讃
岐
高
松
藩﹃切
支
丹
宗
徒
人
名
録
﹄
に
関する基礎的研究
―
讃岐高松藩のキリシタン禁制と
﹃切支丹宗徒人名録﹄の歴史的性格
―
溝
渕
利
博
A n In itia l S tu dy o n th e o f t he Sanuki Takamatsu Fiefdom : The Prohibition of Christianity in the Sanuki Takamatsu Area and the Historical Characteristics of the Toshihiro Mizobuchi 要約 ﹃ 切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ は 讃 岐 高 松 藩 の キ リ シ タ ン 類 族 帳 で あ る 。 ﹁ 巻 之 上 ﹂﹁ 巻 之 下 ﹂﹁ 附 録 ﹂ の 三 冊 か ら 成 り 、 十 七 世 紀 前 半 か ら 十九世紀初めまでの高松藩及び小豆島におけるキリシタン及び転 び キ リ シ タ ン 類 族 八 七 九 名 が 族 ご と に 掲 載 さ れ て い る 。 本 稿 で は 、 ﹃ 切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ が ど の よ う な 経 緯 で 撰 修 さ れ 、 ま た ど う 利 用 さ れ た か を 明 ら か に す る と と も に 、 記 載 内 容 の 分 析 を 通 じ て 高 松 藩 に お け る キ リ シ タ ン 及 び 転 び キ リ シ タ ン 類 族 の 実 態 や 、 キ リ シ タ ン 禁 制 の 展 開 と 幕 藩 制 秩 序 の 形 成 過 程 と の 関 係 に つ い て 考 察 し た い 。 キーワード讃岐高松藩、キリシタン禁制、宗門改、類族帳 Abstract The is a unique historical record of th e na m es o f C hr ist ian s an d th eir r ela tiv es , c on sis tin g of three volumes. Eight-hundred and seventy-nine names of Chris -tians in the Takamatsu fiefdom and Shodoshima from the first half of the 17 th century to the beginning of the 19 th century are listed in it. T he r ea so ns fo r th e ta bu lat ion o f t his lis t a nd it s us es a re first described. Then, through an analysis of the contents of the record, the actual lives of Christians and their relatives in the Takamatsu fiefdom are described, and the history of the prohi -bition of Christianity and the formation processes leading to the
development of the Shogunate system will be referred to.
Keywords: Sanuki Takamatsu-, prohibition of Christianity,
religious census, documentation of Christian families
提出年月日
二〇〇一年十一月三〇日
ものへと進展させるのに功績があった。松田氏は﹃キリシタン研 究 ﹄ 第 一 部 四 国 篇 の 中 で、 福 家 惣 衛 氏 所 蔵 の﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄︵写 本 ︶ の 翻 刻 を 行 い、 そ の 内 容 の 比 較 検 討 に ま で 踏 み 込 ん で 行 っ て い る。 ま た、 昭 和 四 三 年 に は﹁四 国 キ リ シ タ ン 史 補 遺 ﹂ の中で﹃切支丹宗徒人名録﹄を取り上げるなど、福家氏が発掘し た讃岐高松藩の﹃切支丹宗徒人名録﹄について、国内外の史料や 日本史の中に位置付けた実証研究を行う契機をつくった ︵ 3 ︶ 。 さらに板東英雄氏は、従来のキリシタン史研究がキリシタン弾 圧史・殉教史や宗教史・思想史的立場のものが多かったのに対し て、近年はキリシタン禁制を幕藩制国家の中に位置付けて解明し ようとする研究がなされているとして、キリシタン禁制政策がキ リシタンの脅威が徐々になくなりつつあるなかで制度化され、そ の取り締まりの対象もキリシタン本人から、その類族へと拡大さ れ、さらに民衆支配をも絡ませながら展開されていった事実に注 目して、史料に基づき讃岐松平藩のキリシタン禁制政策を公儀と の関係から考察した一連の論考を発表している ︵ 4 ︶ 。 また、村井早苗氏は、幕藩制成立期におけるキリシタン禁制政 策の展開とその意義について、幕政・藩政の動向、幕藩関係、朝 幕関係等幕藩権力の構造的特質との関係で考察し、日本近世国家 支配にどのように位置づけられ、そのことが支配される側の民衆 の宗教意識にどのような意味を持ったのかを中心に幅広い研究を 行っている。キリシタン禁制の地方的展開の一例として、讃岐高 松 藩 の 事 例 を 取 り 上 げ て﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ に 記 載 さ れ た 寒 川 郡 志 度 浦 の 塩 焼 キ リ シ タ ン 市 右 衛 門 の ケ ー ス に つ い て 論 究 し、 ﹁自 分 仕 置 権 ﹂ を め ぐ る 幕 藩 関 係 の 推 移 と 変 容 の 過 程 を 明 ら か に するなど讃岐のキリシタン史を日本史全体の中に位置づけた ︵ 5 ︶ 。 この ほ か筆者は、讃岐高松藩の切支丹奉行研究を通じて讃岐に お け る 宗 門 改 体 制 の 確 立 と 藩 体 制 の 確 立 時 期 と の 関 係 を 明 ら か し、 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ に 記 載 さ れ た 讃 岐 高 松 藩 関 係 の キ リ シ タン及び転びキリシタン類族の存在形態や生活実態などについて 分類化を図るとともに、讃岐のキリシタン史についても法制史や 文化史等の複数の視点から概観した ︵ 6 ︶ 。 以上、讃岐高松藩のキリシタン類族研究は、大正時代に曽川寿 吉氏によって研究の端緒が切られ、それを受け継ぐ形で昭和初め に 福 家 惣 衛 氏 が 発 掘 し た 讃 岐 高 松 藩 の キ リ シ タ ン 類 族 帳 で あ る ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ を、 松 田 毅 一 氏 が 昭 和 二 八 年 に 翻 刻 し た 頃 から本格的に始まったといえる。戦後は、この松田毅一氏翻刻文 を引用した研究が多くなされ、現在でもこの讃岐高松藩﹃切支丹 宗徒人名録﹄は讃岐のキリシタン研究にはなくてはならない貴重 な 基 礎 史 料 と な っ て い る。 し か し、 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ そ の も 序章 讃岐 キ リシタン類族研究史と個別研究課題 本稿で検証の対象にするのは、讃岐高松藩の﹃切支丹宗徒人名 録 ﹄ で あ る。 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ は、 讃 岐 高 松 藩 の キ リ シ タ ン 及び転びキリシタン類族に関する諸帳面の記載内容を撰修したも のである。 本稿の主要な関心は、この﹃切支丹宗徒人名録﹄がどのような 経緯で撰修され、かつ利用されたかを明らかにするとともに、そ の記載内容を分析することによって讃岐高松藩におけるキリシタ ン 禁 制 政 策 が ど の よ う に 展 開 し て い っ た か を 解 明 す る こ と で あ る。 具 体 的 に は、 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ の 内 容 分 析 を 通 じ て、 讃 岐高松藩におけるキリシタン及び転びキリシタンの存在形態や摘 発の状況、キリシタン禁制をめぐる幕藩関係の推移、宗門改・類 族改を中心としたキリシタン禁制の展開過程と幕藩制秩序の形成 過程の一端を明らかにしたい。 こ れ ま で 讃 岐 高 松 藩 の キ リ シ タ ン 類 族 研 究 に つ い て は、 大 正 十五年に曽川寿吉氏が自著﹃讃岐通史﹄第九章﹁讃岐に於けるキ リ ス ト 教 の 禁 止 ﹂ で、 ﹁讃 岐 は キ リ ス ト 教 を 如 何 に し て 禁 止 し た か。著者が県内で調査したものに依ると、大略次の四種に分類す る事が出来る。一、寺請証文 二、宗門改 三、嘱託金 四、キ リシタン類族改、之には切支丹類族と転切支丹類族の二種類があ る﹂と記述し、キリシタン類族に初めて言及している ︵ 1 ︶ 。 一方、讃岐高松藩の﹃切支丹宗徒人名録﹄研究については、郷 土史家福家惣衛氏が昭和十二年に﹁織豊時代の四国殊に我が讃岐 に於ける切支丹宗流布概況﹂の第三篇餘論で、今後の研究題目と して﹁一、寺請証文の研究、二、宗門改帳の研究、三、嘱託金の 研 究 四、 切 支 丹 類 族 改 の 研 究、 五、 切 支 丹 宗 徒 人 名 録 の 研 究、 六、切支丹燈籠即ち織部燈籠の研究﹂をあげ、以上の研究は何れ 発表する機会のあることを信ずる、と結んでいる。この時期から 福家氏は、香川県内で初めて讃岐のキリシタン史についての総合 的な研究に行おうと構想していたことがわかる。そのためキリシ タン関係史料の収集にも関心を持って県内各地の史料調査を熱心 に行い、この時点で既に﹃切支丹宗徒人名録﹄の存在を明らかに している ︵ 2 ︶ 。福家氏のこれら一連の研究は、香川県における ﹃切 支丹宗徒人名録﹄研究の嚆矢といえる。 次いで松田毅一氏は、宣教師報告等の訳刊を数多く行うととも に、国内外のキリシタン史料を博捜し、それまで比較的史料の少 なかった四国のキリシタン史料を集めて昭和二八年に﹃キリシタ ン研究﹄第一部四国篇、第二部論攷篇を著し、地方のキリシタン 研究をそれまでの南蛮趣味的なものから史料に基づいた実証的な
ものへと進展させるのに功績があった。松田氏は﹃キリシタン研 究 ﹄ 第 一 部 四 国 篇 の 中 で、 福 家 惣 衛 氏 所 蔵 の﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄︵写 本 ︶ の 翻 刻 を 行 い、 そ の 内 容 の 比 較 検 討 に ま で 踏 み 込 ん で 行 っ て い る。 ま た、 昭 和 四 三 年 に は﹁四 国 キ リ シ タ ン 史 補 遺 ﹂ の中で﹃切支丹宗徒人名録﹄を取り上げるなど、福家氏が発掘し た讃岐高松藩の﹃切支丹宗徒人名録﹄について、国内外の史料や 日本史の中に位置付けた実証研究を行う契機をつくった ︵ 3 ︶ 。 さらに板東英雄氏は、従来のキリシタン史研究がキリシタン弾 圧史・殉教史や宗教史・思想史的立場のものが多かったのに対し て、近年はキリシタン禁制を幕藩制国家の中に位置付けて解明し ようとする研究がなされているとして、キリシタン禁制政策がキ リシタンの脅威が徐々になくなりつつあるなかで制度化され、そ の取り締まりの対象もキリシタン本人から、その類族へと拡大さ れ、さらに民衆支配をも絡ませながら展開されていった事実に注 目して、史料に基づき讃岐松平藩のキリシタン禁制政策を公儀と の関係から考察した一連の論考を発表している ︵ 4 ︶ 。 また、村井早苗氏は、幕藩制成立期におけるキリシタン禁制政 策の展開とその意義について、幕政・藩政の動向、幕藩関係、朝 幕関係等幕藩権力の構造的特質との関係で考察し、日本近世国家 支配にどのように位置づけられ、そのことが支配される側の民衆 の宗教意識にどのような意味を持ったのかを中心に幅広い研究を 行っている。キリシタン禁制の地方的展開の一例として、讃岐高 松 藩 の 事 例 を 取 り 上 げ て﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ に 記 載 さ れ た 寒 川 郡 志 度 浦 の 塩 焼 キ リ シ タ ン 市 右 衛 門 の ケ ー ス に つ い て 論 究 し、 ﹁自 分 仕 置 権 ﹂ を め ぐ る 幕 藩 関 係 の 推 移 と 変 容 の 過 程 を 明 ら か に するなど讃岐のキリシタン史を日本史全体の中に位置づけた ︵ 5 ︶ 。 この ほ か筆者は、讃岐高松藩の切支丹奉行研究を通じて讃岐に お け る 宗 門 改 体 制 の 確 立 と 藩 体 制 の 確 立 時 期 と の 関 係 を 明 ら か し、 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ に 記 載 さ れ た 讃 岐 高 松 藩 関 係 の キ リ シ タン及び転びキリシタン類族の存在形態や生活実態などについて 分類化を図るとともに、讃岐のキリシタン史についても法制史や 文化史等の複数の視点から概観した ︵ 6 ︶ 。 以上、讃岐高松藩のキリシタン類族研究は、大正時代に曽川寿 吉氏によって研究の端緒が切られ、それを受け継ぐ形で昭和初め に 福 家 惣 衛 氏 が 発 掘 し た 讃 岐 高 松 藩 の キ リ シ タ ン 類 族 帳 で あ る ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ を、 松 田 毅 一 氏 が 昭 和 二 八 年 に 翻 刻 し た 頃 から本格的に始まったといえる。戦後は、この松田毅一氏翻刻文 を引用した研究が多くなされ、現在でもこの讃岐高松藩﹃切支丹 宗徒人名録﹄は讃岐のキリシタン研究にはなくてはならない貴重 な 基 礎 史 料 と な っ て い る。 し か し、 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ そ の も 序章 讃岐 キ リシタン類族研究史と個別研究課題 本稿で検証の対象にするのは、讃岐高松藩の﹃切支丹宗徒人名 録 ﹄ で あ る。 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ は、 讃 岐 高 松 藩 の キ リ シ タ ン 及び転びキリシタン類族に関する諸帳面の記載内容を撰修したも のである。 本稿の主要な関心は、この﹃切支丹宗徒人名録﹄がどのような 経緯で撰修され、かつ利用されたかを明らかにするとともに、そ の記載内容を分析することによって讃岐高松藩におけるキリシタ ン 禁 制 政 策 が ど の よ う に 展 開 し て い っ た か を 解 明 す る こ と で あ る。 具 体 的 に は、 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ の 内 容 分 析 を 通 じ て、 讃 岐高松藩におけるキリシタン及び転びキリシタンの存在形態や摘 発の状況、キリシタン禁制をめぐる幕藩関係の推移、宗門改・類 族改を中心としたキリシタン禁制の展開過程と幕藩制秩序の形成 過程の一端を明らかにしたい。 こ れ ま で 讃 岐 高 松 藩 の キ リ シ タ ン 類 族 研 究 に つ い て は、 大 正 十五年に曽川寿吉氏が自著﹃讃岐通史﹄第九章﹁讃岐に於けるキ リ ス ト 教 の 禁 止 ﹂ で、 ﹁讃 岐 は キ リ ス ト 教 を 如 何 に し て 禁 止 し た か。著者が県内で調査したものに依ると、大略次の四種に分類す る事が出来る。一、寺請証文 二、宗門改 三、嘱託金 四、キ リシタン類族改、之には切支丹類族と転切支丹類族の二種類があ る﹂と記述し、キリシタン類族に初めて言及している ︵ 1 ︶ 。 一方、讃岐高松藩の﹃切支丹宗徒人名録﹄研究については、郷 土史家福家惣衛氏が昭和十二年に﹁織豊時代の四国殊に我が讃岐 に於ける切支丹宗流布概況﹂の第三篇餘論で、今後の研究題目と して﹁一、寺請証文の研究、二、宗門改帳の研究、三、嘱託金の 研 究 四、 切 支 丹 類 族 改 の 研 究、 五、 切 支 丹 宗 徒 人 名 録 の 研 究、 六、切支丹燈籠即ち織部燈籠の研究﹂をあげ、以上の研究は何れ 発表する機会のあることを信ずる、と結んでいる。この時期から 福家氏は、香川県内で初めて讃岐のキリシタン史についての総合 的な研究に行おうと構想していたことがわかる。そのためキリシ タン関係史料の収集にも関心を持って県内各地の史料調査を熱心 に行い、この時点で既に﹃切支丹宗徒人名録﹄の存在を明らかに している ︵ 2 ︶ 。福家氏のこれら一連の研究は、香川県における ﹃切 支丹宗徒人名録﹄研究の嚆矢といえる。 次いで松田毅一氏は、宣教師報告等の訳刊を数多く行うととも に、国内外のキリシタン史料を博捜し、それまで比較的史料の少 なかった四国のキリシタン史料を集めて昭和二八年に﹃キリシタ ン研究﹄第一部四国篇、第二部論攷篇を著し、地方のキリシタン 研究をそれまでの南蛮趣味的なものから史料に基づいた実証的な
四 代 松平頼桓 享 保 二 十 年 十 二 月 ∼ 元 文 四 年 九 月 卒 五 代 松平頼恭 元文四年九月∼明和八年七月卒 六 代 松平頼真 明和八年八月∼安永九年三月卒 七 代 松平頼起 安永九年四月∼寛政四年七月卒 八 代 松平頼儀 寛 政 四 年 九 月 ∼ 文 政 四 年 五 月 隠 居 ∼文政十二年八月卒 九 代 松平頼恕 文政四年五月∼天保十三年四月卒 十 代 松平頼胤 天 保 十 三 年 五 月 ∼ 文 久 元 年 七 月 隠 居∼明治十年十二月卒 十一 代 松平頼聰 文 久 元 年 七 月 ∼ 明 治 二 年 六 月 高 松 藩知事∼明治三六年十月卒 ︵二︶撰修の目的と筆録の経緯 ﹃切支丹宗徒人名録﹄は讃岐高松藩のキリシタン類族帳で、 ﹁巻 之上﹂ ﹁巻之下﹂ ﹁附録﹂の三冊から成り、讃岐高松藩におけるキ リシタン研究の基礎史料となっている。 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ の 撰 修 の 目 的 と 筆 録 の 経 緯 に つ い て は、 ﹁巻 之 上 ﹂ の 冒 頭 部 分 に あ る﹁切 支 丹 宗 徒 人 名 録 凡 例 ﹂ の 第 一 項 目 に 次 の よ う に 記 さ れ て い る。 ︵以 下、 翻 刻 文 は 原 則 と し て 松 田 毅一氏の﹃キリシタン研究﹄第一部四国篇に収載されている﹁讃 岐高松藩切支丹宗徒人名録﹂による。 ︶ 一、往昔切支丹宗旨を信せし者共の御邦内に居住せし類、大凡 奉行所切支丹帳面にて其事具れり。然れとも其人の子孫に 至るまでの始末を考るには、必夫々の帳面を比観せずんば あるべからず。されば考索の労少なからず、故に今右の帳 面を以て其人の居所・生死は云ふに及ばず、子孫之事を始 末連綿せしめ見易からんが為に此編を撰ふ。しかし、夫々 の原文全く挙記するときは、或事重復又は彼には委く此所 には略せるの類多し。却て考索の便りになりがたし。依て 原文を取捨し、専緊要の所を採て記之。 こ れ に よ る と、 ﹁高 松 藩 の 領 内 に 住 ん で い る 切 支 丹 及 び 転 切 支 丹のことについては、奉行所に保管されている切支丹帳面で大凡 のことはわかるが、子孫に至るまでの全体像を把握するためには それぞれの帳面を比べて観なければならない。そのため調べるの に 労 が 多 く、 切 支 丹 及 び 転 切 支 丹 の 住 所 や 生 死 は 云 う に 及 ば ず、 子 孫 の こ と を 全 部 初 め か ら 終 わ り ま で 続 け て 見 易 く す る た め に、 本編を撰修した。しかし、それぞれの原文全部を採り上げると重 複したり、略したものも多く、かえって不便である。よって原文 を取捨選択して、専ら大切な所だけを記録した﹂とある。 高松藩では、それまで領内に住むキリシタンや転びキリシタン のの研究については、昭和二八年に松田毅一氏が翻刻した際に指 摘 し た 点 以 上 の も の は、 そ の 後 な さ れ て い な い の が 現 状 で あ る。 また、讃岐高松藩のキリシタン類族研究についても関係史料の不 足から、讃岐高松藩における宗門改・類族改を中心としたキリシ タン禁制の展開過程と幕藩制秩序の形成過程の関係や、地域社会 におけるキリシタン及び転びキリシタン類族の実態究明という問 題については十分な解明がなされておらず、今後の個別研究課題 として残されている。 そこで本稿では、讃岐高松藩﹃切支丹宗徒人名録﹄の基礎的研 究として、これに関連した関係諸史料の吟味と内容の再検討など 基 礎 的 な 検 証 を 行 う と と も に、 讃 岐 高 松 藩 の﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録﹄の記述内容を分析することによって、讃岐高松藩におけるキ リシタン及び転びキリシタンの存在状況と摘発の実態、キリシタ ン禁制をめぐる幕藩関係の推移と変容、宗門改・類族改を中心と したキリシタン禁制の展開過程と幕藩制秩序の形成過程の一端を 明らかにしてみたい。 第一章 讃岐高松藩﹃切支丹宗徒人名録﹄の成立と伝来 第一節 ﹃切支丹宗徒人名録﹄の撰修目的と成立年代 ︵一︶讃岐高松藩 讃岐高松藩は徳川一門のいわゆる家門で、表高は十二万石であ る。 高 松 松 平 家 は 水 戸 徳 川 家 の 御 連 枝 で 江 戸 城 中 溜 間 詰 の 家 格、 官職は従四位下侍従兼讃岐守に叙任されるなど、幕府から格別の 待遇を受け重くみられていた家柄である。特に初代藩主松平頼重 は水戸初代藩主徳川頼房の長子で、家康の孫にもあたっていたの で、幕府の信も厚く、かつ水戸徳川家と高松松平家とは本藩と支 藩にも似た関係があって交流も深かった。讃岐高松藩の政治や文 化 に つ い て は、 先 学 の 研 究 に 拠 ら れ た い ︵ 7 ︶ 。 こ こ で は 歴 代 藩 主 の在任期間等を示すのみとする。 歴代藩主 氏 名 在任期間等 初 代 松平頼重 寛 永 十 九 年 二 月 ∼ 延 宝 元 年 二 月 隠 居∼元禄八年四月卒 二 代 松平頼常 延 宝 元 年 二 月 ∼ 宝 永 元 年 二 月 隠 居 ∼宝永元年四月卒 三 代 松平頼豊 宝永元年二月∼享保二十年七月卒
四 代 松平頼桓 享 保 二 十 年 十 二 月 ∼ 元 文 四 年 九 月 卒 五 代 松平頼恭 元文四年九月∼明和八年七月卒 六 代 松平頼真 明和八年八月∼安永九年三月卒 七 代 松平頼起 安永九年四月∼寛政四年七月卒 八 代 松平頼儀 寛 政 四 年 九 月 ∼ 文 政 四 年 五 月 隠 居 ∼文政十二年八月卒 九 代 松平頼恕 文政四年五月∼天保十三年四月卒 十 代 松平頼胤 天 保 十 三 年 五 月 ∼ 文 久 元 年 七 月 隠 居∼明治十年十二月卒 十一 代 松平頼聰 文 久 元 年 七 月 ∼ 明 治 二 年 六 月 高 松 藩知事∼明治三六年十月卒 ︵二︶撰修の目的と筆録の経緯 ﹃切支丹宗徒人名録﹄は讃岐高松藩のキリシタン類族帳で、 ﹁巻 之上﹂ ﹁巻之下﹂ ﹁附録﹂の三冊から成り、讃岐高松藩におけるキ リシタン研究の基礎史料となっている。 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ の 撰 修 の 目 的 と 筆 録 の 経 緯 に つ い て は、 ﹁巻 之 上 ﹂ の 冒 頭 部 分 に あ る﹁切 支 丹 宗 徒 人 名 録 凡 例 ﹂ の 第 一 項 目 に 次 の よ う に 記 さ れ て い る。 ︵以 下、 翻 刻 文 は 原 則 と し て 松 田 毅一氏の﹃キリシタン研究﹄第一部四国篇に収載されている﹁讃 岐高松藩切支丹宗徒人名録﹂による。 ︶ 一、往昔切支丹宗旨を信せし者共の御邦内に居住せし類、大凡 奉行所切支丹帳面にて其事具れり。然れとも其人の子孫に 至るまでの始末を考るには、必夫々の帳面を比観せずんば あるべからず。されば考索の労少なからず、故に今右の帳 面を以て其人の居所・生死は云ふに及ばず、子孫之事を始 末連綿せしめ見易からんが為に此編を撰ふ。しかし、夫々 の原文全く挙記するときは、或事重復又は彼には委く此所 には略せるの類多し。却て考索の便りになりがたし。依て 原文を取捨し、専緊要の所を採て記之。 こ れ に よ る と、 ﹁高 松 藩 の 領 内 に 住 ん で い る 切 支 丹 及 び 転 切 支 丹のことについては、奉行所に保管されている切支丹帳面で大凡 のことはわかるが、子孫に至るまでの全体像を把握するためには それぞれの帳面を比べて観なければならない。そのため調べるの に 労 が 多 く、 切 支 丹 及 び 転 切 支 丹 の 住 所 や 生 死 は 云 う に 及 ば ず、 子 孫 の こ と を 全 部 初 め か ら 終 わ り ま で 続 け て 見 易 く す る た め に、 本編を撰修した。しかし、それぞれの原文全部を採り上げると重 複したり、略したものも多く、かえって不便である。よって原文 を取捨選択して、専ら大切な所だけを記録した﹂とある。 高松藩では、それまで領内に住むキリシタンや転びキリシタン のの研究については、昭和二八年に松田毅一氏が翻刻した際に指 摘 し た 点 以 上 の も の は、 そ の 後 な さ れ て い な い の が 現 状 で あ る。 また、讃岐高松藩のキリシタン類族研究についても関係史料の不 足から、讃岐高松藩における宗門改・類族改を中心としたキリシ タン禁制の展開過程と幕藩制秩序の形成過程の関係や、地域社会 におけるキリシタン及び転びキリシタン類族の実態究明という問 題については十分な解明がなされておらず、今後の個別研究課題 として残されている。 そこで本稿では、讃岐高松藩﹃切支丹宗徒人名録﹄の基礎的研 究として、これに関連した関係諸史料の吟味と内容の再検討など 基 礎 的 な 検 証 を 行 う と と も に、 讃 岐 高 松 藩 の﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録﹄の記述内容を分析することによって、讃岐高松藩におけるキ リシタン及び転びキリシタンの存在状況と摘発の実態、キリシタ ン禁制をめぐる幕藩関係の推移と変容、宗門改・類族改を中心と したキリシタン禁制の展開過程と幕藩制秩序の形成過程の一端を 明らかにしてみたい。 第一章 讃岐高松藩﹃切支丹宗徒人名録﹄の成立と伝来 第一節 ﹃切支丹宗徒人名録﹄の撰修目的と成立年代 ︵一︶讃岐高松藩 讃岐高松藩は徳川一門のいわゆる家門で、表高は十二万石であ る。 高 松 松 平 家 は 水 戸 徳 川 家 の 御 連 枝 で 江 戸 城 中 溜 間 詰 の 家 格、 官職は従四位下侍従兼讃岐守に叙任されるなど、幕府から格別の 待遇を受け重くみられていた家柄である。特に初代藩主松平頼重 は水戸初代藩主徳川頼房の長子で、家康の孫にもあたっていたの で、幕府の信も厚く、かつ水戸徳川家と高松松平家とは本藩と支 藩にも似た関係があって交流も深かった。讃岐高松藩の政治や文 化 に つ い て は、 先 学 の 研 究 に 拠 ら れ た い ︵ 7 ︶ 。 こ こ で は 歴 代 藩 主 の在任期間等を示すのみとする。 歴代藩主 氏 名 在任期間等 初 代 松平頼重 寛 永 十 九 年 二 月 ∼ 延 宝 元 年 二 月 隠 居∼元禄八年四月卒 二 代 松平頼常 延 宝 元 年 二 月 ∼ 宝 永 元 年 二 月 隠 居 ∼宝永元年四月卒 三 代 松平頼豊 宝永元年二月∼享保二十年七月卒
と考えられる。 ︵三︶成立年代 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ の 撰 修 年 代 に つ い て は 直 接 記 さ れ て い な い た め、 正 確 な 年 代 は わ か ら な い が、 ﹁凡 例 ﹂ に﹁一、 此 撰 は 寛 永年中より今茲文化二年までの記事を撰ぶ故に類族諸帳面を以て 記之﹂と記されており、文化二年︵一八〇五︶までの類族帳の記 事 を 当 該 年 に 撰 修 し た も の と 考 え ら れ る ︵ 9 ︶ 。 因 み に、 ﹁切 支 丹 宗 徒人名録 巻之上﹂は寛永から安永五年︵一七七六︶八月廿七日 に 市 右 衛 門 族 の 権 次 郎 が 病 死 し た 記 事 ま で 記 載 さ れ て お り、 ﹁切 支丹宗徒人名録 巻之下﹂は寛永から享和二年︵一八〇二︶十月 に 喜 斎 族 の 脇 坂 玄 翁 が 剃 髪 し た 記 事 ま で 記 載 さ れ て い る。 ま た ﹁切 支 丹 宗 徒 人 名 録 附 録 ﹂ は 寛 永 か ら 元 文 四 年︵一 七 三 九 ︶ 五 月二日に勘十郎族のみやが病死した記事まで記載されている。 かつて高松藩初代藩主松平頼重の時代には町奉行所にキリシタ ン関係の帳面が保管されており、そこからキリシタン関係記事を ﹃英 公 実 録 ﹄ に 撰 修 し た 実 績 が あ る。 同 時 期 に 岡 山 藩 で も 命 令 に より﹃備前国吉利支丹帳﹄を作成して幕府の宗門改役に提出して いるので、高松藩でもこうしたキリシタン類族帳を作成していた 可能性はある ︵ 10︶。例えば、明暦四年 ︵一六五八︶ 六月十六日の ﹁吉 利支丹出申國所之覚﹂ ︵ 11︶には、次のように報告されている。 松 平 右 京 大 夫 領 分︵頼 常 ︶ 高 松 ヨ リ 宗 門 多 出 申 候、 内 侍 一 両 人モ出申候。 その後、延宝元年︵一六七三︶に幕府は諸大名に対して、検索 中のキリシタン及び転びキリシタンについて、その親類縁者の詳 し い 内 容 を 提 出 す る よ う 命 じ て い る ︵ 12︶。 高 松 藩 の キ リ シ タ ン 類 族帳である﹃切支丹宗徒人名録﹄の起筆時期が、延宝三年にはじ まっていることとも関連がありそうである。そこで幕府が元禄六 年︵一六九三︶に類族改制度を改定し、享保九年︵一七二四︶に は類族の範囲を定めるなどしたのに伴い、延宝元年で止まってい たキリシタン及び転びキリシタン類族の記事について、高松藩で は新たに関係書類を整理する必要が生じたため、文化二年に改め て寛永年間からのキリシタン及び転びキリシタン関係記事をまと め る こ と に な っ た も の と 推 測 さ れ る ︵ 13︶。 文 化 二 年 当 時 の 高 松 藩 主は第八代松平頼儀で、切支丹奉行は長尾平太と嶋辰樹であった と推定される。 第二節 ﹃切支丹宗徒人名録﹄の伝来 ︵一︶原本と撰修の原文 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ の 原 本 は、 文 化 二 年 に 高 松 藩 の キ リ シ タ ン行政担当部署であった切支丹奉行所が中心となって、奉行所に 類族のことについては、奉行所にある切支丹帳面を見ればわかっ ていたが、その子孫との繋がりや関係性についてはそれぞれの帳 面 を 見 比 べ て 調 べ な け れ ば な ら ず 大 変 不 便 で あ っ た の で、 行 政 上、それらの類族を族ごとにまとめる必要性が生じて、この﹃切 支丹宗徒人名録﹄を撰修したというのである。つまり、高松藩で は、これまで幕府の法令に従ってキリシタン及び転びキリシタン 類族関係書類を個別に作成していたが、複雑なキリシタン類族関 係のより的確な把握のために、奉行所が中心となって寛永年間か ら文化二年までのキリシタン類族関係書類の整理を行ったものと 考えられる。 ﹁凡例﹂の第四項目には、次のような記載がある。 一、英公漢文実録に町奉行所切支丹帳面を以て類族の事を記せ り。但延宝元年に止れり。此撰は寛永年中より今茲文化二 年までの記事を撰ぶ故に類族諸帳面を以て記之。 小豆嶋類族帳之由小豆嶋転切支丹類族帳面御収被遊候諸 事覚書帳などを考るに御領内志度浦転切支丹市右衛門娘小 豆嶋に罷在候百姓五郎右衛門妻かめ義、先年公儀より其所 へ御預に相成候節、何の御取扱にも不及候所、向後者右之 者御取扱可有之候様、元禄六酉年藤堂伊予守殿御指図有之 に、 今 諸 事 御 届 等 有 之 候 に 付 本 編 父 市 右 衛 門 族 中 に 出 す。 其余小豆嶋類族の者これを附録す。 これには﹁ ︵高松藩では、 ︶寛永十九年︵一六四二︶から松平頼 重が隠居する延宝元年︵一六七三︶二月十九日までの間、町奉行 所にある切支丹帳面の中から類族関係記事を抜き出して﹃英公実 録 ﹄ に 記 録 し て い た が、 こ の 撰 修 本 は、 寛 永 年 間︵一 六 二 四 ∼ 一六四三︶から文化二年︵一八〇五︶までの切支丹類族諸帳面か ら記事を撰んで記録した。高松藩領内志度浦の転切支丹市右衛門 の娘かめが小豆島の百姓五郎右衛門の妻になって、公儀からその 所へ御預けとなっていたが、元禄六年︵一六九三︶に大目付藤堂 伊予守から類族の取り扱いについての﹁御指図﹂があり、届けを 出 し て 本 編 の 父 市 右 衛 門 族 の 中 に 位 置 付 け ら れ た。 ︵そ こ で ︶ そ の他の小豆島関係の類族を記した附録が作成された﹂とある。 ﹃英 公 実 録 ﹄ の 撰 修 の 際 に は、 町 奉 行 所 の 文 書 庫︵町 奉 行 所 が 業務遂行上作成した民政関係諸帳簿・覚書類を保管していた︶に 保管されていた切支丹帳面を実際に見て筆写しており、高松藩初 代 藩 主 松 平 頼 重 の 業 績 を 記 し た﹃英 公 実 録 ﹄ ︵ 8 ︶ の 中 に は、 町 奉 行所の切支丹帳面から採ったとされるキリシタン関係記事が散見 さ れ、 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ の﹁凡 例 ﹂ 記 事 を 裏 付 け て い る。 小 豆島の類族については、幕府宗門改役の指示があって小豆島の類 族関係者を記載する必要が生じたので﹁附録﹂が追加されたもの
と考えられる。 ︵三︶成立年代 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ の 撰 修 年 代 に つ い て は 直 接 記 さ れ て い な い た め、 正 確 な 年 代 は わ か ら な い が、 ﹁凡 例 ﹂ に﹁一、 此 撰 は 寛 永年中より今茲文化二年までの記事を撰ぶ故に類族諸帳面を以て 記之﹂と記されており、文化二年︵一八〇五︶までの類族帳の記 事 を 当 該 年 に 撰 修 し た も の と 考 え ら れ る ︵ 9 ︶ 。 因 み に、 ﹁切 支 丹 宗 徒人名録 巻之上﹂は寛永から安永五年︵一七七六︶八月廿七日 に 市 右 衛 門 族 の 権 次 郎 が 病 死 し た 記 事 ま で 記 載 さ れ て お り、 ﹁切 支丹宗徒人名録 巻之下﹂は寛永から享和二年︵一八〇二︶十月 に 喜 斎 族 の 脇 坂 玄 翁 が 剃 髪 し た 記 事 ま で 記 載 さ れ て い る。 ま た ﹁切 支 丹 宗 徒 人 名 録 附 録 ﹂ は 寛 永 か ら 元 文 四 年︵一 七 三 九 ︶ 五 月二日に勘十郎族のみやが病死した記事まで記載されている。 かつて高松藩初代藩主松平頼重の時代には町奉行所にキリシタ ン関係の帳面が保管されており、そこからキリシタン関係記事を ﹃英 公 実 録 ﹄ に 撰 修 し た 実 績 が あ る。 同 時 期 に 岡 山 藩 で も 命 令 に より﹃備前国吉利支丹帳﹄を作成して幕府の宗門改役に提出して いるので、高松藩でもこうしたキリシタン類族帳を作成していた 可能性はある ︵ 10︶。例えば、明暦四年 ︵一六五八︶ 六月十六日の ﹁吉 利支丹出申國所之覚﹂ ︵ 11︶には、次のように報告されている。 松 平 右 京 大 夫 領 分︵頼 常 ︶ 高 松 ヨ リ 宗 門 多 出 申 候、 内 侍 一 両 人モ出申候。 その後、延宝元年︵一六七三︶に幕府は諸大名に対して、検索 中のキリシタン及び転びキリシタンについて、その親類縁者の詳 し い 内 容 を 提 出 す る よ う 命 じ て い る ︵ 12︶。 高 松 藩 の キ リ シ タ ン 類 族帳である﹃切支丹宗徒人名録﹄の起筆時期が、延宝三年にはじ まっていることとも関連がありそうである。そこで幕府が元禄六 年︵一六九三︶に類族改制度を改定し、享保九年︵一七二四︶に は類族の範囲を定めるなどしたのに伴い、延宝元年で止まってい たキリシタン及び転びキリシタン類族の記事について、高松藩で は新たに関係書類を整理する必要が生じたため、文化二年に改め て寛永年間からのキリシタン及び転びキリシタン関係記事をまと め る こ と に な っ た も の と 推 測 さ れ る ︵ 13︶。 文 化 二 年 当 時 の 高 松 藩 主は第八代松平頼儀で、切支丹奉行は長尾平太と嶋辰樹であった と推定される。 第二節 ﹃切支丹宗徒人名録﹄の伝来 ︵一︶原本と撰修の原文 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ の 原 本 は、 文 化 二 年 に 高 松 藩 の キ リ シ タ ン行政担当部署であった切支丹奉行所が中心となって、奉行所に 類族のことについては、奉行所にある切支丹帳面を見ればわかっ ていたが、その子孫との繋がりや関係性についてはそれぞれの帳 面 を 見 比 べ て 調 べ な け れ ば な ら ず 大 変 不 便 で あ っ た の で、 行 政 上、それらの類族を族ごとにまとめる必要性が生じて、この﹃切 支丹宗徒人名録﹄を撰修したというのである。つまり、高松藩で は、これまで幕府の法令に従ってキリシタン及び転びキリシタン 類族関係書類を個別に作成していたが、複雑なキリシタン類族関 係のより的確な把握のために、奉行所が中心となって寛永年間か ら文化二年までのキリシタン類族関係書類の整理を行ったものと 考えられる。 ﹁凡例﹂の第四項目には、次のような記載がある。 一、英公漢文実録に町奉行所切支丹帳面を以て類族の事を記せ り。但延宝元年に止れり。此撰は寛永年中より今茲文化二 年までの記事を撰ぶ故に類族諸帳面を以て記之。 小豆嶋類族帳之由小豆嶋転切支丹類族帳面御収被遊候諸 事覚書帳などを考るに御領内志度浦転切支丹市右衛門娘小 豆嶋に罷在候百姓五郎右衛門妻かめ義、先年公儀より其所 へ御預に相成候節、何の御取扱にも不及候所、向後者右之 者御取扱可有之候様、元禄六酉年藤堂伊予守殿御指図有之 に、 今 諸 事 御 届 等 有 之 候 に 付 本 編 父 市 右 衛 門 族 中 に 出 す。 其余小豆嶋類族の者これを附録す。 これには﹁ ︵高松藩では、 ︶寛永十九年︵一六四二︶から松平頼 重が隠居する延宝元年︵一六七三︶二月十九日までの間、町奉行 所にある切支丹帳面の中から類族関係記事を抜き出して﹃英公実 録 ﹄ に 記 録 し て い た が、 こ の 撰 修 本 は、 寛 永 年 間︵一 六 二 四 ∼ 一六四三︶から文化二年︵一八〇五︶までの切支丹類族諸帳面か ら記事を撰んで記録した。高松藩領内志度浦の転切支丹市右衛門 の娘かめが小豆島の百姓五郎右衛門の妻になって、公儀からその 所へ御預けとなっていたが、元禄六年︵一六九三︶に大目付藤堂 伊予守から類族の取り扱いについての﹁御指図﹂があり、届けを 出 し て 本 編 の 父 市 右 衛 門 族 の 中 に 位 置 付 け ら れ た。 ︵そ こ で ︶ そ の他の小豆島関係の類族を記した附録が作成された﹂とある。 ﹃英 公 実 録 ﹄ の 撰 修 の 際 に は、 町 奉 行 所 の 文 書 庫︵町 奉 行 所 が 業務遂行上作成した民政関係諸帳簿・覚書類を保管していた︶に 保管されていた切支丹帳面を実際に見て筆写しており、高松藩初 代 藩 主 松 平 頼 重 の 業 績 を 記 し た﹃英 公 実 録 ﹄ ︵ 8 ︶ の 中 に は、 町 奉 行所の切支丹帳面から採ったとされるキリシタン関係記事が散見 さ れ、 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ の﹁凡 例 ﹂ 記 事 を 裏 付 け て い る。 小 豆島の類族については、幕府宗門改役の指示があって小豆島の類 族関係者を記載する必要が生じたので﹁附録﹂が追加されたもの
を書くケーズが多いが、この撰修本の場合には書かれていない。 ︵二︶写本の伝来と経緯 現 在、 高 松 市 歴 史 資 料 館 が 所 蔵 し て い る﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ の写本は、もと福家惣衛氏が所蔵していたものを、昭和四六年一 月二六日に高松市立図書館︵現高松市中央図書館︶が他のキリシ タ ン 関 係 文 書 と と も に 購 入 し た も の で あ る。 事 実、 ﹃切 支 丹 宗 徒 人名録 巻之上﹄の二丁裏には﹁高松市立図書館/昭和 4 6 ・ 1 ・ 2 6 /和第 42 0 1 6 号﹂の受付印が捺されている。その後、平 成六年三月十五日には新しく設立された高松市歴史資料館に移館 され、現在に至っている。 昭和四六年一月二六日に高松市立図書館が福家惣衛氏から購入 した古文書・絵図・書籍類は一五〇冊で、その中には切支丹宗徒 人 名 録︵巻 之 上・ 巻 之 下・ 附 録 三 冊 ︶・ 讃 岐 国 切 支 丹 宗 門 御 改 帳 ︵二 〇 冊 ︶・ 高 松 藩 法 令 及 松 平 家 系 譜・ 生 駒 家 始 末 記︵生 駒 記 ︶・ 三浦市右衛門覚書・三代物語一∼五・高松東浜鳥屋御用留帳・御 領分中宮由来・寺々由来・闘諍秘記一∼五・全讃史・金毘羅参詣 名 所 図 会 一 ∼ 六・ 塩 飽 文 書・ 万 留︵七 冊 ︶・ 生 駒 家 時 代 讃 岐 高 松 城 屋 敷 割 図・ 讃 岐 国 高 松 城 図︵寛 永 十 七 年 ︶・ 丸 亀 城 図 屋 敷 割 図 ︵伝元禄時代︶ ・丸亀城藩主屋舖図・丸亀城内御殿略図︵原図堀 田璋左右、宮西甚兵衛、昭和十六年四月写、福家惣衛昭和二六年 一 月 八 日 写 し ︶・ 讃 岐 国 往 還 絵 図 一 ∼ 七・ そ の 他 県 内 各 郡 町 村 史 などがある。 しかし、福家惣衛氏がどのようにして﹃切支丹宗徒人名録﹄を 所蔵するに至ったかは不明であるが、何らかの形で旧所蔵者から 購入したか、あるいは他者を経て収集されたかは分らない。 福家氏が購入あるいは収集された時点で新たに表装し直し、そ のとき同時に﹁切支丹宗徒人名録上﹂等の外題をつけたのではな い か と 思 わ れ る。 ま た、 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ と 同 じ 表 装 が、 寛 永 二 一 年 正 月 吉 日 付 け の﹁宇 足 郡 坂 本 郷 吉 利 支 丹 宗 門 御 改 帳 ﹂、 同 日 付 け の﹁宇 足 郡 坂 本 郷 吉 利 支 丹 御 改 帳 ﹂、 寛 永 二 一 年 二 月 吉 日付けの﹁宇足郡坂本之郷さる引吉利支丹御改帳﹂にも施されて いるので、これら六冊のキリシタン関係文書・記録は同じ時期に 福家氏の手元にあったものと推測される。福家氏が如何に讃岐の キリシタン史に強い関心をもっていたかを表す証拠でもある。こ の う ち、 寛 永 二 一 年 正 月 吉 日 の﹁宇 足 郡 坂 本 郷 吉 利 支 丹 御 改 帳 ﹂ に は﹁大 正 十 三 年 四 月 綾 歌 郡 坂 本 村 三 谷 宣 三 氏 蔵 ノ 記 録 ヲ 写 ス ﹂ と 朱 書 さ れ て い る の で、 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ も 同 時 期 に 写 された可能性はある ︵ 16︶。 ︵三︶写本の現状 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ の 写 本 は、 現 在、 高 松 市 歴 史 資 料 館 に 所 保管されていた五帖の切支丹諸帳面を撰修したもので、藩の文書 庫に保存されていたものと推測される。しかし、長らく松平家に 所蔵されていた﹃切支丹宗徒人名録﹄の原本も戦災のため他の藩 政史料とともに烏有に帰したとされている。現在、その内容は高 松市歴史資料館に所蔵されている旧福家惣衛所蔵の写本によって のみ知ることができる。 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ 撰 修 の 原 文 と な っ た 五 帖 と は、 切 支 丹 改 帳、転切支丹類族出生・剃髪・縁組・居所替名替扣帳、転切支丹 類族在命帳、転切支丹類族死失帳、転切支丹類族存命帳の五つで ある。通常、これらの切支丹及び転切支丹類族の動静に関する文 書は、領内各町・各郡村の町年寄・庄屋から町奉行・郡奉行を経 由して切支丹奉行に提出された後、家老を経て藩主に提出され承 認されたもので、その後江戸藩邸に送られ、江戸家老・留守居役 を 経 て 藩 主 両 判︵印 判・ 書 判 ︶ を 捺 し た 大 名 宗 旨 証 文 と と も に、 幕府宗門改役に提出されたと思われる。その際、担当の事務方で は そ れ ら の 記 録 保 存 に 当 た っ て い た の で、 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ もこのような経過で作成され、藩の役所に保管されていたものと 考えられる ︵ 14︶。 高松藩の切支丹改帳については、寛永元年︵一六二四︶の﹁三 木郡池戸郷吉利支丹御改帳﹂から寛文四年︵一六六四︶辰三月弐 拾三日付けの ﹁宇足郡直時村吉利支丹御改帳﹂ までは ﹁吉利支丹﹂ と表記され、明和五年︵一七六八︶三月五日付けの﹁鵜足郡内川 原村切支丹宗門御改牢人帳﹂ になると ﹁切支丹﹂ に変わっている。 高松藩において﹁吉利支丹﹂から﹁切支丹﹂に表記が変わった転 機は、元禄六年︵一六九三︶六月七日付けの﹁切支丹類族町方預 り御改書上﹂ ︵ 15︶からではないかと推定される。 切支丹類族届については、キリシタン類族に出生 ・ 縁組婚儀伺 ・ 養子・遁世・欠落・病死・変死・死罪・寺宗旨替・名苗字改・居 所替・離別・養子義絶・追放の十四項目に該当することが起こっ た場合には、幕府宗門改役へ届けることになっていた。また、転 切支丹類族在命帳と死失帳については、毎年二回︵七月 ・ 十二月︶ 報告義務があり、転切支丹類族在命帳には他領他所に在命中の切 支丹類族も記載されることになっていた。 これらの撰修の原文となった五帖の切支丹諸帳面は、村明細帳 の作成の際にも使われ、土庄町旧大鐸村役場所蔵の﹁肥土山村諸 色 差 出 明 細 帳 ﹂ に み ら れ る 切 支 丹 類 族 の 数 が﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 附 録 ﹄ に 記 載 さ れ た 切 支 丹 類 族 の 数 と 一 致 す る と こ ろ か ら、 ﹃切支丹宗徒人名録﹄原本の徴証とされている。 通常、写本であれば、 ﹁真跡ヲ以テ写ス﹂ ﹁写取候﹂ などと傍書 ・ 注記されたり、巻末に書写者などがその本の伝来等について奥書
を書くケーズが多いが、この撰修本の場合には書かれていない。 ︵二︶写本の伝来と経緯 現 在、 高 松 市 歴 史 資 料 館 が 所 蔵 し て い る﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ の写本は、もと福家惣衛氏が所蔵していたものを、昭和四六年一 月二六日に高松市立図書館︵現高松市中央図書館︶が他のキリシ タ ン 関 係 文 書 と と も に 購 入 し た も の で あ る。 事 実、 ﹃切 支 丹 宗 徒 人名録 巻之上﹄の二丁裏には﹁高松市立図書館/昭和 4 6 ・ 1 ・ 2 6 /和第 42 0 1 6 号﹂の受付印が捺されている。その後、平 成六年三月十五日には新しく設立された高松市歴史資料館に移館 され、現在に至っている。 昭和四六年一月二六日に高松市立図書館が福家惣衛氏から購入 した古文書・絵図・書籍類は一五〇冊で、その中には切支丹宗徒 人 名 録︵巻 之 上・ 巻 之 下・ 附 録 三 冊 ︶・ 讃 岐 国 切 支 丹 宗 門 御 改 帳 ︵二 〇 冊 ︶・ 高 松 藩 法 令 及 松 平 家 系 譜・ 生 駒 家 始 末 記︵生 駒 記 ︶・ 三浦市右衛門覚書・三代物語一∼五・高松東浜鳥屋御用留帳・御 領分中宮由来・寺々由来・闘諍秘記一∼五・全讃史・金毘羅参詣 名 所 図 会 一 ∼ 六・ 塩 飽 文 書・ 万 留︵七 冊 ︶・ 生 駒 家 時 代 讃 岐 高 松 城 屋 敷 割 図・ 讃 岐 国 高 松 城 図︵寛 永 十 七 年 ︶・ 丸 亀 城 図 屋 敷 割 図 ︵伝元禄時代︶ ・丸亀城藩主屋舖図・丸亀城内御殿略図︵原図堀 田璋左右、宮西甚兵衛、昭和十六年四月写、福家惣衛昭和二六年 一 月 八 日 写 し ︶・ 讃 岐 国 往 還 絵 図 一 ∼ 七・ そ の 他 県 内 各 郡 町 村 史 などがある。 しかし、福家惣衛氏がどのようにして﹃切支丹宗徒人名録﹄を 所蔵するに至ったかは不明であるが、何らかの形で旧所蔵者から 購入したか、あるいは他者を経て収集されたかは分らない。 福家氏が購入あるいは収集された時点で新たに表装し直し、そ のとき同時に﹁切支丹宗徒人名録上﹂等の外題をつけたのではな い か と 思 わ れ る。 ま た、 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ と 同 じ 表 装 が、 寛 永 二 一 年 正 月 吉 日 付 け の﹁宇 足 郡 坂 本 郷 吉 利 支 丹 宗 門 御 改 帳 ﹂、 同 日 付 け の﹁宇 足 郡 坂 本 郷 吉 利 支 丹 御 改 帳 ﹂、 寛 永 二 一 年 二 月 吉 日付けの﹁宇足郡坂本之郷さる引吉利支丹御改帳﹂にも施されて いるので、これら六冊のキリシタン関係文書・記録は同じ時期に 福家氏の手元にあったものと推測される。福家氏が如何に讃岐の キリシタン史に強い関心をもっていたかを表す証拠でもある。こ の う ち、 寛 永 二 一 年 正 月 吉 日 の﹁宇 足 郡 坂 本 郷 吉 利 支 丹 御 改 帳 ﹂ に は﹁大 正 十 三 年 四 月 綾 歌 郡 坂 本 村 三 谷 宣 三 氏 蔵 ノ 記 録 ヲ 写 ス ﹂ と 朱 書 さ れ て い る の で、 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ も 同 時 期 に 写 された可能性はある ︵ 16︶。 ︵三︶写本の現状 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ の 写 本 は、 現 在、 高 松 市 歴 史 資 料 館 に 所 保管されていた五帖の切支丹諸帳面を撰修したもので、藩の文書 庫に保存されていたものと推測される。しかし、長らく松平家に 所蔵されていた﹃切支丹宗徒人名録﹄の原本も戦災のため他の藩 政史料とともに烏有に帰したとされている。現在、その内容は高 松市歴史資料館に所蔵されている旧福家惣衛所蔵の写本によって のみ知ることができる。 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ 撰 修 の 原 文 と な っ た 五 帖 と は、 切 支 丹 改 帳、転切支丹類族出生・剃髪・縁組・居所替名替扣帳、転切支丹 類族在命帳、転切支丹類族死失帳、転切支丹類族存命帳の五つで ある。通常、これらの切支丹及び転切支丹類族の動静に関する文 書は、領内各町・各郡村の町年寄・庄屋から町奉行・郡奉行を経 由して切支丹奉行に提出された後、家老を経て藩主に提出され承 認されたもので、その後江戸藩邸に送られ、江戸家老・留守居役 を 経 て 藩 主 両 判︵印 判・ 書 判 ︶ を 捺 し た 大 名 宗 旨 証 文 と と も に、 幕府宗門改役に提出されたと思われる。その際、担当の事務方で は そ れ ら の 記 録 保 存 に 当 た っ て い た の で、 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ もこのような経過で作成され、藩の役所に保管されていたものと 考えられる ︵ 14︶。 高松藩の切支丹改帳については、寛永元年︵一六二四︶の﹁三 木郡池戸郷吉利支丹御改帳﹂から寛文四年︵一六六四︶辰三月弐 拾三日付けの ﹁宇足郡直時村吉利支丹御改帳﹂ までは ﹁吉利支丹﹂ と表記され、明和五年︵一七六八︶三月五日付けの﹁鵜足郡内川 原村切支丹宗門御改牢人帳﹂ になると ﹁切支丹﹂ に変わっている。 高松藩において﹁吉利支丹﹂から﹁切支丹﹂に表記が変わった転 機は、元禄六年︵一六九三︶六月七日付けの﹁切支丹類族町方預 り御改書上﹂ ︵ 15︶からではないかと推定される。 切支丹類族届については、キリシタン類族に出生 ・ 縁組婚儀伺 ・ 養子・遁世・欠落・病死・変死・死罪・寺宗旨替・名苗字改・居 所替・離別・養子義絶・追放の十四項目に該当することが起こっ た場合には、幕府宗門改役へ届けることになっていた。また、転 切支丹類族在命帳と死失帳については、毎年二回︵七月 ・ 十二月︶ 報告義務があり、転切支丹類族在命帳には他領他所に在命中の切 支丹類族も記載されることになっていた。 これらの撰修の原文となった五帖の切支丹諸帳面は、村明細帳 の作成の際にも使われ、土庄町旧大鐸村役場所蔵の﹁肥土山村諸 色 差 出 明 細 帳 ﹂ に み ら れ る 切 支 丹 類 族 の 数 が﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 附 録 ﹄ に 記 載 さ れ た 切 支 丹 類 族 の 数 と 一 致 す る と こ ろ か ら、 ﹃切支丹宗徒人名録﹄原本の徴証とされている。 通常、写本であれば、 ﹁真跡ヲ以テ写ス﹂ ﹁写取候﹂ などと傍書 ・ 注記されたり、巻末に書写者などがその本の伝来等について奥書
二丁表は白紙で、二丁裏から﹁切支丹宗徒人名録凡例﹂の記述が 始まっている。そしてその上部には﹁上 09 1 9 / K 1 / 1 ﹂、 下 部 に は﹁高 松 市 立 図 書 館 / 昭 4 6 ・ 1 ・ 2 6 和 / 第 4 2 0 1 6 号 ﹂ の 受 付 印 が 捺 さ れ て い る。 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 巻 之 上 ﹄ の 記 述 は 一 〇 〇 丁 表 の﹁長 右 衛 門 族 外 ﹂ の 記 述 で 終 わ り、 白 紙 の 一〇〇丁裏と一〇一丁表に次いで、最後の一〇一丁裏に﹁福家惣 衛之印﹂の蔵書朱印が捺されている。その後に裏表紙が付されて いる。 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 巻 之 下 ﹄ の 構 成 は、 ﹁切 支 丹 宗 徒 人 名 録 下 ﹂ の 外 題 が 貼 付 さ れ た 表 表 紙 を 開 け る と、 ﹁福 家 惣 衛 之 印 ﹂ の 蔵 書 朱 印 が 捺 さ れ た 一 丁 表 に 次 い で、 一 丁 裏 と 二 丁 表 は 白 紙 で、 三 丁 表 に は﹁切 支 丹 宗 徒 人 名 録 巻 之 下 ﹂ の 内 題 が 書 か れ て 内 容 の 記 述 が 始 ま っ て い る。 そ の 上 部 に は﹁下 0 9 1 9 / K 1 / 2 ﹂、 下 部 に は﹁高 松 市 立 図 書 館 / 昭 4 6 ・ 1 ・ 2 6 和 / 第 4 2 0 1 7 号 ﹂ の 受 付 印 が 捺 さ れ て い る。 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 巻 之 下 ﹄ の 内 容 記 述 は 一 二 七 丁 表 の﹁六 兵 衛 ﹂ の 記 述 で 終 わ り、 一二七丁裏から一二九丁表までの白紙に次いで、最後の一二九丁 裏には﹁福家惣衛之印﹂の蔵書朱印が捺されている。その後に裏 表紙が付されている。 ﹃ 切 支 丹 宗 徒 人 名 録 附 録 ﹄の 構 成 は 、﹁ 切 支 丹 宗 徒 人 名 録 附 録 ﹂ の 外 題 が 貼 付 さ れ た 表 表 紙 を 開 け る と 、﹁ 福 家 惣 衛 之 印 ﹂ の 蔵 書 朱印が捺された一丁表に次いで 、一丁裏と二丁表は白紙で 、三丁 表 か ら ﹁ 切 支 丹 宗 徒 人 名 録 附 録 目 録 ﹂ の 内 題 が あ り 内 容 の 記 述 が 始 ま っ て い る 。 そ の 上 部 に は ﹁ 下 0 9 1 9 / K 1 / 3 ﹂、 下 部 に は ﹁ 高 松 市 立 図 書 館 / 昭 4 6 ・ 1 ・ 2 6 和 / 第 4 2 0 1 8 号 ﹂ の 受 付 印 が 捺 さ れ て い る 。﹃ 切 支 丹 宗 徒 人 名 録 附 録 ﹄ の 記 述 は 六 四 丁 裏 の ﹁ 三 郎 太 夫 妻 ﹂ の 記 述 で 終 わ り 、 六 五 丁 表 か ら 六 六 丁 表 ま で の 白 紙 に 次 い で 、 最 後 の 六 六 丁 裏 に は ﹁ 福 家 惣 衛 之 印 ﹂ の 蔵 書 朱 印 が 捺 さ れ て い る 。 そ の 後 に 裏 表 紙 が 付 さ れ て い る 。 第三節 福家惣衛氏と﹃切支丹宗徒人名録﹄ ︵一︶福家惣衛氏の経歴 福家惣衛︵ふけ・そうえ︶氏は、明治十七年︵一八八四︶四月 十日に愛媛県讃岐国綾歌郡滝宮村で生まれ、同三十八年三月に香 川県師範学校を卒業して滝宮高等小学校訓導となった。稀代の勉 強家として知られ、教職のかたわら、明治三十九年文部相検定試 験修身科に合格し、続いて四十年教育科、四十一年法制経済科に もそれぞれ合格して、師範学校・中学校・高等女学校の教員免許 状 を 取 得 し て い る。 同 四 十 一 年 香 川 県 師 範 学 校 付 属 小 学 校 校 訓 導、同四十二年からは香川県師範学校教諭となり、以降十二年間 蔵されている。体裁は竪帳・墨書の和綴本で全三冊から成り、い ず れ も 四 つ 目 綴・ 袋 綴 で、 丁 数 は﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 巻 之 上 ﹄ が一〇一丁、 ﹃切支丹宗徒人名録 巻之下﹄が一二九丁、 ﹃切支丹 宗徒人名録 附録﹄が六六丁の合計二九六丁である。法量は三冊 とも ほぼ同規模で、縦が二七 ・ 〇センチメートル、横が一九 ・ 三セ ン チ メ ー ト ル あ る が、 厚 さ は、 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 巻 之 上 ﹄ が 一 ・ 六 セ ン チ メ ー ト ル、 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 巻 之 下 ﹄ が 二 ・ 〇 セ ンチメートル、 ﹃切支丹宗徒人名録 附録﹄が一 ・ 〇センチメート ル で あ る。 そ れ ぞ れ 本 の の ど 側 の 小 口 が 天 と 地 に 交 わ る 部 分 に は、茶色の角ぎれが施されている。いずれも保存状態は良好であ る。 高松市歴史資料館の収蔵資料管理システムには、次のように登 録されている。 ・ 番 号・ 指 定 区 分 w ・ 0 1 3 2 ― 0 1 ︵巻 之 上 ︶、 w ・ 0 1 3 2 ― 0 2 ︵巻之下︶ 、 w ・ 0 1 3 2 ― 03 ︵附録︶ ・材質 和紙 ・形態 竪帳・墨書 ・寸法 縦 2 7 ・ 0 c m 、横 1 9 ・ 3 c m 厚 手 の 表 紙 に は、 そ れ ぞ れ﹁切 支 丹 宗 徒 人 名 録 上 ﹂﹁切 支 丹 宗 徒 人 名 録 下 ﹂﹁切 支 丹 宗 徒 人 名 録 附 録 ﹂ の 外 題 が 書 か れ た 題 簽 が 貼られている。三冊目の冊子に﹁附録﹂という用語を使っている ところからみて、筆写者の意図は当初﹁巻之上﹂と﹁巻之下﹂に あって、これを本編とするつもりであったのが、元禄六年の藤堂 伊予守からの指図で小豆島関係の類族も取り上げる必要が生じて き た の で、 ﹁附 録 ﹂ と い う 形 で 別 冊 に し て 付 け 加 え ら れ た も の で あろう。 各 冊 と も に 一 丁 表 と 最 後 の 丁 裏 に ﹁ 福 家 惣 衛 之 印 ﹂ の 蔵 書 朱 印 ︵ 縦 三 ・ 五 セ ン チ メ ー ト ル 。 横 三 ・ 五 セ ン チ メ ー ト ル ︶ が 捺 さ れ て お り 、 写 本 成 立 以 後 、 福 家 惣 衛 氏 の 蔵 書 で あ っ た こ と を 示 し て い る 。 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 巻 之 上 ﹄ の 構 成 は、 ﹁切 支 丹 宗 徒 人 名 録 上 ﹂ の 外 題 が 貼 付 さ れ た 表 表 紙︵図 1 ︶ を 開 け る と、 ﹁福 家 惣 衛 之印﹂の蔵書朱印が捺された本料紙の一丁表に次いで、一丁裏と 図1 『切支丹宗徒人名録 巻之上』の表紙 � � � � � � � �� �
二丁表は白紙で、二丁裏から﹁切支丹宗徒人名録凡例﹂の記述が 始まっている。そしてその上部には﹁上 09 1 9 / K 1 / 1 ﹂、 下 部 に は﹁高 松 市 立 図 書 館 / 昭 4 6 ・ 1 ・ 2 6 和 / 第 4 2 0 1 6 号 ﹂ の 受 付 印 が 捺 さ れ て い る。 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 巻 之 上 ﹄ の 記 述 は 一 〇 〇 丁 表 の﹁長 右 衛 門 族 外 ﹂ の 記 述 で 終 わ り、 白 紙 の 一〇〇丁裏と一〇一丁表に次いで、最後の一〇一丁裏に﹁福家惣 衛之印﹂の蔵書朱印が捺されている。その後に裏表紙が付されて いる。 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 巻 之 下 ﹄ の 構 成 は、 ﹁切 支 丹 宗 徒 人 名 録 下 ﹂ の 外 題 が 貼 付 さ れ た 表 表 紙 を 開 け る と、 ﹁福 家 惣 衛 之 印 ﹂ の 蔵 書 朱 印 が 捺 さ れ た 一 丁 表 に 次 い で、 一 丁 裏 と 二 丁 表 は 白 紙 で、 三 丁 表 に は﹁切 支 丹 宗 徒 人 名 録 巻 之 下 ﹂ の 内 題 が 書 か れ て 内 容 の 記 述 が 始 ま っ て い る。 そ の 上 部 に は﹁下 0 9 1 9 / K 1 / 2 ﹂、 下 部 に は﹁高 松 市 立 図 書 館 / 昭 4 6 ・ 1 ・ 2 6 和 / 第 4 2 0 1 7 号 ﹂ の 受 付 印 が 捺 さ れ て い る。 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 巻 之 下 ﹄ の 内 容 記 述 は 一 二 七 丁 表 の﹁六 兵 衛 ﹂ の 記 述 で 終 わ り、 一二七丁裏から一二九丁表までの白紙に次いで、最後の一二九丁 裏には﹁福家惣衛之印﹂の蔵書朱印が捺されている。その後に裏 表紙が付されている。 ﹃ 切 支 丹 宗 徒 人 名 録 附 録 ﹄の 構 成 は 、﹁ 切 支 丹 宗 徒 人 名 録 附 録 ﹂ の 外 題 が 貼 付 さ れ た 表 表 紙 を 開 け る と 、﹁ 福 家 惣 衛 之 印 ﹂ の 蔵 書 朱印が捺された一丁表に次いで 、一丁裏と二丁表は白紙で 、三丁 表 か ら ﹁ 切 支 丹 宗 徒 人 名 録 附 録 目 録 ﹂ の 内 題 が あ り 内 容 の 記 述 が 始 ま っ て い る 。 そ の 上 部 に は ﹁ 下 0 9 1 9 / K 1 / 3 ﹂、 下 部 に は ﹁ 高 松 市 立 図 書 館 / 昭 4 6 ・ 1 ・ 2 6 和 / 第 4 2 0 1 8 号 ﹂ の 受 付 印 が 捺 さ れ て い る 。﹃ 切 支 丹 宗 徒 人 名 録 附 録 ﹄ の 記 述 は 六 四 丁 裏 の ﹁ 三 郎 太 夫 妻 ﹂ の 記 述 で 終 わ り 、 六 五 丁 表 か ら 六 六 丁 表 ま で の 白 紙 に 次 い で 、 最 後 の 六 六 丁 裏 に は ﹁ 福 家 惣 衛 之 印 ﹂ の 蔵 書 朱 印 が 捺 さ れ て い る 。 そ の 後 に 裏 表 紙 が 付 さ れ て い る 。 第三節 福家惣衛氏と﹃切支丹宗徒人名録﹄ ︵一︶福家惣衛氏の経歴 福家惣衛︵ふけ・そうえ︶氏は、明治十七年︵一八八四︶四月 十日に愛媛県讃岐国綾歌郡滝宮村で生まれ、同三十八年三月に香 川県師範学校を卒業して滝宮高等小学校訓導となった。稀代の勉 強家として知られ、教職のかたわら、明治三十九年文部相検定試 験修身科に合格し、続いて四十年教育科、四十一年法制経済科に もそれぞれ合格して、師範学校・中学校・高等女学校の教員免許 状 を 取 得 し て い る。 同 四 十 一 年 香 川 県 師 範 学 校 付 属 小 学 校 校 訓 導、同四十二年からは香川県師範学校教諭となり、以降十二年間 蔵されている。体裁は竪帳・墨書の和綴本で全三冊から成り、い ず れ も 四 つ 目 綴・ 袋 綴 で、 丁 数 は﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 巻 之 上 ﹄ が一〇一丁、 ﹃切支丹宗徒人名録 巻之下﹄が一二九丁、 ﹃切支丹 宗徒人名録 附録﹄が六六丁の合計二九六丁である。法量は三冊 とも ほぼ同規模で、縦が二七 ・ 〇センチメートル、横が一九 ・ 三セ ン チ メ ー ト ル あ る が、 厚 さ は、 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 巻 之 上 ﹄ が 一 ・ 六 セ ン チ メ ー ト ル、 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 巻 之 下 ﹄ が 二 ・ 〇 セ ンチメートル、 ﹃切支丹宗徒人名録 附録﹄が一 ・ 〇センチメート ル で あ る。 そ れ ぞ れ 本 の の ど 側 の 小 口 が 天 と 地 に 交 わ る 部 分 に は、茶色の角ぎれが施されている。いずれも保存状態は良好であ る。 高松市歴史資料館の収蔵資料管理システムには、次のように登 録されている。 ・ 番 号・ 指 定 区 分 w ・ 0 1 3 2 ― 0 1 ︵巻 之 上 ︶、 w ・ 0 1 3 2 ― 0 2 ︵巻之下︶ 、 w ・ 0 1 3 2 ― 03 ︵附録︶ ・材質 和紙 ・形態 竪帳・墨書 ・寸法 縦 2 7 ・ 0 c m 、横 1 9 ・ 3 c m 厚 手 の 表 紙 に は、 そ れ ぞ れ﹁切 支 丹 宗 徒 人 名 録 上 ﹂﹁切 支 丹 宗 徒 人 名 録 下 ﹂﹁切 支 丹 宗 徒 人 名 録 附 録 ﹂ の 外 題 が 書 か れ た 題 簽 が 貼られている。三冊目の冊子に﹁附録﹂という用語を使っている ところからみて、筆写者の意図は当初﹁巻之上﹂と﹁巻之下﹂に あって、これを本編とするつもりであったのが、元禄六年の藤堂 伊予守からの指図で小豆島関係の類族も取り上げる必要が生じて き た の で、 ﹁附 録 ﹂ と い う 形 で 別 冊 に し て 付 け 加 え ら れ た も の で あろう。 各 冊 と も に 一 丁 表 と 最 後 の 丁 裏 に ﹁ 福 家 惣 衛 之 印 ﹂ の 蔵 書 朱 印 ︵ 縦 三 ・ 五 セ ン チ メ ー ト ル 。 横 三 ・ 五 セ ン チ メ ー ト ル ︶ が 捺 さ れ て お り 、 写 本 成 立 以 後 、 福 家 惣 衛 氏 の 蔵 書 で あ っ た こ と を 示 し て い る 。 ﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 巻 之 上 ﹄ の 構 成 は、 ﹁切 支 丹 宗 徒 人 名 録 上 ﹂ の 外 題 が 貼 付 さ れ た 表 表 紙︵図 1 ︶ を 開 け る と、 ﹁福 家 惣 衛 之印﹂の蔵書朱印が捺された本料紙の一丁表に次いで、一丁裏と 図1 『切支丹宗徒人名録 巻之上』の表紙 � � � � � � � �� �
表1 高松市歴史資料館所蔵福家惣衛氏旧蔵キリシタン関係古文書・古記録一覧 *○△□印はそれぞれ同一の表装を表す。 No 名 称 年 代 形 態 法 量 特 記 事 項 1 ○ 切支丹宗徒人名録 巻之上 寛永から安永5年までの内容を文化 2年に 堅帳 1冊101丁 茶色の角ぎれ 縦 27.0cm 横 19.3cm 厚 2.06cm 「福家惣衛之印」 2 ○ 切支丹宗徒人名録 巻之下 寛永から天明2年までの内容を文化 2年に 堅帳 1冊129丁 茶色の角ぎれ 縦 27.0cm 横 19.3cm 厚 1.6cm 「福家惣衛之印」 3 ○ 切支丹宗徒人名録 附録 寛永から元文3年までの内容を文化 2年に 堅帳 1冊66丁 茶色の角ぎれ 縦 27.0cm 横 19.3cm 厚 1.0cm 「福家惣衛之印」 4 △ 鵜足郡内東坂元村 切支丹宗門御改帳 明和8年3月5日 堅帳・墨書1冊106丁 茶色の角ぎれ 縦 27.0cm 横 19.4cm 厚 2.0cm 「福家惣衛之印」 4∼23まで同一の箱に一括 して収納 5 △ 鵜足郡内東坂元村 切支丹宗門御改帳 安永6年3月5日 堅帳・墨書1冊108丁 茶色の角ぎれ 縦 27.0cm 横 19.4cm 厚 2.0cm 「福家惣衛之印」 4∼23まで同一の箱に一括 して収納 6 △ 鵜足郡内東坂元村 切支丹宗門御改帳 天明4年3月5日 堅帳・墨書1冊105丁 茶色の角ぎれ 縦 27.0cm 横 19.4cm 厚 2.1cm 「福家惣衛之印」 4∼23まで同一の箱に一括 して収納 7 □ 鵜足郡内東坂元村 切支丹宗門御改帳 寛政元年3月5日 堅帳・墨書1冊104丁 茶色の角ぎれ 縦 27.0cm 横 19.4cm 厚 2.2cm 4∼23まで同一の箱に一括 して収納 8 △ 鵜足郡内東坂元村 切支丹宗門御改帳 寛政6年3月5日 堅帳・墨書1冊116丁 茶色の角ぎれ 縦 27.0cm 横 19.4cm 厚 2.2cm 「福家惣衛之印」 4∼23まで同一の箱に一括 して収納 9 □ 鵜足郡内東坂元村 切支丹宗門御改帳 天保13年3月5日 堅帳・墨書1冊115丁 茶色の角ぎれ 縦 27.0cm 横 19.4cm 厚 2.2cm 4∼23まで同一の箱に一括 して収納 10 ○ 宇足郡坂本郷吉利 支丹宗門御改帳 寛永21年正月吉日 堅帳・墨書1冊118丁 青色の角ぎれ 縦 23.8cm 横 16.4cm 厚 0.3cm 「大正十三年四月、綾歌郡坂 本村三谷宣三氏蔵ノ記録ヲ 写ス(一部分ヲ写シタリ)」 との朱書あり。 4∼23まで同一の箱に一括 して収納 11 ○ 宇足郡坂本郷吉利 支丹宗門御改帳 寛永21年正月吉日 堅帳・墨書1冊128丁 茶色の角ぎれ 縦 27.0cm 横 19.2cm 厚 1.5cm 4∼23まで同一の箱に一括 して収納 12 □ 宇足郡坂本東分吉 利支丹御改帳 寛文3年4月吉日 堅帳・墨書1冊42丁 縦 26.7cm横 19.4cm 厚 1.0cm 4∼23まで同一の箱に一括 して収納 13 △ 宇足郡坂本東分吉 利支丹御改帳 (「寛 文 元 年 ニ 当万治4年3月吉日 ル」と朱注あり) 堅帳・墨書 1冊40丁 縦 26.7cm横 19.4cm 厚 0.8cm 「福家惣衛之印」 4∼23まで同一の箱に一括 して収納 14 △ 鵜足郡内東坂元村 切支丹宗門御改出 家・山伏帳 安永6年3月5日 堅帳・墨書 1冊6丁 茶色の角ぎれ 縦 27.0cm 横 19.4cm 厚 0.2cm 「福家惣衛之印」 4∼23まで同一の箱に一括 して収納 15 △ 鵜足郡内東坂元村 切支丹宗門出家・ 尼モ目・山伏帳 天明4年3月5日 堅帳・墨書 1冊7丁 茶色の角ぎれ 縦 27.0cm 横 19.5cm 厚 0.2cm 「福家惣衛之印」 4∼23まで同一の箱に一括 して収納 に亘り母校に勤めた。大正九年六月、香川県社会教育主事となり 四ケ年勤務し、史蹟名勝天然紀念物調査会委員として文化財の調 査保護に従事した。同十三年一月熊本県社会教育主事に転任、六 ケ年にわたり九州で過ごした。この間も史蹟名勝天然紀念物調査 会委員を兼摂した。昭和四年十一月文部省嘱託となり、昭和五年 一月から満一ケ年間﹁欧米の教育事情・社会事業の視察調査﹂の ために欧米各国に出張、帰朝後、文部省実業学務局公民教育編修 主幹として公民教育に携わった。同七年八月香川県立大川中学校 校 長 に 任 ぜ ら れ、 同 十 年 五 月 香 川 県 立 丸 亀 高 等 女 学 校 校 長 に 転 任、 同 十 六 年 六 月 ま で 六 ケ 年 在 職 し た。 教 育 界 を 退 い た 後、 同 十六年九月財団法人鎌田共済会企画主事、同年十二月代日本婦人 会香川県支部主事、次いで事務局長となった。同十七年丸亀市議 会議員に当選。同二十五年香川県文化財保護委員会専門委員、同 三十三年地方文化功労者として県知事より、又同三十五年文化財 保護委員会よりそれぞれ表彰を受けた。大正三年、三十歳のとき に処女作﹃讃岐人物伝﹄を出版。郷土史家の地位を確保し、多く の人々から注目されるようになった。その著書は郷土史に関する も の が 多 く、 ﹃香 川 県 近 代 史 ﹄﹃香 川 県 通 史 ﹄﹃讃 岐 の 史 話 民 話 ﹄ など蘊蓄を傾けた不世出のものが多かった。昭和四十六年二月四 日に八十六歳で亡くなる ︵ 17︶。 ︵二 ︶ 福 家 惣 衛 氏 旧 蔵 文 書 の 中 の﹃切 支 丹 宗 徒 人 名 録 ﹄ の 位 置付け 高松市立図書館が昭和四六年一月二六日に福家惣衛氏から購入 した古文書・絵図・書籍類は全一五〇冊で、内訳は古文書が七七 冊、絵図が二一部、図書が五二冊である。このうち、古文書関係 は﹃高松市歴史資料館収蔵資料目録∼歴史資料 Ⅱ ∼﹄に掲載され て お り ︵ 18︶、 特 に キ リ シ タ ン 関 係 文 書・ 記 録 に つ い て は﹃切 支 丹 宗徒人名録﹄の三冊の ほ か切支丹宗門改帳関係文書二〇冊がまと まった形で所蔵されているところに大きな特徴がある。 福家惣衛氏が収集していた切支丹宗門改帳関係文書は﹁鵜足郡 東 坂 元 村 切 支 丹 宗 門 御 改 帳 ﹂ 関 係 が 八 冊、 ﹁宇 足 郡 坂 本 郷 吉 利 支 丹 宗 門 御 改 帳 ﹂ 関 係 が 二 冊、 ﹁宇 足 郡 坂 本 東 分 吉 利 支 丹 宗 門 御 改 帳 ﹂ 関 係 が 六 冊、 ﹁宇 足 郡 坂 本 之 郷 さ る 引 吉 利 支 丹 宗 門 御 改 帳 ﹂ 関 係 が 一 冊、 ﹁宇 足 郡 真 時 村 吉 利 支 丹 宗 門 御 改 帳 ﹂ 関 係 が 一 冊、 ﹁鵜足郡川原村切支丹宗門御改牢人帳﹂関係が一冊、 ﹁讃岐国切支 丹宗門御改帳 鵜足郡東小川村﹂関係が一冊、の合計二〇冊であ る。これを年代別に分類すると、寛永期のものが三冊、万治・寛 文 期 の も の が 七 冊、 明 和 期 が 二 冊、 安 永 期 が 二 冊、 天 明 期 が 二 冊、寛政期が二冊、天保期、安政期がそれぞれ一冊である。この う ち、 ﹁福 家 惣 衛 之 印 ﹂ が 捺 さ れ て い る も の が 十 二 冊、 蔵 書 印 が