チェコスロヴァキア第一次土地改革に対する批判
著者
佐藤 雪野
雑誌名
国際文化研究科論集
巻
24
ページ
73-80
発行年
2016-12-20
URL
http://hdl.handle.net/10097/00120980
佐 藤 雪 野 1.はじめにi 第一次世界大戦後、ハプスブルク君主国の継承国家として成立したチェコスロヴァキアにおい ては、「国民国家」を確立させようと、経済上の「国民化」政策が種々行われた。代表的なものが(1) 通貨の分離、(2)企業のチェコスロヴァキア化、(3)土地改革iiである。 土地改革には、土地分配の適正化という社会政策的側面もある。そして、ロシア革命を目の当 たりにした第一次世界大戦後のヨーロッパでは、22 か国で何らかの形で土地改革が行われ、そ のうちある程度の規模で行われた国が 14 か国に及ぶiii。中でもチェコスロヴァキアの土地改革 の規模は大きいものであった。チェコスロヴァキアでは、戦間期の土地改革を、第一次、第二次 世界大戦後のものを、第二次と呼ぶ。 土地改革については、重要政策として同時代から学術的な検討が進められ、チェコスロヴァキ ア国内を中心に多くの研究の蓄積があるiv。同時代には、民族的少数者に所有されていた農地や 森林を奪い、民族的多数者の所有に移行するものととらえられv、民族解放に成功したブルジョ ワジーが以前の支配者だった外国系貴族と闘争した政策であると、やはり民族主義的に理解し た社会主義時代の研究を経てvi、体制転換後の研究では、経済的民主化の実現という社会経済的 意義が注目されたvii。最近では、個別の貴族、貴族家系の研究と結びついて、チェコ各地の大 学で学生に人気の論文のテーマとなっているようであるviii。また、自治体史など地方史の枠組 みで取り上げられることも多いix。充実した研究蓄積があるため、最近では、個別の領地の研究 が進められているといえよう。その中で、本稿は、これまでの研究ではあまり注目されなかっ た、土地改革が一応の終結を見た後の、その結果に対する批判を、土地改革を担った与党に対 する野党側の批判の事例を取り上げて、検討するものである。土地改革に対する批判としては、 与党の農業者党(1922 年からの正式名称は農民・小農共和党 Republikánská strana zemědělského a malorolnického lidu)内の専門家を中心とする残存農園 zbytkový statek と呼ばれる新たな農園が誕 生したことへの批判が知られているxが、野党が選挙の争点の一つとして取り上げたことは、こ れまで指摘されておらず、この事例の検討は土地改革のみならず、当時の政局や選挙運動の形態 を検討する上でも、新たな視点を加えることができると考えられる。 2.土地改革の概要 土地改革が実施された当時のチェコスロヴァキアにおいては、住民の 44% が農業に従事して いたが、その 55%は、2ha 以下の土地しか所有していなかった。それに対して、500ha 超の土地 を持つ 2000 人の大土地所有者が国土面積の 1/3 を所有していたxi。特にチェコ西部のボヘミア では、14 人の大土地所有者が 11.3% の土地を、チェコ東部のモラヴィアでは、11 人の大土地所 有者が 10.8% の土地を所有していたxii。例えば、アドルフ・ヨゼフ・シュヴァルツェンベルク侯
チェコスロヴァキア第一次土地改革に対する批判
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Adolf Josef kníže Schwarzenberg(但し 1914 年逝去)xiiiは、17 万 6,000ha を、リヒテンシュタイ
ン侯ヨハン 2 世 Johann IIxivは 10 万 9,000ha を、ヨゼフ・コロレド=マンスフェルト侯 Josef kníže
Colloredo-Mansfeldxvは 5 万 8,000ha を所有していた。このような状況下で、土地の再分配を行い、
所有の分散化を図ることは、理に適っていた。
土地改革自体は、貧農の解消という点から社会民主党(正式にはチェコスロヴァキア社会民主 労働党 Československá sociálně demokratická strana dělnická)にも支持され、農村を支持基盤とす る農業者党にとっても最重要課題とされていた。また、私有財産の自由という観点から、所有権 の侵害が生じうる土地改革に懐疑的になる保守政党も、土地改革を「外国の貴族が支配する土地 を自民族のものにする」という民族主義的観点から支持することになった。本来、社会的公正・ 平等のみを目指すはずの土地改革が、民族主義的性格をも秘めていたのである。 土地改革に際して、「ビーラー・ホラ(白山)Bílá hora の戦い」による異民族支配の解消を、 土地改革が目指すという標語が掲げられたがxvi、これは、三十年戦争の契機となった 1618 年の ビーラー・ホラの戦い以来外来の貴族に奪われたチェコの土地を新国家の国民の手に取り戻す、 という意味だった。上述の 3 人の大土地所有者を見ても、少なくとも起源は外国系で、ドイツ系 の姓を名乗っていたxvii。 チェコスロヴァキア独立直後の 1918 年 11 月 13 日、暫定憲法 prozatímní ústava が定められ、 1920 年 4 月までの暫定的国会である「革命国民議会 revolučni národní shromáždění」が土地改革の 準拠法を制定した。「革命的国民議会」の議席配分は、1911 年のオーストリア帝国議会の勢力分 布に基づいた、国民委員会 Národní výbor の委員配分に準じた。定数 256xviii、翌 1919 年 3 月にス
ロヴァキア会派への議席配分を増加する目的で 270 に増やされた。最初の議員は、保守派である チェコ国法民主主義 Česká státoprávní demokracie(1919 年からは国民民主党、正式にはチェコス ロヴァキア国民民主主義 Československá národní demokracie)46 議席、人民党(正式にはチェコ スロヴァキア人民党 Československá strana lidová)24 議席、農業者党 55 議席、国民社会党(正式 にはチェコスロヴァキア国民社会党 Československá strana národně socialistická)xix29 議席、チェコ
進歩党(帝国議会当時はチェコ国法進歩党 Česká strana státoprávně pokroková)は 6 議席、社会民 主党 53 議席に加え、スロヴァキア会派 41 議席であったxx(欠員 2 議席)。従って、程度の差は
あれ、土地改革に対し、反対する勢力はほぼ存在しない。むしろ、ドイツ系、ハンガリー系など の議員のいない場で制定されたために、民族的性格を持った土地改革が実現できたともいえよう。
土地改革の方向性を決定する「枠組み法」のうち、最初に制定され、最も重要なものが 20 条 からなる収用法 Zákon o zabrání velkého majetku pozemkového (Záborový zákon)、1919 年 215 号法 であるxxi。1919 年 4 月 16 日に制定され、24 日に発効した。正式に廃止されたのは実に 1991 年 6 月 24 日で、第二次世界大戦後、共産党政権下で行われた第二次土地改革にも影響し、「ビロー ド革命」後まで残っていた。 この法で最も重要な規定は、第 2 条の、農地で 150ha を、その他の土地で 250ha を超える土地 が収用されるというものである。但し、誤解されやすいが、土地収用自体が、国家による没収を 意味するのではなく、収容された土地が奪取されると決定されてはじめて、元の所有者の所有権 がなくなる。奪取される場合も、原則は、有償である。実際は、様々な理由から奪取されず、元 の所有者に戻される土地もあった。 収用法第 10 条の分配に関する規定を受けて、1920 年 1 月 30 日に分配法 Zákon, kterým se vydávají po rozumu §u 10 zákona ze dne 16. dubna 1919, č. 215 Sb. zák. a nař., ustanovení o přídělu
zabrané půdy a upravuje se právní poměr ku přidělené půdě (Zákon přídělový) (1920 年第 81 号法)が 制定され、2 月 17 日に発効した。この法は、5 部 65 条からなる。分配の対象者はチェコスロヴァ キア国籍を持つ者で、有償で分配される。
1920 年 4 月 8 日に制定され、5 月 12 日に発効した補償法 Zákon o převzetí a náhradě za zabraný majetek pozemkový (zákon náhradový)(1920 年第 329 号法)は、9 部 84 条からなる。収受価格は、 第 41 条で、1913 年から 1915 年の間に自由に売却された 100ha 以上の農園の価格の平均値とさ れたが、実際には、様々な要因が考慮された。また、価格はオーストリア = ハンガリーの 1 ク ローネを 1 チェコスロヴァキア・コルナとして換算されたが、インフレを勘案すると、土地所有 者側に不利になる。また、奪取される土地面積が広ければ広いほど、収受価格は切り下げられて しまう(1,000ha 超のマイナス 5%から、最大で 5 万 ha 超のマイナス 40% まで)(第 42 条)。最 大に減額される対象となったのは、本稿最初にあげた 3 名の領地である。彼らの領地は、規模が 大きいため、土地改革に時間もかかった。一応の土地改革終了時の 1933 年に発行された『ボヘ ミア大土地所有統計総覧』xxiiによれば、フランツ・ヨーゼフ・リヒテンシュタイン所有のコス
テレツ・ナト・チェルニーミ・レシ Kostelec nad Čeernými Lesy の大農園 11,357.2093ha 中、61.1% の 6,942.2834ha の収用が継続していた。ヴァイクハルト Weikhard・コロレド=マンスフェルト所 有のドブジーシュ Dobříš の大農園では、24,037.8042ha 中 17.6% の 4,225ha の収用が継続してい た。ヨゼフ・コロレド=マンスフェルトのオポチノ Opočno の大農園では、10,014.34ha 中 6.5% の 655ha の収用が継続していた。イェロニーム Jeroným・コロレド=マンスフェルトのズビロフ Zbiroh の大農園では 23,755.98ha 中 13.6% の 655ha の収用が継続していた。カレル・シュヴァル ツェンベルクのセドレツ Sedlec の大農園の 3,045ha 中、48.1% の 1,463.5 ha の収用が継続していた。 ヤン及びアドルフ・シュヴァルツェンベルクxxiiiのロヴォシツェ Lovosice の大農園では、2,432.59ha
中 42.7% の 1,039.09ha の収用が継続した。 こうして、1935 年に国家土地局が解散し、土地改革は一応完了したことになっても、すべて の収用地について土地改革が完結したわけではなかった。外国君主となったリヒテンシュタイン を代表として、国際問題化していた事例もある。土地局解散後の、土地改革は農業省が行うこと になった。 1938 年初の状況で、収用地 4,021,617 ha (うち農地 1,283, 286 ha)中、分配されたのが 1,800,782 ha(44.8%) (農地 868, 601 ha(32.6%))、返却されたのが 1, 831, 920 ha(45.6%)(農地 418,858ha (48.2%))、収用が継続したのが、435,668ha(10.8%)(農地 25,262 ha (0.02%))であるxxiv。
土地改革の結果の農業経営単位(農園数)の増減を 1921 年と 1930 年で比較すると、1ha 未満 の農園は−9.6%、1 ∼ 5ha は−1.8%、5 ∼ 10ha は+13.2%、10 ∼ 20ha は+4.8%、20 ∼ 50ha は+6.4%、 50 ∼ 100ha は+1.1%、100ha 超は−2.2% となりxxv、中規模経営が増え、立法意図通り、社会的 平等化が進み、好ましい経営規模が実現した。しかし、第二次世界大戦後、再度の土地改革が行 われたこともあって、社会主義政権下のチェコスロヴァキアでは、第一次土地改革に対する評価 は低かった。逆に、チェコスロヴァキアの土地改革を最も民主的なものと評価する国外の研究が 存在したxxvi。 3.土地改革に対する同時代の批判 これまで、土地改革に関する批判としては、導入前の段階での批判が取り上げられることが多 かった。それに対して、ここでは、実際に導入されて、結果が出た後の批判について検討する。
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土地改革批判勢力として取り上げるのは、野党「国民統一 Národní sjednocení」xxviiである。
1935 年の国家土地局の閉鎖により、一応の終結をみた土地改革に関する批判を、「国民統一」は 直後に行われた 1935 年下院選挙の一つの争点とした。
当時の政治状況xxviiiと、「国民統一」という政党について確認する必要があるであろう。当時
の首相は農業者党のヤン・マリペトル Jan Malypetr で、「広い連立 široká koalice」と呼ばれる、共 産党を除く左派から右派までのチェコスロヴァキア系、ドイツ系の政党が参加した大連立が形成 されていた。1932 年 10 月 29 日から 34 年 2 月 14 日の第 1 次マリペトル内閣は、同じ農業者党 のフランチシェク・ウドルジャル František Udržal 首相の辞任を受けて成立した。内閣を構成し たのは、農業者党のべ 4 名(1 閣僚ポストをマリペトルが兼任)、社会民主党 3 名、国民社会党 2 名、 人民党 2 名、国民民主党 1 名、ドイツ系社会民主党(正式にはチェコ共和国ドイツ系社会民主労 働党 Deutsche sozialdemokratische Arbeiterpartei in der Tschechoslowakischen Republik)1 名、(ドイ ツ系)農民同盟(正式には農民・農村産業者同盟 Bund der Landwirte und des ländischen Gewerbes) 1 名、無所属 2 名である。 1934 年 2 月 14 日に内閣改造があり、第 2 次マリペトル内閣が発足した。第 1 次内閣に参加し ていた国民民主党が通貨政策をめぐり、連立を離脱したことによる変更である。第 1 次内閣中に マリペトルが兼任していた閣僚ポストが一つ廃止されたが、国民民主党分の閣僚ポストを農業者 党が補う形で、今度は実数で 4 名の農業者党閣僚が実現した。他党の勢力配分は変わらない。 さて、この国民民主党の動向が、「国民統一」の成立につながる。1934 年 10 月 27 日、国民 民主党と、急進的民族運動の国民連盟 Národní liga と国民戦線 Národní fronta が合併して成立し た。そして、1935 年の 5 月 19 日の国民議会選挙に向けて、政府与党批判を強めた。選挙運動 中の宣伝文書「如何に社会主義者が農民党の指導者と皆さんを分かち合ったか Jak se socialisté s agrárními předáky o Vás rozdělili」では、土地改革がやり玉にあがっている。選挙運動中の宣伝 文書ということで、スキャンダルを煽る傾向にはあるが、全く根拠のないものであるとは考えに くい。 基本的な論調は、社会民主党と農民党が土地改革を私物化し、私腹を肥やしたというものであ る。「国民統一」は、土地改革を、「外人 cizák のものになった財産を取り返す」という第一次世 界大戦直後に土地改革の実施が決定されたときのスローガンそのものと捉えているxxix。チェコ 人とスロヴァキア人が汗水たらして働いて生み出した富を、ドイツ人、ハンガリー人、ドイツ系 ユダヤ人がウィーンやブダペシュトで浪費していた状況を正し、チェコ人やスロヴァキア人に父 祖の土地を取り戻そうというのである。ここで、ドイツ系ユダヤ人が入っているのが、注目され る。かつてユダヤ人は土地を持つ権利を持たなかったが、ユダヤ人解放後は土地の購入が可能に なっている。しかし、ユダヤ人土地所有者の規模や数は大土地所有者として問題になるほどでは ない。それでも、ここにユダヤ人が上がっているところに、「国民統一」の反ユダヤ主義が伺える。 さて、この土地改革の目的自体については、「国民統一」は肯定的にとらえているのだが、実 施後の状況を激しく批判している。つまり、4,060,615ha の土地が土地改革の対象となったもの の、新所有者に譲渡されたのは 1,753,357ha にすぎず、ほとんど同じ規模の 1,625,194ha が元の所 有者に戻され、その結果平均 800ha の土地を持つ大土地所有が継続したというのである。そして、 この結果は、主として社会民主党と農民党によりもたらされ、国民社会党が無言の同意をしてい るという。こうして、「外人」領主は一人として追い出されることはなく、更に 1959 人の新農場 主の所有する平均 90ha の残存農園が生まれ、彼らが得たのは、収用された土地の 5 分の 1 以上
に当たる。そして、細かい分配では、平均 1.03ha の土地しか分配されていない。その結果、1 ∼ 5ha の農家は 1035 件、5 ∼ 10ha という適正規模の農場は 358 件しか生まれなかったとするxxx。
そして、民族的観点から、国境地域の森林地の国有化や、地方自治体所有化がなされ、ドイツ 系、ハンガリー系所有者の手を離れるべきだが、そうならなかった極端な例を示している。つまり、 トゥルノフ地方 Turnovsko のマラー・スカーラ Malá Skála にあるドイツ系のヴィルヘルム・メディ ンゲル Wilhelm Medingerxxxiの 1289.14ha の土地のうち、チェコ人の手に渡ったのは、わずか 3.36ha
だというxxxii。 次に「国民統一」は、国家土地局を農業者党と社会民主党が支配し、両党関係者が私腹を肥や しているという。2 代目の国家土地局総裁となったヤン・ヴォジェニーレク Jan Voženílek は、小 作人の息子であったが、大富豪になったとしている。1919 年に創設された国家土地局に入局し たヴォジェニーレクは、農業者党の党員であったために、異例のスピード出世をし、6 年後 36 歳で最年少の部長となり、38 歳で総裁となった。給与は 10 万コルナ、更に 3 万コルナの手当て がある。47 歳で退職してからは、蒸留酒製造業から年間 50 万コルナの収入のある有給休暇状態 になった。 社会民主党からやり玉を受けたのは、国家土地局副総裁ヨゼフ・マリー Josef Malý で、4 年間 しか勤めなかったのにもかかわらず、遺産を 65 万コルナまで増やした。彼の後を継いだのが、 同じ社会民主党員のヨゼフ・ノセク Josef Nosek で、1925 年末、年棒 9 万 5000 コルナの国家土地 局副総裁となった。同時に彼は、大所領従業員対策基金議長として年 5 回の会議に対して 8000 コルナの報酬を得ていた。元紡績工から社会民主党活動家となったノセクの前職は疾病保険会社 社長であった。国家公務員として働いたのは 10 年未満であるのにもかかわらず、前職の疾病保 険会社での勤続期間も算入され、勤続 35 年と換算され、年間 7 万 8000 コルナの年金を得た。保 険会社退職時、20 万コルナの退職金を得たのにもかかわらず、である。 更に 30 代後半から 40 代前半という若い年齢で土地改革関連の要職についた社会民主党員、農 業者党員の名が具体的に上げられ、批判されている。 また、大土地所有者が自分の財産の危機に際し、それを自由売買に付そうとするのは当然だと し、その時、仲介者や弁護士の利益が出たことも指摘している。この土地売買でも、社会民主党 や農業者党の関係者が利益を得、社会民主党の「ビーラー・ホラ」組合などが土地を安価に獲得 したxxxiii。特に、強調されているのは、以下の例である。
社会民主党のルドルフ・ベヒニェ Rudolf Bechyně 鉄道大臣の息子が、チェルニン Czernin 伯所 有のブロディ Brody の大農園から 200ha を超える土地を、最低でも 200 万コルナの価値があるの にもかかわらず、96 万 3000 コルナで手に入れ、更には購入資金と運転資金として購入価格の約 2 倍の借り入れができたと告発している。また、かつての農業者党の下院議員で農業銀行総裁で もあるヤン・ドヴォジャーク Jan Dvořák は、ポヂェブラディ地方の土地改革遂行に際して、自 分の 23ha の農場を提供し、代わりに 44ha の残存農場を得、面積の広がった部分は借地扱いで あったのにも関わらず、地代を全く払わなかったxxxiv。そして、最終的には差分の 21ha をわずか 6000 コルナで購入した。1934 年、農業党副総裁ルドルフ・ベラン Rudolf Beran の従兄は、グラーフェ ンシュタイン Grafenstein 残存大農園 481.76ha を 192 万コルナで買い、722 万 5590 コルナで売り、 莫大な利益を得た。 このような土地改革に際しての、農業者党、社会民主党という与党が私利私腹を肥やす状況に 反対する有権者は政党番号 16 番の「国民統一」に投票せよ、と宣伝文書はまとめている。
東北大学大学院 国際文化研究科論集 第二十四号 さて、この下院の選挙結果はどうなったであろうか。得票率順と議席配分は以下の通りであ るxxxv。 ズデーテン・ドイツ党 Sudetendeutsche Partei 15.18% 44 議席 農業者党 14.29% 45 議席 社会民主党 12.55% 38 議席
共産党(正式にはチェコスロヴァキア共産党 Komunistická strana Československa) 10.32% 30 議席 国民社会党 9.18% 28 議席 人民党 7.48% 22 議席 自治ブロック Autonomistický blok 6.86% 22 議席 国民統一 5.57% 17 議席 商工中産党(正式にはチェコスロヴァキア商工中産党 Československá živnostensko-obchodnická strana středostavovská) 5.44% 17 議席
ドイツ系社会民主党 3.64% 11 議席 領邦キリスト教社会党 Országos Keresztényiszocialista Pártxxxvi
3.55% 9 議席 国民ファシスト連盟 Národní obec fašistická 2.04% 6 議席 ドイツ系キリスト教社会人民党 1.98% 6 議席 農民同盟 1.73% 5 議席 1929 年の前回選挙では、国民民主党を中心とする選挙連合が、4.9% の得票率で 15 議席を獲得 していた。国民民主党は、野党化し、国民連盟、国民戦線と合併することで党勢拡大を図ったわ けだが、その効果は余りなかったと言えよう。選挙前の政権体制を崩せなかったという点で、「国 民統一」の選挙は失敗だったとみなされるのであろう。選挙後の第 3 次マリペトル内閣の政党構 成は、商工中産党から新たに 1名が入閣している以外は、第2次内閣と変わらなかった。「国民統一」 は 1937 年 7 月の第 3 次ミラン・ホヂャ内閣(農業者党)で入閣するまで、野党の立場を続けた。 4.おわりに 以上のように、土地改革により、農業者党、社会民主党関係者が私利を得たというのは、「国 民統一」による選挙運動上のネガティブ・キャンペーンのように見えるが、実際はどうであった のだろうか。 政党への帰属は不明だが、国家土地局部長夫妻が、カレル・シュヴァルツェンベルク所有のオ ルリーク Orlík 大農園の土地を自由売買の形式で購入した記録が残っているxxxvii。前章で「国民 統一」が糾弾していた事例は、国家土地局幹部の蓄財や、政党関係者の土地売買に関するもので あったが、国家土地局の幹部自身が、土地改革対象の土地の自由売買を行った事例は、今日的感 覚からいえば、更に許されないことである。但し、その際の価格の 1 例は農地 1㎡あたり 1 コル ナ、つまり 1ha あたりに換算すると 1 万コルナであった。前章の事例の破格値が目立つ。もちろ ん、本当にその価格で取引されたかを確認する必要はあるが。 「国民統一」の選挙結果を見ると、同党の土地改革批判は、得票につながっていない。土地改 革をめぐるスキャンダルは、有権者の投票行動には影響しなかったのであろう。しかし、選挙の 宣伝文書に書かれた事項があながち事実無根だともいえない。
チェコスロヴァキアの土地改革の実態を評価する場合、このような従来注目されていなかった 負の側面も検討する必要があるのではないだろうか。また、それにより当時のチェコスロヴァキ アの政治状況の公平さ、公共事業の公平さや、社会の政治感覚の実態も明らかになり、市民社会 の成熟度などの再評価も可能になり、土地改革研究が戦間期チェコスロヴァキア研究にますます 貢献することができると考える。 注 i 本稿は科学研究費基盤研究(C)の成果の一部である。 ii 拙稿「第一次世界大戦後チェコスロヴァキアにおける土地改革―収用法の検討―」『福岡教育大学紀要』第 47 号第 2 分冊、1998 年、29-34 ページ 同「第一次チェコスロヴァキア土地改革における民族主義的性格―ボヘミアにおける収容の継続をてがか りに―」『国際文化研究科論集』第 17 号、2009 年、75-89 ページ。 同「日本から見た戦間期チェコスロヴァキア土地改革」『国際文化研究科論集』第 19 号、2011 年、127-133 ページ。 同「第一次チェコスロヴァキア土地改革における準拠法」『国際文化研究科論集』第 22 号、2014 年、59-69 ページ。(当論文も科学研究費基盤研究(C)の成果の一部である。) などを参照。
iii Slezák, Lubomír, „Specifické rysy státního intervencionismu v zemědělství(農業における国家介入主義の特殊性), in: Lacina, Vrastislav a Slezák, Lubomír, Státní hospodářská politika v ekonomickém vývoji v první ČSR(チェコスロヴァ キア第一共和国の経済発展における国家経済政策), Praha, 1994, str. 88.
iv チェコスロヴァキア国外の同時代の研究として、Textor, Lucy Elisabeth, Land Reform in Czechoslovakia, London, 1923. 日本でも、田邉勝正『戦後欧州に於ける土地制度改革史論』協調会、1935 年の 1 章がチェコスロヴァ キアの土地改革に充てられている。
v Worliczek, Camillo, Die tschechoslowakische Bodenreform, Sonderdruck aus Zeitschrift für die gesamte Staatswissenschaft, 80. Jg, 1925/26, H. 3. など。
vi Otáhal, Milan, Zápas o pozemkové reformu v ČSR(チェコスロヴァキア共和国における土地改革をめぐる闘争), Praha, 1963.
Lacina, Vrastislav, Formování československé ekonomiky 1918-1923(チェコスロヴァキア経済の形成), Praha, 1990. など。
vii Slezák, loc.cit.
Zeman, Karel, Vývoj vlastnictví k půdě a související procesů na území ČR od roku 1918 do současné doby (1918 年か ら現在に至るチェコ共和国領内における土地所有及び関連経過の展開), Praha, 2014. など。
viii Křivanec, Jan, První pozemková reforma a její aplikace(第一次土地改革とその適用), Diplomová práce, Brno, Masarykova Univerzita, 2013/2014. など。
ix Hoznauerová, Libuše, Historie Zásmuk(ザースムキ史), Zásmuky, 2009. など。 x Slezák, op.cit., str. 106.
xi Národní archiv(国民文書館), fond Státní pozemkový úřad(国家土地局文書), sign. 25, B/III, Slezák, loc.cit., str.89.
xii Olšovský, R. et al., Přehled hospodářského vývoje Československa v letech 1918-1945(1918-1945 年のチェコスロ ヴァキア経済発展概説), Praha, 1961, str.52-53. xiii シュヴァルツェンベルク家は、ドイツ・フランケン地方を発祥とし、15 世紀のフス戦争に神聖ローマ皇帝 側(反宗教改革側)で参加したことにより、皇帝ジギスムントからボヘミアに領地を得た。その後も対トルコ 戦争への貢献などにより、身分を高め、領地を得、自らも領地を購入した。 xiv 1806 年、神聖ローマ帝国崩壊により独立したリヒテンシュタイン侯国の君主であるリヒテンシュタイン家 は、シュタイアーマルクと下オーストリアの境界地域を発祥の地とする。チェコ領内の所領は、13 世紀から獲
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得し始め、第一次世界大戦前には、リヒテンシュタイン侯国の面積の 6 倍以上に当たっていた。 xv コロレド=マンスフェルト家は、イタリアに起源を持ち、三十年戦争の結果、チェコに領地を得た。 xvi Průcha, Václav et al., Hospodářské dějiny Československa v 19. a 20. století(19、20 世紀のチェコスロヴァキア
経済史), Praha, 1974, str.80. xvii 姓がチェコ系かドイツ系かでは、本人の民族的アイデンティティを判断できないのは、貴族以外の市民と 同様である。但し、他者からの民族的レッテル貼りには今日に至るまで一定の影響があり得た。 xviii Sbírka zákonů a nařízení státu československého (チェコスロヴァキア国法令全書), 37/1918, 第 1 条 http://ftp. aspi.cz/opispdf/1918/006-1918.pdf(2016 年 12 月 1 日最終閲覧) xix 名称からナチ党の同類と誤解されやすいが、国家社会主義を標榜する政党ではなく、文字通り民族的な社 会主義を目指す、19 世紀末に結党した中道政党。 xx 中田瑞穂『農民と労働者の民主主義。チェコスロヴァキア政治史』名古屋大学出版会、2012 年、39 ページ。 xxi 以下の法律条文は、http://spcp.prf.cuni.cz/lex/z2.htm(2016 年 12 月 1 日最終閲覧)を参照。
xxii Lustig, Rudolf, Schematismus velkostatků v Čechách, Praha, 1933.
xxiii アドルフ・ヨゼフの継承者。シュヴァルツェンベルク家には、家系の断絶を避けるため、第 1 系(フルボカー = クルムロフ系、第 2 系(オルリーク系)の二つの家系があり、ヤンとアドルフは第 1 系、カレルは第 2 系。 xxiv Slezák, Lubomír, „Pozemková reforma v Československu 1919-1935(チェコスロヴァキア土地改革 1919-1935
年)“, in: Československá pozemková reforma 1919-1935 a její mezinárodní souvislostí(チェコスロヴァキア土地改革 1919-1935 年とその国際的関連). Sborník z příspěvků z mezinárodní vědecké konference konané ve dnech 21. a 22. dubna
1994, Uherské Hradiště, 1994, str.4. xxv Slezák, „Specifické rysy“, str.133. xxvi Slezák, „Pozemková reforma“, str.9.
xxvii Fic, Vladimír, Národní sjednocení v politickém systému Československa (1930-1938)(チェコスロヴァキア政治シ ステム中の国民統一), Praha, 1983.
xxviii 以下、この時期のチェコスロヴァキアの政治状況については、中田を参照。 xxix 以下、Kut, Karel, Jak se socialisté s agrárními předáky o Vás rozdělili, str.1.
xxx 前章での経営規模の変化は、実数ではなく、変化割合であるので、両者の根拠に違いがあるのかは検討の 余地がある。
xxxi ウィーン生まれの大土地所有者、政治家。第一次世界大戦の講和条約締結後、財産管理の観点からチェ コスロヴァキア国籍取得。1920-25 年、チェコスロヴァキア下院議員(1923 年まではドイツ系民族党 Deutsche Nationalpartei としての議席、チェコスロヴァキア政府に協力的な立場から議員クラブを離脱)。1925-32 年、チェ コスロヴァキア上院議員(ドイツ系キリスト教社会人民党 Deutsche Christlichsoziale Volkspartei としての議席。 1932 年、選挙時にチェコスロヴァキア国籍取得から 10 年未満という理由で選挙裁判所から議席剥奪)。 xxxii 以下、Kut, op. cit., str.2.
xxxiii 以下、Ibid., str.3. xxxiv 以下、Ibid., str.4.
xxxv 「国民統一」も含めて、政党連合で選挙に参加している例もあるが、煩瑣なためそのうち代表的政党名だけ をあげる。中田、333 ページ参照。
xxxvi ハンガリー系。
xxxvii Státní oblastní archív (国立地方文書館)Třeboň, fond: Právní zástupci Orlických Schwarzenbergů 1882-1947(オ ルリーク系シュヴァルツェンベルク家司法代理人文書), inv.č.121, sign.II-10.