戯曲における太湖石の機能とイメージ二一
戯 曲 に お け る 太 湖 石 の 機 能 と イ メ ー ジ │ │ 明 代 伝 奇 に お け る 展 開 を 中 心 に │ │
川 浩 二
一、はじめに
太湖石はその名の通り︑太湖の水中から引き上げられた一種の石灰岩で︑その特徴はしばしば﹁漏・透・皺・痩﹂とまとめられる︒よじれて無数の穴があき︑上下左右の均衡を欠いて立たせられている姿は奇怪といってよく︑庭園の中でひときわ目をひく︒たとえば上海豫園の玉玲瓏は蘇州留園の冠雲峰と並んでもっとも有名な太湖石の一つであり︑宋の徽宗が東京開封に江南の珍木奇石を運ばせた︑かの花石綱の遺物と伝えられている 1︒
玩石趣味とそれにまつわる詩歌や︑中国の庭園における太湖石をはじめとする石の配置については︑先行研究においてすでにその概略がまとめられている︒福本雅一﹃太湖石﹄は中国における玩石趣味の専著である︒所載の同題の論文では︑太湖石の賞玩の始まりと広がりを︑文人の手になる詩歌や文章からたどっている 2︒また︑クレイグ・クルナスは︑明代の庭園が持っていた社会的な機能について取り上げ︑文人にとっての庭園を財産としての価値という視点から分析する研究を行っている 3︒
これらの研究から︑とくに明代については︑太湖石を単独で置くことに加えて︑蘇州を中心に太湖石を組んで假山︵築山︶を作ることが新たに流行していたことも明らかにされている︒いっぽうで︑明代の戯曲・小説などの通俗文芸を読むときにも︑太湖石の文字を見出すことはさほど難しくはない︒しか
二二
し︑その用いられかたの多くは背景やある場面の小道具としてであり︑主題としてではない︒
また通俗文芸の版本には絵入り本が多く︑その挿絵にもしばしば大きく太湖石が描かれているが︑構図の端に寄せられていたり︑見開きによって分断されていたりという扱いであることも多い︒
主題として取り上げられることが少ないだけに︑こうした明代の通俗文芸において見られる太湖石については︑玩石趣味や庭園に関する研究からも︑戯曲・小説の研究からも︑従来あまり論じられてこなかったようである︒そこで本論では中国古典戯曲︑とくに明代の伝奇を中心に︑太湖石がどのような機能とイメージを持っていたのかについて検討したい︒
二、太湖石の詩歌と絵画における基本的なイメージ
太湖石が詩歌に詠まれ︑比喩的に表現されるさいには︑まず仙山洞天に見立てられることが多い︒宮崎法子が﹁太湖石や奇石は○○峰と名づけられ︑それ自体が峰や山岳に見立てられた﹂と指摘するとおりである 4︒
白居易の﹁太湖石﹂詩には﹁嵌空たり華陽の洞 重疊たり匡山の岑﹂とある 5︒また明初の高啓は︑﹁太湖石﹂詩において﹁三峰 削り成す泰華の掌 一穴 透し入る仇池の天﹂と詠む 6︒
他にもさまざまな比喩が見られ︑白居易の﹁太湖石記﹂は﹁厥の状は一に非ず︒盤坳秀出し︑霊丘仙雲の如き者有り︒端厳挺立し︑真官神人の如き者有り﹂とその形状を雲や神に例える 7︒また︑奇怪な姿を幽鬼の類に例えることもある︒宋・金君卿の﹁怪石﹂には︑﹁巉頑 纍疊 百千の状 人獣 鬼魅 相い彷彿す﹂とあり 8︑前掲の高啓の﹁太湖石﹂詩にも﹁初めは疑う 鬼怪 洞府を離れ 珊瑚 鉄網 相い鈎連するかと﹂の句が見える︒
太湖石の魅力が見出されたと考えられる唐代の白居易︑牛僧孺の時期から︑愛石趣味が顕在化した宋代︑太湖石を置きうるような個人の庭園が発達した元代を経た明初の詩人高啓の詩においても︑石の中に鬼魅神怪や自然現象の形象を見出し︑石を仙山洞天に見立てるという視点は共通しているといえる︒
画題としての太湖石についてみると︑宋初の黄休復﹃益州名画録﹄巻中に︑画家黄居宝が太湖石を描くさい﹁前輩﹂を
戯曲における太湖石の機能とイメージ二三 超えた技法を取ったとある 9︒太湖石を描く絵画は︑宋初よりも早い段階ですでに発展していたと考えられる︒
絵画の中では︑太湖石は梅や竹︑芭蕉といった植物と組み合わせて描かれることがある︒そしてとくに太湖石と芭蕉が組み合わされるときには︑もう一つ連想されるものがある︒芭蕉のもとにたたずむ美女の姿である︒
澤田瑞穂はかつて﹁芭蕉の葉と美女﹂と題して︑芭蕉の精が美女となって男のもとに現れるという話を複数紹介した
︒その題画が石湖太てし︑で女美と蕉芭︑がいなは中つ文はてれさ摘指もに中きとたこるいてっなにのもい るとこす園子紫﹁二十巻志丙同﹂︑娘場小蕉﹁六巻志庚﹄志堅竹女﹃ら登に時同が石湖太はにれ﹂そ︒るあでれそがどな夷 ︒ 10
江南には芭蕉の樹が多い︒庭園の風物といえば︑きまったように崔嵬たる太湖石の傍に一株の芭蕉︒風にゆらぎ︑雨に音をたてて詩情をそそる︒︵略︶世の美人画が︑その背景に一株の芭蕉を描いて︑この幻想を人々の共有のものとする︒芭蕉の葉の美女というロマンティックな怪談も︑まるまる根も葉もない創作ではなく︑この共通の幻想の説話化であった︒
元・趙孟頫︵一二五四│一三二二︶には﹁蕉陰仕女図﹂の作品があった︒趙孟頫は浙江呉興の人︒字の子昂により世に知られる︒この画の現存は確認できないものの︑のちに明の蘇州で呉中四子として知られた文徴明︵一四七〇│一五五九︶がそれを写しており︑現在台湾国立故宮博物院に蔵されている︒その﹁蕉陰仕女図﹂を見るかぎり︑芭蕉と女と太湖石という構図が元代には完成していたのではないかと考えられる︵図1︶︒
趙孟頫とほぼ同時代の人である元・喬吉︵一二八〇│一三四五︶の散曲に﹁詠紅蕉﹂があり︑この作品には主題でこそないも 図1 明・文徴明『蕉陰仕女図』(台湾国立故宮博物院蔵)
二四
のの︑太湖石と芭蕉の組み合わせが詠じられている︒喬吉は山西太原の人であったが︑杭州をはじめとした江南に長く滞在したことが知られる
︒ 11
﹁詠紅蕉
す湖妝點山喫喜窗紗湖山を粧点り窗紗を喫喜 富貴人家貴富の人家 綠雲封玉灶丹霞緑封雲灶の丹霞をず玉 捧銀台絳蠟翠袖絳銀台の蠟を捧げ翠袖 に華し清宜雨豔若春華清し若の夜春し夜雨にと宜くて艶なるこ 嬌耐秋風嬌にてし風に耐え秋 水葉沙壅移灌根葉換換をうえ灌根壅沙ぎをを水し移を 蕉紅蕉分種天涯紅ちを天涯に分か種ゆ ﹂ 12
﹁あるあで称別の石湖太︑りで湖﹂石山湖﹁はでここは﹂山︒
明初の瞿佑︵一三四一│一四二七︶の詞にも芭蕉と太湖石が詠まれている︒瞿佑は浙江銭塘の人であり︑﹃剪灯新話﹄によって知られている︒
﹁西江月 芭蕉
ず一一凾書信未開封凾の書信未だ封を開か し濃陰畔湖太濃陰畔石湖太石 影小亭邉影暗暗苑亭辺小く苑 ﹂ 13
戯曲における太湖石の機能とイメージ二五 斜捲倩誰傳送斜捲 誰に倩いてか伝え送る陣陣偏宜夜雨陣陣として偏に夜雨に宜しく聲聲不耐秋風声声として秋風に耐えず何人揮筆寫情悰何人か筆を揮いて情悰を写し滿面龍蛇飛動満面に龍蛇飛動する
龍蛇飛動は涙が頬をつたい流れ落ちるさま︒江南の庭園の中︑あずまやに一通の情書が置かれたままになっている︒そこに人影は見えず︑太湖石と芭蕉が配されることで︑その近くにあるべき女の不在が浮かび上がる︒
先の﹁蕉陰仕女図﹂に文徵明は自撰の水龍吟詞を題し︑月明かりのもとで太湖石と芭蕉が照らされ︑一人の美女が現れる情景を詠んでいる︒
以上の作品はいずれも邸宅に設けられた庭園の中の空間を詠んだものである︒そこでは太湖石はあくまで主題ではない︒また︑詠じているのはいずれも江南の出身者か江南に長く留まったものであるため︑太湖石の置かれた空間をじっさいに目にしたうえで︑作品を作った可能性がより高いといえよう︒
太湖石を賞玩し︑それ自体を詩歌に詠み︑絵画に描くという方法に対して︑太湖石を私的な庭園の空間を表すものとして詠み︑描き︑そこに女の姿を交えることが行われるようになったのがどの時点であったか︑その時期を決めるのは難しいが︑少なくとも元代までにはそれがあるていど︑文人たちの中で共有されていたといえるだろう︒
三、元曲における太湖石
元代までの詩歌と絵画の中に︑主題ではなく庭園を表すために用いることがあったとして︑元曲の中では︑どのように用いられていたのだろうか︒
二六
朱文婷は︑現存の元曲では十数種に﹁太湖石﹂もしくは太湖石で造った築山の意味も持つ﹁湖山﹂﹁湖山石﹂が登場すると述べたうえで︑劇中の機能について分析している
︒夢して擬人化さる︵﹃荘周れ﹄︶らないてれるげ挙がど る雨る降.二︑﹄︶夢坡東︵﹃ネれられふでフリセてしと濡にされ︵﹃と精の石.三︑﹄︶雨桐梧るるれ写描てしとつ一ののも のタ談れるな﹄記廂︵﹃てしと所場冗︶隠の物人場登.二︶︑どど西の独.一︑てし機のもの自と品挙作能がげられ︑その ︑のはてしと様もたし化式.一︒庭園の象徴として︵﹃西廂記﹄な 14
筆者も基本的にはこの分析に従った上で︑本論ではとくに︑明代の戯曲につながるものとして︑様式化したという前二者の機能を問題にしたい︒
とくに﹃西廂記﹄においては︑太湖石が︑才子張君瑞と佳人崔鶯鶯が鶯鶯の仕女紅娘の導きによって逢瀬し︑やがて夫婦となるうえで重要な役割を果たしていると考えられる︒
る西︑りあが﹄調宮諸記廂︶﹃れ明不卒生︵元解董・金こに品びえ見が石湖太に面場くちはみをい会出の人二にですに ﹃西代はに﹄伝鶯鶯﹃の奇伝唐湖くづ基が語物の﹄記廂太石の後語物の鶯鶯と生張はにのがそ︒いなはとこるくて出作
︒ 15
︻中呂調︼︻碧牡丹︼︵略︶夕方から雨がふりかかったが︑いくらか鳥の鳴き声が聞こえてきた︒太湖石のほとりには︑いくらか竹が生えている︒しばらく身をよせるにふさわしく︑目に映るものに俗な物とてない︒何枚かの屏風と︑水墨画の軸がいくらか︑やきものの香炉がひとつ︒
しかしこれはあくまで張君瑞が入った庭園の様子をあらわすさいに出てくるのみである︒
それに対して︑元・王実甫︵十四世紀初在世︶﹃西廂記﹄第一本第三折では︑張君瑞が崔鶯鶯を太湖石のそばで身をひそめて待ちうける︒崔鶯鶯は庭園で太湖石のそばにたたずみ︑月明かりのもとで香をあげる︒近くに紅娘がいるために一人でこそないものの︑その姿は先ほどみた﹁蕉陰仕女図﹂に見られるような芭蕉・太湖石・女の組み合わせを芝居にしたてたものであるともいえる︒
戯曲における太湖石の機能とイメージ二七 ﹃西廂記﹄第一本第三折
16
︹旦笑って言う︺紅娘︑おまえ夫人に言ってはだめよ︒空も暗くなりましたから︑香机を用意して︒わたしたち︑花園のなかに香をあげにいきましょう︒︹二人退場︺︹生登場する︺寺の中に移り︑ちょうど西廂の近くにやどることになった︒和尙にきいたところでは︑小姐はまいばん花園の中に香をあげに来られるとか︒この花園と私のすまいは隣り合っている︒ちょうど小姐が出てくるころ︒私は先に太湖石のほとり︑ついじの角のところで彼女が出てくるのを待って︑飽くまで見ることにしよう︒左右の建物の中の僧たちはすっかり眠ってしまった︒夜はふけて人のけはいもなく︑月は明るく風はさやか︒なんとよい天気だろう︒まさしく︑閒かに丈室の高僧を尋ねて話し︑悶いて西廂の皓月に対して吟ず︑というところだ︒
ここで張君瑞は︑太湖石の近くの築地のかどのところで彼女が出てくるのをまってじっくり見てやろう︑という︒とはいえ︑元曲の舞台装置は簡素であり︑はりぼての太湖石が舞台に上げられるようなことはなかったと考えられる︒説明的なのは︑セリフによって状況を観客に理解させるためだっただろう︒また︑ここでは崔鶯鶯・紅娘がいったん舞台から退場し︑張君瑞が舞台に登場することで︑二者の間に距離があることを表現している︒
その先の部分である﹃西廂記﹄第三本第三折では︑紅娘に導かれた張君瑞が︑太湖石のもとにたたずむ崔鶯鶯のもとを訪れる︒ここでは紅娘が歌い手になっており︑ひとりはまがきのそばに身を隠し︑一人は湖山のもとに背をむけてたつ︑と歌う︒合図の鳥の鳴きまねを聞いた張君瑞は慌てて飛び出し︑紅娘を崔鶯鶯と勘違いして抱きつく︒
﹃西廂記﹄第三本第三折︹紅娘セリフ︺あいつめ︑来たわね︒︻沈酔東風︼思うに槐の影が揺れるのは日暮れの鴉︑もとより玉人の帽子のよこには烏紗︒ひとりはまがきのあたりに隠れ︑ひとりは太湖石のほとりに立つ︒どうして寒温などしましょう︑ついぞ
二八
話もしないのに︒︹紅娘セリフ︺ホホチチ︑あんた︑こっちよ︒︹末云︺小姐︑来てくれたのですね︒︹紅娘に抱きつく︺︹紅娘セリフ︺けだもの︑あたしよ︑あんたよく見なさいよ︑もしおくさまだったらどうするつもり︒︹末セリフ︺小生はすっかり目がかすんで︑あわてて抱きついて誰かもわからず︑もうしわけない︒︹紅娘うたう︺あわてて抱きついたって言ったって︑しっかり見なさいよ︑おおかた物も食べずに目がくらみでもしたんでしょう︒︹末セリフ︺小姐はどちらに︒︹紅セリフ︺太湖石のそばよ︒
太湖石の近くにたたずむ女を︑身をひそめてのぞきうかがう場面と︑太湖石のもとにいる女に壁を乗り越えて近づく場面が﹃西廂記﹄において形成されたといえよう︒
董解元はその生平が不明であり︑また王実甫は大都︵北京︶の人とされ︑北方の出身である︒かれらがじっさいの太湖石を目にしえたのかどうかはわからず︑また﹃西廂記﹄については︑多くの元雑劇と同様︑とくにセリフの部分が元代にどのように行われていたのかも不明なところがある︒
判明しているのは︑﹃西廂記﹄における太湖石の近くにたたずむ女とそれをのぞく男という場面に類するものが︑元明につくられた北雑劇の中にも︑いくつかの作品から見出せることである︒
たとえば︑その場面は男女の出会いが主題ではない︑水滸伝ものの﹃争報恩﹄や西遊記ものの雑劇﹃西遊記﹄にもとられている︒これらはいずれも﹃西廂記﹄よりも遅く成立したことが明らかであることから︑﹃西廂記﹄を意識していた可能性は高いといえよう︒
元・無名氏﹃争報恩﹄第二折
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︹垣根をこえるしぐさをして言う︺この垣根をこえてきたところは︑なんと花園のうちか︒遠くみえるあたりに︑あずまやの中に蝋燭がともっている︒あずまやのもとには太湖石がひとつ︒この太湖石のあたりに隠れて︑誰がくるかみてやろう︒︹正旦言う︺夜も更けて︑こどもたちはみな眠りました︒香をあげにいくことにしましょう︒
戯曲における太湖石の機能とイメージ二九 明・楊景賢﹃西遊記﹄第十三折
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︹セリフ︺梅香︑香机をもって︑太湖石のあたりにおいて︒︹置くしぐさ︑ひそかに歌う︺︻穿窗月︼太湖石の積み重ねられた築山まで行くと︑菊花の風が顔にふきかかり︑丹楓の葉はみな朱くぬられたよう︒かかるのは楊柳︑はえるのは香楠︑一輪の月が雲にこもって暗くなる︒︹猪八戒が登場して言う︺今日は佳期にむかい︑月の光に対し︑水の影にはえて︑なかなかよいすがた︒あのねえさんも気がありそうな目つき︒
︒いるところに猪戒が近づ八て場くあで面るういとる 棠遊記﹄では︑主人公裴海いと召使い梅香が香を焚いて︒﹃西る香嬌に目を姿るげあをすが ﹃の公人花主が栄﹄の泊山梁はで千恩報李争嬌の千李てれ隠に陰石の湖太︑みげ逃に家こ
また︑﹃西廂記﹄が後の作品にもちえた影響力を考えるさい︑絵入り本の出版も重要だと考えられる︒﹃西廂記﹄にはさまざまな絵入り本があることが知られており︑陳旭耀によれば︑現存する﹃西廂記﹄の明代の版本は四十種以上存在し︑十数種には挿絵が入っている
る品ものが1の文徵明の作図を考ふれらえ︒といてえまる のき描に図構くぞきらかますのてしかしそ出て3いのそ図︑合場の構図かし︶︒3図︵もる のに彬一黄廂﹄劇五西本るよの挿絵を見ると︑太湖石特性を生刻﹃濛天凌さらに初啓間年の 湖れ隠にげかの石蕉太と様芭︑はに挿のて折子れを︶︒2図︵るいて絵かが瑞君張うがかう描 のも十は弘治早いもの行刊年とっも︑ちう一九︵一三第本一第︑りあで本刊岳台金︶八四家 ︒のそ 19 本挿画 図2『西廂記』金台岳家刊
三〇
︶︒4図︵い え易に乗り越られそうにな え高さを超ているため︑容 は記﹄本で︑壁は人の背の ﹃廂西府樂堂翠環ばえと 描た︒るいてれかが壁白く あに文原﹁る檻曲﹂ではな で絵入り本ばはしはしば︑ ﹃折三第本三第﹄記廂西
︒るれら よな覚視︑りこにとメるれさ版イ的ー広え考ジたっがとし定にらさが着 て期に至っ本絵入りが出代中明演っ︑や抄本によての共有されていき上 ﹃廂記﹄に見たえる太湖石を用い西場面は︑はじめのうはじっさいち
四、 太湖石をはさむ視線と移動 南戯伝奇への展開
上記の﹃西廂記﹄の二つの場面は︑﹃西廂記﹄の評価がつねに非常に高く︑また明代伝奇が集中して作られた明代後期には︑すでに絵入り本が出ていたことから︑演劇としての種類が異なる明代伝奇にも︑大きな影響を与えたと見ることができる︒ある戯曲の場面の伝達における版画の機能について︑周心慧はこのように述べる︒ 図4
『図3廂府画挿本』記廂西楽記西翠環『刊暦万』堂
『西廂記』凌濛初刻本本挿画
戯曲における太湖石の機能とイメージ三一 戯曲版画の効用は︑けして審美的な角度から︑図書の芸術的な観賞価値を高めるにとどまるものではなく︑同時に劇団による上演への図示による指南でもあった︒そう考えると︑多くの初期の戯曲版画が︑人物造形において︑なぜ舞台の演出の写しのようになっており︑身のこなしや動作がそっくりそのままであるかということをさらに容易に理解できるようになる
︒ 20
︒るムーズ想像させに機は持たせうる能 湖しかし太リ石をセフい︒用なはでけわるれさ意出がれそに︑し観スをき動の役てし対に客者︑りで歌詞に織交ぜること がろあったとこにで︑舞台の上は場面るいた装台舞の曲元まと︒る語てし通置同も湖い歌と︑が石太様で上の台舞︑に共 ﹃廂くうぽっいはにいさるれか記に陰の石い湖太︑の﹄が西っ演ていおに奇伝代︑は出うたいとるす場退らか台舞ん明
たとえば浙江紹興の人である単本︵生卒不詳︶の﹃蕉帕記﹄の中には︑二度にわたって登場人物が太湖石のかげにかくれる場面がある
︒う法﹂では︑龍驤たちを邪しよ魔と胡るれ隠す章が兄の妹弱胡る ︑演﹁齣五十二第れ︒は妹弱胡公人主︑で姿﹂形幻﹁齣四第のに隠待が仙狐るけ受ちを化驤龍公人主てけ 21
第四齣﹁幻形﹂さあ胡招討さまの花園のうちにやって来た︒︹そでの方を見て笑うしぐさ︺かえってちょうどいいときにやって来た︒一家で花見にやって来るところなら︑胡弱妹はきっとここにやって来る︒またあの娘の声と姿をまねて︑龍生に誘いをかけてやろう︒ほらこの太湖石のそばに︑しばらく身をかくそうじゃないか︒まさに︑片石孤峰より色相を窺い︑この地に長生を学ぶに如くはなし︒︹退場︺第二十五齣﹁演法﹂︹浄が登場︺さまざま頭はさえわたり︑いろいろ学んでみな身につけた︒人は虎にちょっかい出す気はないが︑虎のほうでは人を傷つけるつもりまんまん︒我が家の妹の夫は︑妹とともに︑天目山に行き︑仙姑に出会い︑聞くところ
三二
では天書三巻をさずかり︑今日花園のなかで天書を用いて術を使うとか︒かの呉山の三茅観の王道士はおれの廓買いの仲間で︑昨日あいつに言ったところおれに破術の法をさずけてくれた︒何句かの口訣を念じてすっかり覚え︑あいつが術をふるうときに︑おれも術を使って︑あいつの術がきかないようにしてやり︑物笑いのタネにしてやろう︒︹観衆に向かって︺みなさま︒その時をどうぞお楽しみに︒しばらく太湖石の後ろにかくれて︑あいつが来る時を待って︑あいつにやり方があっても使えず︑使えるやり方とてない︑というありさまにしてやろう︒︹かりに退場する︺
以上の二つの場面では︑太湖石のもとに隠れてまってやろう︑といって舞台からいったん退場する︒そのかりの退場が︑上演したさいには観客に太湖石のかげに隠れているという動作として認識されている︑ということになるだろう︒
イメージの共有が進むことによって︑たとえば月夜に香をあげる女が現れるさい︑曲詞やセリフで太湖石に言及されないにも関わらず︑挿絵に太湖石のすがたが見られるということがある︒﹃幽閨記﹄は元代の戯文に由来するといわれる作品で︑もともと﹁拝月亭﹂のタイトルも持っており︑第三十二齣﹁幽閨拜月﹂は題名になった場面である︒その挿画を見ると︑大きな太湖石と芭蕉の絵が目立つ︵図5︶︒しかし作中には月に向かって香をたく女は書かれているが︑太湖石の文字はない
︒ 22
つまり︑セリフや歌にあっても上演のさいには舞台上に用意はされず︑さらにはセリフや歌に一つもなくとも︑そこが邸宅の後園であることが了解されていれば︑挿絵で太湖石が表現されることがありうるのである︒ 図5 明德寿堂刊本『幽閨記』第三十二齣挿絵
戯曲における太湖石の機能とイメージ三三 江蘇常熟の人である孫柚︵万暦年間在世︶の﹃琴心記﹄では︑月明かりのもと琴を弾く司馬相如に対して︑卓文君が太湖石のもとに身をひそめて聞き︑それを召使い孤紅がのぞくという構図になっている
︒ 23
第八齣﹁私通侍者﹂︹生︺おかしなことだ︒どうして第三の絃がまた切れたのだろう︒また直すとしよう︒︹直すしぐさ︺︹貼と旦が登場︺︵略︶いま蝶が花を恋い︑鶯が柳に身を寄せるように︑寝所はからっぽ︑とばりの中はひっそり︒きっとおじょうさまはひそかに西園に行かれたのね︒わたしもこっそり身をかくしてあとをつけ︑どんなようすかみてさしあげましょう︒あっ︑あちらのほうで琴を奏でる音がするのは栖鳳斎の中かしら︒あっ︑こちらでは太湖石の近くに身を隠しているのは︑なにかいいことしようってことかしら︒すっかり聞いてしまいましょう︒小姐︑この孤紅にこっそり見られていますよ︒頭隠して尻かくさず︑というやつね︒︹聞くしぐさ︺
このような︑ひそかにうかがう側がさらに誰かにうかがわれているという二重の構図は︑従来の場面を一段ひねったものであるといえる︒
また江蘇常熟の人である徐復祚︵一五六〇│?︶は︑江蘇長洲の人張鳳翼︵一五二七│一六一三︶に学び︑﹃紅梨記﹄を残している︒その作中に女が男をうかがう場面がある︒第十七齣﹁潜窺﹂において︑佳人謝素秋と召使いの花婆が才子趙汝州をうかがう部分である
︶︒挿6図︵るいてれら取に絵はで ︒本り入絵︑は面場のこ 24
さらに次の場面では︑太湖石のそばにいる趙汝州が謝素秋によって見つけられる︒太湖石のそばにちらちらと人が動くようだから︑よびかけてみようと女が独白する︒この独白もやはり︑観客には見えない太湖石を現実 図6 明刊『紅梨記』第十七齣「潜窺」挿絵
三四
化するための表現である︒
第二十一齣﹁詠梨﹂︹生セリフ︺こちらには太湖石がある︒しばらくここで待つことにしよう︒︹旦︑紅梨花を持って登場︺︻前腔︼月の光のもと廊をめぐり︑夜露にしっとりともすそをぬらす︒荊王はもう陽台の上にいらしているはず︒この花の枝はどれほど風と雨にあったとしても︑蜂や蝶をいそがしく惹きつける︒どうして春の神様が春を知らせる金鈴をしかとお持ちになるのをさまたげられるでしょう︒あっ︑先のほうの太湖石のそばに︑ちらちらと︑人が動いているよう︒そっと一声よびかけてみましょう︒そちらにいらっしゃるのは趙解元さま︒︹生は驚き声をひくくして答える︺趙汝州はここにおります︒小姐が来て下さった︒やはり心あるお方であった︒東のまがきを臨み︑魂は飛び散らんばかり︒ただ耳にするのは小声で私に呼びかけて下さるお声︒
︒旦暮︑り為と雲朝はに︒はり在に岨の邱高︑陽のに行巫台るよに句の﹂に下の陽雨︑暮暮朝朝︑てり為と山 ﹁﹁巫高﹁玉宋︑で﹂夢の山﹁賦るゆわいは﹂台陽﹂﹁王唐﹂荊わはたし残い言が女たっ交にで中の夢と王楚︒くづ基妾
張景︵嘉靖年間在世︑籍貫未詳︶﹃飛丸記﹄では︑男性主人公の易弘器と召使い福童が太湖石のかげに隠れるが︑女性主人公の華玉英と︑時の権力者厳嵩の息子厳世蕃に見つかり︑ひきずり出されてしまう
︒ 25
第六齣﹁游園題画﹂︹福童︺まずい︑まずい︒中から人が出てきました︒︹生︺人が来たのがどうした︒︹福︺ご主人様は禁令を出し︑かってに花園に入ったものは︑家の中のものなら棒打一百︒外のものならご主人様のもとで罪に問われます︒︹生︺どうして早く言わないのだ︒こなければよかった︒︹福︺しばらく太湖石のあたりに隠れましょう︒︵略︶
戯曲における太湖石の機能とイメージ三五 ︹浄︺父上は権勢は朝廷をすっかりおさえ︑磐石のゆるぎなさ︒小姐は何を心配される︒︹旦︺花は開けばやがて散るもの︒月は満ちれば欠けるものです︒︹浄見やるしぐさ︺太湖石のあたりに人がおる︒︹旦︺とらえてきなさい︒
せっかく隠れたものがすぐに見つかってしまうのがなぜかは︑挿絵を見れば理解できよう︒さきほどの図3﹃西廂記﹄︑そして図6﹃紅梨記﹄に加えて︑図7﹃蕉帕記﹄の挿絵を見ればわかる通り︑片方が太湖石の陰にいるとき︑のぞく視線は通るものの︑逆に気づかれてしまうことにもなる︒
陸采﹃懐香記﹄においては︑塀を越えられるかあやぶむ主人公韓寿が︑樹に足をかけてのぼる事にする
︒長は天池︑蘇江洲の人である け采陸︒るあで湖わ立に役は石一︵つ四は九︑元子は字号︶七三五一│七 ま高どほるれかぶやあえるれら塀い︑が描太もにきとなんそがたいてれか ︑越はのだでころにおりるも平地のうよ︑西画挿の﹄記と廂︒﹃るす言助 ︑︑くすやり上せりあが石湖太はと外ろ内ことい低をからとい高︑さじ通 のそれを導く召使い︒春英は︑塀の内側に 26
第二十四齣﹁謀踰東牆﹂︹貼旦︺内側をごらんなさい︒︻前腔︼太湖石は登りやすい︒太湖石は登りやすい︒外と内とを通じさせ︑高きから下をのぞむも平地のよう︒︹生︺この計画はなかなかよい︒この計画はなかなかよい︒月殿は高く遠いというが︑嫦娥が近 図7 明刊『新刻五鬧蕉帕記』本挿絵
三六
づいていらした︒
この場面では︑太湖石は足場として用いられてしまっている︒
明代伝奇の太湖石の用い方は︑元曲と比べて多様なものになっている︒太湖石のかげに男が隠れ︑太湖石のそばに女がたたずむだけでなく︑二重ののぞきの構図が現れたり︑隠れても見つけ出されてしまったりという場面もある︒またいかにも太湖石が登場しそうな場面があれば︑セリフなどで太湖石にふれられていなくとも挿絵に太湖石が描かれることがある︒
その要因については︑まず元曲から演劇における様式化された表現として受け継いでいることが挙げられよう︒また︑元代から引き継いだものと︑明代に新たに作られた作品の両方が︑絵入り本として同時に出ていたために︑挿絵は独自に広まり共有されていたであろう︒
またそれに加えて︑明代伝奇の上演空間の影響を考えることができよう︒クレイグ・クルナスは︑明代中期以降においての庭園は︑それが粋をこらした建物と︑高値で買い入れられた珍木奇石で飾られた空間であるだけに︑しばしば客を招き入れ︑それによってより広く知らせようとする性質を持っていたと指摘している
︒ 27
また劉水雲は︑明末にかけての江南地区における庭園の造建の流行について述べ︑その中におかれた園亭や池館とよばれる建物においても︑屋敷の庁堂などと同様に演劇が上演されていたことを指摘し︑同時に庭園を彩る太湖石をはじめとする奇石をコレクションする風習も︑明末にかけてさらに盛んになっていたことを強調する
︒ 28
太湖石そのものを所有していた文人は︑全体からみれば必ずしも多くはなかっただろう︒しかし︑少なくとも戯曲の中に書かれたような太湖石のある空間はあるていど共有されていたと考えてよいのではないだろうか︒読者にとっては挿絵が視覚的なイメージをじゅうぶん助け︑上演をみる観客にとっては︑舞台のうえに太湖石がなくとも︑上演される空間のすぐそばに太湖石が置かれていることで︑舞台のうえを補完することもできたと考えられる︒
戯曲における太湖石の機能とイメージ三七
五、太湖石のもとで広がる物語
『還魂記』
明代伝奇のうち︑これまでにふれた作品と比べても︑明・湯顕祖︵一五五〇│一六一六︶﹃還魂記﹄は︑太湖石の用い方に特徴があるといえる︒主人公柳夢梅と杜麗娘の夢中から始まる出会いは︑すべて太湖石︵湖山石︶のある空間において進んでいく
︒ 29
もともと中国の戯曲において登場人物が夢を見る場面が多用されることは指摘されており︑元鵬飛は明清の戯曲の数十種におよぶ作品の中に夢の場面が出てくると述べている
︒いなはでけ 場らず登るしていかわなが︒らしかし︑それの石夢の場面に太湖 30
﹃も中での幽会を描くっのとも有名な場面であ夢娘還﹂魂記﹄第十齣﹁驚夢は麗︑主人公柳夢梅・杜る
︶︒湖杜麗娘をなかば強引に太石ずのかげに導いていく︵図8︑似男はれない夢の中のも︑柔弱な才子のすがたに 正まだ︒体の知 31
︻山桃紅︼花のごとくうるわしききみ︑水のながれるように年をかさね︑至るところ尋ねあるきしも︑ひそかなるねやにてひとりあわれむ︒小姐︑あちらに行ってお話ししましょう︒︹旦ははずがしがって行かず︑生は衣をひくしぐさ︑旦は小声で尋ねる︺どちらへ︒︹生︺この芍薬の花壇をすぎて︑かの湖山石のそばに︒︹旦は小声で尋ねる︺秀才さま︑行ってどうなさるの︒︹生は小声で答える︺あなたの襟をゆるめ︑帯をときましょう︒袖のはしをかんでしばしこらえてくだされば︑ゆっくり眠れましょう︒︹旦ははずかしそうにする︑生は進み出て抱く︑旦はおしのけるしぐさ︑二人でうたう︺どこで出会ったのか︑でも互いに見ればはっきりとわかる︑こ 図8 第十齣 驚夢挿画 明万暦刊石林居士序『還魂記』本
三八
のよきときに出会い︑もうことばはいらぬ︒︹生むりに旦を抱いて退場︺
そしてこの後︑庭園の管理をつかさどる花神が現れる︒この場面については劉水雲に以下のような指摘がある︒
じっさいのところ︑杜・柳二人が一目ぼれし︑恋心が抑えがたくなる場面は﹁明場﹂︵舞台の中心で観客に見えるように演ずること︶で演ずるのはふさわしくなく︑舞台の上で﹁暗場﹂︵舞台のはしによって退場したものとして演ずること︶の処理をすることになる︒そして花神が現れることで︑客観として二人が思いを交わす場面が存在していることが理解されうる
︒ 32
退場するといっても︑必ずしも専用の劇場のように上手と下手に通路が設けられているわけではない場合には︑二人の役者はあくまで見えるところでやや下がるにすぎないこともあっただろう︒そのさい︑別の役が現れてそちらをうかがうしぐさをすることで︑背後に太湖石があり︑さらにそのうしろに二人が隠れているという演出を成り立たせていることになる︒
第七齣﹁閨塾﹂では︑杜麗娘がせりふで太湖石にふれ︑第十二齣﹁尋夢﹂でも同じ場所を訪れて︑太湖石を見ながら夢の記憶をたどる︒第十二齣﹁尋夢﹂︻品令︼あのかたは太湖石によりかかり︑嬋娟なるすがたを立たせ︑玉山をおしたおされた︒日は暖かに玉は煙を生じ︑透かし彫りの欄干をすぎ︑ぶらんこのあたりをめぐり︑もすそを花のようにひらき︑地にしいてしとねとし︑天がみているかとおもいつつ︑あのひとたびの逢瀬ははっきりと思い出され︑すばらしい香りに満ちたあのことはことばにもできず︒
戯曲における太湖石の機能とイメージ三九 そして︑思いをつのらせたばかりに病となってはかなくこの世を去るとき︑第二十齣﹁鬧殤﹂で︑杜麗娘は﹁春香︑ひとつ思い出しました︒わたしのあの春容は︑詩をその上に題していますが︑よその人からみれば雅なものではないでしょうから︑わたしを葬った後には︑紫檀の小箱にいれて︑太湖石の下に隠して﹂と遺言する︒これを受けて︑第二十四齣﹁拾画﹂では︑夢の情事を思い出す柳夢梅が庭園を歩く︒
第二十四齣﹁拾画﹂なんとみごとな築山だ︒︹うかがう︺あっ︑中にちいさな箱が︒左側の石をひとつ寄せて︑何だか見てみよう︒︹石を倒す︺おお︑これは栴檀の小箱︒︹箱を開いて画をみつけるしぐさ︺なんと︑一幅の観世音菩薩さまのおすがただ︒ありがたい︑小生は書館に持ってかえり︑お祈りしてご供養することにしよう︒この中に埋もれているよりはよかろう︒
この前の歌詞には﹁湖山石﹂があり︑さらにセリフでなんとみごとな築山だ︑といって︑おそらくは目の前にある太湖石を見上げるしぐさをした後で︑視線を下げて足もとの︑築山のすきまに隠された杜麗娘の似姿をひろう︒ここでも太湖石が観客の視点をコントロールする役目になっていることがわかる︒
第二十八齣では︑この太湖石のもとに埋められ︑掘り出された似姿が︑魂となった杜麗娘を導く役割を果たす︒その後︑第三十二齣﹁冥誓﹂には以下のようなセリフのやり取りもある︒
第三十二齣﹁冥誓﹂︹生︺どうなさったのです︒︹旦︺秀才さま︑この春容はどちらで︒︹生︺太湖石のすきまの中です︒︹旦︺奴家のすがたと比べていかが︒︹生みて驚く︺なんとそっくりそのままだ︒︹旦︺おわかりでしょう︒奴家こそがその画の中の女です︒
四〇
さらに同じ部分で︑杜麗娘は梅樹のそばに葬られた自らの亡骸の場所を示す時にも︑﹁おぼえておいて︑太湖石と一株の梅の木を﹂と言う︒ここまでの部分には梅樹のみしかふれられていなかったが︑梅の木のそばには太湖石もあったことになる︒絵入り本の中にも︑杜麗娘が梅の木のもとからほりかえされて息を吹き返す場面では︑梅の木よりもさらに目立つ形で太湖石が描かれているものがある︵図9︶︒
しかしこの遺骸をうめた場所の太湖石は︑このあとの物語に生かされているわけではない︒第三十五齣﹁回生﹂で掘り出された杜麗娘が息を吹き返すさいにはとくに太湖石についてはふれられず︑劇が続き︑ついに第五十五齣で団円をむかえるまで︑もう一度太湖石にふれられることはない︒
つまり︑﹃還魂記﹄の中では︑夢の中で出会った二人がこの世とあの世に分かれ︑やがて魂のみが似姿を憑代として帰り︑屍にもどって再び息を吹き返す︑という話まではしばしば太湖石が現れ︑それが終わったあとには太湖石が現れなくなるといえる︒
第二節で確認したように︑太湖石の奇怪なすがたは詩歌のなかで鬼や魑魅にも例えられてきた︒そして塵世を避け別世界に導く洞天のイメージも託されている︒さらに﹃西廂記﹄から太湖石の前にたたずむ女という情景と︑登場人物の視線と移動に関する機能が受け継がれ︑それに登場人物たちが夢を見る場面が合わさり︑その夢が﹁巫山の夢﹂すなわち夢中の仙女の逢瀬と重ねられた︒これらが積み重なることで︑﹃還魂記﹄における太湖石には現実と夢︑この世とあの世をつなぎ︑離れた男女をつなぐものとしての機能が与えられているのであろう︒
るこかない向とを指摘す とくまで他の評者の意見そしつつも︑︑れらが上演にあてつに種四作い ﹃しれら知てのと者編臧﹄選曲る元懋循は友人である湯顕祖の代表︑
つ摘︑﹃もつ︒りあは指魂なうよのそしかし還 33 『還魂記』本 図9第三十五齣回生明万暦刊石林居士序
戯曲における太湖石の機能とイメージ四一 記﹄は︑当時からさまざまな形で上演されていた︒万暦二十七年︵一五九九︶に原稿が完成すると︑湯顕祖はまず江西臨川にかまえた玉茗堂で役者たちにこの劇を演じさせている︒その後の状況を見ると︑江南の士大夫や富家の家中で演じられた例が多い
︒が庭るうれか置石近湖太ばしばしに園いれうよえいと場たわ行ていおに所 ︑はれそたまく︒﹃﹁いと﹂曲戯む読のだ上の机は﹄記魂還うけならい疑はとこたれいで用に演上︑くなは 34
六、比較対象としての明代の小説の概況
ここまで明代伝奇について述べてきたが︑明代には文言・白話の小説も戯曲と同じく盛んに出版されていた︒ではそれらの小説に現れる太湖石にも︑明代伝奇に見られるような機能が持たされているのだろうか︒
前掲の通り︑太湖石を詠んだ詞も残している瞿佑の﹃剪灯新話﹄巻二﹁滕穆酔游聚景園記﹂では︑見る影もなく荒れ果てた杭州の庭園に美女の幽鬼が現れ︑太湖石のそばで詩を詠ずる︒また︑﹃警世通言﹄巻十﹁銭舍人題詩燕子楼﹂では︑宋の銭希白の前に︑唐の妓女関盼盼の霊とおぼしき女が現れ︑庭園の太湖石のそばで銭希白の作った詞を歌う︒
この二つは文言・白話の違いこそあれ︑太湖石のある庭園に幽霊の女が出てくることが共通している︒太湖石のそばにたたずむ美女︑という元曲に見られる様式化された機能に加えて︑それが幽霊であることが加わっている︒
︒がなはとこるくて出石︒太もにいさつ待がい湖戯能曲るいてれら減はさ機の石湖太てべ比に 立かかってたってい﹂より青に干欄︑て着を衣上いい短はとなあれ鶯鶯にちの︑くは面場るる隠にものの︑張浩が太湖石 十︑どほ五はたと欄く咲の薬芍︑ろころのぎ過をばその石湖太干あもしこの年︑が子の女たらたたを髪前の人一︑にり﹁ ﹃世張記廂西﹃は﹂鶯鶯遇浩亭の香宿﹁九十二巻﹄言通﹄警小初で場る見を鶯鶯崔てめが説浩張︑しかし︒るあで化面
︒て示すために石を指先でえぐっ升力目を作ってみせるだけであるを ﹃ 太技村蹤奇兄八十門城順誇肆山東劉﹁三巻﹄奇驚案酒﹂湖の石が出てくるが︑拍黒大の力の女が自らのもに話入色
﹃ では︑宋の太尉楊戩の客あ﹂る任君用が仕女の如霞にに客二﹁刻拍案驚奇﹄巻三十四任館君用恣楽深閨楊太尉戯宮導
四二
かれて築玉夫人と密会する︑という場面があり︑そこに太湖石は出てくるが︑壁を越えるための機能はなく︑梯子を立てかけられているにすぎない︒そのあと築玉夫人は太湖石のもとで待つが︑岩の陰からひそかにうかがうなどの場面はない︒
︒う がこ︒るて立を耳き聞てっかにうを子様の中が蓮金︑はれ潘つ変いろるえいもとたせさ化だをは機る見き覗てれ隠能て 書はとるいれてれらかは作で石湖太れこ︑がだいのて賽な房るで﹂塢春蔵聴竊蓮金月い風観簫玉﹁回三十二第︒もあ をる蔵﹁るす場登も度何︒あ塢でうよいなは面場たっ持春﹂能そしにうよるれもこに中のてはけ設を洞で山築な模規大て ﹃機がも石湖太めたるす出頻面れ場の園庭︑はに﹄梅瓶現︑な得うよの奇伝代明︑がるりそなもと場の事情がばその金
その他の作品においても︑場面が庭園であることを表す情景描写の中に太湖石が出てくる例はまま見られる︒明代における文言・白話の小説において︑明代伝奇における太湖石の機能と共通するものが無いとは言えないが︑少なくとも︑多数の著名な小説において︑明代伝奇と多くの機能が共有されているとはいえないようである︒
それに対して︑清代の﹃品花宝鑑﹄第四十四回﹁聴謠言三家人起釁 見悪札両公子絶交﹂には︑使用人の林珊枝が︑太湖石の穴から主人の華公子と夫人たちが戯れているのをのぞき︑それが見つかってしまうという場面が現れる︒また︑清代には明代伝奇﹃蕉帕記﹄を小説に仕立てた﹃蕉葉帕﹄があり︑そこでは前掲の太湖石が登場する場面がそのまま見える︒
清代においては︑太湖石が明代伝奇と同じ機能をも持つ小説作品も現れるとの見通しを仮に立てられよう︒また小説でも戯曲と同様に︑太湖石が文中にふれられていない場合にも挿画には現れることがある︒これらの問題については︑別により詳しく論ずる必要があるだろう︒
七、おわりに
元代までには詩歌や絵画において︑庭園の中の太湖石に女の姿が組み合わされるものが現れており︑それは元曲の中で
戯曲における太湖石の機能とイメージ四三 も︑太湖石のもとに現れた女が香をたく場面として様式化されていた︒とくに﹃西廂記﹄には︑男が隠れて女をうかがう場面でも︑女が男を待つ場面でも︑太湖石が用いられている︒﹃西廂記﹄は名作の誉れ高かったことに加えて︑明代中期には絵入り本が出版されていたことにより︑明代伝奇がもっとも盛んに作られる明代後期までにはよく知られるようになっていたと考えられる︒
︒るいてし託に石 幽る仙洞や比鬼へのお喩け︑に文詩吸え加に能機だい継をて収のし湖太もジーメイの山巫をて逢し仙女︑のと瀬の場所と 増えがンョシーエリバ用に方れらい︑どない面てはる︑﹃うけ受らか﹄記廂西て︒いおに﹄記魂還︑﹃たま場ましてっかつ のう二重のらぞきとや︑いの︑くぞ湖を物人くぞのかげ太穴石石見が物人たれ隠にげかの湖に太でとこるいていあがのか ﹃石紅どな﹄記香懐﹄﹃記梨﹄﹃明記心琴﹄﹃記閨幽﹄﹃記帕の代湖隠太︑てえ加に面場るれに伝げかの石湖太︑はで奇蕉
明代伝奇において︑太湖石がこのようにさまざまな機能を持って用いられるようになった要因としては︑元曲から演劇における様式化された表現を受け継いだこと︑絵入り本によって︑より視覚的なイメージが広まったことに加えて︑明代伝奇が個人の庭園においても演じられていたことで︑上演空間と太湖石の置かれる空間が近かったことによる影響を考えることができる︒本論の挙げた明代伝奇の作者の多くを︑太湖石の置かれる庭園にふれる機会に恵まれていた江南地方の出身者が占めていることもその傍証となるだろう︒
太湖石が明代伝奇の中に現れるさいには︑読む戯曲としては︑おもに男女の登場人物をめぐる場面に新たな趣向を加えるとともに︑詩文とも共通するイメージによって現実から離れた場面を具体的に想像させるものとして機能し︑また上演する時にも︑せまく平坦で舞台装置らしいものはない舞台の上に︑起伏に富んだ空間を作り出すものとして機能していたと考えられる︒
なお︑本論では︑伝奇については清代に及んでおらず︑小説についてもある程度の見通しを述べたのみであり︑それぞれの絵入り本も含めて︑検討していない対象は多い︒今後に期したい︒
四四
注︵1︶清・厲鶚﹃東城雑記﹄﹁玉玲瓏閣﹂に見える︒︵2︶福本雅一﹃太湖石﹄藝文書院︑二〇〇九︒︵3︶クレイグ・クルナス著・中野美代子・中島健訳﹃明代中国の庭園文化﹄青土社︑二〇〇九︒︵4︶宮崎法子﹃花鳥・山水画を読み解く︱中国絵画の意味﹄角川書店︑二〇〇三︒︵5︶﹃白居易集箋校﹄上海古籍出版社︑一九八八に拠った︒前掲の福本雅一﹃太湖石﹄に全編の訳注がある︒︵6︶入谷仙介注﹃高啓︱高青邱﹄﹃中国詩人選集二集﹄第十巻に全編の訳注がある︒︵7︶﹃白居易集箋校﹄上海古籍出版社︑一九八八に拠った︒前掲の福本雅一﹃太湖石﹄に全編の訳注がある︒︵8︶﹃全宋詩﹄七︑北京大学出版社︑一九九六に拠った︒同じく前掲の福本雅一﹃太湖石﹄に全編の訳注がある︒︵9︶﹃益州名画録﹄は存古書局︑一九一五に拠った︒︵
︵ ︒八九 10﹃中澤田瑞九一︑社論公央﹄鬼界世︶鬼幽国中穂義談趣の
︵ 11録太︒るあと﹂前宮乙州鬼︶﹃居﹁に本繁﹄簿杭
︵ に︒たっ拠 12府版類聚名賢楽二八九一︑社出群籍古︶﹃上︒収所二巻﹄玉海
︵ 二︒たっ拠に本収所〇一〇 13校全楽府遺音﹄所収︒﹃瞿佑集注︑社版出籍古︶﹃浙︑上﹄江
院範︒四一〇二︑報学師学 14用南淮﹂新創及作︶劇朱文婷﹁論元雑中事太湖石程式化的叙 ︵
︵ 九書院一九︑八に拠った︒ 廂文治著﹃董解元西﹄記諸宮調研究高汲古橋・繁橋高・謙樹 15﹄赤︑は記調宮諸紀廂西松︶﹃彦・井泰山・金文京・小松上
︵ 六︒たっ拠に 16季版西廂記﹄は王九九一︑社出思籍古海︶﹃﹄記廂西﹃注校上
︵ 17争局︒たっ拠に八五九一︑書報︶﹃中﹄選曲元﹃は﹄恩華
︵ 拠︒たっ 18は書西遊記﹄に九五九一︑局華隋中﹄︶﹃外選曲元﹃編森樹篇
︵ 〇︒七 19﹃海陳旭耀〇二︑社版出籍古上現﹄︶総︾記廂西︽刊明存録
︵ 七︒ 20図﹄首都九九一︑社版出苑学録書図︶版曲戯本古﹃輯編館画
︵ 社︑﹃全明伝奇﹄天一出版所拠収の影印を参照した︒り 21︶﹃注蕉帕記﹄は﹃六十種曲評﹄に吉林人民出版社︑二〇〇一
︵ 社︑﹃全明伝奇﹄天一出版所拠収の影印を参照した︒り 22︶﹃注幽閨記﹄は﹃六十種曲評﹄に吉林人民出版社︑二〇〇一
︵ 社︑﹃全明伝奇﹄天一出版所拠収の影印を参照した︒り 23︶﹃注琴心記﹄は﹃六十種曲評﹄に吉林人民出版社︑二〇〇一
︵ 社︑﹃全明伝奇﹄天一出版所拠収の影印を参照した︒り 24︶﹃注紅梨記﹄は﹃六十種曲評﹄に吉林人民出版社︑二〇〇一
︵ 社︑﹃全明伝奇﹄天一出版所拠収の影印を参照した︒り 25︶﹃注飛丸記﹄は﹃六十種曲評﹄に吉林人民出版社︑二〇〇一
︵ 社︑﹃全明伝奇﹄天一出版所拠収の影印を参照した︒り 26︶﹃注懷香記﹄は﹃六十種曲評﹄に吉林人民出版社︑二〇〇一 27美中代明﹃訳健島中・子代野︶中・著スナルク・グイレク国
戯曲における太湖石の機能とイメージ四五 の庭園文化﹄青土社︑二〇〇九︒︵
︵ 海︒五〇〇二︑社版出籍古 28七第劉水雲﹃明清家楽研究﹄上章﹂論所場出演︶家清明﹁楽
︵ 入〇〇四は﹃還魂記﹄の絵り︑本についてまとめている︒二四 29﹄根ヶ山徹﹁﹃牡丹亭還魂記︶五図史略﹂山口大学文学会誌挿
︵ 台︒七〇〇二︑局書華中﹂演搬 30﹄及元鵬飛﹃戯曲与演劇図像其所他舞与境夢的中︶劇﹁収本
︵ 社︒たっ拠に二八九一︑ 31湯版還魂記﹄は銭南揚校点﹃出顕籍古海上︑︶﹃﹄集曲戯祖上
︵ 海︒五〇〇二︑社版出籍古 32七第劉水雲﹃明清家楽研究﹄上章﹂論所場出演︶家清明﹁楽
︵ 所﹂︒引奇伝堂茗玉﹁収 33料八徐扶明﹃牡丹亭研究資七九考一︑社版出︶古海上﹄釈籍
︒社一九九一︑ 34祖文周育德﹃湯顕版出術芸化﹂論台舞曲︶和夢四川臨﹄﹁稿戯
Functions and Images of Taihu Stones
(太湖石) in Chinese Classic Opera
KAWA Koji Taihu stones太湖石 are a kind of limestone which has a mysterious form with many holes, and they are praised as a decorating material for traditional Chinese gardens. They became popular in the middle of the Tang dynasty, and they are the subject of many classic poems and paintings, also appearing in classic Chinese operas.
This paper researches functions and images of Taihu stones in Classic Chinese Opera. In Yuan qu (元曲), Taihu stones appeared in some works, especially Xi xiang ji ( 西 廂 記 ) had two impressive scenes. One is when a lady burns incense near Taihu stones and a man hides in the back of stones. The other one is a lady waiting for a man beside some stones.
Xi xiang ji counts among the masterpieces in Yuan qu, and until middle of the Ming dynasty, illustrated books had already been published; their situations were well known to readers.
In the late Ming dynasty, many authors wrote dramas using the Ming chuanqi
(明伝奇) style. Some works like Jiao pa ji (蕉帕記), You gui ji (幽閨記), Qin xin ji (琴心記), Hong li ji (紅梨記), Huai xiang ji (懐香記), and Huan hun ji (還 魂記) also had scenes in which Taihu stones appeared.
The Taihu stones in Ming Chuanqi have the function for readers to add some new variation to the romance between men and women, and they have an image common to classical poetry letting them conjure up an imaginary garden landscape.
At that time many illustrated books assisted their imagination. As for audiences, they had the function of helping them imagine there was an undulating garden on the stage.
四六