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近江商人小森久左衛門家の経営

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近江商人小森久左衛門家の経営

著者 末永 國紀

雑誌名 經濟學論叢

巻 64

号 1

ページ 300‑260

発行年 2012‑07‑20

権利 同志社大學經濟學會

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013732

(2)

  ︵ 【論説】

    近 江 商 人 小 森 久 左 衛 門 家 の 経 営

末   永   國   紀    

    目  次       はじめに     一  小森家当主の略伝        1  初代新八        2  二代目久左衛門        3  三代目久左衛門        4  四代目久左衛門        5  五代目久左衛門と六代目久左衛門        6  会社形態への移行     二  経営状況     三  奉公人・店員のあり様       むすび

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  ︵

        は  じ  め  に   関東平野は雄大である︒その真ん中に位置する埼玉県東部の現地に立つと︑西のかなたに秩父の連山がかすかに遠望できるだけであり︑あとは一面の平野である︒そのなかを荒川と利根川の二大水系が流れている︒

  この平野部に︑近江商人︑なかでも近江国蒲生郡日野周辺を出身地とする行商人の姿が見られるようになるのは︑江戸中期の一八世紀半ば頃からである︒持 り商いという行商で成功すると︑要地を選んで出店を構え︑彼らの多くは二大水系に沿って醸造業を営んだ︒藤崎宗︵摠・惣︶兵衛・高井作右衛門・鈴木忠右衛門・矢尾喜兵衛・吉村儀兵衛・

野田六左衛門・西村市郎右衛門・辻善兵衛・藤沢茂右衛門などである

  騎 西町︵現・埼玉県加須市︶において現在も盛業中である酒造業㈱釜屋の元祖の初代小森新八もその一人である︒二代目以降の当主は小森久左衛門を襲名する︒本稿の目的は︑この小森久左衛門家の江戸期から昭和前期にいたる経営の推移を︑当主略歴・経営状況・奉公人のあり様の三側面から考察しようとするものである︒

        一  小森家当主の略伝    1  初代新八   新八は︑近江国蒲生郡日野大谷村の農家の次男として生れた︒寛延年間︵一七四八〜五〇︶に持下り商いを開始し︑関東との間を往復した︒宝暦五年︵一七五五︶に利根川水系の武蔵国埼玉郡騎西町町場に釜屋新八の屋号で出店を開いた︒

(4)

  ︵   目が参考になる︒六代久小森状左衛門が明治一四況出の指新八が持下り商いを目し地た動機については︑身年

︵一八八一︶に著した﹃近江国蒲生郡大谷村地誌﹄︵#4-152︶

︒轄滋賀県管の下となった 氏りあで地領の仁橋市藩寺正明は︑西治・て経を県津大県に路大時てっな代戸八一東西町︑南江北一町の村である︒ 松野日︑は田村谷大ばれ村尾村︑山本村︑上野にに接し︑よ

  土地は高低があり︑水利に不便な地形である︒田地二六町六反余︑畑五町九反余︑山六〇町八反余などからなる総計九七町四反余である︒人戸は︑戸数三四戸︑人口一四六人であり︑そのうち農業者が三一戸︒物産は米と茶である︒この小さな集落は︑大谷山の山麓に集中している︒

  大谷村の江戸時代の様子は︑明治一四年頃と大きくは異ならなかったであろう︒この山村の農家の次男に生まれた新八が関東行商を目指したのは︑野田村の野田金平︵六左衛門︶家や中在寺村の矢尾喜兵衛家の初代が商界を目指したのと同じ時期である︒また︑日野松尾の高井作右衛門︑大窪の中井源左衛門は新八の一世代前の近村の先達であるから︑新八が行商によって立身出世を目指したのは不思議ではない︒

  新八の商いについては︑宝暦六年から始まる店卸を記した表紙のない勘定帳︵

# 3-1 1

︶と︑表紙に﹁明和三年正月吉日  手鑑﹂と書かれた宝歴六年からの店卸しを記録した勘定帳︵#3-22︶がある︒宝暦六年の店卸しの内容は次の通りである︵両未満の数字切捨て︶︒仕入れ金一七二両に対して︑雑貨販売高一二〇両︑水油販売高一六両︑繰綿売り上げ三五両︑掛け売り残り七両︑在庫三四両と出入高三一両の二四五両である︒そのうち諸方からの預かり金が二二両と大工手間賃金が二両あるので︑正味は二二〇両と計算している︒経費は小払いが二二両と駄賃が三両であり︑差引一九五両となる︒仕入れ金に対して二五両の純益である︒初代新八の代にはいまだ酒造業を開始していない︒

  なお︑﹁明和三年正月吉日  手鑑﹂には符丁が記してある︒それは﹁シロ子スミ宇ラ仁伊利﹂であるが︑後に﹁ア

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  ︵

キナイノシヤ和せ吉﹂に取り換えたという注記がある︒

   2  二代目久左衛門   新八は︑明和二年︵一七六五︶一月六日に二八歳で病死した︒妻帯していなかったので︑兄の久左衛門が近江から駆けつけて葬儀を営み︑騎西の淨楽寺に葬った︒弟の跡式を調べた久左衛門は︑店を閉じることなく︑自ら二代目として経営を引き継ぐことにした︒以後︑屋号も釜屋新八を受け継いだ︒

  釜屋新八は︑明和五年に酒造業と質業を開始した︒酒造業の借り受け証文を左に掲げておこう︵釜屋家文書#00-002︶︒

      入置申証文之事    一  貴殿於騎西町ニ数年造酒被成候処ニ︑此度勝手合を以商売御休被成候ニ付︑酒蔵并ニ添家釜屋︑其外大桶諸道具別紙帳面之通︑拙者当子八月来ル辰八月迄五ヶ年借請申所実証也︑右借代として壱ヶ年金五両二歩宛ニ差出シ可申候

   一  当子借り代金半金︑当時相渡︑残金来丑ノ八月朔日ニ相渡可申候    一  丑年分八月朔日子ノ残金一所ニ相済可申候︑翌寅辰年迄︑右之割を以無滞八月朔日ニ急度相済可申候    一  酒蔵屋根修復萱替等︑貴殿御繕可被成候    一  桶輪替其外諸道具破損仕候ハヽ︑拙者修復繕可申候     右之通少も相違仕間敷候︑尤来辰八月朔日別紙帳面ニ引合︑返却可申候︑若諸道具之内︑大破候物出来候ハヽ︑

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  ︵ 借︑為後日文請証︑仍如候申可帳新規仕渡立面引合不残引件

       騎西町       借主  新八印       明和五年子八月        同町証人  弥左衛門印       同       証人  源介印       上絵下村         貸主  金兵衛殿           同         組頭  伊右衛門殿           騎西町         組頭  七左衛門殿        源兵衛殿        権右衛門殿        三左衛門殿   二代目は︑酒造業を休業していた隣村の上 絵下村の金兵衛から明和五年八月より五年間の契約で酒造場を借り受

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  ︵

けて酒造業を開始したのである︒酒造業の借料は一年に付き五両二分であった︒翌年には︑その三石の酒造株とともに︑酒造場と酒造道具一式を三二両で買い取った︒その酒株譲り受けの証文は︑次の通りである︵釜屋家文書#00-006︶︒

      酒株石高譲り証文之事     一  石高三石    右者酒造り高拾年以前辰年︑上手子林村源三郎方由緒有之私方江申請置候処ニ︑私酒一切造り不申候故︑此度貴殿え由緒有之酒株譲り渡シ申処実証也︑向後酒御造り可被成候︑然上ハ右之義ニ付何方も構申者無御座候︑縦何様之義御座候共︑少も違乱申間敷候︑為後日仍而如件

        明和六己丑年  十一月       騎西町場       譲り主  金兵衛印       五人組  三右衛門印       同    源兵衛印       組頭   七左衛門印        御用元  弥四郎印        新八殿   金兵衛は︑石高三石の酒株を一〇年前に上 手子林村の源三郎から譲り受けたが︑源三郎は酒造を一切していないの

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  ︵ るあでと証ういとたしに文渡こすり譲へ八新びたのこ︑で︒

  釜屋の越後杜氏による酒造業は順調に発展し︑李白の﹁襄陽歌﹂にちなんで﹁力士﹂と命名された酒は︑天明五年

︵一七八五︶には︑代官所へ届け出た酒造石高が九七八石に達するほどに成長した︒商才のあった二代目は天明六年に隠居して円覚と号し︑享和元年︵一八〇一︶八月八日に七六歳で没した︒

   3  三代目久左衛門   三代目は︑宝暦一一年︵一七六一︶に日野大谷の木瀬利右衛門の次男に生れ︑天明五年︵一七八五︶に二代目小森久左衛門の養子となった︒三代目は︑天明六年に家督を相続し︑翌年二七歳で騎西に下り︑経営に当たった︒

  寛政一三年︹享和元年︵一八〇一︶︺二月釜屋は︑類焼して困窮した近隣の住民から資金援助を歎願された︒その史料は次のとおりである︵釜屋家文書#00-011︶︒

      口上    一  年々世間一同ニ困窮仕候処︑猶又当春類焼ニ付︑所々御慈悲︑家作にも掛り候ら得共︑未出来兼︑古家店候而者諸作商売出来不申︑事ニ諸道具焼甚難儀仕候︑家作出来渡世致度為︑右手当金三拾両御報詣ニ預り度︑一同ニ申上候︑右金子引当者︑田地家敷又ハ家財成共書入可申候︑前書之趣御願申上候︑以上

      寛政十三年酉二月        弥十八

      

  ︵以下︑九人略︶            釜屋新八様

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  ︵

  右の史料は︑寛政一三年春の騎西町の火災に罹災者して困窮した一〇人が︑釜屋に三〇両の助成金を要請した史料である︒さらに年不詳ながら︑地元の町場の生活難渋者に釜屋が助成金として金六両三分と銭七三貫六〇〇文を名主新井善兵衛に渡したりした文書も残っている︒これらの事柄は︑釜屋が︑当時すでに災難時に救援を依頼される存在に成長していたことを語っている︒

  翌享和二年に三代目は︑行 田町の与右衛門から酒造場を一〇年契約で借り入れて出店とした︒借料は初年度が二〇両︑残り九年が一カ年当り三〇両であった︒店名は小近江屋久左衛門である︒

  さらに三代目は足立郡吹上村に︑年次不明ながら店名を釜屋久左衛門と称する酒造業の吹上店を開いた︒吹上村は元荒川右岸にあり︑化政期の家数は一〇〇軒余であった︒村中を中山道が通り︑鴻巣宿と熊谷宿の中間に位置していた︒しかし吹上店の経営は振るわなかった︒文化一〇年から一二年の﹁店卸控帳﹂︵#5-164︶によれば︑いずれも損金を出している︒

  三代目は試行錯誤を繰り返しながら家運の繁栄を図ったようであり︑関東の紅花を京都に上せる紅花商もはじめている︒没年は文政七年︵一八二四︶一二月一九日︑享年六四︒

   4  四代目久左衛門   子を亡くした三代目は︑日野大谷村の木瀬忠右衛門の次男儀之助を養子に迎え︑四代目久左衛門とした︒天明四年生まれの四代目は︑生来温厚にして利発であり︑文人的素質に優れていた︒江戸時代後期の江戸の書家であり︑漢詩人でもあった市河米庵に師事して書道を修め︑茶道は江戸の川上宗叶を師として頭角を現し︑自ら琴斎と号する教養人であった︒商売においても︑天保四年︵一八三三︶に質部門を廃止し︑醤油醸造業を始めるなど商才を発揮した︒

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  ︵ 申を付下の両〇〇三金達用御請げ上し差し達調に年た一し︑たし功成にとこる取け受てけ分に回二つず両〇五先︵﹁乍 目乏名くなむ︑りいちおに欠新の金資興復︑がたっあで主や井官︑し願歎を通善金資に所融代の藩形山てし介を衛兵 #725-1てたれらを米の升二斗三贈しか以下一三人門と類焼い舞見ら苦にね心重た四代再建を︒﹂︿帳扣舞見焼類店︵﹁﹀︶ 火屋は酒を庫一棟︒残釜屋たし焼類も釜にめたの災てし造店こ舗す衛左源の人村︑時のく︒家た倉庫・・財を焼失し   出保天︒たじ生が事来魔ういとし多年事好︑しかし五の二西尽き焼をどんとほの町騎月︑し出に時つ八昼日九一火

恐以書付奉願上候﹂︿#5-29﹀︶︒   外来商人に対するものとしては稀有な待遇であった︒このことは︑釜屋が当時すでに地域にとって不可欠の存在となっていたことの証左である︒店の再建を果した四代目は︑天保八年一二月に行田の領主である忍藩の領地となっていた伊勢国朝明郡大屋知村︵現・四日市市︶において︑太右衛門から金一三五両で屋敷・店・酒蔵からなる酒造場を

居抜きで買い取り︑西沢源左衛門を支配人にして経営にあたらせた

︒るあ いで門衛左久屋釜だ継け受を店上吹︑は名店︒

  また四代目は︑天保一一年一一月の多賀大社常夜燈の建設世話人八人のなかに名前を連ねている︒同時に世話人となったのは以下の人々である︵﹁多賀大社常夜燈名前記﹂︿#1-111﹀︶︒

   日野岡本  中井源三郎    神崎郡位田村  松居吉右衛門    同     中井介一郎      石馬寺村  塚本介左衛門    仁正寺   飯島利兵衛    新道︵堂︶村  久保徳兵衛    本町    辻惣兵衛

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  ︵

  四代目は︑天保一二年九月八日に五八歳で没した︒   当時の騎西の酒造状況は︑天保七年からの酒造業への三分の一造り令に対して︑同九年一〇月に騎西町場組と加須組が差し出した﹁酒造仲間議定書﹂︵#00-06︶を見ると︑そのなかに記された騎西町組の人数は休業中の一人を加えて一五人であり︑そのうち町場は六人であった︒この六人の酒造米高を︑天保改革にともなう株仲間廃止によって酒造株を酒造稼と改称した際の天保一四年の請書である﹁差上申御請書之事﹂︵#00-12︶で見ると︑次のとおりである︒

   酒造人名   酒造米高︵元米・掛米・麹米の合計︶    治兵衛    一六八石三斗一升五合    惣八     七六五石七升    源兵衛    二三〇石    新八     六五六石六斗四升    治兵衛    七〇八石四斗八升    宇兵衛    三八五石六斗   釜屋新八は︑第三位の規模であり︑六五六石六斗四升の酒造米高である︒

   5  五代目久左衛門と六代目久左衛門   後を継いだ五代目は幼名を久治郎といい︑文政一二年九月に騎西町の出店にはじめて出向した︒五代目は︑四代目

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  ︵ #963-0#3-043分議め店︵﹁た書努に実定﹀︑﹂﹂︿﹁譲り請金定書﹂︿﹀︶充︒ 天で族同に〇一年三一保︑の釜たっか多が失損も店出造の月屋し部内の営経どなる久りたす渡六右譲門へ衛六〇両で 連告報を情事の立売店で名幹が人三員店部と﹂候仕可てしあい︵酒たっに︶市越る・現川村蔵︒塚た武ま国高麗郡平 方付片︑け附相切見無︑し情︑共得候し致引欠は常儀の方貸ケ掛諸致時々悪も敷共得候座に印不御の引取切一故儀候 554-0#は尾に州︑﹁年々末損店店の︶︵﹂帳定勘卸店に出耗大付り︑払売残不具道諸物建︑︑掛に立売拠無りよ月八卯取 環の一一として︑天保理さ整業事たれ張拡てっよに年五保に五店の勢の﹁日一一月九年一勢天︒たし鎖閉を知矢大州出

  しかし五代目は安政六年︵一八五九︶四月七日に四五歳で若死にした︒   嘉永二年︵一八四九︶に日野町大谷に生まれた嗣子の瀬之助が叔父栄治郎の後見を得て︑六代目を後継した︒   釜屋の清酒﹁力士﹂は︑幕末期に江戸市場へ進出した︒安政三年もしくは慶応四年︵一八六八︶と目される︑辰年とのみ表記のある仕切状が二冊残っている︒辰五月九日の仕切りでは︑六七九駄の売上として蔵敷口銭などの諸経費が差し引かれて一五三両三分を受け取っている︵﹁仕切﹂︿#5-059﹀︶︒辰七月三日の仕切りでは二六〇駄を送り︑一〇両三分を手にしている︵﹁仕切﹂︿#5-060﹀︶︒江戸で釜屋の酒を扱ったのは︑江戸南新堀一丁目の地廻り酒問屋の萬屋忠蔵であった︒騎西から江戸への出荷ルートは︑十数頭の駄馬によって下総の権現堂河岸︵現・埼玉県幸手市︶へ運び︑それから利根川の舟運を利用して江戸新川︵現・東京都中央区︶へ積み出すものであった︒江戸湾に吹く風の影響で上方から江戸への酒が入らない船間︵ふなま︶を狙う地廻りの酒として︑﹁力士﹂には需要があったのである

  六代目の時代には︑慶応三年六月に京都大宮通り仏光寺で酒造業を買い取り︑近江屋新兵衛と称する店を出したり︵﹃二百二十五年史﹄︶︑下総国葛飾郡中里村︵現・野田市︶に酒販売関係の店を出したり︵﹁中里出店勘定帳﹂︿#4-034﹀︶︑事業展開は活発であった︒

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  ︵

  なお︑小森家の慶応三年正月の日野における田畑所有状況は︑田二町四反三畝二七歩︑畑四反一畝二歩︒その高の合計は三七石七斗八升二夕であった︵﹁持高田畑山字附控帳﹂︿#5-003﹀︶︒

  明治初期の釜屋の酒造高をみると︑明治四年︵一八七一︶の酒造米高は四〇〇石であり︵﹁明治四年未酒造仲間﹂︶︑明治八年の見込み製酒石数は九〇〇石であると埼玉県知事へ報告している︵明治九年﹁醸造届願向記﹂︿#00-36﹀︶︒埼玉県全体の酒造人の数を︑明治八年九月の﹁埼玉県産酒造人連名誌﹂︵#00-35︶によってみると︑二八五人の多数に上っている︒釜屋が属した埼玉県第一〇区の酒造人は︑騎西町の浅岡虎五郎・小森新八・清水富五郎・石井耕右衛門︑戸室村武藤久蔵︑上種足村野崎吉兵衛︑新井村斉藤縫之助︑落合村松井滝蔵︑真名板村新井政右衛門︑関新田青木嘉右衛門の一〇名であった︒

  商売にとって困難な時期である幕末維新期を乗り切った釜屋は︑明治一九年︵一八八六︶に一大貯酒庫の建設にとりかかった︒それは︑明治一四年にはじまり五年間におよぶ松方デフレ政策による深刻な不況の影響が強く残っていた時代であった︒米麦・養蚕地帯であった騎西地方は︑農産物価格の下落によって大打撃を受けていたのである︒

  釜屋は二月一九日の地鎮祭の余興に︑東京大相撲の大関大達羽左衛門を招いて土俵入りを開催して近隣の人々の娯楽に供した︒総ケヤキ造り︑二階建て︑建坪二〇〇坪の貯酒庫は六月四日に棟上げを迎え︑大工などの工事関係者の雇用は五一人に上り︑祝儀として配った米銭は︑一〇三人におよんだ︵﹁新築酒造庫棟上諸品記﹂︿#4-197﹀︶︒不況時の起工であったため︑難民救済の一助となり︑この建築工事は︑﹁釜屋のお助け普請﹂と呼ばれ︑社会貢献として長く称えられた︒

  以後︑釜屋は日野の藤岡六兵衛の万病感応丸や正野玄三の万病感応丸・万応丸などの漢方薬の請売りにも従事しながら︑明治時代を通じて発展を遂げた︵#00-33︶︒明治三八年︵一九〇五︶には東京牛込区に米穀の卸売業を開き︑同

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  ︵ けの卸小売業の支店を設︒たな同年五月二八日の日誌ど︑醂郡四三年には埼玉県児玉本味庄町に︑酒︑醤油︑味噌に

よれば︑騎西町役場へ次のような釜屋の醸造石数を届けている

   種類   醸造石数     価格       清酒   一七六三石   六一七〇五円    醤油    五五五石    九四二六円    味噌   六四四〇貫    一四三三円    味醂     六八石    二五八四円    6  会社形態への移行

  第一次世界大戦の好景気の最中にあった大正六年︵一九一七︶一〇月に釜屋は︑酒造業者としては他に先んじて個人商店を合名会社に改組した︒同時に六代目は郷里の日野に引退し︑長男は夭死していたので次男の勝治郎が七代目小森久左衛門を継いだ︒

  新しく設立された合名会社は︑合名会社小森商店と称し︑酒類・醤油の製造販売とその付帯事業を目的とした︒本店を騎西町に︑支店を埼玉県本庄町に置いた︒資本金は五万二〇〇〇円︑当主の久左衛門が三万円出資の代表社員となった︒他の出資社員は当主の姉弟の登幾︵八〇〇〇円︶︑利三郎︵八〇〇〇円︶︑芳治郎︵六〇〇〇円︶であった︒

  大正七年には︑社業の好況を従業員と分かち合うために︑郷里への帰国日数とその際の手当などを次のように改定した︒一七歳の新任者は一九歳で初登りとなり︑両親への土産二〇円︑参宮費用五円︑小遣五円︑衣服・長衣・襦袢・

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  ︵

腰巻・足袋・洋傘・下駄を各一つ支給され︑日数は四〇日であった︒また︑それまで個人持ちであった外交用自転車を店持ちに改め︑一二〇円の自転車を五台購入して外交員に貸与した︒

  大正九年の戦後恐慌を経て釜屋︵小森商店︶は︑将来の増石に備えて一〇年に資本金を一挙に二六万円に増資した︒当主久左衛門の出資額を一三万円とし︑登幾と利三郎は各四万円︑芳治郎三万円︑さらに末弟の栄祐を社員に加え︑その出資額を二万円とした︒事業目的も酒類︑醤油の製造販売の他に︑不動産・有価証券類の管理と売買を加えた︒

  昭和に入ると︑昭和恐慌の最中の四年︵一九二九︶に︑かねてからの販売不振によって存廃が問題になっていた醤油部を廃止して︑酒造の増石を図ることになった︒株式会社への改組も図られたが︑戦時統制のために実現せず︑太平洋戦争と戦後の混乱期を経て︑昭和二四年に合名会社小森商店は新会社の株式会社釜屋︵資本金五〇〇万円︶に吸収合併されることになった︒

  戦前の清酒醸造高は︑三〇〇〇石の製造実績と四〇〇〇石の製造能力を有していたが︑終戦直後にはわずか四八〇石余に落ち込んでいた︒社業が販売面不振と資金難を克服してようやく業績の好転をみたのは︑ボイラーなどの新設備導入︑杜氏の総入れ替え︑合成清酒製造の成功などをみた昭和二六年になってからであった︒

  この間の経営を担当したのは︑大正六年に襲名した七代目であり︑当主の在位期間は昭和三一年に没するまで四〇年におよんだ︒七代目の性格は温厚篤実であり︑加えて几帳面であった︒人︑モノ︑カネを活かして使うことに努め︑勝負事を好まず︑質素倹約の念が徹底していたばかりでなく︑積極的に曹洞宗の禅僧の下に参禅する信仰心の篤い人柄でもあった︒

  八代目を継いだのは七代目の女婿である大正九年生まれの順治であり︑昭和四一年には酒類の総販売石数一万五〇〇〇石に到達した︒九代目は昭和四三年に継いだ八代目の女婿で︑昭和二二年生まれの行輝である︒

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  ︵          二経営状況

  小森家は︑出店のなかの本店といえる騎西の釜屋新八をはじめいくつかの出店を開いたが︑いずれも主業種は醸造業とその製品販売であり︑なかでも酒造業が中心である︒それは現在の㈱釜屋にも一貫して受け継がれている︒

  これらの事業の明治期までの総括勘定帳の類は見当たらず︑店卸勘定帳も断片的にしか残っていないので︑長期的分析はできない︒

  酒造業などの醸造業を除いた騎西店での商品販売については︑創業直後の宝暦六年︵一七五六︶からの五〇年間の勘定記録が﹁明和三丙戌年正月吉日  手鑑﹂︵#3-22︶に載っている︒記されているのは︑三種の勘定である︒先ず︑小間物・水油・繰綿と売上に見なした在庫などからなる﹁売上﹂から︑﹁仕入﹂を差引いた荒利を﹁過上﹂として算出している︒次に﹁残懸け﹂や﹁時貸し﹂︑﹁代呂物残り﹂などの流動資産を記し︑そこから﹁諸方預り﹂などの負債を差引いて﹁正味﹂を計算している︒したがってこの場合の﹁正味﹂は純運転資金である︒このほかに﹁小払い﹂︵雑

用︶や駄賃からなる経費を記している︒例として︑開業直後の宝暦七年の店卸の記帳を次に掲示しておこう︒

      丑年    一  弐百四両三分  六百七拾弐文    仕入    一  百五拾弐両壱分  百文       色々〆高    一    弐拾九両壱分  三百三拾弐文  水油〆高    一     拾四両弐分         繰綿

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  ︵

   一     五拾両三分         代物残    〆  弐百四拾六両三分  四百三拾弐文    指引〆  四拾壱両三分  八百弐拾文       改    一   壱両壱分   六拾七貫弐百文   残懸ケ〆高    一   弐両三分   八百五拾三文    諸方時貸シ    一  五拾両三分        代物残リ    一  弐拾壱両壱分  五拾壱貫五百文   出入    四口〆  七拾六両  百拾九貫五百五拾三文     四三かへ      金  百三両三分  弐百弐拾九文    内    一  弐拾三両       諸方預リ    一    八両       残リ懸ケ        代物引    〆  三拾壱両    正味〆  七拾弐両三分  弐百弐拾九文       小払分

(18)

  ︵          拾小文八分五百弐三両八拾一払

   一  三両三分   壱貫百八拾八文   次に︑江戸時代における騎西の釜屋新八の酒造業を語る史料﹁毎歳酒勘定帳﹂︵#5-117︶を見てみよう︒第一表は︑この勘定帳に記された安永八年︵一七七九︶〜寛政四年︵一七九二︶までの勘定を作表したものである︒寛政三年は欠年となっているので︑一三年間の記録である︒最初の記帳年である安永八年の内容を掲げておこう︒

    安永八亥年    一  白米九百七拾五石三斗八升      六分限      為玄米  千三拾三石九斗五合八夕      壱石壱斗九升五合かへ          代金  八百六拾五両ト拾匁九分     此酒      七百九拾九石八斗壱升壱合      八分弐かへ    一  千弐百弐拾壱両三分ト拾壱匁      売高      拾壱両かへ

(19)

  ︵

     内  金三百四拾四両三分ト八匁五分   雑用    引〆  金拾壱両三分ト七匁五分五厘     外ニ    一  金四拾五両弐分ト六匁八分五厘     懸   酒造に使った白米高は九七五石三斗八升であり︑この白米は玄米換算比率を一・〇六倍として︑玄米一〇三三石九斗二合八夕に相当すると算出している︒この玄米代金は一両当りの価格を玄米一石一斗九升五合に計算して︑金八六五両ト銀一〇匁九分としている︒白米九七五石三斗八升から造出された酒の量は︑〇・八二倍の七九九石八斗一升一合である︒

  酒売上高金一二二一両三分ト銀一一匁から︑経費としての雑用金三四四両三分ト銀八匁五分を差し引くと︑金八七七両ト銀二匁五分となる︒この純売上高から原料米の金八六五両ト銀一〇匁九分を引き去った金一一両三分ト銀七匁五分五厘が純益である︒この計算の他に金四五両二分ト銀六匁八分五厘の売掛金がある︒

  勘定形式は現金収支を把握することを重視した考え方にもとづいて︑損益勘定形式で記帳されている︒したがって将来的に入る予定の利益である掛売り分は計算外になり︑末尾に記されている︒

  第一表によれば︑酒造米高はこの一三年間において天明五年︵一七八五︶までは︑同三年の浅間山噴火による飢饉時の減少を除くと九五〇石を超えている︒天明六年に半減しているのは︑幕府による酒造の半石令のためであり︑翌七年から三〇〇石台に減っているのも幕府の三分の一造り令のためである︒

  利益をあげた年が一〇回︑損失は三回であり︑酒の年平均純益は九両弱である︒一方で売掛金が年平均四〇両ある

(20)

  ︵ えく持ち堪いたとえようよ︒ 心の明年間を中とする不期況割のは業造に酒屋釜︑は 率・は年平約〇上九%となる︒天利益均純売︑りあ高 年の酒の間の三平こ︒い年一均上高は一〇五六両で売 は金収未が金掛売︑のなとで見なすこはできな利と益

  関東出店の主力店である騎西出店の純資産の動向については︑幕末の文久二年︵一八六二︶〜元治元年

︵一八六四︶と慶応二年︵一八六六︶︑慶応四年の五期について知ることができる︒内容は︑﹁正味改め﹂︵期末

資産︶︑﹁諸方預り﹂と﹁売上げ預り﹂︵期末負債︶︑それに﹁元金正味改め﹂︵期首純資産︶からなっていて︑一種の貸借対照表形式である︒

  第二表はこの各期の﹁正味勘定帳﹂を作表したものである︒純資産の増減を見ると︑二期が増加し︑三期が減少しているが︑一三両の増加から二二両の減少の間に収まっている︒

  しかし︑期末純資産そのものは︑文久二年の三六〇一両から慶応四年の五三五四両へと増加してい

 史料)「毎歳酒勘定」(#5-117)より作成。

 注)△印はマイナス勘定。−は勘定の記載なし。石・両未満の数字は切捨て。

年 酒造

白米高 玄米高 換算 玄米

代金 酒造高 酒

売上高 雑用 差引 売掛金

安永8年 975石 1,033石 865両 799石 1,221両 344両 11両 45両 

9年 969 1,046 886 765 1,276 368  20 32

天明 元 968 1,040 1,020 784 1,361 337  3 52

2年 969 1,031 1,070 785 1,363 312  △19 51

3年 592 645 955 485 1,214 248  10 39

4年 953 1,027 1,144 771 1,426 278  3 71

5年 978 1,051 1,290 782 1,621 311  22 46

6年 438 475 969 372 1,242 287  △14 58

7年 325 355 476 283 669 172  20 18

8年 332 351 − 299 582 192  10 28

寛政元 330 353 330 280 487 182  25 30

2年 335 360 313 302 602 208  80 28

3年 − − − − − − − −

4年 340 378 544 292 670 183  △56 38

第一表  毎歳酒勘定(安永8年〜寛政4年)

(21)

  ︵

る︒それは︑各期において売薬口銭︑米麦徳用など他事業の利益が注ぎ込まれ︑また小森本宅からの増資が行われた結果と推量される︒事実︑文久〜元治の﹁元金改め﹂に含まれる小森本宅からの預かり金︵出資金︶は︑二〇〇〇両であるが︑慶応年間には三〇〇〇両に増えている︒

  明治期の経営状況を示す勘定帳はほとんど残っていない︒わずかに明治一一年︵一八七八︶四月一〇日に騎西本店の小森新八によって記帳された﹁店正味改帳﹂︵#4-110︶がある︒内容は︑期末資産一万〇八一八円から期末負債の五一五八円を差引いて︑期末の純資産五六五九円を算出し︑期首の資本金九三七三円と比較して三七一三円の正味損金となったことを記している︒

  次に︑小森久左衛門家の存在が︑本宅のある日野や出店所在地の騎西を中心とする地域に経済的にどのような意味をもっていたのかを検証するために︑残存する江戸時代の金子借用証文を分析してみよう︒借用証文は全部で一八七通であり︑借用年次と借用人の居住地の判明するのは一三五通である︒第三表は寛政六年

︵一七九四︶から元治二年︹慶応元年︵一八六五︶︺にわたる年次順に︑居住地︑金額︑名前を付した借用証文の一覧表である︒

 注)単位:両未満切捨て。

   △印はマイナス勘定。

 史料)文久二壬戌二月十五日限改「正味勘定帳」(#4-005)。

    葵亥正月丗日限改「正味勘定帳」(#4-046)。

    元治元年4月十日限改「正味」「正味店勘定控帳」(#4-044)。

    丙寅五月十六日吉辰改「」「正味勘定帳」(#4-042)。

    辰閏四月晦日限改「正味勘定帳」(#4-043)。

第二表 釜屋新八(騎西店)の正味勘定 年次 正味改め

(期末資産)諸方預り 元金改め

(期首純資産) 売上預り 期末負債計 差引期末 純資産 差引純資

産増減 文久2年2月15日 4,528 153 3,587 775 928 3,601 13 文久3年1月30日 5,036 260 3,820 963 1,223 3,813 △8 元治元年4月10日 6,242 492 4,139 1,613 2,105 4,137 △2

慶応元年 − − − − − − −

同2年5月16日 9,091 659 5,929 2,525 3,184 5,907 △22

同2年5月16日 − − − − − − −

慶応4年閏4月30日 8,704 1,227 5,350 2,123 3,350 5,354 3

(22)

  ︵  -3#4-10通之る︵﹁借用申金子事の﹂︿あでり証﹀︶は次文の用〇最も金額の大きな三六両借を借りている弘化三年︒

      借用申金子之事    一  金六拾両也         年賦金滞り    一  金弐百両也         元金    一  金弐百拾両弐分ト拾匁也   右弐百金り足︑巳ノ九月より丑十月迄         〆十三ヶ年二ヶ月之滞︑年八朱之割    都合  金四百七拾両弐分ト拾匁       内  金百拾両弐分ト拾匁  御勘弁ニ預リ    引残而  金三百六拾両也    右之金子商売元手金ニ差支借用仕置候処実証ニ御座候︑然ル処右金子返済方ニ差支へ︑無余儀善助清兵衛両人を以て年賦金ニ相願イ申上候処︑格別之御勘弁を以て御聞届ケ被成下︑然ル上者当年午年より丑年迄二十ケ年間之間壱ヶ年ニ拾八両宛無相違急度返済可仕候︑万一当人如何様之儀有之候共︑右金子無相違急度返納可仕候︑若し相滞り候ハヽ請人引受対談之通り急度相弁し︑貴殿へ少も御損毛相懸ケ申間敷候︑為後日之年賦証文仍而如件

        弘化三年           午十月        借用人

       騎西町       井筒屋佐助  

(23)

  ︵

和暦 西暦 地域 金額 借主 文化12年 1815 鴻茎村 5両 仙右衛門 文化12年 1815 騎西 1両2分 又七 文化14年 1817 中種足村1両 文七 文化14年 1817 中種足村2両 久右衛門 文化15年 1818 騎西 20両 小左衛門 文政元年 1818 近江十禅師村200両 佐助 文政元年 1818 近江十禅師村100両 治兵衛 文政2年 1819 騎西 3両 助右衛門 文政3年 1820 上柳村 6両 与兵衛 文政3年 1820 上柳村 1両 勘十郎 文政3年 1820 戸崎村 2両 市兵衛 文政3年 1820 騎西 20両 小左衛門

文政3年 1820 正能村 5両1分 半右衛門

文政3年 1820 戸ケ崎村 10両 常右衛門 文政4年 1821 騎西 10両 勇蔵 文政4年 1821 正能村 1両1分 平次郎 文政4年 1821 戸ケ崎村 7両 要蔵 文政4年 1821 騎西 26両1分 平治郎 文政5年 1822 鴻茎村 2両 吉左衛門 文政5年 1822 正能村 1両1分 平次郎 文政5年 1822 道地村 3両 惣助 文政5年 1822 道地村 1両2分 弥惣治 文政5年 1822 戸ケ崎村 5両 与左衛門 文政6年 1823 下崎村 3両 清蔵 文政6年 1823 道地村 20両 磯右衛門 文政6年 1823 菖蒲横町2両 丑五郎 文政6年 1823 牛重村 2両 庄五郎 文政6年 1823 常泉村 12両 伊右衛門 文政7年 1824 騎西 60両 覚治郎 文政7年 1824 秀安村 1両2分 平蔵 文政7年 1824 鴻茎村 2両 吉右衛門 文政7年 1824 日出安村2両 平蔵 文政7年 1824 篠津村 60両 惣右衛門 文政8年 1825 近江清水脇村10両 兵左衛門

和暦 西暦 地域 金額 借主 文政8年 1825 境村 2両 佐四郎 文政8年 1825 鴻茎村 7両 弥五郎 文政9年 1826 騎西 2両 弥五兵衛 文政9年 1826 岡古井村2両 清七 文政10年 1827 境村 5両 喜右衛門 文政10年 1827 境村 3両 小四郎 文政10年 1827 日出安村2両 金右衛門 文政11年 1828 騎西 5両 和重郎 文政11年 1828 内田ケ谷村2両 伴吉 文政12年 1829 江戸小伝馬町3両 佐渡屋久兵衛 文政12年 1829 根古屋村3両 金剛院 文政13年 1830 新井村 3両 藤吉 文政13年 1830 騎西 2両 いつ 天保2年 1831 新田町 3両 半兵衛 天保3年 1832 上崎村 5両 佐吉 天保4年 1833 関新田村20両 重太郎 天保4年 1833 境村 7両 善能寺 天保5年 1834 上崎村 3両 吉右衛門 天保6年 1835 上柳村 6両 林蔵 天保10年 1839 騎西 3両 浄楽寺 天保10年 1839 騎西 2両 浄楽寺 天保12年 1841 加須町 20両 江戸屋栄蔵

弘化3年 1846 騎西 360両 井筒屋佐助

弘化3年 1846 尾崎村 20両 佐七 弘化4年 1847 騎西 30両 豊四郎 嘉永2年 1849 下崎村 9両 重太郎 嘉永7年 1854 騎西 2両 浄楽寺 安政5年 1858 元町 4両 金助

安政6年 1859 騎西 2両2分 浄楽寺

元治元年 1864 騎西 3両 民吉 元治元年 1864 南篠崎村20両 与兵衛 元治元年 1864 南篠崎村70両 与兵衛 元治2年 1865 騎西 1両 浄楽寺

(24)

  ︵

和暦 西暦 地域 金額 借主 寛政6年 1794 騎西 30両 七左衛門 寛政8年 1796 騎西 40両 権右衛門 寛政10年 1798 騎西 15両 茂兵衛 寛政12年 1800 騎西 20両 茂兵衛 享和元年 1801 騎西 20両 弥左衛門 享和元年 1801 騎西 39両 弥左衛門 享和元年 1801 騎西 10両 弥五左衛門 享和2年 1802 戸崎村 2両 仙右衛門 享和2年 1802 戸崎村 2両 金次郎 享和2年 1802 新田町 2両2分 勇蔵 享和2年 1802 新田町 1両 孫七 享和3年 1803 上高柳村5両 重兵衛 享和3年 1803 下崎村 5両 直吉

文化元年 1804 高柳村 3両2分 十兵衛

文化2年 1805 上会下村2両 藤助 文化2年 1805 上柳村 3両2分 要蔵 文化3年 1806 境村 1両 由右衛門

文化3年 1806 荒川村 4両2分 忠右衛門

文化3年 1806 行田町 1両 長門屋藤八 文化3年 1806 上柳村 3両 利助 文化3年 1806 上高柳村4両 万吉 文化3年 1806 境村 5両 安右衛門

文化3年 1806 境村 1両2分 善能寺

文化3年 1806 上会下村5両 半右衛門 文化3年 1806 上会下村3両2分 藤助 文化3年 1806 上会下村4両 半右衛門 文化3年 1806 上会下村2両 惣兵衛 文化3年 1806 上会下村2両 藤助 文化3年 1806 上柳村 1両 友右衛門 文化4年 1807 上会下村1両2分 多吉 文化4年 1807 上会下村3分400文 市右衛門 文化4年 1807 上新郷 7両 利右衛門 文化4年 1807 上会下村1両 惣左衛門 文化4年 1807 中之目村3両 吉蔵 第三表 小森家宛金子借用証文

和暦 西暦 地域 金額 借主 文化4年 1807岡古井村7両 伊三郎 文化4年 1807騎西 10両 平八 文化6年 1809上柳村 2両 勘左衛門 文化6年 1809境村 2分 茂兵衛 文化6年 1809上会下村10両 藤助 文化6年 1809上会下村1両1分 仁右衛門 文化6年 1809正能村 2分 弥惣八 文化7年 1810騎西 3両 勇蔵

文化7年 1810騎西 3両2分 弥五兵衛

文化7年 1810内田ケ谷村3両 伴吉 文化7年 1810根古屋村1両1分 千蔵 文化7年 1810騎西 50両 与右衛門 文化8年 1811上会下村2両2分 善助 文化8年 1811新井村 1両 武左衛門 文化9年 1812不動岡村10両 清右衛門 文化9年 1812新井村 3両 勇八 文化9年 1812上会下村3両 藤助 文化9年 1812上会下村2両 善兵衛 文化9年 1812篠津村 300両 篠川惣右衛門 文化9年 1812鴻茎村 1両 仙右衛門 文化10年 1813戸崎村 2両 市兵衛 文化10年 1813騎西 20両 勇蔵 文化10年 1813鴻茎村 5両 仙右衛門 文化10年 1813元町 10両 弥平治 文化10年 1813不動岡村5両 清右衛門 文化11年 1814戸崎村 2両 市兵衛 文化11年 1814鴻茎村 5両 仙右衛門 文化11年 1814新田町 15両 勇蔵 文化11年 1814新井村 5両 勇八 文化11年 1814道地村 5両 弥平治 文化11年 1814境村 10両 源治郎 文化12年 1815鴻茎村 2両 吉左衛門 文化12年 1815騎西 100両 藤兵衛 文化12年 1815境村 3両 兵右衛門

(25)

  ︵

        借用人       小山宿       日野屋治兵衛       請人        鳩ケ谷宿        井筒屋善五郎       騎西町         釜屋新八殿   この証文は︑騎西町の井筒屋佐助と小山宿の日野屋治兵衛の二人が︑釜屋新八から商売元手金を二〇〇両借り︑元利が四七〇両二分と銀一〇匁となったところで︑一一〇両二分と一〇匁は債務免除してもらって︑残り三六〇両を二〇年賦で返済することを約束した借用証文の写である︒

  もう一つの大きな金額は文化九年︵一八一二︶の武州埼玉郡篠津村の篠川惣右衛門による三〇〇両の借用証文である︒借用の事情は書かれていないが︑篠川惣右衛門の名前の下には屋号のある印判が押されているので︑商用のためであったと思われる︒

  さらに文政元年︵一八一八︶の近江国蒲生郡十禅師村の佐助による二百両と治兵衛による百両の借用証文も︑商用のための借入であったと考えられる︒とくに一〇〇両を借りている治兵衛の借用証文には﹁商用に差支え﹂と明記してある︒十禅師村は小森家本宅のある大谷村の近村である︒

(26)

  ︵   見︑とるので文証用両借は事情る次のとおりである︵﹁三吉よを一方︑少額の借用証文文に化七年︵一八一〇︶の伴入

置申一札之事﹂︿#4-2-46﹀︶︒       入置申一札之事

   一  御上米四拾表    但シ四斗入納      右之御上米︑来ル廿四日までニ取立︑其時之相場を以貴殿え売払可申候︑然所無拠要用ニ付︑為手金者三両︑只今当借仕候所実証也︑万一御米相滞り候ハヽ加判之もの罷出︑手金者不及申利足共ニ急度相添テ御返済可仕候︑為後日入置証文仍而如件

        文化午年十一月九日       正木左近知行所

        武州埼玉郡内田ケ谷村       名主   伴吉印       世話人  善蔵印       騎西町  同    藤兵衛印       騎西町         釜屋新八殿   内容は︑正木左近の領地である武州埼玉郡内田ケ谷村︵現・加須市︶の名主伴吉が︑上米四〇俵を釜屋新八へ売却することを約束し︑そのことを担保に三両の手付金を借用したというものである︒この証文では︑借用者の伴吉が名

(27)

  ︵

主を名乗っているので︑年貢米の酒屋への上米の在払い形式をとった借用証文とも見なされよう︒

  次に︑ごく少額を借用した場合の事情を見よう︒文化六年︵一八〇九︶三月に金二分を借りた正能村︵現・加須市︶の弥惣八の事情は︑﹁馬相求め候時差支え﹂というものであった︒同じ文化六年一二月︑金二分を借り入れた境村茂兵衛の返済期限は翌年三月である︒よほど差し迫った事情のあったことがうかがえる︒

  一三五通の借用人の居住地は︑前述のように文政元年︵一八一八︶の佐助と治兵衛︑および文政八年の兵左衛門が近江国蒲生郡であり︑文政一二年の佐渡屋久兵衛が江戸小伝馬町三丁目の居住であることを除くと︑他はすべて騎西を中心とするその周辺の地域である︒

  このような返済されなかった金子の記録である残存借用証文の限られた分析を通じても︑釜屋新八が商用から生活資金にいたるまで出店所在地周辺の多様な資金需要に応える存在であったことがうかがえる︒釜屋は地域金融機関の役割も果たしていたのである︒

  以下では︑近代における小森家の経営の推移を見ることにしよう︒大正四年︵一九一五︶一〇月に騎西町小森本店の作成した﹁棚卸帳﹂︵#5-4︶によって純資産を見ると︑四万九六三二円である︒売上高は不明であるが︑酒と醤油の掛売残高はそれぞれ二万四七五六円と七二七九円である︒取引口数は二三二口︑取引地域は︑東は取手︑西は八王子︑北は佐野︑南は東京まで広がっている︒

  同四年一〇月〜五年九月の騎西町小森本店の﹁店決算表﹂︵#5-9︶によれば︑純資産は五万七六二六円である︒総売上高九万六三〇二円の内訳は次の通りである︒

    自家製清酒      六万六〇七八円

(28)

  ︵        五三四八酎直製家自円

    移入味醂         二三六二円     移入焼酎         二二一四円     自家製醤油      一万八〇七八円     自家製味噌        一八〇二円     移入清酢          三八一円   主力事業は︑清酒と醤油の醸造業である︒この期の純益は騎西本店が七六三六円︒本庄支店については︑純益のみ記されており︑それは八二二円である︒

  大正五年一〇月〜六年九月の﹁営業決算書﹂︵#5-53︶では︑騎西本店と本庄支店に分けて記載されている︒本店の純資産は七万一五一二円︒総売上高一〇万八〇〇三円のうち︑清酒は七万七九四〇円︑醤油は一万六一三三円であり︑両者で約八七%を占めている︒当期純益は酒方が一万一六三三円であり︑醤油方が二五六一円であった︒本庄支店の純資産は五三一三円︑商品売上高は五万五一八九円︑純益は三一七円であった︒

  資本金五万二〇〇〇円の合名会社小森商店︵本店所在地︑埼玉県北埼玉郡騎西町大字騎西一四四番地︶となってからの最初の決算は︑大正六年一〇月一日〜七年九月三〇日の﹁第壱期営業決算報告﹂︵#5-52︶である︒以後︑一〇月に開始され翌年九月をもって終わる営業報告書が作成され︑昭和七年九月の第一五回までの分が残っている︒第四表は︑大正四年〜六年の個人商店の時代を含む合名会社小森商店の純資産と売上高の推移を示したものである︒資本金は︑大正一〇年に増資して一躍二六万円となるので︑増資以前の第一回〜第四回までの前半期と︑増資以後の第五回〜第

(29)

  ︵

 出所)各期の営業報告書より作成。

 注)円未満切り捨て。−は勘定の記載なし。酒類売上高の( )内は清酒の売上高。

   勘定年月日の番号は、営業報告書の各期の番号を示す。

勘定年月日 純資産 酒類売上高 醤油

売上高 売上総額 本庄支店

純資産 本庄支店 売上高 大正4年10月現在 49,632 − − − − − 大正4年10月

 〜5年9月 57,626 76,038

(66,078) 18,078 96,302 − − 大正5年10月

 〜6年9月 71,512 89,319

(77,940) 16,133 108,003 5,313 55,189

① 回大正6年10月

  〜7年9月 78,014 113,100

(98,468) 18,433 133,873 8,756 72,505

② 回大正7年10月

  〜8年9月 106,078 151,382

(126,070) 39,727 200,429 17,214 123,364

③ 回 大 正8年9月

  〜9年9月 101,778 163,735 54,950 233,849 25,074 173,275

④ 回大正9年10月

  〜10年9月 132,574 176,457 42,433 238,075 28,190 150,181

⑤ 回大正10年10月

  〜11年9月 279,742 − − 202,055 − 163,491

⑥ 回大正11年10月

  〜12年9月 300,153 − − 220,612 − 148,759

⑦ 回大正12年10月

  〜13年9月 313,427 − − 218,274 − 186,975

⑧ 回大正13年10月

  〜14年9月 306,226 − − 182,741 − 184,798

⑨ 回大正14年10月

  〜15年9月 297,177 − − 179,823 − 178,906

⑩ 回大正15年10月

 〜昭和2年9月 300,304 − − 165,477 − 151,980

⑪ 回昭和2年10月

  〜3年9月 301,262 − − 206,043 − 151,270

⑫ 回昭和3年10月

  〜4年9月 300,962 − − 214,305 − 160,684

⑬ 回昭和4年10月

  〜5年9月 284,122 − − 181,770 − 132,581

⑭ 回昭和5年10月

  〜6年9月 279,993 − − 125,398 − 76,330

⑮ 回昭和6年10月

  〜7年9月 289,361 − − 193,229 − 81,996 第四表 合名会社小森商店の純資産 (単位:円)

(30)

  ︵ うよし営とこる見を況状にけ経て分に期半後のでま回五一︒

  前半期は第一次世界大戦による好況期である︒騎西本店の売上総額は︑第一回の一三万三八七三円から第四回の二三万八〇七五円まで一〇万円以上の増大をみせた︒前後期通じての最高売上高である︒清酒の売上増がもっとも寄与したと考えてよいであろう︒純資産も七万八〇一四円から一三万二五七四円へと順調に増えた︒

  酒類︑醤油︑味噌などの卸小売を業とする本庄支店の前半期の売上高は︑七万二五〇五円から一五万〇一八一円に増加し︑純益も三七五六円から一万五一九〇円に急増した︒純資産は八七五六円から二万八一九〇円へ増加した︒

  この好況期の営業の概況を︑第二回の﹁営業報告書﹂︵#5-51︶は︑次のように記している︒    穀物輸出禁止ト戦争終結ノ結果多少下落ヲ見ル事ト思惟セルニ反シ︑是マタ米価ト相俟テ戦後期経済界ノ騰張ハ波瀾重畳ノ間ニ翻弄サレ︑薪炭︑食料品益々昂進シ引続キ容器・賃金上騰ノ歩調ニシテ︑本期仕込期ニ際シ食塩ノ供給不足ト事業興振ニツレ︑職工払底ノ為メ仕込不如意ノ極︑中止セシムルニ至シメタリ︑市場在荷希少ニシテ売行好況ヲ呈シ︑夏期以来ノ諸果 ノ卸乏ハ本期末ニ至リ其極ニ達シ︑各地漸騰ノ活況ヲ呈シ︑売出シヲ好マズ︑盛況ノ内ニ当期ヲ了セリ

  大戦終結後も続く経済界の膨張発展によって︑物価と賃金が高騰し︑原料と職工不足のため十分な仕込みができず︑生産を中止せざるをえなかった︒その結果として品薄となり︑特別な売出しを必要としない販売好調をもたらしたというのである︒

  また︑大戦後の戦後恐慌の様子を第三回の﹁営業報告書﹂︵#5-39︶は以下のように述べている︒

(31)

  ︵

   三月中旬ノ株式大暴落ヲ端緒トシ︑諸商品相次テ惨落シ金融ハ梗塞シ商店会社ノ破綻︑銀行支払停止等不詳 事各地ニ現出シ︑各市場漸次凋落ニ傾キ一大恐慌ヲ来セリ︑財界ノ不況ハ世人ノ購買力ヲ減シ︑農村又麦繭ノ減収米価ノ下落ニヨリ打撃甚大ニシテ︑増税ニヨリ比較的好況ヲ持続セシ酒価又漸次暴落シ︑其影響ヲ受ケ売行殆ド皆無ニシテ︑販売上頗ル苦境に陥リ︑本期末ニ至リ増石ノ予想ニ反シタル為一般乱売ノ兆ヲ呈シ︑市場相場ノ何辺ニアルヲ知ラズ︑日ノ経ルニ従テ不況益々甚クシ︑不安ノ内ニ本期ヲ了セリ   三月の株式暴落によって始まった諸物価の惨落による戦後恐慌は︑購買力の減退をもたらして不況の色はますます濃くなり︑好況を前提に増石に走っていた酒造界では乱売状態となり︑価格下落の目途も立たないと悲観している︒

  それでも第四期までは売上を伸ばすことができた小森商店は︑将来の増石を見込んで︑好況期の蓄積を増資に向け︑大正一〇年︵一九二一︶一〇月一六日の臨時社員会において資本金を五万二〇〇〇円から二六万円への増資を決議した︒以後︑本庄支店の勘定は︑騎西本店と合体して行われるようになった︒

  後半期︑とくに関東大震災以後︑商況は振るわず︑純資産は大正一三年の三一万三四二七円をピークに減少し︑売上高も漸減していった︒昭和三年︵一九二八︶の昭和天皇の即位の大典という慶事によって第一一回︑第一二回の営業報告の売上高は二〇万円台を回復した︒しかしそれは一時的現象にとどまり︑昭和恐慌時の第一三回と第一四回の売上高は︑昭和四年に醤油部を廃止したこともあって再度下落に転じ︑決算は純損となり純資産は減少した︒とくに昭和五年から六年にかけての第一四回の売上高は一二万五三九八円にまで落ち込み︑この期の赤字は九二〇二円となり︑純資産も二七万九九九三円にまで落ち込んだ︒

  以後の小森商店は︑他のすべての企業と同様に長い戦時統制経済のもと︑わずかに命脈を保つことになるのである︒

(32)

  ︵          員りあの三店・人公奉様

  小森家の店員については︑奉公人や店員に関する人別帳のようなものが残っていないので︑全体を見渡すことは困難である︒奉公人請状は︑三通残っている︒いずれも年齢不詳である︒文化五年︵一八〇八︶に騎西の釜屋新八宛に奉公人請状を差し入れた多吉は武蔵国埼玉郡上会下村の禅宗雲照寺の旦那であり︑文政八年︵一八二五︶に近江国日野大谷村小森久左衛門宛に差し入れた嘉助は美濃国各務郡大洞村の禅宗梅龍寺旦那︑嘉永三年︵一八五〇︶に騎西の釜屋新八宛に請状を差し出した佐兵衛は越後国刈羽郡柏崎の浄土真宗光国寺旦那である︒三人とも近江国以外の出身者であったので︑何らかの理由で請状が特別に保管されていたと思われる︒

  醸造業に従事した雇人の給金の出納については︑騎西店の嘉永三年の﹁給金当座帳﹂︵#4-60︶がある︒記されている人名は二〇名であり︑名前の頭に役名の付いているものもある︒以下のとおりである︒

   頭豊吉   糀屋与助   二番政吉   船頭万吉     重吉    宗太郎   仁三郎    徳蔵     長蔵       長助    惣太郎   太吉     文助     たきや文次郎   藤吉    栄七    半兵衛    佐吉     鶴松       杜氏喜兵衛   奉公人については︑奉公人と店との貸借を記した慶応四年︹明治元年︵一八六八︶︺﹁出店万控帳﹂︵#4-39︶によって︑年齢を知ることはできないが騎西店の構成が分かる︒

(33)

  ︵

   利兵衛  天保九年二月六日出店着  都合三〇年五カ月勤続    安吉   文久三年五月一五日︑国許にて召抱え︑六月二一日出店着    甚兵衛  天保元年四月出店着  都合三八カ年勤続    源兵衛  文久二年一〇月三日出店着    弥兵衛  文久三年八月一五日出店着    長兵衛  文久三年七月二八日国許にて召抱え    岩吉   ︱    巌吉   安政六年六月一七日出店着    弥兵衛︵中之郷村︶ 慶応元年三月一六日より騎西   支配人格と見られる利兵衛と︑年齢と出身地が明記されている巌吉とを取り上げて︑店との間の貸借の経緯を見ておこう︒勤続三〇年を超えている利兵衛の年給は︑入店の年から五年間は一〇両である︒六年目に一二両に上がり︑七年目から二九年目まで一貫して一五両である︒この間の店側の貸付金は五八三両であり︑給金と褒美金を合わせた店の預かり金は四七二両である︒差引き︑店側の一一一両の貸しとなっている︒

  巌吉についての記帳は次の通りである︒        大野村

        巌吉

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