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(1)

人的資源管理生成の背景に関する一考察 : 第2次大 戦後のアメリカ連邦政府による政策の影響を中心に

著者 谷本 啓

雑誌名 同志社商学

巻 53

号 5‑6

ページ 140‑159

発行年 2002‑03‑15

権利 同志社大学商学会

ドウシシャ ダイガク ショウガッカイ

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000007231

(2)

人的資源管理生成の背景に関する一考察

──第

2

次大戦後のアメリカ連邦政府による政策の影響を中心に──

谷 本 啓

はじめに

2次大戦後の連邦政府による人的資源開発

アメリカ国内外の政策課題とマンパワー政策

マンパワー政策による能力開発と雇用差別是正の促進

労働者の欲求変化への対応と人事労務管理施策の変化 おわりに

欧米の人事労務管理の領域では,「Personnel Administration/Personnel Management」な る用語が使用されてきたが,1960年代以降,「Human Resource Management(人的資源 管理)」という用語が現れ始め,とりわけ

1980

年代以降は後者の用語が一般的に用いら れるようになってきている。もちろん,人事労務管理の分野でも人的資源(Human Re-

source)という言葉自体はかなり以前から存在していたし,取り入れられてもい

1

た。し かし,

1981

年に

Harvard Business School

のカリキュラムに人的資源管理(HRM : Human

Resource Management)のコースが新設されたことが象徴するよう

2

に,1960年代以降,

アメリカ企業における人事労務管理の重要性の認識と管理制度全般の再構築が徐々に促 進され,1980年代以降その傾向がより強まることとなる。

この人的資源管理という用語の普及について,アメリカ経営学を長年にわたって追求

してきた

D. A. Wren

によると,1960年代以降の雇用をめぐる諸環境の変化に伴って人

事の専門家の役割が増大したこと,さらに戦略的経営の出現と人的資源の戦略への統合 化の必要性が指摘されてい

3

る。また同時に,D. E. Guestによれば,「人的資源管理

(HRM)は,現在,広範に用いられてはいるが,非常に漠然としか定義されていない用

────────────

D. A. Wrenによれば,企業における人的資源職能の概念に最初に言及したのはE. W. Bakke, The Human

Resource Function, New Haven, Conn : Yale Labor−Management Center, 1958.であり,サブタイトルであ ったにしろ人事管理論のテキストにはじめて「人的資源」(Human Resources)の語を付加したのはW.

French, The Personnel Management Process : Human Resources Administration, Boston : Hughton Mifflin Company, 1964.であったとされる(Daniel A. Wren, The Evolution of Mamagement Thought, 4 th ed., John Wiley & Sons, Inc., 1994, pp. 376−377.

Michael Beer et al., Managing Human Assets, The Free Press, 1984, Preface, ix,〔梅津祐良・水谷榮二訳

『ハーバードで教える人材戦略』生産性出版,1990年,はじめに,ivページ。 D. A. Wren, op. cit., p. 377.

0(414

(3)

4

語」であるとしながらも,人事労務管理から人的資源管理への用語変更の背後には,暗 黙のうちに人的資源管理が人事労務管理よりも「より良い」(betterな)ものであると いう認識が存在していと指摘してい

5

る。

それでは,なぜ「人的資源管理」が「人事労務管理」と比較して「より良い」ものと して認識されるようになってきたのか。それは第

2

次大戦後のアメリカ企業を取り巻く マクロ的・ミクロ的な諸問題に対して,「人的資源管理」は従来の「人事労務管理」に おける管理施策を発展させ,業績の向上により積極的に貢献すると同時に,従業員の高 度化した期待・欲求を充足することが可能な管理法として考えられているためである。

この人的資源管理の生成について先駆的な研究としては,岩出氏の研

6

究が取り上げら れる。岩出氏によれば,人的資源(Human Resources)という理念は

1960

年代以降に,

関連諸科学の発達を含むアメリカ労務管理環境の諸変化を背景に生成された労務管理研 究の新たな方法論であり,新しい人事管理理念(従業員観と労務管理指導原理)である としてい

7

る。そして,岩出氏の研究において人的資源管理形成の背景のひとつとして取 り上げられているのが,アメリカ連邦政府による「マンパワー政策」(Manpower Pol-

icy)である。岩出氏はこのマンパワー政策について,

「たんに政府が主体となって行な

う職業指導や失業者のための再訓練計画などの職業政策を意味するものばかりでなく,

雇用上の差別撤廃をめざす労働立法を通じて現実に『人的資源』が雇用され活用される 場としての私企業における労務管理実践に対する大きな規制要因として作用することに なる。それ故,60年代以降の労務管理研究にあたっては,この『マンパワー政策』は 無視することのできない研究対象とな

8

る」としている。そして「政府に労働政策ないし 職業政策としての性格が強い『マンパワー政策』は労務管理実践に直接的な規制力を発 揮するため,労務管理研究においても人的資源の生産能力を重視する人的資本理論の考 え方が何らかの形で影響していると考えることができ

9

る」とするのである。また,連邦 政府による雇用への法的規制が人事労務管理の管理施策に与えた影響については,「政 府の『マンパワー政策』による雇用諸関係への法的規制の増大に伴なう労務管理実践の 対応の問題も労務管理研究上の大きな問題であるが,この問題は基本的に労務管理実践 の法的遵守のという観点が中心にあ

10

る」としている。

本稿では,岩出氏の研究に依拠しつつ,アメリカ連邦政府によるマンパワー政策をは

────────────

David E. Guest, Human Resource Management and Industrial Relations, Journal of Management Studies, 24 : 5, September, 1987, p. 503.

Ibid., pp. 507−508.

岩出 博「現代アメリカ労務管理論における『人的資源アプローチ』の研究−新たな人事管理理念の概 念的把握として−」『経済集志』第51巻第3号(1981年),37−84ページ。

同上論文,37ページ。

同上論文,45−46ページ。

同上論文,55ページ。

0 同上論文,68ページ。

人的資源管理生成の背景に関する一考察(谷本) 415)1

(4)

じめとした政策の展開を概観する。その上で,マンパワー政策,とりわけ教育振興策と 雇用における法的規制がどのような形で従来の人事労務管理施策の見直しを促進し,ま た人的資源管理生成への背景的要因として影響を及ぼしたのか考察を試みる。

2 次大戦後の連邦政府による人的資源開発

人的資源管理において,その管理の対象となる「人的資源」(Human Resources)とい う用語は,もともと経済学研究の領域で生成したと言われ

11

る。例えば,1918年に刊行 された

The Foundations of National Prosperity

には,既に国富の源泉として「天然資源」

(Natural Resource)に対応するものとして「人的資源」(Human Resource)が解説されて い

12

る。しかし,「主として教育投資された国民経済的な経済的資源ないしマンパワーと いう人間の生産能力(productivity)の経済価値を重視する理念を内包する

13

語」としての 認識を進める理論的基盤を提供したのは人的資本理論(Human Capital Theory)である とされ

14

る。

1−1

2

次大戦と冷戦による人的資源認識の契機

最初にアメリカにおける国家的課題であり,経済学の中心問題として人的資源の研究 が始まったのは

1950

年代からであった。第

2

次大戦中,アメリカでは,約

200

万人に 及ぶ徴兵期の青年が精神的,または性格的欠陥のために兵役を免除され,さらに

75

万 人が同様な理由で戦争中に除隊させられた。それゆえ,「1950年に,人的資源の分野に おける他の重要な諸問題とともに,この問題に対する答えを見いだすため,コロンビア 大学に人的資源開発問題研究会(The Conservation of Human Resources Project)が設け られ

15

た」。このプロジェクトでは,第

1

にアメリカの青年,特に軍に召集された人たち が十分に活動できない原因の探求,第

2

に,これとは逆に,より才能の優れた少数の者 により高度な業績をあげさせる方法の探求,そして第

3

にアメリカ人の生活における職 業の役割の変貌を評価する研究が取り組まれた。また,このプロジェクトには,GE,

デュポン,RCA,スタンダード石油などの大企業が賛助団体となり,さらにフォード

────────────

1 同上論文,41ページ。

Richard T. Ely et al., The Foundations of National Prosperity : Studies in The Conservation of Permanent Na- tional Resources, The Macmillan Company, 1918.

3 岩出,前掲論文,41ページ。

4 これに対し,第二次大戦後,経営学の領域で「人的資源」(Human Resources)の用語を用いてその重要 性を指摘した初期の研究としては,Peter F. Druker, The Practice of Management, Harper & Row, Publish- ers, 1954, pp. 262−311.〔上田惇生訳『[新訳]現代の経営(下)』ダイヤモンド社,1996年,114−196 ページ。〕があげられる。

Eli Ginzberg, Human Resources : The Wealth of a Nation, Simon and Shuster, New York, 1958, p. 9.〔大来 佐武郎訳『人間能力の開発:現代の国富論』日本経済新聞社,1961年,3ページ。

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2(416

(5)

財団の援助がこれに加わったのである

16

が,そこでは既に,人的資源の研究が,物理学と 工学との関係,つまり物理学の進歩が工業技術の発展をもたらしたの同じような関係 を,労使関係や人事問題との間にもつものであるという期待と認識が存在してい

17

た。

また,第

2

次大戦時のアメリカにおいて戦争に動員された人間能力の限界の認識とそ の限られた人間能力の活用,さらには朝鮮戦争の勃発時に生じた技術者や科学者の不足 が,アメリカの人間能力政策の必要を認識させ

18

た。

この時期,核兵器開発の分野でロシアがアメリカに急速に追いつきつつあったことな どから,科学分野での人間能力について,「共産圏との人間能力競争に負けるという脅 威ほど人間資源の重要性を大衆に自覚させるうえで貢献したものはなかっ

19

た」とされ る。特に

1957

10

月のソビエト連邦による世界初の人工衛星打ち上げ成功は,大陸間 弾道弾のような長距離核兵器に対する国防上の問題からも「スプートニク・ショック」

と言われるほどの大きな影響を与えた。このことは,単なる軍事上の問題から,さらに アメリカにおける科学技術教育の問題としてとらえられ,科学技術教育の振興を目的と して,1958年には国家防衛教育法(NDEA : National Defense Education Act, 1958.)が 成立・発効した。この法律は,国家防衛という軍事的な観点から作られた教育法である が,大学生・大学院生に対する奨学金の拡充や初等・中等教育における理数系教育の振 興など,アメリカの国策としての人的能力の開発に主眼がおかれるものとなっ

20

た。

これに加え,第

2

次大戦中の

1944

年に成立した復員兵援護法(G. I. Bill of Rights,

1944)により,連邦政府は大学へ進学する復員兵士に対して経済的援助を行った。この

政策は,元来,第

2

次大戦終結により動員解除となった復員兵が労働市場に殺到するこ とで仕事の需要と供給のバランスが崩れて失業・恐慌が発生することを,復員兵をしば らく大学に入れることで防ぐことを意図したものであっ

21

た。しかし同時に,この政策に よって計

45

万人の技術者,18万人の医師,15万人の科学者などが誕生

22

し,結果として アメリカにおける人材育成と教育水準の向上に貢献することとなったといえる。

つまり,「第二次世界大戦,朝鮮動乱,そしてその後の冷たい戦争の継続によって,

人間資源の向上の必要が警告され,国民の潜在能力のより建設的な活用のために積極策 を採ることへの刺激が生まれ

23

た」のであり,その結果,アメリカにおける人的資源開発 への認識が高められたのである。

────────────

6 加藤秀俊『人間開発』中央公論社,1969年,48ページ。

E. Ginzberg, op. cit., p. 10.,前掲訳書,4−5ページ。

Ibid., pp. 28−32.,同上訳書,28−32ページ。

Ibid., p. 32.,同上訳書,32ページ。ただし訳文は邦訳書と同じではない。

0 椙山正弘『アメリカ教育の変動』福村出版株式会社,1997年,107−124ページ。

1 中山 茂『大学とアメリカ社会:日本人の視点から』朝日新聞社,1994年,90−93ページ。

2 同上書,92ページ。

E. Ginzberg, op. cit., pp. 39−40.,前掲訳書,41ページ。

人的資源管理生成の背景に関する一考察(谷本) 417)1

(6)

1−2

経済成長要因としての人的資源の認識

人的資源の重要性を認識させたもう一つの側面として,第

2

次世界大戦後,1950年 代から

1960

年代にかけてのアメリカの対外政策の特徴の一つである発展途上国への積 極的な経済援助(Point Four Plan, 1947)があげられる。アメリカは発展途上国の経済 的・社会的安定をはかることでこれら諸国への共産主義勢力の浸透と防ぐと同時に,後 の西側資本主義諸国にとっての市場環境を整えることとなった。

このアメリカによる対外援助は,「これら諸国が基本的に貧しいのは資本が不足して いるからであり,追加資本が急速な経済発展の本当の鍵であ

24

る」という認識の下で行わ れた。そして「外部からのこれら諸国に利用可能な資本は,概して建造物や設備,そし て時には品物に

25

も」なったのである。

しかし,第

2

次世界大戦で荒廃したヨーロッパ諸国や日本がマーシャル・プラン等の 経済援助で急速に復興が進んだのに対して,戦争では被害を受けていないこれら発展途 上国はいくら援助をうけてもその発展は遅々として進まなかった。その結果,このよう な形で発展途上国へいくら援助をつぎ込んでも,教育・技術水準が上がらなければ大し て経済発展に役立たないことがやがて経験の上から明らかとなってきたのである。つま り,「優秀な機械があっても優秀な労働者がいなければ価値がな

26

い」のであり,「高度に 生産的な経済を発展させるには,天然資源,物的資本,非熟練労働の存在だけでは不十 分である。発展の原動力,エネルギー源として不可欠なものは,広範な人的技能であ

27

る」という認識が進むこととなったのである。

また,発展途上国の経済成長のみならず,アメリカの経済成長への貢献要因の研究が 進むにつれ,物的資本の蓄積の増大だけではその経済成長の説明がつかないことが明ら かになってき

28

た。これまで,経済の発展は,機械や設備,工場,あるいはその他の人間 が作った生産財という物的な資本の蓄積に依存するものと考えられてき

29

た。しかし,

「アメリカ経済の発展の研究者は,再生可能な物的資本の蓄積の増加は,今世紀の我々 ひとりあたりの生産量の成長の半分,あるいはそれ以下しか説明できない,と一貫して 結論づけてい

30

た」。そしてこの説明不可能な経済成長への貢献要因としては,規模の経 済や資本財の品質における改善,あるいは生産性を増加させる生産の組織化技術の改善

────────────

Theodore W. Schultz, Investment in Human Capital, The American Economic Review, Vol. 51, No. 1, March 1961, p. 7.

Ibid., p. 7.

E. Ginzberg, op. cit., p. 157.,前掲訳書,186ページ。

Theodore W. Schultz, Investing in People : The Economics of Populaton Quality, The University of California,

1981, p. 46.,〔伊藤長正・大坪壇訳『「人間資本」の経済学』日本経済新聞社,1985年,72ページ。

T. W. Schultz, Investment in Human Capital, p. 5.

Burton A. Weisbrod, Investing in Human Capital, The Journal of Human Resources, Vol. 1, No. 1, Summer 1966, p. 5.

Ibid., p. 6.

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4(418

(7)

が考えられたが,これらは必ずしも十分な説明とはみなされなかっ

31

た。これに対して,

「資本は工場や機械という実体的で,伝統的な形態と同様に,触れることのできない形 態で存在しうる。触れることのできない資本は,おそらく人々に,つまり労働資源(la-

bor resources)に具体化されるであろ

32

う」と考えられた。そしてこのことが, 人的資 本 (Human Capital)と呼ばれうる,生産的資源の混合物,つまり労働と資本の結合を 構成していたのであ

33

り,「人的資本は,健康と新しい知識を基盤とした訓練,教育,追 加的な能力によって表され

34

る」とされたのである。また,「人的資本は,人間が自らの 個人的な生産力を増加させるために利用してきた諸資源を表す。情報や労働流動性,健 康,教育,そして訓練への支出はすべて,労働者の生産的な能力,つまり彼の人的資本 を高めることができ

35

る」と考えられたのである。

そしてここから導き出されたのが,「高所得国と低所得国の経済の近代化の過程で肝 要なことは……人間資本,つまり人間の持つ技能と知識の経済的重要性が増加している

(傍点部は原文にてイタリックの箇所:執筆者

36

注)」という結論であった。つまり,発展 途上国への経済援助政策の行き詰まりとアメリカ経済の成長要因に関する研究の進展 が,経済成長における人間の果たす役割の重要性についての認識を深めることとなった のである。そして,物的な資本を活用する上で必要な人間の知識や技能を人的資本とと らえることが,教育・訓練への投資による人的資本の質的向上,人的資本の維持のため の健康への投資,さらには教育投資による労働者の賃金格差の研究などといった「人的 資本理論」(Human Capital Theory)へと発展し,1960年代にアメリカの経済学界で展 開することとなったのであ

37

る。

その上で,「人的資源への投資は,急速な経済的成長を保証するに十分なだけでな く,効果的な民主主義,あるいは問題のない社会ということである……健康と教育のプ ログラムは,生産性を向上させ,そして社会的進歩を早めるための重要な手段なのであ る。政府は,効果的な人的資源開発プログラムを促進する際に果たすべき非常に重要な 役割を持ってい

38

る」という人的資本理論の主張が,1960年代にアメリカ政府によって 実施された,いわゆる「マンパワー政策」の理論的基盤を提供することとなった。そし

────────────

Ibid., p. 6.

Ibid., p. 6.

Ibid., p. 6.

Teodore W, Schultz, Investment in Man : An Economist’s View, The Social Service Review, Vol. 33, No. 2, June 1959, p. 114.

B. A. Weisbrod, op. cit., p. 6.

T. W., Schultz, Investing in People, p. 6.,前掲訳書,18ページ。ただし訳文は邦訳書と同じではない。

7 人的資本理論が,なぜアメリカの経済学において革命的意義を持ったかについては,島田晴雄「アメリ カ労働経済学における人的資本理論革命」『思想』,19751月,37−51ページ;島田晴雄『労働経済 学のフロンティア』総合労働研究所,1977年,第2章を参照。

B. A. Weisbrod, op. cit., p. 21.

人的資源管理生成の背景に関する一考察(谷本) 419)1

(8)

てマンパワー政策を通じた人的資源の能力開発が,同時に人的資本への投資となること から,経済的成長要因としての人的資本という性格を包含した「人的資源」の概念を生 じることとなったと考えられるのであ

39

る。

アメリカ国内外の政策課題とマンパワー政策

アメリカ政府は国家的に,人間能力の開発,いわゆる「マンパワー政策」に積極的に 取り組むことになった理由であるが,それは前述の共産主義勢力への対抗という対外政 策上の要因に加え,さらに第

2

次大戦後のアメリカ国内外の経済的・社会的な事情によ ると考えられる。

2−1

アメリカの対外政策による影響

アメリカは第

2

次大戦後直後,資本主義世界の工業生産の

53.9%(1948

年),輸出の

32.5%(1947

年),さらには世界の金・外貨準備高の

53.7%(1948

年)を占めるに至っ

た。また,唯一の核保有国であり,ヨーロッパ,アジアをはじめ世界各地に軍事基地網 を張り巡らせたことから,アメリカは軍事的にも圧倒的優位性を保持してい

40

た。そし て,戦後,共産主義勢力を封じ込め,さらにはソビエト連邦との「冷たい戦争」という 路線の遂行という目的で実施されたのが,欧州や発展途上国への経済援助,さらには世 界各地へのアメリカ軍の展開であった。

これらアメリカの対外政策によって,経済援助の面では,第

2

次大戦によって荒廃し た欧州の復興のため,さらには発展途上国の工業化のためにこれら諸国へ大量のドルが 供給されることとなった。また軍事的な側面では,世界各地に展開したアメリカ軍をさ さえるため実施された軍需物資の域外調達や軍需生産用の戦略資源の買い付けが,結果 的に大量のドルを各国に供給することとなった。そして,これら世界各国に供給された ドルによって,工業化のための機械・設備などの資材が西欧諸国から調達され,それが 西欧諸国経済のその後の発展の重要な基礎となったのであ

41

る。

その結果,西欧諸国経済が復興するに伴い,資本主義世界経済におけるアメリカの圧 倒的な優位性は崩れはじめ,1950年代半ばからアメリカ経済に停滞傾向が現れ始め た。例えば,アメリカの経済成長率(実質

GNP

の平均伸び率)が

1950−55

年は

4.3%

だったのに対して,1955−60年は

2.3% へと低下す

42

る。また,1946年には完全雇用を目 標にして雇用法(The Empolyment Act, 1946)が制定されていたのであるが,この法律

────────────

9 岩出,前掲論文,45ページ。

0 佐藤定幸『20世紀末のアメリカ資本主義』新日本出版社,1993年,12ページ。

1 同上書,17−19ページ。

2 同上書,35−37ページ。

同志社商学 第53巻 第5・6号(22年3月)

6(420

(9)

では摩擦的失業を鑑みて失業率

4% で完全雇用が達成されると考えられていた。しか

し,戦後の失業率は

1953

年には一時

2.9% まで低下したものの,1954

年以降増加しは じめ,1958−59年の景気後退では

58

年に

6.8%,59

年に

5.5% を記録したのであ

43

る。こ の状況において,当時のアイゼンハワー(Eisenhower, D. D.)政権は,金融緩和と政府 支出(軍事支出を含む)の増大によって

1958

年から

1959

年の景気後退に対応しようと したのであるが,それは結果的にアメリカのインフレーションを促進した。そして,こ のインフレーションの進行が,「世界市場におけるアメリカ商品の国際競争力を著しく 弱めるこ

44

と」になり,さらなるアメリカの貿易収支,国際収支の悪化をもたらすことと なったのである。

2−2

アメリカの国内問題

また,アメリカ経済の停滞による失業問題の深刻化は,別な問題,つまりアメリカ社 会が内包する各種の社会的矛盾を表面化される恐れがあり,その中心的な課題が,貧困 問題,そして人種差別問題であった。

例えば,1959年にはアメリカの総人口のうち

22.4% が貧困層にあるとされたが,非

白人ではその過半数の

56.2% が貧困層に位置してい

45

た。さらに,非白人労働者の大部 分は景気変動に影響を受けやすい肉体労働に従事するものが大部分を占めてお

46

り,失業 率を比較しても,1959年には平均失業率は

5.5% であったが,白人の失業率が 4.9% な

のに対して非白人の失業率は

10.7% であったことなどか

47

ら,有色人種,とりわけ黒人 労働者に強い差別感を生じていたのである。

また,第

2

次大戦後,非白色人種の国家が次々に建国されるなか,アメリカが民主主 義の模範という姿勢をとるためには,国内の人種差別の存在は不都合なものであっ

48

た。

特に,1954年には最高裁判所が公立学校における人種差別施策への違憲判決を行い,

また

1955

年にはアラバマ州モントゴメリーで黒人によるバス・ボイコット運動が始ま るなど,1950年代後半から黒人差別の撤廃を求める公民権運動が高揚しはじめる。そ してこれらの要因から,失業率を低下させ,貧困層の所得を増大し,なおかつインフレ 率を抑えて物価を安定させるという政策的課題の解決策がアメリカ政府によって求めら

────────────

U. S. Bureau of the Census, Statistical Abstract of the United States : 1960, United States Government Printing Office, 1960, p. 206 ; 1964, p. 218.

4 佐藤,前掲書,34−35ページ。

U. S. Bureau of the Census, Staststical Abstract of the United States : 1970, p. 328.

6 統計上,1960年の時点で,非白人労働者のうちいわゆるホワイト・カラー労働者に分類されるものは 16.1% にすぎなかった(U. S. Bureau of the Census, Stastisical Abstract of the United States : 1970, p.

226.

U. S. Bureau of the Census, Stastistical Abstract of the United States : 1964, p. 218.

8 有賀 貞・大下尚一『概説アメリカ史〔新版〕』有斐閣,1990年,157−158ページ。;有賀 貞編『世 界史大系 アメリカ史2 1877年〜1992年』山川出版社,1993年,379−384ページ。

人的資源管理生成の背景に関する一考察(谷本) 421)1

(10)

れ,その結果,人的資本理論を援用した「マンパワー政策」がその解決策として

1960

年代に展開されることとなったのである。

マンパワー政策による能力開発と雇用差別是正の促進

3−1

マンパワー政策における各種立法

マンパワー政策は,直接的には構造的失業問題,つまり技術革新に取り残された労働 者の失業や開発の遅れた地域に集中しがちな失業を解決すること,さらにアメリカ社会 における人種的平等化の問題を解決するものとして期待され

49

た。そして「マンパワー政 策はこれらの不利な層に対して技能訓練をほどこし,彼等に対等な市場競争の条件を与 えることによって構造失業を減少させ,あわせて労働市場における雇用機会の均等化を めざし

50

た」のである。また,人的資本理論では,前述のようにその「基本的発想は,人 間を,投資によってその生産力を高めることができる『資本』とみなす視角にある。

(しかも:執筆者加筆)教育や訓練といった『投資』によって,労働者の体内に,知識 や熟練・技能といった形で『資本』が蓄積され,それがより大きな生産力を生むもとに な

51

る」と考えられた。そして,マンパワー政策では労働者,あるいは失業者の訓練・再 訓練により労働力の質的向上をはかることで,労働市場で求められる技能を有する労働 力の供給不足による賃金の高騰を防ぐ(=インフレの防止)と共に,労働者の雇用機会 を増加させうる(=失業率の低下)とされたのであ

52

る。

このように,アメリカの経済的・社会的諸問題の解決を期待されたマンパワー政策で あったが,その実施は,1961年に発足したケネディ(Kennedy, J. F.)政権によって始 まっ

53

た。

まず,1961年に地域再開発法(ARA : The Area Redevelopment Act, 1961)が制定さ れ,連邦政府による特別の資金援助によって失業が集中している開発の遅れた地域の開 発を促進し,同時に失業問題の緩和が試みられた。

続いて,1962年にはマンパワー開発訓練法(MDTA : The Manpower Development and

Training Act, 1962)が制定され,労働省の管轄下で低技能者に対する技能再訓練と雇用

斡旋が促進された。同法は,1963年以降,何度かの改訂を経て,その対象が壮年男子

────────────

9 島田,前掲『労働経済学のフロンティア』,107−108ページ。

0 島田,同上書,48ページ。

1 島田,同上書,112ページ。

2 島田,同上書,111−112ページ。なお,マンパワー政策の意義と理論について詳しくは,島田,同上 書,第5章を参照。

3 島田,前掲書,118−122ページ。;鈴木直次「一九六〇年代アメリカの社会改革と企業」(春田素夫編著

『現代アメリカ経済論−衰退と再生への模索−』ミネルヴァ書房,1994年),139−166ページ。;また,

雇用差別禁止法に関しては,中窪裕也『アメリカ労働法』弘文堂,1994年,第3章を参照。

同志社商学 第53巻 第5・6号(22年3月)

8(422

(11)

層中心だったものが若年者・黒人等の少数民族へ拡大され,さらに「単なる失業対策と いった性格を超えて,労働市場における競争条件に恵まれない労働者層に基本的な競争 力をつけることを企図して,体系的訓練計画を整備した点にその顕著な特徴を見ること ができ

54

る」ようになる。

また,1963年には職業教育法(VEA : The Vocational Education Act, 1963)と同一賃 金法(EPA : The Equal Pay Act, 1963)が制定される。職業教育法は連邦政府が各州に 職業教育を振興するための財政的援助を与えることを主眼としており,また同一賃金法 は,賃金に関する男女差別を禁止したものであった。

さらに,1963年に暗殺されたケネディ大統領の跡を継いで発足したジョン ソ ン

(Johnson, L. B.)政権は,翌年,ケネディが強力に押し進めた

1964

年公民権法(The Civil

Right Act of 1964)を成立させ,さらに経済機会法(EOA : The Economic Oppoturnity

Act, 1964)を制定する。この 1964

年公民権法は,あらゆる領域での人種差別を禁じて

いた点にその特徴がある。とりわけ,その第

7

編(TitleⅦ)は,雇用関係のすべての局 面について「人種,皮膚の色,宗教,性,または出身国」にもとづく一切の雇用差別を 禁止したという点において非常に画期的であり,さらに同法の施行を管理する機関とし て雇用機会均等委員会(EEOC : Equal Employment Opportunity Commission)が設置さ れた。また,経済機会法は経済機会委員会(OEO : Office of Economic Opportunity)を 設置し,職業訓練部隊(Job Corps),近隣少年訓練部隊(Neighborhood Youth Corps)な らびに勤労経験計画(Work Experience and Training)という三つの計画を通じて労働市 場の競争から脱落しがちな青少年や学生,高校中退者,貧困層の人々に多少ともやりが いのある仕事を提供し,貧困の克服を目的とする地域社会の環境改善計画に連邦政府の 援助を与えるものであった。

さらに翌

1965

年には,ジョンソン大統領の行政命令(Executive Order)11246号によ る積極的差別是正行為(Affirmative Action)の促進と連邦政府契約遵守監督局(OFCC :

Office of Federal Contract Compliance)の設置,1965

年社会保障法(The Social Security

Act of 1965)の制定による老齢者医療保険(Medicare)と低所得者医療扶助(Medicaid)

が開始され,それぞれ雇用差別の撤廃と老齢者,貧困層の医療水準の向上に大きく貢献 した。

同じく教育面においても,1965年には国家防衛教育法の改定という形で,初等・中 等教育法(Elementary and Secondary Education Act of 1965)と高等教育法(Higher Edu-

cation Act of 1965)が成立する。前者は連邦政府から州政府に教育関連の補助金を交付

することで英才教育の促進や貧困家庭への奨学金の充実化などをはかり,また後者は,

「大学と大学院の充実によって,科学者・技術者・医師・法律家などトップ・レベルの

────────────

4 島田,前掲書,120ページ。

人的資源管理生成の背景に関する一考察(谷本) 423)1

(12)

専門的で有能な人材を,数の上でも十分に養成することを目的としたものであっ

55

た」。 また,雇用に関する法律としては,1967年に雇用における年齢差別禁止法(ADEA :

Age Discrimination in Employment Act, 1967),1970

年には職業安全衛生法(OSHA : Oc-

cupational Safty and Health Act, 1970), 1974

年には従業員退職所得保障法(ERISA : Em-

ployee Retirement Income Security Act, 1974)が制定されるなど,1970

年代にも様々な 雇用差別を禁止する,あるいは雇用条件を改善する立法措置がとられたのである。

3−2

雇用への規制強化の影響

企業の雇用面で直接的な影響を及ぼしたのが,このマンパワー政策を通じて制定され た各種の法律であった。マンパワー政策による立法措置は連邦政府や州政府による雇用 条件に対する規制を強化し,結果的に雇用差別禁止法などに対応するため企業の関心を 雇用の問題へと向けさせることとなったのである。

例えば,雇用差別に関する訴訟が生じた場合,企業はその訴訟に負ければ多額の賠償 を支払わなければならなくなっ

56

た。またアファーマティブ・アクションにより連邦政府

と年間

10,000

ドル以上の契約をする企業は,自社内に雇用差別が存在する場合は政府

との契約が解除されることとなり,事実上,全ての大企業が雇用慣行について政府の監 査を受けることとなった。とりわけ,50人以上の従業員を雇用し,50,000ドル以上の 契約を連邦政府と結ぶ場合,アファーマティブ・アクションの実施計画の作成とその遵 守が求められたのであ

57

る。そして,企業にとってアファーマティブ・アクションの実施 計画を達成するためには,女性や有色人種の雇用者数の増加と管理職登用のために新た な雇用制度と特別な訓練計画が求められたのであ

58

る。このことは企業内部の人的資源の 流れと政策に関する分析を必要とすると同時に,職員の地位と異動に関する情報の収集 を促進した。さらにこの傾向は,低価格での資料・情報の処理サービスが利用可能にな ったことによっても促進され

59

た。

また,アファーマティブ・アクションの実施に関して,修正命令第

4

号(Revised Or-

der No. 4)は,経営者にアファーマティブ・アクションを正当化することに責任を負わ

せると同時に,全階層の管理者が実施計画の策定に関与することの重要性を強調してい

────────────

5 椙山正弘『アメリカ教育の変動』福村出版株式会社,1997年,124−125ページ。

6 例えば,AT & Tはある雇用差別訴訟の賠償として3,800万ドル,別件で2,500万ドルを,また9つの 鉄鋼会社がある訴訟で合計3,100万ドル,を支払っている。(Herbert E. Meyer, Personnel Directors Are The New Corporate Heroes, Fortune, February, 1976, p. 88.

Allen R. Janger, The Personnel Function : Changing Objectives and Organization, Conference Board, 1977, p.

4.

H. E. Meyer, op. cit., p. 88.

Thomas A. Kochan, Harry C. Katz, and Robert B. McKersie, The Transformation of American Industrial Rela- tions, 2 nd ed., ILR Press, 1994, p. 43.なお,人事部門へのコンピューター導入の影響については脚注58 の文献を参照。

同志社商学 第53巻 第5・6号(22年3月)

0(424

(13)

60

る。そして,アファーマティブ・アクションの実施計画の策定は,企業にとって長期的 な要員計画の策定にも影響を与え,また同時にマイノリティや女性労働者を積極的に登 用するための教育訓練を促進したのであ

61

る。

このように,「1960年代に始まり,それ以降加速化されたのであるが,雇用慣行につ いての一連の法律,採用試験の利用,報酬,年金プラン,安全と健康,そして管理者の 要員配置の職務のその他の側面が,人事の専門家をより重要なものにし

62

た」のである。

これらの連邦政府によるマンパワー政策と法的規制の強化という外的な要因が,従来の 人事労務管理政策を見直すひとつのきっかけを与えることとなったと言える。

労働者の欲求変化と人事労務管理施策の変化

4−1

従業員の欲求・価値観の変化と職務形態の問題

2

次大戦後,アメリカではマクロ経済のレベルでは,マンパワー政策による人的資 源の開発を通じて経済的・社会的諸問題の解決が試みられた。その結果,1965年以 降,失業率は低下したが,その一方で消費者物価指数の上昇率は増加し,また民間企業 部門における労働生産性上昇率は,1948−65年は年平均

3.2% で推移したのに対して,

1965−73

年は平均

2.4%,1973−79

年では平均

0.8% と停滞傾向を示すようになっ

63

た。

従来,アメリカ企業は,第

2

次大戦後の技術革新の進展に伴い,生産部門へのオート メーションの導入によって生産性の向上を積極的にはかってい

64

た。しかし,1960年代 末には加工組立型の量産産業を中心にアブセンティズム(absenteeism)やストライキに よる年間労働損失日の増加,離職率の上昇,さらには仕損率の上昇や製品品質の低下な ど,さまざまな問題が顕著化しはじめる。そして,従業員の勤労意欲の低下と職務不満

────────────

James Ledivinka and Vida G. Scarpello, Federal Regulation of Personnel and Human Resource Management, 2nd ed., PWS−KENT Publishing Company, 1991, p. 178.

1 要員計画(Human Resource Planning)へのアファーマティブ・アクションの影響については,Andrew F. Sikula, Personnel Administration and Human Resources Management, John Wiley & Sons, Inc., 1976, pp.

164−175.を参照。

D. A. Wren, op. cit.,p. 377.

Economic Report of the President, Transmitted to the Congress January 1981, United States Government Print-

ing Office, 1981, p. 69.〔経済企画庁調査局監訳『アメリカ経済白書 1981年版』大蔵省印刷局,1981

8月,52ページ。

4 アメリカにおけるオートメーションの導入については,例えば,中山秀太郎『オートメーション』岩波 書店,1957年;小林 勇『オートメーションと労働運動』合同出版社,1958年を参照。また,人事部 門へのコンピューター導入の影響については次のような指摘がある。「大手企業の人事政策もまた戦後 の新しいコンピューター技術の発展により大きな影響を受けた。企業は,初めて自社で利用可能な人事 ファイル(その一部は差別に関する訴訟の結果まとめられたのである)をコンピューター化し,社内労 働市場のより詳細で厳密な追跡と分析を可能とした。これらの新しい技術は,人事政策を企業の政策立 案のより不可分な部分に変え始めているし,今後とも変えていくこととなろう」(Martin Feldstein ed., The American Economy in Trantision, National Bureau of Economic Research, 1980, p. 379.〔宮崎勇監訳

『戦後アメリカ経済論(下)』東洋経済新報社,1985年,39ページ。ただし邦訳は必ずしも訳書と同じ ではない。

人的資源管理生成の背景に関する一考察(谷本) 425)1

(14)

の増大が,生産性上昇率の鈍化をはじめ産業全体のパフォーマンスに重大な影響を与え たと考えられ

65

た。

この従業員のモラール低下の原因については,まず,その社会的な背景が指摘され る。1960年代,公民権運動や学生運動,黒人暴動の激化,さらにはベトナム反戦運動 などの展開により旧来の価値体系が動揺し,「対抗文化」(counter culture)と呼ばれる 新たな価値観が生み出された。そしてこれらの運動の担い手・支持者となったのが,第

2

次大戦後のベビー・ブームに生まれた若い世代であり,彼らの価値観の変化が指摘さ れてい

66

る。

また,彼ら若い世代は,かつての移民労働者や彼らの両親の世代とは異なり,経済的 にも豊かな時代に育ち,教育水準も高くなっ

67

た。特に教育水準について言えば,1950 年には

25

歳以上で高校卒業以上の学歴を有する者は

34.3%(大卒以上 6.2%)

,25−29 歳に限れば

52.8%(同 7.7%)であったが,1970

年には

25

歳以上で高校卒業以上の学 歴を有する者は

55.2%(大卒以上 11.0%)

,25−29歳では

75.4%(同 16.4%)にまで向

上してい

68

る。その結果,彼らは仕事に対して経済的な報酬よりも,「より多くの自律 性,技術向上の機会増大,労働の内面的側面に直接結びついた報酬,労働設計と作業形 成への参加増

69

大」を求めるようになったとされる。また,1960年代後半はアメリカの 労働市場はほぼ完全雇用を達成し,労働者が職務に不満を持った場合,労働移動が比較 的容易であったことも離職率を引き上げる要因になったといえよう。

従来,アメリカ企業の職務形態,特に生産部門の職務形態は,基本的に職務を細分化

・単純化する方向で発展してきた。歴史的に見れば,20世紀初頭の科学的管理法の展 開,あるいは,それに続くフォード・システムとして知られる大量生産方式の成立が,

生産の計画と執行を分離させ,作業方法を標準化し,また作業速度をベルトコンベアー 等の機械によって統制することで生産性の向上をはかってきたのである。

だが,このように単純化・細分化された職務形態は,教育水準が向上し仕事そのもの への欲求が変化した若い世代の労働者を満足させるものではなかった。確かに,オート メーションの導入をはじめとする生産設備の機械化・自動化は生産現場の労働を軽減 し,労働者に仕事における自主性・自律性を取り戻すことが期待された。しかし,各産 業ごとの生産方式における技術特性の違いから,石油・化学産業のような装置型産業と

────────────

James O’toole ed., Work in America : Report of a Special Task Force to the Secretary of Health, Education, and Welfare, The MIT Press, 1973, pp. 10−11.〔岡井紀道訳『労働にあすはあるか』日本経済新聞社,1975 年,27−28ページ。;鈴木直次「労使関係」(馬場宏二編『シリーズ世界経済Ⅱ,アメリカ−基軸国の 盛衰−』お茶の水書房,1990年),126−127ページ。;奥林康司『増補 労働の人間化−その世界的動 向−』有斐閣,1991年,156ページ。

6 有賀・大下,前掲書,159−164ページ。

J. O’toole, op. cit., pp. 33−34.,前掲訳書,57−58ページ。

U. S. Bureau of the Census, Stastistical Abstract of the United States : 1980, p. 148.

Ibid., p. 13.,同上訳書,31ページ。

同志社商学 第53巻 第5・6号(22年3月)

2(426

(15)

自動車産業のような加工組立型産業ではオートメーションの導入状況は大きく異なって おり,必ずしも全ての労働者の仕事における自律性や技能向上をもたらす状況にはなか ったし,その影響もごく一部に限られてい

70

た。特に自動車産業の組立ラインに象徴され る加工組立型産業の生産現場では,依然として細分化・単純化された定型的な職務に従 事する労働者が存在していたのである。その上で,一般的傾向としては,労働者が自律 性の低い定型的な職務に従事することは労働生活における疎外現

71

象を引き起こし,職務 不満を増大させ,それが結果的として労働者のモラールの低下を招いたと考えられ

72

た。

そして,それが生産部門ではアブセンティズムによる損失日数の増加や支部組合レベル での労使関係上の苦情処理件数の増加となって現

73

れ,最終的に労働生産性上昇率の低下 へとつながっていったと考えられたのである。

4−2

ホワイトカラー層における労働者の状況

2

次大戦後の企業組織の拡大と管理階層の増加,専門的・技術的労働者の増大,さ らには販売組織の拡充等の結果,1955年−1960年にはホワイト・カラーとブルー・カ ラー労働者の構成比率が逆転してい

74

た。しかし,かつてはホワイト・カラーの事務職に ある労働者は経営者の補佐役として権限・自律性の高いエリート職とされていたが,こ の時期,ホワイト・カラー層の労働者のうち事務職(clerical workers)や販売職(sales

workers)などの職種は,ブルー・カラー労働者と同様にその職務は単純化・細分化さ

れ,個々の労働者は反復的な手続きに従う定型的な職務を遂行することが求められてい

75

た。

────────────

0 産業により生産部門の技術特性によって労働者のおかれた状況がそれぞれどのように異なっていたかに ついて詳しくは,Robert Blauner, Alienation and Freedom : The Factory Worker and His Industry, The Uni- versity of Chicago Press, 1964, p. 15.〔佐藤慶幸監訳『労働における疎外と自由』新泉社,1971年。〕を 参照。

1 この時期,展開された「疎外」(alienation)の問題について,R. Blaunerは,「疎外が生まれるのは,労 働者が自分たちの直接的な作業工程を統御したり,自分たちの仕事と全体の生産組織とを関連づける目 標感や職務遂行感を身につけたり,個々の統合された産業共同体に帰属することができないときであ り,また自己表出の一様式である労働活動に熱中できないときである」と述べており,その特性として

①無力性,②無意味性,③孤立,④自己疎隔,の4点をあげている。(R. Blauner, op. cit., p. 15.,前掲 訳書,39−40ページ。

J. O’toole, op. cit., pp. 29−56.,前掲訳書,51−82ページ。

3 工場労働における疎外が最も高いとされる自動車産業では,例えば,GMにおけるブルーカラー労働者 100人あたりの成文化された苦情件数は,1960年には50.4件であったが,1973年には71.9件に増加し ている。また,支部組合の協約交渉での問題件数は,1958年には11,600件であったが,1961年には19,000 件,64年には24,000件,67年には27,000件,1970年には39,000件へと増加している。(T. A. Kochan, H. C. Katz and R. B. McKersie, op. cit., p. 39.

1955年にはホワイトカラー,ブルーカラーに分類される雇用者は,それぞれ2,458.5万人と2,477.1 人であったが,1960年にはそれぞれ2,872.6万人と2,421.1万人と逆転している。(U. S. Bureau of the Census, Stastistical Abstract of the United States : 1967, p. 230.

5 第二次大戦後のホワイト・カラーについては,C. Wright Mills, White Collar : The American Middle Class, Oxford University Press, 1951, pp. 63−286.〔杉 政孝訳『ホワイト・カラー−中流階級の生活探求−』

東京創元社,1971年(改訂),第2部,第3部〕;Judson Gooding, The Fraying White Coloar, Fortune, 人的資源管理生成の背景に関する一考察(谷本) 427)1

(16)

しかも,従来は政府,産業とも定型的な低級なホワイト・カラーの職務は高卒者が占 めていたが,組織規模の拡大と共にこれらの職務が増加した結果,大卒者もそのような 職務に従事するようになっ

76

た。しかし,高学歴が要求されるからといってその仕事の威 信や地位,賃金,あるいは職務の困難さが高まるわけではなかっ

77

た。しかも処遇の面で は,労働組合が組織されて賃金について比較的交渉力の高いブルー・カラー労働者に比 べて,ホワイト・カラー層の労働者の方が賃金が低くなる場合も生じていた。例えば,

1920

年までは,ホワイト・カラー労働者はブルー・カラー労働者に比べて

50%−100

%多く賃金が支払われていたが,1954年までには賃金はブルー・カラー労働者に比べ

4% 低くなっており,1969

年には生産労働者に対する平均週給が

130

ドルだったの

に対して,事務労働者の平均週給は

105

ドルであっ

78

た。それゆえ,事務職・販売職など で定型的な職務に従事するホワイト・カラー労働者に職務不満が増大することとなった のである。

また,ホワイト・カラー層の労働者構成についても,1950年には専門職・管理職者

数が

1,091.9

万人に対して事務職・販売職に従事する者は

1,145.4

万人であったが,1960

年にはその構成比は専門職・管理職者数は

1,454.2

万人に対して事務職・販売員職に従 事する者が

1,418.4

万人と逆転する。さらに

1970

年には,その構成比が専門職・管理職

者数は

1,942.9

万人に対して事務職・販売職に従事する労働者数は

1,856.8

万人と格差は

拡大してい

79

る。

これらホワイト・カラーの中でも専門的・技術的な職種に従事する労働者は,ブルー

・カラー層やホワイト・カラーの低級な事務労働者とは異なり,自律性の高い非定型的 で創造性の重視される仕事に従事していた。そして,専門職・技術職や管理職に従事す る労働者数の増大は,従来の定型的な職務形態を基礎とした人事労務管理制度では十分 に対応できない状況を生みだしていたのである。

しかも,復員兵援護法や国家防衛教育法など,国策としての科学者,技術者をはじめ とする専門職の養成は,第

2

次大戦後の企業組織の拡大や技術開発に必要とされる人材 を供給した。しかし,労働者の教育水準は向上しながらも,必ずしもその全てを専門職

・技術職などの高学歴を要する職務が吸収することができなかったのであ

80

る。その上,

「労働者の教育水準が高いほど,教育水準の低い人に比べて生産性が高く,訓練でき自

────────────

December, 1970, pp. 78−81., pp. 108−109. ; Harry Braverman, Labor and Monopoly Capital : The Degrada- tion of Work in the Twentieth Century, Monthly Review Press, 1974, PartⅣ,pp. 293−374.〔富沢賢治訳『労 働と独占資本』岩波書店,1978年,第4部,317−407ページ〕を参照。

M. Feldstein, op. cit., pp. 363−365.,前掲訳書,20−22ページ。

J. O’toole, op. cit., p. 39.,前掲訳書,65ページ。

Judson Gooding, The Fraying White Coloar, Fortune, December, 1970, p. 79.

U. S. Bureau of the Census, Stastistical Abstract of the United States : 1971, p. 222.

M. Feldstein, op. cit., pp. 573−575.,前掲訳書,274−277ページ。

同志社商学 第53巻 第5・6号(22年3月)

4(428

(17)

主性も高いであろうという信

81

念」から,従来は低学歴の労働者が従事していた職務によ り高学歴の労働者が従事する傾向が強められた。そして,仕事の内容そのものは変化し ていないにも関わらず,必要とされる学歴条件だけが引き上げられるという状況となっ たのであ

82

る。

この結果,労働者層全体として教育水準の向上により仕事に対する期待・欲求は高ま っているにも関わらず,実際に彼(彼女)らの従事する職務は低学歴・低技能の労働者 でも遂行可能な細分化・単純化された定型的な職務であるという状況が生じたのであ る。つまり,ブルー・カラー層,ホワイト・カラー層の両者においてその多くの場合,

従業員の仕事への欲求水準と従事する職務形態の不適合(mismatch)が生じ,それが従 業員の職務不満を引き起こしていたと言える。そしてその一方では,専門職・技術職の ような非定型的な職務に従事する者も増大しており,これら二つの側面から,従来の人 事労務管理の前提であった「細分化・単純化された定型的な職務形態」とその管理施策 自体を見直す必要性が生じていたのである。つまり,第

2

次大戦後の連邦政府による教 育振興政策は労働者の教育水準の向上と同時に,彼(彼女)らの仕事に対する期待感や 欲求を変化させた。それは経済的・社会的発展に必要な人材を供給するとともに,企業 の従来の人事労務管理政策では対応し難い状況を生じたのである。その結果,企業にと っていかに従業員の仕事に対する新たな価値観・期待感にこたえ,かつ不安定化した作 業現場の労使関係の改善や低下した労働者のモラールを回復し,それをいかに労働生産 性向上に結びつけるかが重要な課題となった。第

2

次大戦後の連邦政府による政策が,

間接的かつ結果的にではあるが,企業の人事労務管理施策,とりわけ職務形態の問題に 影響を及ぼすことになったのである。

4−3

職務再設計と人事労務管理施策の変化

企業にとって,労働者のモラールの低下,さらには労働生産性上昇率の低下は,従業 員の欲求変化に対して,従来の細分化された職務形態を基盤とした人事労務管理施策に 限界が生じてきたと認識されていた。

これに対して

1950

年代末から登場した,人間の動機付け要因としての欲求水準の研 究や仕事における満足要因(動機付け要因)と不満要因(衛生要因)の研究,さらには 管理者の従業員観の問題や個人の成長・発達と組織目標の統合の問題についての研究な ど,「行動科学」(Behavioral Science)や後の「組織行動論」(Organizational Behavior)

などの諸研究は,従業員と職務形態との不適合,組織形態や管理施策の問題について,

人事労務管理施策を改善するための方向性を示していた。経営者は,労働者の仕事に対

────────────

J. O’toole, op. cit., p. 135.,前掲訳書,141ページ。

J. O’toole, Ibid., Chapter 5.,同上訳書,第4章。

人的資源管理生成の背景に関する一考察(谷本) 429)1

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