漂流する歴史学
1 科 学 的 実 証 的 歴 史 学 批 判 1
伊東利勝
はじめに
漂流する歴史学という非常に挑発的な題を掲げましたが︑副題を科学的実証的歴史学批判としておりますように︑
歴史学研究のあり方を問い直すというものです︒あるべき社会を構想するための学問研究という観点から︑歴史学と
いう学問体系に内在する問題点をえぐりだし︑今後のあり方を考えてみたいと思っております︒その過程で︑今回新た
に立ち上げた世界史学専攻の意義についても触れるつもりです︒ただここでとりあげます物事の認識にかかわる問題
は︑歴史学だけではなく︑文化人類学とか社会学とか地理学とか︑文学にもかかわります︒つまり現在の人文学全体
を批判するような︑そういう話になろうかと思います︒幸い歴史学者のみならず︑イギリス文学︑ドイツ文学︑フラ
漂流する歴史学‑科学的実証的歴史学批判ー三五[1]
漂流する歴史学‑科学的実証的歴史学批判‑三六[2]
ンス文学を専攻しておられる先生もご出席ですので︑後ほど︑いろいろご意見を賜りたく存じております︒
二つの﹁元禄赤穂事件﹂像
元禄赤穂事件といわれるものを題材にして︑話を始めさせていただきます︒我われの世代では︑忠臣蔵として知ら
れているこの元禄赤穂事件は︑元禄一五年の一二月一四日(一七〇三年一月三一日)の払暁︑赤穂藩の旧藩士四七人
が︑江戸の本所︑吉良邸に討ち入る︒そして︑高家筆頭︑すなわち儀典を司る役職にあった吉良上野介義央が殺害さ
れます︒ここで四七人ではなく︑四六人であった︑またこれをすべて旧藩士としてよいか︑さらには討ち入りではな
く︑﹁侵入﹂もしくは﹁襲撃﹂と表現すべきという問題がありますが︑今は深く立ち入りません︒
この背景としては︑元禄一四年の三月一四日に江戸城内の松の廊下で︑赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が吉良上野介義
央に対して︑刃傷に及んだということがあります︒いわゆる松の廊下事件ですが︑加害者である内匠頭は即日切腹︑
被害者の上野介にはお答めなしという︑公儀の裁定が下ったわけです︒これに不満を持った︑大石内蔵助良雄はじめ
赤穂藩士が︑主君の無念を晴らすために︑いま申し上げましたような行動に出たといわれております︒
この事件については︑古くは仮名手本忠臣蔵という芝居や︑映画︑テレビ等でよく知られています︒ただ最近の若
い人たちにはあまり馴染みがないようで︑愛大の学生諸君にきいても︑この話を知っている者は百人中数人しかいま
せん︒それは忠臣蔵がテレビドラマや芝居であまり取りあげられなくなり︑たとえそうであっても主君の敵討ちとか︑
主君の恩に報いるとかいうモチーフを前面に出されなくなったからだと思います︒個人的には好ましい傾向であると
思いますが︑ともあれこの話の中で大石内蔵助はじめ赤
穂浪士は英雄︑上野介やその配下の者は︑成敗されてし
かるべき悪人として扱われています︒世間は︑上野介の
貧欲さ︑邪悪さに業を煮やし︑内匠頭の純粋で真っ直ぐ
なおこないに共感し︑赤穂浪士が苦難に耐える姿に涙を
流し︑そして所願を成就し義に殉じる姿に︑今流にいえ
ば元気をもらいました︒単なる作り話ではなく︑史実に
もとついているということが︑これを迫力あるものにし
ています︒
ところが︑これとまったく反対の歴史を伝えている場
所があります︒実は我が豊橋から非常に近い所にありま
す︒地図を見ますと︑豊橋から海沿いに︑車で四〇分ほ
ど西へ行くと︑現在は西尾市になってしまいましたが︑
吉良という町に着きます︒ご承知のように︑ここには上
野介の領地がありました︒合併前の吉良町が出していた
パンフレットには︑その最初に︑﹁時代にきらめいた五
人の男たち﹂ということで︑この町にゆかりのある偉人
漂流する歴史学1科学的実証的歴史学批判i
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図1吉 良 町 のパ ンフ レ ッ トよ り
漂流する歴史学‑科学的実証的歴史学批判1
が紹介されております(図1)︒筆頭に︑﹁お気の毒なお
よしひさ殿さま/吉良上野介義央公/名君の面影をたどる赤馬の
径﹂ということで︑この上野介を取りあげ︑
吉良といえば︑特に有名なのが﹁忠臣蔵﹂の吉良上
野介義央公︒この界隈は︑鎌倉時代から江戸時代初
期までこの吉良家の領地として発展しました︒義央
公は︑領民から慕われながら非業の死を遂げた名君
として︑今も多くの人々の記憶の中に静かに生き続
けているのです︒
という文章にはじまり︑上野介が領地では︑庶民が使う
農耕用の赤馬にまたがり︑﹁巡回して領民と接し︑人々
から厚く信頼されていた﹂こと︑塩田開拓や治水など
﹁数々の善政﹂をおこなったことが記されています︒
つまり非常に立派な殿様︑領主であったというわけで
す︒それから︑このパンフレットには︑﹁赤穂浪士討ち
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図2史 跡 清水 一 学 の墓 の案 内板
入りの夜︑吉良公を守り︑四十七士と果敢
に戦って果てたという清水一学﹂の話が添
えられています︒仮名手本忠臣蔵では︑半
道敵の鷺坂伴内として登場し︑歴史ドラマ
等では︑悪者を守る用心棒という描かれ方
をしますが︑ここではコ刀流剣道の達人
として有名で﹂﹁忠臣の誉れ高い﹂と表現
されています︒清水一学の墓というのが実
際ありまして︑豊橋からですと吉良に入る
前の峠を越えたところに︑宮迫︑昔はみや
はざまといったらしいですが︑ここに円融
寺というお寺さんがあって︑墓所に行きま
すと高い標柱が立てられ︑その場所が示さ
れています︒吉良町教育委員会が建てた案
内版(図2)には︑]学というのは︑百姓
の生まれで︑幼名を藤作といって少年のこ
ろから剣術を好んで岡山‑岡山というのは
漂流する歴史学1科学的実証的歴史学批判1三九[5]
図3300年 記 念 シ ン ポ ジ ウ ム の ポ ス タ ー
漂流する歴史学ー科学的実証的歴史学批判‑四〇[6]
吉良町の中にある字の名前ですがーの陣屋に通った︒めきめき上達し︑義央公は藤作に目をかけ︑一五才で江戸に呼
び寄せ︑やがて中小姓に取り立てる︒赤穂浪士﹁襲撃﹂の夜︑↓学は奮戦して命を落とした︑享年二五歳であったと
書かれています︒この文章からは︑道化どころが︑青雲の志を抱いた非常にさわやかな少年の姿が目に浮かびます︒
二〇〇一年に︑吉良上野介没後三百年を記念して︑吉良町でシンポジウムが開かれました︒図3は︑その時のボス
ターですが︑ここには﹁元禄事件最大の被害者を偲ぶ﹂と書かれています︒忠臣蔵を称して﹁元禄事件﹂とし︑赤穂
の文字がはいっておりません︒元禄赤穂事件とすると︑忠臣蔵の語りに引っ張られてしまうという思いがあるからで
しょうか︒この没後三百年記念行事として︑吉良町では︑生涯学習の一環として︑﹁﹁名君の証﹂ー吉良を知るー﹂
というテーマの県民大学講座も開講しています︒全六回でその趣旨は﹁吉良公が残したものにふれながら名君の一面
をあきらかにしていきます﹂ということです︒上野介にかかわる歴史や菩提寺︑ゆかりの品を現地に赴いて実見し︑
これを説明することによって︑いかに名君であったかを︑﹁証明﹂しようという試みであったと思われます(図4)︒
このような語りは︑吉良の随所に認められます︒吉良家の菩提寺である華蔵寺にはりっぱな経堂がありますが︑そ
よしひさあんねいの縁起を記した案内板には﹁この経蔵は︑吉良さん(上野介義央公)が領地の安寧と領民の幸福を祈願して︑建てら
きしやれたものです︒時に元禄十三年(一七〇〇)吉良さん六〇歳でした︒華蔵寺への最後の喜捨になりました﹂とありま
す︒立派な領主であったことがうかがえませんか︒ちなみにこの案内板は一九九七年に作成されています︒また同じ
く境内に︑村上鬼城の﹁行春や憎まれながら三百年﹂という句を説明した案内板があります(図5)︒大正七年四月︑
鬼城はここ華蔵寺に詣で︑画帖にこの句をしたためたことを紹介し︑﹁おきのどくな吉良様︑三〇〇年もの間︑世間
では憎まれなされた︒あんなに名君でありながら⁝﹂と解説されています︒