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マルクスによるヘーゲル哲学批判の再読 ( 完 ) 島崎隆 一三 思考と存在の同一性 をどう評価するかここで 第一一節で示した エンゲルス フォイエルバッハ論 における 哲学の根本問題 を想起できる それは 思考 ( 精神 ) と 存在 ( 自然 ) のいずれが根源的かという問題であり 唯物論はもちろ

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マルクスによるヘーゲル哲学批判の再読(完) 島崎 隆 一三 「思考と存在の同一性」をどう評価するか ここで、第一一節で示した、エンゲルス『フォイエルバッハ論』における「哲学の根本 問題」を想起できる。それは、「思考」(精神)と「存在」(自然)のいずれが根源的か という問題であり、唯物論はもちろん後者が根源的だと答え、ヘーゲル的な観念論は逆に 前者が根源的だと答える。こうして唯物論は、この立場から科学的な自然進化論を肯定し、 観念論はキリスト教と同様、神による世界創造を肯定せざるをえない。当時まだ進化論が 未熟であったとはいえ、実際ヘーゲルは、観念論の立場から、進化論を否定したのである* 1。 それでは、唯物論はそれを前提にして「思考と存在の同一性」をどう評価するのか、と いう問題が生ずるだろう。「思考」と「存在」をただ区別するだけではすまず、この両者 の関係を問わなければならないとすれば、観念論側からではあるが、まさにヘーゲルはこ の問題に取り組んだのである。 実は哲学史的に見れば、存在するものの本質を「思考」とみる考えは、異様ではない。 すでにアリストテレスは『形而上学』で、神の思考においては、思考するものと思考対象 とは一体化しており、同じであるという。そこでは思考するものはもっともすぐれたもの であり、かつその対象ももっともすぐれたものであり、思考するものはそうした思考対象 に接触している*2 …。すなわち、存在の本質としてその奥底にあるものは、まさに思考で あるから、ここに存在する事態は、思考者が思考対象を思考するということ、「思考の思 考(思惟の思惟)」といわれるものである。そして、まさにこの箇所が、ヘーゲル『エン ツュクロペディ』の最後に、引用されているのである。 前節で言及したことであるが、『小論理学』によれば、「思考と存在の同一性」などの 命題が、非哲学の人びとにとって違和感があることを、ヘーゲル自身、十分に承知してい

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る。さらに、彼は以下のように述べる。「思想(Gedanke )が客観的思想として世界の内 面をなしているというと、自然の事物に意識を認めるかのように思われるかもしれない。 人間は思考によって、自然的なものから区別されるといわれているのであるから、人びと は事物の内的活動が思考(Denken)であるとは考えたがらないであろう。」*3 シェリング なら、みずからの自然哲学のなかで、自然を意識のない思想の体系として、「硬化した英 知」ということだろう、とも付加される。さらにまた、ヘーゲルは誤解を避けるためには、 「思想」といわないで、「思考規定 Denkbestimmung 」が世界を支配しているといったほ うがいいなどと、補足する。だが、どうもこれでも、違和感はぬぐえない感じだが、ヘー ゲルはここで、古代ギリシャでは、「ヌース(理性)が世界を支配している」、「世界の うちにはヌースがある」といわれたことに言及して、ヌース(=理性)という何か普遍的 なもの(合法則性)が世界に内在して、それを動かしていることがそこで主張されている という。まさにこれは、古代ギリシャのアナクサゴラスの主張であった*4。さらに古代ギ リシャでは、「ロゴス」といわれるものも、単に主観的な思考の働きのみではなく、「こ とば」「弁論」「物語」などとともに、「道理」「原理」「理法」「根拠」など、より客 観的な意味合いを含む。いまでも、政治や経済の「論理」などといわれて、それがその領 域を動かす、一定の客観的傾向性を意味することがある。こうして「思考(Denken)は、 外的な事物の実体をなすとともに、また精神的なものの普遍的実体でもある」*5と指摘さ れる。 さらにヘーゲルは、『精神哲学』でも、「哲学について何ごとも理解していない人びと は『思考は存在である Das Denken ist Sein. 』という命題を聞くと、もとよりびっくり して両手を頭上で打ち合わせる。それにもかかわらず、思考と存在の統一という前提は、

われわれのすべての働きの根底に横たわっている」*6 と注意する。以上に明らかなように、

ヘーゲルは「思考と存在の同一性」の命題について大きな違和感が抱かれることを十分に 承知したのちに、哲学史的伝統も踏まえて、あえてそれを重要な哲学的主張として提起し ているのである。だから彼は、観念論的誤謬を犯したとはいえ、いつのまにか思考と存在

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を混同してしまい、おのずと「幻想」に陥ったわけでもないだろう。 ところで総括的にいうと、ここには、西洋哲学の古代から近代への発展のなかで興味深 い歴史的事実がある。すぐれた論理学史家の山下氏は、たとえば現在、「アイディア」(考 え、思いつき)ということばが、もとはプラトンの「イデア」(理念)のように、天空の はるか彼方に存在する客観的なものであった、と述べる。それが近代で、人間の抱く主観 的なアイディアになったのだという*7。すでに述べた「ヌース」(理性)もいまは主観的 な意味合いが強いが、もとは「世界理性」であった。「ロゴス」も古代では、客観的・主 観的の両方の意味をもっていた。ついでにいうと、Subjekt は現代では主観的なものを意 味するが、古代・中世では subjectum として「基体」という客観的な意味をもっていた。 逆にObjektは、意識内容、表象という意味から、近代以後、もっと客観的な意味をもつよ うになった。 ここで哲学的テーマの力点が、古代から中世をへて近代へ至るなかで、自然の支配など、 人間の力が強大に発展することによって、客観的な形而上学、存在論、自然哲学などから 主体的な人間論、認識論、市民社会論などへ移行したことが考えられる。ヘーゲルは、こ うした哲学史的変遷を踏まえて、しかも以上の哲学史の意味の変容の全体を漏らさず、自 分の哲学のなかに包摂しようとしたといえよう。まさにここに、「思考と存在の同一性」 という幅広い哲学的テーマが開かれたのである。 一四 理性(理念)と現実の統一、概念と実在の統一と観念論・唯物論の問題 「思考と存在の同一性」の問題は、さらに同様に、理性(理念)と現実の関係、概念と 実在の関係の問題などへと展開される。まずここで、そもそも「思考と存在の同一性」の 意味をどう考えたらいいのかをあらためて論じ、さらにヘーゲル『法哲学綱要』での関連 の説明を見たのちに、唯物論の側では、これらの問題がどう扱われてきたのか、検討して みたい。 「思考と存在の同一性」とは、抽象的には、思考がいかに存在に到達するのか、また存

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在の本質がいかにして思考といわれるものであるのか、と問われる形而上学的な問いであ る。これはそのままでは、ヘーゲルに代表されるように、観念論的な性質のものといえよ う。少なくともヘーゲルは、この命題を、三つの意味で解釈していたと思われる。第一は 認識論的な問題であり、いかに思考が存在の本質を把握し、それと同一になるということ を示す。ヘーゲルがいう、ライプニッツ・ヴォルフ流の「従来の形而上学 vormalige Met aphysik」はおおむね、この命題を肯定していた。だが近代では、ヒュームのような懐疑論、 カント的な不可知論が現れ、この命題を否定した。第二は実践的な問題であり、この命題 は、思考する目的主体が対象を変革して、そのなかに目的を実現して、対象を獲得できる という考えである。第三は、すべての自然的・精神的存在が、何らかの意味で思考と存在 の統一体であるという、存在論的・世界観的主張である。これは、すでにアリストテレス が『形而上学』で、すべての存在が「質料」(ヒュレー)と「形相」(エイドス、モルフ ェー)の統一体であるという世界観を展開したことの継承である(質料形相主義 Hylemor phismus )。ちなみにヘーゲルは、上記の実践的側面について、労働論を「形づくり For mierung」として説明するが、そのさい、「質料」としての労働素材に目的としての「形式・ 形相 Form」を与えて、同一化することを考えている*8。 ところでヘーゲルは『法哲学綱要』で、理性と現実の関係にたいして、より明確に、「自 覚した精神としての理性」と「現に存在している現実としての理性」を区分する*9。いま までの議論で明らかなように、前者は思考のなかの主観的理性であり、後者は現実に内在 する客観的理性である。哲学の課題は、抽象的にいえば、いかにしてこの二つの理性が統 一されるのかということである。これは、まさに「思考と存在の同一性」の問題でもある。 有名なヘーゲルの命題「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」は、 まさに主観的理性と現実的理性の統一状態を表現する*10。またその『法哲学綱要』で、ヘ ーゲルは「概念とその現存在( Existenz) は、魂と肉体のように別々で、しかもひとつに なっている二つの側面である」*11 という。概念の現存在は、概念の肉体のようなもので、 この概念と現存在の一体化が「理念」といわれるものなのである。したがって「理念」は

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現実(現存在)のなかを概念としてしっかりと貫いているものであり、カント的にいえば、 ヘーゲルの理念は「統制的原理 regulatives Prinzip」ではなくて、より積極的に現実を 産出する「構成的原理 konstruktives Prinzip」なのである*12。昨今「新自由主義」とい われる理念も、単に主観的なものであるだけではなく、社会現象として、多くの人びとの 意識を支配して、彼らを駆り立てているイデオロギーとなっているといえよう。だからこ こで、理念に現実を平板に対置するだけでは、事態は解明されないであろう。 さて、この「思考と存在の同一性」の意味を、さらに唯物論の側から解釈することもで きる。たとえば、すでにフォイエルバッハは、「思考と存在の統一は、人間がこの統一の 根拠、主体とみなされるときにのみ、意味と真理をもつ」と注意した。主体自身であるの は抽象的な思考なのではなくて、現実的な人間である場合にのみ、思考も存在から切り離 されてはいない、というのである*13。これはある意味、唯物論からの解釈の端緒を切り開 いたといえよう。いずれにせよ、広く、思考と存在は統一されるべきであり、それはいか にしてかという問題提起なら、それを現実の世界観へと変換できれば、唯物論側にとって も有意義であると思われる。 すでに唯物論の側からも、この思弁的命題には賛否両論があった*14。何よりも、エンゲ ルス自身がこの命題に言及して、興味深いことを述べている。つまり「思考と存在の同一 性」( Einstimmung von Denken und Sein, Einheit von Denken und Sein などと表現され る)のもとでは、存在の法則と思考の法則が基本的に同一であり、一八世紀の唯物論では、 内容の面からその同一性が追究され、ヘーゲルでは、概念などの形式の面からもこの同一 性が研究されたのである*15。さらに現代では、許萬元氏は、この命題に唯物論の側から強 く注目してきた。たとえば氏は、「思考と存在との同一性は悪しきヘーゲル主義であるか」 *16と問題提起して、「思考と存在との同一性そのものは、主客一致をもって真理とする伝 統的真理命題の原理的表現以外の何ものでもないのである」*17として、思考と存在の二元 的分離を防ぐために、この命題は、唯物論にも必須であるという。許氏はエンゲルスに依 拠して、唯物論は「思考と存在の同一性」の認識論的同一性(さきほど提起した、第一の側

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面)のみを認め、ヘーゲル由来の「観念論的同一性」は否定する。氏によれば、それはまさ に、ヘーゲル自身によって思考が絶対的な生産主体へ祭り上げられることを意味し、マル クスに依拠して、ここでヘーゲルは「幻想」に陥るといわれる。いままでに明らかなよう に、私はヘーゲルの「観念論的同一性」という転倒は批判されるべきだが、それでもヘー ゲルは単なる「幻想」には陥っていないと主張してきたのである。 問題はそもそも、唯物論が何らかの意味で「思考と存在の同一性」を認めずに、ただ意 識と外部の実在の区別だけを強調するとすれば、いかにして認識活動は真理に到達するこ とができるのかということである。もちろんここで、フォイエルバッハ・第二テーゼにあ るように、真理に届くか否かは実践の問題であるとして、真理の基準として実践をもちだ すことは、ある意味必要である。これは、さきの「思考と存在の同一性」の第二の問題に 関わる。だがここで、あくまで認識内での真理獲得のメカニズムの問題に集中することも、 もちろんまた必要なことであろう。その意味で、マルクス主義的唯物論は、認識上の真理 反映説を主張してきた*18。いずれにせよ、私はここで「思考と存在の同一性」という抽象 的問題に関わることをやめる。唯物論では、実践的に変革につながらない真理認識は、「思 考と存在の同一性」に到達せず、現象的レベルにとどまるものだという評価になるだろう。 一五 マルクスと「哲学」 果たして「マルクス主義哲学」とはマルクス自身に即すと、語義矛盾、つまり成立不可 能なものなのだろうか。周知のように、若きマルクスは哲学研究者として出発した。彼の 学位論文「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」(一八四一年)では、 「観念論( 理想主義 Idealismus)だけが真のことばを知り、世界のすべての精神がその前 に現れる」と、「観念論」を称揚する。そしてさらに、バウアーら青年ヘーゲル派ととも に、「人間の自己意識」が重視される。さらにまた、世界が哲学的になることは、哲学が 世界的になること(現世的になること ein Weltlich-werden)でもあり、哲学の実現は哲学 の喪失でもある、と指摘される*19。ちょうどこの命題は、のちの「ヘーゲル法哲学批判序

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論」(一八四三-四四年)で、「哲学を実現することなしに、それを止揚できない」、「哲 学を止揚することなしには、それを実現でき」ないと述べたことへとつながる。この「序 説」でまた同時に、マルクスは「哲学はプロレタリアートのなかに、その物質的武器を見 出すように、プロレタリアートは哲学のなかに、その精神的武器を見出す」と述べ、「哲 学」と「プロレタリアート」の同盟を強調する*20。いずれにせよ、当時マルクスは、現実 批判の思想的武器として、「哲学」(「批判哲学 kritische Philosophie」*21というべき もの)を位置づけている。その少し前マルクスは、一八四二年七月出版のライン新聞でも、 孤独癖、体系癖などをもつ「ドイツ哲学」を批判して、「真の哲学」を主張している*22。 いずれにせよ、この時期のマルクスは、何らかの「哲学」に依拠して、現実政治と闘って いたのである。 だが、『ドイツ・イデオロギー』の時期では、第一〇節で示したように、「哲学的道徳 意識」を清算し、哲学そのものを根本的に批判するようになる。またマルクスは、「哲学 的意識」は思考過程を現実の過程と混同する「幻想」に陥ると批判した(第一二節参照)。 哲学とは、何か深い真理を語るものではなく、実は宗教と同様に、転倒したイデオロギー であり、本当の現実を覆い隠すための、悪しき理念にすぎない。たしかに『ドイツ・イデ オロギー』段階では、完全にヘーゲルらの哲学の勢力圏から逃れるために、哲学を明快に 批判することが、自らの「新しい唯物論」を形成するために必要な作業だったといえよう。 マルクスは史的唯物論を構築しつつ、本当の現実が物質的生産と物質的交通にあること、 そして政治的・法的制度は、その物質的現実から派生した上部構造にすぎず、哲学、宗教、 道徳などの社会的意識形態も物質的土台の反映である、と喝破した。たしかに従来、政治 や哲学が第一義的な関心事とみなされてきたが、真の究極の現実は、ヘーゲル的な「絶対 知」「絶対理念」などではなく、それもまた、イデオロギー的で転倒した派生物にすぎな い。実際、『精神現象学』で描かれる「絶対知」とは、それまでの叙述の総括であり、こ こで意識と対象の区別が消失し、ようやく学的境地に至ったと宣言されるだけである。『大 論理学』の「絶対理念」もまた、「直接性―媒介―直接性の回復」などの弁証法的方法の

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総括的表現などでしかない。 以上のマルクスの思想の発展過程の必然性を認めたうえでいえば、マルクスが批判した ヘーゲル的な「幻想」、その「思考と存在の同一性」の思想は、それが観念論的であるに しても、深い哲学史的な根拠に基づいており、その事実を認識しなければ、的確には批判 できないものであった。そのことを私は論証してきたつもりである。マルクスは最初、ギ リシャ哲学の専門家として出発して、哲学史的事実を大前提としていたのに、哲学を批判 し、そこから離れるとともに、段々と深い哲学(史)的知識にも関心をもたなくなってい ったのではないか。『聖家族』(第六章三節)などで近代哲学史を展開するものの、哲学 のなかでマルクスが最後まで関心をもっているのは、その方法論である「弁証法」だけで あったように思われる。だが、方法論や認識論も、哲学の一分野であって、他の世界観・ 形而上学、倫理学、価値論、人間論などの哲学分野から切り離して論ずることはできない。 とくにマルクスが「唯物論的弁証法」を提起するときに、その「唯物論」とは何かがあら ためて論じられなければならない。いままで議論したように、その「新しい唯物論」こそ、 《実践的唯物論》といわれるものであった。少なくともマルクスは、『パリ手稿』、『ド イツ・イデオロギー』などで展開した近代社会批判、史的唯物論などを総括しなければ、 その唯物論は形成されないはずである。 そしてあらためて「唯物論」とは何かを考えると、その古代ギリシャ以来の哲学史的発 展を視野に入れる必要があるし、かつての唯物史観主義者、主体的唯物論者のいうように、 いわゆる史的唯物論や人間の実践的主体性を強調すればそれで済むわけでもないだろう。 哲学的テーマとは少なくとも、社会・自然・人間のあり方を総合的に描くものであり、さ らに何らかの認識論、方法論などを含むとすれば、実際上、マルクスもその全体に関わっ てきたのではないだろうか。たしかに、マルクスはこうした全体的哲学をどこかで展開し てはいないが、彼は社会と歴史はもちろん、自然の分野でも、ダーウィン的な進化論や自 然環境問題に強い関心を持ってきたし、人間の生き方・ありかたにも大きな変革をもたら したことは周知の事実である。

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考えてみれば、そもそも唯物論というのはひとつの総合的な世界観を目指したのであっ て、哲学史のなかで観念論、宗教などと対抗してきた。マルクスも学位論文で、原子論を 説くデモクリトス、エピクロスを扱ったが、古代ギリシャのイオニア自然哲学から始まり、 近代では、デカルトの機械論的唯物論はその観念論と入り混じり、ホッブズ、ロック、ベ ーコン、さらにディドロら百科全書派のなかで唯物論は展開されてきた。マルクスの近く では、もちろんフォイエルバッハがヘーゲルを批判して唯物論的主張を唱えた。それらの 唯物論は、観念論とは異なるとはいっても、一種の哲学であっただろう。唯物論とは何か は、総合的世界観の問題であり、観念論との対比でしか説明されえない。 この点からすると、ヘーゲル的観念論は、マルクス的唯物論の立場からしか、適切に正 しく批判できないと思われる。ところで黒崎氏は、ヘーゲルを総批判するなかで、ヘーゲ ルの侵した「五つの忘却」(自然、労働、歴史、疎外、矛盾に関する忘却ないし軽視)を挙 げており、これが興味深い。この五つのテーマにそって、ヘーゲル的観念論はマルクス的 唯物論によってことごとく批判され、正しく位置づけられることだろう。私なりに解釈す れば、第一の「自然」については、ヘーゲルはその自立性を認めず、絶対理念からの「外 在態」とみなし、同時に進化論も否定した。それはキリスト教的な世界創造を擁護する立 場であった。それにたいして、マルクス的な唯物論は精神や理念にたいする自然の根源性 を承認して、進化論も積極的に承認したのであった。ここで後者が正しいことは明らかで ある。第二の「労働」については、ヘーゲルでは、それは基本的に精神と観念の労働にす ぎず、第一義的に物質的労働ではなかったが、マルクスでは、自然を前提に、人間と自然 のあいだの物質代謝としての物質的労働であった。そこでは、精神的な労働や生産は、第 二義的なものであった。ヘーゲルでは、自然としての「質料」すらも神的な形相が産出す るものとして、転倒的に考えられた。ここでも、ヘーゲル的観念論は正当ではない。 第三の「歴史」については、ヘーゲル『歴史哲学』などでは、それ(世界史)が精神の時 間的発現であり、神的な摂理として、理性の究極目的(自由)を実現する過程である。だが マルクスでは、すべては歴史的時間の過程にあり、それを免れるものはない。歴史の発展

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の根底に物質的生産と物質的交通があり、それを基礎として高次の自由や文化が成立する。 こうして、人間の歴史は史的唯物論のなかで描かれ、同時にそれは自然史の過程でもある。 ヘーゲルでは、歴史さえも、絶対的精神のなかで有限なものとなってしまう。「疎外」は ヘーゲルでもおおいに重視されたが、絶対精神が自己実現するための必要なステップとし て、結局、体系のなかで肯定されるだけに終わり、疎外を克服する実践的変革の側面が希 薄となる。マルクスが疎外の物質的原因を解明し、それの克服の運動を共産主義として提 起したわけである。さて「矛盾」こそはヘーゲルが弁証法的論理学のなかで概念化したも のであることに間違いないが、有論→本質論→概念論の展開のなかで矛盾概念が成立する のは本質論であるが、その矛盾は概念論のなかで調和されてしまい、世界は結局、神の摂 理に貫かれたものとして、神聖化されることになる。現実の矛盾をどこまでも認識し、そ れを理論と実践で解決しようとしたのはマルクスであった。以上のようにして、ヘーゲル の問題点を批判して解決しようとしたのは、マルクス的唯物論であるといえるだろう。こ うして、ヘーゲルの提起した五つのテーマはきわめて重要なものだが、すべてことごとく 挫折し、マルクスによってさらに批判的に継承された。この意味である意味、マルクスの 問題意識を貫いているものは、ヘーゲルによって提起されたものが多いともいえるのでは ないか。 さて、マルクスがフォイエルバッハテーゼ・第一で批判したように、従来の唯物論は観 念論を批判したが、両者はともに一面的な哲学であった。だが、マルクスの唱えた「新し い唯物論」つまり《実践的唯物論》はどうなのだろうか。マルクスは過去に向かっては、 古い哲学(唯物論と観念論)をイデオロギーとして批判し、そこから離脱した。たしかに フォイエルバッハの唯物論も、「人間なるもの」というイデオロギーを掲げ、歴史の分野 では「愛」を強調して、観念論へと転倒してしまった*23。現実認識をイデオロギーなしに 地上に着地させたのは、たしかにマルクスであった。だが、いまから未来へ向かっては、 マルクスの「新しい唯物論」はどう構築され、論証されるのだろうか*24。

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*1 この点については、拙著『ヘーゲル弁証法と近代認識』未來社、一九九三年所收のⅢ の第三節「ヘーゲルの自然観と進化論批判」で詳細に述べられている。ヘーゲル哲学の端 的な誤りの一例である。

*2 アリストテレス『形而上学』(出隆訳)下、岩波書店、第一二巻七章(1072,b10f.)。 *3 Hegel, Enzyklopädie Ⅰ, §24, Zusatz 1. 『小論理学』上、岩波文庫、一一六頁以 下。

*4 アナクサゴラスの「ヌース」については、カール・ミシュレ編ではあるが、Vgl. He gel, Vorlesungen über die Geschichte der Philosophie Ⅰ, Suhrkamp, TW18, S.379f f. 武市健人訳『哲学史』上巻、岩波書店、四二二頁以下参照。さらに、Hegel, Wissens chaft der Logik I, TW5, S.44. 武市健人訳『大論理学』上巻の一、岩波書店、三四頁以 下参照。

*5 Hegel, Enzyklopädie Ⅰ, §24, Zusatz 1. 『小論理学』上、岩波文庫、一一六頁以 下。

*6 Hegel, Enzyklopädie Ⅲ,TW10, §465.Zusatz. 『精神哲学』下( 船山信一訳) 岩波 文庫、一五四頁。

*7 山下正男『新しい哲学』培風館、一九六七年、一三〇頁以下参照。

*8 Hegel, Grundlinien der Philosophie des Rechts, §56, TW7, Suhrkamp. 藤野渉・ 赤澤正敏訳「法の哲学」、『世界の名著・ヘーゲル』中央公論社所収、一九八一年、二五 二頁参照。 *9 Ibid., S.26. 前掲訳、一七二頁以下参照。 *10 Ibid., S.24. 前掲訳、一六九頁。六回くり返された法哲学講義で、この二重命題は さまざまな変化をともなって使用されたことを、鈴木氏は明らかにする。たとえば、第一 回では「理性的なものは生起しなければならない」であり、第三回では「理性的なものは 現実的になり、現実的なものは理性的になる」と表現された。『法哲学綱要』と同じ表現

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は、第四回(一八二一・二二年)にのみ現れたという。寄川条路編『ヘーゲル講義録入門』 法政大学出版局、二〇一六年所收の鈴木亮三「法哲学講義」を参照。

*11 Ibid., §1.Zusatz. 前掲訳、一七六頁。

*12 Vgl. Kant, Kritik der reinen Vernunft, B537f. 高峯一愚訳『純粋理性批判』 河出書房、一九六五年、三五九頁以下参照。

*13 Feuerbach, Gesammelte Werke, hg. v. Schuffenhauer, Bd.9, Akademie Verlag, Berlin, 1970, S.333. フォイエルバッハ『将来の哲学の根本命題・他二篇』(松村一人・ 和田楽訳)岩波文庫、第五一節、八八頁。

*14 かつては、旧チェコスロヴァキアの哲学者ゼレニーはこの命題には批判的であり、 旧ソ連のイリエンコフは肯定的であった。インジッヒ・ゼレニー『弁証法の現代的位相』 (島崎・早坂監訳)梓出版、一九八九年、四一頁以下参照。Cf. E.V. Ilyenkov, Dialect ical Logic, Progress Publishers, Moscow, 1977, pp.194-199. なお最近では、黒崎剛氏 は『ヘーゲル・未完の弁証法』早稲田大学出版部、二〇一二年、二八、六三,八三、六四 四頁など、実に多くの箇所で、この命題に積極的に言及している。そのさい氏は、マルク スをみずからの基礎においている。 *15 MEGA I/26, S.146. 秋間実・渋谷一夫訳『自然の弁証法』新日本出版社、一九九九年、 一七四頁参照。 *16 許萬元「弁証法的方法の諸問題」、『唯物論』第六号、一九七六年、一六九頁。他の 著作を含め、許氏の論調には大いに学ばせていただいたが、現代からすると、いまだ《実 践的唯物論》の立場には達していず、実践的真理観に基づく弁証法的方法論主義とでもい うべき立場にある。 *17 前掲論文、一七二頁以下参照。 *18 私はこれ以上、認識論、真理論などの問題に立ち入ることをしない。それはここで のテーマ設定の範囲を超える。この点では、真理反映説、真理合意説、真理整合説の対 立を描いた、拙著・増補新版『対話の哲学』こうち書房、一九九三年所収のⅣ「真理反

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映説か真理合意説か」を参照。 *19 Vgl. MEW 40, S.260,262,328. 以上、『マルクス・エンゲルス全集』第四〇巻、一 八八,一九〇、二五六頁参照。 *20 MEW 1, S.384,391.真下信一訳『ヘーゲル法哲学批判序論』国民文庫、三三九、三五 一頁。 *21 MEGA I/2, S.489. ( M. an R.) *22 MEW 1, S.97.『マルクス・エンゲルス全集』第一巻、一一二頁。 *23 マルクスは『ドイツ・イデオロギー』で一度、「哲学的意識」を清算しており、その 態度は以後、基本的に変わらなかったとしても、『経済学批判要綱』、『資本論』などで、 「人間」ということばが事実上、復活している。この点の興味深い指摘は、長島功『マル クス疎外論の射程』社会評論社、二〇一六年、二六五頁以下、に見られる。マルクスは、 フォイエルバッハ的な「人間」という無内容なことばを断固拒否したが、生産関係、階級 などを含意した「人間」ということばを彼は、段々と許容し、また事実上使わざるをえな かったということであろう。 *24 紙幅が尽きてきたが、最後に二つの興味深い論調を紹介したい。第一は牧野氏のもの で、第二は清氏のものである。牧野氏はマルクスの哲学的側面を積極的に主張する。ある 意味マルクスは、哲学(研究)者だというのである。氏によれば、「マルクスは確かに従来 の哲学を批判したが、しかし『世界変革』のための新しい哲学を提唱したのではないか」(牧 野広義「マルクス哲学」、『唯物論研究年誌』第二三号、大月書店、二〇一八年、四二頁) という。それはアフォリズム形式の哲学でもあり、経済学批判や実践の理論のなかで生き ている哲学であるとされる(同上)。弁証法的方法論を除けば、マルクスの哲学としては物 象化や疎外の理論、さらに自由論、人格論であり、将来社会への幅広い展望などを含む( 前掲論文、五四頁以下)といえよう。個々の論点として基本的に賛成させていただきたい が、問題はさらにそこに内包されている哲学思想を、体系的に取り出して再構築すること ではないか。私はそれを《実践的唯物論》として構想してきたわけである。

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さて第二に、清氏はマルクスらの思想上の欠陥を哲学的立場から問題にしており、まこ とに注目に値する。氏は作家の高橋和巳を引用して、マルクス主義の挫折の背景に「前衛 者意識」「怨恨的復讐心」「権力欲望」の暗き三位一体性があり、その根底に、エンゲル ス、レーニンのみならず、マルクスの思想があるという。詳しく述べられないが、氏はこ こで単なる社会科学的な政治理論などに解消されない「実存的精神分析学的問題」「宗教 的洞察」の必要性を説く。清真人「『二十世紀マルクス主義の挫折』問題と社会主義思想 の再生可能性」、『季論21 』二〇一八年秋号、一九五、一九七、二〇〇頁参照。私は疎外 態である宗教を肯定しようとは思わないが、氏の主張によって、人間のあり方を深刻に問 う「哲学」の不十分性がいわれていると考えたい。いずれにせよ従来、 「マルクス・レーニン主義」などの哲学はかつて豊富に存在したが、もちろんそれは、 真に哲学的な問題を提起して解明するものではなかった。

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