長野工業高等専門学校 ・紀要第31号(1997) 133
ローマ帝政前期の皇帝裁判における皇帝顧問団
― 判 決 決 定 へ の 関 与 を 巡 っ て ―
新 保 良 明
The consilium principis and the Imperial Jurisdiction in the Roman Principate
Yoshiaki SHIMPO
Inthisarticle,WeinvestigatetheroleofthecoDSL'll'umpzmclbL'sintheRomanPrincIPate. Manyscholarssaid,likeJ.A.Crook,thatitwastheemperorthatfinallydecidedtheverdicts intheimperial court.W.Kunkel,however,deniedthistheory,thoughtthatitwastheconsJ'll'um pn'DCli)Isthatdecidedtheimperialjudgments.Then,wediscusswhowastheverdict・maker.The conclusionisthefollowing:(1)ⅠntheRomanRepublic,theverdict・makerintheextraordinary courtwasnotthecoL731'11'um,butthemagistraljudge; (2)Simi larly,intheimperialcourt,the emperorwhowasthejudgedecidedtheverdicts; (3)TheconsL'JL'um pz・IDClbL'sjustifiedthe imperialjudgments.
キー ワー ド :皇帝裁判,顧問団,判決
1.は じめに
古代 ロー マ 帝 政 史研 究 にお い て ,皇 帝顧 問 団 consiliumprincipisが政治史,国制史,法制史な ど 様 々な分野か ら頗 る重要 な存在 とみ な され て きた こ とは言 を侯 たない.それは皇帝 と共 に地方共同体 や外国か らの使節 を接見 し,行財政や軍事の諸問題 に関す る彼の諮問に応 じたのみな らず,皇帝裁判 に あっては,裁判官たる帝 に陪席 して司法にも携わっ たからである 1).か くの如 く多様 な機能 を果た した 顧 問団 は皇帝 に よる権力行使 の諸側 面において看 過 しえない役割 を担い,本組織 こそが帝国統治に継 続性 と安定 をもた らした とまで評価 されてきた2) .
だが,かかる高い評価 にもかかわ らず,顧問団は 史料的に唆味な点,不明な点 を多々抱 えてお り,そ の全体像に到達す ることは極 めて困難である.例 え
ば,帝政期 には,皇帝顧問団を意味す る専門用語す ら見 当た‑らず,史料は これ を 「友人たちamici」,
「一流の市民たちprimorescivitatis」, r助言者 たちconsiliariiJ, 「両身分 (‑議員身分 と騎 士身 分)の貴顕の人士たちutriusqueordinissplendidi viri」な ど多様に形容 している3).従 って通常,我々 が用いる 《consilium principis》 も研究のための便 宜上の術語 にす ぎないのである4).かか る史料的制 約のため,顧問団の内実に踏み込んだ諸研究は幾多 の見解の相違を提供 してお り,現段階において も欧 米学 界が顧 問団 に関 して共通理解 を形成 してい る
とは言い難 いのが実状である.
研 究者間の主要な論争点 を列挙 してみ ると,次の よ うになろ う.A.顧 問団は審議す る内容 に応 じて 召集 されたのか否か.即 ち,一つの顧問団が多様 な 問題 に対応 したにす ぎないのか.それ とも,問題毎
★ 本稿は日本西洋史学会第44回大会における口頭発表の一部を修正加筆 したものであり,本年度科学研究費.「基盤研究 C‑ 2」の研究成果の一部でもある.
" 一般 科 助 教授
原稿 受付 1997年10月31日
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に,用途 に応 じて顧 問団が召集 されたのか5).B.
顧問団は如何 なるメンバーか ら構成 されたのか.即 ち,皇帝がメンバー をその都度 ,適宜召集 したのか, 元老院が彼 らを人選 したのか6) . C.顧 問団が下 し た結論 はあ くまで も皇帝 に とって参考意見 にす ぎ なかったのか,それ とも皇帝はそれ に従わねばな ら なかったのか7).勿論,かかる論点すべてに直ちに 解答 を与えるこ とは,筆者の能力 をはるかに超 える.
そ こで,差 し当た り,小稿はC.の問題 に焦点 を絞 ってみたい.とい うの も,これ を取 り上げることは, 顧 問団が帝国統治 に重大 なる貢献 をな した とい う
(多分 にアプ リオ リな)通説の当否の一端 を再確認 す ることにつながる と思われ るか らである.
しか し詳細 な顧 問団会議録 な ど残 存 してい るわ けがな く,セネカな ど政治的実力者 に して著作家の 作品を検討 し,その思想 と皇帝 の政策 との関連 を査 定 して顧 問団の影 響力 を推 し量 る手法 も困難 を窮 めよ う8).しか も,顧問団は帝政期 を通 して ‑ 後 期帝政に至 り,変質 した とはい え ‑ 存続 した組織 であ り9),顧 問団を治世毎に逐一検討 してい くこと も事実上不可能である.かよ うな限界 を考 え,/J、稿 は帝政前期の皇帝裁判 に同席 した顧 問団が,特 に刑 事裁判 にお ける判決決 定に如何 に関与 したか を跡 付けることを課題 としたい.後述す る如 く,これ こ そが最大の論争点 を構成 してい るか らである.
2.問題の所在 ‑ 研 究 史 ‑
皇帝顧 問団は実際の諮問の場 では,如何 なる役割 を担 ったのであろ うか.これ を巡 り,諸説の一致点 が見出せ るところは,顧 問団が政治 ・行政問題 を扱 うケースであ り,この場合,顧 問団は参考意見を求 め られたにす ぎず,決定はあ くまで も皇帝の最終的 判断に任 された と論 じられてい る.幾つか具体例 を 見てみ よ う.(D48年, クラウデ ィクス帝はガ リア 貴族 を元老院 に入 会 させ るこ との是非 を顧 問団 に 諮問 し,賛否両論が呈 され る中,彼 はその許可を強 引に決 している.② マル クス ・ア ウレリクス帝は甚 大な る被害 を もた らす マル コマ ンニー戦争 の終結 を友人たちか ら進言 され なが ら,これ を頑 として拒 否 し続 けた と言 う.③逆に,息子の コンモ ドゥス帝 は戦地 において顧 問団 を前 に首都 帰還 を一方的 に 宣告 した後,これ‑の反対論が巻 き起 こって も,平 然 と無視 して戦線 を離脱 してい る10)
確かに,これ らとは逆 に,皇帝が顧問団の意見に 従った事例 も認 め られ る.ヒス トリア ・ア ウグスタ
によれば,④ ピウス帝は,属州行政 も含め如何なる 問題であろ うと,決定を下す前に友人たちに必ず諮 問 し,彼 らの意見に沿って最終決定を下 した と言 う.
また同史書によると,⑤マル クス ・ア ウレリウス帝 は軍政 ・民政 を問わず,有力者た ちに相談すること を常 とし,「余一人の意見に多 くの友人た ちが従 う よ りも,余が彼 らの意 見 に従 う方が正 しいであろ う」 と語 った とされ る 11). しか しそのマル クス帝 が② において顧問団の進言 を斥 けてい る点か らも,
④ と⑤の二例 は,顧 問団の意見が皇帝 に対 して拘束 力を有 した ことの証拠 とはみな されえず,顧問団を 尊重 しよ うとす る帝の姿勢が賞賛の対象 として叙 述 されたにす ぎない と解 さざるをえない.か くの如 く,軍事や行政の諸問題 を巡 っては,皇帝が顧問団 の意見を尊重す ることはあって も,それに束縛 され る事態は見 られ ないのである.
ところが,司法に関 しては相反す る二説が提起 さ れ,皇帝裁判 にお ける判決決定の主体 を別様に評価 してきた.かかる論争 を紹介する前に,裁判過程の 概略を確認 してお こ う.それ は次のよ うに進行 した.
(ア)皇帝は顧問団 と着座 し,訴訟当事者 たちは弁 護人 と共に帝 を挟 んで対峠す る.‑ (イ)彼 らは 水時計に規定 された時間内で,告発 と弁明を交互に 行 う.‑ (ウ) 当事者‑の審問は皇帝に限 られ, 顧問団が質問を発す ることはな く,傍聴に留まる.
また証人尋問や証拠調べがな され る.‑ (ェ)皇 帝は判決について顧 問団に諮問 し,その後で判決 を 宣告す る.‑ (オ)判決が執行 され る12)
さて,小稿 が問題 とすべ きは勿論, (ェ)の段階 である.そ して TIl.モ ムゼ ンやJ.A.クル ック は,政治決定同様 に,判決決定 も皇帝の専決事項 に 属 し,彼 が顧問団の判決案 に束縛 され ることはない と説いた13).彼 らが論拠の一例 として提示す るの が,次の法制史料である.デ ィゲスタに録 された と ころによる と,マル クス帝下の166年,遺言者が遺 言状 を作成 し相続人 を指定 したが,後 にその氏名 を 抹消 したケースが皇帝裁判 にかけ られ た.顧問団は 遺産の取 り扱い を論議 し,最終的に判決案 は三つに 収束 した.大多数の陪席者は相続人未指定 につき遺 産が国庫に帰属す ると判断 したが,法学者マルケル スは遺言者が遺言状全体 を撤回 したのであれば,か くすべ Lと考えた.一方,削除 された部分 は法的に 無効だが,それ以外は有効 とす る者 もいた.そ して 帝は最後の見解 を判決 として採用 したのである14).
本例は,皇帝が顧 問団の多数意見に拘束 されず,あ くまで も自己の判 断で最終判決 を下 している事実
ローマ帝政前期の皇帝裁判における皇帝顧問団
を明示 しよ う.デ ィゲスタは他 に も幾つか類似例 を 供 して くれてお り,その結果,クル ック説 はH.F.
ジョログィッツ,∫.ゴ ドメ,F.アマ レッリらの 賛同を得 るところ となった15)
しか しなが ら,かか る画像 に対 して正面か ら異 を 唱えたのが,法制史家W.クンケルである16).彼 は,マル クス帝下の上記例 も含 め,クル ックらの説 の根拠をなす諸例が皆,民事訴訟 に限 られている点 を衝 き,刑事事件,特 に頭格刑裁判では事情が全 く 異な ると反論 した.彼 によれ ば,顧問団は判決を次 の方法で表決 した. (1)札で投票す る. (2)判 決案 を文書に して皇帝 に提 出す る. (3)判決案 を
口頭発表す る17) (1) と (2) は多数決 を導き, (3)では出席者 が他者 の意見 も知 ることができ, 自ず と多数意見が判明 した.そ して彼 は裁判が公開 で行われたた めに,帝が顧 問団の多数決 を無視 して 頭格刑まで独断で科せ ば,訴訟 当事者や傍聴人か ら 直ちに司法権濫用 ・不 当判決 とい う批判 を浴びるこ と必定で あ り,盾 局,帝は顧 問団の表決 に従わ ざる をえなかった と結論 したのである.か くの如 く,ク ンケルは従来説の盲点に迫 り,刑 事裁判においては 顧問団の意見 も しくは表決 に,皇帝に対す る拘束力 を見出 した.また彼 の説 は帝政期の史料にのみ立脚 しているのではない.彼 は共和政期における政務官 や属州総督の裁判 をも分析 し,そ こか らも顧問団表 決の拘束力を導 き出 してお り,か くて共和政か ら帝 政にかけての連続性 を指摘 してい るのである.以上 の如 く,クンケル説 は実証 レグェルにおいて,他の 研究者に比べ傾聴 に値す ると思われ る.そ して当該 説はM.ハモ ン ドやG.テユール にも認 め られ る.
更に顧 問団の表決 に拘束力 が厳然 とあった とは言 わないまでも,J.プ ライケンの如 く,拘束力が理 念上 あった とす る論者 もい るのである18)
さて,現在の ところ,クンケルの批判に対 して ク ル ック説 に与す る研 究者 か らの紋密 な再反論は見 られ ない.クンケル説 を引き合いに出 して,それ を 言下に否定す る声は上がって も,実証的に論駁 した 研究は現れていないのである.そ こで,次節以降, 刑事裁判 に関す るクンケル説の 当否 を史料 に即 し なが ら検証 してみ よ う.先ず は,本説 を支 える柱の 一つである共和政期 の事例 を見てみたい.
3.共和政期の刑事裁判における顧問団
クンケルが クル ック説‑ の反論 を提起 した論文 は 「政務官の刑事裁判 と皇帝裁判 にお ける顧 問団の
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機能」 と題 してお り19), この前半が共和政期 の刑 事裁判 を取 り上げ,後半が皇帝 による刑事裁判 を分 析 してい る.本節 においては,当該論文前半の要 旨 を紹介 した上で,その適否 を検討 したい.
さて,彼 は共和政期の関連史料が多 くはない と断 わ りつつ,キケロを専 ら用いて論 を組み立ててい く.
クンケル が重要視す る主要 史料 と彼 の論理 の骨子 を手短かに見てみ よ う.
(a)或 る殺人事件 をコンスル が特別 に審理 し, 被告 としてプ‑プ リカニーの奴隷,解放奴隷が有罪 判決 を受 ける.しか しプ‑プ リカニーに対す る裁判 は二度,審理延期ampliatioになった.一回 目の審 理で,コンスルは 「顧 問団の意見によ りdeconsilii sententia」裁判 の延期 を宣告.そ して二回 目のや
り直 し審 理 で も, コ ンスル が 「二度 目も同様 に iterum eodemmodo」延期 した, と言 う.即 ち,ク ンケルは,二度にわた り顧問団員の一定数が被告の 有罪 ・無罪 について未 だ判断 に至 らない と意見 を述 べたか,或いはそれ についての表決 を棄権 した と想 定 し,その結果,裁判官た るコンスル も判決 を下 し えなかった と考察 したのであ り,ここに彼 は刑 事事 件 にお ける顧問団表決 の拘束力 を看 取 した20)
(b)キケ ロは多方面か ら前 シチ リア総督 ウェ ッ レスを激 しく非難す るが,その中に次の如 き一節が 認 め られ る.つま り,ウェ ッレスは武装蜂起 を計画 した奴隷た ちに対 しては 「顧問団の意見に よ りde consiliisententia」有罪 を宣告 しておきなが ら,局 州在住 ローマ市民 には この よ うな審判 を与 え るこ とな く,処刑 した,と.タンケルは裁判 な しでの市 民の処刑 が通常の司法領域 の枠 内にはな く,特別の 事情の下にあった と一先ず解 しつつ も,奴隷の裁 き にお いてす ら総督 が顧 問団 の意 見 に従 ってい るの であるか ら,市民に対す る裁判で も同様 の手続 きが 採用 され るのは 自明である と考 えたのであった21).
さて,クンケル の論拠 を挙げてみた.一見,彼 の 主張は史料 に裏付 け られ,説得力 に富んでいる とい う印象 を抱かせ るが.ことはそ う単純ではない.先 ず, (a)か ら確認 してみ よ う.節‑回 目の審理に おいて コンスル が顧 問団の判決保 留提案 に従 った のだ として も,これは直ちに裁判官 に対す る顧 問団 の拘束力 を証明 しは しない.コンスル 自身 も判断が つ きかね,審理の最初か らのや り直 しを命 じた可能 性 が残 るか らである.また二回 日の審理 において も,
「同様 に」とい う文言 を以て,再び顧問団の意見に コンスルが束縛 されている とまでは言 えない.文脈 上,コンスルが‑回 目に続いて二回 目も審理延期 を
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告げた ことを意味す るにす ぎないか らである22)
本史料がか くの如 き解釈 を許す以上,クンケル説の 妥当性 が立証 され た とは言い難 いであろ う.
次に, (b)で あるが,ここでは, 「顧 問団の意 見によ りdeconsiliisententia」なる語が本 当に顧 問団表決 の拘束力 を明示す るのか とい う本 質的問 いを発 したい.とい うのも,かか る表現 を用いるこ とによ り裁判官は,彼が最終的に下 した判決が顧問 団の意見 と一致す るほ ど,極 めて順 当な内容である ことを強調 し,判決 を正 当化 したにす ぎない とも考 えられ るか らである.一例 を挙 げよ う.ウェ ッレス はシチ リアの名 望家 ソバテル を是 が非 で も断罪せ ん として,シラクサの貴顕の人士たちを顧問団に招 く.しか しなが ら彼 らを審理途 中で退席 させ,その 後,法廷に残 った総督 の書記,医師,占い師の 「意 見によ りdeSententia」有罪 を宣告 しよ うとす る.
だが,結局,彼 は退席 した有力者たちが戻 って くる ことを恐れ,判決 を断念,裁判 を終了 させ た23)
即 ち,総督は敢 えて現地の有力者たちを排除 し,そ の上で,少人数の顧問団 (キケ ロによれ ば 「最 も悪 疎 なる随員団cohor8mequissima」)の意見だけを 徴 して有罪判決 を導 こ うとした.かかる手続 きで も,
タンケル説 に照 らさば,総督 は彼 らの多数意見に従 って審判 を下 した にす ぎない と主張で きた はず で ある.実際,ウェ ッレスはシチ リア人船長た ちを裁 いた折,同 じく随員か ら成 る少数の顧 問団 (キケ ロ の言 を借 りれ ば 「盗賊団latrones」)の 「意見によ り」被告全員 に有罪宣告 しているのである24). し か し彼 が ソバ テル裁判 にお いてか よ うな方法 を断 念 したのは,被告 の地位 を鑑 み,有力者 た ちが同席 しない顧 問団の 「意見によ り」判決 をい くら宣告 し た ところで,判決 の正 当化には何 ら賢 さず,逆 に不 当判 決 の誇 りを免 れ えない と判 断 したか らで あっ た と考 え られ る.換言すれば,ウェ ッレスは判決 を 下す に当たって,陪席 した顧 問団の人的構成 こそ重 視 してお り,その一方で顧問団の 「意見 によ り」と い う手続 きを裁判成 立 のた めの絶 対条件 とはみ な
していないのであ る.
以上の如 く,クンケルは余 りに も史料 の文言 を字 義 通 り受 け止 め す ぎ た と言 え る . "decon8ilii sententia''はP.ガ‑ ンジィが示唆す る如 く,「顧 問団 の意 見, 更 に彼 (裁判 官 ) の意見 に よ りde consiliitum etiam suasententia」 を意味す る25), つ ま り顧 問団 も裁 判官 も同一の結論 に達 した とい
うことを含意す る と理解すれ ば,十分であろ う.更 にクンケル説‑の明 白なる反証 も認 め られ る.キケ
ロによる と,アシア総督ネ ロは フイロダムス父子を 殺人 の廉 で裁 き,最終的 に 「極 少数 の意見に よ り perpaucissententiis」彼 らを有罪に している26)
即 ち,罪状明 白な本件 において総督 は顧問団の同意 を得 られず とも,毅然 と判決 を下 したのである.
か くして共和政下の刑事裁判 にお いては,顧 問団 表決 が裁判 の帰趨 を制度 的 に決 定付 けたかの如 き 積極的証拠 は得 られ ないこ とが判明 した.少な くと も顧 問団が裁判官 の判決 に影響 は与 えたであ ろ う としか言えないのである.
4.皇帝の刑事裁判における顧問団
皇帝が 自ら刑事裁判 を執 り行 う場合,顧問団表決 に基づ いて判決 を下 さね ばな らなかった と説 くク ンケルの大前提は,審理の公開性 にある.即 ち,誰 もが顧 問団表決の結果 を知 りえた以上,皇帝 といえ ども,それ を無視 してまで判決 を独断で下 しえなか った とい うのである.では,審理の公開性は どの程 度保証 されたのであろ うか.先ずは,ローマ市やそ の近郊 における裁判の開廷場所 を確認 してみ よ う.
諸史料によれ ば,ア ウグス トクス帝はローマ市の フォルムやテ ィプルの‑ ラクレス神殿で27),ティ ベ リクス帝,クラウデ ィウス帝,ウェスパ シアヌス 帝 もフォルムで裁 いてお り28), トラヤヌス帝 とハ ドリアヌス帝 は フォル ムの他 にパ ンテオ ンも利用 している29).か くの如 く皇帝裁判 は通常,誰 もが 自由に出入 りでき,傍聴 も可能 な公共の場 を法廷 と していた.しか し時には,皇帝の庭園や別荘で開廷 され ることもあ り,この場合は,一般人の立ち入 り が許可 されていた とは考 え られ ない30).そ してハ ドリアヌス帝以降,パ ラテ イヌス宮殿 内に設 け られ た専用法廷室auditoriumでの非公開審理が一般化 してい くことになる31).だが,た とえフォル ムな どで公開審理がな された として も,顧問団表決 の一 部始終 まで訴訟 当事者や傍聴人 が知 りえた とは限 らない.スエ トニ ウスはネ ロ帝が皇帝裁判 において
「諮問のために退出す るときには常にquotiens‑
adconsultandum SeCederet」 と記 し,諮問が別室 で行われた ことを明示 している32).また フイロー も当該裁判の典型的進行過程 を叙述する中で,皇帝 が判決諮問のために法官席 か ら立ち上が り,助言者 た ちと相談す ると述べ33),諮問過程が公 けには さ れていないことを暗示す る.即 ち,審理が衆 目の下 に置かれて も,顧問団表決だけは非公開に された こ
とが読み取れ るのである.
ローマ帝政前期の皇帝裁判 における皇帝顧問団
しか しなが ら,顧 問団員各人が表決結果 を確認で きたのであれば,クンケルが推察 した如 く,その結 果 を無視 してまで皇帝 が生死 に関 わ る判決 を窓意 的に下す こ とはで きなか った とい う見方 も一理 あ る.そ こで,前述 した表決方法を順次,具体的に検 討 してみ よ う.先ず, (1)札での投票であるが, この方法はア ウグス トクス帝下に認 め られ る.スエ トニ ウスによる と,偽造遺言の署名者たちが一括 し て 「遺 言 と貨 幣 に 関 す る コル ネ リ ウス 法 lex CorneliateStamentarianummariaJ違反 に問われ た際に,同帝 は有罪票 と無罪票の二枚の札 に加 え, 偽造 とは知 らず に署名 を して しま った過失犯だ け を無罪 とす る第 三 の札 を陪席者達 に配布 した と言 う34).本件 をJ.M.ケ リー とプ ライケンは常設 査問所での審理 と解 したが,プ ラエ トルではなく, 帝が直々に裁判 を指挿 してい る点か ら,皇帝裁判 と 考えて差 し支えなかろ う35). さて,当該史料は彼 が三枚の札 を配 り,陪席者 に投票 させた ことを示唆 するが,各々の得票数が発表 された とは述べてお ら ず,最終判決す ら報 じていない.そ して常設査問所 の投票方式か ら類推すれ ば,かかる投票札は無罪な ら ば ̀A (‑absoIJo)', 有 罪 な ら ば ̀C(‑
condemno)'とい う文字 を蝋板 に彫 り込んだ簡素な ものであ り,外見上の違 いを全 く持たない.その上, 陪席者 は どちらかの札 を手で隠 しなが ら,投票用の 壷に入れたのである36).そのため,顧 問団員各人 は他者 が何れの札 を投 じたかは 目視不可能 であっ た.よって皇帝は投票結果 を発表 しない ことによ り, 最多得 票案 を参考意見 に留 めるこ とも可能 であっ たのである.そ して後述す る如 く,投票結果 の非公 開は不法 とはみな されていなかった.それゆえ,投 票実施 か ら直 ちに判決 に対す る多数決 の拘束力 を 導出す るこ とには慎重 で あ らね ばな らないであろ
ラ.
次に, (2).の判決案書面提 出例 はネ ロ帝下に見 られ る.再びスエ トニ ウスによれ ば,「帝は如何な る裁判で も (顧問団の)皆 と公 けに審議せず,一人 一人が書き記 した判決案 を黙 って密かに読んだ.そ して 自分が考 えた判決 を,あたか もそれが過半数意 見であるかの如 く,下 した」 37). 当該箇所 に対 し てクル ックは,第‑に,皇帝が 自己の判断に沿って 判決 を宣 しえたこ とを読み取 り,第二に,彼が過半 数意見 を偽装せ んがた め書面投票 を利 用 したかの 如 き文脈 について,当時の顧 問団員 が判決決定に対 する責任回避 を試み,後の治世においてかよ うな中 傷を広 めた もの と説明 した38). しか し二点 目の主
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張は推測の域を出ず,差 し当た り我 々はネ ロ帝が多 数決 に則 った判決宣告 を公言 していた と理解 し,こ れ を事実 と認めておかねばなるまい.
一方,当史料 に対 し,クンケルは以下の如 く把捉 すべ き と唱 える.即 ち,スエ トニ クスは書式投票の 実施ではな く,陪席者 の意見の非公 開 と投票結果 の 改京 を弾劾 したのであ り,判決 が顧 問団の多数決 に よって規定 されたか らこそ,帝 はかかる不正工作 に 走 らざるをえなかった, と39).確 かに文書投票 は ネ ロ帝が創 出 した方式ではな く,セネカは L.タ リ
ウス ・ル フスなる議員が息子 に対す る家裁判 を開 き, その顧 問団にア ウグス トクス帝 を招いた際に,皇帝 は r各人が判決案 を書 くよ う」家長 に要請 した と語 ってい る40).だが,セネカはクンケル説の前提 を なす投票内容の発表 まで明記 してお らず,また これ は他史料か らも確認 され ない.それ どころか,デ ィ オはア ウグス トクス帝 に向か って理想 的統治像 を 腹心マエケナスに進言 させ る中で,次の よ うに記 し てい る. 「細心の審理 を要す ものについては,助言 者た ちの見解 を公然 と求 めてはな りませ ん.‑‑・む しろ蝋板 に書かせ るべ きです .そ してそれ を他の者 にわか らせ ない よ う陛下お一人でお読み にな り,直 ちに蝋板 を削るよ う命 じな さいませ」 41).っま り, デ ィオは書面投票 を最良 と評価 した上で,その非公 開 こそ推奨 している.これが帝政初期の実践なのか, デ ィオ 自身 の時代,即 ち三世紀初のそれ なのか,そ れ とも彼 の理想 なのかは不明なれ ど,投票非公 開が 不 当 とは全 く認識 されていないのである.従 ってス エ トニ ウスが上記叙述 において非莫軽した対象 も投 票の非公 開ではな く,投票結果 の改窓であった と理 解 しておいてよかろ う.
しか しこれは二様 の解釈 を許す.罪‑ に,クンケ ルが論ず る如 く,多数決 に従 う義務 が皇帝 にはあ り, だか らこそネ ロ帝 は表決結果 を偽 らざるをえなか った.第二に,皇帝が判決 を最終的 に決定 しえたの に,ネ ロ帝は敢 えて多数決尊重 を装い,偽善的態度 を取 った.何れが適切 かは俄 かに判 じ難 く,帝の判 決決定権 を主張す るF.ミラー も第‑の解釈 を一概 に否定 しえない ことを率直に認 めている42).され ど,問題 の句が含 まれ る 『ネ ロ伝』15章 を一瞥す る と,著者 は先ず帝 による慎重 な判決宣告 と係争点 毎に解決 を図ってい く効 率的 な審理運営方法 を評 価す る.次 に,上記 引用文 を掲げ,その後,帝の事 績 を淡々 と列挙 している.つま り,改窺行為だけが 指弾 されているのである.かか る叙述構成 に照 らせ ば,著者が評価対象や事績 を完全 なる違法行為 (第
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一解釈)と併記 した とは考え菜臣い.それ ゆえ彼は帝 の偽善を抑旅 した (第二解釈)と捉 えてお く方が適 切であろ う.な らば,当該箇所 は皇帝の判決決定権 を明示す る と言 えるのである.
では, (3)判決案 の 口頭発表は皇帝 に対 して拘 束力 を発揮 したのか.クンケルが重視す るのが,吹 の事例である. ヨセ フスによる と,41年 のカ リグ ラ帝暗殺直後,クラウデ ィウス帝は側近 を集 め,実 行犯の親衛 隊将校 カ ッシウス ・カニ レアの処遇 につ いて小石で投票 させ,最終的に彼 を死刑 に処 した.
著者 は顧 問団が示 した判決理 由を付記 してい るの で,彼 らは判決案 を上 申 した後で投票 を行 った と思 われ る.そ して クンケル は本件 を臨時軍法会議 と捉 えた上で,緊急 に して変則的なかか る事態において さえ帝が判決 を顧 問団表決に委ねた点に,その拘束 力 を看取 したのである43). しか し元老院が共和政 復活 の動 きす ら示 した クラウデ ィ ウス帝登位 時 の 緊迫 した情勢の中で,暴君か らの市民解放 とい う英 雄 的行為 を処罰 すべ きか否か は極 めて高度 の政治 的判断 を要 したに違 いない.迭巡 した帝は この重大 問題 の結論 を顧 問団 に‑任せ ざるをえなか った の ではあるまいか.何れ にせ よ,特殊 な状況 を帯び る 本件か ら,常に表決 が判決を左右 した と一般化す る
ことは慎むべ きである.
また 口頭表決 は他 に も幾例 か伝 え られ,47年 に 陰謀,姦通罪 を問われたD.ウァレリウス ・アシア テ イクス裁判では,確 かに同帝が腹 心 L.ウィッテ リウスの意見に沿って判決を下 してい る44). しか しこれだけの情報 を以て,彼 の意見が他 の顧 問団員 の賛同を多 々得た結果,皇帝 もそれ を判決 とせ ざる をえなかった とまで主張することは許 されまい.
以上の如 く,何れ の表決方法であれ,顧 問団の多 数決 が 自動的 に判決 を導いた とい う確証 は得 られ なかった.その一方で,諸史料 は皇帝の不 当判決 を 度 々非難す るが45),その責任 を顧 問団には全 く帰 していない.これは タキ トクスに代表 され る元老院 史家 が多 くの議員 を擁す顧 問団 を庇 った結果 とも 推測 され る.だが,それ な らば,寛大な判決だけは 顧問団の功績 として賞賛 して もよさそ うであるが,
これ も検出 されず,史料 は一貫 して判決の決定主体 を皇帝 に置いているので ある.更にデ ィオが注 目に 値す る事例 を供す.つ ま り,ア ウグス トクス帝が被 告たちに死刑判決 を下そ うとした矢先,突如,傍聴 席 にいたマエケナスが再考を促 し,帝 はその宣告 を 思い留まった と言 う46).これ は死刑宣告か ら判ず るに刑事裁判 に違いないが,皇帝は判決 内容が確定
した後であ りなが ら,一存でそれ を翻 してい るので ある.ここには,判決 に対す る顧 問団決定の拘束力 は微塵 も認 め られ ない.か くて,民事裁判同様 に刑 事裁判 で も,判決 の最終的決定権 は皇帝に属 したの であ り,顧 問団は助言機 能 を有 したにすぎない と考 え られ よ う.
だが,判決案 の 口頭発表の場合 には,顧問団の誰 もが多数意見を知 りえた以上,皇帝 もそれ を無視 し づ らかった とい うクンケルの論理や道義上,帝がそ れ に従 うこ とが求 め られ た とい うプ ライケ ンの主 張はあながち否定 され えない.しか し興味深 いこと に,史料はかかる諮問方式の弊害 を強調 している.
既述のア ウグス トクス帝下の家裁判において,帝が 書式投票 を求 めた理 由は 「全員の判決案が 自分 と同 一 にな らない よ うにす るため」 47),つま り帝の意 見に陪席者各人が盲従す ることを防 ぐ点にあった.
また 自ら顧 問団 に列席 した経験 を持 つデ ィオが書 式投票 を最 良 としたのは,顧 問団員が 「上位者 に追 随 して 自由に述べ るのを蹄曙 して しま うか ら」であ った 48).か くの如 く, 口頭発表 の公開性 は同席 し た有力者‑の追従 を生んで しまったのである.顧 問 団 には上記 ウィ ッテ リウス に代表 され る皇帝の側 近が確実に含まれ,彼 らは皇帝 と意思を通ず る一方 で,他 の助言者た ちに無形の圧力 をかけて顧 問団表 決 を左右 したであろ う.その結果 ,表決は帝の思惑 か らさほ ど背離 しない範囲内に誘導 され,皇帝は 自 分が予定 しておいた判決 を,「顧 問団の意見によ り」
と称 して,下す ことがで きた と思われ る.更に皇帝 は表決方法 をその都度選択 しえた上に,少な くとも (2)では投票結果 を公 開す る義務は彼 にな く,罪 公 開にす るこ とに よって顧 問団 の多数意見 を封殺 す ることも可能であったのである.
以上の如 く,刑事裁判 において皇帝が顧問団の表 決 に基づ いて判決 を下 さね ばな らなかった とい う 決定的な証拠 は得 られ ない.彼が顧問団の意見に影 響 され ることは確 かにあったであろ うが,判決の決 定主体 はあ くまで も皇帝 で あった と言わ ざるをえ ないのである.
5.結 びにかえて
皇帝顧 問団が皇帝裁 判 において果 た した役割 を 巡 り,クンケルは共和政の政務官刑事裁判 と顧問団 の表決方法 を軸に49),皇帝 による刑事裁判 の判決 決定権 が常に顧問団にあった と断 じて,顧問団主導 の皇帝裁判像 を描 いた.だが,小稿は彼が論拠 とし
ローマ帝政前期の皇帝裁判における皇帝顕間団
た諸史料 を再検討 した結果,彼 の見解 を否定せ ざる をえない とい う結論 に達 した.即 ち,判決決定の主 体はあ くまで も皇帝で あったので ある.然れ ど,小 稿は顧 問 団が皇帝 裁判 にお いて何 ら役 割 を果 た し えず,無意味な存在 であった こ とを立証 しよ うとし たのではない.顧 問団の意見 に皇帝が動 か され るこ とは勿論 ,多々あった に違い ない.パ ピニアヌスは,
トラヤ ヌ ス帝 が‑ 民事裁 判 で は あ るが‑ ネ ラ テ イクス ・プ リス クス,テ ィテ ィ ウス ・ア リス トー とい う二人の法学者の 「助言 によ りconsilio」判決 を下 した と伝 えてい る50).結局,我 々は,皇帝が 顧問団の意見 を尊重す るこ ともあれば,独断で判決 を決す るこ ともあった とい う平凡 な,しか し穏 当な 結論で我慢す る しかあるまい.何れにせ よ,そ もそ も顧 問団 の意 見 に耳 を傾 け るか否 か は各皇 帝 の姿 勢如何 に も拠 った ので あ り,顧問団の影響力 を一般 化 して評価す るこ とはで きないのであ る.
では,皇帝 に とっては,顧 問団 は如何 なる役割 を 担 ったのか.これ に関 しては,フ イローが有益な情 報を与 えて くれている.彼 はア レクサ ン ドリア市 に お け るギ リシ ア人 とユ ダヤ人 との紛争解 決 を求 め て,後者 の佳節の一員 として ローマ市 を訪れ,カ リ グラ帝 か ら謁 見 を許 され る.しか しフ イロー は大い に落胆せ ざるをえなか った.帝は最初 か ら裁判 を行 う気がな く,ユダヤ人側 の訴 えに耳を貸そ うとす ら しなかったか らで ある.そ こで,彼は本来 あ るべ き 裁判像 を論 じ立て,最後 に次 なる一文 を残す .裁判 官か らの諮問 にお いては,「助言者た ちが公 平に考 え,はっき りと自分の意見 を述べ るこ とが必 要なの である」 51).即 ち, フ イロー は陪席 者 た ちの中立 公平 な る意 見 が あた か も判 決 を決 定 づ け るかの如 く,彼 らに期待 をかけているので あ り,顧 問団の存 在 を高 く評価 して いる.そ して一属州 民であ る彼 の 見解 が帝 国民一般 の 司法認 識 とかけ離れ て い る と は考 え難 い.な らば,顧 問団は順 当な判決 を引き出 す た め に不 可欠 な裁 判 装置 とみ な され てい た と言 えよ う.そ して人 々は,皇帝が独 断で宣告 した判決 であろ うと,それ を顧 問団員 も妥 当 として是認 して いるかの如 き印象 を漠然 と抱いた と思 われ る.その 一方で,皇帝 は判 決が顧 問団の多数意 見で あるかの よ うに装 った り,側近 を通 じて陪席者 たちの意見 を 予定 された判決案 に誘導す るこ ともで きた.かかる 手法 によって,帝 は如何 に判決が順 当な ものである かを声高に主張 しえたので ある.
以上 の如 く,顧 問団の裁判 同席 は判決 の客観性 と い う虚構 を生んだ.皇帝は顧 問団 を用 い ることによ
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り,陪席者 の意見 を 自己の最終的判断の参考 に しえ たばか りか,同時に,裁判 の正 当性,判決 の正 当性 とい う外 見 を も巧 み に装備 す る こ とがで きたの で ある.
顧 問団がかかる役割 も担 った以上,皇帝 は メンバ ーの人選 に も配慮 した と思 われ る.側近 だけを集 め て顧 問団 を構成 したので あれ ば,訴訟 当事者 は最初 か ら顧 問 団が帝 の意 を汲 んだ同一 の意 見 に収欽 す るに違 いない と予想せ ざるをえず,その結果 ,自ず と判決の客観性,公 平性 とい う虚 構 が損 なわれて し ま うか らである.従 って顧 問団が如何 な る人 的構成 を取 って いた のか が次 な る重要 な論 究対 象 とな ろ ラ.皇帝顧 問団 を巡 る残余 の課題 は甚 だ多い と言わ ねばなるまい.
註
1)顧問団の重要性はE.Cuq,LecoDSeL'1desempez・euzs dAugusteaDIocIe't)'ez7,Paris,1884を嘱矢とする先 行研究によってあまねく肯定されている.本邦では, E.マイヤー,鈴木‑I)11訳『ローマ人の国家と国家思想』
岩波書店,1978,343;南川高志 『ローマ皇帝 とその時 代』創文社,1995,333ff.
2)プロソポグラフィカルな研究として,∫.Devreker,La continuit6 dans le consilium prlnCIPIS sous les Flavien8,ADO.Soc.8,1977;M.Morabito,Etude台urla compositionduconseilimp6riald'AntoninlePieuxa
Commode(1381193),/Ddex12,1983/84.
3)e.ど.Sen.,aem.1.9;Tac.,ADD.15.25;Suet.,TJ'b.55;
FJRA2,Ⅰ,no.75.
4) ̀consilium principis'という表現はDIg.27.1.30pr. に現れるのみである.
5)Th.Mommsen, Rb'mJ'sches StaatsTeCht,Le ipzig3, 1887,II‑2,902ff.,988ff.;J.A.Crook,ConsL'll'umpTl'n‑ C1p)'S,Cambridge,1955,esp.2,30;F.Millar,The EmpeTOZ・)'D the Roman Woz・Jd,Le ndon2,1992, 119f.;F.Amarelli,Coz7S1'11'apnDC)Pun,Napoli,1983, 138ff.;M.Hammond,TheAntot7)'neMonazTChy,Roma, 1959,370fr.;J.Bleicken,Senatsgez・)'chtundKaL'sez・‑ gen'cht,G6ttingen,1962,80f.;W.Kunkel,meJ'ne Schz.)'(ten,Weimar,1974,188fリ421,600;H.F.Jolo・
wic2;&B.Nicholas,HL'stoz・)'caJ/ntz・oductJ'oz7tOthe Study olRomanLaw.Cambridge3,1972,339f.;
F.Arcaria,CommisSioniSenatOriee《consiliaprin・
cipum》nelladinamicadeirapportitraSenatOe prlnCipe,Index19.1991.
6)Crook,passim ;Mommsen,Ⅱ‑2,988ff.;0.Hirsch・
feld,Dieka)'seL・11'chez7VeTI柑ItuL7gSbeamtenbJ'saul Dl'ocIetL'an,Berlin2,1905,339f.;Millar,119f.;Amarelli, 142;Hammond,373ff.;Kunkel,189ff.,421ff.,600;
Jolowicz,339f.;A.A.Schiller,Romaz7Lavv.Mecha‑
nL'smsolDevelopment,NewYork,1978,470ff.