ワタナタムとは何か……
東北タイ ・ダーンサーイの霊媒の問い ( その 3 )
レヌカー・ M
†What Is Culture ? the Question of the Media of Dansai,
North-East Thailand ( 3 )
Renuka Musikasinthorn
Thai provincial administration considers spirit cult followers of Dansai no different from Buddhists.
No matter how they take special efforts to differentiate rituals of spirit cult from those of Buddhism, and violate precepts of Buddhism, they are treated traditionally as Buddhists and registered officially as such.
Kuan who is the male media and presides over spirit cult ceremonies has been regarded as community leader and often play the role of the representative of Buddhist laymen in Thai-Lao commnunities along the Mekhong. The focal point of Buddhist cult is a temple where monks (phikkhu)and novices (sa- manera) observe sila precepts. By offering food and meet daily needs of monks, Buddhist laymen can make merits. From 19th century onward, as Bangkok dynasty extended its administration network and fastened its grip over provinces, the national Sangha was formed. Government control over temples and sangha administration became statutory as Ratchabanyat Laksana Pokkhrong Khana Song Ratanakosin- sok 121 in February 1902. The Law divided temples into 2 categories : (1) wat with bhuttasima recog- nized as wisungkhamasima from Krom Sasana (Religious Department) and (2) samnaksong registered but without wisungkhamasima. Beside the 2 categories, there are temples not registered and called thip- aksong. Based on record at the office of the National Bhuddhst Committee, Loei Prefecture, there are 43 registered wats and samnaksong in Dansai District, all are of Mahanikai sect. Besides there are 45 thipak- song, of which only 1 belongs to Thamayutt sect. Tambon Dansai, one of 15 tambon constituting Dansai District, is composed of 15 mu (hamlets) stretched over mountains on the southern and western out- skirts and tesaban (City) area along the Man River. There are 5 wats and 2 samnaksong, 10 thipaksong as on Table 1 and Map 1.
Wat Phonchai is the center of Bhuddhist activities in Dansai. situated at the center of the district.
Festivals, such as famous Phee Takhon and Bun Luang; center around the temple and attract tourists na- tion wide. With Periyasaman School within its compound, the temple boasts the largest number of nov- ices among the temples in the Tambon. The school provides venues for higher study for underpriviledged children in and out the Tambon.
Wat Phosri in mu 12 and Wat Sri Saat in mu 7 both date back to the time of Phra Keau Asa , the Chao Muang who participated the Ho War. Both temples have elderly abbots, respectively beyond 75years old. They fall into the category introduced by Prof. Ishii/Prof. Tsubouchi as Renunciation of the world by elderly people or Buat Nai Wai Charaa. Renunciation at Old Age were observed among abbots of thipaksong at hamlets with relatively shorter history of settlement spreading over steep hills toward southern end of Tambon. Wat Baan Kaan Pla, mu 5, and Wat Baan Namphu, mu 6, fall under this catego- ry. At sumnaksongh Wat Phonlan, mu 4, Thipaksong at Baan Non Faleb, mu 8 and Baan Howey Ooi at mu 13 motives and mobility patterns of abbots are observed mutl-rooted.
† アジア太平洋研究センター特別研究員
Among 5 temples in Tambon Dansai with visungkhamasima from Religious Department and enjoy full status as wat, two temples have relatively new history. Phrathaat Sri Song Rak had been worshipped as Chetiya since 16th century, but its registration as Wat, following the application by local residents, is as recent as 1982. The local residents headed by school teachers required subsidy as wat for repairing the Chetiya. Attempts by forest monks to reside in the compound of Wat Phrathaat Sri Son Rak were made but met hazards and until now there are no monks residing there. The abbot of Wat Phonchai concur- rently sits as abbot there and presides over ceremonies such as ordination held at Phrathaat Sri Song Rak Festival on the full moon day of 6th lunar month.
Wat Niramit Vipasana is a wat pa (forest temple) following probably the tradition of Aranyik sect since Sukhothai through Ayuttya period, and Vipasana (meditation) practised long among Northeastern Thai monks. The temple was founded by a thu dong (forest walking) monk and his followers from Surin province in 1979. Arrriving at Dansai, they made attemps to reside the compound of Phrathaat Sri Son Rak but without success. They erected a temple at a strip of land belonged to national forest reserve and got permit to use the land in 1988. As wars against insurgents ceased and patthana (development) be- came the order of the day. National forest was lisensed to private enterprises who cleared and fell trees.
Invasions and settlement by landless farmers followed. Wat pa all over the Kingdom became the fore front runners and protectors of invaders and in return patronized by them. Wat Niramit Vipasana, of which presideing Buddha statre is a copy of Phra Chinorot of Wat Mahathat in Phisanulok was a child of 1980ies, erected by land developers and road makers and patronized by soldiers and governments Phisa- nulok afficials stationed at Dansai. The wat was honored by visits by rhe royal vmily members.
3.5 ダーンサーイにおける仏教信仰 3.5.1 行政上は仏教徒
ダーンサーイにおける精霊信仰について検討してきたが,ここでタイの地方行政で精霊信仰がどの ように扱われているのか,述べておきたい。端的にいうと精霊信仰per seはタイの地方行政では対応 されていない。
タイ国民は,国民として登録する義務がある。住所を定めて内務省地方行政局登録課(Samunak- borihaankaantabienkromkaanpokrong)に住民登録しなければならない。それは定住所の家屋に対し て発行されるタビエンバーン(Tabienbaan; 居住登録書)に入るかたちとなる。一戸のタビエンバー ンには,筆頭者としてチャオバーン(Chaobaan; 戸主)の名が記され,その下にプーアサイ(Phuasai;
寄留者)の名が並ぶ。法律にのっとって結婚を登録した妻でも,未登録の妻でも,認知した子でも,
していない子でも,チャオバーンと同じ家に居住する者は全て居留者である。そういう意味で,タビ エン・バーンは日本の住民票に匹敵する。タイには日本の戸籍簿にあたるものはない。
一方で,成年に達したタイ国民に発給される国民証明書(Batprachachon; バッ・プラチャーチョ ン)がある1。タビエンバーンとバッ・プラチャーチョンには13桁の国民番号が記載され,両証明書 は連動している。
両証明書とも宗教の項があり,国民は申請にあたり,宗教の項目にある選択肢の該当項の選択を求 められる。
ダーンサーイ郡庁(Thiwaakaan Amphur Dansai)地方行政局登録課の担当官は,宗教は個人デー タであるから公開できないと前置きして,ダーンサーイ郡の住民26,400余人は2名の回教徒,32名 のキリスト教徒をのぞいて全て仏教徒であると言明した2。町中のプラケオ・アサー通りで雑貨店文 具商を営む二世帯を別にして3,ダーンサーイの回教徒としては,タムボン・ダーンサーイのバーン
ダーン集落に住む2名の牛肉取り扱い業者がいる。また,キリスト教徒は山上の開拓部落に住むラオ スからの移住者で,山岳民族Hmongモン出身であるとのことであった。
ダーンサーイの霊媒Chao Pho Kuanと精霊信仰の信徒たちは,国民証明書申請に際し,宗教の項 目で,「その他」を選んではいない。仏教徒と記入しているのだ。いかに貴人の霊を畏敬し,その怒 りを恐れ,その命にしたがって動物供犠を欠かさない精霊信徒であっても,ダーンサーイ郡住民登録 上では,精霊信徒とは記載されていないのである。担当官も,彼らを仏教徒として何の疑問を抱いて いない。ここで筆者が,「あの方たちも仏教徒なのですか?」などと聞いては,狭い村の中で話に尾 ひれがついて大変なことになる。
シンクレティズム,多宗教の重層化は,日本を始めアジアでは古くから報告されてきた。精霊信仰 と仏教が重なっているのなら,精霊信徒が仏教徒と登録しても驚くことはない。日本では,寺の檀家 であり,村の神社の氏子であることは一般的である。
そんな社会に育った筆者であるのに,ダーンサーイの「仏教徒として登録する精霊信徒」に遺憾の 念を抱くのは,これまでにも何回か述べたように,ダーンサーイのこの社会は,あいまいな世界でな く信仰上の違いを明確にして対決する「弁証法的社会」であると観たからである。精霊儀礼と仏教儀 礼の違いは実践者たちに強く,明確に,意識されており,その峻別が儀礼の核をなしていることを理 解したからである。
精霊儀式の司祭であるクワン(Kuan; 男霊媒)とセーン(従者)たちにとって,仏教儀礼は対立項 である。儀礼の実践において,最大の注意がはらわれ,努力を傾注して,違いは表出される。一方,
仏教の戒律に生きる僧侶や在家信者にとっても,精霊信仰儀礼と仏教儀礼の違いは明確に意識されて いる。精霊信仰はその実践において仏教の戒律と相反する面がある4。戒律の侵犯を批判する声は,
ダーンサーイの寺や仏教信者内でも,一部にせよ,あがっている。
一方で,かつて東北タイ及びメコン河左岸のラーオ人集落では,クワンは村長と同義とされ5,村 の寺での仏教行事の采配をふるっていた。現在のダーンサーイ郡においても,100年以上の歴史を持 つ,古くからの開拓,移住の歴史を持つ集落の寺院では,仏教行事を仕切るのはクワンである。精霊 信仰が仏教信仰とともに実践され,仏教儀礼でも霊媒が在家代表として,僧侶に仕える伝統があった と考えられる。
その東北タイ及び北タイは,18世紀末から,中部タイの政権に取り込まれていく。1779年のタク シン王の命によるヴィェンチャン攻撃はメコン河右岸及びコーラート高原内陸のラーオ系諸国(ムア
ン;Muang)のヴィェンチャン帰属を揺るがし,1826年から1829年にわたる「アヌ王の乱」はそ
れを決定的に崩壊させた。19世紀後半のラーマ五世の時代に絶対王制が中央集権化を強め,ラーオ 諸国(ムワン)がバンコク王朝の諸「県」となっていく過程は既述した。
絶対王権のもとでの行政近代化とともに仏教は「国教化」され,その姿を変えていく。タイ北部お よび東北地方における仏教は制度的変革を迫られる。バンコク王朝は地方で実践されていた伝統仏教 を「浄化」した。浄化はパーリ経典への回帰であり,それはバンコク政府を「正統化」しようとする ものであった。バンコク政権が「正統」「浄化」を地方におしつける過程で,タイ仏教は多くの民間 信仰とその文化をつぶした。精霊信仰も目の敵にされたのである。
この機を得て,盛んになった新しい信仰形態もある。例えば,モータム(man tham)である。モー
タムは仏法の力で悪霊を祓う儀礼を執行する俗人男性と定義されている6が,東北タイのラーオ部落 に特有の,しかも20世紀初期以降に見られる現象である。頭陀僧の伝統を汲むとされるモータムた ちが東北タイの多くの村で精霊信仰を撲滅しながら,それにとって変わって信仰されるようになった のは19世紀末から20世紀中頃にかけてである7。
バンコク政府の宗教行政の手が伸びる中でダーンサーイの霊媒と貴人霊の従者たるセーンたち,精 霊信徒たちは,仏教との関係において,自分たちをどう位置づけたのであろうか?緊張をはらむ精霊 信仰と仏教の弁証法的関係,葛藤と折り合いの歴史,そして揺れ動く現況は本論文の要であるが,そ の論議は後にゆずろう。ここでは精霊信徒は伝統的に仏教徒として処遇され,行政上もそれを認めら れてきたことを強調しておきたい。伝統仏教世界で寺が,サンガが,精霊信徒を仏教徒として認めて いるとしたら,それを許容する上座部仏教とは何か?それを許容せず,仏教の「浄化」を唱える人々 は「文化と伝統の破壊者」なのだろうか?この問題を問う前に,まずはダーンサーイの実践宗教とし ての仏教信仰のありかたをみつめたい。
3.5.2 信仰の中心:サンガと寺院
仏教信仰の中心は,出家した僧侶たちが戒律を守って止住する寺院である。そうした出家者の集ま りがサンガ(Sangha)である。サンガはビク(Phikkhu)とサマネーン(Samanen)から構成される。
二者の違いは,「前者は滿二十歳以上の男子,後者は滿二十歳未満の男子であって,それぞれサンガ への加入手続およびサンガ内における権利義務の態様を異にする8。」タイ・サンガには,女子の出 家者は存在しない。剃髪して白衣をまとい寺院周辺に起居する女子修行者はタイではチー(Chii)と 呼ばれているが,法律上は在家者である9。
在家信者たちは寺に参り,講堂で説経や講話を聞き仏殿で仏像を礼拝する。また,寺院から村に托 鉢行に出る僧侶の前にひざまずいて布施を行い,その日常を支える。僧侶たちは布施を受けることに より,在家の村人たちに積徳をさせるのだ。
僧侶たちは村人たちのために,日常の,年次の仏教行事を執り行い,村落社会の精神的社会的需要 を満たす。葬式などの通過儀礼のサービスも,寺院と僧侶が地域社会に果たす重要な役目の1つであ る。在家信者と出家僧侶の間には,機能的な相互依存関係がある。
3.5.2.1 タイ仏教行政の沿革
絶対王制を確立し,周辺地域にあまねく王権を浸透させようとしたバンコク政府は,仏教行政によ り東北タイ及びタイ北部を手中に納めようと乗り出した。東北タイはバンコクから見て,文化的フロ ンティアであった。東北タイに最初のタマユット派寺院を建てたラーマ四世の時代を始めとして,「遅 れたラーオ地域」の寺と人々は,仏教行政制度により,徐々にバンコク王朝の掌中に握られていった。
ラーマ五世チュラロンコーン王は絶対王制を実質的に強化しながら,統治組織の近代化を進める。
その過程で,王は世俗的秩序である国家体制にサンガを組み込もうとした。王は僧籍にあった異母弟 ワチラヤーン親王(Krommamun Wachirayanwirot)にサンガ機構の整備を命じる。1902年6月に 制定された「ラタナコーシン暦121年サンガ統治法;Phraratchabanyat Laksana Pokkhrong Khana Song Ratanakosinsok 121)はその法律的基盤である10。
この法律によりタイ全国の私立寺院は初めて,管区制度を持つことになった。全ての僧侶は寺に属
することになり,寺に属しない僧侶は僧侶として認められなくなった。国は四の大管区に区画され,
その正副管長8名より構成される大長老会議がタイ・サンガの最高機関となった。管轄は教育省で,
教育大臣は地方官憲と協力して,サンガの長の職務遂行を援助する義務を負った。タマユット,マハ ニカーイ派11が公認される。そんな中で,中部や東北部とは違った伝統と戒律の中にあったタイ北 部の僧侶たちは異端とされた。後にチェンマイ管区の初の管区長となる高僧シーヴィチャイは北部の いわゆる「ユアン派」に属していたが,1902年の新法のもとでの和尚資格なしに受戒させたという 理由で告発され,2年の謹慎を命じられた12。タイ各地の多様な仏教文化伝統を,バンコク政府が統 一統制し,1つのサンガ制度をつくる過程で,逸脱した地方文化やカリスマ的指導者は異端として弾 圧されたのであった。
僧侶の資格をパーリ語文献を読む力を基礎に格付けするパリエン試験はアユタヤー時代から存在し たが13,それは口述試験であった。近代化は一進一退をくりかえしながら,着実に進んだ。パリエン 試験が筆記試験として定着するのは,ワチラヤーン親王がサンガ法王となった1910年以降である。
1905年には徴兵法が制定されており,男子が兵役に服さず僧籍に留まる資格は再検討する必要が あった14。
1932年の革命により国体が立憲君主制に移行すると,民主主義体制がサンガにも取り入れられた。
1941年のピブーンソンクラーム元帥の提唱による新サンガ法にはサンガ議会,サンガ裁判所など俗 世の国家機構がそのままサンガに持ち込まれた。従来からタマユット派とマハニカーイ派との間には 確執があったが,サンガ議会はそれを強調した。
ピブーンソンクラーム元帥の長期政権を倒して新たな軍事政権を樹立したサリット・タナラット元 帥は,1962年にサンガ法を改定した。それは一転して反動的な性格を持つものであり,法王が自ら の任命する大長老会を通してサンガを統括する体制が固まった。その反面,新法は世俗権力の優位性 を確立し,勅命による法王の解任の可能性も含有していた。国家のサンガへの介入度は強まったので ある15。
ピブーン首相が新設した文化省(Kraswanwatthanatham)は,1963年サリット政権によって廃止 された。その後およそ40年を経て,2005年に文化省は復活する。宗教(Sasana)を管理する宗教局
(Kromkaan Sasana)は,教育省から文化省に移った。さらに仏教については,総理府にタイ国立仏
教委員会(Samnaksasanaphutthahengchaat)が設けられ,各県に置かれた支所が県管区内の寺院を 管理するようになった。国家による管理体制はともあれ,サンガが長老たちによる自治と監督を建前 とする姿勢は変わらない。
3.5.2.2 タイ仏教行政における寺院
1902年法はワット(wat)とサムナクソン(samnaksong)の二つの範疇を設けた。16それは今日で も変わらない。ワットとサムナクソンの違いは,受戒式を行うことの出来る浄域プッタシーマー
(bhuttasima17)をヴィスンカーマーシーマー(Wisungkhamasima18)として宗教局から「勅許」さ れたかどうかである。その勅許を得ればワットwatで,得ない所はサムナクソンsamnaksongとな る。ほかに,ティパクソン(thipaksong;僧の止住する場)と呼ばれる無認可の「寺」がある。
まずルーイ県の寺事情を探ろう。国立仏教委員会ルーイ県事務所にきくと19,ワットとサムナクソ ンを含めて,ルーイ県内には認可「寺」は595カ所ある。このうち515カ所がマハーニカーイ派に
属し,80カ所がタマユット派である。その他にティパクソンが624カ所ある。無認可寺が認可寺の 数を上回っているのである。これはやがて認可されるまでの過渡期にある寺を示すのか,それとも,
これらの場はティパクソンとしてとどまり,制度外の存在でありつづけるのか。いずれにしても,無 視できない数である。認可,無認可をあわせて,ルーイ県には1,219カ所の「寺」があることになる。
タマユット派とマハーニカーイ派はそれぞれ,タムボン(村)管区,アムパー(郡)管区,チャン ワット(県)管区を画し,管区長を任命している。
国立仏教委員会ルーイ県事務所によれば,ダーンサーイ郡にはワットとサムナクソンを含めて,認 可寺が43カ所ある。ティパクソンは45カ所ある。タマユット派に属する寺は少なく,たった1カ所 のティ・パクソンがあるのみで,残りは全てマハーニカーイ派である。
ここでも無認可「寺」の数が「認可」寺数を上まわっていることに注目しよう。
しかし,同県文化事務所のサムリット氏は少し違った姿を描いてくれた20。ダーンサーイ郡の外縁 地帯には,もっと多くのティパクソンが営まれており,その中にはタマユット派に属するものもある
地図1
表1 タムボン・ダーンサーイの15集落:人口と面積
という話であった。10月の調査時にも,ダーンサーイ郡庁所在地のプラケオ・アーサー通りにある 建材店から,ダーンサーイ郡もはずれ,コークガーム郡に近い2013線沿道沿いの国有林中の「森の 寺」建設現場に建材を届けたという情報が入った。マハーニカーイかタマユットか。活発に活動する 寺が多数群雄割拠するという意味で,ルーイ県ダーンサーイ郡は今まさに「寺の戦国時代」たけなわ の感がある。
3.5.3 タムボン・ダーンサーイの寺
3.5.3.1 その全体像
寺の姿を追って,タムボン(Tambon)行政村のレベルに降りてみよう。タムボン・ダーンサーイ は,ダーンサーイ郡を構成する15のタムボンの一つであり,15の集落(ムー;mu)から構成される。
マン川がたゆたう谷あいの盆地の郡庁所在地のダーンサーイ市街区(テサバーン・ダーンサーイ)21 を北に,15の集落は南と西の山地にひろがっている。それは国有林地帯でもある。タムボン・ダー ンサーイの15集落をあわせて,認可されたワットは5カ所しかないが,サムナクソンは2カ所ある。
宗教局認可の寺院は合計7カ所あることになる。これに加えて,未登録のティパクソンは仏教委員会 の記録だけでも5カ所あり,県文化事務所の情報を加えれば,10を超える。ここでもティパクソン の数は登録寺院にせまっている。県文化事務所長のサムリット氏によれば,こうした無登録ティパク ソンの中でもタムボン・ダーンサーイの外縁地帯の国有林内ではタマユット派の活動が顕著であると している。例えば,バーン・サーラーノーイ村(タムボン・ダーンサーイの第15集落表1と地図1
表2 タムボン・ダーンサーイの寺院
参照)のティパクソンは,20世紀初頭に現れて一世を風靡した名頭陀僧マン和尚22の流れを汲み,
訪れる信者は多いとサムリット氏は説明している。
以下にタンボン・ダーンサーイの各寺院の沿革と調査結果を記す。地図1,表1,表2を参照いた だきたい。紹介の順序としては,まずダーンサーイ郡庁所在地の仏教活動の中心ともいえるポーン チャイ寺,そして同じ時代に建てられたポーシリー寺とシーサアート寺,開拓集落の寺をワット,サ ムナクソン,ティパクソンの区別なく並べた。タムボン・ダーンサーイの寺の中でも,比較的新しく 建てられた森の寺ネラミット・ヴィパサナー寺とワットとなった仏塔プラタート・シー・ソンラクに ついては,最後に特筆した。
ワット・ポーンチャイ(Wat Phonchai)
(A) 郡庁所在地の中心:ポーンチャイ寺の沿革:ポーンチャイ寺院は,タンボン・ダーンサーイ の中心となる寺院である。立地はタムボン・ダーンサーイの第3集落バーン・デーンの北端。西南か ら流れてきたマン川が東南から流れて来たソーク川と出会って北に向かう川曲りに位置している。こ こからパクマンまでマン川はおよそ25キロをまっすぐ北に流れる。川沿いの細長い平野には,昔の チャオ・ムワンの屋敷,ダーンサーイ郡庁,テサバーン(市街区)役所,地方電力公社支所,小学校 に中学校,そしてヴィエンの丘の向こうには緑の稲田が続く。ダーンサーイの中でも最も豊かな地域 がこれから始まるという,最南端の地点にポーンチャイ寺は立っているのだ。
かつてペチャブーンからの山越えの道は,ソーク河を越えて,バーン・デーン集落に入り,寺前ま で続いていた。現在のプラ・ケオ・アサー通りである。ナコンタイを経てピサヌロークへ出る道はマ ン河沿いに西へ進んでから,西北の分水嶺カオ・カードを迂回して分水嶺に出る道である。交通の要 地ダーンサーイの中でも,ポーンチャイ寺は南北への道と東西への道が交差する要の地に立地してい る。
その創設はプラタート・シー・ソンラク仏塔と同時代であると,ポーンチャイ寺院の現住職は言 う。ダーンサーイ郡管区長の記録23もそれを支持
しているが,16世紀の造営を裏づける史料はない。
表2を参照していただくと,ポーンチャイ寺院の 造営は1847年でヴィスンカーマシーマーはそのお
Ph 1 ワット・ポーンチャイ本堂 Ph 2 ルアン・ポー・ヤイ
よそ7年後に得ている。1854年にはダーンサーイはまだ1つのムアンとして,ピサヌロークに属し ていたが24,どのようなルートでヴィスンカーマシーマーが申請されたのであろうか。それとも後述 するように宗教行政の手が届いた時に届け出の必要が出て「そう書いた」だけなのであろうか25。
歴代の住職の名前と没年が寺の記録に残されている26。その筆頭は1843年から1851年までのル アン・ポー・トーンチャン師(Luang Pho Thongchan)で,任期は,第一章において推察したラーオ 系住民のダーンサーイへの移住と定着の時期に重なる。この頃に創立されたという説も成立可能であ る。寺の記録にはルアン・ポー・トーンチャン以降,歴代の住職の名と任期が記されている。
布薩堂は19世紀末に往時のチャオ・ムアンであったプラ・ケオ・アサー(ターオ・コーンセーン)
がそれまでの木造建築を煉瓦と漆喰造りに改築したものとされる27。ルアン・ポー・ヤイとして村人 の尊敬を集める本尊仏は漆喰製坐像で,触地印を結び,いが栗螺髪頭に六頭身,左右に張り出た大耳 と,19世紀ラーオ仏の特徴を備えている。
ポーンチャイ寺では毎年タイ暦八の月にブン・ルアン(Bun Luang)の大積徳行が行われる28。ブ ン・ルアンはいくつものイヴェントの集合体であるが,なかでもブン・パヴェート(Bun Pavet;
ヴェッサンドラ本生説経)に先立つ「カーン・ラ・レン・ピーターコーン(Kaanlaleng Pheetak- hon)」は大人気の祭りだ。もち米蒸し笊でつくった面をかぶって踊る幽霊たちの姿はダーンサーイ の名をタイ全国に広めた。境内には2005年からピーターコーン博物館が設置され,ダーンサーイを 訪れる観光客にこの地の文化伝統資料を提供している。
ポーンチャイ寺での年中行事において,在家側の采配をふるうのは,第3集落バーン・デーン(Baan- daen)に住むクワン及びクワン側のセーンたち29と第2集落バーン・ヌア(Baan Nua)に住むナー ン・ティアムとナーン・テーン,及びナーン・ティヤム側のセーンたち30である。
この寺を支える信徒たちの核は,タムボン・ダーンサーイの中でも第1集落のダーンサーイ集落,
第2集落のバーン・ヌア,第3集落のバーン・デーンなど,マン河畔氾濫原にあり,歴史も古い集落 の住民である。ここから山地に向けて村人は分家移住していった。西北の第4集落ナーワー
(Nawa),第8集落バーン・ノーン・ファーレーブ(Baanfarleb)はマン河畔にあり,19世紀末には 開墾されていた。第13集落のバーン・ホウェィ・オーイ(Baanhouayoi)の開墾は,寺の創立年から みて,大東亜戦争後であろう。南の山上からダーンサーイ盆地を見下ろす第5集落バーン・カーンプ ラー(Baankaanpla),第6集落のバーン・ナムプ(Baannamphu)などの開拓は1980年代である。
集落の位置については地図1を参照いただきたい。
こうした移出者たちも年中行事の祭りにはダーンサーイのポーンチャイ寺に戻ってくる。山間の移 住村に囲まれた盆地の中心に所在するポーンチヤイ寺は求心力を持って,タムボン・ダーンサーイ外 縁部の集落の村人たちを集めている。
(B) 学びの寺:タムボン・ダーンサーイの他の寺に比べて,ポーンチャイ寺の特色はサマネーン が多いことである。表2を見ていただきたい。ピク11名は郡庁所在地の寺ワットとしては少ないと 言えるが,サマネーンは61名。タムボン・ダーンサーイの他の寺にはサマネーンは全く止住してい ない。
かつてタイの北部でも東北部でも,男子は寺に入って学ぶ伝統があった。そこで男子は読み書きを 習い,パーリ語や儀礼を学んだのであった。それを伝統的な「ブワッ・リアン」(buatrian; 出家して
学ぶ)型出家31とすれば,ポーンチャイ寺の場合はそうではない。教育志向であるが,石井教授と 坪内教授の分類32にはないルートである。両教授の調査からおよそ半世紀の年月が経過し,タイ社 会の変化に応じて新しいチャネルが出来た。
ポーンチャイ寺には,パリヤサーマン(Periyasaman)33学校がある。サマネーンとして寺で学び,
3年コースを終えれば,中学3年卒業の証書がもらえ,その後,還俗して一般高校に進学することが 出来る。
ポーンチャイ寺・プリヤサーマン校教員のヴィナイ氏は34,現在同校で学ぶ61名の学生の出身地,
姓名を記した表を提供してくれた。それによると15名をのぞいて全てダーンサーイ郡出身である。
しかしタムボン・ダーンサーイ村出は2名のみで,残りはダーンサーイ郡内でも辺鄙な山地のイプム 村から14名,同じく山地のポーンスーン村出が13名である。同村の位置については,地図1を参 照いただきたい。他県からの15名のうちペチャブーンからの4名は中国風に姓(SAE)何々と名乗
るHmong族出の少年たちであった。
2003年に開かれた学校は総理府所属の国立仏教委員会の管轄下にあり,無償である。校長はポー ンチャイ寺住職であるが,一般教科を教える10人の教官は在家者であり,その報酬は仏教委員会か ら支給されている。「僧侶になりたいというより家庭が貧しく教育を受けられない僻地の少年たちに 機会を提供しています」と職業訓練でコンピュータを教えるヴィナイ氏は語った。3年と限って止住,
一般教育を学ぶサマネーンが多くなったというのは,ポーンチャイ寺住職もルーイ県文化事務所長も 述べている。
経済状態に恵まれてはいても素行が悪く家族が「寺に預けて学業を修めさせている少年」はいない かとたずねてみたら,いた。2名いた。家庭では,夜遊びをして落ち着かなかった子が勉強するよう になった」のだそうだ。その子は家に戻るのであろうか。生徒数は常に変化して定まらない…とは ヴィナイ氏の弁であった。
何はともあれ,仏経寺院の潜在機能:経済的理由その他で,進学できない児童に―男子学生と限る が―進学の便を開く。寺の機能は時代の要求を入れ,一般教育科目を加えた新制度の中に生きている。
(C) 生え抜きの野心的住職:ヴィナイ氏は言葉を継いで,今年は中学過程を終えても寺に残って いるサマネーンが8名おりその中から僧侶になる者も出るかも知れないとのことであった。たしかに 何人かに1人は僧門でのキャリアを志向する少年
もいるのだ。2004年からポーンチャイ寺の13代 目住職を務めるプラ・クルー・シリラタナラン カーン師(Phra Kru Sri Ratanalankaan)もそんな 1人であった。
住職はダーンサーイ郡もペチャブーン県に接した 山部タムボン・ポン(Tambon Pong; 地図1参照)
の生まれで本年とって43歳である。僧歴は19年 である。タムボン・ポンは山上の国有林の中の開 拓村の集まりである。少年の日の住職は彼地の小
学校6年を終了後ポーンチャイ寺でサマネーンに Ph 3 ポーンチャイ寺の第13代目の住職はコ ンピューターに向かう
なり,修行した。その後,バンコクのタープラ寺で僧になったのは23歳の時であった。ロムカオ,
アントーンで修行を重ね,2002年にポーンチャイ寺に戻ってきた。2004年の前住職没後,衣鉢を継 いだ。2005年にタムボン管区長(チャオ・カナ・タンボンchao khana tambon),郡管区長(チャオ・
カナ・アムプー;chao khana amphu)を経て現在はルーイ県管区の副管長の1人である。
パリエン35は,プラヨーク3取得は1989年。プラヨーク6取得は1992年,32歳の時である。こ の資格はタムボン・ダーンサーイの僧の中では,飛び抜けて高い。住職は通信教育のスコータイ大学 学士(政治学専攻)仏教大学マハーチュラロンコーンでも行政学士号を得ている。現在はラチャバッ ト大学ルーイ・キャムパスで行政学を履修中。寺の正門をルアンパバーンの寺院に真似て新築したの も向学心の高いこの住職のアイデアである。
ワット・ポーシリー(Wat Phosri):ポーシリー寺は,タムボン・ダーンサーイ北部のムー12の ナー・ヴィェン・ヤイ(Na Vieng Yai)集落にある。ヴィェン(Vieng)とは北タイ,ラーオでは[小 高い丘]を指す言葉である。歴史地理的に観ると,ヴィェンと呼ばれる丘はかつて領主の屋敷跡,あ るいは仏塔や古刹があることが多い。ウトラディットのプラ・テーン・シーラアート寺,ランパーン のプラタート・ランパーン・ルアン,ヴィエンチャンのタート・ルアンなど全てヴィェンと呼ばれる 丘上に立っている。
ナー・ヴィェン「ヴィェンの前」なる地名をシー・ソンラク仏塔縁起のヴィェンチャン軍と結びつ けて,この地をヴィェンチャン勢の陣地であったとする説もある36。現在このヴィエンの上には,国 境警察第247中隊の駐屯地がある。
北に向かって流れるマン川がヴィエンの丘を左に巻いて流れた先の岸辺,田んぼの中に,ポーシリー 寺は立地している。前述のポーンチャイ寺,ナームテーン集落のシーサアート寺,ナーホー集落のシー プーム寺などと同じく,19世紀末,国守プラ・ケ
オ・アサー(ターオ・コーンセーン)の時代に造営 された古刹であるが,ポーシリー寺が浄界を持つ ワットとして認可されるのは,1930年である。1902 年6月の「ラタナコーシン暦121年サンガ統治法」
発布から,なんと28年も経っている。1902年2月 から1906年3月まで約3年の間,ダーンサーイが
Ph 4 ワット・ポーシリー境内 Ph 5 民兵上がりの住職は78歳 上衣をつけない気さくな姿
フランス領であったことを考慮に入れても,モントン・ピサヌロークからルーイ県に移った37ことを考 慮に入れても,なお仏教行政が末端にまで届く歩みは緩慢であった。
ブン・パヴェート(ヴェッサンドラ本生説経)はこの寺の重要な年中行事であるが,毎年,ポーン チャイ寺での説経のあとに行われる。ナー・ヴィェン・ヤイ集落には霊媒クワンがいて,ブン・パ ヴェートやその他の寺の年中行事の采配をふるっている。
ポーシリー寺の住職は,今年とって78歳。和尚の他に二人のやはり老年の僧侶がいる。前述の石 井/坪内氏の行った出家の類別でいけば,ここの寺の僧侶たちは(2)の「老齢者の出家」にあては まる38。石井教授は北部タイでは老年出家が多いことを示唆されたのだが,ダーンサーイは20世紀 初まで北部タイに区分されていた。調査から50年経った現在でも,その傾向に変わりはない。タム ボン・ダーンサーイの周辺部のワット,サムナクソン,ティパクソンにおいて,老年出家した住職及 び僧侶は多い。
しかし,老年出家と一口に言っても,その動機も生活内容も一様ではない。ポーシリー寺の住職と のインタビュー39で住職がナー・ヴィェン・ヤイの貧農の出で,1970年代には民兵に応募して,激 戦地カオ・コー(Khaokho)40で戦った経歴を持つことを知った。ゲリラとの戦闘は激しく,山中の 辛い生活が続いた。「そこで願をかけたんだよ,シー・ソンラク仏塔に。もし生きて帰れて金もでき れば,坊さんになりますとね」その後酒保勤務になったのだそうだ。詳しくは述べなかったが彼はそ こで2,30万バーツの金をためる機会を得た。「金持ちにはたいしたことない額かも知れないが,貧 乏人の倅には,そんな大金が銀行にあるなんで夢のような話よ。それでケー・ボン41のために坊さん になったんだ。この寺で」「連れ合いも承諾したの?」「したよ。もともと,1安居だけのつもりだっ たから…それが寺で毎日鐘を打ったせいか腰が痛くなってな。寝たきりになってしまった。ピサヌ ロークに入院した。」というわけで,「治ったら,還俗しない,坊さんを続ける」と願をかけたら,腰 痛は治ったので僧侶を続けているという話であった。ピサヌロークの病院に入院してから,この寺に 戻るまでの経緯は語られなかった。
ポーンチャイ寺のブン・パヴェートには,この寺から僧が招聘されて説経したことはない。県文化 事務所長のサムリット氏からは,ポーシリー寺の和尚について積極的な意見は聞かれなかった。あま り地域に貢献しない,典型的な「老齢者出家」とみなされているようであった。
ワット・シーサアート寺(Wat Sri Sa-aat):北西のムー7,ナームテーン(Namtaen)集落はナー・
ヴィェン・ヤイ集落より人口が2倍強で,582人と多い。集落のなかほどの丘上に立つシーサアート
Sri Sa-aat寺院もまた,プラ・ケオ・アサー(ターオ・コーンセーン)の伝承につながる古刹である。
ダーンサーイがフランス領とされ,再度チャオ・ムワンとなったプラ・ケオ・アサー(ターオ・コ ンセーン)はフランス軍が運び去る前にプラタート・シー・ソンラク仏塔の造営石碑文を写すが,そ れに協力した僧プラ・クルー・ロンはこの寺院の住職であった42。ということは,当時はこの寺に学 識のある僧が止住していたこととなる。寺の造営は1852年7月とポーンチャイ寺より5年遅いだけ であるが,ヴィスンカーマシーマーを得たのは1934年8月と80年もあとのことであった。
この寺もまた老年出家の僧侶の寺である。住職スキット・サーラヴィモンは本年とって78歳。師 が学生用に出版した書物のまえがきに書かれた略歴43によると,師の出家は58歳でナコンタイの
ナー・プラタート寺で得度式を行った。シーサ アート寺院には他にも3人の年配の僧が止住して いる。養老院と言っては弊害があろうが,「林住期」を地で行っている僧侶の集まりという印象を受 ける。したがって,村人へのサービスも少なくなりがちであるが,他の年寄り僧ののんびり分を補っ てあまりあるのが住職のスキット・サーラヴィモン師である。
住職はただ余生を寺で過ごすのではなく,積極的に活動しており,地域でそれなりの徳を認められ て評価されている。出版物からもわかるように,仏教大学主宰のセミナーなどにも積極的に参加して いる。文化事務所長の話では,「パヨークなどは持ってないでしょうが,一応「仏法講話」はできま すよね。」と,プラスの評価であった。
シーサアート寺のブン・パヴェートは,ポーンチャイ寺,ポーシリー寺での説経日程と連動して定ま る。2005年にその準備作業をみたことがあるが,村中総出で,大変にぎやかであった。この村では祭り の準備作業の采配を奮っていたのは,寺近くに住む霊媒クワンではなく,ナームテーン集落の若いプー ヤイ・バーン(Phuyaibaan;集落長)であっ
た。スキット和尚は毎年,ポーンチャイ寺の ブン・パヴェートに招聘されて説経する。色 白の,か細い身体に黄衣を固くまきつけ説教 台に座り補聴器をつけた耳を傾けながら,て いねいにヴェッサンドン王子の貴種漂浪話を 語る。得意はマッシーの章と聞いたけれど,
近年は朝早く説経せねばならぬ「ターンカン」
とか「ヒマパーン」44を担当する和尚の姿を見 ている。朝早いと聴衆も少なく布施もそこそ こであるがこの和尚はそんなことにはこだわ らぬ様子で飄々と説経台に上がる。
Ph 6 ワット・シーサアート境内
Ph 7 ワット・シーサアート住職
Ph 8 ルーイの極寒の中を素足で火葬儀礼するシーサ アート寺の僧侶たち 中央が住職
ポーンラーン寺(Wat Phonlan):タムボン・ダー ンサーイのムー・4(第4集落)ナワー(Na Waa) 集落は,マン河畔にあり,米田に恵まれた古くから の集落である。その中央に位置するポーンラーン寺
(Wat Phonlan)は同集落の火葬場とは離れた地にあ る。ヴィスンカーマシーマーは認められていないも のの,ポーンラーン寺は古くから寺院として存在し たサムナクソンである。第1表によると,設立は 1887年である。ポーンチャイ寺,ポーシリー寺,
シーサアート寺などプラ・ケオ・アサー(ターオ・
コンセーン)が設立したとされる一連の寺院よりは 40年から35年後に建てられている。それも1887年 といえば,まだホー戦争の最中である。創立のパト ロンはプラ・ケオ・アサー(ターオ・コンセーン)
ではなかったと考えられる。
この寺に今年から止住する住職プラ・サマーン・
パンヤーカモにインタビューした45。当年とって 51歳の僧侶はウボンの生まれでバンコク,東北タ イの寺院を転々とし,2年前の雨季はポーシリー寺,
昨年はノーンファーレブ寺を経て今年の雨季から ポーンラン寺に止住している。
後にポーンチャイ寺住職とネラミット・ヴィパサ ナー寺の住職から,各々聞いたことであるが,プラ・
サマーン・パンヤーカモは特技を持っている。パー ティモッカ(Patimokkha)227戒46を暗唱できるの である。筆者も今回始めて知ったことであるが,
パーティモッカ全戒暗唱は僧侶なら誰でも出来ると いうものではないらしい。29年の安居を務め,プラ ヨーク6取得のポーンチャイ寺住職プラ・クルー・
シリラタナランカーンは,手を振って「アタマーに はできない47。この寺にはそんなことできる僧は誰
もいない」という。ネラミット・ヴィパサナー寺住職プラ・クルー・パヴァナーヴィスターポンは安居 暦48年であるが,「アタマーにはできん。本寺には幸いにして,1人出来るのがおるが」ということで あった。去年までは,その僧は雨季のワン・プラ(仏の日)には,パーティモッカ儀式を行うために東 西に走って忙しかったらしい48。昨年から,プラ・サーマン・パンヤーが人材として加わった。今年の 雨季のワン・プラのパーティモッカ儀式ではポーンチャイ寺はプラ・サマーンに出張を頼んだ。プラ・
サマーンはこの特技を持って,ポーンラーン寺の住職として落ちつくであろうか。
Ph 9 ワット・ポーンラーン境内
Ph 10 ワット・ポーンラーン住職
ノーンファーレーブ寺(Wat Nong faleb): 第8集落バ ー ン・ノ ー ン フ ァ ー レ ー ブBaan Non Falebはマン河畔の古くからの集落である が,1992年12月に創立された寺はまだ公認さ れていないティパクソンである。住職のプラ・
カンタウット・シリプンヨーは37歳。得度し て4年であり,去年まではポーンチャイ寺にい た。他に僧は3名止住し て い る と の こ と で あった。前述のポーンラーン寺の住職プラ・サ マーンも去年はこの寺に止住していた。ダーン サーイ村の出でポーンチャイ寺にも得度以来止 住ということで親しく応えてくれると期待した が,だめであった。写真も拒絶された49。
バ ー ン・カ ー ン・プ ラ ー寺(Wat Baan Kaangpla):1987年に建設されたカーン・プ ラー寺(Kaan Pla)はダーンサーイ郡庁所在地 の南,ペチャブーン県ロムサク郡へ通じる国道 214号線が急峻なる坂道を登る左側を入った山 腹地にある。1980年代,ゲリラが鎮圧され,
214号線が建設される頃に国有林を開墾して出 来た。カーン・プラー(魚の骨村)を見下ろす 寺には,火葬場に説経堂など新開地の村人たち の生活上の必要を満たす施設が設けられてい る。本年とって79歳のプラ・クラン・アナー ヴィロが住職として,1人で寺を守っている。
バ ー ン・ナ ム プ寺(Wat Baan Namphu): バーン・ナムプ集落はカーン・プラー寺から 214号線に戻り,更に10キロ登った左手にあ る。国道脇に設けられた眺望地点に立つと,
ダーンサーイ郡庁所在地が,郡庁役所からポー ンチャイ寺,ネラミット・ヴィパサナー寺まで くまなく一望できる。
ナムプ(Namphu)とは噴水,湧き水の意味 で,マン川に注ぐ渓流の水源がここにある。
1980年代,対ゲリラ戦が終わり道路が建設さ
Ph 11 ワット・ノーンファーレーブ,建設中の講堂
Ph 12 ワット・カーン・プラー境内
Ph 13 ワット・ナムプ住職
れると山上の国有林への侵入が盛んになった。国有林の樹木が伐採された後に農地が開かれ,農民が 移動し,住み着く。新開地に寺院が設立されたのは1986年で,ネラミット・ヴィパサナー寺設立の 4年後である。国有林が裸にされた後に建てられた「森の寺」が,不法侵入農民を守る盾,あるいは
「民の権利の旗印」に使われたの,この時代の「森の寺」の皮肉な一面である。
現在の住職プラ・ナレースプーリン・キティソポノーはペチャブーン県ロムサク郡の生まれ。42 歳の時僧籍に入った。それまでは農業をしていたが,父母も死に,弟も結婚した。自分は1人者なの で,後生は死ぬまで寺で過ごすことにした…という50。42歳は老年出家には少し早いが,指向とし ては同じである。僧侶になるとすぐコークガーム村ノーンクルワの寺に入りこの寺に移って5年にな る。現在47歳。この寺にはもう1人50歳の僧がいる。
この寺は国有林中に森林局の許可を得て建てられたワット・パー(wat pa森の寺)である。最近 ピサヌロークから移ってきてパクワーン(phakwaan, Sauropusandrogynus)の菜園を営むターヨク
(Thayok;在家信者)がプー・ウパタム(Phu Uphatham; 施主)となって大仏が寺上の高地に建てら れつつある。タイでサクラと呼ばれるパヤ・スアクロン(phyasuakrong, Prunuscerasoldes;ヒマラヤ サクラ)の木も植える計画だ。「綺麗な花が咲けば寺に参詣者が増えるであろう」住職は目を輝かせ て話した。1980年代の国有林伐採ブームの時代に開墾者たちが建てた寺は,30年後の今,ゴム園や 菜園造成の新しい波の中で近郷都市の資本家たちの援助を受けて,変貌していく。
バーン・ナーオー寺(Wat Baan Na Oh):ダーンサーイ郡庁所在地の西の山麓の国有林内の開墾 地バーン・ホウェイオーイ集落(ムー・13,第13集落)は,国道2013号線の北に位置する。山地 ではあるが,2013号線の南,2014線沿いの集落群よりは高度は低く,早くから開墾されていた。ナー オー寺は開墾地のワット・パー(森の寺)であるが,早くも1958年に設立されている。前述のカー ンプラー寺,ナムプ寺など2014号線沿線の開墾地
と比較して30年早い。寺の施設は火葬場をはじ め,古びて簡素である。同じ国有林内の開墾地と 言っても,ゴム樹,高原野菜といった換金作物へ の投資が生む活気はこの地域にはない。
寺を1人で守るプラ・ノパポン・コッムコーは 42歳で,ウトラディット県シーラアートの出身で ある。バンコクや東北タイ各地を転々とした後,
一寺の主になりたい,開発僧プラ・パタナ(phra
phatthana)として地域に尽くしたいとナーオー寺
に止住して5年になるという話であった51。しか し,この寺は公共地(ティサータラナ)に立って いる。寺を建てることはできない…僧ノパポンの 言葉を裏付けるように,空き地にまだ新しい青銅 の遊行仏が立っていた。クン・ナーイ・レクの名
前で知られる女性が寄進したという。民兵の父親 Ph 14 ワット・ナーオー 住職
について1980年代にダーンサーイにきて,後に美容師としてチョンブリーで働き,財をなして,ダー ンサーイに家を建てたクン・ナーイ・レクはいわゆる新興長者であり,ポーンチャイ寺の在家信者の 中でも目立った存在である。「彼女が寺を建立しようとして,森林局から許可を得られなかったのか。
それとも,僧ノパポンではバーラミーが足りないと判断して運動を途中でやめ遊行仏を寄進して身を 引いたのだろうか
次の雨季前にここを立ち去るかも知れない。まずはウトラディットに母をたずねてからだが…旅を するにも心残りは18匹いる猫だ。誰か飼ってくれないか,仲立ちをしてくれないかと筆者に猫の世 話を頼んだ僧侶ノパポンはよほど落胆していたのであろう,スク(Suk還俗)してしまうかも知れな い…とつぶやいた僧の目は「悩める人」の目であった。
パー・パイ寺(Wat Pa Phai)―タマユット派:パー・パイ(Pa Phai)とは竹林の意味。この寺は ダーンサーイ郡のマハーにカーイ管区長編纂に基づく表2には記載されていないタマユット派の寺で ある。ダーンサーイ郡には,タマユット派のティパクソンはこの寺以外にもう一カ所,第10集落ナー シーティヤンにある。
パー・パイ寺は第3集落バーンダーンの山際にある。創設は1987年。現在の住職プラ・チャム ナーン・チャイヤスケシーノー(Phra Chamnan Chaiyasukesino)はウドンの出。東北タイ各地の
「森の寺」ワット・パーで8年修行した後村人の要請を受けて,この寺にきた。以来,7年になる。
タマユット派の「森の寺」は東北地方において,精霊信仰に反対し,それを撲滅する活動を行って きた歴史がある52。東北タイ各地のワット・パーで修行しパー・パイ(竹の林,野)寺に止住してい る僧は1人であることもあり,霊媒信仰反対を標榜していないという話であった53しかし,1987年 という時期,当時のダーンサーイをめぐる社会情勢,そして寺創立の地として選ばれた地を考えると,
時勢に乗って,「精霊信仰撲滅に参加」の意思があったのではなかろうか。さもなければ,わざわざ 第3集落バーンデーンに入ってこないであろう。
ここは,チャオ・ムワン・ワン側のセーンたちが 霊媒チャオ・ポー・クワンを囲んで伝統的に精霊 信仰儀礼を行ってきた地である。
Ph 15 ワット・パー・パイ境内 Ph 16 ワット・パー・パイ住職
プラタート・シー・ソンラク寺(Wat Prathat Sri Songrak)
(A) 僧侶が止住しない寺:仏塔か寺か―
バーン・ホワナー・ユーン第14集落の北端に 立つプラタート・シー・ソンラク仏塔には,既 述のように,16世紀にヴィェンチャンの王とア ユタヤーの王が相互不侵の条約を結んだ証に建 てたという縁起がある。この仏塔は1935年に 教育省から史跡として認定・登録されている54。
表2を ご覧い た だ き た い。プ ラ タ ー ト・
シー・ソンラク仏塔は,タムボン・ダーンサー イの5つのワットのうちの1つである。タイ国 教育省宗教局はプラタート・シー・ソンラク仏 塔(Wat Phrathaat Sri Son Rak)を寺として認 可しているのだ。しかし,ここには境界石55で 囲まれた布薩堂56もない。ヴィスンカーマシー マーはどこにあるのであろう。この仏塔寺には
僧侶は住止していないのだ。これで寺と言えるのだろうか。
タイ国内にもう1カ所,寺と呼ばれても僧侶が止住していない寺がある。王室守護寺院のワットプ ラ・シー・ラタナ・サースダーラーム(Wat Phra Sriratana Saasdaram)である57。プラタート・
シー・ソンラク仏塔寺は,王室守護寺院と並ぶ無僧侶寺院であるということになる。しかし,ここが ワットとして認可されたのは,なんと1982年と,たった30年前のことである。その認可の経緯を 述べれば,それはあまりに現実的,down-to-earthな事情である。バンコクの王室守護寺院と並ぶ双 璧などというレッテルはとても貼れない。そもそも,30年前までは寺ではなかったのであるし,今 でも仏塔が寺として登録されていることを知る人はダーンサーイでも少ないのである。もちろん,
ワットとは呼んでいない。
(B) 原始仏教における仏塔―話の順序として,以下に仏塔発達史の要を記し,仏塔の機能及びタ イ寺院建築史上での仏塔のあつかいについて,少し整理してみよう。
仏塔は,そもそも原始仏教の世界では,世俗の人が死者の供養のために建てるものであった。死者 のために塔を立てて供養することは,釈尊の生きた時代には一般に行われていたらしい。原始仏教経 典涅槃経が記す釈尊の言葉を読んでみよう。
死の床に伏す釈尊を前にアーナンダは問いかける。
「尊いお方よ。修行完成者のご遺体にたいしてわれわれはどのようにしたらよいのでしょうか」
「アーナンダよ。お前たちは修行完成者の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。どうか,お前た ちは,正しい目的のために努力せよ。正しい目的を実行せよ。正しい目的に向って怠らず,勤め,
専念しておれ。アーナンダよ。王族の賢者たち,バラモンの賢者たち,資産家の賢者たちで,修 行完成者(如来)に対して浄らかな信をいだいている人々がいる。かれらが,修行完成者の遺骨 の崇拝をなすであろう。」58
Ph 17 プラタート・シー・ソンラク寺仏塔
ここで「正しい目的」とは修行である。釈尊の教えは出家者は修行が目的であり,遺骨の礼拝は王 族の賢者たち,バラモンの賢者たち,資産家の賢者たちに代表される在家の人たちのやることである としている。また別の箇所で釈尊は四つ辻に仏塔を造るべきとしている59。原始仏教時代には死者の 供養のために塔を建て礼拝することは宗派を問わず,一般に広く行われていた風習であったようだ が,出家者のなすべきことではなかったことが理解できる。
タイにおける仏塔の発達―仏陀の没後盛んになった仏塔礼拝から大衆部が起こり,大乗仏教の諸派 が派生したという研究があるが60,その詳細は本文の領域を越えているので触れないでおこう。
ここでは,まずタイにおける仏塔の要を述べて,「プラタート・シー・ソンラク仏塔寺」を理解す る伝手としたい。
タイ仏塔の歴史と言えば,ダムロン・ラーチャヌパーブ殿下61の「チェディー縁起」62がある。殿 下はチェディー(Cetiya)63を4つに分類している。(1)仏舎利塔(2)遺物(boriphok)チェディー64
(3)経(4)奉納物である。チェディーという言葉を殿下は「仏陀をしのんで礼拝する伝手」の意で 使っている。仏舎利塔はチェディーの1種であるが,タイの歴史をたどると記念碑として仏塔をたて る習わしがある。記念碑としての仏塔については,本書では殿下は触れておられない。ただし18年 後,殿下の葬式布施本として始めて印刷された「考古学談義」(Nithaan Boranakhadee)65において,
殿下はスパンブリー県ドーン・チェディーの「象上の一騎打ち」仏塔発見について一文を残してい る66。ナレースワン王がアユタヤーに残した戦勝記念碑チャイモンコン仏塔についても記されてい る。しかし,プラタート・シー・ソンラク仏塔についての記述はない。フランス軍がプラタート・
シー・ソンラク仏塔前にあった碑文に目をつけ運び出したのは1903年であるが,それは当時のバン コクには知らされなかったのであろうか67。
ダムロン殿下は終生ダーンサーイには足を運ばれなかった。ご息女のピスマイ殿下がシー・ソンラ ク仏塔に参られ一文を残されるのは1955年1月のことである68。
(C) タイ伽藍における仏塔配置―タイ伽藍配置における仏塔について,見てみよう。
タイの古代美術と言えば,まずドヴァラァヴァディー期があげられるが,この期の遺跡では仏塔は あっても,同軸上に礼拝堂はみつけられない。少なくとも,煉瓦や石造の建築物は出土していない。
遺跡として伽藍内に仏塔が出土するのは,13世紀のスコータイ期からである。以降,アユタヤー,
バンコク時代へと続くタイ仏教建築の伽藍配置では仏塔は寺院の中心となり,同軸上の東正面に拝殿 あるいは仏殿が建てられ,供養はそこで行われている。
アユタヤーも後期になると,それまで奥のサンカワート(僧域)に置かれていた布薩堂が前に出て きて,主仏塔と同じ軸上に置かれる。
伽藍配置の中での仏塔の位置は,「南方小乗仏教の国々」の中で同じではない。国により,時代に より,場所により,違いがある。上座部仏教が信奉されている現代のミャンマーでは,仏塔は寺院境 内の外に置かれ,在家の委員会が管理経営している。
しかし,9世紀から16世紀までイラワジ河のほとりに栄えたパガンの都では,多様な仏教文化が 栄えた。海沿いのモン人の国から押収した南伝大蔵経とモン人の僧侶たち,工人や細工人たちはパガ ンに上座部仏教文化の花を咲かせた。12,3世紀にはインドから渡来した左派密教アーリー派はパガ ンを根拠地とした69。パガンの仏塔発展史は,タイとは全く異相である。巨大仏塔は祠堂を内蔵し
て,多重化,多層化して,寺院になっていく70。12世紀のタビンユー(Phya Thatbyinnyu)71は僧房 を内部二階に備えている。タビンユーの創設者の祖父チャンジッタ王が建てたアーナンダ(Phya
Anandaは72仏塔+祠堂の見事な合体であることも述べておこう。
(D) タイ全土における古塔の寺院化―タイに戻って,伽藍配置の中心は仏塔である。塔があれ ば,その東正面に拝殿をつくる。そこに僧侶が止住すれば,寺が出来る。タイ全国に広がる古遺跡に おいて,僧侶の止住を受けて寺院化の波が起こったのは,人口が増加する19世紀からである。中部 のナコンパトム県のプラ・パトム仏塔(Chedi Phra Pathom)73はラーマ四世,五世,六世とバンコ ク王朝三代の王の親しい支援のもとに廃墟から大寺プラ・パトム仏塔寺に変わった。布薩堂も造ら れ,僧も止住している。
タイ東北地方をその上に載せるコーラート高原には,7世紀から13世紀建造の無数のクメール遺 跡が点在している。こうした遺跡は,19,20世紀には,タイ人,ラーオ人僧侶の止住するところと なった。その背後には,新しい田を求めて移動する農民のハー・ナー・ディー現象74と頭陀僧たちの 移動と止住がある。そうした動きを黙認していた宗教局であったが,ゲリラ活動が終焉する1980年 代半ば,教育省芸術局は遺跡の中に住む僧侶たちを周辺部に移しはじめる。遺跡を文化資源として確 保し,遺品を保存するためであった。例をあげれば,ナコンラーチャーシーマー県パノムワン遺跡
(Phnom Wan)75やシーサーケート県のサ・カンペン・ヤイ(Wat Sra Khampen Yai)遺跡,ワット・
サ・カンペン・ノーイ(Wat Sra Khampen Noi)遺跡76などには,遺跡の端に堂々と立つコンクリー ト建築の布薩堂がある。
(E) プラタート・シー・ソンラクの寺としての登録―プラタート・シー・ソンラク仏塔の寺院登 録は,上記の全国的潮流とは,違う流れに属し,違う時期に起こった。
プラタート・シー・ソンラク仏塔を寺院として登録する動きが始まったのは,1981年である。そ の背後には,荒廃したプラタート・シー・ソンラク仏塔の保存修復運動があった。きっかけはタムボ ン・ダーンサーイのシー・ソンラク中学校の教師たちが学生を動員して行った仏塔周辺の整地と掃除 である。当時は五年制であったシー・ソンラク中学の生徒たちは毎週金曜日の「バムペン・プラヨー ド(善行,あるいは社会奉仕)の日」に,シー・ソンラク仏塔に出かけ,掃除していた。当時のシー・
ソンラク仏塔の塔前は,足場が悪く,でこぼことしていた。ソンクラーンの祭日に砂を持ち寄って仏 塔をつくり,整地する企画も進められたが,資金不足でなかなかはかどらない。仏塔を寺として申請 したのは,「修理のための交付金が欲しかった」ゆえであった。当時のダーンサーイ郡スクサー・ア ムプー(Sukhusa Amphur; 郡教育官)77ソムブーン氏が郡長(Nai Amphur)タワッド氏を通して,
宗教局に「寺である現状」を報告し,寺院登録を申請し,認められた。寺として登録されれば修復資 金が交付されたと,当時シー・ソンラク中学教師として保存修復運動に参加した文化省ローイ県文化 事務所長(ワタナタム・アムバー;Watthanatham Amphur)サムリット・スパマー氏は述懐する78。 もとよりタイでは,ミャンマーと違って,仏塔を寺と認めるハードルは高くなかった。運動の結果,
シー・ソンラク仏塔が寺として認められると,修理のための金が交付され,仏塔前の小屋がけ祠堂は コンクリート製のヴィハーン(Vihaan; 堂)となった。サーラー(Sala; 休憩所)も設けられた。そん な動きに連動して,同じ教育省内でも史跡遺跡の保存を担当する芸術局は,1982年10月21日布告で プラタート・シー・ソンラク遺跡の面積範囲を1962年遺跡遺物博物館法に基づき指定している79。
(F) プラタート・シー・ソンラク寺のヴィスンカーマシーマー―仏塔前のヴィハーンはウボー
ソット(Ubosot; 布薩堂)ではないというのがサムリット氏の意見である。確かに仏塔前にも周辺に
も,浄域を区画する境界石バイ・シーマー(Bai Sima)がないことは既述した。しかし,表2によれ ば,プラタート・シー・ソンラク仏塔は1560年に建設され,ヴィスンカーマシーマー取得は1566 年5月19日とされているのだ。これはいかなる根拠に基づくものであろうか?
サムリット氏はこう述懐する。「まぁ申請書にそ ういう欄があって,それを埋めなければならない から書いたまででしょう。その頃はそれで良かっ たんです」プラタート・シー・ソンラク仏塔が何 月に建てられアユタヤーとヴィェンチャンの相互 不侵の誓いの儀式が何時執り行われたのか伝承に は語られていない。しかし,ヴィスンカーマシー マー取得は1566年5月19日とあるのは「六の月 の満月の夜」ではないか?これは毎年プラタート・
シー・ソンラク仏塔で行われる大供養の日にあた る。仏塔祭りである。
仏塔祭りはタイ暦六の月の白分13夜から始ま る。まず第一日目が仏塔洗い。クワンに率いられ たセーンたちが仏塔に上り水をかける。その翌日 に仏塔供養のために出家する青年たちのナーグ式81 がポーンチャイ寺で行われる。僧侶志願者たちは 髪をそりナーグとなる。そして,15夜仏塔祭りの 日にナーグたちは親戚につきそわれポーンチャイ 寺からトラックに乗り,色とりどりの大傘をかざ して壮麗な煉り行列をくりひろげて,仏塔にいた る。きらびやかな衣をつけ頭を青く剃った2,30 人の青年たちが一斉に受戒する式は仏塔祭りの一 つの圧巻である。この出家は短期間のもので,1週 間程度である。
実はこれは浄域内での受戒ではない――という のが,サムリット氏の言であるが,氏は同時にアッ タカード・カンダーン(attakhad kahndaan; 辺鄙 な地)での習わしとして許されるべきであろうし,
その根底には「かつてヴィエンチャンとアユタヤー の王たちが認めた」という伝承が生きていると付 言している。ただし仏塔祭りに受戒式を行うこと が古来からの慣習であるかどうかは言いがたい。
Ph 18 仏塔祭りに先立ち 男霊媒たちが 仏塔を洗う
Ph 19 仏塔前で受戒しようとするナーグ は親族にかつがれて