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<研究・制作ノート>対象としての女性,対象の欠如としてのファルス─失われた「愛の極限」を求めるための手がかりとしてのラカンの「シェーマL」活用術

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Academic year: 2021

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(1)□. 三. 研究・制作ノート. 対象としての女性, 対象の欠如としてのファルス ──失われた「愛の極限」を求めるための手がかりとしてのラカンの「シェーマL」活用術. 清田友則. 精神分析全般としてではなく,教義のフロイト・ラカン的問いとしての 「女とは何か?」を文節化するとき,主語としての「女」なのか(「女とは 0. 何か?」),それとも目的語としての「女」なのか(「女とは何 か?」= 0. ~. 「何が女なのか?」)という,一見些細に見える構文上の位置関係をはっき りさせることが何より肝要である。 ただ,以下に論じるように,この問いは同時に躓きの石でもあり,喚起 したところで答えが永遠に宙に浮いたままの問いであるのもまた事実であ る。ならば問うだけ無駄かというと,そうとも言い切れない。フロイトが 長年にわたる臨床経験を振り返り, 「女が何を欲しているか分からない」 と慨嘆したのは有名な逸話だが,だからといって,これをただの敗北宣言 と受け取るわけにはいかない。 「どうせ分からないなら,そんな無駄な努 力,最初からやめておけば」と端から無視する大勢のアンチ・フロイディ アンがいるなかで, 「あのフロイトが匙を投げた?…それはじつに興味深 い!」と更なる好奇心を募らせる人たちもそれに劣らず存在している。も ちろん筆者は後者の立場で,本稿では,答えを先取りした問いとしてでは なく,謎としての問いの核心に迫っていきたい。 そこで,まずは安易な解決策がどのようにして袋小路に陥るのかを辿っ てみよう。ちなみにこれには二通りの道があり,「女」を主語,もしくは 目的語として互いに互換不可能な位置に固定することである。そしてその 結果おのずと出てくる結論は,前者の場合, 「女」とは主語以外の何物で 対象としての女性,対象の欠如としてのファルス. 三. 175. F.

(2) し. 二 もなく,後者の場合,目的語以外の何物でもなくなる。当然そこにはいか. 私が今日,女性を「対象」と呼んでいるのには,それなりの理由があ. なる意味も発生しない。主語としてであれ目的語としてであれ,統語論と. ります。それは,女性はある時この弁証法に対象として入らなければ. しての「女」とはあくまでも構文上の立ち位置(「女とは……。 」 ) 「 , ( 「……. ならないからです。ただ,この位置はほとんど自然なものではありま. 女である。」)でしかなく,それ自体としては何も意味しない。そこで誰も. せん。なぜならそれは二乗された位置であるから。二乗された位置と. が空白を埋めるべく躍起になるわけだが,構文の完結が即,意味の生成に. いう言い方が意義をもつのは,主体がまずこの位置をとるからにほか. つながるわけではない。. なりません1)。. これらが安易な解決策でしかないのは,それらの意味が,主語としてで あれ目的語としてであれ,位置関係上の「対立物」,つまり主語だと目的. 「ある時」とは「幼児性欲の第一期の最終段階」である「ファルス(男. 語,目的語だと主語による補完以外の何物でもなく,補完物自体がそれぞ. 根)期」のことを指す。この時期を契機に,幼児はそれまでのオスとメス. れの真の意味ということになってしまうからだ。たとえば単純な話,ある. によって構成された「自然」界(動物界)から,男と女によって構成され. 女性が「女とは私だ」と言ったとしよう。「私」がどういう根拠のもとに. る「象徴」界へと参入する。これら二つの世界の違いは,前者がオスとメ. そう断定したかはともかくとして,もし仮にそうなら,どうして彼女は. スの総和(オス猫+メス猫=猫)であるのに対し,後者においては男. 「女」という主語の中にあらかじめ「私」を含めなかったのだろうか。そ. ( 「+」 )+女( 「-」 )=0となり,このゼロ(無)を代入するのが「有」. んなにも「女」としての「私」が自明であるなら,なぜ二つを一語にまと. としての象徴(言語,記号)の役割機能である。. めて自立性を確保しなかったのだろうか。. 「+」として男,「-」としての女は,ファルスの有無によって計られる。. もちろんその理由は単純に,構文の性質上,主語→目的語の連鎖の手続. そもそも男根期は性差を問わず経験する段階であり,しかもこの「経験」. きを踏まねば意味が成立しないからだ。が,だとしたら,なぜ人は「私」. は実際に性器を見ることで違いを認識するといったものではなく,言語を. としての意味形成の基盤を言語の構造に全面的に委ねなければならないの. 習得するにあたって誰もが踏まねばならぬ構造上の踏み絵である。. だろうか。. 「+」 「-」は,コインの裏表とは似て非なるものであり,それぞれの面. 冒頭の問いに戻ろう。命題の主眼はあくまで主語もしくは目的語として. に別の図柄(男と女,あるいは男性器と女性器)が描かれているのではな. の「女」であって,「男」あるいは「ひと」全般ではない。では,なぜ. い。描かれているのは表だけであり(それがファルスだ) ,かりに裏に何. ー. 1 1. ―壬}. が描かれていようと,それは「ファルスが描かれていない」としか認知さ. 「ひと」でも「男」でもなく,「女」なのか。 ここでこれまでの統語論的な見立てを精神分析的見立てに引き継ごう。. れない構造になっている。ここで男性主義的な誤解を避けるべく補足する. 精神分析概念としての主語と目的語は,それぞれ「主体」と「対象」に置. と,ここでいうファルスとは「ペニス」という身体の一部としてのそれで. き換えられるが,英語,仏語,独語のどれも,それぞれ subject,sujet,. はなく,常に剥奪の危機を帯びた所有物としてのそれであり,逆にいえば,. Subjekt,object,objet,Objekt と語義は同じだから,これらの翻訳概念と. もともと持っていない女の子も持ちうる可能性を潜在的に秘めた, 「+」. して出発した日本語においてもそれぞれ取替可能な語として取り扱ってよ. と「-」が常に入れ替わりうる象徴的交換物である。. いだろう。. コインの喩えが有効なのは,表と出るか裏と出るか,コインを投げるま. ここを踏まえて,いきなりだがラカンの言葉に移ろう(前後の文脈につ. で誰にも分からないという限りにおいてである。しかもコインを投げるの. いては後回しにする)──. は男女それぞれの当事者ではなく,第三者の審判であり,片方が表を引け ば,片方は裏となる。その結果,一つの表(ファルス)をめぐって二人の. 176. 研究・制作ノート. 対象としての女性,対象の欠如としてのファルス. ----E~. 177. F.

(3) し. 二. ―壬}. 部分対象としての「女」 ,それは同時に「小文字の他者」 ( 「a」 )として. 実際にそこにいる必要はなく,あくまで一人の人物のなかでの仮想上の. 「大文字の他者」(「A」)とは区別される。一方,大文字の他者は無意識の. ──「幼児的性理論」上の──対決である。なぜなら,男根期は男女どち. ルートを経由して主体と結びつく。これを図式化したのラカンの有名な. らにも訪れる発達段階である一方で,次に待ち受ける段階の性器期を遡及. 「シェーマ L」である──. 的に,ファルスとは異なる性器の存在の「発見」を予期するかたちで,先 取するものだからである。エディプス三角形は,一人の母親(あるいは父. s屯、さぎ住?――_______a'c 他 者). 親)をめぐる男児と女児の対立ではなく,母親と父親の関係をめぐる一人. ‘‘ 、 ` 、‘、R. の男児,もしくは一人の女児の逆三角形の図式である。男児と女児が対峙. ~. する機会そのものがないのである。 ラカンの引用に戻ろう。「二乗された」「対象」とは何か。引用にもある 通り,ほんらい対象が位置するはずの位置を「主体」が事前に占めている. a. ため,構文的には,主語→目的語(=主語)となり, 「女とは何か?」と. (自我). 問う前に答えは回答済み(「女とは女である」)である。とはいえ,この対 象を乗っ取った主語=主体に性別はまだ与えられておらず,「女とは女で. ` A. (穴文字の他 者). ラカン シェーマL. ある」という表記とは裏腹にジェンダーレスである。主体がまず場所を占. ここで注意したいのは,小文字の他者が一つではなく二つ(「a」と「aʼ」). め,その上に対象が上書きされる過程を「人は女に生まれるのではない。. あることである。主体は一人なので,どちらか一方を主体の核,つまり. 女になるのだ」と述べたのは他ならぬボーヴォワールだが,ここでも. 「自我」として選ぶことになるが,図式の矢印が示しているように,そこ. 「女」という「意味するもの」(シニフィアン)が示す「意味」(シニフィ. に選択の余地はなく,主体が選ぶのは常に左下の「a」のほうである。と. +. 1 1. あいだに損得勘定(感情?)が起きる。といっても,ふたり(の兄妹)が. エ)は示されていない。. はいえ,フレドリック・ジェイムソンが指摘しているように,「シェーマ. となると,問題は誕生はしたがまだ「女」として存在していないこの前. L」にはあまり知られていないもうひとつの簡易バージョンがあって,そ. 史において,いずれ女になるはずのこの「主体」とい名の暫定的生き物の. こでは「a」と「aʼ」の位置が逆転している2。. +. 正体は何かということになり,これが他ならぬ冒頭で述べた「女とは何 0. か?」=「何が女なのか?」という問いの趣旨である。. S-•. 「女」になる前の(=「女」ではない)「主体」をボーヴォワールは「人」 と呼ぶが,フロイト=ラカンによれば,この生き物には男根が生えている。 しかもここで言う男根とは器官(ペニス)ではなく,脱着可能な, 「あ る」か「ない」かによってその価値を示す「(部分)対象」としてのモノ であり,この部分としての対象をラカンはあえて「女性」と名付けるので. ヽ ~A. ある(蛇足だが,女性が恋人に「私のどこが好き?」と訊くのもおそらく 0. 0. 簡易版 シェーマL. そのためであり,彼氏が大盤振る舞いのつもりで「君のすべて(全体)が ジェイムソンはこれを「興味深い」と述べるに留めているが,これを単な. 好き」と答えても,彼女ははぐらかされた気持ちになるだろう) 。 178. 研究・制作ノート. 対象としての女性,対象の欠如としてのファルス. ----E~. 179. F.

(4) し. 二 るラカンのケアレスミスと受け取るだけではもったいない。むしろ,われ. このイメージを手がかりに上記の三つの混同をあらためて見てみよう。. われはこれを,ルイス・ブニュエルの映画のタイトルをもじるなら, 「欲. まずは2)の主体と対象の混同。ラカンの「二乗された」「対象」をこ. 望のあいまいな対象」という,いわば対象の両義的性格を示唆しているも. れ以上視覚的に分かりやすく伝えることはできない。 「頭隠して尻隠さ. のと受け止めるべきだろう。. ず」の尻が対象だとすれば,主体は頭である。よって,われわれは目に見. では,それは誰の欲望か。常識的(あるいは構文的)には主体自身とな. える対象としての尻を手がかりに,これを背後から操る頭としての隠れた. るが,ラカンの教義ではそれは「(大文字の)他者の欲望」であり(一つ. (「ない」)ファロスの所在を探すことになる。. 目のシェーマ L の「A」から「a」の矢印の向きに注目),主体(主語)と. ところが,それでもこの頭が顔,つまり性別認知可能な存在(女)とし. 対象(目的語)の混同のそもそもの発端もそこにある。ただ,混同は他に. て捉えられるには,性別のあり方それ自体を判別する法,もしくは真理と. もいくつかあり,しかもそれらは相互に関連しており,これらを整理して. しての「大文字の他者」の存在が不可欠となる。この大文字の他者が,男. みると,以下の三つにおおよそ分けることができる──. 装した女性に欺かれる1)小文字の他者の一群と区別されるのは,男装し た女性の真の姿を大文字の他者だけが知っているとされるからであり,そ. 1)大文字の他者と小文字の他者の混同。. のことを何より承知しているのは当の男装した女性自身である。というの. 2)主体と対象の混同。. も,そもそも男装に駆り立てる欲望自体が「男性になりたい」 (ファルス. 3)二つの小文字の他者(「a」「aʼ」)の混同。. を持ちたい)願望と「女性であることがばれたい」 (女性でありたい)願 望に分裂しており,その分裂自体が大文字の他者と小文字の他者の分裂の. これら三つの混同のいわば原発巣ともいえる大元が,混同どころか単一の. 契機でもあるからだ。. 存在でありながら,一方で「ある」のか「ない」のか定かではない存在,. 男装の弁証法において,ファルスは「-」→「+」→「-」へと循環す. つまりファルスである。. るが,最初の「-」と二つ目の「-」は同一のものではない。シェーマ L. さて,この原発巣としてのファルスには二つの転移ルートがあり,「あ. になぞらえると,二つ目の「-」は「- ʼ」と微妙な差異が生じる。そし. る」からスタートすると「男」となり,「ない」からスタートすると「女」. てその差異はそのまま「a」と「aʼ」という二つの対象の差異となる。シ. となるが,この違いそれ自体の中に優劣関係やハンディは発生しない。ヘ. ェーマ L において「a」の別名は「自我」である。自我が主体ではないのは,. ーゲルの主人と奴隷の弁証法が示唆するように差別の起源が一つの椅子を. 自我が主語の位置につくことができない構文上の理由による。自我はあく. めぐる対等(対称)な立場の二人の戦いの結果に由来するとするなら,こ. まで目的語としてしか機能しない。. こでの男女のルートの違いは非対称的性格であり,戦いの土俵自体が存在. その際,3)ある種の混同が起きるわけだが,その理由はシェーマ L の. しない。と,言われても,これだけではピンと来ないので,スラヴォイ・. 矢印の斜線部分に記されているように, 「a」と「aʼ」が「想像的関係」に. ジジェクに倣い,仮装のイメージで捉えてみると──. あることによる。ラカンの別の用語を借りれば,「a」は自身のアイデンテ. ー. 1 1. ―壬}. ィティを鏡に映る自分自身の「鏡像」から獲得するのだが,実際に鏡が存 男は女に化けることしかできない。女だけが,女に化けている男に化. 在するわけではなく,鏡に映っているのは実は他人(母親)の像である. けることができるのだ。なぜなら女だけが,自分の真の姿に化ける,. (矢印が相互的な「↔」ではなく一方的な「←」なのはそのためで,母親. つまり女であるふりをすることができるのだから 。. が子供を自身の鏡像とすることはありえない)。. 3. とはいえ,これら二つの似て非なる対象が一方的な支配的関係かという 180. 研究・制作ノート. 対象としての女性,対象の欠如としてのファルス. ----E~. 181. F.

(5) し. 二 とそうではなく,図式にも見られるように,「aʼ」から「a」への想像的視. 対象です。つまり,これがファルスなのです4。. 線のいうなれば焦点を合わせる背後からのお膳立てが事前になされている。 それが他ならぬ「A」(「大文字の他者」)を起点とし,「S」(「エス」もし. 「女性の内に探し求め」ている者は誰だろうか。それは「愛の極限」を目. くは「主体」)を経由して「aʼ」に至る「無意識」の点線ルートであり,. 指す権利が誰にも与えられている限りにおいて,男女を問わず名もなき. それなしに「a」が「aʼ」を自身の「理想自我」(フロイト)として事前に. 「主体」である。が,「愛の究極」を目指す者にとって自身の主体性は重要. 選ぶことはない。「A」から「a」の矢印はまさにこの背後からの操作であ. ではない。重要なのは,あくまで対象である。. り,「a」は「aʼ」を選ぶというより,選ばされる。 . とはいえ,ラカンによれば, 「愛とは自分のもっていないものを与える. このように受動的な存在であるのが「a」の目的語としての属性だが,. 5 。そしてこの「もっていないもの」が他ならぬファルスであ ことである」. では, 「S」 (主体)は逆に能動的かというとそうではなく,「A」(大文字. る。だとすると,主体と対象の関係は,どちらもファルスを「もっていな. の他者)に操られている点で大差はない。違いは,後者の場合,直接的に. い」点でどっちもどっちの等価関係にあるのだろうか。そうとも言えるし,. 受け身にはならず,「aʼ」といういわばダミーを介して「a」に対し能動的. そうとも言えない。なぜなら,二人とも「もっていない」からこそ,それ. な立ち位置をとるという点であり,この能動・受動関係が異性愛的に「二. が「ある」かもしれない「向こう側」という新たな地平が垣間見えてくる. 乗」された「対象」が他ならぬ「女」である。. からである。. とはいえ,ラカンのシェーマ L は女性だけに特化した図式ではない。で. かくして「二乗された」 「対象」は対象でなくなると同時に,主体でも. は,男の場合はどうなるか。とくにどうともならない。というか,問題に. なくなる。これが,まさにファルスが欠如の象徴であるところの所以だが,. ならない。なぜなら能動的主体(「S」)と受動的対象「a」)は単にそのま. それはまた愛の発端でもある(続きは別の稿にて……)。. ー. 1 1. ―壬}. ま構文上の主語と目的語としてすんなり収まるからである。問題が女だけ に限定されるのは,受動的対象としてはよいとして,能動的主体の座を 「女」として占めた途端,ある困難が生じるからである。 その困難は,シェーマ L の「S」と「aʼ」との関係性の中に表れている。 冒頭のラカンの引用部分はセミネール『対象関係』の第六章「ファルスの 優位と若い同性愛女性」の冒頭に出て来るが,その後,第七章「 『子供が 叩かれる』と若い同性愛女性」,第八章「ドラと若い同性愛女性」と三章. 註. にわたって展開されていくように,女性の同性愛という「倒錯」,つまり. 1. ジャック・ラカン『セミネール対象関係』上,ジャック=アラン・ミレール編,小 出浩之,鈴木國文,菅原誠一訳,岩波書店,2006,p.118。. シェーマ L からの逸脱事例を通じて,その困難の源である,女性が異性愛. 2. フレドリック・ジェイムソン「ラカンにおける想像界と象徴界」 , 『のちに生まれる 者へ ポストモダニズム批判への途1971-1986』 ,鈴木聡,篠崎実,後藤和彦訳,紀 伊國屋書店,1993,p.193。. 者へと至る道を示している。第六章の最後を締めくくる謎めいた魅惑に満 ちた段落は,まさにこの困難を示している──. 3. スラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め!』 ,鈴木晶訳,紀伊國屋書店,2008, p.195。 4. 『セミネール対象関係』上,p.138。. 愛の極限において,最も理想化された愛において,女性の内に探し求. 5. 『ラカンはこう読め!』 ,p.82。. められているもの,それは,女性に欠如したものです。女性の向こう 側に求められているもの,それはすべてのリビドー経済の中心となる 182. (都市イノベーション研究院・教授). 研究・制作ノート. 対象としての女性,対象の欠如としてのファルス. ----E~. 183. F.

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