ムラの水車とマチの水車 : 明治前期『水車調』に よる水力開発・利用の実証的研究 (4)
その他のタイトル Water Mills in the Village and in the Town
著者 末尾 至行
雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要
巻 4
ページ 79‑97
発行年 1971‑03‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/16112
ムラ
の水
車と
マチ
の水
車︵
末尾
︶
水車調土木課﹄という表記は︑R れる︒ 数年前に筆者は︑奈良県の水車に関する︱つの資料をさる書陣か
① ら入手した︒明治一四年八月︑当時大和国が所属していた大阪府の
土木課へ︑大和の四カ所に所在した郡役所ー奈良︑三輪︑御所︑宇
智•吉野ーから答申された、明治一四年実施の水車取調の文書がそ
れである︒これが後年︑奈良県の分離独立とともに奈良県に移管さ
ママ
四郡役所分を一括仮綴した表紙の﹃明治十三年れたものと覚しく︑
この
﹃水車調﹄は四郡役所がそれぞれ管轄する諸郡︑すなわち①奈良郡役所……添上・活下・山辺・・広瀕•平群の五郡
③
三輪
郡役
所・
・・
・:
宇陀
・式
上
・
式下・十市の四郡③御所郡役所:⁝.葛上・葛下・高市
・忍
海の四郡
序
言
後日の奈良県土木課の細工とみら
七九
④宇智•吉野郡役所:
. . . .
宇智•吉野の二郡
に所在していた水車の︑明治一四年八月当時の悉皆書上げの調査網
と思われる︒その内容は個々の水車につき︑敷設許可年月︑川
筋・
水路筋︑所在地︑用途︑所有主を記録し︑さらに郡役所によっては
水車の商用・自給用の別︑車の直径にまでふれている︒明治の︑
であ
ろう
︵第
一図
︶︒
し
、
当時︑水力資源の開発
11
利用に関する歴史地理学的研究を志して
いた筆者は︑右の﹃水車調﹄に非常な興味を覚え︑これに幾つかのR 考証・分析を施してはその都度発表する機会を持ってきた︒今
回の
論文はそれらに統く第四のものである︒
論︑およひ水車による水力開発盟の評価を志してぎた︒
文では︑水車を社会的存在としてとらえ︑地域の中におけるその存 ついで本論 既往の考証・分析によって︑筆者は主として水車の分布論・機能 な時代をとわず︑水車の調査記録としてはまさに珍奇で稀有な資料
ー 明 治 前 期 資 料
﹃ 水 車 調
﹄ に よ る
水力開発
11 利 用 の 実 証 的 研 究
④
I
ム ラ の 水 車 と マ チ の 水 車
末
尾
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第1図 『 水 車 調 』 の 害 式 の 例
(左・・・・・・葛下郡, 右…・・添上郡)・
一︑水車の立地条件と類型分化
その分 在の姿を描き出そうと考えている︒
なお本論文は︑次稲に予定する︑西南アジアの水車存立の社会
1 1
経済的背
景に
関する研究との比較研究の意味をもつ︒
明治
一
0
年代中期における大和国の五五六台の水車は︑布・立地・用途を基準として分類
した
場合︑次の二つのグルーブに
類別されるであろう︒すなわちその第一のグループは︑大和高原な
どの
山間部の集落にともなわれていた
︑
いわばムラの水車である︒それらの用途は︑凍豆腐製造用などの商品生産につながる若千の例
外を除いては︑多くは自給用の米拇水車であり︑中には水車組
によ
って共有
・
共用される水車の事例もみとめられた︒ついで
第二のグ
ループは︑奈良盆地の主と
して
縁辺部集落に立地し︑製粉・綿繰・
紡綬
︵ガ
ラ紡
︶
・精米・油搾などの商品生産にむけられていた一群の商
用水車である︒水車の立地する集落は必ずしもマチではないが
︑い
ま
これ
をマ
チの水車と仮称しようと思う︒当然のことではあるが︑
このマチの水車は︑吉野川河谷の平坦地などにも分布し
てい
た︒
極めて大まかな分類ながら︑山間部と平地部という水車立地の自
然的基盤の相違は︑以上のように︑水車の所有・用益・機能などの
面で
︑水車に重要な価
値の相
違をもたらしている︒山間と乎地の自
然的条件の差異は︑第一には水流・地形などの水車の架設条件に反
映し︑水車立地点の数とその集中
・分
散性を規定する︒すなわち︑ 八
0
はかなりの程度分散的に与えられるが︑反面︑平地においては︑水
車の立地は山麓線などの特定の地点に限定されるものであり︑この
ような条件の差は︑双方の水車の絶対数にも影菩を与えるわけであ
る︒
また
︑
山間と平地の自然条件の差異は︑第二には︑水車の存在
がそれとかかわりあう︑集落分布とその規模︑ひいては人口分布に
影響するところが大きい︒これは水車を用益する需要の頻度につな
さらに第三には︑自然条件の差は︑水車によっがるものであろう︒
てなされる加工に対応する︑農林産物の種類とその生産性を規定す
る︒以上主として前二者の条件は︑水車の所有・用益に関係するに
かく
して
︑
ムラの水車とマチの水車は︑それぞれの立地点の社会
11
経済的基盤の中で
︑それに応
じた社会的存在であった︒水力開発
11
利用の状況も︑このような水車の存在のあり方を通じて分析され
二︑自給用・商業用水車の分布
先にもふれたように︑﹃水車調﹄水車のうち奈良郡役所によって取りまとめられた五郡(添上・添下・山辺・広瀕•平群)の水車に
は︑自給用・商業用の区別が付記されている︒しかしそれ以外の郡
役所関係の水車リストには︑ ねばならない︒
かかる註記は付されていない︒
ムラ
の水
車と
マチ
の水
車︵
末尾
︶
りの程度決定づけるものであると理解されよう︒ いま︑奈良郡役所関係五郡の水車の自給用・商業用の内容を︑そ
れぞれの用途と関連させて吟味すれば︑次のような相関が見出されc る︒すなわち︑自給用水車二
0
六台は︑唯一の
例外ー添下郡鹿畑村
の製粉水車一台ーを除いて︑残る二
0
五台のすべては米揺水車からなっている︒すなわち︑自給用水車即米掲水車である︒
は必ずしも真ではなく︑米掲水車のすべてが自給用水車であったわR けではない︒すなわち︑米揚水車ニニ︱台のうちの一六台は商業用
途に用いられていたのである︒しかし︑商業用水車のうちその大多
数をし
める
一
0
四台は︑何よりも︑米掲以外の製粉・綿繰・紡綬.油搾等の機能をもった水車をそのおもな内容としていた︒米拇水車
それ故︑上に述べたような若千の例外はあったにせよ︑
米拇水車は即自給用水車であるとみな
し ︑
米揺以外の用途の水車を
って自給用・商業用の別の不明な奈良郡役所管轄外の諸郡の水車に
ついては︑この目安を適用してその欠を補うこととする︒
された通りである︒この双方の水車は相互に補完的であった故︑両
者の分布が全く対照的な結果になっている点は改めて述べるまでも
ない︒そのうち︑
八
まず自給用水車の分布についてみれば︑山間部と
平地部において顕著な対照がみとめられる︒すなわち︑図の中央上 さて︑大和国における自給用
・商
業用水車の分布は︑第二図に示 商業用水車であるとする目安が一応は許されるであろう︒したが
一般 に︑
Jれは例外なく商業用水車に分類されている︒ 至る条件であり︑また主として最
後者の条件は︑水車の機能をかなも︑他の用途との兼用水車の場合は︑
その米拇以外の用途の故に︑ 水車の立地条件にめぐまれる山間部においては︑水車架設の可能性
ただその逆
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自給用 2, 3 l, 4
X (商突用ノミ存在) / •ノ 1 2 , "
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.ヽ̲̲, j必し.X x¥. jx
トーポ'‑・、1;; ・XX ヽ ) ' X I
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X l> 乙~'i、 1̲.‑1‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑'炉 ぶ 屯 応3初瀬 '
ヽ 1'̲̲ .•· '\ Xl /
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r・‑r‑¥.,., x >2 :) 1 x ¥.̲、 I 1--―‘尋•. , . ̲ . , •
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/ , .
ヽ.‑・‑‑‑ヽ :1 ~
7下田口 ,̲ ̲ ― ̲ - ,
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ぅ 1須思 ノ下市 x上市・x'、 '‑¥ 1 ¥
I ‑・,. r x 1 2 x 1 ~
ヽ !
(X ・=‑./
一
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1 . I • ---._ ( XX /第 2図 自給用水車・商業用水車の分布(旧町村別水車台数)
った︒特に奈良郡役所管轄内の奈良盆地北部では︑自給用水車は全
く影をひそめており
︑
僅かに盆地の南東偶と南西隅に︑合せて一〇台前後の自給用水車が数えられるにすぎない︒しかもこれらは︑
先
部をしめる奈良盆地においては︑自給用水車は皆無に近い状態であ述の通り︑米拇水車を自給用水車とみなした上での結果である︒奈
良郡役所管内の奈良町・法蓮村・藤原村等の米揺水車が︑精米業に
ともなわれた商業用水車であ
った
ことから考え合せれば︑盆地南部
のこれらの水車も︑あるいは自給用の存在ではなかったのかも知れ
A
ないと想像される︒
一方︑山間部においては︑自給用水車は卓越した分布を示してい
た︒まず︑奈良郡役所管内についてみれば︑図の右上部にあたる大
和高原の中央西南部
・中央北部から北部にかけての地域は︑自給用
水車の独占的な地域に相当している︒ただ︑大和高原中央部は︑凍
豆腐製造に閃係する商業用水車の分布地域の一画にあたるため︑独
占的地位は失われている︒また︑図の左上部の生駒山脈地方でも︑
その
北部には自給用水車が卓越
して いた
︒
以上のような︑山間
部と平地部を対照的なものと
してい
る 傾 向
は︑奈良郡役所管轄外の範囲にも及ぶものであり︑図の右下部の宇
地の一部河谷にも認められる︒しかし︑自給用水車の卓越性は︑先
の大和高原の自給用水車地帯にくらべれば︑その程度において劣っ
ていた︒一方︑この図の範囲外ではあるが︑吉野山地南部の十津川
ぞいの三台の水車も︑すべて自給用であったと推定される︒
他方︑商業用水車の分布は︑当然のことながら︑自給用水車と補
完的な分布を示
して
いるが︑まず奈良盆地は︑ほぼ完全に︑商業用
水車一色で塗りつぶされていた︒とりわけ︑大和高原と龍門山地に
よって狭められていた盆地東南隅での商業用水車の凝集は著しいも
のがある︒奈良盆地の水車は︑主として油搾・綿繰・紡績・製粉等
の農産加工部門を担当していた水車であるが︑このほかに︑精米業
にともなわれていた米掲水車が商業用を目的としていた︒盆地南部
ムラ
の水
車と
マチ
の水
車︵
末尾
︶
陀山地の東半部︑同じく左辺部の金剛山脈南部︑中央下部の龍門山
八
の︑商業用水車が存在していない空白も︑おそらくは︑米揺水車を
また︑奈良郡役所管轄内の山間部についてみれば︑生駒山脈には
紡絞・製粉・油搾水車が滲透し︑大和高原の南東部から中央部にか
けて
は︑
凍豆腐製造・製粉・紡績・商業用米揚等︑各種水車の滲透
がみられた︒なかでも大和高原南東部では︑商業用水車の独占状態
がみられるほどである︒また︑宇陀山地西半部にはおもに製粉水車
が︑さらに龍門山地では主として製粉・紡綬水車が︑それぞれ立地
し︑商業用水車の滲透を結果づけていた︒一方︑吉野川河谷や吉野
山地への商業用水車の惨透は︑五条周辺の綿繰
・紡
絞水車の事例の
ほかは︑
ある
︒
そのほとんどは製粉水車によってもたらされていたようで
にあ
って
︑
三︑ムラの水車の事例
先述の通り︑自給用水車が主としてムラに位置していたという前
提にたてば︑これはムラの水車と仮称されてよいものである︒文字
通り︑これらの水車は︑殿村・山村地帯に分散立地し︑自家飯米の
米拇用に用いられるのがその典型であった︒水利にめぐまれたムラ
かなり集中的な立地がみられた場合があっても︑需給の
関係からすれば︑このような多数の水車の存在は︑個々の水車の非
商業的性格を︑強めこそすれ決して弱めるものでなかったことは言
を侯
たな
い︒
商業用と読みかえることによって埋められるであろう︒
柳生,東里等旧町村名
゜
5km第 3図 大和高原における米据水車の分布状況
また時にはムラの水車が︑何戸かの農家によって共有・共用されている例もみとめられた︒
自家飯米精白以上の用途をもたない自給
用水
車 の 場 合 江
︑二戸の農家による専有・専用は︑必ずしも必要
とこ
ろか
ら︑
けではあるが︑総数の八一・五%に 紡績︵九台︶等を用途にしていたわ ︵三三台︶︑あるいは製粉(‑三台︶︑
産凍豆腐の原料加工工程に用いられ の若干は︑あるいは大和高原上の特
り大和高原﹃出虚の例 ムラの水車が卓越分布していたの たわ分である︒な条件でほなかっ
しかしまた︑自給用を原則としながらも︑精白能力に余裕がある
ムラの水車が自家用米拇のほかに︑賃拇などの商行為
を若干兼ねる場合もあった︒ただ
︑
このような場合にあっても︑
ムラ
の 水車の自給的性格は︑それ程損われ
るものではなかったといえよう︒
は︑何といっても大和高原である︒
それ
故︑
ムラの水車のムラにあって
の存在の仕方︑機能のあり方の詳細 は︑大和高原にその事例を求めるの
が最適である︒
﹃水車調﹄所載の水車を自然地理
区別に整理すれば︑大和高原には二 三八台の水車が分布する︒そのうち
八四
らかとなろう︒ あたる一九四台の水車は米拇水車てあった︒二つ以上の用途にあてられる兼用水車も存在していた故に︑水車総数二三八台に対して水盆即米拇水車台数︶は︑
この
数 字 に 対
して
も 米 拇
用途数
七六•一%の比率を保っている。
これ
らの米掲水車のうち︑商業用に用いられていた二
0
台のほかの大多数をしめる水車は
︑農家の自
給用にあてられていた︒それ故 大和高原には︑筆者のいうムラの水車が卓越分布していたことが明
ムラの水車の中で最も特色のある経営・運用のあり方は︑共有・
共用される類型であった︒自給用水車一七四台のうちの七八台はこ
の部類に属している︒こ
れらの水車は︑農民的共同所有の対象であ
り︑これらの水車によって抽出される水カエネルギ
ー
は ︑
が共有水車によって
しめ
られ
︵第
一表
︶︑
ムラ
の水
車と
マチ
の水
車︵
末尾
︶
車総用途数は二五五に達するが
いうなら
ば水車共有農家または水車組共同体によって共同用益される存在で ある︒商業的用途をもった個人有水車を一方の極とすれば︑共有米 掲水車は︑もっとも庶民的・大衆的な性格をもつ意味で
︑
他方の極であったと解釈されよう︒﹃水車調﹄当時
︑ こ
のような共有水車が
所在していたのは三八ヵ村である︵第三図参照︶︒
これらの中でも︑大和高原の北緑部に位置
し︑旧
柳生村に属していた邑地︵現奈良市邑地町︶では︑九台の米揺水車のうちの八台まで
⑥
しか
も︱
1 0
戸の農家のう
ちの九三戸が︑これら入台の共有水車のうちの何れかに関係をもっ
ていたと判断される︒以下︑邑地の共有水車について若千の知見を
八五
組合﹂なる名称を名のって今日
体とした水車組が︑ だ︑このような個々の水車を媒
いかなる構
成員︵農家︶でもって成り立っ
ていたかという事情は︑未だ十
分解明するに至っていないC水
にはあまりきび
し
い資格・
条件 が必要でなかったものと推定される︒しかし︑他村にみるよう
な一
村一水車組の場合とは異って︑複数の水車組が一村内に存在する邑
地のような場合には︑各水車組はおおむね近隣関係の農家でもって
結成された︒すなわち︑邑地の共有水車とその関係農家の分布を可
能な限り復元してみれば︑個々の水車と結びつく農家の分布はほと
んどその水車の周辺に限定されていることが明らかである︵第四図︶︒
第1表 邑地村の共有米拇水車
所 在 地
I
水 系I
所 有 主フ ケ フケ)II筋 東出権次郎 外18名
ド ゴ 田中川筋 堂後喜三治 外26名
イ デ 井手川ヨリ流通字サニソ 井 谷 藤 八 外10名
井手川筋 保 田 伝 吉 外9名
ア ス マ 森ケ谷溝筋 井 久 保 弥 三 郎 外11名 ヒ コ タ コ 東山溝筋 保 田 源 七 外2名
乾 源 五 郎 外6名
// 前 惣 五 郎 外
3
名であるところから︑組への加入 を前提とするだけでかなり自由 車組への出入が公乎な費用分担 も細々ながら機能している︒
た
水車を共有する組は
﹁
池尻水車 とえば邑地に現存する字フケの 個に水車組を結成していた︒た 水車を共有するグループは個
R 述べよう︒
︐
R 水 車 の 共 用 農 家・
・
・
・・ ・ i
◎,
R ・
⑤;••••①各ホ車の共用農家
分 布 と 関 係 農 家 の 分 布
その大多数が検証不可能,ただし無記号の農家はこれに属していたと想像される。) c水車・・・・・・
・・・・・・イデ上水車 10戸共有(共用農家e) R 水車・・・・・・アスマ水車 12戸共有(共用昆家f) 3戸共有(共用農家g,ただし他の水車の廃止によって閲係誤家は増加している。以下同じ)。
(共用農家i) ①水車……クキヤマ水車 商業用粉類製造
個々の水車につながる農家の
分布は︑水車からほぼ実距離 いた︒これらを総じてみれば︑ に共有・共用関係で結ばれて ヒコクコ水車にも依存するよう
に な っ た も の と 推 察 さ れ
る︒他方︑最下流の下出の農
車⑬・Rおよびアスマ水車R く地区内のイデ水家は︑同じ
は ︑
ド ︑
・ コ
水 車
が 早
く 損
壊 し
た
事情もあって︑後年は上出の
している︒ただ中村の場合に
は原則的にドゴ水車Rに関係 およびヒコタコ水車©·⑪•①を共用
し ︑
また中村の農家
えば上出の農家はフケ水車R ほとんど依存し その地区内に所在する水車に
てお
り︑
たと
が︑それぞれの地区の農家は村・下出の三地区に分たれる すなわち邑地は
︑布目川上流
よ り 下 流 に か け て 上 出
・
中
八六
ムラ
の水
車と
マチ
の水
車︵
末尾
︶
゜
300m晨 ホ
家
田 1 ‑1 d, e, t,‑ ポ車の立地点
第 4 図 邑 地 に お け る 水 車 の R水車…・・・フケ水車 19戸共有(共用農家1‑19) @水車・・・・・・ドゴ水車 27戸共有(共用農家ぱ ップクニ水車 自家用(酒造用?) ⑪水車・・・・・・イデ下水車 11戸共有(共用股家d) R 水車
®'水車…•••アスマ上水車 (『水車調』以後の増設分, 共用痰家 f')c 水車・・・・・・ヒコクコ下水車
⑭水車・・…・ヒコクコ中水車 7戸共有(共用農家h) ①水車・・・・・・ヒコクコ上水車 4戸共有
八七
と推定されている︒し
かし
︑
架 設 の 提 唱 者 で も あ っ た た
め︑所有者代表となったもの 氏は代々大工職であり︑水車 記フケの水車の場合は︑東出 であったかも定かでない︒前 いかなる身分筆頭名義者が︑ きたという特殊な例である︒ 車小屋の敷
地の地主であるた
め︑その水車用益に加
わっ
て
の事例は︑この農家がフヶ水 るのは唯一の例外である︒こ 家一戸
( 1 7 )がこれに関係す
う︒上出地区に所在するフケ
水車④に対して︑それより一 であったと考えてよいであろ ほど億劫と感じさせない限界 離が︑水車小屋との往復をさ 六
00
メートルを限度としており︑邑地においてはこの距 キロ以上も距った中村在の農
また﹃水車調﹄に名の出る
二︑水車`キネのはねん棒を折らしたる時は個人修善の事 ﹁一︑毎年酒は四升なるも不足の為明年度より五升を買ひ入れる まま次に示しておこう︒
水車か共有
・
共用されるものであるだけに︑ま ︑
~ヽ
﹁池
尻水
規則が前提となっている︒まず︑水車使用の日割については︑
の水車の場合には年初に当番が︑各共有農家ごとの水車日割表を作
成し︑これを各農家に配布するならわしとなっている︒その用益順
かう
て し
もてほぼ上手の農家からはじめて下手へと移るのが原則であるとい
う︒割当日をその農家が空費する場合︑
れたマビ︵間日︶は︑ および割当日以外に設けら
その日は水車の使用が自由に開放された︒水
車共有に関係しない農家がこの水車を借りうけられたのもこれらの
日で
ある
︒
水車の維持・管理に関する規約も重要なものであった︒
﹁水車連中車組合﹂においてはこれらの証拠書類の類が︑水車書
類箱﹂の上
書きのある木函に収められて保管されてきている︒それ
には︑水車杵の部品破損に際しての弁依規定などを定めた組中決議
書や︑組中から平等に割当徴収された過去の水車新調費︑修理費あ
るいは水車税に関する書付けなどが含まれるのである︒その一例と
して︑時代ははるかに下るが︑昭和七年の組中決議の内容を原文の
事︵
筆者 註
・後
述 の水 神さ んの 日の 酒の 迎備 のこ と
︶
フ ケ
所有者代表には特別の意味はなく︑実際の組の運営には︑数人の世
話役と︑例年輪番制で選ばれた当番かこれにあたるのである︒
その運用には種々の
第二期 右決算済 第一
期 自 昭 和 六 年
︱ 二 月
当番 三︑水車キネの先瀬戸を割りたる時は連中より修善の事四︑車のカコヒ人足は水車日割準にて上下弐分し半数宛出働す
る 事 但
し其の時の当番は上下を論せず出働すべし
︵外の人足と差引する事を許さず︶
右決議す昭和七年拾弐月弐拾参日より効力を生ず﹂
個々の水車組はそれぞれに水神講をつくり︑毎
月二
三
日を
﹁水
神
さんの日﹂と
して
水車に灯明・神酒・米を供え︑水車に一日の休息
を与えるのが慣わ
しで
あった︒特に一月二三日には本祭を行なうの
が一般の慣行である︒
﹁池 尻
水車組合﹂
では
︑この日は水車当番の
家に組中の戸主が集り︑飲食をともに
し ︑
かつ前年の決算報告を議
し ︑
新年度の割当組合費を拠出するのであった︒同じく昭和七年度
に時代は下るが︑会計報告書の書式の一例を次に紹介しておこう︒
﹁昭和七年度
一︑収入ノ部
二︑支出ノ部 水車入用控帳
至昭和七年二月二三日
残金二
0
銭也自昭和七年二月二四日
右決算明細左ノ通リ 久保出長三
至昭和七年︱二月一
0
日二
0
銭也第一期繰越金 八八ロ
九月ニ︱日 五月日
保田安蔵様払
支払
分︶
ー
ニ月 五 日
︱ 二 月 四 日
一五
銭
一斗
八升
八九
二五銭
一 斗
九 升
一升付一九銭
次期水車修繕費貯蓄スルコトトナリ第
一回
貯金預入 売却此金三円六一銭也
, r
合言六円三九銭分此米三斗七升︵今中松蔵様ハ一升︶ 玄米之部
三月
三一
日
支出
ヲ願
フコ
ト︶
七月二五日
七月三
一日
七月三一日 二
0
銭也二
0
銭也一 円
五 0
銭也
三
0
銭也二五銭也
三
0
銭也 箱落修繕剰余金︱一銭也ハ次当番者二繰送ル 日r︑ { ︑
︱一月二六日
t•マ
︱一月二四日
水車修繕合計 九0
銭也 瀕戸キネッギ︵西久保梅松様ヨリ車箱落ツ手間箱落シ手間釘二
00
匁
植西取替分
手間壱工半
瀬戸キネッギ
水車税県税
瀬戸替・キネ先替︵大西林治様ノ
マシソ油五合
マッン油三合
ムラ
の水
車と
マチ
の水
車︵
末尾
︶
六
0
銭也
‑ 0
月
一 八
銭 也
右三口差引
八 月 五 日 七 銭 也 釘 一
00
匁八 月 五 日 一八 銭 也 瀬 戸 キ ネ ッ ギ
︱ 一
月 二
0 日
堂坂清治様払
︱ ︱ ‑ 0
銭也
二
0
銭也七円二七銭也︵連中一九名様分担金︶
上浦正成様払
七円八七銭也︵連中一九人様分担金︶
一人二付四二銭也
一人当リニ升
年貢トシテ スピソ四本
八 月 四 日
八 月 四 日
円 也 材 料
一入銭也
西久保梅松様ノ分
大西林治様ノ分
第一
期繰越金
計 六 八 銭 也八 月 四 日
一五
銭也
五銭也c取替分右総計ョリ差引キスベキ分
イロハ三口総計
︱二 番
線
二三
0
匁セメン三升
大
工手
間半工
七円九五銭也
ハズシ板二枚計 九 五 銭 也
六 三 銭 也 水 車 税 附 加 税
八 月 五 日 五
0
銭七 月 五 日
八 月 五 日 四 五 銭
ノヽ
一八銭也
計
六一銭也
イ 東
出権吉様払︵明細諸求書別紙︶
二 ︱
銭
﹃水
車調
﹄
(1)
四
に よ
れ ば
︑
楳本には字穴虫に二台の水車が数えられ倣金であった︒
差引相済
マチの水車の事例
下久保亀三郎様へ
五升
今中松蔵様へ
一斗三升
なおちなみに︑年貢納付先の今中家はこのフヶ水車の水車小屋の地
主︑前記第四図にもみえる
( 1 7 )
の製家であり︑また下久保家は︑
水車小屋の築造によって利用が制約される小屋脇斜面地の持主であ る︒すなわち今中家への年貢は地代であり︑下久保家への年貢は補 ムラの水車と対照的にマチに立地する水車は︑商業用の機能を有
して
いた︒その二︑三の例を次に述べよう︒
楳本の例 楳本は︑奈良盆地東縁の春日断層崖
下
にあ
って
︑ 南北走する上街道ぞいに街村形態をな
し
て横たわる一地方中
心であ
る︒それに加えて揆本は︑大和高原から奈良盆地へ下る高瀬川ぞい
の福住
11 横田街道が︑上街道と直交する交通の要衝でもある︒﹃水
道︵今日の国鉄桜井線︶も︑この地に一駅を設けた︒
その断層崖下を 車調﹄よりも後年のことにぞくするが
︑明 治三二年に開通の初瀬鉄
またさらに︑近 年開設された名阪国道は︑高瀬川のつくった河谷をたどって楳本か
ら大和高原へとかけ登って行く︒l‑
‑,
株連中名前帳 家の﹁上の車﹂の水車小屋には
︑小
作人二
0
人程がやとわれ︑菜種 拇にたずさわっていた︒また︑神田家の﹁下の車﹂は
︑規模は﹁上の 車﹂にやや劣ったが
︑
播州からの出稼者が雇用されていたという︒
ついでながらこれら両家の油搾業を遡ってみる時︑近世において は神田家のみが松本家に先立って水車油搾業に携っていたものと察 せられる︒すなわち︑
水車油稼一株
﹁安氷二年巳九月
⑨
油屋仲ヶ間三軒
﹂によれ
ば︑
和州 添上郡裸本村
和州添上郡水車人力油屋
これらの水車の用途は︑食用としての菜種油の油搾である︒松本
所 在 地
第 2表 棟本の商業用水車 所 有
主 用
途
穴
虫 揆本村
松本 嘉平 神田三良平
米謡・綿繰・紡 綾・油搾・製粉 油搾
とりしきる程の勢力を持っていたという︒ 手すなわち東方にあたり︑﹁上の車﹂
R
の車﹂の名称が使われていた︒
これら
の水
車は
︑ それぞれ松本家と神田家
によって所有されていた︵第二表︶︒松本家は︑
代々庄屋・区長をつとめた︑
ちの大
地主であ
り︑吉野郡の大
山林地主とし
て著名な北村家とも姻戚関係のあった富豪で
ある︒没落した神田家については︑その具体的な富裕度を明らかにしえない︒しかし何れ にせよ︑盤地改革によってともに衰微.凋落 するまでは︑この両家は
︑
両家だけで楳本を
﹁ 下
た
︒その立地は
︑高瀬川にそって集落のかみ
九〇
水田二 0 町歩持
の記載があり︑その名よ
り
察すれば︑楳本村の二者のうち前者は神 田家︑後者は松本家のそれぞれ先祖であろう
︒
すなわち︑大和国に おいて絞油屋株の成立をみたこの安永二︵一七七三︶年︑神田家がす でに水車油屋であったの反して松本家は未だ人力油屋の段階にとど
一方︑明治三年六月︑これら裸本村油搾
稼
人たちから 水車御取調に対して奈良
県
御役所様宛提出された﹁乍恐御願奉申上 R 候﹂の書面によれば︑三郎兵衛・嘉
兵衛はとも
に水車一輪を所有し
ている︒
松本家が安永二年当時すでに水車を所有
しながらこれを油
搾以外の他用に供していたのか
︑
あるいは安永二年以後明治三年の
間に水車をようや
く架設
・所有するに至
ったのか︑あるいは同じ
く
その間に他の者より入手したのか︑
さて揆本
の水
車に関して特筆すべき点は︑松本家
所有の﹁上の
車﹂
が︑油搾のほかに︑米揺・綿繰
・紡綬
・製粉の︑あわせて五つの用 途に使用されていたという事実である︒
を通じての最高の事例であり︑
は確
たる
記憶をもち︑ であろう︒明治
三二
年生れの松本
家の当主嘉市氏は︑油搾について
一方︑米掲
・製粉・綿
繰に
つい
ても漠
とし
な
も
皆目その事
実を知らない︒ がらも︑その記憶があるという︒
しか
し︑
残
る紡績については︑氏
一般に泡沫的事業
に終
ったかのガラ紡 ム ラ
の水車
とマ
チ
の水
車︵
末尾
︶ まっ
てい
た︒ 同
断
人力油稼
一株
同郡白土村
Jれは
その辺の事情は審かに
し
ない
︒
﹃大和国水車調
﹄
また全国を通じても
極めて稀な事例
油屋彦右衛門﹂
第3表 竜田の商業用水車
i !
所 在 地 , 所 有 主I
用 途峨 瀕 西宮村 乾 菩 三 綿 繰 // 竜田 村 吉川 文 蔵 製 粉 坊 弁 // 井上 楢三郎 米拇・製粉
// // 香川 鶴 松 米揺・製粉
,右 内 田
I I , ,
清 水 清 乎 綿 繰! 南
川 II 川 口 山 治 郎 綿 繰竜田は︑奈良から郡山・小泉を
へて大阪へ通じる立田越大阪街道 ぞいの交通集落と
して︑また︑
竜田神社の烏居前
町として栄えた町
である︒しかし︑明治中期
︑
関西本線の前身である大阪鉄道の部分 線が三二年に王寺
t
奈良間に開通するとともに︑衰退過程へと入っ た︒すなわち︑鉄道は
︑
集落の南方一キロ余を迂回
し ︑
駅舎も王
寺・法隆寺に設けられて竜田をさけ︑その結果︑近代的交通機能は 西南方ニキロの王寺に奪われるに至ったのである︒
同村
油 屋 嘉 兵 衛
(2) 油屋三郎兵衛
竜田
の例
九 米・粉関係の三水車は
︑町方とりわ
描成は︑米拇
・製粉関係の三台と綿 している︵第三表
︶ ︒
また︑その用途 ﹃
水車調﹄が物語る水車分布は︑
もちろん鉄道開通に
先立ち︑竜田の
交通機能が未だ盛んであった頃の状 況を伝えている︒水車は︑生駒谷か
ら南流
し ︑ 街村状の集落の西端をか すめて流れる竜田川ぞいに︑六台が 立地していた︒それらは︑すぺて商 業用水車であり
、うち一台は一•五
キロ上流の西宮村の村民の所有に
帰
繰の三台であ
った︒
これ
らの
うち
︑
の顕末が︑この一
事の中にもうかがわれるのである︒
いずれも名家であり︑
あった︒
また香川家は︑明治初年以来の精米業者で︑明治二
0
年代末頃この水車を売却して街中の大手町に移って後も︑今日に至るま
R
で精米業を続けている︒
下村の例 十市郡下村は︑寺川の河谷ぞいに桜井から多武峰に至る街道にそ った一集落である︒その位置は
︑
竜門
山
地北腕の傾斜変換点にあた
いと
こ ろであろ
う ︒
とりわけ川
口家は大地主として著名で り︑背後の山脚には︑十一面観音像で名高い聖林寺をひかえてい
る︒最北に位置する字増田が路村状の家並を呈しているとはいうも のの︑先例の楳本
・竜田にくらべ︑下村がマチ的でない点は否めな
しかし最
初に規定した通り︑奈良盆地に所在す るという意味で︑これをマチの水車に含めて考察の対象とする︒
﹃水車
調﹄によれば︑下村には︑第四表に示されたような九台の
(3)
家は
︑
第4表
搬されてきた︒ただ中には 車の原料麦は大和産のもの の一端を述ぺれば︑製粉水 を前提として︑以下︑知見
下村の商業用水車
所 在 地
I
所 有 主I
用 途増 田 下 村 米 田 弥 治 郎 製 粉
藤 本 利 八
掛 倉
匠 原 長 八 郎
榊原 又四郎
石 ヽロ
榊 原 佐 七 郎
//
高 丸 彦 五 郎
九 頭 子 II 加藤 亦 平
一 柳 重 三 郎 紡 絞
I
楠 堀東 武 甚 平 //
はないかも知れない︒それ 当時のことを物語るもので 識は︑あるいは﹃水車調﹄ あ
る︒
を支えていた商業用水車で などとともに︑三輪素麺業 向川々筋の車谷の製粉水車
け交通集落としての竜田の食糧の需要にこたえるものであったと推 測され︑あわせて周辺農村の飯米賃掲を兼ねたものと想像される︒
⑩
また︑綿繰水
車は︑ 別の機会に述べた通り︑竜田は大和国における 初期の水力綿繰の一核心地であったが
︑
周辺農村の綿作を背景と
し
て存立していたものである︒
水車の所有主が
︑
とのような社会
11 経済的階層にぞく
していたか
の詮索は︑それらの家系を今日必ずしも辿ることができない故︑不 充分に終った︒しかし︑確認しえた範囲内では︑綿繰水車を所有し
ていた清水
・川
口両家︑およぴ米拇・製粉水車を所有していた井上
水車が立地していた︒それらは寺川にそって架せられたのであるが
︵第五図︶︑その仕様は︑ほぼいずれも直径二丈の中射式の車であっ
⑫ た︒地形の勾配に比して水車が割合密に連なるため
︑
上射式水車は 適さなかったということである︒
下村の水車の内訳は
︑いずれも商業用の︑
の紡績水車からなっていた︒
七台の製粉水車と二台 これ程までの製粉水車が下村に凝集したのは︑別の機会に述べた
⑩
通り、下村から北ヘ―――•五キロを距たる三輪
付近の素麺業へ
、小麦
粉を供給するためのものであった︒すなわち
下
村の製粉水車は
︑纏
聴取によってえられた知 であり︑穀物商によって運
九
水車を所有するには︑水流ぞいに地所を持つことが前提であるた
ムラ
の水
車と
マチ
の水
車︵
末尾
︶
からもたらされる小麦の賃挽きにも応じていたという︒
一方
では
素麺 量は六石である︒冬の素錘製造期には︑製粉業も昼夜兼行の操業と
なるため︑製粉水車には日夜交代の雇人を必要とし︑これには播州
竜野方面からの出稼者が雇用されていた︒
ただ︑このように三輪素麺業と結びつきながらも︑
生産の季節性から逃れるため︑製粉水車は冬以外も︑和菓子の原料
や大和木綿の糊料を用途とする小麦粉を生産し︑あるいは奈良盆地 一昼夜の小麦粉生産
九 一
た︑自主営業の場合も︑
く︑よい製品の納入をめぐって製粉業者はおのずから競いあわされ め︑水車所有層は限られた上層階級であった︒しかも水車一台からえられる利益は︑水田一町からのそれを幾分上廻るものであったといわれている︒
また一方︑二台のガラ紡水車をめぐる事情については︑その家筋
い︒しかもうち一戸は︑もともと事業家風の家柄であり︑失敗して
以上︑製粉・紡綬の用途の如何にかかわらず︑
下村の水車業者
は︑特に井路に水車を架する場合︑農業を基調とする農村的環境・
農村共同体の中にあって︑灌概水利慣行に従属させられる弱い立場
にあった︒たとえば﹃水車調﹄よりも後の明治ニ︱年︑ のち他村に去ったという︒
しかも水車
新築に際しての証文ではあるが︑水車業者は下村の地主・人民に︑
次のような条項を約している︒ 一台の水車は荒挽・細挽の計二臼を動かし︑
を辿っても資料や口承はなく︑今日もはやこれを明らかにしえな
る立場であったという︒ 対素麺業者との関係は︑製粉業者側が弱
素麺業者の委託加工形式をとる水車製粉業者も存在していた︒
聖 林 寺 卍
③ 匠 原 長八 郎
④ 瑚 原 又 四 郎 100m
ま
︒
第5図
⑦カロ胚亦乎 R一柳ゴこ三 郎
(所在不明)
下村の水車分布・立地
(地籍図•土地台帳および聴坂に よって作製)
第5表 初瀬の商業用水車
所 在 地
l
所 有 主I
用 途? 初 瀬 村 前 川 源 七 紡 絞
織 打
石 船
的 場 弥 三 郎
J
I I 上
出 石 賛 治 II
与 喜 下
厳 樫 弥 三 郎
米 拇
木 小 路
井戸 善 平 豆 腐 豆 引
萩 本 庄 平 紡 絞
化 粧 坂
岩 西 利 平 II
湯 屋小 路
高 柳 消 七
大 ク ワ
藤 本 喜 平
山 綺 伊 平
吉 岡 与 平 米揺・紡紹
村 田 半 治 郎 米揺・製粉
甲 ノ 内
厳 樫 治 三 郎 米 掲
脇 田
円 井 消 蔵 II
六台が所在し︑
大和国における当時最大の水車集落を形成
してい
初瀬には﹃水車調﹄によれば︑第五表にみるような明細の水車
態であったに違いない︒ ﹃水車調﹄当時の上記水車業者たちも︑多少とも強いられていた状
第三条
水車運転ハ旧八月彼岸ョリ旧五月節迄曳水可仕候事
第二条 第壱条是ノ村用水ノ三五井手井二井路借入条目トシテ毎年五月
水車新築二付差入証 一︑今般字井手口八百六拾八番地主同村聖林寺ノ地所私借入水車 新築設置仕候二付村田地培狼二相掛ル字三五井手旧八月彼岸ョ
リ
旧五月節迄曳水致スニ付三五井手井二井路借用仕候其定約左記 十五日二玄米参斗宛其御村方二相納メ可申候事
右井手井路ノ条目聯クリトモ延滞仕候節^水車運転御留
止被成下候共一向モ申分無之候事
‑ ,
第 四 条 旧 五 月 節 ョ リ 流 水
田地培養中
二水
車 運転致ツ叉ハ聯曳水 仕候節ハ直ク水車廃業スルハ勿論耕作ノ損害為謝罪玄米壱石相
納可申候事
春夏秋冬二拘ラス大雨急水ノ節ハ直チニ大樋
口走附ヶテ
水留切致井路不都合無之様注意可仕候事 この事例は︑聖林寺の地所を借地した上での水車新設であり︑しか
も冬半期のみに運転が許可された特殊な例であるが︑このような従
属的・
被制約的立場は︑農村的環境
・共同体の中に所在する限り︑
0
初瀬の例式上郡初瀬は︑
奈良盆地の東南隅
︑桜井の市街地の東にあたり︑
大和川の本流である別称初瀕川が大和高原から流出する渓口に位置 し ︑ 長谷寺の門前町と伊勢街道の宿場町を兼ねる町方と
して
発展し
た歴史をもっている︒もちろん︑近畿日本鉄道大阪線の前身である 参宮急行電鉄が︑昭和六年に全通して街道交通に代ってのちは宿場 町としての機能を決定的に失ったが︑長谷寺の門前町としては今日 でも賑いをみせ︑参道の両側には土産物店
・飲食
店・
旅館などが軒
を接して連なり︑典型的な門前町景観をとどめている︒
︵以 下略
︶
第五条
九四
L...⑬
りヽ
一方
︑
の水
車は
︑
ムラ
の水
車と
マチ
の
水車
︵末
尾 ︶
マチの水車は︑特定のマチにのみ凝集して偏在的・拠点
的であった︒また︑用途に関していえば︑前者は︑
林産加工的・商業的水車を別とすれば︑すぺてが自家用飯米の結白
一部
農
山村の農
をお
もな用途としており︑逆に後者は︑製粉・油搾・綿繰・紡綬.
ほとんどのムラにともなわれて普遍的な分布を
し
てお
九五 ては大和高原の北縁に発電所を設けた水力電気会社︵関西水力電
た︒改めて繰返すまでもなく︑
あらゆる点で対照的な存在であっ
まず水車分布の点からいえば︑
ムラ
ムラの水車とマチの水車は︑
五
ムラの水車・マチの水車の帰趨
ま ︑
~’~ マチの水車の凝集地の説明は︑改めて他日を期したい︒関•石油発動機・電動機等の近代動力機が
いち早く滲透するの
中にも︑蒸気機 困難︑二つには︑ガラ紡の泡沫性に基づく現地での資料の欠如の故
に︑
二︑
三の
水車立地点の復元は辛うじてなった
もの
の︑今日まで
のところ前記の課題の追究は難渋している︒それ故︑大和国最大の 方住民の流動性にともなうかつての水車所有主の家系を辿ることの た︒その分布は字名より追跡して︑街村状の門前町の上流から下流
にかけての全般にわたっていたと想像され︑その立地の上からみて
も初瀬の水車はマチの水車の正に典型であった︒また︑初瀬の水車
一六台のうちの一︱台までが紡綬水車であった事実は︑初瀕が大和
国におけるガラガラ紡
綬業の最大
の核
心地であったことを物
語っ
て
箪者は初瀕の水車の分布
・立地・運用
・
経営等の復元を当面の主要な課題として︑その追究にあた
って
いる
︒しかし︑一つには︑町 いて興味深い︒ また︑これらのことからしてムラの水車の場合︑個々の水車が マチの水車は地主 硝米等の商業的用途にあてられていた︒さらに︑水車所有すなわち
水力用益の面からすれば︑ムラの水車は農民的︑
的もしくは商業資本的であったといえよう︒
かかわりあう関係圏は︑水車の分布・機能・所有の面からみて︑相
対的に狭小なものであった︒これに反してマチの水車は︑水車が特
ため
︑ 定のマチにのみ立地が許され︑またそれが商行為と結びついていた
その関係圏がはるかに広大なものであったことは容易に理解
されるとこ
ろで
ある
︒
以上のように把握されるムラの水車とマチの水車の対照は︑他方
では︑その後の原動力の近代化過程︑換言すれば水車の衰退過程の
別の形でひきつがれるものであった︒すなわち︑
一般的にいってマチであった︒とりわけ︑軽便・活潔という点
で電動機は他に抜きんでており︑電動機が主役となってマチの水車
は急速に衰退
へと
追い
やられるのである︒ただこれは
︑
電気供給事業の進展と関連するところが大きい︒上に考察したマチの例でいえ
ば︑揆本は明治四二年二月
︑
竜田は四五年六月
︑
はいずれも四四年三月に︑それぞれ電気供給事業の恩恵をうけてお
⑭ り︑いずれも奈良県における電気事業史の初期のことにぞくしてい 下村および初瀬
る ︒
しかも︑これらのマチに電気をもたらしたのは︑前二者につい