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エルザス ・ロー トリンゲ ンの住民投票 問題

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Academic year: 2021

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弘前大学教育学部紀要 第7 9 号 :1‑1 2 ( 1 9 9 8 年 3 月) Bul l .Fac.Educ.Hi r os akiUni v.7 9:1 ′ ‑1 2 ( Mar .1 9 9 8)

エルザス ・ロー トリンゲ ンの住民投票 問題 ZurFr agee i ne sPl e bi s z i t si nEI s aB‑ Lot hr i nge n

加 来

KAKU Hi r o s hi *

浩*

論文要 旨

1 9 1 4 年の第一次大戦 の勃発後, フランス政府 は半世紀前 に ドイツ との戦争 に敗れて失 ったエ ルザス とロー トリンゲ ンの二地方の奪還 を戦争 目的 として掲 げた。一方, ドイツ政府 は両地方 が ドイツの不可分 の領土であ り, ドイツ統一 のシンボルである として, いかなる場合で も返還

を拒否 した。 こうした中 ,1 9 1 7 年 のロシア革命が提起 した 「 無併合,民族 自決」の講和原則 は, 住民投票 による問題 の解決 とい う議論 を活発化 させ,特 に 「 城 内平和」政策 を取 っていた各国 の社会主義政党の内部 に少なか らぬ支持者 を見出 した。 しか し結局 は, ドイツ残留 にせ よ, フ ランス返還 にせ よ,住民投票反対論が勝利 を収 め,住民投票 は議論 の舞台か ら消 えた。

キーワー ド :エルザス ・ロー トリンゲ ン, 自決権,住民投票

は じめに

「 住民投票 は行われた / ( Lepl e bi s c i t ee s tf a i t ! ) 」1 9 1 8 年 1 2 月 9 日, フランス共和国大統領 ポワンカレー Po i n c a r e はエルザスの首都 シュ トラスブル クで宣言 した ( 1

)0

4 7 年前独仏戦争 の 敗北 の結果失 ったエルザスに勝利者 として凱旋 したフランス軍 の部隊 は,エルザスの住民 に熱 狂的な歓迎 を受 けた。 ポワンカレー は住民 の熱狂的な歓迎 を見 て上 の言葉 を放 ったのである。

しか し実際 には住民投票 は行われてなかった。 フランスはいかなる場合で もエルザス ・ロー ト リンゲ ンにおける住民投票 を拒否 していた。「 住民投票 は行われた」とあえて述べたの は,実際 には行わなかった ことへの後 ろめたさがあったか らであ ろう。

本稿 で は,第一次世界大戦末期 の 1 9 1 7 年か ら 1 9 1 8 年 1 月にか けて,エルザス ・ロー トリンゲ ン問題 の解決のために主要交戦 国間で議論 された住民投票 の問題 を考察す る。 そ もそもフラン ス政府 はどの ような論拠でエルザス ・ロー トリンゲ ンの返還要求 を正 当化 し,住民投票 に反対 したか, またフランスの同盟国 は第一次大戦 中, フランスの要求 に対 して,特 にエルザス ・ロ ー トリンゲ ンの住民投票 の問題 に対 して どのような立場 を取 ったのだろうか。 また 1 9 1 7 年 のロ シア革命 による 「 無併合 」 「 民族 自決」という講和原則 の提起 は,国境線 の変更 に際 して,政府 間の取引によって決 めるので はな く,住民投票 とい う形で住民 自身 にその国家的帰属 を決 めさ せ るのが,真 に民主的で公正 な解決策 で はないか とい う議論 を,特 に各国の社会主義勢力の間 で活発化 させた。主要な交戦国である ドイツ,フランス,イギ リスの社会主義政党 はエルザス・

ロー トリンゲ ンの この間題 に どのように答 えたか。 これ らの問題 を明 らか にす るのが本稿 の 目

*弘前大学教育学部社会科学科教室

De p a r t me n to fSo c i a lSt u d i e s ,Fa c u l t yo fEd u c a t i o n ,Hi r o s a kiUn i v e r s i t y

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2

的である。

加 来 浩

第 1章 エルザス ・ロー トリンゲ ンをめ ぐる ドイツ ・フランス政府の主張 1. ドイツ政府

ドイツに とって ,1 8 7 1 年 の帝国創設 ( Re i c hs gr t i nd u n g) とともに ドイツに 「 復帰」 した 「 帝 国領土 ( Re i c h s l a nd) エルザス・ロー トリンゲ ンは,勝利 のシンボルであ り,強大 な統一 ドイ ツ帝国のシンボルであった。開戦 当初 の ドイツで は,エルザス ・ロー トリンゲ ンが他 の ドイツ の地方 と同様模範的 に義務 を果 た した こと,志願兵 の数が 1 5 万 に達 した ことな どをもって,戟 争 によってついにエルザス ・ロー トリンゲ ンが精神的 に ドイツ と一体化 した こと, ドイツ ・エ ルザス的国民意識 ( d e u t s c h‑ e l s 畠 s s i s c he sNa t i o nal ge f t i h l )が生 まれた ことが満足 をもって語 ら れた

(2)

0

1 9 1 5 年 1 2 月 9 日の帝国議会 での帝国宰相ベ ‑ トマ ン‑ホル ヴェ‑ ク Be t h ma n n‑ Ho l l we g の 演説 は,エルザス ・ロー トリンゲ ンの住民の 8 7 % が ドイツ語 を母語 としていることを もって, その ドイツ帰属 を正当化 した

(3)

0

1 9 1 7 年 に入 って戦争 目的 をめ ぐる議論が交戦 国の間で始 ま り,エルザス ・ロー トリンゲ ン問 題が焦点の一つになったが, ドイツ政府 に とって フランスへの返還 は依然問題外 だった 。1 9 1 7 年 1月 2 9 日のウイル ソン宛 の電報 の中で ドイツ政府 は,和平交渉 の前提 として, フランスが 占 領 中の上エルザス ( エルザス南部)か らの撤退 を挙 げていた

(4)。

エルザス全体 を保持す るつ も りでなければ, このような要求が出るはずがない。 ドイツ政府 の公式 の戦争 目的 は新 たな領土 の獲得で はな く,ライ ヒの統合 の防衛 であることが強調 された。ドイツ政府 に とってエルザス・

ロー トリンゲ ン問題 はあ くまで も内政問題 であった 。1 9 1 7 年 1 0 月 9 日,帝国議会で外相 キュー ルマ ン Kt i hl ma nn は述べ た : 「ドイツはエルザス ・ロー トリンゲ ンにおいてフランスに対 して 何 らかの譲歩があ り得 るか, とい う質問 に対 して,我々 はただ一つの答 えしか持 っていない。

あ り得 ない,決 して ノエルザス ・ロー トリンゲ ンは ドイツ統一 のシンボルである

我々 は空想 的な侵略 のために戦 っているので はな く, ドイツ帝国の不可侵性 のため に戦 ってい るので あ る 。ノ

」 (5)

1 9 1 7 7 2 0 日,帝国議会多数派 による有名 な「 平和決議」の翌 日,エルツベルガー Er z be r ge r は新宰相 ミハエ‑ リス Mi c ha e l i s に手紙 を送 り,その中でエルザス・ロー トリンゲ ンに完全 な自 治 を与 えない ことが, フランスに返還要求 の論拠 を与 えている 。 エルザス ・ロー トリンゲ ンは, 一時期政府 内部 で計画 されたように分割す るので はな く, 自治的な大公国にすべ きであるO そ

うすれば,和平協議か らエルザス ・ロー トリンゲ ン問題 をはずす ことがで きる, と主張 した。

ェルツベルガーの計画 に帝国議会多数派 は賛成 し, ミハエ‑ リス も検討 を約束 した

(6)

0 1 9 1 7 年 7 月 2 7 日, キュールマ ンは, ローマ法王への返書の中で,エルザス ・ロー トリンゲ ン の分割 は考 えてお らず, ただ従来 の憲法の土台の上での発展 の継続 ( We i t e r e nt wi c kl u n g) のみ を考 えている と述べ, 自治権拡大 の方向での改革 を示唆 した

(7)。

しか し間 もな くミハエ‑ リス は辞職 し,ヘル トリング He r t l i n g と交替 して,改革計画 は実施 されなかった。陸軍最高司令部 ( OHL) と全 ドイツ主義者 の強 い反対 のためである 。 改革が実施 され るのは,既 に ドイツの敗 戦 が決 まった 1 9 1 8 年 1 0 月末であったが, もちろん遅す ぎた。

そ もそ も ドイツ政府 は,エルザス ・ロー トリンゲ ンの ドイツ帰属 は理 の当然の ことであ り,

あえてその帰属 の正 当性 を主張す る宣伝活動 は不要であ り,余計 であると考 えていた。両地方

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エルザス .ロー トリンゲ ンの住民投票問題 3

のフランス復帰の宣伝 に非常 に熱心 だったフランス とは著 し く対照的である

(8)

。 また政府 は大 戦前 にエルザス ・ロー トリンゲ ンの政治指導者が一致 して要求 した, ドイツ帝国の枠内での完 全 な自治,他の連邦邦国 との完全 な同権 を内容 とす る戦後 の改革 を約束す ることもなかった。

スローガ ンはただ一つ,現状 の維持 だった。

2.フランス政府

フランス政府 は開戦直後か ら「 脇腹 の口を開いた傷」 ( 首相 ヴィヴィア一 二 Vi vi ani の言葉)

(9)

であったエルザス ・ロー トリンゲ ンの奪還 を戦争 目的 に掲 げた。 この要求でフランスの世論 は一致 した。 フランス政府 は,エルザス ・ロー トリンゲ ンの返還 な しには講和 はあ り得 ない と い う立場 を取 り続 けたO フランス議会 は 1 9 1 7 年 6 月,エルザス ・ロー トリンゲ ンの返還 な しの 講和 はあ り得 ない との決議 を,下院 は 4 6 7 対 5 2 ,上院 は全会一致で採択 していた u O ) 。大統領再選 を果た したウイル ソンが 1 9 1 6 年 1 2 月,交戦国に戦争 目的 を明 らかにす るように求 めたのに対 し て, フランスはイギ リス とともに 「かつて暴力 によって, あるい は住民 の願望 に反 して連合国 か ら奪 い取 られた地方あるい は領土 の返還」が戦争 目的であると回答 した。 この場合,返還 さ れ るべ き領土 は 1 8 7 0 年 のエルザス ・ロー トリンゲ ンで はな く ,1 7 9 0 年 のエルザス,即 ちプフア ルツ とザール地方の一部 も含 んでいた u Do

1 9 1 7 年のロシア二月革命後,事態 は新 たな局面 を迎 えた。ペ トログラー ド ・ソヴェ トの提案 した 「 無併合」 の講和原則 は, フランスのエルザス ・ロー トリンゲ ン要求 と矛盾す るので はな いか とい う議論 を生 んだ。 ドイツ社会民主党が まさにその ように主張 した ( 1 2 ) 。後述 のように, これ まで政府 と 「 神聖同盟」 を結 んでいた社会党 の内部 に も,住民投票 を要求す る声が出始 め た。 これ に対 して時のフランス首相 リボ‑ Ri bot は反論 した。エルザス ・ロー トリンゲ ンの返 還 は領土の併合 ( Anne xi on) に当た らな い , なぜな らそれ は 「 併合解除 ( Dさ s annexi on) 」だか ら, と u 3 ) 。 リボー は 1 9 1 7 年 7 月,議会下院での演説 の中で, フランス は 「 説得 によって」エル ザス ・ロー トリンゲ ンを獲得 したのであ り, ドイツのように 「 暴力 によって」で はない, とい

う論理で両地方 に対す るフランスの権利 の正 当性 を主張 した。

" I lf autquel ' AI s ac eetl aLor r ai ner e vi e nne ntえl aFr anc e,par c equ' el l e sl uiappar t i e n

ne nt , par c equ' el l e sn' appar t i enne ntpasえc e uxquil e sontpr l S e S , nOnParpe r s uas i oncomme nousl ' avi onsf ai t ,mai sparl avi ol e nc e,parl edurdr oi tdel ague r r equenousr を pudi ons . Nousnevoul onspasdec e sanne xi onsvi ol e nt e s ; nousvoul onss i mpl e me ntl ar e s t i t ut i onde c equinousappar t i e nt , 棚

この ようにフランス政府 はエルザス ・ロー トリンゲ ンに対す る 「 正 当な権利」 を主張 したが,

「 無併合」 と並んで 「 民族 自決権」の論拠 に も反論す る必要があった。つ まり, フランスの権 利 は,「自決権」の具体的な方法 としての住民投票 によって住民 の意志 を確認す ることを不要 と す るほ ど,正当であ ることを主張 しなけれ ばな らなかった。首相 リボー は 1 9 1 7 年 7 月,下院外 交委員会 で述べた。

「 我々 はエルザス ・ロー トリンゲ ンに対す る否定で きない権利 を持 つのだか ら,住民投票 を認 めることはで きない。」u 5 )

自決論への反論 ない し住民投票不要論 の主要な論拠 は ,1 8 7 1 年 のエルザス ・ロー トリンゲ ン

の ドイツ割譲が住民 の明 白な意志 に反 していた とい うことである。 その論拠 を提供 したのは,

元 ドイツ帝国議会議員で開戦後 フランスに亡命 していたカ トリック神父 ヴェタレ We t t e r l e で

(4)

4 加 来 浩

ある 。 彼 の論 の主 旨は以下 の通 りである。

エルザスはフランス大革命期 とナポレオ ン時代 に,精神的 に最終的かつ永遠 にフランス と結 びついた。エルザス人 はその ドイツ語方言, ドイツ的習慣 に もかかわ らず,優秀 なフランス人 になった。エルザス人 のメンタ リテ ィとドイツ人 のメンタ リテ ィは根本的に異 なる 。 エルザス 人 は ドイツへの 「 復帰」 を一度 も考 えた ことがな

。1 87 1 年 3 月 1 日のボル ドーの国民議会で の抗議声明 は,エルザスが ドイツになることを拒否 した こと,従 ってエルザス はその意志 に反 して ドイツに強奪 された ことを証明 している 。 ボル ドーの抗議声明 に匹敵す る ドイツへの同意 の声明 は存在 しない。従 ってボル ドーの抗議声明 は依然 としてエルザス ・ロー トリンゲ ン住民 のマグナ ・カルタである 。 ドイツは1 87 1年 に住民投票 を許 さず, ただ強者の権利 を主張 した。

今 さらフランスに住民投票 を要求す る資格 はない。 フランスはエルザス ・ロー トリンゲ ンに対 して議論 の余地のない正当な権利 を持 っている。 それ は住民投票 による承認 を必要 としない。

住民投票 を認 めることは, この正 当な権利 を最初か ら放棄す ることである 。 エルザス ・ロー ト リンゲ ンはフランスに とって新 し く手 に入れ る領土で はな く,否定で きない権利 に基づ く領有 である, と u g o

さらにヴェタレは住民投票 の技術的困難 を指摘す ることによって, それ に反対 した。彼 によ れば,( ∋この投票 を実施す るの は誰か。 ドイツが実施す るな ら,有権者 はプロイセ ンの圧力下 に置かれ る。 フランスが実施す るな ら, ドイツはその不利 な結果 に異議 を唱 えるだろう。②有 権者 は誰 か。1 87 0 年以後の移住 ドイツ人 とその子孫 もか。1 87 0 年 にフランスに出国 した人 は除 外 され るのか, と 仰 。 ヴェタレの住民投票不要論 はフランス政府 に主要 な武器 を提供 した.

フランスの この主張 に論評 を加 える とす るな らば,1 87 0 年 にエルザス ・ロー トリンゲ ン住民 が フランス国民意識 を持 っていたの は確かだ として も, それ は住民投票不要論 とは直結 しない。

む しろ住民投票 を拒否す ることは,有名 なルナン Re nan の「国民 とは日々の人民投票である」

とい う理念 と矛盾す るので はなか ろうか。 ドイツは 1 87 1 年 に住民投票 を行 わなか ったのだか ら, フランスが1 91 8 年 に行 う必要 はない とい う主張 について は,確か に1 87 1 年 に住民投票 を行わな かった ドイツが,今 さら自分が戦争 に負 けたか らと言 って, フランスに住民投票 を要求す る資 格 はないであ ろう。 しか し ドイツに要求 されな くて も,統治の正統性 を再確認す るために,誰 か らも異議 を唱 えられ ることのないように,住民 の意志 を問 う手続 きを取 って も良かったので はないだ ろうか。 ドイツが住民 の意志 を無視 し,暴力 によって併合 したか らと言 って,必ず し も自分 も相手 と同 じ手 を,つ ま り 「目には目を」で暴力 を使わね ばな らない とい うわ けで はな い。 フランスが 「 軍 国主義的」な ドイツ とは違 う 「自由 と人権宣言の国」であるな らば, きち ん と住民 の意志 を問 うとい う手続 きを経 た上 で,エルザス とロー トリンゲ ンの復帰 とい う目的 を達成 した方が, 自由の人権宣言の国 フランス とい う名声 を改 めて世界 に対 して高めただろう。

かつてエ ンゲルスは, フランスの新聞 『レクレール L' e c l ai r 』とのイ ンタビュー ( 1 89 2 年 4 月) で,エルザス ・ロー トリンゲ ン住民 に 「自分 の政治的将来 を自分 自身の手で処理」 させ ること が平和 的な問題解決である と述べ, またイギ リスの新聞 『デイ リー ・クロニ クル Dai l yChr oni ‑ c l e 』 とのイ ンタビュー ( 1 89 3 年 6 月)で も,エルザス ・ロー トリンゲ ン住民 はその将来 の運命

について, フランスに復帰す るか, ドイツに残留す るか, スイスに加盟するか, それ とも独立

す るか を自ら決 める機会 を与 えられ るべ きだ と述べていた

(17a)

。フランスが ドイツ との戦争 に勝

った場合で も,暴力 によってエルザス ・ロー トリンゲ ンを奪われた とい う口実 を ドイツに与 え

ないために,住民投票で統治の正統性 を確認 させ るべ きだったので はなか ろうか。結局 の とこ

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エルザス ・ロー トリンゲ ンの住民投票問題 5

ろフランス政府 の内部 で は,パ ンルヴェ Pa i nl e v e 内閣の後 を受 けて 1 9 1 7 年 1 1月 に内閣 を組織 し たクレマ ンソー周辺の帝国主義者,膨張主義者 の主張が通 っただけの ように思われ る 。 既述 の ように, ポワンカレー, クレマ ンソー らは単 にエルザス ・ロー トリンゲ ンの奪還 だけでな く, 隣接す るプフアルツやザール地方の併合, さらにライ ンラン トの ドイツか らの分離 とい う膨張 主義的意 図を持 っていた。 それが対 ドイツ安全保障の観点か ら出ているものだ として も,力が すべてを決 める と考 える点で, クレマ ンソー らとドイツの 「 軍国主義者」の考 え方に大差 はな かった と言 えようし, そ もそ も住民投票 とい う手続 きに価値 を置 いていたか どうか も疑問であ る 。 ただ単 にフランスに不利 な結果 を恐れての反対 に過 ぎない可能性 もある 。 いずれ にして も フランス政府 はこの後,エルザス ・ロー トリンゲ ン奪還 のための努力 を一層強 めた。

第 2章 連合国政府の対応 1 .アメ リカ

言 うまで もな く, ウイル ソンの 1 4 ヵ条 を ドイツ政府が受諾す ることによって第一次世罪大戦 は終結す るのであるが, ウイル ソン政権 は最初,連合国の中で はエルザス ・ロー トリンゲ ンに 関す るフランスの要求 に最 も冷淡だった と言 える 。 アメ リカが まだ参戦せず中立 を保 っていた 間,多 くのアメ リカの人々 は, ドイツ語が話 されているエルザスは ドイツの土地 だ と考 え, フ ランスが独立 ・中立 のエ) I ,ザス ・ロー トリンゲ ンで満足す ることを希望 した。 またアメ リカ世 論で は住民投票 を支持す る声が大 きかった ( 1 8 )。

1 9 1 6 年 2 月のいわゆる 「 ハ ウス ・グレイ覚書」で は,エルザス ・ロー トリンゲ ンのフランス 返還が講和条件 として挙 げられていたが, ドイツが この条件 を拒否 しただけで はアメ リカは参 戦す ることはなかった と思われ る ( 1 9 ) 。 ウイル ソンは 1 9 1 7 年 1 月2 2日の上院での有名 な 「 勝利 な

き講和」演説の中で も,エルザス ・ロー トリンゲ ン問題 について は唆味な表現 に留 めた 伽) . 決定的な転換 は 1 9 1 8 1 月に訪れた。 ウイル ソンは 1 4 ヵ条の発表へむけて 「 調査委員会」 に

「 戦争 目的 と講和条件」の作成 を命 じたが,調査委員会 は 「フランスの要求への強 い共感」 を 表明 しつつ も,「 完全返還 の要求」にコ ミッ トすべ きでない と主張 した。 これ はフランスのライ ン左岸への領土的野心 を疑 ったため と言われている 伽 。結局,調査委員会 は, 「 1 8 7 1 年 になされ た不正」 の 「 原状 回復」 の必要性 を指摘 し, フランスによるエルザス ・ロー トリンゲ ンの 「 再 獲得」が 「きわめて望 ましい」 こと, フランス再建 のために不可欠であること, ドイツ軍国主 義 の抹殺 を最終的 に決定づ けること, しか しなが らエルザス ・ロー トリンゲ ンのためだけに戦 争 を続 けることはで きない とフランスの要求 に留保 を加 える報告書 を提出 して, ウイル ソンの 1 4 ヵ条の原案 となった C 2 ) . ゥィル ソンの側近 のハ ウスはエ) t 'ザス ・ロー トリンゲ ンにはっ きり 言及 しない ことを望 んだ とい う。 しか しウイル ソンは言及 に固執 し,報告書 の欄外 に次のよう な書 き込 みをした。「エルザス・ロー トリンゲ ンはフランスに返還 されねばな らない。但 し, ド イツが この地方の経済資源の利用か ら除外 され ることな く」, と

の).

2. イギ リス

イギ リス政府 は大戦前, フランスがエルザス ・ロー トリンゲ ンに対 して領土要求 を持 ってい

ることを知 っていたが, この地方の奪還 のための戦争 に与す ることは拒否 していた 伽.閑戦後

フランス政府がエルザス ・ロー トリンゲ ンの奪還が戦争 目的であることを宣言 して も, なるほ

どイギ リス政府 はそれ に反対 こそ しなか った ものの, フランスの 目的のために自国が拘束 され

(6)

6 加 来 浩

るのを避 けた。 ドイツがベルギー問題 で譲歩す るな らば,エルザス ・ロー トリンゲ ン問題 だけ のために戦争 を継続す ることはなかった と思われ るが, ドイツのベルギー問題 での頑 なな態度 が,イギ リス政府 を してフランス政府 の要求 を支持 させ るに至 った。

1 9 1 7 年 4 月,首相 ロイ ド ・ジ ョージは 1 8 7 1 年の国境線 を 「 他国民 の領土 を貫 く線」 と呼び, 外相パル フォアは 7 月 ,「 4 0 年前 にフランスか ら奪われた領土 の返還が,必要不可欠な領土変更 であることを疑 う者がいるだろうか」 と述べ た 伍) 。 ロイ ド ・ジ ョージは 1 0 月,労働組合の代表 に対 して, イギ リスは 「フランスの抑圧 された子供 たち」が 「 外国の くび き」か ら解放 される まで, フランスの側 に立 って戦 うだ ろうと述べ ,1 9 1 8 年 1 月 5 日の労働組合会議での有名 な演 説で 「もしフランス民主主義が 1 8 7 1 年の大 きな不正 の是正 を要求す るな ら,我々 は死 ぬ まで フ ランスを支持す るだ ろう」 と繰 り返 した 0 6 ) 。 これによ りイギ リス はエルザス ・ロー トリンゲ ン 返還 な しの講和 はあ り得 ない とい うフランスの立場 を全面的 に支持 した ことになる。但 し,即 時 フランス返還 には言及せず, 「 1 8 7 1 年 におか された大 きな誤 りの再考」とい う表現 に限定 して いることか ら,住民投票 の可能性 を完全 に排除 したわ けで はない。 メイアによれば, これ は労 働党 の覚書 [ 後述]の影響 だ とい うq 7 ) O しか しロイ ド ・ジ ョー ジは住民投票 にはっ きり言及 し たわ けで はないか ら,基本的に この点で ウイル ソンの立場 と一致 していた と言 えるだろう。

3. ロシア

露仏同盟で結 ばれたツ ァー リズム ・ロシアは,大戦前か らエルザス ・ロー トリンゲ ン問題 に 関 して, フランスの最 も信頼 で きる同盟国だった。 ロシア とフランスは,前者 はコンスタンチ ノープル と両海峡,後者 はエルザス ・ロー トリンゲ ンを獲得す ることで完全 に合意 していたO 開戦直後, ロシア政府 はフランスがエルザス とロー トリンゲ ンのみな らず, プフアルツ とライ ン左岸地方 を も併合す ることを承認 し ,1 9 1 7 年 2 月 にも再確認 した 伽 ) 。

しか しその直後 のロシア革命が事態 を一変 させた。臨時政府 は 「 無併合 ・無償金」の講和 を 支持 し,エルザス ・ロー トリンゲ ンについて は住民投票 を主張 した。

1 9 1 7 年 9 月以後,ペ トログラー ド ・ソヴェ トの内部 でポ リシェヴイキの影響力が強 まると, ロシア政府 とフランス政府 の立場 の違 いは一層拡大 した。ペ トログラー ド ・ソヴェ トは ,1 91 7 年 1 0 月 2 0 日の連合国パ リ会議へ のロシア代表団の中にシュコベ レフを加 え,「 ペ トログラー ド講 和方式」 に関す る自らの解釈 を明 らかにした。 その中には,無併合,無償金,民族 自決 と並ん で,エルザス ・ロー トリンゲ ンにおける住民投票が含 まれていた。 この立場 は臨時政府 とは一 致 していなか ったが, フランスを始 め連合国 を激怒 させた ( A ) 。十月革命後, ポ リシェヴィキに よる秘密条約 の公表 は,エルザス ・ロー トリンゲ ンに限 らないフランスの膨張主義的戦争 目的 を暴露 し,政府 に大 きな打撃 を与 えた。 フランス政府 は最大 の同盟者 を失 った。

第 3 章 社会主義者の対応 1.ス トックホルム会議

1 9 1 7 年 3 月のロシア二月革命が提起 した 「 無併合,無償金,民族 自決 の講和」 の影響下 に,

第一次大戦 の勃発 とともに 「 崩壊」した第二 インタナシ ョナルの社会主義者 の間で,「 国際プロ

レタ リアー ト」 の力 の再結集 による早期講和 を実現 しようとす る動 きが出て来 た。イニ シアチ

ブを取 ったの は, ブ リュッセルか ら中立国オ ランダのハーグへ移 っていた国際社会主義事務局

書記 のユイスマ ンス Huys mans とペ トログラー ド・ソヴェ トである( m ) 。交戦国の社会主義政党

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エルザス ・ロー トリンゲ ンの住民投票問題 7

の間で,無併合,無償金,民族 自決 の早期講和 のための共同行動 を打 ち立 てるために, ス トッ クホルムで国際会議 を開 くことが提案 された。両者 の呼びか けに対 して, ドイツ, フランス, イギ リス,イタ リア, ロシア, アメ リカの党が参加 を表明 した 伽 。 特 に ドイツ社会民主党 は積 極的だった。社会民主党 はペ トログラー ド ・ソヴェ トの講和方式 を承認 し,ス トックホルム会 議 の開催 を歓迎 した α) 。最高幹部 の一人 シャイデマ ン Sc he i de mann は,ドイツ政府 の了解 の下 に,デ ンマー クの社会主義者 ビョル クベル ク Bj or gbe r g と会談 し, ドイツ軍 の占領地域か らの 撤退, ロー トリンゲ ンの国境 の一部修正, ドイツ領 ポーラン ドの文化的 自治 を含 む講和条件 を 提示 した( n)。 フランス社会党 も 5 月 1 5 日,代表派遣 を決定 した ( 3 4 。 しか し連合 国 は,ス トック ホルム会議 は苦境 に陥 った ドイツが陰であやつ る平和会議 とみな して反対 し, フランス政府 は 5 月 1 9 日,旅券 の発給 を拒否 した。 イギ リスで も,海員組合がマ ク ドナル ドのス トックホルム 行 きの船への乗船 を拒否 し,アメ リカ政府 も旅券の発給 を拒否 した ( A )。 会議 はこのため何度 も 延期 されたが,結局 イギ リス, フランス両国の社会主義政党 の代表が欠席 したので は,会議 の 意味 はほ とん ど失われた も同然 だった。ス トックホルム会議 は失敗 を運命づ けられた。

2. ドイツ社会民主党, イギ リス労働党, フランス社会党

ドイツ社会民主党がエルザス ・ロー トリンゲ ン問題 に対 して どのような立場 を取 っていたか について は既 に拙稿 伽) において詳述 したので, ここで は重複 を避 けるが, 自決権 ない しその行 使 の具体的な形態 としての住民投票 の問題 についての態度 を必要最小限度述べ るな ら以下 の通

りである 。

党 の最高幹部であるエーベル ト Ebe r t ,シャイデマ ン,ヘルマ ン・ミュラー He r mannMt i l l e r らに とって,エルザス ・ロー トリンゲ ンは特別 な民族 ( Nat i on) で はな く, あ くまで もドイツ 国民 ( de ut s c he sVol k) の一部 であ り,従 って フランスへの返還が問題 外 で あ るの は もち ろ ん,住民 に帰属 の意志 を問 う住民投票 さえ全 く不要であった。社会民主党 の考 えるエルザス ・ ロー トリンゲ ン問題 の解決 とは, ドイツ帝国の枠 内での完全 な自治権,他 の連邦邦国 との完全 な同権 を与 えることであった。 それ はエルザス ・ロー トリンゲ ン住民 自身の要求であ り,戦前 において はフランス社会党 も同意 していた, と 。

これに対 して党内には ,1 91 7 年のヴユルツブル ク党大会 の議事録か らもわか るように, 自決 権 ない し住民投票 を問題解決 のための最善 の手段 と考 える勢力が少数派 なが ら存在 した。 また 同 じ年の 4 月に結成 された独立社会民主党 も, ス トックホルム会議のために用意 した宣言の中 で ,1 8 9 2 年のエ ンゲルスの発言 を引 き合 いに出 しなが ら明瞭 に住民投票 を要求 した。

「 1 8 71 年 に意 に反 して併合 されたエルザス ・ロー トリンゲ ン住民 は, その国家的帰属 について 直接 の,干渉 を受 けない投票 において, 自らの意志 を表明す る機会 を与 えられない限 り,心が 休 まらないだろう ( ‥ . daBdi ee l s aBl l ot hr i ng is c heBe v61 ke r ung, di e1 87 1ge ge ni hr e nWi l l e n annekt i e r twur de, S ol angeni c htz urRuhekomme nwi r d, bi si hrdi eGel e ge n he i tge ge be ni s t , s i ° h i n di r e kt e r ,unbe e i nf l uBt e r Abs t i mmung t i be r i hr e St aat s ge hOr i gke i t s e l bs t z u 宜uBe r n. ) 。 」( 那)

しか し党 の多数派 は,エルザス ・ロー トリンゲ ンの党組織 を代表 して発言 した ドイツ人工メ ル Emmel を含 めて住民投票 に反対 し, ドイツ政府 と同様, この態度 を 1 91 8 年 1 0 月 まで続 けた。

党中央機関紙 " Vor w宜r t s " の 1 91 7 年 1 2 月 21 日の論説 は書いている : 「エルザス・ロー トリンゲ ン

の引 き渡 しを ドイツで は誰 も考 えてない,最左翼 の者 さえも 。 例 えば今 日カール ・リープクネ

(8)

8 如 来 浩

ヒ トが帝国宰相 になるな ら,彼 はエルザス ・ロー トリンゲ ンに対す るフランスの要求 を ミハエ

‑ リス氏 と全 く同様 に拒否す るに違 いない。」伽)

イギ リス労働党 とフランス社会党で は,住民投票 の問題 について意見が分かれていた。

イギ リス労働党 は講和問題 について はベルギー問題 を最優先 し,エルザス ・ロー トリンゲ ン 問題 は二次的だった。 ドイツがベルギー問題 で満足 のい く対応,即 ち撤退 と賠償 を行 うな ら, エルザス ・ロー トリンゲ ンのためだけに戦争 を継続す るのに反対 した。 しか しベルギー問題 で の ドイツの頑 なな態度 ゆえに ,1 91 7 年夏 には労働党の多数派が フランスのエルザス ・ロー トリ ンゲ ンの返還要求 を支持す るに至 った。 この点で はイギ リス政府 と同様 である 。 とは言 え,独 立労働党 のスノーデ ンは,住民投票 を要求 した 。1 91 7 年 1 2 月,彼 はある集会で 「エルザス ・ロ ー トリンゲ ン住民 には,国際連盟 の保護下で 自分 の運命 を自分で決 めさせねばな らない」 と主 張 し ,1 91 8 年 1 月 1 1日の " Dai l yChr oni cl e" で,住民投票 に反対 す るフランス社会党 の トーマ Thomas に公開状 を出 し,結果 を恐れて反対 しているに過 ぎない と非難 した ( A ) 。1 91 7 年 1 2 月 2 8

日のイギ リス労働党 ・労働組合の 「 覚書」 は,エルザス ・ロー トリンゲ ンに関 しては,両地方 の即時 フランス返還 を要求す るので はな く, フランスに引 き渡す前 に,国際連盟 の監督下で住 民投票 を行 うことを提案 した ( 1 0 ) 。ここにスノーデ ンの影響 を見 ることがで きる。この覚書が 1 91 8 年 1 月 5 日のロイ ド ・ジ ョージの演説 に本質的でないにせ よ,若干 の影響 を与 えた ことは既述 の通 りである 。

ドイツ社会民主党 と並んで,エルザス ・ロー トリンゲ ン問題 の当事者 と言 えるフランス社会 党の場合 はどうであったか。 フランス社会党で は,党 内の相 当部分が, ロシア二月革命後 の数 ヵ月間,エルザス ・ロー トリンゲ ンの住民投票 を要求 した。彼 らは決 してエルザス ・ロー トリ ンゲ ンに対す るフランスの正当な権利 に疑念 を持 っていたわ けで はな く, この権利 を住民投票 によって改 めて承認 させたい と考 えた。連合国が中欧諸国の中小民族 に要求 したの と同 じ原則 をエルザス ・ロー トリンゲ ンに も適用すべ きである, と。彼 らはルナ ンの 「国民 とは日々の人 民投票である」 とい う思想 の後継者であった と言 えるだ ろう 。1 91 7 年 4 月にロシアを訪問 した 軍需相 トーマ らは, ケレンスキーや ソヴェ トとの交渉 の影響下で住民投票 に賛成す る立場 に接 近 し, フランス政府 に住民投票 を約束す るよう働 きか けた。政府 は危機感 を持 ち,計画 されて いたス トックホルム会議 に社会党代表団が出席す るための旅券 の発行 を拒否 したのは既述の通 りである。会議で はエルザス ・ロー トリンゲ ンの住民投票問題が議題 に含 まれていたか らであ る 。 政府 は明 らかに社会党代表団が住民投票 に賛成す るのを恐れていた 。1 91 7 年 6 月 2 7 日, ポ ワンカレーは日記 に書 いた : 「 多数派社会主義者の新 たな降伏。彼 らは全国評議会で少数派の 歓心 を買 うためにエルザス ・ロー トリンゲ ンの住民投票 とい う考 えを受 け入れた。 トーマ はあ るイ ンタビューの中で,フランス国内に亡命 しているエルザス人 に も投票権 を与 え,(ドイツか らの)移住者 を排除す る とい う条件で, このペ テンを受 け入れた。」( 4 D

実際 に 1 91 7 年夏以降,社会党内部 で住民投票 をめ ぐる論争が行われ, しば ら くの間,住民投

票 を主張す る少数派が多数派 の意見 に影響 を与 えた。 しか しなが ら最終的 には住民投票反対派

が勝利 した。決着 は 1 91 7 年 1 0 月, ボル ドーでの社会党党大会でつけられた。 トーマ,ルノーデ

ル Renaudel ら右派 は住民投票 に反対 の立場 に逆戻 りした。ロンゲ Longue ら左派 は,住民 に意

志 をはっ きり表明 させ るべ きだ と主張 した。左派 は,エルザス ・ロー トリンゲ ンの復帰 は住民

の同意 によってのみ実施 で きるし,実施 しなけれ ばな らない と主張 し,住民投票反対 の論陣 を

張 っているヴェタレについて,彼 自身が 1 9 0 3 年 に書 いた論文での主張 と矛盾す ると批判 した。

(9)

エルザス ・ロー トリンゲ ンの住民投票問題 9

しか し結局, 1 5 5 2 対 1 1 1 9 で多数派 ( 右派)の決議が採択 された。票差 を見 る限 り,住民投票 を 求める勢力が依然相 当部分存在す ることがわか るが,条件つ き講和 の拒否,「回復 の講和,勝利 の講和」支持の路線が確認 された ( W 。か くしてフランス社会党 の 「 動揺的な一部分」が 1 91 8 年 1月に公式かつ最終的 に住民投票 を放棄 し

(43)

, フランスで はすべての政党,すべての階級がェ ルザス ・ロー トリンゲ ンの返還要求で一致 した。 ポワンカレー は 1 91 8 年 2 月 1 2 日に日記 に書 い た : 「フランス政府 はこの間題 における全政党,全国民の意見 の一致 を喜ぶだけである。上エル ザスの占領地 において も住民投票 に反対 の声が高 まっていた ことが,特別 の印象 を与 えた。」( 4 4

以上,見て きたように ,1 91 7 年のペ トログラー ド・ソヴェ トの講和原則 「 無併合,民族 自決」

の直接的影響 の下 に,エルザス ・ロー トリンゲ ン問題 の解決 に際 して は住民投票 による帰属 の 決定が最 も民主的で公正 な解決法である とい う考 えが,各国の社会主義政党 の内部 の,特 に左 派勢力 (ドイツ独立社会民主党, イギ リス独立労働党, フランス社会党左派)に広 まっていた。

しか しなが らこの考 えは, それぞれの政府 の立場 に密着す る党 内多数派勢力 ( いわゆる政府社 会主義者)の前 に敗北 し ,1 91 8 年 に入 る と, この問題 は全 く忘れ去 られて しまう 。 唯一敗戦が 決定的 となった ドイツの党が,最後 の最後 になって住民投票 とい う考 えを押 し入れの中か ら引 っ張 り出 して来 ることになる。

もちろん住民投票が理想的な解決方法であって,何 の欠点 もない とい うわ けで はなか ろう 。

ヴェタレの指摘 した技術的困難 も確かにあるだろう 。 しか し, これ よ りましな方法 もないので はなか ろうか。 ある地域 の国家的帰属 の変更 を行 う場合 に,統治の正統性 とい う観点か ら言 っ て, そこに住 む住民 の意志 を確認す ることほ ど,真 に民主的で公正 な方法 に近 い方法 はないの で はなか ろうか。 いったん住民 の意志 に従 って帰属 を決定す るな らば,正義 を重 んず る政府 な らば,投票 を 1回に限 る必然性 はないにして も,異議 を唱 えることな く,尊重せ ざるを得 ない だろうか ら。 まして 「 意志の共 同体 」 「国民 とは日々の人民投票」とい う理想 を掲 げるフランス な らば,実施すべ きで はなかったろうか。 冒頭 に述べた, フランス軍へのエルザス住民 の熱烈 な歓迎 とい う「 祭 りが終わ った」( 4 5 ) 後,す ぐにエルザス とフランス政府 の間で激 しい緊張関係が 生 じた 。1 9 2 0 年代 のエルザス 自治運動 は基本的にはフランスの枠 内での自治 を求 める運動であ ったが ,1 91 8 /1 9 年 に住民投票が行われ るべ きであった と主張 した し,エルザス共産党 ない しコ ミンテル ンも, フランスか らの分離 の権利 も含 めた自決権, フランス軍 の撤退後 の住民投票 を 要求 したのである。

おわ りに

1 91 8 年 1 月 8 日に発表 されたアメ リカ大統領 ウイル ソンの 「 1 4 ヵ条」の第 8 条 は言 う :

= 8. Al lFr e nc ht e r r i t or ys houl dbef r e e d,andt hei nvade dpor t i onsr e s t or e d,andt he wr ongdonet oFr anc ebyPr us s i ai n1 8 71i nt hemat t e rofAI s ac e‑ Lor r ai ne,whi c hhas uns e t t l e dt hepe ac eoft hewor l df orne ar l yf i f t yye ar s , S houl dber i ght e di nor de rt hatpeac e mayonc emor ebemades e c ur ei nt hei nt e r e s tofal l . "

ウイル ソンは ,1 4 ヶ条 の中で は調査委員会 の報告書への書 き込 みの ように 「エルザス ・ロー

トリンゲ ンはフランスに返還 されなければな らない」 と直接的な表現 をしていない。 そのため

ウイル ソンの言 う 「 1 87 1 年の不正」 とはエルザス ・ロー トリンゲ ンの併合 その ものか, それ と

も住民 の意志 を問 うことな く併合 した ことかで解釈 の余地が生 じることになる。言い換 えるな

ら,「 不正 の是正」とは単純 に併合以前 の状態 に戻す ことか,それ とも住民投票 によって帰属 を

(10)

1 0 加 来 浩

決定 すれ ば 「 不正 の是正」 にな るのか。 ドイツ側 は最後 の段 階 になって,後者 の解釈 を採用 し, 住民投票 を行 えばウイル ソンの第 8 条 の要求 にかな うことになる とい う希望 にすが った。 フラ

ンス政府 も, ウ イル ソンの第 8 条 の表現 が住民投票 の可能性 を残 していることを心配 し, タル デュー Tar di euを通 じて,第 8 条がエルザス ・ロー トリンゲ ンの住民投票 な しの フランス返還 要求 を意味 す ることの確認 をウイル ソンに求 めた。 これ に対 して ウイル ソンは肯定的 に答 えた。

「 私 は明解 に述べ た と思 い ます。不正 を是正す ること。 それ は一 つの意味 しかあ りません。 つ ま り,不正 が行 われ る以前 の国家 の状態 を回復 す ることです。 エルザス とロー トリンゲ ンは, 無条件 にフランクフル ト条約以前 と同 じ状態 に戻 さね ばな りません。

」 (4

6 )

この ようにウイル ソンは1 91 8 年 1 月の時点 で,住民投票 な しの返還 とい うフランス政府 の立 場 を完全 に支持 す るに至 った。 この後, ブ レス ト・リ トフスク講和, ドイツの西部戦線 での大 攻勢 と事態が進 むにつれて, エルザス ・ロー トリンゲ ン問題 は再 び後景 に退 くことになる

こ の間題 が再 び登場す るの は, ドイツの敗戦が決定的 にな り, ドイツ政府が ウ イル ソンに1 4 ヵ条 の受諾 を通告 した後であ る。 この期 に及 んで, ドイツ政府 は 「1 871 年 の不正」 を住民投票 な し で併合 した ことと解釈 し,住民投票 にエルザス ・ロー トリンゲ ン保持 の最後 の希望 をつな ぐこ

とにな るが, それ について は稿 を改 めて述 べ ることとしたい。

1.Fy l e i ePr l e S S e .So z i al de mo ky di s c he sOr ga nf i i rEI s a B‑ Lo t hn' n ge n,Nr . 2 8 9 ,1 2. 1 2 . 1 91 8 , S. 1 : " Fr ank‑

r e i c hsGr t i s s eandasbe f r ei t eEI s as s . "「 住民投票 は行われた」 という言葉は, フランスへの復帰 の意志表明を行った 4 日前の1 91 8 年1 2 月 5日の国民評議会 ( Nat i onal r at ) の総会での議長デルソ ル Del s or の結語の中の「 住民投票 はもはや存在理由をもたない.それは行われた( Ler e f e r e ndum n' apl usder ai s ond' e t r e,i le s tf ai t . /) 」( Fr e i ePy l e S S e ,Nr , 2 8 4,6. 1 2 . 1 91 8 ,S. 1 :" De rNat i ona1 ‑ Aus s c huBf t i rde nAns c hl uBanFr ankr ei c h. " ;Pi e r r iZi nd ,EI s a s s ‑ Lo t hn' n ge n. AI s a c e ‑ Lo r ‑

y m' ne .Unena t i o ni nt e r di t e187 0‑ 1940,Par i s1 9 7 9 ,p. 1 0 7 . )に由来 し ,1 2 月 9 日の式典で市長 官 ( St adt pr 畠s i de nt ) のウンゲマッハ Unge mac h がポワンカレー歓迎演説 ( Fr l e i ePy l e S S e ,Nr . 2 87 , 1 0.1 2.1 91 8,S. 1 : " De rWor t l autde rRe dede sSt adt pr 宜s i de nt e nUnge mac h. " ドイツ語訳は, e b e nd a,Nr . 2 8 8, l l .1 2.1 91 8 ,S . 1 : " Di eBe gr t i Bungs ans pr ac heUnge mac hsanPoi nc ar e" . )の中 で繰 り返 したものである。国民評議会議長デルソルは,「 内地 フランス」からの移住者の子孫であ り,住民投票反対,フランスへの即時無条件復帰の立場 を取 って,中央党の同僚であるハ ウス Haus s( 州議会議員団長,1 91 8 年1 0 月エルザス ・ロー トリンゲン首相) , リクリンRi ckl i n ( 州議 会議長) と対立 していた。 この点について別稿で論 じる予定である。

2. Da sEI s a s sy o n187 011932,Col mar1 9 3 6,Bd. 1 ,S. 4 2 5.

3.Eb e nd a ,S. 4 2 6. この主張は社会民主党に受け継がれた。参照,Pr o t o k o l lt i b e rdi eVe r h andl un ge n de sPar t e i 晦 e sde rSo z i al de mo ky l a t i s c he n Par t e iDe ut s c hl a nd si n t Vi i r z b ur g1917 ,Be r l i n1 91 7 [ Unver 宜nde r t e rNac hdr uc k,Be r l i n‑ BonnBadGoe de be r g1 9 7 3 ]S. 41 ; 拙稿 「 1 91 8 年 1 1 月の革 命前夜のエルザス社会民主党 」 『 弘前大学教育学部紀要』第 7 7 号,1 9 97 年 3 月,l o 貰o

4. Da sEI s a s s ,Bd , 1 ,S . 4 3 0 5.Eb e nd a ,SA3 1 , 6.Eb e nd a . 7. Eb e nd a ,S . 4 3 0.

8.フランスの宣伝活動については参照,e b e nd a ,S. 4 41 ‑ 4 4 6.

9.Da sEI s a s s ,Bd. 1 ,S. 4 3 8.

1 0.Eb e nda ,SA39.

l l .Eb e nd a; 有賀貞「ウイルソン政権 とアメリカの参戦」『 岩波講座世界歴史』第2 4 巻,1 9 7 0 年,27 5‑

2 7 9 頁。

(11)

エルザス ・ロー トリンゲ ンの住民投票問題 l l 1 2. 前掲拙稿,l o貰o

1 3.Da sEI s a s s ,Bd . 1 ,S . 4 48.

1 4.Eb e nda ,S. 4 39. 三十年戦争後 のルイ1 4 世 によるエルザスの フランス併合が 「 説得」 によるもので あ り,暴力 に よる もので はない, とい う主張 は明 らか に虚構 で あ る。参 照,Fr eder i c Hof f e t , Ps yc ho a nal y s edel ' AI s ac e ,Col mar1 97 3 ( オ リジナル は Par i s1 951 ),p. 39,1 8 2( 宇京頼三訳 『ア ルザス文化論』[ みすず書房,1 987 年] 1 4 貢,1 81 頁): EugenePhi l i pps , L' AI s a c ef a c e a Ls o nde s t i n ,

St r as bour g1 97 8,pp. 2 9‑ 31 (ドイツ語訳 Sc hi c k s alEI s a B ,Kar l s r uhe1 98 0,S. 1 91 21 ); Der s . ,Le de J f ial s a c i e n ,St r as bour g1 982,pp. 2 7‑ 31(ドイツ語訳 Ze i t g e s no s s eEI s ゐs e r ,Kar l s r uhe1 98 7,S.

1 1 ‑1 4);フィ リップス 『アルザスの言語戦争』 ( 宇京頼三訳, 白水社,1 99 4 年) ,21 7‑22 4 頁。 リ ボー はこの 日の演説 の中で,エルザス とロー トリンゲ ンは1 7 90 年の連盟祭 に参加 した ことによっ て, フランスへの加入 を明瞭 に宣言 したのである と主張 した。 フランスが1 87 0 年 の国境 で はな く, 17 90 年の国境 の回復 を目ざ したの も, 同 じ論拠か らであ ろう。参照, Fr e i ePr e s s e ,N r . 2 60,7. l l . 1 91 8,S , 1 : " Ei neof f i zi Os eSt i mmet i be rdasel s aB‑ l ot hr i ng is c hePr obl em. "

1 5.Da sEI s a s s ,Bd. 1 ,S . 4 40.

1 6.Eb e nda ,S. 442‑ 44 6,4 64 ‑ 4 6 6.1 87 1 年の 「 抗議声明」 について は,拙稿 「ドイツ第二帝政期 のエル ザス自治運動」 ( ‑), 『 弘前大学教育学部紀要』第62 号,1 989 年1 0 月 を参照。

1 7. 住民投票 の技術 的困難 とい う論拠 について は, ドイツで もフランスで もない第三 国 [ 主 にアメ リ カを想定],あるい は将来創設 され るべ き国際連盟 の監視下 で行 うことが イギ リス労働党 によって 提案 され るが, この可能性が ヴェタ レの議論で は欠落 してい る。

1 7 a.『 マル クス ・エ ンゲルス全集』第22 巻 ( 大 内兵衛 ・細川嘉六監訳,大 月書店,1 971 年) ,5 3 0 頁, 541 貢。エ ンゲルスは同 じ考 えを1 8 91 年1 0 月に執筆 した「ドイツにお ける社会主義」( 『 同』 ,2 5 9 頁) で も述べていた。エ ンゲルス は,エルザス・ロー トリンゲ ン住民 について,「フランス化 されて狂 ったようにフランス的 になっている」 名望家 と,「フランス語 もわか らず言語や気質か ら見 て もま だ完全 に ドイツ人であ る」労働者 を区別 した。 『 同』38 巻,2 2 3 頁 [ ベ ‑ベルへの手紙,1 892 年 2 月 2日]。

1 8.Da sEI s a s s ,Bd. 1 ,S A5 3 f . 1 9. 有賀,27 6‑27 7貢。

2 0. 有賀,27 9 頁。

2 1.メイア 『ウイル ソン対 レーニ ン』 Ⅰ Ⅰ ( 斉藤孝 ・木畑洋一訳,岩波書店,1 98 3 年) ,1 9 4 頁。

2 2.Da sEI s a s s ,Bd. 1 ,S A5 4.

2 3.Eb e nda.

2 4.Eb e nda ,S . 44 g f . 2 5.Eb e nda,S . 4 5l f . 2 6.Eb e nda ,S . 452.

27.メイア,1 33 頁。

2 8.D o sEI s a s s ,Bd. 1 ,S A47 f . 2 9 ,メイア,21‑2 3 貢。

30.ジ ョル 『 第二 インター1 88 9 ‑1 91 4 』 ( 池 田清 ・ 祇園寺則夫訳,木鐸社,1 97 6 年) ,2 2 4 頁,2 3 6‑2 38 頁 ;長尾久 「 二月革命 か ら 7 月事件‑」江 口朴郎編 『ロシア革命 の研究』,中央公論社,1 9 68 年, 5 40‑541 頁 :フォスター『 三 つのイ ンタナシ ョナルの歴史』 ( イ ンタナ ショナル研究会訳,大 月書 店,1 9 57 年) ,2 8 3‑2 84 頁 : Pr o k o t o l lSTD 1917,S. 38.

3 1.フォスター,2 8 4 頁。

32.長尾,541 頁。

33.カー 『ポ リシェヴ ィキ革命』第三巻 ( 宇高基輔訳,みすず書房,1 97 1年) , 9‑1 0 貢。 ビ ョル クベ ル クはペ トログラー ドを訪問 して, ソヴェ トに会議へ の参加 を招請 した人物 であるが, レーニ ン

はビョル クベル クを ドイツの手先 とみな し, ス トックホルム会議 は喜劇 である と非難 した。

3 4. 長尾,541 頁。

35.長尾,541 頁 :フォスター,2 84 貢, ジ ョル,2 37 頁。

(12)

1 2 加 来 浩

3 6. 拙稿 「 エルザス社会民主党」

3 7.Euge nPr age r ,Do sGe b o tde rSt unde ,Ge s c hi c ht ede rUS I V ,Nac hdr uc k [ オ リジナル は 1 9 21 年] ,Be r l i n‑ Bonn1 9 8 0,S. 1 5 2 .

3 8.Do sEI s a s s ,Bd. 1 ,SA3 2.

3 9.Eb e nda,SA5 1.

4 0. メイア ,1 2 3 頁。

4 1 .Da sEI s a s s ,Bd. 1 ,SA4 0.

4 2.Eb e nd a,S. 4 4 0 f . 4 3.Eb e nd a ,SA64.

4 4.Eb e nda.

4 5.Anonyme( J e an‑ Cl audeRi c hez ) ,Co ns e i l so uu n' e 7 1 Se tC O nS e i l sdes o l d at s ,Re u e ndi c at i o nsde c h Z S S e Se t7 1 e u e ndi c at i o nsnat i o nal e se nAba c ee nNo v e mb e r191 8 , ( 1 9 7 9) ,p. 1 1 9.

4 6.Da sEI s a s s ,Bd. 1 ,S. 4 5 5 によれば, ウイル ソンは最初 " mus t " としていたが,ハ ウス大佐 の助言

を受 けて,意味合 いが よ り薄い " s houl d" に変 えた とい う。 メイア ( 1 9 4 頁) ち,第 7 条のベルギ

ーの旧状 回復 では助動詞 … mus t " が使用 されていたのに対 し,第 8 条で は " s houl d" が使用 され

ていることに注意 を喚起 している。 しか し,第 8 条 の " s houl d" は 「 不正 の是正」のみな らず,

フランス領土 の解放,復興 に もかかってお り,第 7 条のベルギーの旧状 回復 の場合 と比べて特 に

差別化 している とは思 えない。 ( 1 9 9 8. 1. 5 受理)

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