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Kyushu University Institutional Repository
靺鞨七部の前身とその屬種:靺鞨七部考第二章
日野, 開三郎
https://doi.org/10.15017/2339062
出版情報:史淵. 38/39, pp.1-68, 1948-03-31. Faculty of Law and Letters of the Kyushu University
バージョン:
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目次 緒・言
第一・章七.部の住・域︵前脚︶..
第二章七部の前身とその厨種︵本孵︶
錐一節七部田現︵階︶以前の浦洲迩古斯系諸族
︲鱗一項蔵舶系諸族︵夫除姶沃沮・束;ず商句剛︶
第二項純迩古斯系諸族︵後術愼一名抱要・勿吉︶
第二節減卵系諸族と七部
錐一頂夫録族と粟末部︲〆
錐二項沃氾族と白山部
錐三項向句麗・東減雨族と批柵七部
第三節純迩古斯系諸族と七部・
第一項後禰慨︵猫糞︶と挑浬部
錐二項勿吉族と安寧骨・伯咄部鋪三項陥初始現の黒水部と跳室部︐
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難幅七部の前身とその壗種
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前身を此等先行の諸族に求め︑祁互の血脈側係を明か仁すれば︑七部の脇種もそれによって自ら明かとなる︒
即ち七部前身の究明はその必然的な副産物として七部の脇種の究明をも濁すのである︒然も亦七部の噸派迩
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究明するのは此の前身の究明によるのが簸も確涯にして利便な方法である・・よつ七本章では七部の前身の究
明を主眼におきつつ︑術併せて脇極の究明にも及ぶこととする︒ 7
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︽︑七部に先行して史に現れる同地域居住の種族には純迩古斯種と推測せられる諸派と︑邇古斯種を根幹として蒙古極の血を交えた種族と云われている減額種の諸派とがあり︑然も此の雨系以外の種族と認む可きもの
は現れていない︒只支那民族のみは夙くから猟鮮の地に入殖しているが︑彼等が職鵜族と血族鮒に無關係な
る可きは自ら明かで︑此所では全く蒋察の對象とならない︒從って此所で取上げなければならぬのは臓狛種◇ユ
と純通古斯種とのみである︒.よって此の雨祇族に脇する講派を概観することとし︑順序として︑列巽り早く力
ら史に現れている漉鮪系を先づ取上げ︑次に純邇古斯系に及ぶこととする︒尚此等七部前の諸勢力に閥する.姓1老察は本稲の︑王題とする範囲を出て・いるので︑詳細蔵こと榧それぞれの専考論文にゆずり︑此所では只七部
の前身を明かにするに必要な部分を概観するに止める︒︒︑
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第一項ゞ瀕緬系諾族
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である︒・術後漢聿総垂来飛傅の中にも夫餘の専徳があるが︑それは魏志︒來爽傳叉はその原典の記那を採っ
て後漢に測らせそれに後漢時代猫自の史料を若干附加えた閥のである︒叉後淡皇國雨史の前後にも若干の
關係史料が散見している︒それ等に擁って夫除族の状態を考えるに︑大様次の如くである︒・
・先づぞの住域を見るに︑西は伊通・來遼雨河の流域を含んで西隣の束胡系遊牧穂族の鮮卑に接し︑南は今の■■胴開原の北方を走って居洵と推定せられている長城を境として︑今の奉天附近に毛の治所を比定ぜられている
中風の玄菟郡に接し︑叉その東方の蘇子河流域に進出していた商何醗にも接していた︒︲束は北流松花江の東
方を南北に走る牡丹微・新關祇諸山脈を連ねる一線を界と堕し北沃汎及び後ちに勿吉として箸れる純迩古斯
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系の種族に接していた︒宏の北境は明かでないが︑後ちに勃興した勿吉との關係から推して伊邇・松花二水の合流占附近であったと解せられる︒西隣の鮮卑や顧隣の中剛や商句唾の勢力には展退があり︑叉夫餘目身
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の勢力も潴長があって︑政治的な領土關係は歴盈遷化しているが︑失餓族の民族的住域としての右の地辮に
は殆んど愛化なかった様である︒即ち夫餘族の住城は後ちの粟末赫珊の住域と猯んど完全に一致しているの
であって︑此のことは本稲に取って塒に注意す可き点である︒尚夫余族の中心︑即ち夫餘剛の首都は︑時に
■8−︒F外部からの雌辿で晋以後に至り移動したこともあったが︑姥れは極く煙期間で︑殆んど維始して今の挫安の
地に術る夫餘城であった︒
夫餘に閥する鍛古の所仰は史記華歩貨如列仰に燕の地の.ことを述べて︐︲︑
?︒・北隣烏桓・夫餘︒束紺漉卵・朝鮮・度稀之利︒︑列・プ60
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・とある記靭で︽此れに依り夫餘は河北より南瀧にかけて戦闘以來大いに發展していた支那民族と夙くから変
〃・一謬皿易して鵬たことが確心ら賎延いてはその起原の頗る古いことも察確られる︒.然し前洩跨代の所伸史料
は未だ殆んどなく︑後淡時代に入って初めて稲・ベ多くなる︒但し術との内部状態に蝿する所傳史料はなく︑
FJ0向▲︑車ら封巾似捌係の記部が傳えられているのみである︒それによると︑夫餘は或は入貢し︑︐戎は玄菟郡滝を途
陳しているが︑迩掠の例は少く︑︲概して對華遡逹修貢汀︿易の方針をとり︑︲且つ此の方針は夫徐が哀遇して〆
禰句蠅p隅國に成り下り︑外交の自由を拘束せられる迄糠けらている︒.
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J叱夫除族の勢力︑即ち彼等の建設した夫除王圃の剛成が絶頂を極めたのは︑その樋威ある専仰が設けられて︐ロノβ
いる二岡時代であつ祠︒︲そこで此の時代の状態を内外雨一剛から概観する︒先づその版耐を見るに︑夫餘旗本︒
︑土を巾心とじて束肱今の瑚爾吟河流域以遮に住して居た描糞を服し︑罪從ってその中間に住鍼る阿勒楚呼・拉
・林C股下流北流根穐泣諸水流域の住民をも従え︑北は來流松花江︵二姪以東を除く︶に達し︑一部地域でば..︽
江を越髪﹄なの北岸の呼蘭河流域に住していた室欺種の豆莫英をも脈腿ぜしめ︑南は高句麗及びその脇傾の幸寺︑︑1
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沃概に接していた︒・こうし乙版祠の鑛張は大帷後洩時代に行われたものと推測せられる︒夫余は此の旗大な属領から金・珠玉・馬︒紹皮その他の熊物を貢賦として取立てにいた︒然もその搾取は頗る苛酷であったと︲
︑︲し︒0F︐見え二一画一の初め︑その誰求に堪えかぬた描挫は遂に叛旗を擁し︑來征の夫餘國軍を歴迂却けて渦享と完遂
・したと云う︒︲その後ち正始五・六雨年にわたる二回の魏軍の遠征によって鰯内を残破ぜられた商伺斑が一時
衰微したのに乘じて北沃沮を泰つた︒かくて全盛を誇った夫徐も︑西晋の太康六年︵二八五︶両隣の鮮卑に
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ヘてから哀遇の蓮を辿り初めたoその後も鮮卑の脅威が益糞加わった爲め︑夫餘は首都を戸時今の吉林附近に
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此定せられる鹿山に遜したが︑夫係の哀微に乗じて承第にその本土を蕊食し初めた高句麗に信迫せられて再・セー.−釦f一一 〃r
マリび農安なるもとの夫餘城に運拠監こで束晋の︑氷迦皐︵一﹁一四窓︲祠び鮮卑の大軍に襲わ典毛の︾王以下五1.
寓余口が俘醗となり︑此の浦健以後勢力全く表遇した︒降って商伺混り好太王︵庚開土王︶二十年︿四一・○︶・・一
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︒§には北沃汎に蝦っていた夫録の〃一派︑即ち火夫鯨もその減す所となり.︑かくて夫餘は次第にとの領土を喪つ︑︲︲
︑クハ砲〆.●今・・て行ったのみでなく︑夫鮭脹の本土さえも輝發河流域や吉林・烏拉を中心とする松花江流域を商句麗に癒食・・
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・・せられや残る本土は伊邇河流域のみとなり︑力屈し垂﹄何何鹿燐凶となり︑史に北魏の太和十八年︵四九四︶↑.〃0叱〆
や︲には毛の領民の中より新に勃興した勿吉の鰯めにその掴を攻滅ぼされへ失職王は妻子を奉︲いて商句睡に・亡命︲
した︒所でこうして夫総幽の滅んだ後ち.此の園の支柱となって居た夫除族はどワなったか︑姥の行方は如
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何と云う問題が未解決のま︑琵残されているのである︒而してその行方こそば戦鞘七部の中に求む可く予祁過せ︲.︒ひ■争一■︺△
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︽讓濟・祇含・政治の三部画に就いて概観しておく︒︾ゞゞ繁︲ p辞字
㈱彼等の生業は農業を鰯一とし︑五穀を作っていた︒又伽畜をも重要な生業とし︑牛・馬︒猪・狗犬等が主:︑抄■口■j〃︐G・〃画な家密でめった︒牛は耕作︑澱・豹は食料・衣料.馬は戦闘騎乗及び輸出に供せられていた︒狩猟にも痕じ︑︲→〃口f■■ウジ
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れていたものの如く推測栓られろ︒その外︑先に述べた如くその灰大な脇領から搾取せろ重課も主な峡入の
一つとなっていた︒對外霊泌も對支壷易を中心に頗る活況を示し︑金・馬や詔・王等︑j本土産及び脇慨より
一申
の搾取品を幟出して中閣の文化品に換え︑以て愛族の生活内容を製符にすると共に中風文化の輸入による國秀發展と朧2﹂農︒己述胤な夫除爵中國修好方針や奥囎封す︾侭大な領舌開拓はこうした琴
濟・文化政策に立脚するものである︒幾業を主生業とぜる關係から土落し︑営室・倉庫・牢獄を有し︑盟富・︑
な蒋稜を誇っていた︒その総戸欺は八胸︲︵従って︑敬は四五f閥と推弊せられる︶と仰えられ︑﹁加﹂・と稲
も・せられる批族と奴隷及び農奴的墳遇に世かれた平民との三階級に分れていた︒賛族たる﹁加一は同畔に戦時︑・
の職士であり︑又﹁加﹂のみが戦士たる孵惟を凋占して他の階級の戦士たるを認めなかった︒彼等は父政治︲
上の支配階級でありや經濟上唯一の瀞裕階級でありや蔽含上の貴族階級であり文化人であり︑︑祭祀・剛健街↓
武・脈恥雌刑等の武士的風尚を持ち︑いはぱ武士階級であった︒・奴隷は勿論の.こと農奴的な平民さえも﹁加﹂
少の財席硯せられ︑完全な搾取の・下に澄かれていた︒中央に幽王が居り︑國王の下に︑馬加・牛加・猪加・
狗加の四加が居て妓商大臣として國政を議決分播し︑その椛力頗る大で王の専制を許さず︑時に職立さえ
その議決によっていたと云う︒地方は数百戸乃至舷千戸を擁する封領に分弧領主が家臣図を率いて此を統心
治して居た︒国王以下四大加その他の中央要官は勿論のどと︑地方の領主家臣圏はすべて武士的貴族階級・
たる﹁加﹂であった︒されば夫餘國の政治・祇會は封建制の下に在ったと云うことが出來ろ︒両脇領統治に
就いて︲も論述す可きであるが略す︒彼等は嘗て氏族制時代を經過したものの如くであるが︑此の時代には己!一
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︑1に氏族制を腕して宗族制の下に在った様である︒この点に就凹﹂も尚評逃す可きであろうが元ゞ一切省略す
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以退述べた經濟・就會・政治組織陸一碩時代を中心とするその前後のことであって︑それも彼等が簔郁し初めた凹晋以後は術然鍾化して行ったことと想われるが︑史料を僻いでいる鴬め︑詳細なことは﹄切不明で
雫■ザある︒只衰亡の結果として華叫穣は喪われ︑奴隷は披奪逃散し︑從2﹂批族階級も多く失勢濃落したに相違な
いこと︑そうした鍵化の中にあっても彼等が一度到笙した農︑宅瀬牧從の經濟生活丈はともかく縦けられてい
たであろうこと等が推想せられる程匪である︒夫除族に就墜Lは述ぶ可き瑚項が多いが︑本秘の立場に直接
賎︑J・關係を有しない点はすべて割愛して以上の程度に止めておく︒
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動︲沃泓族の覗情が波も詳に窺われるのも心夫除族の場合と同様へ三剛時代のことで命魏志の火災側に卑設せ
られている來汎沃・︵沃汎のことを一に束沃汎とも云う︶↑仰は醍始六年︵二四五︶此の地に進入した玄菟郡太
︐守王凧に從軍した魏人の観察兄Ⅷ報告を主要所依として出來たものでああ︒術後淡番懇奉来唯仰の中の沃汎
・臓傅が魏志の傳又は造の元典の湖及挿入せられたものであることも夫除の場合と同様である︒叉沃泄の闘係史
料も三國時代前筏の文献にⅧ糞散見して居ること︑︑夫餘と同様であるが︑毛の欺は夫除より史に少い︒そう
した史料乏少の不便はあるが︑とにかくたれ等にょ富し沃肌族の大体を述べれば略︑奄次の如4である︒
先づその住域な見るに︑北は豆沌江下流域及び此れに流入する叩叫河の下流城を含んで北方の把拠族に接
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し︑又教化を中心とする勒耐成河の流域を也播し︑西は牡丹微・英額撒︑︒長白山等の商大な講山脈を連掘る
l︲仙線を以て松花江上流域の夫除族と相對し︑南は狼林山脈︵三國時代の蓋馬大山︶を以て商句脳と界し︑叉
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成郷あ南に在る鼻白山脈を以て束戯族に池2Lいた︒・束は云う迄もなく日本海である︒即ち今の成嘆以北のB
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哨戒南道・成北誼・開砧・教化地方等がその主な松蝶地であって毎此れは後年の白山職靭の住域と殆んど全く
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一致しや頗る吾人の注目を寵く︒此の中︑︲成輿中心の者を南沃泄︑間島・豆浦江方一剛の者を北沃汎と一云った︒
︾此の住域は二國時代に就いて窺い得る脈で︑その前後のことは明確にし難いが︑大体愛化准かつたのではな
いかと想われる︒少くともそう解して差支えを生じないのである︒沃汎に閥する岐古の所傅は︑魏志唯二束〃咽0G.b〃牙︑
爽榔の束沃沮縛に︑1︒︑ 巳も■一
︐︑沌初燕亡人衞瀧王朝鮮︒時沃汎拷脇焉︒︲︒
?︑とある記那で︑・此れにより沃汎族は夙くょ〃此の地方に居り戦國時代から盛んに平壌方面に入殖してい︑●
︲た支那民族と漢初巳に從隠關係を浦して居たことが知られる︒然し前後摸時代に於ける彼等の内部郡愉は未
だ明かでない︒それが略為明かとなるの墜蝶仰のあ竺一蜂囲時代に入ってのことである︒モヱで三倒孵代を中
・に心とする彼等の内郁状態を窺うに︑大橡次や如くである︒・
彼等の生業は農業を第一とし︑併せて狩猫・飼帝を咄重要な生業としていたこと︑農は五穀を栽り︑帝は
●︑︒
牛・ゞ馬・猜等を主とし︑猟睡烏職を逐射していたこと等︑・何れも夫餘と大差なく︑只此の種族の塒礒として
史上にも重要な鷲義を志していたのは魚・亜・布︒︑海獣との他の海陸物であった︒又布の製織も嫌で憩った
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様であ︾わ︒美女b湘布・笠嬢・海中・食物は沃泌から主國たる商句腿に納める貢物の︑主要品となっていた︒對︑︽
.1J七︾蒋易は沃汎が高句麗に征服せられる以前に於いては楽浪郡を對手として多少右われていた様であるが︑地・
理的條件に恵まれていなかった鰯め︑郡に比校的近い今の成興方面の者が往來する程度で︑・總概して礎では
■無く拘況んや中園本土と唱唯接の交通潔易は姑んど行わ肌歩︑殊に商句腿が發展して沃沮を征服した後洪以1
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後は︑その馬領の對支匝捲交渉を喜ばざる商句斑の一質した方針に妨げられて郡との交通貿易も梗怨牡られ︑
︲ていたのでば・ないかと思われる︒何純にしても沃氾は認謂系四派の中で蛾も文化低くや經淡・肚舎・政治を.︲︒︑
.の他凡ゆる点で發逵が蛾も後れていたことが確認せられるが︑それはこうした對支開係の稀薄に因る所が多
かつたと推測せられる︒彼等の戸口鮫は判らないが︑︐欺寓戸を下らなかったことだけは淡い無い︒土着して〃
︐家燈に住み︑独戸乃至百除戸︑平均二三十戸程度の祁辮を作し圃概温数祁落︑敬十戸乃至百数十戸の側結を
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・形成し酋長を砿いていた︒そして更にこうした剛結休が若干連合して大隅結休を形成し︑やはり長を戒いて.﹃
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︲|いた︒いわば大祁小部を形成し︑.小祁奨︑︲犬遡還と朧蟻していたゆけで︑大祁の戸数は概ね数百戸乃至千余︲
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|〃戸軽度であったと推測せられる︒大祁長は祁内譜小祁長の一人が飛婆﹂いた︒大祁長の或る者は侯・三老等︑での孵號を荷していたと云う︒勿論それは中園の制度の形勢である︒諸小祁の連合体たる大祁の形成は主とし・
:て防術の必要に促されたもので︑大部はとの鰯めの城を有していた︒城を土語で瀧要︵鴨慮・忽︶を云う︒︲:
南沃肌の中心の沃汎城︑北沃弧の中心の函貝稚婆学は史に瓢れた蒋名心城である︒城に城名があるのと伺恋︑..
︑大小部にも郡名があった︒有名准好太王が︸水薬乱一や年︵四一○︶束夫徐な攻滅した時︑來降せる城は味仇
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︲典・卑斯肺・瑚斯舍等五恥蹴︑攻破ぜる城六十四︑.村千二百を計えたと云う︒東夫餘とは北沃汎に推ってい
・た夫餘の勢力であるから︑右諦城も大部分は沃川族の大部壁の錐貫竺いた城に相違無く︑肘も赤毛の棒下の
・村落であった筈であり︑從って糊時の北沃汎は少くとも六七十以上の大部︑千數百の村落に分睡Lいたわけ
﹄ロ︑でや南沃汎をも加えた全沃汎の大部数や村落数は更に多かったこととなる︒所で此等の識大部を統合してを
︲の上に立つ君長は居なかった︒即ち沃汎族の統合國家は生成壮られなかったのである︒沃泄族を統聴してい
たのは℃有史後も常に外部の強國であった︒即ち沃沮族の歴史は外祁勢力え・の從脇の歴史であったのでああ︒︑
尚此のことに就いては後丈に史泌て述べる︒
︲沃泄族も嘗ては氏族制時代を荷したものの如くであり︑上に述べた小祁は恐らく古への氏族集閲に沿革す
るものと解せられるQ然し後漠さ一圃時代の彼等は己に此の氏族制より蝉晩して宗族制に移行していた︵少
くともしつつあった︶ものの如くである︒但し此の推愁を菱ける確誰は・なく︑只諸種の率情と總合して想到
︲せられるのかである︒・叉階級の分化も進行しつつあった様であるロ然し奴隷の發逵︑︒﹁加﹂と稲せられる牙・
分階級の存在を仰えた記瓢はなく︑夫徐や商句麗に比す伽ぱその階級分化は未熟であったど推勵せられる︒
・博に﹁衣服・居庭・食飲・腱節﹂等すべで商何蝿に似ていたとあり︑商何腿の置族階級﹁加﹂の洲に發逵し
た臓節その他の習俗に相通するものがあったと云うのは︑単に雨者が同種族であったと云うこと以外に︑.や
はり沃沮にも階級分化があってこうした習俗に對虚する武族的階級の形成せられつつあったことをも示すも
︲のと考えられる︒然し夫餘や商句腿に兇られあ桂な﹁加﹂と秘する没族的身分階級の形成せられていた形迩
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︑の認められないのは︑奴隷に脇する所傅のないこと.と和俟2L階級分化の未熟特に貴族階級の未完成を想
察せしむるに足る︒而して此の階級分化の未熟は沃氾族の画家的統合の不成立と相表裏する關係に在ったも
のと云うことが出來る︒
沃汎族の對外關係は維始一・賀して隣境勢力への服脇の歴史であった︒此れ亦その掴家的統合の不成立と相
表蕊する關係に在ったと云うことが出来る︒先づ彼等が初めて史上に薙場したのが漠和牛鮎に亡命して所謂
術氏朝鮮園を建てた衞猟への服脇關係に於いてであることは先に述べた如くであゑ次いで淡の武帝が元封
亜0三年︲︵前一○八︶補氏朝鮮図ど減してその地に四郡を過くと︑沃汎は今の江原誼五回の束蔵恥を主管してい
た臨屯郡の所脇とせられ︑降って昭帝の始一兀五年︵前公一︶臨屯郡が興番郡と共に駿止せら鯉た篤め亥郵那
に郷脇せしめられ︑︾史に昭帝の一兀瓜一ハ年︵前七五︶には索苑那が今の通牌平野から錦京老城方面に退従せら
れたので改めて樂浪郡に鋸入せられ︑その東部都尉の治下に世かれることとなった︒爾来前換迄その所脇に
愛化はなかった︒而して全沃泓族中のどの範囲迄が朝鮮←漠の所脇となって居たかは明かでないが︑楽浪郡
所脇時代の沃沮族の地に置かれていた縣は今の減お地に比定せられる沃汎縣只一語つであるから︑大体此の
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地方を中心とする南沃汎中の南部の者に限られて居たと見て談りないと思われる︒少くとも奥地の北沃批に・迄及んでいたとは考え難い︒.︲.︑:
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.後洩の光武帝は建武六年︵三○︶都尉を蔽止することに決したので︑・樂汲郡の東部都尉も同時に朧止せられ︑かくて沃沮は後淡の哩職外に挫かれたが︑尚沃泓縣を侯國として鵬際していた︒此の職躍侯國を奪って
継秘七部の前身とその陽極︑二一
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ー沃狐を取込んだのは前洩末頃より勃興しつつあった商句麗である︒︒・
商伺腿が沃泓を征服した年次は明かでないが︑没史に擁るに篠渓・安帝の元初五年︵二八︶儲時已に彼
剋I△も︒
⁝等を脈して居たことは確かである︒因みに愉時の伺麗王は宮であつだと云う︒一方三國史記に依る贋商何
里や画町︑Rや
腿は大武祁王九年︵三ハ︶冬十月︑今の臨江縣附近に比定せられる同族の蓋馬國を減して今の狼杯山脈に比α︲定泄られる蓋馬大山の西麓に迄勢力を確立し︑降って漢史の宮に鮒てられている太泓大王の四年︵後洩・筵︑㈱/・四一一﹄武中元元年・五六︶七月南沃汎を伐ち︑次いで伺王四十六年︵後漢・和布や永元十年Ⅱ九八︶三月北沃汕を︐■9今・令﹃も征服したことと蔵っている︒三國史記の古い時代の部分は即信し難い所仰が多いが鯵とにかぐ洩史の所燃や︑・一一
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pと對比して一惟紀の経り頃には己に商伺麗の勢力が沃沮に及んでいたこと丈は紛れない様である︒聖降って正・
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始五・六︵一面四四五︶両年に行われた曹魏の前後二回にわたる高河腿遠征は︑第一回に於いて毛の本土:
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︲い︑併せて束倣一をも征服した爲め︑商伺麗の國力は一時大いに薄溺となった︒此の機に乗じた夫餘が北沃氾︑.・
を侭有して経ったことは先に述べた如くであるo然し商伺睡の稚興は識迩に進み通東浦・南沃氾の恢復は勿︲︲β冠︑●&
︽論のこと︑西晋の武帝の泰始年間︵二泳五一叩一七四︶には己に楽浪郡の北部をも蹄取していた︒然もその後︲
︾の滴句畷の發展は益廷目蝿しく︑好太王の永梁二十年︵四一○︶北沃汕に雛った束夫鯨をも伐ち減して此を︐
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.︐取り逸したこと︑先に一言した如くである︒爾後沃泓に閥す添航縛記難なく︑杏としてその鞘息吃絶ってい︐
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←ろが︑その後の嵩伺麗の大發展より考え・て引絃きその領狩に脇していたと栓は疑いない︒然も瞬大な地域に︑︲.b︑
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︾先づその生業より見るに農業を第一とし︑麻布滅桑をも知り︑叉占星術によって盟凶を予測していたと云
p・う︒飼畜を併世行い︑︑狩猟及び日本海の澗錺をも盛に醤んでいた︒家諮の采下馬︵倭小馬︶狩猟の丈豹︑沈
携の慨︵班魚皮Ⅱ海豹︶賊・蛎等は中図にも知られていた︒叉採繊に従郡していたと云うから治繊をも知つざ
予ていたわけである︒對支貿易は商何麗との關係で時浜治挺はあった様であるが楽浪那︵後ぢの雑亨魎も含
む︶を對手に相徹盛んに行われ︑中國本土に在来することもあった様である︒農主生活の關係からやはり土
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荒室居し︑平均数十戸程度の部落を作して住み︑史に小部を形成して小部長を戴き︑・若干小部連合して大部を形成し︑諸小部長中の︲一人を推して大部艇に戴いていたこと︑沃汕と相似ていた︒.又此等諸大部を統合し て行く大君長は居らず︑統一國家の諺に形成せられなかったことも沃氾と同様であった︒︐.その戸歎睦一茂と 傅えられているが︑︐國家的統合のない彼等に就いての数であるからその確迩性遊大撞く見ることは綾諾でな
︐く︑︑又此の二繭を詳老するに︑それは中園の郡縣に緬管せられていた犠西減を除いた繊東感のみの概敷で︑.
〃涯際は大約その倍激と見て大過無い様である︒彼等も嘗て氏族制時代を經過したことは同姓不幡毛の他若干
の習俗制匪の中に認められる︒︲︲然し三國時代には己に此の制度を蝉脱して宗族制度時代に入っていたものの
如くである︒上述の小部は嘗ての氏族剛体に沿革せるものと推測せられる︒.又階級分化も沃沮族よりは瓢著
.︲に現れへ・奴隷の少からぬ存在︑豪族の發逵等が窺われるが︽未だ身分的賀族階級の形成に迄は至っていない︒■■bp・上大小部長は豪族が占め工いた様でである︒此れは沃泌でも同じ何向を有していたと想われるが︑此の豪族の
占める部長の君・王的椛力の護展が沃沮族の場合より箸1レく認めら恥るのは︑奴隷階級の存在を仰えた記郡と
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ことは︑此の階級分化が未だ完成の城に達していなかつたことを一不す︒此未完成は彼等の統合國家の不成︲
令立と表蕊の魁係︾に有ったものと零つことが出来る︒.︾︑
統一画家の不成立と朴表班する問題とし−1|彼等の對外脚係も亦沃洲と混溌瞬強への臣脇の朧史であった︒︲︲
即ち彼鍵︾も衛氏朝鮮剛への服腿職係を以て初めて史に玖拠へ武帝の四郡設繊に憐しては臨型郡の所管となり︑︑昭帝の臨屯が腰止に際しては索浪祁に態入職られ︑糊班蝉ハ縣は沃汎と共肱東部郡尉の︑縦西臓北部の者は
″郡本部の︑徽閲減南部の満は南部祁尉の群下に分治せら恥ることとなった︒陸2︐︾後瑛・光武術の東部郡尉・
8︑︒J賎止後︑靴火歳は中風の誼鱸を離れたが︑術を里ハ縣はそのまま侯図として畷燃せられていた︒次いで商伺
苧︒︒職に営王細で︑大いに械土搬娠をはがるに及んで械束↓繩は沃汎と共にその征服する所となった︒一蔽紀の初
葉頃で噂︒︒皿に降2L正始六年︵一両五︶曹魏の決行した鰯二回商句厨逮征はその潅略の︑王目標を沃汎と
東瀧と隅岬一き︑此より紙來漉も一時中図に肺脇一凱ることとなった︒然し轆災後秘巡に復刷へした商句弱は叉もい
や此錘好服脳吐しめた︒柾し三耐以後の東侭に闇する仰は中園の史祥になく︑只牢砧側の災押に︲よって多亦の︑↑
人し二推考が可能な課度噂.詳細は知悉し難い︒
以上慕系の鼎侭ぃ和協に蝋した︒拝し愈舟蕊可奮棚題が多いが︑此簡譜髄憾
何れも卑蒋を要する東亜史上の重要課題であるので︑詳細は別に辱考諭丈にゆずり︑・謎に此等四派を一擁し
た域術緬綻としての重要な一三両問題に就墜﹂櫛槻する︒Ⅷ芋︑ 賎押七部の前身と雫ての屈諏.︐.一七︑
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流域に雛つ一・︶いた.厩一謂族中の一部族名である︒ゞ史記華韮撰施栂列俸に燕の地のこと
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︐ろ一強大祁旋にすぎず︑前批末に於いても商句鰯部曇は未だ中闘より侯を以て過せられ︑王飛を得一﹄いない︒
・︲然し前瀧末よ・リ王葬時代にかけて大いに瞬近諸祁を糾合征服していたものと兇え︑鞍蕊の初めに肱巳に略だ
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︒︑幻も ■的.・前である︒要する娼商何遜も鴨隷・懲佳流域に蝦っていた域輌族中の一部族名で︑をれ・か黙へとなって此
の地緬の︲他の諾部を統︽口し︑寓句遥王画才建てた鱒め︑此の地腿の︾腐一銅は・漉句死人・潅風禅必と呼ば・れる様/︐
になったのである︒︒次に沃池の場誉を兇ろに︑此れ亦本來朧魑如族中の今の成興地方に蛇づて脳た一部族の
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§但し此の沃汕の名溌喚窪展は︑夫除・商句麓四場︑一測り如く︑沃汎師が他心諸部を糾一﹇一推服して統一津歳就し︐r・〆●Ⅱ6
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︺︑沃批郁の識つた成皿の地には沃肌縣なぜいて此を剛屯祁の栫下に入れ︑︲降って昭布の時︑︲厩屯祁が嬢止せら&0.れると玄菟祁に移管し︑次いで玄菟郡が退徒せら鯉ろと楽浪祁に識入した︒沃汎縣の外にも悔︑曇ちの所謂︒
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︑秘埋古斯系の諸汲として南北朝時代迄の腱腿に魂れているのは掘典州︵職媒とも云う﹃と勿一古と︽pある︒.よ︲
曾L此の舸族に就いて個別的に慨慨し︑災に純通古斯諏族としての綜孵的概観を.該ふることとする︒
A︲担英︵一名噸悩︶︐.・・〃︲¥
■︽も画げf把災一培耐慨の様子を難哨詳に知り得るのは二・脚・両率い時代である︒↑︾てれは二︽闘志︒魏志唯二典礎仰の中・
〆に把迩の導偲があり︑叉垂異畿九衷唆郷の中に・狩斗順帆氏碑があり︑更に此の瑚餌氏仰の︑主要脈依となった鄭
中記の一部が通撃ての︒他に引用せられて現に仰えられていろ︑からである︒而して他婁博は脹始六年︵二四五︶
そ姫胤鳴進入し準﹀篭那太守王順に鳴一し︑た拠人の盟蒐側報告と窯奇癖としたものであり︑湘恢氏
伸︵及びその・諄奉所依となった仙中記の一節︶は蝿の末年たる埜兀年Ⅲ︵一三ハ○六二↑︶・相図司鴨昭の差遜 した使人が親しくその地に赴いて概蕊凡剛し・た脈を蝋つた#ずのであり︑共にその史料的佃値は極め一し高い︒︲
爾来轆阿以後南北朝の史籍にも湘浜の名が散兄して居り︑それ等を総合しつつ二閥︒西晋時代を中心とする砿
等の腱史を概観するに︑大様次の如くである︒.︲︑
光つモの住域は︑西は瑚爾吟河流域畢仁含み︑束は日本海に達し︑南墜呈猟江流域の沃祉に接しや北は束流
涙花江に巡る魔大な地域に住み噺・少くも数寓以上の戸を有していた︒︑恐らく先泰の遠い普より此の地方に住
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