(207) 印 度 學 佛 教 學 研 究 第51巻 第2号 平 成15年3月
Ankura-petavatthu
と 『仏 説 阿鳩 留 経 』
藤
本
晃
Petavatthu(餓 鬼 事 経,Pv)の よ う に 餓 鬼 に 関 す る 物 語 の み を 収 録 し た 文 献 は 南 伝 上 座 部 以 外 に は 現 存 し な い が,そ の 五 十 一 の 物 語 の 一 つ 一 つ に 類 似 し た 内 容 を 持 つ 物 語 は,北 伝 の 漢 訳 三 蔵 や サ ン ス ク リ ッ ト仏 典 に も 散 見 さ れ る1).漢 訳 仏 典 に お い て は 『仏 説 孟 蘭 盆 経 』(漢 訳A.D.266-316,大 正16,p.779)は 中 国 撰 述 の い わ ゆ る 「偽 経 」 と さ れ る が,そ の 内 容 がPvに 含 ま れ る 物 語 の 一 つ(Ⅱ.2)Sariputta-ttherassa matupetivatthu(舎 利 弗 長 老 の 母 餓 鬼 事2))と 多 く の 共 通 点 を 持 つ こ と は 未 だ 学 会 に 知 ら れ て い な い.こ れ に つ い て は機 会 を 改 め て 考 察 す る.ま た 『仏 説 阿 鳩 留 経 』(漢 訳A.D.∼220,大 正14,p.804)が 餓 鬼 に 関 す る 物 語 を 説 く こ と を 山 辺 [1925]3)が 指 摘 し,西[1984]4)は そ の 内 容 を 概 括 し て い る が,両 者 共 に こ の 教 典 がPvⅡ.9Ankura-petavatthu(ア ン ク ラ餓 鬼 事)及 び そ の 註 釈,即 ちPetavatthu-Att-hakatha(餓 鬼 事 註,PvA)所 収 の 「ア ン ク ラ 餓 鬼 事 註 」,に 説 か れ る 因 縁 諍 や 挿 入 諍 を 含 む 複 雑 な 物 語 と よ く対 応 す る こ と を 指 摘 し な い. 「ア ン ク ラ餓 鬼 事 」 は 七 十 四 偈 か ら 成 る 対 話 を 中 心 と す る 物 語 で あ り,そ の 中 で 説 明 が 為 さ れ な い ま ま物 語 の 主 題 や 説 者 た ち が 交 代 し て い る の で,5-6c.A.D.の PvAに 収 録 さ れ る 「ア ン ク ラ餓 鬼 事 註 」 の 因 縁 諍 や 挿 入 諍 な し に は 内 容 の 理 解 が 難 し い.以 下 に 註 釈 文 を 含 む 物 語 の 概 略 を 示 す. PvA因 縁 諍:ア ン ク ラ とい う貿易 商 が養 育 して い た 奴 隷 の 息 子 は,後 に 自 由 に な り,貧 困 の た め 自分 で布 施 す る こ と はで きな か っ た が,ア サ イ ハ 長 者 の 大 い な る布 施 が 行 わ れ る 場 所 を右 手 を挙 げ て乞 食 た ち に 教 えて い た.彼 は早 世 して 椿 樹 の精 に な っ た. 後 に ア ンク ラ と或 るバ ラモ ンが 隊 商 を率 い,共 に砂 漠 で 迷 い糧 食 が 尽 き た 時,そ の椿 樹 の精 が 右 手 を挙 げ て飲 食 物 を 自在 に取 り出 し,彼 らを救 う. 偈1-9:望 み の もの を 何 で も出 す 椿 樹 の精 を捉 え よ う とす るバ ラモ ン隊 商 主 を ア ン ク ラ が 諌 め る. 偈10-25:椿 樹 の精 が 自分 が 前 世 で ア ン ク ラ に世 話 に な っ た こ と と,自 在 な右 手 と して結 果 した 前世 の福 業(右 手 を挙 げ て 布 施 が 行 わ れ る場 所 を教 え,他 者 の行 う布 施 を共 に喜 826(208) Ankurapetavatthuと 『仏 説 阿 鳩 留 経 』(藤 本) ん だ)を ア ン ク ラ に話 す.ア ンク ラは大 い な る布施 を 行 う決 意 を強 くす る. 偈26-34:溶 樹 の近 くに い た餓 鬼 が,そ の原 因 と な った 前 世 の悪 業(仕 事 で嫌 々布 施 の実 務 を して い た)を 告 白 し,ア ン ク ラ が 呵責 す る. 偈35-38:ア ンク ラの大 い な る布 施 の 描 写. 偈39-43:ア ンク ラ が布 施 の 責任 者 シ ンダ カ に無 量 の 布 施 が で き る よ う望 む. 偈44-49:政 務 に詳 しい ソー ナ カ が ア ン ク ラ に無 分 別 の布 施 を控 え る よ う忠 告 す る. PvA挿 入 諍:ア ンク ラが無 量 の 布 施 を 続 けた た め人 々 は仕 事 を しな くな り,国 庫 が尽 き, 国 王 は布 施 の 適 度 を知 る よ う に,と ア ン ク ラ に使 者 を出 した.ア ン ク ラ は南 方 に移 住 し て布 施 を続 け る. 偈50-57:ア ン ク ラ は大 い な る布 施 を続 け,死 後 三 十 三 天 に 生 まれ る. 偈58-60:貧 者 イ ンダ カ(男)が ア ヌル ッ ダ長 老 に一 匙 の布 施 を し,死 後 三 十 三 天 に生 ま れ る.十 の 点 で ア ン ク ラを 凌 ぐ. 偈61-65:釈 尊 が 三 十 三 天 に昇 る. 偈66-74:ア ンク ラが釈 尊 に 自分 とイ ン ダ カ に境 遇 の差 が生 じた理 由 を 問 い,釈 尊 は,布 施 の果 報 は布 施 の受 け 手 の徳 に よ る と説 法 す る. 一 方 『阿 鳩 留 経 』 は 以 下 の よ う に,よ り単 純 に 阿 鳩 留 と樹 下 の 人 の 二 名 の み で 物 語 が 進 む. PvA因 縁 諍 相 当:阿 鳩 留(ア ンク ラ)と い う貿 易 商 が 隊 商 を 率 い,砂 漠 で 糧 食 が 尽 き た時 に大 樹 を発 見 し,水 を求 めて 樹 下 に行 く.樹 下 に 一 人 の 男 子 が お り,右 手 を挙 げ,五 指 の先 か ら飲 食 物 を 自在 に 出 して 救 う. Pv偈1-9相 当:珍 宝 を求 め て大 海 を渡 る筈 の商 人(阿 鳩 留)に 樹 下 の 人 は右 手 を 挙 げて 金 銀 宝 石 を 出 し,阿 鳩 留 に それ で 布 施 を し,そ の 福 を 樹 下 の 人 に得 させ る よ う に5)と 願 う. Pv偈10-25相 当:樹 下 の人 は,自 在 な右 手 を持 つ に至 っ た 前世 の福 業(他 者 の 布 施,造 塔 な どの 善 業 を代 わ りに喜 ん だ)を 阿鳩 留 に 話 す. Pv偈35-38相 当:阿 鳩 留 は郷 里 に 帰 り,大 い な る布 施 を 行 う. Pv偈50-57相 当:阿 鳩 留 は郷 里 で 大 い な る布 施 を続 け,死 後 三 十 三 天 に生 ま れ た が,天 帝 よ り四 百 八 十 里 も離 れ て い た. Pv偈58-60相 当:鰺(シ ン)と い う女 が 一 匙 の粥 を マ ハ ー カ ッサ パ 長老 に 布施 し,死 後 三 十 三 天 に生 まれ,天 帝 の側 第 三 座 に坐 っ た.五 事 に お い て他 の 天 人 よ り勝 れ る. Pv偈61-65相 当:仏 は三 十 三 天 に昇 り,先 に 昇 天 した 実 母 の た め説 法 す る. Pv偈66-74相 当:仏 は ア ン ク ラ と女(シ ン)を 見 て,ア ンク ラ を 呼 ぶ.ア ン ク ラは 仏 に 自 分 の布 施 の 受 け手 は凡 夫 のみ で あ っ た が,こ の女 は粥 を マハ ー カ ッサパ 長 老 に布 施 して 今 は天 帝 の 側 に坐 り,他 の天 よ り勝 れ て い る と述 べ,礼 を して 去 る6). 825
(209) Ankura-petavatthuと 『仏 説 阿 鳩 留 経 』(藤 本)
上 述 の 「
ア ン ク ラ餓 鬼 事 」 及 び そ の註 釈 を 『
阿 鳩 留 経 』 と比 較 す る と.前 者 に
は 多 くの 人 物 が 登 場 す る一 方,後 者 は そ の 殆 ど全 て を欠 き ,当 初 は阿鳩留(ア ン
クラ)と 樹 下 の人(榕 樹 の精)の みが 登 場 し,更 に三 十 三 天 に お いて は,後 者 は最
後 の釈 尊 の説 法 を欠 き,人 名 も前 者 所 収 の もの と異 な る こ とが わ か る.
しか し上 記 の 両 仏 典 に収 録 され た物 語 の,そ の 骨 組 み は或 る共 通 の物 語 に基 づ
いて い る こ とが 理 解 で き よ う.即 ち,ま ずPvA因
縁 諍及 び 『
阿鳩 留 経 』 の相 当 文
に お いて は,主 人 公 の名 前 は ア ンク ラ(阿 鳩 留)で あ り,そ の 職 は貿 易 商 で あ る.
彼 は隊 商 を率 い て 交 易 に出,砂 漠 で 迷 い,糧 食 が尽 き る.そ
こに熔 樹 の精(樹
下
の 男 子)が 現 れ,右 手 を挙 げ て 自在 に飲 食 物 を 出 し,難 を救 う.
次 い でPv偈
文及 び 『
阿鳩 留 経 』 の 相 当 文 に おい て は,椿 樹 の精(樹 下 の人)が
ア ン ク ラ(阿 鳩 留)に,自
分 が 自在 に必 要 物 を 出 す右 手 を持 っ に至 っ た前 世 の 善 業
を話 し,ア ン ク ラ は それ に鼓 舞 され て 大 い な る布 施 を行 う.ア ン ク ラ(阿 鳩留)は
死後 三 十 三 天 に生 まれ る.
一・
方 イ ン ダカ とい う男(慘 とい う女)は ア ヌル ッ ダ長 老(マ ハ ーカ ッサパ長老)に
一匙 の 食 物 を布 施 しただ けで 死 後 三 十 三 天 に転 生 し
,ア
ンク ラ を超 え輝 く.
後 に釈 尊 が 三 十 三 天 に昇 っ た時,ア
ン ク ラ(阿 鳩留)と イ ンダ カ(慘)の
境 遇 の
差 の原 因 に つ い て ア ン ク ラ(阿 鳩留)が 問 い,釈 尊 が 応 えて 説 法 し,物 語 が 終 わ
る.以 上 の 物 語 の 骨 組 み は,両 仏 典 に共 通 して い る.
以 上 の 比較 考 察 か ら,以 下 の こ とが 結 論 で き よ う.
1:「 ア ン ク ラ餓 鬼 事 」 及 び 「
ア ン ク ラ餓 鬼 事 註 」 と 『
仏 説 阿鳩 留 経 』 は,共 通 の
筋 に基 づ く物 語 で あ る.
2:後 者 は前者 の 持 つ 登 場 人 物 の殆 どを欠 くが 物 語 の筋 は通 っ て お り,且 つ,双 方
とも独 自 の文 言 を幾 つ か含 ん で い る ので,両 者 は一・
方 か ら他 方 へ の翻 訳 とは考
え られ な い.共 通 の筋 か ら各 々別 個 に伝 持 さ れ た と考 え られ る.
3:「ア ンク ラ餓 鬼 事 」 の偈 文 が先 に 成 立 し,「 ア ンク ラ餓 鬼 事 註 」 が後 に作 成 され
た とは断 言 で き な い.2-3c.A.D.に
漢 訳 され た 『阿鳩 留 経 』 に 「
ア ン ク ラ餓 鬼
事 註 」 の 因縁 諍 と同 内 容 の 文 言 が 含 まれ て い る ので,因 縁 譚 な どはPvA註
釈 文
が 成 立 した5-6c.A.D.よ
り早 く,お そ ら くは偈 文 と並 行 して説 か れ て い た と思
わ れ る.
注 記:「 ア ン ク ラ」 と 『阿鳩 留 経 』 に は相 違 す る文 言 も多 く,特 に 「
随喜 」 の仕
方 の 相 違 に は注 意 を要 す る.こ れ につ い て は いず れ稿 を改 め て考 察 す る.
824(210) Ankurapetavatthuと 『仏 説 阿 鳩 留 経 』(藤 本) 1)拙 論 『パ ー リ仏 教 に お け る業 報 輪 廻 思 想 』(広 島大 学 提 出課 程 博 士論 文,2002)p.21ff. 参 照. 2)そ の 内容 に つ い て は 上 記 拙 論 副 論 文 の 和 訳 を参 照. 3)「 仏 典 に表 れ た る餓 鬼 の研 究 」 『宗 教研 究 』3印6 4)「 仏 教 に お け る餓 鬼 と其 の 救 済 」 『那 須 政 隆 博 士 米 寿 記 念 ・仏 教 思 想 論 集 』. 5)令 道 人 皆 呪 願 我.令 我得 其 福.[大 正14,804c,13] 6)「 現 存 の経 で は,こ の両 者 の福 を僅 か に 比 較 す る とこ ろ に終 わ っ て,そ の 所 以 を示 す と思 は る る部 分 が な い....か の乞 骨 の 人,僅 か に施 して 此 の福 有 り,と 述 べ る所 で 終 わ っ て い る の で,説 話 が 完 成 して い な い の を 知 る こ とが で き る.(蓮 澤 成 淳)」 『仏 書 解 説 大 辞 典 』 「阿鳩 留 経 」(vol.1,p.3). 〈キ ー ワ ー ド〉 廻 向,随 喜,福 徳,『 仏説 阿鳩 留 経 』,『仏 説 孟 蘭 盆 経 』 (広島 大 学 大 学 院 修 了)