The Diary of Sanuki no Suke
ņThe Influence of Shirakawaࠊ
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His Majesty the Emperor Emeritusņ
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The Diary of Sanuki no Suke is a diary written by a lady-in-waiting who served Emperor Horikawa. Even after Emperor Horikawa grew up, his father, Shirakawa-in, continued to influence him. Shirakawa-in did not appear in the work in reality, but he was the one who controlled the lives of Emperor Horikawa and the author.
So I will Consider the reason why the author made Shirakawa-in appear in the work only in the form of hearsay in this report.
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た 長子の 目に は、 こ れ ら白 河院の 判 断 は ど のよ う に 映 っ たの であ ろうか。 もともと長 子 は白河院に 対し て 少なか ら ず警戒心 を抱い て いた 節 が ある。 長子が本作を書く直接 の要 因ともなっ た 鳥羽朝への出 仕は、白河院の意 向 に よ るも の で あっ た。冒 頭 の引 用箇所にもある よ うに、 そ も そ も 白 河院は 長 子 が堀 河 朝 に出 仕 し てい る と きか ら東 宮 御 所へ の 配 置 転 換 を考 え ていた という。堀河 天皇がそれ を 無視 する形 でうやむやにな ったよ う だが 、長 子 は 日 ごろ から、 院 の意向一つ で 堀 河 天皇御所 から 出 さ れるこ と を 危 惧 して いたの か もし れ な い。 同 時 に長子 は 堀河 天 皇 と白 河院 の 親 子 関 係 、「院」 で ありながら絶 対的な権力 を 振るい、世間 もまた白河院 におもねる様子 を 間 近 で 見続け、それに抗おうと苦悩する堀 河天皇の姿も見続け て き た の で あ る (注九 ) 。 白 河 院 は 長 子に とって も 堀河 天皇に と っ て も、 逃 れら れ ない 「陰 」 であ り 「 影 」 であ った 。 長 子 と 堀 河 天 皇 は白 河 院 の 「 か げ 」 の 下 に 常 に 置 か れ、 その 「かげ」 に翻 弄され、 人生 の決定権を 握 ら れ て い た 。 堀河天皇と自 らを 同化する 傾向が強いと 言われる長子 は、 その圧迫 感を二重に感じ、 警 戒心 や反 感、極端に言 えば 嫌悪の 情 すら抱い て い たの かもしれ ない。 父と息子との対面は叶わなかっ た堀河天皇だが、中宮篤子内親王と の対 面だけは実現し た 。 そ の直後、 堀河天皇 は 「 今日しも、 す こ し 夜の明け たる 心地 して おぼゆ れ 」と 安堵の表情を 見せた。 中宮と の 対 面 で 「 すこ し明 け る」 心 地 がし た の であ れ ば 、 父 院 に 託 し た い こと はど れほ どの こと があっ たのだろうか 。その点を 長 子が感じ て い たのだとすれ ば、 そ こ にも白河 院 に 対 して 思 う とこ ろ が あ っ たと して も 不思 議 で は な い。 この よ う に 、 長 子 と 白 河 院 の 関 係 を 見 て い く と 、『 日 記 』 に お け る 白 河 院 の描かれ方に重なる部分が出 て くる。直 接対面し声 を 掛けら れ る こ とも な いほどの遠い存在 で あ りな がら、常に自 分 の存在 を 認 識 、監視し、間接 的 に、 か つ 強制的に 人生に 介 入し て く る。長子から す れ ば 実体がない人物 の 意志に翻弄さ れ て いる状態 で あ り 、 白河 院は 不気 味 で ありなが ら 抗 えない 、 戦い よう のない相 手 で あった。 そ こ に 加 えて 堀河天皇の苦 悩を 感 じ 取 っ た とき 、 長子にと っ て 白 河 院 は 「 自分側 」、 そ して 「堀河天皇 の 庇 護 者 」 と し ては映 ら なか った 。 白 河院 を 「意 志 を持 った かげ 」 と しか描か なか った 、 ま た は 描けなか ったの は 、た しかに実際の 交流 や対面の 有無が大 きく 影 響 し たのかもしれ ない。しかし 、意図的か偶 然か、実体を伴わないなが らも 絶 大な影響力 を 持つその描 き 方 は、か えっ て 当 時の白河 院の在り方 を 象徴し ているの と同 時 に 、長子の 白河院 に 対 す る感 情の 表れ になっ て いる と も 言 えるの で ある 。 (一) 『 古事 談 続古事談』 ( 『新日本古典文学大系』 岩 波書店 二〇一 三 年 四月)六 一二頁 (二) 拙 稿 「『讃岐典侍日 記』 ― 「 託 宣 」 す る女房― 」( 『中 央大學國文』 第 五九号 二〇 一六年三 月) (三) 『和 泉 式 部日 記 紫式部日記 更級 日記 讃岐典侍日記』 ( 『 新 編 日本古典文学全集』小学館 二〇一四 年四 月)二四八 頁 なお、 『讃岐 典 侍日記』 の引用は以下す べ てこ れに拠り、 引 用末尾 に該 当頁を付した。 (四) 『 讃岐典侍日記 』四 〇八頁 拙稿 「 『 讃岐 典侍日記 』 ❘ 御 扇 なら させ たま へ❘ 」( 『洗 足 論 叢』 第三 八号 二〇一〇 年三月) ( 五) 『源氏 物 語』 賢木 ( 『 新編日本 古典文学全 集 』 小 学館 一九九 四 年) 九五頁 (六) 『 愚管 抄』 巻四 白河 堀河 ( 『 日本古典文学大系』 岩 波書店 一 九六七年)二〇〇頁 (七) 『 源平盛衰記』頼 豪 皇子を祈 り出だす事・赤山大明 神の事・頼 豪 鼠と為る事 (水原一 『 新定 源平盛衰記 第二巻』 人 物 往 来 社 一 九八八 年 ) (八) 注 六前掲書 巻四 鳥羽 二〇五頁 (九)前 掲注 二に同じ 九 『讃岐典侍日記』ー白河院の「かげ」ー
ハレン 」 トテ勅 許 ナカリ ケ レバ、 頼 豪、 「コ レヲ 思テ コ ソ 御祈ハシテ候 ヘ。 カナイ候マジクハ 、 今 ハ思ヒ死ニ コ ソ候ナレ 。 シ ニ候ナバ、 イ ノリ 出シ マイ ラ セ テ候王子ハ、トリ マイ ラ セ テ候ナンズ 」 ト テ 、三井 ニ歸 リ 入 リ テ 、持 佛堂ニ コ モリ居ニケリ。 (注六) 『源平 盛 衰記 』には、 こ の 後、頼豪 が怨 霊となる 経緯 が描かれ て い る。 頼豪 は、 戒 壇勅許 なけ れ ば 終に 持仏 堂 にし て 干 死 に失 せ に けり 。さし もやはと思し召しけるに、皇子常にわづらは せ給ひければ、頼 豪が 怨 霊を 宥めんとて 、 近江国 野 洲、 栗太 両郡に、 六十町 の 田代を 実 相 坊 領 に寄付せ ら れ 智証の門徒、一乗寺・三室戸などいふ貴僧に仰せ て 、 御 祈り隙 な かりけれども、遂に承暦元年八月六日御年四歳 に て隠れさせ た 給 ひにけり。敦文 親王とは こ の 皇 子の御事 なり。皇子隠れ給 ひ ぬ れ ば、 主上 嘆 き斜め ならず。 (中略) 頼豪 はか らき骨を砕 き て 、 皇子 をば 祈り出だし進 ら せ たれども、戒壇は 御免しなし。大悪心 を 起し て 、 旱 死しけるぞ無慙なる。 さる程に、 山 門ま た皇子を 祈 り 出だ し奉 り、 御 位に即か せ給 ひ た りけ れば 、 頼 豪 が 死霊 もいとど怨霊 となり 、「山 門と いふ 処があればこ そ、我が 寺に戒壇 をば免されね。され ば 山門の 仏 法 を亡 ぼさ ん 」 と思 ひ て 、 大 鼠 と なり 、 谷 々 坊 々 充 ち 満 ち て、 聖 教 を ぞ か ぶり 食 ひ け る 。 こ れ は 頼豪 が怨 霊 な り と て、上 下 こ こ か し こに て、 打 殺し踏み殺しけれども、いよいよ鼠多く出 で 来 て 、夥しなんどはいふ ば か りな し。こ の 事只 事に 非ず 。 怨 霊を 宥む べ し とて 、 鼠 の宝 倉を 造 つて 神 と 祝ひ 奉 る 。 さ れこ そ 鼠 も 鎮 ま り け れ 。 円 宗 の 教 を 学 び て 成 仏 すべき頼豪が 、由なき戒壇 だ て ゆゑに鼠 となる こ そ をかしけれ 。 (注 七 ) 怨霊になる べくし て なったかのような 頼豪の人物伝 で は あるが、実際 は 敦文親王の死 は承暦元 年 ( 一〇七七 )、 頼豪は七年後の 応 徳元年 ( 一〇八四) の死 亡 で あるから 、「 干死して 怨霊となり、 敦文親王 を と り殺し た 」 と いう の で は前後関係か ら し て 史 実に反する。しかし、なぜか頼豪はこ の 後も 白 河院一家 を 呪 い続ける存在 とし て 描 かれ 続ける。 白川院御 ムス メ ニ 郁芳門院ト申女院 ヲ ハ シマシケル ガ 、云フバ カリ ナ クカナシ フ ヲ モ イマイ ラ セ ラ レケルニ、猶三井ノ頼 豪 ガ靈ノツキテ、 御モノ ゝ 氣ノヲコリケル ヲ 、三井ノ増譽、隆明ナドイ ノリ申ケレドカ ナ ハ ザリ ケレバ、 山ノ 良眞ヲ メ シ テ 、 中 堂ノ 久住者二 十 人 グシ テ參リ テ、 イミジク祈ヤ マメ イラ セ テ、 ヨ ロコ ビヲ ボシメ シ ケ ル 程 ニ、 ニ ハ カニ ウセサ セ 給 ヒ ニ ケ リ。 ヲドロキカナシミテ 、 ヤガテ御出家ア リ ケ ルニ、ホリカハノ院 ウ セ給テケル時ハ、重祚ノ御心ザシモアリヌベカ リケル ヲ 、 御 出家ノ後ニテ有リケレバ、 鳥羽院 ヲ ツケマイ ラ セ テ、陣 ノ内ニ仙 洞 ヲ シメテ 世 ヲバ ヲコナハ セ給 ヒケ リ。 (注 八) これ によ る と 、白河天皇 皇女 郁 芳門院 の 死も頼豪 に よ るもの で 、そ れに より白河院は出家したとい う。頼豪が こ のように描か れるようにな った経 緯は 不明 だが、 彼 は自身 の 死後二十三年 経った堀 河天 皇の病床の間 に現れ 、 その時点 で 「 堀河天皇に害 を 成 す怨霊」 とし て 認 識さ れ て いた。敦 文親 王 の死と頼 豪の 呪詛 の真偽はともかく、少 し で も 白河院 に 思い当たる節が あ るとすれば、自身はもちろん幼い東宮 を そのような場 所 に連れ て い く わ け にはいかない 。 病 床を 見舞 うどころ か、北の院への渡御後わずか六 日 で 東 宮御 所に移 っ て行った 理 由 の 一 つ に 、自 身の 危 険 とと もに、東 宮 を 守る気 持ちが働 い た こ と があ る の かもしれ ない 。 六 募る 反 感 こ の ように 見 て い くと、臨終 の対 面といえ ども、 天 皇を 巡る親 子 関係 は 「皇位の継承」に 優先され るも の で はなく、一般人のように簡単に実現で きない も の で あ っ た と い う の も無理 はな い 。 しか し 、 これ を間近 で 見 て い 八 群馬高専レビュー・第三九号(二〇二〇)
という状況 は 踏襲 すべ き 前 例に乏しい。 しかし、前例 に重 きを 置か ない 平 時の白河院の 行動か ら し て、そのような こ と に囚われ るとは考えに くい 。 そうだとすれ ば、白河院が堀河天皇と の 対 面 を 回避した要因とし てはや は り「穢れ」の 問題、そし て 後述する堀河 天皇の病 床に 跋扈し て いた といわ れる 怨霊への 恐れなどが考 えら れる。 こ れは、 「 東宮の身を 案 じた 」 と いう ことだけ では なく、白河院 が自分自身の 触穢も考慮し た 結果 で あった 。 一 説に、 堀 河天皇がこ のまま崩 御 し た 場合、 白 河院は 自 ら の重 祚も 考 え た と 言われる。つ まりは自身と東宮、二人の 皇位継承者の 安全確保 のた め、 病 床 へ の参入 を 実行しなかったとも考えられる の で ある。しかし、こ の為 政 者とし て の冷静な判断は、堀河天皇を 見 守る長子の目 にはど の ように映 っ ただろ う か。 五 つ きまと う 怨 霊 それ で は もう一つ 、作品内部に描かれた 、白河院が堀河天皇の病床 を避 けなけれ ばな らなかった理 由とし て 考え ら れ る事 象 を 取り上げ る。 堀河天皇は白河院の第二皇子 で あり、白河院は第一皇子敦文親王を四歳 で 亡 くし て い る。 こ の 経験 が、当時五歳 で あ った宗仁 親王に見舞い を 避 け させた 要 因の 一つ なの か も しれ ない 。真 偽 は と もか く 、敦 文 親 王の 夭逝に はある人物の 呪いが関与し て い たとも言 われ、現に、堀河天皇の病 床 の 間 を 跋 扈する 物の怪 の 存在が『日記 』にも語ら れ て い る。 経読 まる る を聞か せた ま ひ て、 「今 は益 あ ら じ 。 た だ 駆 り 移せ よ」 とお ほせ ら れ 出 で たれば、ものつく者など召し て ゐ て 参 り、移さるるおび たたしさ は 、 おしはか るべし。 移り て、 その こ と とはいは で か は め き の のしる さ ま、いとお そ ろ し 。 (三九四 ) かやうに 、いみじ き 人 た ち あま たさ ぶらひて 、われも劣ら じと 祈り ま ゐら せらるるけにや 、 御物の怪 あらは れ て 、 隆僧正、 頼 豪な ど 、 名 のり ののしる人、 あら は れさせたまうて 、「 一 年 の行幸 の のち 、 ま た見ま ゐ ら せ ばやと、ゆかしく思 ひ まゐ らするに、その徳なければ、おどろ か しまゐ ら するぞ」 といふ を聞かせた ま ひ て、 「いかに も、 こ の 二三年、 例さまにおぼゆる こ と のあらばこ そ 、行幸もあら め、近 き ほどだにな し。 こ の心 地 やみ た ら ばこ そは、 年 の う ちにもあ ら め 」 と お ほ せ ら る る ほどより 、苦しげにな ら せ たまひにたり 。 (四 〇七 ) 一つ目の 引 用 では特定の 人 物名 は出 ていないが、二つ目 で は明確 に「 隆 僧正」 「 頼 豪 」 と いう実在の人物の 名が 挙がっ て いる 。 し かも 、 こ こで は物 の 怪か ら 出さ れた 要求 に対 し 、 堀河 天 皇 自 身 がその 受 け入 れ を 表明 し て い るにもか かわ らず、 天 皇はさ ら に 「 苦し げ」 な様子 を 見せる。 こ の ような場 所に、次の天 皇たる幼い東 宮 を 連れ て い く こ とを 白河 院が避けたの も頷 け る。 加えて 、 問題はこ の 「 隆僧 正」 と 「 頼豪」 で ある。 隆 僧 正 は園 城寺長吏、 頼豪 は園城寺 の 僧 で あり、両者ともに白 河 院に近い人 物 で あ った 。隆僧 正 は白河院の不 例の 際には護 身法 を務め て 褒賞 を 賜 る こ ともあり、院 の 初 受 戒にも奉仕し て い た と いう 。頼豪 も 同 様 で、なかなか 男子に恵まれ なかっ た白河院 ( 当 時は天皇 ) が 、 彼 に男子 誕 生を祈願させたという 伝説 を持 つ。 ソノ中二 コノ白河法皇御位ノ後、コノ賢子中宮ニ イカデカ王子 ヲウ マ セ給ベキトフ カク ヲ ボ シメシテ 、時ニ ト リテ三井ノ門徒ノ中ニ 頼豪ア ザリ ト 云 フタウ ト キ 僧 アリ ケレバ、コ ノ 御祈ヲ 仰ツ ケ テ 、 成 就 シ タラ バ勸賞ハ 申サ ンマ ゝ ニ ト仰セア リケルニ 、心 ヲツクシテイ ノ リ 申サレ ケル ホドニ 、 ヲボ シ メ スマ ゝ ニ 王子 ヲウ ミマイ ラ セ ラ レタ リケレバ、 頼豪ヨ ロ コビ テ 、「 コ ノ勸 賞ニ 三井寺ニ 戒壇 ヲタ テ ゝ 、 年 (來 ) ノ 本意 ヲ ト ゲン 」 ト 申シケ ル ヲ 、「コ ハイカニ 、 カ ヤウ ノ勸賞トヤ ハ ヲ ボ シメ ス。一 度 ニ僧 正ニナラ ン ト モ 云 ヤウ ナ ル 事コ ソ ア レ、コ レ ハ山門ノ 衆 徒訴申テ 、 兩 門徒ノア ラソヒ、 佛法滅 盡 ノ シルシ ヲ バ 、 イ カ デカ ヲ コ ナ 七 『讃岐典侍日記』ー白河院の「かげ」ー
前掲一覧に散 見 す る「朝覲行幸」とは、天皇が親 で あ る太上天皇の もと に赴く ことをいい、 天 皇 が 院御所に出向 き、 父院 を上 席とし て 扱う という。 こ の 「朝 覲行幸」 を 含 め 、「院と天 皇」 の 対面の 場 で の同席 者 の 詳 細は不明 で あ り、 いくつかの事 例 で 「弁三位 」「 藤三位」 などの名前が残さ れ て いる 程度 で あ る。しかも彼女た ちは天皇の乳 母とし て 「三位」 を授けられ て お り、 同じ 「典 侍」 で も 長子 とは格が異なる た め、 こ れ を 以 て 五 位相当と推 定 される長 子の 同 座 、 白 河院 との 対面 の可 能性を確 実視 する こと は で きない 。 朝覲行幸 を含め 、 表にあ る 五十の 賀 、宗仁 親 王の 五 十 日・百日の 祝 いは 天皇、 院 側 両 者挙 げ て の盛儀で あっ て 、典侍 で あ る長子がこ れ ら に 全く 関 与しなかっ た とは考えにくい。しかし、それが 白河院 と の 直接対面 、交 流 を 決 定づける とま で は 言えない。一方 で 、日常の宮廷生活におい て 、垣 間 見 を 含め、長子が 白河院を見かけるこ と すら なかっ た とも考え にくいが 、 こちらも「典 侍」の 職掌面 や行動範囲の さ らなる検証 を 待つ必 要 が あ る。 万 が一両者対 面の事実はな く、長子は院 をこ のよ うに 描くしかなか ったと し て も、堀河 天皇、そし て 長子自身の人 生に大きな影 響を 与 え た白 河院 の 描かれ方 は、 何か作者 と白 河院の関係性 を 象徴し て い るような印象 が残る 。 四 病床へ の 御 幸 それ で は 、白河院に対する長子自身 の 評 価、好悪と は ど の ようなも ので あっ たのか。長子と 白 河院の対面、 邂逅の可能性に つ い て は 確 証を得ら れ なかった が、 こ れ ま で 見 て き た 「作 者と白河院の 対面の可能性」 は 、 ほ ぼ堀 河天皇と白河院の対面に連 動する。 そ こ で 「 堀河天皇 と白河院」の 対面に ついて 考 え た 場合 奇異に感じ、 長子 の白河院に対する感情を 知 る 手 が か り になりそ うなのが、上 巻 で の白河院の行動 で ある 。 作品 の冒頭 で 堀河院の病 状 を聞き つ けた白河院は、連絡 の 便から「北 の 院」 に渡 御したという が、 院と東宮宗仁 親王 (後の鳥 羽天皇) が直 接病床 の 堀河天皇 を 見 舞っ た記録はな い。 「 北 の院」 は 当時内 裏 が 置 かれて い た堀河 院の北に位置 し、 そ こ は 堀 河天皇の姉令 子内親王の御 所 で あっ た。前掲 の ように、堀河 天皇の 発 病時 か ら 使者の往 来は頻繁にあ った ものの白 河院が 堀河院に渡御 する ことはな く、北の院渡 御か ら六日目 には東宮御 所 に移っ て し まう。結局 、 堀河天皇 と白河院、そ し て 堀河天皇 と東宮という 二組 の 親子は対面の ないまま堀河 天皇の崩御と なる。 こ こ で 思 い出 されるのが、 『源氏 物 語』 に お ける 、 父 院 ( 桐壺 帝) を 見 舞 う天皇や東宮の登場場 面 で ある。 院の御な やみ、神無月 になり て は、いと重くおはします。世 の 中 に 惜 しみきこえ ぬ 人なし。 内裏にも 思し嘆きて 行 幸あり。 (中略) 春宮も、 一度にと思しめしけれど、もの 騒がし き により、日 を かへ て 渡 らせた まへり。御年のほどよりは、おとなびうつくし き 御さまに て 、 恋しと 思 ひ 聞 こ え させたまひける積もりに、何心もなくうれしと思し て 見た て ま つりたま ふ 御気色 いとあは れなり。 (注 五) 天皇と東宮の同時参上 では現場が混乱 するか ら と、別々の対面 ではある ものの 、 両者 は父院に対面 する ことが で き た 。前掲引 用 は こ の 後、藤壺や 源氏との 対面 に続く 。『源 氏物語』 はあ くま で 「 物語 」 で はあ るが 、 やはり 臨終の肉親との対面は 人間の情というものだろう。し かし、堀河天 皇には そのよう な 機 会 が与 え ら れ る こ とはなか っ た。 たし か に 、『源 氏 物 語』 は 見 舞う先が「院」 で ある ため同列に考える こ とはでき な いが、ここ は 見舞 う 側が 「院 と東 宮」 とい う堀 河天皇の ケー スより一段高 い、 「天皇と東宮」 の 組み合わ せで ある。 崩 御による 穢 れ を 最 も 避 けるべきで あ るこ の二人が 、 父院 を 見 舞う姿を紫式部は描い た。堀河 天皇の場合は発 病 から 崩御 ま で が 一カ月と 短いも の の、 院は「北の院」に渡御する ほど事態の深 刻さ を 承 知 して い た 。 最 後 の 対 面 に な る か も し れ な い 状 況に あ っ っ た に も 関 わ ら ず 、 院は自身も 東 宮にも、対面の決断をしなかっ たの で あ る。 先にも 触 れたように、 白河院が 堀河天皇を 見 舞わなかっ た理由とし て 考 えら れるの は 、「 穢れ」 、 そ し て 身 分上の 制 限 で あ る。 「 父院が天 皇を見舞う」 六 群馬高専レビュー・第三九号(二〇二〇)
⽩ 河 院 ・ 堀 河 天 皇 ︑ ⿃ ⽻ 殿 に ⾏ 幸 ﹃ 殿 ﹄ ﹃ 中 ﹄ ﹃ ⻑ ﹄ 法 皇 有 御 対 ⾯ ﹃ 中 ﹄ ⽩ 河 院 ・ 堀 河 天 皇 ︑ 法 勝 寺 に ⾏ 幸 ﹃ 殿 ﹄ ﹃ 中 ﹄ ﹃ ⻑ ﹄ 有 御 対 ⾯ ﹃ 中 ﹄ ︵ ⼆ ⼗ ⽇︶ 深 更 有 御 対 ⾯ ﹃ 中﹄ ︵ ⼆ ⼀ ⽇︶ 主 上 渡 御 院 御 所 ⽅︑ 有 御 対 ⾯﹃ 中﹄ 尊 勝 寺 供 養 に 堀 河 天 皇 ⾏ 幸 ︑ 院 ・ 中 宮 も 臨 御 ﹃ 殿 ﹄ ﹃ ⻑ ﹄ ⽩ 河 院 ・ 堀 河 天 皇 ︑ ⿃ ⽻ 殿 に ⾏ 幸 ﹃ 殿 ﹄ ﹃ 中 ﹄ 法 皇 有 御 対 ⾯ ﹃ 中 ﹄ 堀 河 天 皇 ︑ 院 の 五 ⼗ 賀 に ⾏ 幸 ﹃ 殿 ﹄ ﹃ 中 ﹄ ﹃ 今 ﹄ ﹃ 古 ﹄ 上 皇︑ 主 上 ⼊ 御︑ 次 供 平 敷 御 座 ﹃ 中﹄ 三 ・ 七 三 ・ ⼀ ⼋ 堀 河 天 皇 ︑ ⿃ ⽻ 殿 に ⾏ 幸 ︒ 院 も 御 覧 有 り ﹃ 殿 ﹄ ﹃ 中 ﹄ ﹃ ⻑ ﹄ ⼆ ・ ⼀ 五 ⼆ ・ ⼆ 六 七 ・ ⼆ ⼀ 閏 五 ・ ⼀ 四 ⿃ ⽻ 殿 に 朝 覲 ⾏ 幸 ﹃ 殿 ﹄ ﹃ 中 ﹄ 此 間 猶 御 対 ⾯ 間 也 ﹃ 殿 ﹄ ※ ﹃ 殿 ﹄ = 殿 暦 ﹃ 中 ﹄ = 中 右 記 ﹃ ⻑ ﹄ = ⻑ 秋 記 ﹃ 為 ﹄ = 為 房 卿 記 ﹃ 永 ﹄ = 永 昌 記 ﹃ 今 ﹄ = 今 鏡 ﹃ 古 ﹄ = 古 今 著 聞 集 ⼤ 炊 殿 に 朝 覲 ⾏ 幸 ﹃ 殿 ﹄ ﹃ 中 ﹄ ﹃ 永 ﹄ ﹃ 古 ﹄ 法 皇 出 御 寝 殿 ⺟ 屋 中 央 ︑ 主 上 渡 御 寝 殿 此 間 有 御 対 ⾯ 歟 ﹃ 中 ﹄ 宗 仁 百 ⽇ 儀 ︑ 堀 河 天 皇 院 御 所 ⾼ 松 殿 に ⾏ 幸 ﹃ 殿 ﹄ ﹃ 中 ﹄ ⼀ ・ 三 ⾼ 松 殿 に 朝 覲 ⾏ 幸 ﹃ 中 ﹄ ﹃ 為 ﹄ 次 御 対 ⾯ ﹃ 為 ﹄ ⻑ 治 ⼆ 宗 仁 五 ⼗ ⽇ 儀 ︑ 堀 河 天 皇 ︑ 院 御 所 ⾼ 松 殿 に ⾏ 幸 ﹃ 殿 ﹄ ﹃ 中 ﹄ ﹃ 為 ﹄ 院 無 対 ⾯ ﹃ 殿 ﹄ ⻑ 治 元 三 ・ ⼀ 五 四 ・ ⼆ 七 ⼀ ・ 五 ⼀ ・ ⼆ 康 和 五 五 『讃岐典侍日記』ー白河院の「かげ」ー
とまり て など思ふほど に、 「院より 、 『 清暑堂の御 神楽には、典 侍 二人 さ き ざ き も参る』とおほせ ら れ たるに、一 人 ぞ弁の典侍参る、いま一 人は 参ら せ た まひ な んや 」 と、 殿 の お ほ せら る れ ば 、 そ の 出で 立ち に ことづ け て出 でなん と 思 ひ て、 (四 六 七 ) 以 上 、 煩 雑 な まで に 引 用を 試 み たが 、 白 河 院 の直 接 的 な 登 場は 一 切 な く 、 文 の 差 出 人や第三者 の 口をとお して の言及といっ た形のみで あ る。実体 を 伴わない 、「 意向」 と い う 形 で の間 接的 登場 で あ りな がら、 堀河 天 皇はもと より長子の 行 動に決定的な 裁可 を下すと いうあり方 は 、 天か ら の 「託 宣 」 とで も い う べ き で あろう か 。 白 河 院 の 「姿 な き 意 向」 の 影 響 力 の絶大 さ と 、 それに翻弄さ れる周囲 とい う図式が 作品全編をと おし て 見 え隠れする。 三 対面の 可 能性 それ では、そも そ もなぜ長子は こ の よ う な 形 で し か白河院 を 登場させな かっ たの か。 『日記』 現 在 はもちろん、 回想場面 など で も 院は実態 を 伴 う 登 場 を し て いな い。もちろ ん 、志尊とはい え自分の直接の主 で あ った 堀河 天 皇とは異なり 、白河院の姿 を直接描く ことへの 配慮と も考 えられる が、 考 慮すべ き は 「 作者と白 河院 の対面の 可能 性」 で あ る 。 長子は 「 典 侍 」 と し て 堀河天皇に親しく仕えて いたが、 そ れは必ずしも白河院と の対面の可能性 を保証す るもの で はな い。 思い返せ ば、 「典侍」 とは いえ長子 は中 宮篤子内 親王への お目見 え も許 され て は いなかった (注 四 ) 。 そ れ で は 、 実 際 に 長 子 は 作品 の完成当時ま で 、院の 姿を 直接目にするこ と がなかっ たの だろうか。 天 皇 側 近 の 「 典侍 」 と 「院 」 が 顔を 合わ せ る 可能 性を 探 る には、 堀 河 天 皇 と白河院の対面、そし て そ の場への典侍の同 座の可能 性を検証する必 要 が ある。 そ こで 白河院と堀河 天皇が 同 所に 集う事例を記録から抽出すると 、 管見の 限 り で はあるものの 、その数は実 に三十回に上 る。そのなか で 、 と くに対面の可 能性が高 いもの は 次の とおり で ある 。 事 項 院 ・ 天 皇 対 ⾯ 年 ⽉ ⽇ 康 和 ⼆ ⿃ ⽻ 殿 に ⾏ 幸 ﹃ 中 ﹄ ﹃ ⻑ ﹄ ⿃ ⽻ 殿 に 朝 覲 ⾏ 幸 ﹃ 殿 ﹄ ﹃ 中 ﹄ ⼀ ・ ⼀ ⼀ ・ ⼆ 康 和 三 ⿃ ⽻ 殿 に 朝 覲 ⾏ 幸 ﹃ 殿 ﹄ ﹃ 中 ﹄ ﹃ ⻑ ﹄ ⽩ 河 院 ・ 堀 河 天 皇 ︑ ⿃ ⽻ 殿 に ⾏ 幸 ﹃ 中 ﹄ ⼀ ・ ⼆ 康 和 四 ⿃ ⽻ 殿 に 朝 覲 ⾏ 幸 ﹃ 殿 ﹄ ﹃ 中 ﹄ 有 御 対 ⾯ 歟 ﹃ 中 ﹄ ⽩ 河 院 ・ 堀 河 天 皇 ︑ ⿃ ⽻ 殿 に ⾏ 幸 ﹃ 殿 ﹄ ﹃ 中 ﹄ ﹃ ⻑ ﹄ 有 御 対 ⾯ ﹃ 中 ﹄ ⽩ 河 院 ・ 堀 河 天 皇 ︑ ⿃ ⽻ 殿 に ⾏ 幸 ﹃ 殿 ﹄ ﹃ 中 ﹄ 有 御 対 ⾯ ﹃ 中 ﹄ ⼆ ・ ⼀ 三 ・ ⼀ 五 ⼆ ・ ⼀ ⼀ ・ ⼀ 九 四 群馬高専レビュー・第三九号(二〇二〇)
と心得 さ せたまうて 、 押しあ て させたまふな めりと 思ふに、すべき か たなし。 頼みたるままに、 例 の 人呼び て 、「 かうかうなん院よ りおほせ られた る を、 いか が は せ ん ず る 」 と いへ ば、 (四三一) 「内 蔵の 頭 の 殿よ り人 参 ら せた り 。 院 宣 に て 摂政 殿 の うけた ま は り に て さ ぶらふ。 『堀河 院 の御 素服 、 賜 りた らば、 とく脱 ぐべ きなめり 』 と 宣旨下りぬ 。 とく脱がせた まへ 」と い ひ にお こ せ た り 。か ばか りの こ とにだに心 に まかせず、道理に脱ぐ べき を り も 待 たず 脱 ぎ て ん こ と 、 心憂きに 、 「 芹つみし」と いひけん古言 を、身に思 ひ よそへ ら るる 。 かく さたす る を聞きて 、 せ う と なる 人、 「あはれ、 男 の 身に て か く い はれまゐ らせ ばや。う らやましくもおぼ えさせた ま ふ か な 。女の御 身 に て さ ら で も ありなん。故院の御時に、年ごろ の人た ち、御乳母子た ちなどの賜りあ は れし素服 を、何ばかり に年 ごろさ ぶ らはせた ま は ざ りしかど 、 賜 ら せ たま ふ、 今 の御時 に、 また、 な ほた いせちにいる べき 人に て 、 月も待たず 、『脱げ』 と宣 旨く だるも、 あやし」 など いひつづ くる を聞 くほ どに 、 あ ぢ き なくはづ かし 。 (四 三 二 ) 十九 日に 、 例 の、 参 ら んと思ふに、 雪、 夜よ り高 く積もり てこち た く降 る。いそ がしさ、いまいくほどなく残りすくなくなりにたれば、おほ かたの人 も 、 夜 を 昼に なし て、 もの も 聞 こえ ぬ ま でいそ ぐ めれ ば 、 わ れ は、 この 日 な らん か ら に い そ が し と て参 らざ らん がく ち を しさ に 、 出 で立 つ を 、 一 人 う け ひ く人 な し 。「 さ ば か り いそ が し く し ち ら さ せ た ま う て よか し 。 今日参らせた まひ た らんに 、 院 も大臣 殿 も、 よにい み じと もあ らじ 。参 らせた ま はず とも、あ し き こともあ らじ 。 (四 三五 ) 十二月 も やうやう 晦日 になり て、 「 弁の典侍 殿の 文」 といへ ば 、 取 り入 れ て 見れ ば、 「院より、 三 位 殿 、 大 納言 の典侍などさぶ ら は ぬ 朔日なり、 さやう の をり は、さるべ き 人あま た さ ぶ ら ふ こ そ よ け れ、参るべ き よ し、お ほ せ ら れらる 」 とぞある。いか がせん とて、参 ら ん とぞいそぎ 立つ 。 (四三九) 一 般 に、 典 侍 や掌侍は 天皇 の代替わ り には 入 れ替えとなり、新帝御所で は東 宮時 代か らの 乳母た ち を中心 と した 新た な女房 集 団が形成さ れ た 。 堀 河天皇の崩御 により宮中 を 退出し、追慕 に明け暮れる 生活を 送 っ て いた長 子 を 新帝御 所 に引 きずり出 したの は、白 河院の意向 を したためた 「 弁の三 位」 「弁の典 侍」 からの文 で あっ た 。 こ こで も 上 巻と同様、 白 河院 本人の描 写 は ない 。 上 巻におい て 堀 河天皇の 病床の間を 遠 隔操 作し て い た白 河院は 、 鳥羽天皇の御 所運営も掌握 し て い た の で ある。 最後に、作者 の鳥羽 朝 出 仕 以降 の場面 を 見 て いく。 かく て 、 八月になりぬ れば、 二 十一日 御 わ た りと定まりぬ 。 人 々、 いと なみあひたり 。 さ れば、 わ れは 、 変は ら ぬ九重の うちの有様を見ん に、 はじめ た る御 わた り に 、 え 念 ず まじ き心 地の すれ ば、参 ら ん と も思 は ぬに、 「 院 よ り、 さるべき 人々みな 参るべき よし。 参 ら せ たま へ 」と、 三位 殿よ りあ れ ば、 「 その さた あ ら ば、 さ て あ て た ら ん火 取り 、 水 取り ばか り 参 らせ て、 われ は 参 らじ と な ん 思 ふ」 と い へ ば 、「 げ に さ ぞ お ぼ しめ すべきこ とに て ぞあなれど、おほせ らるるに参ら せたまはざ ら ん も、ひが ひがし き やうなり 。思 ひ念じ て 、なほ参 らせた ま ふべ き 」 と て 、 出だし立 てらるれば、かばかりの こ とだに心にまかせぬ こ とと思 ひ な がら、 出 で たつ 。 (四 五四) 一昨年の ころに、かやうに て 夜 昼御 かた はらにさ ぶらひ し に、御心地 や ま せ た まひ たりしかども、 院 より、 「 あな かしこ 、 よく つつしみて 、 夜 の 御 殿 を出 でさ せた ま は で、し ば し 」 と 申 さ せ た ま ひし か ば 、つ れ づれのま まに 、 よ しなし 物 語 、 昔 今の こと、 語 り聞か せたまひし をり、 (四五 七 ) 三 『讃岐典侍日記』ー白河院の「かげ」ー
せ ら れん こ と 」とある のみ で 白 河院介入の有無は 不明 だが、 鳥羽朝への 出 仕に つい て は 、 白 河院の意向に よるも の だと 明記され て い る。 そ こ で 、 堀河天皇崩御か ら 長子の鳥羽朝出仕に関する記事 で 、 白河 院 の 「かげ」がうかがえるもの を挙げる。ま ず、堀河天皇 発病か ら 崩御 の間で 白河院に 言 及 があるもの は 次のとおり で ある (注 三 ) 。 日 の 暮るるままに、堪へ が たげ におぼしめしたれ ば、院にかくと案内 さ する 。「 お ど ろ かせ た ま ひ て 、 近 く て 御 有 様聞 かん と て 、 に はか に北 の院に御 幸あり て 」と 奏す。 (三九四 ) 大殿、 入 らせた ま ひ て 、 さ ぶらふよ し申した まへ ば、 「御 幸 は なりぬ る か」と問はせたまへ ば 、 「 しか。なりさ ぶらひ ぬ 」と申させたまへ ば、 「参り て 申せ。今はなにごとも益さ ぶらはじ。た だせさせた ま ふ、尊 勝に て 九壇 の 護摩と懴法と のさぶら ふべ きなり 。 また 、さ ぶ ら はん ず ら ん こ と は 、 何ご とも 今 宵 さぶら ふ べき ぞ。 明日 明後日 さぶら ふ べき 心地 しはべらず。 」 と お ほ せら る れ ば、 (中略) 大殿、 帰 り参 ら せ たまひ て 、 「 『 されば。去年一昨年の御 こ とにも、 さるさたには さぶらひ しか ど、宮の御年の を さなくおはしますに よ り て 、今日ま で さ ぶらふに こ そ』 となんはべる」 と 奏せ らるるにぞ、 「何ごと も、 ただ今宵定め はさ ぶらふべ き ぞ 」 と おほせ ら るれば、 (三九 五 ) 明け ぬれ ば、大 臣殿参りたまひて 、院の御使にてこ と どもありげな る 景色なれ ば、 心な き 心 地しぬ べけれ ば、 寝たり。 何ご とにか、 こ ま やか に申させ た ま ふ。 御位ゆ づ りに こと にやとぞ心得 ら る る。 (四〇六) 大 臣 殿を召し、 「 院に申 せ。 一 年 の 心地にも、 『 さも』 と お ほ せら れし行 尊、 召し て た べ」 と申させたまへれ ば、 やが てす なは ち参りた れば 、 や がて 御枕 がみ近く召し て 祈 ら さ せた まふ。 (四 〇 七 ) 参り て 見 れば、殿や大臣殿、 「 院よ り、 『戒受けさせたまふべ き な り』 と、 奏せさせたまうけり」 と て 、 賢 暹法 印召すべ き さ たせ ら れ 、 そ の御 まうけど もせ らるるほ どな り け り 。 (四 〇 九 ) 殿 、 ご覧 じ 知 り て 、「 今は、 さ は、 院 に案内 申さ ん」 と 申させ た ま へ ば 、 民部 卿こな た に 召 し て 、 殿 、 御簾 押 し上げ て 、 も のしのびや か に、 いか におほせ らる るにか 、 おほ せ ら るれ ば、 立た れぬ 。 (四一八) 堀河天皇 の 発 病後、 病 状 に 関するこ との差配はすべ て 白河院の意向を 仰 いで い た 。 当 時堀河天皇 の 病床には 関 白 右大 臣 藤 原忠実と、 堀 河天皇 の 叔 父 で ある内 大 臣源雅美が詰め て いた が、 引用 部分か ら はすべ て につ い て 白 河 院 に「 お 伺 い」 を立 てる こと が 常態 化 し て いた こと が わ か る 。当 時 の 公 卿日記などを見 て も 同 様 で 、大臣ク ラ ス の人物が、あたかも一介の 使 者で あるかのよ う に両御 所 を行 き来し 、 その 場 に いない白 河院 がすべ て を掌 握 して い た ので あ る 。 次に、長 子が鳥羽朝に出仕 するに至 る経緯と白河 院の 関係 を 見 て い く。 「弁の三位殿 より御文」 と いへ ば、 取 り 入れ て 見 れば、 「 年ご ろ、 宮仕 へせさせ たまふべ 御心 のあ りが たさなど、 よ く聞き お かせ たまひ た り しかばにや、院より こ そ、 こ の内にさ や うなる人のたいせちなり、 登 時参るべ き よ し、 お ほ せ ご とあれば、 さ る心地 せ させたまへ」 とある 、 見るにぞ 、 あ さましく 、 ひ が めかと思ふま で あきれられける。 お は し ま ししを り より、かくは聞こえ し かど、いかにも 御 いら へのなかりしに は 、 さらで も と お ぼ し めす にや 、 そ れを 、 い つし かと いひ 顔に 参ら ん こと 、あ さ ま し き 。 (四 二八 ) 夕暮れに 、三位殿の も とより、帳あ げすべ き よし あれば、いと あさま しくて 、 日ごろ は 聞き 過 ぐ して のみ過 ぎ つるを 、 参ら じと 思ふ な め り 二 群馬高専レビュー・第三九号(二〇二〇)