Title
久米島オモロの特殊性について−神女、君南風を考察し
て−
Author(s)
島村, 幸一
Citation
史料編集室紀要(25): 189-206
Issue Date
2000-03-16
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/8026
Rights
沖縄県教育委員会
史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000)
久 米 島 オ モ ロ の 特 殊 性 に つ い て
- 神女、君南風 を考察 して
-島 村 幸 一 ☆ は じめ に (】) 久 米 島 オ モ ロ に は、 一 般 の 地 方 オ モ ロ に は見 られ な い幾 つ か の 特 徴 が 存 在 す る. そ れ は 、 久 米 島 オ モ ロ に は 中央 の 高 級 神 女 を謡 っ た オ モ ロ、 い わ ゆ る神 女 オ モ ロが あ り、 ま た、 神 女 オモ ロ等 、 中央 の オモ ロ に見 られ る語 や 表 現 が存 在 す る とい う こ とで あ る。 一般 の 地 方 オモ ロ は、 概 ね 「地 方 」 そ の もの を謡 い込 み 、 表 現 が そ の 地 域 の 内 部 で完結 して い る こ とが 多 く、 り 夕は 「地 方」 そ の もの を謡 う こ とを 目的 に して い る よ うに見 え る。 した が っ て 、 久 米 島 オモ ロは、 地 方 オモ ロ に あ って特 異 な オモ ロで あ る とい う こ とが で きる。 (2) 久 米 島 オモ ロ にお い て高級 神 女 を謡 っ た オモ ロ に は、次 の よ うな もの が あ る。 <例1>巻11-561-巻21-1413-巻1-35 きこゑ大 きみか さやはたけおれわちへ かふ し - きこゑ大 きみか お しやたるせい くさ あちあそい しよ世 そゑれ 又 とよむせ たか こか お しやたるせい くさ 又 あはれかな しきみ はゑ しまうち してす もとりよれ 又 あはれかな しきみ はゑ 囲 うち してす もと りよれ 又 も りやゑこたちや囲 して しまうち してす もとりよれ 又 大 ころたちや囲 して くに うち してす もとりよれ 又 ゑそ こかす ころた よ きこゑ大 きみが さやはたけおれわちへ がふ し 一 間得大君が 押 し遣 たる精軍 〔按司襲い しよ世添 ゑれ〕 又 鳴響 む精高子が 押 し遣 たる精軍 又 あはれ愛 し君南風 島討 ち してす戻 りよれ 又 あはれ愛 し君南風 国討 ち してす戻 りよれ 又 もりやゑ子達大国 して 島討 ち してす戻 りよれ 叉 大 ころ達大国 して 国討 ち してす戻 りよれ 又 ゑそこ<船の美称語 >数 ころ達 よ*
しまむ ら こういち (法政大学沖縄文化研究所兼任所員) -189-史料 編 集 室 紀 要 第
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しまうちしてす もとりよれ 又 みお うねかすころたよ あおてす もとりよれ 又 おはつきやめとよて あおてすもとりよれ 島討ちしてす戻 りよれ 又 御船数ころ達よ 合てす<戦って>戻 りよれ 又 おぼつぎやめ鳴響で 合てす戻 りよれ <例1
>は八 重 山の名 は出て来 ないが、巻 ト3
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か ら3
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まで四首 連続 してある 「八重 山 征伐」 にかか わる と思 われ るオモ ロの一つで、久米 島 にい る高級神女 、君南風が先駆 けに (3) なって 「征伐」が行 われ た と考 え られてい るオモ ロである。特 に、重複 オモ ロであ る巻1-
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とそれ に続 く巻1-
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は、君南風 が登場 し宮古八重 山に渡航 す るオモ ロになってお り、 二首 の り 夕はおそ ら くセ ッ トになった関係 である と考 え られ る。す なわち、 <例1
>は聞 得 大君 の側 か ら、巻1-
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は国王 の側 か ら君南風 の 「八重 山征伐」 を謡 ってい る と考 え ら れ るので あ る。前 者 と後 者 で は、歌 い出 し (連続 の 冒頭部 ) と反復 部 が、それぞれ聞得大 君 と国王 とい うふ うに入 れ替 わるかたちで構成 されてお り、興味深 い。 それ は ともか く、 <例1
>は間得 大君 の オモ ロであ ることか ら第1
(巻1
) にあ り、 また、 り 夕に君南風が 謡 われてい る ことによって久米 島オモ ロに もなってい るとい うことなのだ ろ う。つ ま り、 オモ ロが君南風 の 「八重 山征伐」 を謡 うこ とによって、久米 島オモ ロに中央 のオモ ロであ る神女 オモ ロが存 在 す る こ とにな る。但 し、 この り 夕は聞得大君 を冒頭 の句 と し、巻1-3
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か ら3
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までが連続 してい ることを考 える と、や は り、元の出所 は第1
にあ り、第2
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(第l
l
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の方 は第1
を前提 に した もの と推測す るのが 自然 だろ う。 これ は、第2
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(第1
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の成 立 を考 える時、無視 で きない事柄 になって こよう。 Ⅰ. い わ ゆ る君 南 風 の 「八 重 山征 伐 」 につ い て い わ ゆ る君南風 の 「八 重 山征 伐」 とい われ る記事 は、正史(
『中山世鑑』
『中山世譜』 『球 陽』)が記 す ものはあ くまで も国王 尚真 に よる ものであ り、君南風 の名が 出て くるの は、『球 陽』(
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の一部 の記事 だけに出て くる ものである。そ うい う意味 では、特殊 な 「歴史」 であ る。
『球陽』 の当該記事 の出典 は、『女官御双紙』(
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、 も し くは 『君南風 由来井位 階且公事』(
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であろ う。
『球 陽』の 尚真2
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1) は、すべ て 「八重山征 伐」 関連 の記事 だが、『球 陽』 は これ らか ら記事 を と り 「八重 山征 伐」 関連 の記事 の末尾 (H 部 に入れ たのだ と思 われ る。『君南風 由来井位 階且公事』 に よってそれ を引 いてみ る。 -、昔、神代之時こ、姉妹御三人女あ り。御姉ハ 首里所縁に御住居、御両人ハ久米嶋御渡海、御住 居を御分たまふ.御姉ハ東獄御妹ハ西藤御住居成 られ候鹿、御姉ハ八重山嶋御渡海、おもと旗二御 住居成 されたる由候。御株ハ西森二御安堵、君南風成 されたる由候。然庭弘治十三申年、八重山嶋 へ討手御便之時、君南風御渡
海成 られ候ハ 、、彼嶋之神御磨 き候ハ 、、人間ハ 自ずから降参仕るべ き由、首里之御神みす ゞるむめ しよわちへ、君南風へ仰せ付けられ、御渡 し成 されたる由候。彼嶋 御着船成 られ候得は、所β多人数軍支度二而迎へ出で候二面、陸へ寄せ中桟 も御座無 き故、ちねふ を浮へ、其上たいまつ徐多置、夜中こ押流 させ候得は、陸ノ銅分寄せ来ルと相心得、たいまつ流行万一1
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0-史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) ニ迎へ候二付、其間二別所へ船寄せ、人数陸へ下 り、陣取仕 り候得は、彼嶋きみまもの、君南風へ 御迎へ摩き成 られた候間、人間ハ自ずから降参仕 りたる由候。(以下、省略) 記事 は、「首里之御神」 の神託 によって君南風 の 「八重 山征伐」が行 われた ことが記 さ. れている
。
「首里之御神」 とは、一応 「首里所縁」 に住 む 「御姉」 に降 りた神 と考 えるの が、合理 的 な解釈 とい うこ とになろ うかoそ して、 「お もと旗
」 に移 り住 んだ次 の 「御 姉」 と君南風 が姉 妹 であ ったが故 に、 「彼嶋之神御 磨 き候ハ ゝ、 人間ハ 自ず か ら降参仕 る」 とい うこ とになろ う。硯 に、『球陽』では 「時 に、首里神有 りて日 く、八重 山の神 と 久米山の神 とは、原 、是れ姉妹 な り。若 し君南風、官軍 に銀随 し往 きて八重 山に赴 き、諭 (5) を以て暁す を為せ ば、必ずや以て信服せ ん と」 として解説的な記述 を してい る。 とい うこ とになれば、「彼嶋 きみ まもの」 とは、す なわち、「お もと獄
」 に移 り住 んだ 「御姉」 に降 りた神 だ とい うこ とになろ う。 さて、神託 に よって 「八重 山征伐」 に赴 い た君南風 は、 「ちねふ を浮へ、其上 たい まつ鎗多置、夜 中二押流 させ」、敵 の 目を欺いて八重 山への上 陸 を果たす。 これ に よって君南風の 「八重山征伐」の姿が明 らかになって くるが、
引いた 記事 では誰 が 「ちねふ を浮へ」 たのか、 はっ き りしてい ない。 しか し、引用 を省略 した 「附」 に 「久米嶋嶋尻崎β (たい ま)つ取候。此所 を今 に至 る迄、たい山 と申博候」があ ることに よって、「奇謀」 (『球陽』)が君南風 に よる もの らしい ことが暗示 されてお り、 『女官御双紙』では該 当箇所 が 「筏 につみ入たい まつハ、久米 島 しま尻崎 よ り取 な り。此 庭 を今 に至 るまで矩 U」といひったふ るな り」 となって、地名起源欝 に展 開 している。それ が、『球陽』 になる と 「君南風 、即 ち奇謀有 り。竹筏 を作 り為 し、上 に竹木 を装 ひ、焼 き て姻火 を連 ね、以 て放流せ しむ」 と明確 に君南風 の 「奇謀」 とす る記述 になって くるので ある。
『君南風 由来 井位 階且公事』の記述 は全体 的に整理 されていず不 明瞭 な箇所が多い が、おそ ら く、「奇謀」 は 『君南風 由来井位 階且公事』 の当初か ら君南風 に よるとい う伝 承 であった と思 われ る。それが書写 を重 ねるごとに、次 第に内容が整 った ものになって く (t')
るのである。 『球陽』 の記事 は、君南風が八重山に赴 く部分 について も解説 的な記述 にな っていたが、我 々の イメージにある君南風 の 「八重山征伐」 は、厳密 には 『球陽』の記事 によるところが大 きい。 それは ともか く、伝承 とり夕との間には大 きな溝があ る。
『君南風 由来井位 階且公事』
『女官御双紙』 は、 この記事 の後、 これ を謡 った 「くわいにや」 (仲里 間切 くわいにや、 具志川間切 くわいにや) を記 しているが、 り夕が 「八重 山征伐」 を謡 った ものであること が窺 えるのはわずか に 「あや手鉾 もと/一\/ くせ手鉾 もと/・\
」 (仲里 間切 くわいにや)、 「宮古嶋 となめて (宮古島 を平定 して)/八重山鴫 となめて (八重 山島を平定 して)」 (具 志川間切 くわいにや) ぐらい なもので、引用 した記事 に少 しで も触れて くる詞章 はみ られ (7) ない。 り夕の叙事 の多 くは、八重山 (宮古)への往還の巡行叙事 と国王 か ら褒賞 を授 か る ものが中心 になってい るのである。 しか も、「具志川 間切 くわいにや」 の 「宮古嶋 となめ て/八重山嶋 となめて」の部分が、「仲里 間切 くわい にや」 では 「宮古嶋 となめて/ ひ ら 嶋 (平 島) となめて」 とな ってお り、 「八重 山征伐」 の り夕にな ってい ない。 この部分 -191-史 料 編 集 室 紀 要 第
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に、脱落 、 も しくは、誤写が あると考 えて も、二つの 「くわいにや」 は 「八重 山征伐」 に 限定 した もので は な く、正確 には 「両先 島征 伐 」 の り 夕にな ってい る。 そ うい う意味 で は、<例 1> と巻1-36の方が はるか に 「八重 山征伐」 を内容 に しているのである。
「八重 山征伐」 にかか わ る と考 え られ る巻2
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には、「久米 の君南風 や/弟君南風 や」 とい う (8) 句がみ られ、 これ は君南風が 「三姉妹」 の一番末 の妹 だ とす る伝承 と重 な る。 また、巻1
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-巻2
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-巻2
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には、「お もと獄司子 久米 の島 おわ ちへ/ きちや ら獄司子 成 さが前 お わちへ」 があ って、 これが久米 島か ら 「お もと綾」 に移 り住 んだ二番 目の姉 (り に関係 す る句 であ る こ とが窺 われ る、。 さらに、 <例1
>の謡 い出 しは、「一 間得大君 が 押 し遣 た る精軍 〔按 司襲 い しよ 世添 ゑれ〕 又 鳴響 む精 高子が 押 し遣 た る精軍 又 あ はれ愛 し君南風 島討 ち為 てす 戻 りよれ 又 あはれ愛 し君南風 国討 ち為 てす 戻 りよれ」 であ り、 聞得 大君 が 尚真 の ヲナ リ神 と して、 出発 す る王府 の軍勢 にセチ (霊 力)付 け を し、君南風 が 「八 重 山征伐」 を して戻 って くる こ とが謡 われてい る。
『君南風 由来井位 階 且公事』 の記事 とり 夕との間 には相 当の溝が ある ものの、君南風 の名が全 くみ られ ない正 史(
『中山世鑑』
『中山世譜』) と比べ れば、一定程度 の連続性 が ある と考 え るべ きであ ろ う。 む しろ、 「八 重 山征 伐」 をめ ぐる正史 とり夕 (オモ ロ、 クェ-ナ) お よび 『君南風 由 来井位 階且公事』 の記事 との間の断絶 こそ、注 目すべ き事柄 だろ うと思 われ る。 『君南風 由来井位 階且公事』が初出 になってい る君南風 の 「八重 山征伐」伝承 は、やは り、「八重 山征伐 」 での君南風 の働 きを強調す るため に記述 された ものであ ることは間違 いあるまい。君南風 は、その働 きがあ った故 に 「ち よの ま (く) び玉井地所 ひら (ら) L や原」 を拝領 した と記 されてい る。考 えてみれば、宮古 島の最高神女、初代 の宮古 島大阿 母 は、王府 の軍勢 の先駆 け となって 「八重 山征伐」 を果 た した仲宗根豊見親 玄雅の妻が、 その勲功 にあず か って就任 した ものであ った。 同 じく、初代 の八重 山大阿母 も、「謀叛」 を企 てたオヤ ケ ア カハ チ に従 わず、抵抗 した長 田大主 の妹 、真 乙姥 が、就 任 してい る。 「八重 山征 伐」 にかかわ って、君南風 、宮古 島大 阿母、八 重山大阿母が 「恩 賞」 に浴 して いるのであ る。 これ に類す る話 は、泊之大阿母の 由来 もあ る。 これは、 尚徳 王が 「鬼界 島 征伐」 を果 た して泊港 に帰還 した折、一人の 「婦 人」が 「海涯」 で 「御手水 」 を国王 に奉 (1O) り 「忠心」 を示 した とい うこ とで、「泊 ノ大阿母職」 を与 え られ る とい うものであ る。 こ れ も、国王 の 「征 伐」 にかかわる勲功 に よって 「恩賞」 が授 か る とい う伝承 である。泊村 は、「昔ハ大 島 。鬼界 島 ・徳 之 島 一永 良都 島 ・与論 島 ・国頭方 ・西方 ノ船、 泊 ノ津 二上納(
L 米積 来、公事 相勤 ルニ ヨツテ」
「泊御殿」 が置 か れた村 で あ り、泊村 の最高 責任者 泊地頭 は、泊村 と と もに硫 黄 を産 出す る硫黄 鳥 島 (徳 之 島の西方65km) を も管轄 してい る。泊 港 には、奄 美諸 島地域 の窓口 と しての機 能が あ ったのであ る。す なわち、泊之大阿母 の由 来が 「鬼界 島征伐」 にかかわ ってい る ことは、偶 然 ではない。泊村 が奄美諸 島地域 の窓 口 であ った故 に、泊之大阿母 の由来が 「鬼界 島征伐」 にかかわってい る とい うことなのであ ろ う。宮古 島大 阿 母 、八 重 山大 阿母が上 回す る際、浜 之大 阿母 (那覇 の大 阿母) が 「取 (12) 次」 を した ように、 おそ ら く、泊之大 阿母 も、かつては奄美諸 島か ら神女が上回す る際 は-1
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-史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 「取次」役 を担 っていた と想像 され る。 君南風 の問題 に戻 って考 えれば、「八重 山征伐」 にかかわって君南風が登場す るのは、 久米 島が宮古八重山への窓口 としての役割 を担 っていたか らではないのか。林子平の 『三 国通覧 図説』(1785年)の付 図 「琉球三省並 びに三十六島之図」 では、久米 島が宮古 ・八 重山の 中継地 になっていることが、はっ きりと示 されている。先 に引いた 『君南風 由来井 位 階且公事』 は、三姉妹が元 々どこにいたかはっき りしないが、一番上の姉 が 「首里雛森 に御住居」、妹 「御 商人ハ久米嶋塾塵 蓮」 とある。そ して、さらに二番 目の姉 が 「八重 山鳩 塾遮逢」 とい うことになるのだが、久米 島が八重山渡海への中継地 になっていることを示 してい る。 このほか に も、久米島か ら宮 古八重山に渡 る記事 を拾 うと、例 えば 『琉球 国由 来記』 に限 って も、五穀 と鉄器の農具 を もた らした船立御縁 (宮古 島)の 「男女神」が、 久米 島か ら渡来 した とす る記事や、竹富 島の幸本御縁 の神がやは り、久米島か ら渡 って き た とす る記事 がみえ る。 また、『久米仲里 間切公事帳』 (道光11年) には、「両先嶋船上下 之時潮懸何角用事 申出」があった場合の対応 の仕方 を記 した一条があ り、実 際 に久米 島が ・卜 時 には宮古八重 山- の中継地 になっていたことが分 かる。久米島に、両島- の窓口、 もし くは中継地 としての役割があったのである。 「八重 山征伐」 に久米の君南風がかかわって くるのは、 まさに久米島が もつ、以上 の よ うな位置付 けによる故 と考 えてよかろ う。同 じ 「征伐」 にかかわる 「恩賞」講 に して も細 か くみ る と、君南風 の場合 は 「八重 山征伐」 以前 に既 に君南風 であ って、授 か った 「恩 賞」 は 「ち よの ま (く) び玉井地所 ひ ら (ら) Lや原」 であ った。君南風 とい う神職 は 「八重山征伐」の 「恩賞」 によって授 か ったのではな く、既 に渡海す る以前 か らの もので あった。 これは両 島へ の窓口、 もしくは中継地 としての久米 島の位置づ けが既 に決 まって いたか らであ り、そ この選 ばれた神女 として君南風 の位置 も既 にあった ものでなけjMどな らなか ったのであ る。微妙 だが三人の大 阿母 と異 なる点 は、 ここにある とい えるのであ る。 ところで、君南風 の八重山渡航 は、伊波普猷や仲原善忠等が述べ るような戦いの先駆 け としての役割 だったのだろ うか。す なわち、「イナ ダヤイクサメサチバ イ」 とい う諺で語 られ るように、君南風が従軍 し戦いの前哨戦で相手 を呪誼 し、 まず宗教的に勝利す る とい うような役割 だったのだろ うか とい うことである。 もちろん、 これはあ くまで も歴史的な 事実の問題 としてで はな く神話の問題 と して、 また、伝承 の問題 として、君南風の八重山 渡航が戦 きの先駆 けであ ったか どうか とい う問題 である。確 かに、『お もろ さうし』 にお (J4) いて武装す る神女の姿 は見 られる。 しか し、 この君南風がかかわる 「八重 山征伐」 に関連 す るオモ ロには、君南風 の武装す るり夕は見 られないのであ る。 また、君南風が登場す る オモ ロすべ て に も武装す る姿 は見 られ ない。 さ らに言 えば、『君南風 由来井位 階且公事』 の該当す る記事 につ いて も君南風 は 「奇謀」 を講ず るのであって、武装 し相手 を呪誼す る とい う記述 はない。 オモ ロに武装す る神女の姿があ る以上、君南風の八重山渡航 について 従来の説 を全面的に否定す るつ もりはないが、む しろ、それ よりも君南風の八重山渡海の -1
93-史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 役 割 は、航 海 の守 護神 と して あ った と考 えた方 が よい の で は ないの か0 オモ ロ にお い て 、表 現 と しての神 女 の航 海 は第10「あ りきゑ との お もろ御 さ う し」 や 第 13「船 ゑ とのお もろ御 さ う し」 を中心 にみ られ るが 、 それ は神 女 の実 際 的 な航 海 とい う よ りも、神 女 の海上 (海 中)他界 へ の儀礼 的 な航 海 を謡 った もので あ り、 あ るい は、船 の守 護 神 と して航 海安 全 を謡 った もの で あ る。 そ の典 型 的 な表 現 が巡行 叙事 で あ るが、 海上 渡 航 の叙 事 は、 第10、第13に集 中的 に出て くる 「又朝 凪 れが しよれ ば 又 夕 凪 れが しよれ ば 又 板 晴 らは 押 し浮 け て 又棚 晴 らは 押 し浮 けて 又 船子 選 で 乗 せ て 又 手 輯選 で 乗 せ て」 とい う常 套 表 現 で あ る
。
『君 南 風 由来 井位 階且 公 事 』 の二 つ の 「くわい にや」 には、 この 表 現 を含 ん だ 海 上 渡 航 の叙 事 が 見 られ るの で あ る. そ の 一 つ の 冒頭 部 を、以 下 に引 (】r)) く、。 <例 2> (右之暗仲里)間切 くわいにや 1 あはれかな しきみはい 2 久米 のきみはい 3 あはれかな しきみはい 4 お と 、きみはい 5 あはれかな しきみはい 6 か しらかうの とまり 7 あはれかな しきみはい 8 か しらかうのみ なと 9 あはれかなしきみはい 10 (いた きゆ らは)お し浮て 11 あはれかな しきみはい 12 たなきゆらは (お し浮て) 13 あはれかな しきみはい 14 ふなこゑらてのせて 15 あはれかな しきみほい 16 てかぢゑらてのせて 17 あはれかな しきみはい 18 なみ (ちや) しごしめい きやち 19 あはれかな しきみはい 20 こかね しごもてい きやち 21 あはれ (か) な しきみはい 22 あやのやほあふ らちへ 23 あはれかな しきみはい 24 もじろやはあふ らちへ あはれ愛 し君南風 久米の君南風 あはれ愛 し君南風 弟君南風 あはれ愛 し君南風 か しらか うの泊 あはれ愛 し君南風 か しらか うの港 あはれ愛 し君南風 枚晴 ら<船の美称語 >は押 し浮かべて あはれ愛 し君南風 棚晴 ら<船の美称語 >は押 し浮かべて あはれ愛 し君南風 船子 を選んで乗せて あはれ愛 し君南風 手桶<船子の対句 >を選んで乗せて あはれ愛 し君南風 銀櫓締め出 して あはれ愛 し君南風 黄金櫓持 て出 して あはれ愛 し君南風 綾の弥帆煽 らして あはれ愛 し君南風 美 しい弥帆煽 らして _194-史料 編 集 室紀 要 第
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あはれかなしきみはい 26 いとほあけてはれは 27 あはれかなしきみはい 28 布はあけてはれは (以下、省略) あはれ愛 し君南風 絹帆揚げて走れば あはれ愛 し君南風 布帆揚げて走れば 冒頭以 降、一節 お きに出て くる 「あはれか な しきみ はい」 は、ハ ヤ シに相 当す る もので あ る。 これ は、<例1
>に も出て くる詩章で、君南風賛美 の重要 な表現 になってい る と考 (16) え られ る。 それ を除い た詩章 は、君南風 が 「か しらか う」 の港 か ら出航 す る こ とが謡 わ れ、1
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節 以下が巡行 叙事 となってい る。それ は、「又朝風 れが しよれ ば 又 夕凪れが し よれば」 はない ものの、 オモ ロの叙事表現 を含 みつつ、船 の部分名、櫓 や弥帆、帆 を美称 しなが ら、それ よ りもさ らに詳 しい叙事 にな ってい る。 この表現 は前述 した とお り 「(右 之時)具志川間切 くわい にや」 に もあ り、君南風が久米 島 (首里) と八重 山 (宮古) とを 往還す る巡行叙事 になってい る。二 つの 「くわい にや」 は、 この叙事 と国王 か ら褒賞 を授 か る詞章 が ほ とん どであ り、「征 伐」 が謡 われ た表現 はわず か四節 (他 は二節)のみであ る。君南風 の八重 山渡航 は、 「くわい にや」 の表現 か ら理解 すれ ば航 海の守護神 と しての それであ る と考 えるのが 自然 であ る。同様 に、<例1>につ いて も、航 海の守護神 として の もの と理解 した方が よい と考 える。Ⅲ.
君南風の性格
実 は、 この間題 は、聞得 大君 を頂 点 に して存在 した ノロ制度 と、それ とは また別個 に存 在 した と考 え られ る、君君 の神女 グループの基本的 な役割 につ なが る問題 になって くる と 考 え られ るのである. ノロや若君の基本 的 な役割の一つ は、航 海の守護神 と しての役割が 重要 な もの としてあ ったのではないか。前 に 「八重 山征伐」 にかかわ って、君南風、宮古 島大阿母、八重 山大 阿母が 王府か らの 「恩賞」 に浴 した こ とを述べ たが、 この うち、八重 山大阿母が 「恩賞」 に浴 し大 阿母職 に就任 す る 『八重 山縁 、由来記』 の記事 は以下の もの (17) である。 八重山嶋大安母由来井美崎之御縁立始之事 (赤はつ、ほんかわらが討たれ、妹の古乙姥は赤はつの妻ゆえに課 される)今一人、(姉の)真乙 姥 と申者、降参致 し、刺、数十娘之兵船二各乗移、ゑらひかねと申御神御たかへ仕、何事無 く御守 給ふ由、御みすす り有。共時、軍兵衆刀頭二宛、誠の神ならは、此兵船一版茂残 らず、同時に相 並、那覇津二守着すべ く候。共時は御褒美之れ有るべ く候。若 し相違はば、其科行はるべ Lと仰せ 入 られ、御帰朝なされ候。右之儀二付、其乙姥恩様、若 し此船 自然一腰茂損、又は後先罷成候ハ ∼、身之為始終如何 と念遣仕、海上安穏之ため誓願いた し、美崎山二相寵、(途中省略)念願相 叶、兵船残 らず、同時那覇入津仕候。御褒美せ られ、、翌年絹之神御衣裳、御賜 り、上回仕るべ L と仰せ下され候。翌年罷登 り候時、多 、屋おな り茂列渡候。共時、八重山之大安母仰付けられ候処 (以下、省略) _195-史料 編 集 室 紀 要 第
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結局、真 乙姥は 自分 の参龍 を助 けた多田屋おな りに大阿母職 を譲 ることになるが、真 乙 姥 が大阿母職 を賜 るのは、「征伐」 にや って きた王府 の兵船が一隻残 らず無事 に那覇の港 に到着す ることを祈願 し、それ を果た した とい うことにほかな らない。つ ま り、真 乙姥の 大阿母職就任 は、勲功 のあ った長 田大主の姉妹 (ヲナ リ神)である とともに、王府の兵船 の海上安全 を図った功績 による ものだった。逆 に言えば、その ような能力 を もつが故 に、 大阿母職 に就いた とも言 えるのである。神女の由来が記 された資料 は少 ないが、その少 な い資料の中にこの ような記事が見 られることは注 目すべ きであろ う。王府の制度下 にある (ほ) 神女 にとって、海上 を行 く船 の安全 を守 ることは重要だったのである0 『八重 山撒 、由来記』 には、引用 した記事 の後 に 「大 あむ役 日勤之事」 として、「走納 船両膿
」が上下国す る際、美崎御猛以下の七御旗 の 「御願之時」 と、「御使者、御在番所 之役 人、出船入船、浜御拝之時」 に、大阿母が美崎御縁 で 「御願」す ることが記 されてい る. さらに今 ひとつ、毎月 「酉 日、寅 日」 に、やは り、美崎御旗 において 「首里天嘉那志 美御前御為井完納船両膿、嶋 中之為、御願拝 申候」 ことがあげ られてお り、春秋二李 に首 里 と八重 山 を往還 す る上納船 の志無 い運航、お よび、「御使者、御在番所之役 人」等 を乗 せ た定期 ・不定期 の船 の無事 な運航 を祈 ることが、大阿母の重要 な 「勤」 だったことが分 か るのである. これは宮古 島で も同 じで、『宮古 島旧記』 (廉柁冥
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年〔
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7
〕本) には、八 重 山の美崎御縁同様 、宮古 島の御縁の筆頭 に立つ御縁、湛水御旗 の祭神 は 「弁財天女」 だ とあ り、そ こには 「首里天加那志美御前御為 、諸船 海上安穏 の為 、諸願 二付 、崇敬仕候 (1g) 事」 とある。御族 の神 を 「弁財天女」 とす る認識 は、『琉球神道記』(
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年、袋中良走) に 「託女三十三人ハ皆以王家也。妃モ其- ツナ リ。聞補君 ヲ長 トス。都 テ君 卜称 ス。此 外 .夷 中辺土 ノ託女ハ.数モ走 リナシ。 (途 中省略)都 テ弁財天 ナ リ」 (キ ンマモ ン事)、 (2(J) 「女 人ハ 国ノ守護神 .弁財 天也」 (天久権現事) とす る記述が既 にあ り、 これ を受 けた可 能性 が あるが、『混効験集』(
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年)の序文 冒頭で も 「夫我朝 は神 国、御本地弁財天 な り」があって、当時の琉球 において受 け入れ られた認識であった と考 え られ る。池宮正治 氏 は、 これについて 「神女が仏教 の本地である弁財天 (女) として垂連 とす る、本地垂逆 説 の琉球的な認識 であった といえる」 とし、「弁財天 は神女 とも垂逃 し、嬬姐 とも習合 し ている」 と指摘 してい る。そ して、聞得大君御殿 には弁財天女の画像がかけ られ、聞得大 (21)
君以下の神女たちが毎 日弁財天 を拝み航海の安全 を祈 っていた と述べ ている。 「田里筑登 之親雲上渡唐準備 日記」 を見 ると、田里筑登之親雲上兼賢が北京大筆者の拝命 を受 けた R や旅御拝、三平等 之御立願、御暇乞 と呼ばれる日には、聞得大君御殿へ参拝 していること (22) が分 かる。聞得大君が、航海の守護神 になっているのである。 御縁 の神 を弁財 天 だ とす るのは、そ こを配 る宮古島大阿母の航海神 としての性格 を語 っ た ことにはかならない。神女 の重要 な役割の一つが、航海安全 を祈 りそれ を保障す ること にあ ったのであ る。
『宮古 島旧記 』 は溺水御縁 の記述 の後 、広 瀬御旗 以下15の御旗 をあ げ、そ こが 「船路 之為、崇敬仕候」所 である と記 しているのである。実 は、『八重山赦 ゝ 由来記』(
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年)や 『宮古 島旧記』等の地方の公事 ・由来 ・旧記等 を集成 して編集 した -196-史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 『琉球 国由来記』
(
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年)仝2
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巻の 「各処祭祀
」 (巻1
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以下の巻) を見 る と、王府が重視 し王 国諸 間切 諸 島で実施す る こ とを期待 してい た ものが 、「四度御 物参」 と 「麦稲 四祭」 (2i)
とい う 「祭柁
」 だ った ことが分 か る。 「各処祭紀」 は、 その筆頭 となる真和志 間切 (巻1
2)の 「祭紀
」 の記 述 に規範 が あ るが、二つの 「祭祀」 の記述 には、特 に 「諸 間切 四度御 物 参 之例 、之 二倣う
」
「諸 間切 、麦稲 四祭 之時、森 々殿 々儀 式、後 之 二倣 り」 とい う割注 が あ って、以 下 の諸 間切諸 島の 「祭祀」 が これ に従 うこ とが書 かれ てい る。
「祭祀
」 の内 容 は、各 間切各 島に よって必ず しも一様 とはいいが たいが 、確か に二つの 「祭紀」 につい ては概 ね各 間切 各 島 にその記述が あ り、一応 、 「祭祀」 は行 われていた と判 断 され るので あ る。
「麦稲 四祭」 とは、麦穂 祭 、麦大祭 、稲穂 祭 、稲 大 祭 をさす が、「四度御物 参」 と は、 3月 と8月 に行 われ る四度御物参 とい う 「祭 祀」 を さす。 その 「祭祀
」 の オ タカベ が、以下 に引 くものであ る。 毎年三 ・八月、四度御物参之祈願有り。垂御崇之意趣ハ、 首里天加那志美御前 何之年 何性 ノ 何之御齢 御命 ノツナ 御星之網 イヂ ヨク マヂ ヨク 掛福住栄 敷ブサへメシャウチへ 首里御真人二 十百年 十百歳 拝 レメシャウチヘ 首里御真人 唐 ・大和 ・宮 古 ・八重山 島々ノ船 上 り下 リ ノフ事モ 百加保ノアルヤニ 御守メシヨワチへ 首里天加那志美御 前 御胆保コリ 御中ホコリ メシヨワルヤニ 御守メシヨワレ デ ゝ オ タカベの内容 は、 国王 の健康祈願 と長寿祈願 、並 びに王 国の船 の安全 な航行 を願 った ものであ る。引用 の記事 は、 これが各 間切各 島において ノロ (盃) によって唱 え られ るこ とを意味す る。 「麦稲 四祭」 の オ タカベ は、 まさ し く王 国の農業生 産の根 幹 となる麦稲 の 豊作 を祈 願 した もの だが、国王の健康祈願 と長寿祈 願 は ともか くと して、主要 な農業生産 の豊鏡 と王 国内外 の航 海の無事 が、王 国 に とって極 めて重要 なテーマだった ことが分 か る の で あ るO そ れ を担 ったのが「
兎
」、す なわち ノ ロ (ツ カサ) で あ ったの だo前 述 した 『八 重 山旗 ゝ由来記』 や 『宮 古 島旧記』 の記事 は、 当然 、 『由来記』 の この 「各処祭祀」 にかかわ る記述 であ った。 琉 球王府 の解体後 、 「麦稲 四祭」 の方 は村落 の祭紀 と して、あ るいは家 (門中)の祭紀 と して生 き残 ってい るが、一一万の 「四度御物参」 の方 は、王府の枠 組みの消滅 でほ とん ど 姿 を消 して しまってい る。それで分 か りに くくなって しまったが、 ノロ (ツカサ)の重要 な勤 め と して王 国の 内外 を行 き交 う船 の安全 な航行 を祈 り守護す る役 割 が あ ったの だ っ た。 君君 とい われ る神 女 たち も、それ は同 じであ った。航 海 の守護神 と しての性格 は、 『お もろ さう し』 に表現 されてい るのである。君君 の一人、君南風 も例外 ではな く航海の守護 (24) 神 と して謡 われてい るのであ る。 <例3>巻13-762 正徳十二年十一月廿五 日ひのとのとりのへに 正徳十二年十一月廿五日丁の酉の日に せちあらとみまなはんに御つかいめされ し時 せぢ新富真南蛮に御使い召 され し時11
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7-史料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) にお きやか もい天の御みてつからめされ候ゑ と しよりゑとのふ し 一 大 きみはたかへて せちあらとみお しうけて 大 きみに おゑちへこうては りやせ 又 せたかこはたかへて 又 あちおそいきやおきうせや むか うかた しなて 又 お きやか もいか御 さうせや むか うかた しなて 又 あちおそいきやおやおうね お しうけかす まふ りよは 又 けらへせちあ らとみ くりうけかすまふ りよは 又 ふれ しまのかみ/へ あよそろてまふ りよは 又 きみはへはたかへて せちあらとみお しうけて 又 のろ/へ はたかへて にお ぎゃか思い天の御み手づから召 され候 ゑと しよりゑとのふ し - 大君は崇べて せぢ新富<船名 >押 し浮けて 〔大君に 追手乞 うて走せ〕 又 精高子は崇べて 又 按司襲い<国王>ぎゃ御想ぜや 向かう方擁て 又 お ぎゃか思い<尚真王 >が御想ぜや 向かう方擁て 又 按司襲いぎゃ親御船 押 し浮け数守 りよは 又 げらへせぢ新富 到 り浮け数守 りよは 又 群れ島の神々 あよ揃て守 りよは 又 君南風は崇べて せぢ新富押 し浮けて 又 祝女祝女は崇べて この オモ ロには詞書 きが あ り、 それ には正徳
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年(
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51
7)
に真 南蛮 (東南 アジア)へ交 易 船 を派 遣 す る時 、 お ぎゃ か思 い (尚其 王 ) が 自 ら 「ゑ と」 (船 ヱ トオモ ロ) を作 り謡 っ た もの だ とあ る。派遣 され た船 (セヂ新富 ) は聞得 大君 を拝 し大君 に守 られ て、那覇 の港 を出 て ミ一二 シ (北風 ) にの って一路南 下 して行 くの だが 、途 中、群 れ島 (慶 良問諸 島) の神 々 を拝 し、次 に久米 島の君南風 を拝 し、久米 島の ノ ロノロを拝 して真 南 蛮へ と出走 す る こ とが 、 オモ ロか ら分 か るO 聞得大君 や君南風 、 ノロは船 の守護神 なので あ る. 先 に君南風 の 「八重 山征 伐」 と考 え られ てい るオモ ロをそ う理解 す る よ りも、八 重 山渡 海 の航 海神 を謡 ったオモ ロ と して理解 す る方が 自然 であ る と したの は、以上 緩 々述べ て き た こ とが理 由で あ る。 い わ ゆ る 「冊 封使 録 」 の 「琉 球過 海 図」 (『便 琉 球録 』 粛崇 業 ) や 「針 路 図」 (『中山伝信 録 』徐 裸 光) に久米 島の名 が記 され てい る よ うに、久 米 島は中国往 還 の航 路 で あ り東 南 ア ジアへ の航路 に も当 た ってお り、 この オモ ロに よって君南風 が海外 交易 の船 人等 か ら拝 まれ て い る こ とが分 か る。 それ は近 世期 の資 料 にな るが 、 『間切公事 (2r)) 帳』 で も確 認 で きる。 唐船方/-
渡唐船那覇出船前時分柄見合久米嶋君南風所兼城のろ手根のろ火神之前中城獄いへ之前 _198-史料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 合 四 ヶ所江海上安全之御 たかへ之れ有 り候右為供物八月限御船手
β
渡合之 さは くり請取持涯右拝所 銘 々構 入江相届置渡唐船出船近相成候ハ ゝ御 たかへ仕 るべ く事 仲里間切公事帳 (逆光11年(
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資料 は渡唐船が那覇港 を出港す る時分 を見計 らい、君南風殿 内、兼城 の ろ、手根 のろの 殿 内の火 の神、それ と中城森 (仲里城御縁) いべの都合 四 ヶ所 で海上安全 の オ タカベ をす る とあ り、 その供 物 は王府 か ら支給 され 出張 して きた役 人 (渡合 之 さは くり)が受 け取 り、それぞれへ届 け る とい う ものであ る。言 うまで もな く、第一 にあげ られ る君南風所 と は君南風殿 内の こ と、兼城 の ろ殿 内の火 の神 は、具志川 間切 の港 であ る兼城泊 を管轄す る 神 、宇根 の ろ殿 内の火の神 は、仲里 間切 の港 である真謝泊 を管轄す る神 、 中城猛 (仲里城 御 縁 ) は久米 島の重要 な聖地であ る。資料 は仲里 間切 の ものだが、 この四 ヶ所が海上安全 の祈 願 をす る際、久米島の最 も重要 な祭場 なのであ る。 (2G) 君南風 は、唯一、王族 に属 さない君 であ った。先 に引いた ように 『琉 球神 道記』 に よれ ば、 「託女 三十三人 (筆者、注。三十 三君 の こ と)ハ皆以王家也 。妃 モ其- ツナ リ。聞補 君 ヲ長 トス。都 テ君 卜称 ス」 とあ り、実 際、 『女官御 双紙』下巻 を見 る と、確 か に就任 者 が記 されてい る君君 は、一部 を除いて 「王 の御姫」
「王妃」
「王子女」
「王子妃」
「王子室」 「按 司女」
「按司室」等 であ り、「王族」 とい って よい。 そ して、 これ は地方 に住 む君君、 伊 平屋 の阿母加那志 や今帰仁 あお りや え も同 じで、その初代 は前者が 尚円王 の 「御姉」、 I.1<L 後者が 「監守北 山」 尚親戚 の次男介 明の娘 で、つ ま り、王族 であ る。す なわち、君君 は国 王 の ヲナ リ神 であ り、国王 を守護 した神女 であった。 しか し、君南風 は先 に引いた 『君南 風 由来井位 階且公事』の記事 に見 るご と く、王家 と具体 的 に血がつ なが る伝承 を持 ってい ないので ある。 に もかかわ らず、君南風 が三十三君 の最後 の君 (『女官御 双紙』) として位 置付 いてい る。それ は、 なぜ なのか。 おそ ら く、久米 島が中国や東南 アジア、 また、宮古八重山- の海上航路 の要衝 であるこ とに、理 由があるのではないか。 そ こを守 る最高神女 と して、航 海の守護神 として、王府 が君南風 を置いたのではないか。君南風 がいつか らあるのかは、 は っ き りしないが、君南 風 の一番古 い辞令 書 は、嘉靖4
5
年(
1
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に発給 された ものであ る。 この辞令書 は、現在 残 ってい る神 女 の辞令書 と しては、最古 の ものであ る。
『君南風 由来井位 階且公事』が記 す ように、君南風 が 尚真 (1478年-1
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2
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年)の 「八重 山征伐」 の時点 に既 に存在 したかは 分 か らないが、 この辞令書 をある程度減 る時期 にその存在があ った とい う想像 は許 され よ (2(J) う。次 に確認 され る辞令書 は、万暦2
3
年 (1595)に発給 された ものであ る。 それに前任者 「もとの きミはいの大 あむ」 の 「の ろち」 (視女地) を受 け継 ぐこ とが書 かれてい ること か ら、 「もとの き ミはいの大 あむ」 とは、嘉靖4
5
年 に発給 された君南風 その人か、あるい はその次 の代 の君南風 か もしれない。 それ は ともか く、 この方暦2
3
年 に辞令書が発給 され た君南風 は、おそ ら く、和 州氏元祖 であ る君南風 (万暦7年生、童名真鍋 号花林)であ (3(り る可 能性 が あ り、 この君南 風 は 「叔 母君南風 」 の跡 目を継 い だ とされ て い る こ とか ら、 「叔母君南風」 は辞令書の 「もとの きミはいの大 あむ」 とい うこ とになるのだろ う。 -199-史料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 『和 州氏家譜系 図』 に記 される、和 州氏元祖君南風 の記事 は注 目され る。記事 は、「首 里 の伯母二養育せ られ首里 に居住 し和氏浦添親方景明次男宮平親方景護嫡孫久米具志川親 雲上景懐 の室 とな り其の後 当嶋叔母君南風跡 目として久米鴫二罷 り渡 り候」 とある。父は 「仲里 間切太史氏久米仲城親雲上」 とあ るか ら、久米 島に縁 のあ る人物であ るが、母は首 里生 まれ (号 自得 か)であ り、なん らかの理 由で この君南風 は首里育 ちだったことが推測 され る。 これが 「景懐の室 とな り其の後当嶋叔母君南風跡 目として久米嶋」 に渡 って きた ので ある
。
『君南風 由来井位 階且公事』 の 「由来」 もそ うであ ったが、君南風 は外部か ら の渡来者 だ とい う 「由来」 になっているのである。小川順敬氏 は 「君南風 の出自伝承 につ いて」の中で、歴代 の君南風 は、中城按司 と具志川按司 をそれぞれ始祖 とす る按司系統の 氏 (太史氏 と美済氏) と前述 した和州民か ら出てお り、 これ らの氏 はいずれ も外来系統の (31) 氏 だ と意識 され、伝統的 な神事 には全 く関与 していない と述べ ている。や は り、実態 とし て も君南風 は在地の神女が昇格 して成 った とい うより、王府か ら招来 された外来神 であっ (32) た とす ることがで きるのではないか。 ま と め ここで ようや く、最初の問題 に至 りつ くことがで きた。久米 島オモ ロには、なぜ 中央の オモ ロに見 られる表現があるのか とい う問題である。その一つの理 由は、君 である神女、 君南風 が久米 島 にい るか らであ る。<例1
>に引いたオモ ロは、王府 に よる 「八重 山征 伐」 にかかわったオモ ロであ ったが、 これ に君南風が先 島への航海の守護神 として関与 し てい る故 に、第1
(巻1
) とも重複 したオモ ロとして久米島オモ ロに もあ る と考 え られる が、例 えば、必ず しも、いわゆる神女 オモ ロと重複 しない ものであって も、以下 に引 くよ うな ものは、 中央 のオモ ロと同 じ表現が見 られ、久米島オモ ロの特異性 を示 しているので あ る。 <例4>巻2ト1411-巻11…559-巻2ト1499 くめのきみはゑかふ し - おほっおてみれは さりよこしちへみれは あやみやのめつらしや 又 なかちあやみやに ゑんけらへありる 又 なかちくせみやに むかけらゑありる 又 まとよたかつかいしょ くめのしまおわちやれ くめのきみはゑがふし - おぼつ居て見れば ざりよこ為ちへ見れば 〔綾庭の珍 しや〕 又 仲地紋庭に ゑんげらへ<建物の美称語>が有 りる 又 仲地寄せ庭に むかげらゑ有 りる 又 其とよたが使い<招待>しよ 久米の島おわちやれ ー200-史料 編 集 室 紀 要 第
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又 あかころかつかい しよ なさかしまおわちやれ 又 うきおほちか世やてや もゝかめむすへまし 又 あやみやの大ころ あまこあわちへ もとらめ 又 あやみやのころ/-∼ みかをあわちへ もとらめ 又 吾がころが使いしよ 成 さが島おわちやれ 又 大祖父が世<始原からの世>やてや 百襲む据へまし 又 綾庭の大ころ 眼合わちへ戻 らめ 又 綾庭のころ/・・\ 御顔合わちへ戻 らめ 冒頭 に出 て くる 「お ほっ」 は、多 くは 「か くら」 (神 楽 ) と対 句 にな って 出て くる語 で、注書 き (いわゆ る原注 の こと)で は 「空也」、『混効験 集』 では 「天上 の ことをいふ」 と注が付 く語 であ る。 この語 の用例 は 『お もろさう し』全体 では重複 も含 めて6
0
例余 りあ (33) るが、地方 オモ ロにその用例 があるの は久米 島オモ ロのみで1
2
例 あ る。用例 の多 くは、第 1や第3
、第4
、第6
の神女 オモ ロ と神女 オモ ロに準 じた第7
、第1
2
であ る。巻別 に見 る 用 例 の分布 か ら して も、 この語 が 中央 の オモ ロに出 る語 で あ る こ とが分 か る。それ は、 「又 おぼつ よ り 帰 て け よの 内 に 戻 て」 (巻3-91)が あ る ように、 <お ぼつ >は首里城 内の聖地<けおの内 >につ なが った、高級神女が赴 くこ とがで きる想念世界 である と考 え られ る所 であ るか らなのであ る。それが、久米 島のオモ ロに出て くるのであ る。 実 は、久米 島の オモ ロで<おぼつ >が 出て くる用例 の うち、地名 とともに用例があ るの(
34) は巻1
ト6
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で、 この オモ ロ も<例4>
と類似 した表現 「叉 中地紋庭 に 見 れ ば 肝 映 て 又 仲 地寄せ庭 に 見 れ ば 肝 映 て 又 お ぼつ 居 て 見 れば 綬庭 の 珍 ら しや 又神 楽 居 て 見 れば」であ り、<お ぼつ > と仲地紋庭 とが謡 われ るオモ ロである。 さらに、地名 とともに は出 ないが、 その他 の久米 島 オモ ロの<お ぼつ >の仝用例 (<例1
>の巻11
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-巻2
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-巻1-
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、巻11
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-巻2
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-巻7-
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、巻1
ト6
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)
を見 る と、その全 ての用例 に君南風 が登場す る ことが分 か る。具志 川間切仲 地 は、君南風殿 内のある村 である。す な わ ち、本例、 お よびは巻11
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2
5
には君南風 は現 れ ない ものの、 これ らの り夕は君南風 にか か わ る ものだ と考 えて よい と思 われ る。仲 地縁庭 とは、君南風殿 内の祭庭 をい うのであろ う。以下 に、巻11
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6
2
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を引 く。 <例5>
巻1
1
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あお りやへかふ し 一 大 きみかうさししよ お もかはのせちおろちへ あんしおそい しよ まふらて ゝおれわちへ 又 せたかこかうさししよ あお りやへがふ し 一 大君が御差 ししよ おもかわのせぢ降ろちへ 〔按司襲い しよ 守らて ゝ降れわちへ〕 又 精高子が御差 ししよ-2
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1-史料 編 集室 紀 要 第25号 (2000) お もかはのせちおろちへ 又 てるかはかうさししよ てらちんのせちおろちへ 又 てるしのかうさししよ てらちんのせちおろちへ 又 あまみやきみはへや てらちんのせちおろちへ 又 けおのきみはゑや てらちんのせちおろちへ 又 おもかはののろ/-㌔ てらちんのせちおろちへ 又 か くらうちにあ りよる こかねうちにあ りよる かみかいのち あんしおそいにみおやせ 又 おほっうちにあ りよる なむちゃうちにあ りよる かみかいのち あちおそいに おもかわのせぢ降ろちへ 又 てるかはが御差 ししよ てらちんのせぢ降ろちへ 又 てるしのが御差 ししよ てらちんのせぢ降ろちへ 又 あまみや君南風や てらちんのせぢ降ろちへ 又 けおの君南風や てらちんのせぢ降ろちへ 又 おもかはの祝女/-〉 てらちんのせぢ降ろちへ 又 神楽内に有 り居る 黄金内に有 り居る 〔神が命 按司襲いにみおやせ〕 又 おぼつ内に有 り居る 銀内に有 り居る 〔神が命 按司襲いに〕 巻1 ト561-巻2ト1413 (<例1>) は第 1との重複 オモ ロであ った。 同様 、巻11-617-巻 21-1439は、神 女 オモ ロに準ず る巻 であ る第 7との重複 オモ ロで あ る。 ここに引い た<例
5>
は他巻 と重複 してい ない ものだが、 これ を神女 オモ ロだ として も違和感が ない。<お ぼつ > と君南風 が 出所す るオモ ロは、神女 オモ ロ的だ とい って も問題 の ない り夕なのであ る。本例 は、 あ るいは君南風が上 国 した折 に、首里城 内等 で行 われた儀礼 の 中で謡 われた (うp)) り夕か も しれ ないが、 <例4>
で見 た ように仲弛緩庭 は<お ぼつ > とつ なが っていた。 し たが って、 オモ ロは、君南風が仲 地綾庭 において、国王 のために謡 った もの だ とい う理解 が充分 に成 り立 ち得 る と思 われ る。つ ま り、君南風 が主宰す る祭紀 において、聞得大君、 テルカワ ・テル シノの指示 によって、君南風が オモ カワ/ テ ラテ ンのセデ を降ろ し、神 楽 内 ・オボツ内 にあ る神 が命 を国王 に奉 れ と、王府 で謡 われ る ような儀礼 歌が、その まま久 米 島で謡 われ る こ とが考 え られ る とい うことであ る。 テルカワ ・テルシノは神女 オモ ロに (3〔)) 集 中 して出 る語 で あ り、高級神 女 か らの太 陽 にかかわる呼称 だ と考 え られ る。テ ラテ ンも 「せ らちへ ん」 巻12-695、「せ らち ょん」巻 13-853と同 じ語 だ と思 われ、前 者 は 「嘉靖甘 四年」 の 「君手摩 りの百果報事 の時」 に 「聞得大君の御前 よ り給 わ り申候」 とい う詞書 き が付 いたオモ ロ、後者 は御新下 り、 もしくは久高 島渡海等 にかか わるオモ ロで、いずれ も 高級祁 女が謡 うオモ ロに出所す る。 これ も<おぼつ >同様 、高級神女 が抱 く他界観 にかか -202-史料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) (37) わる語であろ うと考 えられる。つ まり、<例
5>
は高級神女が抱 く他界観 にかかわる語、 お よび、高級神女か らの太陽にかかわる呼称が出所す る、まさしく神女 オモロと呼ぶにふ さわ しい内容 をもったり夕なのである。 これが、久米島において君の一人である君南風が 主宰す る祭把で謡われていると考 えられる。すなわち、 これは王権の儀礼が、久米島にお いて君南風が主宰す る祭把の中で行 われていたとい うことではないのか。 これが、地方オ モ ロである久米島オモロに、中央のオモ ロである高級神女のオモロ、すなわち、神女 オモ ロが入 っている理由ではないか。 『君南風 由来井位 階且公事』には、「稲大祭」 (旧暦六月)の際、君南風が 「仲地蔵下山 里 ひや家玉那覇蔵下仲里城具志川城 た もと所へ」
「御通成 され候備」の一つ として 「お も ろ赤頭弐拾人」があ り、「お もろ」が謡 われていたことが推測 される。資料の前半部 には 「祭礼之時君南風御通成 され候 との/へ お もろ くわいにや」が記 され、「仲里城祭礼之時 (38) お もろ」1
4
首 が記載 されているが、内容 か ら 「稲大祭」のオモ ロだ と考 え られる。つ ま り、「お もろ赤頭式拾人」 はこの1
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首の 「お もろ」の少な くとも一部 を、謡 っていたと思 われるのである。近世期 だが、地方 においてこの ように 「お もろ」が謡われていたことが 分 か るのは貴重 だが、 さらに 「外」の 「備」 として 「一 男夫十六人 一 刀壱本 但木 一 木鑓 四本 - 弓四丁 一 六角棒式本 - こは団扇壱対 - 鹿之絵団扇弐対」が記 されてい るの も興味深い。 とい うのは、 この 「備」の内 「一 刀壱本 但木 一 木鑓 四 本」 とい う 「備」 は、ち ょうど 「お もろ主取」等の 「官職」 を記 した 『琉球国由来記』巻 2 「官職位階之事」 に見 える記事、冬至 ・元旦 ・十五 日の朝拝御規式の記事 と重なるか ら である。記事 は、国王が王城正面 に出御す る際、「親雲上役」が 「鍔刀」 を、「勢頭部役」 が 「長刀」 を持 って近侍す るとい うものである。
『由来記』巻1
「王城公事」 では、朝拝 御規式 においてかつて 「オモ ロミヒヤシ」が謡 われていたことが記 されてい る。
「お もろ 主取」等が 「鍔刀」や 「長刀」 を持 って近侍 したのは、彼 らが この場面でかつてオモロを 謡 っていた こ ととかかわってい よう。 また、国王の式典 を担当 した当職の控 えであった 『画帳 首方』では、「冬至元旦十五 日唐波豊出御之時御備之囲
」 に 「小赤頭」等が 「縫 物御 国羽」
「玉御 囲羽」
「羽御国羽」等 を持つ とい う記事がある。 これ も 『君南風 由来井位 階且公事』の 「- こは団扇壱対 - 鹿之絵団扇弐対」 と対応 している。つ ま り、王城の 朝拝御規式 と君南風が主宰する久米島の 「稲大祭」 は、儀礼 の場面が異 なる ものの、王府 儀礼が久米島に持 ち込 まれていることを推測 させ るのである。先 に、君南風 は外来系統の 氏 か ら出てい る と意識 されてお り、島の伝統的な神事 には全 く関与 していない と述べ た が、 これ も前述 した とお り、「稲大祭」 は 「麦稲四祭」の一つであ り、王府が重要視 した (3()) 儀礼 である。 したが って、 この儀礼 に君南風がかかわっているのは、当然だ と言えよう。 儀礼 の場面が異 なる とはいえ、君南風が主宰する 「稲大祭」 に、王城で行 われていた儀礼 が持 ち込 まれていて もなん ら不思議 はないのである。 <例4>
の最終節部 は 「又綾庭の大 ころ 限合わちへ 戻 らめ 又綾庭のころ/・一\ 御顔合 わちへ 戻 らめ」があった。 この表現 も地方 オモ ロに出るのは久米 島オモロのみで、他 の ・203_史料 編集 室紀 要 第25号 (2000) 例 は神 女 オモ ロに あ り、高級 神 女 と国王 との霊 的交感 を示 した もので あ る。例 えば、巻
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-112「又 按 司 襲 い と 行 き合 て 眼合 わ ちへ 遊 で 又 王 にせ と 行 き合 て 御 顔 合 わ ちへ 逆 で」 が そ れ で あ るが 、 これ は他界 で霊 力 を更新 して きた聞得 大 君 が 国王 と 「眼合 わ ちへ/ 御 顔 合 わ ちへ」 (「相 互 に 目 とめ を見 合 対 面 す る事 な り」 とい う注書 きが付 く) とい う儀礼 的 な行 為 を遂 げ て 、 国王 に霊 的 な力 を付 与 す る こ とを意 味 して い る と考 え られ る。 そ れ が 、 <例4>
で は君 南風 が <お ぼつ >か ら仲 地綾 庭 に降 り立 ち、在 地 の有 力 な人物 達 と考 え られ る 「大 ころ/ ころ/一\」 と交 感 す る儀礼 的 な行為 (「眼合 わ ちへ /御 顔 合 わ ちへ」) に な って い るの で あ る。 これ は、 「鍔刀
」 や 「長刀
」 が 「一 刀壱 本 但 木 一 木鑓 四本」 とい うよ うに、 あ るい は、 「縫物御 国 羽」
「玉御 圏羽」
「羽御 囲羽」 が 「- こは団扇壱対 - 鹿 之 絵 団 扇 弐 対 」 とい う よ うに 、 中央 で の儀 礼 が 君 南 風 の 主 宰 す る祭 紀 に持 ち込 ま れ、在 地 の儀礼 と して行 われ てい た こ とを物 語 ってい る と考 え られ るの で あ る。 久 米 島 と今 帰仁 とは、王権 に とって外 界 との要 とな る境界 的 な地域 で あ った。 そ れ ゆ え に、 そ こは 「地方 」 で あ りなが ら高級 神 女 で あ る君 とオモ ロ、 それ に男 性 歌 唱者 とが一体 (40) とな って存 在 し、王 権儀礼 が行 われ て い た こ とを別稿 で論 じた。本稿 は、 君 南風 に焦 点 を 絞 りそ の性 格 を考 察 しなが ら、久 米 島 オモ ロの特 殊性 の理 由 とな る もの を考 察 した もので あ る。
『お もろ さ う し』 に あ っ て、 久 米 島 オ モ ロ は様 々 な例 外 的 な用 例 が あ って 興 味 深 い。 別稿 も本 稿 も、 そ の一側 面 に触 れ た に過 ぎない。今 後 、久 米 島 オモ ロ全 体 に及 ぶ考 察 が痛 感 され る。 そ れ は王権 を考 え る上 で も、 また、 『お もろ さ う し』 そ の もの を理 解 す る 上 で も、 重 要 な問題 にな って くる と思 われ る。 註 (1)久米島オモロとは、第11、第21のオモロ、他巻 にある久米島関連のオモロをい う。 (2) オモ ロの引用 は、比嘉実編 『尚家本 お もろさうし』法政大学沖縄文化研 究所 1993年 によ る。引用 にあたっては、意味の通 りやすい ように適宜改行 している。 また、各節 に繰 り返す 反復部 は、一字下げている。以下 も、同 じo (3)伊波普猷 「琉球 に於 ける武備の撤廃 と拳法の発達」
『歴史公論』第2巻11号 1933年 『全集』
5巻所収)他。なお、仲原善息 も 『お もろ新釈』琉球文教図書 1957年で巻1-36のオモロを解 説す るなかで、同様 な見解 を述べている。 (4)『君南風 由来井位階且公事』の引用 は、小 島瑛稽校注 『神道大系 神社編52沖縄』神道大系 編纂委員会 1982年 による。引用 にあたっては、適宜読み下 している。 なお、以下の資料 に ついて も、適宜読み下 して引 く。 ぐ5)引用 は、球陽研究全編 『球陽 読み下 し漏』角川書店 1982年による0 (6)『君南風 由来井位階且公事』、『女官御双紙』、
F球陽』の三書では、前者二番 と 『球陽』 と の間に比較的大 きな記述内容の違いがみ られる。『球陽』が、合理的解説的な記述 になってい る。 なお、「八重山征伐」の記事 は、『中山世譜』は弘治13年 (1500)とす るが、『球陽』は 尚真24年 (1501) として一年ずれて記載 されている。 (7)巡行叙事 とは 「神 の巡行 の叙事」 であ り、「神が巡行 し見出 した ものを うた う一人称語 り の」 表現で、「始源的には村立ての起源 を語 る神謡 としてあった」 (『古代和歌の発生』古橋 信孝 東京大学 出版会 1988)。 これ を琉球弧 のり夕でみると、海上渡航の叙事 と馬上巡行の 叙事 に類型化 された表現が見 られる (「琉球弧の り夕にあ らわれたく巡行叙事 >表現」拙論 『南 島の文学 ・民俗 ・歴史』三一書房 1992年所収)0 _204_史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) (8)「弟君南風」 とい う表現 は、二首 の 「くわい にや」 の中に も見 られ る0 (9) この句 を伝承 に合 わせ て理解 す れ ば、やが て、八 重 山 に移 り住 む こ とにな る二番 目の姉神 が、君南風 とともに久米 島にやって きた ことが謡 われてい る とす るか、あるい は、久米 島か ら八 重 山 に渡 って きた こ とが謡 われ てい る とす るか、 どち らか だ ろ う。 なお 、仲原 善忠 は 『お もろ新釈』 において、 この り夕は 「お もと森 の ツカサ なる神女が、久米 島 を訪問 し、仲 なお りをす る
」
「神 の和平」 を謡 った り夕だ としている。 (10)『琉球 国由来記』巻7 「泊之大阿母 由来之事」。 (ll)引用 は、 『定本 琉球 国由来記』波照 間永吉 。外 聞守善編著 角川書店 1997年 に よる。 (12)『女官御双紙』。 (13)『沖縄 久米 島 資料篇』沖縄久米島調査委員会編 弘文堂 1983年参照0 (14)註 (3)の伊波論 文 、池宮正治 「武装す る神女」
(『お もろ さう し精華抄』 ひ る ぎ社 1987年 所収)等。 (15)外 聞守善 .玉城 政美編 『南 島歌謡大成 沖縄 篇上』角川書店 1980年 に よる。 なお、訳 につい ては一部、私見 を入れてい る。 (16)具体 的な場所 は不 明だが、 これは もうひ とつの り夕 「右之時具志 川 間切 くわい にや」 の 「兼 城御 泊」 に対応す る もので、仲里 間切 にある地名 だろ う。 (17)引用 は、註 (4)『神道大系』所収 の 『八重 山森 ゝ由来記』。引用 にあたっては旧字 を新字 に 改め、返 り点 のある ものは読 み下 した。以下、同 じ。 (18) よ く分か らない話 になってい るが、泊之大阿母の由来 について も、本来は大阿母が 「鬼界 島 征伐」 を果 た した尚徳等 の志無い帰還 を祈 っていた とい う話 ではなか ったのか。それで 「潅 注」 で迎 え (『八重 山疲 ゝ由来記』 に見 える 「浜御拝」 にあたるか)、 「御手水 」 を国王 に奉 った とい うことで、王 は大阿母の 「忠心」 を悟 った とい うこ とではないのか。 (19)引用 は、註 (4
)
『神 道大系』所収 の 『宮古 島旧記』。 (20)引用 は、横 山重 『琉球神 道記』角川書店 1970年 による。 (21)
『琉球古語辞典 混効験集 の研 究』第一書房 1995年 の 「解説」参照0 (22)渡名 喜 明 「田里 筑登 之親雲 上渡唐準 備 日記」
『沖縄 県教 育委員会文化課紀 要』 第1号 1985 年、第2号 1986年所収。 (23)拙論「
『琉球国 由来記』の世界認識」
『文学』 (岩波書店)第9巻 3号 1998年所収。 (24)宮城栄 昌は、『沖縄 の ノロの研 究』 (吾川弘文館 1979年) において君君の性格 をオモ ロを引 きなが ら個別的 に判 断 してい るが、 この ような方法 は問題 があ る。つ ま り、それは君君 に個 々別 々な機 能が あった とい う前提 を必 要 と しなければな らないが、 その検討 が まず必 要であ り、 オモ ロだけで君の個別 的 な性格 を考 えるのは、問題があろ う0 (25)註 (13)所収 の 同書 を引 く. なお、薙正13年本 の 『仲里 間切公事 帳』 に も 「唐 船 方/-唐船 出船 之時久米嶋君南風殿 内兼城の ろ殿 内手根 のろ殿内中城簸合 四所江 海上安全 之御 たかへ為 造用八 月限御船手 β渡合之 さは くりこ而請取持渡銘 々相届置唐船 出船近御 たかへ仕候事」 と い う一条があ る。道光本 と同 じこ とを述べ てい る とす る と、「唐船 出船 之時」 とは久米 島に 潮掛 りした船が 出船す る とい うこ とで はな く、那覇 を出船す ることであろ うか。 (26)拙論 「『お もろ さう し』 の神女」
『東横学 園女子短期大学 女性文化研 究所紀要』第4号 1995 年所収。 (27)例外 に当 たる君 君の中 に司雲上がい る。司雲上 には、三人 の就任 者 の名が記 されてい るが、 いず れ も親雲 上 と親方 の女 であ り、 「王族」 とは言 い難い。 しか し、 この神女 は聞得大君が 久高 島や知念 ・玉城 に参詣 す る際、屈従 す る神 女 (『球 陽』巻7尚貞王5年) であって、一 般 の君君 とはや や異 なった侍 女的 な神 女 であ る こ とが想像 され る。但 し、 「沖縄 旧記書類字 句 註解書」 には 「司雲上按司、旧藩庁御 内原 ノ御神 ヲ掌 ラルル者、是 モ藩王 ノ姉妹 ノ内 ヨリ 努 メラルルナ リ」 とあ り、や は り、 これ も 「王族」か ら出る としてい る。 (28)註 (24)の 『沖縄 の ノロの研 究』参 照。 (29)註 (4)中の 「大阿母お よび祝女辞令書集」参照。 (30)註 (13)中の 「和州氏家譜系 図」参照。 -205-史料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) (31