日本ナショナリズムの特色とその土壌
木村時夫
日本ナショナリズムの特色とその土壌
は じ .め に
日本ナショナリズムの特色についてのべる前に︑きわめて簡単にナショナリズムの意味を考えておきたい︒
ナショナリズムの原語はいうまでもなく︑英語のZ曽口︒コ巴ωヨである︒ したがってその意味はごp岱︒昌を中心と
する主義主張︑ないし運動ということになる︒そこで問題になるのは口p江8である︒普通︑その訳語には﹁国家﹂
﹁国民﹂ ﹁民族﹂の三つがある︒したがってナショナリズムも国家主義︑国民主義︑民族主義と三様に訳される︒し
かし国家︑国民︑民族という言葉のもつ概念は異なるものである︒右にかかげたナショナリズムに対する三つの訳語
も︑われわれの語感からすれぽ︑それぞれそのニュアンスを異にするものである︒ ︵私は三つの訳語のうち︑国家主
義が︑従来の日本のナショナリズムを表わすにはもっとも適切であると思う︒それにもかかわらず︑ナショナリズム
と表記するのは︑国家主義という訳語では︑日本の歴史上のナショナリズム︑わけても戦後のそれを包括することが
できないと思ったからである︒︶ このようなネイションの意味の多様性︑したがってナショナリズムの意味の多様性
は︑舜鉱︒ロという言葉そのものが歴史的に形成されたものであるからである︒すなわち母鉱8は国家として世界の
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歴史上に登場し︑国民をその内容とするにいたり︑最後に民族の意味をもつようになったものである︒ ︵ナショナリ
ズムの形成過程については国.霞.〇四霞脚稲妻口8巴δヨ窪傷﹀重言邦訳﹃ナショナリズムの発展﹄を参照︶したがっ
て今日問題になっているナショナリズムも比較的新しい現象で︑十九世紀から二十世紀にかけて歴史上に登場したも
のである︒ ︵日本のナショナリズムの形成期を︑幕末から維新にかけての時代におきたいと思うが︑その詳細につい
ては省略する︒︶
この新しい現象としてのナショナリズムは基本的には︑特定の民族が異民族支配を排除するか︑あるいは分散する
同一民族を糾合して民族国家を樹立しようとする願望に立っての思想︑運動︑政策である︒またすでに形成された民
族国家についていえぽ︑その政治的独立を維持し︑その民族に特有な伝統を保持しようとする理想︑運動︑政策の総
称である︒さらにその特質をつけ加えるならば︑それは個人的な思想や主張ではなく︑民族を包含する思想や運動で
なければならず︑℃鋤賃δけδ日とZ讐団︒轟房ヨとの相違はここにある︒ ︵バトリオチズムも日本では愛国心と訳され︑
ナショナリズムとほとんど同義語に用いられている︒︶
しかしこのようにナショナリズムを定義してみると︑日本の場合︑必ずしもピタリとしないものがある︒すなわち
歴史的にみて︑日本人に民族国家形成の努力があったかという疑問が生ずるからである︒ということは︑日本におい
ては民族と国民という言葉がほとんど同じ意味に用いられている︒日本民族イコール日本国民である︒幕末以降の対
外関係における日本の危機感は国民的なものであって︑あえて民族の危機というほどのア︺とはない︒つまり日本人に
は民族意識がきわめてうすいのである︒それは日本が日本民族という同一民族から成る︑めずらしい単一民族国家で
あるからである︒
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ナショナリズムの定義もきわめて不十分であるが︑このような定義を前提とし︑日本に特殊な一面のあることを念
頭において︑本論の主題に入ることにする︒ ︵ナショナリズムについての私の考えは︑別に発表する﹁ナショナリズ
ム序論﹂を参照されたい︒︶
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日本的特色
日本ナショナリズムの特色とその土壌
先に︑日本においてはしばしぼ国民と民族とが同義語に用いられること︑そうしてむしろ民族という意識が稀薄な
こと︑およびバトリオチズムの訳語である愛国心もしくは祖国愛等の言葉が︑ナショナリズムの同義語として用いら
れていることなどを指摘しておいた︒それはとりも直さず︑日本ナショナリズムの特色を示すものである︒
私はかつてチェコの女性史家︑ズデンカー・ステレコオバ女史との対話の中で︑日本ナショナリズムの特色に思い
いたったことがある︒女史は私が日本のナショナリズムの展開過程に興味をもっているというと︑ ﹁日本にナショナ
リズムが存在するはずがない﹂と主張したのである︒私は日清︑日露の両役から太平洋戦争にかけての︑日本国民の
いわゆるナショナリスチックな思想や運動の高まりを強調したのであるが︑女史はこれに対して︑ ﹁それは貴方が民
族というものを理解していないからである﹂といい︑ ﹁われわれは身分証明書やパスポートにも国籍の他に民族名を
書くが︑日本人もそうするであろうか﹂とか﹁日本人はかつて異民族支配を経験したことがあるか︒学校において外
国語の使用を異民族から強制されたことがあるか︑異民族の言葉をもってしなければ︑配給品も受けとれないといっ
たようなことを経験したことがあるか﹂とつぎつぎにたたみかけてきた︒さらに女史は﹁チェコの現在の社会主義体
制は︑この悲惨な異民族支配の体験を︑再びしてはならぬという︑チェコ人の自発妙な快立疑心の現われである﹂ともい
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(、スα
たしかに女史がいうように︑ナショナリズムを第一義的に民族自立の念願と解するならば︑日本にはそのようなナ
ショナー−ズムは存在しない︒なぜならば日本はその建国の当初から一民族だけで成立し︑しかもそれは異民族との抗
争の結果として成立したものではないからである︒そうしてその後の歴史においても︑異民族からその存立を脅かさ
れたことはない︒ ︵蒙古の来襲という例はあるが︑それを当時の日本人が民族存亡の危機として受けとったかどうか
は疑問である︒︶明治以後もいく度かの対外戦争を体験し︑それらはいずれも国家の存亡を賭けたものといわれたが︑
太平洋戦争をもふくめて︑それら戦争の実体は︑大陸諸国の人々が体験した︑民族と民族とが血で血を洗うというも
のではなかった︒国内が戦場となったことすらない︒ ︵空襲による被害はあっても︶戦後の連合国軍による占領統治
の一時期が︑唯一の異民族支配の体験であるといっても過言ではない︒︵しかもそれは大陸諸国の国民がしぼしば体
験した直接統治とは異なり︑日本人を通じての間接統治であった︒︶
この点イザヤ・ベンダサソがその著書の中で︑本当の戦争を知らず︑危険といえば地震︑雷︑火事︑親父だけです
まし得た日本人を︑幸福な民族といって調刺しているのは味わうべきことである︒︵﹃日本人とユダヤ人﹄の一四頁以
下を参照︶
たしかにこのように考えてくると︑日本のナショナリズムはかつてのユダヤ人やポーランド人︑あるいはアジアに
おけるインド人や朝鮮人のように︑絶えず民族的自立を悲願としてきた諸民族のそれとは異なる︒少なくとも日本の
ナショナリズムは︑最近にいたるまで民族的自立の意識や努力を欠いたものであるということができる︒
それではそれに代る日本ナショナリズムの特色とは何か︒それは国体である︒国体とは万世一系という言葉でいい
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.日本ナショナリズムの特色とその土壌
ならわされた︑世襲的天皇による統治という︑主権の特殊な在り方をさし︑同時にその天皇統治を支える︑義は君臣
にして情は親子という︑一大家族国家の体制にまつわる︑諸々の倫理︑制度︑生活の伝統をも総称したものである︒
幕末において日本人がはじめて欧米諸国のアジア進出を脅威と感じた時のスローガンが尊王懐夷であり︑明治大正を
通じて戦前にいたるまで︑内外の危機に際して強調され︑日本人のあらゆる価値判断の絶対的尺度となったものは︑
他ならぬこの国体であった︒ ︵それは祭政一致︑忠孝一致︑尊王討好︑承詔必謹︑八紘一宇︑滅私奉公等々︑その表
現は多様であっても︶そうしてそれはポツダム宣言を受諾し︑連合軍に降伏を決意した時でも︑その最終目的が﹁国
体の護持﹂であったことをみれぽ明瞭である︒
日本のナショナリズムのスローガンが常に倫理的な性格をおび︑一種の精神運動的性格が強いのもこれと関係があ
ろう︒国内向けには皇室中心︑敬神崇祖︑臣道実践のような抽象的言葉を並べるだけで︑具体的内容を欠き︑特に国
民の福祉の向上については何ら具体的にふれるところがない︒対外進出の理由づけにしても︑持てる国と持たざる
国︑あるいは自給自足圏の確立といゲような割り切り方をせず︑天皇政治の光被︑有色人種の解放︑王道楽土の建
設︑大東亜共栄圏といったような漠然たる︑しかも道義的色彩のこいものであった︒大戦にいたるまで政府が一貫し
て強調した道義外交なるものが︑いかなる結末をもたらしたかをも思うべきである︒
それらはすべて日本人が海外においてその勢力範囲を設定する場合︑国内における家族体制を国家間の関係におい
ても設定しようとするもので︑占領地に神社を建設したという例でも分るように︑日本的特殊性にすべてを同化しな
いでは止まない態度である︒それが日本人の国体尊重の伝統に発するものであることはいうまでもない︒
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島国という地理的条件
2〔}
これまでのべた日本ナショナリズムの特色が形成される土壌の第一として︑わが国が島国であるという地理的条件
をあげなければならない︒島国という地理的条件がもたらす影響の第一にあげなけれぽならないのは︑人種的文化的
隔絶である︒ ︵少なくとも交通︑通信の発達する近代までは︶
日本民族の起源についてはいまだに明らかでないところが多いが︑たとえそれがいずれかの海外の地に由来するも
のであるとしても︑ともかくこの島々に定住し︑日本語という︑その周辺のどこにも類似する言葉を見出し得ない︑
独特の言語をもつにいたるまでに︑他民族から隔絶したきわめて長い年月のあったことを思わざるを得ない︒勿論︑
北において南において︑あるいは半島を通じて多少の民族的交流はあったかもしれないが︑境を接し︑絶えず民族的
移動の波に洗われ︑あるいは掠奪の対象とされていた︑大陸における諸民族の歴史とは大きな相違がある︒日本人の
民族意識の稀薄さはここからも生じた︒民族的交流が疎であったことは︑当然文化的にも異民族から影響されるとこ
ろが少なく︑それだけ日本民族に特異な風俗習慣を形成したということである︒
中国の階︑唐には使節の派遣があり︑それらがもたらした文物とその影響には大きなものがあった︒しかし中国語
は単に文字としてのみ取入れられ︑ついに中国語そのものが普及するにいたらなかったことは︑大陸の諸民族におい
ては考えられぬことである︒それら新来の文物も︑日本民族の基本的生活様式を変えるにいたらなかったことは︑奈・
良平安の宮廷が︑その外観や調度品ならびに服飾を︑いちじるしく中国化しても︑食生活や日常の起居の様式を変え
ることがなかったことでもしられる︒
日本ナショナリズムの特色とその土壌
中国との交渉もそれが文化的なものに限られ︑概して政治的意味をもつことがなかったことも注意されねぽならな
い︒ 徳川幕府の鎖国政策は︑ようやく頻繁になろうとした海外諸国との交流を政治的に隔絶したもので︑異質文明によ
ってその内容を豊かにし︑部分的には質的向上をもたらしたこともあるが︑ともかく日本の文化の独自性の形成には
大きな役割を果した︒
このような長期にわたる人種的隔絶と文化的隔絶とが︑日本人にもたらしたものは何であったろうか︒それは矛盾
する言い方であるが︑一つにはその独自な生活慣習や文化に対する自負と執着とであり︑二つにはそうでありながら
異質の文明に接した場合︑それが自国のそれに比して優越していると感ずれば感ずるほど︑いだくところの劣等感で
ある︒ かつてペリー提督の一行が︑はじめて久里浜に上陸した時︑彼らは幕府への献上品として︑ピストル︑ラーイフル︑
サーベルのような銃剣類から︑電信機や汽車の模型および書籍︑絵画の類にいたる多数の品々を贈った︒これらの品
々を眼にした日至人はことごとくその精巧さに驚き︑なかんづく電信機や︑実際にレールを敷設して走った機関車の
威力には︑これに試乗した役人が恐怖の色をまじえて歓喜したという︒これに対する返礼として幕府が贈ったもの
は︑屏風︑扇子︑蒔絵製品︑および陶磁器の類であった︒しかしそれらを受取ったアメリカ人は︑日本のようなアジ
アの辺阪に︑このようなすぐれた美術品のあることに一驚したという︒
考えてみるとこの両者は文化の質を異にするもので︑元来比較することのできないものである︒すなわち一は戦乱
の間に精鋭を競った結果としての実用的武器の類であり︑一は平和の間に形づくられた美意識の表現でもある日用品
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である︒それはともかく︑右の例が日本人の異質文明に対する劣等感の現われであるとすれぽ︑自負心のそれは尊王
論者擾夷論者とよばれた者の言動から︑ひいては国粋主義者とよばれた︑後の人々の言動にこれをみることができ
る︒ 時計の振子のように絶えず左右するといわれた日本人の動向の変化は︑このような自負心と劣等感との交互作用で
あるともいえよう︒すなわち自負心は日本人の危機意識の表現であり︑劣等感は挫折感の表現であり︑時に平和の反
映でもあるといえよう︒
異民族に対する態度はどうであろうか︒自からが民族意識をもたぬということは︑異民族に対してもそうであるだ
ろうか︒古くは蝦夷人や帰化人に対する処遇が︑日本人の民族的差別観のない証拠としてあげられてきた︒﹁︵長谷川
伸はその著﹃日本捕虜誌﹄の中で︑日清︑日露の両石における敗者に対して︑日本人がいかにこれを優遇したかを︑
力をこめて記している︒︶
開国前後の日本を訪れた欧米人は︑日本の一般民衆が彼らと何の隔意もなく︑友好的に交流したという事実を書き
のこしている︒ ︵ペリーの﹃日本遠征記﹄やハリスの﹃日本滞在記﹄にもそれらの叙述がある︒︶
しかし近代にいたっては︑日本人がその周辺の諸民族︑わけてもアジアの諸民族に与えた数々の蔑視︑虐待︑虐殺
の例をわれわれはあまりに多く知っている︒私はこれを近代以後における日本人の人間観の変化の所産とは思わな
い︒むしろそれは異質文明に対する場合と同じように︑相手に対して自己の優位を誇り得る場合に生じたもののよう
である︒ ︵最近の日本人の中国観の変化とも関連づけて考えられることである︒︶
しかし人種的ないし民族的差別観は決して日本人にだけ特有な傾向ではない︒アメリカにおいてもなお黒人問題は
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日本ナショナリズムの特色とその土壌
解決しがたい大きな問題である︒鯖田豊之氏の説くところによれぽ︑ヨーロッパ人の考えの中には︑ヨーロッパ人と
非ヨーロッパ人︵有色人種︶を厳密に区別し︑しかも同じヨーロッパ人の中でも︑キリスト教徒と非キリスト教徒と
の間を峻別し︑それら被差別集団に対する態度は動物に対するそれに類似し︑彼らのいうヒューマニズムの対象には
ならないという︒ ︵同氏の﹃肉食の思想﹄参照︒なお会田雄次氏の﹃アーロン収容所﹄の中にはその実例をあげてい
る︒︶ヨーロッパ人の唱える人間の平等は︑このような現実に対する一つの理想であり︑ 一種の解毒剤的な役割を果
しているともいえよう︒アメリカのアジア政策の根底にもそれを感ぜしめるものがあるし︑最近︑ ﹁頭ごし﹂といわ
れる独走的な政策の推進の仕方にも︑国家的利害の問題とは別に︑かかる民族的差別観に生ずるのではないかという
危惧をいだかせるものがある︒
私がここに日本人の特色としてあげたものは︑ヨーロッパのように根強いものでも︑また宗教にもとつくものでも
なく︑むしろ島国という特殊性から生じたナイーブな民族意識が︑ナイーブなだけに︑時に極端な差別となって現わ
れるということを指摘したまでである︒
さてこれまでは島国のもつ地理的条件としての︑孤立性を中心に考えてきたのであるが︑通信交通の発達した段階
以後においては︑島国はむしろその有する開放性の方を顕著にする︒陸上交通よりも︑河川や海を利用しての水上交
通の方がより便利なものであることはいうまでもない︒蒸気汽船の発明以後︑日本はもはや世界から孤立した島帝国
ではあり得なくなった︒日本の近海に次第に多くの外国船の影を見︑欧米諸国が競って開国を求めて日本を訪れる︑
十九世紀初頭以来のすう勢は︑他にいろいろな原因のあったことは勿論であるが︑蒸気汽船の発達と軌を一にするも
のである︒
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このような島国のもつ開放性に︑いちはやく日本の軍事上の危機を見てとった者は林子平である︒彼はその﹃海国
兵談﹄の中で︑ ﹁細かに思えば江戸の日本橋より唐︑阿蘭陀迄息なしの水路也︑然るを此に不備して長崎にのみ備る
は何ぞや﹂といっている︒この平なしの水路という発想が︑海防論︑すなわち大砲の鋳造︑砲台の構築︑軍艦の建造
という︑海からの外敵に備える︑新しい国防論を展開するにいたるのである︒それが日本のナショナリズムの大きな
推進力ともなり︑封建制度を廃して中央集権制樹立の志向にも連なるのである︒そうしてそのような海防論的発想が
その後の日本の国防の基本方針になったことも注意されなけれぽならぬ︒
とよあしはらのちいほあきのみずほのくに また︑かつての日本は豊葦原千五百秋瑞穂国といわれ︑適度の気候と穀物の豊饒を誇っていた︒少なくとも近代に
いたるまで︑日本人は領土の狭温と天然資源の貧困を意識することはなかった︒しかも近代の膨張論者は︑対外進出
の理由として︑いずれもこの両者に人口の過剰を加えてこれを強調した︒かつて世界の動乱から隔離され︑平和な自
給自足の安定した生活を人々に保証した島国は︑今や一転して︑それが日本の貧困と後進性とを宿命づける栓桔とな
った︒そうして大陸への進出のみがそれを脱却し得る方策として︑日本ナショナリズムの当面の目標となるのであ
る︒
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めずらしい単一民族国家
特異なB本ナショナリズムの土壌の第二としてあげなければならないのは︑日本が世界でめずらしい単一民族国家
であるということである︒
勿論︑今日の日本はその国民として少数のアイヌ民族や︑帰化人という形でいく多の異民族を包含している︒しか
日本ナショナリズムの特色とその土壌
し国民の大多数をしめるものは日本民族である︒すなわち皮膚の色をはじめ︑rその身体的特色をほぼ共通にし︑日本
語を語り︑歴史を共有する日本民族が︑日本国民の大部分をしめている︒日本においては︑民族と国民とが全くとい
ってよいほど同義語に用いられるのはこのためである︒日本中いたるところ︑方言の差はあっても︑単一の日本語が
通用する国である︒国民の中にいくつかの異民族を含み︑それらがそれぞれ国民の中で少なからぬ比率をしめ︑種々
複雑な問題を提起しているというのが︑世界の国々の通例であるといっても過言ではない︒ ︵国内に数十の異民族を
ふくみ︑したがって数十の異なる言語が使用されている︑インドの複雑な事情については︑堀田善衛氏の﹃インドで
考えたこと﹄の中にくわしい︒︶
しかも日本のこのような状態は︑異民族との抗争や︑土着民族を排除した結果として成立したものではない︒それ
はこの島々に国家が形成された︑いわば建国以来の状態である︒二千年に近い建国以来の日本の歴史には︑何ら異民
族の歴史も︑異民族による支配の歴史をも含まない︒それは単一の日本民族の歴史であり︑日本国民の歴史でもあっ
た︒このような歴史の共有およびその回顧が民族の結集力となったことはいうまでもない︒時計の振子といわれる︑
国民の一致した動向の急激な変化は︑乙のような国民の団結力と志向の単一性にもよるのである︒各時代の戦争にお
いて︑比較的容易に国民世論の結集ができたのも︑日本語という単一の言語の使用と︑通信︑交通︑印刷の発達とが
もたらしたものであろう︒そうしてそれは現代における国論の多様な対立についても言えることかもしれない︒
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特異な皇室の存在
25日本のナショナリズムが国体を中核とするものであったことは︑前にものべたが︑天皇に対する忠誠や皇室中心主
義が強調されなかったことは︑ナショナリズムの展開過程において︑かつて一度もなかった︒戦後におけるナショナ
リズムに対する否定的見解と︑天皇制の改廃をめぐる議論とが︑ほぼ期を同じくして行なわれたのもそのためであ
る︒しかし敗戦という歴史あって以来の深刻な事態の中にあっても︑天皇の戦争責任および天皇の退位は︑一部の論
議の対象にはなっても︑それ以上には追求されることも︑また実現することもなかった︒これを単に日本人の優柔不
断さに帰するのは誤りである︒新しい日本国憲法の規定によって︑天皇の地位は主権天皇から象徴天皇に変質したと
いう︒しかし変質したという天皇に対する日本国民の敬愛の態度は︑戦前も戦後も変るものではない︒ ︵国民統合の
象徴という︑新憲法の規定する天皇の地位こそが︑歴史的にしめてきた天皇の地位であって︑新憲法によって天皇の
地位が変ったというのは皮相な見解である︒むしろ一切の政治的責任を天皇に帰し︑ごとごとに天皇大権をふりかざ
した明治以後の憲法の規定や政治の運営が︑歴史的には異常な一時期をなすのである︒今日でも批判の対象となる︑
いわゆる天皇制なるものは︑古来からのものではない︒明治政府の成立とともに形成され︑新憲法の成立をもって消
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滅したものである︒︶
かつての日本においては︑少なくとも戦前まで︑国家と天皇とは同じものであった︒天皇のためにということは︑
国のためにということと同一であった︒国家が天皇という一個人によって代位されたのである︒国民の利害も国家的
利益も・すべて天皇の耳に集約されていたといってもよい︒さらに国民は天皇の赤子といわれ︑その関係は西欧風
に権利と義務とをもって律することのできない︑血縁的ともいうべき親近な関係であるともされてきた︒このような
め へ む天皇ないし皇室の特異な地位と︑国民との特殊な関係とは何に由来するのであろうカ
それは一言にしていえぽ日本の統一的支配者としての天皇が︑同じ日本民族の中から出て︑平和のうちに︵武力征
日本ナショナリズムの特色とその土壌
覇によらず︶その地位に就いたという歴史事実によるところが多い︒
世界における国家形成の歴史を見ると︑一民族の他民族に対する武力征覇の結果によることが多い︒したがってそ
の統治は武力による異民族支配である︒そのような場合︑君主は軍事︑政治︑経済の独裁者であり︑国民に対する権
利の一方的主張老である︒ ︵この一方的権利を天命によるといい︑あるいは神の授けるところといい︑種々な合理化
が行なわれたことは︑世界の歴史の示すところである︒︶国民にはこのような君主に対する服従の義務だけが強制さ
れた︒このような苛酷な支配被支配の関係を改め︑権利と義務の内容をそれぞれ規定し︑主として被支配者側からの
圧力によって︑権利の濫用を規制する契約を結ぶにいたったものが︑西欧における立憲政治のはじまりであることは
いうまでもない︒
剣によって思った者は剣によって滅びる︑というたとえのように︑このような武力的支配は︑別の新しい武力によ
って倒される危険性に絶えずさらされていた︒このような君主は︑いずれも深い壕と高い城壁とによって取り囲まれ
た城郭の中に住んだ︒わが国における武将が築いたそれぞれの城も︑その例外ではない︒
しかし日本の皇居はどうであろうか︒現在も残っている京都御所の遺構をみてもわかるように︑外部からの武力攻
撃に備える︑何らの軍事的施設をもたない︒ ︵現在の皇居は戦国時代の武将の居城を利用したもので︑ここでの議論
の対象にはならない︒︶壕も城壁も銃眼もなく︑土塀をもってその境を画しているにすぎない︒いわば個人の住居の
規模を拡大したものにすぎない︒しかし歴史の示すところでは︑この皇居に突入して天皇に危害を加えようとした者
も︑またこれに代ろうとした者もない︒ ︵蛤御門の戦い1禁門の変といわれるものが︑薩長の政治抗争によるもの
で︑皇室が攻撃の対象でなかったことはいうまでもない︒︶
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イギリスの王宮であるバッキンガム宮殿も︑ヂョージ三世がかつて宮殿とその名を同じくする臣下から購求したも
ので︑現在のような形をとったのは十九世紀中ごろからのことである︒城郭と住宅との関係は︑ちょうど日本の場合
と逆な経過をとったものといえよう︒
皇室が日本民族という同一民族の中から出て︑平和的にその地位を占めたということは︑古事記や日本書紀のよう
な皇室起源説話の記すところによっても明らかである︒ ︵ここでは︑古事記や日本書紀が特定の意図をもって︑特定
の作者によって作られた説話であって︑いわゆる神話ではないとする︑津田左右吉博士の説に従うことにする︒︶記
紀は日本の建国の具体的な歴史事実を記すものではないが︑それは建国の事情や︑当時における日本人の思想を示す
ものである︒したがって記紀によって建国の事情を推測することは学問的に何ら不当ではない︒記紀の記すところで
は︑皇室は日本の国土に起源をもち︑多少の戦闘はあっても︑大規模な民族的抗争があったとは考えられていない︒
︵津田博士は皇室の大和起源説をとり︑したがって記紀の記す神武東征の説話も歴史事実に反するものであること
を︑綿密な考証の結果これを実証している︒︶平和的にということは地方豪族の服属が︑多くの場合︑戦闘にいたる
以前において話合いによって決まり︑皇室による国家の統一後も︑それら地方豪族が国造︵くにのきみ︶という形
で︑かつての政治的経済的社会的諸地位の存続を認められていることによっても分る︒皇室に対する最大の対抗勢力
であったと思われる︑出雲部族が後々まで皇室から特別の処遇をうけたことはこれを示すものである︒ ︵出雲大社の
宮司千家家は出雲国造の子孫であり︑現宮司千家尊祀︿せんげたかとし﹀氏は八十三代目の出雲国造に当るという︒
千家尊統著﹃出雲大社﹄参照︶
つぎに問題になるのは︑それでは皇室がなぜ平和的に日本の支配者としての地位を占めたかという︑その理由であ
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日本ナショナリズムの特色とその土壌
る︒それは文献の示す歴史事実の考究よりも︑民族心理学や民俗学︑土俗学︑あるいは人類学等の︑今後の研究の成
果にまたなけれぽならないものが多いと思われるが︑推測され得る一つの理由は︑皇室が人々の宗教的尊崇をうけ
る︑権威的存在ではなかったかということである︒人智の未発達な古代において︑人々はその日常生活の原理を︑超
自然的な威力の啓示に求めることが多い︒シャーマニズムの例でも分るように︑この場合︑超自然的存在と人間との
間にあって︑両老の媒介的役割を果すものが存在する︒巫祝︵ふしゅく︶ともいうべきものがそれである︒日本民族
のような農耕を主とする民族にあっては特にその必要性があり︑その職掌が人々の尊崇を集めたと思われる︒なぜな
らば農耕は播種から収穫にいたるまで︑たえず自然と人間との戦いであったから︑それだけ︑かかる巫祝的存在を通
じ︑超自然畜力の啓示をうけ︑豊饒を願う人々の願望も︑かかる巫祝を通じて超自然的力に達せられるとされたから
である︒皇室の祖先はかかる職掌を世襲し︑その故に人々の尊崇を集めたものと推測される︒
推測される第二は︑右との関連において︑皇室の祖先が農耕の指導老であったであろうということである︒
われわれは毎年六月︑田植えのころになると︑天皇が吹上御苑の水田において︑自から田植えをされる光景を新聞
紙上において見ることがある︒戦時中は︑この皇室の行事をもって︑天皇が民の労苦をしのぼれるためのものである
ともいわれた︒しかし農民の労苦を体験される行事としては余りに形式的にすぎる︒天皇自からが田植えをされると
いう︑この皇室の年中行事の意味は︑そんなところにあるのではなく︑稲作をすることそのことが皇室の世襲的職掌
である︑という歴史的事実を今日に伝えるものではなかろうか︒
戦後新たに制定された国民の祝日の中では︑その影がうすくなってきたが︑戦前の祝祭日の中には︑農耕に関する
ものが割合に多かった︒すなわち神嘗祭︵かんなめさい︶新嘗祭︵にいなめさい︶はそれぞれその年の新穀を神に捧
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げ︑あるいは天皇自からが召し上る日であった︒一月一日の四方拝も︑年の始めに当って︑天皇がその年の五穀の豊
饒を四方の神々に祈る日であった︒春秋二期の皇霊祭も︑皇室の祖先の霊を祀る日ではあったが︑それも五穀豊饒の
祈念をふくむものであったろう︒
戦前の登極令︵とうごくれい︶が︑天皇の即位を﹁秋冬ノ間二佐テ之ヲ行フ﹂と定めたのは︑即位の礼の後に行な
われる大嘗祭との関連においてであったろう︒大嘗祭というのは︑天皇が即位の礼の後に︑初めて行なう新嘗祭で︑
主意︵すき︶悠紀︵ゆき︶の両田から収穫された新穀をもって︑天照大神および天神地鼠を祀る神事の最大なるもの
である︒しかもそれによって︑践柞にはじまる新帝の天皇たるの地位が完成される重要な儀式である︒このように新
帝の地位が新穀をもってする儀礼によって定まるという︑皇室に伝わる古代からの慣習は︑皇室と農耕との深い関係
を物語るものである︒ ︵私はかつて宮内庁図書寮が所蔵する︑現陛下の大嘗祭に関する記録写真の集成を一覧し︑そ
の神秘的で︑しかも規模の宏壮さにおどろいた経験がある︒︶
このように元来が宗教的崇拝の対象であり︑農耕の指導者でもあった皇室の祖先が︑国家の統一的支配者となるに
当っては︑多少の武力が行使されたと考えられるが︑それは前にも記したように︑ほぼ平和的経過をとって進められ
たものと考えられる︒統一的支配者としての天皇も︑祭政一致が日本政治の理想とされたように︑宗教的祭祀が主で
あり︑現代的意味における政治的要素は少なかったと思われる︒政治は常に大臣︑大連によって行なわれ︑天皇は単
なる国家統合の象徴として存在し︑政治的決定権も︑後嗣の選定権すらもなかった︒そのような天皇の特殊性は︑中
国の制度に模した律令制度によっても変るところがなかった︒それは中国の令の制度にもない太政大臣を置き︑そこ
で一切の政務を処理したからである︒このような令の制度が次第に行なわれなくなり︑摂政︑関白から上皇︵院政︶
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日本ナショナリズムの特色とその土壌
をへて︑武人たる将軍によって政治が運営されるようになっても︑天皇自からが政務をとらないという︑古来からの
伝統には変りはなかったからである︒新憲法の規定する国民統合の象徴としての天皇の地位が︑日本歴史における伝
統的天皇の地位であるといったのはこのためである︒実際に政治的権力も軍事力も経済力ももたない天皇が︑時々の
治乱興亡の責任を追求されることがないのはいうまでもなく︑皇室が今日にいたるまで︑長くその地位を維持してい
る理由の大なるものの一つはここにあろう︒ ︵このような皇室の特殊性と︑その恒久性の由来については︑津田左右
吉著﹃目本の皇室﹄にくわしい︒︶
明治維新が理想とした神武創業の昔とか︑その後の国家主義者が強調した天皇親政なるものが︑歴史的事実に反す
る︑架空の事実の再現を企図したものであることは︑この点からも明らかである︒
このように天皇は︑武力質量によってその地位を獲得した︑他の諸国の君主のように︑国民に対して武力を行使し
たり︑苛欽諒求を行なうことはなかった︒それぽかりではなく︑多くは政治の局外にあり︑時々の政権の争奪とも無
関係であった︒ ︵建武中興にいたるまでの朝廷対幕府の抗争時代は例外と考えられる︒いわゆる南北朝の対立も︑そ
れぞれの朝廷の背後にある武士勢力の争いと見られる︒︶しかし国家統一および国民統合の象徴としての天皇は︑戦
国時代や幕末のような国内分裂の危機に際して︑常に統一の中心となる役割を果してきたのである︒
このような日本における天皇の特殊性によって︑日本は皇室を宗家とする︑一大家族国家であり︑義は君臣にして
情は父子という︑特異な支配被支配の関係が生じた︒しかもそのような特殊性の強調はしばしば国民の天皇に対す
る︑無限奉仕と︑一方的献身とを美徳とする倫理を生んだ︒また権利義務の観念をあいまいにする傾向すら生んだ︒
われわれの日常の体験においても明らかなことであるか︑血縁者をもって成立つ家庭内において︑それぞれ権利や義
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務を主張し︑これを維持することは困難なことである︒そうしてともすれば親の権利と子供の義務だけが強調されか
ねない︒一大家族国家を誇示する日本においても︑それは例外ではなかった︒古くは大化の改新から近代の廃藩置県
および戦中︑戦後の政治的︑経済的︑社会的変革の数々は︑国民の権利義務の観念の明確な欧米においては︑日本に
おけるほど容易に︑そうして短時日の間に成就されはしなかったであろう︒川島武宣氏が︑日本の現行法規に義務規
定のみが多く︑権利の規定の少ないことを指摘しているが︑右のような事情と関連して考えられるところであろう︒
︵川島武宣著﹃日本人の法意識﹄参照︶
西欧のように︑古いことが価値あるものとされるところにおいては︑君臨すれども統治せずの原則の下に︑君主制
が定着している国々もある︒しかし新しいことに価値を求め︑古いものや伝統を破壊して止まない傾向のある日本人
が︑歴史的存在としての皇室の意義をかえりみなくなるような時がくるかどうか︑それは国民の叡知に委ねられるべ
き問題である︒しかし天皇本来の在り方が正常な軌道にのせられた今日︑それを架空の歴史事実にもとつく虚像とし
て︑政治圏内に引き入れ︑天皇絶対や万邦無比の国体を云々して︑国民の義務のみが強制されるような事態は︑これ
を再びあらしめてはなるまい︒
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長い封建的支配の影響
日本ナショナリズムの土壌の第四としては︑日本における長期にわたる封建的支配の影響をあげなけれぽならな
い︒封建制度には色々な面があるが︑日本ナショナリズムの土壌として注目されるのは︑それが士農工商という身分
制社会であり︑また軍事︑政治︑経済の各分野において︑それが国内における割拠の体制であったということの二つ
日本ナショナリズムの特色とその土壌
である︒ 士農工商の身分制社会ということは︑武士を支配者とする武士中心の社会であるということである︒かりに封建制
度を戦国時代以降に形成されたものとしても︑それ以前︑少なくとも鎌倉時代以降は新興勢力である武士が︑公家勢
力を次第に浸議していく過程であったから︑それをも含めて︑日本における武士支配の歴史はきわめて長いものであ
るということができよう︒ ︐
武士支配ということは︑武士が絶対の権力をもって民衆に服従を強いたというだけではなく︑一方においては武士
が民衆の儀表として尊敬され︑武士に特有な倫理やその風尚が︑そのまま民衆にも必要な倫理︑風尚として浸透して
いったということである︒武士支配の社会が武士中心の社会であるというのはそのためである︒すなわち武士におけ
る主従の関係は︑民衆における親子や親分子分の関係から︑且那と番頭︑手代の関係にまでふえんされ︑下の者の上
の者に対する献身が求められたのである︒また武士が戦場における生命をかけての戦闘に備え︑絶えず武術をねり︑
また質素を旨とする生活態度や︑戦場における勇気や︑卑怯をいやしむいさぎよさ等は︑すべて民衆においても最高
の倫理とされた︒商人の活動が戦場における武士のそれに対比されたのもそのためである︒武術の鍛練が単なる敵を
倒す手段としてぽかりでなく︑人間形成の重要な手段として︑武道といわれ︑尊重されたことは︑尚武の精神を好ま
しいものとして一般に普及させることにもなった︒
これは近代において軍人を指導階級とし︑軍人のすることに誤りがないという︑軍人に対する民衆の絶対的な信頼
となって現われた︒それは徴兵制による近代的軍隊の育成に当って︑当局者が︑軍人は昔日の武士であるとし︑軍人
に武士の倫理を求め︑民衆に対する儀表として︑その誇りをもたせるようにしたという︑その指導方針によるところ
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も大であった︒敗戦にいたるまでの四十四人の総理大臣のうち︑重任をふくめて二十人までが軍人であったことは︑
このような国民の一般的傾向と無関係ではなかったろう︒そうしてそれは昭和初頭以来︑次第に顕著になった軍人の
政治介入を暗に助長し︑ついに国を誤るにいたった経過とも無関係ではない︒平和的外交折衝よりも武力解決︑平和
的進出よりも武力進出が︑常に国民大多数の喝采をはくしたのも︑事情は同じである︒日本のナショナリズムが常に
尚武の精神をもっていうどられ︑軍人との提携によって実践化されていった大きな特色も︑その原因はここにあった
と思われる︒
また︑封建的ないわゆる割拠の体制は︑中央集権国家の成立後も︑国家意識ないし国民意識の成立を阻む障碍とな
った︒かつての封建領主に対する忠誠を︑天皇に集中することによって︑初めてそれは成功した︒絶対君主としての
天皇の意義が事あるごとに強調されたのそのためである︒先に︑いわゆる天皇制が近代の所産であるといった理由も
ここにある︒
封建割拠の体制が近代的な国家意識の形成を阻んだことは以上のとおりであるが︑この割拠の体制が近代国家に必
要な諸要素をその中に重くんでいたことも事実である︒軍事的にも︑また政治︑経済的にもほぼ小国家の形態をとっ
ていた諸藩が︑その領国を中心に勢力の培養につとめたことはいうまでもない︒それら各藩ごとの勢力培養の努力
が︑全体として日本の勢力を増大向上させるとともに︑絶えず他の勢力を意識しての競合の努力は︑やがて統一国家
の樹立後︑おのずから他民族他国家との競合の姿勢に転じうるからである︒
かつて島崎藤村は︑ヨーロッパへの往復の途次において痛感した︑日本を除く︑中国︑東南アジア︑インド︑中近
東地方における近代化のおくれの原因を模索し︑帰国後それらの諸国が︑日本の経過した封建制度の時代をへていな
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日本ナショナリズムの特色とその土壌
いことに思い当り︑ ﹁吾国の今日あるは封建制度の賜物であるとも言ひたい﹂といっている︒︵﹁故国に帰りて﹂大正
五年九月五日︑朝日新聞︶藤村のいう封建制度の賜物の中には︑その間に形成された日本に独自なもの︑西欧文明を
咀噛し得た知的能力︑あるいは植民地化を免れ得た自国意識等々を含めたものであったろうが︑その文学者らしい直
観には示.唆されるところが多い︒
このようにみてくると︑江戸時代の封建制度がいかにも固定したもののように思われるが︑決してそうではない︒
普通︑封建経済といえぽ︑農業中心の自給自足的封鎖経済をさすが︑江戸時代の中期以後においては必ずしもそうで
はない︒農村においても商品作物が栽培されたばかりでなく︑手工業も発達し︑種々の製品が作られ︑したがってそ
れらを取引きする商業も行なわれ︑その範囲はほとんど日本全国におよび︑すでに全国的な市場が形成されていたの
である︒社会的にも民衆の勢力の増大はいちじるしく︑その身分制社会も実質的には崩壊しつつあった︒教育も武士
だけに限られたものではなく︑一般民衆の知的水準もかなり高度なものになっていた︒今日︑日本の近代化を問題に
する場合︑近代以前のいわゆる封建制度を余りに固定したものと考えると︑その急速な西欧化の過程が説明できない
ものとなる︒そのような観点から江戸時代の再検討が行なわれ︑ ︵主として外国人の手によって︶その結果明らかに
なったことは︑江戸時代を封建制度という固定した概念をもってしては律することができないということである︒そ
れは先にあげた︑いくつかの事例によっても明らかであるが︑いわゆる幕末の志士の活動が︑藩というワクをこえ
た︑全国的交流の上に立った運動であったことも指摘することができよう︒さらに︑封建制に対する批判的な諸思想
が莇善していたこともあげることができよう︒ ︵これらについては︑M・ジャンセン編︑細谷千博編訳﹃日本におけ
る近代化の問題﹄所収の諸論文の中にくわしい︒︶それらはいずれも日本の近代化があたかも木に竹を継いだように︑
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封建制を一変して近代化の途をたどったものではなく︑すでに封建制の中において︑近代化に必要な諸要素が準備さ
れていたことを示すものである︒したがって日本の近代化を考える場合︑それ以前の封建制の在り方を再検討してみ
ることの必要なことはいうまでもないが︑ここで日本ナショナリズムの土壌として封建支配からの影響は︑必ずしも
それとは矛盾するものではない︒なぜならここで主として問題にしたのは︑長い封建制度の中において次第に馴致さ
れたいくつかの傾向についてであって︑流動化する封建制度とは別の問題であるからである︒
Rβ
む
す
び
私はこれまで近代日本におけるナショナリズムの展開過程を︑事実に即して考察することを主としてきた︒その間
にあって︑このような日本のナショナリズムは他国におけるナショナリズムとその特色を異にするのではないかとい
う疑問をもつようになった︒同時にそのような日本的特色は何に由来するのであろうかということを考えつづけた︒
よく日本人を他国民との比較においてその長所短所を指摘することが行なわれている︒しかしその大部分は単なる
現象面だけを捉えての議論であるが︑印象批評の域を出ないものが多い︒少なくとも一つの国民の思想や行動にはそ
の背後に必ず歴史と伝統とがあり︑それがたまたま現象として捉えられるのであるが︑現象面にだけ呪われると︑そ
の現象の正確な把握すら誤まることが多い︒
歴史学はこのような思想や事物の推移の過程を研究の対象とするものであるが︑一国民の国民性とか思想動向とか
ということになると︑狭義の歴史学における文献批判という方法だけでは究明できない︒本文中にも記した種々な学
問分野が動員されなけれぽならない︒適確な学問的な方法によらなけれぽ︑それは単なる思いつきか︑類推の範囲を
出ないものとなってしまう︒
私なりにまとめてみた日本ナショナリズムの特色ないしその背景といっても︑厳密にいって試論の域を出ないもの
である︒あるいは単なる臆測として批判をうける部分もあるかと思う︒それは今後さらに資料を整備し︑思考を重ね
ることによってより完備したものにしたいと思う︒しかし戦後二十数年をへて︑ようやく日本のナショナリズムが一
つの転換点に立ったと思われる昨今︑その将来の展望に︑いささかでも役立てばと思うものである︒もっともよりよ
き展望のためには︑敗戦という事態によって生じた︑日本ナショナリズムの大きな変質にふれなければならないので
あるが︑それはいずれ機会を改めて記したいど思う︒
日本ナショナリズムの特色とその土壌
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