し
「まされる賓子に如かめやも」
- ﹃ヘンゼルとグレーテル﹄ Wffis一五) の深層心理学的解釈
梅 内 幸 信第二即 飢餓
現代日本において'空腹に悩む人々は少ない。むしろ、ダイエッーと称して、痩せてスマートにな-たいという願望を もつ若者が増えている。と-わけ'若い女性は、痩せていると美し-見えるという偏見に捕われていると思われる節があ る。戟後の飢餓の時代を知る者たちにとって、痩せるために食事をとらないとか、食事を残すとかいった発想は思いもよ らないものであろう。近年、飽食の時代に入ると、太るといけないと考えて、そもそも大して多-もない食事を全部食べ ずに残すといった光景も目撃する。大都会では'各種の盛大なパーティが開かれ'宴会が終わると、食べられずに残った 沢山のご馳走が'惜しげもな-捨てられている。そのような浪費を目撃して、心ある人々tと-わけ'第二次世界大戦中 の物不足と食料難の時代を体験した人々は'アメリカの使い捨て消費文化を受け継いだと思われる現代日本の浪費を'か ってはよ-批判したものである。しかしながら'戟後五〇年以上も経って'戟争体験者が少な-なるにつれ、現代日本の 浪費文化を嘆く人々は、少な-なってきたと言わざるをえない。現代においても、世界各地には'飢餓で苦しむ人々が大 「まされる賓子に如かめやも」梅 内 幸 信 勢存在している。とはいえ'現代日本では'飢餓の苦しみや餓死について'十分な理解と認識をもつ人々は、もはや決し て多くはないであろう。 二㌧ 三日でも断食した体験のある人々は'飢餓の苦しみを良-理解できるかも知れない。あるいは'そこまでゆかぬに しても'日本の歴史を勉強して'鎌倉・室町時代の戟乱期に起きた飢健と飢餓による地獄絵図を'﹃地獄草紙﹄ や﹃餓鬼 草紙﹄などで目にLt それを少しでも自分のものとして追体験できる人々は、飢餓についていささかな-とも理解を得る ( -) ことができよう。「人間の歴史は初めから'日々の糧をうるために闘争の歴史であった」と言っても過言ではない。過去 の飢健に関する歴史を学べば'多少とも食べものの有難さが理解されるに違いない。義務教育における保健の授業におい ‖り ても'栄養の大切さの基本は学ぶはずである。ビタミンに関しては'ビタミンA欠乏による夜盲症'ビタミンB欠乏によ る脚気'ビタミンC欠乏による壊血病などが有名である。その発見の歴史を知れば、肉であれ魚であれ'野菜であれ穀物 ( 2 ) であれ'少しぐらいは自分の食べるものに対して'感謝の気持ちがわいて-るかも知れない。飢餓の引き起こす恐ろしい 影響としては'ネズミであれば'野獣のように凶暴性を発揮して咲みつ-ようにな-'コウモリであれば'凶暴になって' 「その大群が日夜を問わず暴れ回り,大挙して人家に侵入しては子供の生血をすすり,さらに大人までSJ襲うという事 態が発生するという事実である。この事態に関しては、人間も決して例外ではないであろう。 戟時中および戟後'ドイツでは食料不足から'パンやソーセージは言うまでもなく'レ-プクーヘンやボンボン'チョ コレートといった菓子類は、なかなか手に入-に-い'大変高価なご馳走であった。しかしながら'豊かになって物があ -あまる現代では、食べると太るからという理由で、菓子類を敬遠する若者たちが増えている。飢餓や貧困が社会から駆 逐されたと思われる豊かな先進諸国では'もはや、アンデルセンの ﹃マッチ売-の少女﹄ の悲しみと喜びは'なかなか理 解されえないのではなかろうか。確かに、飢餓と貧困などというものは、体験せずにいた方が幸せなのかも知れない。に
もかかわらず'人生の負の局面とも言える飢餓と貧困を知らない者は'逆の意味で'人生の正の局面である豊かさのもつ 真の意味を正し-理解できないことになるであろう。 空腹が極限に達し'やがて'自分の心臓の音までがその人の存在を脅かし'絶えず寒さと疲労を感じ'唇が青ざめ'手 足が小刻みに震え'骨と皮ばか-になって死んでゆ-人間の悲惨な状況を一度でも考え'想像してみることがtやはへ ( 4 ) 豊かな人間性を形成することにつながるのではないだろうか。第二次世界大戦で'南方の国々や諸島で飢餓に苦しんで死 んでいった兵士たちの、祖国を守るために死んでいった兵士たちの無念な気持ちを'もう一度噛みしめてみる必要があろ う。このような思いに駆られるとき、とある戟争体験記の中で'南方における死の撤退行軍の中で日本兵が'あま-の空 腹に堪えかねて'路傍に倒れ死にした死体にうごめ-ウジ虫を飯ごうで炊いて食べたという話が思い出されて-る。それ を思うと'現代日本の浪費文化は'罪深いとさえ思われて-るであろう。また、極度に疲労Lt栄養不足になると、兵士 たちは'夢遊病者のようになった-'狂気に陥った-したと言われる。さらに、飢餓の極限状態においては、それどころ ( 5 ) か人肉まで食べたという話は、古代ギリシア時代からある。そこまでゆかぬとも'﹃グリム童話集﹄ に収められている ( 6 ) ﹃ヘンゼルとグレーテル﹄ wk;一五)を読んで、飢餓について再考してみることは、その後の人生の意味を豊かにする ことにつながると思われる。
第二節 大飢僅
﹃ヘンゼルとグレーテル﹄という童話は'﹃グリム童話集﹄に収められている二〇〇の童話の中で'確かに'三本指の 中に数えられるほど有名ではないものの'しかし、五本指の中には数えられる可能性をもった童話である。ヘンゼルとグ 「まされる賓子に如かめやも」梅 内 幸 信 レーテルの父親は'貧しい木こ-で、その国に大飢健が起こると、日々のパンすら手に入れることができなくなってしま う。そのため、木こりは、夜寝床の中で考え込むようにな-、心配のあま-しき-と寝返-を打ち、溜め息をもらして' どうやって子どもたちを養ったらよいかという自分の悩みを後妻に打ち明ける。すると'この継母は、冷酷にも'次のよ うに夫に返事をするのである。 こ た あ さ い ち ば ん こ だ も り ゆ (「いいかい'おまえさん」と、おかみさんは答えました、「あすの朝一番に、子どもたちをつれ出して、森へ行-お -ぶ か ひ ふ た り ひ と き んだよ。森の一番奥深いところへね。そこで火をおこして'二人にパンを一切れやるのよ。そうして'あたしたちゃ し ご と で お う ち か え み ち や っ 仕事に出かけて、子どもたちを置きざ-にするのさ。子どもたちゃあ'家に帰る道がわからないんだから'それで厄 ヽ ヽ ■ カ _ ∨ 介 ば ら い で き る っ て も ん だ よ 。 」 ) ( S . 1 0 0 ) 木こりは、この後妻の考えに同意できなかったが、しかし'後妻が「おまえさんも'バカだねえ︹--︺さもなきや、 よ に ん う じ よ に ん ぶ ん か ん お け つ く あたしたちゃあ四人とも、飢え死にするしかないんだよ。だったら、おまえさん、四人分の棺桶作っと-れ」 S.100)と 言うに及んで'とうとう後妻の考えに同意してしまう。ところが、空腹のために眠れないでいた二人の子どもたちも、こ の両親の会話を小耳にはさんでしまっていたのである。そのため、妹のグレーテルの方は、途方に暮れて泣-ばかりであ るが、兄のヘンゼルは'グレーテルを慰め励まして'一つの方策を見つける。ヘンゼルは'すぐさま家の外に出て、家の 前にある銀貨のように光っている小石をボケッー一杯に詰め込むのである。 次の日になると、一家全員で'薪を拾うために森へ出かける。その途中でヘンゼルは'道しるべとなる小石を道に落と す。森の奥に着-と父親は、子どもたちが寒さに震えないように火をおこす。その後で継母は、二人の子どもに'次のよ
うな嘘をつくのである。 ひ や す も り い き き し ご と (「さあ、おまえたち'火にあたって'ゆっ--休むんだよ。あたしたちゃ、森へ行って、木を切るからね。仕事 むか が す ん だ ら ' ま た お ま え た ち を 迎 え に -る か ら ね 。 」 ) ( S . -≡ ) ヘンゼルとグレーテルは'お昼になると'継母が与えて-れていたパンを食べる。火のそばに座って、両親が迎えにく るのを待っているうちに'二人は疲れてしまって'眠-込んでしまう。二人は、真っ暗な夜になって'ようやく目を覚ま す。不安になってグレーテルは泣きだすが'しかし、ヘンゼルはグレーテルを慰め'月が出るまで待つ。月が出ると、ヘ ンゼルは、グレーテルをつれ、月の光に当たって光っている小石を道しるべとして'自分たちの家に帰ることができる。 二人の子どもたちが無事家に帰-着-と'継母は、またしても次のように、心にもないことを言うのである。 わ る こ も り な か ね う ち (「悪い子だねえ、どうしてこんなにおそ-まで森の中で寝ていたんだい。あたしたちゃ'おまえたちが'もう家 か え お も に 帰 る つ も -が な い の か と 思 っ て た の に 。 」 ) ( S . 1 0 2 ) 子どもたちを迎えにこなかったのに継母は'まるで子どもたちに責任があるかのように、子どもたちを叱るのである。 ここでも継母は、自分の真意を隠し、嘘をつく。心の中で'恐ら-ヘンゼルとグレーテルは'継母の嘘に気づいているの であるが'しかし二人は、物語の中で継母に口答えなどしていない。その後まもな- '再び飢健が国を襲うと'継母は、 子どもたちをまたもや森の奥に置きざ-にすることを夫に提案する。木こ-は、最後のパンまで家族全員で分かち合う方 「まされる賓子に如かめやも」
梅 内 幸 信 が良いと内心では考えるのであるが'しかし、またしても後妻に言い含められてしまう。前回と同様に'両親の夜中の相 談を聞いていたヘンゼルは'再び外に出て小石を拾おうとするが'しかし継母は'戸に鍵をかけてしまっていたので'外 に出ることができなかった。次の日'家族全員で薪を拾いに森に出かけるとき、ヘンゼルは'継母にもらったパンを砕い て、そのかけらを道しるべとして道に落とす。こうして'森の奥深いところに着-と'火がたかれて、二人は再び置きざ -にされるのである。夜中になって二人が目を覚ますと、ヘンゼルはグレーテルを慰めながら'また同じように月が昇る のを待つ。しかしながら、月が昇って二人が歩き始めると'道に道しるべとして落としていたパンのかけらは'森や畑を 飛び回っている何千という小鳥たちが食べてしまっていて'二人は、家に帰る道を見つけだせないのであった。やがて二 人は'道に迷い、それから三日後に'白い小鳥に導かれて、お菓子の家にたど-着-のである。 通常、童話の世界は'現実の世界に対置されている。そしてその世界は'現実の世界とは異なる論理に従ってはいるが' それな-の論理に従って秩序立てられている。童話の世界において、「まま母」は、「意地悪で'残酷な女性」として措か れる。言うまでもな-、現実の世界における「継母」が、常にそのような女性であるということは、妥当性のないことで ある。しかしながら、童話の世界にあっては'善と悪、美と醜といった対立原理が、子どもにとって分かりやすいように' 明確に区別されている。従って、「まま母」は'童話の世界においては、おおむね「悪玉」として登場することになる。 国が大飢健に襲われて'食べものが少な-なると'継母は二人の子どもを森の中に置きざ-にすることを夫に提案する。 もちろん'子どもを森の中に置きざ-にすることは好ましいことではな-'母親のすべきことではない。しかし'冷静に 熟考してみると、この継母の考えは、はた目に見えるほどには冷酷でないとも考えられるのである。ただし、以下のよう な論理を展開する場合、飽-まで忘れてならないことは'「飢餓という極限状態」 にあるというこの物語の大前提である。 実際'この日本においても'歴史的に見れば、「姥捨山」 のように'貧しい家では'大飢健に襲われた場合、まずは年
( 7 ) 老いて仕事ができなくなった者たちが、食料の節約のために'人里離れた山奥に捨てられたのであった。これは'極限状 態にあって、いかにして長-一家が生き長らえるかを考えた末の'止むを得ない選択であったかも知れない。いずれにし ても、まずは弱い者から捨てられることは間違いない。老人か子どもかを選択する場合には'その生い先の長さが二者択 一を決定する大きな要因になるであろう。このようにして考えると、﹃ヘンゼルとグレーテル﹄ の場合'次の三つの選択 が可能となると思われる。 一、両親が子どもを優先して、子どもにパンを与える場合。 この場合'両親が飢え死にしたとき'子どもたちは'両親の死後、自活できずに、まもな-死んでしまうであろう。 ヘンゼルとグレーテルの振る舞いから判断して'ヘンゼルは八∼十歳ころの男の子であ-'グレーテルは五∼七歳こ ろの女の子のように認められる。このように想定するとき'両親の死後、二人は、到底自力で生きてゆけるとは思わ れない。しかも、物語においては'この木こ-一家の周辺に親戚や村人が住んでいるという描写はない。幼い子ども 二人だけでは'イチゴや根菜を食べた-、森に棲む獣を獲った-して'長い間生きてゆ-ことは困難であると言わざ るをえない。 二㌧両親が子どもたちと食べものを分かち合った場合。 この場合、一家四人は、子どもたちを「厄介払い」したときよ-も、早-飢え死にすることになるであろう。一家 四人が飢えをしのいでいる間に飢健が終われば、それは一家にとって幸運な話である。とはいえ、飢鐘というものが、 必ずしも短期間に終わるという保証はどこにもない。確かに'この考えが一般には受け入れやすいものであるかも知 「まされる賓子に如かめやも」
梅 内 幸 信 れないが、しかし'一家ができるかぎ-血筋を絶やさず、後世に子孫を残すことが至上命令である場合には'これを 選択するわけにはゆかないであろう。 三㌧子どもたちを「厄介払い」した場合。 この場合、両親は'四人で食べものを分かち合ったときよ-も'長く生き延びることができるであろう。もちろん' 飢健が長-続いて、極限状態が少しも緩和されないときには、両親とて死んでしまうことになるであろう。しかしな がら'もし、両親が無事飢健を乗-越えて、平安な時期まで生き延びられれば'再び子どもをつくることも不可能で はないと思われる。 このように考えてみれば'継母の選択は'想像以上に不合理だとも思われないLtまた'継母も'見かけほど冷酷な女 ( 8 ) 性ではないと見なされるかも知れない。とはいえ、この童話において、この「まま母」が残酷で、非情だという印象を与 えるのは、どういう理由から生じているのであろうか。それは'やは-、この継母が、二度に亙って子どもたちに嘘をつ いていることによるものと考えざるをえない。というのも、この嘘によって継母は'食べものを子どもたちに惜しむばか -ではな-'子どもに対して母親としての愛情をも惜しんでいるからである。たとえ、自分で産んだ子どもでないにせよ、 母親たるもの'自分が引き受けた子どもに、決して愛情を惜しんでほならないのである。母親が子どもに愛情を惜しむと ( 9 ) いうことは、他でもな-、彼女の無意識において「グレーー・マザーの善い側面」が欠けている証拠であるLtまた同時 に、彼女の「良心がエゴによって曇らされている」証拠でもある。ソーラー時計が太陽の光に当たって充電されなければ' それは'やがてエネルギーを使いきって'その機能は止まってしまうことになるであろう。それと同様に'宇宙の神的エ
ネルギIとも密接に関連している人間の心的エネルギーが'良心の曇-によって充電を妨げられるとすれば'その人間は' 肉体的というよ-は'むしろ'心的なエネルギーがきれて'まずは心的に崩壊し始めることになるであろう。
第三節 懐かしの我が家
ヘンゼルは'夜中に'自分たちを森の中に置きざ-にしようとしている両親の相談を耳にはさむと'こっそり外に出て' 銀貨のように輝-小石をポケットに詰め込む。そして'この小石を森に行-途中で'道しるべとして道に落とすのである。 何度も家の方を振-近-ながら'ヘンゼルは'道に小石を落とす。ヘンゼルのこの動作を不思議に思った父親は、遅れる から'前を向いてさっさと歩-よう注意をする。これに対して'ヘンゼルは'その言い訳として'次のように父親に返事 を す る 。 し ろ こ ね こ み や ね う え す わ し (「ぼくの白い小猫ちゃんを見ているんだよ。屋根の上に座って'ぼ-にさよなら言ってるんだもの。」)(S.-○こ こ ね こ あ さ ひ え ん と つ このヘンゼルの言い訳に対して継母は、「バカだね、あ-やあおまえの小猫なんかじゃないよ。朝日がね'煙突にあたっ ひか て光ってるんだよ」(S.101)と言う。が'実際には'この継母の方が'事実を言い当てているのであろう。これと似た場 面が二回目にも繰-返されるが'そのときヘンゼルは'次のように父親に返事をする。 み ゃ ね し (「ぼくはね、ハ-ちゃんを見てるんだよ。ハトちゃんが屋根にとまって、ぼ-にさよならを言ってるんだもの」) 「まされる賓子に如かめやも」梅 内 幸 信 ( S . 1 0 3 ) ' 継母は,今度も事実を見抜いて,「ありやあ,ハトちゃんなんかじゃないよ。那師がね、戯郭の烏にあたって、邪って いるのさ」 (S.103)と言う。この良心の曇った継母は、外界の事実は見抜けるものの'ヘンゼルの言い訳の理由'すなわ ち内界の真実は'まった-見抜-ことができないのである。継母は'内界ないし無意識の世界に対して'完全に盲目であ ると言わざるをえない。というのも、ヘンゼルが口実に使った「猫」は'「犬」と並んで'非常に家庭的な動物である。 しかも「猫」は'イメージとシンボルによる解釈学の立場から見れば'「勇気'自由、個人主義'用心'根気'牧滑'策 ( 1 0 ) 略」(イメージ・シンボル、二〇・二二頁)を表していると言われる。確かに、森の中に置きざりにされても、再び我 が家に帰ってこようとするヘンゼルにとって、勇気と策略は必要とされるかも知れない。しかしながら、二度目にヘンゼ ルが口実として「ハト」を使っていることに注目すると'ヘンゼルの無意識的な願望が明らかとなってくるのである。つ ま-'鳩がイメージとシンボルによる解釈学の立場から見て、「平和」と「愛の悦び」 (イメージ・シンボル'一八四⊥ 八六頁)を表すことを考慮に入れると、家を何度も振-返って、鳩をその口実に使うヘンゼルは、平和と愛の悦びに満ち ていた「懐かしの我が家」を振-返っていたことに思い当たるのである。 もし'ヘンゼルの無意識的な願望を、そのように特定しなければ、自分の家が見える場所で何度も小石とパンかけを道 に落とすという行為が、十分には理解されないことになる。というのも'自分の家がまだ見えるような場所で、そもそも 道しるべを落とす必要などないからである。ここでヘンゼルの求めている「我が家」は、産みの母親が生きていたころの 幸せな家庭であると考えられる。これに反して'継母と父親の仲があま-良-ないことは'物語の流れから一目瞭然であ る。両親の仲が悪-なったからこそ、家庭が貧し-なったと考えられる可能性もある。確かに、自分の産んだ子どもでな
い場合、その子どもを継母が可愛がることは、難しいことであるかも知れない。さらに、もし、この継母が'物語の冒頭 で妊娠していると仮定すれば'この継母がヘンゼルとグレーテルに辛-当たるごとは'容易に推測されるところである。 妊娠している女性は'とか-異常な精神状態に置かれると言われる。ましてや、この状態に飢餓状態が加わったとき'そ ( ‖ ) の特異な状況は'尋常な状態にある人間には想像もケかないものがあるのかも知れない。しかしながら'継母がヘンゼル とグレーテルに辛-当たるとは言っても'継母は、二人を積極的に殺そうとしているわけではない。また'二人が'森の 中で野イチゴや根菜を食べて、生き長らえるという可能性もないわけではない。とはいえ、この継母の行為は'前述した 愛情の欠如という理由で、弁護されうるものではない。 それにしても'ヘンゼルとグレーテルは'両親の意図を知-ながら、しかも継母のいる家へ'なぜ二度までも帰ろうと するのであろうか。確かに'二人は'三度目には無事我が家に帰って'父親と一緒に幸せに暮らすことになる。しかしう その前に二人は、二度に亙って家に帰ろうとしているのである。このことは'童話の世界において頻繁に見られる「三進 法」と見なされないこともない。しかし'この二度の繰-返しは'童話の描写としては、詳しすぎるものであると判断さ れる。数行で終わるような単純な繰-返しではない。それゆえ、そこには一つの謎が潜んでいると考えざるをえない。 コンラート・ローレンツがハイイロガンを用いて証明した有名な「刷-込み現象」 によれば'生後〓疋期間のうちに自 ( 2 ) 分の周囲で動-ものをハイイロガンは'母親のイメージとして知覚の中に刷-込むと言われる。同じように、人間の子ど もも'似たような刷-込みの性向を本能的にもっていると考えて差し支えないであろう。人間の場合には'さらに'幼児 期において周囲の環境もイメージとして刷-込む可能性がある。つま-、家庭内の環境や家の周囲の環境も'いわゆるフ ( 2 ) ロイ-の言う「原風景」として刷-込むと考えられるのである。 ヘンゼルとグレーテルも'その刷-込まれた「我が家」に向かって回帰しょうとしているのかも知れない。それは'魚 「まされる賓子に如かめやも」
梅 内 幸 信 や鳥に見られる「帰巣本能」と呼んでも構わないであろう。とはいえ'ヘンゼルとグレーテルが二度に亙って家に帰ろう とする態度は'その無意識における真意を探るとき'必ずしも刷-込み現象や帰巣本能だけでは説明し尽-されないもの ( 2 ) が察知される。それは「甘えの構造」であ-'幼い子どもとしても'この甘えの構造を脱しきれなければ'自己実現への 道は永久に閉ざされてしまう運命にあると言わざるをえないのである。 第四節 退行と自己実現 ヘンゼルとグレーテルが森の中に置きざ-にされることを知ったとき'ヘンゼルが小石を拾って'それを帰-の道しる べとして道に落とす行為は'ヘンゼルの賢さを示すものであると考えられる。しかし'この場面において'ヘンゼルがま だ我が家が見えている段階で、何度も小石を落としている事実に着目すると、そこからもう一つ別の局面が垣間見られて -る。つま-'我が家から離れることに対して、ヘンゼルが異常な不安を抱いていることが看取されるのである。言うま でもな-'幼い子どもにとって、我が家から離れることは、自分を庇護して-れる母親や父親から離れることと同じよう に'大きな不安を引き起こすことは間違いない。また、ヘンゼルとグレーテルが無意識を象徴的に表している「森」に入 ることは'子どもにとって、大きな危険を伴う冒険であることも確実である。しかしながら'子どもとて'いずれ両親の もとから離れて'自立の道を歩まざるをえない。なるほど'一〇歳程度の男の子と判断されるヘンゼルにとって、両親の もとから離れて'自立の道を歩むことは'非常に難しいことであろう。にもかかわらず、一家が飢餓という極限状態に置 かれるとき'子どもも、普通以上に早-自立への道を歩み始めざるをえないで_ぁろう。このことが子どもにとって想像以 上に困難なことであることは、ヘンゼルとグレーテルの態度からも判断される。つま-'グレーテルの方は'不安のあま 亀川量t--- - -- 付等-竜一'-霊 宝--#I'
りただただ泣-ばか-であるし、他方、年長のヘンゼルの方も'妹を慰め'無事我が家に帰る方策を見つけだすことで精 一杯である。二人は'二度目の置きざ-を体験しても'未だに我が家に帰ることのみを考えている。我が家を離れて'自 力で生活することなど思いもよらないのである。二人は、ひたすら我が家における両親の庇護のみ求めている。往々にし て'乳幼児がかな-大き-なってからも、母親の乳房から離れたがらないことがある。やすらかで満たされた状態から離 れたくないのは'乳幼児ばかりではないがt LかLt 母親の乳房からお乳がでな-なってからも'依然として母親の乳房 から乳幼児が離れたがらないとき'母親は'乳房に幸子か唐辛子を塗って'半強制的に乳幼児を乳房から離させることが ある。それは一見すると'薄情な母親の態度と見なされかねないがt Lかしそれは、子どもの成長を願う母親の愛情から でているのである。飢餓という極限状態は'確かに悲惨な出来事ではあるが、物語の中では、これが子どもたちに自立へ の道を歩ませる大きな契機となっている局面を看過してはならぬであろう。 ヘンゼルとグレーテルが我が家の庇護から離れたがらないという状態を「甘え」と見なせば'継母が二人を嫌っていた 具体的理由も推測されて-る。つま-'継母は'ことあるごとに泣-ことしかできないグレーテルは言うまでもな-'な にかを言い付けると'言うことを聞かず、自分に懐かず、上手な言い訳や方策を考えだしては、常に継母から離れて'遊 びに夢中になる男の子であったと推測されるヘンゼルを'好きになれなかったのかも知れない。 二度目に二人が森の中に置きざ-にされ'森の中で道に迷い'帰-の道を見つけられな-なったとき、二人を導-のは、 「 い l ち 朴 の 郡 の よ う に 鋸 く 、 、 鄭 し い 中 部 」 ( S . 1 0 4 ) で あ る 。 こ の 白 く , 美 し い 小 鳥 が 、 邪 悪 な 意 図 を も っ て 二 人 を 魔 女 の 家 へ導いたとは、到底考えられない。というのも、通常'イメージとシンボルによる解釈学の立場から見ると、「小鳥」は、 「魂」 (イメージ・シンボル'六丁六三頁)を表しているからである。ましてや'「自-、美しい」という形容詞が付加さ れている小鳥を、否定的に解釈する可能性はないと言って差し支えないであろう。実際、物語の後半部の展開を考慮に入 「まされる賓子に如かめやも」
梅 内 幸 信 れるとき'この日-'美しい小鳥は'決して二人を魔女の餌食にするために魔女の家に導いたのではなく、二人に自己実 現への第一歩を踏み出させるために魔女の家に導いたと考えざるをえない。すなわち'魔女の存在は、二人が「グレー-・ マザーの悪しき側面」を克服するための第一の関門であると見なされるのである。 このように考えるとき'二度目にヘンゼルが道しるべとして道に落としたパンかけを食べ尽-してしまった小鳥たちも、 一見すると'意地悪な仕業のように見えるがt Lかしそれも、二人を森の中に留めることによって'無意識の世界になじ ませ、それを直視するよう迫った行為とも解釈されるのである。この解釈を前提とすれば'ヘンゼルは、道しるべとして 小石を道に落とすという方策を、自分の遊びにおける試行錯誤の中から自然に見つけだしたと推定される。幼い男の子が そのような智慧を身に付けているということは、と-もなおきず'ヘンゼルが種々の悪戯をする相当な腕白であった可能 性をも想起させずにはいない。 ヘンゼルとグレーテルは、小鳥に導かれて魔女の作ったパンの家にたど-着-と、お腹が空いていたので'ヘンゼルは クッキーで葺かれていた屋根をかじ-、グレーテルは氷砂糖から出来ていた窓ガラスを夢中でかじる。甘い物は'言うま でもな-、子どもたちの大好物である。このお菓子の家が子どもたちをおびき寄せる魔女の民であることを考慮に入れれ ( 2 ) ば'このお菓子の家は'子どもたちを幼児時代へと 「退行」させるものであることは明らかである。我が家の庇護に慣れ 親しんできた子どもたちにとって、また、実母に甘えることなどできなかったヘンゼルとグレーテルにとって'たとえ飢 餓という極限状態にあるとはいえ'急激に自立への道を踏みだすことは、至難の業である。自立への道を踏みだすために は、一旦退行して、甘えることによって甘えを十分に体験し、それによって、そこから反転する心的エネルギーを蓄えね ( 2 ) ばならない。その心的エネルギーとは'換言すれば'「灰かぶ-」が獲得するような「勇気と忍耐」 である。この意味に おいて'二人は'魔女の課す試練を'なんとしても克服しなければならないのである。
子どもたちが音を立てて食べるのに気づいた魔女は'「ポリポリ'ガリガリ'かじるのは、/どこのどいつだ'わしの ・ つ ち 家 を か じ る の は 」 ( S . I 0 4 ) と 問 い か け る 。 こ れ に 対 し て 子 ど も た ち は ' こ う 答 え る 。 かぜ ( 「 風 、 風 だ よ 、 て ん こ 天 の 子 だ よ 。 」 ) ( S . 1 0 4 ) 子どもたちのこの答えは'やや謎めいているがt LかLt この答えは'自分たちが以前だまされた体験から得た智慧で あると考えられる。つま-'最初子どもたちが森の中に置きざ-にされたとき'二人は'木を切る斧の音が聞こえていた ● ち ち お や か き ので'父親が近くにいるものとばか-思っていた。しかし、それは勘違いで'それは斧の音ではな-て、「父親が枯れ木 ふ と え だ か ぜ ふ お と にしぼりつけていた太い枝が'風に吹かれて、あちこちぶつかっている音だった」 (S.102) のである。このだまされた体 験から得た智慧でもって'二人は'今度は魔女をだまそうとしていると解釈される。この学習の早さは'極限状態にあっ て'二人が'俗に言うところの「火事場の馬鹿力」を発揮し始めている証拠と見なして構わないであろう。このことは' 同時に'二人が無意識の力を急速に吸収し始めていることをも示している。 家から這うようにして'杖をつきながら出てきた年老いた魔女は'二人にご馳走を出して'やがて二人が太ったところ あ か め と お み で、煮て食べてしまおうという魂胆でいる。この魔女は、「赤い目をしていて'遠-まで見ることができませんが'それ き ゆ う か く ど う ぶ つ に ん げ ん ち か でも、喚覚が動物のようにするど-て、人間が近づいて-ると'それがすぐにわかる」 (S.105)という風に描写されて いる。この「赤い目」は、「生賛'狩猟」を求める冒'さらには「血、戦争'犯罪'復讐'怒-」 (イメージ・シンボル' 五二〇-五二二頁) に溢れた目を象徴的に表している。また'この魔女の視力が弱いということは'継母と同様に、魔女 「まされる賓子に如かめやも」
梅 内 幸 信 の良心も利己主義的欲望で曇っていることを示している。欲望に捕われた魔女は、まずヘンゼルを太らして、食べようと も-ろみ'グレーテルに命じて'とびき-のご馳走を作ってヘンゼルに食べさせる。ヘンゼルは家畜小屋に入れられ、グ レーテルはヘンゼルに食べさせるご馳走を作らなければならない。ヘンゼルはご馳走攻めに遭っているのに'グレーテル にはカニの殻しか与えられない。魔女は'男の方は甘やかし放題にして太らせ'堕落させ、他方、女の子の方には辛く当 たって痩せ細らせ、恐怖感をうえつけるのである。智慧のあるヘンゼルは'魔女が太ったかどうかヘンゼルの指に触って 調べようとすると、その度に小骨を差し出して'目の悪い魔女を欺-。しかし'四週間経っても痩せたままでいるヘンゼ ルの状態を不思議に思いながらも'とうとう我慢しきれな-なった魔女は'次の日にヘンゼルを煮て食べようと決意す る。 こうして魔女は、グレーテルに水を汲ませにやる。グレーテルは、大粒の涙を流して泣-が、しかし'魔女の命令に背 -ことはできない。次の日'グレーテルは、水の入った鍋をかけ'火をおこさなければならなかった。ところが'そのと き魔女は'その前にパンを焼こうと言いだす。パン焼き窯の中には、すでに火が燃やされていて'窯はすでに十分熱くなっ い な か じ ゅ う ぶ ん あ つ た し ていた。そこで魔女は、「パンを入れられる-らい、中が十分熟-なっているかどうか、確かめるんだよ」 (S.106)とグ レーテルに命じるが'しかし、グレーテルは'魔女が自分をパン焼きが窯に閉じ込めて焼き殺そうと狙っていることをす よ な か は い ばや-察知して'わざと「どうしたら良いのか'わからないの。どうしたら'中へ入れるのかしら」 (S.106)と'見え透 いたような嘘をつ-。今や'グレーテルは、以前継母が用いた嘘のテクニックを身に付けてしまっている。確かに'嘘を つ-ことは'褒められたことではない。しかし、生死のかかった極限状況にあっては、しかも'子どもにとっては'「嘘 も方便」かも知れない。いずれにしても'グレーテルが魔女の家での試練に堪えているうちに'大きな精神的成長を遂げ たということが理解される。
物語の中で魔女は'ヘンゼルに「四週間」に亙ってご馳走を与えて太らそうとしたと措かれているが、この期間は'現 実の世界の尺度によって置き換えてみると'四年程度の長さに相当するものとして計算しなければならないであろう。一 年の四季や四大などからも十分に推測されるように'「地上界の秩序」と「人に'宇宙を整然と配置した神とその無限の 力を思い起こさせる数」 (イメージ・シンボル'二六二-二六三頁) と関連する四年の歳月が経過しているのであれば'グ レーテルの劇的な精神的成長も'それほど不可思議だという印象は与えない。 や -ち お お 弱虫のふ-をしたグレーテルの計略に引っ掛かった魔女は、グレーテルを馬鹿にして'「焼きがまの口は'こんなに大 み は い きいじゃろが、ほら'よ-見ろ。わしじゃって入れるがねえ」 (S.107f.)と言って、ヨタヨタと寄ってきて、頭をパン焼 き窯に入れる。そのときグレーテルは'後から魔女を勢いよ-押したので、魔女は窯の中にのめりこんでしまう。すると' グレーテルは'すぐさま窯の戸を閉めて、門をかけてしまったので'魔女はその中で焼き殺されてしまうのである。この グレーテルの'以前とは見違えるような勇敢な行為は、現実的な目で眺めれば'老婆殺しの残忍なものとも見なされかね ない。しかしながら'この行為の解釈には'白雪姫が、自分を三度に亙って殺そうと試みた継母を'最後には真っ赤に焼 けた鉄の靴を履かせて'踊-殺させた場面と同じ解釈を適用すべきであろう。つま-、白雪姫は'その場面において、継 母を処刑したというよ-も'自分の無意識における「グレート・マザーの悪しき側面」を抹消したと解釈されるのである。 これと同じように'グレーテルの魔女殺しも'自分の無意識の中に潜む否定的なグレート・マザー'すなわち魔女と継母 をここで抹消したと解釈しなければならない。このような自己否定を経たからこそ、その後のグレーテルの目覚ましい精 神的成長も難な-納得がゆ-のである。 「まされる賓子に如かめやも」
梅 内 幸 信
第五節 魂の呼びかけ
洞察力の鋭い読者であれば必然的に見抜けると思われるが、物語の前半部におけるグレーテルの振る舞い方と、物語の 後半部におけるグレーテルの振る舞い方とでは、それこそ雲泥の差があると言わざるをえない。物語の前半部におけるグ レーテルは'ほとんど泣いているばか-の弱虫な女の子であるが'これとは対照的に'物語の後半部におけるグレーテル は'ジャンヌ・ダルクのような勇敢な女の子に変身している。これとは逆に、物語の前半部において健気に振る舞ってい るヘンゼルは'魔女に甘えさせられすぎたせいか、物語の後半部になると、なんとな-間が抜けて'生彩を欠-男の子に なってしまっている。 魔女の森から脱出しようとする二人は'二、三時間行-と'大きな川に出る。魔女のお菓子の家に行-ときには川を越 えてはいないので'この帰-の道は'以前たどった道とは違うものであることが分かる。この川が「冥界の川」 (イメー ジ・シンボル'五二七-五二八頁)、すなわち「三途の川」を象徴的に示して/いることは'容易に理解されよう。この意味 において、ヘンゼルとグレーテルは、魔女の森において死に相当する体験をしたと考えられるのである。実際、二人は' それなりに人格上の脱皮を成し遂げたと言って差し支えないであろう。その証拠に'川が大き-て、しかも、その川に橋 が架かっていないことを知ると'グレーテルは'川を泳いでいる一羽の白いカモに'こう呼びかける。 (「カモさん'きてちょうだいな' ここにグレーテルとヘンゼルがいるの。 こ ば し お お は し 小橋も大橋も'なんにもないの、し ろ せ な か の 白 い お 背 中 に 乗 せ て ち ょ う だ い な 。 」 ) ( S . 1 0 7 ) 童話の世界において'カモと女の子が意志疎通を図ることは'それほど驚-べきことでもない。しかしながら'物語の 前半部におけるグレーテルの行動を記憶に留めている読者には、この場面におけるグレーテルの自信に満ちた振る舞いに 接するとき'その変身振-に驚かざるをえない。今や'グレーテルには'自分の取る行動に対する席捲というものがまっ た-看取されない。自分のカモに対する呼びかけが間違いな-聞き入れられるものと'グレーテルは確信している。彼女 のそのような自信は'どこから生じてきているのであろうか。「カモ」は、「深遠な神秘を極める喜び」 (イメージ・シン ボル'一九二頁)を象徴的に表していると言われる。このことを考慮に入れれば'魔女の森での試練を通じて無意識の智 ( 」 ) 慧を身に付けたグレーテルは'「深遠な神秘を極める喜び」を表すカモと'「神秘的融即」に基づ-感応関係にあると解釈 さ れ る 。 他方、魔女のお菓子の家でご馳走攻めに遭ったヘンゼルの方は、グレーー・マザーの悪しき側面に感化されて、その知 覚がかな-鈍磨させられ、人格上の成長が遅滞したかのような印象を与える。とはいえ'魔女の家に隠されていた宝石を 発見したとき'ヘンゼルは'その宝を自分のボケッIに詰め込んで家にもち帰るという如才なさを失ってはいない。従っ て、物語におけるヘンゼルとグレーテルの人格上の発達全体を考察するとき'一つの仮説が浮上して-ることに気づく。 それは、アニムスを代表するヘンゼルと、アニマを代表するグレーテルは'この童話において一体のものであって、アニ ムスとアニマの相互補償作用がこの童話の本質的テーマとなっているのではないかという仮説である。つまり'﹃蛙の王 さ ま ﹄ W K S 一 ) や ﹃ 黄 金 の 鳥 ﹄ ( w k : 五 七 ) な ど の 男 性 が 主 人 公 と な っ て い る 童 話 に あ っ て は ア ニ ム ス の 育 成 が 問 題 と な っ て い る が 、 他 方 、 ﹃ 白 雪 姫 ﹄ ( ォ a : 五 三 ) や ﹃ 赤 ず き ん ﹄ ( w s : 二 六 ) 、 ﹃ 灰 か ぶ -﹄ w k ; 二 一 ) な ど の 女 性 が 「まされる賓子に如かめやも」
梅 内 幸 信 主人公となっている童話にあってはアニマの育成が問題となっていると考えられる。これに反して'﹃ヘンゼルとグレー テル﹄ にあってはアニムスとアニマのいずれか一方ではな-'兄妹として'アニムスとアニマの一体化が問題となってい ると思われてならない。 「兄と妹」と言えば'エーレンベルク手稿(一八一〇年)から最終第七版まで一貫して﹃グリム童話集﹄において第一 一番目の童話として収められている﹃兄さんと妹﹄(WKSl-1)が想起される。これに対して'﹃ヘンゼルとグレーテル﹄ は'一八二一年の初版において初めて収録されている。この二つの童話は'どちらも「兄と妹」という人間関係をテーマ としているという点において類縁関係をもっているとはいえ'異なる部分もかな-ある。詳細な比較検討はここでは差し 控えたいが、まずもって'﹃兄さんと妹﹄ において二人の両親がまった-登場しないという点が、大きな相違点である。 この意味において'「兄さんと妹」 の方が'「ヘンゼルとグレーテル」よ-も、年上の「兄妹」であるということが容易に 推測される。さらに'﹃兄さんと妹﹄ において'兄は魔女の魔法によって鹿に変えられてしまう。さらに、シユティフタI ( 2 ) の ﹃水晶﹄ に見られるコンラーIとスザンナの兄妹愛を想起する読者も多-いることであろう。しかしながら、この短編 小説は'冬の雪山で道に迷い'洞窟の中で救助を待つ間の兄妹愛を措いたものであるとしても'そこで二人の人間的成長 を中心テーマとして扱っているかと言うと'どうやらそうでもないと思われる。むしろ'兄妹愛や自然の神秘、村という 共同体の人間関係を中心テーマとして扱っていると考える方が妥当であると言わざるをえない。﹃水晶﹄は'やは-作者 の個人的無意識の中で創作された作品であ-'他方、﹃ヘンゼルとグレーテル﹄と ﹃兄さんと妹﹄は、集合的無意識の中 から生まれたところに、決定的な違いが兄いだされる。 両親が「木こ-とそのおかみさん」 で'「飢鐘のために、子どもたちが二度に亙って森の中に捨てられる」、「男の子が 初め白い小石を'そして、次にパンかけを道しるべとして道に落とす」という'﹃ヘンゼルとグレーテル﹄との三つの大
きな類似点をもつ童話が'ペローの﹃親指小僧﹄である。この二つの童話は、確かに'大きな類似点をもってはいるので あるがt LかLtそこには大きな相違点も存在している。つま-'子どもたちは男の子ばか-七人であるLt子どもたち を森の中に捨てようとするのは父親の方である。主人公である一番末の息子である親指小僧は'背が一番小さいものの' 一番賢い。むしろ、この親指小僧は、ずる賢いと言わねばならない。この親指小僧は、兄妹と共に森の中で人食い鬼とそ の妻の家に泊めてもらうが、子どもたちを食べてしまおうと考えている人食い鬼の裏をかいて'逆に'鬼に彼自身の七人 の娘を殺させる。さらに'追いかけて-る鬼の寝てる間に'鬼の七里靴を履いて'鬼の家へと取って返し'鬼の妻に嘘を ついて'鬼の家にある宝をすべて奪ってしまうのである。この童話の中心テーマは'ペロー自身が最後に述べているよう に、「子沢山を嘆-にはあたらない'/みんな美し- '姿よ-'背が高-/才気ほとばしる様子なら。/そのうちのひと -がひ弱で'無口だと、/軽蔑され'からかわれ、やっつけられるが'/時にはこのちびの出来損ないこそが/家中みん ( 2 ) なの幸福を生みだす」という教訓である。「弱者や無口者」といった人々の再評価は、当時目覚めつつあった博愛主義と も関係があるかも知れないが、しかし'このテーマは'﹃ヘンゼルとグレーテル﹄ の 「兄妹愛のテーマ」とは'かなり異 なったものであると言わねばならない。
第六節 人生の希望
﹃ヘンゼルとグレーテル﹄ においてアニムスとアニマの一体化が問題となっているとは言っても'それには〓疋の条件 を付けなければならぬであろう。というのも'人間がアニムスとアニマとを区別せず、一体のものとして'その相互補償 作用を求めるのは'男性的なものと女性的なものを区別せずに対等に育成しうる子ども時代においてのみである。成長に 「まされる賓子に如かめやも」梅 内 幸 信 伴って異性を意識せざるをえない時期が訪れると'やは-、人間は'自己の中にあって異性的なものを無意識の中へ抑圧 せざるをえない。そうなると'必然的に男性的なものと女性的なもののいずれか一方を意識して'この成長を促進し'他 方を無意識のうちに抑圧せざるをえないのである。これが'思春期の時代である。 魔女の家にたど-着いたとき'ヘンゼルは一〇歳程度の子どもであったが'やがて四年程度の歳月が流れ'川にやって きたころのヘンゼルは'すでに一四歳か一五歳の年齢に達していたと考えられる。従って'ヘンゼルは'このときにはす でに、グレーテルを妹としてではな-、一人の女性と見なしていると思われる節がある。というのも、ヘンゼルは'カモ の背中に乗ったとき'グレーテルにも自分のそばに座るように誘っているからである。確かに'兄の妹を思いやるいたわ -の感情からそのような声をかけたのかも知れない。にもかかわらず'ヘンゼルは'無意識のうちにグレーテルを'今や 一人前の女性と受け止めていると思われる。それゆえにこそ'即座にグレーテルは'ヘンゼルの誘いを断って'一人ずつ 順番に渡してもらうことをヘンゼルに逆提案するのである。それは、二人一緒にカモに乗れば、それがカモにとって重す ぎるといった単純な理由からでは決してない。グレーテルは今や、ヘンゼルの誘いを断らなければならない明確な理由を もっているのである。それは'グレーテルが森の中で初潮を体験し'「女になったこと」を自覚したという理由に他なら な い 。 グレーテルは'兄のヘンゼルを食べようとしている魔女を'計略を用いてパン焼き窯に押し込んで焼き殺してしまう。 確かに'兄を土壇場で窮地から救おうとする必死の思いから、グレーテルに瞬間的に火事場の馬鹿力が働いたことは、十 分考えられるところではある。しかしながら'その後のグレーテルの自信に満ちた勇敢な行ないは、火事場の馬鹿力だけ で説明し尽くされるものではない。すでに前述したように'魔女を焼き殺すというグレーテルの行為は'彼女自身の無意 識に秘められたグレート・マザーの否定的側面の抹消を意味すると解釈した。そして'そのことは'同時にグレーテルの
自己否定を意味すると解釈したのであった。ここで、このような自己否定を、一体女性は'いつの時点でなしうるかにつ いて考察するとき、なんとしても、女性がこのような劇的な精神的変化を成し遂げうるのは、最終的に「初潮を迎えると き」以外には探-当てられないと思われる。魔女の森で四年程度の歳月が流れて'当初七歳程度のグレーテルが'ちょう ど一〇歳か二歳を迎えたとき'グレーテルに「初潮」が訪れたと推測される。この出来事によって、女性になったグレー テルは'魔女と対等の力を獲得し'それどころか'魔女を焼き殺すだけの勇気を身に付けたのである。 ヘンゼルとグレーテルは、魔女の家で見つけた真珠と宝石を我が家にもち帰-、そのために一家は貧乏に悩まされるこ となく'幸せに暮らす。ヘンゼルはボケッ-一杯に宝を詰め込み'グレーテルは前かけに宝を入れる。それだけの真珠と 宝石が手に入れば'言うまでもな-'一家は不自由な-暮らせるであろう。しかも'意地悪な継母は死んでしまっている いし ので'一家には'今や三人しかいない。物語の中で継母に関しては'「おかみさんはと言えば'もう死んでしまってお-ました」 (S.-O」)と'極めて簡単に報告されるだけである。物語の文脈からして継母は'とても老衰などで死ぬなどとい うことは考えられないが、しかし'そこではその理由すら述べられてはいない。もっとも、このことが「まま母=魔女」 ( 8 ) であることを明確に示しているのかも知れない。興味深いことに'子ども用の絵本﹃ヘンゼルとグレーテル﹄ では'継母 は病気で死んだことになっている。これは'一見すると、安易な結末の付け方のように思われるが'しかし、熟考すると' かなり示唆に富む見解であるとも考えられる。というのも'継母は'魔女と同様に、その良心が曇らされた女性であるが' この良心が曇らされるだけに留まらず、もし'その良心が凍-ついて死んでしまったとすれば、その肉体の死も'そう遠 い話ではなくなるからである。人間の良心が凍てついてしまうとき'その人間には希望の光が差し込まな-なってしまう。 大飢健の時期にあって'希望がな-なるとすれば'その人間の肉体は'驚-ほど早-弱体化するものである。食べものと いうよりは'希望を失った人々がユダヤ人強制収容所で早-死んでいったという報告を、自分自身強制収容所に入れられ 「まされる賓子に如かめやも」
梅 内 幸 信 た体験をもつフランクルが自著の中で、次のように記している。 (「これに対して一つの未来を'彼自身の未来を信ずることができなかった人間は収容所で滅亡して行った。未来を ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● 失うと共に彼はそのよ-どころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したのであった。このことは一種の 危機の形でしばしばかな-急激に起きることもあった。︹--︺ 勇気と落胆、希望と失望というような人間の心情の状態と、他方では有機体の抵抗力との間にどんなに緊密な連関 があるかを知っている人は、失望と落胆へ急激に沈むことがどんなに致命的な効果を持ち得るかということを知って い る 。 ︹ -︺ 反対に何の生活目標をももはや眼前に見ず、何の生活内容ももたず、その生活において何の目的も認めない人は哀 れである。彼の存在の意味は彼から消えてしまうのである。そして同時に頑張-通す何らの意義もなくなってしまう ( 3 ) の で あ る 。 ︹ -︺ 」 ) 勇気と希望'そして'忍耐は'単に「白雪姫」や「灰かぶ-」ばか-ではな-'生きようとする人間すべてにとって不 可欠なのである。
第七節 人生の賓
グリム童話の中に登場する「白雪姫」 や「灰かぶ-」といった有名な女性の登場人物たちは、大変な美人として措かれている。そのうえ、彼女たちは、容貌のみではな-'心までが美しいのである。これに反して、悪玉になる女性たちは、 器量も悪いうえに、心も悪-措かれている。童話におけるこのような極端に誇張された描写を見て、よ-女子大生が、 「とても不公平だ」という感想をもらす場合がある。しかしながら'この感想は'当該の女子大生が大人の目で童話の出 来事を観察していることに依拠している。一般に'童話の世界においては'詳細な性格描写や事件報告は行なわれない。 一切が強敵な太い線で措かれるのみである。また、登場人物の細かな内面描写が行なわれることもない。童話における描 写に関して肝腎なことは'登場人物の徳性が'「器量良し」とか「金髪の髪」といった外面的特徴に置き換えられるとい ( 2 2 ) う点である。このことを考慮に入れると、ヘンゼルとグレーテルが魔女の家で発見する「真珠と宝石」も'人間の内面に おける徳性を具体的に表しているということに思い当たる。それにしても'その 「真珠と宝石」は'具体的に一体なにを 指し示しているのであろうか。 「 真 珠 」 は ' 「 清 浄 」 ( イ メ ー ジ ・ シ ン ボ ル ' 四 八 七 -四 八 八 頁 ) を 象 徴 的 に 表 し て い る と 言 わ れ る 。 そ し て ' 「 宝 石 」 は ' 「 高 連 な 真 理 、 ま た は 知 識 」 「 豊 鏡 」 「 純 粋 さ 」 ( イ メ ー ジ ・ シ ン ボ ル 、 二 七 七 -二 七 九 頁 ) の 象 徴 と な っ て い る 。 こ の 種 の 宝は'魔女の徳性を表しているとは到底考えられない。想定されるとすれば'魔女がそれらの宝石を、それまでに食べた 子どもたちから奪ったということである。実際'「清浄」「高連な真理'または知識」「豊鏡」「純粋さ」という徳性は'子 どもの中に潜在的に秘められたものであると言うことができる。﹃イバラ姫﹄ mk; 五〇) の中で'長年の夢である子ど もが生まれたとき、その娘の誕生を祝う盛大な宴会を催し、その席に二一人の仙女も招待する。これらの仙女たちは'宴 会が終わると'この子どもに「ふしぎなお--物」を授ける。その贈-物は、グリムのテキスIでは、「美徳」「美しさ」 「富」 の三つ目までしか述べられていない。しかし'ドイツで発売されているあるカセットテープでは'翻案になるテキ スIではあるが、明確に二の贈-物が述べられている。それに従えば、その二の贈-物とは、「明朗さ」「幸福」「誠 「まされる賓子に如かめやも」
梅 内 幸 信 ( 2 3 ) 実 さ 」 「 健 康 」 「 勇 気 」 「 忍 耐 」 「 幼 年 期 の 快 活 さ 」 「 老 年 の 幸 せ 」 「 美 し さ 」 「 礼 儀 正 さ 」 「 慈 悲 深 さ 」 で あ る 。 確 か に ' こ の 二の徳性を具えた人間は、完全な人格をもっていると見なすことができるであろう。この点を考慮に入れれば、ヘンゼ ルとグレーテルが魔女の家で発見した「真珠と宝石」は'これらの徳性を具体的に示したものだという解釈が可能となる と思われる。 魔女は、お菓子の家で子どもをおびき寄せ'甘やかすことによって、子どもを堕落させ、子どもの中に潜在的に秘めら れている多-の徳性'すなわち「真珠と宝石」を奪っていたのである。ここで「魔女-まま母」という図式を認めるとす れば'継母も'魔女とは異なる方法で子どもの無意識の中に秘められた宝を奪っていたと考えられる。つまり'継母の方 は'子どもに辛-当た-、愛情を注がずに虐待するという行為でもって'子どもの宝を奪っていたのである。しかしなが ら'これまで奪われていた自分たちの宝を'子どもたちは魔女の家で発見し'それらを父親のもとにもち帰ったのであっ た。 童話の世界は'現実の世界の論理とは異なる論理によって構築されている。しかしながら'読者は童話を理解するため には'やは-現実の世界の論理から完全に離れて理解することはできない。童話の解釈者にとって最も難しいことは、ど こまで童話の世界の論理に近づいて解釈するか'あるいは、どこまで現実の世界の論理に近づいて解釈するかという問題 である。恐ら-'童話の解釈者は'その両者の論理の間を絶えず揺れ動-というのが実態であろう。ここで﹃ヘンゼルと グレーテル﹄ における父親の立場に関して、現実の世界の論理に近づけて考察してみよう。 一見すると'悪玉が継母と魔女で、父親は善玉のグループに属しているかのように思われる。ヘンゼルとグレーテルも、 魔女の家で発見した宝を父親のいる我が家へもち帰っているゆえに、二人の子どもたちが慕う父親は善人であるかのよう な印象を受けがちである。確かに、父親は、継母の子どもを森の中に置きざ-にしようという考えに、積極的には賛成し
ていない。しかし'最終的に父親は、継母に言い含められて、継母の考えに賛成してしまうのである。しかも'森の中で 斧の音をたてる仕掛けを取-付けたのは'他でもな-父親である。消極的ながら'そして'継母よ-は子どもたちを愛し ていたとしても'継母の考えに最終的に同意して'子どもたちを森に置きざ-にしたのであるから'父親も「子どもの置 きざ-」に関しては,共犯者であ(S) それでは、」体どうして、継母の共犯者である父親が罰を受けずに,その後長らえ て子どもたちと幸せに暮らすのであろうか。この理由が突き止められねばならないであろう。 この理由を、ある程度の説得力をもって説明するためには、い-つかの手順を踏むことが不可欠であると思われる。ま ず'首謀者の継母は'死んでいるという点で'すでに罰を受けたと見なされる。一万㌧父親の方は'物語の結末部で子ど もたちがもってきた宝をもらって、金持ちになっている。こうして見ると、父親は罰を受けていないように見えるが'し かしながら、綿密に考察すると'父親も、それな-に罰を受けていると見なされるのである。つま-、冷酷な継母とはい え'木こり自身にとっては「後妻」 であ-'木こ-の人生の伴侶であることには変わ-はない。その後妻を失うことは' 木こりにとって大きな痛手であろうLtまた、もしこの後妻が妊娠していたとすれば、それは一層大きな損失を意味する ことになるであろう。さらに、木こりが消極的ながら後妻の考えに同意したとは言っても、木こ-自身は、子どもを森の 中に置きざりにしたことに関しては'やは-相当な良心の吋責を覚えていたと推測される。自分の罪を認識し'良心の吋 責を覚える木こりは'子どもを森の中に置きざ-にして以来'日々苦しんだに違いない。このことによって父親は、十分 罰を受けたと言えるのである。なかんずく子どもたちが宝をもち帰ったとはいえ、その後子どもが本当に自立する時期 を迎えるまで、木こ-は、恐ら-新たな妻をもらわずに、男手一つで子どもの面倒を見てゆかな-てほならないのである。 確かに、父親は'半分は継母の共犯者には違いないがt LかLt物語の幸せな結末からして'父親の罪は許されていると 解釈せざるをえない。そうすると'次のような解釈も可能になって-るのである。つまへ自分の子どもを森の中に置き 「まされる賓子に如かめやも」
梅 内 幸 信 ざ-にしたことから生ずる父親の「大きな良心の阿責」が、例の白い鴨の形を取って'子どもたちを冥界から救い出した という解釈も'一つの可能性をもって-る。そして'この解釈を採用すれば、継母の共犯者であった父親の罪が許される 理由が明確に理解されてくるのである。 ヘンゼルとグレーテルは、すでに魔女の家での体験を通じて自己実現への道を歩みだしているとはいえ、恋人と出会い' 自分で家庭を築-までには、未だ若干の歳月を必要としている。とはいえ'二人のもち帰った宝が示しているように'今 やヘンゼルは立派に父親の仕事を助けることができるであろうし、また'グレーテルは家事を十分にこなすことができる であろう。継母のもとで一度は奪われていた徳性を、すでに子どもたちは取-戻しているのである。まさに'子どもは賓 し ろ が ね -が ね し ( 8 ) なのである。この意味において'「銀も金も玉も何せむにまされる賓子に如かめやも」という﹃万葉集﹄に収められてい る詩は'真実を言い当てている。 注 ( -) 中 村 浩 ﹃ 飢 餓 - 人 類 の 悲 劇 的 実 態 ﹄ み す ず 書 房 、 東 京 一 九 五 六 年 、 二 一 頁 。 ( 2 ) 同 書 、 五 六 -六 八 頁 参 照 。 ( 3 ) 同 書 、 六 九 -七 〇 頁 参 照 。 ( ^ ) V g 1 . D r e w e r m a n n , E u g e n : H a n s e l u n d G r e t e 1 . W a l t e r V e r l a g , Z u r i c h u n d D u s s e l d o r f 1 9 9 7 , S . 1 4 . (5) 辻密男﹃ノモンハンとインパール﹄旺史社、東京二〇〇〇年、二六≡-二六七頁参照。/丸山静雄﹃インパール作戟従軍記﹄岩波 書店、東京一九八四年、一五一⊥九一参照。/ピーター・ガ-ンジイ ﹃古代ギリシア・ローマの飢健と食料供給﹄松本宣郎・阪本 浩 訳 ' 白 水 社 ' 東 京 一 九 九 八 年 、 六 -六 〇 頁 参 照 。 / 藤 原 彰 ﹃ 飢 死 し た 英 霊 た ち ﹄ 青 木 書 店 ' 東 京 二 〇 〇 一 年 、 七 〇 -八 五 頁 参 照 。 ( < & ) B r t t d e r G r i m m : K i n d e r -u n d H a u s m a r c h e n . 3 B d e . , P h i l i p p R e c l a m j u n . G m b H & C o . , S t u t t g a r t 1 9 8 0 , 1 . B d . , S . 1 0 0 -1 0 8 . 以 下 、 こ の 童 話
からの引用は、この版に従い、本文引用末尾に頁数を付す。なお'翻訳に当たっては、次の最終版の翻訳を参考にさせて戴いた。 ﹃グリム童話集(一)﹄金田鬼一訳、岩波書店(文庫)、東京一九八二年'一五六⊥七二頁。/﹃完訳グリム童話﹄ (丁七)第一巻' 野村弦訳、筑摩書房'東京一九九九年'一五四⊥七一頁参照。 ( 7 ) ﹃ 日 本 大 百 科 全 書 三 ﹄ 小 学 館 、 東 京 一 九 九 四 年 、 二 〇 二 頁 参 照 。 (8) マレも、継母の行動の合理性を、次のように指摘している。「ところが、実際はそうではない。そう見えるだけのことだ。わたし たちが、この両親の身になってみれば、情況はがらっと変わって-る。この両親は、与えられた境遇の中で'十分な行動の余地を 持たない。実際に'彼らにとっては二者択一しかない - 四人が揃って餓死するか、二人が残るかのいずれかである。もしも一家 を没落させまいと思えば'誰でも二番目の方法を選ぶしかない。では誰が生き残るべきかという問題に直面すれば、出て-るのは' ●● たった一つの現実的な決定である - 両親が生き残ることだ。子供たちには'二人だけで切-抜ける力はないだろう。」 (カール-ハ イ ン ツ ・ マ レ ﹃ ( 子 供 ) の 発 見 - グ リ ム ・ メ ル ヘ ン の 世 界 - ﹄ 小 川 真 一 訳 ' み す ず 書 房 ' 東 京 一 九 九 二 年 ' 二 七 -二 八 頁 ) ( 9 ) 河 合 年 男 ﹃ 昔 話 の 深 層 ﹄ 講 談 社 、 東 京 一 九 九 四 年 ' 七 〇 -七 四 頁 参 照 。 2 アト・ド・フリース ﹃イメージ・シンボル事典﹄山下主一郎他訳、大修館書店、東京一九八八年'二〇-二二頁参照。以下' この事典からの引用・参照に関してはこの版に従い、「イメージ・シンボル」と略記して、本文引用末尾に頁数を付す。 ( m ) V g 1 . D r e w e r m a n n , E . : a . a . O . , S . I 7 . 2 tt-エヴアンズ ﹃ローレンツの思想﹄ 旦尚敏隆訳、思索社、東京l九七九年'一七-三三頁参照。/コンラーー・ローレンツ 著﹃ローレンツの世界 - ハイイロガンの四季 - ﹄旦尚敏隆監修、羽田節子訳'日経サイエンス社、東京一九八九年。 ( C 。 ¥ 「 原 光 景 」 と 「 原 風 景 」 の 意 味 お よ び 両 者 の 相 違 に 関 し て は ' 次 の 論 文 を 参 照 の こ と 。 高 橋 義 孝 ﹃ 蛮 術 と 精 神 分 析 ﹄ 人 文 書 院 、 東 京一九七九年、一七九-二〇一頁。 (2 土居健郎は、「甘え」 の人間関係は、まず「母子関係における幼児の振舞い」を挙げている。これは'容易に理解されうる「甘え」 であるが、この 「甘え」は、さらに「父子関係」「親子関係」という具合に拡大してゆ-ことが可能であると思われる。(土居健郎 ﹃ 「 甘 え 」 の 構 造 ﹄ 弘 文 堂 、 東 京 一 九 九 七 年 、 七 八 -九 四 頁 参 照 ) (ほ) ﹃精神分析事典﹄弘文堂'東京一九九五年、二二頁参照。ここでは、「退行」を「耐え難い欲求不満に直面して'それから身を 「まされる賓子に如かめやも」