• 検索結果がありません。

穆時英「片腕を切断された男」論 ─ 反復される切断の表象に着目して ─

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "穆時英「片腕を切断された男」論 ─ 反復される切断の表象に着目して ─"

Copied!
21
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

穆時英「片腕を切断された男」論 ─ 反復される切

断の表象に着目して ─

著者

福長 悠

雑誌名

集刊東洋学

116

ページ

70-89

発行年

2017-01-25

URL

http://hdl.handle.net/10097/00129926

(2)

70

穆時英﹁片腕を切断された男﹂論

反復される切断の表象に着目して

   

はじめに 一九二〇年代後半から三〇年代半ばにかけて、上海文壇 を賑わせた文芸グループの一つに﹁中国新感覚派﹂あるい は﹁中国モダニズム文学﹂と呼ばれる集団がある。施蟄存 ︵ 一 九 〇 五 │ 二 〇 〇 三 ︶、 戴 望 舒︵ 一 九 〇 五 │ 一 九 五 〇 ︶、 劉吶鴎 ︵一九〇五│一九四〇︶ らを中心とするこの一団は、 雑誌﹃無軌列車﹄および﹃新文藝﹄を刊行し、モダニズム 文学や日本の新感覚派を翻訳し、紹介する一方で、ソ連の 文芸理論を翻訳した﹁科学的藝術論叢書﹂を刊行するなど 左翼文芸の紹介にも努め た ︶1 ︵ 。彼らは自らの集団にいかなる 名 称 も 付 け な か っ た が、 現 在 で は﹁ 中 国 新 感 覚 派 ﹂﹁ 中 国 モダニズム文学﹂などの呼称で呼ばれてい る ︶2 ︵ 。 本 論 文 で 扱 う 作 家、 穆 時 英︵ 一 九 一 二 │一 九 四 〇 ︶ は、 中国新感覚派の作家たちが刊行していた雑誌﹃新文藝﹄に ﹁ 咱 們 的 世 界 ﹂︵ 俺 た ち の 世 界 ︶︵ 第 一 巻 第 六 号、 一 九 三 〇 年二月︶を発表して文壇に登場した。穆時英の初期の作風 は、社会の下層に生きる人々を主人公に、一人称の語りに よって、 彼らの感情や思想を語るものであった。たとえば、 この時期の代表作である﹁南北極﹂ ︵﹃小説月報﹄第二二巻 第一号、商務印書館、一九三一年一月︶は、山村出身の青 年が田舎を飛び出し、上海で人力車夫や金持ちの用心棒を しながら貧富の格差を目の当たりにする物語である。これ ら の 小 説 に よ り、 穆 時 英 は 一 躍 左 翼 文 壇 の 注 目 を 集 め た ︶3 ︵ 。 一九三二年一月、穆時英は下層民を主人公とした五篇の短 編 小 説 を ま と め て﹃ 南 北 極 ︶4 ︵ ﹄ を 刊 行 す る。 本 稿 で は、 ﹁ 初 期の作風﹂とする。 一方で、穆時英はその時すでに劉吶鴎ら中国新感覚派の 影響を受け、異なる作風に歩みを進めていた。以降穆時英 が一九四〇年に落命するまでの時期の作風を本稿では﹁新 集刊東洋学 第一一六号 平成二十九年一月 七〇 −八九頁

(3)

71 穆時英「片腕を切断された男」論(福長) 感覚派的な作風﹂とする。穆時英が一九三一年一〇月に発 表した﹁被當作消遣品的男子﹂ ︵もてあそばれた男︶ ︵良友 圖書印刷公司、一九三一年一〇月︶は、モダンな都市文化 を背景に大学生の恋愛を描いた作品である。この作品では 作中人物が、好きな作家として日本の新感覚派の作家横光 利一︵一八九八│一九四七︶や日本の新感覚派に影響を与 え た フ ラ ン ス の 作 家 ポ ー ル・ モ ー ラ ン︵ 一 八 八 八 │ 一九七六︶の名前を挙げており、新感覚派への関心がうか がえ る ︶5 ︵ 。 一 九 三 二 年 五 月 に 総 合 文 芸 誌﹃ 現 代 ﹄ が 創 刊 さ れ る と、 穆時英は﹁上海的狐歩舞︵一個斷片︶ ﹂︵上海のフォックス ト ロ ッ ト︵ あ る 断 片 ︶︶ ︵﹃ 現 代 ﹄ 第 二 巻 第 一 期、 一 九 三 二 年一一月︶ 、﹁夜總會裏的五個人﹂ ︵ナイトクラブの五人︶ ︵﹃現 代﹄第二巻第四期、一九三三年二月︶などの代表作を発表 する。新感覚派的な作風の特徴は、モダン都市上海で歓楽 に耽る人々を、華美な文体で描写したことにある。これら の作品は、 短編小説集 ﹃公墓﹄ および ﹃白金的女體塑像﹄ ﹃聖 處女的感情﹄に収録され た ︶6 ︵ 。こうした作風の変化は、左翼 文壇からの強い非難を招い た ︶7 ︵ 。 初期の作風から新感覚派的な作風への変化は、以降の研 究でもたびたび言及される。一九八〇年代には流派研究の 観点から﹁新感覚派﹂の再評価が進められる が ︶8 ︵ 、穆時英の 再 評 価 に 取 り 組 ん だ 厳 家 炎 氏 は、 ﹁﹃ 南 北 極 ﹄ の 作 品 に は、 新感覚派の雰囲気は全くない。穆時英の小説が新感覚派の 特徴を具えるのは、一九三一年か一九三二年に始まること で あ る ︶9 ︵ ﹂﹁ ﹃ 公 墓 ﹄ の 小 説 は、 ﹃ 南 北 極 ﹄ の 全 て よ り お よ そ 二 年 遅 く 書 か れ た ︶10 ︵ ﹂ と す る。 厳 家 炎 氏 の 論 は、 ﹁ 被 當 作 消 遣品的男子﹂等の﹃公墓﹄所収の作品が全て新感覚派に属 することを前提としている。 これに対し、李征氏は﹃公墓﹄所収の作品にも﹁プロレ タリア文学の手法﹂を用いた作品﹁蓮華 落 ︶11 ︵ ﹂があることを 指摘し、短編小説集﹃南北極﹄および﹃公墓﹄所収の作品 を﹁ 写 実 的 な 作 風 ﹂ と﹁ 新 感 覚 派 的 な 作 風 ﹂ に 分 類 す る ︶12 ︵ 。 李 征 氏 は 一 九 三 一 年 一 〇 月 発 表 の﹁ 被 當 作 消 遣 品 的 男 子 ﹂ が新感覚派的な作風の始まりであり、その後も二つの作風 を﹁ある程度並行して書くような場合があっ た ︶13 ︵ ﹂と結論付 ける。 筆 者 も 基 本 的 に 李 征 氏 の 見 解 に 賛 成 す る。 穆 時 英 は 一九三一年に新感覚派の影響を受けたのちも、個別の作品 では下層の人々を主人公にするなど、初期の作風を残すも のが散見される。それゆえに、個別のテクストにはより詳 しい分析が可能であると考える。 本論文では、穆時英が一九三二年八月に発表した﹁斷了 條 胳 膊的人﹂ ︵片腕を切断された男︶に着目する。とくに、

(4)

72 主人公の心理を描写する場面の反復および、作中における 事故の場面の反復に着目する。本作品の主人公は初期と同 じく下層の労働者であるが、初期の特徴であった一人称の 語りは用いられていない。穆時英はすでに﹁被當作消遣品 的 男 子 ﹂﹁ 公 墓 ﹂ な ど の 新 感 覚 派 的 な 作 風 の 作 品 を 発 表 し ている。本作品は主人公の心理を大量に織り交ぜている点 で、むしろ新感覚派に近い作風であるとすらいえる。本論 では最後に、日本のプロレタリア作家葉山嘉樹の作品との 影響関係を論じる。穆時英の個別の作品において、複数の 文芸思潮からの影響が交錯していることは、先行研究では ほとんど指摘されていない。本論が中国モダニズムのもつ 複合性を明らかにする一助となれば幸いである。 一   ﹁片腕を切断された男﹂の概要と問題の所在 ﹁ 斷 了 條 胳 膊 的 人 ﹂︵ 片 腕 を 切 断 さ れ た 男 ︶ は、 ﹃ 現 代 ﹄ 第一巻第四期︵一九三二年八月︶に掲載され、のちに﹃南 北極﹄改訂版に収録され た ︶14 ︵ 。 作品は五節からなる。梗概は以下のとおりである。 ︻第一節︼ 主人公 ﹁他﹂ ︵彼︶ が帰宅する場面から始まる。 主人公は煉瓦工場の労働者である。胡同の家で、妻の﹁翠 娟﹂と息子と過ごす幸せな日常が書かれる。 ︻第二節︼翌日、 ﹁彼﹂は煉瓦工場で機械を操作しながら、 機械に腕を切断されるさまを想像し、妻にも不安を口にす る よ う に な る。 六 月 の あ る 暑 い 日、 ﹁ 彼 ﹂ は 工 場 で 機 械 に 片腕を巻き込まれ、 右腕を肘から切断された。病院で﹁彼﹂ は、片腕に子供を抱いて通りから通りへ歩き回るさまを思 い浮かべた。 ︻第三節︼ ﹁彼﹂は傷が完治すると工場に復職を願い出る が、 工 場 長 は 復 職 を み と め な か っ た。 家 に 帰 る と、 ﹁ 彼 ﹂ は妻と口論になり、翌朝妻は家出してしまう。子供は母親 を恋しがり、 ﹁彼﹂があやしても泣き止まなかった。 ︻第四節︼子供は病気になった。 ﹁彼﹂は片腕に子供を抱 い て 通 り か ら 通 り へ 歩 き 回 る 自 分 を 見 た。 ﹁ 彼 ﹂ が 妻 を 訪 ねに行っても、面会を拒まれてしまい、その夜、子供は病 気で死んでしまう。彼は子供を抱えて出てゆき、真夜中に 泥酔して帰ってくる。 ︻第五節︼ ﹁彼﹂は日々酒におぼれ、 部屋は荒れていった。 ある日、 ﹁彼﹂の夢に妻があらわれる。 ﹁彼﹂は工場長への 怨みを思い出し、 刃物を携えて工場に行った。 工場では ﹁彼﹂ の代わりに雇われた若者が、機械に足を切断されて倒れて い た。 ﹁ 彼 ﹂ は 工 場 を 去 り、 ﹁ 回 去 洗 個 臉 把 屋 子 打 掃 一 下 ﹂ ︵ 帰 っ た ら 顔 を 洗 っ て 部 屋 を 掃 除 し よ う ︶ と 生 き る 決 意 を 固めた。

(5)

73 穆時英「片腕を切断された男」論(福長) 本 作 品 に 関 す る 専 論 は 管 見 の 限 り 見 当 た ら な い が、 ﹁ 南 北極﹂と同じく下層の民衆を扱った作品に位置づける先行 研究が多い。李征氏も本作品を﹁写実的な作風﹂に数える が、詳細な指摘は行わな い ︶15 ︵ 。 また、 許道明氏は作品のモダニズム的な特徴を指摘する。 許 氏 は 作 品 が 独 白 形 式 を 採 用 し て い る 点 に 着 目 し、 ﹁ 作 者 は技法の選択において以前よりも上達をみせ、独白を大量 に取り入れ、またそれらとプロットの語りを一体化させた ことには、 どちらも相当に 現 モ ダ ニズム 代 的な雰囲気がある。 ︵中略︶ 作者の新たな作風が形成されることを予告してい る ︶16 ︵ ﹂と述 べる。ただし、許氏も作品の具体的な分析には着手してい ない。また、本作品における心理描写が﹁独白﹂に留まる か否かは、一考の余地がある。 本論文では、作品における反復表現に着目する。本作品 では、主人公の心理や都市の景観を描写する場面で、多数 の反復表現が用いられてい る ︶17 ︵ 。以下、本論第二節では主人 公の心理を表す反復表現を検討し、第三節では労働者が機 械に手足を切断されるという出来事の反復について検討す る。結語では第二節および第三節の検討を受けて、本作品 が形式の面における異 化 ︶18 ︵ をめざし、モダニズム文学とプロ レタリア文学の相互的な影響関係の上に成立したことを明 らかにする。 二   反復による心的現実の表現 本節では、 ﹁斷了條 胳 膊的人﹂における反復表現のうち、 主人公﹁彼﹂の心的現実を示す場面について検討する。心 的現実とは、人が心の中でもつ現実であり、客観的現実と は必ずしも一致しない。本作品においては、夢や空想など の心的現実が反復して書かれ、主人公の不安や憔悴を伝え る。 まずは心的現実が比較的まとまった形で反復される場面 として、主人公が子供を抱いて乞食に行く空想をする三つ の場面を取り上げる。 第二節で主人公は、煉瓦工場で機械を操作しながら、多 くの人が機械に手足を切断されたことを思い出し、自分も また腕を巻き込まれるのではないかと不安を抱く。 ある日、 主人公は妻の翠娟に、もし事故に遭ったら﹁我抱了孩子要 飯去﹂ ︵僕は子供を抱いて乞食に行こう︶ と言う。夜中、 ﹁彼﹂ は 子 供 を 抱 え て 通 り か ら 通 り へ 歩 き 回 る さ ま を 想 像 す る。 ︻引用一︼ の傍線は、 本作品のなかで反復される部分である。 ︻引用一︼第二節・五四七ページ   晚 上 他 睡 不 着。 他 瞧 見 自 家 兒 撐 着 拐 杖, 抱 着 孩 子, 從這條街拐到那條街。   孩 子 哭 了。 翠 娟 含 含 糊 糊 的 哼 着, ﹃ 寶 貝 睡 啦 寶 貝 睡

(6)

74 ⋮⋮媽媽疼寶貝│﹄輕輕兒的拍着他 ; 不一回兒娘兒倆 都沒聲了。   他 瞧 見自家兒 撐 着拐杖,抱着孩子,從這條街拐到那 條街。 他聽見 孩子哭 ,他 瞧 見孩子死在他懷裏。他 瞧 見 自家兒坐在街上,捧着腦袋 揪 頭髮,拐杖靠在牆上。   猛的, 他醒了回來。天亮。他笑自家兒 ﹃怯什麼呀?﹄   夜 彼 は 寝 つ け な い。 自 分 が 杖 を つ き、 子 供 を 抱 き、 この通りからあの通りへ足を引きずってゆくのを彼は 見る。   子供が泣いた 。翠娟はおぼろげな声で﹁坊やお眠り 坊やお眠り⋮⋮ママは坊やがだいすき││﹂と口ずさ んで、軽く彼を叩いている。しばらくして母も子も静 かになった。   自分が杖をつき、子供を抱き、この通りからあの通 りへ足を引きずってゆくのを彼は見る。子供が泣くの を 彼は聞く。子供が彼の腕の中で息を引き取るのを彼 は見る。自分が路上に座り、頭を抱え髪を引きむしっ て、杖は壁に立てかけられているのを彼は見る。   ふと、彼は目覚めた。空が明るい。彼は自分を笑っ た。 ﹁何を怯えてるんだ。 ﹂ ︻引用一︼では、 ﹁他 瞧 見自家兒 撐 着拐杖,抱着孩子,從 這條街拐到那條街﹂という表現が、二度繰り返される。ど ちらも、主人公が眠る前につぶやいた﹁要飯去﹂という言 葉が、夢あるいは空想として表れていると思われる。主人 公が見る︵ ﹁ 瞧 見﹂ ︶内容が、客観的現実ではないことは明 らかである。 同 様 の 表 現 は、 ﹁ 彼 ﹂ が 工 場 で 片 腕 を 切 断 さ れ た の ち に も用いられる。 ﹁彼﹂は妻と今後の生活について相談する。 妻は自分が働きに出ようと申し出る。傍線は︻引用一︼と の共通部分を示す。 ︻引用二︼第二節・五五〇ページ   ﹃ 要 不 然, 怎 麼 着 呢 ? 咱 們 又 不 能 一 輩 子 靠 別 人, 大 伯伯和姑丈也不是有錢的, 咱 們不能牽累他們。 ﹄   ﹃真的 嗎 ?﹄   ﹃你等着 瞧 。﹄   他笑了笑,搖了搖頭, 瞧 見自家兒 用一條 胳 膊 抱着孩 子從這條街 跑 到那條街 。   ﹁ そ う で な け れ ば、 ど う し た ら い い の。 私 た ち は 一 生人に頼るなんて無理なのよ、おじさんやおばさんの 旦那さんだってお金持ちじゃないわ。あの人たちの厄 介にはなれないの。 ﹂   ﹁本当か?﹂   ﹁見てなさい。 ﹂   彼は笑い、首を振り、 自分が 片腕で 子供を抱きこの

(7)

75 穆時英「片腕を切断された男」論(福長) 通りからあの通りへ 駆けていくのを 見た 。   この場面においては、 ﹁ 撐 着拐杖﹂が﹁用一條 胳 膊﹂に、 ﹁拐到﹂ が ﹁ 跑 到﹂ に置き換わっている他は、 ほぼ ︻引用一︼ の表現を踏襲している。以上の引用で主人公が﹁ 瞧 見﹂す る内容は、彼の想像である。しかし、次の︻引用三︼は異 なる。主人公はすでに機械に片腕を切断され、家出した妻 の帰りを待っている。傍線は︻引用一︼との共通部分を示 す。 ︻引用三︼第三節・五五六ページ   孩子不肯吃飯, 一天輕似一天。錢一天天的少了下去。 過了一禮拜,翠娟還沒回來。 他 瞧 見自家兒抱着 病了的 孩子 , 從這條街 跑 到那條街 。   子 供 は 飯 を 食 べ よ う と せ ず、 日 一 日 と 軽 く な っ た。 金は日一日と少なくなっていった。 一週間が過ぎても、 翠娟はまだ帰ってこない。 自分が 病める 子供を抱いて、 この通りからあの通りへ 駆けていくのを 彼は見た 。   この場面でも、反復される部分は知覚動詞﹁ 瞧 見﹂に続 く節である。 ﹁ 瞧 見﹂ する内容は、 夢だろうか現実だろうか。 子供が ﹁飯﹂ を食べず、 ﹁錢﹂ が日ごとに少なくなる状況で、 ﹁彼﹂は自分が子供を抱いて通りを歩き回るさまを﹁ 瞧 見﹂ する。この場面で、主人公が乞食に行くことには不自然さ がない。しかし、主人公の脳裏に浮かぶ空想である可能性 も否定できない。 以 上 三 か 所 の 引 用 で、 ﹁ 瞧 見 ﹂ に 続 く 節 は 客 観 的 現 実 で あるか否かを問わず、主人公の脳裏に去来する心的現実で ある。 ﹁ 瞧 見﹂する内容が客観的現実に即しているか否か、 表現から判別することはできない。むしろ、この小説にお い て﹁ 瞧 ﹂ と い う 語 は、 本 来 の﹁ 見 る ﹂﹁ 見 込 む ﹂ と い う 意 味 ︶19 ︵ から派生して、主人公が心の中でもつ心的現実を示す 機能があると思われる。 同 様 に、 主 人 公 が 片 腕 を 切 断 さ れ る 場 面 も、 ﹁ 瞧 見 ﹂ の 従属節である。まずは、主人公が実際に腕を切断される前 に、機械を操作しながら思い浮かべる空想を引用する。 ︻引用四︼第二節・五四六ページ   進了機器間他不敢再想了。他留神着那大輪子,他 瞧 見過許多人給 牠 的牙齒咬斷了腿,咬斷了 胳 膊,咬斷了 脖子的。他不能叫 牠 沾到他的身子。要是他給 牠 咬斷了 什麼的話!他不會忘記他有一個孩子和一個媳婦。可是 真的他斷了一條 胳 膊 呢 ?大輪子隆隆地鬧着,雪亮的牙 齒 露 着, 望 着 他, 他 瞧 見 牠 喀 的 一 聲 兒, 他 倒 了 下 去, 血直冒, 胳 膊掉在一邊⋮⋮他喘了口氣,不能往下想。   機械室に入ると彼は考え事などしていられなくなっ た。彼はあの巨大な歯車に気を付けていた、多くの人 がそいつの歯に足を噛み切られ、腕を噛み切られ、首

(8)

76 を噛み切られたのを彼は見たことがある。彼はそいつ に体を触れさせるわけにはいかない。もし彼があいつ に何かを噛み切られたとしたら!   忘れられるはずが ない、彼には子供が一人、妻が一人いるのだ。しかし 本当に彼が片腕を切断されたなら?巨大な歯車はゴロ ゴロと騒いでいる、真っ白な歯も露わに、彼を見てい る。そいつがカッと音を立て、彼は倒れ、血がドクド ク吹き出し、腕が横に転がっているのを彼は見る⋮⋮ 彼ははっと息をついた、それ以上考えられない。 事 故 の 場 面 は、 ﹁ 瞧 見 ﹂ に 続 く﹁ 牠 喀 的 一 聲 兒, 他 倒 了 下去,血直冒, 胳 膊掉在一邊﹂である。その場面が空想で あることは、直後の﹁他喘了口氣,不能往下想﹂という文 から明らかである。 この不気味な場面を見てしまった主人公は、機械に片腕 を切断されるのではないかという不安に駆られる。妻に向 かって、 ﹁要是我給機器軋壞,不能養家了,那你怎麼辦?﹂ ︵ も し 僕 が 機 械 に 押 し つ ぶ さ れ て 怪 我 を し て、 お ま え た ち を養えなくなったら、 おまえはどうする?   五四六ページ︶ と相談する。その晩、主人公が子供を連れて路頭に迷う夢 に 苦 し め ら れ る の は、 ︻ 引 用 一 ︼ に 示 し た 通 り で あ る。 主 人 公 の 見 る 夢 は 彼 に ま と わ り つ い て 離 れ な い 不 安 を 表 す。 彼は不安を押し殺して働き続けるが、ある日不安は現実に なり、機械に片腕を巻き込まれてしまう。その場面を以下 に引用する。 ︻引用五︼第二節・五四七ページ   是六月,悶熱得利害, 晚 上沒好好的睡,叫蚊子咬很 了,有點兒頭昏腦漲的。他 瞧 着大輪子一動,那雪亮亮 的鋼刀, 喀的 砍 下來, 一下子就把那挺厚的磚切成兩半。 皮帶隆隆的在半空中轉,要轉出火來似的。他 瞧 見一個 金蒼蠅,儘在眼前飛。拿袖子抹了抹汗。他聽見許多許 多的蒼蠅在他腦袋裏邊直鬧。眼前一陣花,身子往前一 衝 ︶20 ︵ , 瞧 見那把刀直 砍 下來,他叫了一聲兒,倒 啦 。   迷 迷 忽 忽 的 想。 ﹃ 我 抱 了 孩 子 要 飯 去。 ﹄ 便 醒 了 回 來。 有人哭 , 那是翠娟 , 紅腫着眼皮兒望他。他笑了一笑。   六 月 の こ と で、 ひ ど く 蒸 し 暑 く、 夜 中 よ く 眠 れ ず、 ひどく蚊に噛まれてしまい、いくぶん頭がクラクラぼ うっとする。巨大な歯車が動くと、あの真っ白な鋼の 刀が、カッと振り落され、瞬く間にあのぶ厚い煉瓦を 二つに切るのを彼は見ていた。ベルトはゴロゴロと空 中で回り、火でも飛び出してきそうだ。一匹の金蠅が 目の前でずっと飛びつづけるのを彼は見た。袖で汗を 拭った。沢山沢山の蠅が彼の頭の中で騒ぎ散らすのを 彼は聞いた。目の前がふと眩み、体が前へのめり、あ の 刃 が 真 直 ぐ に 斬 り つ け る の を 見 て、 彼 は 一 声 叫 び、

(9)

77 穆時英「片腕を切断された男」論(福長) 倒れた。   ぼ ん や り と 考 え る。 ﹁ 僕 は 子 供 を 抱 い て 乞 食 に 行 こ う。 ﹂そして目が覚めた。 誰か泣いている、 翠娟だ。 真っ 赤に目を腫らして彼を見ている。彼は少し笑った。   この一連の文章は、どこまでが客観的現実と断定できる だろうか。 ﹁彼﹂は夏の熱いさなか︵ ﹁悶熱﹂ ︶、不眠に悩ま さ れ て い る︵ ﹁ 沒 好 好 的 睡 ﹂︶ 。 機 械 を 操 作 し て い る 彼 の 精 神状態が正常でないことが暗示されている。事故のきっか けを作るのは、 一匹の蝿である。 ﹁一個金蒼蠅, 儘在眼前飛﹂ は、客観的現実の描写であるかもしれない。しかし、続く ﹁ 許 多 許 多 的 蒼 蠅 在 他 腦 袋 裏 邊 直 鬧 ﹂ は、 客 観 的 現 実 で は な い。 不 眠 の た め に﹁ 彼 ﹂ が 聞 い た 幻 聴 で あ ろ う。 ﹁ 彼 ﹂ は 疲 労 と 不 眠 に よ り 現 実 と 非 現 実 の 境 界 を 見 失 っ て い る。 一匹の蝿は、彼の意識を乱し、目を眩ませる。 ここでも、 ﹁ 瞧 見﹂ ﹁聽見﹂は、客観的現実と即応しない 彼の心的現実を明らかにする。客観的現実との連絡が絶た れた状態で、彼は事故を体験する。事故の場面の﹁眼前一 陣花,身子往前一衝﹂は主人公の視点によらない客観的現 実のようにも読めるが、続く﹁ 瞧 見那把刀直 砍 下來,他叫 了一聲兒,倒 啦 ﹂では再び﹁ 瞧 見﹂が使われる。客観的現 実か否かは再び明らかでなくなる。 テクストが伝えるのは、 彼の不安定な心理に映る出来事であり、それが客観的現実 と即応するか否か、この段階では判断できない。続く﹁便 醒了回來。有人哭,那是翠娟﹂ではじめて、事故の場面が 客観的現実であったことがわかる。また、主人公が目覚め る 前 の﹁ 我 抱 了 孩 子 要 飯 去 ﹂ と い う 独 白 は、 ︻ 引 用 一 ︼ の 前の主人公のせりふの一字一句変わらない反復である。 以上から、作品のテクストが、心的現実や独白の反復表 現によって構成されることが確認できた。主人公の心理は 腕を切断される不安を抱き、反復する幻想を生み出す。テ クストの反復は、 書かれる対象の同質性を示唆するだろう。 すなわち、 主人公は事故の前も後も変わらない同質の不安、 同質の心理状態を反復し、不安と強迫観念から抜け出すこ とができない。 先に引用したように、許道明氏は﹁斷了條 胳 膊的人﹂の 特徴として、 ﹁独白を大量に取り入れ、 またそれらとプロッ トの語りを一体化させ た ︶21 ︵ ﹂ことを挙げる。許氏の指摘は作 品における心理の問題を提起した点で意義がある。 ただし、 本 作 品 に お け る 心 理 表 現 の 特 色 は﹁ 独 白 ﹂ に と ど ま ら ず、 知覚動詞﹁ 瞧 見﹂を介して夢や幻想といった心的現実が開 示される点にある。プロットの語りは主人公の心的現実を 経由しており、客観的現実は後景に退く。むしろ、本作品 において、心的現実は作品のプロットそれ自体であるとい える。そこで表現されているのは、主人公の産業社会に対

(10)

78 する心理的な不調和や違和感、あるいはそれが生み出す不 安と強迫観念であるだろう。 三   反復される身体の切断 さ き に、 ︻ 引 用 四 ︼ で、 主 人 公 が 煉 瓦 を 切 断 す る 機 械 を 見ながら思い浮かべる独白を引用した。   他留神着那大輪子,他 瞧 見過許多人給 牠 的牙齒咬斷 了腿,咬斷了 胳 膊,咬斷了脖子的。他不能叫 牠 沾到他 的身子。   彼はあの巨大な歯車に気を付けていた、多くの人が そいつの歯に足を噛み切られ、腕を噛み切られ、首を 噛み切られたのを彼は見たことがある。彼はそいつに 体を触れさせるわけにはいかない。 労働者が手足を切断される事故は、以前にもくり返し起 きていたというのだ。前節で検討したのは、主人公の心的 現実の反復であった。ただし、本作品においては、労働者 が事故に遭うという出来事もまた反復して起きている。主 人公より以前に犠牲者がいるばかりではなく、作品の末尾 では主人公の代わりに雇われた労働者が事故に遭う。本節 では、 出来事すなわち客観的現実の反復に焦点を当てたい。 第五節で、主人公は家庭を失い、悲嘆と絶望のあまり自 暴 自 棄 に な る。 ﹁ 接 連 着 好 幾 天, 喝 得 那 麼 爛 醉 的 回 來。 第 二天早上醒回來,不是 躺 在地上,就是爬在床鋪底下。臉上 涎子混着塵土,又 髒 又瘦。家也亂得不像了。到處是嘔出來 的 東 西, 也 不 打 掃 ﹂︵ そ れ か ら 続 け て 何 日 も、 同 じ よ う に 泥酔して帰った。次の朝目覚めると、床に寝ているのでな ければ、寝台の下を這っている。顔はよだれと塵がまじり あい、汚く痩せている。家も荒れ果ててしまった。到ると ころ反吐だらけだが、掃除もしない︶ ︵第五節 ・ 五五八ペー ジ︶という状況であった。 ある日、 ﹁彼﹂ の夢に妻の翠娟が現れる。目覚めると ﹁彼﹂ は幸せだったころを思い出し、工場長に復讐しようと工場 へ 向 か う。 工 場 で、 ﹁ 彼 ﹂ は 自 分 の 代 わ り に 雇 わ れ た 若 者 が 機 械 に 足 を 切 断 さ れ て い る の を 見 て、 ﹁ 斷 了 胳 膊, 斷 了 腿 的 不 只 他 一 個 呢 !﹂ ︵ 腕 を 失 い、 脚 を 失 っ た の は 彼 一 人 だ け で は な い!︶ と 考 え る。 ﹁ 他 預 備 回 去 洗 個 臉 把 屋 子 打 掃 一 下。 他 不 想 死 了 ﹂︵ 彼 は 帰 っ た ら 顔 を 洗 い 部 屋 を 掃 除 す る つ も り だ。 彼 は 死 に た く な く な っ た ︶︵ 第 五 節・ 五五九ページ︶と考える。この場面の描写は非常に簡潔で あるが、明らかな悲哀や絶望、復讐心はもはや読み取れな い。主人公はどのような心情の変化を経験するのか、以下 に順を追って示したい。 まずは、主人公の夢に妻の翠娟が現れ、事故以前の幸せ

(11)

79 穆時英「片腕を切断された男」論(福長) だったころを思い出す場面を引用する。 ︻引用六︼第五節・五五九ページ   便想起了從前的家︵中略︶⋮誰害他到這步地田的? 他咬緊著牙想,他聽見廠長在耳旁 說 :   ﹃這裏不能用你。 ﹄   そしてむかしの家を思い出した︵中略︶⋮誰が彼を こんなざまに追いやったんだ。彼は歯ぎしりをして考 え、工場長が耳元でしゃべるのを聞いた。   ﹁ここではお前を使えない。 ﹂ ﹁彼﹂は昔の家庭を思い出し、工場長が﹁這裏不能用你﹂ と 言 う の を 聞 く︵ ﹁ 聽 見 ﹂︶ 。 こ の 言 葉 は﹁ 彼 ﹂ が 事 故 の 後 に 工 場 長 に 復 職 を 願 い 出 て、 ﹁ 這 裏 不 能 用 你 ﹂ と 拒 絶 さ れ た場面の反復である。先に検討した通り、知覚動詞は主人 公の心的現実を表す。工場長の声は、彼の回想あるいは幻 聴であろう。 ﹁彼﹂が刃物を携えて工場に行くと、 ﹁彼﹂の代わりに雇 われた若者が倒れている。 ︻引用七︼第五節・五五九ページ   到了廠門口老遠的就望見一輛病車在那兒。走近了只 見一個小子,腿斷了,光喘 氣 ︶22 ︵ ,血淌得一身。許多人圍 着 瞧 ,他也挨了進去。   斷了 胳 膊,斷了腿的不只他一個 呢 !   隔着 垛 牆,就聽得裏邊的機器響。他想 跑 到裏邊去 瞧 一 下。 那 雪 亮 的 鋼 刀, 還 是 從 前 那 麼 的 一 刀 刀 砍 下 來。 地上一大堆血, 還有五六個人在那兒看, 全是挨 砍 的臉。 他們都不認識他了。他知道他自家兒變得利害,也不跟 他們招呼。他看着這許多 骯髒 的人, 骯髒 的臉。他 瞧 見 他們一個個的給抬了出去,淌着血。他又看見他們的媳 婦 跑 了,孩子死了。   工場の入り口に来ると遠くからでも救急車が停まっ ているのが見えた。近づけば一人の若者が、足を切断 さ れ て、 し き り に 喘 ぎ、 全 身 血 ま み れ に な っ て い る。 たくさんの人が取り囲んで見ているので、彼も人をか き分けて入っていった。   腕を失い、脚を失ったのは彼一人だけではない!   壁を隔てて、中の機械が音を立てているのが聞こえ る。彼は中に入って見てみたくなった。あの真っ白な 鋼の刀は、やはり以前のように一太刀また一太刀斬り つける。地面には大きな血だまり、そして五六人がそ こで見ている、みな斬りつけられる顔だ。彼らはもう 彼 が 誰 だ か 分 ら な か っ た。 彼 自 身 も 自 分 が ひ ど く 変 わったとわかっていたので、 彼らにあいさつもしない。 彼はそのたくさんの汚い人を、汚い顔を見ていた。彼 らが一人一人担ぎ出され、血を流しているのを彼は見

(12)

80 る。彼はまた彼らの妻が逃げ、子供が死ぬのを見る。 工場で﹁彼﹂は、自分の代わりに雇われた若者が倒れて いるのを見る。主人公の工場における地位は、代替可能な ものとして、若者に奪われてしまうが、その若者もまた切 断される。ここでは、労働者が身体を切断されるという出 来 事 が 反 復 さ れ る。 ﹁ 彼 ﹂ は 想 像 す る。 機 械 の﹁ 鋼 刀 ﹂ に 手足を切断されるのは、 彼だけではない ︵﹁不只他一個 呢 ﹂︶ 。 血だまりの前に立つ労働者たちは、 一様に﹁挨 砍 的臉﹂ ︵斬 りつけられる顔︶をしている。主人公は労働者たちが﹁一 個個的給抬了出去,淌着血。他又看見他們的媳婦 跑 了,孩 子 死 了 ﹂︵ 一 人 一 人 担 ぎ 出 さ れ て い く、 血 を 流 し て。 彼 に はまた見える、彼らの妻が逃げ、子供が死ぬのが︶という 奇 怪 な 空 想 を 見 る︵ ﹁ 瞧 見 ﹂︶ 。 み な﹁ 鋼 刀 ﹂ に 身 体 を 切 断 され、 家族の紐帯からも切断されるという点において、 ﹁彼﹂ と他の労働者たちに差異はない。労働者たちは没個性で代 替可能な存在として表象される。 先に述べたように、主人公は煉瓦工場で働いている。労 働者の表象には、彼らが生産する煉瓦との類似性を指摘で きる。労働者たちが一人ひとり切断され、担ぎ出されてい く想像は、機械が煉瓦を切断するさまを思わせる。個体間 の差異が捨象されている点もまた、煉瓦と共通する。 付記すれば、第二節で主人公が事故の後に目覚めるくだ り に は、 ﹁ 他 是 躺 在 這 兒, 右 胳 膊 剩 了 半 段, 從 胳 膊 肘 那 兒 齊 齊 的 切 斷 了, 像 磚 那 麼 平, 那 麼 光 滑 ﹂︵ 彼 は こ こ に 寝 て いて、右腕は半分しか残っておらず、肘のところでそっく り 切 断 さ れ、 煉 瓦 の よ う に 平 ら で、 つ る つ る し て い る ︶ ︵ 五 四 八 ペ ー ジ ︶ と あ り、 主 人 公 の 傷 跡 が 煉 瓦 に 喩 え ら れ ていた。 商品もそれを生産する労働者も、等しく無個性なものと して表象されている。 機械が大量生産の製品を作るように、 機械は労働者の手足を切断し、個別性を剥奪する。機械は 止むことなく作動し続ける。とすれば、産業社会への不調 和を体現するかのような主人公の不安な心的現実の反復の 修辞もまた、機械的な反復と、その形式上の特徴を等しく する。不安は本人にも制御することができず、主人公を破 滅へ導く。本作品において、産業化による人間疎外は、人 の心理に対する圧迫、文体上の異化として表象される。 そもそも、主人公が生産する煉瓦とはどのような商品だ ろ う か。 穆 時 英 が 活 躍 し た 上 海 に 的 を 絞 っ て 整 理 し た い。 煉瓦は中国において都市の近代化と拡大を支えた建築材料 であった。村松伸氏の﹃上海・都市と建築﹄によれば、煉 瓦は上海においても西洋式の邸宅の﹁材料の主要部分﹂の 一つであっ た ︶23 ︵ 。上海でよく見られる中国人向けの安価な住 宅﹁里弄﹂もまた、鉄筋コンクリートで建造される場合も

(13)

81 穆時英「片腕を切断された男」論(福長) あったが、多くは煉瓦と漆喰を主要な建材としてい た ︶24 ︵ 。穆 時英が目にした近代都市は、煉瓦によって作られていた。 また、上海では都市建設に伴う需要の拡大ともに、煉瓦 工場の建設も進められた。山田幸夫氏によれば、一九世紀 末に Count V on Butler が Butler Cement T ile W ork を設立し、 近 代 的 な 工 法 に よ る 煉 瓦 の 製 造 が 行 わ れ た。 ﹁ 三 〇 年 代 に は大需要に対応すべく磚瓦業への投資も進み、上海の近代 磚瓦業は一定の水準に達し た ︶25 ︵ ﹂という。 ﹁斷了條 胳 膊的人﹂ の主人公が勤務するのも、こうした工場の一つであっただ ろう。 ところが、本作品においては、近代的な設備を備えた工 場は、労働者の個別性を奪い、失業と一家離散の憂き目に 遭わせる場である。これに対して、主人公が住む胡同の家 は ﹁屋瓦褪了色, 沒有磚牆只有板壁的平房﹂ ︵瓦は色が褪せ、 煉 瓦 の な い 板 壁 し か な い 平 屋、 五 四 三 ペ ー ジ ︶ で あ っ た。 主人公はそこで平穏な日常を送っていた。本作品の家庭の 描写に対して、同時代の批評家の胡風は﹁前部所寫的那一 種幸福的空氣,無論怎樣也難使人相信是發生在中國的工人 家 庭 的 ﹂︵ 前 半 部 に 描 か れ た よ う な 幸 せ な 雰 囲 気 が、 中 国 の 労 働 者 の 家 庭 に あ り う る と は 如 何 に し て も 信 じ が た い ︶ と 批 判 す る。 続 い て 胡 風 の 批 判 は、 小 説 が 失 業 や 低 賃 金、 重税など中国の労働者が置かれた現実に触れていない点に 向けられ る ︶26 ︵ 。主人公の家庭の描写は、左派の批評家には非 現実的に映るほどであった。主人公の家は、煉瓦が作る近 代化から取り残され、同時代の労働者が直面した搾取と無 縁な、一種の安全地帯として書かれていた。煉瓦を製造す る た め の 機 械 は、 主 人 公 の 片 腕 を 切 断 し、 ﹁ 板 壁 ﹂ の 家 庭 を破壊する。 ﹁板壁﹂の平穏な日常は、 ﹁煉瓦﹂工場での事 故によって奪われてしまう。労働者を犠牲にして作られた 煉瓦は、都市の拡大に用いられるだろう。 ﹁彼﹂の想像は世の全ての煉瓦工場に広がる。 ︻引用八︼第五節・五五九ページ   他又聽見這句話   ﹃這裏不能用你。 ﹄   天下不知道有多少磚廠,多少工人 ; 這些人都是挨 砍 的,都得聽到這句話的。給 砍 了的不只他一個,講這話 的不只一個廠長。扎死了一個有 嗎 用 呢 ?還有人會來代 他的。   彼はまたあの言葉を聞く。   ﹁ここではお前を使えない。 ﹂   世の中にはいくつ煉瓦工場があって、何人労働者が いるのか分からないが、彼らはみんな切断され、みん なあの言葉を聞かされるわけだ。切断されたのは彼一 人だけではないし、あの言葉を言うのは一人の工場長

(14)

82 だけではない。一人を殺して何の役に立つんだ。彼に 代わる人はまだいるのに。 世界︵ ﹁天下﹂ ︶のすべての煉瓦工場の労働者たちは切断 されると、主人公は想像する。主人公が﹁給 砍 了的不只他 一個﹂と言うとき、 彼の視像において、 あらゆる労働者は、 差異や個性を抹消された、同質の存在である。画一化され た労働者が、画一化された商品を作ることが、都市の拡大 を支える。産業社会は人と都市から個別性を剥奪し、均質 な人間と空間を作る装置として想像されている。 ︻ 引 用 六 ︼ で み た よ う に、 主 人 公 は 工 場 長 に﹁ 這 裏 不 能 用你﹂ ︵ここではお前を使えない︶ と告げられる。 ︻引用八︼ で、 ﹁彼﹂ は再びその言葉を聞く ︵﹁聽見﹂ ︶。同時に ﹁彼﹂ は、 ﹁講這話的不只一個廠長﹂ ︵あの言葉を言うのは一人の工場 長だけではない︶ と考える。 ﹁廠長﹂ ︵工場長︶ ですらも、 ﹁代 他 的 ﹂︵ 彼 に 代 わ る ︶ 人 が い る、 す な わ ち 代 替 可 能 な 存 在 である。 主 人 公 の 心 的 現 実 が 行 き 着 く 先 は、 人 間 が 無 個 性 化 し、 産 業 社 会 が あ た か も 永 遠 に 作 動 を 続 け る 機 械 の よ う に、 人々を飲み込んでいく視像である。小説は以下のように結 ばれる。 ︻引用九︼第五節・五五九ページ   一句話也不 說 ,他 跑 出了廠門。他走著走著。他想著 想著。 他預備回去洗個臉把屋子打掃一下。 他不想死了。   走過 餑餑 鋪子那兒, 鐵杓 噹 的一聲兒, 他第一次笑 啦 。   一言も口に出さずに、彼は工場の門を走り出た。彼 は歩きに歩いた。彼は考えに考えた。彼は帰ったら顔 を洗って部屋を掃除するつもりだ。彼は死にたくなく なった。   点 心 の 店 の と こ ろ ま で 来 た と き、 鉄 の お た ま が ガ シャンと音を立て、彼は初めて笑った。 最終的に、 主人公は事故の後初めて笑う ︵﹁第一次笑 啦 ﹂︶ 。 彼は再び胡同の日常の中に回帰していったかのようだ。こ れ 以 前 の 産 業 社 会 に 対 す る 不 調 和 は、 不 安 な 幻 想 と し て、 あるいは工場長への復讐心として現れていた。しかし末尾 の﹁彼﹂に、もはや不安や復讐心は見られない。それどこ ろか、顔を洗い部屋を掃除しようという考えからは、日常 と 秩 序 を 回 復 し よ う と い う 積 極 的 な 意 志 さ え 読 み 取 れ る。 ﹁ 彼 ﹂ は 産 業 社 会 の 体 制 に 馴 致 さ れ、 自 ら が 没 個 性 の 存 在 であることを受け入れているのかもしれない。 しかし、 テクストの本文には現れていないことであるが、 機械に切断された没個性の主体としての労働者には、煉瓦 と異なる点がある。煉瓦は都市の建設に用いられるが、労 働 者 の 身 体 が 切 断 さ れ た と き、 そ れ は 労 働 現 場 に 不 要 な ︵﹁ 這 裏 不 能 用 ﹂︶ 身 体 と し て 位 置 づ け ら れ る。 労 働 者 は 社

(15)

83 穆時英「片腕を切断された男」論(福長) 会 か ら 疎 外 さ れ た ま ま で あ る。 ﹁ 斷 了 條 胳 膊 的 人 ﹂ の 主 人 公がその後たどる運命を、テクストは明らかにしない。 結語 本論文では、本作品が人の没個性化という主題を、労働 者の心的現実を通して捉えたものであることを明らかにし た。 作 品 の テ ク ス ト は 主 人 公 の 心 的 現 実 を 通 し て 書 か れ、 心的現実の推移変化が作品のプロットを構成している。三 人称の語りにより心的現実を前景化させる文体は、形式の 面において﹁南北極﹂など初期の作品がすべて主人公の一 人称で語られているのとは大きく異なる。穆時英における 心理の問題は、 ﹁空閑少 佐 ︶27 ︵ ﹂﹁街 景 ︶28 ︵ ﹂など新感覚派の影響を 受 け た と さ れ る 作 品 に つ い て 論 じ ら れ る こ と が 多 か っ た が ︶29 ︵ 、﹁斷了條 胳 膊的人﹂ も同じ系統に位置づけられるだろう。 心的現実をほぼ変わらないテクストとして反復させる手 法もまた、新感覚派により近い。類似したテクストを反復 させる技法は、新感覚派的な作風に数えられる﹁上海的狐 步舞﹂などの作 品 ︶30 ︵ と共通する。 不安な幻想が反復されるばかりではない。主人公の不安 は、機械に手足を切断される事故として、ほかの労働者の 身 の 上 に も 反 復 さ れ る。 主 人 公 を は じ め と す る 労 働 者 は、 修辞の上では、彼らが生産する煉瓦と同質である。心的現 実の開示は、心理を通して小説を構成するという形式面の 異化をもたらし、客観的現実の反復は、産業社会における 人間の疎外を明らかにしたといえるだろう。 最後に、本論文での検討をもとに、本作品におけるモダ ニズムとプロレタリア文学の複雑な関係を考察したい。前 述のとおり、穆時英は一九三〇年に下層民を主人公にした 作風によって文壇に登場し、一九三一年頃に新感覚派的な 作風に舵を切る。本作品は二つの作風を並行して書いてい ていた時期に執筆された。形式面における異化や心理を前 景化させた点は、過渡期における試みの一つとみなせるだ ろう。 ﹁ 斷 了 條 胳 膊 的 人 ﹂ は 労 働 者 が 圧 迫 さ れ、 疎 外 さ れ る と いうプロレタリア文学の題材を扱う。ところが、穆時英の 作品は主流のプロレタリア文学が提示するような、革命へ 向けた道筋には至らない。先にも引用した胡風は、本作品 に つ い て﹁ 必 ず、 血 と 死 と、 見 捨 て ら れ た 境 遇 に よ っ て、 労働者の苦痛を書くべきであるのに、労働者の日常生活の 困 苦 が 見 え な い の は、 ﹁ 搾 取 ﹂ の 意 味 を 歪 曲 し て い る の で あ る ︶31 ︵ ﹂と手厳しく批判する。 たしかに、穆時英の筋立てにおいて、主人公は運命を受 け入れているかのようである。労働者は近代化と産業社会

(16)

84 のなかで個別性を奪われ、馴致されてゆく。穆時英は心理 に焦点を当てることにより、産業社会に対する不調和や違 和感、そして疎外から馴致に至る過程を内面から書くこと に成功しているといえるだろう。 前述のとおり、モダニズムの作家たちはソ連や日本の左 翼文芸を積極的に翻訳し、紹介した。穆時英の盟友である 施蟄存は、後年次のように回想している。   劉燦波︵引用者注

劉吶鴎を指す︶は文学と映画 を愛好していた。文学の方面で彼が好むのは、いわゆ る﹁ 新 興 文 学 ﹂﹁ 先 端 文 学 ﹂ だ っ た。 新 興 文 学 と は 十 月革命以降に隆盛したソ連の文学をいう。先端文学の 意味はより広く、ソ連文学以外に、新しい流派のブル ジョワ文学を含んでいた。彼は喜々として史的唯物論 の文芸理論を語り、フロイトの性心理による文芸分析 についても喜々として語った。 ︵中略︶総じていえば、 当時の日本で流行していた文学について、彼は毎日の ように滔々と語り、わたしと戴望舒は当然少なからぬ 影響を受け た ︶32 ︵ 。 劉燦波︵筆名は劉吶鴎︶は新感覚派の拠点である﹁第一 線書店﹂および﹁水沫書店﹂に出資し、施蟄存、戴望舒ら とともに中国モダニズムの第一人者に数えられる。施蟄存 の回想のとおり、モダニズムの作家はプロレタリア文学の 翻訳や紹介にも取り組んでいた。しかし、彼らがプロレタ リア文学の作品をいかに受け止め、受容あるいは対抗を試 みたかについては、論究されることが少ない。ここで、穆 時 英 が 影 響 を 受 け た と 考 え ら れ る 作 品 を 紹 介 し た い。 ﹁ 斷 了條 胳 膊的人﹂と似た題材を扱った作品として、日本のプ ロレタリア文学者葉山嘉樹︵一八九〇│一九四五︶の﹁セ メント樽の中の手 紙 ︶33 ︵ ﹂が挙げられる。葉山嘉樹の作品もま た、マルクス主義の枠にとどまらないものとして、近年に おいてはシュルレアリスムとの共通性を指摘する楜沢健の 研 究 ︶34 ︵ 、および文体や構成のアヴァンギャルド性に注目した 中村三春の研 究 ︶35 ︵ がある。 穆時英が処女作﹁ 咱 們的世 界 ︶36 ︵ ﹂を掲載した﹃新文藝﹄に も、葉山の作品は二度掲載されてい る ︶37 ︵ 。また一九三〇年に は 作 品 集 が 複 数 出 版 さ れ ︶38 ︵ 、 当 時 の 中 国 で 一 定 の 影 響 力 を 持ったと考えられる。 ﹁ セ メ ン ト 樽 の 中 の 手 紙 ﹂ で は、 労 働 者 が 機 械 に 巻 き 込 まれ製品の一部となる。水力発電所の建設に従事する﹁松 戸與三﹂という労働者は、セメント樽の中から女工の手紙 を見つける。女工の手紙は、恋人が誤って作動中の機械の な か に 落 下 し 死 亡 し た 事 故 を 伝 え る。 ﹁ 石 と 恋 人 の 体 は 砕 け合つて、 赤い細い石になつて、 ベルトの上へ落ちました。 ︵ 中 略 ︶ そ こ で 銅 鉄 の 弾 丸 と 一 緒 に な つ て、 細 く 細 く、 激

(17)

85 穆時英「片腕を切断された男」論(福長) しい音に呪の声を叫びながら、砕かれました。そうして焼 かれて、立派にセメントになりました﹂ ︵一二ページ︶ 。 ﹁ 斷 了 條 胳 膊 的 人 ﹂ と 同 様 に、 ﹁ セ メ ン ト 樽 の 中 の 手 紙 ﹂ に お い て も 労 働 者 の 身 体 は 産 業 機 械 に よ っ て 損 傷 さ れ る。 ﹁ セ メ ン ト 樽 の 中 の 手 紙 ﹂ で は、 労 働 者 の 身 体 は そ の ま ま 製 品 に 姿 を 変 え る。 ﹁ 斷 了 條 胳 膊 的 人 ﹂ の 労 働 者 は 事 故 に よって製品そのものになるわけではないが、身体をめぐる 修辞においては無個性や画一性など自らが生産する製品と の共通性が強調される。労働者の身体と製品が同質の存在 として語られるという点に、葉山嘉樹と穆時英に共通する 産業社会へのまなざしをうかがうことができる。 ﹁ セ メ ン ト 樽 の 中 の 手 紙 ﹂ の 末 尾 は 手 紙 を 読 む 松 戸 與 三 に 再 び 視 点 が 移 り、 ﹁ 彼 は、 細 君 の 大 き な 腹 の 中 に 七 人 目 の 子 供 を 見 た ﹂ と い う 一 文 で 閉 じ ら れ る。 ﹁ 見 る ﹂ と い う 動詞は客観的現実の視認ではなく、 主人公の幻想を伝える。 この点も﹁斷了條 胳 膊的人﹂と共通する。 現在筆者が確認できた﹁セメント樽の中の手紙﹂の中国 語訳は四種あ る ︶39 ︵ 。たとえば張我軍の翻訳︵一九二九年︶で は、末尾の一文が﹁他在老婆的大肚子裏,看見第七個小孩 子 ︶40 ︵ ﹂であり、穆時英の﹁ 瞧 見﹂と同じく知覚動詞によって 内 的 現 実 が 開 示 さ れ る。 こ の 点 も、 ﹁ 斷 了 條 胳 膊 的 人 ﹂ の 手法に影響を与えたと考えられるだろう。 以上から、モダニズムとプロレタリア文学という文芸思 潮上の差異を超えて、穆時英と葉山嘉樹が近い位相にあっ たことがうかがえる。先に触れたように、葉山の文学はプ ロ レ タ リ ア 文 学 の 枠 に 留 ま る も の で は な い。 ﹁ 斷 了 條 胳 膊 的 人 ﹂ は、 ﹁ セ メ ン ト 樽 の 中 の 手 紙 ﹂ と 共 通 す る 点 が あ る ものの、作品の文体と内容ともに穆時英の新感覚派時期の 作風により近づいている。影響関係にあることは、必ずし も 二 つ の 作 品 が あ ら ゆ る 点 で 同 質 で あ る こ と を 意 味 し な い。穆時英は作品のいくつかの要素を選択的に受容し、変 形させている。 従来、モダニズムの文学者による左翼文学に対する受容 や 反 応 は、 海 外 の 理 論 や 作 品 の 翻 訳 紹 介 に 注 目 が 集 ま り、 実作における影響関係は充分に検討が進められてこなかっ た。穆時英の研究においても、個々の作品における複数の 文芸思潮の交錯については、 触れられることが少なかった。 二 〇 世 紀 に お け る 文 芸 思 潮 の 複 雑 な 影 響・ 対 抗 の 一 端 を、 ここからうかがうことができるのではないか。   注 ︵ 1︶   ﹃ 新 文 藝 ﹄ に お け る モ ダ ニ ズ ム 文 学 と プ ロ レ タ リ ア 文 学 の 紹 介 に つ い て は、 王 松 志﹁ 劉 吶 鴎 と﹁ 新 興 文 学 ﹂

マ ル ク ス 主 義 文 芸 理 論 の 受 容 を 中 心 と し て ﹂︵ ﹃ 上 海 一 〇 〇

(18)

86 年

日 中 文 化 交 流 の 場 所 ﹄ 勉 誠 出 版、 二 〇 一 三 年 ︶ お よ び、 劉 妍﹁ 中 国 モ ダ ニ ズ ム 文 学 と 左 翼 文 学 の 併 置 と 矛 盾 に つ い て

雑 誌﹃ 無 軌 列 車 ﹄、 ﹃ 新 文 芸 ﹄ を 中 心 に ﹂︵ ﹃ ア ジ ア遊学   一六七﹄勉誠出版、二〇一三年八月︶に詳しい。 ︵ 2︶   城 山 拓 也 氏 に よ れ ば、 ﹁ モ ダ ニ ズ ム ﹂ は﹁ 一 九 二 〇 年 代 以 降 に 世 界 的 に 隆 盛 す る も の の、 徐 々 に 収 束 し て ゆ く、 一 過 性 の 文 化 現 象 ﹂ で あ る。 中 国 文 学 に お い て は 劉 吶 鴎、 戴 望 舒、 穆 時 英 ら の 名 が 挙 げ ら れ る。 一 九 八 〇 年 代 の 流 派 研 究 で は、 中 国 の モ ダ ニ ズ ム が﹁ 新 感 覚 派 ﹂﹁ 現 代 派 ﹂ と い う 流 派 と し て 捉 え ら れ た と い う。 城 山 拓 也﹃ 中 国 モ ダ ニ ズ ム 文 学 の 世 界

一 九 二 〇、 三 〇 年 代 上 海 の リ ア リ テ ィ﹄ ︵勉誠出版、二〇一四年︶二〇│二一ページ。   金理氏は、 彼らの集団を指す名称として﹁新感覚派﹂ ﹁水 沫 社 ﹂﹁ 現 代 社 ﹂ 等 を 挙 げ る。 氏 は ど の 名 称 も 集 団 の 全 時 期 に わ た る 全 成 員 の 文 学 的 営 為 を 表 す 名 称 と し て は 不 適 格 で あ る と し て、 ﹁ 以 施 蟄 存、 戴 望 舒、 杜 衡 与 劉 吶 鴎 為 核 心 的 文 学 社 団 ﹂︵ 施 蟄 存・ 戴 望 舒・ 杜 衡 お よ び 劉 吶 鴎 を 中 核 とする文学結社︶ という名称を用いる。金理 ﹃従蘭社到 ︽現 代 ︾

以 施 蟄 存、 戴 望 舒、 杜 衡 及 劉 吶 鴎 為 核 心 的 社 団 研 究﹄ ︵東方出版中心、二〇〇六年︶六ページ。 ︵ 3︶   例えば、 錢杏邨は﹁在一九三一年, ﹃南北極﹄ ︵﹃小 說 月報﹄ 二 二 卷 一 號 ︶ 的 發 現, 使 讀 者 感 到 了 新 人 穆 時 英 的 存 在 ﹂ と 記 す。 錢 杏 邨﹁ 一 九 三 一 年 中 國 文 壇 的 回 顧 ﹂﹃ 北 斗 ﹄ 第 二 卷第一期︵湖風書局、一九三二年一月︶一七ページ。 ︵ 4︶   穆 時 英﹃ 南 北 極 ﹄。 初 版 は 湖 風 書 局、 一 九 三 二 年 一 月、 五 作 品 を 収 録。 改 訂 版 は 現 代 書 局、 一 九 三 三 年 一 月。 初 版 の 五 作 品 に 加 え て、 本 稿 で 扱 う﹁ 斷 了 條 胳 膊 的 人 ﹂ 等 三 作 品を収録。 ︵ 5︶   穆 時 英﹁ 被 當 作 消 遣 品 的 男 子 ﹂﹃ 公 墓 ﹄︵ 現 代 書 局、 一 九 三 三 年 六 月 ︶。 一 七 ペ ー ジ。 ﹁ 我 喜 歡 讀 保 爾 穆 杭, 横 光 利一, 崛 ママ 口大學,劉易士

是的我頂愛劉易士﹂ 。   な お、 日 中 の 新 感 覚 派 に 対 す る ポ ー ル・ モ ー ラ ン の 影 響 に つ い て は、 銭 暁 波﹃ 日 中 新 感 覚 派 文 学 的 比 較 研 究 ﹄︵ 上 海交通大学出版社、二〇一三年︶第二章に詳しい。 ︵ 6︶   穆時英 ﹃公墓﹄ ︵現代書局、 一九三三年六月︶ 。穆時英 ﹃白 金 的 女 體 塑 像 ﹄︵ 現 代 書 局、 一 九 三 四 年 七 月 ︶。 穆 時 英﹃ 聖 處女的感情﹄ ︵良友図書印刷公司、一九三五年五月︶ 。 ︵ 7︶   瞿 秋 白 は 穆 時 英 を﹁ 外 面 的 皮 是 紅 的, 裏 面 的 肉 是 白 的。 牠 的 皮 的 紅, 正 是 為 着 肉 的 白 而 紅 的。 這 就 是 說 表 面 做 你 的 朋 友, 實 際 是 你 的 敵 人, 這 種 敵 人 自 然 更 加 危 險 ﹂ と 批 判 す る。 司 馬 今︵ 瞿 秋 白 ︶﹁ 財 神 還 是 反 財 神 ﹂﹃ 北 斗 ﹄ 第 二 巻 第三四期合刊︵湖風書局、 一九三二年七月︶四九四ページ。 ︵ 8︶   注二城山前掲書、二二│二三ページ。 ︵ 9︶   厳 家 炎﹃ 中 国 現 代 小 説 流 派 史 ﹄︵ 人 民 文 学 出 版 社、 一九八九年八月︶ 一三七│一三八ページ。原文は ﹁﹃南北極﹄ 中 的 作 品, 并 没 有 新 感 覚 派 的 味 道。 穆 時 英 小 説 具 有 新 感 覚 派的特点,是一九三一年或一九三二年開始的事。 ﹂ ︵ 10︶   注 九 前 掲 書、 一 三 七 ペ ー ジ 注。 原 文 は ﹁﹃ 公 墓 ﹄ 集 裏 的 小説,比﹃南北極﹄裏的整整晩写了約有両年。 ﹂ ︵ 11︶   穆 時 英﹁ 蓮 花 落 ﹂。 初 出 は﹃ 申 報 ﹄ 自 由 談︵ 一 九 三 二 年

(19)

87 穆時英「片腕を切断された男」論(福長) 一 二 月 二 〇 ・ 二 一 ・ 二 二 日 ︶。 注 六 前 掲 書﹃ 公 墓 ﹄ に 収 録 さ れる。 ︵ 12︶   李 征﹁ 中 国 三 十 年 代 文 学 に お け る 新 感 覚 派 小 説 手 法 の 受 容

穆 時 英 の﹃ 共 同 墓 地 ﹄ を め ぐ っ て

﹂﹃ 文 学 研 究 論集﹄第一一号︵筑波大学比較 ・ 理論文学会、一九九四年︶ 三三│三五ページ。 ︵ 13︶   注一二前掲論文、三五ページ。 ︵ 14︶   本 論 文 で は、 ﹃ 現 代 ﹄ の 影 印 本︵ 上 海 書 店、 一 九 八 四 年 ︶ を底本に用い、 適宜﹃南北極﹄改訂版の影印本︵上海書店、 一 九 八 八 年 ︶ と 校 勘 を 行 う。 初 版 と 単 行 本 に は 大 き な 異 同 は な い。 本 文 の 長 さ は 初 出 で 一 七 ペ ー ジ、 単 行 本 で は 三 八 ページ。なお、引用部分の傍線は全て引用者による。 ︵ 15︶   注一二前掲論文、三四ページ。 ︵ 16︶   許 道 明﹃ 海 派 文 学 論 ﹄︵ 復 旦 大 学 出 版 社、 一 九 九 九 年 ︶ 二 二 一 ペ ー ジ。 原 文 は﹁ 然 而 作 者 在 技 法 的 選 択 上 較 以 往 走 得 更 遠, 独 白 的 大 幅 度 採 用, 以 及 它 們 和 情 節 叙 述 的 混 成 一 片, 都 有 相 当 現 代 的 気 息。 ︵ 中 略 ︶ 預 示 了 作 者 更 新 的 風 格 将形成。 ﹂ ︵ 17︶   本 論 文 で は 心 理 描 写 の 反 復 に 着 目 す る が、 都 市 景 観 の 反 復 表 現 に は 以 下 の よ う な も の が あ る。 小 説 の 冒 頭 で、 主 人 公 が 住 む 街 角 の 点 心 の 店︵ 餑 餑 鋪 子 ︶ が 書 か れ る。 ﹁ 沒 走 上 多 遠, 噹 的 一 聲 兒, 鐵 杓 敲 在 鍋 沿 上, 一 籠 餑 餑 騰 着 熱 氣 在 他 前 面 搬 了 過 去! 到 餑 餑 舖 子 了 ﹂︵ 五 四 三 ペ ー ジ ︶。 こ の 点景は、 腕を切断されて入院した主人公の回想にも現れる。 ﹁ 他 就 想 起 了 拐 角 那 兒 的 西 樂 隊, 餑 餑 舖 子 的 鐵 勺 敲 在 鍋 沿 上 的 聲 音 ⋮﹂ ︵ 五 四 七 ペ ー ジ ︶ 小 説 の 末 尾 は﹁ 走 過 餑 餑 鋪 子 哪 兒, 鐵 杓 噹 的 一 聲 兒, 他 第 一 次 笑 啦 ﹂︵ 五 五 九 ペ ー ジ ︶ で あ る。 テ ク ス ト は や や 表 現 を 変 え な が ら、 主 人 公 の 目 に 映る点景を反復している。 ︵ 18︶   本論文における﹁異化﹂は、 ヴィクトル ・ シクロフスキー が ﹁手法としての芸術﹂ 等の論文で提起した意味で用いる。 V. B. Shklovskii, Isk

usstvo kak priyom, 1917.

日本語訳はシク ロフスキー、 松原明訳 ﹁手法としての芸術﹂ ﹃ロシア ・ アヴァ ン ギ ャ ル ド 6   フ ォ ル マ リ ズ ム

詩 的 言 語 論 ﹄︵ 図 書 刊 行会   一九八八年︶ 。 ︵ 19︶   伊地智善継編 ﹃白水社中国語辞典﹄ ︵白水社、 二〇〇一年︶ 一 一 一 九 │ 一 一 二 〇 ペ ー ジ の﹁ 瞧 ﹂ の 項 目 に﹁ 1   ︵ 目 で ︶ 見る﹂ ﹁ 5   ︵希望 ・ 予想を持って︶眺める,⋮⋮と見込む, 見 計 ら う ﹂ と あ る。 ま た、 大 東 文 化 大 学 中 国 語 大 辞 典 編 纂 室 編﹃ 中 国 語 大 辞 典 ﹄ 上︵ 角 川 書 店、 一 九 九 四 年 ︶ 一 七 〇 一 │ 二 ペ ー ジ の﹁ 看 ﹂ の 項 目 に﹁ ①︹ 動 ︺ 見 る. 読 む. ︵ 中 略 ︶︹ 動 ︺ ⋮ と 考 え る. 思 う ; ふ つ う、 動 詞 や 節 を 客語に伴う﹂とある。 ︵ 20︶   原文は一文字空白。 ﹃南北極﹄ 改訂版により ﹁, ﹂ を補う。 日本語訳もこれによる。 ︵ 21︶   注一六前掲書、二二一ページ。 ︵ 22︶   原 文 で は 一 文 字 空 白。 ﹃ 南 北 極 ﹄ 改 訂 版 に よ り﹁, ﹂ を 補 う。日本語訳もこれに従う。 ︵ 23︶   村 松 伸﹃ 上 海・ 都 市 と 建 築   一 九 四 二 │ 一 九 四 九 年 ﹄ ︵ P A R C O出版局、一九九一年︶ 。

(20)

88 ︵ 24︶   注二三前掲書、九三│九四ページ。 ︵ 25︶   山 田 幸 夫﹁ 塼 と 煉 瓦   中 国 近 代 の 建 築 技 術 に 関 す る 研 究 2﹂﹃ 日 本 建 築 学 会 大 会 学 術 講 演 梗 概 集   F﹄︵ 日 本 建 築 学 会、一九八九年︶ 。 ︵ 26︶   谷 非︵ 胡 風 ︶﹁ 粉 飾, 歪 曲, 鐵 一 般 的 事 實

用現 代 第 一 卷 的 創 作 做 例 子, 評 第 三 種 人 論 爭 中 的 中 心 問 題 之 一

﹂﹃ 文 學 月 報 ﹄ 第 一 巻 第 五 六 号︵ 一 九 三 二 年 一 二 月 ︶ 一 一 四 ペ ー ジ。 引 用 は 古 佚 小 説 会、 一 九 九 五 年 の 影 印 本 に よる。 ︵ 27︶   穆時英﹃空閑少佐﹄ ︵良友図書印刷公司、一九三二年︶ 。 ︵ 28︶   穆 時 英﹁ 街 景 ﹂﹃ 現 代 ﹄ 第 二 巻 第 六 期︵ 現 代 書 局、 一九三三年四月︶ 。 ︵ 29︶   注 一 二 前 掲 論 文、 二 二 〇 頁。 ま た、 鈴 木 将 久﹃ 上 海 モ ダ ニ ズ ム ﹄︵ 東 方 書 店、 二 〇 一 二 年 ︶ 第 三 章 に お い て は、 ﹁ 空 閑少佐﹂における記憶のポリティクスの問題を分析する。 ︵ 30︶ 鈴 木 将 久 氏 に 詳 細 な 研 究 が あ る。 鈴 木 氏 は、 ﹁ 上 海 の フ ォ ッ ク ス ト ロ ッ ト ﹂ に お い て は 類 似 し た 表 現 が﹁ 微 妙 に ず れ な が ら 反 復 さ れ 続 け て い る ﹂ こ と を 指 摘 す る。 注 二 九 前 掲 書、 一 一 八 ペ ー ジ。 初 出 は﹁ す べ て が な く な っ た

穆 時 英 の﹃ 記 憶 ﹄

﹂﹃ 中 国 哲 学 研 究 ﹄ 第 九 号 ︵ 東 京 大 学中国哲学研究会、一九九五年七月︶ 。 ︵ 31︶   注二六前掲書、 一一四ページ。原文は﹁一定要用血, 死, 被 遺 棄 来 說 明 工 人 底 痛 苦, 看 不 到 工 人 日 常 生 活 的 窮 困, 那 是對於 榨 取 底意義的歪曲!﹂ ︵ 32︶   施 蟄 存﹁ 我 們 経 営 過 三 個 書 店 ﹂﹃ 新 文 学 史 料 ﹄ 一 九 八 五 年 一 期︵ 人 民 文 学 出 版 社、 一 九 八 五 年 ︶ 一 八 四 ペ ー ジ。 原 文 は﹁ 劉 燦 波 喜 歓 文 学 和 電 影。 文 学 方 面, 他 喜 歓 的 是 所 謂 〝新 興 文 学 〟, 〝尖 端 文 学 〟。 新 興 文 学 是 指 十 月 革 命 以 後 興 起 的 蘇 聯 文 学。 尖 端 文 学 的 意 義 似 乎 広 一 点, 除 了 蘇 聯 文 学 之 外, 還 有 新 流 派 的 資 産 階 級 文 学。 他 高 興 談 歴 史 唯 物 主 義 文 芸理論, 也高興談佛洛伊德的性心理文芸分析。 ︵中略︶ 総之, 当時在日本流行的文学風尚, 他毎天都会滔滔不絶地談一陣, 我和望舒当然受了他不少影響。 ﹂ ︵ 33︶ 葉 山 嘉 樹﹁ セ メ ン ト 樽 の 中 の 手 紙 ﹂﹃ 文 藝 戦 線 ﹄ 第 三 巻 第一号︵一九二六年一月︶ 。 ︵ 34︶   楜 沢 健﹁ 葉 山 嘉 樹 と シ ュ ル レ ア リ ス ム ﹂﹃ 国 文 学   解 釈 と鑑賞﹄第七五巻第四号︵至文堂、二〇一〇年四月︶ 。 ︵ 35︶   中 村 三 春﹁ 孕 ま れ る 言 葉

葉 山 嘉 樹﹁ セ メ ン ト 樽 の 中 の 手 紙 ﹂ の 身 体 性

﹂﹃ 花 の フ ラ ク タ ル   二 十 世 紀 日 本 前衛小説研究﹄翰林書房、二〇一二年。 ︵ 36︶ 穆時英 ﹁ 咱 們的世界﹂ ﹃新文藝﹄ 第一巻第六号 ︵水沫書店、 一九三〇年二月︶ 。 ︵ 37︶   葉 山 嘉 樹、 崔 万 秋 譯﹁ 随 筆 三 篇 ﹂﹃ 新 文 藝 ﹄ 第 一 巻 第 五 号︵水沫書店、 一九三〇年一月︶ 。葉山嘉樹、 郭建英譯﹁一 件 慘 酷 的 故 事 ﹂﹃ 新 文 藝 ﹄ 第 二 巻 第 二 号︵ 水 沫 書 店、 一九三〇年四月︶ 。 ︵ 38︶   葉山嘉樹、 張我軍譯﹃賣淫婦﹄ ︵北新書局、 一九三〇年︶ 。 葉 山 嘉 樹、 馮 憲 章 譯﹃ 葉 山 嘉 樹 選 集 ﹄︵ 現 代 書 局、 一九三〇年五月︶ 。 ︵ 39︶   葉 山 嘉 樹﹁ セ メ ン ト 樽 の 中 の 手 紙 ﹂ の 翻 訳 は 管 見 の 限 り

(21)

89 穆時英「片腕を切断された男」論(福長) 以 下 の 四 種。 そ の う ち、 ︵ 二 ︶ と︵ 三 ︶ は 同 一 の 翻 訳 者 に よるものであり、大きな異同はない。 ︵ 一 ︶ 張 資 平 譯﹁ 士 敏 土 罎 裏 的 一 封 信 ﹂﹃ 樂 群 ﹄ 第 一 卷 第 一 期︵ 樂 群 書 店、 一 九 二 九 年 一 月 ︶。 ︵ 二 ︶ 張 我 軍 譯﹁ 洋 灰 桶 裏 的 一 封 信 ﹂﹃ 語 絲 ﹄ 第 五 巻 第 二 八 期︵ 北 新 書 局、 一九二九年九月︶ 。︵三︶ 張我軍譯 ﹁洋灰桶裏的一封信﹂ ﹃賣 淫 婦 ﹄︵ 北 新 書 局、 一 九 三 〇 年 ︶。 ︵ 四 ︶ 馮 憲 章 譯﹁ 士 敏 土 桶中的信﹂ ﹃葉山嘉樹選集﹄ ︵現代書局、一九三〇年五月︶ 。 ︵ 40︶   注 三 九 前 掲 書︵ 二 ︶ 張 我 軍 譯﹁ 洋 灰 桶 裏 的 一 封 信 ﹂、 七七ページ。

参照

関連したドキュメント

回転に対応したアプリを表示中に本機の向きを変えると、 が表 示されます。 をタップすると、縦画面/横画面に切り替わりま

事業概要 フェリーでECO体験スクール ●目 的

Automatic Identification System)として想定されている VDES に着目し、2019 年秋に開催 される国際電気通信連合(ITU)の会合(WRC-19)にて衛星

システムであって、当該管理監督のための資源配分がなされ、適切に運用されるものをいう。ただ し、第 82 条において読み替えて準用する第 2 章から第

で実施されるプロジェクトを除き、スコープ対象外とすることを発表した。また、同様に WWF が主導し運営される Gold

マニピュレータで、プール 内のがれきの撤去や燃料取 り出しをサポートする テンシルトラスには,2本 のマニピュレータが設置さ

マニピュレータで、プール 内のがれきの撤去や燃料取 り出しをサポートする テンシルトラスには,2本 のマニピュレータが設置さ

試料の表面線量当量率が<20μ Sv/hであることを試料採取時に確 認しているため当該項目に適合して