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都 市 史 としての墓地
∼大阪市公営墓地の変遷 と無縁化社
会の進行∼
槇村
久
子*
近 代 化 、 都 市 化 の 過 程 で 墓 ・墓 地 は個 人 化 、 無 縁 化 、 流 動 化 が 起 き、 そ れ を超 え る もの と して 共 同化 、 無 形 化 、 有 期 限 化 を既 に導 い た。 現 在 少 子 ・高 齢 ・人 口 減 少 社 会 とい う大 き な 社 会 変 動 に 大 都 市 の 葬 送 空 間 は どの 様 に 対 応 して い くの か 。 大 阪 市 の 公 設 墓 地 を取 り上 げ 、 都 市 の 発 展 との 連 動 と変 化 を明 治 初 期 か ら現 代 まで を検 証 した 。 南 浜 、 南 、 瓜 破 、 服 部 の 各 霊 園 と泉 南 メ モ リア ル パ ー ク の 墓 地 調 査 と 南 霊 園 の 墓 碑 調 査 か ら、 無 縁 化 社 会 の 進 行 す る 中 で 、 〈個 〉 と して の ラ イ フ ヒ ス トリ ー だ け で な く、 都 市 に生 き る 人 々 〈群 〉 や 墓 地 と い う都 市 施 設 〈群 〉 は 都 市 の 形 成 や 変 化 を記 憶 、 記 録 す る 都 市 史 と して 重 要 な 意 味 を もつ 。 キ ー ワ ー ド 墓 地 、 都 市 史 、 大 阪 市 、 近 代 、 無 縁 化 * 京都女 子 大学 教授 大学 院 現 代社 会研 究 科 は じめ に 近 代 化 、 都 市 化 の 過 程 で 、 墓 ・墓 地 は個 人 化 、 無 縁 化 、 流 動 化 を起 こ し、 そ れ を超 え る もの と して 墓 の 共 同 化 、 無 形 化 、 有 期 限 化 を 導 い た 。 有 期 限 の 墓 は 日本 で は ほ とん ど 見 ら れ な い が 、 既 に家 族 墓 の 他 に 、 合 葬 墓 、 散 骨 や 樹 木 葬 、 イ ン ター ネ ッ トの 墓 も あ る。 現 在 の 少子 ・高 齢 ・人 口 減 少 と い う大 き な社 会 変 化 に 大 都 市 は 葬 送 空 間 と して ど の よ う に 対 応 して い くの か 。 大 阪 市 の 公 営 墓 地 を取 り上 げ 、 都 市 の 発 展 と どの よ う に連 動 、 変 化 して きた か を 明 治 は じめ か ら現 在 ま で を見 る。 そ の 中2 現代社会研究科論集 で 、 家 族 の 変 化 に よ る 〈個 〉 と して 共 同 化 、 無 形 化 、 有 期 限 化 の 方 向 の 一 方 、 〈群 〉 と し て都 市 に生 き、都 市 を形 成 す る 人 々 、 また 墓 地 の 位 置 等 の 変 容 は都 市 の 変 化 を 記 録 す る都 市 史 と して 重 要 な意 味 を持 つ こ と を探 りた い。 大 阪 市 の南 浜 霊 園 、 南 霊 園 、 瓜 破 霊 園 、 服 部 霊 園、 泉南 メモ リア ル パ ー ク の墓 地 調 査 、 ま た 南 霊 園 の 墓 碑 調 査 を基 に考 察 す る。 1.大 阪市 の 墓 地 の概 要 と位 置 大 阪 市 に は 、2010年(平 成22年)現 在 、 64ヶ 所 の 市 立 霊 園 が あ り、 公 園 式 墓 地 で は 服 部 霊 園 、 瓜 破 霊 園 、 泉 南 メ モ リ ア ルパ ー クが あ る。 ま た大 規 模 墓 地 と して 南 霊 園 と北 霊 園 が あ る。 こ の4つ の 大 規 模 霊 園 以 外 に 、 大 小 規 模 の58霊 園 が 市 内 に点 在 して い る。 この よ う な58墓 地 は 「引 継 ぎ霊 園 」 と呼 ば れ 、 元 来 は村 墓 地 、 集 落 墓 地 と い わ れ る もの で 、 市 町村 合 併 で 大 阪市 に 編 入 した と き に寄 付 さ れ、 大 阪 市 が 引 き継 い だ 墓 地 で あ る。 現 在 もそ の ほ とん どが 、 地 元 の 墓 地 管 理 委 員 会 に よ っ て管 理 され て い る 。 ま た 、 墓 地 の 使 用 者 も地 元 の 人 た ちが ほ とん ど で 、 公 募 は 全 く 行 わ れ て い な い 。 例 え ば 、西 淀 川 区 に は大 和 田、稗 島、佃 、福 、 大 野 、 御 幣 島 、 野 里 な ど、15の 区 に 点 在 す る。 現 在 大 阪市 に は24区 あ るが 、 墓 地 の 位 置 に は 偏 りが あ る 。(表 一1) 表 一1 各 区 にあ る市設 霊 園の 場所 と数 区 北 都 島 西淀川 淀 川 東淀川 生 野 旭 城 東 鶴 見 阿倍野 住之江 住吉 東住 吉 平野 西成 北 ・南 浜 赤 川 ・善 源 寺 霊 園名 大 和 田 ・稗 島 ・佃 ・福 ・大 野 ・御 幣 島 ・野 里 三 津 屋 ・東 三 国 ・十 八 条 ・加 島 東 国 次 ・大 道 ・上 新 庄 ・山 口 鶴 橋 ・巽 森 小 路 ・上 辻 ・別 所 ・北 清 水 ・生 江 ・江 野 新 喜 多 ・中 浜 ・左 専 道 ・関 目 今津 南 ・北 畠 ・奥 大 原 安 立 南 ・住 之 江 ・安 立 ・北 島 ・南 加 賀 屋 住 吉 ・千 躰 ・西 長 居 ・遠 里 小 野 ・ 我 孫 子 ・杉 本 ・山 之 内 ・苅 田 ・庭 井 ・浅 香 松 原 ・東 長 居 ・杭 全 ・今 川 ・今 林 加 美 ・平 野 ・喜 連 ・平 野 市 町 今 宮 ・粉 浜 (出所:『 平成22年 度 わ た しの まち ・きれ い な大 阪』 大 阪市 環境 局) 1874年(明 治7年)に 設 置 され た 北 霊 園(長 柄)と 南 霊 園(阿 倍 野)は 大 規 模 墓 地 と して 最 も古 い。 しか し都 市 の 発 展 と人 口増 加 に伴 い 、1940年(昭 和15年)に 当 時 中 河 内 郡 瓜 破 村 に瓜 破 霊 園 を、 そ の 翌 年 に は 当 時 豊 能 郡 熊 野 田 村 に服 部 霊 園 の2大 公 園 墓 地 を 設 置 した。 両 墓 地 と も、 大 阪 市 域 外 の南 と北 の位 置 に設 置 して い る 。 大 阪 市 内 に は 、 こ の よ う な 市 設 墓 地64以 外 に 、 財 産 区 有 墓 地48、 寺 院 有 そ の 他 墓 地 が 476あ る 。 平 成14年1月1日 現 在 の 資 料 で 市 設 霊 園 の 合 計 面 積 は982418m2、 墓 石 数 約9 万2400基(平 成23年 度3月 末 資 料 で 修 正 す る と約9万2000基)で あ る。(表 一2)(表 一3>
都 市 史 と して の墓地 3 表 一2 主 な霊 園の 面積 と墓 石数 、 開設年 な どの一 覧 (平成14年1月 の数 値 を平成23年3月 末 の数値 で一 部修 正) 霊 園名 泉 南 メ モ リ ア ル パ ー ク 瓜破 服部 南 北 加美 そ の 他 (58霊 園) 計 (64霊 園) 面 積 (㎡) 337,530 280,772 192,448 61,319 20,236 15,350 74,763 982,418 霊 地 面 積 (㎡) 計 画83,000 完 成60,963 85,144 57268 39,522 約14,200 約2,400 糸勺41,900 総面積 に 対す る割合 24.6% 30.3% 29.8% 64.5% 70.2% 15.6% 56.0% 貸付件 数 18,667 12,304 7,884 9,826 3ユ69 599 約25,900 約78,300 墓石 数 17,821 15,239 9,474 13,697 3,766 1,201 糸勺30,900 糸勺92,000 開設年 月 昭 和54. 10 日召禾015.5 昭 和16.4 明 治40.2買 収 明 治40.2買 収 昭 和30.4合 併 (出所:「 大 阪市 にお け る墓地 の あ り方検 討 にあた って」 大阪 市環 境事 業 局) 表 一3 大 阪市 内の 墓地 数 墓 地 数 585 区分 市 設霊 園 財産 区有 墓地 寺院有 その他墓 地 墓 地数 64 48 476 面積 982418m2 墓石 数 糸勺92,000基 (出 所:同 上) 2.都 市 の 公 共 施 設 と して 時 代 と墓 ・墓 地 の 様 式 の 変 化 ω 江 戸 末 期 か ら明 治 は じめ の南 霊 園 と北 霊 園 ま で 江 戸 時 代 は 、 貞 享 ・元 禄 時 代 か ら明 治 初 期 に か け て 、「大 坂 七 墓 」と呼 ば れ る墓 地 が あ っ た 。(貞 享 ・元 禄 時 代 は 、 貞 享 年 間 は1684年 か ら1687年 、 元 禄 年 間 は1688年 か ら1703年 で 、 明 治 元 年 は1868年 で あ る)。 梅 田、 千 日、 小 橋 、 鳶 田 、 浜 、 吉 原 、 加 茂 (蒲 生)の 七 ヶ所 で 、 大 阪 城 を 中 心 と した 市 街 地 の周 辺 に位 置 して い た 。(図 一1) こ こ に は 墓 地 と火 葬 場(茶 毘 所)が あ り、 葬 儀 に必 要 な器 具 を 常 備 し、 大 坂 三 郷 とこ れ に接 す る村 落 の 火 葬 を行 っ て い た 。 火 葬 だ け 図 一1 旧墓地 ・都 市 計画 墓 地位 置 図
4 現代社会研究科論集 で は な く、 式 場 の 飾 りつ け や そ の他 葬 儀 に 関 す る 業 務 を取 り扱 つ て い た 。 「一 方 、 装 具 類 の 賃 貸 ・販 売 を業 と す る 『色 屋 』 と称 す る 業 者 も存 在 して い た 。しか し、 他 人 の 不 幸 に乗 じて 法 外 な利 益 を む さ ぼ る の で 、 そ の 弊 害 が は な は だ し く、 当 時 、 こ う し た 業 者 に対 す る 非 難 も少 な く なか つ た。 そ の た め 、 大 阪 府 で は 、 こ の よ う な業 者 の弊 害 を な くす ため に 火 葬 禁 止 令 を 発 す る と と もに 」、 天 王 寺 村 と長 柄 村 と岩 崎 町 に埋 葬 地 を 新 設 し た 、 と記 さ れ て い る(大 阪 市 環 境 事 業 局 、 2003)。 これ が 現 在 の 南 霊 園 と北 霊 園 で あ る 。 しか し、 火 葬 禁 止 令 は 、 明 治 政 府 の 宗 教 上 、 政 治 上 の 問 題 と して墓 地 を め ぐる 激 動 を伝 え る もの で あ る 。1873年(明 治6年)6月18日 太 政 官 布 達 に よ る火 葬 の 禁 止 を 出 し、 ま た2 年 も経 過 しな い1875年(明 治8年>5月23日 に火 葬 禁 止 の 布 告 を解 除 す る 太 政 官 布 達 を 出 して い る 。 江 戸 時 代 に は火 葬 と土 葬 の どち ら も行 わ れ て い て 、特 に 江 戸 や 大 坂 の 大 都 市 で は広 く火 葬 が 普 及 して い た。 しか し、 明 治 政 府 の 離 檀 政 策 か ら火 葬 を禁 止 し、1874年(明 治7年) の 太 政 官 布 達 に よ り、 東 京 市 青 山 墓 地 は神 葬 祭 地 と して 、 一 般 の墓 地 と定 め られ て い る。 都 市 部 で は 火 葬 が 禁 止 され る と大 変 な混 乱 が 起 きた こ と は い う まで も な い 。 火 葬 禁 止 令 の 混 乱 が 、 結 果 的 に都 市 施 設 と して 、 公 営 の埋 葬 所 、 つ ま り公 営 墓 地 の 設 置 を 促 し、 火 葬 場 の増 加 を もた ら した こ とが 『近 代 日本 墓 地 の 成 立 と現 代 的 展 開』(p24-p26)に 記 さ れ て い る 。 (2)初 め て の 公 園 墓 地 の 瓜 破 霊 園 と服 部 霊 園 大 阪 市 は 人 口 集 中 に 伴 っ て 市 域 を 拡 張 して い つた が 、 そ の 時 に 、 旧 町村 有 の 群 小 墓 地 を 継 承 し、 そ の 後 も市 の 一 部 有 墓 地 と して 、 寄 付 収 受 を 受 け た もの が あ っ た 。 しか し、 こ れ らの墓 地 は 、 付 近 住 民 以 外 は め っ た に使 用 し な い上 に 、 ほ とん ど充 足 して い た 。 そ の た め 、 場 所 や 交 通 の 便 の 良 い な どの 関係 で 、 面 積 の 大 きい 天 王 寺 墓 地 や 長 柄 墓 地 に 一 般 の 使 用 が 集 中 す る こ とに な っ た 。 そ の 結 果 、 両 墓 地 は 使 用 余 地 が 極 め て 少 な い状 態 に な っ て しま っ た 。 しか し、 天 王 寺 墓 地 と長 柄 墓 地 以 外 は ど こ も用 地 が 狭 く、 ま た 人 口 密 度 が 高 い 市 街 地 に位 置 して い る 。 さ ら に 管 理 も十 分 で な か つ た た め に公 衆 衛 生 上 や 宗 教 上 の 観 点 か ら、 移 転 整 理 をす る 必 要 に迫 られ て い た 。 そ こ で新 た に設 置 され る こ と に な っ た の が 、 大 阪 市 で 初 め て の 公 園 墓 地 で あ る瓜 破 墓 地 と 服 部 墓 地 で あ る。 大 阪 市 で は 市 域 の 南 北 に2 大 公 園墓 地 を造 っ て 、 墓 地 に 対 す る市 民 の 需 要 に応 え る と と もに 、 市 内 に あ る群 小 墓 地 を 移 転 改 葬 す る こ と を 目的 と して い た 。 北 部 の 服 部 墓 地 は 豊 能 郡 熊 野 田村(現 在 豊 中 市 広 田 町)に5万2400坪(173200m2)、 南 部 の 瓜 破 墓 地 は 中 河 内 郡 瓜 破 村(現 在 大 阪 市 平 野 区瓜 破 東)に6万200坪(199000m2)の 土 地 を選 定 し墓 地 の 新 設 を 決 定 。1928年(昭 和3年) 5月 に 内 閣 の 認 可 を得 て 、 翌 月 都 市 計 画 決 定 の 市 長 告 示 を行 っ た 。 そ の後 、 実 施 計 画 を立 案 し、1934年(昭 和9年)に 一 応 の 成 案 が で きた が 、 さ ら に数 回 の 改 訂 を した 結 果 、1938
都市 史 と しての 墓地 5 年(昭 和13年)か ら都 市 計 画 に よ る3ヵ 年継 続 事 業 と し て 、 瓜 破 村 に 約206SOOmZ、 豊 中 市 に180700m2の 墓 地 造 成 に 着 手 した 。 そ し て 瓜 破 霊 園 は1940年(昭 和15年)5月 に 、 翌 年 に 服 部 霊 園 は1941年(昭 和16年)4月 に そ れ ぞ れ 竣 工 して 、 す ぐに 共 用 を 開 始 して い る 。 図 一2 瓜破 霊 園平 面図 図 一一 3 服 部 霊 園 平 面 図 こ の 時 の1940年(昭 和15年)5月 に 、 「大 阪 市 設 墓 地 使 用 条 例 」(1915年(大il{ 4年) 制 定)が 「大 阪 市 設 霊 園 条 例 」 に全 而 改 正 さ れ 、「墓 地 」の 名 称 が 「霊 園 」 に変 わ っ て い る 。 この2つ の 公 園 墓 地 は、 大 阪 市 内 で は な く、 隣接 市 に位 概 して い る。 服 部 霊 園 と瓜 破 霊 園 は 、 東 京 市(当 時)が や は り市 域 を離 れ て 西 多 摩 村 に造 成 した 、 か つ 日本 で 始 め て の 公 園 墓 地 様 式 で あ る多 磨 霊 園 の 理 念 、 計 画 、 設 計 に 基 づ い て 造 られ て い る。(図 一2)(図 一3) 例 え ば設 計 の 一 例 と して 、 服 部 霊 園 は 多 磨 霊 園 と 同 様 に 、 敷 地 の 中 央 部 に 名 誉 霊 域 を もっ て い る 。 両 墓 地 の特 徴 の 一 つ は 、 敷 地 の 一 角 に 納 骨 堂 が あ る こ とだ 。 大 阪 市 で は 以 前 か ら納 骨 堂 の 設 置 を検 討 し て い た が 、 新 し く瓜 破 と服 部 の 両 墓 地 が 完 成 した こ と を き っ か け に 、 納 骨 堂 の 建 設 を 決 め た 。 そ こ で 翌 年 、 瓜 破 霊 園 に は1941年(H召 和16)2月 、 服 部 霊 園 に は1942 年(昭 和17年)8月 に そ れ ぞ れ納 骨 堂 を建 設 して い る。 と こ ろ が 、 さ らに 都 市 市 民 の 墓 地 の 利 用 が 高 ま る こ とに な る。 戦 時 中 か ら戦 後 に か け て 、 大 阪 市 は この 瓜 破 霊 園 と服 部 霊 園 を 主 に 供 用 して きた。 しか し墓 地 利 用 者 の 激 増 に よ っ て 、 この2つ の 霊 園 と も利 用 が で き な くな り、 市 民 の 新 しい 需 要 に 応 え られ な く な っ た 。 そ こ で 昭 和34年 度 に 瓜破 霊 園 の 隣接 地 を 大 阪 市 が 買 収 し、 都 市 計 画 事 業 と し て 新 規 拡 張 を実 施 す る こ とに な っ た 。1960年(昭 和35年)3月 に都 市 計 画 決 定 を 受 け て 、1960年(昭 和35年) 度 か ら4ヵ 年 の継 続 事 業 と して 、 霊 域 を拡 張 して 順 次 供 用 して い っ た 。 しか し瓜 破 霊 園 の 拡 張 に もか か わ らず 、 服 部 霊 園 の 方 は 大 阪 市 の 北 部 とい う 立 地 条 件 か ら特 に 希 望 者 が 多 く、1961年(昭 和36年)度 に 同 霊 園 内 の 低 湿 地18SOOm2を 盛 土 し、 土 質
6 現代社 会研 究科論 集 が 十 分 固 定 す る の を待 つ て 、1963年(昭 和38 年)度 に造 成 し、 す ぐに供 用 を 開始 して い る。 しか し、 さ らに 市 民 の墓 地 需 要 を 一 層 高 め る時 代 に な っ て い た 。 そ れ は、 戦 後 の 混 乱 期 を経 て 高 度経 済 成 長 期 に 向 か い 、市 民 の 生 活 水 準 が 高 ま り、 ま た世 情 が 安 定 した か らで あ る。 墓 域 の 拡 張 に もか か わ らず 、 瓜破 霊 園 、 服 部 霊 園 と も に、1965年(昭 和40年)度 に は 全 域 供 用 済 み と な り、 市 民 に墓 地 を 供 給 で き な くな っ た 。 戦 後 の 土 地 区 画 整 理 や 戦 災 復 興 の 都 市 開 発 は墓 地 の 移 転 を進 め た 。 大 阪 市 の 都 市 開発 に 伴 う高 速 道 路 の 設 置 は 、 市 内 に まだ 残 っ て い た 小 規 模 墓 地 の 移 転 や 、 天 王 寺 の 南 霊 園 の 一 部 移 転 の形 で 影 響 して い る。 阪 神 高 速 道 路 大 阪松 原 線 の 工 事 に よ り南 霊 園 の 墓 地 の 一 部(北 側 部 分)が 瓜 破 霊 園へ 移 転 す る こ と に な り、1970年(昭 和45年)4 月 か ら始 ま り1974年(昭 和49年)4月 に移 転 が 完 了 した 。 納 骨 堂 もそ の 後 変 化 して い る 。 服 部 霊 園 に 建 設 され た もの は 、 老 朽 化 の た め1959年(昭 和34年)7月 に撤 去 し、 ま た 瓜破 納 骨 堂 も、 祖 先 の 御 霊 を安 置 す る施 設 と して は貧 弱 で あ り老朽 化 して きた と して 、1965年(昭 和40年) 10月 か ら業 務 を停 止 し た。 そ こ で 、 新 し く服 部 霊 園 に、 清 潔 で 近 代 的 な納 骨 堂 を と新 設 し、 瓜 破 霊 園 の 納 骨 堂 を移 転 す る こ と と して、 完 成 と と も に1昭和41年6月 か ら服 部 納 骨 堂 の供 用 を 開 始 した。 (3)芝 生 式 公 園墓 地 の 泉 南 メ モ リア ル パ ー ク 上 記 の よ う に 、 新 た な市 民 の 墓 地 需 要 に 対 応 す る た め に 、 大 阪 府 泉 南 郡 阪 南 町(現 在 は 阪 南 市 箱 作)に 、34haの 用 地 を 買 収 し 、 1977(昭 和52)年 度 か ら全 体 計 画27500区 画 の造 成 工 事 に 着 手 した。 これ は 、 大 阪 市 と し て は 初 め て の 芝 生 式 公 園 墓 地 で あ る。 総 面 積 340000m2の う ち 、 霊 域(墓 所)は83000m2 (27000霊 地)、 施 設 ・園 路 が26000m2、 緑 地 が231000m2。 敷 地 の 約4分 の1だ け が 墓 所 と し て 使 用 し て い る だ け で 、 ま た 一 霊 地 3.025m2(縦2.75m、 横1.1m)は 均 等 区 画 で 仕 切 られ て お らず 、 芝 生 で 敷 き詰 め られ て い る。 ま た墓 石 は す べ て 洋 型 に統 一 さ れ て い る。 (写真 一1)(図 一4) 写 真 一1 泉 南 メ モ リ ア ル パ ー ク 図 一4 泉 南 メ モ リア ル パ ー ク 平 面 図
都 市 史 と しての 墓地 7 大 阪 市 市 民 の 利 用 す る 霊 園 で あ るが 、 大 阪 府 と和 歌 山 県 の 府 県 境 に 位 置 す る 市 内 か ら遠 距 離 に 造 成 さ れ て い る 。 大 阪 市 と して 長 年 の 懸 案 で あ っ た こ の 新 し い霊 園 は、 昭和54年10月 に、 そ の 名 も 「泉 南 メ モ リ ア ル パ ー ク」 と して 開 園 した 。 こ の 霊 園 の 管 理 は 、 昭 和53年11月 に設 立 され た(財1大 阪市 霊 園 サ ー ビス 公 社 に 委 託 され て い る 。 写 真 一2 瓜破 霊 園合 葬 式墓 地 全景 (4)公 共 で初 め て の 合 葬 式 墓 地 合 葬 式 墓 地 は2010年(平 成22年)3月 に 瓜 破 霊 園 の 一 角 に 設 置 され た ば か りで あ る 。 パ ン フ レ ッ トに は 「近 年 の 都 市 化 ・少 子 高 齢 化 とい っ た社 会 情 勢 の 変 化 に合 わ せ て 、 利 用 さ れ る方 の 多 様 な ニ ー ズ にお 応 えす る新 しい タ イ プの お 墓 」 と して 、 初 め て 大 阪 市 の 公 共 の 合 葬 式 墓 が 設 置 さ れ た の で あ る。 既 に 民 間 霊 園 や 寺 院境 内 墓 地 に は 多 く設 置 さ れ て い る。 建 築 面 積244m2、 地 上 一 階 、 地 下 一 階 、 敷 地 の 池 に面 して 参 拝 ス ペ ー ス が あ り、 池 の 中 に あ る 島(追 悼 の 丘)の 地 下 に 合 葬 室 と納 骨 檀 が あ る 。 合 葬 室 は24000体 、 納 骨 壇 は4000体 を収 め る こ とが で き る。 直 接 合 葬 型 と、10年 間 と20年 間 保 管 後 に 合 葬 す る 保 管 型 合 葬 型 が 選 択 で きる 。 合 葬 墓 に近 接 して 、 記 名 板 が 設 置 さ れ て お り、 本 名 と生 年 月 日 ・死 亡 年 月 日 を希 望 で 彫 刻 で き る。 生 前 に 申 し込 み が 可 能 で 、2010年 に65件 の 利 用 ・申 し込 み が さ れ て い る。 墓 地 の 立 地 が 市 内 か ら遠 隔 化 して い る 中 で 、こ の 合 葬 式 墓 は 市 内 に あ る。(写真 一2) (写 真 一3) 写 真 一3 瓜破 霊 園合 葬 式墓 地 (5)外 国 人墓 地 服 部 霊 園 の 一 角 に 、 外 国 人 が 眠 る墓 地 が あ る。 こ れ は 服 部 霊 園 に 当 初 か らあ る もの で は な い こ とが わ か っ た 。 大 阪 の 外 国 人墓 地 は 、 1867年(慶 応3年)5月 に 、 日本 政 府 と イ ギ リ ス 、 ア メ リカ 、 フ ラ ンス との 間 に締 結 さ れ た 「兵 庫 港 並 ビ ニ 大 阪 二 於 テ外 国 人 居 留 地 ヲ サ ダ ム ル 取 極 」 第11条 に も とつ い て 、 大 阪市 西 区 川 南 池 山新 田 に あ つ た 瑞 軒 山 に 建 設 さ れ た こ とに 始 ま る。1899年(明 治32年)7月 に 各 国 との 間 の 通 商 条 約 が 改 正 され て 、 居 留 地 制 度 が な くな つ た た め に 、 この 「取 極 」 もそ の効 力 を失 っ た た め 、 同 年9月 に 政 府 は外 国 人居 留 地 に 関 す る様 々 な事 務 を府 県 市 町村 に 移 管 した 。 そ の た め 、 西 区 の 池 山 新 田外 国 人 墓 地 は 、 大 阪 市 が 継 承 す る こ と に な っ た 。 し
8 現代社会研究科論集 か し、 「当 時 の 府 知 事 と各 国 総 領 事 と の 間 の 取 り決 め な ど もあ つ て 」、1900年(明 治33年) 5月 に、 大 阪 市 は東 成 郡 天 王 寺 村 大 字 天 王 寺 字 西 金 塚(現 在 は阿 倍 野 区 旭 町3丁 目)に 、 新 外 国 人 墓 地 用 地2790坪(9207m2)を 買 収 。 1901年(明 治34年)1月 に府 知 事 の 許 可 を得 て 着 工 して 、1902年(明 治35年)6月 に完 工 して い る 。 一 方 、 瑞 軒 山 墓 地 の新 墓 地 へ の移 転 が1902年(明 治35年)9月 に 許 可 さ れ 、 1904年(明 治37年)5月 に改 葬 移 転 が 完 了 し て い る。 この 時 、 旧 墓 地 か ら新 墓 地 へ 改 葬 移 転 され た の は8体 で あ っ た 。(大 阪 市 環 境 事 業 局 、2003) そ の 後 、 国 交 の広 が り と と も に、 イ ギ リス 、 ア メ リ カ、 フ ラ ンス の 他 、 カ ナ ダ、 ソ連 、 イ ン ドの 人 た ち等 に も使 用 許 可 を 与 え て きた。 しか し こ の 墓 地 周 辺 も戦 後 の 発 展 に 伴 い 、 1960年(昭 和35年)6月 か ら11月 の 間 に 、 1941年(昭 和16年)に 新 設 され た 服 部 霊 園 に 再 び移 転 改 葬 して い る。 現 在 服 部 霊 園 内 の北 部 の一 角 に見 られ る 。 (6)墓 地 の 設 置 ・管 理 ・運 営 形 態 の 変 化 墓 地 の 設 置 、 運 営 、 管 理 の形 態 も公 設 公営 か ら民 営 な ど、 時 代 の 社 会 経 済 に応 じて 変化 して い る。 明 治 初 期 、 火 葬 禁 止 令 が 発 布 され た こ とで 、 当 時 大 阪 府 は 天 王 寺 村 と長 柄 村 と 岩 崎 町 に埋 葬 地 を 新 設 し、 大 阪 府 が 管 理 した 。 しか し、 火 葬 禁 止 令 が 解 除 され た 後 、 民 間 業 者8人 が 火 葬 営 業 を 出願 した た め 、 大 阪府 は 共 同 経 営 す る こ と を勧 告 し、3箇 所 の埋 葬 地 の そ れ ぞ れ一 部 の 払 い 下 げ を受 け て火 葬 場 の 建 設 を した。 「八 弘 社(当 初 八 弘 舎)」 は、 火 葬 場 と は別 に 、 埋 葬 地 を払 い 下 げ を受 け て い た もの か ら譲 り受 け て 、 墓 地 も経 営 す る こ と に な っ た。1982年(明 治15年)7月 に 「大 阪 八 弘 株 式 会 社 」 に して い る。 しか し、 埋 葬 ・火 葬 は 本 来 的 に 公 益 的 な性 格 を持 つ もの で あ る と、 大 阪市 は1907年(明 治40年)2月 に市 営 に 移 す 計 画 を立 て て 、 営 業 権 と不 動 産 、 動 産 をす べ て 買 収 して 事 業 を 継 続 す る こ と に な っ た 。 こ の よ う な墓 地 ・火 葬 場 の 公 設 公 営 の状 態 が 長 く続 い たが 、 泉 南 メモ リア ル パ ー ク は 管 理 運 営 を働 大 阪 市 霊 園 サ ー ビ ス 公 社 に委 託 、 さ らに飼 大 阪 市 環 境 事 業 協 会 に業 務 委 託 して い る 。 さ らに近 年 大 阪 市 の 財 政 状 態 か ら、 墓 地 の 管 理 運 営 を 指 定 管 理 者 制 度 を2008年(平 成20年)か ら導 入 し、 民 間 に委 ね 始 め て い る。 3.都 市 史 と して の 墓 地 一 南 霊 園 墓 地 調 査 か ら 墓 や 墓 地 は個 人 や 家 族 の ラ イ フ ヒス トリー で あ る だ け で な く、 都 市 史 と して も意 味 が あ る。 そ の 一 つ が 、 そ の 都 市 を誰 が 創 って きた か を墓 碑 に よ り知 る こ とが で き る。 南 霊 園 は 明 治7年 の 開 設 で あ り、 近 代 の 黎 明 期 、 大 阪 に生 きた 人 々 の 墓 が 現 在 も保 存 さ れ て い る 。(東 京 都 で は 、 青 山 霊 園 等 に 見 る こ とが で き る)南 霊 園 は現 在 大 阪 市 阿 倍 野 再 開 発 地 区 の 南 側 に あ り、 ま た1970年(昭 和45 年)か らの 阪 神 高 速 道 路 の 開 通 に伴 い 、 道 路 沿 い に北 側 の 一 部 が 削 ら れ移 転 して い るが 、 当 時 の 状 況 が よ く残 され て い る 。(写 真 一4)
都市 史 と して の墓地 9 写真 一4 現 在 の南 霊園 そ の た め 、 南 霊 園 の 墓 地 調 査 と墓 碑 調 査 を、 2011年8月 ∼9月 に実 施 した 。 南 霊 園 は61319m2に 、約13800基 が 存 在 す る。 広 大 な敷 地 と墓 石 数 の た め 、 管 理 は6区 に分 け られ 、 また そ れ ぞ れ の 区 を30∼60区 画 程 度 に 分 け て い る。 膨 大 な 約13800基 の 中 か ら、 今 回 の 調 査 で は 、 一 区 画 の 中 で 、1、10、20、 … とい う よ う に、10飛 ば しで の 小 区1画を悉 皆 調 査 した。 つ ま り10分 の1の 区 画 を 調 査 した に す ぎ な い 。 ま た 、 同 霊 園 が 保 管 す る 著 名 人 の 墓 の 一 覧 表 に よ り個 別 調 査 した。 調 査 項 目は 、(1)墓標 、 墓 誌 、 地 蔵 、塔 婆 立 て 、無 縁 供 養塔 な どの モ ノ 、(2)墓標 の ① 形(和 型 、 和 型 変 形 、 洋 型 、 五 輪 塔)、 ② 定 型(家 名 の み 、 家 、 家 の墓 、 家 先 祖 代 々 、 個 人名 、 そ の 他)、 ③ 宗 教(妙 法 、 妙 法 蓮 華 経 、 南 無 大 師 返照 混 合 、 南 無 釈 迦 尼 、 南 無 阿 弥 陀 仏 、 倶 合 一 処 、 奥 津 城 、 奥 都 城 、 奥 城 、 卜字 架 、 聖 書 の 一 節 な ど)、 ④ 文 字 以 外 (3)寿陵 墓 、 建 立 年 月 日、 建 立 人 数 な ど。 調 査 カー ドの 項 目 に○ 印 を付 け る 方 法 と し、 調 査 カ ー ドは東 北 大 学 文 学 研 究 科 宗 教 学 研 究 室 ・鈴 木 岩 弓 氏 の 調 査 項 目で 一 部 を除 い て 同 様 と した 。 墓 碑 調 査 に は 膨 大 な 時 間 と労 力 等 が 必 要 と な る 。 同霊 園 の 墓 碑 調 査 は ま だ 途 上 で あ り、 本 稿 は そ の結 果 の 一 部 を 考 察 した も の で あ る。 ・近 代 の 大 阪 を つ く っ た 人 々 近 代 の 日本 に紡 績 業 を 移 植 した 東 洋 紡 績 社 長 、 言論 を 引 っ張 つ た 大 阪 毎 日新 聞 、 朝 日新 聞 の 各 社 長 、 実 業 界 や 経 済 の 基 盤 を作 っ た 大 阪 商 工 会議 所 創 設 者 、 阪 神 南 海 鉄 道 や 大 阪 ガ ス 社 長 な ど実 業 界 を 形 成 した 人 々 、 市 長 や 知 事 、 貴族 院 議 員 の 政 治 家 、 大 学 や 福 祉 事 業 を 始 め た 人 、 歌 舞 伎 役 者 や 三 味 線 の 名 人 や 舞 踊 家 、 書や 画 家 、 興 行 師 等 々。 古 い が 、 昭 和31 年 版 阿 倍 野 区 史 抽 出 分 ・大 阪 観 光 協 会 抽 出 分 と書 か れ た 南 霊 園 に 眠 る 著 名 人 の 一 覧 表 に は 、 判 明 して い る だ け で 、36人 の 墓 が 載 っ て い る 。 (表 一4) 山 邊 丈 夫 は 紡 績 技 術 を イギ リス の マ ンチ ェ ス ター で学 び 日 本 に 本 格 的 に 移 植 。 日本 の 資 本 主 義 の 父 と言 わ れ た 渋 沢 栄 一 と と もに 大 阪 紡 績 を設 立 し、 後 に 東 洋 紡 初 代 社 長 を 務 め た 。 片 岡 直 方 は 大 阪 ガ ス社 長 、 片 岡 直 輝 は 阪 神 南 海 鉄 道 社 長 と して 都 市 の イ ン フ ラ を 形 成 。 土 居 通 夫 は 鴻 池 を 建 て 直 し、 大 阪 電 燈 や 京 阪 電 鉄 社 長 、 日本 生 命 の 取 締 役 な ど経 営 。 外 山修 造 は 日本 銀 行 大 阪 支 店 長 や 大 阪 貯 蓄 銀 行 頭 取 と して 金 融 界 を 。 大 阪 の 経 済 界 の 基 盤 を最 も 作 っ た の は五 代 友 厚 で あ る。 五 代 は 大 阪 株 式 取 引 所(大 阪 証 券 取 引 所 の 前 身)、 商 法 会 議 所(大 阪 商 工 会 議 所 の 前 身)、 商 業 講 習 所(大 阪 市 立 大 学 の 前 身)の 開 設 に 関 わ っ た 。 また
10 現代社会研究科論集 表 一4 南霊 園 に眠 る著名 人 の墓 の一覧 表 故人名 山邊 丈夫 奥村 信太郎 小 山 健三 片岡 直方 片岡 直輝 本 山 彦 一 重松 翠 関 西村 天 因(時 彦) 岡本 撫 山(春 彦) 小橋 實之助 生田 南水(福太郎) 山村 友五郎 奥 田 弁 次郎 日柳 三舟 村 山 龍平 玉木 愛石 林 歌 子 庄 野 貞 一 五代 友厚 菅 楯 彦(藤太郎) 外 山 修 造 死節群士 岡 常夫 桐原 拾 三 沼 田 嘉一郎 中村 雀 右衛 門 中村 雀右衛 門 菊池 米太郎 高崎 親章 大 三輪 長兵衛 敷 田 年治 土居 通夫 豊田 団平 臼 田 馬造 東洋紡 績社長 大 阪毎 日新 聞社社 長 実業 家 大 阪ガス社長 阪神 南海鉄道社 長 大 阪毎 日新 聞社社 長 飛 行家 大 阪市長 職 文 筆家 朝 日新 聞編集長 文学士 実業家、博愛社 社長 先考生 田南水 十年祭建立 舞踊家(上 方 舞山村流 開祖)
種
千 日前 に 興 行 小 屋 を 出 し、 歓 楽 地 千 日前 の 起 こ り と な つ た 陸軍兵学校大 属(師 範学校長)、教科 書出版 の功 績者 大 阪 朝 日新 聞 社 社 長(創 立 者)、 貴 族 院 議 員 書道家 大 阪 婦 人 ホ ー ム 理 事 長 、 社 会事 業 家 帝塚 山学 院長 大阪商工 会議所初代会頭(実 業家) 画家 実業家(日 本銀行大 阪支 店長、大阪貯 蓄銀行頭取) 長州毛利 藩四十八士 、元 治元年6月 鳥 羽伏見 の戦で大 阪桜宮 で 東洋紡績 社長 大阪毎 日新聞社専務取締役 代議士 歌舞伎役 者2代 目 歌舞伎役 者3代 目 回生病 院院長 大 阪 府 知 事 、 貴 族 院議 員 大 阪市会初代議長 、府 会議長 国学 者 、 百 楽 塾 に よる 門 人 育 成 大 阪商工会議所会頭 三弦 演奏家(近 世 三味線名人) 歯 刷 子 製 造 機 、 へ も輸 出 トラ印 ク リー ム を 日本 で 発 明 し、 海 外 没年 大 正9.5.14 昭 和26.3.4 大 正12.12.21 昭 和24.3.21 日召禾[12.4.13 昭 和7.12.30 大 正3.4.26 日召禾010.1.26 大 正13.7 明 治37. 12 日召禾1]8.6.19 日召禾日9.1.12 初 代 天 保 15 2代 目 明 治28 明 治31 明 治36 H召禾08.11.25 口召禾[13.9.13 田召禾021.3.24 昭 和25.10.9 明 治18.9,25 明 治38.9 大 正5.1.13 元治元年 日召禾02.1.22 大 正15.8.25 日召禾012.11.12 明 治28.7.20 日召禾02.11.15 昭 和28.2.11 大 正9.12.28 明 治41.1.31 明 治35.1 大 正6.9.9 明 治31.4,1 大 正7.3 (同霊 園 にあ る昭和31年 版 阿倍野 区史 抽 出分 ・大 阪観光 協会 抽 出分 の一覧 表 か ら作 成)都市 史 としての墓 地 ll 写真 一5 五代 友厚 の墓 事 業 家 と して 鉱 山経 営 、 紡 績 、 鉄 道事 業 な ど の 設 立 経 営 に も参 画 して い る。(写 真 一5) 新 聞 で は 、 本 山 彦 一 は 大 阪 毎 日新 聞 社 長 (毎 日新 聞 の 前 身)で 中 興 の 祖 と 言 わ れ 、 サ ンデ ー 毎EIや 英 文 毎 日、 点 字 毎 日を創 印 し、 社 会 事 業 団 も創 設 して 文 化 ・福 祉 事 業 に も乗 り出 した 。 村LLi龍平 は 毎 日新 聞 の ラ イバ ル紙 で あ る 大 阪 朝 日新 聞 を創 立 し、 貴 族 院 議 員 に も な っ て い る。 関 一 は 名 市 長 で 誉 れ 高 い 七 代 目大 阪 市 長 で 、 御 堂 筋 を 拡 幅 して 幹 線 道 路 と し、 地 下 鉄 御 堂 筋 線 を 開 通 させ 、 また 大 阪 城 天 守 閣 を 再建 し た 。 市 長 に 就 任 した の は1923年(大 正12年) で 新 た な 時 代 の 都 市 創 造 や 都 市 の骨 格 を形 成 し た。 庄 野 貞 一 は私 立 の 帝 塚 山 学 院 長 。 林 歌 子 は 売 春 反 対 、 女 性 解 放 運 動 に 生 涯 を捧 げ 、 大 阪 婦 人 ホ ー ム 理 事 長 な ど社 会 事 業 家 で あ る。 同 ホ ー ム は 元 遊 女 らを 守 り仕 事 を斡 旋 す る た め に設 立 し、 林 の 墓 に 隣 接 して 「大 阪 婦 人 ホ ー ム共 同墓 地 」 の 墓 碑 が あ る 。 医 療 で は 回生 病 院 院長 の 菊 池 米 太 郎 。 文 化 を 形 成 した 人 々 も多 い 。 山村 友 五 郎 は 江 戸 時 代 に 上 方 舞 の 山村 流 を 開 き 、 歌 舞 伎 役 者2代 目中 村 雀 右 衛 門 、3代 目 中村 雀 右 衛 門 、 近 世 三 味 線 の 名 手 と言 わ れ た 豊 澤 団 平 が い て 、 歌 舞 伎 や 人 形 浄 瑠 璃 の 盛 ん で あ っ た 。 菅 楯 彦 は明 治 期 に 活 躍 した 日本 画 家 で 、 四 条 派 、 狩 野 派 、 土 佐 派 、 浮 世 絵 を研 究 し、 独 自 の 画 風 を確 立 した 。 旅 芸 人 の 供 養 の た め に 墓 碑 を 建 立 し、 また 千 日前 を歓 楽 街 に 育 て た の が 奥 田 伝 次 郎 で あ る。1870年(明 治3年)に 千 日前 の 刑 場 が 廃 止 され 、 千 日前 墓 地 が 阿 倍 野 墓 地 (南 霊 園)へ 移 転 した 跡 地 に 、 す ぐ に 露 天 商 仲 間 を 集 め て 夜 店 を 出 し、 さ ら に興 行 の 許 可 を取 っ て 千 日前 を歓 楽 街 に形 成 して い っ た 。 奥 田 の 墓 に は 名 前 の 横 に 「千 日前 」 を彫 られ て い る 。 旅 芸 人 の 墓 は 巨 大 な 記 念 碑 と もい う も の で 、 「奥 田 知 人 死 亡 者 」 と して68人 の 名 前が 刻 まれ て い る 。 こ の よ う な 墓 碑 は 個 人 史 、 ラ イ フ ヒ ス ト リー で あ る だ け で な く、 誰 が 各 分 野 で どの よ う に 都 市 を形 成 し て い っ た の か を伝 え る 、 都 市 史 で あ る。 個 人 の 墓 碑 だ け で な く、 共 同 墓 は著 名 人 の 墓 の よ う に 都 市 を創 造 して い く明 る い 面 で は な く、 人 々 の 不 慮 の 死 とい う暗 い 面 を伝 えて い る 。 ・都 市 の 事 故 や 災 害 を伝 え る共 同墓 同 霊 園 に は個 人 や 家 族 の 墓 の 他 に 、 い くつ か の 共 同 墓 が あ る 。 「死 節 群 士 」 の 墓(写 真 一6) 、竹 田劇場焼 死者 の墓(写 真 一7)、 そ れ に 南 霊 園 の 一 番 奥 に あ る 警 察 官 の 墓 地 や 、 無縁 墓 な どで あ る。 近 代 大 阪 市 が 造 られ る直 前 に 、 長 州 毛 利 藩 四 十 八 士 が 、1864年(元 治
12 現 代社 会研究 科論 集 写真 一6 長 州毛 利藩 四 十八士 の墓 元 年)鳥 羽 伏 見 の 戦 い で 最 後 大 阪 桜 ノ宮 で 戦 死 した 若 者 た ち が 「死 節 群 士 」 の 墓 で あ る 。 竹 田 劇 場 の 火事 で は多 くが 焼 死 し、 身 元 が わ か ら ない 人 々 が埋 蔵 さ れ て い る(墓 の 名 義 人 は 辰 野 貴 之 と記 さ れ て い る)。 都 市 の 治 安 を 守 る警 察 官 も不 慮 の 死 に 遭 う こ とが あ る 。 専 用 墓 地 に は職 階 は様 々 だ が 、 多 くの 墓碑 に 殉 死 と記 さ れ て い る。 無 縁 墓 は後 で述 べ る が 、 南 霊 園 は 開 設 時 か ら、 「別 に等 外 地 を 設 け て 変 死 者 ま た は 囚 人 の 死 体 、 そ の 他 生活 困 窮 者 写真 一7 劇場 焼死 者 の墓 の 死 体 を埋 葬 」 して お り、 無 縁 墓 と して 葬 ら れ て い る 。 この よ う な人 々 は 都 市 に お け る 火 事 や 事 故 や 災 害 、 疫 病 の 流 行 な どの 不 慮 の 死 を遂 げ た 市 民 で 、 都 市 の 出 来 事 を伝 え て い る 。 ・阿 倍 野 墓 地 と周 辺 や 跡 地 の 開 発 南 霊 園 が 設 置 され た1874年(明 治7年)は 、 周 辺 の都 市 開 発 の き っか け に な つ た こ とが わ か る 。 明 治 初 年 は 一 望 千 里 の 田 畑 と原 野 で あ っ た 。 そ こ に南 霊 園 が 開 設 さ れ 、 さ らに 火 葬 場 が で き、 葬 儀 に か か わ る店 舗 や 参 拝 者 な ど 人 々 が 多 く集 る よ う に な っ て い き、 現 在 の 都 市 開 発 に 続 い て い く。 こ こ に移 転 して きた 千 日墓 地 の 跡 地 も現 在 大 阪 ミナ ミの 繁 華 街 を 形成 して い る。 墓 地 は都 市 の 発 展 に 従 っ て 周 辺 に移 転 して きた 。 当時 都 市 周 辺 に 設 置 され た 南霊 園 も、 現 在 の 阿 倍 野 地 区 の 再 開 発 な ど 「周 辺 地 域 の 市 街 地 化 が 急 速 に 進 む な か 、 周 辺 住 民 か ら は地 域 の 発 展 を 阻 害 して い る と し て 、相 当 以 前 か ら全 面移 転 要 望 が 出 され て い る。 諸 般 の 状 況 か ら移 転 は 困 難 で あ る た め 、 相 当 数 あ る と思 わ れ る 無 縁 跡 地 を 整 理 して … 」(大 阪 市 環 境 事 業 局、2003)と 、 墓 地 は 都 市 開 発 の きっ か け に な り、 ま た 発 展 の 阻 害 要 因 に も な る こ と を示 して い る。 ・墓 碑 調 査 か ら見 る家 族 や 宗 教 の 変 化 南 霊 園 の 墓 地 調 査 か ら、 先 に述 べ た 都 市 を 形 成 して き た 人 々 を見 る と、 様 々 な こ とが わ か る 。 五 代 友 厚 は 薩 摩 藩 藩 士 で 、 土 居 通 夫 は 宇 和 島 藩 藩 士 な ど、 そ の 他 の 墓 碑 に も土 佐 藩 、 薩 摩 藩 な ど経 済 界 で 活 躍 し近 代 の 大 阪 を形 成 した 人 は 大 阪 出 身 者 で な い 人 が 多 い 。 無 念 の 死 を 遂 げ た 長 州 毛 利 藩 の 若 者 た ち も近 代 大 阪
都市 史 と して の墓 地 13 の形 成 の 礎 に な っ た。 当 時 は都 市 に 人 間 が 流 動 的 で 進 取 の 気 風 が あ っ た と も考 え られ る 。 男 性 だ け で な く妻 の 働 きや 位 置 も墓 碑 か ら 見 る こ とが で き る 。(写 真 一8)夫 婦 の 名 前 が 刻 まれ た 墓 碑 も多 く、 当 時 は 夫 婦 が 家 や経 済 を支 え て い た こ とが うか が え る 。 先 に述 べ た 「縦 五 位 山 邊 丈 夫 之 墓 同 妻 定 子 之 墓 」、 「菅 楯 彦 妻 美 紀 之 墓 」 な ど著 名 人 の 墓 の 他 に も、 商 家 を兄 弟 二 家 族 で 経 営 した と思 わ れ る 夫 婦2組 の 名 前 が 一 つ の 墓 碑 に 刻 まれ た例 な ど、 夫 婦 の 名 前 や 、 夫 婦 で 一 つ ず つ 二 つ の 石 碑 もあ る 。 写 真 一9 神 道 系様 式 の墓 ・南 浜 霊 園 一 現 存 す る 「大 坂 七 墓 」 の1つ 南 浜 霊 園 は 同 市 北 区 豊 崎 に あ り、 行 基 が 開 設 した と伝 え られ る大 阪 で 最 も古 い 墓 地 の 一 つ で あ る 。 「大 坂 七 墓 」 の 中 で 現 存 す る2つ の う ち の1つ で あ る。(写 真 一10)天 満 宮 の 社 家 「菅 原 の 朝 臣 」 や 大 塩 平 八 郎 建 立 の墓 な ど明 治期 以 前 の墓 も多 く存 在 す る が 、 地 域 で 管 理 す る 人 が な く、 現 在 大 阪 市 で 管 理 して い る。 墓 地 の 入 り口 に は 、1891年(明 治24年) に建 立 され た 堂 に 道 引 き地 蔵 尊 が あ り、 地 域 の 人 々 の 信 仰 を 集 め て い る。 無 縁 整 理 さ れ 石 写 真 一8 夫 婦 の氏 名 を彫 った墓 また 、 墓 標 か ら石 碑 の 形 や 彫 刻 さ れ た もの 、 宗 教 等 の 変 化 も読 み 取 る こ とが で き る 。 まだ 詳 細 の 集 計 は 途 上 で あ る が 、 明 治 期 は石 碑 の 形 、 大 小 も多 様 で あ り、 家 名 もあ るが 個 人 名 が 彫 刻 され た石 碑 も多 く、 ま た 奥 津 城 な ど神 道 系 の 形 式 、 キ リ ス ト教 系 の 墓 碑 が 多 く、 明 治 初 期 の 離 壇 政 策 に よ る もの と考 え られ る 。 (写 真 一9) 写 真 一10 南 浜 霊 園 入 り ロ
14 現 代社 会研究 科論 集 碑 が 積 み 上 げ られ た4つ の 無縁 塚 が 平 面 図 に 残 され て い るが 、 現 在 は石 材 が 既 に処 分 され て無 い 。1988年(昭 和63年)に 大 阪 市 で墓 碑 調 査 が され 、 記 録 が 保 存 さ れ て い る。 4.無 縁 改 葬 か ら見 る無 縁 化 社 会 都 市 の 大 きな 社 会 変 動 は 人 口 動 態 の 変 化 か ら見 る こ とが で き る。 大 阪 市 は 近 代 以 降 、 都 市 の 成 長 や 日本 全 体 の 人 口 増 加 に よっ て 人 口 増 加 を続 け て きた 。 しか し、 墓 は既 に 家 族 形 態 の 多 様 化 に よ り既 に無 縁 化 して い る が 、 少 子 ・高 齢 ・人 口 減 少 社 会 の 更 な る進 行 に よ り、 無 縁 墓 が 増 加 す る と予 測 され る。 こ れ まで 、 どの 様 に 無縁 墓 が 推 移 し、 墓 地 は対 応 して き た の か を 見 よ う。 先 に南 霊 園 の 一 番 奥 に 無 縁 墓 が あ る と述 べ た 。 無 縁 墓 は 新 しい利 用 者 に墓 地 を提 供 で き ない 、 放 置 され て 管 理 が で きず 、管 理 料 も納 入 さ れ な い な ど、 墓 地 の 管 理 運 営 上 大 き な問 題 を抱 え て い る。南 霊 園 は 、開 設 が1874年(明 治7年)と 古 く、「使 用 して い な い墳 墓 が あ り、 霊 園 の 環 境 整 備 の 観 点 か ら、1986年(昭 和61 年)8月 か ら無 縁 墳 墓 の 調 査 を 開始 し、1992 年(平 成4年)度 末 を もつ て 一 定 収 束 し た た め 、1993年(平 成5年)度 か ら1995年(平 成 7年)度 に か けて 、 無 縁 墳 墓 の 移 転 を行 い、 約750基 の 改 葬 を 行 つ た」(大 阪 市 環 境 事 業 局 、 2003)と あ る。 ま た 、 長 年 に わ た り祭 祀 実 体 の 無 い墳 墓 につ い て 、 使 用 意 思 の 無 い もの を 順 次整 理 を して い る 。 北 霊 園 にお い て も1994年(平 成6年)度 か ら無 縁 墳 墓 の 調 査 を 実 施 して お り、1998年 (平 成10年)度 か ら調 査 に よ り判 明 した 無 縁 墳 墓 の 移 転 改 葬 と跡 地 整 備 を して い る。 さ らに 現 在 も大 阪 市 は北 霊 園 と瓜 破 霊 園 の 墳 墓 改 葬 に 取 組 ん で い る。2010年(平 成22年) 度墳 墓 整 備 事 業 の 実 績 に よる と 、現 在 調 査 中 で あ る が 、 瓜 破 霊 園 で は調 査 中 の 区 画 は524、 現 地 公 告 中 は16、 公 告 終 了 し改 葬 可 能 は41あ る。 北 霊 園 で は 、 これ も調 査 中 で あ るが 調 査 中 の 区 画 は22、 現 地 公 告 中397、 公 告 終 了 し 改 葬 可 能 は364で あ る。 現 在 の 区 画 の 使 用 状 況 は 瓜 破 霊 園 は93%が 使 用 中 で あ るが 、古 い 北 霊 園 は49%に な っ て い る 。 南 霊 園 に は 、 無 縁 墓 を 整 理 納 骨 す る 無縁 塚 写 真 一11無 縁 者 の 墓 写真 一12 都 市 の無 縁者 の墓
都市 史 としての墓 地 15 (写真 一11)と 、 身 寄 りの 無 い孤 独 死 や 、 骨 壷 が 引 き取 られ な い 人 た ち の納 骨 堂(写 真 一12) が 設 置 され て い る 。 近 年 無 縁 墓 へ の埋 葬 は年 間 約1300人 で あ り、 増 加 傾 向 に あ る とい う。 ま と め 大 阪 市 の 公 設 墓 地 は、 都 市 の 発 展 と と もに 配 置 や 設 置 数 、 墓 地 様 式 、 管 理 体 制 また 跡 地 利 用 な ど を変 化 させ 、 社 会 経 済 構 造 の 変 化 に 対 応 して きた 。 墓 地 の 都 市 にお け る 位 置 と面 積 は都 市 の 人 口増 加 と都 市 域 の 拡 大 と連 動 し て お り、 墓 地 の計 画 ・設 計 と墓 地 様 式 は、 都 市 計 画 に お け る墓 地 の 位 置 づ け や 、 家 族 の 制 度 の 理 念 や 家 族 形 態 の 変 化 に よ る 意 識 の 変 化 と連 動 して い る。 また 墓 碑 か ら宗 教 上 の 変 化 も見 る こ とが で きる 。 また 共 同墓 や 無 縁 塚 か ら、 市 民 の 不 慮 の 死 を招 い た 大 事 故 や 大 火 災 、 自然 災 害 、 戦 災 、 疫 病 の流 行 な ど都 市 に変 動 を起 こ した 出来 事 も記 して い る。 個 人 と家 族 と い う 〈個 〉 と 〈群 〉 の 関 係 は 、 家 族 の 形 態 と意 識 の 変 化 に よ り、 墓 ・墓 地 の 無 形 化 、 共 同化 、 有 期 限 化 の 方 向 に あ る こ と を既 に示 し た 。 しか し、 都 市 に生 きる 人 々 を く群 〉 と し て は 、 個 人 の ラ イ フ ヒ ス トリ ー を 超 えて そ の 集 合 体 は 、 都 市 を 誰 が 創 っ て きた か を示 す 都 市 を 形 成 し、 都 市 の 変 化 を記 録 す る、 都 市 史 と して 重 要 で あ る こ とが わ か る 。 また 墓 地 は 都 市 の 時 代 ご とに 設 置 され 、 そ の 配 置 や 墓 地 様 式 な どか ら墓 地 の 集 合 体 、 都 市 施 設 で あ る 墓 地 〈群 〉 と して 都 市 形 成 と発 展 の 歴 史 を 示 して い る 。 現 在 は 都 市 の 拡 大 ・発 展 期 か ら 少 子 ・高 齢 ・人 口 減 少 社 会 に 直 面 して お り、 無 縁 化 社 会 が 進 行 す る。 墓 の 無 縁 化 が 進 め ば都 市 の 記 憶 、 記 録 と して の 墓 や 墓 地 は 消 滅 して い く可 能 性 が あ る。 そ れ ら の 意 味 か ら、 家 族 変 化 に よ る 〈個 〉 と して は、 墓 ・墓 地 の 無 形 化 、 共 同 化 、 有 期 限 化 の 方 向 で あ る が 、 都 市 に生 き る 人 々 や 墓 地 の 〈群 〉 と して は都 市 史 と して の 重 要 性 を認 識 す る必 要 と、 そ の 手 立 て が 必 要 に な っ て い る 。 参 考 文 献 大 阪 市 、1949、 「大 阪 市 設 霊 園 条 例 」(昭 和24年 制 定 、 平 成13年 改 正 、 平 成23年 改 正) 大 阪 市 環 境 事 業 局 、2003、 「大 阪 市 に お け る 墓 地 の あ り方 検 討 に あ た っ て 」2月 大 阪 市 環 境 事 業 局 、2002、 『平 成14年 度 大 阪 市 の 環 境 事 業 』8月 大 阪 市 環 境 事 業 局 、2010、 『平 成22年 度 わ た し の まち ・きれ い な大 阪 』9月 (財)大 阪 市 環 境 事 業 協 会 、2011、 『平 成23年 度 大 阪 市 設 霊 園 募 集 』5月 (財)大 阪 市 都 市 工 学 情 報 セ ン タ ー 、2010、 『大 阪 人 』 「阿 倍 野 掃 苔 録 ・阿 倍 野 に 眠 る 」9月 号 毎 日新 聞 社 、2011、 『毎 日新 聞 』 「わ が 町 に も歴 史 あ り/知 られ ざ る 大 阪 ・阿 倍 野 墓 地 」10月6日 付 毎 日新 聞社 、2011、 『毎 日新 聞 』 「わ が 町 に も歴 史 あ り/知 られ ざ る 大 阪 ・続 阿 倍 野 墓 地 」10月13 日付 毎 日新 聞 社 、2011、 『毎 日新 聞 』 「わ が 町 に も歴 史 あ り/知 られ ざ る 大 阪 ・続 々 阿 倍 野 墓 地 」10月 20日 付 愼 村 久 子 、1994、 「近 代 日 本 墓 地 の 成 立 と現 代 的 展 開 」 京 都 大 学 博 士 論 文 、3月 愼 村 久 子 、1996、 『お 墓 と家 渕 朱 鷺 書 房 、6月
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