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明治期の幼稚園における保育時間割の研究 : 京阪神地域を中心に

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(1)兵庫教育大学研究紀要第23巻2003年3月pp.49-57. 明治期の幼稚園における保育時間割の研究 -京阪神地域を中心にA Study on the Time Schedule of Kindergarten on Meyi Period -. On. Area. of. Kyoto-Osaka-Kobe. cities一. 名繞JlI知子*田中亨胤* Tomoko NASUKAWA Yuk tane TANAKA. The purpose of this study is to clarify the time schedules since mid-1870s to 1910s by focusing on the curriculums of kindergarten. Time schedules of kindergarten used as reference materials for this study are researched four kindergartens at Hyogo prefecture of Meiji era. For the method of study, their curriculums were analyzed mainly from the viewpoint of time and contents. In Meiji era, Time schedules of kindergarten at Osaka, Kyoto and Kobe consisted of Gifts, Story, Plays and Songs. They played 3 or 4 times in a week. Children entranced kindergarten from 3 years old to 5 years. uley had educated for 4 hours in a day. ¶hat was formed about kindergarten systems of Japan. But that contributed for the development of kindergarten in Meiji era.. キーワード:時間割、幼稚園、明治期、京阪神、兵庫県 Key words : Time Schedule , Kindergarten , Meiji period , Kyoto-Osaka-Kobe cities , Hyogo prefecture. 問題と目的 わが国おける就学前教育、すなわち幼稚園の草創期は 明治5年公布の学制の発足に始まる。その内容は、学制 第22章「幼稚小学ハ男女ノ子弟六歳迄ノモノ小学二人ル 前ノ端緒ヲ教ルナリ」(1)とされている。このように明 治初期から、わが国における近代教育制度の中に、幼稚 小学が小学校前の教育機関として規定されているが、こ の規定に基づいた幼稚小学は実際には存在しなかった。 小学校以前の教育機関が発足したのは、明治8年の京都 第30区小学校(後の柳池小学校)校舎内に幼児遊戯場が. 設立されたことである さらに明治9年には、東京女子師範学校附属幼稚園が 創設され、官立の幼稚園ということで、全国的な影響を 与えたと考えられる。その後、明治12年には教育令が公 布され、その第1条で「学校幼稚園書籍館等ハ公立私立 ノ別ナク皆文部卿ノ監督内ニアルへシ」と規程され、幼 稚園を教育制度上の名称として位置づけた。それらの制 度に基づき、明治12年に大阪府立模範幼稚園が、 13年に は大阪市に愛珠幼稚園が創設される。さらに、それまで 小学生の兄弟姉妹について登校していた幼児について. 表1就園率(5歳児)の推移と就学率の推移(文部省『幼稚園教育百年史』昭和54年、 826貢より転載) 100%. /.譜298.6'崩.2前甫59!).薄蝣7・.)'.). 7. 90%. 99. 9%. /88.1. 80%. ql I I !. 70%. ;I/那率*ォリIiffi)I '64.2. 60% 50% ,--" 46.3. 40%. !′43.0. 38. 2. 30% 20% HWA 0.9 1.0. 1.4 2.0 2.4. 明治大正11,'ffll 9. 1419. 242934. 3944. 10156. *兵庫教育大学第1部(幼年教育講座). 111621. 263136. 414651. 平成14年10月21日受理. 49.

(2) 田中亨胤. 名須川知一子. は、明治17年に小学校への幼児の入学を禁止する通達が 出され、幼児は幼稚園の方法で保育する通達が出された。 その後、文部省自らが幼稚園の普及につとめ、明治20年 過ぎには、大阪市、京都市で公立幼稚園が増設されてい. より入園し、 1日5時間以内の保育、幼児40名に1人の 保育者、 「談話・手技・唱歌・遊戯」という4科目の保 育内容、さらに幼稚園設備として時計があげられている ことである。これは、各地の幼稚園の骨子となったよう. った。その後、表1のように、幼稚園の数は増加し、明 治31年には幼稚園の数が国立1 、公立173、私立55園で 総計229園となり、 2万人以上の園児が通園することとな った。しかし、当時の全5歳児人口における就園率は 0.9%であり、一部の人にとっての幼児教育機関であった ことが伺われる(2)。 このような中で、その保育内容も徐々に整備されてい. で、 「これを中心として、時間割を定めて、これを教え るという保育が行われていたようである」(4)とされて いる。しかし、 「保育として幼児の生活のなかに取材し たり、生活のなかで指導するという考え方は少なく、時 間割によって、談話、手技、唱歌、遊戯の各教材が配当 され、 1時間ごとに、これらの教材を教え込むといった 保育形態をとっていたようである。」(5)と言われている。. った。明治32年6月「幼稚園保育及設備規程」の制定が 幼稚園に関する法令として出された。その内容は、明治 32年6月28日付け文部省令第32親に「幼稚園及保育及設 備規程」として公布され、明治32年の『京阪神聯合保育 合雑誌』にも次のように紹介されている。 (下線は筆者 が付した) 「第一候幼稚園ハ満三年ヨリ小学楼二戯箪スルマテノ 幼兄ヲ保育スル所トス 第二候保育ノ時教(食事時間ヲ含ム)ハ一日五時以. 一方で幼稚園はますます普及し、明治42年以降は、私 立園が公立蘭の数を上回るようになる。この年には義務 教育年限が6年に延長したため、市町村の義務教育に対 する費用負担が増え、幼稚園の財政的負担が困難となっ たことも理由とされている。そのようななか、明治44年 の小学校令では、同施行規則を改正し、幼稚園に関する 規定の一部が改められる。すなわち、幼稚園の規模が 120人とされ、特別な場合は200人まで認められるように なる。その結果、 40人の幼児に保始が1人担当する規則. 血トス 第三健保婦一人ノ保育スル幼鬼ノ敷ハ四十人以内ト. 第五億保育ノ要旨 第六傾幼兇保育ノ項目ハ遊嬉、唱歌、談話及手指ト シ左ノ諸項二依ルへシ ー遊嬉遊嬉ハ随意遊嬉共同遊嬉ノ二トシ随意 遊嬉ハ幼兇ヲシテ各自二運動セシメ共同遊嬉 ハ歌曲二合へル諸種ノ運動ヲナサシメ心情ヲ 快活ニシ身骨豊ヲ健全ナラシム 二唱歌 三談話(事實及び寓言)修身の話. から「約40人」に変わる。また、保育時間も1日5時間 以下とされていたのが「管理者又ハ設立者二於テ之ヲ定 メ府県知事ノ許可ヲ受クへシ」と改められ、地域の実情 に合わせて保育時間数を決めることができるようになっ た。このような内容は、大正15年4月に幼稚園に関する 単独の勅令として「幼稚園令」が公布されるまで引き継 がれ、明治期の幼稚園を形作っていたのである(6) 以上、明治期に端緒をもった幼稚園草創期の概要を示 したが、注目すべきは、すでに明治30年代に保育内容が 限定されるとともに、その教育方法が時間割によること である。現在では、幼児の生活の流れを重視し、時間割 やチャイムは少なくとも公立幼稚園では明示されていな い。しかし、時間割の有無は、教育する側がつくった枠 に子どもをあてはめるという発想から子どもの生活リズ. 四手技(幼稚園恩物) 第七億幼稚園ノ設備ハ左ノ要項二依ルへシ ー建物ハ平屋造トシ保育室、遊嬉室、職員室、 其他須要ナル諸室ヲ備フへシ保育室ノ大サハ 幼兄四人二就キー坪ヨリ小ナルヘカラス 二遊園ハ幼兄一人二就キー坪ヨリ小ナルへカラス. ムを重視するというように、その背景には子どもに対す る考え方の変化が兄いだせる。従って、歴史的にその様 相を明らかにすることは、教育課程の根底に流れる子ど も観の変遷の一端をあらわすものだと言えよう。また、 その時間割が実際の幼稚園でどのような位置を占めてい たのだろうか。. 三恩物、絵書、遊嬉遊具、楽器、黒板、机、腰 掛、畦証、寒暖計、暖房器其他須要ナル器品. そこで、本研究では、まず明治期の実際の保育の記録 を兵庫県とその周辺の京都、大阪の地域を対象として調 査し、時間割の実際と、保育内容との関連を探ることを 目的とする。. ス. 第四健一幼稚園ノ幼兇敷ハ百人以内トス特別ノ事情 アルトキハ百五十人マテ増加スルトヲ得. ヲ備フへシ 四敷地、飲料水及採光窓二開シテ小学校ノ例二 依ルへシ(以下略) 」(3). 研究方法・対象 このように、はじめて法令で幼稚園の目的や内容が明 示された。注目すべき点として、下線のように、満3歳. 兵庫県内の明治期の幼稚園の時間割及び保育内容につ いて、現存する幼稚園の資料を収集することにした。兵 50.

(3) 明治期の幼稚園における保育時間割の研究. 表2明治35年の兵庫県下幼稚園一覧(創立年塀) (『兵庫肺幼稚園史』昭和34年34貢より作成) 幼稚園名. 公 私別. 所. 在. 地. 創 立年. 年限. (○調 査 ) ①神戸幼稚園. 市立. 神 戸 市北 長 狭 通. 12 0 人 5 84 円. 市立. 神 戸 市永 沢 町. 明治 2 0 年. 3 年 5人. 117 人 4 16 円. 私立. 神 戸 市 中 山手 通. 明治 2 2 年. 3年 3人. 64 人. 5 92 円. ③龍野幼稚園. 町立. 揖保 郡 龍 野 町. 明治 2 3 年. 3年 4人. 15 0 人 5 82 円. 博愛幼稚園. 私立. 川 辺郡 尼 崎 町. 明治 23 年. 3 年 2人. 94 人. 16 5 n. 御影幼稚 園. 町立. 武 庫 郡御 影 町. 明治 25 年. 3年 2人. 60 K. 140 円. 明石 幼 稚 園. 私立. 明 石 郡 明石 町. 明治 25 年. 3年 1人. 36 人. 13 5 円. 播 陽幼 稚 園. 私立. 明 石 郡 明石 町. 明治 25 年. 3年. 54 人. 18 1 円. 善 隣幼 稚 園. 私立. 神 戸 市磯 通. 明 治 28 年. 3年 3人. 60 A. 166 円. 明治 幼 稚 園. 私立. 姫 路 市十 二所 前. 明 治 29 年. 3年 2人. 75 人. 190 円. 共愛 幼 稚 園. 私立. 姫 路 市 上 白銀 町. 明 治 30 年. 3年 2人. 60 A. 258 円. ④ 豊 岡幼 稚 園. 町立. 城 崎 郡豊 岡町. 明治 31 年. 3年. 76 A. 1 12 円. ●. 1人. 平成13年11月26日神戸市神戸幼稚園(図1 -①) 10月9日∼頒栄短大附属頒栄幼稚園 (附属図書館) (図1 -②) 11月14日龍野市龍野幼稚園(図1-③) 11月7日豊岡市豊岡めぐみ幼稚園(図1-④) また、当時の兵庫県以外の時間割の状況を補足するた めに、明治31年に発足された京阪神聯合保育合による機 関誌である『京阪神聯合保育合雑誌』 (明治31年創刊) を資料とした(8) 結果と考察 1園の時間割 (彰市立神戸幼稚園(神戸市中央区北長狭適)明治20年創立 神戸幼稚園は、昭和62年に創立100年を迎え、神戸幼 稚園100周年記念誌として『神戸幼100年』 (9)を発行し ている。創設者は、榎本常である。. I ◎l L!1 国正▲-I. 1人. の幼稚園を調査した。これらの幼稚園は、現存している ことと、資料が比較的保存されていること、さらに、公 私立及び全県にわたる地域性の面から、調査対象として 適切であると判断した。調査日程は、以下の通りである。. \. -㌍. 3年 5人. 兵庫幼稚園. 図1明治43年現在の兵庫県下の幼稚園分布 (『兵庫肺幼稚園史』昭和34年34貢より引用・作成). 普. (年 額 ). 明治 2 0 年. ②頒栄幼稚園. 庫県の幼稚園は、明治19年に間人(はしうど)幼児保育 場が神戸市に設立されたのが最初であるとされる。これ は、明治20年には私立同人幼稚園という名称となった。 さらに、公立幼稚園としては明治20年には神戸幼稚園及 び兵庫幼稚園が設立された。また、 2年後の明治22年に は、御影に私立頒栄幼稚園が設立されている。明治23年 には龍野市に龍野幼稚園が、尼崎市に博愛幼稚園が創設 された。 また、兵庫県北部の豊岡では、明治31年に豊岡町立幼 稚園(現豊岡めぐみ幼稚園)が創設されている(7)秤 戸幼稚園、頒栄幼稚園、龍野幼稚園、豊岡めぐみ幼稚園 は現存しており、今回調査を実施することができた。明 治期の兵庫県の幼稚園は表2のとおりであり、 ①から④. ft回. 保 育 教 員 数 幼 児 数 保 育料. ∼. -5 -I. 表3は、 「各組における保育課目及び毎週の時間」で あり、明治31年に活用されていた時間割である。この表. M^j -I. (.ノ.ヽ ̄′・. によると、 「六球」から「豆細工」等の恩物の教材が並 ぶ。これらに続いて「会集」 「説話」 「唱歌」 「共通遊戯」 「自由遊戯」が並ぶ。それらは、毎週5回から9回の内 容でもって時間数も恩物教材に比較して多い。 ②私立頒栄幼稚樹(神戸市中山手通)明治22年創立 神戸市御影に現存する頒栄短期大学附属頒栄幼稚園 51.

(4) 田中亨胤. 名須川知子. は、明治22年にA. L.ハウ女史により、アメリカのミ ッションボードの援助により創設されたものである。そ こで明治22年に発行された「頒条幼稚園規則」によると、. 表3明治31年神戸幼稚園の時間割 (神戸市立神戸幼稚園『神戸幼100年』昭和62年33貢より引用) :L\. ー. 3 の 絶 雨 月 回 教. 3 の a n 項. 時 間. 回 教. 2 7)岨. t ta. 回 敦. l の 岨. 坤 ;.i. 回 鼓. 球. I. 間. *. 2. I. 30. 1. ,H 30. I. 30. 桁. 利. 2. 50. l. 30. I. 30. I. 30. X. ォ. I. 30. I. 30. 1. 30. I. 30. G. *1. l. 30. I. 30. I. 30. 1. 30. .-弼. 方. 30. 1. 30. 蝣 サ. Ii. 前. 方. I. 30. 1. 30. I. .1 0. 1. 30. 1. 3D. I. 30. 30 60. l. 30. L、. ■. 30. I. 3L,. - i. n;. r.. l. 3.). I. .1 0. I. 30. I. 1. 3I). ). 30. 1. 30. 1. 30. t. 30. 6. L8 0. 6. 180. ¥M. 6. 18 0. I 60. 5. 80. L古O. 6. I3 0. IH. 帖 巨. l... 担I. ?. I'. 礼. : .ォ K ,. 6. )5り. 6. .S0. j.. I). M il. 6. 16.1. ft. 6. IS O. 6. I6lー. 6. u. 2; o. 9. ? 丁.). 6. ft. >貞. ik. 戟. (I. III. 迫. れ. ft. 1. ヘ. }「. .I ウO 50. 3. I .M O. 一つl) J. L50 .5 0. る。明治26年には、 「日々の課程」として、表4のよう に、 30分ごとに内容が組まれている。まず、 「お祈り」 ではじまり、クラスでの交替で30分間「遊戯」か保育室 での「お仕事」をする。 「恩物」は20分程度である。こ こで時間割の使用目的として、場所の移動が含まれてい ることがわかる。つまり、 4クラスのうち、 2クラスづ つ外と中で交替するためにも時間割が必要なのである。. I. 坑. 0. 「保育ノ課ハ禽集修身ノ話庶物ノ話手業遊嬉唱歌植物栽 培トス」と内容が規定され、保育時間は「毎科保育ノ時 間ハ三十分及至四十分トス」とされている。一日の保育 時間は、 「毎日ノ保育時間ハ各組四時間トス」されてい. w a. 六. ーy ) 3. l30 .3 10. しかし、その時間はあまり細かく分かれておらず、大き く区切られていることが特徴である(10)。. 49 0. ③市立龍野幼稚園(当時は町立) (龍野市龍野町上霞城) 明治23年創立 龍野幼稚園は、明治23年兵庫県下で当時はじめての公 立幼稚園として龍山尋常小学校内に創立された。商人の 多い龍野町では子守に預けられた幼児たちが寺や神社の 境内で子守と遊び、悪いこともおぼえるということで、. l5 0. a. 1 .3 10. 表4明治26年頒栄幼稚園時間割 (領栄保育学院『幼稚園教育の系譜と頒剰1996年50-51貫から作成). 幼児着席 お祈り、筒と歌. 幼児のための教育の重要性が叫ばれ、寄付によって保育 園を設けたとされる。その結果、多くの子どもが来園し たため、明治23年に龍野町立龍山尋常小学校付属幼稚園 として設置された。平成3年に創立100年を迎え、 『創立 百周年記念誌』が発行されている。これに基づくと、初 代園長は次田幹也で、その妹は東京女子師範学校を出て 保婦になっていたことから、当時の東京女子師範学校付 属幼稚園をモデルとしたと言われている(ll)。それは、 明治43年の書簡が残されていることからも推測される 龍野幼稚園では、明治から昭和にいたる保育者による 日誌等が現在でも保存もよく収納されている。明治期に. 2クラスは遊戯室-、他の2クラスは保育室でお仕事 交替 全員20分間園庭へ 部屋-戻り、種物に水をやり、恩物、手芸をする 壷戯室でマーチ、最年少組は帰宅 年長組はランチ(弁当). 恩物か手芸 ゲーム 降園. 表5明治34年龍野幼稚園時間割 (龍野市立龍野幼稚園『創立百周年記念誌』平成3年8貫より作成). 関する保育の一次資料として、明治25年「第二組児童 出席簿」、明治28年「幼稚園関係書綬」、明治33年12月 「日誌」、明治39年-45年の各年の「保育日誌」、明治43 年「骨集禄」等が現存している(12)。時間割は、表5の ような明治34年のものがある(13)表5に示すように、 月曜日から土曜日まで唱歌、説話、共遊(共通遊戯)、 随遊(随意遊戯)が万遍なく配置されている。大体一日 に3科目を行っている。また、日々具体的にどのような 遊戯作品、説話の内容等を行ったか、いずれも当時の保 育日誌に記録されている。 ④市立豊岡めぐみ幼稚園(当時は町立豊岡幼稚園) 明治31年創立 この幼稚園は、明治31年豊岡藩掘四郎右工門の家を買 52.

(5) 明治期の幼稚園における保育時間割の研究. 表6明治33年-45年2月改正までの豊岡幼稚園時間割 (「豊岡町立幼稚園保育規定」豊岡市立めぐみ幼稚園所蔵より作成). 計. 逆. 唱. 辛. 醍. 料. P=. 敬. 業. 話. 目 毎. 喜 八. 過 ′、. 時. ノ、. 間 自 由. 早. 積. 易 方. 「保育時間ハ毎週拾八時間毎日参時間トス」とされてい ることから、他の幼稚園同様、 4つの科目と1日3-4 時間内の保育時間であったことが伺われる。各保育内容 の毎週の時間は、表6のようになっている。 「手業」は 恩物の内容であり、遊戯と同じくらい毎週6時間おこな うようになっている。唱歌と説話はそれぞれ過に3時間 であり、各科目の比重のかけ方は、他の幼稚園と若干の 差が見られる。. 修 身. 快. 唱歌、談話及手技トシテ」とあり、保育時間については. 秩. 訓. 共. 活. 同. ノ. 排. 敬. へ. 皮. 曲. 方. 物. ss 程. 拷 紙. い受け、西垣堪次郎が私立幼稚園として創立した。明治 33年初代園長の梶浦済が豊岡町に移管し、町立豊岡幼稚 園と改称した。園舎は、西垣氏から園地は京極氏から借 用する。その際、 「教育勅語を下賜せらる」と沿革史に 記述されている。昭和25年の市制実施に伴い市立豊岡幼 稚園となり、昭和29年に現在の名称である市立豊岡めぐ み幼稚園となった。本幼稚園は、明治期からの資料を保 存しており、当時の遊具、卒園者の集合写真が残ってい る。平成10年に100周年記念を行っている(14) 保育内容、及び時間割に関する資料として、明治33年 から同45年2月改正まで豊岡町立幼稚園保育規定がある (15)。そこには保育内容として「幼児保育ノ項目ハ遊姑、. ( 2 )京阪神の保育時間割の状況 明治31年7月に創刊された『京阪神聯合保育合雑誌』 は、明治30年10月16日大阪市保育合を同市西直東江幼稚 園で開いた際、京都、大阪、神戸の3市で保育会が創立 され、その会の発行雑誌として、年1回の刊行がされて いるものである。神戸から頒栄幼稚園のハウ女史、小磯 ひで、高潰せん、和久山きくが、京都からは村瀬よね、 司馬のぶ、が参加し、 「三市聯合保育骨創立」の協議を おこなった。この会は、本雑誌第1親によると、 1年に 3回の開催することで、第1回を京都で開催した。ただ し、その後すぐに年2回の開催となる。第1回三市聯合 保育食は、明治30年11月20日、 21日、下京尚徳尋常小撃 校の講堂にておこなわれ、神戸市から5名、大阪市から 20名、京都市から80名参加し、根本吉太郎氏座長で談話 「恩物の取捨撰揮」が行われたとする(16) 明治期の幼稚園の時間割について雑誌に掲載されてい る記事を整理し、時間割の実態を明らかにしたい。 ①保育課目及毎週の時間の実際 第1親に、時間割について言及されている。そこでは、 「保育課目及毎週の時間は保育上重大な事柄にして幼稚. 表7明治31年の毎週保育時間配曹表(『京阪神神聯合保育舎雑誌』第壱親37頁より転載). 空_1 g-1 I空. 5*究. ォi火よ.I. 一U. C⊃. *.. 互」一塁_し登_LS 3*-! !火I六. 3i. ,'Iブく. A-lブくi六l一一一.

(6) 名須川知・子. 音正vm¥-¥. 園の基礎なり京都にても段々研究したることあり即ち其 結果は左の通りなれば諸君は御一覧の上十分御論議下さ. 唱歌等の時間が過に6回から9匝I行うようになってお り、恩物教材にくらべ多くの時間が割かれていることが わかる。 さらに、時間割について、他の紹介もなされている。 東京「フレーベル禽」の記事からとして、 「幼兄教育研. る様希望致します、兎も角御手許迄差出します是は原案 にあらず御参考までの案であり升」とあり、表7の時間 割の備考には、 「栽培を加ふる時は各組之を課し一過二 十分を手技遊戯の時間より減じて之に充つ」とされ、細 かな時間の増減への配慮がなされている。これらの内容 は、主に恩物を教材としており、それぞれ机の上で行う 時間配分が示されている。 3の組が3才児、 2の組が4. 究組合の報告」から、 「-日長き時一過廿五時間保育す べき場合に適普なる時間割」として表8のような時間割 が紹介されている(18) この時間割によると、 9時からはじまって20分ごとに、 「骨集」 「外遊」と続き、 「唱、歌」は30分である。これ は、唱歌と説話のセットであろうと推測される。その後. 才児、 1の組が5才児である。例えば、六の球は、 3才 児の前半に過に1回30分行い、 4 , 5才児では行わない。 また「板排」である板並べは、過2回にわたり行い、 3 才児前半は計60分、あと年齢が高くなるにつれ、過1回 30分の活動とされている。また、縫い取り、豆細工等は、 3才児前期ではおこなわず、徐々に過1回30分の活動と されている。このように、活動内容によって細かく時間 が配列されている。ここでは、日々の保育時間は、 1日 は4時間半であり、土曜は2時間半であるとしている。 その保育内容の時間の割合は、外遊である戸外遊戯共同 遊戯が全体の半ばであり、 「食事時間は一分、手垂は一. 外遊びが20分、というようにこのスケジュールは月曜日 から土曜日まで繰り返される。その後、 10時30分から11 時までは「手技」と「内遊」のどちらかが行われる。そ の後食事までの30分は外で遊び、食事をはさんで外遊び が続く。午後は1時まで遊び、帰りの30分は手技をやっ て食事時間の30分を除く4時間が保育時間となる.。こ のように、 20分から30分の小刻みな日程であるが、緩急 を考えた外遊びを中心とした時間割であることがわか る。 また、明治36年の記事には、 「多数の幼稚園に於ては、. 分五厘残りは他の保育」とされている(17) この裏7は、今回調査した神戸幼稚園の100周年記念 誌である『神戸幼100年』にも紹介されている(前掲の 表3参照)。このようなことからも神戸幼稚園ではこの 時間割を使用していたことが推察される。会集、説話、. 之等の日課(遊戯、談話、唱歌、手技)は、一日五時間 (食事時間を含む)を三十分づつに別ちて配普せり。則 八時より三十分の間唱歌うたわせしむれば、次の三十分 即ち九時までは遊戯次の三十分は手技次は談話といふが 如し。かくて一人の保婦が四十人及至五十人の幼兄を集 めて保育して行くものとす。」(19)とされるように、 30分 を単位として実際に保育が行われていたようである。 また、明治39年には、モデル幼稚園として東京女子師 範学校の附属幼稚園での実際の保育の方法が紹介され、 「女子高等師範学校附属幼稚園保育要項」として次のよ うに記述されている。すなわち、 「明治33年文部省令第 十四鍍小学校令施行規則二基キ女子高等師範学校附属幼. 表8日長き時一週廿五時間保育すべき場合に適曹なる時間割 (『京阪神聯含保育昏雑誌』第壱醜明治31年82頁から転載) 求. 稚園二於ケル保育ノ要項ヲ定ムルコト左ノ如シ」とし、 第一に組織として「嘗園ハ年齢満三歳以上小学校二人撃 スルマデノ幼兄ヲ収容スル所ニシテ分チテ本園及分室ノ 二トス」として「本圃ノ幼兄定員ハ百二十名ニシテ年齢 ニヨリテ三組二分ツーノ組満五年以上就学二至ルマ デ、二ノ組満四年以上五年二至ルマデ、三ノ組満三 年以上四年二至ルマデ」としている。このように、満3 才からの入園であり、クラスを分けて保育を実施してい る。そこでの保育の方法は、 「保育ノ方法トシテ普図二 採用スル事項ヲ遊嬉唱歌談話手技トシ各事項二配嘗スル ー日中時間ノ割合ハ左ノ如シ」として、 「一、遊嬉凡ソ 三時間、唱歌談話手技凡ソ一時間」(20)というように、 遊姑の時間が多くとられている。 この遊姑の時間については、明治32年の記事の中で、. 54.

(7) 明治期の幼稚園における保育時間割の研究. 価(京都市保育合)、桶屋他(神戸保栂合)」にならび、 「時計」が大阪市保育合によって演じられている(23) また、明治34年にも遊嬉「時計」として掲載され、 「尋常科唱歌適用」のひとつの教材として掲載されてい る(24)。その内容は図2の通りである(25)。. 京都府師範学校長の清水誠吾が、 「幼稚園に就きて」と いう題目で述べている。すなわち、 「幼稚園にては放課 時間なるものなし各遊戯間の多少の間隙は心身に於ける 一種の緊張を和らげる轡化にして亦これ雁用的の遊戯な り此間は徳智体育発達の賓蹄を験智すべき大切なる機食 にして保栂の最細心に監視を要するの時期とす」 (21)と され、幼児の心身の状況をみて、小学校での休み時間に あたるようなものを考えた遊戯を行うことを、保育者の 注意のもと行うことが鞍調されている。. 総括 兵庫県及び京阪神地域の明治期の時間割は、明治31年 以降のものであり、明治期後期になって出現したものと 考えられる。それは明治32年に制度として整備され、雑 誌等にも紹介されることで、各地域に拡がっていったこ とがわかる。これは、当時の幼稚園設立の増加とも関連 していることが推測される。また、その内容は、遊嬉、 唱歌、談話、手技の4科目の配列と、昼食時間を含む5 時間以内の保育時間の割り振りによるものである。これ らに準拠しているのは、いずれも公立幼稚園が多く、そ の中で、明治26年の時間割の私立の頒栄幼稚園は、保育 内容に恩物、歌唱、遊戯等他の幼稚園と同じような保育. ②遊戯「時計」について さて、時間割の普及は兵庫県の幼稚園だけではなく、 京都と大阪でも大いに利用されていているようである が、その背景には、明治初期に移入された「時計」の意 味が大きい。時計は小学校では、明泊7年文部省作成の 「第五単語図」に物の名前として掛け図にあらわれる。 また、明治20年には「時計」と題して連続する二つの課 が収録されている。実際は、鉄道の普及のために時計が 必要となったため、日常生活に入ってきたものであると いう(22). 内容だが、時間が大きく区切られていることが特徴的で !3Btm 当時の幼稚園の主旨は、小学校とは異なる幼児独自の 教育内容、方法がとられるべきであるとしている点で幼 児への特別な視点が見出され、明治期に移入されたフレ ーベルの思想と内容への岨噂を行おうとしているのを見 ることができよう。その中で時間割の出現は、それらの. 学校教育の中でも導入されると同時に、幼稚園の中に もあらわれるようになった。そのひとつとして、唱歌遊 戯の教材作品の中に「時計」がみられることである。京 阪神の雑誌にも明治33年の記事に、 「第五回京都大阪神 戸三市聯合保育合執行次第」として、 「六、遊嬉桃太. 図2明治44年唱歌遊戯「時計」 (『京阪神聯合保育奮雑誌』第二十七競30-31頁から転載). 時計(謂叫㌶㌫榊語譜欄亭). l'ナ!s"-!\I鶴のa計. りgJuEEi-aaヨH32農. EEU. 民皿B^K!凪巴3X223Z巳白野翌. 罰 E H 哩 E Z 3 2 H P S 3. 約手・t・ろ(く弼亭'圭はし. (糾誇和かat*詔か㌫か朔d.;. 0凹ノTPノバ足癖>yl拍手. ::富ノ代呈針.). 麗唖E33H山gここB3山玩[蝣蝣tliX. ]K^^^2日nHdF^icntR^. SEEfl昭玩hia昭もEiorai. 人はねむれせね>-も*>+蝣に. ト隅ニHI-T-)時計. 3中Ilユニ三上二二二I rW^^^mXu. ㌶. J. rZJ. 也. 336中6C3IJ221恒9可 L7-Bサ抗. 113中831恒ISit-1 tヤーOV. VoへrIォーTナ蝣r*・V. intnn巨39中ol ニ L X S u H H a  ̄ ^ s 5. up﹂SHRSgriM層. SEE埋WAi^Ereg. 拍手そろへて河手を土はL. H ア E 弼 P E H 蝿 f g " 僧. SiH昭HiE担saHで. iiiEi^-eia.'JESSヨF. 55. J L A E J l u n H u - ‖ 5 K s 2 日 E F F J. 淀の時杜. K. O 矧 t t 3 2 品 a a a j 咽 F l h [ J T H n ;. O中央ノオ肋4岡h. M-jji-jjmt. 岬も臼K2S山也txs頚IMサーJ拠am?. 中央ノ幼児骨桝ク7-ナタス. 申 K 3 ' 3 呂. 打Eg門rササ*^サ蝣ォー蝣ォ-・-t.tc-?. 巳CKitサiォ昭rra. 中央′方針ノ形一'二.-取ノ経;-a.糖. m . . ォ ー ・/ .v ・. . ', .^ s.. ト1-ヽヲ*V*ズ◆4/V*ス.

(8) 名頒川知子. 田中亨胤. <註> (1)文部省『幼稚園教育百年史』ひかりのくに、昭和 54年、 500貢 (2)同上826頁 (3)京阪神聯合保育合『京阪神聯合保育含雑誌』第三 披、明治32年10月43-44貢臨川書店(復刻版)昭 和58年 (4)兵庫県幼稚園協会『兵庫醇幼稚園史』昭和34年、 32貢 (5)同上33頁-34貢 (6)上掲書(1)戻 (7)上掲書4) 32頁 (8) 『京阪神聯合保育禽雑誌」 (明治31年創刊)の資 料は、昭和58年9月に臨川書店より再版されてお り、その資料を用いたO (9)神戸市立幼稚園『神戸幼100年』 (神戸幼稚園100 周年記念誌) (10)頒栄保育学院『幼児教育の系譜と頒栄』、平成8 年、 50-51頁 (ll)龍野市立龍野幼稚園『創立百周年記念誌』、平成3 年、 8頁 12龍野幼稚園で明治期一次資料として見ることがで きた資料は、以下の通りである。 ・明治25年「第二組児童出席簿」 ・明治28年度「幼稚園授業料徴収」台帳龍野 長役場 ・明治28年「幼稚園関係書経第二部」龍野町役. 内容を`万遥なく、なんとか子どもたちに獲得させたいと いう保育者達の熱意が伝わってくる。実際に現存してい る資料にふれ、事細かに日誌を記録し、幼児の様子を書 き留めている日誌から、幼児に対する真撃な姿勢が伝わ ってきた。そして、明治期にはじめて出来た幼稚園とい う幼児のための教育機関として、幼児の生活を規則正し くし、基本的な生活リズムを身につけさせ、内容も幼児 に適切なものを教育の一環としてきちんと配列し、学べ るようにすることをめざしていたことがわかるOすなわ ち、時間割は、 「保育者天然界の大真理を能く察知致し 其法則の如何に秩序正しくあるかを了解」 (26)すること とされているように、フレーベル主義に基づいて幼児に 一日の秩序を与えることを目的としているのである。こ のように明治期から幼児の特性を鑑みた教育的内容を考 慮した幼児教育への視点は、大変意義あるものであった と評価できる。しかし、一方で時間割の出現は、幼児教 育の内容、方法にある程度の型をつくり出したと言えよ う。その結果、各幼稚園での教育の水準は保たれるもの の、画一的な内容・方法となっていったことは否めないO しかし、全く形をなさない幼稚園というものを、正しい 形で普及し、幼児の育成に貢献するためにもこのような 時間割は大きく貢献していると言えよう。すなわち、明 治32年の法令を生み出し、その法令を具体的に的確に表 現したものとして、明治期幼稚園の時間割の意義を見出 すことが出来る。しかし、現在、幼児期の小学校の内容 を先取りしたような早期教育が蔓延する中で、この幼児 期への特性をふまえた教育への視座は継承し続けなくて はならないものと考える。また、兵庫県では、公立幼稚 園が明治期から現在まで100年以上継続してきた。この ような公的な教育機関としての兵庫県の幼児教育も大い に評価されることである。 さて、現在の幼稚園は明治期のような表にでる時間割. 場. ・明治33年1月より「令規綴」 ・明治33年12月「日誌」 ・明治35年「日誌」 ・明治39年1月 「保育日誌」 ・明治39年4月 「保育日誌」 ・明治40年4月 「保育日誌」 ・明治40年4月 「日誌」 ・明治41年1月 「諸届書綴」 ・明治41年4月 「保育日誌」. は存在しない。つまり、保育者としては、綿密に計画を 立てているのだが、環境を通してねらいを達成すること が現行の「幼稚園教育要領」にも示されているように、 幼児自らが自発的に生活をつくっていくことに援助する ことが保育者の役割としている。換言すれば、保育者は、 自分の時間割を持ちながらも、臨機応変にその時の幼児. ・明治41年6月 「日誌」 ・明治43年「合集禄」 ・明治43年6月「日誌」 ・明治43年10月13日付け「東京女子高等師範学校」 からの手紙 ・明治44年4月 「保育日誌」 ・明治44年4月 「保育日誌」 ・明治45年4月 「日誌」 ・明治45年4月 「保育日誌」 ・明治45年4月 「禽集日誌」 ・明治45年4月 「保育日誌」. の生活リズムを考慮しているのである。しかし、表向き の時間割の消滅はいつ頃からおこったのであろうか。ま ず、考えられるのは大正期に倉橋惣三が保育案と時間割 の相違を示し、時間割を保育案と混同しそれを重んじて 保育する幼稚園を「あてがいぶち幼稚園」と批判したこ とである(27)。その後、各幼稚園の時間割も変化してい ったと予想されるが、その実証は今後の研究をまたなく てはならない。今後、時間割のあらわれの変化をもとに、 その背後の保育における時間の観念の変遷と、子どもへ の視座の変容を検討していきたい。. 56.

(9) 明治期の幼稚園における保育時間割の研究. ・明治45年「保育日誌」 ・明治45年6月「記録」龍野幼稚園謝恩会 13上掲書(ll 8貢 (14)豊岡市立豊岡めぐみ幼稚園『創立100周年記念 めぐみ』、平成10年、 32貢 15 「豊岡町立幼稚園保育規定」、明治33年から同45 年2月、豊岡幼稚園蔵 (16)上掲書3) 27-28頁 17同上37-38頁 18同上82頁 (19)同上第九鋸、明治36年1月、 12頁 (20)同上第十七競、明治39年7月、 33-35貞 (21)同上第二競、明治32年4月、 5百 22橋本穀彦他『遅刻の誕生一近代日本における時間 意識の形成』三元社、 2001年、 170員 23前掲書(3)第四親、明治33年4月、 61頁 24)同上第七親、明治34年12月、 36貢 (25)同上第武七光、明治44年7月、 30-31頁 (26和久山きく「幼稚園に於ける秩序之必要」同上第 武親、明治32年4月、 28-31頁 27倉橋惣三「幼稚園真諦」 『倉橋惣三選集第一巻』 フレーベル館、昭和40年、 64頁 なお、本稿は、科学研究費補助金「近代学校における 授業時間割の実態と編成原理に関する比較史的研究」 (基盤研究C 2宮本健市郎代表)による研究の一部で ある。. 57.

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参照

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