削る中で勝ち抜いたことを誇り、さらなる前進へ の決意表明を行った。彼の飛行機開発の中心にある一貫した精神的態度が そこに端的に示されている29。第三帝国期になると、従業員への新年(1939 年)の挨拶が示すように、彼のそうした活動は主観的には「ドイツのため」

の創造という位置づけが前面に出された30

ともあれ、高速飛行機の分野は、軍需との関係が一貫して密接で強かっ た。まさに第一次世界大戦期こそが、彼の高速飛行機開発の飛躍の時期と なった。彼と軍、国家との関係は第一次大戦期にすでに決定的であった31 第一次大戦期は、その当時の飛行機の発達段階を反映して、軍は最初偵察 機を求めた。それから戦闘機へと発展する32。空軍禁止下の秘密再軍備は まさにこの分野と直接かかわる。

ドイツとロシアの軍事面での協力関係はラパロでの交渉の最初から進め られた。そしてパイロット養成・訓練がモスクワ南東360kmの中規模都市 Lipezkに設立された。1924年に施設が作られ、25年夏、元戦闘機パイロッ トに対する教育課程が実施された。その訓練用飛行機にはハインケルの飛 行機He 17が使われた33

1938年6月5日、ウーデット(第一次世界大戦の著名な戦闘機パイロッ  Vortrag, Besuch Angello’s Marienehe am 5. 5. 1939, in: DMA, FA 001/0173. 

Neujahswünsche Heinkels 1939 an die Gefolgschaft, in: DMA, FA 001/0173. この 世界記録樹立のすぐ後で、メッサーシュミットも記録を「ごくわずかだが」塗り 替えた。航空省のある責任者は、それは「あなたの飛行機の業績を引き下げるも のではない」と、祝賀会への断り状に添えて述べている。Schreiben Eisenlohrs, Hauptstabsingenieur, Reichsluftministerium、vom2. Mai 1939, in: DMA, FA 001/0288. 第三帝国下でも、熾烈な競争が続いていた。  

 彼はまた、前年のナチ党全国大会で、インターナショナルに権威が確立していた ノーベル賞の向こうを張ってナショナルな科学振興政策と関連して創設された芸術 科学国民栄誉賞が彼に「総統・首相によって」授与されたことを従業員に対する演 説で誇りとしている。Ansprache an die Gefolgschaft anläßlich der Verleihung des Nationalpreises für Kunst und Wissenschaft auf dem Reichsparteitag in Nürnberg am 6. Sept. 1938, in: DMA, FA 001/0173.

 Cf. Rüdiger Kosin, Die Entwicklung der deutschen Jagdflugzeuge, 2. , durchgesehene und Auflage, Koblenz 1990.

 Ibid., S.59.

 Lipezkの飛行機収納棟とその前に駐機しているHe17 の写真を参照。Ibid., S.60f.

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トであり、今や航空省技術局長)がHe 100 でその時点でのスピード世界 記録を達成(イタリア人の世界記録時速554キロを時速80キロ超えた)し たときのハインケルの演説(6月7日)は、高速飛行機と軍との直接的な 関係を端的に指摘している。すなわち、この世界記録達成によって、「わ れわれは最良の爆撃機He 111を有するだけではなく、世界で最も優れた 能力のある戦闘機を持つことになる」と。「14日前にイギリス首相チェン バレンが上院でイギリスはSpeedfireとHurricanで世界最良の戦闘機を 持っている」としたが、これらは時速約560キロであって、「われわれはイ ギリス人をはるかに凌駕したのだ」、「われわれは工場共同体の中で働き、

祖国ドイツにこのように重要なすぐれたものを創造したのだ」と34 ハインケルは、1938年5月1日の「国民的労働」日の演説では、「総統の 指導により、ドイツが何年もの厳しい屈辱のあとで再び世界強国になった」

ことを誇った。今や同年3月のオーストリア併合によって成立した「アド ルフ・ヒトラーの大ドイツ」を祝う民族感情の高揚と彼の誇る高速軍用機 の生産の意義とが結びつけられていた。工場の拡大、経営の拡大に伴う良 好な経済状態は、従業員への業績に見合った報酬を可能とし、またそれを 刺激剤とした。エルンスト・ハインケルは、「改善」提案制度を、彼の工 場で早くも1930年に導入して、提案を評価し、しかるべき報奨金を与える ことを制度化している35。また、従業員の生活条件も改善した。「社会的諸 施設」、すなわち、「美しい新しい従業員棟」、「従業員共同体のための舞台・

映画上映設備付きの新しい大祝典ホール」、「保健施設の新設」なども、軍 需によって改善した経営状態と結びつくものであった36。従業員の妻たち を集めた演説では、「主人たちが武器を作る鍛冶場という重要な持ち場で  Ansprache Heinkels an die Gefolgschaft anläßlich des Rekordfluges von Generalmajor Udet mit der He 100 am 5. Juni 1938, in: DMA, FA 001/0173. 

 Ernst Heinkel, Meine Erfahrungen als Betriebsführer mit dem betrieblichen Vorschlagswesen, Magdeburg 1943, S3. 自社のこの制度を、第三帝国下、工場拡大、

航空機産業建設の課題が大きくなる中で、さらにいっそう能率・業績向上、職業教育、

経営指導に活かした経験を普及すべく、労働戦線で講演したものを出版したパンフ レット(労働戦線中央教材出版部発行)で説明している。

 Ansprache Heinkels am 1. Mai 1938, in: DMA, FA 001/0173.

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働いていることを誇りに思っていると確信」していると、妻たちの理解と 協力を得ようとした。武器は「わが祖国の防衛と安全に決定的な役割を果 たすもの」だからだと37

先取りしてしまったので、ここで生い立ちをたどると、エルンスト・ハ インケルは1888年1月24日にグルンバッハで生まれ、1907年からシュツッ トガルトの工科大学(Technische Hochschule)で学んだ。大学では航 空、飛行術に関しても学んだが、当時、それは「全く初歩的な」段階であっ た。彼に反面教師的なショックを与えたのは1908年の飛行船ツェペリンの 事故を目撃したことであった38。フランスが先行する39エンジン飛行機の 製造への熱情に火がつけられた40。実際にこの道に進もうと思わせたのは、

1908年の秋、フランクフルトで開催された国際航空博覧会を見学してから だった41。フランスで発展している飛行機開発に刺激を受けた。それはさ しあたりは、軍事と結びつくものではなかった42。彼は1911年、ドイツの「飛

Ansprache Heinkels am 14. 3. 1938, in: DMA, FA 001/0173.

Ernst Heinkel, 28 Jahre Flugzeugkonstrukteur, 1937, in: DMA, FA 001/0173, S.1f.

ここで全体として利用するのは、鉛筆書きで冒頭欄外に1947年9月12日に清書さ れたものとのコメントが付された版で、A4全文32ページの文書である。以下では、

Heinkel(1947)と略記する。同じ文書ファイルには、1937年当時のオリジナルと 思われるA4全文27ページのタイプ版も収められている。基本的には同じ内容だが、

1937年版で書かれていて、47年版では省略されている個所もある。37年版を引用す るときには、Heinkel(1937)と区別することにする。

 Heinkel(1937), S.2. そ こ で は、 フ ラ ン ス 人 開 拓 者 と し てNieuport、Latham, Farman, Blériotの名前が列記されている。最初の時期、ハインケルはFarmanシ ステムに熱中していたとも。Ibid., S.4. 事実、彼の最初の飛行機はFarman複葉 飛行機の改良型であった。Ernst Heinkel Flugzeugwerke G.M.B.H, Typenschau.

Überischt der vom Jahre 1910-1918 von Prof. Dr. Heinkel konstruierten See- und Landflugzeuge, Rostock/Berlin, in: DMA, FA 001/0768.

 エンジン飛行機を開発しようとすれば、当然、エンジンの確保が大前提となる。

ハインケルはその飛行機開発の最初に、ダイムラーからエンジンを貸与されたこ とを記している。Heinkel(1937) , S.4. 自動車産業と飛行機産業とは最初から密接 な関係にあったということになる。Cf. Kyrill von Gersdorff / Kurt Grasmann / Helmut Schubert, Flugmotoren und Strahltriebwerke: Entwicklungsgeschichte der deutschen Luftfahrtantriebe von den Anfängen bis zu den internationalen Gemeischaftsentwicklungen, 3. Ergänzte und erweiterte Auflage, Bonn 1995.

 Heinkel(1947), S.2.

 彼がアルバトロス社で最初に作った4機種(1912/13)の使用目的は、「スポーツ 用飛行機」と。Typenschau. Überischt der vom Jahre 1910-1918、op. cit., S.7f..

3738

39

40

4142

(12)

行機生産の中心」だったヨハニスタール航空会社(Luftverkehrsgesellschaft Johannisthal)で設計者として働き始めた。1912年には、アルバトロス社 の設計者となり、そこでの最初の独立的な作品が単葉機であった43。ハイ ンケルによる「世界記録」への挑戦は、このアルバトロス社の時代から始 まっていた。彼は高度記録、航続時間記録などで、当時の世界記録を達成 した44

ハインケルは1914年春から、ハンザ・ブランデンブルク飛行機会社で、

次いでバルト海沿岸のトラーフェミュンデのカスパー社で主任設計者とし て活動した。この間の、第一次世界大戦こそが、彼の軍用飛行機開発に拍 車をかけた45。彼はごく初期から単葉機こそが合目的的で合理的と考えた が、軍関係者からは必要な理解が得られなかった46。当時支配的だった複 葉機の設計に取り組まざるを得なかった。しかし、「革命的な」技術開発 に成功し、彼の設計した複葉機B Iは、アルバトロス社の全軍需生産の「基 本タイプ」となった47。B Iは戦争中、1000機以上生産された。訓練用のB IIは、1924−25年まで何の変更も加えられず、製造が続けられた48。大戦 中に彼が開発したタイプは41に上った。ドイツ海軍の全水上飛行機の主要 部分は彼のものだった49

軍から「視界を上方にも下方にも拡大した」飛行機が求められるに至っ て、彼の単葉機開発のチャンスが到来した。彼はW 29を作り披露した。

しかし、その披露の際、「何も知らない当局者」は、単葉機であることに  Heinkel(1947), S.6.

 Heinkel(1947), S.10. 第一次大戦勃発までのドイツの初期飛行機開発史は、Cf.

Werner Schwipps, Schwerer als Luft. DieFrühzeit der Flugtechnik in Deutschland, Koblenz 1984.

 ドイツにおける爆撃機・偵察機の発達史はここでの対象ではない。Cf. Jean Roeder, Bombenflugzeuge und Aufklärer. Entwicklungsgeschichte, Ausrüstung, Bewaffnung und Einsatz der deutschen Bomben- und Aufklärungsflugzeuge im internationalen Vergleich von den Anfängen bis zur Enttarnung der Luftwaffe,

Koblenz 1990.

 Heinkel(1947), S.8.

 Heinkel(1947), S.7f.

 Heinkel(1947), S.10.

 Heinkel(1947), S.11.

4344

45

4647 4849

(13)

驚いた。この飛行機がヴェルネミュンデのゲレンデに飛来したとき、「パ ニック」が起きた。複葉の上の翼が失われてしまった、墜落かと。しかし、

実戦に投入されると、「有名な重武装」の敵船を破壊した。ドイツ海軍の 航空隊には新しい実戦配備の可能性が示された50

飛行機の開発は、第一次世界大戦の戦いのなかでしのぎを削って進めら れた。W12という機種は複座の戦闘機を作り出す努力から誕生した。速度 と方向転換では単座戦闘機に決して劣らず、単座のように後方からの攻撃 に無防備にではない戦闘機を必要としたからであった。それは、あらゆる 設計の可能性を「徹底的に利用しつくして」初めて可能だった。後方に向 けた可動機関銃に対し、胴体や尾翼を工夫して可能な限り射程が制限され ないようにしなければならなかった。さらに複座化に必然的に伴う機体の 大型化や重量の増加にもかかわらず、戦闘機としての飛行特性を実現しな ければならなかった51。W 12は、その優れた機体性能の実現により、「最 も強い敵でも躊躇なく攻撃」できたという。こうした開発によりドーヴァー 海峡でのイギリス人の優勢を打ち破り、北海の制空権を獲得した。W 12 はこうした優位を1年半にわたり、凌駕されることがなかった、と52

戦時下の新機種開発は、「飛躍的テンポで」進められた。ハインケルに よれば、この時期の新型開発は、ナチ体制下の「テンポと比較しても」は るかに速かった。新型の開発要請と新シリーズの製品提供との間隔は、ナ チ体制下では技術の高度化もあって「最も良好な場合でも1年半で、多く の場合3年かそれ以上」になっていたが、W 12の場合、1916年の秋に設 計の準備作業が始まり、はやくも翌年の1月には最初の実験機を提供し、

春には前線に実戦配備されたという53

戦後、ヴェルサイユ体制下でドイツの飛行機は破壊を命じられた。しか  Heinkel(1947), S.15f.

 Heinkel(1947), S.14  Heinkel(1947), S.14f.

 Heinkel(1947), S.19.機中に積み込む無線機など、飛行機に求められる機器類が 多くなり複雑になることも関係した。Cf. Fritz Trenkle, Bordfunkgeräte − Vom Funksender yum Bordradar, Koblenz 1986. 

5051 5253

(14)

し、開発の最良の成果の一つであるW 29は「大切に取り扱われた」。その 多数が「協商国に奪われ、全協商国で熱心に利用された」。ハインケルは 1925年に日本に行ったとき、横須賀の海軍飛行場で「非常に良い状態の 1918年製のたくさんの私の可愛い子供たち」を見た。そのとき、彼は自分 の目を信じられなかった。一部はオリジナルの機体であり、一部はそれを 模倣したものだった。その模倣の仕方は「極めて頑固なもの」だった。た とえば凸凹のようなオリジナルの機体の製造ミスさえも、そのまま模倣し ていた。設計ミス─戦時の慌ただしい作業で不可避的だったミスなのだが

─さえ「忠実に」真似していた。「これほどまでのドイツ技術への尊敬とは」

54

それに対して、「ハンザ─ブランデンブルク社も私も」ライセンス使用 料を受け取っていなかった。しかし、そのことを1937年の段階─今や、日 独伊の同盟関係が進展しているという国際関係の変化もあったであろうが

─では、「悪くは思っていない」。なぜなら、その後、日本が「私の工場のもっ とも熱心なライセンス購入者になったからである」55。したがって戦勝国

 Heinkel(1947), S.16.

 Heinkel(1947), Ibid. 新製品も購入を続けた。たとえば、1937年には、「さらに 3機のHe 116」発注を受けた。日本側は品質保証を求めてか、この同じ機種をルフ トハンザ社が予定している東京への航路に投入することを表明するよう要請した。

しかし、ハインケル社とは別会社の機種使用確約に関するこのような日本側の要請 は、ルフトハンザに拒否された。Aktennotiz vom 26. Oktober 1937, Betr.: He 116 – Japan, in: DMA, FA 001 / 0819. 日本側は飛行機の性能を確認すべくサハラ横断 飛行を計画した。この試験飛行や売買交渉には陸軍中佐・森、平山と2人のパイロ ットが参加した。Schreiben an Heinkel u. a. vom 3. Febr. 1938, Betr.: He 116 Japan für Sahara-Flug, in: Ibid. 38年2月15日にサハラ砂漠に向け飛び立ったが、全作業 に非常な満足を表明した。日本大使館付き武官はハインケルに多大の支援への感謝 を表明した。Mitteilung an Heinkel vom 15. Febr. 1938, in: Ibid.日本側の機体引取 り委員会は、Direktor Mori, Ueno Deutsche Bussan, Hyrayama, Matsui, Ishikawa, Dr. Tatsumiからなっていた。Mitteilung an Heinkel vom 16. 3. 1938, in: Ibid. 2週 間の試験飛行では何の問題もなかったが、最後の段階で一連の装置が作動しなかっ た。そこで、最後の調整が行われることになった。エンジンの流水ポンプに問題 が見つかり、30分で交換。Mitteilung an Heinkel vom 22. 3. 1938, in: Ibid. 飛行機 は計画の中継地(Berlin-Rhodos-Basra-Karachi-Kalkutta-Bangkok-Formosa-Tokio)

をなんの問題もなく通過して、38年4月29日ドイツ時間7時15分に無事東京に到 着。「天皇誕生日に着くように意図した」ことが実現した。大島大将に対し、ハイ ンケルは天皇誕生日に計画通りに着陸できたことを喜ぶ電報を打った。Mitteilung, 5455

(15)

による兵器の没収は、「ある程度、無意識の顧客宣伝」になったからである、

とハインケルは総括した56

第一次世界大戦が終わったとき、「われわれに疎遠な課題は何も残って いなかった」という。初期の研究段階から「途方もなく拡大する実践」を余 儀なくされ、航空機開発の飛躍を実体験したからであった。その飛躍の規 模は、「1933年から35年の発展によってかろうじて凌駕されるほどのもの」

だった、と57

彼はこの高みの自覚に立って、戦後、1922年にヴァルネミュンデ(バルト海 沿岸)にエルンスト・ハインケル飛行機工場(Ernst Heinkel Flugzeugwerke)

を設立することになった。1945年までに100種類以上の飛行機を設計した

58。その中にはヨーロッパ最初の高速交通飛行機(He-70)、最初のロケッ ト飛行機の一つ(He-176)、最初のジェット機(He-S3B)、緊急時脱出用 射出座席、大洋横断航空のためのカタパルトなどの設計もあった。第三帝 国期、とりわけ戦時期の生産拡大に伴い、生産拠点も増えた。1943年に設 立されたエルンスト・ハインケル株式会社は従業員数5万人に膨張してい た。ロストック(マリーエンエーエ)、オラーニエンブルク、ヴァルター Betr.: Überflug He 116 I und II nach Tokyo, in: Ibid. 日本大使館付き海軍大佐 Hideo Kojimaは、ハインケル宛てに深甚の謝意を表明した。Schreiben an Heinkel vom 30. 4. 38. これに対しハインケルも、He 116の葉書で謝辞を送った。ただ、5か 月後の文書を見ると、満州国(航空)会社に渡った機体に問題が発生しなかったわ けではなく、プロペラ修理、エンジン修理などでの損害賠償交渉がおこなわれてい る。Reisebericht Nr.1075 vom 28. Sept. 1938, in : Ibid. 日本陸軍が購入したHe 118

(JunkersのJu 87, Blohm & Voss Ha 137の対応機種、500キログラム爆弾を正確に 目標に投下する急降下爆撃機) に関する一連の同様の交渉記録は、DMA, FA 001 / 0820.  

 Heinkel(1947), Ibid. なお Heinkel(1937)では、第一次世界大戦中の同盟国オー ストリアの海軍とドイツの海軍が別々の水上飛行機の開発・投入路線を歩んだこと にも言及している。Heinkel(1937), S.13. ドイツ海軍は、飛行艇では満足のいく成 果をえられなかったが、オーストリア海軍は、二つのフロートを持つ飛行艇に「熱 狂した」。オーストリアはバンフィールド少尉の指揮下で、イタリアのカプローニ の大型飛行艇と戦って大いなる戦果を挙げた、と。

 Heinkel(1947), S.19.

 1922年から40年までのハインケル社の機種の一覧は、Ernst Heinkel Flugzuegwerke G.M. B. H., Typenschau. Übersicht der vom Jahre 1922-1940 gebauten See- und Landflugzeuge, Rostock/Berlin, in. DMA, FA 001/0768.

56

5758

(16)

スドルフ(いずれもベルリン近郊)、ウィーンに工場を、イェンバッハに 鉱業・製錬所、シュツットガルトにヒルト・モーター工場、そして合同東 部工場(Vereinigte Ostwerke)を持つに至っていた59

1918−19年の「崩壊」の後、ドイツの航空機製造者にとって「悲しい 時代」がやってきた。「気が遠くなるような仕事」の連続状態から突如と して4年間のすべての創造が無意味に見えるような状態に陥った。ハイン ケルは、自分の世代のうちにドイツが復興するなどとは「もはや考えられ なかった」。特に協商国の委員会によって「サディスティックなやり方で」

行われた荒廃、たとえば主翼横木が切り刻まれ使用不能にされた様子、機 関銃、機器類がそのごく小さな交換部品に至るまでが破壊されていた実態 などを見て、そう感じたという。ドイツは敵の意思によって永久に空が無 防備とならざるを得ないのだと諦観したハインケルは、2年間、ほかのこ とに従事していた60

そこに、トラーフェミュンデの会社からの設計の仕事が持ち込まれた。

戦後最初の「抜きん出た」飛行機として、1921年に潜水艦(Uボート)積 載のU 1が作られた61。ハインケルの場合、こうし最初の作品から兵器で あった。潜水艦に積み込むのを容易にするため、再び複葉機が選択され た。迅速な解体と組み立てという特性のための技術開発がなされた。機体 は合板で作られた。組み立てはなんらかの工具を使用することなくできる ようにした。同時に、上下の翼も胴体とは別に作られた。組み立て実演で は、必要時間が「わずか1分半」であった。この飛行機は、登場すると「相 当な驚嘆」でもって迎えられ、多数の国の海軍が購入した。ハインケルは 1925年の世界旅行の際、この飛行機がワシントン近郊の海軍の港におかれ ているのを見た。同伴した将校はハインケルに迅速な解体・組み立ての素  彼の自叙伝Ernst Heinkel, Stürmisches Leben, hrsg. von Jürgen Thorwald, Stuttgart 1953(松谷健二訳『嵐の生涯』フジ出版, 1981年).

 Ernst Heinkel, 28 Jahre Flugzeugkonstrukteur, 1937, in: DMA, FA 001/0173, S.20f.

 Typ U.I, Unterseebootflugzeug, Baujahr 1920/21, in: DMA Fa 001/0767. この機種 は、軽量単座機として、スポーツ目的にも使われ、民需市場を見出した。Ibid., S.2.

このファイルには、この機種と第一次大戦期の先行機種の関係を示す文書が多数。

59 6061

(17)

晴らしさへの讃嘆を吐露した。もちろんこの飛行機は強靭さにかけ、幾分 過敏で操縦が難しかった。しかし、55馬力のモーターで時速150キロを達 成した。それは「優れた性能」だった。この飛行機はハインケルの諸外国 における名声を確固とするのに貢献した。戦勝諸国や中立国は自らの兵器 の向上のために敗戦国ドイツの技術革新の精髄を吸い取ったことになる。

ハンザ ‐ ブランデンブルク社のW 29の改良型は、トラーフェミュンデ でS IとS IIとして設計され、中立国スウェーデンでスウェーデン海軍の ために製造された62。その後、魚雷飛行機がスウェーデン海軍の求めに応 じて、作られた。魚雷飛行機(Typ H. D. 14)の開発はすでに1924/25年 に行われた。この飛行機の主要目的が爆弾・魚雷の投下にあるため、とく に大きな重量運搬力を特に考慮して建造された。700馬力のモーターを使 用し、重い重量を運ぶ必要性から、複葉を採用した63。1928年の新聞記事

─したがって公然とした情報─によれば、12月11日にドイツから引き渡 された。それは、スウェーデン海軍にとって「苦労して得た新たな成果」

であり、スウェーデン最初の魚雷飛行機であった。飛行は「素晴らしく順調」

であった、と64。1924年には、スウェーデン航空会社(Svenska Aero A.B.

Stockholm)に対して、H. D. 17/19が設計され、引き渡された。この機種 は、「戦争の経験をもとに」、現代的な戦闘機・偵察機に求められる飛行性能、

戦闘力、操縦しやすさ、すぐれた上昇力の実現を考慮して設計された65 この「片持ち梁」のマシーンには400馬力Libertyあるいは450馬力Napier

 Heinkel(1947), S.21f.

 Typ H. D. 14. Seetorpedoflugzeug.Baujahr 1924/25, in: DMA, FA 001/0769.

 Übersetzung- Unser erstes Torpedoflugzeug klar, aus- “Sydsvenska Dagbladet Snällposten” Nr. 341 v. 12. 12. 28, in- DMA, FA 001/0769. Daily News紙は、1929 年2月26日にこれを報じた。Ein Luftteufel, den der schwedische Staat eingekauft hat, in: Ibid. この記事によれば、この新型飛行機は、ドイツの飛行機製造会社ハ インケルとイギリスのエンジン製造会社Armstrong Siddeleyの「結合製品(ein komibiniertes Produkt)」であった。1トンの魚雷を抱えて、実際に見えないほど の高さに上昇し、突如として敵の艦船の上空から時速800km以上で下降し、魚雷を 発射し、すぐさまほぼ垂直に再び上昇して、敵の大砲の射程外に達するもの、とさ れている。タイトルにあるように「空の悪魔」と。

 Typ H. D. 17/19. Landflugzeug Baujahr 1924, in: DMA, FA 001 / 0769.

6263 64

65

(18)

のエンジンを搭載することとした。2基の固定機関銃、1基の可動機関銃、

そしてかなり大きな特殊カメラの組み込みが予定されていた。この飛行機 の場合は、迅速な組み立て可能性と解体可能性に最大の価値がおかれてい た。二つの座席には全方向への視界と射撃の良好性とが保証されたと66

アメリカもまた、ハインケルの飛行機を求めた。貨物郵送機(郵便物輸送)

であったが、「極めて厳しい条件で、しかも夜間飛行に投じられる」とい うものであった。これに応え、1925年初め、He 27 ”Nighthawk”を開発 し、アメリカに引き渡した67。この開発線上で27年には、「最初の純粋な 新聞輸送機として」ハインケル自身が設計に直接関与してHe 39を開発し た。この機種では、新聞輸送の飛行機という特殊目的に応じて機体および 積載空間が「抜本的に」拡大された。大きなハッチが積載と荷卸し作業を 容易にし、ハインケルによって改善された新聞パック用の吊り下げ・投下 装置が荷役場がないところでも作業を可能にした68。「世界最初の新聞専用 機」He 39は、11か月間に85,400キログラムの新聞─部数で1,308,200−を 運び、総運行距離は10万キロを達成した。「この分野では世界記録」を樹 立した、この実績の結果、ウルシュタイン社はさらに大量の輸送が可能な 機種を発注し、He 40が開発された、と69

こうして、さまざまの用途に応じた機種、大量生産の前提となる規格の 構築とその革新が進められた70

しかし他方で、戦勝国はドイツ空軍を破壊しただけではなく、ドイツに 対しては武装・装甲飛行機の新しい建造を禁止するための兵器概念も作り

 Ibid.

 Heinkel He 27 – “Nighthawk”, in: DMA,FA001 / 0769.

 Heinkel He 39, in: DMA,FA001 / 0769.

 Die ersten Zeitungsflugzeug der Welt. Die ersten 100,000 km eines Zeitungs- Transport-Flugzeugs, in: DMA,FA001 / 0769.

 1925年の水上水飛行機Typ H. H. 25, Seeflugzeug, Baujahr 1925は、「軍艦で使用 するため」開発された。同年のTyp H. D. 26, Seeflugzeug, Baujahr 1925も、軍艦 に積んで高速の空中戦のために開発され、機関銃が組み込まれた。最大積載1700キ ログラムで、5分間で1000メートルの上昇能力、時速185キロメートルであった。

Ibid..

6667 6869

70

(19)

出した(1922年4月)。そのために、エンジンの馬力制限、積載重量制限、

航速制限、上昇能力制限などを設定した71。ハインケルにとってはこうし た禁止的制限は耐えられるものではなかった。戦勝国があくまでもドイツ を飛行機製造の発展から締め出そうとするのならば、ドイツの飛行機製造 企業は外国市場を獲得するほかなかった72。かくして、戦勝諸国が敗戦国 ドイツの技術と製品を吸収し、兵器開発を進展させた73。その意味での軍 拡−兵器革新─を戦勝諸国が推進した。

ハインケルがヴァルネミュンデに自分の会社を設立したのは、1922年で あった74。協商国がドイツに22年5月5日から一定の制限内で飛行機製造 を許可したからであった75。わずかの資本とこの上ない厳しい諸環境の下 で、仕事を始めるほかなかった。最初の設計事務所はトラーフェミュンデ

の飲ク ナ イ ペみ屋の中に置かれ、小さなスポーツ飛行機の製造が手始めであった。

しかし、はやくも23年にはHe 3がイエテボリ(スウェーデン)の国際飛 行機コンテストでスポーツ飛行機の一等賞を獲得した76。24年には国防省  1922年4月14日、大使会議が、ドイツ政府に製造していいものと製造してはなら ないものの「概念の諸規定」を提示した。Mankau / Petrick(2001), S.9.,

 Heinkel(1947)., S.22f. 当然のことながら、資本金も急拡大。1928年には5万ライ ヒスマルクから10万ライヒスマルクに倍増。商業登記報告。Schreiben an Heinkel vom 3. Juli 1928, in: DMA, FA 001/0294.

 この武器禁止・軍縮・軍拡の逆説的に絡み合った相互関連は、原爆開発とロケッ ト開発でも見られることである。原爆もロケットもアメリカとソ連がドイツの人材・

技術を導入して行った。ナチ体制下でV2をつくり、その能力を持って戦後アメリ カにわたってNASA宇宙開発(月との往復ロケット開発)で活躍したフォン・ブ ラウンについては多数の書物があるが、さしあたり、新しいものとして、Michael J. Neufeld, Wernher von Braun: Visionär des Weltraums, Ingenieur des Krieges, München 2009[Aus dem Englischen von Ilse Strasmann](Von Braun, Dreamer of Space, Engineer of War, New York 2007). 原爆開発問題では最近の拙稿「1942

年ドイツ軍需経済の課題とシュペーア―ナチス原爆開発挫折の要因分析のために

―」『横浜市立大学論叢』第65巻 人文科学系列 第1号を参照されたい。Cf. Yves Le Maner / André Sellier, Bilder aus Dora : Zwangsarbeit im Raketentunnel 1943- 1945[Aus dem Französichen. übers. Waltraud Gros], Berlin/Bonn 2001.

 Heinkel(1947), S.23.

 Mankau / Petgrcik(2001), S.9. 

 Heinkel(1947), S.23. Typ H. E. 3. Land- und Wasserflugzueg, Baujahr 1923, in:

DMA, FA 001/0769. 必ずしも一等賞ばかりをとれるわけではなかったが、好成 績 を 残 し た。Schreiben der Geschäftsstelle des Aeroclubs von Deutschland an Heinkel am 18. Juni 1925, in: DMA, FA 001 / 0769.

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(20)

の補助金を受けて民間の「スポーツ飛行有限会社」が設立され、軍飛行士 の養成機関ともなるものができた77

しかし、ハインケル社はこうした民需、スポーツのための飛行機製造 の枠内にとどまることはできなかった78。1923年のフランスとベルギー によるルール占領を機に、国防軍はアクティヴな軍事航空の再建に対し ては慎重だった政府の抵抗を放棄させることに成功した。「スポーツ飛行 有限会社」が小型飛行機の飛行訓練しかできないので、それを補うもの として25年4月1日、ドイツ民間飛行機パイロット養成学校(Deutsche Verkehrsflieger-Schule, DVS)が創設された。そこでは、「B2資格証明書」

までの軍パイロットを養成することが可能であったという79。25年には、

国防省内、陸軍兵器局の開発課が新しいドイツ空軍の建設のための準備作 業を開始した80

こうした国防軍内の一連の動きも作用したであろうが、ハインケルは あらゆる制限的禁止的な概念規定を無視して、「外国のための軍用飛行機」

の建造に向かった。それを可能にしたのは、買い手として登場した戦勝国 であり中立国であった。北欧諸国、アメリカ、ロシア、中国、ハンガリー、

そして特に日本が顧客となった。ヴェルサイユ体制の制約を順守させるべ く、「協商国の監視委員会」がヴァルネミュンデのハインケル社に頻繁に やってきた。しかし、何か問題になるものを発見することができなかった。

協商国の一員として監視委員会のメンバーでもあった「日本の友人たち」

が、監視委員会の調査の危険が迫ると、毎度、適時にその秘密の内部情報 を提供したからであった。戦勝国の一員日本がヴェルサイユ体制の禁止条 件を破った。日本の委員から監視委員会来訪の情報が入ると、すべての危 険な部品や製品を工場から注意深く取り除き、隠すことができた。問題に

 Mankau / Petgrcik(2001), S.9.

 同じトラーフェミュンデにあった交通省管轄下の「ドイツ交通―パイロット養成 学校」との「良好な隣人的関係」もあった。Heinkel(1937), S.18.

 Ibid.

 Mankau / Petgrcik(2001), S.9.

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参照

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