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琉球と日本の文化交流―首里城と万国津梁の鐘の狭間―: 沖縄地域学リポジトリ

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Academic year: 2021

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Citation

沖縄工業高等専門学校紀要 = Bulletin of National Institute

of Technology, Okinawa College(15): 58-68

Issue Date

2021-03-16

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/24829

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琉球と

本の

文化

流―首里

城と

津梁の

鐘の

狭間―

多くの沖縄県民が、沖縄の歴史と文化を象徴すると考えるものが二つある。 一つは首里城である (写真一) 。 首里の高台に王城として君臨してきた首里城 写真一 首里城(復元) 二〇一九年筆者撮影 は、沖縄戦によって 破壊され 、平成に復元された。 首里城 を見て、日本の姫路城 を想像する 人はまず いまい。 その姿は中 国の紫禁 城を想わ せ、多くの 人々が、沖 縄は、日本 国内にあ りながら 、他の地域 とは異な った、中 国風の独特 の文化が花 開いたとい うイメー ジを持っ ているので はなかろ うか。た だ、首里城 は三度火災 で焼失している (昨年の焼失をカウントすれば四度) 。 平成 の首里城は、 一七一五 年に再建され、沖縄戦で焼失した首里城を復元したものである。 琉 球 史 で は 考 古 学 上 の 時 代区 分 と 、 文 献 史 学 上 の 時 代 区分 が 若 干 異 な っ て い る。 考古学上では 「グスク時 代」 と呼ばれる時代があるのだが、 「グスク時代」 の ような、古 い時期の 古文書が 残っていな いため、 文献史学 上で琉球の 前近代は、 「古琉球期」 と、 「近世琉球期」 の大きく二つに分けられている。 その画期となる のが一六〇 九年の薩 摩による 琉球侵攻と なる。首 里城が再 建された一 七一五年と は、琉球王国が薩摩の支配下にあった時代の、近世琉球期ということになる。 沖 縄 の 歴 史 と 文 化 を 象 徴 する も う 一 つ の も の は 、 万 国 津梁 の 鐘 で あ る ( 写 真 二) 。 王国時代、 首里城の正殿に 掲げられていたこの鐘には、 銘文が刻まれており、 その冒頭は 「琉球国 は南海の 勝地にして 、三韓の 秀をあつ め、大明を もって輔車 となし、日 域をもっ て唇歯と なす。この 二つの中 間にあり て湧き出ず るの蓬莱の 島なり。舟 楫をもっ て、万国 の津梁とな し、異産 至宝十方 刹に充満す 」から始ま っている。 鐘銘には 年次もあ り、西暦で 一四五八 年、古琉 球期のもの である。こ の時代、琉 球王国が 、東アジ ア全域をま たにかけ て活動し ていたこと を示したも のとして、二〇〇〇年の九州・沖縄サミットでは首脳会談の会場「万国津梁館」

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写真二 万国津梁の鐘 沖縄 県立博物館・美術館所蔵 同館写真提供 の名称由来にもなった。 但し、 ここで一点だけ、 注意しておくべき点がある。 冒頭で 「琉球国は南海の 勝地にして 」として いるわけ であるが、 東西南北 の方角は 、あくまで も基点に対 する相対的 な位置関 係である 。わかりや すく言え ば、琉球 はフィリピ ンから見れ ば、南海に あるので はなく、 北海にある ことにな る。つま り琉球を「 南海」と言 っているそ の基点は 、あくま で琉球の北 方にあり 、これは 日本からの 目線で書か れた銘文ということになる。 古 琉 球 期 と 近 世 琉 球 期 、 異な る 時 代 に 創 ら れ た 二 つ の 沖縄 文 化 の 象 徴 に は 大 きな相違が ある。琉 球は古い 時代、特に 薩摩侵攻 以前の古 琉球期に顕 著に見られ るのだが、 文化的に は、日本 とのつなが りが極め て深く、 実は中国文 化の影響が 強くなるのは、薩摩侵攻後の近世琉球期に入ってからとなる。 理由は、 冊封のためとされる。 冊封は中国皇帝を頂点とする華夷秩序で、 琉球 国王は中国 皇帝より 国王に任 命される。 これを任 命する使 者を冊封使 という。中 国皇帝より 冊封を受 ける者は 、その地域 の主でな くてはな らない。誰 かに服属し ている者は 国王には なれない のである。 だから琉 球は、日 本風の文化 や物を中国 風に変えて ゆこうと する。薩 摩より支配 されてい ることを 、中国側に さとられて はならないのである。 写真三は 『おもろさうし』 で ある。 『おもろさうし』 は琉球最古の文献であり、 王府が編纂 したが、 最初の編 纂は一五三 一年の古 琉球期で ある。特徴 は写真から うかがえる ように、 仮名書き である点と なる。か な文字は 日本で生ま れた文字で あって、これが琉球に伝わって、使用されている様子がわかる。 写真三 おもろさうし 沖縄県立博物館・美術館所蔵 同館写真提供

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さらに写真四は 「羽地間切の屋我のろへの辞令書 (任命書) 」 である。 年次は一 部欠損して いるもの の、天啓 五(一六二 五)年、 近世琉球 の初期とな る。ほとん どの文字が 仮名書き であるこ とがうかが えよう。 その上で 、写真五「 渡嘉敷間切 阿波連里主 所安堵辞 令書」を 見ていただ くと、漢 文体に変 化している ことがうか がえよう。 年次は雍 正二(一 七二四)年 。前の辞 令書から 一〇〇年後 のものとい うことにな る。漢字 は文字通 り、中国か ら伝来し た文字で あるため、 この一〇〇 年で辞令書は中国風に変化したということになる。 写真四 天啓五(一六二五)年、羽地間切の屋我のろへの辞令書 沖縄県立博物館・美術館所蔵 同館写真提供 写真五 雍正二(一七二四)年、渡嘉敷間切阿波連里主所安堵辞令書 沖縄県立博物館・美術館所蔵 同館写真提供 以上のように、 琉球の文化は、 古琉球期には日本文化の影響をうけた度合いが 非常に強い 。ところ が、近世 琉球期にな って、薩 摩の支配 下になって ゆくと、次 第に琉球は 、日本支 配色を消 すとの政治 意図をも って、中 国文化を積 極的に取り 入れるよう になって くる。だ から、首里 城は中国 風なので あって、こ れは近世琉 球の姿ということになる。 琉球は本来、 日本文化の色が強く、 だから沖縄の人は、

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日本語をし ゃべるわ けである 。近世琉球 期に薩摩 藩は、那 覇に在番奉 行所をおき 役人を常駐 させるが 、彼らと 琉球の役人 は普通に 会話をす る。しかし 、冊封使が 中国からやってくると、 言葉 が通じないので、 通事 (通訳) を介して会話をする、 ということになる。 古琉球期、 このような文化交流の架け橋になったのが、 僧侶である。 僧侶は修 行や布教な どをとお して、移 動性が高い 存在で、 高校の日 本史教科書 では、室町 時代 (琉球の古琉球期) 、 室町幕府は外交官として特に禅僧を重用していたことが 記述される 。本稿で は、その 僧侶を介し た、琉球 と日本の 文化交流を テーマに話 しをすすめてゆきたい。 古琉球期から近世琉球期にかけて、 全体をとおして見れば、 琉球仏教には、 臨 済宗と真言宗のみがあった。 一六八三年の冊封使、 汪楫が記録した 『使琉球雑録』 には「中山 僧また両 宗に分か る。首里に 居するは 臨済宗と いい、那覇 に居するは 真言教とい う。寺毎 に童子数 十人有り。 列坐して 業を受く 。大約読書 の時少く、 作字の時多 し。皆草 書にして 楷法無き也 。国人学 に就くは 、多く僧を 以って師と 為す」 とある。 そして、 『寺社 座御規模』 に見えるように、 近世琉球期、 臨済宗の 最大寺格は 円覚寺、 真言宗の それは護国 寺であっ た。そこ でまず臨済 宗最大寺格 円覚寺の開山となった芥隠承琥について見てゆきたい。 『球陽』 尚泰久王三 (一四五六) 年条には、 「景泰年間一僧国に至る。 諱は承 琥、字は芥隱 。日本平 安城の 人也。王、輔 臣に命じ 新に三 寺を構ふ。 (中略 )王、 其の教を受 け、礼待 甚だ優な り」とあり 、芥隠が 日本から の渡来僧で あることが 記される。 尚泰久王 は、何故 に芥隠に新 しい寺を いくつも 建立し、手 篤く待遇し たのであろうか。 芥隠が琉球に渡来してから十年後、 摂政 ・ 関白を歴任した貴族の近衛政家の日 記、 『後法興院記 』文正元 ( 四六六 )年七月二 十八日条 を見 てみよう。 「琉球 人去 頃より来朝 す。今日 武家に参 ると云々」 とあり、 琉球人が 日本を訪れ 、将軍足利 義政に謁見している様子が記されている。 そして、 『蔭涼軒 日録』 同年八月一日条 を見ると 「琉球国正使芥隠西堂、 大軸并南藩酒小樽を [ ]。 忽ち之を嘗む。 其 風味我方と[ ] 」とあ る。 [ ]は欠 損であり 、前者 には「持ち来 たる」な どが、後者 には「同 じ」か、 または「異 なる」な どの文字 が本来はあ ったであろ う。ともあれ、先の『後法興院記』に出てきた琉球人とは芥隠のことであった。 この時の 『蔭涼軒日録』 の記 録者は季瓊真蘂といい、 将軍足利義政に近侍し、 幕府に大き な影響力 を持った 臨済宗僧侶 である。 季瓊は芥 隠のことを 「琉球国の 正使」 、 つまり国王の正式な使者と呼び、 また芥隠は、 季瓊に手土産として 「大軸 と南藩酒の小樽」 を持参している。 「大軸」 とは 「大きな軸 装された巻物」 の意味 である。もっ と詳しい 様子が、 『蔭涼軒日録 』同年八 月五日 条からわかる。 「 琉球 国芥隠西堂 、たまた ま来りて 話すこと刻 を移す。 愚老に語 りて曰わく 、先に贈る ところの梅月の大軸は、 大唐国より琉球国王に贈るの書軸也。 今度此方来朝之次、 これを乞い 持来たる 。仍って 愚に与う」 とする。 梅と月が 描かれた絵 を軸装した ものという ことにな る。ただ それ以上に 大切なこ とは、こ れは中国皇 帝から琉球 国王に賜っ た品だと いう点で ある。ただ の国王の 品という だけでも貴 重なものな のであるが 、それを 、冊封体 制における 琉球国王 の主人た る中国皇帝 から賜った ものとなる と、さら に貴重性 が高まって くる。そ れを芥隠 は、わざわ ざ国王から 入手して、 季瓊に与 えたわけ である。な ぜそのよ うな貴重 品を季瓊に 贈ったので あろうか。 『蔭涼軒日録』 同年八月七 日条には、 「琉球国貢ぎ物点検 の事、 (中略) 尤も彼 の琉球国 [ ]、 愚また旧識により、 かくの如くこれを弁う。 旧識は芥隠西堂 を指す也」 とある。 芥隠と季 瓊は旧知の 仲であっ たわけで ある。芥隠 は自身の人 的ネットワ ークを活 用するこ と、つまり 将軍足利 義政に近 侍している 季瓊を利用 することで 、幕府と の交渉を 行い、交渉 を円滑化 するとと もに、琉球 側の利益確 保を意図していたものと見られる。そのための梅月の大軸であった。 も う 一 方 の 真 言 宗 の 方 も 見て ゆ く 。 最 高 寺 格 の 護 国 寺 を開 い た 人 物 は 頼 重 で あるが、 『南聘紀行』 には 「洪 武十七 (一三八四) 年 (中略 ) 是より先、 日僧頼重

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法印、 来たりて寺を波上に建て、 自ら開山となし護国寺と号す 〈年月不詳〉 。 是年 八月二十一 日遷化し 焉んぬ。 すなわち我 朝の至徳 元年也」 としている 。臨済宗の 場合と同様 、真言宗 もまた、 最高寺格は 日本僧が 創建した ということ である。近 世琉球仏教 の最高寺 格寺院は 、臨済宗も 真言宗も 、日本僧 によって築 かれたので ある。 琉球仏教の草創期、 その土台を築き上げたのは、 日本の僧侶であるが、 僧侶は 東アジアを またにか け、留学 ・布教を行 う、移動 性の高い 人々である 。琉球は日 本僧を重用 すること で、日本 との外交交 渉ルート の構築を 意図したと 考えられよ う。以上、 日本僧が 琉球に渡 来して、琉 球仏教の 土台を作 り上げてゆ く様子を見 てきたが、 時代を経ると、 琉球は自前で僧侶を輩出するようになる。 その一端を、 円覚寺第十八世の住持、菊隠宗意に見てゆこう。 『琉球国由来記』 巻十 「達磨 峰西来禅院記」 には次の記述がある。 「西来院は、 前円覚菊隠 禅師開闢 の地也。 師、わかく してより 出塵の志 あり。故に 円覚洞観和 尚に随い、 剃髪僧と なる。曾 て日本に遊 び、五山 に登る。 参禅学道十 余年、古渓 和尚より伝 法して、 菊隠之号 を受く。本 国に帰り て、円覚 寺に住むこ と多年、地 山川村千手院を卜し、 閑居す」 。 菊隠は十余年、 日本臨済寺院に留学していた。 そ して彼はこの後、琉球と日本の関係の転換点で大きな役割を果たすことになる。 喜安親方の回想録が、 『喜安日記』 と題して残っている。 彼は薩摩の琉球侵攻 を直接体験し、 記録した人物である。 その一六〇九年三月十六日条を見てみよう。 「同(三月 )十六日 に今帰仁 に兵船着と 聞へ(候 脱カ)し かば、国中 の騒動斜め ならず。 (中略) 去程に又詮議 有て、 西来院 (菊隠) は数年 薩州に住居ありて、 殊 更御両三殿 御存知の 事なれば 、行向て無 為和睦を 申調られ よと詔命を 蒙り、今帰 仁へたち給 ふ。西来 院菊隠長 老、名護良 豊、江洲 栄真を先 として相伴 ふ人々、喜 安、 津見、 池親雲上」 としてい る。 菊隠は、 数年間薩摩に留学していたのだから、 人的なネッ トワーク を持って いよう。だ から和睦 交渉をし てくるよう にとの命令 で、 薩摩側に向かっているこ とがわかる。 因みに、 この時の 随行メンバーには 『喜 安日記』の 記録者で ある、喜 安本人も含 まれてお り、史料 の信頼性の 高さがうか がえよう。 そして、 その四月十六日条は次のように記す。 「同 (四月) 十六日、 主上崇元 寺に行幸なつて両大将 (樺山権左衛門尉 ・ 平田太郎左衛門 尉) と御対面ある。 (中 略)薩州へ 渡御有り て、御礼 遂げられで は有るべ からずと て、既に供 奉の人々相 定る。 (中略) 御供の人々は、 具志上王子、 中城王子、 佐鋪王子 〈忝も今の主上の 御事也〉 。僧に西 来院菊隠 長老 、報恩寺〈今 の建善寺 也〉恩 叔長老也」 。ここ でも 菊隠は国王 に随行し て薩摩へ 向かってお り、菊隠 以外には 、臨済宗報 恩寺の恩叔 も含まれている。 このように、 仏教僧は日本との間を往還することにより、 人的ネットワークを 構築してお り、琉球 ・日本は 彼らを利用 して、外 交交渉を 行っていた ということ になる。以 上、古琉 球期には 禅僧が琉球 と日本の 国家間交 渉に大きな 役割を果た していたこ とを見た が、僧侶 が自身で航 海できる わけでは ない。そこ で次に堺商 人に視点をあててみよう。 『球陽』 附巻、 尚寧王十二 ( 一六〇〇 )年には次の記述がある。 「喜安入道 〈名 乗藩元〉 、扶桑国 泉州界の 人な り。 (中略)喜安 、年三十 五歳 にして、果し て球国 に到り、 力を朝廷に効す。 〈喜安生質廉慎聡明絶世にして、 幼少の時、 康印先生に 従い茶経を 伝授す。 昼夜ただ に懈るにあ らず、能 く精奥に 徹す。王偶 々之を見甚 だ悦ぶ。 〈康印扶 桑国茶道 の宗 、千宗易の伝 緒也。 〉幾年 を閲 せず、擢んで て侍従 官と為り、 茶道の宗 職に任ず 。此よりの 後、茶道 を国人に 教授し、茶 道いよいよ 興り、今に 至るまで 延綿とし て、敢えて 稍しも絶 えざる也 」と。ここ で登場する 千宗易とは 、茶人と して著名 な千利休の ことであ る。そし て、先に薩 摩との和睦 使者の随行 員として 派遣され 、その様子 を記録し た喜安は 、実は日本 堺の人間で あったことが記されている。千利休もまた堺の商人であった。 島 津 家 文 書 ( 日 本古 文 書二 七 九 号 ) は 室 町幕 府 か ら島 津 立 久 に 充 て ら れ た 文明三 (一四七一 )年十一月十 五日付の命令書 (奉行人奉書) が残る。 「琉球渡海船

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事、堺辺よ り近年尽 期無く候 哉。所詮、 向後は、 此の印判 無きの船に おいては、 追って御もどしあるべく候。 なかんづく彼の船に積銭の事有らば、 取り留められ、 御京上候はば、 喜悦申すべく候由、 懇ろに申すべき旨候」 。 堺から琉球渡海船が際 限なく出航 している が、今後 は幕府の印 判、つま り許可状 がない船は 戻して欲し いという内容である。 堺といえば、 鉄砲と茶が有名であるが、 例えば、 前に見た 千利休も堺商人であ った。そし て、もう 一つ、忘 れてならな いことは 、茶の文 化は中国に 生まれ、鎌 倉時代、臨 済宗の開 祖、栄西 によって日 本にもた らされた ものとの点 である。こ れが発展したのが茶道であり、戦国期に千利休によって大成される。 堺出身の喜安は茶に精通し、 琉球に茶道を伝授した。 その堺商人は琉球と日本 との交流に 大きな役 割を果た す。そこで 次に、茶 をとおし た臨済宗僧 侶と堺商人 との関係を見てゆきたい。 大永丙戌 (一五二六 )年九月 二十日、 臨済宗大徳寺の古岳宗亘が、 和泉国境南荘 に居住する藤原善の男子に 「宗達」 の法名を授けた文書が残されている (『史料大 徳寺の歴史』 「観光院文書」 ) 和泉境南荘居住藤原氏 善男子授法号。曰 宗達 大永丙戌(一五二六)菊月(九月)廿日 前大徳古岳叟宗亘 大徳寺は臨済宗寺院で、 茶祖と称される村田珠光が、 大徳寺僧侶一休宗純に参 禅してから 茶道との 結びつき が深くなり 、後には 千利休が 三門、金毛 閣の二層目 を寄進した、茶道との所縁深き寺院である。 古岳宗亘法号付与状で法名を与えられた 「宗達」 は、 津田宗達であり、 彼も堺 商人であり 茶人であ った。千 利休・今井 宗久とと もに織田 信長の茶頭 にもなる。 その津田宗 達の息子 が津田宗 久であり、 一般に、 津田宗久 ・千利休・ 今井宗久を 茶の天下三 大宗匠と いう。全 員堺商人で ある。こ れらの関 係は、臨済 宗寺院大徳 寺と堺商人の茶を通した関係の密接さを物語るものといえよう。 その津田宗久の日記、 『宗及自会記』 天正四 (一五七六 ) 四月十四日条には次 の記述がみられる。 同四月十四日朝 〈琉球之〉意蔵主 清シカ(知客) 一、長板ニ桶・平釜二ツ置。後ニ合子 一、床ニ船子 カウライ(高麗)茶碗 同日朝、 津田宗久は琉球の意蔵主と清シカ (知客) を招いて茶会を行っている。 蔵主とは、 禅宗寺院 で経蔵を 管理する役 職の人で 、知客と はこれも禅 宗寺院にお ける役職の 一つで、 新人の世 話係や外部 からの来 客の接待 などを行う 。そして、 その後ろに記 述される、 「 長板 ニ桶」 「平釜二ツ 」以下は 、そ の茶会で使用 した道 具などであ る。茶道 という無 言のコミュ ニケーシ ョンツー ルを用いて 、古琉球期 (日本の室町時代)の日本禅僧・堺商人・琉球禅僧は結びついていたのである。 そのような茶は、 琉球において、 さらに中国からの国賓をもてなす道具として も使用されている。 次に提示 したのは、 一五三四年の冊封 使、 陳侃の 『使琉球録 』 である。 「八月中秋の節、 夷俗また美と為すを知る。 請いて之を賞す。 因りて遍く 諸寺に遊ぶを得。 寺王宮の左右に在りて、 軽易に往来を得ず。 曰わく天界寺有り、 曰わく円覚 寺有り。 此れ最も 鉅なるもの にして、 余の小寺 は記すに暇 あらず。二 寺の山門殿宇、 弘敞壮麗にして、 王宮に亜ぐ。 (中略) 但し 僧、 皆鄙俗にしてとも に語るべか らず。ま た敢えて 見ず。しか れどもま た烹茶之 法を知る。 古鼎を几上 に設け、水 を煎りて 、まさに 沸かんとす るに、茶 末一匙を 鐘に用い、 湯を以て之 に沃ぐ。竹刷 を以て之 にひた し、しばらく して奉飲 す。其 の味甚だ清ら かなり」 。 臨済宗寺院 円覚寺に て冊封使 を茶でもて なしてい る様子で ある。冊封 使を茶でも てなした記 録は多く 、近世琉 球期に入っ ても数多 見られる 。その一例 が、一六八 三年の冊封使、 汪楫の 『使琉 球雑録』 である。 「烹茶頗る撮 泡に類す。 水沸かば甌 中にうつし、 茶末を以って之 に投ず。 小篾を用い箒攪し、 匀 おわせ、 客にすすむ」

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と。 以上、 琉球 ・ 日本の僧侶を媒介とする文化交流の結果の一つとして茶文化があ ることを見 てきたが 、もう一 つ、僧侶が 媒介する 文化交流 の結果とし て、草書文 字を見てゆ きたい。 前に汪楫 の『使琉球 雑録』に て、首里 に臨済宗が 、那覇に真 言宗があることを見たが、 今回注目するのはその後である。 「寺毎に童子数十人 有 り。列坐し て業を受 く。大約 読書の時少 く、作字 の時多し 。皆草書に して楷法無 き也。国人 学に就く は、多く 僧を以って 師と為す 」とある 。寺院で僧 侶から文字 を学んでいる。 それは草書で あって、 楷書はない。 琉球の人 びとは、 多くの場合、 僧侶から文 字を習っ ていると している。 古琉球期 で、同様 の史料を他 にも見てゆ きたい。 一五五八年に来琉した冊封使の郭汝霖 『使琉球録』 には、 「陪臣の子弟と凡民 之俊秀の者と、 則ち中国の書を習わしめ、 以て他日長吏通事之用に用う。 其の余、 但倭僧より 番字を書 くを学ぶ 」とある。 琉球国王 は中国皇 帝の臣下で あるため、 国王の臣下は中国皇帝にとって陪臣になる。 陪臣子弟などは中国の書物を学んで、 将来の長吏や 通事 (通訳 )に用 いるが、その 他は、倭 僧から 番字、野蛮な 文字を学 んでいると いうこと である。 先ほどの汪 楫『使琉 球雑録』 との対応で 考えれば、 中国の書物 は楷書に なるため 、番字は仮 名文字と いうより も草書文字 ということ になろう。 これを教 えている のは、倭僧 とあるが 、既に琉 球は自前の 僧侶を輩出 しているた め、正し くは、日 本風文字を 教えてい る琉球僧 侶、という ことになろ う。 さ ら に 一 六 〇 六 年 、 薩 摩 の琉 球 侵 攻 直 前 の 古 琉 球 最 末 期に 冊 封 使 と し て 来 琉 した夏子陽の 『使琉球録』 を 見る。 「僧番字を識る。 また孔 子の書を識る。 其れわ かき時をも って嘗て 倭国に往 き、倭僧に 習う。陪 臣の子弟 十三・四歳 にして、皆 これに従い字を習い書を読む」 。 ここでも寺院にて番字、 つま り草書文字を教えて いることが 記されて いる。そ して、僧侶 は、若か ったとき に、日本に 留学して、 日本の僧侶 から文字 を習って いるとして いる。琉 球僧が日 本に留学し ていたこと も既に見てきた。 それでは、 今まで見てきた、 草書、 番字の琉球での実例を見てゆきたい。 以下 の一連の写 真は、近 世琉球に 見られる一 般の史料 である。 写真六が福 地家所蔵の 『御物城日 記』咸豊 三(一八 五三)年四 月十九日 条である 。ペリーが 来航した時 の様子を語っている。公文書としての日記の一例としてあげた。 写真六 『御物城日記』咸豊三(一八五三)年四月十九日条 福地家所蔵資 料 那覇歴史博物館寄託 筆者撮影

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写真七は同じく福地家所蔵の 『親見世日記』 道光二十五 (一 八四五) 年記の紙背 に残る、道 光二十五 年六月九 日付生子証 文(出生 届)であ る。公文書 としての文 書の一例である。 写真七 道光二十五(一 八四五)年六月九日付、生子証文( 『親見世日記』 道光二十五年記紙背文書) 福地家所蔵資料 那覇歴史博物館寄託 筆者撮影 写真八は久米島の上江洲家所蔵、 道光三十 (一八五〇) 年七 月九日付上江洲親雲 上智俊書簡 である。 妻の歯が 抜けた夢を 見たので 吉凶を占 って欲しい との内容に なる。私文書の一例として掲載した。 写真八 道光三十(一八五〇)年七月九日付、上江洲親雲上智俊書簡 上江洲家所蔵資料 久米島博物館寄託 筆者撮影 すなわち、 近世琉球社会で通用する、 公文書としての日記 ・ 文書、 私文書など、 全ての史料 は御家流 草書の文 体になる。 そして、 その下地 は、古琉球 期に行われ

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た、僧侶を媒介とした文化交流にあったことになる。 以上、 古琉球期の文化交流の産物、 草書文字と茶を見てきた。 そして、 僧侶を 媒介としてもたらされた日本風の草書文字は、 近世琉球では、 僧侶の手を離れて、 琉球社会全 体で広く 機能して いた様子も 見た。そ こで最後 に、茶は近 世琉球期ど うなったのか、という点を見てゆきたい。 古琉球最末期、 一六〇六年に来琉した冊封使、 夏子陽の 『使琉球録』 には次の 記述がある。 「地 、茶に宜 しか らず。凡そ茶 皆日本よ り至る 也」 。そしてこの 後、 一七一九年に来琉した徐葆光の 『中山伝信録』 では、 「明冊使蕭崇業、 夏子陽の旧 録に云わく、 (中略) 地茶に宜 からずと。 今また、 ままこれ 有り。 但し繁植に甚だ しからず」 ともある 。十八世 紀に入ると 、若干生 産される ようにはな っているよ うである。 茶は、近 世琉球文 書に頻出し てくる上 、久米島 の上江洲家 も茶を生産 していた ( 『美済姓家譜』 ) し かし茶の需要拡大に琉球産茶の供給は追いつかず。 主たる輸入元はやはり日本とされる状況に変化はない。 そして、 注目すべきは、 次に 提示した琉球館文書 (那覇市史資料編一 -二、 五〇 号 )、卯 (一七八三 )年七月十八 日付の某書状(前欠)である。 (前略) 琉球の儀 、 地方狭 薄の所ニて作り出候茶 ・ たはこ少ク有之、 国用 過 半 及 不 足 候付 、 上国 の 面 々相頼 誂 下 候 方も 有 之候 得 共 、其通 取 計 候 身帯 向 の者共少ク有之、 多分は御国船頭 ・ 水主共持下候茶 ・ たは こ買取、 日用相達 申事候。 (中略) 右通船頭 ・ 水主持下候茶 ・ たはこ、 請人被仰下、 一手商売 相 成 候 ハ ハ、 お のつ か ら 直段相 増 候 段 は決 定 の事 候 へ 共、差 欠 候 て 不叶 品 ニ 候 故 、 乍高 直 買取 申 筈 ニて、 近 年 差 廻居 候 諸士 ・ 末 々の者 共 必 至 と当 惑 仕、 甚差支可申儀と奉存候。 ( 中略) 何とそ孫太郎願筋御取揚無之様、 被仰 付被下度、奉願候。 (後略) 卯(一七八三)七月十八日 以下、 解釈を示しておく。 琉 球では土地が狭いため、 生産する茶と煙草が少な い。そのた め、国内 消費する 分の多くが 不足して いる。薩 摩へ上国す る者たちに 頼んで入手 する者も いるが、 そのような ことがで きる暮ら しぶりの者 は少ない。 多くの者た ちは薩摩 船の船頭 や水夫が持 って来た 茶と煙草 を買い取っ て、日用と して使用して いる。 (中略 )そ の船頭や水夫 が持って 来てい る茶と煙草に 対して 、 請負人を指 名され、 一手商売 (専売制) になった なら、値 段が高騰す るのは必然 である。し かしなが ら、なく てはならな いもので あるため 、高値であ っても買い 取ることに なるはず である。 そうなれば 、近年、 生活が逼 迫している 士族や平民 は当惑すること必至となり、 甚だ差し支えが生じる。 (中略) どうか、 孫太郎が願 い出たことをお取り上げなきよう、仰せ下されたく、願い上げ奉ります。 孫太郎なる者が、 茶と煙草について、 自分を請負人にして、 専売制にして欲し いと願い出た件を、琉球側がなんとか阻止しようとしているのである。 古琉球期、 仏教僧交流によってもたらされた茶も、 草書文字同様、 僧侶の手を 放れ、琉球 社会に広 く浸透し ていること がうかが えよう。 しかし、需 要に対する 供給は追いつかず、薩摩との交渉の懸案事項にまで発展しているのである。 琉 球 と 日 本 と が 公 式 な 国 交を 開 始 す る の は 、 琉 球 で 統 一王 権 が 確 立 さ れ た 直 後、日本の 室町時代 中期から である。そ こで国交 交渉の役 割を担って いたのは、 仏教僧であ った。近 世琉球仏 教の基礎を 確立した のは、日 本から渡来 した僧侶で あったが、 彼らは同 時に、琉 球と日本の 媒介の役 割を果た していた。 特にその働 きは、室町 幕府で外 交官とし て日中交渉 に任じて いた臨済 宗僧侶に顕 著に見られ る。さらに 、茶と草 書文字を 特に取り上 げたよう に、その 僧侶達の手 によって、 仏教以外の 様々な文 化交流が 進み、文字 と茶は近 世琉球社 会に深く浸 透していく ことになるのである。 参考文献 伊藤幸司『中世日本の外交と禅宗』 (吉川弘文館、二〇〇二 年) 小葉田淳『中世南島通交貿易史の研究』 (刀江書院、一九六 八年) 下郡剛 「琉球における寺院と茶」 (国立歴史民俗博物館編 『 中世寺院の姿とくら

[9]

60

(11)

し』所収、山川出版社、二〇〇二年) 下 郡 剛「 久米 島 上江 洲家 所蔵寺 院 関係 文書 につ いて ― 観音霊 籤 の被 占者 と年 次 の検討を中心に―」 ( 『久米島 自然文化センター紀要』 一〇 号所収、 二 〇 一〇年) 下郡剛 『琉球王国那覇役人の日記―福地家日記史料群―』 ( 臨川書店、 二〇一七 年) 知名定寛 「古琉球時代における仏教の普及過程について」 ( 日野照正編 『歴史と 仏教の論集』所収、自照社出版、二〇〇〇年) 葉貫磨哉『中世禅林成立史の研究』 (吉川弘文館、一九九三 年) 村井章介『東アジア往還』 (朝 日新聞社、一九九五年) 付記 本 稿 は 二 〇 一 九 年十 二 月 二 十一 日 に 行 わ れ た、 日 本 ア イルラ ン ド 協 会 年 次大 会 シンポジウム 「アイル ランド と沖縄」 (於沖縄 高専)に て、 「琉球と日本 の文化交 流」と題して行った発表を文章化したものである。

[10]

59

(12)

琉球と

日本

の文

化交

首里城

万国

津梁

間―

下郡

沖縄

とい

えば

国の

影響を

強く

受け

た結

果、

独自の

文化

が花

た、

とい

うのが

一般

的な

イメー

ジで

はな

かろ

うか

して

それを

するの

が首

里城

とい

うこ

とにな

ろう

かし

これ

は、

摩侵

攻後、

国との

冊封

関係

を維

持す

るため

琉球

自ら

が中

化政策

を推

し進

めた

結果で

あり

れ以

前の

琉球文

化は

倒的

に強

く日本

から

の影

受けて

歴史

的な

展開

を見

せてゆ

く。

文献

史学

から

の琉

球の

時代区

分は

一六

〇九

の薩摩

侵入

以前

の古

琉球期

と、

以後

の近

世期

に区分

され

るが

本か

らの影

響は

琉球

期によ

り強

く見

られ

世期に

それ

が中

国風

へと

変容し

てゆ

く。

ば、平

成に

復元

され

た、

我々が

目に

して

いた

首里

城は、

一七

一五

近世期

のも

のを

再現

した

もので

ある

ある

から

の姿

は中国

禁城を

思わ

せ、

中国

風と

いうこ

とに

なる

首里

城以

外に

沖縄

歴史と

文化

を象

徴す

ると

される

もう

一つ

の文

化財に

国津

梁の

鐘が

あろう

国時

代、

城の正

殿に

掲げ

られ

ていた

この

鐘に

は、

銘文

刻まれ

てお

り、

球国は

南海

地に

韓の

秀を

大明を

車と

域を

歯と

二つ

中間

出ず

蓬莱

島な

舟楫

をもっ

て、

万国

の津

梁とな

し、

異産

至宝

十方

刹に充

満す

する。

文末尾

には

年次

もあ

り、

西

暦で

一四

五八

琉球期

冒頭で

球国は

西

基点に

する

相対的な

置関係で

琉球

海」

言っ

古琉

期の

化財

らは

僧侶達で

古琉球

期の

僧侶

達は

同時

琉球

日本

家間交

様々

化交

文字

茶な

琉球

会に

透し

「首里

城」

「万

国津

梁の

鐘」「

文化

交流

」「

茶」

「草書

文字

[11]

58

参照

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