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ジョン万次郎とアメリカとの出会い

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Academic year: 2021

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(1)噂. ジ ョン 万 次 郎 と ア メ リ カ と の出 会 い. [一] は じ め に. 堀. 江. 義. 隆. 生 活 開 始 。 途 中 、 先 輩 の漁 師 仲. で の別 離 。 そ し て夢 想 し た米 国. 間 四人 と の ハ ワイ (ホ ノ ル ル). 土 佐 国 幡 多 郡中 ノ浜 出 身 の幕 末 漂 流 漁 民 ジ ョ ン万 次 郎 (一八 二七. 東 北 部 マサ チ ュー セ ッツ州 フ ェ. 時 のカ リ フ ォ ル ニア奥地 の金山. か つて の仲 間 二人 を 伴 って の帰. 国 (琉 球、 摩 文 仁 海 岸 )等 の実. に目 ま ぐ る し い足 取 り であ る こ. 一142(27)一. ユ. ∼ 一八九 八) は、 十 四歳 の天 保 十 二年 一月 七 日 (一八 四 一年 一月 二. ア ヘヴ ン (切巴ヨ ①<Φコ) で の約. 入 り 。 最 後、 ハワイ を 経 由 し て. の捕 鯨航海 。ゴ ールド ・ラ ッシ ュ. と が 分 か る であ ろう 。. 南 端 の喜 望 峰 回 り で の世 界 一周. ヴ ィ ス船 長 ) にょ る ア フリ ヵ 最. 船 フラ ンク リ ン号 (アイ ラ ・デ ー. 九 日) 土 佐 の宇 佐 浦 沖 で遭 難 ・漂 流 し て か ら嘉 永 四年 一月 三 日 (一. 期 に受 け た カ ル チ ャー ・シ ョ ックは、 言 葉 で は言 い つく せぬ凄 ま じ い も のが あ った こと であ ろう 。. そ のざ っと 十 年 間 の万 次 郎 の果 てし な く数 奇 な人 生 航 海 の歩 みを. ヨ. 一目 瞭 然 た ら し あ る時 に、 下 記 の図 式 は ま さ に鳥 騒 図的 役 割 を 果 し   てく れ る こと であ ろ う。.  . こ の図 式 を 幾 分 説 明 す る と す れ ば 、 先 ず 万 次 郎 ら 五人 を乗 せ た漁 ぷ にん とう. 船 の遭 難 ・漂 流 を 振 出 し に し て無 人 島 の鳥 島 に漂着 。 そ こ で約 五 ケ 月 の超 耐 乏 生 活 後 に ホ イ ット フィ ー ルド 船 長 率 いる米 国捕 鯨 船 ジ ョ ン ・ハウ ラ ンド号 に よ る救 助 。 同 捕 鯨 船 上 で の 一年 十 ヶ月 の新 奇 の. 匠22ア 刈 崩 で鱗. そ の少 年 か ら 青 年 期 の心 身 と も に成 長 ・発 展 を と げ る べき 多 感 な 時. 三年 の米 国 生 活。 そ の後 、 捕 鯨. 11$10j」 月. 八 五 一年 二 月 三 日 ) ま で の約 十 年 間 、 祖 国 日本 を 離 れ た。否 応 なく 、. 轡. 囮 刎 目魍 内. ■ ■ア刈 駄 幽 甥.

(2) ジ ョ ン万 次 郎 と ア メ リカ. な い か と い う思 いが 兆 し 、 着 手 し た 次 第 であ る。. 者 が 混在 し てい る 場 合 も ま ま 見 ら れ 、 従 って、 若 干 整 理 も 必 要 で は. り、 と も す れ ば事 実 が フィク シ ョン (虚 構 ) の中 に埋 没 、 或 い は両. が顕 著 であ り、 そ れ に加 え て小 説 等 で折 々取 り 上 げ ら れ る こと も あ. 行 って い き た く 思 う 。 そ の事 は 、 万 次 郎 が い つの時 代 でも 人 気 先 行. ヘヴ ン で万次 郎 が経 験 し た 出 来 事 な ど の事 実 的 確 認 の吟 味 ・精 査 を. 験 な どを 跡 づ け、 そ の文 化 的 ・歴 史 的 意 義 を 模 索 し な が ら 、 フ ェア. ブ ンの生 活 ① ﹂ を中 心 に遭 遇 し た さ ま ざ ま の米 国 生 活 で の貴 重 な 体. さ て、 本 稿 では前 掲 の図 式 にお い て万 次 郎 を 育 ん だ ﹁フ ェア へー. 関 わ る 大 小 の港 町 で. ロに位 置 す る捕 鯨 に. マスから南 西 四十 キ. 的 名 残 り のあ る プ リ. イ ング ラ ンドの歴 史. 発 祥 の 地 であ る ニ ュー. メリカ文化 と歴 史 の. 西 洋を 見晴 ら し、 ア. ん で隣 接 し 、 南 に 大. 覚 え な が ら 、 ﹁人 生 い つど こ で何 が起 こる か 分 か ら ぬ! ﹂ の不 確 定. る こと も 覚 え 、 し か も 超 大 激 動 の 二十 一世 紀 冒 頭 の年 であ る こと も. 本 年 が 万 次 郎 漂 流 百 六 十 年 目 、 ま た 帰 国 百 五 十 周 年 の節 目 の年 であ. ニ ュー ベ ッド フ オ ー. ヘヴ ン の出 身 で あ り 、. ル ド船 長 は 、 フ ェア. し た ホ イ ット フ ィ ー. あ る。 万 次 郎 を 救 出. 要 素 の強 い時 代 的 風 潮 と ジ ョ ン万 次 郎 の波 瀾 万 丈 の人 生 と を ダ ブ ら. ド港 を 拠 点 に し て、. 蛇 足 な が ら、 筆者 は 一九 九 二 年 よ り 何 度 か フ ェア ヘヴ ンを訪 れた。. せ な が ら 、 や や 探 訪 的 感 覚 を も 交 え 、 ﹁万次 郎 研 究 ﹂ の新 生 面 を 切. 世 界 の大 洋 を 駆 け 巡 っ た 腕 利 き の捕 鯨 船 長 であ る 。. ボ ス ト ンか ら 南 へ九 十 キ ロ弱 i. の ニ ュー ベ ッ. 東 の 対 岸 が フ ェア ヘヴ ン であ り 、 両 者 の間 に は 開 閉 式 の 可 動 橋. ド フ ォ ー ド 港 に 帰 っ て 来 た 。 同 港 は 、 ア ク シ ュネ ット 川 を 挟 み そ の. 月 七 日 に米 国 東 北 部r. ヶ月 が 経 った 後 に 、 南 米 最 南 端 の ホ ー ン岬 を 迂 回 し て 一八 四 三 年 五. ド 号 は 、 ハ ワ イ (ホ ノ ル ル ) で土 佐 か ら の仲 間 四 人 と 別 れ て 一年 四. 万 次 郎 を 乗 せ た ホ イ ッ ト フ ィ ー ル ド 船 長 率 い る ジ ョ ン ・ホ ウ ラ ン. り 開 く た め の研 究 資 料 作 成 の 一助 と な れ ば 望 外 の喜 び であ る。 そ の 意 味 で本 稿 の ﹃注 付 け ﹄ は、 や や詳 し く 留 意 し た こと を 予 め 断 って お き た い。. 切Φ島 o己 ) と. [二 ] ニ ュー ベ ッド フ ォ ー ド と フ ェ ア ヘ ヴ ン. (Z Φ≦. (一ゴΦ brO¢ωゴ﹃P Φ一 閉q<Φ﹃) を 挟. マ サ チ ュー セ ッ ツ州 ニ ュー ベ ッ ド フ ォ ー ド フ ェア ヘヴ ン は 、 ア ク シ ュネ ット 川. 一141(28)一.

(3) 近 畿 大 学 語 学 教 育 部 紀 要1巻1号(2001・11). フ ォ ー ド が ナ ン タ ケ ット 島 に と って 代 わ る よ う に な った 。 こ の 間 の. かん. (凸 μ﹃@≦ σ村h 轟 μ⑳Φ) が あ る 。 万 次 郎 は そ の 橋 を 渡 っ て ホ イ ッ ト フ ィ ー. こ と は 、 文 豪 ハー マ ン ・メ ル ヴ ィ ル の 代 表 作. 7. ル ド 船 長 の故 郷 で あ る フ ェ ア ヘヴ ン 入 り し た 時 の感 動 は 終 生 忘 れ 得. が こ の 両 者 の土 地 柄 を 踏 ま え て 筆 を 走 ら せ て い る こ と は 周 知 の こ と.  . ざ る も の が あ った こ と で あ ろ う 。 そ の 証 拠 と し て、 後 々 彼 は そ の 橋 であ ろ う。. れ を スケ ッチ し た り 、 ま た 遠 く 大 西 洋 の彼 方 に視線 を 送 り な が ら 、. ま で の約 三 〇 年 間 で あ り 、 そ れ は 万 次 郎 が 滞 在 し た 時 期 を 網 羅 し 尽. と ま れ 、 米 国 の 捕 鯨 の 最 盛 期 は 、 一八 三 〇 年 代 か ら 一八 六 〇 年 頃. ﹁白 鯨 ﹂ ( 一八 五 一). 近 く のポ ープ ス島 に行 き 、 そ の開 閉 す る 不 思 議 な光 景 にみ と れ 、 そ. 父 亡 き 後 の母 の苦 労 や 兄 弟 ら の事 に思 いを 馳 せ、 自 己 の遭 難 ・漂 流. す も の で あ った 。 従 って 、 万 次 郎 も こ の 街 に は 折 々 訪 れ 、 フ ェ ア ヘ.  . の不本 意 を いた く 遺 憾 に思 いな が ら 、 複 雑 な 望 郷 の念 に駆 ら れ る の. や が て来 る べき捕 鯨 操 業 に向 け て いわ ば 自 己 自 身 の命 運 を 賭 け る男. ヴ ン と は 違 った 意 味 で思 い 出 の 土 地 柄 と な った 筈 で あ る 。 そ れ は 、. 前 掲 ︹一︺ の冒 頭 の図 式 か ら も 窺 わ れ るよ う に、 フ ェア ヘヴ ンで. の 仕 事 場 を 自 覚 さ せ る 場 所 と な った の で は あ る ま い か 。 万 次 郎 は 、. であ った 。. 万 次 郎 は 三 年 間 の米 国 市 民 生 活 を 具 に見 聞 し 、 自 ら も 種 々様 々 の人. と 思 わ れ る 。 万 次 郎 は 、 一八 四 六 年 の 五 月 中 旬 に 恩 師 ホ イ ット フ ィ ー. ニ ュー ベ ッド フ ォ ー ド の 土 を 踏 み し め る 度 に 、 そ の 自 覚 を 強 く し た. 兎 に角 、 こ の両 地 名 は万 次 郎 を 語 る上 にお い て二 つにし て 一つの. ル ド 船 長 の許 を 離 れ て、 捕 鯨 船 フ ラ ン ク リ ン号 に 乗 船 し 、 三 年 四 ケ. 生 体 験 を 味 わ う こと にな った の であ る。. も のと し て取 り 扱 われ る密 接 不 可 分 離 のも の であ る こと を 銘 記 さ れ. フ ォ ー ド 港 か ら で あ った 。 万 次 郎 に と って ニ ュー ベ ッ ド フ ォ ー ド は. 月 の 捕 鯨 操 業 の武 者 修 行 の 出 立 こ そ は 、 他 な ら ぬ こ の ニ ュ ー ベ ッド. こ こ で、 や や蛇 足 的 に な る が ニ ュー ベ ッド フ ォー ド に関 す る事 を. フ ェ ア ヘヴ ン と は 違 った 意 味 で、 特 に 捕 鯨 業 の 立 場 か ら も 、 忘 れ 去. た い。. 少 し 述 べ てお こ う。 ホ イ ット フ ィー ルド船 長 の捕 鯨 活 動 はす べ て こ. る こと の出来 な い種 々 の思 い出 を 残 し た こと は云 う ま でも な い。. か く て、 日米 文 化 交 流 の観 点 か ら、 ペ リ ー提 督 の来 航 以 前 に万 次.  . こか ら 始 ま るか ら であ る。 当 時 、 ニ ュー ベ ッド フォ ー ド は世 界 最 大 の捕 鯨 基 地 であ り、 人 口二万 人 弱 の小 さ な港 町 であ った 。 因 み に、. 七 五 〇 年 代 であ った。 元来 、 米 国 捕 鯨 の発 祥 の地 は ナ ンタ ケ ット島. そも そも 、 こ の ニ ュー ベ ッド フ ォ ード で捕 鯨 が 始 ま った の は、 一. 故 郷 の土 佐 清 水市 と フ ェア ヘヴ ン、 ニ ュー ベ ッド フォ ー ドが 姉 妹 都. に願 いな が ら、 一九 八七 ( 昭 和 六 二) 年 の 一二月 二 日 に、 万次 郎 の. れ ると 共 に、 今 後 の日米 両 国 の更 な る友 好 と 健 全 な 両 国 の発 展 を共. 郎 の非 凡 な 活 躍 のあ った こと が称 えら れ 、 そ の果 し た 役割 が 評 価 さ. であ り、 一七 一二年 に抹 香 鯨 を初 め て捕 獲 し た記 録 があ る。し かし、. 市 と な り 、 そ の調 印式 が土 佐 清 水 市 で行 わ れ た。. フ ェア ヘヴ ンの人 口 は 一千人 であ った。. 次 第 に沿 岸 漁 業 か ら遠 洋 漁 業 に移 る傾 向 が見 え始 め 、 ニ ュー ベ ッド. 一140C29)一.

(4) ;:;,3'a. ジ ョ ン万 次 郎 と ア メ リカ. の招 き で訪 米 の際 に、 ﹁日米 友 好 発 祥 の地 ﹂ と し て、 フ ェア ヘヴ ン. 天 皇 、 皇 后 両 陛 下 ) が第 三十 九 代 ジ ェラ ルド ・フ ォー ド米 国 大 統 領. 尚 、 そ れ に先 立 つ二 ヶ月 前 に、 当時 の皇 太 子殿 下 ご夫 妻 ( 現在 の. る こと を 許 可 され た の であ る。 こ の事 の持 つ意 味 はす こぶる大 き い。. 船 長 の お眼 鏡 にか な う こと にな って、 米 国 本 土 の東 北 部 ま で同 行 す. て い た筈 であ るが 、 それ が 万次 郎 だ け が い たく ホ イ ット フ ィー ル ド. らば 五 ヶ月 で仲 聞 四人 と 一緒 に同 捕 鯨 船 と 別 れ を 告 げ る こと にな っ. '. に赴 か れ、 あ り し 日 の万 次 郎 の足 跡 を 辿 ら れ た こと が思 い出 さ れ、. そ れ は、 早 々と ホ イ ット フ ィ ー ルド船 長 が万 次 郎 の捕 鯨 乗 組 員 と し. 人 だ! 私 の息 子 だ ﹂ と憶 す る こと な く、 万 次 郎 を 誇 ら し げ に 紹 介.  . ヴ ン へ帰郷 し た直 後 に出 会 う 人 々 に対 し て、 ﹁ジ ョ ン ・マ ン。 日 本. み た い と い う密 か な 思 いが 、 心 に兆 し て いた こと は、 後 日 フ ェア ヘ. 私 混 同 的 な 響 き が あ るか も し れ な いが、 万次 郎 を自 分 の息 子 に し て. ての適 性 を 見 抜 いた のと 同 時 に、 彼 の人 間 性 に いた く ほ れ込 み、 公. ほ の ぼ のと し た も のが 漂 ってく る のを 禁 じ 得 な い。. [三 ] ジ ョン 万 次 郎 を 育 ん だ フ ェア ー ヘー ヴ ン. ー ﹁ 就 学 問 題 ﹂ に つ い てー. フ ェア ヘヴ ン で過 ご し た 三 年 間 の中 で、 後 見 者 と し て のホ イ ット. し てい る こと か らも 、 そ の心 情 は察 せ ら れ る こと であ ろ う。. 当 初 、 鳥 島 で五人 の 日本 人 漁 師 を 救 助 し 、 ハワイ へ行 く 五 ヶ月 の. フ ィー ルド 船 長 が 万 次 郎 に対 し て最 も 心 に か け て い た 事 は 、 彼 の ﹁就 学 問 題 ﹂ であ った であ ろ う。 万次 郎 はす で に数 え の十 六 歳 に 達. 短期 航 海 の中 で、 ホ イ ット フィ ー ル ド船 長 は これ ら 新 参 の毛 色 の変. わ った 五 人 の挙 動 を 最 初 は いわ ば 横 一線 で眺 め て いた が 、 次第 に万. し てい た 。 十 六 歳 と いえ ば 、今 日 の日本 の社 会通 念上 の感 覚か ら い っ ても、 小 学 校 及 び 中 学 校 の言 わ ば 義 務 教 育 の段 階 を 通 り 越 え て、 高. あ る が ゆ え に、 こう いう ﹁就 学 問 題 ﹂ は起 こら な か った であ ろう 。. さ ず に、 郷 里 の幡 多 郡 中 ノ浜 に居 続 け て いた な ら ば 、 身 分 が 漁 民 で. 尤 も 、 万 次 郎 が あ の土 佐 宇 佐 浦 で の漂 流 の ア ク シ デ ント に出 く わ. 人 間 の洞 察 に鋭 いホ イ ット フ ィー ル ド船 長 の判 断 は、 後 々 にお け る. る よ う にな った こと か らも 端 的 に首 肯 す る こと が でき る であ ろう 。. 皆 か ら 親 し ま れ てジ ョン ・マ ング (匂oゴコ ζ=づo q) の愛 称 で呼 ば れ. 10. 次 郎 は 捕鯨 船 内 で能 力 的 に頭 角 を 現 し 、 そ の人 間性 も よく理 解 され、. そ の点 では 、 あ の ア ク シ デ ントと の遭 遇 はま さ に寝 て い る子 を 起 こ. 万 次 郎 の活 躍 、 実 績等 を先 取 り的 に的 確 に予 見 し 得 た そ の燗 眼 は舌 11 を 巻 く 思 いが す る 。. 校 生 に属 す る 年 齢 に達 し て いた こと が 分 か る であ ろう 。. す こと にな った と 言 え よ う 。 そ の こと を 思 う 時 に、 鳥 島 で ホイ ット. 次 に万 次 郎 を 育 ん だ フ ェア ヘヴ ンと は、 一体 ど う い うと こ ろ であ. 次 頁 の地 図 は 、 万 次 郎 の曾 孫 の中 浜 博 氏 の著 書 か ら の も の であ. ろう か 、 それ を 少 し 垣 間 見 てお く こと に し よ う。. フィ ー ル ド船 長 に救 助 さ れ た こと の、 いわ ば 人 と 人 と の人 格 的 出 会 い のも つ意 味 は、 計 り 知 れ な い ほど 大 であ ると 言 わ ねば な ら な い。 し か も 万 次 郎 にと って、 捕 鯨 船 ハウ ラ ンド号 と の出 会 い は、 本 来 な. 一 ユ39(30)一. (1>.

(5) 近 畿 大 学 語 学 教 育 部 紀 要1巻1号(2001・11). フ ェアヘヴン. ノ. σ アクシ ュネ ット川. 糠羅. ロ⑦ ◎. 蟻. ◎ ⑧. ㊨. ⑩. ●. 12 る。. 上 掲 の地 図 を 見 る時 に、 万 次 郎 が フ ェア ヘヴ ン で過ご し た 三年. 問 (一八 四三 年 五 月 ∼ 一八 四六 年 五 月) の情 景 が目 の当 た り に浮. か ん でく るよ う な 印 象 を 覚 え る。 つま り、 上 右 端 の四角 い 囲 み の. 中 の地 図 は、 前 掲 一四 三 頁 の地 図 と 合 わ せ て ニ ュー ベ ッド フ ォー. ド、 フ ェア ヘヴ ンの所 在 及 び そ の周 辺を 確 認 出 来 る のが有 難 い。. そ の他 の地 図 面 は合 成 的 であ り 、 万次 郎 を 育 ん だ フ ェア ヘヴ ン の. 主 要 三 箇 所 が ク ローズ ア ップ さ れ る よ う に、 配慮 し て作 成 さ れ て. 13. い る。 それ を 丸 数 字 の順 序 に従 って フ ォ ローす る と、 次 の三 つに. [ ⑤ ] "ポ ヴ ァ テ ィ ・ポ イ ン ト. ⑪ ∼ ⑬ "ス コ ン テ ィ カ ット ・ネ ッ ク. ⑥ ∼ ⑩ "セ ン タ ー (OΦ艮 Φ村) 地 区. 地区. ①∼④. (o oOOH[ ↓ 回 05け ツ伺 ΦO評). (勺oくΦ二団 ℃9 ヨ ). 大 別 さ れ 、 便 宜 上 、 地 区 名 を も 付 し てお い た。 e. 口 ㊨. 地区. 以 上 の フ ェア ヘヴ ンの地 理 的 条 件 を念 頭 に 置 き な が ら、 ジ ョン. 万 次 郎 の ・﹁就 学 問 題 ﹂ に具 体 的 にふ れ る こと に し よ う。. 先 ず 何 よ りも 特 筆 す べき は、 万 次 郎 は、 米 国 の学 校 に入学 を許. 可 され た 日本 人 留 学 生 第 一号 と いう 名 誉 を担 って いる と いう こと. であ る。 し か し 、 万 次 郎 に は そ の よう な自 分 自 身 を誇 る意 識 過 剰. は何 処 にも 見 出 だ され な い。 彼 は、 ま る でそ れを 知 らな いよ うな、. 年 に似 合 わな い冷 静 ・沈 着 ・謙 虚 そ のも の であ る 。 通 常、 留学 と. 一138(31)一. スコン チカ ットネ ック. ニ ューペ ツドブ オー. ⑥. 10船長のスコンチカットネックの家槻 在の位翼} ⑫船浸のスコンチカットネックの家 `移励前.万次郎の住んでいた位置⊃ ⑫スコンチカットネック・ スクール. 鎌警. . r. タ①. ④ Oham. ⑤ノ 蒐一トレツト・ アカデミー. ブザ ー ド湾. ④ ジョージ ・N。 ターバー ビル. ⑬全衆派教会.

(6) ジ ョ ン万 次 郎 とア メ リカ. いえ ば そ の対 象 が 大 学 と いう こと にな る の であ ろ う が、 万 次 郎 の場 合 は 、 文 字 通 り 草 の根 を 掻 き 分 け て の初 歩 的 歩 み か ら の出 発 であ っ た。 さ て、 一八 四 三 年 五 月 初 旬 よ り三 年 間 ず っと フ ェア ヘヴ ンに滞 在. 二 ヶ 月 弱 在 学 )、 ス コ ン テ ィ カ ッ. 二 年 三. 五 ヶ 月 強 在 学 )、. (bU 鋤註 Φ洋 、 ω > 8 αΦヨ 唄i. (ω08 ↓貯 ロ↓ Z Φ畠 ω9 09 1. (○ ×暁O﹃α ωoゴ09 1. し た 期 間 中 に万 次 郎 は 三 つの学 校 に通 った。 即ち 、 オ ック ス フ ォー ド ・スク ー ル トネ ック ・スク ー ル そし て バ ー ト レ ット ・アカ デ ミ ー. く 万 次 郎 の捕 鯨 乗 組 員 と し て の進 路 を 準 備 す る ユ ニー クな 学 校 であ. 万 次 郎 の 足 跡 の 一 つを 辿 る こ と の で き る モ ニ ュ メ ン ト 的 存 在 と な っ. は 一切 機 能 し て い な い 。 い わ ば 、 フ ェ ア ヘヴ ン に お け る あ り し 日 の. ヶ月 在 学 ) であ る 。 前 二者 が 小 学 校 、 後 者 がグ レー ド的 に そ れ に続. る。 特 に小 学 校 で の学 び は、 ま る で短 期終 了 の猛 スピ ー ドぶり であ っ. 15 てい る。. 号 で こ の土 地 に来 てか ら 、 ホイ ット フ ィ ー ルド 船 長 は、 二 週 間 ば か. 万 次 郎 が 、 こ の 学 校 に 通 う よ う に な った の は 、 捕 鯨 船 ハウ ラ ン ド. た 。 ど の学 校 で の学 び も 手 抜 き な し の充 実 そ のも の であ り、 成 績 も 14. それ で は、 次 に 日本 に い る時 に は全 く問 題 にも な ら な か った万 次. り フ ェ ア ヘヴ ンを 離 れ て N Y 州 中 部 の シ ピ オ (G。o営 o) に 住 ん で い. 目 を 見 張 るも のが あ ったと の こと であ る。. 郎 の フ ェア ヘヴ ンにお け る学 校 教 育 を 享 受 し た実 情 に つい て少 し そ. オ ック ス フ ォ ー ド 地 区 に 住 む 人 々 の 協 力 を 得 て 創 設 さ れ た と い う 、. さ て 、 こ の 学 校 は 、 一八 二 六 年 に フ ェ ア ヘヴ ン の こ の地 区 、 別 名. に 預 け ら れ る こ と に な った 。. 船 長 の か つ て の 船 乗 り 仲 間 で あ る 三 等 航 海 士 エ ベ ン ・ エー キ ン の 下. 18. ケ月 弱 叔 父 の下 に出 向 く こと にな った 。 そ の結 果、 万次 郎 は そ の間. 17. た こと 及 び 自 ら の 再 婚 に よ る 人 生 の 再 ス タ ー ト を 切 る た め に 、 約 一. に捕 鯨 航 海 の出 資 報 告 や 万 次 郎 ら 日 本 人 漁 師 を 救 助 し彼 を連 れ 戻 っ. (ハ ウ ラ ン ド号 の船 主 の 一人 ). る 叔 父 ジ ョ ー ジ ・ホ イ ッ ト フ ィ ー ル ド. オ ック ス フ ォ ー ド ・ スク ー ル ω↓ oロΦ ω9 00誓 〇二ωΦ、 . 、. の紹 介 を 試 み て み る こと にし ょう。. e. こ の学 校 の 正 式 名 は 、 . 、 日ゴ① ○冠 O溝 oa. ( 当. (一四 〇 頁 参 照 ) に よ れ. 従 っ て ﹁古 オ ッ ク ス フ ォ ー ド 石 造 校 舎 ﹂ と い う こと に な る で あ ろ う 。 今 も そ の 校 舎 は 残 存 し て い る 。 前 掲 の地 図. ば 、 ボ ヴ ァ テ ィ ・ポ ン ト ト 地 区 の ① 、 即 ち ノ ー ス ・ス ト リ ー ト. 時 は 、 日o≦ご じ働コΦ) の 北 側 に 位 置 す る 。 し か し 、 今 日 学 校 と し て. 一137(32)一.

(7) 近 畿 大学 語 学 教 育 部紀 要1巻1号(2001・11). と幼 い生 徒 達 の中 に入 って学 び を 共 にす る こと にな った 。 年 齢 が 問. 等 の学 び が 行 わ れ た 。 万 次 郎 は最 年長 の小 学生 と し て、彼 よ りはず っ. の子 供 を対 象 に し て、 国 語 (英 語 )、 ペ ン マン シ ップ (書 法 )、 算 術. チ リ し てお り、 面 積 は 九 十 平方 メ ー ト ル。 生 徒 三 十 名 ば か り の近隣. ヴ ォ ラ ン テ ィ ア的 息 吹 き が感 ぜ られ る。建 物 は、石造 り の平屋 でガ ッ. 目 の行 き 届 か な い と こ ろを き め こま や か に配 慮 し た のが こ の ア レ ン. に 細 々 と よ く 面 倒 を 見 て も ら った 。 恩 人 ホ イ ッ ト フ ィ ー ル ド 船 長 の. 他 の二 人 の姉妹 の チ ャリ テ ィ、 ア ミリ アか ら も 身 の回 り の事 な ど 実. 読 む よ う にと様 々な 本 を 貸 し ても ら って いた よ う であ る。 そ の上、. 学 の 面 倒 な ど を 個 人 的 に ど れ 程 み て も ら った こ と か 。 ま た 、 家 で も. か く し て 、 万 次 郎 の 日 本 人 初 の 海 外 に お け る 留 学 生 活 の 第 一歩 は. 三 姉 妹 た ち の見 えざ る働 き であ る。. い万 次 郎 は 、 将 来 捕 鯨 乗 組 員 にな る夢 と希 望 を し っか り と 抱 い て、. 家 庭 的 雰 囲 気 に 包 ま れ て 始 ま った 。 し か し 、 こ の オ ック ス フ ォ ー ド ・. 題 な の では な い。 学 ぶ 意 欲 が ど れ ほど あ るか が 問 題 な の であ る。 幸. 勉 学 に遭 進 し た 。 な にか に つけ、 の み こみ の早 い彼 の成 績 はグ ング. ト フ ィー ル ド船 長 が公 私 の用 件 を 果 し て N Y州 シ ピ オか ら再 婚 後 の. ス ク ー ル で の 学 び は 、 た った 二 ヶ月 弱 の 短 い も の で あ った 。 ホ イ ッ. し か も 、 こ こ で見 逃 し得 な い のは、 下 宿 し た エベ ン ・エー キ ンの. 新 婦 を 連 れ 戻 ってか ら は、 万 次 郎 の下 宿 近 く の持 ち 家 に は、 も は や. (以 下 、 四 点 の写 真 は全 て 本 資 料 よ り. こ の学 校 への入 学. と が機縁 と な って、. り盛 り し てい た こ. イ ット フ ィ ー ル ド 船 長 の 家 に移 り 住 み 、 秋 学 期 よ り 新 し い 小 学 校 ス. 休 み に 入 る や 否 や の タ イ ミ ン グ で、 ス コ ン テ ィ カ ット ・ネ ック の ホ. と に な った 。 万 次 郎 は 、 春 学 期 の 途 中 と い う こ と も あ り 。 恐 ら く 夏. 地 に 四 分 の 一工 ー カ ー の土 地 と 家 に 、 六 月 早 々 よ り 新 居 を 構 え る こ. ω. の道 が 開 け た こ と. て、 万 次 郎 は そ の. ホ イ ッ ト フ ィ ー ル ド 船 長 の新 居 を 取 り 囲 む ス コ ン テ ィ カ ット ・ネ ッ. コ ン テ ィ カ ット ・ネ ッ ク ・ス ク ー ル行 き に 備 え る こ と に な った 。. 学 校 の授 業 以 外 に. ク の 環 境 は 、 周 辺 が 農 家 及 び 農 場 と い った 田 舎 風 の の ど か さ が 漂 っ. を遅ればせなが ら 19 申 し てお こう。従 っ. も こ のジ ェー ン先. て い る 雰 囲 気 の伸 び や か な 地 域 で あ った 。 そ れ は 、 オ ッ ク ス フ ォ i. ス コ ン テ ィ カ ット ・ネ ック ・ス ク ー ル. 生から家庭 でも勉. 一136(33)一. ン伸 び て い った。. 隣 家 に、 未 婚 の ア レ ン三姉 妹 が住 ん で い て、 そ の真 ん中 の年 齢 三十. 定 住 せ ず に 、 予 め 人 生 再 出 発 の そ の 日 の た め に 購 入 し て い た フ ェア. 特 別 展 ・日米 友 好 の か け橋. 撮 影 は何 れ も中浜 博 氏). 20. を 少 し 超 え たジ ェー ン ・ア レ ンが オ ック ス フ ォ ード ・スク ー ルの教. 『ジ ョ ン万 次 郎 』博 物 館 明治 村、1992年. O. ヘヴ ン か ら 東 南 約 二 〇 キ ロの ス コ ン テ ィ カ ット ・ネ ック 半 島 の 丘 陵. O. 学面 な ど 一切 を 切. 撮 影) ア レ ン三 姉 妹 の 家(1976年.

(8) ジ ョ ン万 次 郎 と ア メ リ カ. ン中 心 部 の 洗 練 さ れ た 住 宅 地 の. ド ・ス ク ー ル の あ る フ ェ ア ヘヴ. ン リ ー と い う 可 愛 い男 の 子 が 生 ま れ 、 万 次 郎 の よ き 弟 分 が でき た 。. た が 、 ほど な く 新婚 早 々 の同 夫 妻 の間 に は目 に入 れ ても痛 くな い へ. の居 な い船 長 夫 妻 にと っては、 万 次 郎 は得 難 い 一粒 種 的 存 在 であ っ. 2ー. 雰 囲 気 の ワイ ルドな 感 覚 の少 な. と こ ろ で 、 ス コ ン テ ィ カ ット ・ネ ック ・ ス ク ー ル の立 地 は 、 そ の. 万 次 郎 の 新 居 か ら 南 西 ○ ・四 キ ロ に 位 置 し 、 こ の学 校 に 一八 四 三 年. い 所 と は 対 照 的 であ る 。 次 に、 万 次 郎 が 具 体 的 に そ こ. の 夏 休 み 明 け の 九 月 か ら 転 校 す る こ と にな った 。 そ れ に よ っ て、 オ ッ. 事 な ど に も 精 を 出 し 、 ホ イ ット フ ィ ー ル ド 家 の 一員 で あ り な が ら 限. で味 わ った思 い出 な ど を 少 し 垣. 先 ず 、 こ の ス コ ン テ ィカ ット ・. り な く 経 済 的 自 立 を 目 指 す 一方 、 同 時 に人 格 的 自 由 の 世 界 を 享 受 す. ク ス フ ォ ー ド ・ ス ク ー ル 同 様 に快 適 な 学 び の時 の み な ら ず 、 野 良 仕. ネ ック ・ ス ク ー ル に つ い て い え. る世 界 にも 思 いを 馳 せ た 。. 間 見 て み る こ と に し ょう。. ば 、 そ れ は 先 の オ ック ス フ ォ ー. た だ 一 つ夏 休 み 以 前 の 生 活 と 顕 著 に変 わ った 点 を あ げ ると す れ ば 、. ア レ ン 三 姉 妹 か ら 受 け た 学 び や 身 の 回 り な ど の 隣 人 愛 か ら 一転 、 船. ド ・スク ー ルと 同様 に公 立 小 学 校 であ り、 後 者 と は対 照 的 に木. 接 す る ホ イ ット フ ィ ー ル ド 船 長 の 感 化 や 薫 陶 な ど を 身 に つけ 、 次 第. 長 一家 の 暖 か い 家 族 愛 に は ぐ く ま れ つ つ、 身 近 の 日 常 生 活 に お い て. ぼ 同 じ ぐ ら い の三 十名 そ こ そ こ. に 本格 的 な捕 鯨 乗 組 員 にな る自 覚 と そ の心 構 え が 出 来 てき た 。. 造 の平 屋 校 舎 で あ り 、 規 模 は ほ. 収 容 の こじ ん ま り と し た ア ット. ホ イ ット フ ィ ー ル ド 船 長 は 郊 外 の ス コ ン テ ィ カ ッ. 図 を み れ ば 一目 瞭 然 、 万 次 郎 の. 尚 、 前 出 の フ ェ ア ヘヴ ン の 地. た 、 オ ック ス フ ォ ー ド ・ ス ク ー ル で 基 礎 教 育 を 受 け て か ら 七 ヶ月 目. ネ ック ・ス ク ー ル に 学 び 出 し て 約 五 ヶ月 後 の 事 で あ った 。 そ れ は ま. ト ・ア カ デ ミ レ に 入 学 す る こ と にな った 。 そ れ は ス コ ン テ ィカ ット ・. か く て、 そ の裏 付 け と し て 、 万 次 郎 は 一八 四 六 年 二 月 、 バ ー ト レ ッ. 住 み ついた家 ー. の 素 早 い 飛 び 級 的 進 級 で あ った 。. ホ 1 ム な も の で あ った 。. ト ・ネ ック に 古 い の と 新 し い 二 軒 の 家 を 持 ち 、 万 次 郎 は そ の 新 し い. と に か く 、 学 校 が 郊 外 に あ った の で 、 万 次 郎 の 日 々 は 学 び と 読 書 、. そし て折 々野 良 仕 事 な ど に明 け暮 れ し、 こ こ では船 長 夫 妻 は別 と し. で 一八 四六 年 の五月 中 旬 出 帆 の捕 鯨 船 フ ラ ン ク リ ン号 に. 乗 り 組 む 直 前 ま で、 約 二 年 九 ヶ月 間 、 つま り フ ェア ヘヴ ン滞 在 の大. て 、 こ れ と い った 付 き 合 う べ き 友 人 、 知 人 は な か った よ う で あ る 。. 方 の家1. 半 以 上 を そ こ で生 活 拠 点 と し て船 長 夫 妻 と 過 ご し た の であ る。 子 供. 一135(34)一.

(9) 近 畿 大 学 語学 教 育 部紀 要1巻1号(2001・11). はな いか と 取 り沙 汰 さ れ てい る。 そ れ が 真 実 であ ると す れ ば 、 そ れ. て い た の で、 恋 心 も 目 覚 め出 し交 際 の対 象 の意 中 の女 性 が い た の で. も 知 れ な い。 し か し 、 こ の頃 思 春 期 - 十 六 、 七 歳 ー にさ し か か っ. 齢 であ った こと も 、 自 ず と 交 わ り の機 会 を 閉 ざ す 原 因 と な った のか. ギ ュラー であ り、 それ に何 よ り も 万次 郎 は 小 学生 を 遥 か に超 え た 年. 学 友 達 も 農 家 出 身 の子 供 が多 く、 家 事 や 野 良仕 事 な ど で登 校 も イ レ. あ く ま でも こ の バ ー ト レ ット ・アカ デ ミ ーを 視 野 に入 れ て のも の で. 船 長 の頭 の中 に あ った。 そ の意 味 で、 初 め 二 つの小 学校 での学 びは、. い て の学 校 教 育 の総 仕 上 げ と し て、 この学 校 への入 学 の こと が 常 々. 万 次郎 の捕 鯨 乗 組 員 と し て の資 質 十 分 であ ると の船 長 の判 断 に基 づ. 向 学心 と そ れを 裏 付 け る非 凡 な頭 脳 の働 き に目 を 見 張 った 。 早 々と. 近 か で フ ェー ス ・ト ゥ ・フ ェー スの交 わ りを し な が ら 、 彼 の旺 盛 な. 島 で万次 郎 らを 救 助 し 、 知 り合 って か ら の こ のか た 二年 八 ヶ月 、 身. す る 出 来 事 が こ の ス コ ン テ ィ カ ッ ト ・ネ ッ ク に や っ て 来 て ま も な く. 一方 、 そ の よ う な プ ラ イ ベ ー ト な こ と よ り も 、 社 会 的 に 熟 考 を 要. 思 いが有 った の か、 無 か った のか は 別 と し て、 外 国 人 が 易 々と 入 っ. 万 次 郎 の入学 に難 色 を 示 し た。 ﹁ど こ の馬 の骨 だ か ⋮ ⋮﹂ と い った. あ った の では な か ろ う か。 然 る に、 当 初 学 校 側 は、 ど う 言 う わ け か. 22. は極 あ て ノー マ ルな現 象 であ ろ う 。. 万 次 郎 の身 近 に 迫 っ て来 て い た の で あ る 。 ( 後述). 一134(35)一. て来 る よ う な所 では な い と い った よ う な プ ラ イ ド があ った の であ ろ. う 。 そ こは、 ホ イ ット フ ィー ルド 船 長 が 平身 低 頭 、 切 々と 入 学 許 可. バ ー ト レ ット ・ア カ デ ミ ー. 国. 鱗. 学 業 レベ ル の数 段 の ア ップ に も. に比 べて、 科 目 数 の大 幅 増 加 や. の学 業 成 績 は先 の二 つの小 学 校. 存 分 に発 揮 し て万 次 郎 の同 校 で. を 反 映 し てか 、 否 持 ち 前 の 力 を. こと は、 想 像 に難 く な い。 そ れ. と の感 謝 の気 持 ち が 強 く 働 い た. 学 し 得 な い学 校 に許 可 さ れ た こ. 入 学 後 の勉 学 態度 は、 元 々 入. を 乞 い願 い辛 う じ て入学 許 可 が 23 認 あ ら れ た の であ る。. さ て、 こ の 学 校 は 、 そ れ ま で 通 っ て き た 二 つ の 小 学 校 と は 性 質 上. (] [O`幽 ω] U bσ9﹃↓一 Φ一 ↓). か な り 異 な っ て い た 。 同 校 は 、 万 次 郎 が フ ェ ア ヘ ヴ ン へ来 る 三 年 前 の 一八 四 〇 年 に 、 ル イ ス ・L ・バ ー ト レ ット. と いう 教 育 者 によ って創 設 され た当 時 の フ ェア ヘヴ ンに お け る 最高 級 の プ ラ イ ベ ー ト ・ス ク ー ル 、 即 ち 知 的 エ リ ー ト 校 で あ った 。 こ こ で は 、 中 学 程 度 の 基 本 教 育 が 行 わ れ 、 し か も ニ ュー ベ ッド フ ォ ー ド 、 フ ェ ア ヘヴ ンが 捕 鯨 の 中 心 地 で あ る の で、 捕 鯨 術 を 初 あ と し て 高 等 数 学 、 測 量 術 、 航 海 術 な ど も 教 え ら れ、 捕 鯨 航 海 を 目 指 す者 にと っ て は 、 貴 重 な 学 び の 機 会 を 供 せ ら れ る こ と に な った 。 と こ ろ で 、 こ の 学 校 へ の 入 学 の動 機 及 び そ の 説 き 勧 め も 、 元 を た だ せ ば 、 そ れ は ホ イ ッ ト フ ィ ー ル ド 船 長 自 身 に あ った 。 船 長 は 、 鳥. 撮 影) バ ー ト レ ッ ト専 門 学 校(1976年.

(10) ジ ョン万 次 郎 と ア メ リカ. 見 張 る よ う な 優 秀 な 成 績 を 収 め 、 学 校 側 に 対 し て結 果 的 に は 一矢 も. 拘 ら ず 、 抜 群 の評 価 点 が 与 えら れ 、 同 校 開 校 以来 初 め てと い う 目 を. い つし か 経 済 的 独 立 と 精 神 的 自 立 は 無 縁 では な いと 思 う よ う にな っ. せ て居 候 と し てや って いく こと に気 兼 ね な 窮 屈 感を 覚 え出し ていた。. か な り成 熟 し てき て い つま でも ホイ ット フィ ー ル ド船 長 宅 に身 を寄. にも な る の で、 本 稿 で は詳 述 出 来 な いが、 万次 郎 が こ の バ ー ト レ ッ. 尚 、 内 容 的 に 筆 者 の 力 に あ ま り あ る 専 門 的 な こ と に立 ち 入 る こ と. いう こと で、 同 船 長 か ら 桶 造 り の仕 事 の着 手 を 勧 め ら れ て いた のを. は、 学 問 だ け でな く も っと 身 の助 け と な る技 術 を 習 得 す る よ う にと. てい た。 そ こ で、 万 次 郎 は か ね が ね 捕 鯨 乗 組 員 と し てや って行 く に. 24. 二 矢 も 報 い る こと が 出 来 た の であ る。. (勺仁旦 ) と し て だ け で は な く 学. ト ・ ア カ デ ミ ー に 在 席 し て、 生 徒. 関 心 事 と し て 、 万 次 郎 は バ ー ト レ ッ ト ・ア カ デ ミ ー に 入 学 し て 程 な. う腕 利 き では あ るが 吝 立回な 桶 職 人 (ク ー パ ー) の弟 子 入 りを し 、 食. か く し て、 万 次 郎 は勉 学 に励 む 一方 、 ハ ッシ ー (出器 ω塁 ) と い. 思 い出 し て、 それ に取 り 組 む こと を 決 意 し た 。. く し て、 当 時 航 海 者 の バ イ ブ ル と 高 く 評 価 さ れ て い た ナ サ ニ エ ル ・. べ物 な ど の粗 悪 さ にか な り音 を 上 げ る こと も あ ったが 、 曲 が り な り. ( ωε αΦコ↓) と し て 捕 鯨 の 勉 学 に 打 ち 込 ん だ こ と を 証 し す る 学 的. ( Z 鋤↓ゴO﹃二Φ一 ゆO≦ α帥 一 〇ゴ) 著 、 ﹁新 ア メ リ カ 実 用 航 海. にも 何 と か そ れ に耐 え抜 い て、 桶 の製 作 法 を マ スタ ーし て、 後 の捕. 徒. 一本. ZΦ≦ ﹀ヨ Φほ8 つ 零 碧 口o巴 Zo≦ o q舞 o﹃、 、 ) を知 り、. ボ ー デ ィ ッチ 士 ﹂ (. . 日冨. [四 ] ジ ョン 万 次 郎 を 育 ん だ フ ェアヴ ン ω. と し た の であ る。. 鯨 航 海 への備 え のみな らず 、 一本 立 ち へ の道 を も 切 り開 く 手 掛 か り (一八. そ れ を 買 い求 あ 、 か な り こ の 本 に の め り 込 ん だ の で あ る 。 後 年 、 帰 国 し て江戸 幕 府 よ り こ の本 の翻 訳 を 命 じ ら れ た 。 時 に安 政 二. 五 五 ) 年 十 二 月 の こ と で あ った 。 蛇 足 な が ら 、 こ れ は 、 文 字 通 り 古 こ んに ち. 典 的 名 著 、 即 ち ア メ リカ の航 海 術 の原 典 と し て今 日 でも 使 わ れ て い. 以 上 、 本 項 にお い て万 次 郎 が 先 述 の三 つの学 校 に フ ェア ヘヴ ン滞. 種 々 の観 点 か ら 見 てき た が、 あ る意 味 で こ の教 育 状 況 と パ ラ レ ルに. 以 上 、 フ ェア ヘヴ ン にお け る 万 次 郎 が 通 った 三 つの学 校 の模 様 を. f 教 会 所 属 に ま つわ る ハプ ニ ング ー. 在 中 の三 年 間 通 い、 当 時 鎖 国 日本 に居 たな らば 、 享 受 す る こと の出. 進 ん で行 か な け れ ば な ら な い問 題 に ﹁教 会 所 属 ﹂ の それ に逢 着 せざ. 25 る 。. 来 な い学 校 教 育 に与 る こと が 出 来 た こと は、 何 と幸 せ な こと であ っ. いざ 知 らず ! r 日曜 日 は聖 日 と し て人 々 は教 会 で 毎 週 礼 拝 を 守 る. るを 得 な い であ ろう 。 何 故 な ら ば 、 当 時 ア メ リ カ で は1 今 日 で は. 特 に、 バ ー ト レ ット ・アカ デ ミ ー に入 学 し て 一年 三 ヶ月 を経 た 一. こと が慣 行 化 し て い る の で、 これ ま た 日本 で は経 験 し た こと のな い. た こと か 。. 八 四五 年 の五 月 、 万 次 郎 はす で に十 八歳 を 迎 え てお り、 人 間的 にも. 一133(36)一.

(11) 触・ 」.α 昌並i. 近 畿 大 学 語 学 教 育 部 紀 要1巻1号(2001・11). 船 長 は熱 心 な ク リ スチ ャ ン であ り、 手 ぐ す ね を引 く 思 い で万 次 郎 を. る こと か ら 、 日常 生 活 が 始 ま る こ と に な った。 ホ イ ット フ ィ ー ルド. カ ット ・ネ ック に移 り 住 ん で ホ イ ット フ ィー ルド船 長 夫 妻 と 同 居 す. ト に当 り、 夏 休 み中 に ポヴ ァテ ィ ・ポ イ ント か ら郊 外 の ス コ ン テ ィ. こ の事 は、 先 に述 べた よう に、 一八 四三 年 の九月 の秋 学期 の スター. 万 次 郎 の教 会 にお け る処 遇 を 目 撃 す る に つけ 、 南 部 諸 州 ま でと は い. 度 の廃 止 を 訴 え る声 が 強 く な って いた の では あ る け れ ど も 、 上 記 の. 周 知 の如 く 、 一九 世 紀 の米 国 で は、 北 部 諸 州 は 総 じ て黒 人 奴 隷 制. それ は、 ま さし く ﹁沈 黙 は金 ﹂を地 で行 く ような 毅然 た る態度 であ っ 26 た。. 開 け て、 丁 重 に会 釈 し な が ら無 言 で そ の場 を 立 ち去 らせ た の であ る。. な し と 即 断 、 船 長 は ヌ ッと 立 ち 上 が るや 否 や 、 客 間 のド アを 静 か に. 自 分 の所 属 す る フ ェア ヘヴ ン のセ ンタ ー地 区 にあ る プ ロテ スタ ン ト. かな く とも 、 や は り黒 人 な ど に対 す る偏 見 ・差 別 が 進 歩 的 な 米 国 東. 欧 米 社 会 特 有 の異 質 の習 慣 に万 次 郎 は遭 遇 す る こ と に な った 。. の教 会 に導 く こと を 心 に期 し てい た の であ る 。 と ころ が 、 船 長 夫 妻. あ る と 思 わ れ てい ただ け に、 万 次 郎 を 巻 き 込 む こ の 一件 は 、 少 な く. 北 部 の社 会 にも 根 深 く 巣 食 ってい る実 情 が 垣 間 見 ら れ る の には 、 驚. 生 ま れ て初 め てキ リ スト 教 会 の門 を く ぐ った 万 次 郎 は 、 ホ イ ット. と も ホ イ ット フ ィー ルド船 長 に と って は晴 天 の露 震 であ った こと で. が 万次 郎 を連 れ て、 聖 日 礼拝 を 守 る た め にそ の所 属 教 会 を 訪 れ た そ. フィ ー ル ド船 長 夫 妻 と 共 に会 堂 一階 の家 族 席 (け ゴΦ h 鋤H 口出蜜 ︾Φ≦). あ ろ う。 総 じ て、 当 時 現 実 的 に は ピ ュー リ タ ニズ ム の正 統 的 立 場 を. か さ れ る。 当 時 、 ニ ュー ベ ッド フ ォ1 ド や フ ェア へーヴ ンで は、 捕. に入 った 。 そ の事 で万 次 郎 は 冷 た い仕 打 ち を 受 け る こと にな った。. 標 榜 す る キ リ スト教 会 が軒 並 に人 種 差 別 を 採 って いた こと が う か が. の日 の朝 の礼 拝 開始 直 前 に、 不 快 極 ま り な い ハプ ニング が 起 った 。. 翌 日 教 会 の役 員 が 船 長 宅 に来 て、 日く ﹁わ が 教 会 で は、 黒 人 ま が い. わ れ、 キ リ スト の教 会 の偽 善 性 が否 応 な く 浮 彫 り にな った。 これ は、. 鯨 業 に多 種 多 様 の人 々が 携 っていた の で、 人 種 問 題 には 最 も 寛 大 で. の少 年 の同 席 は 認 め ら れ て いま せ ん。 黒 人 用 の教 室 が 設 け ら れ て い. 真 に遺 憾 な こと であ る と 云 は ねば な らな い。. そ の経 緯 は、 次 の通 り であ る 。. ま す の で、 次 週 か ら は そち ら の方 へ入 って下 さ いま せ ん か﹂ と い う. 船 と い う多 人 種 構 成 の い わば 多 国籍 集団 を手 掛 け てい るだけ に、人 々. が 真 っ白 にな った こと であ ろ う。 一方 、 船 長 は冷 静 沈 着 、 平素 捕 鯨. そ の場 に居 合 わ せ て い た万 次 郎 は、 一瞬 目 の眩 む 思 い で、 頭 の中. の英 断 が な さ れ た の であ る。 こ の教 会 への移 籍 は、 鳥 島 での救 助 も. 種 差 別 に加 担 し て いな い唯 一無 二 の教 会 であ ると い う こと で、 船 長. ト教 の福 音 理 解 (三位 一体 の教 理) の面 で物 議 を 醸 し て いた が 、 人. ユ ニテ リ ア ン教会 に籍 を 移 し た の であ る。 この教 会 は、 当 時 キ リ ス. か く て、 船 長 は 万次 郎 のた め に、 長 年 在 籍 し て い た教 会 を 辞 し 、. を 平 等 に分 け 隔 てな く 扱 う こ と の大 切 さ と そ の必 要 性 を 骨 身 にし み. さ る こと な が ら 、 ホイ リ 、ト フィ ー ルド船 長 が万 次 郎 に示 し た最 大 の. 慰 勲 無 礼 な 通 達 であ った 。. て弁 え て い る観 点 か ら し ても 、 こう い う 手合 い と話 し 合 っても意 味. 一132C37)一.

(12) ジ ョン万 次 郎 と ア メ リカ. る行 為 であ り、 そ の後 の彼 の人生 の精 神 的基 盤を据 える こと に与 か っ. リ スト の教 会 で受 け た フ ァリ サ イ的 な 冷 た い仕 打 ち を 償 って余 り あ. 愛 の行 為 で あ る と い って差 支 え な い であ ろ う 。 つま り 、 万 次郎 が キ. で あ っ て 、 信 仰 が ﹁正 統 ﹂ で あ る こ と 、 即 ち 三 位 一体 の 神 観 に 堅 く. 方 教 会 を 指 す の で は あ る ま い か 。 オ ー ソ ド ック ス と は ﹁正 統 ﹂ の 意. ﹁オ ー ソ ド ック ス﹂ の 語 に こ だ わ る と す れ ば 、 (ギ リ シ ャ正 教 の ) 東. た 一位 一体 の 神 観 を 固 執 す る ユ ニ テ リ ア ン教 会 の 信 仰 の 立 場 と は 対. 立 つキ リ ス ト 信 仰 を 指 し 、 差 別 の処 遇 を 受 け て 万 次 郎 の 移 り 変 わ っ. 最 後 に、 こ こ で万 次 郎 の教 会 通 い 及 び そ の移 籍 を 廻 る 経 緯 に つい. 蹟 的 な も のが あ る と いえ よ う。 と ま れ、 惜 し む ら く は、 今 日も 当 時. て力 のあ った であ ろ う こ とを 確 信 し て疑 わ な い の であ る 。. て の事 実 的 取 り扱 い が、 万 次 郎 に 関 す る 伝 記 等 を 旙 く と き、 や や 不. も そ の所 在 を 確 認 す る こと が出 来 な い の であ る。. に あ った 。 そ こ は 今 日 ジ ョ ー ジ ・H ・タ ー バ ー ・ビ ル. (二 階 建 ) が. フ ェ ア ヘヴ ン の 地 図 の ⑧ が 現 在 の 所 在 地 で あ り 、 か つて は ④ の 場 所. の ﹁索 引 ﹂ に 見 出 さ れ る の み な ら ず 、 そ の 場 所 は 、 前 掲 一四 〇 頁 の. 一方 、 そ の 意 味 で は 次 の ⇔ の ﹁会 衆 派 教 会 ﹂ は 、 上 記 の 英 文 資 料. 統 一の記 述 が散 見 さ れ る の で ﹁万次 郎 研 究 ﹂ 上 の問 題 点 と し て、 そ の実 情 を 次 に指 摘 し て おき た い。 少 な く と も 問 題 と な る 点 が 二 つあ る。 先 ず 、 第 一点 は万 次 郎 が連 れ ら れ た キ リ スト教 会 は、 プ ロテ スタ ント のど の教 派 に属 す る か と い う こと であ る 。 これ に つい ては、 万. あ り 、 そ の 一階 部 は コ ンヴ ィ ニ. グ な ど を し た が、 無 論 、 あ りし. 何 度 か そ こを利 用 し シ ョ ッピ ン. 筆 者 は フ ェア ヘヴ ン へ行 く 度 に. 次 郎 の伝 記 な ど で は次 の 三 つの取 り上 げ 方 が な さ れ て いる のが判 明.  . エ ン ス 。ス ト ア に な って お り 、. 27 教 派 名 を 明 示 せず に、 た だ ﹁教 会 ﹂ だ け と す る も の。. す る。 0. ﹁オ ー ソ ド ッ ク ス 教 会 ﹂ (O ﹃↓げOΩO× Oゴ母 Oげ). 28. ⇔. ﹁会 衆 派 教 会 ﹂ ( Ooコoq冨 ⑳oはoづ巴 Oゴ霞 oげ). 29. ㊨. 日 の教 会 の面影 は全 く見 ら れな. そ れ か ら 今 一つの問 題 点 は、. こ の 三 者 中 、 一番 最 初 の O は 特 定 の 教 派 名 が 得 ら れ な い の で、 叙 述. さ て 、 口 に つ い て 、 若 干 コ メ ン ト す る と す れ ば 、 こ の教 会 名 オ ー. こ の出 来 事 に関 し、 気 に な る こ. い。. ソド ック スの みな らず 、 ま た そ の場 所 も 含 め て今 日特 定 化 す る こと. と が あ る 。 そ れ は ﹁翌 週 の 日曜. の対 象 か ら 外 す こと にす る。. . 、 ﹀. 日﹂ の聖 日礼拝を 万次 郎 やホイ ッ. は 出 来 な い よ う であ る。 即 ち 、 筆 者 の 手 許 に あ る 権 威 あ る ℃H O↓d力国 些 ω↓○力楓. ト フ ィ ー ルド船 長 等 は ど の デ ノ. O団 団巴 誉 oくΦづ" 、 (ω℃ぢ コΦ﹃ ℃G亘 一 8 口o霧. ぎ ρL Φ゜。①) の巻 末 の か な り 詳 し い 索 引 に も 見 出 さ れ な い 。 強 い て 、. 一131(38)一.

(13) 近 畿 大 学 語 学 教 育 部 紀 要1巻1号(2001・11). ミネ イ シ ョ ン ( 宗 派 ) の教 会 で守 った か と い う こと であ る。 これ に. であ る。. ②. ω. ヘヴ ン に滞 在 し 、 帰 国 前 の相 談 を ホ イ ッ ト フ ィ ー ル ド 船 長 に 持 ち. 三 年 四 ヶ月 の世 界 一周 の捕 鯨 航 海 に出 か け た 後 、 二 ヶ月 間 フ ェ ア. れ て い る 。 他 方 、 ﹁フ ェア ー ヘブ ン の生 活 ② ﹂ は フ ラ ン ク リ ン号 で. と こ ろ で、 ﹁フ ェア ー ヘブ ン の生 活 ① ﹂ は 、 本 稿 中 に 言 及 が な さ. 一し た。. フ ェ ア ー ヘブ ン の表 記 (引 用 ) は、 本 文 中 で は フ ェ ア ヘ ヴ ン に 統. そ れ ぞ れ の数 字 ① 、 ② は 、 筆 者 が 便 宜 的 に付 け た も の で あ る 。 尚 、. 但 し 、 ﹁フ ェア ー ヘブ ン の生 活 ① ﹂、 ﹁フ ェ ア ー ヘブ ン の生 活 ② ﹂ の. 中 浜 明 、 ﹁中 浜 万 次 郎 の 生 涯 ﹂ 冨 山 房 、 昭 和 四 一年 、 一八 五頁 参 照。. ﹁拙 稿 ﹂ 六 四 頁 参 照 ). こと にした。 ( ﹃本 学 教 養 部 紀 要 ﹄ 第 28 巻 、 第 3 号 、 一九 九 七 年 。. 胸 災 し て い る も の で あ る。 本 稿 で は 総 じ て ﹁万 次 郎 ﹂ を 使 用 す る. 本 稿 の表 題 等 に 登 場 す る ﹁ジ ョ ン万 次 郎 ﹂ の 呼 称 は 、 最 も 人 口 に. ︹ 注︺. 姉 妹 編 と し て執 筆 し た も の であ る こと を 断 ってお き た い。. 九 九 七 年 ) に掲 載 し た 拙 稿 ﹁ア メリ カ 捕 鯨 と ジ ョ ン万 次 郎 ﹂ の. ︽付 記 ︾ 本 稿 は 、 ﹃近 畿 大 学 教 養 部 研 究 紀 要 ﹄ 第 28 巻 、 第 3 号 (一. 31. ﹁翌 週 の ロ曜 日﹂ に訪 れ た教 会 は、 e で述 べ て い る の と は 異. た と い う見 解 。. 30. あ に、 三 度 目 か ら は先 にも触 れ た よう に ユ ニテリ アン教 会 へ行 っ. た と いう こと ! ﹁二度 あ る こと は 三度 あ る﹂ の轍 を 踏 ま な い た. イ シ ョ ンの教 会 で あ り、 そ こ でも前 週 と同 じ よ うな 処 遇 を 受 け. 先 ず 、 ﹁翌 週 の 日曜 日﹂ に訪 れ た 教 会 は 、 全 く 別 の デ ノ ミ ネ. つい て は次 の 二 つの見 解 が あ る。 O. ω. くみ. な り 、 直 ち に ユ ニ テ リ ア ン 教 会 へ行 った と い う 見 解 。. こ の両 見 解 の妥 当 性 に つい て、 筆 者 は 何 れ の方 に 与 す る か の定 か な見 解 は持 ち合 わ せ て いな い。 し か し 、 何 れ の見 解 を 採 る に し ろ、 ﹁会 衆 派 教 会 ﹂ へは足 を踏 み 入 れ た の では あ る ま いか と 思 う 。 つま り、 O の オ ー ソ ド ック ス教 会 の次 に行 った 教 会 のデ ノ ミネ ー シ ョン が 不 明 であ る こと を 示 唆 し た が 、 セ ンタ ー地 区 の主 要 建 物 の分 布 状 況 か ら し て、 これ は ﹁会 衆 派 教 会 ﹂ であ る以 外 に考 え ら れ な い の で は あ る ま いか と 思 わ れ る。 以上 、 万 次 郎 が 何 れ の プ ロテ スタ ント の教 会 に何 度 移 り 変 わ った. か け、 最 後 の別 れ の時 を 惜 し み な が ら 過 ご し た 。 そ の 後 、 万 次 郎. は 折 し も 持 ち 上 が っ てき た ゴ ー ル ド ・ラ ッ シ ュに 心 を 奪 わ れ 、 帰. か に つい て の問 題 は、 今 後 に そ の調 べを 委 ねな け れ ば な ら な いが 、 本 稿 を 閉 じ る に当 って つくづ く思 わ し め られ る こ と は 、 ﹁万 次 郎 研. 八丈島. 前 掲 、 ﹁拙 稿 ﹂ 注 3 ( 六 四頁 )参 照。. 国 への 資 金 面 の裏 付 け を 整 え に行 く こ と と な る の で あ る。 ㈲. は、 国 際 保 護 鳥 ア ホ ウ ド リ の 生 育 地 と し よ く 知 ら れ て い る 。 万 次. 度 々 の爆 発 で全 住 民 離 島 の結 果 、 現 在 は無 人 島 。 今 日 、 こ の鳥 島. ( 東 京 都 に 属 す ) の南 方 約 三 百 キ ロ メ ー ト ル の洋 上 に あ り 、. ω. 究 ﹂ が 冒 頭 で触 れ た よ う に人 氣 面 の先 行 ゆ え に俗説 な ども散 見 され、 そ の立 ち 遅 れ が みら れ る と い う こ と が、 や は り気 にな る。 そ の具 体 的 突 破 口 の手 掛 か りと し て、 筆 者 は今 後 ﹁中 浜 万 次 郎 年 表 ﹂ 作 成 の 見 直 し と いう こと にも 着 眼 の矛 先 を向 け て いき たく 思 って い る次 第. 一130C39)一.

(14) ジ ョン万 次 郎 と ア メ リカ. 郎 ら は こ の鳥 の肉 を 食 ら い 五 ヶ月 問 の飢 え を 凌 い だ 。 ま さ に 、 ア. まさ. 出 来 事 は 正 し く 格 好 の事 例 で あ ろ う 。. 飛 び 級 的 に 義 務 教 育 の課 程 を 終 え て、 し か も 捕 鯨 専 門 コ ー スを も. つの学 校 で の成 績 は 抜 群 、 た った 三 年 の短 い 期 間 で 以 て 、 い わ ば. 他 にも 、 本 稿 の中 で こ れ か ら 触 れ る よ う に 、 万 次 郎 が 通 っ た 三. それ は、 文 字 通 り. ホ ウ ド リ は 万 次 郎 ら に と っ て は、 命 の ﹁恩 鳥 ﹂ で あ った 。. ( . . ↓ゴΦ ツ伺 Φ謹 切Φ口刷 O村口3 H ッ 〇一 ﹃ごΦ<Φコ 切﹃帥 匹o qΦり り ) と 命 名 さ れ て い る。. ン ク リ ン 号 に乗 り 組 ん で か ら の ﹁大 昇 進 ﹂ を 見 る の で あ る。. 極 め 尽 し た こ と は 真 に恐 れ 入 る。 そ し て そ の 後 、 先 に 述 べ た フ ラ. ﹁ニ ュー ベ ッ ド フ ォ ー ド 。 フ ェ ア ヘヴ ン橋 ﹂. 拙 稿 ﹁近 代 風 土 誌 、 四十 四 号 ﹂ (近 畿 大 学 出 版 部 、 平 成 六 年 五 月 ). ﹁オ ック ス フ ォ ー. ( ℃o<興 蔓 ℃oヨ ↓ )、 即. (一八 五 七 ) 四 月 "軍 艦 教 授 所 の教 授 に任 命 。 ︹万 延. (一八 五 七 ) 十 月 十 三 日 "函 館 へ出 張 し て 講 義 。. (一八 六 〇 ) 八 月 二 十 五 日 ま で続 く ︺. ︹ 慶 応 三 年 (一八 六 七 ) 十 二 月 九 日、 そ の任 期 終 わ り 、 鹿 児 島. 日 元 治 元 年 (一八 六 四) 十 一月 "鹿 児 島 の 開 成 所 教 授 に 赴 任 。. O 安 政 四年. 元年. e 安 政 四年. 術 等 々。 以 下 、 順 を 追 って 列 挙 す る こと に し ょう 。. 学 校 も 含 む ) で教 授 し た 。 そ の 教 授 科 目 は 、 英 語 、 捕 鯨 術 、 測 量. 万 次 郎 は 、 後 年 日 本 に 帰 国 し て か ら 、 い く つか の公 的 機 関 (無 論 、. は 、 ブ ザ ー ド湾 に 面 し た 数 マイ ル の半 島 に 位 置 す る 。. 最 後 に 、 ﹁ス コ ン テ ィカ ッ ト ・ネ ック (ω08 口〇三 ZΦo評) 地 区 ﹂. ど の 主 要 な 公 共 施 設 が あ り、 当 時 も 今 も 目 抜 き 的 存 在 で あ った 。. の中 心 地 区 。 タ ウ ン ホ ー ル や ミ リ セ ン ト ・ラ イ ブ ラ リ ー や 教 会 な. 次 の ﹁セ ン タ ー (OΦづ↓ΦH ) 地 区 ﹂ は、 文 字 通 り フ ェ ア へー ヴ ン. ち ﹁貧 乏 岬 ﹂ と い う 陰 気 臭 い 名 前 が 付 け ら れ る よ う にな った 。. こ ろ か ら い つし か 、 ポ ヴ ァ テ ィ 。ポ イ ント. か ら 、 ど う い う 訳 か 村 は 寂 れ る 一方 であ り 、 そ の 発 展 性 の な い と. ド村 ﹂ ( . . O×h 。己 く筥。 。qΦ. . ) と 呼 ば れ 、 一七 七 九 年 に可 動 橋 が 出 来 て. ア ヘヴ ン の北 側 に位 置 し 、 こ の 辺 り 一体 は 当 初. 先 ず 、 ﹁ポ ヴ ァ テ ィ ・ポ イ ン ト (勺O<Φ﹃一 嘱 勺O帥 づけ ) 地 区 ﹂は 、 フ ェ. 一五 三 、 一五 四 頁 参 照 。. 拙 稿 ﹁近 代 風 土 、 第 四 十 五 号 ﹂ 近 畿 大 学 出 版 部 、 平 成 六 年 十 二 月 。. 学 館 。 一九 九 一年 三 月 。 四 四、 四 五 頁 。. 中 浜 博 、 ﹁私 のジ ョ ン万 次 郎 - 子孫 が明 か す 百 五十 年 目 の真 実 ー ﹂ 小. 一〇 二 頁 。 ニ ュー ベ ッド フ ォ ー ド は 、 一八 三 〇 年 代 ま で捕 鯨 船 の基 地 と し て. う に メ キ メ キ 頭 角 を 現 わ し て、 そ の 後 一八 六 〇 年 頃 ま で の 三 〇 年. 繁 栄 し て い た ナ ン タ ケ ット 島 に 次 い で、 バ ト ン タ ッチ す る か の よ. 間 が 最 盛 期 で あ り、 一八 五 九 年 の ペ ン シ ル バ ニ ア で の石 油 発 見 が. の で あ る。. 鯨 油 にと って 代 った 。 更 に 、 南 北 戦 争 が そ れ に 追 い討 ち を か け た. ニ ュー ベ ッド フ ォ ー ド に は 、 一九 〇 三 年 設 立 の 捕 鯨 博 物 館 が あ り 、 捕 鯨 に関 す る コ レク シ ョ ン は世 界 一で あ る 。 ま た 、 同 博 物 館 の道 一つ隔 て た 真 正 面 にあ る ベ テ ル ・シ ー メ ンズ ・チ ャ ー チ は 、 一八 三 〇 年 代 に 設 立 さ れ 、 多 く の捕 鯨 船 員 の心 の憩 い の場 と な った 。 成 田和 雄 、 ﹁ジ ョ ン万 次 郎 の 一生 ﹂ 中 日新 聞 本 社 、 昭 和 五 一年 一二 月 、 七 一頁 。 ジ ョ ン ・ マ ング ( 口Oゴづ ζ 仁⇔αq) の愛 称 は、 捕 鯨 船 ジ ョ ン ・ ハ ウ ラ ン ド 号 の ジ ョ ン と 万 次 郎 を 英 語 誰 で呼 ば わ った 合 成 的 呼 称 。 尚 、. ( 夕 刊 )、 二〇 〇 〇 年 十 二 月 二 六 日 (火 ) 付 の八 面 ] な ど が あ る。. ジ ョ ン ・ マ ング の英 語 綴 り は 、 そ れ 以 外 に 臼oゴコ ζ oコoq [毎 日 新 聞. ホ イ ット フ ィ ー ル ド 船 長 が 万 次 郎 の人 間 性 を 見 抜 く 目 に 狂 い が な か った 証 拠 の 一例 と し て、 一八 四 六 年 五 月 十 六 日 に フ ラ ン ク リ ン 号 に乗 組 ん で 三 年 四 ヶ月 の捕 鯨 航 海 に出 た 折 に、 ア イ ラ ・デ ーヴ ィ ス船 長 のた って の 願 い で参 加 の要 請 を 受 け た こ と や 、 途 中 同 船 長 が 精 神 錯 乱 に 陥 り 、 そ の後 任 の船 長 を 投 票 で 選 ん だ 結 果 、 万 次 郎 と 一等 航 海 士 の イ サ カ ー ・エイ キ ン (目 oo鋤0ゴm P 村﹀評幽 ] 口) が 同 票 と な り 、 年 齢 の若 い 二 十 一歳 の万 次 郎 が 副 船 長 兼 一等 航 海 士 と な った. 一129(40)一. (12) (13) (1の. (5) (6) {7) (9). (8) (10) (11).

(15) r、 、薮触. か ら江戸 に帰着︺ 四明 治 二年 (一八 六九) 三月 "明治 新 政 府 よ り 開 成 学 校 教 授 に もし、 万次 郎 が米 国滞 在中 にそれ ら 三 つの学 校 に通 ってお. 任命 。 らな か ったな らば 、右 記 の公的 諸機 関 での教 授 はあ り得なか っ そ れ が 大 学 に お い て の も の でな か った と し て も ー. た のではあ る ま いかと思 う時 に、 万 次 郎 の米 国 で の三 年 間 の 学 び は、1 彼 の 日 本 へ帰 って か ら の英 語 教 育 、 捕 鯨 技 術 の 伝 授 等 、 そ の. な い であ ろ う 。 つま り 、 日 本 の将 来 の 行 方 を 担 う 枢 要 な 部 署. 貢 献 は 看 過 し 得 ざ る も のが あ る こと を 指 摘 し て 置 か ね ば な ら. (例 え ば 、 東 京 大 学 の前 身 、 即 ち 右 記 四 の ﹁開 成 学 校 ﹂ な ど ) で の教 授 ・指 導 が 大 学 出 で な い 万 次 郎 に よ って 既 に 行 わ れ て. ωOゴooヨ 〇二ω軌. ". . . 輔 三 § Φ冠. 国碧 ヨ げo仁ωΦ. ミ 智 討詰 § ミミP. ( ≧ σ臼 ↓ ぢΦ. ス ( 力仁9 ) に先 立 た れ て い た 。 今 回 、 万 次 郎 を 連 れ て 帰 国 し た の. を 契 機 に、 婚 約 中 の 女 性 ア ル バ ー テ ィ ナ ・ケ イ ス. 国Φ凶 昏 ) と 五月 三十 一日 に教 会 で結 婚 式 を 挙 げ 、父 親 代 り の叔 父 ジ ョー. ジ の家 で い わ ゆ る 披 露 宴 が 行 わ れ た 。. エ ー キ ン 以 外 に 、 ジ ェー ム ス ・ エー キ ン、 ジ ェー ム ズ ・ア レ ン 説. ホ イ ット フ ィ ー ル ド 船 長 依 頼 の 万 次 郎 の下 宿 引 受 人 は 、 エ ベ ン ・. も あ る 。 筆 者 は 、 注 ㈲ で と り 上 げ た フ ェ ア ヘヴ ン観 光 委 員 会 発 行. の ﹁案 内 の手 引 き ﹂ に 従 い 、 取 り 敢 え ず エ ベ ン ・エー キ ン説 を 採 っ. 序 でな が ら 、 そ れ ら 三 者 説 を 支 持 す る 分 布 状 態 を 万 次 郎 に 関 心. た。. ( 万次 郎 の長男 )、 ② 中 浜. のあ る研究 家 や小説 家 などを 次 のよ うに取 り上げ ている。. (作. (万 次. (万次郎 研 究 家 )、 ④ 松 永 義 弘. (万 次 郎. 明 (万次郎 の孫)、 ③成 田 和 雄 (新聞 記 者 )、 ④土 橋 治 重. 9 ジ ェー ム ズ 。エ ー キ ン説 "①中 濱 東 一郎. ( 作家). 研究 家)、 ③川 澄 哲 夫. ロ ジ ェー ム ズ ・ア レ ン説 "①井 伏 鱒 二 ( 作 家)、 ②永 国 淳 哉. ( 万次 郎 の曾孫 )、 ② 宮 永 孝. 家 )、 ⑤津 本 陽 (作家 )、 ⑥国 民 休 暇 県 ・高 知. ( 作 家)、 ⑤ エミ リ ー ・V ・ワ リ ナ ー (万 次. 郎 研究 家)、 ③ド ナ ル ド ・バ ー ナ ー ド (万 次 郎 研 究 家 )、. 日 エベ ン 。 エー キ ン説 "①中 浜 博 ④有 明 夏 夫. 郎 研究 家)、 ⑥ フ ェア ヘヴ ン観 光 委 員 会. 漂流 民中 浜 万 次 郎 の生 涯. ※右 記 の三 者 説 の信 愚 性 に対 す る考 証 は 、 機 会 を 改 め て 別 に 行 い た い。. 宮 永 孝 、 ﹃ジ ョン ・ マ ンと 呼 ば れ た 男 -. (ポ ヴ ァ テ ィ ・ポ イ ン ト 地. 1 ﹂ 集 英 社 、 一九 九 四年 一月 。 八 〇 、 八 一頁 参 照 。. 区)参 照。. 本 稿 一四 〇 頁 の フ ェア ヘヴ ン の地 図 ④. ン リ ー坊 や が 亡 く な った と い う 計 報 に接 し 、 万 次 郎. ﹁愕 然 ! ﹂ と. 捕 鯨 船 フ ラ ンク リ ン号 で航 行 中 の 一八 四 六 年 十 月 七 日 に 二 歳 の ヘ. 一128(41)一. い た こと は 刮 目 す べ き こ と で あ る。 と に か く 、 万 次 郎 は 、 生. 一 . <日 ω目 ↓Oカ、 ω. き た 学 び の 有 形 ・無 形 の財 を 沢 山 持 ち 帰 った こと の 功 績 は 多 大 であ る と 思 う 。 筆 者 の 手 元 に 、 フ ェ ア ヘヴ ン 観 光 委 員 会 発 行 の. OdH U団 司≧ 幻出諺く団Z ζ 諺ωω>O出d ω国↓↓ω、 、と い う 観 光 案 内 の 手 引 き が あ る 。 万 次 郎 ゆ か り の 地 と し て、 訪 れ る べ き 十 一ヶ所 が . . 冒 ゴロζ Φ且 貯o日鎚 罵、と し て 挙 げ ら れ て い る。 そ の 中 に こ の , . O乞. 出o湯 Φω㌔ 、. O蔦 oa ω↓ 8 Φ ω9 09、 、も 含 ま れ て い る 。 蛇 足 な が ら 、 そ の他 の. ご σ茜 蔓 " 、 " . . ] ≦費 貯 Φ 勺震 冠. " . ミ 窪 盛 Φ冠. 地 名 を も 記 載 す る と 、 次 の 通 り であ る 。 . . ] ≦注帥 oΦ葺. Z8 評. . . 国σ①コ ﹀涛 Φ昌 =〇二ω①. . 導. 5 目Φづ 国O`ωΦ、 . 脚一 . 控 く興 ω崔 Φ OΦ∋Φ8蔓 . 、 " . . ω8 三 凶 O仁↓. ( Oユoqヨ 巴 ω禅Φ)、 . ㌦. 毫 三 荘 Φ冠 聞碧 ヨ ゴo`ωΦ. ド 一 、 切o﹃ ¢Φ洋 ω9 09 9. 9§織 § §跨. Zo≦ oq鋤↓ δ銑、( 本 文 中 一四 〇 頁 の ﹃フ ェア ヘヴ ン の 地 図 ﹄ 参 照 ) Uoコ巴 Ω 幻゜ωΦ3 輿 9 § 鳴 卜愚. ホ イ ット フ ィ ー ル ド船 長 は 、 そ の 六 年 前 の 一八 三 七 年 に 先 妻 ル ー. ζ oO冨 ≦出 臼 冒一⑩露 `層卜①. cis (19) ⑳ ⑳. fly) cis 117). 1巻1号(2001・11). 近畿大学語学教育部紀要.

(16) ジ ョ ン万 次 郎 と ア メ リ カ. な る。 中 浜 博 、 上 掲 書 、 四七 、 四 八 頁 。 宮永 孝、 上掲 書、 八 八頁。. ヘ ヴ ン の 市 教 育 委 員 に な っ た ジ ェ イ コブ ・ ト リ ッ プ. ( 冨8げ. パ レ ット ・ア カ デ ミ ー に お け る 万 次 郎 の 親 友 の 一人 で 後 に フ ェ ア. は著 し く 、 い つも ク ラ ス の首 席 であ り 、 優 等 の 成 績 で卒 業 し た 。﹂. ↓﹃昼 O) は 、 ﹁万 次 郎 は 読 書 を 好 む こと 驚 く ば か り で、 学 業 の 進 歩. と 述 懐 し て い る。 ( 中 浜 明 著 、 ﹃中 浜 万 次 郎 の 生 涯 ﹄ 冨 山 房 、 一九 七 〇 年 一二月 、 六 〇 頁 ). 尚 、 翻 訳 の完 成 ( 但 し、 実 用的 な箇 所 の部 分 訳 の み) は、 安 政. 中 浜 博 、 上 掲 書 、 一 一五 ∼ 一二 四 頁 。. 四年 六 月 。 邦 訳 題 は、 ﹃亜 美 理 加 合 衆 国 ﹄ と 名 付 け ら れ た 。 こ の出 来 事 に よ り 、 絶 対 他 者 な る 神 を 信 じ る と は 一体 ど う い う こ と であ る の か と い う こと を 考 え さ せ ら れ る 。 ﹁凡 て労 す る も の、 重 章. 二 八 節 ) と いう 主 イ エ ス ・キ リ ス ト の言 葉 は 、 人 生 の 旅 路 に お い. 荷 を 負 ふ も のわ れ に 来 れ 、 わ れ 汝 ら を 休 ま せ ん ﹂ (マタ イ 伝 =. て身 も 心 も 疲 れ 喘 い で き た 者 た ち に 対 し て、 キ リ ス ト の教 会 は 、. ( OO℃村 Φω ω一 〇コ) と 重 荷. ( げξ αΦ ロ) を 担 わ せ. 本 質 的 に 心 の安 ら ぎ と 憩 い の オ ア シ ス の 場 で あ る は ず な の に 、 そ れ が か え っ て心 の重 圧. る 場 所 に転 化 し て し ま っ て い る と は 、 そ れ は 何 た る皮 肉 な こと か! 本 末 転 倒 も 甚 だ し い と 旨口わ ざ る を え な い 。 中 浜 博 、 前 掲 書 、 六 二 頁 参 照。 そ の他 、 多 数 。 中 濱 東 一郎 、 上 掲 書 、 八 一頁 。 U8 巴α カ゜b﹂Φヨ oa も ゜ ㎝① 中 浜 明 、 前 掲 書 、 六 一頁 参 照 。 宮永 孝、 前掲 書、 八 六∼ 八七頁 参 照。. 一127(42)一. (29)(23)(22) (25) (zs> GDeo(29)(28)(27).

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