重松:スポーツを見ることの概念的研究 PNNOMMVOTQQ
スポーツを見ることの概念的研究
―蓮實のスポーツ批評とウィトゲンシュタインのアスペクト論から―
1 原著論文重 松 大
(筑波大学大学院)ON A conceptual study on “seeing” sports: through Hasumi’s sports criticism and Wittgenstein’s arguments on aspect O Dai SHIGEMATSU, The University of Tsukuba, NJNJN, Tennodai, Tsukuba, Ibaraki, PMRJURTQ
Abstract
The purpose of this paper is to understand “seeing” sports by interpreting Hasumi’s “criticism on sports” through Wittgenstein's arguments on “aspect”. In arguing on “aspect”, Wittgenstein showed some figures such as “duck-rabbit”, “double cross” and a “triangle” which we can see as two or more different things. In this paper we pointed out three important features of such arguments as follows:
1) If you want to tell someone what aspect you see, you should say “I see it as...” rather than “I see this” pointing at it with your finger.
2) Seeing an aspect is not a “perception of a property of a thing” but “perception of a thing”, so it is a matter of “what it is”.
3) When you see a thing, it is in a context of familiarity that you know what that thing is. This is called “context-ladenness of perception”.
From such viewpoints, we can interpret Hasumi’s words “see movement as movement” as “see an aspect of movement” or “see movement in its nature”. When we see a movement or a play in fascination, we see it in this way. This is distinguished from seeing just the result of the movement, which is external to the movement.
However, Hasumi’s word “movement” seems to be vague and to have multiple meanings. It can be aptly and consistently understood as “movement seen in its nature” or, in Wittgenstein’s terminology, in its “inner relation”. This is a kind of circular argument but it is the essential nature of the structure of our perception i.e. “context-ladenness of perception”.
We can also point out that although Hasumi is a “nonprofessional”, not an athlete or a coach or even a professional sport critic, he sees movement. Nevertheless, there is a difference between a professional and nonprofessional in what they see. A professional sees an event in the sport with more knowledge compare to a nonprofessional. Knowledge here is the context of the event, and we can understand this as that they see different things from the viewpoint of
“context-ladenness of perception”. Through acquiring more knowledge and practice with using it, we can see sports in the same way as a professional.
In short, of our perception is there a structure of “context-ladenness” and thus we can say as follows. 1) Seeing sports is seeing sports itself in its inner relation to the context.
2) A nonprofessional can see sports as well as a professional but in a sense they see different things because their knowledge, which are parts of the context, are different.
Key words: movement, aspect, seeing, “seeing as...”, context
キーワード:運動,アスペクト,見る,「...として見る」,文脈
1. はじめに
1.1.研究の背景 競技スポーツにおいては,試合や大会で勝利 していくことが中心的な目標の一つであると考 えられる.中でもサッカーにおいては,世界中 の国や地域の代表チームで争われるワールド カップでの優勝が,現在のところ最も大きな目 標とされている.日本でも,ワールドカップ での勝利および成績向上を目指し,NVVP年のJ リーグ開幕以降には,代表チームがNVVU年から OMMS年までのP大会連続でワールドカップ出場 を果たすなど,一定の成果をあげてきている. そのような中,日本サッカー協会(JFA )は 『JFAOMMR年宣言』NFを示している.その宣言 において提示されている目標は,OMRM年には 「サッカーファミリーがNMMM万人」になり,さ らに「FIFAワールドカップを日本で開催し, 日本代表チームはその大会で優勝チームとな る」というものである.また,OMMU年には『JFA OMMR年宣言 実現に向けたロードマップ』OFを提 示している.このロードマップは,第一に小学 校年代を中心とする選手達に注目し,プレーの 質を高めていくことと同時に,サッカーをプ レーする楽しみを伝えて普及を図ることを提唱 している.また,選手への接し方や応援する態 度などの周囲の大人たちの振舞いや,試合方式 をはじめとするシステム面など,選手にとって の環境を整備していくことも重要視している. その一方で,JFAのこうした取り組みにおい ては,サッカーを「見る」ことへの言及が見ら れない.「見る」楽しみはサッカーファミリー の増員につながるであろうし,「見る」ことが プレーの向上につながる可能性も否定できない にも関わらず,である. そうしたサッカーを見るということに関して も,日本と「世界」の間には大きな開きがある のではないだろうか.たとえば,筆者自身はイ ングランドのプレミアリーグの試合を現地で観 戦したことがあるが,そこでの周囲の観衆の反 応は,前線でボールを奪われたフォワードがす ばやく切り替えて守備をすることで相手のカウ ンター攻撃を未然に防いだシーンに拍手を送る など,明らかにサッカーをよく知っていること を示していたPF.それに対して,OMMO年のワー ルドカップの日本代表チームの試合を,「パブ リックビューイング」で観戦した際には,筆者 から見れば日本のディフェンダーがシュート コースをふさいでいるシーンでも,相手チーム の選手がペナルティエリアに近づきシュート体 勢に入ったときには周囲から悲鳴が聞こえてく るといった状況であった.サッカーを見るときの楽しみ方が人それぞれとはいえ,こうした日 本の状況を先のイングランドの様子と比較して しまうと,「世界との差」を感じざるをえない のである.少なくとも,日本がワールドカップ での優勝を目指すのであれば,この差は,これ から育っていく選手たちの「環境」の問題とし て,埋められ,乗り越えられていかなければな らない.というのは,一つにはそうした観戦の 場において,選手たちは時に周囲の観衆から サッカーの「見方」を学び,そしてサッカーを 学んでいくことになると考えられるからであ る.また,もう一つには,観衆の「目が肥え る」ことで,見られている選手たちがより厳し い批評にさらされることになり,そうした甘え の許されない環境でプレーしていくことでプ レーに磨きをかけていくことができるようにな ると考えられるからである. スポーツの哲学という研究領域において,こ うした問題に対してなしうる寄与としては, 「サッカーを見る」といったことがどのような ことであり,そこにおける「差」が何なのかと いうことを,概念的な考察によって明らかにす ることであろう.そしてこのことは,教育・指 導といった,より具体的で実践的な場面のため の方法論に対して,基盤を与えるものとなると 考えられる. 1.2.先行文献の検討および研究の目的 実践的な運動指導場面を念頭におきながら, 運動をいかに捉え,そしてまたいかに伝えるか ということを取り扱っているのが,運動学領域 における諸研究である.つまり,そこでは実践 に生かすことのできる運動の見方が研究されて いるのである. 例えば金子は『わざの伝承』QFにおいて,人 間運動を定量化する科学的運動分析に対して批 判を加え,それに代えてゲーテの形態学(モル フォロギー)を元にして運動を捉えていくこと を提唱している.金子によれば,科学的な運動 分析における運動の計測とは,「すでに行われ た運動について,その運動体が空間に描いた軌 跡を問題にしている」のであり,「そこでは, <行われつつある運動>,<動きそのもの>が問 題にされているわけではない」RF.そして,運 動の実践の場における新たな運動の発生や伝承 に目を向ける運動学において問題とされ,対象 とされるべきなのは,「今ここで行われつつあ る動きそのもの」SFであり,そうした研究は, 「その源流をゲーテの形態学思想に遡る」TFの だという. しかしながら,こうした運動学の研究は,人 間の身体の動きという意味での運動を主題とす るものである.それに対して,サッカーをはじ めとする様々なスポーツにおいてわれわれが見 るのは,そうした意味での運動だけではない. 確かに体操競技などでは,ある程度規定された 動作を精確に行なうことが勝利につながるため に,そうした意味での運動が大きな意義をも ち,そうした身体の動きを中心にそのスポーツ を見るということになるだろう.しかし,われ われがサッカーを見る際には,身体の動きとし ての運動だけでなく,同時にチームとしての戦 い方や,そうした戦術を体現していく選手たち の知性や意図をも見ているように思われるので ある.このように考えると,特にサッカーのよ うな種目を見るという場合には,運動学的な運 動への視線だけでその全容を十分に捉えること はできないことになるであろう. こうした「実践」との関わりで論じられたも のとは異なり,スポーツにおけるさまざまな場 面を取り上げ,より大きな広がりを持つ意味で 「運動」を見ることを論じているものに,蓮實の 『スポーツ批評宣言―あるいは運動の擁護』UF がある.蓮實は自らを「素人」と評しながら も,次のように述べている. 私としては「単に運動を運動として見るため に,人々は運動以外のところから目を逸らすべき
である」とだけを言ってきたつもりなのです.動 体視力の弱いものは,運動について語るなといっ ていただけですVF ここからは次のような興味深い見解を引き出 すことができる.まずは,「運動を運動として 見る」ということと「運動以外のところ」を見 るということとの区別があげられる.ここでの 「運動」とは,物理学的な意味での運動などで ないばかりか運動学において取り扱われるよう な,専門家の目だけが見て取る身体の動きとし ての運動でもなく,サッカーのプレーなどのス ポーツの場でまさに「生起していること」を意 味している.その意味で,それは「現象」と いった言葉に置き換えることもできるようなも のである. また,「素人」を自認する蓮實自身が決して 「動体視力の弱い」ものとして語ってはいない ということにも注目しておくべきであろう.も ちろんここでの「素人」は,単にスポーツについ て何も知らない人物ということではないがNMF, 蓮實はスポーツ評論の専門家ではなく映画評論 家でありNNF,その視点はスポーツの実践や指導 といった「現場」からのものでもない.その蓮 實が「運動」を見ているというのであれば,自 ら運動を「できる」実践者や指導者の立場から 運動感覚を中心として「見る」ことを理解する 考えに対する頂門の一針となる可能性を秘めて いるのである. こうした蓮實の批評の背後には非常に重要な 洞察があるように思われるが,その洞察は一般 的・抽象的な形で述べられてはいない.それこ そが批評たる所以でもあろうが,そうした洞察 は,具体的な場面を取り上げ,そこにコメント を加える形で示されるのみなのである. そこで,蓮實の洞察をより明らかな形で提示 するために,他の論者の主張と比較対照すると いう方法が考えられるだろう.たとえば,佐伯 は「観戦文化」という見地から,スポーツのプ レーと観客の関わりについて論じているNOF.こ こでいう観戦文化とは,ある社会の人々のプ レーについての好みであり,それはプレーへの 反応として表出され,選手たちのプレーに影響 を与えているという.例として佐伯が挙げるの は,メジャーリーグでのマグワイアのホームラ ン数の大記録の誕生とその背景である.アメリ カの観戦文化では,直球で力と力の勝負を挑む ことがよしとされるために,選手たちはそのよ うなプレーを選択し,その結果として,大記録 が生まれたと説明するのである. この佐伯の挙げる例においては,単に打った か打たなかったかという結果だけでなく,投手 の投げたボールが変化球であったか,直球で あったかも観客たちが見て取っている場面が想 定されていることになるだろう.少なくともこ の意味において,佐伯の想定する観客は,運動 を見てとっているのである. しかし,ここではむしろ,蓮實において敏感 に感じ取られていたものが,単に前提されてし まってはいないだろうか.つまり,蓮實が指摘 していたのが「運動」を見て取るか否か,とい う問題であったのに対して,佐伯の焦点は観客 の反応にあり,そのように反応を問題にするた めには,運動それ自体を観客が見て取っている ことは前提とされなければならないと考えられ るのである.それゆえ,この佐伯の観戦文化論 は,蓮實の問題意識を鮮明にすべく対照する議 論としては,適切なものとは言えない. このことから逆に言えば,われわれがここで 蓮實のスポーツ批評と対照してみるべきなの は,「運動」を見て取るか否かに焦点を当てた 考察なのである.しかし,運動やスポーツに関 する研究においては,管見の限りではそのよう な研究は見られない. そこで本稿においては,いったん運動やス ポーツの研究から離れ,哲学の業績の中に対照 すべき議論を見出すこととしたい.ここで取り上 げるのは,ウィトゲンシュタイン(Wittgenstein,
Ludwig NUUV-NVRN)の「アスペクト(Aspekt)」 についての議論(以下では「アスペクト論」とす る)である.ウィトゲンシュタインは,「見 る」ということを,単なる物理学的,もしくは 生理学的な現象としてではなく,知識や理解な どと関わり,「見て取る」といったことも含ん で理解されることとして,適切な形で描き出し ている.そうした議論をいわば視点として設定 し,対照しつつ検討していくことで,蓮實の洞察 をより明確な形で提示することができるだろう. ここで本研究の目的をまとめれば,ウィトゲ ンシュタインの提示した「アスペクト論」を通 して蓮實のスポーツ批評の意味するところを明 確化すること,となる.そして,この明確化に よって,スポーツ,とりわけサッカーのような ゲームを見るということそれ自体についての考 察を展開する足がかりを作っていくことを目指 すのである. なお,本研究はウィトゲンシュタイン哲学の 解釈を目的とするものではない.それゆえ,以 下ではスポーツを見ることについての考察に求 められる限りで「アスペクト論」を展開する.ま た,この「アスペクト論」については,一定の重 要性が認められ,諸研究者による解釈,および 検討が既になされているNPF.そこで,以下では 先行研究を積極的に援用しつつ,「アスペクト 論」の概要を述べていく.
2.アスペクト論
2.1.アスペクト ウィトゲンシュタインは,『哲学探究』第二 部十一節で次のように述べている. 私は一つの顔を見て,それがもう一つの顔と類似 していることに突然気づく.私はそれが変化しな かったことを見ている.そして,それでもそれを違っ たように見ている.この体験を私は「あるアスペク トの認知(das Bemerken eines Aspekts)」と呼ぶNQFここでは,「類似に気づく」ことがアスペク トの認知と呼ばれている.さらに,その少し前 に置かれた「ベメルクンク(考察)」NRFにおい て , 同 様 の 「 類 似 性 を 見 る 」 と い う こ と が 「『私はこれを見ている』(それからある記 述,あるデッサン,ある模写が続く)」NSFとい うことと,見る「対象」のカテゴリーについて 区別されているのであるNTF.この区別は,アス ペクト論を理解するにあたって重要なものとな る.その理解を助けるために,まずはアスペク トの認知が典型的に起こる場面としてウィトゲ ンシュタインが用いている例をいくつか挙げて おくことにしたい. アスペクトについて論じるにあたり,ウィト ゲンシュタインは「ネッカー図形やジャスト ロー図形に代表されるような反転図形を観察す る」NUF場面を取り上げている.例えば,ジャス トロー図形(図 N)はウィトゲンシュタインに おいては「うさぎ−あひるの頭(H-E-Kopf)」 とも呼ばれるが,その呼び名の通り,うさぎに もあひるにも見える図であるNVF.もしもこの図 をうさぎとして見ている人がそのことを他の人 に伝えようとして,図を指差しながら「わたし はこれを見ている」と言ったとしても,自分が うさぎを見ているということを的確に伝えるこ とはできない.というのは,もしもその相手が 「うさぎ−あひるの頭」をうさぎではなくあひ るとして見ていたとすれば,「これ」と言われ た側は自分と同じあひるを見ていると捉えてし まい,その結果として場合によっては齟齬が生 じることになるからであるOMF. また,二重十字形(Doppelkreuz)と呼ばれ 図1 うさぎ−あひるの頭 、、 、、、、、 、、 、、、、、
る,黒地に白い十字形とも,白地に黒い十字形 とも見ることができる図形も例として挙げられ る(図 O)ONF. この場合にも,「これを見ている」と言って 指差すことでは,黒十字を見ているのか白十字 を見ているのかを相手に伝えることはできな い.ここで自分の見ているものを伝えるために は,「独立した白い十字と独立した黒い十字を 交互に指し示す」OOFといったことが求められる のである. 両者に共通するのは,「これを見ている」と 言って直示することでは自分の見ているものを 伝えることができないということである.その 一方で,両者には相違点もある.それは,「二 重十字形」の場合には特に知識を必要としない のに対して,「うさぎ−あひるの頭」の場合に は,例えばうさぎを全く知らない者にはうさぎ を見ることはできないということである.そう した人があひる,もしくはそれに類する鳥を 知っており,図形を鳥としてのみ見ている場合 には,「あらゆる種類のうさぎ像を指し示し, おそらくは現実のうさぎを指し示して,その動物 の生活について語り,あるいはそのまねを」OPF することで自分の見ているものを伝えなければ ならないであろう. これらの例からわかるように,「アスペク ト」とは,直示しながらの「これを見る」とい うやり方では伝えることができず,それぞれの 状況において適切な仕方で伝えられなければな らないものなのである.そしてまた,何らかの アスペクトを見ているという事態を表そうとす るとき,われわれはしばしば「...として見て いる」という表現を用いるのである. こうした「アスペクトの知覚」を,守屋は 「<これを見る>語法と<として見る>語法と の文法的な区別」OQFによって理解しようとして いる.そして,そこで区別される両者は,二つ の視点から特徴付けられている. 第一の視点は,<これを見る>の「これ」の 指示するものが外延的存在者であると考えられ るのに対して,<として見る>語法により特徴付 けられるアスペクトが,内包的(intensional) 存在者であるというものである.ここで言う外 延的存在者とは,「明けの明星」という名で呼 ばれようと「宵の明星」という名で呼ばれよう と,どちらの場合でも同じもの(ここでは金 星)が指示されていると言われるような対象で ある.それに対して内包的存在者の場合には, 「明けの明星」と「宵の明星」が同じものであ ることは必ずしも含意されない.「あるものを 明けの明星として見ている」という文と「ある ものを宵の明星として見ている」という文を考 えれば,両者の意味することが異なることを見 て取れるだろう.この場合,前者が真であって も,後者が真であるとは限らない. 第二の視点は,アスペクトの知覚が「単なる 受動的感覚ではなく,『知る』・『わかる』と いう『知性的』作用」ORF,そして「志向作用」OSF だというものである.「……を見ている」とい う場合には,見ている人が「……」を知っている ことは必ずしも含意されないが,「……として見 ている」という場合には,見ている人が「……」 を知っていることは含意されるのである. 守屋の提示する二つの視点を端的にまとめる ならば,「内包的」と「知性的」ということになる であろう.そして,この二つは,互いに関係し 合っている.以下では主に野家の論を援用し, 理解を深めていくことにしたい. 2.2.「事物の知覚」と「事物の性質の知覚」 野家によれば,「アスペクト知覚」の問題 図2 二重十字形 、、 、、 、、、、、、、、 、、
は,「感覚与件理論」への批判として読むこと によって理解することができるというOTF.この 「感覚与件理論」とは,NVOM∼PM年代にかけ て,シュリックやカルナップらを中心とする ウィーン学団を中心として展開された論理実証 主義(logical positivism)の知覚の理論である. 論理実証主義の方法は,「論理分析」と「検 証」によって特徴付けることができる.論理分析 とは,現代記号論理学の方法を用いて経験的な 命題を「プロトコル命題(protocol sentence)」 にまで分析することである.プロトコル命題と は「他の命題に依存せず真偽が定まるような直 接的体験についての命題」OUFであり,直接的体 験との関係においてなされるプロトコル命題の 真偽の決定が検証である.そして,「感覚与件 (sense data)」とは,そのプロトコル命題の内 容とされているOVF.すなわち,感覚与件とは, 直接的体験とも言い換えられるものである. 感覚与件が直接的体験であるということは, そこに現れているのが机やいすなどの通常のモ ノではなく,色や形のようなものであるという ことである.というのは,例えばそこに現れて いるものが椅子というモノであるという場合 は,いすの文化を持たない人々がそれを机とみ なしてしまうというような文化的解釈の影響が 考えられ,それゆえに間接的なものだと考えら れるからである.逆に,そうしたモノを捉える ことから文化的解釈を取り除いたときに残る直 接的な色や形の体験こそが,感覚与件というこ とになるだろう.論理実証主義においてはわれ われの通常の知覚はこのように,「感覚与件+ 解釈」という二段階的な構制として理解される ことになるのであるPMF. これに対して,野家によれば,ウィトゲン シュタインのアスペクト論は,「感覚与件+解 釈」という知覚についての二段階的な理解を批 判し,一段階的な理解を提示するものだという のである.では,その批判,そして「一段階的 な理解」とはどのようなものなのであろうか. ここでは「うさぎ−あひるの頭」を例にとっ て考えてみることにしよう.この場合に,「二 段階的な理解」をしようとするならば,「感覚 与件」と「解釈」をどのように指摘することが できるだろうか.少なくとも,ある時にはうさ ぎに見え,ある時はあひるに見えるのだから, うさぎやあひるが解釈されるべき「感覚与件」 であると考えることは困難であろう.だが,そ れゆえにうさぎやあひるという複数の「見え」 を「解釈」だとすることにもまた,問題があ る.なぜならば,それらを「解釈」とするので あれば,そこで解釈されるべきものが指摘され なければならないが,そのようなことは不可能 だからである.ウィトゲンシュタインはこのこ とを次のように述べている. そこで人はおそらくこう答えたくなるだろう. 解釈を用いての直接的な体験,視覚体験の記述 は,一つの間接的な記述である,と.……しか し,もしもそのようなことであるならば,私はそ れを知っているのでなければならないであろう. 私はその体験を直接に,そして単に間接的にでは なく指示することができるのでなくてはならない だろうPNF もちろん,うさぎでもあひるでもない「線 画」をそうした対象と考えることもできない. われわれがそこに線画を見ている時には,そこ に見られているものは端的に線画なのであっ て,その意味で,線画はうさぎやあひると変わ るところのない一つのアスペクトなのである. 線画に何かを加えてうさぎやあひるが現れると 考えることはできないし,うさぎと線画の交代 はうさぎとあひるの交代と同様の出来事であろ うPOF. ここでのもう一つの道は,「解釈」をここま で考えてきたような通常の意味ではなく,特殊 哲学的な意味PPFで考えるということかもしれな い.しかし,それが通常の意味で用いられてい
るのではないとすれば,その意味をわれわれは どのようにして理解することができるというの だろうか.それがもしもこの場面でしか用いら れない意味であるというのならば,そのような ものは適切な説明であるということはできない であろう. われわれが何かを見るというとき,見られた ものは確かに「解釈」と呼びたくなるような, 意味あるものとして捉えられている.しかし, われわれはそこに端的にうさぎやあひるを見る のであり,そのように意味あるものとして対象 を捉えることこそが,「見る」ということなの である.そこに「解釈」という契機を持ち込む ために,「感覚与件」という余分なものを作り 出すべきではないのである. このように述べたからといって,「見る」こ とにかかわっては「解釈」と言われる全てのこ とがありえないというわけではないPQF.そのひ とつの例は,野家によって提示されている.そ れは,一枚の硬貨のさまざまな見えというもの であるPRF.ある一枚の硬貨は,見る角度を変え ることによって真円にも楕円にも,また長方形 にも見えるであろう.野家は,この事象の場合 には,「二元論的な解釈」が可能だと言う.つ まり,同一不変の一枚の硬貨という客観的な対 象があり,それに加えて見る人間の主観によっ て多様な「見え」が現れる,という理解である. これに対して,二元論的解釈が不可能な例と して挙げられるのは,対象が場合によって十円 玉に見えたり百円玉に見えたりする,というこ とである.野家自身が言うようにこの例はいさ さか人工的であるが,その分だけ,どのような 意図を持って示された例であるかを見通すこと は容易であろう.つまり,硬貨の形の多様な 「見え」がある同一不変な対象についてのもの だったのに対して,これはその対象が「何であ るか」ということ自体が変化してしまう場合の 例として提示されたものなのである. 「見る」ことと「解釈する」こと,そして 「十円玉か百円玉かの変化」ということと「あ る硬貨の(平面的な)形の見る角度による変 化」という二つの区別の間に見られるような同 型性を,野家は「事物の知覚」と「事物の性質 の知覚」と呼んでいるP S F.「事物の知覚」と は,「それが何であるか」を捉えることであ り,「見る」こと,そして「十円玉/百円玉」 ということに対応する.他方,「事物の性質の 知覚」の場合には,その対象が何であるかは変 化しない.そして,こちらは「解釈する」こと や,一枚の硬貨の「見え」の変化に対応するこ とになるのである.ここに見られるように,ア スペクトを見るということは,その事物が「何 であるか」に関する問題であるという意味で, 事物の本質規定に関わっていると言うことがで きる.これは,守屋の「内包的」という視点に 対応することになる. 2.3.「知覚の文脈負荷性」と「内的/外的」 ここでもう一歩踏み込んで,「事物の本質規 定」ということに光を当て,アスペクトの問題 についての理解を深めておくことにしたい.こ れによって,「知性的」という守屋のもうひと つの視点も理解されることになるだろう. ウィトゲンシュタインの哲学において,ある ものが何であるのかを規定するのは,「本質的 属性(essential attribute)」,すなわち「事物の もつ,その存立に欠かせない性質」PTFとして考 えられるのではない.もちろん,ある事物の存 立に必要不可欠なものについて考えられてはい るが,それはその事物に内在する性質ではない のである. いわばこうした本質は,ウィトゲンシュタイン においては「内的性質(interne Eigenschaft)」PUF, もしくは「内的関係(interne Relation)」PVFと いう言葉で表される.その「内的関係」を野家 は,「知覚対象の『構造的契機』ないしは『文 脈的契機』」とも表現しているQMF.この文脈的 契機という表現を理解するためには,野家による
「知覚の文脈負荷性」QNFのまとめが助けとなる. まず,「知覚の文脈負荷性」という表現は, ハンソンの「観察の理論負荷性」というテーゼ をもとにしたものであるQOF.そのハンソンの主 張は科学哲学の領域におけるものであり,その 内容は,科学理論を裏付けるものとみなされて いる「観察」が,実は理論に支えられていると いうものである.それは,天体の観察と,地動 説/天動説という理論を例にあげれば,次のよ うになる.すなわち,この場合,異なる理論を 持つ二人の学者はそれぞれ,静止して動かない 太陽と,地球の周りを巡るように動く太陽を見 るのであるQPF.こうした二通りの「見え」は, うさぎに囲まれた「うさぎ−あひるの頭」とあ ひるに囲まれた「うさぎ−あひるの頭」の二通 りの「見え」ないしは二つの事物と類比的に理 解することができるであろう. この「観察の理論負荷性」から帰結するの は,例えば地動説と天動説のどちらの理論が正 しいのか,それを決定するような「観察」があ りえないということである.つまり,そこに 「何が」観察されるかは,どのような理論にお いてそれが見られているかによって異なること になり,「観察」は「理論」とは独立ではない ことになるのである.ここで,「何であるか」 の理解を伴う「観察」に対して,そうした理解 の基盤となる「理論」は論理的に先行している ということができるだろう.その一方で,そう した「理論」の形成は,通常は「観察」を通し て行なわれる.つまり,まず「観察」された物 事があり,それを理解し,説明を加えるために 理論が考え出されるのであるQQF.そうなると, 「観察」が一方的に「理論」を説明し,正誤を 決定するということではなく,むしろ両者の間 には循環関係があるということになるのである. この「観察」と「理論」の非独立性を示す議 論は,科学哲学の領域においては大きな反響を 呼んだのであるが,われわれにとって重要なの は,その内容である.上に見たような内容につ いて野家は,ハンソンとウィトゲンシュタイン の両者に共通して感覚与件理論への批判を見て 取ることができることを確認し,さらに両者の 論が内容的にも重なるものであることを指摘す ることで,ウィトゲンシュタインの考察の,科 学哲学の領域への妥当な適用であると結論付け ているQRF.つまり,ウィトゲンシュタインの考 察からは,端的な「『見る』のレベルにおいて すら,日常的な信念体系に由来する『負荷』は かかっている」QSFことが導かれるのに対して, ハンソンの主張はそのことを「科学的な信念体 系に由来する『負荷』」として読み替えたもの と考えられるというのである. 見ることへの負荷として働く「科学的な信念 体系」や「日常的な信念体系」を,野家は「熟 知性(Wohlbekanntheit)」という概念から特徴 付けている.「熟知性」とは,もともとウィト ゲンシュタインの用語であり,文字通りよく 知っていること,あるいは慣れ親しんでいるこ とであるQTF.ただし,ここでの「知っている」 ということは,客体としての既存の知識体系に 関してのみ言われることではない.知られてい る事柄としては,あるものの特徴や,それがど のように呼ばれるか,さらにそれがどのように 使われるかということなど,多様な場合が含ま れる.そして,そのいずれの場合においても, 問題とされているのは主体的,もしくは個人的 な知識なのであるQUF.それはすなわち,ある人 が経験を通して慣れ親しんでいることとも言え るだろう.われわれは,この個人的な知識とし ての「熟知性」を支えに,通常の「事物の知 覚」をしていると考えられるのである. この「熟知性」については,逆に,知らない ものとしての「奇妙なもの」について考えるこ とで,理解を深めることができる.例えば,わ れわれが視界の中のある一点に何か「奇妙なも の」を認める場合,その「奇妙なもの」は,未 知のものである場合もあれば,そのもの自体は 知っていても,場違いなところにあるためにそ 、 、 、
のものであることが気づかれていないという場 合もある.しかし,どちらの場合においても, その「奇妙なもの」は,何であるかの規定を背 負ったものとしての,通常の意味での「事物」 として知覚されてはいない.ただし,それがい かに「奇妙なもの」としてであっても,周囲の 景色にとけ込むことなく,ある「もの」として われわれの気を引いているということもまた事 実である.このように何かが「奇妙なもの」で あるということは,その「奇妙なもの」を取り 巻いている周囲の景色などの背景については, 奇妙なのではなく,むしろ慣れ親しみ,よく 知ったものであることを基盤として成り立って いると考えることができる.というのは,もし も視界の中すべてが奇妙であるということが あったならば,われわれは何かを「奇妙なも の」として認めることすらないからである. こうしたことを,さらに具体的に,慣れ親し んだ自分の机を見るという場合について考えて みよう.その机が慣れ親しんだ部屋の中にいつ も通り置かれている場合には,取り立てて意識 することもなく,われわれはそれを端的に自分 の机として見ている.そして,われわれが「熟 知性」の負荷のもとに事物を知覚しているとい うことは,その机が何か奇妙な,場違いなとこ ろに置かれるようなときに意識されてくるので ある.奇妙で場違いな状況に置かれたその机 は,確かに自分の机ではあっても,「慣れ親し んだあの机」とは違うものとして現われること になるだろうQVF. このように考えるとき,「そのものが何であ るか」,すなわち「本質」は,「状況」もしく は「文脈」によって規定されてくるということ になる.こうした考えを端的に表したのが,先 の「知覚の文脈負荷性」であり,文脈負荷的に なされる知覚において対象を存立させている 「本質」が,「文脈的契機」と呼ばれていたの である.また,「構造的契機」という表現も, 対象がそれ自体において成り立つのではなく, 文脈という構造において成り立っているという 事態を現していると考えられるだろう.そして それは,「本質」であるがゆえに「内的」とさ れる一方,その事物を取り囲む文脈に関わって くるという意味で「関係」なのであり,それゆ えに「内的関係」と呼ばれるのである. さて,この「内的」ということを理解するた めには,それに対応して「外的」ということも 押さえておくべきであろう.「外的」とは, 「内的」が「本質」に関わることであったのに 対して,「本質」には関わらず,その事物が 「何であるか」とは関係のないこととして理解 すべきものである.その例として挙げられるの は,前節で見た一枚の硬貨の「形」というもの であろう.この「形」は確かにその硬貨の属 性,もしくは性質であるが,本質的ではないの で,「外的性質」と呼ばれるべきものである. そして,この「硬貨の形」の場合に限らず,先 に「事物の性質の知覚」として「事物の知覚」 から区別されたのは,こうした「外的性質」を 捉えることだったのである.
3.運動を「見る」こと
3.1.運動を運動として見ること ここまでウィトゲンシュタインの「アスペク ト論」を概観してきたが,果たしてこれを,蓮 實のスポーツ批評と重ね合わせることができる のであろうか. ここで注目すべきなのは,蓮實の「単に運動 を運動として見る」という表現である.この 「として見る」という表現は,先に見たよう に,アスペクトを認知している状況を述べよう とするときに特徴的に見られるものなのであっ た.すると,蓮實は,自らが捉えているあるア スペクトをわれわれに伝えようとしているので はないだろうか. そのことを明らかにするためには,蓮實の伝 えようとしているものが「これを見ている」と 、、 、 、 、 、 、 、、言って直示することによって伝えることができ るかどうかを考えてみればよい.ここで考える べき状況とは,直示が可能なものなのだから, 彼と他の人が一緒にスポーツの試合を見ている といった状況であることになろう.そうしたと きに,蓮實が何かを指差して「これを見てい る」と言ったとして,一緒にいる人はその同じ ものを見ることになるだろうか.その答えは 「否」である.ここで彼が見ており,伝えよう としているもの,すなわち「運動」は,サッ カーボールのように直接指し示すことで伝達で きるものではないのである.というのは,「う さぎ−あひるの頭」がうさぎにもあひるにも見 えたように,そのスポーツの試合も,「運動」 として見ることもできれば,「反=動的」に見 ることもできるからであるRMF.当然,「反=動 的」に見ている人には,「これ」と指示したと ころで「運動」は見えてこない. この「反=動的」と「運動」の対比として捉 えられるのは,例えば蓮實のあげる次のような 例である. 松井秀喜のメジャー・リーグでのホームランを 見て,「ああやっと松井もホームランを打ててよ かった」としか言えず,彼のホームランを誰も惚 れ惚れとは見ていないRNF ここで「ホームランを打ててよかった」とし か言えない人は,蓮實の言葉で言えば「反=動 的」であり,「打った」という事実,もしくは 結果のみに注意を向けていて,松井のホームラ ンという「運動」を見てはいないのである.そ して,「運動」を見ているという人は,松井の ホームランを惚れ惚れと見るということになる であろう.そしてこのとき,両者は確かに同じ 「松井のホームラン」を見ているのではある が,それを互いに全く異なるものとして見てい るのである. このように考えると,蓮實の言葉は,アスペ クト論と重なってくることになる.そして, 「運動」を見るということは,運動の「内的性 質」,すなわちその「本質」を捉えるというこ とになるのである.彼の「『運動』が嫌いな人 類にさからって,スポーツを見なければならな い.『運動』にふさわしくスポーツを見なけれ ばなりません」ROFという言葉も,そうしたこと を表現しているのであろう.これに対応して, 「外的」なものについて述べることも可能であ る.外的なもの,すなわち運動以外のものにば かり目を向ける者の代表として振舞っているの は,蓮實によれば,日本のジャーナリストたち なのである.そのジャーナリストたちが行なう ことは,サッカーの試合後のインタビューで 「気持ち」を聞くことなのであり,また「運 動」をその結果としての数字に還元してしまう ことなのであるRPF.付け加えて言うならば,そ のように運動を外的なものへ還元してしまうこ とが,本質的なもの,すなわちそれが何であるか を覆い隠してしまうために,蓮實はこのような 警戒・抵抗意識を見せているのであろう. 3.2. 「運動」の意味するもの こうして「運動を運動として見る」というこ とは本質としての運動を見ることと理解された が,その「運動」が何を表しているかは容易に 理解されることではない.蓮實自身は「起きつ つあることを見るということは,それ自体,自 分自身の『運動』神経とどう関わっているかを 『運動』として体験するということ」RQFと述べ ているが,ここでの「運動」神経とは生理学的 な神経などではなく,「運動」を捉えるセンス や能力といったことの比喩的な表現であると考 えられる.それゆえこれは,「運動」を捉える センスをもって運動を「運動」として見るとい う,循環的な説明になってしまうのである. しかしながら,この説明における循環は「悪 循環」ではない.というのは,「知覚の文脈負 荷性」のテーゼによれば,人は自分の熟知する 、、 、、、、、、、、
ものを見るのであり,運動を熟知し,運動を見 る能力を持つ人が,その熟知性に基づいて運動 を見るということは,知覚の構造上正しく位置 づけられるものだと考えられるためである.そ して,そのような循環のために,ここでの「運 動」は「外的」な原理によって一定の内容を与 えられるのではなく,文脈依存的に本質が捉え られるものとして現れることになる. ここで,文脈依存的と言うとき,見る人に よって見られているものが異なることがあり得 るという意味での可能性や多様性は,確かに認 められることになる.しかし,だからと言っ て,ある人によって見られている運動が多義的 であり,曖昧で,何であるかがはっきりしてい ないというわけではない.ある人が運動を見て いるとき,その人は特定の,そして現実の文脈 において運動を見ているのであって,一つの現 実の運動を見ているのである.つまり,その現 実の運動は,文脈依存的に規定され,運動とし て見られているが,見られている運動は端的な 現実であり,多義性も曖昧さも持ってはいない のである. また,次のような例は,事物の知覚と文脈と の循環のもう一つの側面,すなわち「事実→文 脈」というあり方に光を当てるものになるだろ う.この場合には,事物の方が周囲の状況を自 らに適合させるかのようなこととして考えるこ とができるのである.そうした事態を蓮實の挙 げる例から取れば,テニスのナブラチロワのプ レーであり,彼はそれを「無償な『美しさ』」 や,「『傲慢さ』の同義語は『正確さ』にほか ならぬといった印象」RRFなどの言葉で表現して いる.定石とされるような,特に驚きを引き起 こすこともないような通常のプレーであれば, それは既存のセオリーを背景として理解され, 見られることになるであろうR S F.それに対し て,ここで蓮實の言うようなプレーを適切に見 てとるためには,既存のセオリーを背景にして 見るのでは不十分である.それは,既存のセオ リーに対する合理性を踏み越えるという意味で 傲慢であり,またそのことによって,感動を引 き起こすような美しさをも示している.しか し,他方では,その場面においてまさに適切で あり,正確なプレーなのであるRTF.こうした場 合には,後にそのプレーを振り返り,一般化し て理解することで,セオリーが変化していくと いうことが起こりうる.ここでもやはり,その ときの状況の中で理解され,見られるという限 りにおいては,プレーという事実はやはり一定 の文脈において見られていることになるが,そ の一方で,プレーによってセオリーという文脈 が変化させられることになるのである. もちろんこのようなプレーを単に選手の「気 迫」として語るといったことは,そのプレーを 外的なものと関係づけることであり,そのプ レーをそれとして,内的関係において捉えるこ ととは区別されなければならない.このよう に,スポーツのプレー,あるいは「運動」をそ の内的関係において捉えるという意味で,蓮實 の言う「運動」は一貫性を持つものとして理解 することができるのである. このような理解の下,蓮實はナブラチロワの プレーやロナウドの足捌きのような「運動」を 特に「美しい」として賞賛する.そうした「運 動」は,「獰猛」で「野蛮」で「動物的」なも のとして表現されることになる.それらは人工 的で文化的な既存の体系を凌駕しつつも,再び スポーツの規則の上での「運動」として理解さ れることになるのであるRUF. ここで,創造的なプレーにスポーツの規則が 関わっているということは,重要である.そう したスポーツの規則を知らなければ,われわれ は創造的なプレーを見ることができない.ここ での「スポーツの規則」とは,ルールの条文だ けに限らず,プレーのセオリーや戦術といった ものまで含んで理解するべきであろうが,要す るに,あるプレーを創造的なプレーとして見る ためには,通常のプレー,あるいはよくないプ
レーなどを熟知していなければならないのであ る.例えば,リズミカルなパスワークを見慣れ たものとして見ているからこそ,そのリズムを 止めての突然のシュートが意外性を持ち,創造 的なプレーとして見られることになるのであ る.そして,「素人」を自称する蓮實も,彼の 言う「美しい運動」を見るのに必要なだけのこ とを熟知し,その熟知性に基づいて「美しい運 動」を見ていると考えられるのである. 3.3.スポーツを「見る」こと それでは,その「素人」が「専門家」と全く 変わるところがないかといえば,そうではな い.このことは,やはり熟知ということを鍵に して理解することができる.もちろんここでの 熟知性はウィトゲンシュタインが用い,野家が 指摘した意味において捉えられなければならな い.すなわち,当該スポーツをどれだけ熟知し ているか,という日常的な語法ではなく,素人 であれ専門家であれ,それぞれが熟知している ものを見るということが考えられなければなら ない. ここで「素人」たる蓮實が彼のスポーツ批評 において挙げている例を特徴付けるならば,そ の多くが選手個人のプレーであり,そうでなく ても,パスの出し手と受け手など,ひとつの局 面で直接関与した選手について言及するもので あるRVF.これらのような個人によるひとつのプ レーを見るためには,ルールなどの基本的な知 識や一定の観戦経験がなければならないが,選 手たちの持つねらいや戦術についての詳細な知 識は必要ではないだろう.一方で専門家である ならば,チームの意図や戦術などについて,よ り詳細で具体的な知識を持ち,そこで熟知する ものに応じた「運動」を見るのであり,また時 に,専門家にしかわからないような「美しさ」 を見出すことがあると考えられるのであるSMF. さらに言えば,一口に専門家と言っても,そう 呼ばれるすべての人が「同じものを見る」とい うわけではない.それぞれの専門家が,何をど れだけ知っているかによって,見るものは異 なってくることであろう. このことから帰結するのは,専門家が熟知す るものを熟知していない人は,その専門家と同 じものを見ることができないということであ る.しかし,だからといって専門家ではない人 が専門家と同じものを見るようになることがで きないというわけではないだろう.というの は,もしも同じものを熟知するようになれば, 同じものを見るようになるとも考えられるから である.同じものを熟知するためには,実際に スポーツを見る経験も必要になるかもしれな い.しかし,書物を通じて少なくともその一部 分を知ることはできるのではないだろうか.本 稿においてはその内容について十分に展開する 紙幅はもはや残されてはいないが,サッカーに ついての書物で特徴的なものをO点だけ取り上 げておくこととする. 一点目は,湯浅の『サッカーを「見る」技術 スーパープレー R秒間のドラマ』SNFである.こ れは,トップレベルのサッカーの試合での選手 たちのひらめきと,それがかみ合ったときに生 まれるスーパープレーを,実例を取り上げなが ら説明するものである.ここでの説明の特徴 は,文章と図解の連係にある.文章では,たと えばパスの出し手となる選手がボールを奪取し てからパスを出すまでの流れについて順を追っ て描写し,その後に一旦時間を遡り,パスの受 け手の動き出しを描写するといった書き方が取 られている.これにより,そこでのプレーを, 時間軸に沿って把握することができるだろう. 一方図解では,選手とボールの空間的な配置を 把握することができる.こうして,いつどこを 見るかという見所が提示されているのである. もう一つの興味深い著書は,杉山の『Q-O-P-N サッカーを戦術から理解する』SOFである.先の 湯浅のものがゴールシーンにおける数人のグ ループに焦点を当てていたのに対して,こちら
はチーム全体のフォーメーションと戦術を中心 に解説するものである.特に選手の配置とその 機能により,両チームが攻撃と守備にどれだけ の人数を割けるようになるかという点が重要視 されている.こうした説明を念頭に置きながら 実際の試合を見れば,選手の位置取りの意味を 理解し,試合の流れを的確に見ることができる であろう. もちろん,本当に専門的なものは,一朝一夕 に見るようになるものではない.なぜならば, それを見るためには専門的な事柄を「熟知」す る必要があるのであり,そうした熟知のために は,一定の経験が必要になるからである.サッ カーにおいて起こるさまざまな現象を見るよう になるためには,それぞれの現象に対応した適 切な知識や技術が必要になることであろうし, それらは具体的に一つ一つ身につけていかなけ ればならないのである.
4.おわりに
4.1.まとめと結論 本稿においては,日本サッカーの発展を目指 すJFAの取り組みの中に「見る」ということが 適切に位置づけられていないことに動機付けら れ,われわれのスポーツとの関わりの中に「見 る」ことを適切に位置づけるための基礎とし て,「見る」ことの概念的解明を試みてきた. その足がかりとしては,蓮實の「運動を運動と して見る」といった言葉が取り上げられ,それ がウィトゲンシュタインの「アスペクト論」の 観点から検討されてきたのであった. 「アスペクト論」の検討から導かれた重要な 区別は,「事物の知覚」と「事物の性質の知 覚」であった.「事物の知覚」は蓮實の言う 「運動を運動として見る」ということに符合 し,また「事物の性質の知覚」は「運動以外の ところ」について語ることと重なり合うので あった.すなわち,蓮實の述べていることは, 「運動」に関する内的なものと外的なものの区 別のうち,内的なものを見ることとして理解さ れるのである. さらに,「事物の知覚」には何らかの知識や 技術を含む「文脈」が必要とされる.これは, ウィトゲンシュタインのアスペクト論や,野家 の「知覚の文脈負荷性」テーゼによって示され たことである.このテーゼを受け入れること で,蓮實の「運動を運動として見る」という言 葉は,循環論法としてではなく,まさに知覚の 構造に沿って,運動をそのものとして捉えるこ とだと理解することができた.ただし,そのも のとして捉えるということの中にはさまざまな 場合が含まれうる.素人は素人なりに,また専 門家ならばそれ相応に,それぞれが熟知してい る文脈に応じて運動を見ると言うことができる のである. このことからは,必ずしも自分の経験に基づ く運動感覚を持たずとも,「運動」を見ること ができるということが言える.その場合の「運 動」は,運動感覚を文脈として見られるものと は異なることになるが,だからと言って,まっ たく「運動」を見てはいないということにはな らないのである. また,諸々のサッカー観戦書などは,専門家 の熟知するものをその他の人々に伝えるものと して捉えることができる.つまり,それらの書 物は,サッカーを,また蓮實の言葉を借りれば 「運動」を,より専門的なものとして見るため に必要とされる知識を伝えようとしているので ある.ただし,実際に専門家のように運動を見 るようになるためには,一定の経験も必要に なってくると考えられるのである. 4.2.今後の課題 このように,本稿においては,内的/外的と いう区別と,内的なものに関して文脈および熟 知性が関与することがウィトゲンシュタインの アスペクト論から示され,それを蓮實のスポーツ批評に重ね合わせることで,スポーツを見る という場面での展開が試みられたと言えよう. また,その中で専門性という問題の一端を示す こともできた.しかしながら,本稿では十分に 展開することのできなかった点が残されている. 第一の問題は,本稿で提示された視点の一般 的展開である.本稿における試みは,方法上, 蓮實のスポーツ理解,あるいはスポーツに関す る評価を介したものとしかなり得ない.この点 についてより一般的に展開するためには,蓮實 個人に限定されない形で,スポーツの概念や, スポーツにおける評価の問題としてのスポーツ 美学を踏まえた上で,適切に論じる必要がある だろう. 第二の問題は,本稿において取り上げられた 諸概念の更なる明確化,および精緻化である. 中でも特に重要と思われるのは,「熟知性」と 「専門性」である.このうち前者は,言うなれ ば個人的知識の問題であり,それに対して後者 は客観的知識の問題であると言うことができよ う.そして,人がスポーツを見る場面で何を見 るかということは,この両者の関わりにおいて 理解されると考えられるのである.もとよりこ の両者は相互に排斥しあうような概念ではな く,たとえば専門家においては,専門的な事柄 が熟知されていると言えよう.この専門的な事 柄を含む文化的なものSPFは,ウィトゲンシュタ イン自身の哲学的関心においては重視されてい なかったものの,スポーツを見るという具体的 場面の考察に際しては,熟知している内容とし てのスポーツの専門性が重要な意義を担うと考 えられる.それゆえ,「熟知性」と「専門性」 各々についての理解を深め,また両者の関わり についても論じていくことが求められるであろ う.こうした課題をあげて,本稿を閉じること とする.
注および引用・参考文献
=NF 「JFA OMMR年宣言[DREAM 夢があるから強 くなる]」(財団法人日本サッカー協会公式 サイト).http://www.jfa.or.jp/dream/declaration. html=OF『JFA OMMR年宣言』実現に向けたロードマッ プ(財団法人日本サッカー協会公式サイト). http://www.jfa.or.jp/training/otona/pdf/roadmap.pdf =PF この「よく知っている」ということは, サッカーについての客観的知識が豊富であ るということと,サッカーが一人一人に とって非常に馴染み深く,自然なものと なっているということの両面から理解する ことができるだろう. =QF 金子明友(OMMO)わざの伝承.明和出版,東 京. =RF 金子(OMMO),NON頁. =SF 金子(OMMO),NRV頁. =TF 金子(OMMO),NSS頁. =UF 蓮實重彦(OMMQ)スポーツ批評宣言―ある いは運動の擁護.青土社,東京. =VF 蓮實(OMMQ),PT頁. NMF 蓮實がサッカーと野球をどの程度見ている かは次のように述べられている.「野球に 較べてサッカーを現場で見ている数が圧倒 的に少ない...かつて長くヨーロッパで生活 していたときや,最近でもヨーロッパ旅行 で十日くらい日程の余裕があれば,一日は 見に行くというくらいです.Jリーグはあま り見たいという気が起きない」.「素人」 を自称してはいるものの,あくまでも「専 門家」ではないという意味合いであり,ス ポーツ観戦経験は少なくはないようであ る.蓮實(OMMQ), QO-QP頁. NNF 蓮實(OMMQ),OQO頁. NOF 佐伯聰夫(NVVV)スポーツ観戦論序説―問 題の所在と観戦文化の可能性―,体育の科 學,QV:OSU-OTP頁.
NPF
野家啓一(OMMT)[増補]科学の解釈学. 筑摩書房,東京.PSV頁.
NQF
Wittgenstein, L.ENVVULNVRUFPhilosophische Untersuchungen E Zweite AuflageF . Basil Blackwell, Oxford. S.NVP EPUP頁F.本稿にお ける訳文は,筆者による試訳である.ただ し,訳出に際しては次の訳本を適宜参照し た.また,引用箇所には同訳本における頁 数を括弧書きにて付す.ウィトゲンシュタ イン(藤本隆志訳)(NVUULNVTS)哲学探 究.ウィトゲンシュタイン全集U所収.大修 館書店,東京. NRF 「ウィトゲンシュタインのテキストには彼自 身が『ベメルクンク(考察)』と呼ぶテキ ストの最小単位が存在する. . . ウィトゲン シュタインのテキストは,前後を空行で区 切られた『ベメルクンク(考察)』という 単 位 の 連 な り な の で あ る 」 鬼 界 彰 夫 (OMMP)ウィトゲンシュタインはこう考え た―哲学的思考の全軌跡 NVNO-NVRN.講談 社,東京.NQ頁.なお,ウィトゲンシュタ インのテキストは,日々ノートに書きとめ られた「考察」から選別されたものを,配 列しなおすことで作られているために,理 解が困難である.鬼界はそれを読み解く方 法の一つとして,思考の主題=スレッドを 同定し,そのスレッドに従って「考察」を 再配列した「シークェンス」として読むと いう,「スレッド・シークェンス法」を提 唱している.鬼界(OMMP),NN-OT頁. NSF
Wittgenstein ENVRUF, S.NVP(PUP頁). NTF 野家は,野矢茂樹が『理想』NVUS年N月号掲 載の「<……として見る>の文法」という論 文で「わたくしはこれを見る」の「これ」 を「色や形」読んでいることを批判し,前 後の文脈からそれを「顔」であると解釈し ている.野家(OMMT),PVV-QMM頁. NUF 野家(OMMT),PSV 頁.こうした図形の観察 に際しては,「ゲシュタルト知覚」というこ とが前面に浮かび上がってくることになる. NVF
Wittgenstein ENVRUF, S.NVQ(PUR頁). OMF 逆に,「場合によって」そうした食い違い が露見しないということもあるだろう.し かし,だからといってその場合に一方が 「うさぎとして見ている」ということが相 手に了解されているわけではない. ONF Wittgenstein ENVRUF, S.OMT(QNO頁). OOF Wittgenstein ENVRUF, S.OMT(QNP頁). OPF Wittgenstein ENVRUF, S.NVQ(PUS-PUT頁). OQF 守屋唱進(NVUQ)アスペクトの知覚.理想, SNS:NTN-NUT頁. ORF 守屋(NVUQ),NTQ頁. OSF 守屋(NVUQ),NTQ頁. OTF 野家によれば,アスペクト論はウィトゲン シュタイン自身が「現象学的言語」と呼ぶ 考えへの批判であり,またそこでの「現象 学」とはマッハの言う「現象学」として考 えることができるという.野家(OMMT), PTS-PUU頁. OUF 中山康雄(OMMU)科学哲学入門 知の形而上 学.勁草書房,東京.OV頁. OVF 粟田賢三,古在由重編(OMMO/NVTV)岩波 哲 学小事典.岩波書店,東京.ORQ頁. PMF 論理実証主義は,理論と観察を独立のもの と考えることで,観察事実による理論の 「検証」や「反証」を保証した.そこで, 観察における,理論的先入見のない純粋な 部分として「感覚与件の受容」が考えられ たのである.その「感覚与件」とは,色や 形のモザイク模様のようなものとして考え られていた.そして,「感覚与件」に,知 識の関わる「解釈」を加えることで,具体 的な対象の知覚が成立するのだという.野 家(OMMT),PTO-PTP頁.
PNF Wittgenstein ENVRUF, S.NVP-NVQ(PUQ-PUR頁). POF うさぎをあひるに交代させるためには,そ の周囲に明らかにあひるに見える他の絵を 並べてやることが助けになる.同様に,う
さぎを線画に交代させるためには,周囲に 他の(無意味な)線画を並べてやればよいだ ろう.ハンソンはこれを「カモシカ」という 例を用いて示している.ハンソン(村上陽一 郎訳)(NVUVLNVUS)科学的発見のパターン.PM -PN頁.Hanson, N. R. ENVRUF Patterns of discovery. Cambridge University Press, Cambridge. PPF 「特殊哲学的」という語については,野家 の語法をもとにした.野家は,直接的与件 (感覚与件)を記述しようとして「私は赤 い斑点を見る」などと日常言語を使用する 際の「私」や「見る」について,日常的な 意味からかけ離れた特殊哲学的な意味が付 与されている,と述べている.いま,「解 釈」について,例えば「感覚与件を通常の 見えに変換する働き」といった意味を付与 するならば,これもまた,日常的な意味か らかけ離れたものであると言わざるを得な い.野家(OMMT),PUT頁. PQF ハンソンは,通常の意味での「解釈」の例 として,霧の中にぼんやりと見えるぼんや りとした輪郭が,しばらく考えた後で農業 機械であることがわかるということをあげ ている.これらに共通するのは,一目見た だけではよくわからないものを知的な働き によって理解するということであろう.ハ ンソン(NVUS),OP頁. PRF 野家(OMMT), QMT-QMU頁. PSF 野家(OMMT),QNN頁. PTF 平凡社『哲学事典』では,本質的属性は次 のように説明されている.「事物のもつ性 質のうち,その性質が事物の存在に対して 偶然的,付帯的なるものを偶有的属性とい うのに対し,その性質を否定すれば事物の 存在それ自身も否定されるものを本質的属 性とよぶ.」林達夫ら(NVVOLNVTN)哲学事 典.平凡社,東京.NPOM頁.
PUF Wittgenstein, L. ENVSVF Tractatus Logico-Philosophicus ESchriften NF. Suhrkamp, Frankfurt
am Main. O.MNOPN.なお,ここで示したの は,ページ数ではなく,命題の番号であ る.ウィトゲンシュタインの『論理哲学論 考』は基本的に,N∼Tの番号が振られた命 題と,その各々への注釈からなる.一の位 のOは基本となる命題の番号であり,小数点 以下の数字は,順に階層化された注釈の番 号となっている.
PVF Wittgenstein ENVRUF, S. ONO.(QOO頁)および Wittgenstein, L. ENVUMF Remarks on the philosophy of psychology N. §PPV. なお,後者の著作に おいては「考察」に番号が振られているた め,頁数ではなくその番号による指示を用 いる.また,本書は独英対訳本である. QMF 野家(OMMT),QNP頁.ここではまた,「事 物の『性質』は当の事物が何であるかを規 定する構造的契機ではない」とも述べられ ている. QNF 野家(OMMT),QMR頁. QOF 野家(OMMT),QMR頁. QPF ハンソン(NVUS),PU頁. QQF もちろん理論的な予想に導かれて新たな現 象が観察されるということは多々あるが, そこでの理論はやはり何らかの観察から出 発し,考え出されたものであろう. QRF 野家(OMMT),PSV-QMS頁. 「『理論負荷 性』とアスペクト知覚」 QSF 野家(OMMT),QMR頁. QTF ウィトゲンシュタイン(NVUTLNVTR)哲学的 文法N.ウィトゲンシュタイン全集P所収. 大修館書店,東京.Wittgenstein, L. ENVSVF Philosophische Grammatik, Teil N . Basil Blackwell, Oxford. QUF 「知っているということについて私が考察 する仕方からは,『歴史的な考察』はすべ て排除しておきたい.残るのは印象(体 験,反応)である.そして言語がわれわれ の経験のなかに入ってくる場合でも,われ われはそれを既存の制度として考えはしな
い」ウィトゲンシュタイン(NVUT),OPM頁. QVF もちろんこれは,それが「その机」である とか,何らかの意味で「同一の机」である ということを否定するものではない.例え ば科学的な鑑定によって同一性を認めるこ とは十分に可能である. RMF 「反=動的」とは,ジャーナリズムなどに よる「運動」の抑圧を示すために蓮實が用 いている語である.蓮實(OMMQ),PU頁. RNF 蓮實(OMMQ),OU頁. ROF 蓮實(OMMQ),OM頁. RPF 蓮實(OMMQ),NN頁. RQF 蓮實(OMMQ),PS頁. RRF 蓮實(OMMQ),OT頁. RSF ここでは「セオリー」を,厳密な意味での 技や戦術に関する理論ということに限ら ず,そのゲームにおけるプレーについての 一般的了解,あるいはゲーム観(ここでは テニス観)といったものを含んだ,われわ れが通常持ちうる当該のゲームに関する知 識という意味で用いるものとする. RTF こうした場面においてはしばしば,セオ リーの方がプレーの後に,そのプレーを分 析することによって形作られるということ が起こるだろう. RUF 蓮實(OMMQ),NO頁. RVF 蓮實(OMMQ),OOV頁. 世界選抜の試合にお いて中田英寿がR. バッジョに通したパスへ の言及が見られる. SMF スポーツ以外の領域においても,例えば数 学の専門家が「美しい数式」などというこ とがあるだろう.しかし,この数式は素人 が見たら非常に複雑で,理解できないもの であるかもしれない. SNF 湯浅健二(OMMO)サッカーを「観る」技術 スーパープレー R秒間のドラマ.新潮社, 東京.
SOF 杉山茂樹(OMMU) Q-O-P-N サッカーを戦術か ら理解する.光文社,東京. SPF ウィトゲンシュタイン自身は「文化的」で はなく,「制度(Einrichtung)」や「歴史 的なもの(Geschichtliche)」という語を用 いている.注QUを参照. 受付 OMMU年NN月NT日 受理 OMMV年 P 月 N 日