Title
沖縄の青年会−夜学会から沖縄県青年会まで−
Author(s)
玉木, 園子
Citation
史料編集室紀要(26): 79-100
Issue Date
2001-03-27
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/8303
Rights
沖縄県教育委員会
史料 編 集 室紀 要 第26号 (2001)
沖縄 の青年会
一 夜学会か ら沖縄県青年会
まで-玉木園子1.は じめに
後年 「青年団の父」 と呼 ばれるようになる田沢義舗 は、1
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年 (昭和5
)刊の著書 『青年 団の使命』 の中で、明治初年か ら当時 までの青年団の動 向 を次 の ように時期 区分 してい (1) る。 第一期 明治初年から日清戦争の頃までの混乱時代 第二期 日清戦争後から日露戦争までの復活時代 第三期 日露戦争後から大正四年までの 「地方改良」の思想に指導された時代 第四期 大正四年の青年団に関する政府訓令以降 明治 に入 って旧来 のムラの青年集団 「若者組」が停滞、衰退の状態 に陥った第一期 「混 乱 時代」。そ して 日清戦争 か ら日露戦争 にかけて、旧来の 「若者組」 を改組改称 して夜学 会や青年会が広範 に形成 されてい った第二期 「復活時代」。次 の第三期 では青年会は 日露 戦争 に積極的 に協力 したことを契機 に、国の政策 に取 り込 まれてい くことになる。 日露戦争時、青年会は 「出征軍隊に対す る慰問 ・激励 ・戦勝祈願 ・歓送迎、出征軍人家 族 の保護 ・耕作の手伝 ひ、負傷兵 に対す る見舞、戦没軍人の慰霊祭 ・石碑建立、遺族救護、 (2) 軍資金献納、他兵献金、国債応募、軍需品調製、戦勝 ・凱旋祝賀 など広 い範囲」 にわたる 活動 を行 った。 これ に注 目 した国は、「青年団体の重要性 を認識 して積極的にその指導改 (3) 善 に乗 り出 し」 た。1
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年 (明治3
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)9
月に内務省地方局長 は地方長官 に対 し 「地方青年 団向上発達 二関スル件」の通牒 を発 し、続いて同年12月には文部省普通学務局長が 「青年 団二関スル件」 を発 した。 これ以降政府 は地方改良運動の担い手 としての青年会の育成 を はかることにな り、青年会 は国家 目的に沿 うものへ と再編 されてい く。「[
青年層 を]国家 意識 と天皇制 イデオロギー浸透の強力 な推進主体 にな らせ ること、及 びそれ と同時に新知 識 を以て 日露戦争後 国家のかかえていた諸課題 一勤倹貯蓄 ・農事改良等 -を遂行するとこ (,I) ろの力強い担 い手 に転化 させ ること」が 目指 されたのである。TAMAKISonok0,--0ntheHistoryofYouthlnstitutionsinOkinawafromtheNightSchoolMovementto theYouthAssociations.-
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年 (大正4)9
月に内務省 と文部省か ら出 された訓令 「青年団体 ノ指導発達こ関ス ル件」 は、青年団体 を修養機 関 と規定 して 「天皇制 イデオロギーの注入教化 を図る」 こと (5) を目的 とした。 これによ り青年団の活動 も新 たな局面 (第四期) に入 ることになる。 本稿 では、上の時期 区分か らすれば第二期 か ら第三期 にあたる時期、明治 中期か ら大正 初期 までの沖縄 の青年会の流れ を辿 る。各地域 に青年団体 の活動が芽吹 き、そ してそれが 県 当局 の政策 に取 り込 まれてい く過程 について見 てい きたい。 沖縄 の近代期 における青年会の歴史 については、『沖縄県史4 教育』 にまとめ られて (()) いる。 また、仲地哲夫氏 による天皇制 イデオロギーの形成 に関す る研究では、 日露戦争後 (7) の青年会の結成 について述べ られてお り、真栄城勉氏の社会体育史の研究では、明治期 の 青年会のスポーツ活動 について扱 われている0本稿 ではこれ まであ ま りふれ られていない 日露戦争前 の青年団体 の状況 についてふれる とともに、 日露戦争後の郡や県 の青年会 に関 す る施策 について述べ たい と思 う。2.
沖縄 における青年会の発生 一学生会 と夜学会
『沖縄 県史4 教育』 は、沖縄 の伝統 的 な青年集団 について次 の ように述べ てい る。「[
青年 らは]
『二才揃』 などとい う集団 をつ くり、二才頭 とい う統率者 をおいて、村 の規 範 に従い、村の 自治 に参加 し、風俗、作物の取締 り、盗難、火災、行旅人、 ミヤラビなど の締 りにあたっていた。 また村 の行事 (綱引等) の運営 に も参加 していた。
」そ してこれ らは 「県政初期 の 『旧慣』温存政策の中で、県政期 に持 ち越 され、根強 く農村生活のなか I.→㌔ に生 き続 けたのであろ う」 とい う。 この ように旧来の青年集団がその まま存続 してい く一方で、明治中期 になると、青年た ちの間に新 しい動 きが起 こって くることになる。近代 的な青年集団は、 まず どの ような所 か ら生 まれたのだろうか。 「青年会」の名称で最 も早い時期 にで きたのは 「沖縄青年会」であろう。 これは東京 に 留学 中の沖縄出身青年 たちの組織 であ り、1
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年 (明治23)1
月5
日に結成 されている。 その会則 によれば 「会員の親和 を保 ち並 に相互の智識 を交換 し品行 の方正 を期す る」 こと を目的 と し、「在京沖縄青年 を会員 と し又学者名家 を賛成貞 とし沖縄 にある青年 を会友 と す」 る もので、その年の役員 は幹事が富永賓益 、涯久地改易、編輯員が富川盛陸、仲 良朝 ()) 助、謝花昇、諸兄里朝鴻 となっている。同会は1
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年 (明治1
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)
11月か ら翌年11月 まで活 動 した 「勇進社」、1
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年 (明治21) 3月か ら翌年7月 まで活動 した 「沖縄 学生会」 を引(
I
(
)) き継いで結成 された。構成員や、演説会 と雑誌発行 を活動 の二つの柱 とす る点か らみて も 二=、 学生の親睦団体的な もの と考 え られる。-8
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年 (明治3
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)
に名護で結成 された名護青年会 も、同様 に学生会的な ものの ようだ。 (12) 「学校生徒の一団体 を為せ る者」 と評 されているほか、師範学校や中学校の生徒が旧盆で (13) 帰省す る時期 に合わせて臨時会を開いていること、会長が宮城名護訓導であることなどか らその会員構成は学生や教師を中心 とす るもの と考えられる。その趣意書 に 「鳴呼、沖縄 を して此 の悲境 に陥 らしめたるは誰ぞや。草 にも非 らず、木 にも非 らず、即 ち沖縄県民 な り。県民が随習 を脱せ ざる罪な り。他府県 に比 し知識の度の低 きが故 な り」 と述べ、会の 目的 を 「智徳 を研磨 し、体力 を練 り、且つは青年社会に制裁 を与へ、風紀 を発養 し、進で ・[い 名護人民 の随習 を打破 し、一致協力以て県民の進歩 を謀る」 こととしている。その議決事 項 をみ る と、「生徒復習会」
「水上運動会」 を開 くことの他 に 「芝居の如 き処 に立ち入 らざ ること」
「男女混合の夜遊 を禁ずること」
「路上の放歌 を禁ず ること」
「履物 を用 しむる」
(
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)
「女子 に帯 を用 しむること」
「学校生徒 の琉歌 を禁止」 な ど、風俗改良的な ものが多い。 また、1
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年 (明治3
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)
に結成 された とい う国頭郡青年会 も同様 に学生会的な性格の も のか と思 われる。会の目的は 「会員の親睦 を計 り兼て青年の気風 を発揚する」 ことであ り、 その事業 内容 は 「-、演説、討論、談話会(
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二、運動会 三、会報 の発刊」 となってい )る
。 「毎年夏季休暇 を利用 して会合 し、会員の如 きも教員あ り、中師学校生あ り、農学校 (17) 生あ り、高等小学校生あ り」 とい う。夏 に行 う演説会 と運動会が主な活動内容である。 この ように、明治 に入 ってで きは じめた 「青年会」の一つの タイプとして、卒業生 をも 含めた学生会的な性格の ものがあった。新時代 の知識吸収 とともに 「植習打破」、社会改 良をめ ざすエ リー ト層の動 きである。 これ とは別の タイプの青年集団 として、夜学会 をあげることがで きよう。 『大 日本青年団史』では、明治2
年か ら明治3
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年代 までに設立 された全国の6
つの夜学 会 を例 と して とりあげ、それぞれの設立動機や創立者、経営主体 などを紹介 している。同 書 は 「青年夜学会は、郷土の伝統的な値習や若連中の弊害 に対する最 も有力 な改革の手段 として、戎 ひは郷土の篤志家 により、戎 ひは青年会 により、時 としては若連中それ自身に よって創立、経営 されたのであったが、青年会の存在 していない地域 にあっては、青年夜 学会 それ 自体 が一種 の青年団体 と しての機 能 を もっていた こ とを認 め なければな らな iLト1 い。」 と述べている。 沖縄 で も、明治期 に夜学会が各地 にで きるようになる。1
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年 (明治1
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に夜学会を設置 したとい う久米島は非常 に早い例である。
「旧藩時代 か ら藩士 に仕 えていた人々の子弟 に四書五経等の漢書や軍談習字等 を修めさせていた」が、 (19) その施設が夜学会に替わった ものだ とい う。 国頭郡名護尋常小学校で も、1
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年 (明治2
2
)
段階で 「尋常科第三四学年及 び有志者の (20) 為 に夜学 を開 き盛 んに内地語及び理科学 を教授」 した とい う。 座 間味 間切の場合 は1
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年 (明治2
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)
に夜学会 を設置 しているが、 これは二つに分かれ-81-史料 編 集 室紀 要 第26号 (2001) てお り、尋常小学在学生のための生徒復習会 と、卒業生のための夜学復 習会があった。毎 晩在学生 には復習 をさせ、卒業生 には復習の他 に 「作文算術其他面 白 き事項 を通知簿にか きて与-、各 自に写 きしめ、叉新 聞雑誌 を読 ま しめ」、一週 間に一回談話会 を開 き、全員 に演説 ・討論 をさせ た。座 間味出身で、夜学会 を設置 ・運営 した座間味尋常小学校訓導安 里積 勲 は、「夜学 会は 自身の智識 を研 くに必要 なるのみな らず青年の悪習 を改 良 し其土地 l_■ll の美風 を造 出す る」 としている。 これ ら夜学会については、先 に 『大 日本青年団史』 も述べているように 「青年夜学会そ れ 自体が一種 の青年団体 としての機能 をもっていた」のであ り、沖縄 において も夜学会が 青年 会の一つ と して とらえ られていたことが、次の ような史料 か らもうかが える
。
『沖縄 教育』第3
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号 の記事 「島尻郡青年会」 によれば、「抑 も本郡青年会 は其始 め明治1
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年久米 島各部落 に青年夜学会 を設置 して青年の夜学 を勧奨 し傍 ら風紀の取締 をなせ Lを以て濫腸 l∴・ とす下て明治2
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年慶 良間島に座 間味青年夜学会の設立 を見 るに至」 った としている。島尻 郡の青年会活動が初期 には夜学会 とい う形 をとっていた と認識 されてい る。 夜学会の設置 は明治30年代 に入 るとます ます盛 んになる。1
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年 (明治3
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)
宜野湾間切懇親談話会の討議事項 として 「各村 に夜学会 を設立せ しむ.
∴
く1 るの可否」 を討議 し可決 された とい う新 聞記事がある。 同 じく1
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年 (明治3
2
)2
月2
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日か ら3
月1
日まで開催 された国頭郡小学校校長会では 「各村 二夜 学会 ヲ設 クルコ ト」 を満場 一致 で可決 し 「仲宗根 、松本 、久場 ノ三委員二附 (2Ll) 托」す ることを決 めている。それ を実行 した名護間切では 「十五以上二十五以下の無学の もの を募集 し、講 師は国頭高等小学校職員、名護尋常小学校職員 に依頼」 し、「毎 日午後 (25) 八時 よ り十時迄二時 間づ ゝ」 「修 身、読方、算術」 を教 えた。一方羽地 間切では 「他 間切 に於 ては大概之 を実行」 しているの に、明治3
3
年段階で まだ夜学会がで きていないの を遺 (26) 憾 とす る とい う記事が 『琉球新報』 に見 える。 さて、/『沖縄県 史』 では 「沖縄県 を 『帝国の一地方』 にふ さわ しくつ くりかえてい く動 き」が 「徴兵令施行 を契機 に壮丁教育のための夜学会 などとなって急速 にひろが っていっ (27) た」 とし、壮丁教 育の場 としての夜学会の役割 について述べ てい る. また、近藤健一郎氏 (2
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)
は沖縄 の 「徴兵当簸者教育」 について詳 しく論 じてお られる。1
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年 (明治3
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月か ら 沖縄 で も徴 兵制 が施行 され るようになったが、「普通語」 を話せず、読 み書 きもで きない 者が多か った沖縄 では壮丁教育の必要性 は特 に高か った。同年 7月 3日の私立教育会の中 頭郡 部会で は早 くも 「徴兵 当強者 ヲシテ教育 スルノ良法如何」 について討議 され、「郡長 ヨリ各 間切長及 ヒ各校長二照会 シ適宜当選者 ヲ集会セシメ以テ適応 セル教育 ヲ施行 セシメ 、二・.い ラ レンコ トヲ郡長 二建議スルコ ト」 を決 している。 また同年 9月の時点の国頭では既 に名 (:iO) 護尋常小学校 を始 め各尋常小学校 で徴兵入営 者教 育が施行 されてい る。 同 じく9月 には 「現役兵員教育課程」が 「学務担当」か ら国頭高等小学校長秦蔵書及 び各尋常小学校長並_8
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-史料 編 集室紀 要 第26号 (2001) に同主席訓導宛 に通牒 された。『琉球教育』 によればその内容 は、「本年入営すべ き現役兵 員」 を対象 に、軍人勅諭の大意、平仮名片仮名、住所番地等 を漢字で書 くこと、書状発送 (31) の手続 き、普通語等 を教 えるように定め られている。 この ように始め られた 「徴兵当強者 教育」の 「状況取調報告」が
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年 (明治3
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月の沖縄県私立教育会の総集会で安藤喜 一郎 によって行われている。それによれば徴兵当強者教育の時期 は当鼓後入営 までの2
, 3ケ月で、週 に20時 間前後、学区内の教員 らのボランテ ィアによって教授 され るとい うの が平均 的なかたちの ようだ。同報告の中で学校か らの意見 として 「夜学校 を設置 し、来年 度 の壮丁者 は、必す入学すへ き制裁 を厳重 に設 くへ き事」
「昼 間は彼 らの職業の妨害 とな (32) り、それか為 に欠席 す る ものあるによ り、夜 間に教授 をなすべ き事」等 を紹介 している。 このあた りに壮丁教育の場 として夜学会 とい う形が採用 されてい く発端 をみ ることがで き そ うだ。 しか し、夜学会 に壮丁教育の役割が一面期待 されてい くことになった とはいえ、 短期集 中の徴兵当選者教育 はそれ とは別 に継続 して行 われている。た とえば1
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01
年 (明治 34)の 『琉球教育』 に次 の ような記事がある。
「本県各郡 区小学校 に於 ては今年徴兵適齢 者 の為 に小学生授業 の余暇特 に時間を設 けて授業 を為 し之 に平易 なる 日用文及 ひ姓名府県 名郡 区町村名、平仮字、片仮字、数字、算術、体操等の諸学科 を教-焦眉 の急 を政はむこ(
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) とに汲 々撃 々 し入営 の後苦痛 なか らむことを期せ り」 。 この ような徴兵当選者教育 とは別 に夜学会で も壮丁教育 を意識 した内容 を教 えたのであろ う。夜学会の対象年齢が 「大方徴 (34) 兵適齢 まで」 とされているの もその反映であろう。 しか し夜学会 をその ような上か らの壮丁教育の押 しつけによ りで きた もの として とらえ る とその性格の一面 のみ を取 り上 げることになって しまう。む しろ青年 たち、あるいは村 人たちの新 しい学問 ・時代-の希求 によ り設立 された と考 え られ るケースが多いのではな いだろ うか。 た とえば大宜味 間切 区域内尋常小学校の平 良保-は明治31
年 に、「所謂夜学 校 を設立 して夜 間に赤貧者の子弟 を集め以て学習の便 を開」 いた。その生徒 らは 「昼 間労 働せ る疲れ も末だ癒 えざるに只管先生 を敬慕 し先生の声咳 に接せ む と欲 して奮然 自ら勇み (35) 六十余名皆校内に来集」 した とい う。 また糸満の夜学校では生徒 出席平均 数が5
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名で、そ の うち3
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名 は漁業者 であった。彼 らは 「飛魚捕獲の好季節 なるに も拘 らず毎夜通学勉強」
してお り、特 に同村屈指 の富豪玉城亀外三名 は 「入学以来余念 な く勉強 し屠 りLが益 々学 (3(I) 問の必要 を感 じ」、「糸満尋常小学校第二学年級 に編入せ られ毎 日勉強 し居 れ り」 とい う。 先 にあげた座間味 で、同村 出身の安里積勲訓導が間切 内の各村 (座 間味、阿真、阿佐、 阿嘉、慶留 間)に夜学会 を設立 した とい う熱意 に も村の青年 たちに新 しい学問 ・時代 を伝 えたい とい う願いが含 まれているように思 う。そ こで学ぶ青年たちは夜学会で購読 してい る 「児童新聞」 を 「随分楽 しが りて之 を読み且写 し」、全員が過一 回演説 をす る談話会で も 「一人 も残 らず談話題 を毎 回提 出 し居 り談話 も臆す る者全 くな くこ ゝに百 回を重」ね、 (37) 「傍聴人毎 回絶えず生徒 の如 きは八 ケ間数程 に集 り実 に学 びの楽園」 とい う活況 を呈 して-83-史料 編 集 室紀 要 第26号 (2001) いる。 これ らの記事が 『琉球教育』誌上 に教師 らが書いた ものであ り、額面 どお りにうけ とれ ない として も、 また生徒 らの登校 になん らかの強制力が働 いていた と して も、彼等が 夜 間に学校 に足 を運ぶのには、やは り学びたい とい う意欲が少なか らずあったのではない だろ うか。沖縄 で は
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年 (明治2
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にや っと就学率が2
0%
を越 えたのであ り、明治3
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年 代 に青年期 を迎 えていた者たちは大多数が新教育 を受 ける機会 をもてなか っただろ う。夜 学会 に学ぶ者 たちの姿 には年齢的 ・経済的理由で教育 を受 けることがで きなかった青年た ちの新時代 の知識 に対す る渇望 を見 ることもで きるのではないだろ うか。時期 は少 し後 に なるが、1
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年 (明治4
0
)
に名護で 「無学青年 どもは時勢 にお くれ学問の必要 に感 じ本会 [青年夜学会]を組織 した き旨学校 に申出た」のをきっかけに百名余の希望者 を得て青年夜 (38) 学会が結成 された例 もある。 その ように して各地域で生 まれた夜学会 に対 して壮丁教育 としての役割が求め られるよ うになった り、あ るいは壮丁教育 を目的 として新 たに設置 されるようになったのであろう。 以上で見 て きた ように、 日露戦争前 までの青年集団の活動 は、学生会的 な もの と、教育 普及 を目的 とす る夜学会が主 な ものであろ う。次節では、それが 日露戦後 の地方改 良運動 の中で どの ように変わってい くか を見てい きたい。3.
日露戟争後 の青年会結成
日露戦争時の青年会の戦争協力活動が注 目をあぴ、1
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年 (明治3
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)
には内務省 ・文部 省 が相次 いで青年会奨励 にの りだ したことは先述の とお りである。沖縄で もこの時期 に青 年会が さかんに設置 されるが、その経緯 をこの章では述べ てみたい。 『沖縄教育』第31
号 によれば、島尻郡では 「郡治村治の当局者風教化青 の任 にある もの 夙 に其必要 を唱道 して指導誘技 に屈 め し結果明治3
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年 よ り同3
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年 に亘 り郡内各 間切 に続 々 青年会組織せ られて或 は学事 を奨励 し或 は殖産興業の道 を講 じ或 は風紀の改 良を謀 り或 は (39) 共同作業勤倹貯蓄等 の実 を挙 げて各 目的の徹底 に孜 々営 々た り」 とい う状況であった。 この状況 を同時期 の新聞か らもう少 し詳 しくみてみ よう。1
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年 (明治3
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)1
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月21
日か ら11月2
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日まで琉球新報紙上 に4
回にわたって連載 された 「県下五郡社会的教育一班」で は 「本年五 月の調査 に係 る島尻、中頭、国頭、宮古、八重山の五郡 に於 ける学齢経過の者 叉 は半途退学の者 に対す る社会的教育 を施すの機 関」 を紹介 してい る。そ こで挙 げ られた 団体 を以下 に列記 してみ よう。 <島尻郡>小禄具志両村夜学会、玉城間切前川村奨学会、仲里間切真謝村青年会 。山城相続田 青年会 ・儀間村青年会 ・謝名堂村夜学会、具志川間切仲地山里青年倶楽部会、具志川間切の 上江洲 ・銘 ・裏手苅村青年会、具志川間切大田村読書会 <中頭郡>西原間切小那覇村夜学校、西原尋常高等小学校内無名会、西原青年会-8
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史料編集室紀 要 第26号 (2001) <国頭郡>金武青年会、辺野古村夜学会、久志村夜学会、国頭間切奥村青年夜学校、辺戸村夜 学 会 <富古郡>宮古郡平良尋常小学校の子守教育 <八重山郡>八重山郡登野城村 ・大川村 ・石垣村 ・新川村の婦女学会、石垣間切竹富村の夜学 会 ・青年会、宮良間切古見村青年輩夜学会、川平村青年会 それぞれの生徒 数 、教授科 目、教授 時間、教員、経費 な ど詳 しい内容が紹介 されてい る が、 その 内容 をみ る と、「青年会」 の名称 を もつ もの と 「夜学会」 の名称 を もつ もの との 間に相違 はみ られ ない。その平均 的 なパ ター ンをあげる と、毎晩
2-4
時間、学校数貝が 教授 にあ たるか あ るいは教授者 な しで、読 み書 き ・算術 ・農業 ・修 身 (小椋 ・具志 と八重 山郡) を学 び、その経費 は寄付や受講者の負 担 となってい る。欠席者 ・退会者 には罰金 を 課 してい る ところ もある。 ただ、西原青年会 が 「高等小学校卒業生、高等科 三学年以上 の児童、師範 中学校在学生 及職員役場吏 員等」 を構 成員 と し、「出身者 との親交 を計」 るこ とを目的 とす る学生 会的 な ものであ る こ とを伺 わせ、金武青年会 も 「学術風俗等 に就 き談話討論 を為 す」 ことを活 (,10) 動 内容 と してい る こ とか ら同様の ものか と思 われ る。 以下 に続 けて この時期 の青年会 ・夜学会 関係 の新 聞記事 をあげてみ る。 ヰ 頭郡喜舎場尋常小学校区内で 「各村に青年会を起 し風俗矯正を兼ね多少の読み寛斉を教へ んと企画中」。瑞慶覧村では11月から夜学会を設立。仲順、島袋でも同様の計画あ り。 ・久米島青年会 数年前に組織(f2,れ、「各村毎に之を設け学校教員を配置 し毎夜二時間位宛 日 常必須の学科を教授」 しているo (43) ・美里小学校学区では各村毎に夜学会を設置。「同間切青年会 も近々成立の運び」 ・東風平間切青年会 1905年 (明治38)11月15日設立。その支部会事業として富盛村が夜学会 を開設 したところ、好評で受講希望者が増加 したため教室を増すことになった。それ以外の 各支部にも夜学会を開設することに決定 していたが、教授者がいないために実現 していなか ったのを、東風若君常小学校教員を村内各地に住所変更の上、教授 してもらうよう依頼 した ところ快諾 を得た。 ・兼城同志会 「同間切学区の青年団体を兼城同志会 と称 し」、1905年 (明治38)11月に設立。 各村に夜学群 立を決議。教員を 「各村に配置居住せ しめ夜学の教授を兼ねて児童の素行取 締」にあたる。 ・北谷間切青年会 1906年 (明治39)2
月3日第1回の青年会を開催。「学校事業 と青年生活 との間に於て統一ある連絡を保ち青年に必要なる知識を授け徳育を奨め独立自営の精神を養 ひ文明的社会的の民たらしむる」 ことを目的とし、「青年に補充教育を加へ智徳の充実を図 ること」
「青年社会の弊風 を改善すること」 を行 うとしているoその事業 として毎週封 霞目 に 「無教育者及卒業後の青年」に 「修身国語算術」 を教えることを大きな柱 としている。 以上 の ような記事 か ら1905年 (明治38)-1906年 (明治39)の段 階で青年会 と呼 ばれて い る もの は夜学会 とほぼ同義 であ った り、 その活動 の中心が夜学会であ った こ とがわか る。 この ような夜学 会 ・青年会設立 の動 きを奨励 した施策の一つ と して、後 に述べ るように -85-史料 編 集 室 紀 要 第26号 (2001) 教員 を各村 に配置 して夜学会の指導 に当た らせ る とい う島尻郡の方針が ある。 また、教員 を青年会や夜学会 な どの社 会教育 に積極 的に関わ らせ ようとい う県の方針 も各地 の夜学会 の興 隆 に促 されての ものか と思 われ る
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月2
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日付 『琉球新報』掲載の 「郡視学及郡 区島庁書記会議」 は、二部長 の指示事項 を紹介 してい るが、その中 に次の よ うにあ る。 「-・職務 とは其直接 と間接 とを間はず苛 も教育上に関係ある事業には余力以て尽すへ き風を 奨励せ らる ゝを要す即青年会夜学会及壮丁教育幻灯会通俗教育談話会父兄懇話会等を励行 して 社会及ひ家庭 との連絡密接ならしめんことに注意を望む」 この ように各地 に青年会 。夜学会が続 々 とで きてい くなかで、 これ らを統合 し、指導 し ようとい う動 きが 出て くる。その発端が 島尻郡青年会の設立であ るが、以下ではその経緯 を新 聞記事 か らみ てい こう。 島尻郡青年会 は1
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月2
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日に兼城小 学校 で創立会が開かれ、島尻郡長斎 藤用 之助 が会長、高 良隣徳 が副会長 に選 ばれてい る。会の事務所 は 「当分 島尻役所 内に置 く」 とされ、事 業 内容 は 「各 間切青年会 開会 の時 は本 会役 員 を派遣す る こ と」
「郡 内各地 に随時幻灯 会講談 会等 を開催す るこ と」
「運動会演説会等 を挙行す ること」
「風俗 習慣衛生 産業等 に関 わ る決議事項」
「中学程度 の学校卒 業生 に して特 に俊 秀 なる もの を賞与す るこ (47) と」
「善行 者 を表旋 す る こ と」 な どとなってい る。同会 の 目的 は 「各 間切 に是非 とも青年 (`18) 会 を設 く- きを予想 してその統一連絡 を計 る」 こ とである と報道 されてい る ように、郡下 の青年会 を指導監督 す るための ものであ る。 ここに きて行 政側が青年会 を指揮下 にお き、 利用 しようとす る動 きが は じまったのである。それ は設立総会で規則 の審議後、議事 とし て取 り上 げ られ たのが 「島尻郡是」
「各戸 国旗 を購 入す る こと」 であ るこ とに もあ らわれ てい る。郡 是 は地方改 良運動 の中で地方 自治体 に策定が求 め られていた ものであ るが、島 尻郡青年会 は当 日この問題 については宿題 としてい る。 しか し、 国旗 につ いては 「青年会 (1ミ)) 員 は必 ず購 入 し他 に向かては奨励す るこ と」 と して修正可決 され た。行 政側 の要請が色濃 く反映 した議事 内容 と言 えるだろ う。
『島尻郡 誌』 に よれ ば島尻郡青年 会 は 「本郡離 島 を 除 く各 町村 の十五 歳以上五十歳 までの男子 を以 て会員 と」す る とあ り、広範 な住 民 を組織 L[)0) す る もの と して発足 した ようだ。 同青年会設立 の経緯 について 『沖縄教育』 第3
1
号 では次 の ようにまとめ られてい る。 「明治三十九年二月郡内有志者が明治三十七八年 日露戦役の戦捷記念 として郡青年団の設立を 主唱するや各村青年会 と気脈を通 じ之れを統一 して指導監督 し益々将来の発展を期するの必要 上 より各村青年会 と系統的組織の郡青年団の設立を見るに至れ り即ち郡青年会 は村青年会を村 青年会は字青年会を指揮監督 し組織井然系統ある青年会を設立するに至 りたる-・
」
_86-史料 編 集 室 紀 要 第26号 (2001) そ して郡青年会の設立 にあたって中川内務次官 と斎藤郡長が大 きな役割 をはた したこと を付 け加 えている。 この間の事情 について新聞記事か ら抜 き出 してみ よう。斎藤用之助 は 明治
3
5
年頃上京 したお り、内務省参事官の井上 [友一]氏か ら兵庫県青年会の活動のことを 聞 き、「沖縄 に も此種 の青年会 を起 し国民教育 と相須 て地方活廓 の 目的 を達す るは最 も適 当 なる方法 との話 を聞 き且つ参考書 を与へ られた」。斎藤 は帰県後 「郡の有志者の重 なる 人々-面会す る度毎 に此事 を以て相談」 し、準備 を進めていた。 ち ょうどそ こへ件の兵庫 県青年会の推進者であった内務省 の中川書記官が沖縄 に出張 したため、彼 に青年会 につい て の談話 を して もらった。 その話 を きい た郡 の有志 者が 中心 となって、1
906
年 (明治 ママ (52)3
9) 6
月に郡青年会 を設立 した とい うのである。 斎藤が郡青年会設立の中心 であったのがわかる。斎藤 は島尻郡長時代、 まさに沖縄 にお ける地方改良運動の代表的推進者 といえる活動 を している。地方改良運動 とは、 日露戦争 後 「帝国主義列強 に任 していかなければな らない新段階の 日本帝 国にふわ き しい財政的 ・ (53) 経 済的 。人的基盤 を、創出す る」 ために国家組織 の基盤 としての町村 の再編強化 をはかっ(
5
1) た 「官制の地方 自治運動」である。国は1
9
0
8
年 (明治4
1)には戊 申詔書 を発布 して国民 に 勤倹 ・協 同一致 を呼 びかけ、地方改良事業講習会の開催や模範例 の蒐集 ・出版 、表彰事業 な どによ り運動の浸透 をはか った。運動の内容 は第1に町村 の財 政の確立 (部落有林野統 一、神社合併 など)、第2に町村の経済振興 (産業組合設立、耕地整理、農事改良など)、 第3
に国民教化 (矯風改善、報徳会の普及 など)があげ られる。その推進のために各地 に 納税組合、産業組合、報徳会 をは じめ青年会、処女会、戸主会な どがつ くられ、住民 はさ まざまな団体へ と組織 されていった。 斎藤用之助 は島尻郡長 として、納税組合や老農会の設置 など、地方改良推進のための各 種 団体の設立 とその後の指導 に大 きな役割 を果た していた。その中で、本稿 との関わ りで まず夜学会 についてふれてお こう。斎藤 自身が次 の ように回想 してい る。
「今 [明治4
2
年] を去 る五六年前 島尻郡全般 に郡の方針 として郡内各字 に教員 を配置 して卿 かの住宅料 を給 して村青年の指導者夜学会の先生 として各所小学校の教員達 に御苦労 を願事 になった事 で (55) あ ります」 この時点 か ら 「五六年前」 とい うと明治3
6、3
7
年頃 とい うことになるが、先 に 紹介 した東風平間切青年会 は1
9
0
5
年 (明治3
8)
11月に 「教員 を村 内各地 に住所変更の上、 教授 して もらうよう依頼 した ところ快諾 を得 て」設立 されてお り、 この時点ではこの施策 は まだ実施 されてい ない もの と思 われ る。
『沖縄教育』 に 「島尻 では三十九年 か ら各字 に (56) 教 員 を配置 してあ ります -。字青年会の指導の任 に も当 って居 ります」 とい う記述 もみ ら ∴■、 れ ることか ら、明治3
9
年か ら実施 された もの とした方が妥 当であろ う。各字 に教員を配置 す る とい う 「郡の方針」 に郡長である斎藤 は当然関わっていたであろ う。 また、沖縄 で最 初 の納税組合 である島尻郡高嶺村与座 の納税組合が設立 されたのは1
9
0
5
年 (明治3
8
)
であ る。 これは 「金城技手」が斎藤 に信用組合設置の話 をもちかけた際、斎藤が 「納税組合 を-8
7
-史料編 集室紀 要 第26号 (2001) 以て刻下の急務」 であ る として金城 にその郷里である与座か ら納税組合 をつ くるようすす めたのが きっかけ となっている
。1
9
0
8
年 (明治4
1) には県訓令 甲第3
2
号で納税組合 を組織 すべ Lとい う公達が出ているが、それ以前の1
9
0
5
年 (明治3
8)
に高嶺村の真栄里、国吉、 大里、与座で納税組合が設置 されてお り、 この地域の非常 に早い取 り組みが注 目される。1
9
0
6
年 (明治3
9
)
に設立 された島尻郡老農会 も斎藤の発案である。島尻郡 において町村是 策定の動 きが他 に比べ て活発であったの も斎藤の働 きかけがあっての ことであろ う。地方 改良運動が本格化す るのは戊 申詔書の発布(
1
9
0
8
年 -明治41
年) を一つの契機 としてお り、 斎藤 の この ような活動 は比較的早い時期での取 り組み といえ よう。青年会設置の場合 に も 上京 した折 りに中央 か ら得 た情報 を契機 に しているが、地方改良運動全般 について も同様 に学ぶ機会があったのだろ うか。1
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0
5
年 (明治3
8
) 4
月2
5
日か ら6
月9
日まで2
2
回にわた って 『琉球新報』紙上 で内務省地方局編纂の 「地方 自治の指針」が連載 されている。同記 事 は全 国の優良村 の活動 を紹介 して、地方改 良運動の普及 を図った ものだが、その中で補 習教育や市町村是 について も触れ られている。斎藤 もこの ような刊行物か らヒン トを得 る ことがあ ったのだろ うか。 斎藤が 島尻郡青年会の設立 を企てたのは、納税組合や老農会設置の際 と同様 に地方改良 運動推進 の補助機 関 と して とい う意図があったのは間違いないであろ う。 斎藤 は島尻郡長 と那覇区長 を兼任 していたが、島尻郡青年会設立の直後 の1
9
0
6
年 (明治3
9
) 3
月には那覇区青年団設立についての協議が行 われている。斎藤が関わ っていた甲辰 (5S) 倶楽部が 「区の公共事 業の改良上進 を謀 る」 ことを目的に準備 を進めた ものである。 その創立 に関す る協議会 には那覇区中学生七八十名、その他那覇小学校生徒十四歳以上 の者が集 ま り、大久保 中学校長、斎藤区長、樺山商業学校長、隣谷高等小学校長、崎浜師 し:-Llい 範学校教諭、各字部長 らが列席 し、斎藤はそ こで 「青年団の必要 を述べ」 ている。同青年 団 は 「青年の風儀 を矯正 し其 品格 を修養す る」 ことを目的 と し、「学生及学生 た りし十四 歳以上 の男子」 を組織す る もので、「中学校の教員一名 を各字 に住居せ しめ専 ら其監督 に 与 らしむる由」 と伝 え られている。同会の規約は 「青年団員 は品行 を慎み業務 を励 み苛 も 社会の風儀 を害す る行為 あるへか らす」
「飲酒喫煙すへか らす」
「夜 間張 りに外出すへか ら す」
「-一切遊郭地 に到 るへ か らす」 とい う内容の もので、青年 らの生活の改善 に重点が置 ((,0) かれてい る。 しか し約一年後の甲辰倶楽部臨時総会で 「倶 楽部の事業 として那覇青年団を 組織す ること」が可決 されてお り、規約がつ くられた後、 この時点 に至 るまでには設立 さ (()I) れていない模様 である。 これ に続 き、中頭郡青年会 も1
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0
7
年 (明治4
0
) 5
月1
7
日に那覇 甲辰尋常小 学校で設立総 会 を開いている。『琉球新報』 に掲載 されたその設立の趣 旨による と 「戦後 の経営 に従 ひ 以て我帝 国の実力 を充実 して世界列強 を凌駕するの大決心 を奮起す るを要す此れ吾 人が本(
6
2) 会 を組織す る所以 な り」 としてお り、 日露戦争後の国家経営 を地方か ら支 え ようとい う地-8
8.
史料 編 集室 紀 要 第26号 (2001) 方改良運動 の趣 旨に沿 った ものであ ることが わか る。 同会 は6
月
2日には総会 を普天 間小 (63) 学校 で開 き、玉那覇重善 を会長 に、新垣盛善 を副会長 に選 んでい る。 国頭郡青年会 は、 この頃 には既 にあったが、それは先 に紹介 した ように、1902年 (明治 35)に結成 された学生会 的 な性格 の青年会であ り、上記 の島尻 や中頭の郡青年会 とは性格 を異 にす る。 島尻郡青年会設立後 の各地の状況 を次 に見 てみ よ う。 ・大里村青年会 「-・大里村の風俗が漸次善良に赴 きつ ゝあるは- 此際設立され し青年会が村 内瑚己の改良を励行 し村内六組合の青年は一ケ月順番にて村内青年男女の取締 りに任ずるに 在 り」
・南風原間切青年会 1906年 (明治39)10月16日に総会息 開いているo「同間切民十五才以上 四十才以下の人々を以て組織 し会員千四百名程に達せ り」 ・久米島青年会 従来から活動 していた夜学会を 「昨三十九年に至 り之を青年会 と改称 し之 と 同時に其組織 を改め」る。15歳以上25歳以下の青年を会場に集め学事 ・農事の講習を行い、 近来更に 「事業を拡張 し部内山林の取締、衛生事務、農作物の保護、学令児童の出席奨励其 ((I(り 他村の重なる事は総て会員の担任する事となりた り」 という。 日南漆の青年会 「嚢に中頭郡校長会議に於ける協議の趣旨に基 きて浦添尋常高等小学校職員 の斡旋に依 りて此程同地の青年八十余名を同校に会 し青年会を組織 し規約を制定 して会員相 互の修養を計ることに決 したる由なるが猶ほ四月以後は各村に部会,を設け夜学会を開きて大 に人智の開発に努むべ く会長として宮城良善氏を推薦 した りと云ふ」 ここでは省 略 したが、上記以外 に夜学会や学生会的 な青年会の活動 も新 聞紙上 で多数報 (()8) 道 されてお り、佐敷村青年 会が独 自に 「夜学会読本」 を発行 す るな ど、活発 な活動が伺 え る。 ((19) また、 「布 畦 出穂 の希 望 を有 す る者」が夜学会 を熱心 に受講 してい る例、 「海外渡航 者 よ りの書面」 に 「学 問 な き為 め他 人 よ り多 き労働 と少 き賃金 と軽蔑 とを受 け居 れ り」云 々 (7Ci) とあるの に触発 され 「奮然学 に志 す に至 りたる」 とい う例 な ど、移民が夜学会 に通 う動機 となってい る例 もあ る。移民 してい った者が故郷 の夜 学会 に寄付 した とい う記事 も見 られ る。
「布畦 国馬畦 島在 留 の出稼者 の小 那覇出身者の諸氏 が当夜学会 に金 円 を寄付」、同 じ く (71) ハ ワイ 「尾和 府 島在 留 の諸氏」 か らも 「金二十四円」 の寄付 があ った。 この ような夜学 会 な どを通 じての教育普及 の他 に、青年会 は風俗改 良、産業振 興、表彰 事業 など幅広 い活動 を行 ってい る。風俗改良の活動 と しては毛遊 びや馬手 間、葬式 ・出産 の際の習慣 の改善 な どの ほか年 中行事 の簡素化 ・祭 の廃止 な ども行 われた。産業振興の た め には肥料 の くふ うや耕 し方の改善 などによる生産量増大 と、副業の奨励 な どを取 り決 め、 実施 した。 また、農 道の改修 を青年会が組織 的に取 り組 んだ例 も多 い。表彰事 業では個 人 の功績や、村 や字 の青年会 の模範 的活動 を表彰 してい る。 た とえば島尻郡青年会では 「中 学校程度以上 の学校 若 し くは実業学校卒業生 に して特 に俊秀 なる もの」 や、「孝子、節婦 、 -89-史料編 集 室紀要 第26号 (2001) 義僕
」
「公益 を増進す る事業 を興 し若 しくは行為 あ りたる ものに して其の効果特 に顕著 な (72) る もの」 な どの 「善行者」 を表彰 している。 以上 の ような活動 により 「村 の重 なる事 は総 て」青年会の担当す るところとい う地域 も 見 られたのであ り、青年会 に対す る行政の期待 もます ます増大 してい くことになる。4.
本部事件 と青年会
1
9
1
0
年 (明治4
3
)7
月26日付沖縄県訓令 甲第3
1
号 は 「青年会婦女会設置標準」 を定めて いる。 これは県 による初めての青年会、婦女会の規準の制定であろ う。その内容 は以下の 通 りである。 青年会、婦女会設置基準 第1条 青年会ハ各 区町村 こ設置 シ十五歳以上 ノ男子 ヲ以 テ組織 スヘ シ 第2条 婦女会ハ各区町村 二設置 シ十三歳以上 ノ女子 ヲ以 テ組織 スへ シ 第3条 青年会 、婦女会ハ更二字青年会、字婦女会 ヲ設置 スへ シ 第4条 青年会 、婦女会ハ便宜部 門 ヲ設 クルコ トヲ得 第5条 青年 会、婦女会設置こ関 シテハ専 ラ区町村長、小学校 長、教員、警察官、神官、僧侶、 在郷軍人等其主動者 トナルヘ シ 第6条 青年 会、婦女会こハ 国民義務 ノ敢行風 紀矯正、実業発展、学事奨励 、学力補習等二関 スル事業 ヲ主眼 トスへ シ 第7条 青年会、婦女会ニハ風 教こ妨 ナキ娯楽事項 ヲ加 フへ シ 第8条 青年会 、婦女会ニハ会員名 簿 ヲ備 フへ シ 第9条 青年会 、婦女会 ニ シテ既二其 ノ設置 アルモ ノハ之 ヲ改善拡張 スへ シ 第10条 青年会、婦女会 ノ役 員集会事業等こ関スル細則ハ 島司郡 区長又ハ該 町村二於 テ適宜削 走 スヘ シ (73) 第11条 青年会、婦女会ハ各 町村聯合 シテ郡青年会、郡婦女会 ヲ設 クル コ トヲ得 県 の推進 しようと した青年会 月商女会 とは、「区町村長、小学校長、教員、警察官」 ら を 「主動者」 と して設定 し、「国民義務の敢行、風紀矯正、実業発展、学事奨励 、学力補 習」 を事業内容 とす る ものであった。1
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年 (明治4
1
)
の戊 申詔書の発布以来、盛 んに喧 伝 された地方改良運動の実行 団体 としての青年会奨励 とい う目的の訓令 と して とらえ られ よう。 しか し、 この時期 にこの訓令が出 されたの には、 もう一つ、本部事件後の徴兵忌避 Bri㌢E 対策 とい うね らいがあった。1
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年 (明治4
3
)3
月8
日に開かれた郡区島庁視学会議 において諮問事項 として 「四、 (7.
rl
)
青年会婦女会設置標準 を設 くること」があが ってお り、3
月には既 に設置基準 について検 討 されているのがわかるが、実際 にこれが発せ られたのが、後 に述べ る沖縄県訓令 乙第65 号、66号 の出 された同年7月25日の翌 日の26日であ り、両訓令 とのかねあい もあって この-9
0-史料 編 集 室 紀 要 第26号 (2001) 時期 に出 された もの と思 われるのであ る。 徴 兵忌 避事件 と して知 られ る本部事件 は
、1
9
1
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年 (明治4
3
)5
月1
8
日に起 きている。 その事 件 の直後、地方官会議 に出席 した 日比沖縄県知事 は、会議 の終了後 「特 に宮 中に 御 召 しに依 り参 内 し本県の民状 に関 し畏 くも陛下の御 下問 に奉答」 してい る。天皇の 「御 下 問」 は、「第- に昨年 に於 ける風 害後 の状 況第二 は徴 兵令施行 以来の状 況」 についてで あ った。 日比知事 は帰県後、 5月30日の郡区長 島司会議 での演説の中で この天皇 との会見 につ いて報告す る とともに、「此 際一言 附加 した きは徴兵忌避者防過 の件 であ る」 と して (76) その対 策 について同会議 で 「案 を具 して諮問」す る と述べ てい る。 そ の諮 問 は6月5日に行 われた もの と思 われ る。
『琉球新報』 に よれば来沖 中の上 田侍 従 官 と佐 藤 第六 師団参謀長 の臨席 の なか、「徴兵忌避 に関す る状 況 を聴 き取 り之 に対す る (77) 善後 策の協議 を為せ り」 とい う。上 田侍従武官 と佐藤参謀長 は5月
31日か ら6月
7日まで 沖縄 に滞在 し、島尻郡在郷軍人会や那覇 区在郷軍 人会 な どに出席 した り、那覇 区の徴兵検 査 会場 を訪 れ、 また県立高等女学校 、 中学校、師範学校 な どの視察 と演説 を行 うな ど精力 t:.(I 的 に各 地 をまわっている。 この ときの侍 従武官や参謀長 の来沖の 目的 は本部事件後の県 に 対 す る国 の ひ き しめ であ り、「聖上 陛下 に於せ られ ては、本県徴兵上 の こ と深 く珍念 を労 させ給 ひ、響 きに地方官会議 あ るに際 しては、本県知事 を召 され親 しく御 下問 を垂 させ ら れ た る さへ 中々畏れ多 きことなるに、今 まや侍従 の武官 を県下 に御差遣 あ らせ られ、実地 (7ミ)) に就 て御 視 察 を遂 させ給 ひ・-」 と新 聞報 道 に もあ る とお りである。 侍 従官 と参謀長参加 の もとに行 われた那覇在郷軍 人会 で行 われた 日比知事 の講話 は次 の よ うな ものだ った。「
-・従来県民は尚武の気象少 しと云はれ殊に徴兵忌避者の椎へざるは余は地方長官として上 は陛下及び政府に対 し奉 りて如何にも恐れ多 く又下は一般国民に対 しT・噺悦に堪- ざる所なる が兵役の義務 に就ては諸君は数年間軍隊に於て充分の教育を受けたる事なれば後進孟声 に斯か る不都合なる事を演ずるもの無 き様諸君は先輩として充分の指導を尽 されん事を望む」 県 が、徴兵忌避対 策 と して郡 区長 島司会議 に続 いて打 ち出 したのが、本部村 の村長 と教 員 のす げか えであ った。「弾圧 的方針」 と評 され たその内容 は 「県下教育者 中武力の優 れ た る もの を抜擢 して桃原区内の学校 に配置 し軍隊教育 を受 けたる将校 を該村 長 として帯剣 せ しめ武力教育者 と相侠 って威嚇 を試 み弾圧政治 を行 は しめん とす」 る もので、村長 に那 覇 区字泉崎在郷将校官 の小橋 川少尉 が、教員 と して元那覇尋常高等小学校訓導 の阿波連本 (8】) 堅が予定 されてい る とい う。 しか し、地元 の強い反発 に よ り、村長 には国頭郡書記 の植村 (82) 長文 が、 また桃原 区内の謝花尋常小学校長 には国頭郡視学 の後藤猪六が決 まった。 つづ い て7
月2
5
日に沖縄県訓令 乙第6
5
号 「道徳上 ノ信念及兵役納税 ノ義務衛生思想風俗 改善 二関スル件」が 出 され る。同訓令 は次 の ようには じまる。-∼
一
l-史料 編 集室紀 要 第26号 (2001) 「国民 ヲシテ健全ナル道徳上ノ信念ヲ有セシメ克ク其ノ品位 卜特性 トヲ保持向上セシムルハ普 通教育ノ最モ主要ナル目的夕リ而シテ挙国一致忠君愛国ノ観念ハ古来我国民道徳ノ根帯こシテ 又我国民 ノ特性ナリ-・職ヲ育英ノ事二奉スル者ハ常二深ク此ノ点二留意シ誘披指導先ツ児塞 就学ノ義務ヲ尽サシメ教化授業ノ間若ハ父兄母姉会同ノ際等校 ノ内外 ヲ間ハス苛モ機会ノ以テ 利用シ得へキアラハ熱誠切実二我国固有ノ道徳思想 ヲ鼓吹シ益 々奉公義勇ノ美徳 ヲ発揮セシム ルコ トニ努メラル可シ」 そ して、以下 「兵役 納税 ノ二大義務」 を果 たすべ きこ と、衛生思想 の発達 普及、弊風 (6:i) (毛遊 、結髪) の改善 を訴 えてい る。 また、「之 レカ改善 ノ好 果 ヲ収 メ ン トスルニハ各方 面官公吏 ノ協力尽棒 二俣 タサ ル可 カラス」 としてお り、福 岡且洋氏 は この訓令が 「単 に就 学 兵役等、 国民義務の徹 底 を図 る必要性 を訓示す るに とどまらず、行 政各方面機 関の組織
(
8
1
) 。連携化 に よる対策が必要 であ る とい うこ とを地方末端行政 に認識 させ る為 の規定」であ る と してい る。 この県訓令 乙第6
5
号 と同 じ日に出 された県訓令 乙第6
6
号 「兵役義務励行規定」 は6
5
号 で 取 り上げ られた 「兵役義務」励行 のための方策 を具体化 した ものであ る。 ここでは青年会 が地域 で青年 たちを把捉す るための団体 と して大 きな役割 を負 わ されてい る。各字青年会 は十戸 ない し五 十戸 を一組 と して実行委員 をお き、 「実行委員ハ其 ノ組 内二於 ケル満十七 歳 以上 ノ男子及其 ノ父兄こ対 シ常 二其 ノ言動 二注意 シ勉 メテ相接近 シテ国家 的思想 ヲ鼓吹 スヘ シ」 とされ る。そ して組 内の 「兵役 二関スルー切 ノ状況 ヲ書面又ハ 口頭 ヲ以テ字青年 会長 二報 道」 し、字青年会長 は島司郡 区長 に、島司郡 区長 は知事 に報 告す ることとなって い る。徴 兵忌避者 に対 しては 「郡 区長村青年会又ハ字青年会 ノ決議 二依 り徳義上 ノ制裁 ヲ 加」 える と し、実行委員 は兵役 に関す るこ とについて 「区町村長部長村 内区長及駐在巡査 若ハ受持巡査」 と協力 して 「其 ノ実行 ヲ期 スヘ シ」 とされてい る。 また、郡 区町村及 び字 青年 会 を開催 す る ときは 「必 ス国家 的思想 ノ養成 二関スル講話」 をす るこ ととされ、実行 (85) 委 員 の うち功績 の顕著 な もの は 「旋表」
「賞与」 し知事 に報告す る と定 めてい る。青年会 は各字 の徴兵 のための機 関 と して位置づ け られてい るのであ る。 この ような内容の訓令 乙 第66
号 の 出 され た翌 日に この章 の 冒頭 であげた県訓令 甲第31
条 「青 年 会 、婦女会設置標 準」が定 め られ たのである。 同設置標準 は訓令 乙第6
6
号 で定めた青年会 に よる徴兵事務 円 滑化 とい う目的 を保障す るための もの とい えるだろ う。その条文 中に 「区町村長、小学校 長 、教 員 、警察 官 、神 官 、僧侶 、在 郷軍 人」 を 「主動 者」 とす る こ と、 「国民義 務 ノ敢 行 」等 を事 業の主眼 とす る とあるの もうなず ける。 この訓令 のあ とに国頭郡青年会が結成 され た。先 に述べ た学生会 的 な もの とは別 に新 た に郡が設立 した ものである。
『沖縄県 国頭郡志』 に よれば、「明治43年 7月県訓令 乙第6
5
号 の趣 旨に よ り農村救済且社 会教育上青年会設立の急務 なるを認 め、同年十 月各村長校長の -92・史料 編 集 室紀 要 第26号 (2001) 集 会 を催 し郡青年会設立 に関 し数 日に亘 りて熟議 を遂 げ青年会婦女会規則準則 を編纂 して 組織上 の方針 を協定 せ り。」翌年
1
月 に郡訓令第2
号 を出 して各村青年会の設立 を奨励 し、1
91
1年 (明治4
4
)1
2
月の名護村青 年会の設立 によ りすべ ての村青年会が で きた。「斯 くて 各村青年会の基礎漸 く堅実 とな りLを以 て」翌1
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1
2
年 (明治4
5
)5
月2
7
日に郡青年会発 会 (8()) 式 な らびに第1
回総 会 を開いてい る。その規則 によれば 「教 育勅語戊 申詔書 ノ聖書 ヲ奉戴 シ、国頭郡各村青年 会 ヲ統轄指導 シ国民義務 ノ敢行 、風紀矯正、公徳心 ノ発達、勤倹貯蓄、 実 業 ノ発展、学事奨励 、学力補習」 を目的 とす る。事務所 は国頭郡役所 内にお き、会長 は 国頭郡長 とい う官制青年会 となっている。 『沖縄県史4
教育』 で紹介 されている 『琉球新報』1
9
1
0
年 (明治4
3
)8
月1
7
日付 けの 記事 「訓令 された青年 会婦女会 に就 て」 は、本部事件後 、青 年会 を行 政 の補助機 関 と して 利用 しようとす る県側 を厳 しく批判 してお り、 これに対 す る一般 の反感 を伺 わせ るもので あ る。以下 に一部 引用 してみ たい。 ◎近頃の官権抜屈 といったら酷い其行政上なると将た教育上なると精神上なるとを間はずあら ゆる方面に於て官権を振 り廻 している・-本部事件は侮辱的に施行 されて居る所謂町村制の結 果 として任免権の彼 にある以上は泣寝入 りも出来やうされども精神的事業たる青年会を命令の 下に設け様 とし又既に設けてあるものも其権内に詰込め様 とするに至 りては其専横実に言語道 断である-・
◎それ青年会なるものは相互の自由を尊厳にする為め徳義上 より築 き上けられた ものでなければならぬ換言せば個人主義の上に築き上げたる集合主義である-・◎斯 くあるべ き団体を官権に隷属 させ られてたまるものか-・
◎彼等は自己の努力の足 らざるを棚に上げて 其の兵事上なると徴税上なるとを間はず所有行政上の失態を民の責に帰 し公共的青年会なるも のを組織させて法令以外に尚ほ人民を青年会てふ美名の下に圧服せんとしとる其のゾウ 、、し き実に面が悪い◎県下の先輩諸賢及青年諸君 も吾輩と同様 に感せ らるであらうそれで斯る屈辱 的否干渉的の青年会は県下組合 して其設置に反対 したい既に設立されて居る青年会 も彼等の干 渉を受 くるならは個人の自由を尊ぶ為めは排除したいのである5。
産業十年計画 と県青年会
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1
5
年 (大正4)7
月1
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日県訓令 甲第7
号 「沖縄県青年会規則」 が制定 された。 これ ま で町村 ・郡 の青年会設立 を奨励 して きた県が 自ら青年会 を設置 ・運営 しようとい うもので あ る。 同訓令 は、既 設 の青年会 は 「方法組織往 々に して不備」 であ り、 まだ設立 されてい ない地域 もあ る と した うえで 、「加 之今次本 県産業十年計 劃 ヲ確 立 シテ着 々産業 ノ改良発 達 ヲ期 セ ン トスルニ際 シ各地 ノ青年会 ヲ糾合 シテ一団 トナ シテ活動 ヲ促 シ将来地方各般 ノ 事 業二捗 り改良事項 ノ実行 ヲ期 シ以 テ其効果 ヲ収 メ ン トス」 と してい る。直接 的 には産業 十年計 画の実施機 関 と して、長期 的 には地方各般の事業の主体 と して沖縄県青年 会 を設立 (87) しようと したのであ る。 その綱領 は以下の ような ものであ る。-9
3-史 料 編 集 室 紀 要 第26号 (2001) 1.忠君愛国 ノ至 誠 ヲ致 シ奉公 ノ実 ヲ旨 トスル コ ト 2.廉恥 ヲ重 ンジ規律 ヲ旨 トスル コ ト 3.心 身 ヲ修練 シ清潔 ヲ旨 トスル コ ト 4.産業 ノ発展 ヲ図 り勤倹 ヲ旨 トスル コ ト 会長は県知事、副会長は県の両部長 と警備隊区司令官、評議員 は本県選 出の貴衆両院議 員、県会議長、副議長、中等学校長等がつ とめ、事務所 も県庁内 におかれ る。県青年会の 下 には、各郡区に部会、各町村 に支会、字又は部落 ごとに小文会 または分 会 をお くことと され、郡区の都会では郡長 (区長)が会長、警察署長か在郷軍人団の将校 が副会長 とな り、 町村 の青年支会の会長 には町村長が、理事 には小学校長、警察官、在郷軍 人等が就任す る。 県青年会の手足 として活動 をになう町村青年支会では学術講演部、体育部 、産業部 (産業 十年計画督励事項 の実行 な ど)、公益 部、風紀改善部、普通語奨励部 をおいて活動す るこ ととしてい る。年齢 は
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歳以上4
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歳以下の男子、ただ し地方の状況 によ り5
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歳以下の男子 を加 えて もよい としている。 これは地方改良講習会で川部視学官が講演 した中で 「青年会 でや ってゆ く教育 は此の青年教育の範囲 を主眼 とするのである本県の青年 会は之 に実行の (8t;) 一部 を加- て壮年者の教育迄 を包合 させ て行 こうといふのである」 と述べ ているように、 青年か ら壮年 まで含 めて教育 のみ な らず実行機関 としての性格 を もたされていたのである。 県青年会の設立の 目的は県産業十年計画の実施のためであったが、同計 画 は地方改良運 動 の中で内務省が さかんに奨励 した県是 ・町村是の一つ として とらえ られ る。県是、市町 村是 はその地域の現状 を調査 し、それ を もとに今後の施策 を定め る もので、地方産業経済 発展のための計画策走 とい う重要 な意義 をもつ ものであった。沖縄県是 とも言える産業十 年計画 は郡 区長 島司会議の諮言句をうけたのち1
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年 (大正4) 6
月2
5・2
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の両 日、民 間人 か らなる 「産業諮問委員会」 の諮問 をうけて県の施策 として動 き出す こ とになる。その内 容 は黒曙 は現状維持 とす るが、分蜜糖 は約9倍、米 は2倍余 り、甘藷 も2倍 とい う大幅な 増産 を十年で な しとげ ようとい うものである。 しか し、その実現のための具体策 に乏 しく、 (8Ll) 予算の裏付 け もない ことか ら、批判 を浴 びていた。 この計画 を実施す るための補助機関 として県青年会の設立準備が なされ たのだが、同会 はその準備段 階か ら波乱ぶ くみのス ター トをす る。1
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年 (大正4
)の第1
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回通常県会第4
日目の9
月1
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日、県青年会の補助費問題 についての批判が続出 したので ある。大 田朝敦 が 「末 だ生 まれ もせ ざる青年会に補助せ ん と提案せ るは如何 に して も理会 し能はず青年会 は如何 なる人が集 り如何 なる事業 を為すや其性質 も明瞭 な らず且つ事業 の成績 も分明なら ざるに県会が補助 に承認 を与ふ るは不合理 な り」 とま くしたてたの に対 し島内部長が これ か ら誕生す るのだか らその育成 に力 を尽すためである として、「青年会 は変形の行政機 関 にて郡町村青年の聯合会な り」 と述べ るが、仲 田徳三や高良亀造 も反対意見 を述べ、つい_9
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史料 編 集 室 紀 要 第26号 (2001) には大 田が 「不快也」 と叫んで突然退場す る とい う事態 になる。県側が 「十年計画 を実行 す る上 に於 て も県青年会 を組織 し之 を利用す るな ら極めて効果がある」 と主張す るのに対 し、反対者 は 「青年会規則準則」 なる ものが 「ソモ ゝゝ不満」 (仲 田徳三)、 「生れぬ先の ((IO) もの に補助費 を給す る理 由が ない」 (大 田朝敷) な どとしている。大田は 「青年会其の物 に対 して は余 は絶対 の反対者 に もあ らず又絶対 の賛成者 に もあ らず」 として、青年会 は 「-私 人の合意 的集合体 に過 ぎず」、「知事 自ら之 を統制」 し 「官公吏 を網羅 して之 を組 織」 した ものであって も 「何処 まで も私 人団体」 に過 ぎない もの に、 しか も発会前 に補助
(
別
) を与 える とは 「発案権 の濫用」
「自治機 関の乱棺」である と言う。
ふた 結局 この補助費問題 は、通常県会第5日目の9月21日、「県青年会の精神形式両つなが(
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)
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ら文部 内務両大 臣の訓令 と趣 を異 にす」
「農村 に現在ある優良青年会補助 な ら良いが生れ ぬ先 の坊 ヤの養育費 は只今支出 し兼ねる」 とい うことで伊江朝助 によ り動議が提 出され、 太 田朝敦 もこれ に賛成 し、補助費 は削除 され ることになる。
「見事削除 されたは今期県会 しき (()3) の成績 の最 良 なる ものだ切 りに番外席で観望 して居 た島内内務 もロアングリ」 と 『琉球新 報』 は快哉 を叫 んでいる。県側 は県青年会の発足前か ら失態 を演 じて しまったのである。 この ような反発 を受 けなが らも、沖縄県青年会は1
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年 (大正5)2
月1
1日、発会式 を 迎 える。県知事 大味 久五郎 を会長 とし、以下知名士が顔 をな らべ る役員 も当 日決め られ ((1i) た。 しか し、就任直後 か ら産業十年計画 に取 り組み、推進 して きた大味知事が同年4月に 更迭 され、産業十年計画は頓挫 し、県青年会 も同 じ命運 をた どる。同年7月 には 「県青年 ママ 会は昨年発会式挙行以来未だ一回 も開会 されず殆 ど自然消滅の観 を呈 したる も目下青年会 幹部 中には折角設立 されたる もの を其の儀消滅せ しむる も好 ましか らず とな し近 く規則 を 改正 し以 て民意 に添 わ しむるや うなす可 Lとの議 あれば何 れ改善 さる 、に至 るべ Lと」 と (95) い う新 聞記事 がみ られる。 この ような動 きもあった ものの、1
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年 (大正6)7
月には青 年会規則 は改正 され、沖縄県青年会は実質的活動 のない まま解散 になる。その原 因 として 産業十年計画 の挫折以外 に、国の青年会政策 と沖縄県青年会の性格が相容れない ものであ った ことがあげ られ よう。 これは先述の県青年会補助費問題 についての県会の議論の中で も指摘 されてい た点 であ る。1
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年 (大正4)7
月に県訓令 甲第7
号 「沖縄 県青年会規 則」が制定 されたが、その 2ケ月後の 9月に内務大臣一木善徳郎 と文部大臣高 田早苗の名 で青年団体 に関す る第一回訓令が発せ られる。その内容 は 「青年団体ハ青年修養 ノ機関」 であ るこ とを力 説 した ものであ った。 これは県産業十年計画の実施機 関 と して青年会 を 「変形の行政機 関」 に しようとい う県の方針 と正反対の ものであった。大味知事 の更迭 に よ り産業十年計画が事実上葬 られた以上 、国の政策 と相容れない青年会規則 を改めたの も 当然の ことであ った。改正 された県の青年会規則 に次の ようにある。 1 青年会は主として修養の機関たらしむるを以て目的とし堅実なる国民思想の養成に努め併-9
5-史料 編 集 室紀 要 第26号 (2001) て智簾の研磨及身体の鍛錬を励み勤勉力行の美風を培ひ善良なる地方公民たるの実を得 しむ ること 国の方針 に沿 った形で青年会 を改変 しようとい う内容の ものであることが わか る。 県 の青年会規則 が改正 された こ とに よ り郡 、町村 の青年会 も組織改編 をせ ま られる。次 にあげ る内海 島尻 郡長か ら郡内各 町村長校長へ の、訓令及 び青年団組織 に関す る注意事項 ママ はその一例 で あ ろ う