ネパール・ポカラ市のスラム集落発達と
自生的リーダーの機能と限界
―マオイスト撤退とスクンバシ集落自治組織のジェンダー間役割交換―
The Development of Squatters Slums in Pokhara, Nepal And
The Functional Limits of the Slum Autonomous Leaders:
The Retreat of Maoists and The Role Exchange By Gender In
Squatters Autonomous Organizations
山本 勇次
* 要 旨 ネパール中西部の都市ポカラでは、1970 年代初頭からヒマラヤ連峰のパノ ラマを売り物にする観光産業が発達しだした。それ故、ポカラ周辺の貧困な 山地民がポカラに職を求めて移住し始める。彼らはネパール語で「スクンバ シ(Sukumbasi:Squatter)」と呼ばれ、空き地や政府所有地等を不法占拠し、 集団でテント村やスラムを作り住みこんでいる。スクンバシは自分達の中か ら「自生的リーダー」を選びだし、「スクンバシ・サミッティ」と称される 自治会組織を作って、彼らの占拠地生活の便宜獲得や公的な援助申請をする ようになる。スクンバシ・サミッテーは戸主の集会であり、殆どが男だけの 集会で、政治運動よりも日々の稼ぎに熱心な女房達は出ることはない。 1970年代後半には、ポカラの土地不足と宅地価格高騰が顕著となり、市役 所・警察のスクンバシの不法占拠地からの撤去通達が繰り返しされるが、そ の通達をしに来た役人が来ると、スクンバシ・サミッテーの男達全員がその * 大阪国際大学名誉教授通達者を取り巻き、集団的威嚇で追い返してしまうのであった。しかし、や がて撤去命令が単なる口頭通達から警察による物理的強制排除の段階とな ると、スクンバシの抵抗前線からは男性達が一斉に後退し、彼らに代わって 女性達が警察隊の前面に体を張って対抗するのである。つまり、警察力によ る強制撤去の実行段階になると、スクンバシの居住地防衛要員が男性から女 性へと「ジェンダー間役割交換」が意図的に起こったのである。 このようなジェンダー間役割交換が起こる理由は、女性達の方が男性達よ り「ガンジー的な無抵抗主義」の表明にはより適しているというネパール的 叡智によるところであろう。武器を持つ者が持たない者を攻撃すること、力 の強い男性が力の弱い女性に暴行をすることは、人間として最低の行為だと する考え方は、ヒンドゥー教の「アヒンサー(ahimsa)」(不殺生・非暴力) の戒めに由来するものであろう。 Abstract
Pokhara is a tourist city in the western center of Nepal. It is blessed with a panoramic view of Himalayan range, which has been attracting worldwide tourists to Pokhara since the middle of 1970s. The more famous Pokhara has become as a Himalayan tourist town, the more people have come down to Pokhara from its neighboring hills to look for jobs. Those new-comers to Pokhara have been called Sukumbasi(null-property people). They have unlawfully occupied vacant areas or governmental lands in and around Pokhara and have built lots of tents or sheds for them to stay in their occupying areas. Among those Sukumbasi people a group of autonomous leaders were elected and, under their leadership, Sukumbasi Committees were established. The Sukumbasi Committee functioned to facillite their occupation camps with water and electrity on one hand, and on the other hand to make joint effort to get governmental permission for their occupying lands.
Entering the middle of 1970, Pokhara has shown the shortage in residential land and the land price has been inflating. This caused Pokhara city to cope with the Sukumbasis more strictly. Whenever the city personnel came to the Sukumbasi villages to persuade them to discard their occupying land, almost all the male Sukumbasi surrounded the city personnel and succeeded the personnel to return to their office without any results. But later when a group of police men came to the Sukumbasi village to evacuate them by force, the female Sukumbasi, instead of the males, lined up to face the police force. It is noteworthy that when police men attempted to remove the Sukumbasi by force from their occupied land, all the female Skumbasi, instead of the male, intentionally lined up against the police men. Such a resistant tactics can be called as the role exchange by gender from men to women.
This role exchange by gender may come from such a Nepalese wisdom as Gandhi s non-violent idealism: the female is suitable to perform non-violence than the male. Hindu notion of ahimsa(non-violence)shows that it is the worst for a strong man to beat a weak woman.
キーワード: ネパール、ポカラ、スクンバシ、スクォッター、スラム、マオ イスト、自生的リーダー、ジェンダー間役割交換
Key words: Nepal, Pokhara, Sukumbasi, Squatter, Slum, Maoist, Autonomous Leader, Role Exchange by Gender
(1) ポカラのスクンバシ研究とそれに至る経緯:
本稿は、立命館大学文学部・江口信清教授を研究代表者する 2003 ∼ 2005 年度までの文科省科研費共同研究「スラム地区住民の自生的リーダーシップ に関する地域間比較研究」の研究成果による調査論文である。私は、1993 年
4月に立命館大学文学部の江口信清教授や藤巻正巳教授が主宰する立命館大 学人文科学研究所での共同研究会、「貧困の文化に関する比較研究会」に参 加させてもらうことが出来た。この共同研究での筆者の成果は、マックス・ ウェーバーの「プロテスタント・エートス」(ウェーバー 1965)の「否定形」 を下敷きにした「貧困のエートス」を抽出し、これを座標軸にして長崎の炭 鉱町高島とポカラの貧困の比較文化論を試みている(山本 1998b)。 その論文では、筆者のそれ以前の調査経験に基づいた印象上の対比とし て、ネパール・ポカラ市民の「明るい貧困」と高島炭鉱離職者の「暗い貧困」 とを対比して、両者はともに「貧困のエートス」を共有するが、前者は圧倒 的多数の貧困人口によって出世競争上の「敗者意識」が脆弱で、それゆえ自 らの貧困への「ルサンチマン」が見当たらないのに比べて、後者は相対的少 数である貧困者が競争の敗者としての意識が大きく、それゆえの「ルサンチ マン」を強く抱いているとの相違を説明したはずである。この相違から「明 るい貧困」と「暗い貧困」の対比を浮かばせることが出来はずである。それ 以来、「貧困のエートス」を作業仮説とした筆者のポカラの貧困研究は、ポ カラ社会の(経済的)階級構造論的な検討に向かうようになった。この立命 館大学人文科学研究所の共同研究チームとともに筆者が研究代表者として 始めた共同研究「スラム地区住民の適応に関する比較調査」が 1998・99 年 度の科研費(国際学術研究)を頂戴した直後に、筆者は、大阪国際大学から 特別研究資金を獲得し、同年 3 月にたった二週間ながらネパール・ポカラ市 での予備調査を挙行することが出来た。ちょうどその頃ポカラでは、「スク ンバシ(Sukumbasi)」と呼ばれる「不法土地占拠者(squatter)」が極めて 深刻な社会問題となっていたのであった。 そこで筆者は、1998 年夏のポカラ調査で、旧知のネパール人 3 人を現地調 査助手として採用し、ポカラ中のスクンバシ集落を発見し、その集落ごとに 面接調査で家族調査を実施した。さらに続いて 1999 年夏のポカラ調査では、 前年度の調査を補完すると同時に、一年間の間に各スクンバシ集落でどの程
度居住者の変動があったのかを調べてみた。その際には前年度の調査で未発 見であったスクンバシ集落の存在が判明し、それらも同様の家族面接を実行 してポカラ市のスクンバシ集落の「家族データベース」を完成させたのであ る。1998~99 年度科研費の調査成果は、「ネパールの民主化到来とスクンバ シ集落の形成」(山本 2000a)を嚆矢として、以下 6 本の論文(山本 2000b、 2000c、2001a、2001b、2001c、2001d))に継続して発表している。これらの 諸論考で筆者が強調してきたのは、ポカラのスクンバシ集落に関する発見的 事項であり、①「コミュニタス性」、②「3 段階発展説」、③「自生的リー ダー」、④「認知遮断」と「行動萎縮」などである。今回 2003-05 年の科研 費調査では、これらのテーマを掘り下げることが筆者の主要課題であった が、筆者が勤務先大学で役職に就任し長期間のフィールドワークが困難だっ たこと、同時にネパールのマオイスト騒動による制限で当初予定通りの調査 が出来ずに、まだ多くの問題が未調査のまま残されたことは残念としかいう ほかはない。 筆者は長年、ネパールの「儀礼的階級制度」(カースト制度)と「経済的 階級制度」(貧富差)との爬行現象とに興味を抱いており、それ故、ポカラ 市の都市カースト社会におけるカースト別の「富の配分」の不平等構造を数 量的に検証するためにポカラ住民の「資産のピラミッド」を作成したことが ある。長崎の活水女子大学時代に、西原純・長崎大学(当時)助教授や北村 右一・同(当時)助教授の協力を得て、1986 年から 3 年間でポカラ全戸調査 のデータをすべてコンピュータに入力し、「ポカラ・センサス・データベー ス」を作り上げることが出来たのである。そして、このポカラ・データベー スの中の土地所有情報を元にポカラ市民全部の個人的資産係数を算定し、縦 軸に資産係数、横軸に人数をとったグラフ上に配置して「資産のピラミッド」 を作成した(山本、北村、西原 1992)。どの時代、どの社会においても「貧 困」は相対的な現象である。それゆえ筆者は、ポカラの資産のピラミッドか ら資産係数 20 以上を「富裕階級」、19 ∼ 5 を「中産階級」、4 以下を「貧困
階級」と設定してみた。筆者らは、この「資産のピラミッド」の結果から二 つの重要な事実を確認することになる。第一に、ポカラ市の人口全体で富裕 階級、中産階級、貧困階級の人口比率は、1.65%、15.22%、73.66%(ただし、 不明が 9.48%)となった。ここに圧倒的な貧困階級層、脆弱な中産階級層、 微小な富裕階級層から構成されるポカラ市民の全体像が浮かび上がってき たのである。第二に、カースト毎の経済階級的配分比率を見てみると、経済 階級のランキングは、一番上位が「バフン(Bahun)」、二位が「チェットリ (Chetri)」、三位が「マトワリ(Matwari)」、最下位が「ダリット(Darit)」 という伝統的カーストの序列と同様の結果を得たのである。つまりポカラに おける経済的階級は、その伝統的な儀礼的階級とおおむね重合している。し かし注意すべきは、ポカラ全戸調査の際の調査対象は何がしかの土地所有す るポカラ市民であり、「土地無しの人々」つまり「スクンバシ」には当時まっ たく研究対象とする問題意識がなかったし、当時の筆者はポカラの土地持ち 貧民を研究対象としていた。したがって、当時の筆者のネパールの貧困観は、 高島炭鉱の「暗い貧困」とは対照的な「明るい貧困」であり、ポカラ貧民に は自己の貧困への「ルサンチマン」がないという印象が濃厚であった(山本 1998b)。 しかしながら、1998-99 年の科研費共同研究から始まり 2003-05 年の科研 費共同研究へと続いた筆者のポカラでのスクンバシ研究は、ポカラ住民でも 「不法土地占拠者」という貧困度がなお一層レベルを落とした「コミュニタ ス」集団が主要な研究対象となり、彼らスクンバシの「貧困」には、「明る い貧困」と呼ぶには相応しくない暗さを十分に持っていること、同時に彼ら には自らの貧困に対してそれなりの「ルサンチマン」が付帯することに気づ いたことを明記しておきたい。この点で、筆者の 2003-05 年度科研費のポカ ラ貧困民研究は、1998-99 年度のそれと比較しても、一段と進化したと言え るのである。とありわけ、スクンバシの人々との面談から得た筆者の発見的 事実である「情報遮断」、「行動萎縮」(山本 2001a、山本 2001d)などの概念
は、貧困故の抑圧家族の「ルサンチマン」とその「トラウマ」の呪縛という 視点から再考する必要がうまれたのである。 (1 − 1)ネパール、ポカラ市とスクンバシ集落の誕生: ポカラ市は、ネパールの首都カトマンドゥーから西方 200 キロにある中西 部最大の主要都市である。古くからチベットとインドを結ぶ塩貿易を中継す る宿場町であった。ポカラにある家々には窓が北側と南側にあり、北側の窓 からはヒマラヤの遠景が南側からは日の光が楽しめるように作られている。 確かにポカラの町から見える 8000 メートル級のヒマラヤの銘峰がおりなす パノラマは絶景である。1970 年代半ばに幹線道路でインド国境の町バイラワ ならびに首都カトマンドゥーと結ばれると、国際的観光市場の一端に組み込 まれて、ヒマラヤの景観を売り物にした観光産業が急速に興隆し発展してき た。ポカラ市は、現在も人口上昇率ではネパール第一の都市であり、ポカラ 周辺の山村地域だけでなくネパール全国から人口が流入している。ポカラ市 内に移住してきた人々で、賃貸部屋に居住する金もなく、土地を購入する資 力もない人々は「スクンバシ」となってポカラ市内各地の空き地に群居する しか仕方がない。雨季の長雨豪雨で故郷の田畑を奪われた人々、土地生産性 の低下した山村での貧乏生活に見切りをつけた人々、因習的なカースト差別 に嫌気がさして故郷を放棄した人々など、理由は様々だが、これらスクンバ シの 8 割かたが職探しのため都市に流入した人々なのである(山本 2001a)。 ネパールのスクンバシ集落は物理的環境が劣悪なので、筆者は都市「スラム (slum)」という用語をその同義語として使っているが、これは今後も変わら ない。 ポカラのスクンバシ集落の発生略史は、本章末の「表 3」に掲載されてい る。その始まりは、ポカラに至る幹線道路が完成し、急速に観光都市化しだ した 1970 年代のなかばである。ポカラでのスクンバシ集落群の発生現象に は、ネパール国内で政治的動乱が激化しことで警察の秩序維持機能が弛緩し
表 3: ポカラにおけるスクンバシ集落の発達略史 (但し、左の集落番号(#)は、図 1、表 3、表 4 と同一) 1950年 ネパール開国 1952年 ポカラ空港開設 1969年 シッダルタ幹線道路開通 1973年 プリティビ幹線道路開通 #17の誕生 1975年 ポカラ都市化急成長 #3、#10、#11、#19、#29 1976年 ポカラ北東近郊 3 村で山崩れ 1977年 山崩れ被害者の難民村建設 #36、#37 1978年 #7、#39 1979年 反政府運動激化 #5、#13、#20、#23 1980年 リファレンダム(国民投票) #8、#9、#12、#24、#25A、#40、#41 1981年 #1 1982年 #28 1985年 #6 1988年 #35 1989年 反政府運動激化 #15、#34 1990年 民主化騒動 #2、#16、#21、#22、#26、#27、#31、#33 1991年 #14 1992年 #32 1996年 マオバディ人民戦争開始 1997年 #4、#18、#25B、#30 1998年 #25Bを民間人が強制撤去。 1999年 マオバディのポカラ進出 #42、#43、#44 2000年 #45、#46 2001年 6 月 王宮惨殺事件 11 月 第一次非常事態宣言 #24、#42、#43、#44、#45、#46 を 警 察 が 撤去。 2002年 2 月 国王、首相直接任名 ―>国王独裁化・議会政治空転 2005年 #46 跡地にゴミ処理場完成 #47発見、#48 誕生(#19 が政治圧力で移転) #49発見、#50 誕生
た際に、スクンバシ集落の急激な増殖のピークが見られる。この特色は、ス クンバシ運動があくまでも土地(即ち経済的資産)の「不法占拠」という反 社会・法逸脱行為であることをスクンバシ自身が自覚している事実と関連が ある。ここで特記しておきたいのは、スクンバシとマオイストとの「貧困」 という同根性である。1996 年にネパール北西部の極貧山村地域で「人民戦 争」を開始しだしたマオイスト達は、武装蜂起により王制打倒を究極目的と する「革命性」(王制から見れば「不法性」)を内在している。貧困な農村部 で日々の食事にも事欠く若者たちは、将来の戦闘要員としてマオイスト集団 に拉致・勧誘され思想教育を受けるのであるが、一旦マオイスト集団に所属 すると毎日の食事だけはちゃんと与えられる。したがって、貧農の若者にと りマオイスト運動への参加は、ある種の就職活動と変わりはない。それゆえ、 貧困な故郷の山村を放棄して職探しに都市に移入してきたスクンバシも、 「貧困からの解放」という同根性においてマオイスト参加の若者と変わりは ない。スクンバシとマオイストは山村の貧困から逃避する人々の「コミュニ タス」(ターナー 1976)集団として同質であることを見逃してはならない。 食べ物に事欠く貧困が都市におけるスクンバシの発生要因であるなら、地方 におけるマオイストのゲリラ戦士のリクルート方法も同様である。タパ (Thapa 2003)によれば、マオイストの実践ゲリラ戦士のリクルート方法は、 日々の食事に事欠くような山村地域の青少年を拉致・勧誘し、彼らに食べ物 を提供し思想教育を施して、実践ゲリラ兵士に育て上げるのである。 スクンバシ集落にある種の「革命性」があることは、多くのスクンバシ集 落において強制撤去に来た警察軍と石や棒切れで渡り合った経験があるこ とからも証明できるであろう。「表 1」の総括表にも挙げられているように、 1999年の調査時で、スクンバシ集落成立の初期の頃、土地所有の抗争を体験 したスクンバシ集落は 41 集落中 15 集落もあった。そのうちの 10 以上が警 察を相手に何らかの「物理的衝突」(抵抗)を経験している。その最も著名 な例は、サラームコット(#4)、エアポート(#18)、ダムサイド(#25)、ハ
㻭 㼞㼑 㼍 㻺 㼛 㻚 㻭 㼞㼑 㼍 㻺 㼍㼙 㼑 㼟 㼃 㼍㼞 㼐 㻺 㼛 㻚 㻳 㼑 㼛 㼓㼞 㼍㼜 㼔 㼥 㻿 㼕㼚 㼏 㼑 㻥 㻤 㼒㼍 㼙 㼕㼘㼥 㻥 㻥 㼒㼍 㼙 㼕㼘㼥 㼚 㼑 㼣 㼒㻚 㻸 㼑 㼒㼠 㼒㻚 㼀 㼛 㼕㼘㼑 㼠 㼃 㼍㼠 㼑 㼞 㻼 㻚 㻱 㼘㼑 㼏 㼠㼞 㼕㼏 㼕㼠 㼥 㼀 㼑 㼙 㼜 㼘㼑 㻿 㼔 㼛 㼜 㻿 㼏 㼔 㼛 㼛 㼘 㻸 㼍㻸 㻼 㼡 㼞㼖 㼍 㻯 㼛 㼚 㼒㼘 㼕㼏 㼠 㻼 㼞㼛 㼏 㼑 㼟㼟 㻸 㼑 㼍㼐 㼑 㼞䇻 㼟 㼚 㼍㼙 㼑 䚽 㻙 㼛 㻺 䚽 䚽 㽢 䚽 䚽 䕧 㻝 㻝 㻥 㻥 㻝 㻤 㻥 㻝 㼑㼜 㼛㼘 㼟 㼘㼘㼕 㼔 㻢 㻝 㼕㼗 㼚㼍 㼀 㼕 㼚㼍 㻼 㻝 㻙 䚽 㼛 㻺 㽢 㽢 㽢 㽢 㽢 㽢 㻝 㻙 㻠 㻡 㻜 㻥 㻥 㻝 㼑㼐㼕 㼟 㻙 㼞 㼑㼢㼕 㼞 㻢 㻝 㼑㼠 㼛 㻮 㼘㼍 㼙㼕 㻿 㻞 㻙 㻙 㻝 㻤 㻥 㻝 䚽 䚽 䚽 䚽 䚽 䕧 䖂 㻞 㻞 㻥 㻣 㻥 㻣 㻡 㻣 㻥 㻝 㼐 㼑㼎 㼞 㼑㼢㼕㼞 㻝 㼕 㼚㼍 㻼 㼙㼕 㻿 㻟 㻙 䚽 㼛 㻺 䚽 䚽 㽢 㽢 㽢 䕧 㻤 㻞 㻞 㻤 㻠 㻟 㻝 㻜 㻤 㻣 㻥 㻥 㻝 㼑㼜 㼛㼘 㼟 㼘㼘㼕 㼔 㻥 㻝 㼠 㼛 㻷 㼓 㼚㼍 㼞㼍 㻿 㻠 㼐㼍 㼟㼍 㼞 㻼 㻙 㻙 㻝 㻤 㻥 㻝 䚽 䚽 䚽 䚽 䚽 䕧 䖂 㻙 㻙 㻞 㻝 㻞 㻝 㻥 㻣 㻥 㻝 㼍 㼑㼞 㼍 㼚㼕 㼍㼘 㼜 㻝 㼞 㼑㼓 㼍 㻮 㻡 㻳㼕 㼞㼕 㻙 㻙 㻤 㻥 㻥 㻝 䚽 䚽 㽢 䚽 䚽 䕧 㻙 㻟 㻡 㻝 㻞 㻝 㻡 㻤 㻥 㻝 㼍 㼑㼞 㼍 㼚㼕 㼍㼘 㼜 㻠 㼚㼍 㼠㼍 㻼 㼛㼗 㼛㼐 㼚 㼡 㼀 㻢 㻙 㻙 㻡 㻥 㻥 㻝 䚽 䚽 㽢 䚽 䚽 䕧 䖂 㻙 㻢 㻤 㻝 㻞 㻝 㻡 㻥 㻥 㻝 㼍 㼑㼞 㼍 㼚㼕 㼍㼘 㼜 㻡 㼚㼍 㼠㼍 㻼 㼑㼘 㼍 㻹 㻣 㻙 㻙 㻤 㻥 㻥 㻝 䚽 䚽 䚽 䚽 䚽 䕧 䖂 㻙 㻠 㻞 㻡 㻠 㻝 㻞 㻜 㻤 㻥 㻝 㼍 㼑㼞 㼍 㼚㼕 㼍㼘 㼜 㻥 㼘 㼛 㼛 㻼 㼍㼞 㼐 㼚 㼑 㼔㼍 㻹 㻤 㻙 㻙 㻤 㻥 㻥 㻝 䚽 䚽 䚽 䚽 䚽 䖂 㻝 㻝 㻥 㻞 㻥 㻞 㻜 㻤 㻥 㻝 㼑㼐㼕 㼟 㻙 㼞 㼑㼢㼕 㼞 㻥 㼍㼘㼕 㼍 㻼 㼍㼠㼕 㻿 㻥 㻷 㻙 㻙 㻤 㻥 㻥 㻝 䚽 䚽 䚽 䚽 䚽 䕧 䖂 㻙 㻙 㻠 㻞 㻠 㻞 㻡 㻣 㻥 㻝 㼍 㼑㼞 㼍 㼚㼕 㼍㼘 㼜 㻥 㼞㼍 㼦㼍 㻮 㼍㼥 㼍 㻺 㻜 㻝 㼞㼕 㼟㼔 㼚㼍 㻌㻮 㼐㼞 㻌㻿 㼔㼞 㼑 㼟㼠 㼍 㻙 䚽 㼛 㻺 㽢 䚽 㽢 䚽 䚽 䚽 㻙 㻝 㻢 㻞 㻡 㻞 㻡 㻣 㻥 㻝 㼍 㼑㼞 㼍 㼚㼕 㼍㼘 㼜 㻝 㻝 㼘㼍 㼠㼕 㼜㼟 㼛 㻴 㼐 㼚㼕 㼔 㼑 㻮 㻝 㻝 㻙 䚽 㼛 㻺 䚽 䚽 㽢 䚽 䚽 䕧 㽢 㻙 㻙 㻠 㻝 㻠 㻝 㻜 㻤 㻥 㻝 㼍 㼑㼞 㼍 㼚㼕 㼍㼘 㼜 㻞 㻝 㼕 㼚㼍 㻼 㼑㼠 㼍 㻹 㻞 㻝 㻙 䚽 㼛 㻺 㽢 䚽 㽢 䚽 㽢 䚽 㻙 㻞 㻟 㻟 㻝 㻟 㻥 㻣 㻥 㻝 㼍 㼑㼞 㼍 㼚㼕 㼍㼘 㼜 㻥 㼗 㼛 㼔 㻯 㼕㼢㼕 㼔㼠㼕 㼞 㻼 㻟 㻝 㻿 㻙 䚽 㼛 㻺 㽢 䚽 䚽 䚽 䚽 䚽 䕧 㻙 㻙 㻣 㻟 㻣 㻟 㻝 㻥 㻥 㻝 㼑㼐㼕 㼟 㻙 㼞 㼑㼢㼕 㼞 㻥 㼚㼍 㻮 㼕㼠 㼚㼍 㼔 㻿 㻠 㻝 㼔㼍㼚㼗 㼍㼞 㻌㻼㼍 㼚 㼐㼥 㻝㻡 㻾 㼍㼙 㻌㻳 㼔 㼍㼠 㻌㻌㻌㻌㻝 㻜䠃㻝 㻝 㼜㼘 㼍㼕㼚 㻌㼍 㼞㼑 㼍 㻝 㻥 㻤 㻥 㻟 㻝 㻟 㻡 㻠 㻌㻌㻌㻌㻌㻌㻌㻌㻙 䕧 㽢㽢 䚽䚽 㽢㻝 㻥 㻥 㻤 㻙 㻙 㽢 䚽 㽢 䚽 㽢 䚽 㻙 㻙 㻞 㻝 㻞 㻝 㻜 㻥 㻥 㻝 㼍 㼑㼞 㼍 㼚㼕 㼍㼘 㼜 㻞 㻝 㼘㼍 㼠㼕 㼜㼟 㼛 㻴 㼒 㼛 㼠 㼚 㼛㼞 㻲 㻢 㻝 㻺㼛 䚽 㻙 㻙 䚽 㼛 㻺 㽢 䚽 㽢 䚽 䚽 䚽 㻙 㻣 㻞 㻥 㻠 㻝 㻞 㻞 㻝 㻟 㻣 㻥 㻝 㼍 㼑㼞 㼍 㼚㼕 㼍㼘 㼜 㻥 㼜 㼛㼠 㻿 㼟 㼡 㻮 㼐㼘 㻻 㻣 㻝 㼍 㼀 㻚㼞 㼐 㻮 㼘㼍 㻸 㻙 䚽 㼛 㻺 㽢 䚽 㽢 㽢 䚽 䚽 䕧 㻙 㻤 㻡 㻢 㻤 㻝 㻤 㻞 㻝 㻣 㻥 㻥 㻝 㼍 㼑㼞 㼍 㼚㼕 㼍㼘 㼜 㻥 㼠㼞 㼛㼜 㼞㼕 㻭 㻤 㻝 㼙㼍㼚 㼓 㼍 㻸 㼍㼥 㼍 㻶 䚽 㻙 㼛 㻺 䚽 䚽 䚽 䚽 䚽 䚽 䕧 㻡 㻝 㻙 㻠 㻥 㻝 㻥 㻜 㻞 㻡 㻣 㻥 㻝 㼍 㼑㼞 㼍 㼚㼕 㼍㼘 㼜 㻟 㻝 㼑㼘 㼛 㼀 㼍㼢㼕 㼔 㻿 㻥 㻝 㼘㻌 㻼 㼡 㼚 㻙 㻙 㻤 㻥 㻥 㻝 䚽 䚽 䚽 䚽 䚽 䚽 㻙 㻙 㻠 㻟 㻠 㻟 㻥 㻣 㻥 㻝 㼍 㼑㼞 㼍 㼚㼕 㼍㼘 㼜 㻣 㼚㼍 㼠㼍 㻼 㼍㼥㼕 㻹 㻜 㻞 䚽 㻙 㼛 㻺 㽢 㽢 㽢 䚽 䚽 䚽 䕧 㻙 㻥 㻝 㻢 㻝 㻝 㻣 㻥 㻜 㻥 㻥 㻝 㼍 㼑㼞 㼍 㼚㼕 㼍㼘 㼜 㻣 㼑㼘 㼛 㼀 㼕㼠 㼍㼓 㼍㼞 㻼 㻝 㻞 㻞㻞 㻭㼙 㼍㼞 㻌㻿 㼕㼚 㼓㼔 㻌㻯㼔 㼛 㼗 㻝 㻜 㼜㼘 㼍㼕㼚 㻌㼍 㼞㼑 㼍 㻝 㻥 㻥 㻜 㻠 㻤 㻠 㻤 㻌㻌㻌㻌㻌㻌㻌㻌 㻙 㻌㻌 㻌㻌㻌㻌㻌㻌㻙 䕧䚽 㽢 䚽㽢 䚽 㽢㻺 㼛 䚽 㻙 㻹 㼍㼕 㼠㼍 㻌㻳 㼡㼞 㼡㼚㼓 㻥 㻥 㻝 㽢 䚽 䚽 䚽 䚽 䚽 㻙 㻙 㻣 㻣 㻣 㻣 㻥 㻣 㻥 㻝 㼍 㼑㼞 㼍 㼚㼕 㼍㼘 㼜 㻜 㻝 㼑㼘 㼛 㼀 㼍㼥㼕㼞 㼜㼍 㼚㼍 㻶 㻟 㻞 㻤 㻙 㻙 㻰 㼔 㼍㼞㼙 㼍㻌㻾㼍㼖㻌 㻳 㼡 㼞㼡 㼚 㼓 㻮 㼓 㼑 㻹 㻙 䚽 㼛 㻺 㽢 䚽 㽢 䚽 䚽 䕧 㻙 㻙 㻟 㻞 㻟 㻞 㻜 㻤 㻥 㻝 㼑 㼐㼕 㼟 㻙 㼑㼗 㼍㼘 㻢 㼠㼍 㼔 㻳 㼕㼍 㻳 㻠 㻞 㼐㼞 㻌㻮 㻚㻷 㻚 㻞㻡 㻷㼡 㼘㼍 㼗㼛 㻌㻰㼕㼘 㻌㻔 㻰㼍 㼙 㻌㻿㼕㼐 㼑 㻕 㻝 㻣 㼘㼍 㼗㼑 㻌㻙 㻌㼟 㼕㼐 㼑 㻝 㻥 㻤 㻜 㻝 㻟 㻝 㻟 㻌㻌㻌㻌㻌㻌㻌㻌㻙 㻌㻌 㻌㻌㻌㻌㻌㻌㻙 䖂䚽 䚽㽢 䚽 㽢 㻝 㻥㻥 㻤 㻙 㻙 㻮 㼔㼍 㼗㼠 㼍㻌 㻮㼐 㼞㻚 㻌㻼㼍 㼘㼕㼥 㼍㼞 㼚㼍 㼚㼍 㼙㼍 㼔 㻷 㻙 䚽 㼛 㻺 㽢 㽢 㽢 㽢 㽢 䕧 㻙 㻝 㻝 㻝 㻠 㻜 㻟 㻜 㻥 㻥 㻝 㼍 㼑㼞 㼍 㼚㼕 㼍㼘 㼜 㻤 㻝 㼕㼞 㼍 㼔㼗 㼛 㻼 㼕㼖 㼍 㻷 㻢 㻞 㼐㼍 㻌㻳 㼡 㼞㼡 㼚 㼓 㻙 䚽 㼛 㻺 㽢 㽢 㽢 㽢 㽢 䕧 㻙 㻙 㻡 㻡 㻜 㻥 㻥 㻝 㼑㼐㼕 㼟 㻙 㼞 㼑㼢㼕 㼞 㻠 㻝 㼞 㼡 㻼 㼍㼥 㼍㼖㼕 㻮 㻣 㻞 㻙 㻙 㻤 㻥 㻥 㻝 㽢 㽢 㽢 䚽 䚽 䕧 㻙 㻙 㻤 㻞 㻤 㻞 㻞 㻤 㻥 㻝 㼗㼍 㼑 㼜 㼘㼘㼕 㼔 㻣 㻝 㼍㼐 㼚 㼡 㼀 㼘㼍 㼙㼕 㻿 㻤 㻞 㻙 㻙 㼛 㻺 㽢 䚽 䚽 䚽 䚽 䕧 䚽 㻙 㻙 㻥 㻢 㻥 㻢 㻡 㻣 㻥 㻝 㼑㼐㼕 㼟 㻙 㼞 㼑㼢㼕 㼞 㻣 㻝 㼛㼞㼕 㼍 㻼 㼛㼠 㼍 㻾 㻥 㻞 㻟㻜 㻴 㼍㼚㼡 㼙 㼍㼚㻌㼀 㼛 㼘㼑㻌㻔㻱 㼥㼑 㻌㻴 㼛㼟 㼜㼕 㼠㼍 㼘㻕 㻝 㻣 㼜㼘 㼍㼕 㼚 㻌㼍 㼞㼑 㼍 㻝㻥 㻥 㻣 㻝㻞 㻜 㻝 㻝㻣 㻞 㻡 䕧 㽢㽢 㽢 㽢 㽢 㻺 㼛 䚽 㻙 㻮 㼍㼎 㼡 㻌㻾㼍 㼙㻌 㻾㼍 㼚 㼍㼎 㼔 㼍㼠 㻙 㻤 㻥 㻥 㻝 㽢 㽢 㽢 䚽 㽢 䖂 㻙 㻙 㻜 㻟 㻜 㻟 㻜 㻥 㻥 㻝 㼍 㼑㼞 㼍 㼚㼕 㼍㼘 㼜 㻡 㻝 㼚㼍 㼠㼍 㻼 㼕㼠 㼚㼍 㼔 㼀 㻝 㻟 㻙㻮 㼡 㼐㼐 㼔 㼕㻌 㻳 㼡 㼞㼡 㼚 㼓 㼡㼍 㼗 㻿 䚽 㻙 㼛 㻺 㽢 㽢 㽢 㽢 㽢 䕧 㻙 㻙 㻤 㻤 㻞 㻥 㻥 㻝 㼑㼐㼕 㼟 㻙 㼞 㼑㼢㼕 㼞 㻡 㻝 㼍㼞 㼍 㼀 㼚㼕 㼙 㻭 㻞 㻟 㼠㼍㻌 㻮 㼐㼞㻚㻌㻼㼍㼞㼕 㼥㼍㼞 㻥 㻥 㻝 䖂 䚽 䚽 䚽 䚽 䚽 䕧 㻙 㻙 㻞 㻝 㻝 㻞 㻝 㻝 㻜 㻥 㻥 㻝 㼍 㼑㼞 㼍 㼚㼕 㼍㼘 㼜 㻤 㻝 㼑㼘 㼛 㼀 㼕㼠 㼚㼍 㼞 㻷 㻟 㻟 㻡㻙 㻙 㻾 㼡㼎 㼍 㻮 㻙 㻙 㻫 㻡 㻥 㻥 㻝 㽢 㽢 㽢 㽢 㽢 䕧 㻙 㻜 㻝 㻢 㻤 㻢 㻣 㻥 㻤 㻥 㻝 㼍 㼑㼞 㼍 㼚㼕 㼍㼘 㼜 㻤 㻝 㼑㼘 㼛 㼀 㼕㼠 㼚㼍 㼔 㻿 㻠 㻟 㼍㼙㻌 㻼 㼍㼘 㼕㼥 㼍㼞 㻙 㻙 㻡 㻥 㻥 㻝 㽢 㽢 䚽 䚽 䚽 䕧 㻙 㻡 㻜 㻟 㻡 㻞 㻤 㻤 㻥 㻝 㼑㼐㼕 㼟 㻙 㼞 㼑㼢㼕 㼞 㻣 㻝 㼍㼘㼘㼕 㼎 㼛 㻰 㻡 㻟 㼖 㼛 㼔 㻮 㻙 㻙 㻣 㻣 㻥 㻝 䖂 䚽 䚽 䚽 䚽 䚽 䕧 㻙 㻙 㻝 㻢 㻝 㻢 㻣 㻣 㻥 㻝 㼍 㼑㼞 㼍 㼚㼕 㼍㼘 㼜 㻤 㻝 㼍 㼚㼕 㼟㼍 㻹 㻢 㻟 㻌㻾 㼍㼖㻌㻿㼡㼎㼑㼐㼕 㼚㼞 㼡 㻼 㻙 㻙 㻣 㻣 㻥 㻝 䖂 䚽 䚽 䚽 䚽 䚽 䕧 㻙 㻙 㻝 㻡 㻝 㻡 㻣 㻣 㻥 㻝 㼍 㼑㼞 㼍 㼚㼕 㼍㼘 㼜 㻤 㻝 㼑㼠㼘 㼍 㼔 㻷 㻣 㻟 㼍㻌㻮㼐㼞㻚㻌 㻳 㼡 㼞㼡 㼚 㼓 㻙 䚽 㼛 㻺 㽢 㽢 䚽 㽢 㽢 䕧 㻙 㻠 㻡 㻝 㻝 㻝 㻡 㻥 㻥 㻝 㼑㼐㼕 㼟 㻙 㼞 㼑㼢㼕 㼞 㻤 㻝 㼍㼞 㼍 㼀 㼚㼕 㼙㼍 㻿 㻤 㻟 㻙 㻙 㼛 㻺 㽢 㽢 㽢 㽢 䚽 䕧 㻙 㻙 㻤 㻝 㻤 㻝 㻤 㻣 㻥 㻝 㼍 㼑㼞 㼍 㼚㼕 㼍㼘 㼜 㻠 㻝 㼑㼠 㼍 㻹 㻥 㻟 㼘㼍 㻸 㼕㼎 㼍 㼔 㼔 㻯 㻙 㻙 㻢 㻥 㻥 㻝 㽢 㽢 㽢 䚽 䚽 䕧 㻙 㻟 㻟 㻟 㻜 㻟 㻜 㻤 㻥 㻝 㼑 㼐㼕 㼟 㻙 㼞 㼑㼢㼕 㼞 㻠 㻝 㼠 㼛 㻮 㼘 㼑 㻮 㻜 㻠 㻌㻮㻚 㻷 㻚 㻙 㻙 㻤 㻥 㻥 㻝 㽢 䚽 㽢 䚽 䚽 䕧 㻙 㻙 㻣 㻝 㻣 㻝 㻜 㻤 㻥 㻝 㼙㼍 㼑㼞 㼠㼟 㼚 㼛 㻤 㼑㼗 㼞㼕 㻲 㻝 㻠 表 1:199899 年・科研調査総括表
ヌマン・トール(#30)などがある。サラームコットでは、所有者を名乗る ブラーマン達が暴力団まがいの手勢と警察を雇って 3 回に別れて強制撤去の 襲撃を行っているが、スクンバシ集落全員の団結した交戦で撃退してきた。 ダムサイドでは、まだ集落の団結力が形成される以前の襲撃であったので、 抵抗する勢力も土地所有を名乗る勢力による「現ナマ攻勢」に分断されて組 織的な抵抗が出来ずに、結局は強制撤去されてしまった。エアポートでも組 織化されたスクンバシ勢力が警察軍を撃退して集落を防衛したし、ハヌマ ン・トールでは撤退を迫る警察軍を徹底した集団防衛で撃退した。この集落 は、それ以前には、まだ名前がなかった(我々はその所在地の特色から「ア イ・ホスピタル」と名づけていた)。しかし、この防衛戦の後、同地のスク ンバシ達は、『ラーマヤナ』で活躍する「ハヌマン」(猿神)の武運に自分た ちの警察への「勝利」を重ね合わせて、当地を「ハヌマン・トール」という 名称で呼ぶことに決めたのである。現在でも、ハヌマン・トールの男達は酒 を飲んでは、其の時の防衛戦の武勇伝を吹聴する傾向が残されている。スク ンバシはあくまでも「革命性」を秘めた「コミュニタス」集団なのである。 (1 − 2)「スクンバシ集落の三段階発展説」: ポカラのスクンバシ集落群は 3 段階の発展段階を踏まえて成長している (山本 1998)。第一段階の「黎明期」は、所有者不明の土地あるいは未使用の 国有地に、少人数のスクンバシが居住し始める時期である。幸いにも、その 土地の所有権を主張する者が出てこなければ、彼らは「パイオニア」入植者 としてスクンバシの誹りを免れることができる。この時期にはまだ永い期間 当地に住むかどうか確信がないので、占拠地での生活の便宜を図るための共 同作業はまだ始まらない。「地図 1」上の #32 集落(Amintara)や #39 集落 (Mate)は、セティ河の幅広い河岸平地(国有地)を開墾した土地に存立し ているが、現在では政府もその土地の利用価値を何ら見出さず放置してお り、そこをスクンバシが開墾しだしたのである。したがって「スクンバシ集
落」と言うよりも「パイオニア入植地」と言う方が相応しいが、我々は「パ イオニア」と「スクンバシ」の用語を厳密に区別してこなかった。 しかし厳密に言えば、パイオニアからスクンバシへと変化するのは、占拠 し居住し始めた土地に「所有者」と名乗る人々が登場し、その土地の「所有 権」をめぐる葛藤・抗争が浮上した後になることは言うまでもない。占拠地 をめぐる抗争は、通例、その土地の所有者を名乗る人物(多々複数)が物理 的手段を用いて占拠者たちを追い払うおうとすることで始まり、それに対し て団結したスクンバシ達は木や石ころで武装して防衛しようとする。結局、 このような土地抗争の大半は、法廷闘争に持ち込まれて現在に至っている。 このような法廷闘争の継続は、今なお 10 例を下らない。そのような占拠地 防衛の過程で、スクンバシ集落には「自生的リーダー」が必然的に生まれ、 だんだんとリーダーとしての経験を積みあげながら、近隣占拠者一同を自治 活動集団へと組織化するのである。 「自生的リーダー」の誕生には、二つのケースがある。第一のケースは、占 拠地に対して外部者が何ら異議を表明してこないので、占拠者たちが本格的 にその地に定着することを考え出した頃、生活上の必要性から「近所付き合 い」が始まりだすが、その時に、何となく知恵者で、しかも親切な人が近所 付き合いの中心人物として浮上してくる。第二のケースは、スクンバシたち の前に彼らの占拠地から出て行けと主張する外部者が登場し、高圧的、強制 的な攻撃を仕掛ける時がある。この際には、スクンバシたちが既に占拠した 土地に定住したいと思い、かつ外部者の当該地の所有証明が明瞭でなけれ ば、彼らは集団で外部者に反抗し、占有地に体を張って守ろうとする。この 外部者への抵抗の際に、立ち上がって外部者との交渉の中心となる人物こそ が,その後の占拠地のリーダーとして認知されることが多い。言うまでもな く、ここで第一と第二のケースは相反するものではなく、むしろ、第一の ケースが第二のケースを経て、劇的かつ「自生的に」リーダーシップが確立 される場合が非常に多いのである。
前述したように、スクンバシもマオイストも共に V. ターナー(Turner1969) が言う「コミュニタス(communitas)」集団であり、「現実の社会構造から まったく乖離した人々が相互に対人関係を構成する集団」である。また双方 ともに「反社会性(アウトロー性)の特徴を持つ点でも共通している。した がって、そのようなコミュニタス集団で、しかも様々な地域から逃げてきた 人々の寄り合い所帯でもあるスクンバシ集落においてリーダーシップを取 るに必要な資質は、その人の過去の身分、地位、出自は殆ど問題にはならな い。(周囲の隣人から見て相対的に)卓越した個人的資質こそがリーダーと して押し上げられる最も重要な資格なのである。そのような資格からスクン バシ集落において、隣人から頼られ集落の共同生活のリーダーと押し上げら れる人々を、筆者は、「自生的リーダー」と呼んでいる。 第二段階には、「下部構造発達期」が来る。占拠地の土地所有権を主張す る者が登場しなければ、スクンバシの人々はそれぞれが長期的居住の観点か ら占拠地の生活改善や環境向上のため共同作業を相談しあい、その相談の取 りまとめ役として自生的リーダーが活躍することになる。この種の生活環境 改善運動は、我々の調査では、共同トイレの設置、水道の施設、電気配線の 確保などが主なもので、それらの計画が一つづつ実現されてゆく過程でイン フォーマルなリーダーとしての自生的リーダーは、占拠地の隣組をだんだん と自治組織化してゆく。やがて、このインフォーマルな互助組織は、入会金 や 定 期 的 な 会 費 を 徴 収 す る フ ォ ー マ ル な「 ス ク ン バ シ・ サ ミ ッ テ ィ ー (Sukumbasi Samiti)」あるいは「トール・サミッティー(Tole Samiti)」の 発足に向かい、殆どの例では、自生的リーダーが選挙(投票はまれで、殆ど は話し合いの合議)でサミッティの「委員長」となる。そして、サミッティ 委員長は、占有地の公式な「ラル・プジャ(Lal Purja)」(土地登記書)を獲 得するために、行政的上位機関である区役所、市役所、政党や政権担当政党 の「スクンバシ・アイユ(Sukumbasi Ayog)」(スクンバシ対策機関)など への働きかけを始めるのである。このような上位機関との折衝の過程では、
スクンバシ委員長は反応の鈍い上位機関に対しては、そのスクンバシ委員会 の会員全体の集合的圧力を稼動することも稀でない。 第三段階は、「上部構造発達期」である。早ければ、スクンバシ・サミッ ティーが成立した頃から、遅ければラル・プジャ獲得に成功する前後から、 スクンバシ集落は、集落内の商店、ヒンドゥー教のマンディール(祠)、学 校などの文化的施設(つまり「上部構造」)を自分たちの占拠区域内に建設 しようとする。その頃までには一応下部構造(トイレ、水道、電気など)の 施設が確保された上で、人々は近隣のコミュニティと同じレベルの上部構造 を自分たちの集落内にも構築したいと考え出すのである。しかしながら、第 三段階では、自生的リーダーと彼によって導かれるフォローワーとの間の潜 在的権力関係が一番顕在化する時期ともなる。一方では、地図上の #7 集落 (Malepatan)のように、ラル・プジャ獲得に成功するや否や、自生的リー ダーがメンバー各位の個人主義的な傾向に嫌気がさして委員長を辞職して スクンバシ・サミッティーが解散された例も起こっている。また、他の地域 では、ラル・プジャ獲得後にスクンバシ・サミッティーが形骸化して冠婚葬 祭の町内会程度の機能した果たさなくなってしまう例も数例挙げることが できる。 この発達段階に到達した後に、自生的リーダーが失脚する例も決して少な くはない。この第三段階では、同一スクンバシ集落内の住民間にも「貧富差」 (あくまでも彼らの相対的基準による)が顕在化しだすからである。やや羽 振りのいいスクンバシと、まだ食べるだけが精一杯のスクンバシとに分化す るのである。それゆえ、前者に属する自生的リーダーとその親しい取り巻き 連中は集落内の文化的施設の建設に賛成派となるが、後者の極貧の人々はそ んな腹の足しにならない物は必要とは思えない。しかも学校やヒンドゥー教 の祠を建設するにはかなりの資金が必要で、スクンバシ・サミッティーの自 前の資金では到底足りないから、区役所や慈善家などから高額の資金援助が 必須となる。したがって、たとえ自生的リーダーの尽力で外部資金援助の獲
得に成功して、そのよう文化施設が建設されても、外部資金導入に関する会 計処理の内実が公開されることはまったくない。したがって、貧困層は自生 的リーダーが外部資金を自らに着服しているという疑惑を抱きがちになり、 また自生的リーダーもその疑惑を解消するために明朗会計による反証を試 みることもない。したがって、一旦そのような疑惑が集落中に広まってしま うと、少なくとも貧困層はもはや自生的リーダーの指示に従うことはなく、 むしろ反抗が発生する。その様な場合には、サミッティ内部での政治的抗争 が起こりだす。やがて内部抗争は、委員長罷免にはじまって、スクンバシ・ サミッティー自体が崩壊に至る。我々の調査では、2005 年時に存在する 45 集落のうち、自治組織が形骸化した集落は 7 つ、自治組織が崩壊したものが 11も存在し、現在も自生的リーダーが活躍し上部構造段階をよいコミュニ ティへと躍進している安定した集落はたった二つ(#36、#37)しかない。こ の事実は、スクンバシという本質的にアウトーロー的性格をもつコミュニタ スが安定したコミュニティへと成長・変質するためには、自治組織を作成し 指導していくための「自生的リーダー」の機能的限界が注目されるのである。 つまり、コミュニタス集団の自生的リーダーがコミュニティの組織的リー ダーへと成長するためには、フォローワーの利益の尊重、自己犠牲の顕示な どが重要であり、それらが満たされないから自生的リーダーは「支配の正当 性」を喪失するのである。 (1 − 3)スクンバシ集落 1999 年∼ 2004 年の変化: 前に触れたように、筆者のネパール・ポカラ市のスクンバシ研究はまず 1998・99 年度の文科省科研費で始められ、今回の 2003 ∼ 2005 年度文科省 科研費共同研究によって再開継続されたものである。その研究対象は同一で あるが、前者ではスクンバシ集落のセンサス的全数調査の分析に主眼が置か れていたが、後者では全体的な数量調査より個々のケース・スタディに力点 が置かれている。本章末には、1998・99 年度調査時の結果総括(「表 1」)と
2003~04年度調査時の結果総括(「表 2」)とを並置してある。ここでは、ポ カラにおけるスクンバシ集落全体の 4 年間の時系列変化についてまとめてお きたい。 ポカラにおけるスクンバシ集落の総数は、1999 年時には 41 であったのが、 2004年時には 43 となって 2 集落の実増となっている。この増加は決して単 純な新しい集落の誕生によるものではない。「表 1」にも示し、前章でも触れ たように、マオイスト勢力の上げ潮に乗って、1999 年秋には #42、#43、#44 の三集落が誕生し、続いて 2000 年には更に #45、#46 の二集落が成立したの である。これで実数は 46 となり最大数となった。しかし、2001 年に入ると、 まずガイ・ガート(#24)が都市計画局によるフェワ湖周辺整備の目的のた めに強制撤去され、しばらく後に、前述したように、親マオイストの小規模 集落ヤンディ(#42)が警察力により強制的打壊しとなって消えてしまった のである。さらに同年 11 月の第一回非常事態が宣告されると、ビハインド・ ホスピタルⅡ(#43)、ラムガート(#44)、ガウ・カルカ(#45)、バッチャ・ ブドワ(#46)の全ての親マオイスト・スクンバシ集落が一斉に強制撤去さ れてしまったのである。したがって、この時点でポカラのスクンバシ集落総 数は 40 に縮小されたのである。 その後、2003 年夏と 2004 年夏の調査で、ポカラ市のスクンバシ集落群に 新しい変化が何点か確認された。第一に、2004 年夏の調査期間中に、我々は それ以前には見逃していた「ゴスティ(Gosti)」スクンバシ集落(#47)を発 見した。ここはバッチャブドワ(#46)が撤退した後にその跡地に完成した ゴミ集積処理場から更に奥地に進み川沿いの坂道を 5 分ほど歩いたところに ある。最初は、バッチャブドワ・スクンバシ集落が強制撤去された後に、そ の難民が新たな避難地を形成したものと受け取っていたが、実地調査をすれ ば、そうではないことが分かった。既にバッチャブドワ陥落の 15 年前から ポカラ市内に道路工事に来ていた労働者達が当地にスクンバシとして居住 始めていたのである。現在は、21 世帯で、電話も水道もなく、スクンバシ・
㻹 㼍㼜 㻏 㻯 㼛 㼙 㼙 㼕㼠 㼠㼑 㼑 㻯 㼔 㼍㼕 㼞㼙 㼍㼚 㻹 㼛 㼞㼠 㼔 㼑 㼞 㻯 㼘㼡 㼎 㻔㻯 㼔 㼍㼕 㼞㻕 㼅 㼛 㼡 㼠㼔 㻯 㼘㼡 㼎 㻔㻯 㼔 㼍㼕 㼞㻕 㻲 㼍㼙 㼕㼘㼥 㻺 㼛 㻚 㻯 㼔 㼍㼚 㼓㼑 㻺 㻳 㻻 㻿 㼏 㼔 㼛 㼛 㼘㼟 㻱 㼟㼠 㼍㼎 㼘㼕㼟 㼔 㼑 㼐 㻔㻿 㼕㼚 㼏 㼑 㻕 㼃 㼍㼠 㼑 㼞㼜 㼕㼜 㼑 㻱 㼘㼑 㼏 㼠㼞 㼕㼏 㼕㼠 㼥 㻸 㼍㼘 㻼 㼡 㼞㼖 㼍 㻭 㼏 㼝 㼡 㼕㼟 㼕㼠 㼕㼛 㼚 㻯 㼛 㼙 㼙 㼑 㼚 㼠㼟 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞 㻭 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼛 㻺 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻝 㻵㼚 㼜 㼞㼛 㼏 㼑 㼟㼟 㻖 㻖 㻵㼚 㻌㻸 㼍㼙㼍㻌 㻯 㼔 㼍㼡 㼞㻌㼂 㻰 㻯 㼛 㻺 㼛 㻺 㻝 㻖㻕 㻠 㻠㻔 㼗㼍 㼥 㻳 㼞㼐 㻮 㼚㼍 㼔 㻰 㻞 㻵㼚 㼑 㼞㼑 㼍㼞 㼑 㼐 㻔㻗 㻞 㻜 㻕 㻺㼛 㻺 㼑 㼣 㼘㼥 㼓㼛 㼠㻖 㻖 㻺 㼑 㼣 㼘㼥 㼓㼛 㼠㻖 㻖 㻵㼚 㼜 㼞㼛 㼏 㼑 㼟㼟 㻖 㻖 㻖㻝㻌 㼎㼑㼏㼛㼙 㼑 㼟㻌㼍 㻌㻹㼡㼚㼕㼏㼕㼜 㼍㼘 㻌㼟 㼍㼞 㼍㼚 㼓㼕 㻌㼠 㼑㼍 㼏㼔㼑㼞 㻚 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻟 㼁 㻮 㻿 㻔㻹 㼍㼞 㻞 㻜 㻜 㻟 㻕 㻺 㼑 㼣 㼘㼥 㼓㼛 㼠㻖 㻖 㻺 㼑 㼣 㼘㼥 㼓㼛 㼠㻖 㻖 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼔㼠 㼚 㼛 㼙 㻛㼟 㻾 㻺 㻡 㻞 㻘 㼚 㼡 㻼 㼕㼢 㼑 㻰 㻟 㻜 㻜 㻞 㼚㼕 㼐 㼑㼟 㼟㼕 㼙㼟㼕 㻰 㻠 㻳 㻻 㻺 㻱 㻿 㻭 㻔㻹 㼍㼞 㻞 㻜 㻜 㻟 㻕㻖 㻞 㻘 㻯 㼃 㻵㻺 㻔㻹 㼍㼥 㻞 㻜 㻜 㻟 㻕 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㻺 㼑 㼣 㼘㼥 㼓㼛 㼠㻖 㻖 㻵㼚㻌㻯㼛 㼡 㼞㼠 㻌 㻖 㻞㻦 㻌㻳 㻻 㻺 㻱 㻿 㻭 㻌㼔㼍 㼟㻌 㼟㼏 㼔㼛㼛 㼘㼟 㻚 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼛 㻺 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻡 㼠 㼛 㼚 㼟㼞 㼑 㼔㼠 㼛 㻘㼠 㼛㼓 㼑 㼙 㼛 㻿 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼛 㻺 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻢 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼛 㻺 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻣 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻤 㼁 㻮 㻿 㻔㻶 㼡 㼘㼥 㻞 㻜 㻜 㻝 㻕 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㻭 㼘㼞 㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㻥 㻺 㼛 㻞 㻜 㻺 㻾 㼟㻛㼙 㼛㼚㻚 㼕㼚㻌㻞㻜 㻜㻟 㻘㻌 㼎㼡 㼠㻌 㼚㼛㼚㼑 㻌㼕㼚㻌㻞㻜 㻜㻠 㻺 㼛 㻵㼚 㼏 㼞㼑 㼍㼟 㼑 㼐 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼛 㻺 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼛 㻺 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻜 㻝 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼛 㻺 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼔㼠 㼚 㼛 㼙 㻛㼟 㻾 㻺 㻜 㻜 㻝 㻘㻕 㻜 㻠㻔 㼑㼘 㻭 㼍㼥 㼍 㻹 㼍 㼚㼞 㼡 㻼 㼛 㻺 㻝 㻝 㻌㼓 㼛㼠 㻺㼛 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼛 㻺 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼔㼠 㼚 㼛 㼙 㻛㼟 㻾 㻺 㻜 㻞 㻘㻕 㻣 㻠㻔 㼑㼘 㼍 㼔 㻳 㼍㼠㼕 㻿 㼛 㻺 㻞 㻝 㻵㼚 㼜 㼞㼛 㼏 㼑 㼟㼟 㻖 㻖 㼛 㻺 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼛 㻺 㼛 㻺 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻟 㻝 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼛 㻺 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻠 㻝 㻵㼚 㼜 㼞㼛 㼏 㼑 㼟㼟 㻖 㻖 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻡 㻝 㻳 㻻 㻺 㻱 㻿 㻭 㻔㻹 㼍㼞 㻞 㻜 㻜 㻟 㻕 㻺 㼑 㼣 㼘㼥 㼓㼛 㼠㻖 㻖 㻺 㼑 㼣 㼘㼥 㼓㼛 㼠㻖 㻖 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㼛 㻺 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㻚 㼚 㼛 㼙 㻛㼟 㻾 㻺 㻜 㻞 㻘㻕 㻢 㻠㻔㻚 㻷㻚 㻮 㼍 㼚㼕 㻹 㼛 㻺 㻢 㻝 㻺 㼑 㼣 㼘㼥 㼓㼛 㼠㻖 㻖 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌㼓㼛 㼠 㻺 㼛 㼛 㻺 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼛 㻺 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻣 㻝 㻝㻤 㻺 㼛 㻰㼡 㼞㼓 㼍㻌 㻹㼍 㼥㼍 㻌㻳 㼡㼞 㼡 㼚 㼓㻌 㻔㻡 㻜㻕 㻾 㼍㼟 㼔 㻌㻮㼐 㼞㻌㻳 㼡㼞 㼡 㼚 㼓㻌 㻔㻞 㻡㻕 㻿 㼍㼙 㼑 㻳 㻻 㻺 㻱 㻿 㻭 㻔㻹 㼍㼞 㻞 㻜 㻜 㻟 㻕㻘 㻯 㼃 㻵㻺 㻔㻹 㼍㼥 㻞 㻜 㻜 㻟 㻕 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㻺 㼑 㼣 㼘㼥 㼓㼛 㼠㻖 㻖 㻺㼛 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼛 㻺 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻥 㻝 㻵㼚 㼜 㼞㼛 㼏 㼑 㼟㼟 㻖 㻖 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㻚 㼚 㼛 㼙 㻛㼟 㻾 㻺 㻡 㻞 㻘㻕 㻤 㻞㻔㼕㼘 㼍㼜 㼑 㻴 㼕㼠 㼛㼥 㻶 㼛 㻺 㻜 㻞 㻳 㻻 㻺 㻱 㻿 㻭 㻔㻹 㼍㼞 㻞 㻜 㻜 㻟 㻕 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㻭 㼘㼞 㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㻚 㼚 㼛 㼙 㻛㼟 㻾 㻺 㻜 㻞 㻘㻕 㻜 㻡㻔 㼓 㼚 㼡㼞 㼡 㻳 㼍㼥 㼍 㻹 㼕 㼔㼐 㼐 㼡 㻮 㼛 㻺 㻝 㻞 㻳 㻻 㻺 㻱 㻿 㻭 㻔㻹 㼍㼞 㻞 㻜 㻜 㻟 㻕㻘 㻯 㼃 㻵㻺 㻔㻶 㼡 㼘㼥 㻞 㻜 㻜 㻜 㻕 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㻭 㼘㼞 㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㻵㼚 㼜 㼞㼛 㼏 㼑 㼟㼟 㻖 㻖 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㻚 㼚 㼛 㼙 㻛㼟 㻾 㻺 㻜 㻡 㻘㻕 㻟 㻢㻔 㼍㼜 㼍 㼔 㼀 㼍㼥 㼍 㻹 㼑㼥 㻱 㼛 㻺 㻞 㻞 㻳 㻻 㻺 㻱 㻿 㻭 㻔㻹 㼍㼞 㻞 㻜 㻜 㻟 㻕 㻺 㼑 㼣 㼘㼥 㼓㼛 㼠㻖 㻖 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌㼓㼛 㼠 㻺 㼛 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㻕 㻥 㻥 㻥 㻝 㼥㼍 㻹㻔 㻿 㻮 㼁 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻟 㻞 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻝 㻜 㻜 㻞 㼏 㼑 㻰 㼚㼕 㼐 㼑㼞㼕 㼜㼤 㻱 㻠 㻞 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼛 㻺 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻡 㻞 㼛 㻺 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻢 㻞 㻺 㼑 㼣 㼘㼥 㼓㼛 㼠㻖 㻖 㻺 㼑 㼣 㼘㼥 㼓㼛 㼠㻖 㻖 㻵㼚 㼜 㼞㼛 㼏 㼑 㼟㼟 㻖 㻖 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻣 㻞 㻵㼚 㼏 㼞㼑 㼍㼟 㼑 㼐 㻔㻗 㻝 㻝 㻕 㼛 㻺 㼛 㻺 䕧 㻖 㻖 㻟 㻺㼛 㻖㻖 㻟㻦 㻻 㼚㼘 㼥㻌㻞㻌㼛 㼡㼠 㻌㼛 㼒㻌㻝㻢㻌㼔㼛㼡 㼟㼑 㼟㻌 㼔㼍 㼢㼑 㻌㼑 㼘㼑 㼏㼠 㼞㼕 㼏㼕 㼠㼥 㻚 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻤 㻞 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㻕 㻡 㻡㻔 㼍㼜 㼍 㼔 㼀 㼕㼞 㼍 㼙 㼡 㻷 㼙 㼑 㼔 㻷 㼛 㻺 㻥 㻞 㻳 㻻 㻺 㻱 㻿 㻭 㻔㻹 㼍㼞 㻞 㻜 㻜 㻟 㻕 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㻭 㼘㼞 㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㻵㼚 㼜 㼞㼛 㼏 㼑 㼟㼟 㻖 㻖 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼛 㻺 㻕 㻝 㻡㻔 㼔 㼡 㻼㻚 㻮 㼙 㼡 㻷 㻜 㻟 㻳 㻻 㻺 㻱 㻿 㻭 㻔㻹 㼍㼞 㻞 㻜 㻜 㻟 㻕 㻺㼛 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌㼓㼛 㼠 㻵㼚 㼜 㼞㼛 㼏 㼑 㼟㼟 㻖 㻖 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼔㼠 㼚 㼛 㼙 㻛㼟 㻾 㻺 㻜 㻡 㻘㼓 㼡 㼚 㼡 㻳 㼕㼐 㼚㼍 㼔 㻭 㼛 㻺 㻝 㻟 㻳 㻻 㻺 㻱 㻿 㻭 㻔㻹 㼍㼞 㻞 㻜 㻜 㻟 㻕 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㻭 㼘㼞 㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻙 㻙 㻙 㻙 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻞 㻟 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼔㼠 㼚 㼛 㼙 㻛㼟 㻾 㻺 㻡 㻞 㻘㼓 㼚 㼡㼞 㼡 㻳 㼍㼥 㼍 㻹 㼕㼠 㼑 㻿 㼛 㻺 㻟 㻟 㻳 㻻 㻺 㻱 㻿 㻭 㻔㻹 㼍㼞 㻞 㻜 㻜 㻟 㻕 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㻭 㼘㼞 㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼔㼠 㼚 㼛 㼙 㻛㼟 㻾 㻺 㻡 㻞 㻘㻕 㻡 㻡㻔㻚 㻷㻚 㻮 㼕㼞 㼍 㼙 㼡 㻷 㼍㼥 㼞 㼡 㻿 㼛 㻺 㻠 㻟 㼁 㻮 㻿 㻔㻶 㼡 㼘㼥 㻞 㻜 㻜 㻜 㻕 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㻺 㼑 㼣 㼘㼥 㻌㼓 㼛㼠㻖 㻖 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㻟㻡 㻷 㼞㼕㼟 㼔㼚㼍 㻌㻮 㼐㼞 㻌㼀 㼍㼙 㼍㼚㼓 㻌㻔 㻢㻜㻕 㻼㼡 㼞㼚 㼍㻌㻷㼡 㼙 㼍㼞㼕 㻌㻸 㼍㼙 㼍㻌 㻔㻟 㻜㻕 㻘㻌㻌㻞 㻜㻺 㻾㼟 㻛㼙 㼛㼚 㼠㼔 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺㻳 㻻 㻺 㻱 㻿 㻭 㻔㻹 㼍㼞 㻞 㻜 㻜 㻟 㻕㻘 㻯 㼃 㻵㻺 㻔㻹 㼍㼞 㻞 㻜 㻜 㻠 㻕 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㻭 㼘㼞 㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㻟㻢 㻼㼍 㼐㼍 㼙 㻌㻮㼐 㼞㻌 㻳 㼡 㼞㼡 㼚㼓 㻌㻔㻡 㻢 㻕 㻹 㼍㼐 㼔 㼡 㻌㼀 㼔㼍 㼜㼍 㻘㻌 㻡㻜 㼪㻝 㻜㻜 㻺 㻾 㼟㻛 㼙 㼛 㼚㻚 㻾 㼍㼙 㻌㻾 㼍㼚㼍 㻌㻮㼔㼍 㼠㻌㻔 㻞㻤㻕 㻿 㼍㼙 㼑 㻯 㼃 㻵㻺 㻔㻹 㼍㼞 㻞 㻜 㻜 㻠 㻕㻘 㼁 㻮 㻿 㻔㻶 㼡 㼘㼥 㻞 㻜 㻜 㻝 㻕㻖 㻖 㻠 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌㼓㼛㼠 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌㼓 㼛 㼠 㻌㻌 㻌㻌 㻌㻌 㻌㻌 㻭㼘 㼞㼑 㼍㼐 㼥㻌 㼓㼛㼠 㻖 㻖 㻠㻦㻌㻹㼍㼟㼕㼚 㼍㻌㼍㼘㼟 㼛 㻌㼞㼑 㼏 㼑㼕 㼢㼑 㼟㻌 㼒㼞㼛㼙 㻌㼃㻻㻯㻭㻿㻌㼍㼕 㼐㻌㻌 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼔㼠 㼚 㼛 㼙 㻛㼟 㻾 㻺 㻡 㻞 㻘㼓 㼚 㼡㼞 㼡 㻳 㼍㼥 㼍 㻹 㼕㼠 㼑 㻿 㻟 㻜 㻜 㻞 㼚㼕 㼐 㼑㼟 㼟㼕 㼙㼟㼕 㻰 㻣 㻟 㻳 㻻 㻺 㻱 㻿 㻭 㻔㻹 㼍㼞 㻜 㻜 㻟 㻕㻘 㼁 㻮 㻿 㻔㻶 㼡 㼘㼥 㻞 㻜 㻜 㻝 㻕 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㻭 㼘㼞 㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㻵㼚 㼜 㼞㼛 㼏 㼑 㼟㼟 㻖 㻖 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻤 㻟 㻵㼚 㼏 㼞㼑 㼍㼟 㼑 㼐 㻔㻗 㻞 㻡 㻕 㻳 㻻 㻺 㻱 㻿 㻭 㻔㻹 㼍㼞 㻞 㻜 㻜 㻟 㻕㻘 㻯 㼃 㻵㻺 㻔㻹 㼍㼞 㻞 㻜 㻜 㻠 㻕 㻺㼛 䕧 㻖 㻦㻖 㻡 㻺㼛 㻖㻖 㻡㻦 㻌㻻 㼚㼘 㼥㻌 㻞㻌 㼛㼡 㼠㻌 㼛㼒 㻌㻠 㻜㻌 㼔㼛 㼡㼟 㼑㼟 㻌㼔 㼍㼢 㼑㻌 㼑㼘㼑 㼏㼠 㼞㼕㼏 㼥㻚 㼛 㻺 㻚㼍 㼞㼍 㼠 㼚㼕 㼙㼍 㻿 㼚㼕 㼘 㼛 㼛 㼔 㼏㼟 㻭 㻿 㻱 㻺 㻻 㻳 㼍 㼛㼠 㼛㼓 㼑 㼙 㼛 㻿 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻥 㻟 䕧 㻖 㻖 㻢 㻺 㼛 㻖㻖 㻢㻦 㻌㻻 㼚㼘㼥 㻌㼘㼕㼚 㼑 㼟㻌 㼍㼞 㼑㻌㼑㼤 㼠㼑 㼚㼐 㼑㼐 㻚 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼛 㻺 㻕 㻡 㻠㻔㻚 㻷㻚 㻮 㼚㼍㼘 㼘㼕 㻹 㻜 㻠 㼁 㻮 㻿 㻔㻹 㼍㼞 㻞 㻜 㻜 㻝 㻕 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㻭 㼘㼞 㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㻭 㼘㼞㼑 㼍㼐㼥㻌 㼓㼛 㼠 㼠㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼛 㻺 㼛 㻺 㼑 㼙㼍 㻿 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻝 㻠 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻝 㻜 㻜 㻞 㻚㼠 㼏 㻻 㼚㼕 㼐 㼑㼞㼕 㼜㼤 㻱 㻞 㻠 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻝 㻜 㻜 㻞 㻚 㼏 㼑 㻰 㼚㼕 㼐 㼑㼞㼕 㼜㼤 㻱 㻟 㻠 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻝 㻜 㻜 㻞 㻚 㼏 㼑 㻰 㼚㼕 㼐 㼑㼞㼕 㼜㼤 㻱 㻠 㻠 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻝 㻜 㻜 㻞 㻚㼠 㼏 㻻 㼚㼕 㼐 㼑㼞㼕 㼜㼤 㻱 㻡 㻠 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻙 㻝 㻜 㻜 㻞 㻚㼠 㼏 㻻 㼚㼕 㼐 㼑㼞㼕 㼜㼤 㻱 㻢 㻠 㻝 㻞 㼛 㻺 㼛 㻺 㻣 㻖㻕 㻜 㻡㻔 㼍㼜 㼞 㼑 㼔 㻿 㼍 㼙 㼑 㻺 㻣 㻠 㻳 㻻 㻺 㻱 㻿 㻭 㻔㻹 㼍㼞 㻞 㻜 㻜 㻟 㻕 㻺㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㼠 㼚㼕 㼍 㼙 㼘 㼛 㼛 㼔 㼏㼟 㻭 㻿 㻱 㻺 㻻 㻳 㻦 㻣 㻖 㼛 㻺 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㼠 㼛㼓 㼥㼐 㼍 㼑㼞㼘 㻭 㻙 㻙 㻙 㻙 㻜 㻟 㻝 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻤 㻠 㼍㼕㼚 㼕㼚 㼓㻌 㻯 㼛㼙㼙 㼕㼠 㼠㼑 㼑 㻌 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻡 㻝 㼛 㻺 㼛 㻺 㻕 㻡 㻠㻔 㼓 㼚㼍 㼙㼍 㼀 㼞㼐 㻮 㼡 㼑 㻰 㻥 㻠 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻝 㻝 㼛 㻺 㼛 㻺 㼛 㻺 㻜 㻡 表 2:20032004 年・科研調査総括表
サミッティすらない。ただ国際 NPO の GONESA が既に 18 ケ月前から当ス クンバシ集落内で「児童教育(bal sichhya)」を開始しており、その開始時 に設立した「学校運営委員会(bidhyalaya byabasthapan samiti)」の会長 にはネマ・シェルパ(51 歳)が就任していた。 第二に、2004 年春の時点でポカラ市上層部の政治的変化で発生したポカラ 市中央のバス・ターミナル拡大計画の余波を受けて、#19 の「シバトール」 が既存場所からその少し東南方向にある川端地域に移動したところに #48 の 「シバトール II」となったのである。つまり、#19 が移転で消滅して、その結 果 #48 として再生したのである。たった一つのスクンバシ集落の移転ではあ るが、その背景にはネパールの政治家の利害関係が絡んでいる。2003 年 6 月 にスルヤ・バハドール・タパ(RPP)がギャネンドラ国王によって首相に指 名されると、その年の 10 月に彼は全国の地方、市町村区レベルの行政責任 者を指名した。その政局変動を見計らって、それ以前には UML 支持者であっ たシバトール・スクンバシ・サミッティー委員長であったジャヤ・ラル・プ ンは RPP 支持者に転向した。そのことが効を奏したのか、プンは新首相によ りポカラ市第 9 区の区長に任命されたのである(その任期は 2004 年 1 月ま で)。プンが第 9 区長に在任中に、ポカラ市当局、ポカラ都市計画局そして HMGが、シバトール・スクンバシ集落の道路沿いに新しいバス・パークを建 設する計画を立てたのである。プンがシバトール・スクンバシ・サミッティー 委員長であった時、ラクシュミ・シュレスタは彼のスクンバシ・サミッティー の事務局長(secretary)をしていた。それでプンが区長に任命されると、彼 はシュレスタを自分の後釜に指名した。そのシュレスタの指導の下に、2004 年 1 月にシバトールのスクンバシ達は、新しい居住区、シバトール II に移転 をした。しかしながら、移転後も現時点に至るまで、新しいバス・パークは 建設されず、現在シバトール II のスクンバシ達は、自分たちが強制的に移住 されたのみに終わってしまっていることを苦々しく思っている。 第 三 に、2002 年 8 月 に ポ カ ラ 北 西 境 界 線 ち か く に あ っ た「 ヤ ン デ ィ
(Yardi)」集落(#42)が強制撤去されたことは既に述べたが、その撤去後に 前後して、更に北に 10 分ほど歩いた川沿い地域に新しいスクンバシ集落、 「ヤンディ II」(#49)が誕生していた。この新興のスクンバシ集落には、まだ 水道も電気もなかったが、「トール・サミッティー」は既に出来上がってお り、タクシー運転手をしているデウ・バハドール・タマン(45 歳)がサミッ ティ委員長をしており、その妻チャツレ・タマン(30 歳)がその地で小さな 雑貨店を経営しながら、委員長の夫を助けてサミッティの収入役をも兼ねて いた。小さな川沿いに並んだ 14 世帯の集落で、水だけは常にあふれんばか り流れている良好な立地条件を楽しんでいた。 第四に、2004 年夏には、「タロカルテ(Tallo Kharute)」集落(#50)も見 つけることが出来た。この土地は、カルテ(Khalte)集落(#37)を縦貫す る道路から奥まったところの下り坂道を徒歩 10 分ほど下った谷底にある小 集落である。「タロ(tallo)」とは、ネパール語で「下の」を意味する。それ 以前の調査で、我々はこの集落の存在を完全に見落としていた。最初はカル テ集落からの分離派生集落だと思っていたが、調べてみると、そうではない。 電気は 1 軒のみ配線されていたが、水道はまだ設置されていない。わずか 10 世帯の小集落で、勿論ラル・プジャは貰っていない。以上述べたように、総 計 43 のスクンバシ/元スクンバシ集落が 2004 年夏の時点で存在したことを 明記しておきたい。
(2) 民主化以降ネパールのマオイスト台頭と国王独裁化:
1999年夏から 2003 年夏までの 4 年間にネパールの国内政治は大きく変 わった。民主化されたネパール王国にとり初体験の立憲君主制多政党民主義 政治は、当初の興奮が冷めてしまうと、だんだんと混迷を増す一方である。 この期間の政治的混迷については、既に別稿(山本 2004)で論述している。 この政治的激動は、議会制民主主義を逸脱した独裁政に傾倒する国王「ラジャ(Raja)」、公金を貪る腐敗官僚である「カウバディ(Kaubadi)」、あく ま で 王 制 打 倒 を め ざ す ネ パ ー ル 共 産 党 毛 沢 東 主 義 派「 マ オ イ ス ト (Maobadi)」の三つ巴の抗争にある。この三つ巴抗争の始まりが、1996 年 2 月 13 日に「人民戦争」と呼ばれる反政府武装闘争の開始にあることは間違 いない。 ネパールの反パンチャヤート運動の結果、1990 年 11 月に新しい「多政党 (民主主義)憲法」(Bahudaliya Sambidhan)が発布されると、1991 年 5 月 に新憲法下での最初の総選挙が実施された。その結果、それ以前には非合法 政党であったネパール・コングレス党とネパール・コミュニスト党(ネパー ル共産党)は、与党と第一野党に押し上げられたのである。それ以来、ネ パールの議会政治では両党間の政治的確執が始まるのであるが、それについ ては本稿で触れる余裕はない。大事なことは、後にマオイストを結党したネ パール・コミュニスト党の強硬派は、この第一回目の総選挙にネパール共産 党から出馬した 9 人が国会議員として当選していたのである。しかしながら 1993年 11 月の中間選挙において全員が落選してしまったので、彼らはネ パールでの議会制民主主義の将来に絶望して地下に潜り武力闘争を準備す る決意をしたのである。その点に関してプラチャンダ派とバブ・ラム・バッ タライ派が合流してネパールの「マオイスト(Maobadi)」を結党したのであ る。 マオイストは、結党間もなく 1995 年 2 月の時点で既に、当時のネパール 政府、つまりシェル・バハドール・デウワ政権には、極めてカウバディ的傾 向が顕著に目立ったので「40 項目の要求書」を提出したのである。この 40 項目の中には、①「富裕者の土地所有の上限を制限すること」、②「憲法改 正をして王制を廃止すること」、③「ヒンドゥー教の国教化を廃止し、国民 の宗教・信仰の自由を保障すること」など現在のネパールの立憲君主制とい う政治体制に対して根幹的な疑義を提起している。マオイストは、この「40 項の要求書」は HMG に提出された際に 2 ケ月間の回答期限を付けていた。し
かしながら、当時のデウワ政権はそれに回答するどころか、黙殺してしまっ たのである。それでマオイストは 1996 年 2 月 13 日に始めて武力を持って蜂 起し「人民戦争」を開始したのである。 人民戦争の最初の頃、マオイストは、ネパール西部国境に近い極貧山岳地 域であるラプチ(Rapti)県のロルパ(Rolpa)郡、ルクム(Rukum)郡な どにおける警察署や銀行に焦点を当てたゲリラ戦法で、警察署からは自軍用 の武器・弾薬を争奪し、銀行からは軍資金を略奪しては、だんだんと自らの 勢力を拡大し、それと同時に襲撃範囲をも徐々に拡大していった。小倉清子 (2006:1)によれば、「党(party)、軍(army or sena)、政権(power or satta)
を、マオイストは 人民戦争の三つの魔法の武器 と呼ぶ。ネパールのマオ イストの場合、 党 とはネパール共産党毛沢東主義派を、 軍 とは人民解 放軍を、そして 政権 とはさまざまなレベルの人民政府を意味する。」マオ イストは、他政党の活動家やスパイの暗殺、警察署襲撃、さまざまなサボ タージュを通じて政府や反対派を農村部から追い出し、彼らによる支配の基 盤づくりを進め、1999 年に入ると、上記ロルパ郡、ルクム郡に村レベルの 「人民政府」を始めて樹立したのである。 やがて 1999 年 12 月には、マオイストは大規模な攻勢をしかけて、警察署 を襲撃し一晩で警察官 75 人を捕獲し、また銀行を襲って 5 カロール・ルピー (約 10 億円)もの現金を争奪したのであった。この事件を契機にネパール政 府(HMG)の中ではマオイストの掃討には、警察力だけでは不十分であり、 ネパール国軍が出動する必要があるとの見解が強まったと聞いている。実証 することは困難であろうが、死亡したビレンドラ前国王と彼の弟君であり現 在のギャネンドラ国王との間には、マオイスト成敗に関するネパール国軍の 使用に関する見解の相違が既に 2000 年当初から顕在していた。そのような HMGの後手後手のマオイスト対策を尻目に、マオイストは、2000 年 12 月に 全国で始めて郡レベルの「人民政府」をルクム郡に樹立し、その後の半年間 に、ロルパ郡、サルヤン(Salyan)郡、ダイレク(Dailekh)郡、カリコッ
ト(Kalikot)郡、アッチャム(Achham)郡、バジュラ(Bajura)郡にも 次々と人民政府を拡大しつづけたのである。 2001年 6 月の王宮内乱射事件によって、ビレンドラ国王夫妻と家族は射殺 され、その犯人だとされているディペンドラ皇太子も自殺してしまったの で、故ビレンドラの弟君ギャネンドラが短期間空位となった王位を継承し た。ギャネンドラ国王が即位した翌月に、あたかも新王の政府内支配力を打 診するかのように、マオイストはホーレイ(Holery)とルクム(Rukum)地 方を攻撃した。この時、マオイストへの強硬対策派であるギリジャ P. コイラ ラ首相は、現地へのネパール国軍の派兵を要請したが、ギャネンドラ国王は 即位以前から国軍を実質的に掌握していたにも関わらず、ギャネンドラ国王 はコイララ首相の派兵要求に応じなかった。(その理由は、新国王は G.P. コ イララ氏を嫌っていたからだという推測が強い。)この件で直ちにコイララ 氏は首相の座を辞任してしまったので、2001 年 7 月にはシェル・バハドー ル・デウワ氏が再び首相に就任したのである。デウワ首相にとっては、マオ イスト発祥の地が自分の選挙区でもあり、かつてのマオイストによる「40 項 目の要求」を無視した経緯もあったからであろうか、彼は首相の受託演説に おいてマオイストと休戦し和平交渉を開始することを表明した。その提案を 受けたマオイストは、一方で政府側と三回の秘密和平交渉に臨みながらも、 他方で「2001 年 7 月末から 4 ケ月間続いた停戦期間を党拡大・武装強化に利 用。同年 11 月末に停戦を破棄するまでに、全国 75 のうち 20 を超える郡で 人民政府を樹立、昨年(2005 年)末までには、カトマンドゥー(Kathmandu)、 バクタプール(Bhaktapur)、マナン(Manang)、ムスタン(Mustang)など を除く全国 65 を超える郡で人民政府を樹立している。」(小倉 2006:1) 2001年 11 月 23 日にマオイスト側の一方的な休戦協定を破棄とシャンジャ (Shyanja)地方への夜間奇襲攻撃の再開に、当時のデウワ首相は激怒して、 同 年 11 月 26 日 に は ネ パ ー ル 全 土 に 第 一 回 目 の 3 ケ 月 間 の「 非 常 事 態 (Rajyama Sankatkar)」を宣告したのである。この非常事態宣言は、2002 年
2月 25 日に第二回目が再度発布され、そして同年 7 月 25 日に第三回目の非 常事態が再々度発布される予定であった。しかし、非常事態宣言の長期延長 には彼の出身母体である与党ネパール・コングレス党の内部からギリジャ・ P・コイララ党首を中心とする反対勢力の立ち上がりでデウワ首相の党籍剥 奪事件まで発展してしまい、その後は、ネパール・コングレス政党内の派閥 抗争が他の政党内の派閥抗争にも飛び火した挙句、ネパール・コングレス党 のコイララ派とデウワ派による分裂にまで発展してしまうことになる(山本 2004:82-89)。このように誕生間もないネパールの中央議会政治が混沌状況に 陥いり、王制打倒を叫ぶマオイストが全国 75 郡のうち 65 郡(87%)におい て「人民政府」を樹立した状況の中で、ギャネンドラ国王は突如として憲法 で保障された議会政治の枠組みを逸脱した王権独裁政治に踏み切ったので ある。それは、自分の王国をマオバディやカウバディから救おうとするラ ジャとしての最後の決断であったに違いない。 (2 − 1)マオイストのポカラ進出: 2001年 7 月末から 4 ケ月間続いた停戦期間を党拡大・武装強化に利用した マオイストの攻勢は、ポカラも例外にはならなかった。「表 1」にも示したよ うに、1999 年夏頃からマオイストの地方リーダーが盛んにポカラに接近し、 スクンバシ集落へのオルグ活動を活発になっている噂を方々のスクンバシ 集落で耳にしたのである。このマオイスト勢力の上げ潮状況の中で、「図 1」 に示されるポカラ市内には、#42 集落(Yardi)、#43 集落(Behind Hospital II)、#44 集落(Ram Ghat II)が 1999 年秋頃に誕生したのである。また引き 続いて 2000 年春には、#45 集落(Gau Kharka)と #46 集落(Bachhe Buduwa) との二つの大型スクンバシ集落がポカラ市境界周辺に公然とマオイスト支 持を表明していたのである。
2001年夏に筆者が二年ぶりでポカラを再訪した時は、マオイスト活動の最 盛期であった。8 月 24 日に筆者はポカラの定宿に荷物を置くや否やただちに
エアポート(#18 集落)の「スマイリー・タマン」(仮名)を訪ねたのであ る。残念ながら彼は不在で、彼の細君の話によれば、彼は「ヤンディ(Yardi)」 (#42)集落の方に出かけたとのことであった。それで翌日再訪した際に彼の ヤンディの一件を尋ねると、彼はやや興奮気味に、昨日朝からヤンディのス クンバシ集落が警察によって強制撤去を受けそうだから助けてくれとの連 絡をヤンディ集落のリーダーから受けたこと、それで彼は急遽タクシーを 図 1:ポカラ市内のスクンバシ集落の分散図
チャーターしてヤンディに駆けつけたが、どうすることも出来なかったとの ことであった。それ後の彼の証言によれば、彼はその当時、マオイスト親派 のスクンバシ集落群のまとめ役をしており、マオイスト地方リーダーとの連 絡係りでもあることを教えてくれたのである。マオイストはポカラのスクン バシ集落を人民戦争のための前線基地としてポカラ市民を親マオイスト勢 力に育て上げることを狙っていたのである。この狙いは、マイオストならび にスクバシの「コミュニタス」としての等質性を考慮すれば、実現する可能 性は多分にあったであろう。 今から思うと、ポカラ市の北部境界線外にあったヤンディは、ポカラ市の 行政区域外であること、そしてわずか 30 世帯程度の小規模なスクンバシ集 落であったので組織的抵抗が弱いことを見計らって、ポカラ警察はまっさき にヤンディの親マオイスト・スクンバシ集落の撤去を強行したものと考えら れる。その他のマオイスト親派スクンバシ集落群は、まずポカラ市内中心部 にあるエアポート(#18)、ビハインド・ホスピタルⅡ(#43)、ラムガートⅡ (#44)は、いずれも 300 世帯以上の大規模なスクンバシ集落であった。さら にポカラ市の西境界周辺にあるガウ・カルカ(#45 集落)は 1 千世帯以上の、 またポカラ市南境界線周辺のバッチャ・ブドワ(#46 集落)は 3 千近くの世 帯数を誇る超大型スクンバシ・テント集落なので、撤去させるためには相当 な集団的抵抗が予想されるために、しばらく静観して放置しておくことが警 察の基本的考えであったろう。これらのスクンバシ集落群(ただし、#18 の エアポートのみを除いて)、2001 年 11 月 26 日にデウワ首相による第一回目 の「非常事態」宣言が発令された以降に、ポカラ警察がポカラ駐屯のネパー ル国軍の協力を得て、一斉にマオイストのアジト化されたスクンバシ集落に 対する強制的立ち退き作戦が挙行されたのである。この国軍・警察によるポ カラからのマオイスト掃討作戦でスクンバシ集落群内のマオイスト親派勢 力は一掃されてしまったのである。