Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Aug.-Sep. 2016] │ 14
当館では昨年度に︑岡部嶺男︵一九一九│ 九〇︶が晩年に制作した︽窯 よう変 へん米 べい色 しょく瓷 じ碗 わん︾
﹇図
1﹈の寄贈を受けた︒この作品は︑岡部
の没後に初めて開催された﹁青磁を極め
る
│
岡部嶺男展﹂︵二〇〇七年三月六日│五月二十日︑東京国立近代美術館工芸館︶に出品された︑ある特徴を持った碗として注視されていた︒
当館ではこれまでに四点の岡部の作品
を収蔵してきたが︑青磁︵青瓷︶は一点の
みであり︑本作品で二点目となった︒青瓷
はいずれも碗であるが︑これら二点には大
きな違いが見られる︒そこで本稿では︑そ の違いを比べることによって︑岡部という陶芸家の思考や作風を探ってみたい︒
青瓷誕生
岡部が生み出した作品群の中で︑代名詞となっているものが青瓷である︒﹁嶺男青瓷﹂と呼ばれているそれらは︑他の追随
を許さないほどに極めて独自性が高く︑器形や釉色などが変化に富んでいる︒
岡部の陶芸家としての活動は︑フィリ
ピンから復員した一九四七年頃から本格的に始まった︒はじめは生まれ育った愛知県瀬戸の伝統技法をもとにした︑織部・志野・黄瀬戸・灰釉・鉄釉や︑日本の各窯業地の技法による︑唐津・備前・粉引などを手がけており︑それら多彩な作域を見せ
る作品群は︑愛知県豊田の平戸橋で制作
された︒その後︑愛知県日進に新たに住居
と工房︑そして窯を築いて作陶の拠点を移すが︑平戸橋の最後の数年間に︑岡部
にとっての初期の青瓷作品が生まれ︑日進ではそのほぼすべての間︑青瓷の制作に費やされた︒とくに日進では︑誰も成し得
なかった窯変による独特の色彩を見せる﹁窯変米色瓷﹂を生み出した︒その完成度
の高さから﹁嶺男青瓷﹂と呼ばれるに至る のである︒
その青瓷に対する作陶の軌跡をみてい
くと︑まず︑灰釉による釉薬を研究する過程で︑﹁灰釉陶からの自然発展である青瓷﹂﹇註
六五年には無貫入の﹁粉青瓷﹂を完成させ 頃から青瓷の研究を本格化させて︑一九 1﹈のきっかけを摑み︑一九六三年
ている︒翌年には︑ほのかに赤みが現れた﹁粉紅瓷﹂を︑さらに翌年には二重貫入に
よる﹁粉青瓷﹂の完成をみている︒この頃
は︑住居を平戸橋から日進に移していた
が︑工房と窯はまだ平戸橋にあった︒その後︑一九六九年には日進に工房と素焼窯
が完成するが︑本焼成用の窯は平戸橋に
あり︑日進で素焼きした作品を平戸橋ま
で運んで本焼成を行うという期間が二年
ほど続いている︒
当館が所蔵するもう一点の碗︑︽灰 はい青 せい瓷 じ
盌 わん︾﹇図 2﹈はこの間に制作された︒焼成時
における窯変により︑やや灰色がかった釉色を呈していることから︑﹁灰青瓷﹂と名付けられている︒下部の高台の近くか
ら上部の口縁にかけての釉薬の色合いの変化を見ると︑粉青瓷系の窯変により色合いが徐々に変わる様子が見て取れる︒
この灰青瓷は︑窯の中でも上の方に置き︑ 薪の灰がかかる灰被りの状態で焼成が行
われた︒一九六七年から翌年までの窯で何度か灰青瓷を焼いた記録が残されて
おり﹇註
2﹈︑これらのことが知られるので
ある︒
そして一九七〇年︑日進に自身が設計
して施工した待望の窯が完成する︒この窯は︑初期の窯変ともいえる﹁灰青瓷﹂を生んだ窯とは比べものにならない︑まさに窯変専用ともいうべき仕様のもので︑その後の岡部独自の米色を呈した二重貫入に
よる﹁窯変米色瓷﹂のほとんどは︑この窯
で生み出されたのである︒
唐 澤 昌 宏 岡 部 嶺 男 の ﹁ 青 瓷 ﹂ │ ︽ 窯 変 米 色 瓷 碗 ︾ を き っ か け と し て作品研究
図1 岡部嶺男《窯変米色瓷碗》1977年 東京国立近代美術館蔵(ギャラリー十玄門寄贈)
図2 岡部嶺男《灰青瓷盌》1968年頃 東京国立近代美術館蔵
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﹁嶺男青瓷﹂出胎土窯
岡部の青瓷のほとんどは地元で採れる赤土によってつくられており︑焼成後の胎土は灰黒色や黒褐色となる︒赤土による青瓷としては︑中国における南宋時代の郊壇官窯が知られており︑岡部も青瓷の名品を収めた﹃故宮蔵瓷﹄でその器形や色を確かめながら︑それらを常に意識して制作
していた︒その青瓷は陶器質︵陶胎︶である
ため名称は﹁青磁﹂ではなく﹁青瓷﹂となり︑岡部もそれにならい﹁青瓷﹂としている︒し
かし岡部は︑単にその模倣を試みたのでは
なく︑灰釉の研究から青瓷を導き出した
ように︑地元で採れる素材にこだわり︑中国の古陶に迫り︑それを超えようとした︒
岡部が︑﹁郊壇官窯的な黒い土は︑古瀬戸の祖母懐土を洗練発展させたもので其
の本質は祖母懐土と全く同一のものであ
る︒同様にいくらか白い北宋代的な土は古瀬戸の白い手の土から発展させたもの
である︒釉に於いても同じく︑古瀬戸末期
の白天目からの展開である﹂﹇註
3﹈と綴っ
たように︑常に自身が探し当てた素材に
よって作品を生み出すことを大切にして
きたのである︒
この言葉が物語るように岡部は︑山か
ら採ってきた土を独自にブレンドして焼成のテストを繰り返した︒さらには調合
した釉薬とのマッチングを確かめるため︑無限ともいえる組み合わせによる試験を 行っている︒それらは陶芸家が一代でやり尽くすことができる量をはるかに超えてい
るのではと思うほどである︒そしてテスト
ピースには︑しばしば盃形が用いられた︒
これは一般的なテストピースとして用いら
れる棒状や板状とは異なり︑実際の形に近いことで︑釉薬の流れ具合や発色など
の他に︑胎土としての強度や耐火度のテ
ストも兼ねることができるからである︒青瓷は薄い胎土の上に厚く釉薬が掛かる︒
そのためには高温でも形を保つ胎土を探
し出す必要があった︒
岡部が生み出した青瓷は︑粉青瓷・粉紅瓷・月白瓷・翠青瓷・窯変米色瓷・灰青瓷・窯変翠青瓷など︑実に多彩である︒そ
れぞれに釉色や釉調が異なるが︑その一
つ一つに岡部の特徴を見ることができる︒
その中でも﹁窯変米色瓷﹂は︑革新性とそ
の色合いから︑岡部が生み出したもっとも特徴的で独自性を打ち出した青瓷といえ
るものである︒
この窯変米色瓷を生み出すにあたり︑欠かせないのが日進の工房に築いた窯で
ある︒﹁嶺男式半地上式穴窯﹂と自身が名付けたその窯は︑炎を自在に操ることを目的とした窯変専用の仕様で︑岡部の言葉を借りれば︑﹁炎のアクロバット﹂を行う
ことができる︒要するに︑酸化焰と還元焰
を操ることで︑ある一つの釉薬でありな
がら︑青みの綺麗な粉青瓷にも︑黄色み を帯びた窯変米色瓷にも︑あるいは片身替わりのような二つの色みが共存する釉色もつくり出すことができるのである﹇註
4﹈︒その窯は一九七〇年に初窯が焚か
れ︑その時︑黄色みがかった米色の色合い
が美しく︑二重︑三重に貫入が入った初め
ての︽窯変米色盌︾が生み出された︒これ
をきっかけとして︑その後︑次々と﹁窯変米色瓷﹂による盌や瓶をはじめとする︑独自性に富んだ釉色を纏った作品が生み出
されていくことになる︒
岡部の青瓷は︑その名称からもわかる
とおり︑釉色を基準として数多くの種類
がある︒岡部が青瓷を発表する以前の陶芸界は︑一般的に青磁︵青瓷︶と言えば︑そ
のほとんどが限られた色合いを求めた表現であった︒その限られた世界観の中で岡部は︑さまざまな色合いを見せる青瓷を生み出し︑鑑賞者を魅了してきた︒そこに
は︑岡部が求めた青瓷という確固たる姿
があり︑また︑誰にも到達できない完成度
の高さがあったからこそ︑鑑賞者を説得す
るだけの力を持ち得たといえるのである︒
﹁盌﹂﹁碗﹂﹁薔薇高台﹂
岡部は︑土や釉薬︑焼成の研究ととも
に︑器の形にも独自性を打ち出し︑後世
に強い影響を与えたことでも知られる︒
その一つが﹁薔薇高台﹂﹇図
荒々しく削りが施された高台の造形であ 3﹈と呼ばれる︑ る︒高台を真上から見たときに薔薇の花
に似ていることから名付けられたが︑それ
は岡部自身が名付けたものではない︒そ
の独自性に多くの鑑賞者が心を動かさ
れ︑自然発生的にその名称が使われるよ
うになったと考えられる︒
岡部が青瓷を生み出した当初︑︽灰青瓷盌︾に見られるように轆轤目のような手跡
を残さない成形を心がけている︒また︑高台は轆轤成形後に底部を削り出す際につ
くられるが︑口縁部に比べて小さく︑内刳
りが施されている︒その削り出しの際︑輪
のように削られるところから輪高台﹇図
4﹈
とも呼ばれている︒このような成形は岡部
が参考とした中国・南宋時代の青磁に認
められ︑その後︑青磁を生み出した近代の陶芸家の成形にも見て取れる︒青磁には
このつくり方が基本という︑いわば定番と
なった仕様であり︑静謐と謳われた古典
図3 「薔薇高台」。真上から見た図1の「碗」の高台
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表紙:山領絵画修復工房での作業風景(2012年時) 撮影:吉次史成 2016年8月1日発行 (隔月1日発行) 現代の眼 619号
編集:独立行政法人国立美術館 東京国立近代美術館/美術出版社 制作:美術出版社
発行:独立行政法人国立美術館 東京国立近代美術館
〒102-8 322 東京都千代田区北の丸公園3-1 電話03(3214)2561 次号予告 2016年10─11月号 10月1日刊行予定
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On view トーマス・ルフ展
革新の工芸─ 伝統と前衛、そして現代─ Review
声ノマ 全身詩人、吉増剛造展
の青磁を範とした造形である︒
一方の︽窯変米色瓷碗︾に見られる﹁薔薇高台﹂は︑それまでの青磁にはない造形
であるが︑高台だけに特徴があるわけでは
ない︒この造形が施された作品は︑轆轤目
を残した躍動感のあるフォルムをしてお
り︑釉薬には施釉時による指跡がしっかり
と残されている︒器形の成形︑高台の削り出し︑施釉方法に至るまで︑これらがセッ
トになり総合的なものとして生み出され
ているのである﹇図
5﹈︒ この造形をよく見てみると︑青瓷を生
み出す以前の︑いわゆる岡部の作陶の前半期にそのヒントが隠されていることがわ
かる︒岡部は生まれ育った瀬戸の伝統技法をもとに︑桃山時代に焼造された志野
や瀬戸黒などの茶陶を参考としながら自 身の作陶を目指した︒その過程で独自性
を打ち出そうと試みたのが高台の削りで
あった︒高台は茶碗の見どころとして︑形状や削り方が重要な鑑賞要素となること
から︑とくに造形において重視したといえ
る︒また︑施釉時における指跡も︑景色と
して鑑賞の対象となる︒岡部は創造者で
ありながら︑鑑賞者の立場も重ね合わせ
て一つのスタイルを確立させたのである︒
岡部はこれらを踏まえて︑輪高台の作品の箱書には﹁盌﹂を用い︑指跡と薔薇高台の作品の箱書には﹁碗﹂あるいは﹁茶碗﹂
と記して区別している︒よって作品の名称も﹁盌﹂と﹁碗﹂になるのである︒
岡部嶺男は一九七八年七月に脳出血で倒れ︑その後の制作が困難となった︒一九 七七年に制作された︽窯変米色瓷碗︾は︑作陶歴における最晩年となる貴重な作品
として位置づけられる︒二〇〇七年に没後初めての回顧展が開催され︑その全貌
が摑めたことで︑岡部の思考や作陶の様子が少しずつ明らかになってきた︒今後︑研究が進むにつれて︑陶芸界における存在や影響力の大きさをさらに感じること
となろう︒機会があれば更なる検討を加
えていきたい︒︵工芸課長︶
註1
岡部家から提供していただいた資料による︒﹃岡部嶺男作品集陶愁﹄︵小学館︑二〇〇七年︶の﹁作家の手稿から﹂にも似た文章が掲載されている︒
に窯の記録を書き残している︒ れには焼成時の温度変化や窯の様子など︑とく た焼成に関しては︑別に﹃窯控﹄ノートがあり︑こ 合︑制作に対する考え方などを書き綴った︒ま ノートをつけており︑技法のアイデアや釉薬の調 2岡部は復員した一九四七年から﹃製作記録﹄ 小学館︑二〇〇七年︒ 3﹁作家の手稿から﹂﹃岡部嶺男作品集陶愁﹄ 岡部はそれを操ろうと︑窯変専用の窯を築いた︒ 薪をくべるたびに還元と酸化が繰り返された︒ われている︒岡部の窯の燃料は薪であったため︑ 色に︑酸化焰で黄色みを帯びた米色になるとい 4基本的に青磁︵青瓷︶の釉薬は︑還元焰で青
図4 図2の「盌」の高台
図5 図1の「碗」の高台