• 検索結果がありません。

ベトナムの世界遺産ホイアンの観光と日本町の記憶

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "ベトナムの世界遺産ホイアンの観光と日本町の記憶"

Copied!
17
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

Ⅰ はじめに

Ⅱ 場所の設定

1)歴史-地理的状況 2)世界遺産登録のプロセス

Ⅲ ガイドブックにみる表象 1)ホイアンの町並み概観

2)日本のガイドブックにおける世界遺産

登録前後の変化

3)ベトナムにおけるガイドブック

Ⅳ 日本人による報告

1) 「文献」にみる日本との関係 2)要人の訪越とメディア 3)ホイアンにおける日本の表象

Ⅴ ベトナム人からみた日本と日本人

pp. 32-48.

ベトナムの世界遺産ホイアンの観光と日本町の記憶

World Heritage Tourism in Hoian, Vietnam and the Historical Memory of the Japanese Town

*大 塚 直 樹

Naoki OTSUKA

Abstract: Hoian is a city in Quangnam Province on the coast of South China Sea, about 30 km south of Danang city. In this city, there was an ancient town that used to be an internation- al trade port of Vietnamese dynasty from the 16th to 18th century. During this commercial period, there were many merchants from China, Holland and Portugal as well as Japan whose merchants had settled in this area. UNESCO declared Hoian ancient town a World Heritage site in December 1999 based on reason for being an exceptionally well-preserved example of a traditional Asian trading port. Hoian city is now one of an attractive tourist destination in Vietnam. The purpose of this study is to consider the spatial relationship between the memory of Japanese historical town and the tourism development in Hoian ancient town. In summary as follows: Firstly, the memory of a Japanese town in Hoian is selectively used. Japaneseness in Hoian ancient town is confirmed as a result of the research from archeological and histori- cal science, but is not found in the existing landscape of architecture. However, there is the narrative of not only a historical fact of Japanese town but also some Japanese architectural elements of the present town. Secondly, on the one hand, such narrative is found in the Japan- ese guidebook, the Japanese sightseeing behavior and local resident's tour guide. On the other hand, in some Vietnamese guidebooks, Hoian is described as the city specified for a historical trading town as well as a UNESCO World Heritage site, and Japaneseness is only treated as one of historical components.

Key words: ホイアン(Hoian) ,日本町(Japanese town) ,場所/空間(Place/space) ,歴史 的記憶(Historical memory) ,世界遺産観光(World heritage tourism)

*立教大学観光学部・プログラムコーディネーター

(2)

1) 「公式」な見解

2)ホイアンにおける日本的なるもの 3)語られない記憶

Ⅵ 結論

Ⅰ はじめに

ホイアン市は,ベトナム中部のクアンナム省に 位置し,省都タムキー市とともに,同省に二つあ る市(Thanh pho)の一つである.ホイアン市は,

観光地として国内外に知られており,省都よりも 知名度が高い.特に,1999 年 12 月にユネスコの 世界遺産に登録されて以降,旅行ガイドブックな どで文化遺産という概念と結合したイメージで紹 介されるようになった.

ただし,ホイアンは,世界遺産登録以前にも観 光というコンテクストの中でしばしば登場してき た.例えば,ダイヤモンド・ビック社の『地球の 歩き方』シリーズで,ベトナムが初めて書名に記 された 1989 年の『地球の歩き方フロンティア ベトナム』の中で,すでにホイアンが観光スポッ トとして取り上げられている.

周知のようにベトナムでは,1986 年の共産党 第 6 回党大会にて従来の社会主義路線の転換がは かられ,ドイモイ路線,つまり改革開放政策が提 唱された.このドイモイ路線を,現在のベトナム における観光政策・開発の政治的起点とみなすな らば,1989 年に出版された『地球の歩き方 フ ロンティア』は,日本で出版されたベトナムガイ ドブックの草分け的存在とみなすこともできる.

このガイドブックの中でホイアンは,「ダナン 市から 30 km 離れた所にある町.人口 6 万 5 千人.

17 世紀に日本人町を形成したゆかりのある町で ある」と紹介されている

1)

.つまり,この時点で ホイアンという町は,すでに観光地として対象化 されていただけでなく,その特色が「日本とのゆ かり」,すなわち日本町の「痕跡」にあったこと がわかる.言い換えれば,観光地としてのホイア ンは,日本町の記憶とともに生成され,世界遺産 登録によってその表象が具現化してきたと捉える ことができる.

ホイアンにおける日本町については,考古学的

には,その出土品など数多くの証拠が提示されて いる.しかし,現存する当該地域の町並みを建築 学的に観察すると,その「痕跡」を確認すること ができない.これに対して,観光地ホイアンにみ られる語りでは,建築物を含めて日本とのさまざ まな「同時代的結びつき」が強調される.一例を 挙げれば,「この建物には日本の建築様式が取り 入れられている」などの言説である.

このような現象は,一方において,ホイアンが 科学的知識に基づく「中国の影響を受けたベトナ ム式の建築景観」という一つの固定的空間として 表象され,他方において,日本町という歴史的記 憶と観光がからみ合うことで,ホイアンの景観が 複層的に語られていると捉え直すこともできる.

観光という文脈におけるこうした「誤謬」を,

非科学的,あるいは非論理的であると否定するこ とはたやすい.しかし,科学的知識に基づく一枚 岩的な否定は,現地社会のローカルな実践を排除 するだけでなく,地理学的想像力,つまり「『空 間的諸関係のなかに自らを接続,再接続する』主 体の『空間的実践』 」 (加藤,2002 : 103)を等閑 視してしまう.

従来のホイアン研究では,まず交易都市として の機能に着目した研究が挙げられる.岩生(1966)

は,南洋日本町の研究の中で,ホイアン(当時の 交趾)日本町に関して,その規模,行政機構,主 要な人物,経済活動などを明らかにした.小倉

(1989)は,朱印船貿易と日本町の盛衰の関係を 検討しつつ,現地調査からホイアンの日本町の現 状も報告した.

次に,華僑・華人社会・コミュニティの研究が 挙げられる.陳荊和(1970)や藤原(1986)は,

「鎖国」政策によって,日本町が衰退した後に増 加したホイアン在住の華僑・華人について主に史 料から研究し,明香(郷)社の成立の契機,明郷 の由来やその特徴を明らかにした.三尾(2006)

は,こうした明郷・明郷社の研究に言及しながら,

ホイアンにおける中国系移民を「僑居化」と「土 着化」という視点から分析した.

第 3 に,ホイアンの建造物群やその景観に関す

る研究が挙げられる.1980 年代からホイアンの

建築物に関する調査が進められ,その集大成とも

(3)

いえる国際シンポジウムが 1990 年に開催された

(UBQGHTQT ve Do Thi Co Hoi An,1991 ;日本 ベトナム研究者会議,1993).このシンポジウム では,考古学,歴史学,建築学など多方面からの 研究発表が行われ,ホイアン文化の歴史的複合性 が明らかにされた.菊池(2003 b)は,考古学的 視点からこの古都市ホイアンに関する総合的な研 究成果を発展させ,より重点的な陶磁器の発掘・

分析を行うともに,日本町の位置に関する考察も 行った.

最後に,観光地ホイアンに関する研究が挙げら れる.芹澤(2006)は,世界遺産登録について,

社会的ネットワークの視点から考察した.そして ホイアンの世界遺産登録以前に,日本とホイアン との間に草の根の協力関係がみられ,それがホイ アンの町並みの保全や活用に積極的に作用したこ とを指摘した.大平(2007)は,ホイアンのホテ ルの設備・内装や,主として英語のガイドブック の分析から,当該地域における日本の表象の特徴 を指摘した.

本稿は,以上のような先行研究に言及しつつ,

「かつてホイアンに日本町があった」という歴史 的記憶と当該地域の観光化現象との相互作用,特 にユネスコ世界遺産への登録を前後したホイアン の観光実践を記述すること,そうした記述的な分 析に基づいて,社会空間の生産の多様なプロセス の一端を明らかにすることを目的とする.具体的 には,フィールド調査,旅行ガイドブック分析お よび文献調査により,ホイアン日本町の歴史的記 憶 を め ぐ る 空 間 的 諸 実 践 を 把 握 し よ う と 試 み る

2)

Ⅱ 場所の設定

1)歴史―地理的状況

ホイアン市は,ベトナム中部最大の商業都市で あるダナン市の南約 30 キロメートルに位置する.

ホーチミンやハノイから最短でアクセスする場合 には,空路を使いダナン空港まで行き,そこから 陸路を南下することになる.したがって,観光地 として必ずしもアクセスのよい立地条件とはいえ ない.ホイアンは,トゥーボン(Thu Bon)川に

面した沿岸都市で,市域面積が約 6,068 ヘクター ルとなっている.このホイアン市の町並みの一角

(旧市街),およそ 30 ヘクタールがユネスコ世界 遺産に登録されている.

現在,ベトナム中部第 1 の国際商業港といえば,

間違いなくダナンが挙げられる.しかしかつての ホイアンは,そのダナンを凌ぐほどの貿易港を有 していたといわれる.16 〜 18 世紀には,海上貿 易の拠点として,鎖国令発布以前には多くの朱印 船も来港した(岩生,1966 : 9–13) .

ホイアンが国際港として発展した理由として以 下の 3 点を指摘できる.第 1 に,ベトナム中部が

「海のシルクロード」に位置していたことが挙げ られる.紀元前千年紀末には,現在,海のシルク ロードと呼ばれる航路が確立していたといわれ る.この航路では,南シナ海の中央にある大暗礁 地帯を避けるために,ベトナムの中部沿岸がその ル ー ト の 一 部 と し て 利 用 さ れ た ( 桃 木 ほ か , 1999 : 24–26) .

第 2 に,2 〜 17 世紀にかけて,この地域一帯を 勢力圏としていたチャンパ王国の存在である.狭 義のベトナム人による「南進」のプロセスでホイ アン一帯がベトナム王朝の勢力範囲となるまで,

現在のベトナム中部には,チャム族と呼ばれる人 びとが緩やかな統治の下で一つの王国を形成して いた.海の民ともいわれるチャンパの人びとは,

交易に利する河川を基盤として,その川筋の河口 域に交易都市を造り,上流部に政治的中心地とな る都市を建設した.さらにその内陸部に聖地を創 設した(Tran Quoc Vuong,1995 : 20–24) .

ベトナム中部の各地に存在した,そうした地方 勢力の一つ,トゥーボン川に沿った現在のホイア ンを港湾都市として,政治都市をチャーキエウ,

聖地をミーソンに建設した人びとがチャンパ王国 の中枢に位置した.つまり,ホイアンは,歴史的 にみるとチャンパ王国の中心的な交易都市として 基盤整備され,発展してきた

3)

第 3 に,ホイアンの地形的な特徴が挙げられる.

ホイアンは,トゥーボン川の河口に位置し,この

川や支流を使って,周辺地域へと移動する交通の

要衝となっていた.さらに,海岸には砂州が形成

され,外海からの影響を受けにくく,中州などに

(4)

囲まれた潟が船舶にとって格好の停泊地を提供し ていた(ホイアン町並み保存プロジェクトチーム,

1997 : 1) .

このような要因で,ホイアンは国際交易都市と して発展してきた.しかし,18 世紀以降,土砂 の堆積によって地形が変化したこと,近代的な大 型船の就航には適さない地形であったこと,さら には 19 世紀以降,商業都市としてダナンが成長 してきたことなどの理由によって,交易都市ホイ アンは衰退した(小倉,1989 : 35) .そして商業 都市としてのこの低迷が,開発による都市景観の 変化を最小限に抑え,ホイアンの木造建造物群の

「保存」を可能にするとともに,現在の観光地と しての発展を促すという逆説的状況を生みだす一 因となった.

2)世界遺産登録のプロセス

世界遺産という概念は,1972 年にユネスコが 採択した「世界の文化遺産および自然遺産の保護 に関する条約(通称,世界遺産条約)」によって 制度化された.この条約によれば,世界遺産委員 会によって「卓越した普遍的価値( outstanding universal value)」をもつと認定された対象は,ユ ネスコの世界遺産リストに登録される.

ユネスコの世界遺産という概念の普及には,以 下 2 点が貢献した.第 1 に,世界遺産条約に加盟 し,登録世界遺産を有していることで,世界遺産 基金を利用した当該遺産の保護活動が行える点が 挙げられる.世界遺産基金は,条約加盟国による 分 担 金 の 拠 出 に 基 づ い て い る . 第 2 に , 特 に 1990 年以降,世界遺産を擁していることで,加 盟国の国際的威信の増大をもたらし,同時に観光 客の誘致にともなう経済的効果を生じさせた点が 挙げられる(青柳・松田,2005 : 7–8) .

確かに,観光客を受け入れない世界遺産も存在 する.しかし,「ユネスコ世界遺産=観光名所」

というイメージはすでに定着している.世界遺産 が加盟国,特に有力な外貨獲得手段をもたない国 にとっては貴重な資金源になっている.ホイアン は,前述のように 1999 年 12 月に世界遺産に登録 された.ホイアンの世界遺産への登録は,こうし た社会的状況が一因となって,1990 年代に実現

したと考えられる.

しかし,外貨獲得手段という,非欧米地域の多 くの国々に該当するような要因だけでは,ホイア ンの世界遺産登録を説明することは難しい.これ 以外にもいくつかの要因が挙げられる.まず,ホ イアンがベトナム中部に位置しているという地理 的条件である.ドイモイ政策以降,経済成長を続 けるハノイ(北部)とホーチミン市(南部)と比 較して,中部は経済的に「遅れた」地域とみなさ れてきた.ベトナムの党・政府は,全国の均等な 発展を目指しており,北部山岳地域や中部地域に 多くの開発資金を投入してきた(中野,1998 :

119–120) .世界遺産登録を含めた観光開発は,こ

うした国内の経済格差を是正するため,つまり中 部を経済的に発展させるための一つのツールと捉 えることができる.実際,ベトナムで 2009 年ま でに登録された 5 カ所の世界遺産のうち,4 カ所 までが中部地域に集中していることは,この点を 裏付けている

4)

次に,ベトナムと日本とのホイアンに関する保 全や研究をめぐる協力関係の構築という点が挙げ られる.後述するように,歴史的にみても多くの 日本人がホイアンに対して関心を抱き,同地を訪 問している.その中でも,国内外からホイアンへ の関心が高まった 1980 年代半ば以降に限ると,

富山(1987),小倉(1989)のホイアン調査がそ の端緒と考えられる.

より組織的なベトナムと日本の協力関係の構築 と い う 点 で は ,1990 年 に ダ ナ ン で 開 催 さ れ た

「古都市ホイアン(Do thi co Hoi An)に関する国 際シンポジウム」が挙げられる(UBQGHTQT ve Do Thi Co Hoi An,1991 ;日本ベトナム研究者会 議,1993).この国際シンポジウムは,ベトナム 側の要請を受け,それに日本が協力する形で行わ れた.シンポジウムでの成果がホイアンの世界遺 産登録へ向けた学術的基礎を提供した

5)

.その後,

日本の文化庁が当該地区の保存に協力し,昭和女 子大学のグループが町並みの保存に関する大がか りな調査を行った(芹澤,2006 : 86–87) .

さらに,ミクロな実践として,ホイアンに関す

る社会的ネットワークの存在が挙げられる.この

草の根ネットワークは,国家間レベルの組織的な

(5)

協力事業が開始される以前に形成された.具体的 には,日本の個人・民間団体とホイアンの史跡管 理委員会との間で協力関係が築かれ,日本からの 援助活動が行われた(芹澤,2006 : 87–89) .

また,ベトナム側からみたホイアンの世界遺産 登録をめぐる状況とは別に,ユネスコ世界遺産の 登録制度が,その理念の中に西洋中心的考えが色 濃く反映されていると批判を受けていた.すなわ ちそれは,世界遺産に占める西洋諸国のそれの割 合が高いこと,文化遺産の中に(西洋的な)石造 建造物の割合が高すぎること,であった(青柳・

松田,2005 : 12–14).こうした批判は,ユネス コ世界遺産の選定における対応にも影響を与え,

非欧米地域で,かつ木造建造物を擁するホイアン にとって,世界遺産登録に向けた有利な状況を創 り出した.

以上のように,ホイアンは,歴史的な木造建築 を擁するという地域的な特徴を生かしたこと,ベ トナムにおける政治地理的状況が有利に作用した こと,保存や研究に関するベトナムと日本のマク ロ・ミクロな協力関係が築かれたこと,ユネスコ 側の世界遺産の選定に関する認識が変化したこと などによって,世界遺産として登録された.ユネ スコ世界遺産は,文化遺産,自然遺産,複合遺産 という三つに分類される.ホイアンは,文化遺産 に分類され, 「18 世紀から現存する歴史的な国際 貿易港としての木造建築の町並みがよく保存され ていること」が直接的な理由となり,世界遺産に 登録された

6)

.こうした木造の町並みは,「中国 の味付け」をしたベトナム様式の建築(友田,

2003 : 115–116)と指摘されるように,建築学的 に分析すると,中国様式を取り入れたベトナム建 築と捉えることができる

7)

.少なくとも,現在の 町並みの中に,日本の建築様式が折衷されている という積極的な指摘はみられない.

Ⅲ ガイドブックにみる表象

1)ホイアンの町並み概観

ホイアンの町並みは,西から東へと流れるトゥ ーボン川左岸に位置し,川面を南側にみる.東西 へ向かう通りは,川沿いから,それぞれバクダン

(Bach Dang)通り,グエンタイホック(Nguyen Thai Hoc)通り,チャンフー(Tran Phu)通り,

ファンチューチン(Phan Chu Trinh)通りと名付 けられている.川沿いのバクダン通りは西へ向か うと,緩やかに北西に曲がり,グエンタイホック 通りと合流し,さらに北上してチャンフー通りに 突き当たる.

この合流点,チャンフー通りの西端には,ガイ ドブックにおいて日本橋と紹介され,ホイアンの シンボルともいわれる橋が架かる

8)

.日本橋は,

かつてホイアンに在留した日本人が建設したとさ れるが,その後の数回にわたる改修工事をへて現 在では建設当時の面影を留めていない(小倉,

1989 : 70–73).日本橋の周辺に日本町が存在し

たともいわれていたが,1990 年代の考古学的調 査では,住居跡等の明確な遺構が発見されず,そ の 位 置 を 特 定 す る に 至 っ て い な い ( 菊 池 , 2003b : 102–106) .日本橋を渡った西には,グエ ンティミンカイ(Nguyen Thi Minh Khai)通りが 北西にのびる.グエンティミンカイ通りは,ファ ンチューチン通りと合流する.

バクダン通りとファンチューチン通りを平行な 2 本の対辺としたほぼ台形の領域に,歴史的な町 屋が立地し,観光地化している.東西約 900 メー トル,南北約 300 メートルの当該区域には,400 棟 ほ ど の 歴 史 的 建 造 物 が 存 在 す る ( 菊 池 , 2003b : 18–19).この区域が 1985 年に国の文化 財保存地区に指定され,前述のように,1999 年 12 月にユネスコ世界遺産に指定された(図 1 参 照) .

当該区域では,外見的には,まず中国系移民が 建立した会館が観光客の目を引く.これらの会館 は,主にチャンフー通りに位置する.東から潮州 会館,海南会館,福建会館,広肇会館の順番に立 地し,さらには客家を含めた 5 大幇を対象とした 中華会館もある.次に,観光名所となっている建 造物として歴史的な民家建築が挙げられる.具体 的には,クアンタン(Quan Thang),タンキー

(Tan Ky) ,フンフン(Phung Hung)の古民家があ る.この他に,貿易港ホイアンの混淆的文化の特 色を示すような複数の博物館もつくられている.

観光客は,これらの建造物を見学するために,

(6)

入場券の購入を求められる.このチケットは,い わゆる 2 重価格になっており,外国人がベトナム 人の 2.5 倍の価格に設定されている.2009 年 8 月 時点では,外国人のチケットの価格が 7.5 万ドン,

ベトナム人チケットのそれが 3 万ドンであった

9)

. 5 枚綴りになった外国人用入場券で,五つのカテ ゴリー,つまり博物館,会館,古民家,無形文化 財,その他の中から 1 カ所ずつ見学できる.つま り,もし有料の会館を 2 カ所見学したい場合には,

この入場券を 2 回購入しなければならない.なお,

外国人用の入場券の裏側には,「古都市ホイアン の保存にご協力いただきありがとうございます」

と英語で記されている.また,2 重価格について は,チケット売り場にて「外国の観光客にホイア ンの町並みを保存するためにより多くの協力をし てもらっている」との説明を受けた.

こうした入場券が必要な建造物を別にすると,

ホイアン旧市街には多くの商店が軒を並べる.こ れらの商店は,飲食店,土産物屋,ホテル,布屋,

洋服屋,日用雑貨屋,アートギャラリー,靴屋な どに分類できる

10)

.一部の飲食店および日用雑 貨屋を除き,そのほとんどが観光客を対象とした 商店といえる.観光客向けの商店は,1990 年代 半ば以降に急増したという(ホイアン町並み保存 プロジェクトチーム,1997 : 17–18) .

商店の大まかな分布を通りごとに示すと,観光 客向けのレストランは,トゥーボン川の水面を眺 めながらの食事が可能なバクダン通りに面してい るものが多い.また同通りには土産物屋も軒を連 ねる.グエンタイホック通りには,洋服屋,土産 物屋,アートギャラリーが多く,チャンフー通り には,布屋,土産物屋,靴屋が多い.これらの商 店とは別に,町の東側には市場が立地する.

2)日本のガイドブックにおける世界遺産登録

前後の変化

日本のガイドブックのホイアン歴史地区にみら れる日本表象の変遷を表 1 に示した.ここでいう ガイドブックとは,ダイヤモンド・ビック社刊行 の『地球の歩き方』のベトナム編を指す.前述の ように,書名にベトナムと明記された『地球の歩 き方』は,1989 年に初めて出版された.ベトナ ムに関する同社のガイドブックは,当初『地球の 歩き方フロンティア』とされていたが,1994 年 に,「フロンティア」という単語が削られ『地球 の歩き方 ベトナム』として初版が出された.

2009 年現在で改訂第 15 版が出版されている.

表 1 から『地球の歩き方』でホイアンの町並み

やその建造物がどのように表象されてきたかにつ

いて,以下の点を指摘できる.第 1 に,ガイドブ

図 1 ホイアンの位置と町並みの概観

(7)

ックにおいてホイアンは,常に「日本町・日本橋

(もくしは来遠橋)・日本人の墓」の 3 点セット で語られているという点が挙げられる.日本人の 墓とは,かつてホイアンに住んでいた日本人の墓 といわれ,ホイアンの旧市街地周辺に点在する

11)

第 2 に,ホイアンがユネスコ世界遺産に登録さ れて以降,日本との関連を示す記述が増えたこと が挙げられる.世界遺産登録を示す記述は,2000 年に出版されたガイドブックに初めて登場する.

それと同時に,日本との関連,具体的には日本の 建築様式を取り入れた(と考えられる)建造物に 関する記述が加えられた.フンフンの古民家,お よびチャン(Tran)氏の祖廟(nha tho)がそれで ある.また,タンキーの古民家は,1996 年のガ イドブックに初めて登場したが,その後 1998 年 になって日本の建築様式を取り入れたことが加筆

されたことも興味深い.

3)ベトナムにおけるガイドブック

次に,表 2 にベトナムで出版されているガイド ブックのホイアンの記述について示した.ここで は,表 1 の『地球の歩き方』と同じようにベトナ ム全土を網羅しているガイドブックを取り上げ,

同表で言及した建造物などがどのように記載され ているかのみを示した.1 冊目・ 2 冊目は,いず れもベトナム観光総局が出版している.3 冊目の ガイドブックは,北部・中部・南部と 3 部に分か れ,3 冊で 1 セットになっている.

まず,3 冊のガイドブックをみると,すべてに ホイアンに関する記述はある.しかし,日本のガ イドブックのそれとは記載内容がかなり異なる.

具体的には,日本との関連を示す記述が非常に少

表 1 日本のガイドブックにみるホイアンの日本表象の変遷

記載内容1)

出版年 総頁数 頁数

日本町 日本橋2) 日本人 古民家・祖廟

世界

の墓

Nha co Nha co Nha co Nha tho

遺産

Quan Thang Tan Ky Phung Hung toc Tran

1989 158 1

1992 155 1

1994 232 2

×

1995 248 2

×

1996 264 3

× ×

1997 296 4

× ×

1998 322 8

×

2000 341 8

×

2001 355 10

×

2002 354 11

×

2003 387 12

×

2004 403 13

×

2005 403 13

×

2006 409 13

×

2007 409 13

×

2008 453 17

×

2009 453 16

×

1)○:記載あり+日本(人)との関連記述あり,×:記載あり+日本(人)との関連記述なし,―:記載なし.

2)1989

1992

年には,「日本橋」の表記はなく,別名の「来遠橋」のみが記載されている.

出所:地球の歩き方編集室『地球の歩き方』ベトナム編,各年版.

(8)

ない.古民家・祖廟に関してみると,その記載が ほとんどなく,また紹介があっても「日本建築と 関連がある」との記述はない.ただ,英語版のガ イドブックでは,タンキーの古民家に日本的な建 築様式がみられることが記載されている.

日本橋(ないし橋寺,来遠橋)については,3 冊ともに,その由来が日本との関係も含め記述さ れている.日本町に関してみると,3 冊目のガイ ドブックで,日本町がかつて存在したことが記さ れている.その他の 2 冊のガイドブックには日本 町が存在したという記述はない.ただし,世界各 地の商人に混じって日本の商人がホイアンで交易 していたことは示されている.なお,3 冊のガイ ドブックでは,日本橋以外の観光スポットとして,

主として中国系移民が建立した会館や寺院などが 紹介されている.

日越のガイドブックから以下のことがわかる.

まず,日本で出版されたガイドブックでは,日本 町,日本人の墓や日本の建築様式に言及すること で,ホイアンと日本との「つながり」が語られ続 け,特に,ユネスコ世界遺産に登録後,その傾向 が顕著になった.これに対して,ベトナムのガイ ドブックでは,ホイアンが世界遺産に登録された 町であり,歴史的な交易都市であったことが記述 されている.しかし日本は,交易都市の歴史的な 一要素としてのみ登場する.例外的に日本橋は,

3 冊のガイドブック共に記載しており,ホイアン を象徴する建造物の一つと考えられていることが わかる.事実,表 2 のガイドブック(Non nuoc

Viet Nam)には, 「この橋〔日本橋(引用者) 〕は ホイアンの人びとには橋寺と呼ばれ,ホイアンの シンボルである」と明記されている.

Ⅳ 日本人による報告

1)

「文献」にみる日本との関係

前述のように,紀行文などを含めて文献として 残っている範囲だけをみても,20 世紀初頭から 多くの日本人がホイアンを訪問している.現代の ホイアン研究の中で,総合的な成果に基づく,科 学的な枠組みが提示された 1990 年の国際シンポ ジウム以前に限定すると,以下が挙げられる.

小島(1915)は,ホイアンにあった日本人の多 くの墓が鉄道工事などで破壊されたことを現地報 告している.その後,黒板(1929)や藤原(1943)

は,ホイアンを訪問し,碑文の読解を行うととも に,町並みを観察している

12)

.梅棹(1979)は,

ベトナム共和国時代のホイアンを訪れ,日本橋や 日本人の墓の案内を受けた.

さらに,内海(1964)や平松(1965)は,第二 次世界大戦を前後した時期にベトナムに長期滞在 しており,ホイアンの地名や日本橋,墓を通じて,

日本とのゆかりを記述している

13)

.菅野(1978)

は,南北統一後のホイアンを団体旅行で訪問し,

その感想を残している.そして,富山(1987),

小倉(1989)は,ドイモイを前後する時期にホイ アンで調査を行い,現状を報告し,日本町のさら なる調査・保存の必要性を述べている.

表 2 ベトナムのガイドブックにみるホイアンの日本表象 記載内容1)

書 名 出版年 言語

日本町 日本橋 日本人 古民家・祖廟

世界 の墓

Nha co Nha co Nha co Nha tho

遺産

Quan Thang Tan Ky Phung Hung toc Tran

Non Nuoc Viet

2009

Nam

(第 10

版) 越語

Vietnam Tourist

2008

Guide

(第 5

版) 英語

Du Lich 3

Mien_tap 2

2008

越語 × × × ×

Trung

(第 4

版)

1)○:記載あり+日本(人)との関連記述あり,×:記載あり+日本(人)との関連記述なし,―:記載なし.

(9)

これらの文献の記述から,以下の 2 点を,その 特徴として指摘できる.第 1 に,現地住民が「日 本との接点」を強調する点が挙げられる.例えば,

現地の役人などの案内者が「日本との文化交流を 深めたい」(富山,1987 : 8),「歴史的にみてホ イ ア ン と 日 本 ( 人 ) と の 関 係 が 深 い 」( 梅 棹 , 1979 下: 152–153 ;小倉,1989 : 57–63)と意見 を述べたり,住民が「日本の人の墓を守ってきた」

(小島,1915 : 54) , 「日本との関連を示す歌が残 っている」(内海,1964 : 55–56)と発言したり する.

もちろん,ホイアンを訪れたこれらの執筆者た ちが日本的なものを探し求めた結果として,そう いった要素が強調され,現地住民によって語られ たという面も否めない.しかし,同時に当時のホ イアンに,日本的なものを語れる社会的な雰囲気 があったこともまた指摘しうる.例えば,現地の 案内人が次々と紹介する日本的な建物に対して,

その建造物の日本的要素を,部分的であれ懐疑的 にみる記述も存在する(梅棹,1979 下: 152 ; 小倉,1989 : 60–63).ここには,受け手が必ず しも日本的なものを求めていないにも関わらず,

現地住民が日本を語る姿,つまり,現地住民の方 が積極的に日本を語ろうとしている姿勢も垣間見 られる.

第 2 に,分析的に記述しつつも,日本とのつな がりをノスタルジックに語っている文献が多い点 が挙げられる.例えば,ホイアンの「日本町は実 際殆んどその痕跡を留めて居ないといってもよい 程 , 変 っ て 了 っ て 居 る の に 失 望 し た 」( 黒 板 , 1929 : 103) , 「 〔寺橋が(引用者) 〕昔もっていた と言われる日本的な俤を止めていないのは何だか 寂しい様な気がする」(藤原,1943 : 45)など,

ホイアンの町に日本を「発見」できなかった点を 惜しむ記述がみられる.また,平松(1965)や菅 野(1978)はホイアンに日本を見いだしたことを ノスタルジックに回想している.すなわち,「日 本人町の古い建物には日本の田舎を連想させる何 軒かがあった」(菅野,1978 : 220–221),「町の 美しさにうたれました.そして,この町の内外に,

室町時代から江戸にかけての,日本人を発見した」

(平松,1965 : 66)などである.

2)要人の訪越とメディア

2009 年 2 月に日本の皇太子は,前年に日越の 外交関係樹立 35 周年を迎えたことを契機にして ベトナムを公式訪問した.宮内庁のホームページ によれば,この訪問では,ハノイ,フエ,ホーチ ミンとともに,(ダナン経由で)ホイアンを訪れ たことが掲載されている

14)

.つまり,皇太子が ベトナムの北部・中部・南部を代表する 3 都市と 並行し,第 4 の都市として,ホイアンを訪問した と捉えることができる.

このホイアン訪問には伏線があった.2006 年 10 月 19 日に,訪日中のベトナム首相夫妻と天 皇・皇后との間で以下のような会話がなされた.

「天皇,皇后両陛下は 19 日,公式訪問中のベトナ ムのグエン・タン・ズン首相夫妻と皇居・宮殿で 会見した.16 世紀に栄えた日本人町が話題に上 り,陛下が今の状況を尋ねると,ズン首相は『両 陛下にぜひベトナムを訪問していただき,その際 に見て下さい』と答えたという.」(『毎日新聞』

2006 年 10 月 20 日朝刊) .

すなわち,この 2006 年時点で,直接的な言及 はないものの,かつての日本町であるホイアンが 日越外交の中で一つの「潤滑油」的な役割を果た していたことが伺える.これは皇太子が出発前に ベトナム訪問の抱負を述べた会見にも現れてい る.

「皇太子さまは,16 〜 17 世紀,日本とベトナム が朱印船貿易で栄えた歴史を振り返り『当時の日 本人町や交易品の出土品などを見ることを楽しみ している』と述べた.」(『毎日新聞』2009 年 2 月 6 日朝刊) .

皇太子は,2009 年 2 月 11 日にダナン経由でホ イアンを訪問している.新聞各紙には,そのとき の 様 子 が 以 下 の よ う に 掲 載 さ れ た ( 各 紙 と も 2009 年 2 月 12 日朝刊,一部省略・改変) .

「ベトナム訪問中の皇太子さまは 11 日,中部の港

町ホイアンを訪ねられた.ホイアンは東西交易の

(10)

拠点として栄え,16 〜 17 世紀には多くの日本商 人が訪れて,1000 人規模の日本人町があったと いう.徳川幕府の鎖国政策後に日本人町は衰退し たが,通称で日本橋と呼ばれる屋根付きの木造橋

『来遠橋』なども残っている.皇太子さまは,現 地で発掘調査をしている菊池誠一・昭和女子大教 授の案内で,来遠橋などを見学.古い商店が連な る通りを写真を撮りながら歩き,民族衣装のアオ ザイを着た女性らに『とてもいい所ですね』と声 を掛けられた. 」 ( 『読売新聞』 ) .

「皇太子さまは 11 日,ホイアンを訪れた.16 世 紀から日本人が来航して江戸時代初期には朱印船 貿易で栄えた町.古い木造家屋が残されており,

99 年には世界文化遺産に登録された.皇太子さ まは日本人が建立したといわれている来遠橋(別 名・日本橋)や貿易陶磁博物館を見学し,持参し たカメラで歴史的に貴重な街並みを撮影した.」

( 『毎日新聞』 ) .

「ベトナムを公式訪問中の皇太子さまは 11 日,首 都ハノイの工業団地を視察した後,政府専用機で 中部の都市・ダナンに入った.その後,かつて日 本人町が栄えた世界文化遺産都市のホイアンを訪 ねた.ホイアンは 17 世紀には朱印船が出入りし,

日本家屋の影響を受けたとみられる家屋も残る.

皇太子さまは,日本人が架けたと伝えられる『日 本 橋 』 を 視 察 , 町 並 み を 撮 影 す る な ど し た .」

( 『朝日新聞』 ) .

以上のように,皇太子の訪問を通じて,日本の 新聞メディアは,ホイアンに関して,日本町があ ったこと,日本橋という橋が残ること,日本家屋 の影響を受けたとみられる家屋が残存することを 表象しようとしたことがわかる.

3)ホイアンにおける日本の表象

ベトナムの新聞『トゥオイチェー』紙によれば,

2009 年 8 月 14–16 日に開催された「ホイアン-日 本祭り」の中で在ベトナム日本大使が「この夏の 祭りの中で 400 年前にホイアンにあった日本町が 表現(再現)された」と発言した

15)

.2003 年に

始まったホイアン―日本祭りは,2009 年に 7 回目 を迎え,ホイアンで「日本を表現する」一つの機 会になっている.

2009 年の祭りでは,シンポジウムの開催と並 行して,日本文化とベトナム文化を紹介するイベ ントが実施された.日本文化では,もちつき,浴 衣,茶道,書道などが古くから日本に伝わるモノ として紹介されていた.もちつきは,日本橋の周 辺で行われ,試食もできた.また浴衣は,実際に 試着し,日本橋を背景にした写真撮影もでき,茶 道・書道などは,実際に体験することができるよ うになっていた.

ここで,イベントそれ自体の内容が日本的であ るかが問題ではなく,ホイアンの地で実施された 各種イベントが「伝統的な日本のモノ」と位置づ けられていることが注目される.つまりこの祭り は,日本の伝統の紹介を通して,日本大使の発言 にもみられるように,かつての日本町の「痕跡」

を今のホイアンに投影ないし反映させようという 行為と捉えられる.2003 年の最初の祭りで実施 された事業の一つが日本人の墓の修復であったこ とは,日本(的なもの)をホイアンに「保存」し ようとする象徴的な出来事といえる

16)

こうした実践は,日本の観光客にもみられる.

例えば,日本橋を見学していたある観光客は,橋 の天井にある木組みを観察しながら「これは日本

〔の木組み(引用者) 〕とよく似ている」と会話を 交わしてした.この状況でも,建築学的な知識が 問題なのではなく,日本を映し出せる「鏡」の存 在が重要なのである.ノスタルジーを喚起させる ものを求める日本の観光客には,ホイアンの町並 みが木造建築であることも,不可欠の条件になっ ている.

以上から,ホイアンに関して文章を残した人び

と,メディアや観光客が日本的なものをホイアン

に町並みに積極的に見いだし,さらに墓に代表さ

れる日本的な要素を「保存」しようとしているこ

とがわかる.こうした語りや活動は,「かつてこ

こに日本町があった」という歴史的記憶,言い換

えれば歴史的事実,さらにはユネスコ世界遺産に

登録されたという「権威」によってホイアン旧市

街が「本物」の町並みと分類できることに基礎づ

(11)

けられている.

Ⅴ ベトナム人からみた日本と日本人

1)

「公式」な見解

ホイアン市が位置するクアンナム省にある,文 化・スポーツ・観光局の観光促進センターは,ク アンナム省のガイドブック『クアンナム─一つ の観光地にある二つ世界文化遺産』を,ベトナム 語と英語で出している.これは地方行政機関が発 行する官製ガイドブックで無料配布されている.

手元にある 2008 年出版の同ガイドブックで,表 1 で取り上げた日本的要素をもつとされる建造物 群,具体的にはタンキーおよびフンフン古民家,

チャン氏の祖廟に関してみると,以下のようなこ とがわかる.

まず,これらの建造物群の解説に「日本の建築 様式が折衷されている」という記述はみられない.

具体的には築年数,建物の使用目的,建築様式,

歴史的な変遷過程などが紹介されるものの,「日 本とのつながり」をその記述の中に見いだすこと ができない.次に,ホイアンの町を紹介する中で,

まず中国系移民の会館が紹介され,次に古民家・

祖廟の記述が続いている.

この官製ガイドブックの記述と比較すると,古 民家や祖廟の入り口にある案内板の説明書きはか なり興味深い.タンキー古民家をみると,「ホイ アンで初めて国家遺産に指定された古民家」「国 内外の要人が訪問した唯一の古民家」 「ベトナム,

日本,中国の建築様式がうまく調和」と紹介され,

チャン氏の祖廟では,「ザロン帝時代の官吏が建 築した祖廟.中国,日本,ベトナムの建築様式が 調和している.この祖廟は,2 世紀前の様子を留 めている」と説明されている

17)

ここから,まず,クアンナム省の地方行政機関 が発行したガイドブックでは,ホイアンの町並み の中に日本的なものを「発見」しようという積極 的な姿勢がみられないことがわかる.この記述ス タイルは,1990 年に開催された国際シンポジウ ム以降の学術研究の成果を踏襲している.これに 対して,観光客が直接的に目にする可能性が高い 建造物群の案内板では日本的要素が登場する.ま

た,表 2 でもみたように,ベトナムのガイドブッ クでは,ホイアンという観光地において,会館が 中心的な観光スポットと認識され,古民家・祖廟 が副次的に扱われていることが指摘できる

18)

2)ホイアンにおける日本的なるもの

前述のように,ホイアンの日本橋はホイアンの シンボルとされ,来遠橋,橋寺とも呼ばれる.こ の橋の名称は,文脈依存的に使い分けられている.

具体的には,観光客に説明される時には,日本橋 ないし来遠橋のどちらかの名称が使われ,現地住 民の間では橋寺の名称が用いられる.橋でチケッ トを切っていた従業員からは,「観光客に対して は , 日 本 橋 と 説 明 す る の に 対 し て , 地 元 住 民

(nguoi dia phuong)間では橋寺と呼ばれる.来遠 橋という名称は現地ではほとんど使われないた め,現在その意味を知らない現地人も多いはず」

と説明を受けた

19)

.実際にベトナムの新聞・ガ イドブックでは,その見出しに橋寺と表記される か,橋寺と日本橋とが併記される場合が多い.

次に,表 1 で日本的要素が強調されていた建造 物群において,そこで働く従業員・案内者などは,

次のように当該建築を説明する.まず,フンフン 古民家では,チケットを切った後,2 階に案内さ れる.案内人は,前家と後家をつなぐ部分の吹き 抜け屋根の前で立ち止まり,この屋根を日本様式 だと観光客に説明する.「この屋根」とはベトナ ム語で mai tu hai,または mai nha bon huong と呼 ばれ,屋根が 4 枚ある建築,つまり入母屋造りを 指している.言い換えれば,この古民家では,入 母屋造りが「日本の建築様式」として語られてい る.

タンキーの古民家でも同じような語りがみられ る.ここでは,家に入ると,クリアケースに入っ た説明文(日本語)が渡される.説明文には,こ の家の彫刻に関する解説に続いて,「この建築様 式が中国,日本の様式にほんの少し西洋の様式を ミックスさせたものだということがご理解いただ けると思います」と記されている.また,タンキ ー古民家では,この家の断面図が販売されている.

図面を販売した家の案内者は,同図にあるチョン

ズオン(chong ruong)という小屋組が日本の建築

(12)

様式だと説明した

20)

.こうした日本的要素を強 調した解説は,先に述べた建造物群の入り口に設 置された看板の記載内容とも一致する.

さらに,ホイアンにおいて日本的なるものは,

今現在も「発見」され,生産され続けている.例 えば,2008 年出版の『地球の歩き方 ベトナム』

における潮州会館の解説の中に「一番奥の扉に施 された女性は,日本髪を結った中国人といわれて いる」と記載されている.これ以前の『地球の歩 き方』に潮州会館は紹介されていない.つまり,

同会館に「日本髪を結った中国人の彫刻がある」

という情報が得られた結果,言い換えれば潮州会 館に日本的なるものが「発見」された結果として,

ガイドブックに記載されるようになったとも捉え られる.実際に,いつ頃からこのように語られ始 めたのかは定かではないものの,潮州会館へ行き,

「日本髪の中国女性の彫刻はどこか」と質問する と会館の人が案内してくれた.

3)語られない記憶

前述した中華会館は,別名で 5 幇会館とも呼ば れ,中国系移民全体の会館となっている.この会 館を入って右手に 13 名の遺影(肖像画)が掲げ られている.13 名の肖像画の上には,中国語で

「越南中圻華僑抗戦烈士遺像(1943–1945)」と記 されている.これらの人びとは,1940 年に日本 軍が北部仏印に進駐して以降,日本軍の憲兵によ って逮捕・殺害された華僑である.この出来事は

「ホイアン事件」 (菊池,2003a)と呼ばれる.

菊池によれば,ホイアン事件は,1943 年 4 月 と 1945 年春の計 2 回発生した.1943 年には 28 名 が逮捕され,そのうちホイアン在住華僑 3 名が殺 害され,1945 年には 100 名以上が逮捕され,ホ イアン在住華僑を含む 10 名が殺害された.いず れも,反日活動に対する取り締まりの一環として,

活動者が逮捕・拘束された.この事件は,1945 年 8 月の日本の敗戦後,ダナンに進駐してきた中 国国民党軍の日本軍に対する取り調べの過程で発 覚した.日本の敗戦後,遺族は埋葬されていた遺 骸を掘り起こし,ホイアンの郊外に位置する清明 亭の墓地に埋葬し,「民族正気」と彫られた記念 碑を建立した(菊池,2003a : 4–7) .なお,清明

亭の墓には,第 2 次ホイアン事件で殺害された 10 名の名前のみが刻印され,記念碑には 13 名の 名前が刻まれている.

ここで注目したいのは,ホイアン事件が当該地 域と日本との関係を示す一つの出来事であるにも かかわらず,現地社会の文脈や日越のガイドブッ クにおいて全くといってもよいほど言及されない 点である.例えば『地球の歩き方』では,1989 年以降,ホイアン事件や関連する内容を一度も掲 載していない

21)

.また,前述したベトナムのガ イドブックも同様に,中華会館の紹介はあるもの の,抗日華僑に関する記述はみられない

22)

もちろん,ホイアン事件の加害者である日本側 や,その遺族ないし関係者が積極的に語りたがら ない可能性が高いことは理解できる.しかし,こ の事件の直接的な関係者でなければ,日本との

「 (負の)つながり」として観光に流用しようと発 案する可能性を否定できない.実際に,ベトナム において,クチトンネル,ソンミ村,中部の非武 装地帯など,現在,観光地になっている戦争関連 の「遺産」は少なくない.したがって,ホイアン 事件が語られないのは,観光を実践する現地の人 びとにとって,この事件を日本の表象として流用 することがプラスに作用しないと判断されている からであろう.言い換えれば,ホイアン事件は,

ホイアンにおける日本らしさの表象から「排除」

されている.

ただし,ホイアン事件の語りは,観光のコンテ クストだけでは説明できない,ベトナムと中国の 政治的関係も関連している.周知のように,ベト ナムと中国は,歴史的にみて緊張関係にある場合 が多かった.ベトナム戦争終結後以降に限定して みても,1979 年には中越戦争を経験している.

国内的にみると,南北統一後,中国との関係が悪 化する中で,党・政府は華人・華僑の活動に対し て懐疑的となった.その過程で,華僑に対するベ トナム国籍の強制や急速な社会主義化が進めら れ,多くの中国系移民がベトナムの地を離れた.

ドイモイ路線の提唱以降は,華人を敵視するよう な政策を採らなくなったものの,必ずしも良好な 関係を構築しているとはいえない.

つまり,現地社会の中でも,狭義のベトナム人

(13)

ではなく華僑が殺害されたホイアン事件やそれに 関連する施設を積極的に「保存」する姿勢がみら れない.これは,墓地と記念碑のある清明亭が景 観的にみて放置されているように感じられ,十分 な整備・清掃されていないことからも伺える

23)

. 以上から,ホイアンにおける日本/日本人に関 して,現地のガイドブックでは,科学的知識に依 拠した語りがなされ,観光の現場では,そうした 科学的知識からずれた日本/日本人が表象され,

語られる.また,観光を実践する場において日 本/日本人は,現地社会の文脈の中で選択的,な いし状況依存的に表象されていることがわかる.

Ⅵ 結論

本稿では,日本町という歴史的記憶が観光地ホ イアンの中にどのように具現化しているのかにつ いて,当該地域のユネスコ世界遺産登録との相互 関係を中心に明らかにしようと試みた.「かつて ホイアンに日本町があった」という歴史的記憶を 分節化してみると以下のようになる.

まず,ホイアンにおける日本町の記憶は,選択 的・状況依存的に流用される.考古学・歴史学か らの研究の結果,朱印船貿易など通したホイアン と日本との交流が明らかにされ,日本町の存在が 確認されたが,現存する建築景観の中に日本的要 素は見いだされていない.しかし,ホイアンの日 本町は,歴史的事実として語られるだけではなく,

町並みの一要素としても表象される.具体的には,

現地の観光実践において,「町並みの中に日本の 建築様式が折衷されている,日本的な要素がみら れる」という語りに現れる.

次に,こうした語りは,日本のガイドブック

(『地球の歩き方』)や現地住民の観光ガイド,日 本人の観光行動の中に見いだされる.これに対し て,ベトナムのガイドブックでは,ホイアンが歴 史的な交易都市,ユネスコ世界遺産に指定されて いる都市と記述され,日本がその構成要素の一つ として扱われる.

こうしたホイアン日本町の記憶を流用した語 り/表象は,観光地としての差別化,ノスタルジ ーの喚起という点から説明しうる.前者について

は,ホイアンが中国系移民の趣が残る町並みであ ることと関連する.ホイアンには多くの中国系の 会館が残っており,また建造物群の中にも中国的 様式が取り入れられている.こうした中国系移民 が造った町並みはベトナム各地(例えば,チョロ ン)に存在している.したがって,観光地として 他と差異化するために,日本を積極的に表象して いると考えることができる.

ただし,日本的なるもの表象を,観光という文 脈のみに還元することはできない.歴史的・社会 的にみて,ホイアンにおいて日本が積極的に語ら れ,記憶として残されていた.前述した文献の事 例以外にも,1990 年代を前後した時期にホイア ンを訪れた日本の写真家に対して,同地の人びと が「日本人がホイアンのことを忘れてしまうので はないか」という危機感をもっていたという例が 挙げられる(芹澤,2006 : 88) .もちろん,こう した積極的な日本との協力関係の構築や,日本的 なるものの語りの中には,町並みの整備・修復に 向けた資金援助を得ようとする戦略も看取でき る.

第 2 に,ノスタルジーの喚起という点は,日本 人によるホイアンへの日本的なものの「保存」活 動と捉えることができる.日本のメディア・観光 客は,ノスタルジックな景観を求め,ホイアンに さまざまな日本を投影しようとする.こうした実 践は,「かつて日本町があった」という歴史的事 実,およびユネスコ世界遺産登録という「権威」

によって,ホイアンの町並みが「本物」と分類で きることに依存している.特に,ガイドブックで は,世界遺産登録以降,日本的なものを積極的に 表現する傾向が強まった.また,日本人の墓の修 復,日本-ホイアン祭りの開催などのホイアンに 日本を「保存」しようとする活動がこうしたノス タルジーの喚起を補強している.つまり,世界遺 産ホイアンは,科学的言説に基づく近代空間と,

観光地として差異化,ノスタルジーの喚起から生

じる語りに依拠した空間的実践のせめぎ合いによ

って形作られているとも換言できる.

(14)

1)ホイアンでかつて日本人が築いた町は,現在,「日本人

町」や「日本町」と呼ばれる.ここでは,東南アジア の日本町に関する先駆的研究(岩生,1966)の表記を 踏襲して,直接的な引用部分を除いて「日本町」で統 一する.

2)本稿で使用したフィールドデータは,200987

から96日までのベトナム滞在中,特に,810 から17日までの集中的な調査にて収集した.

3)チャンパの歴史は以下に詳しい.桃木ほか(1999

22–96)

4)ハロン湾以外,フエの阮朝の建造物群,ミーソン遺跡,

フォンニャー・ケーバン国立公園,そしてホイアンの 歴史地区の4カ所が中部に位置する.またベトナム南 部では,世界遺産登録が全く行われていないことも政 治経済的にみて興味深い.

5)この国際シンポジウム開催の経緯,および成果の要約 については,以下を参照のこと.日本ベトナム研究者 会議(199310–17)

6)具体的には,ユネスコは「ホイアンが歴史的な国際貿 易港の文化融合を顕著に示していること,伝統的なア ジアの貿易港の状態をよく保存していること」を世界 遺産登録の判定基準に挙げている.

7)現在のホイアンの町並みは,およそ18世紀から20

紀前半までの期間に形成された.したがって,中国様 式だけでなく,フランス統治下のコロニアルスタイル も観察されるという(ホイアン町並み保存プロジェク トチーム,199767–83,159–168)

8)日本橋は「橋寺(Chua Cau)「来遠橋(Lai Vien Kieu) とも呼ばれる.この点に関しては,Ⅴ章で整理する.

9)なお,ホイアン市人民委員会文化・スポーツセンター は,20091119日に入場券の価格改正を通達した

(So 54/TB-TT VH-TT).それによると,201011 日から外国人の入場券価格は9万ドン(6枚綴り),ベ トナム人のそれは4万ドン(5枚綴り)になり,それ ぞれ1.5万ドン,1万ドンずつ値上げされた.

10)布屋と(既製品を販売する)洋服屋は,ともに仕立屋 も兼ねている場合が多く,明確な区別が難しい.ここ では,原則として店頭の看板に布屋(例えばhieu vai)

と表記されている店を布屋とみなした.

11)日本人の墓はホイアン近郊に4基あるとされる.ただ

4基のうち1基は「日本人の墓らしい」といわれて い る が , そ の 由 来 が 定 か で は な い と い う ( 小 倉 ,

198963–70).なお,こうした日本的なるものの強調

は,英語のガイドブックにもみられる.詳しくは,大 平(2007:87–89)を参照のこと.

12)黒板の調査には,『南洋日本町の研究』を著した岩生成

一が同行している(黒板,1929103)

13)内海は1915年に初めてベトナムを訪れ,平松は1960

年代初頭にベトナムに居住していたという(平松,

1965117,184)

14)宮内庁ホームページ<http://www.kunaicho.go.jp/activity/

gonittei/02/h21/gonittei-2-2009-1.html>(2010110 日閲覧).この4都市のみが皇太子の訪問先として同ホ ームページに掲載されている(ただし経由地のダナン を含めると5都市)

15)Tuoi Tre online <http://www.tuoitre.com.vn/Tianyon/

Index.aspx?ArticleID=332153&ChannelID=10>(2009 111日閲覧).なお,この祭りで配布されたパンフ レットにある大使の冒頭あいさつにも同様の発言がみ られる.

16)これ以前にも日本人による保存活動は行われていた.

ホイアンの日本人の墓には,1928年に同地を調査した 黒板勝美がこの墓の保全を提唱した旨を示す石碑が残 っている.

17)案内板の説明内容は20098月現在のもの.フンフン

の古民家の入り口には,具体的な説明書きがない.

18)2009年出版の『地球の歩き方 ベトナム』でも会館は

紹介されている.ただし,日本橋・古民家・祖廟・博 物館の後に記載されている.

19)来遠橋という名称は,中国の故実に基づき,1719年に

当 時 の 国 王 に よ っ て 命 名 さ れ た ( 小 倉 ,1 9 8 9 70–73)

20)チョンズオンについては,ホイアン町並み保存プロジ ェクトチーム(1997127)に詳しい.また,この小 屋組は中国様式と指摘されている(ホイアン町並み保 存プロジェクトチーム,199764)

21)ホイアン事件を取り上げた日本のガイドブックとして,

昭文社が出版している『個人旅行 ベトナム』が挙げ られる.手元にある2001年出版の同書には,清明亭の 記念碑が紹介されている.なお,最新版(2008年出版 の『新個人旅行』)ではその記載がみられない.

22)ただし,ホイアンのみを扱ったガイドブック的書籍で は,中華会館を解説する中で,同会館内にある抗日華 13名の肖像画に言及している(Nguyen Van Xuan,

200856)

23)清明亭はわかりにくい場所に位置している.ここを訪 問した際に場所がわからず,途中で地元住民(3名)

に聞いたものの,この施設を知らなかった.もちろん,

この3名が偶然知らなかったということもあるかもし れないが,誰もが知っている施設ではないとはいえる.

文  献

青柳正規・松田陽(2005):「世界遺産の理念と制度」佐藤 信編『世界遺産と歴史学』山川出版社,5–25ページ.

Buu Ngon (2008): Du lich 3mien: tap 2Trung, Nxb. Thanh Nien.

陳荊和(1970):「会安明香社に関する諸問題について」

『アジア経済』Vol.11–5,79–92ページ.

地球の歩き方編集室(ほぼ毎年)『地球の歩き方』(ベトナ

参照

関連したドキュメント

A knowledge of the basic definitions and results concerning locally compact Hausdorff spaces and continuous function spaces on them is required as well as some basic properties

Lemma4.1.. This is not true if f is not positively homogeneous as the following example shows.. Let f be positively homogeneous. We shall give an example later to show that

Lomadze, On the number of representations of numbers by positive quadratic forms with six variables.. (Russian)

Keywords Poset · Rational function identities · Valuation of cones · Lattice points · Affine semigroup ring · Hilbert series · Total residue · Root system · Weight lattice..

We show that a discrete fixed point theorem of Eilenberg is equivalent to the restriction of the contraction principle to the class of non-Archimedean bounded metric spaces.. We

Instead an elementary random occurrence will be denoted by the variable (though unpredictable) element x of the (now Cartesian) sample space, and a general random variable will

We have formulated and discussed our main results for scalar equations where the solutions remain of a single sign. This restriction has enabled us to achieve sharp results on

In [9] a free energy encoding marked length spectra of closed geodesics was introduced, thus our objective is to analyze facts of the free energy of herein comparing with the