九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
支那三教史上の若干の問題
重松, 俊章
https://doi.org/10.15017/2340935
出版情報:史淵. 21, pp.125-155, 1939-08-15. Faculty of Law and Letters of the Kyushu Imperial University
バージョン:
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支那三教史上の恭干の間脳一二六
代約三両年のⅢは主やこして道家・帥仙家なざの思想を利川し︑之等に依附して支那思想に極力洲和しな
がら︑その両有の印度思想を︑主︑こして支那の士大夫階級のⅢに没透杵及せしめるこ声︸に努め仁が︑此
の時期に於ては厳柑な意味での佛敦凌叫は凹家推力に曲て公認されてはゐなかつに︒
然るに三剛から汗代にかけては閥域渡来の价俗数も前代に比べで群しく峨加し︑洩代以來︑耽御の裂
而からする潜行的布教の効果が漸く変を結び妬め︑一般支那肺・獅人の佛教に封する認識の職度が向上す
るに及んで︑此に佛激堂州の組織為逐次整術確立して来た︒之に作ふて支那人自身にして此の教肌に加
0
入して川家入通するものすら︑に増加する︒ごいふ怖態︑こなつにので︑此に支那思想界に於ける佛教の勢力は次節に牢乎たる根抵を占めるやうになった︒
然るに一方洩末以来︑次錐に支那問有宗教の形瀧を取り來つ挺三張の五斗米︵天師︶逝から發逹しに
逝教は︑外来の佛教ご思想・信仰上の帆櫟摩擦を生じ︑此に始めて迩佛綱敦徒の對立抗争が激化するや
うになり︑印度思想︑こ支那股想︑この特殊性が知識祓鰊の側で新に問題ごなって来た︒
か︑る際に紺り逝敦側では西晋末期︵西紀四世紀初期︶に天師迩の祭消︵遊士︶王浮が老子化胡維を
憾作して︑佛教の起源は老子が西域︵印度︶に入って胡を教化した結果に本づくものEの論を立てた
常時の逆教徒はか坐る僻縦を薪りて漢族的自尊心や剛氏的感怖を刺戟して外来の印度思想︵佛敦︶を排
蝦しその發展を阻止せん﹃こしに︒而して之に對抗して佛教側からも次左に清浄法行經・潅頂經・造立天
地經・須彌四域經なざを偽作して︑或は光淨菩薩が支那に郷生して孔子ざなり︑月光菩薩が甑仙さなり
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側では化胡經誘誌に基墜L老子が胡王や繰迦等ぞ説法教化せ争○調ゆる化胡愛和燗などを製作して︑之を
遊猟の確霊ざして利川してゐたらしい.之に對して佛教側でも亦︑伽弟子迦葉が教化h州乍渋旦に
稗生して老子ごなった↓こいふ浦淨本行經なざの傅読に本づく老子の鍵和凧を寺棚の内に禍︲てゐ仁らし ︵均祥︶論を外にするも︑取せられる︒
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0 の剛向は醜に六朝中期︵五仙紀前半︶の醜から次節にその兆候が鮮明になって来た.前描態琳の黙間 から協洲へ︑協調から融合︑岡化の方向へ・こ自然に郷移する運命を有ってゐに︒而してか虻る三教調和 佛教はか上る︑支那祗禽の内而的要求を有つが故に︑時代の經過に作ふて儒佛逆の術突は次節に綏和
3 支那三教史上の耕干の問畑
か上る時代の要求に唯じて瓢はれにのが佛教の輸入であったから︑
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先づ逝教側の例を蝦げるこ︑府初の謹法僻法琳の嬬碓論︵巻六︶の注︵陳子良性︶に︑
階ノ僕射楊素︒從レ駕至一竹林宮一︒經二過櫻槻一.見二老廟壁上飛一︒作下老子化二歳賓國一︒度し人剃髪出
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家欣上P問二道士一云.逝若大し佛・老子化し胡︒唯し爲二遜土一︒何乃矯二沙門一?︑將知佛力大︒能化ペシ
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得し胡︒道力小︒不し能レ化し胡︒此延佛化し胡︒何關二道化一也?・於時︑迩土無二言以對一也︒ 今︒︒︒βも尤もか上る侭 南北墹以來佛教は煉陳決河の勢を以て支那奈土を風脈するやうになつにのである︒向の反而には叉三教塒に逝佛雨教徒柵に於ては殆ざ仰統的な反抗乖諭が繰返され︑ 濟の沈約山均聖諭や梁武帝の三教談なさの内容を見る↓ごその傾向が明瞭に万 逆教徒側の熾烈なる反肌通勤農もか
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事変が判かる︒
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店中宗祁龍元年︵西紀七○五︶九月⁝⁝詔日︒如レ冊︒迩槻街識二化胡成佛之祁一・諸寺亦謹二老飛之0○0○0○ラク形一︒祁教之愈客︒互有二毅辱一・深癒し不し然︒自今竝須二殴除一・ペショヒいふ文通ある︒之竿によって見る時は︑慨に六朝以来︑・迩佛剛教徒が魂各Iその教敵の開肌を殴辱す
る︑的で︑互にその鍵祁川を寺槻の壁而なざに描嬬してゐに覗蛮が判明する︒而して之が後世宋代以後
杵く各地に行はれ墾二教像なざに發展したもの︑乙思はれるが︑此の虫については後節に於て改めて救述
を加へる事さする︒
● 乃ち︑ をある︒之は六朝から陪代にかけて︑各地の通観に老子の化胡鍵和剛が揺げられてゐた一つの置例ご兄るべさものであらう︒尚︑南宋沙門志磐の佛祀統紀︵巻五五︶にも︑
ノスい︵唐︶中宗勅毅二化胡經及謎壁愛祁︸・述粁科し罪︒
ざあるから︑此の稚の老子化胡鍵相岡の逝槻内の壁謹は店代に進入っても依然こして脈に流行してゐに
佛教側に於ける此の靴の蛮例の一つは︑前記志磐の佛肌統紀︵巻測十︶に見えたる左記の文である︒
三教談論は一に三教諭衡さも呼ばれ︑店の雁朝が皇帝誕辰の佳節に怖佛道三家の代表者を宮中に召し
支那三戦史上の耕干の側迦二一九 ︵三︶三教談論と祇壽
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式の發生は六朝以來氷い膝史を布する三赦抗手︵塒に逝佛剛教を中心︑こして展開されにる︶
府では︑その開阿の初︑商肌︒太宗な・ざが比較的佛教に冷脈であって︑或る場合には寧ろ之に對して
反感をすら−本し龍事例も乏しくないが諺巡教に對してはむしろ之︑こ反對に︑頗る好意を有も﹃・老碓の姓
が剛姓︵李氏︶ぐ﹂同一にして老子は店の迩仙であるさの道家側の妄読に惑はされて︑大に之を優遇し︑
太宗の如きは貞槻十一年剛家の大典や公共の儀式の場へⅧ︑前代からの悩例に反して︑・術迩哩坐琴笹改め
●て﹃逝先術後﹄︾ご決定した︒か出る叩教に對する柑肋の偏破な政錐は群しく迩教側に祇極的發股の機称
を典へたが︑︑次の商宗も亦︑通教徒の不老長生術.に悪はされて此の教徒に多大の同術笹寄せ︑來窩時代
い官宅を拾て上長安の全一坊に異天概を興すごいふ有様であった︒
併ながら︑かLる形勢は次の武間時代になって一大郷換を兄るこ菅﹂に芯つだ乃ちつ則天武后は始め
より熱心なる佛教信粁であったから逝教に對しては格別の反感はなかったが︑何ら之に對して特別の刷
怖をも有になかつだ武后は識政の初から妖俄群懐華笹信任して之を洛陽︵武后ば多く東都に住んでゐ
た︶の名刹︑馬寺に住せしめやその一味の沙門法明・唯一・悪倣・行感・徳惑・宜政等さ交通結托して 鳴変へ︑之が等しく形式化して來たこ︑上を物語るものであらう︒從て又それだけに一
調和し始めに覗蛮を示すものではないか︒.︐︒ 支那三教典上の蒋干のⅢ題二二○
て机互い敦義に對して淡揃唯酬を爲さしめる行事で︑庶窒では雁代皇帝の聖誕節に多く之を蛮行してゐ
泥やうである︒此の行那の形式や誰諭の主題・内容なぎにつ堅Lは後に述べるこ︑と土するが︑
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二教が杵 の風が次節硬的に接近 か比る縦
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遂に大雲憶經を製作して︑武后笹以て群愈懸記の彌勒佛の椛化再生ゞこ詐はり︑斯くて武后をして天下稲
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州縣に令して辨く大雲寺笹建立せしめ︑我が奈良朝剛分寺の先雌を作らしめたのであつに︒則天武后が大に唐の宗族を除識して天授元年︵西紀六九○︶終に革命を宣して周朝を建てたのも全く此の大雲憶經
の彌勒下生読に惑はきれだ結果に外ならない︒
此に於て徹時佛教徒は過去三代七十餘年Ⅲの遊教側のにえ雌い抑雌凌辱から解放されたの︾であるが︑
而も蛮隙上︑彼等は此の目的い爲めに則天武后を極度に利川し仁もの・己老えて差支ないやうである︒︑
武后時代のか型る佛教側の優勢は庶初以来の﹃迩先術後﹄の价逝の班次を新に改正せしむるこ︑とLな
びり︑武后の天授二年︵西紀六九一︶には俄尼を以て迩土女冠の前に位せしむるこ↓こkなつにb之・より
先へ商宗上元元年︵西紀六七四︶に太宗時代の迩先術後の命一ど改めて︑公私の齋・御・参集の虚に於ては
佃逝班次の對愉を公認して︑逆は東に柵は両にゞこ祁對して位世を執らしむるこさLしたが︑此に至って
完全に通教徒は佛對に制唯せらる上こ・こkなった.
私児に樵れぱ︑武間時代に於ける佛教の勢力恢復の眼大原凶は︑佛折が武后の儒仰を利川して之に
史兆佛仰説を巧に附称した鮎に興って力あろもの謬こ老える瀧︑か上る佛粁い術套手段は必ずしも此時
に姑当ろ化ものではなく︑醜に早くも北岡武帝の排佛哩後に勃發しに階交帝い革鼎時を利川して︑佛 教再興の機池を作らんが爲めに︑柑畔印度術那迩提黎耶舎砂新羅になる徳謹長村經︵下巻︶に見えに
くる﹃月光童子が未來仙に脂那岡王に郷生して佛教を復興する﹄どの佛陀の豫言を柑時の佛村は之を以
支那三数史上の耕干の問池二二
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か上る槻鮎よりすれば︑逝佛胴教術乖の渦中に於て如何に榊時の佛群が佛陀の懸記豫言に暇託せる吏
生佛仰説を奴る巧妙に利剛してゐにかの那情が判かるのである︒
桁︑上に述べた様な事惰の下に發展しに店初の迩佛抗争の過程は則天武后以後になる亡︑剛教徒のⅢ
に著しく協訓的機運が動き始めだやうであるが︑朝廷の側に於ても此の唖から識ゅる三教談論の猪目で
皇誕の佳節に儒佛逝三教の代表新を宮廷に召川し︑皇帝臨御の下に各自の教義について嶽諭雁酬せしめ
て︑之を以て剛慶佃を記念し奉帆する年中行事の言﹂するやうになつに︒柑時唐朝が皇誕節︵店では之
を延慶節叉は大明節なぎご云ふ︶にか上る儀式を探川し始めに動機は明かでないが︑恐らくその起源は
南北朝時代の三教討論の通風ご兇るべさであらう︒北間武帝は迩佛淘汰の直前に三教代表を御してその
教義を討論博議せしめにこEが志磐の佛肌統紀︵巻三八︶等に見え麺↑又賛寧の備史略︵巻下︶﹃誕臆談
論﹄の條には
ナラフ元魏・後周・陪仙︒多召二名柿脈畢術一︒與二儒道一對諭︒焼し脱二王道一・亦慶生之美事突︒
なぎLあるので細る参こ店代②三教談論は正しく之等前代の儀制にその範を取り︑之を皇誕節の儀式に利
川したものに過ぎないやうである︒
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・店代の三教談諭の起源は余の知る限では太宗貞観十三年︵西紀六三九︶︑勅に因て幽子祭柄孔瓢逹︒支那三愛史上の薪干のⅢ池二三
て陪丈帝に擬し︑途に帝をして佛教の祁典に力を洲さしむる動機を作った先例を川想すべきであら
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旬
沙門慧淨・通士蕊晃等が弘交殿の御前に称して三数の談議を催しにこさに始まるやうである︒宋付志磐
の佛岨統紀︵霧三十九︶に擦るざ︑此時慈淨は法華經笹識嬰Lろに迩七察晃は此の經の序品節一の意義
について慧淨さ嬬難往復季笹屯匁てゐる︒之に次いで商宗の時も亦薗公彦を御前に召して通士・沙門己經
義を誰諭せしめにこさが挫寧の術史略︵巻下︑延辰談論之條︶に川てゐる︒尚︑明の屑除の佛法金湯細
︵巻一二︶は樺氏通鑑を引朋して
.︵府高宗顯度三年六月︶沙門慧立︒遊士張悪元七人︒於二両耐殿︸共術二明理︸・帝悦︒袖し立爲二両
明寺都維那一︒
ご云ってゐるのもその一例である︒稗脈筈︵巻川︶による︑己府商宗は爽槻二年︵西紀六二八︶六月諺太
宗の節丸子ざして生れたものであるから︑此の梁も亦尚宗の挺辰に催あれた三教談論の一例であるこさ
は疑を容れない︒
府代に於ける三教談論は此の後も敢てその例に乏しくない︒挫寧によれば・
徳宗誕日︒御二麟徳殿一・命二詐孟容等一・諾し庫與二群老之徒一群術︒貞元十二年︵両紀七九六︶川月
回誕日︒御二鱗樵殿一︒祁二給那中徐岱︒辱部邸中越諾︒及許孟容・承渠牟一︒與二遊士葛拳成・沙門談
念癖錘筵警下ん一短州払誕坐︒誰論三掌・渠牟並嬬給︵价史略巻中︶
直あって︑徳宗尚亦その誕辰に此の縦式を行ってゐる.此の事は新厭普︵雀一六七︶や悲店普︵巻一三
五︶素渠牟傳に排しく見えてゐるが︑挫寧の文は殆ざ燕府評の永渠牟傅の榔蛎に過ぎない・宋の洪逃も
支那一二数史上の若干の間脳一三三
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〆
樂天は 喪暦一年︵閥紀ハニ士ハ︶六N︒敬宗降誕H・御三殿︵彼︶|・孵訟一兵部侍郎丁公著︑太常少卿陸一旦︒・與二繁等三人一.抗一一浮岡・遊士一群論.︐
雪こあるのがそれである︒それから次の文宗に至る︑己彼の苓病な詩人向居易︵樂天︶が︑太和元年︵閥紀
八二七︶十川の皇帝の聖誕節に儒家を代表して安剛寺沙門義林や太涜宮遊士楊弘北膠ざを對手・として︑︐
麟徳殿の御前に於て三教諭伽の主役を勤める︒といふ朧俵が起っ増
此の時の詳しい情況は︑氏女喋︵巻五九︶﹃三教諭術﹄の條に収戦されてゐるが︑その冒弧に於て向
太利元年十卿︒皇帝降誕日︒準し勅召二入︒麟徳殴内逝場︸・對御三教談論︒略鋒二大端一.
さいひ︑先づ此の式典畢行の發端を述べて次にその序文で左心如く云ってゐる︒ 次に府敬宗も亦密歴二年
李繁仲に見えてゐる︒乃ち︑
喪勝二年︵閥紀八二六︶ 仰の丈を稗載したものである︒ 零齋三兼︵巻一川︶に於て
・脈徳宗以二砥同一・放鳥皿一佛老軒|・た術二麟徳殿一・井召二給覗中徐岱.・及趙諾・許孟春・唯染牟一2
4うぐ誰諭︒姑三家若二矛研一・然卒而師二子祥一︒帝大悦︒餐予有し差.
︑こいって徳宗時の三教談論の儀式E血元十二年の蛮例電己を難げてむるが︑之は新店苔︵巻一六一︶徐岱 支那三教史上の恭干の問巡
︵両紀八二六︶六川の誕辰に三教談論を行つにこさが︑恋府普︵巻一三○︶
’
一三四
臣白居竺一両︒諭談之先︒多陳一三教識楊淡縦︸・以啓談端一・・・:・儒臣居易︒學浅才微︒謬列一蕊筵﹈︒
●
隈登二満座一︒天甑腿尺︒隈二越干前一・
さ云って三教談論に於ける儒砿の感想を陳べ︑次に對手の韮林法師の人物を碗いて
瓢以粋門義林法師・明二犬小乗一︒迦二内外梁一・雛山徹岫︒蒋海雅梁.於一大衆巾︸・能師子叫所一一ミ︑ル一毛ミルニ
以粋門義林法師・明二・
詔彼上人蒜︒雌し爾二州對一︒・
琶彼や榊揚し︑それから︑鵤易は義林︑こ辮雌礎父はしてゐる︒それが経る︑こ向居易は災に逆士楊弘兀
さ驍諭を側はし仁が︑その前に楊の人物を梁げて
迩門楊弘元法師︒逝心精微︒腫畢奥秘︒爲レ仙列一上肯一・
ざいひ元此唯でも迩一薮談論開催の︑王げぜ碗いて下の如くnつてをろ︒
心0000000O・臣居笏言︒我太和泉帝︵稗︶Ⅲ二玄兀之敦一・猫二浦派之瓜一o儒素織茂︒鼎足列蠅︒薪不三繩二流玄義一︒ 吟上人村︒靴し爲二州對一︒
次に此時の三教淡諭に於ける儒裁か伽・︾辿叩代表に對する僻諭の内容を紹介する︑迫︑︲始めに秤門義林
は儒家白居易に對して︵一︶毛誹の六韮︵風・雌・比・皿︿・雅・弧︶の意義を間ひ︑:史に︑︐︵二︶た蝋叩の叫
科︵徳行.一一呈叩・政治・文躍︶〃侭しにろに對し︑︑居易は次に焚林に對して維嘩經不川心瀧剛叩叩の﹃芥
子納狐彌諭﹄の一條を価問してその解燦を要めに︒
蚊後に白居易は逝北楊弘元に對して︵一︶澁唾經巾の﹃養氣布川︒長生久脱﹄里挫韮及び北︿の慨得荷
支那三数史上の蒜干の問題二一五
將侭価居解笏、二二 ニーュ
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此の向氏文錐の﹃三教諭術﹄の女に擦る雪﹂︑三教談論ご孵し乍ら儒蒋が此の儀式の中心主導となって
之亡佛群及び逝士さの論議に過ぎず︑逝佛雨教徒の嬬諭は此の際行はれてゐない︒此の一の燕潅だけを
見て唐代の三教談論に於ては迩佛剛教徒は癖諭を交えなかったごするのは早計で︑現に徒寧は撚宗時の
延慶節︵皇延節︶には咽術︵廼价逆︒赴一職徳殿・誰諭︒︑にあり︑叉昭宗文徳の初︑嘉愈節︵皇誕節︶
に︑詔二期街附道↓・淋諭至レ幕なぎあるので見るざ︑之等の三教談論には之に關係しに儒教側の代表新の
名がないから︑或は价迩咽代表だけで談論を試みたものか・己も考えられぬこざはない︒斯様に兇来るざ
唐代の三教談論の儀式は必ずしも儒佛逆の三教代表洩なくリーグ戦を綴まねばならぬごいふ規定はなく
場合に雁じて儒對侭逝︑術對儒逝或は諦對儒价等の各諏の場合があったのではないだちうか︒か上る糀
密な關係を決定すべき史料が未だ見附らないから姑く之は悶疑に附すろの外はない・
詩人向居易の参加し龍太和元年の三教談論の外に︑太和七年の丈宗誕辰談諭の記事が襟店苦︵雀七文 ある︒ 斯の如く文宗太和元年十川の聖誕節に於ける三教談論の式典は︑樂天を主導ざして儒佛逝の三教代表
肴に山て醤まれたが︑此の︑氏文喋巾の﹃三教諭術﹄の文は︑余の知れる限りでは︑店代に於ける三教
談論の形式内容を詳知すべき唯一の没並喪料であるき共に︑又府代に於ける此の縦式の代表的史料でも
支那三教史上の悲干の問題二一六
を晩し︑次に︵二︶此の迩經の作蒋︑ご黄庭の意義宇解を詰問した︒之に對して遡士楊は白居易に對して
孝經要逝章中の﹃敬二一人一.川千曲人悦﹄の語刷の意義につき詳解を求めてゐる︒
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撚︽示成迩土一年︵閂紀ハ七一︶十一川十川Ⅱ︒延慶節廊挺︶︒叩街森︶价逝︒赴職徳殴淋淌︒市
街俄鋒彦梵︒賜剛徹犬師一︒左街納鋒淌剛︒賜郵愉災帥一︒︵佃史略在中︶
︑と云って依然︑三教談論が此の畔も繼練きれてゐたこ︑こを示してをる︒
撚︽一不時代の三教談論に開して一の郷︿味ある亦涯は︑賑間史︵寒寒子槻︶に見えたる催人李可及の三教 戯である︒呼川時隣朝では三教談論梁打の直後に餘典守﹂して優怜に︿叩じて各祁の戯劇を波せしめる慨であ
っ仁が︑蝉示の戒通年Ⅲ延陛節皇挺節︶の式肌筏︑淵糯諾戯鼠蔦#流誰を抜いてゐに季可及︽こ
いへる軒が三教談論の識師に粉装して洲稽奇抜の戯削を波じて撚宗ルー始め而僚獅衆の拍手喝釆を博し︑⑤・天子から破格の寵賜を受けたそうである︒
岬川時の俳優は上述の孵刷肥の﹃李可及戯三教﹄の女を兄ても判かる様に︑へ︐日我が剛で行はる凡曲厳
戯い激で之が朝廷の教坊・梨悶に養はれてゐにもので︑その統仙を都知ご呼んでゐに.宋の銭希︑の南
部新苦に撚宗の時︑俳優が寵ぞ侍んで威な自から都知溌倍孵し︑天子がその統恢の都知を召すに及んで
三十人の俳優︾か一時に悉く御前に川頭するざいふ有様であったので雛︽一ホはその取締法に窮して︑都知の
⑥.上に更に都糞知を設けて李可及を之に任命したこさを記してをる︒ 辛歸が+生嘆弥山JhI
支那三識史上の藩干のⅢ脳︑一三八
一致しないから︑之は大和九年やじ年のものざは白から別佃のもの・こ衿えざるを榊ない︒
二萩談論に開する記束は此後もその例に乏し〃︑ない・女兼から武宗・穴宗を經て撚宗の価になる︑乙識
、
俵︑記述が餘蕊に亙ったが︑此で塒に注意に値するこきは︑此時李可及等の淡嬰L﹃三教戯﹄の如き
ものが宋元時代に流行し進二教關係の諦雑劇の淵源をなせるものご凪はれる鮎である︒南宋末の周密の
武林蕉事︵巻凹︶に見えにろ官水雑剥段数の中に︑三教雑削減雪こして
・三教安公子三教閖特棊三教化打三教稚字杵天樂打三教沌皇州打三教緬三教
︿少さいへるものが列禦されてあるが︑之等は今に仰はらないから︑元より共の内容は知るべくもないが
店末李可及等の三数戯系統から發展せる靴劇の額では︽らいだらうか︑専門家の垢教を得ば幸である︒
店代の三教談論は昭宗の治仙まで繼綾されてゐる︒徒卒によるご
昭宗文徳初︒生辰號二張令︑節一・訊剛街術垂︒沸諭蚕し幕︒各賜二分物銀器︒价逝賜肺號一村︒右
街胴人︒紫衣各川人︒徳號各十人︵价史略を下︶
電己あるのがその事蛮の一例である︒
以上煩しく述べ來つに虚に山て︑班の雁棚皇帝がその誕辰節に僻佛迩の代表を窟廷に召して三教談術
の儀式を執行せしめてゐに邪が判明したが︑何故皇帝の来誕節にか︑る行那を執行し始め仁かの動機・
原悶については全く判らない︒前掲︑居易の﹃三教諭術﹄の序文に搾れば
O
伏惟皇帝陛下︒匝妾川爽一︒父二母禽姓一︒恭勒以修レ己︒蒸倹以餐レ人︒戎夏又安︒帆野伽莱︒塒
0O○CO○000○0○○○.
降二帆綱一︒式獅二孫臆一・州二逹川聰一・附二揚三教一︒云産︑こありて︑彼は此の行亦を以て汎く皇帝の見州を隣める︽こ共に︑傍ら三教の剛描に努めるこ︒こがその目的
支那三数史上の恭干の問題一三九
I
ク
支那三数史上の藩干の川越一四○
コンベンシコナルである︑己若えてゐにやうである︒併し之は彼の儒教風のイデオロギーに韮づく極めて形式的・使揃的な解
牒で︑此の行飛の内面には聖蒜の帆祁・禁脈なざいへる更に一脈深い糸教的意義をも包含してゐ仁もの
ご恩はれる︒
牌代の三教談論の隣式は五代以來釜唆せられて︑之に代って﹃肌蒜﹄ごいふ一稚の儀式法要が行はる
iやうになった︒之は皇帝の祇辰に際して廻蒜の雌蛎を帆柄する一砿の法樂斬礁の激で︑末沙門芯解に
よれば
︵北魏太武帝︶始光二年︵西紀川二川︶帝祗節︒詔二於佛寺一︑雄二帆蒜逝場一.︵佛岨統紀巻三八︶
︑と云ひ︑之を以て聖誕節の肌蒜の起源さしてをる︒之は明かに宋術従卒の俄史略︵巻中︶に見えにる
﹃生日菰場﹄の起源を北魏太武帝の始光二年に砥く縦に韮づいたものであらう︒乃之に擴る&帝王誕辰
に帆蒜の祇癖を行ふ風は遠く六朝中期に起源瀞行するのであるが︑店代の三教談論が五代宋元時代の肌
森の形式に一稗したのは変に五代の朱梁に始土︽るのである.群居正の醤五代史︵巻三︶によるご
冊子沁年︵西紀九○七︶十Ⅲ庚午︑大明節︵耀延︶内外臣僚︒各以二奇従艮馬一上し毒︒故輔内股附し宴︒
召二繰逝二教一・對御談論︒宜旨龍し之︒命二開門使︸・以二芥合一腸一幸臣一︒佛寺行呑︒冊幸二繁姦↓
仁体ナトr︑︒
鄙耐と弘
ごあるのがその例誰である︒皇誕節に内外原僚が良賜を献じて聖壽を祝したり︑天子が繁蕊に出御して
武浄誰じたりするこざは五代の武断政論時代の就會相をよく顎はしてゐる.恐らく術時茂巣匪の賊將か
一
曲
ら立身した梁の開皿︵朱全忠︶に取っては三教諭術なぎ興味もなければ恐らくは叉理解の能力さへもな
かつにのではないか︒併し此の際宰臣に呑念を下賜して佛寺で行香の法禽を行ふ鮎は微かながらも六朝
以來の皇誕節の祀礁祇癖の意味を保存してゐる.之より以後歴代謝王朝では聖誕日に三教談論なぎの填
瑛な儀式によらす︑面官をして寺院に就いて行呑をなし︑州をして商座に陞って聖壽の無蛎を帆騰
せしめるやうになったのである︒而してか上る脱毒の儀式については宋以來諦家の記録に艇里散見して
先づ朱梁の皇誕飾山祀燕の儀式を宋朝が婚襲しにこゞこについては︑宋の眺寛の西溪叢語︵巻下︶に○CO00O朱梁州倒︒大明節︒面官行香脱し蒜︒.::閏朝至レ今因︲之︒
夕ごあるに由て知らる上が︑宋の洪逃も亦容齋三兼︵巻一四︶三教諭術の條に於て
唐帝波以レ此︵維幟︶爲二挺Ⅱ上縦一︒殊爲レ可し宿︒剛朝へし僻︒升し眼脱し聖︒蓋本二子此一︒
︒
さいひ階朝の誕辰談論の蝋瑛椅く可さを述べ︑而して宋朝の刷蒜の儀式が︑元変之より柳化した所以を
説いでをる︒洪辿に次いで雑大經も亦
へ丁仙聖節趣延︶︒令下術陞一法座而帆叩聖一噂︒而那守以下︒環坐而瀧︒殊無義理︒︵慨林玉撚巻九︶
雫こいひ︑聖誕節に沙門をして商唯に陞せて聖蒜を川礁せしむるこ↓こをも否難してゐる︒
以上二三の例に依て槻るご︑宋代の皇拠節に執打された﹃帆悲﹄の隣式は沙門をして商座に陸せて聖
燕雌窮の祇聴を綴ましめ︑朝廷では宰臣ゞ地方では郡守なざをして寺院に就いてその法含に列嚇し︑此
支那三教史上の若干の問題一四一
●
手ぜる︒
I
’
佛教は店代にその全盛期に逹し︑六朝以来の印度Ⅲ有思想の翻諜移杣から一稗して支那刷術の佛教が
生れた︒教學の方面について見るも六朝末︑から陥店の域にかけては天台華厳等の哲學が生れ︑修祁の方 タテ︑アツメテ雌寧路傘岬睡等唯.五委宝︑該兒一的︒一枝兒白韮逆人名字的︒・輩帝寺﹈・多衆一読男子蹄人一・
アカツキナシカレラヘテノ
○O○夜聚明散.祥修二蕃亦︵州︶|︑届二惑人衆一.作一附行︵認︶称︒︑:⁝又他毎都是有二妻子二的人︒他毎的︒○CO00ヘルヲトモナンゾアクフンヤ身︒己不二清淨一︒與一上位二毒︶肌秀一呵︒悲生中?去盈・
金
さあるのを見る︑こ︑柑時︑今の祁建打建甑縣を中心こする各地の白迩教遊人すら朝廷の聖誕節に﹃帆蒜﹄
味︵
の儀式を執行してゐた覗蛮が認められるのである︒﹃祀森﹄の行窮につ堂Lは恐らく此の後も繼絨された︸﹂ごL老へるが︑不幸にして未だ明代の淡料を
捜索するの機を得ない︒從て此の垣に開しては姑く此庭で剣愛するの外はない︒ 發兄する︒乃ち共の勅流による︒こ︑
支那三教史上の若干の川越一四二
の際行芥なざ・をも蛮行してゐにやうである︒か比る聖延側の儀式は秘仇︑寺刹のみではなく恐ら︐︑辿槻
でも行はれてゐにであらうっこ想像さるkのであるが︑余誰い寡聞なる未だその適例を兄川し郷ない︒而
して此の行那は渦り︑末代ばかりではなく︑元代に於ても汎く内外祇州縣に蛮行きれてゐに那世は元の
辿制條格︵雀二九︶に武宗の至大元年︵↑山紀一三○八︶五川十八日附の内辿敷禁止妙勅令にそい一例を
︵四︶三教諭と三教圖像︑三教堂
|‐‐.。
義戦いⅢ腫報 簿祭器鋒
葺J・簿罵群働Hす劇・等才
J悟三罫蔦︲︲小Sい母三︲︐
|烏祠s洪宗津剣言4.麓寄 濫覇謂雪母価︑与粥瞳︾荷華寺 簔零壽潔tU亨謙い涛営.︑s川
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弾︲一︲S︲一叫ぶ小才︒︹画一霞瀧〆鋒I
梧斗川望S泰崖星竺 輯い篝旨
→一い︲琴鐸談 二一言鳶浄涛時Ⅲを詳 恭嵩ss蝉一いい一い︑ノ震鋒罵堂
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二一画 1 日
■
■
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■
紀︵巻四七︶に
徽宗崇寧五年︵西紀二○二︶十川詔口・有二天下一新︒尊二事上帝一停敢有し弗レ塵?︑而樺氏之教︒乃以二 にまで發展するやうになったのである︒
暦宋時代の三教諭の師結は愛に如是ものであったが︑さて次に三教像や三教堂の歴史ばごうか︒以下
之について少しく述べるこ︑こiする︒
店代に化胡佛老子の鍵洲が逝概の壁面にか叉げられたり︑或は迦葉の郷生佛たる老子が佛刹の壁謹に
使刑されてゐたこさは慨に述べだが︑末代に降って三教洲和合一の論が一般に流行するに伴うし︑天下
の寺棚に樺迦︑こ孔・老二子の三聖皿や三敦像等が安澄せらるLやうになった︒此の他佛寺に於ては天帝
を鬼祁の列に配次したり︑上帝E逝教の三浦を等位に匠く謡像なざが設けられた︒︲宋沙門志磐の佛祗統
支那三戦史上の恭干の川池一四川
此の小︑林兆恩︵一名林三教︶の三教一元術の系統を繼承したものに明末安徽款人に程智︵號塞姉︶が
あり︑その子弟門流の巾には金朧・哀宗迩・洲塞畢・王剛・英脳宜・郡元標なさ︑いへる名流が数曼へられ
てゐた︵黄宗義南露文案巻九︑林三教仰︶︒而して此の派の末流では浦末迺・成川の間雄垣︵號太谷︶
及び︽ての門弟子張械中︵號石琴︶・李光断︵號糀川︶等によって刺汝されたのが大成教門︵三教混成宗門︶
であるご云は型Lゐる︵浦︑徐珂撰浦稗郡紗宗教知︶︒之等各派の思想や仰流の附勢を述ぷるこ︑こは︑
本文の除内が許さぜる虚であるから鮎らく他nに謀るこ毒こNするが︑兎に伽︑古くは六朝から店宋元明
時代の永い歴史過程を經たる僻佛遡の接燗交渉の歴史は清代に至って三教融合の一睡の異端的混成朱門
I
●
天帝一︒澄二於鬼祁之列一︒涜紳途し分︒英二此之進一・有司共除二削之−0又勅二水陸迩場内一・談二三滴等
○00CO○○○○○○○○○
位一︒元豊降し詔止絶︒務在二椎畢施術一・醤來僻居︒多設二三教像︸・途爲二院額殿名一・稗迦居し中︒老O承居レ左︒孔子居レ右︒非四所三以奉二天眞與儒教之意一︒可下迎二共像一︒蹄二道槻學舍一︒以正叩共名上︒
雫とあるのは以上の事蛮を端迩に物語るものである︒尚此の事は佛組統紀︵巻五五︶にも︑李堅の皇宋十
4帆綱要︵巻一六︶にも兄えてをるが︑之に對して洛京沙門永逝は
0CO0︒0.O○域中孔老︒法し天制し教︒故不し逃し天︒佛川仙法︒天人川師︒故不し逸し佛・⁝:岨宗以来︒奉法巳定︒
00OO一旦除制︒吾恐殿法之州︒兆二於此一英︒︑
直云って徽宗の殴繰を慨歎しに直いふ︒乃之に依るさ三教像を始め上帝三浦等を佛寺の別殿に奉祀する
こ︑迫は早くから宋朝で流行して一ねにこさが判かるのである︒宋は剛初以来佛教を奉信する︑ご共に迩教に
も崇邪し又施政方針さしては儒教主義を探川してゐに︒換言すれば示教ざしては道佛朋教を奉傭し軍政
ノット流亡しては儒教の趣旨に則ったから︑此に三教の洲和やこ云ふ事が自然に成立して三教像︑三聖堂なぎが
發逹し仁ものさ考える︒之は主さして佛教側についての例であるが︑儒迩叩教側でも佛陀像を迩像や儒
形に溌祁して之を其の祠廠に安世する風が行はれてゐ北らしい︒宋竹敏行の猫雌雑志︵巻九︶に
泗州浮圃价伽像︒將二加以|し冠.忽風雨晦其.裂二共冠︾鮠二Ⅶ外一.太守剛し之大総.遮脂二像前一・洲泗州浮圃价伽像︒
ざあるが諺事変此の物語は巷間の妄談であるこしても︑宋代の泗州即ち今の安徽泗縣附近の道槻︑若く
支那三教史上の芳干のⅢ題一四五
日︒僧伽有し蟻︒
〆
ソ安敢再演︒
』
東秤一澱︒四方不二︒老子符一・教分遁異︒忠恕而巳︒蟻聞二纈ジ帥一︒臓色未進︒英既焚僻︒
ご云ふのである︒之は王逢が儒家の立場から三教州の笠を苔いた鯛めに︑三教の極致を孔子の忠恕に肺 之ば南宋理宗帆の宮廷飛家賜逵が朝廷より命ぜられて三歌側を拙いて江子述に勅して之が擬を作らし
め︑腕稗皮肉の桟僻を榔龍︑といふ率を述べ仁ものであるが︑此の三教剛は寺棚に脇するものではなく恐
らく朝廷の秘庫に脈赦され化ものであらう︒
尚︑三教川に開する元明人の記那を左に記して此山事例を維るこ︑こIする︒元の王逢の椛溪雌︵巻六︶
に三教岡の笠が川てゐる︒↓くれによる?ご元の張涯が描いてそゞい味難職︵苦齋︶に猫け仁ものに王逢が饗に三教岡の謎が川てゐる︒
したるもので︑此の文刷は
土牢い◎ 支那三戦史上の薪干の川題一凹六
は文廟︵恐らく前析?︶い一に柑時衣冠を川へられた佛像の存在してゐに那寅は之を儒川して益支ある
末代には寺棚の外にも
一二︶の文である︒乃も︑
叫宗朝︒布二待洲囎浮︒薮一三教川一︒蛍向老子︵唖︒則珈跣巾坐︒猫糀翁︵琴倣五於傍一・江皿夫子
︵迩乃作二澱於前一︒此恭﹄門蝋︵唾.蝿一帯し作し此・以悔二聖人一也︒一Ⅱ伸し﹄叩伸二古心江子述作一し性︒亦
シム
| ン 二
故以レ此戯し之︒公部笠し之刊︒﹃群氏跣坐.老聰傍睨︒帷将夫子︒絶倒在し地︒﹄遂大稲し斤・典僻亦
可レ詔二微而腕一夷︒ 一般に三教剛像が派打してゐ化一例雪こして恥ぐべさは︑栄間密の齊火野諦︵巻
し仁ものである︒
霜こいひ︑柑時寺概に三教州︑薪は三教像琴笹製作安世して︑術逆二家は各Lその立場から佛陀や老子を中位
に世吝︑孔聖を節三位において之を侮辱してゐるが柑時の有司は之を意に介せず放任してゐる︒之に慨慨
して孫役さいへるものが﹃儒辱﹄の一文を革してその非を・塒らして一?︒︑こて︑此の丈の大意を州げてゐる︒
孫復作二儒辱一云・佛老之徒︒械二乎中回一︒天下之人︑蛾衆災募︒・災し不二手競而趨一し之︒於レ弛共教
典し儒掘馳並繩︒峠而癒し三︒呼可レ怪也︒儒儲不し知二共辱一︒而反鰊し之稀多突︒得し不し矯二罪人一乎︒
︒といふのがそれであるが︑柑時の吐蒋ばか出る反動諭粁の意兄には除り一斗を傾けないほざ三教州や三教
像が枇Ⅷ杵迩の郡②こなってゐにやうである︒
三教朔像については前記明のW安の訓言挺諦の記邪に依て︑明代に汎く流行してゐに那蛮が知られる
が︑此の外︑寺槻に三聖の咽像を奉祀する例は浦の徐珂の流稗獅紗︵宗教狐︶に○CO○○○0○○00ツクル000000COO○乾降初︒河南立二三教一︒合一一粋迦・老子︒孔子偶像一︒鰯二一︑殿↓・立一堂五両九十除膣一︒云々
雲乙あるこゞこによって棚るご︑浦代にも依然此の風が各地に術はれてゐにやうである︒
雌後に此等の三教州像を安世せる三敦蛾の桝例二三を繋げて此の小諭を経る一﹂︑己Lする︒
支那三戦史上の耕干の問辿一川七
明代の三教側に開しては暫安が調言長語︵巻上︶にその大概を述べてをる︒COCO○○0000O
仙之人O多以二儒繰迩一・鯛二岡或塑像於寺獅一・稗以レ佛居レ巾︒迩以二老子一居レ中︒愉迩有司︒兇し之蒋︒
略不二介︐彦意而斥︸し之︒
’
−1
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ごいひ︑更に柴韓は此の風は明より浦に至るまで相沼ふて俗を成し︑特に永川・寓全等の諦縣に限ら
ツクリ桝來術居︒多設二三教像一・逢爲二院纐殿名一︒云為
・こある文意から察する佛寺に存在せる三教像が孵別の舍殴11例へぱ三教殿さか三教堂など呼ばれたる
lに安世きれてゐに亦蛮が判かる︒此の洲は此虚では排佛崇逝の徽家道君皇帝が佛徒辿審の鯛め發布
しにるものであるから︑逝棚の三教川像には言及してゐないが︑恐らく糊畔樺迦ご孔子とを左方に侍立
せしめし遊君︵老子︶像を奉安せる三教堂が道概中に存在してゐにこ︽こが推測せらる上・
三教難は宋代よりかくの如く既に存在してを︐9︑之が元明より清代まで汎く天下各地に流打してゐに
やうである︒浦︑柴錘の梵天臓叢鋒︵巻二九︶に振るゞこ︑CO○○や樵二文廟祀典考一︒明英宗朝︒民Ⅲ納二老佛孔三像一︒橘二三聖祠一・水川訓導某上疏︒言二共非︸︒上勅二
澱部一禁革︒是三教堂明代巳行︒絶無二疑義一・
竜こいってゐるが︑水川は今の川川符亜慶の閥に近い小縣であるから︑明代に此等の地方に三敦堂が存在
してゐた事変を知るに足る︒柴革は史に共の下文に於て命氏印零軒随筆を引朏して︑
海全縣︵嘩毒口︶有二三教堂一︒内供一塑像三一・樺迦居レ中・;孔子居レ右︒老子居レ左︒北︿義訓三教殊途︒
に
よ6
支那三教史上の恭干のⅢ池一四八
既に前にも班げたが宋沙門志孵の佛仙統紀︵巻四七︶に見えたる宋徽宗の崇寧元年三教像禁止の拙勅
皆以二善行一爲レ本︒
I■■
術︑徐珂︵清稗類紗︑宗教知︶によるぜ﹂︑清代には川川の太平縣に三教亜︵一名聖教亜︶︑こいへるも
のがあって儒牒迩三教主ぞ奉祀し︑入教のものは堕巾に於て熊齋を行ふを例さし迄こいへぱ︑此の三教
唖も亦一種の三教廟︑叉は三教堂︽こ見られぬこゞこはない︒
以上に依て余華は宋元明淌時代の三教州像及びそれを奉祀せる三教堂の一般概要を説いたが︑蚊後に
支那三教史上の蒜干の問題一四九
ず︑その他の虎でも屡里聞く虚である苣云ひ︑共の一例さして逝光十六年︒荘振基奏︒山閥毒陽縣︒及遼州寧武等膣︒皆有二三教廟一︒上諭二内閣一︒通行禁革︒今
江湖Ⅲ︒猫有一二二存群一・已無下人更二新堂宇一・重中建典輪上︒云々・
さいひ︑浦の宜宗逆光時代︵十九仙紀前半︶に山西の蒜陽・進・寧武等の諦縣に三教噸︵堂︶の存在し
てゐたこさを述べ︑更らに現在も尚︑江湘各地に一二蕎來の三教蝋が残存してゐるさ附言してむる︒余
が前に引川しに清稗類紗の︑乾降時代に於ける河南の三教像の場合に於ても繰迦︑孔・老二子の偶像の
にめに一殿〃建立し︑立堂五百九十餘應に及ぶ︑こいふ豪勢であつだから︑河南の學政林枝存は上奏しにめに一殿〃建立し︑
︑乙云ったので︑朝廷でも其の秦を可さして三教の偶像は各別に丈噸・逝概・佛寺に分離安世せしめる
こさ︲当しに︒ て︑その禁止を諭ひ︑
蔑批之師︒
打二禁止一・ 乃脱二居稗逝之下一・畢覗不經︒証妄蛮挫︒競施二耗産一︒以蔑二典常一︒諸勅二該撫一︒厳
1
1
1
1
I
I
F
■■
支那三戦史上の恭干の間伽一派○
満初の小説紬金瓶施に見えにる三案︵三教︶杵院について二↑叩する︒
此の物諦は涌初の山東術城の術生丁糀兀の作になれる絨金瓶梅︵前後雌共六十山岡本に︶兄えにる三
教評院含天書院︶成立の賊末に開するものである︒M萱一下七回上﹃三敦堂韮Ⅷ櫻成淨土﹄の一帥を兄
る・巳︑余人入沖の際︑宋迩飛泉帝︵徽糸︶の礎妾にして特名の歌妓であつに李師帥の桝宅を波収して宿
に入れ犬晃尼寺を姓てたるに︑儒巡二家が飛び川してその地を稲ひて決せ︑ず遂に儒粋逗二家の飼めに其
の地を州放して三教唯を総造して三教の淋錐に宛て↑たが︑州封府の儒生等は窓に三教堂繊逝に猪を職り
て寄附を募り三川の犬殿を姓て︑自派の伽Ⅱを立てk呪端外遊を雌瓢する︑的で︑醤來の俄例を破って
孔子を中応に︑群老争や左方に侍立せしめる三教像を逵って此の大殿に奉安し↑脂︒川之彼等は此の堂宇に
◎於て祁を識︑するでもなく︑逝維ぜ舵くでもなく︑征Ⅱ油を喫ひ︑詩を賊して一佃の色字を純教するさい O
ふ様な不愉快な始末になつにので︑土地の災衆は三教似案の意味を寓して此の三教堂●皇一愛弄阯さ呼び
③
価はし迄ごいふこ︒己である︒既に榔迅︵小舵史略節十九筋︶も云へる如く︑明代U淫北隅・︿金瓶椛の如き︶は好んで佛教の閃果附明を標梅してゐるが︑金瓶梅が一帆の妙手を就くに對して︑此の絨金瓶怖は
○○○00000
−佃の室字を説き︑色邸恥垂室︒案部Ⅷ沌色の佛教の囚来鈍の︑王旨を明きんごしにもので︑・三教堂が三案韮凰
◎
院なざ呼ばる上所以もか上る主意が多分に含められてゐるものご忠はれる︒
︵五︶結
幸輌
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余輩は以上数節に貢って蛾を脈はず︑三教調和思想の歴史を継述したが︑此の二一教訓和の思想は既に
南北朝末期から明かにその伽芽が見られ︑店代に幸●狸入ってからは著しく内容外形共に禁伽しにやぅに胆
はれる︒今内容から兇れぱ六朝以來︑印度︑心祁﹄の輸入北叩及に作ひ支那の一般災衆の之に對する那僻亡認
b■識の程度が坐曽︽る︑雲柾だ︑佛粁の側に於ても支那問布の閏災的科悩やその思想に川化しつkその幽雌に タカ
印度︑淵街﹈叫髄を極めて自然的に注入し之を消化せしむるこ謬己に努めにからである︒庶代に三教談揃の
如き行事が行はれにる伽以も僻佛逝二一家が什里對手の教義笹或雁度まで認識し即僻しせ一丁しては自己山
教理の寅傳にすら支障を來すさいふ程度に冬誤で三教の理解融和が進鵬しに一篭ご兄られぬこぎ﹂はない︒
此の傾向は宋代に降る︑こ史に一段の發展を遂げ︑二荻はそれに共通又は餓似の教義や川心想を枢軸こし
て︑密両上から祁互の關係が緊密化一れるやうになった︒各諏い二一教公仙が發麦されて祁互の思想・教理
のkゞから調和合一の主脹が生れるやうになつ仁のは此の慨向を如渡に物語るものであらう︒末代以後秘
朱・陸王の礫が儒家の側に發述し︑紫陽︵峡杣端︶正が︵邸畦機︶蝉の全一叫教改革宗が逝教側に生れ川
仁のも亦かlる伽向の斌犬なる一の現れである︒而して之等の知減肺御の︑淵心傾向が一般此衆に反映せ
る結果が三教岡像や三教堂なざの川現︑ご江つ↑卜ものではあるまいか︒
L史に明浦時代に降る︑と前代から竹はれ聾二教合一兼くは一源︑鮒必は儒教側の手にょつて︑洲ゆろ大成
敏門にまで發展寺るこゞ己になるのであるが︑之ば紙面の都へ叩上他Ⅱの發表に待つ外はない︒
支那三数史上の若干の問迦
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一
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−b
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︵二︶の注解
仙消剛法行經は天台維峠純或疏節・一︑嘩訶止籾節六下に引川せられ︑沸爪純蛎六︑塚兆側線川方仲兇經などは萩
純に現存し︑弧卿川城純は迩紳の安樂難下巻に引川され︑迭立天地繩の逸文は維峡雑文疏節一に引川されてをる︒
之等の侭純の粘細な考推については望月備亨岬士の﹃批孜恐想に影禅せられたる低純﹄︵大正大學々祁錐一戦︶
フル一一②併肪の出三戦記集節士肩は越琳の﹃均蒋捕﹄が躯げられ︑その庇ぐ下に何水天與一系少丈一︑杵亦往反︵演二
均蒋流しといふⅡがあって︑附怖慨弘明集︵巷一己の何.宗刈人の鮴無白術と同一と同一乎変を指せるもの堅
様であるから避琳の膿白術は排しくは無向均悲術と稲せられてゐたやつである︒
③沈約の均架論は府僻迩皿の旗弘明集︵巷五︶に見え︑梁武帝の三致蹄は泣一乢の同番︵巻三九︶や店の鰍陽刑の
蕊文類衆︵巻七六︶などに俄錐されてゐる︒
㈱術︑府中雅昨の化胡純娃止の淑勅は佛祁統紀︵巻凹十︶にハ
トモーース
其化州經︒腿朝難藤︒今後右し留一此佃純一・及諸記錐︒右し蒜一花胡一︒竝與削除︒述者準し勅科し罪︒とあるものと同一淵勅の異文であらう︒ 及び十二遊經中の喪唯喋︑︾に引きたる天地錘︑浦淨法一ることを注意すべきである︒ 伽︑之等の佃作佛典については末の雑泌の路史︵巷三︶﹃老子化川紘﹄や明の徐胆砿の玉芝蛍淡葡︵巻十六︺﹃怖飛菩朧﹄の條が参照に仙する︒凡そ之等の史料は概ね附初の沙門法琳の辨正諭︵巻六︶に引川せる弧彌慨岡山純及び十二遊經中の喪唯喋︑喪吉群二菩熾の雄皿遊化説や︑戎は法琳の同蒋︵巻六︶や同人群破邪論︵巻上︶などに引きたる天地錘︑浦淨法行經︑空寂所間純等に見えたる怖瓶純生孔子︑迦葉卿化老子などの鮎に蝶るものであ を参照せられたし︒ 支那一二戦史上の若干の問池
注
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側宋︑銭希︑の南部新番にも︑
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血元十二年︒天子降誕日︒拙三怖官一︒皿︿二絲哉一称諭︒初芳乏矛柵机向︾︒後獅二江海同蹄一︒二一殿談純︒自レとあるが︑之も新府韮汕徐併仰等に本づくものであらう︒価二一殿とは麟徳股の束西南の三而の椎削を桁せるもので
ある︒麟徳殿は脳の哩泓︵挺安︶の大明宮︵一嶺束内︶中の西部に位し︑殿束は紫嘘殿と祁辿なってゐたとい
はる︒末︑末倣求の涯安志巻六や簡徐松の店璽泓城妨孜巻一など参照︒
⑤恥閥史に兄ゆる李可及の三戦戯の陣丈左の如し︒
成迦巾へ八一︿○八七七︶優人李可及我︒淵稽諦戯o獅出二流茄一︒錐し不し能二託し調匡正一︒然巧将敏捷︒
亦不レ可二多砂・聯Ⅶ二延嵯価一・蝋双溌加増次及一一佃優爲一レ戯︒可及乃怖服瞼巾︒褒衣博排︒辮濟以升二
崇座一・︑禰三数施術一︒共仙坐者Ⅲ日︒純一岨三椰辿三我一・祥迦如來︒丑何人?對同︒弛妹人︒間者鴬HOつ︒︒︒つ◎︒︒000000○O何也・對凹ぃ金剛經云・敷叱町坐・或非二雌人一.何蚊二夫姫︒然後兄坐一也︒上鯛し之曉し尚︒又ⅢH・太上老飛︒CO00○0○︒○︒︒◎00cc
何人也?對円姉人也︒間者益所し不し嘘︒乃刷︒逝徳純云︒北睡右二大池一・是涯応和し身及一逹無一し身い#復何忠?
此始也︒
支那三戦史上の恭干の問題 燗非二姉人一︒何慾二於右一し娠乎?上大惟︒又no丈皿王︒何人也?對口蝿人也︒間者口︑何以知し之?鋤H・っつ﹃︶つ︒ロー︾9つっ
︒︒︒0︒ご﹁︒︲寺︒︒︒︒0つ◎︒.う○諭芯奄沽レ之哉︒沽レ之栽︒我符し価若也︒向非二姉人待一レ鵬尖鯛?上意枇撒︒寵釧朏厚︒翌日授二識術之
員外恥一・
一流三
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支那三教史上の耕干の川越一派川
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⑥戒迩巾︒俳催僻し恩︒成鯛呈都知一︒一日剛壷諦謙一︒上佃二祁知一止し之︒三十人竝推︒上川止召皐都知一︒何蝿
叩至?梨則使奏川︒三十人拷椰知︒乃命二李吋及一・砺縄柿蠅知一︒後狼蝿鰯星郁椰統一・鍵し此也︒呼披︒︵南
DrLJ−rP恥子当O・刈川判狼剥l︑
切末の炎曾の能改齋没録︵巻こ﹃生日脱祥﹄の條を兄ると︑市化の延腫帆蒋は一般に脈〃一家朝に始まるとの碗が
あるが︑之は恐bく雅朏を失したものであらワとて︑轆元帝が少昨生挺日に撚糸誰純を変行してゐた吹例を邪げ
て︑その起源を玄米以前にありとしてゐる︒
︽日︒︾︵四︶の注解
仙宋の命文豹の吹刺錐によると砿商英の洪唆雫仙は稀岬昨の沙門洪職範が商稚の名を擁りて低作したものであるとし
てゐるがその典推を明かにしてゐない︒
②元の鮒家俄の三教一派脚は松排録︵巻三○︶に見えてゐるが︑僻の叩・性・命︑群の戒・定・避︑通の紬・燕
︵無︶・柳を夫々對比し︑その各々を易や池徳純や佛細の敦皿に配術して寧ろ雅蝦附介に近い舵を立てたもので
ある︒佛祁雁代迦栽︵巻三川︶に三戦根源側といへるⅡを︲かLげ︑元仙祁の昨迩織低維として焚踏されたもので
あると云ってゐるが︑恐らく此の綴排録の三敷一源側と同純知のものか︒
③肌の陸深の河冴稚間錐によると明代には曝士劉識といへる者はないから︑彼の三教平瓊牽汕と僻ふるものは恐ら
く常時の跡而鮓なる某沙門の佃作に成るものならんと云ってゐる︒尚明代の三敦肺者として注Hすべきは惟斑
︵宇射侯︶で︑その説は焦氏樅乗︵緬災巻二︶や支談などに計しく見えてゐて三教諭倒究家必蔽の飛脚である︒
側宋の椴家は此の聖燕︾充年の外に︑大狐元年にも︑政和五年にも雪一教岡や三教像の破殴を断行してゐる︒
︵a︶役家大槻元年士一月戊戒︒邸内外佛寺︸・術右上以二泄隙一侍立者下︒並迎二跡逝糎一・不し川し遜川除し之︒
︵李堅塁宋十朝細要巻一七︶
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