明 暦 大 火 被 災 に よ る 正 保 田 絵 図 の 再 提 出 に つ い j I l て
村
博 忠
一︑はじめに
筆 者 は 先 年
︑ 佐 賀 の 鍋 島 家 文 庫 で 呂 に 留 っ た 一 資 料 か ら 正 保 国 絵 図 は 収 庫 直 後 陀 明 暦 大 火 で 焼 失 し た た め
︑ そ の 後 に 幕 府 の 求 め で 写 し 図 が 再 提 出 さ れ た 可 能 性 の あ る と と を 知
hy
︑
と の と と を 確 認 す る た め に は 内 閣 文 庫 に ま と ま っ て 存 在 す る 古 国 絵 図 の 転 写 図 と 各 地 方 に 残 存 す る 控 図 を 国 毎
K
比 較 検 討 す る と と の 必 要 を 感 じ て き た
︒ し か し
︑ 同 文 庫 所 蔵 園 絵 図 は 閲 覧 が 許 さ れ 左 い た め
︑ 現 在 ま で そ の 思 い い が 適 え ら れ ず 陀 い た
︒ と と ろ が 最 近
︑ 同 文 庫 の 福 井 保 氏 に よ っ て 向 転 写 国 絵 図 に つ い て の 個 別 的 念 紹 介 が あ っ た の で
︑ 知 り た い と 思 っ て い た と と が あ る 程 度 は 分 っ た
︒ と の 紹 介 を 手
bk掛
回 転 写 図 を 検討したととろ︑正保国絵図再提出の可能性は一一層強まった︒
二
︑ 正 保 肥 前 田 絵 図 再 提 出 の 資 料 肥 前 佐 賀 藩 で は 享 保 十 一 年 三 月
︑ 佐 賀 城 の 火 災 で 幕 府 へ 上 呈 し た 肥 前 国 絵 図 の 控 図 を 焼 失 し て し ま っ た
︒ と の た め 同 年 幕 府 へ 願 い 出 て 幕 府 文 庫 へ 保 管 の 古
・ 新 両 肥 前 国 絵 図 を 借
hJ
出して写し取った︒
( 2 )
﹃吉茂公譜﹄のとの件に関する記録は注目すべき内容である︒
て 今 度 一 国 御 絵 図
・ 郷 村 帳 焼 失 ニ 付
︑ 先 年 公 儀 へ 差 上 置 ル 御 絵
図 為 写 取
︑ 御 拝 借 御 願 左 ノ 通 差 出 サ ル 口上之覚 郷 村 帳 等 先 年 差 上 候
︑ 右 写 取 持 仕 候 処
︑ 当 春 国 元 火 事 之 節 致 焼 失 候 可 罷 成 儀 ニ 御 座 候 ハ
︑
︑ 先 年 差 上 置 候 御
肥 前 国 之 絵 図 絵 図 郷 村 帳 等 拝 借 仕 写 取 申 度 奉 存 候
︑ 願 之 通 御 借 被 下 候 様 奉 願 候
︑ 右 之 内 訳 別 紙 書 載 仕 候
︑ 以 上 十 月
但︑︐元帳十四年差上申候
御 名 一︑肥前一国之御絵図
附
︑ 郷 村 帳 但 ︑
変 地 目 録 道 程 帳 正 保 二 年 差 上 申 候 一︑肥前一国之御絵図
‑11ー 附
郷 村 帳 道程帳 以 上 ( 中 略 ) 右 ノ 来
︑ 十 一 月 八 日 松 平 左 近 将 監 殿 ョ リ 左 ノ 通 御 書 付 ア 以 テ 御 絵 図 相 渡 サ ル
︑ 宗 茂 公 御 覧 遊 ハ サ レ 大 切 ノ 御 絵 図 少
γ
モ写 取 ノ 間 御 屋 敷 詰
︑ 中 侍 手 明 鑓 不 寝 番 可 仕 旨 仰 出 サ ル
︑ 倦 叉 町 絵 師 七 人 御 雇 入 仰 付 ラ ル
損セラル様何レモ心遣仕︑
元 禄 十 四 年 差 上 候
一︑肥前一一国之絵図
枚 郷 村 帳 正 保 二 年 差 上 侯 一︑肥前一国之絵図 右 之 通 御 蔵 有 之 ニ 付 而 差 遣 候
︑ 追 而 可 有 返 上 候 道 程 帳 ハ 御 蔵 ェ 無 之
︑ 正 保 年 中 被 差 出 候 郷 村
枚 一︑変地目録
帳も制御蔵ニ無之侯
左近将監殿へ御留守居持出返上之︑
(中略)︑右写取ノ絵図宗茂公御覧遊サレ︑正保二年ノ御絵図ニ 光茂公御名御書載アリ︑右ノ年ハ勝茂公御代中ニテ御同人様ョリ 差上ラル筈ニ候︑尤右御絵図ノ内一一唐津ノ城主大久保加賀守ト書 裁アリ︑右ハ慶安二年ョリ所替ニテ彼地相越サルト御覧遊ハサル︑
然レハ光茂公御代ノ御絵図ニテモ有之ヘキカト思召サルノ旨仰出
サル︑右写御本書ト数遍校ムロ仕者一回損等有之間敷由申上ルェ付︑猶 翌関正月廿白書写相済︑
又御覧車遊ハサレ侯処︑慶長年ノ御絵図ハ先年大火ノ節焼失ノ由︑
正保二年差上ラル候御絵図明暦二年焼失ニ付︑其節右正保ノ御控 御写差上ラレ侯様ニト有之︑光茂公御代右御写差上質候ヲ公儀ニ テハ正保年ノ御絵園ト相知居候ヤト思召サルノ出仰出サル
つまりJ
との資料によると︑佐賀藩が幕府文庫より借り出した肥前
{qd}
古国絵図は
E保度の上口王国では左かった︒向上口五図は明暦大火で焼
失したため︑
その後に幕府の求めで控図の写しが再提出されていた のである︒再提出図は領主名が提出時の実状に合わぜて修正されて
いえ
再提出図に記載されていた佐賀藩主鍋島光茂は明暦三 ︒
(一六五七)
年に家督を相続している︒麿津藩主大久保加賀守忠職は慶安二年に 播陥商明石より転封︑寛文十年に没している︒とれを継いだ大久保忠 朝は最初出羽守を称し︑加賀守を称するのは延宝五(一六七七)年
七月からであり︑
翌 年 正 月 に は 下 総 佐 倉 へ 転 封 し て い る
︒ 従 っ てこの再提出図が提出された期間は明暦三年から寛文十年(一六七
︒
) K至 る一=一 年間 か︑ あるいは延宝五年のいずれかであると考え
られ る︒
一二︑内閣文庫所蔵の転写古冨絵図
元次年聞の幕府文庫(紅葉山文庫)
の蔵書目録である﹁一元治増補
御堂一国目録﹄によって︑同文庫に幕末まで古国絵図七七張が伝存した
ととが知られている︒ζれとそ富十保十一年に佐賀藩が借り出した肥 前古国絵国(再提出図)
を含む文庫保管の古国絵図一組であったと 考えられる︒しかし残念左がら現在ではとの古国絵図の行方は知れ ず︑正保菌絵図再提出の事実を直接的な方法で確認するととはでき 念い だが幸いにも古国絵図の転写図二組が内閣文庫陀現存している︒ ︒
なよぴ松平乗命旧蔵の﹁日本八万一A
生 }
国絵図﹂中の国絵図三八張(三九か国)がそれである︒とのこ組の 中川忠英旧蔵図六八張(四三か国) '国絵図の来歴については福井氏によって詳し︿解説されているが︑
それによるとこの二組の国絵図は共に幕府保管の国絵図を折々転写 して収集したものと考えられる︒福井氏の紹介によって両者を概括
的に比較すると松平岡蔵図中には図一不・記載事項の省略︑
図幅の縮 小転写左どが目立ち︑中川旧蔵図のほうが転写は全般に精密の印象
を受ける︒
ところで福井氏はこの二組の転写国絵図を偲々に園高の記載を倹
討して中川旧蔵図は三か国が一元禄図︑
四か国が不明︑残り三六か国
が正保図︑松平旧蔵図は四か国が一冗様図︑六か国が不明︑残わノ二八
(5
レ
か 国 が 正 保 図 で あ る と 分 類 さ れ た し か し 筆 者 は こ の 二 組 に は 一π様 図の混入は左︿︑全部が吉国絵図の転写図では左かろうかと考える︒
福井氏の検討は原則として元禄高を基準にして分類されたもので︑
正保から一冗様陀至れば石高が増加するという一般的傾向が分類基準 の前提と左っている︒大勢はこの方法の分類で妥当であろうが︑正 保高と元穂高がたまたま一致するか近似する例外的念場合にないて は問題が生ずる︒福井氏陀よ
b
元禄図と考えられた中川旧蔵図中の 三か国︑松平旧蔵図中の四か国はいずれもとの例外的念場合に相当
している︒
ど の 福
藩 井
県IJ
氏
資 の 料 分
b 類
よ で び 正
「 保
郡 図 村 か 石 ら 高(除帳6外
L'‑"さ れ た 図 に
つ
u、て 正保郷帳控左 (東大史料編纂所蔵)を用いて それぞれの園高を個別的に再検討したところ︑多くは正保高と一致 するととが確認でき︑その他は正保高である可能性がきわめて強い ととが判明した︒中川旧蔵図のみ
K
ついて再検討の結果を例示する
e
と次の通
b
であ る︒
﹁安芸﹂(国高弐拾六万九千四百七拾八石参斗壱升)は園高が元
{ m i }
線高に一致するととから一冗様図とみ左されたが司済美録]によると 広島藩が正保三年に上呈した安芸国絵図・郷帳の園高にも符号する︒
﹁長
門﹂
(国高拾六万六千六百弐拾参石田斗)は元禄高と石以下の 端数が異るだけであることから元禄図とみ念されたが︑同国正保郷
( 8
)
帳の控である︐﹁長門国石高帳﹂の国高記載とは端数まで完全に一致
している︒
﹁伊
賀﹂
(国高拾万五百四拾石)は元禄高との一致から
︻ 口 百 )
元禄図とみ念されたが﹃伊賀御国絵図後鑑恒によると元禄高は正保 高に弐合が加えられたようで︑本図は正保高であるととが確認でき
る。
﹁下
総﹂
(園高四拾四万四千八百弐拾九石八斗四升弐合)は元様
高
よび﹃六拾余州郡名村数高附記﹄に朱筆で後補された正保高のh u
数字のいずれとも近似し左いため分類不明とされたが﹃郡村石高帳﹄
で見る限り正保高と一致している︒
﹁佐
渡﹂
(園高弐万四千六百五
拾石五斗四升九合)は元禄高に比して余りにも少左過ぎて疑問とさ れたが﹃郡村石高帳﹄の正保高とは近似する︒佐渡は元禄六年(一
六九三
v k戒 原 重 秀 の 検 地 陀 よ っ て 国 高 が 急 増 し
︑ 正 保 高 と 元 穂 高 に大差が生ずるに至ったものである︒﹁国情防﹂(国高弐拾弐万千七 百八拾七石六斗)は元禄郷帳より二万石近くも多いために分類不明と されたが︑とれは明らかに転写ミスである︒園高の濁点を付した
﹁弐﹂と﹁万﹂を上下で入れ替えると︑国高﹁弐拾万弐千七百八拾
(叩)
七石六斗﹂と左
b
同国の正保郷帳控﹁周防国石高帳﹂と完全に一致
する
︒
‑13 以上の如く福井氏陀よって元禄図と考えられた中川旧蔵図の全部 が国高にないて正保高に一致するととが確認でき︑
また分類不明と されたものについても正保高の可能性がきわめて高いととが判明し一 た︒松平旧蔵図の場合は園高記載を欠き検討余地の左いものが多い が︑園高記載のあるものについては中川旧蔵図と同様の結果であっ
( 1
)
た︒また元禄国絵図は高目録様式が全国一様である蔚からもその確 認が容易であるが︑福井氏の紹介を手掛りとする限りその感触が左
︿︑元禄図の存在は考え難い︒すると内閣文庫所蔵の中川・松平両 旧蔵国絵図は恐らく全部が古田絵図の転写図であろうと考えられる︒
回︑・中川旧蔵図﹁周防﹂﹁長門﹂の検証
内閣文庫所蔵の二組の転写古国絵図にはいずれにも﹁肥前﹂が含
まれてからず︑前述の肥前習絵図再提出を確認する
ζとは出来左い︒
しかし幕府保管古田絵図の転写図であればとの中陀原本が明暦以降 の成立であるととを確認できるものは存在し念いだろうか︒
組 の うち資料価値の高いとみ左される中川旧蔵図を以って︑
ζ
の上
尽に
つ
いての検証を試みた︒
﹃士口茂公譜﹄によると︑再提出図は改めて調製されたのでは左︿
先きに上呈した正保国絵図の控を転写して提出したものと考えられ る︒従って再提出図は一般には正保図と同大容であって︑
当初の上 呈図との区別は難しいと思われる︒ただ肥前の如︿再提出までの問 に領主の交替があった場合には図中の領主名が書き替えられるとと は起り得たであろう︒正保国絵図再提出を確認するには転写国絵図
4
中の領主名を各国毎に検討し︑国許に残る控図等と対比するのも一 方法であろう︒福井氏の紹介に手掛りを求めると︑中川旧蔵図四三 か国中︑高呂録に領主名掲載のあるものとして﹁岩代﹂
﹁長門﹂の五例が一ボされている︒との五例
K
つい
﹁出
雲﹂
﹁{
女士
宮﹂
﹁周
防﹂
て各掲載領主の在位期間を検討すると﹁周防﹂
﹁長門﹂については
明らかに正保度の上呈図としては不自然である︒
周防・長門両国は共に萩藩が絵図元で︑
国許の毛利家文庫(山口 県立文書館)
には両国の正保なよび元禄の控図が揃っている︒中川
田蔵﹁周防﹂﹁長門﹂に記載の国高・領主名を正保・一戸橡両控図と
比較すると表
1
の如くである︒中川旧蔵両図は国高では正保高と完 全に一致する(周防は転写ミス)ものの領主名は正保・元禄控図の い
r
れとも合致せず︑との図が厳密には正保図でも一冗線図でも乏い
ことが判明する︒
「長門j と正保・元禄控図の比較
正保図絵図 中川忠英旧蔵図 元 禄 国 絵 図
本 藩 松 平 長 門 守 〔 秀 就 ) 松平大膳大夫(綱広) 松平大膳大夫(吉広)
周 下(徳山松) 毛利日向守(就隆) 毛 利 臼 向 守 ( 就 隆 〉 毛 利 飛 騨 守 ( 元 次 )
防 国 j奇 2 0 2, 7 8 7石6 ( 2 2 12 0 2, , 7 8 77 8 7石石66 ) 2 0 2, 7 8 7石67
本 藩 松 平 長 門 守 ( 秀 就 ) 松平大膳大夫(綱広) 松平大港大夫(吉広)
長 長
府
毛剤甲斐守(秀元) 毛 利 甲 斐 守 ( 綱 元 ) 毛 利 甲 斐 守 ( 継 元 )下 松 毛利日向守(就隆〕 毛 利 回 向 守 ( 就 隆 〉 毛 利 飛 騨 守 ( 元 次 )
門 (徳山)
国 高 1 6 6, 6 2 3石4 1 66.6 2 3石4 1 66.623石645 中川旧蔵「周防」
表 1
毛利就隆は慶安元年6月下松よ b野上庄(徳山)へ居を移す。( )内の人名は考証による。
(注)
15 10 It:
•
質 事 ヲ そ 和
延宝
10 賞
受 万治明 稽 承応血 多 正保
本通E
侵 府
( tt立 許 容 期 間 )
正保 元株主手間になける萩藩なよびその支藩の領主在位一覧
(中川忠英IB蔵「周防Jr長門J原 本 成 立 年 の 検 註 )
図 1
と の 図 の 成 立 年 を 究 明 す る た め 本 支 藩 領 主 の 在 位 期 間
・ 称 号 叙 任 を整理すると図
1の通りである︒
とれによると中川旧蔵﹁周防﹂
毛利日向守(徳山)
﹁長門﹂に記載の松平大繕大夫(萩)は綱広︑
は就隆︑毛利甲斐守(長府)は綱元であり︑
両 図 の 原 本 の 成 立 は 以 上三名が同時陀在位し︑しかも綱一
πが甲斐守を称するに至る寛文四
年(一六六四﹀
から延宝七年(一六七九)
の一五年間に限定される︒
次 に と の 中 川 旧 蔵 両 図 の 原 本 と 前 述 の
﹁ 肥 前
﹂ 再 提 出 図 が 同 時 期 陀 作製された可能性をさぐるため各成立許容期間を比較すると︑
者 が重合するのは寛文四年(一六六回)
よhノ同十年(一六七
O )
まで の六年間と延安五年(一六七七)
の一年間のみである︒
五︑まとめ 内 閣 文 庫 所 蔵 の 転 写 古 国 絵 図 中 に 原 本 の 成 立 が 明 ら か に 明 暦 以 降 である図の存在するととが確認できた︒とれは﹃士口茂公譜﹄の正保 国絵図再提出の記事を裏付けるものであろう︒
ζ
の再提出図の存在 を 前 提 と し て 内 閣 文 庫 所 蔵 の 転 写 古 国 絵 図 を 丹 念 に 検 討 す れ ば
︑ 実 にいくつかの再提出図確認の可能性もあると考えられる︒
明暦大火被災陀よる国絵図再提出が全国陀及んだものか︑
一部 だ け の も の で あ っ た か は 転 写 図 の 検 討 の み で は 解 明 で き ず
︑ 文 献 資 料 の 発 掘 を 待 た ね ば な ら な い
︒ 再 提 出 の 時 期 に つ い て は 本 稿 で 検 討 し た 三 か 国 の 事 例 の み で 断 定 的 に 結 論 づ け る の は や や 性 急 に 過 ぎ る か
﹁ワ臼J
も知れ左いが︑なよそ寛文・延宝期とみ左すことはできるであ忍白血 古田絵図︒呼称は新国絵図に対するもので一冗議以降に使用され始
めたであろうが︑
この再提出図を幕府は吉国絵図として取扱ってい
た
︒ 焼 失 し た 正 保 図 の 代 替 で あ れ ば 当 然 で あ ろ う
︒ す る と 古 国 絵 図 とは正保度上呈図ばかりで左︿︑
そ の 後 の 再 提 出 図 も 含 め た や や 意 味の広いものであったと理解する必要がある︒
内 閣 文 庫 所 蔵 の 転 写 古 国 絵 図 に つ い て は 左 な 検 討 す べ き 問 題 が 残 った︒中川・松平両市蔵図中に同一国で別種の古国絵函が数例認め
(日
) ら れ る の を ど の よ う 陀 理 解 す る か の 問 題 で あ る
︒ こ れ は 幕 府 保 管 の 古 国 絵 図 が 文 庫 と 勘 定 所 に 二 組 存 在 し た と と と 関 係 す る も の と 考 え
(UH)
られる︒一勘定所保管分は明暦大火の被災を免れた当初の上呈図であ ったと想定すれば同一国で別種の古国絵図の存在も不思議では友︿
ヘF
bJ
(享保二年﹀が気掛りであ九勺
左る︒しかし﹁古国絵図員数書付﹂
勘定所保管の古国絵図と明暦大火との関係が一つ不明である︒
(山口大学教育学部)
‑15ー
注
(1
) 福 井 保
﹁ 内 閣 文 庫 所 蔵 の 国 絵 図 に つ い て
書館報﹄第一O
号 ︑
( 続 )
﹂
﹃国立公文
一九 七八
︑
頁
( 2
)
佐 賀 県 立 図 書 館 蔵︑ 鍋 島 家 文 庫
( 3
)
幕 府 文 庫 の 古・ 新 商 肥 前 国 絵 図 が 同 年 十 二 月 八 日 老 中 松 平 乗
ロ巴を通じて鍋島士口茂に貸与され︑
翌年正月廿一日返却されたこ
とは﹃幕府書一物方日記六﹄(大日本近世史料)で確認される︒
( 4
)
前掲( 1
)
両 旧 蔵 図 に 含 ま れ る 園 幅 国 別 は 別 表 の 通b o( 5
)
前 掲( 1
)
丙 閣 文 庫 所 蔵 の 転 写 古 国 絵 図
旧 蔵 名 国数 図 幅 国 名
山 城 河 内 摂 津 伊 賀 (駿河) 伊豆 (武
中川・松平
26 蔵 〉 安 房 下 総 飛 騨
(若狭)
佐渡 (丹K 共 存 波 ) イ 白 誓 出 雲 隠 岐 播 磨 備 中 (備後)
(安芸) 周 防 長 門 紀 伊 淡 路 阿 波 讃 岐 和 泉 常 陸 上 野 下 野 磐 城 岩 代 仙 台 陸
中 川 の み 17 前 陸 中 陸 奥 出 羽 越 前 加 賀 越 中 但 馬
伊 予 筑 前
松 平 の み 13 志 摩 相 模 甲 斐 上 総 美 濃 尾 張 能 登 近
江 丹 後 備 前 因 幡 石 見 美 作
( 5
)
前 掲( 1 )
共存中.国名の下線は両者で国高の相異するもの。
カッコはいずれか一方に園高記載を欠き異同確認のでき念い もの。