ソシュールの言語学史
)金 澤 忠 信
ス イ ス・ジ ュ ネ ー ヴ 出 身 の 言 語 学 者 フ ェ ル デ ィ ナ ン・ド・ソ シ ュ ー ル 〔Ferdinand de SAUSSURE( − )〕は, 年 月,ジュネーヴ大学で 三回の連続講演を行っている。これは彼の教授就任講演であり,彼のために開 設された講座の開講記念講演でもあった。ソシュールは 年余りのパリでの 学究生活を終え,故郷のジュネーヴに戻って来たばかりであり,もうすぐ 歳になろうとしている。 開講講演初日の原稿は,次のような言葉で始まっている。 いま,私が開講の栄に浴しておりますこの講座が,本学における新たな 研究の一機軸を表すのだとしたら,あるいは,もし今日の私の使命ないし 特権が,ここ 年来ことばの学問が一心に建設してきた殿堂にみなさん を招きいれ,この学問の現状を素描し,さして長くはない歴史を一 して その未来を予想し,その目的と有用性を定義づけ,それが人知の及ぶ範囲 に占める場所と,文学部で果たしうる勤めとを示すことであるとしたら, 自分の任務を威厳たっぷりにやってのけることなど,私にはだいそれたわ ざでしょう。) ソシュールのために開設された講座の題目は「印欧諸語歴史・比較言語学」 で,それは「新たな研究の一機軸」を表しており,しかもそれは「文学部」に ) 本論は 年に東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学に提出した課程博士論文 「ソシュールと言語学」の一部に修正を施したものである。属している。ジュネーヴ大学ではこれ以前に,ドイツ語・ドイツ文学を専攻し
ていたクラウス〔Carl KRAUSS〕という人物が 年から 年まで「文献
学〔Philologie〕」および「比較言語学〔Linguistique comparée〕」と題した講義
を行っている。)その後 年から 年までジョゼフ・ヴェルトハイマー
〔Joseph WERTHEIMER( − )〕が「言語学〔Linguistique〕」と題した講
義を行った。)このヴェルトハイマーの講座を引き継いだのがソシュールであ る。開講講演のなかでソシュールは前任者であるヴェルトハイマーの業績につ いては何も言及していないのだが,ここでは,ドイツの「文献学」,「比較言語 学」,「言語学」という講義題目の変遷に注目しておく必要がある。 上に引用した開講講演の冒頭部分で,ソシュールは,言語についての学は 「 年来」存在していると言っている。つまりそれは, 年頃に誕生した, 「さして長くはない歴史」を持つ学問である。開講講演では, 年代の黎明 期の言語学について具体的な説明はないが,ヤーコプ・グリム〔Jakob GRIMM ( − )〕およびフランツ・ボップ〔Franz BOPP( − )〕の著作が 念頭にあることは明らかである。実際この講演から 年後の第二回一般言語 学講義( − 年)でソシュールは「フランツ・ボップの最初の作品『ギ リシア語,ラテン語,ペルシア語,ゲルマン語の活用体系と比較したサンスク リット語の活用体系について』( 年))をもって言語学創設の日付とす
) Ms. fr. , N .= , p. ; Cours de linguistique générale, édition critique par Rudolf ENGLER, tome , Otto Harrassowitz, Wiesbaden, , p. . 前田英樹編・訳・
著,『沈黙するソシュール』,書肆山田, 年, 頁。Cf.『フェルディナン・ド・ソ
シュール「一般言語学」著作集 ―― Ⅰ自筆草稿『言語の科学』』,松澤和宏訳,岩波書
店, 年(以下『言語の科学』と略記), 頁。※ソシュールの手稿を参照する際
に用いられる « Ms. fr. » は「ジュネーヴ図書館〔BGE=Bibliothèque de Genève〕蔵,フラ ンス語手稿(目録番号)」を表す。以下,翻訳は特に参照指示がない場合は金澤による。 ) Cf. Robert GODEL : Les sources manuscrites du cours de linguistique générale de F. de
Saussure, Librairie Droz, Genève, , p. .
) Cf. Cours de linguistique générale, publié par Charles BALLY et Albert SECHEHAYE, avec la collaboration d’Albert RIEDLINGER, Payot, Lausanne et Paris, ; édition critique préparée par Tullio DE MAURO, tr. fr. par Louis-Jean CALVET, (以下 CLG/D と略 記), p. .
) Jakob GRIMM : Über das Conjugationssystem der Sanskritsprache in Vergleichung mit jenem der griechischen, lateinischen, persischen und germanischen Sprache( ).
る」,)「ボップの追随者・後継者として,とりわけゲルマン語研究の創始者ヤー コプ・グリムを挙げなければならない」)と述べている。言語学の誕生以前の 状況およびボップとグリムの功績をソシュールがどのように捉えているのか, 第二回一般言語学講義( − 年)および第三回一般言語学講義( − 年)を参照しながら考察していく。 .「言語学」以前 年 月 日,第三回にして最後となる一般言語学講義の初日は「言 語学の歴史に関する一 」から始まっている。ソシュールによれば,厳密な意 味での「言語学」が成立する以前に,言語に関する研究は,歴史的に三つの「不 完全な段階」を経た。 第一は「文法」の段階である。これは「ギリシア人たちによって発明され, フランス人たちにそのまま受け継がれた」)とあるので, , 年以上の長き にわたる時代が想定されている。ここで言う「文法」とは「規範文法」のこと であり,用法の正誤を区別するための文法規則の整備を旨とする。したがって この段階では,ソシュールによれば,「言語の現象が総体として何なのかにつ いての卓越した視野をそもそも除外している」。) 第二段階は 世紀末から 世紀初頭の「文献学」である。 年にフリ
ードリヒ・アウグスト・ヴォルフ〔Friedrich August WOLF( − )〕が「文
献学者」を名のって以来,「古典文献学の大きな文献学的潮流」は「現代に到
) II R , noE . 以下,第二回講義については,フェルディナン・ド・ソシュール,
『一般言語学 第二回講義』,小松英輔編,相原奈津江・秋津玲訳,エディット・パルク, 年, 頁以降参照。※« II R » はソシュールの第二回一般言語学講義に出席した学 生 Albert RIEDLINGER のノート( 桁の数字は頁番号)を表す。« noE »とそれに続く
桁の数字は Cours de linguistique générale, édition critique par Rudolf ENGLER, tome , Otto Harrassowitz, Wiesbaden, − の断章番号を表す。以下同様。
) II R , noE . ) III C , noE . 以下,第三回講義については,フェルディナン・ド・ソシュール, 『一般言語学 第三回講義』(増補改訂版),小松英輔編,相原奈津江・秋津玲訳,エディッ ト・パルク, 年, 頁以降参照。※« III C » はソシュールの第三回一般言語学講義 に出席した学生 Emile CONSTANTIN のノート( 桁の数字は頁番号)を表す。 ) III C , noE .
るまで引き継がれている」。)文献学は「テクストを前にした批判的精神の方 法」)にもとづいて遂行されるが,ソシュールは厳密な意味での言語学の成立 ラ ン グ を見越したうえで,「言語は文献学の領域内に見出される数ある対象のひとつ ラ ン グ でしかなかった」)と述べている。しかし,「文献学の領域内」で言語が他の 諸々の対象と相並んで批判の対象となったことは,第一段階が続いた時代の長 さに鑑みても,言語学の前史にとって文字通り画期的な一歩だった。文献学と いうのは,ひとことで言えば,現存する文献資料から歴史的に配列可能な事物 を引き出す技術である。そこへ,文献学によって引き出された諸々の歴史的事 ラ ン グ 物のあいだに,言語が割り込んできたかたちになる。こうして「言語の研究は 以降もはやたんなる文法的な正誤判断の研究ではない」)ことになり,言語に ついても他の歴史的事物と同じように,「批判的精神」をもって,「時代の差異 がもたらしたものを見る」)ことが可能になった。これはすでに歴史言語学の 萌芽とも言える事態だが,「しかしそれはまだ言語学の精神ではなかった」。) 第三段階は,言語どうしが比較可能で,そこには「語族」(具体的には「印 欧語族」)の関係があることが発見された「センセーショナルな段階」)であ る。これは特にサンスクリット語の「発見」と結びついている。第三回講義で はこの段階における具体例が挙げられていないので,第二回講義( − 年)のほうを参照すると,ボップ以前に「サンスクリット語と他の印欧諸語と の類似」を認識した最初期の研究例として,ガストン=ロラン・クルドゥー 〔Gaston-Laurent CŒURDOUX( − )〕の「サンスクリット語にギリシア 語およびとりわけラテン語と共通した数多くの語があるのは何に由来するの
か?」( 年),ウィリアム・ジョーンズ 〔Sir William JONES( − )〕
がカルカッタの王立アジア協会で行った講演「インド人について」( 年) ) III C , noE − . ) III C , noE . ) III C , noE . ) Ibid. ) Ibid. ) III C , noE . ) III C , noE .
が挙げられている。ソシュールはこれらの研究がなされた歴史的背景について は特に言及していないが,それがいずれもインドでなされていることは偶然で はない。当初サンスクリット語研究者の多くは宣教師であり,実際クルドゥー もインドのポンディシェリで布教活動を行ったフランス人イエズス会士であ る。サンスクリット語研究は純粋に学問的な関心によって開始されたわけでは なく,植民地化とそれに伴うキリスト教の布教活動の副産物だった。
ヨ ハ ン・ク リ ス ト フ・ア ー デ ル ン グ〔Johan Christoph ADELUNG( −
)〕の『ミトリダテスあるいは一般的言語研究』( − 年)でも,サ ンスクリット語,ギリシア語,ラテン語,ドイツ語の比較がなされているが, それは「科学的な批判ないし傾向に欠け」,)当該の諸言語を「同じ語族に分類 する」)ことはなかった。このことについてソシュールは,ミシェル・ブレア ル〔Michel BRÉAL( − )〕を引き合いに出し,「文献学者たちはもはや 民族学者や歴史家に席を譲るしかなかった」)と述べている。つまりサンスク リット語と他の諸言語との類似は,まだこの段階では言語そのものの本質的構 造の比較対照によってではなく,民族間の接触・交流およびその歴史などに関 する,いわば外的な研究によってしか考察されえなかったということである。 ラ ン グ それは言語が「文献学の領域内に見出される数ある対象のひとつ」であること の必然的な帰結であり,その意味で言語の研究はまだ文献学から完全に分離・ 独立していなかった。 真の意味での言語学は, 年という日付とともにボップによって創始さ れる。ただし,あらかじめ指摘しておくと,ソシュールはボップを言語学の創 始者として認めてはいるが,同時にいくつかの留保をつけている。 フランツ・ボップはマインツ出身であるが,パリでサンスクリット語をはじ めいくつかの言語を習得しつつ,『ギリシア語,ラテン語,ペルシア語,ゲル マン語の活用体系と比較したサンスクリット語の活用体系について』執筆のた めの準備をした。)また,フリードリッヒ・シュレーゲル〔Friedrich SCHLEGEL ) II R , noE . ) Ibid. ) II R , noE .
( − )〕やヴィルヘルム・フォン・フンボルト〔Wilhelm von HUMBOLDT ( − )〕の知己を得たのもパリ滞在中である。そもそも,「おそらくサン スクリット語の光明によってボップは印欧語族を認識したのだが,サンスク リット語と他の印欧諸語との類似を最初に認識したのはボップではない」。) ボップの著作は文字通り画期的ではあったが,それが生み出される前提条件と して,たとえ「不完全」であっても,やはり「第三段階」に属するサンスクリッ ト語研究者たちの功績があったのである。 ソシュールは 年に書いた回想録のなかで,青年時代の自分にとって ボップの権威は絶大だったと述べている。 年に講義のなかでボップにた いして上のような留保をつけるとき,ソシュールのなかでボップはすでに相対 化され,言語学史におけるその功績の真価あるいは限界,問題点は正確に認識 されている。ここでは特に,「マインツのドイツ人」であるボップが,言語学 の創設に先立って,パリで諸言語を学び,重要人物たちと出会ったということ についてソシュールが言及していることを確認しておく。)ボップに絶大な権 威を見ることに端を発する,ドイツ人にたいするソシュールの複雑な感情およ び彼を取り巻く状況についてはあとで述べる。 .ボップとグリム ソシュールはボップに始まる言語学の歴史を大きく二つに区分する。第一期 は 年のボップの「発見」から 年頃までの「試行錯誤の時期」で,特 ラ ン グ に最初の 年間は言語の何たるかについて「不完全」で「馬鹿げた」考えが 横行していた。)第二期は,「その対象を認識し,その方法がほぼ獲得され, ) 一般言語学講義の学生ノートでは,ボップがパリにいたのは「 年から 年ま で」となっているが,実際には 年から 年までで,その間にペルシア語,アラ ビア語,ヘブライ語,サンスクリット語などを学んだ。Cf. II R , noE . ) Ibid. ) ドイツ語圏対フランス語圏という問題設定において,それぞれパリに留学した,ジュ ネーヴのソシュール,マインツのボップ,ウィーンのフロイト〔Sigmund FREUD( − )〕を比較することは興味深いが,ここでは示唆するだけにとどめる。 ) III C , noE .
まったく新しい方向がこの学に与えられた」) 年以降である。ソシュール にとっても同時代の言語学者たちにとっても,第一期に属する学説はすでに 「古くさくて,化石ですらあった」が,ソシュールは「いかにして言語学がそ の対象を理解するに到ったかを見るために」,)それを検討している。 言語学の創始者であるボップとそれ以前の研究者たちとの決定的な違いにつ いて,ソシュールはきわめて明快かつ簡潔に解説している。 ボップの独自性は偉大であり,それは諸言語の類似が歴史家や民族学者に しか関与しない事象ではなく,それ自体で研究され分析されうる事象であ るということを証明した点にある。その功績とは,サンスクリット語と他 のヨーロッパ諸語との親近性や,それがより広いグループに属することを 発見したことではなく,親族関係にある言語どうしの厳密な諸関係のなか に研究材料があるということを発見したことである。親族関係における固 有言語の多様性という現象は,彼にとってそれ自体で研究されるに値する 問題として現れる。ひとつの言語を別の言語によって解明し,可能であれ ばひとつの形態を別の形態によって説明すること,これはかつて一度もな されたことがなかった。ひとつの言語のなかに説明すべき何かがある,こ れは思いもよらなかったことである。諸々の形態は,学ぶべき所与の物で ある。) ここでソシュールが述べていることは言語学の創設・発展にとって決定的に 重要である。ボップ以降,諸言語の類似は歴史家や民族学者によって,外側か ら研究される偶発的な事象ではなく,そこでは言語それ自体が,あるいはそれ らの関係が研究対象となる。すなわち諸言語は内側から考察され,それら相互 のあいだで直接的に通じ合うようになる。 他の文献学者たちと同様,ボップにとってサンスクリット語は親族関係にあ ) II R , noE . ) Ibid. ) II R , noE − . Cf.『一般言語学 第二回講義』, − 頁。
る諸言語どうしを比較するにあたって特別な価値を持っていた。たとえば,ラ テン語とギリシア語の屈折のみを考慮する場合には次のようになる。 ラテン語 ギリシア語 genus γένος 主格・単数 generis γένεος 属格・単数 generi γένει 与格・単数 generum γενέων 属格・複数 genera γένεα 対格・複数 ) このとき,これらの形態を「その屈折組織のなかには入り込まずに」,語源 学的な仕方で,つまり意味・用法の類似や個別形態の漠然とした類似によって 説明することはできる。しかしその場合はこの表それ自体が意義を持つわけで はない。それは「いかなる特別な観念をも喚起しない。この表がどのような単 位を含みうるのかは分からない」。)しかしひとたびサンスクリット語が導入さ れると話は変わる。 ´ganas 主格・単数 ´ganas/as 属格・単数 ´ganas/i 位格・単数 ´ganas/âm 属格・複数 ´ganas/su 位格・複数(ギリシア語・与格・複数γένεσσι)) ) ソシュールはギリシア語の例では原形を意識し,おそらく叙事詩語形態を用いている が,普通はγένους(属格・単数),γεν ˜ων(属格・複数),γένη(対格・複数),γένεσι(ν) (与格・複数)などの形態で現れる。 ) II R , noE . ) サンスクリット語に関しても,一般的には(現代のラテン文字表記で)janas(主格・ 単 数),janasya(属格・単 数),jane(位 格・単 数),janasām(属 格・複 数),janes.u(位 格・複数)などの形態で現れる。
そこには « ´ganas- » という同一のテーマとそれに付加される様々な語尾があ ることが分かる。こうしたサンスクリット語の分析とラテン語およびギリシア パラディグム 語の範列を突き合せることによって,いくつかの結論を引き出すことができ る。 第一に,´ganas は先行状態を表しているはずであると暫定的に認めてお く。そのことによって,二つの母音に挟まれるときには,γένε(σ)ος 等々 のように s が落ちたはずだということが説明されるからである。次に第二 の結論として提起すべきは,ラテン語では二つの母音のあいだに位置する s は r[になった]ということである。さらに第三に,別の観点からする と,我々は屈折における語根の観念をより明確にしている。語根は,他の 諸言語においても同じとは言わないが,印欧祖語においては完全に画定可 能で確固とした単位に相当する。サンスクリット語のこの状態は原初の状 態を表している。ギリシア語の起源にもやはり語根およびテーマのより明 確な区分があった。したがって,サンスクリット語をより有益なものにし ているのは,それがすべての s を保持していることである(他方でサンス クリット語こそきわめて多くの変化をした。母音体系全体を変化させたの だ!)。) ここでは明確化を期すために,この三つの結論にさらに以下の三つの事柄を 付け加えておきたい。) 第一に,こうした比較においては,純粋に言語的な形態以外の分析対象を必 要としない。つまり,諸々の形態の文法的価値を決定するにあたって,自明で 既存のものとして前提される「観念」ないし「意味」を,比較の際の参照基準 として持ち出す必要がないということである。 ) II R − , noE , . Cf.『一般言語学 第二回講義』, − 頁。
) Cf. Michel Foucault : Les mots et les choses, Gallimard, Paris, , pp. − .
〔ミシェル・フーコー,『言葉と物』,渡辺一民・佐々木明訳,新潮社, 年, −
第二に,比較は屈折体系相互のあいだでなされ,それによって語は語根と語 尾に分析されるようになる。語根の原初的な形態をよく保存しているサンスク リット語は,この種の分析に道を開くにあたって,決定的な役割を果たした。 また,このように純粋に言語学的な操作によって抽出された語根は,それが動 詞的な要素であるがゆえに,従来の名詞中心の言語観を覆すのに一役買い,と りわけ「民族の精神」と関連づけて論じられるようになる。 そして第三に,言語の研究に,ある種の歴史性が導入された。より正確に言 えば,「時代の差異がもたらしたものを見る」という文献学の歴史性をそのま ま引き継ぐかたちで,今度は言語それ自体の歴史的変遷を考察するという視野 が開けた。サンスクリット語から導き出される原初形態ないし先行状態を想定 することによって,言語をその進化において考察することが可能になったので ある。この意味で,言語学は成立当初から本質的に歴史的な学だったと言える。 ボップは 年に「サンスクリット語の光明」によって諸言語の内的な分 析・比較を可能にし,真の意味での言語学の領域を切り開いたが,)ソシュー ルはこのボップの功績について,「ひとつの言語が他の言語を解明するのに非 常に適切だったのは偶然」であって,ときとしてそれは「過ちの原因」にもな るとし,「過大評価も過小評価もしてはならない」)と述べている。ここでは, 言語学そのものを創設するという意味で言語学史上最大の功績を,ソシュール は「偶然」によるものであるとしている点に留意しておこう。 ソシュールが指摘するように,サンスクリット語の原初性にたいする過大評 価は,のちの言語学の発展にとってむしろ大きな障害となった。実際サンスク リット語は,想定される原初形態としては様々な音韻がa に統一されるかた ) ソシュールはこれ以降のボップの著作として,『サンスクリット語,ゼンド語,アル メニア語,ギリシア語,ラテン語,リトアニア語,スラヴ語,ゴート語,ドイツ語の比 較文法』( − 年)を取り上げ,それがブレアルによって仏訳されていること( − 年),ゼンド語のテクストはビュルヌーフ〔Eugène BURNOUF( − )〕が解 読したこと( − 年)などについて言及している。ケルト語に関しては,アドル フ・ピクテの「ケルト語とサンスクリット語の親近性についての覚え書」( 年)を 挙げているが,これは「もはや歴史的・回顧的な意味しか持っていない」。II R , noE . ) II R , noE .
ちで現れるなど,母音体系全体が大きく変化を蒙っているのだが,初期の言語 学者のほとんどはサンスクリット語の母音体系のほうをもとにして印欧祖語の 母音体系を再建しようとしたため,多くのケースで言語現象の説明に行き詰 まった。ソシュールはこうしたいわば未熟な再建方法にたいして,『印欧諸語 における母音の原初体系に関する覚え書』)(以下『覚え書』)のなかで,慎重 にではあるが根本的な批判を加えることになる。 ソシュールがボップの後継者としてまず最初にあげているのはヤーコプ・グ リムである。一般にボップは「比較文法」の創設者,グリムは「歴史文法」の 創設者と言われる。グリムの独自性は,時代的に変遷していく言語を記述しよ うと試みた点にあるというのが通説だが,ソシュールによれば,「ボップには 言語の真に歴史的な視野が欠けている。しかしそうした視野がグリムにおいて さらに発展したわけではない」。)さらにソシュールは,「グリムが歴史文法の諸 原理の創設者だったというわけではない」)とまで言っている。そして『ドイ ツ文法』〔Deutsche Grammatik( − )〕のなかで提起されたいわゆる「グ リムの法則」に或る種の限界を見て取り,それを「幻影〔fantasmagories )〕」 と呼んでいる。 ア プ ラ ウ ト 〔彼は〕母音交替がそれ自体で意味を有するものだと思っている(母音の 相違は時制の相違を表すという。そして偶然によってこの相違を導いたか もしれないような歴史的原因については考えない)。したがって言語の歴 史的活動を理解しなかった。彼は(我々にとってはほとんど定義不可能な) 音韻推移〔Lautverschiebung〕についての考えも抱いており,それは歯車 の一刻みのようになされると思っていた。一 いのものが,一段階進行し
) Ferdinand de SAUSSURE : Mémoire sur le système primitif des voyelles dans les langues indo-européennes, Teubner, Leipzig, [ ];(repr.)Georg Olms Verlagsbuchhandlung, Hildesheim, (以下 Mémoire と略記).
) II R , noE .
) II R , noE .
) « fantasmagories » は 世紀に流行した幻灯劇のことも指す。ソシュールは変遷する言 語のイメージを幻灯劇に重ね合わせているのかもしれない。
たとき,それは別の一 いのものによって埋め合わせられなければならな い。 p, t, k > f, th(þ), h 他方,印欧語の古層では, b, d, g > p, t, k そして bh, dh, gh > b, d, g. こうした様々な事象が一様になされるわけがない。グリムにとって,それ は p, t, k を置き換えるためであり,b, d, g > p, t, k もまた同様である。 […]つまり歴史的な構想に,想像もつかないような領野の観念を混入し ている。満たすべき場所がある。それはまるで古代人における空虚の観念 のようなものである。自然は空虚を怖れるのだ。) ソシュールがグリムに反論を試みる際の論拠は二つある。一つは,言語にお いてそれ自体で意味を有するものは何もないということである。二つめは,変 化の現象(この場合は音韻変化)は,「空虚」を埋め合わせるために起こるわ けではないということである。つまり,なんらかの合理的な原因・理由によっ て生じるわけではなく,ひとえに偶然によって引き起こされるということであ る。ソシュールは「法則」がないと言っているわけではない。しかし,発見さ れるべき「法則」があらかじめ存在するということを認めていない。言語の歴 史において,なんらかの「法則」によって統御される反復可能な現象などない。 変化の現象は「偶然」や「歴史的原因」によって引き起こされるのであって, 「一様になされるわけがない」。ソシュールはグリムの目的論を根底から反駁す る。) ソシュールは,ボップとグリム以降の言語学の歴史の第一期に属する学者と
して,フリードリヒ・ポット〔August Friedrich POTT( − )〕,テオドール・
ベンファイ〔Theodor BENFEY( − )〕,アダルベルト・クーン〔Adalbert
KUHN( − )〕,テオドール・アウフレヒト〔Theodor AUFRECHT(
− )〕,さらにゲオルグ・クルティウス〔Georg CURTIUS( − )〕,フ
リードリヒ・マックス・ミュラー〔Friedrich Max MÜLLER( − )〕らの
名前を挙げている。とりわけクルティウスについては「比較文法と古典文献学 を和解させた最初の人々のうちの一人」)と評価している。比較文法と文献学 は当初から反目しあっていたが,クルティウスは「歴史的なものの趣向を(そ の論述の明晰さとその人格の奥ゆかしさによって)古典文献学のなかに浸透さ せた」。)ソシュールはクルティウスの人格についても触れているが,ライプ ツィヒ留学時代にクルティウスに接したときの印象を想起しているのかもしれ ない。当時クルティウスの講義は数多くの学生が聴講しており,ソシュールも 定期的に出席していた。 これらの学者たち以上に重要な第一期に属する学者として,ソシュールはア ウグスト・シュライヒャー〔August SCHLEICHER( − )〕の名前をあ げている。シュライヒャーは,ヘーゲル哲学の影響下で,印欧諸語の分化を植 物の成長になぞらえて「言語の系統樹」という構想を打ち出し,言語学は自然 科学であると主張したことで知られる。ソシュールはシュライヒャーの主著『印 欧諸語比較文法要綱』( − 年))について,「ボップ以来およびボップ ) グリムにたいするソシュールの批判は,ソシュールを批判しようとするヤコブソン 〔Roman JAKOBSON( − )〕にたいしてもそのままあてはまる。「ソシュールの学 説は,当該の考え方と共時音韻論を扱う目的論的方法に影響を及ぼしている。それは結 局,語る主体の集団にとって,彼らが所与の瞬間に置かれている無秩序状態を,秩序の 体系と解釈することによって,そこに意味を見出させているにすぎない。しかし現実に は,語る主体の集団の役割がはるかに活動的であるのに対し,ラングの歴史における 『音声学的押し込み強盗』の射程は,はるかに制限されている。破壊のプロセスが起こっ た至るところで,活動的な反動が必ずそのあとに続く。チェスゲームで,駒をひとつ失う と,取られた方の指し手の側では,平衡状態を取り戻すために,しばしば駒の全体的な 配置転換が引き起こされる。それとまったく同様に,所与のラングにおいても,音韻体 系を再び安定させるために,全体的な音声学的刷新が必要となる。」(Roman JAKOBSON : « Proposition au premier congrès international de linguistes : Quelles sont les méhodes les mieux appropriées à un exposé complet et pratique de la phonologie d’une langue quelconque ? », Selected Writings I , Mouton & Co., Hague, , p. .)
) II R , noE .
) II R , noE .
) August SCHLEICHER : Conpendium der vergleichenden Grammatik der indogermanischen Sprachen(zweite Auflage), Hermann Böhlau, Weimar, .
によって得られた諸々の結果の一種の体系化をもたらした」,)あるいは「第一 期を知るためには今日なお最も興味深く,最も有用である」)と評価している。 しかしソシュールはやはりそこに限界を見ており,「一般言語学の諸問題に着 手していない」)点,印欧祖語再建において得られた結果を定式としてまとめ ようとしているが,その定式自体が誤っている点などを批判している。 年以降の第二期に関してはソシュール自身が直接関わってくるので, まずソシュールの経歴をその生誕からたどってみる。ソシュールの生涯につい てはすでに多くの著作で紹介されているが,ここではできる限りソシュール自 身のテクストを参照し,特に日付と固有名に留意しつつ,ソシュールの経歴を 再検討する。 .ソシュールの出自 フェルディナン・ド・ソシュールは, 年 月 日,スイス・ジュネー ヴに生まれた。ソシュール家はジュネーヴでは名門の家柄で,とりわけ自然科 学系の学問で傑出した人材を輩出している。農学者であったニコラ〔Nicolas de SAUSSURE( − )〕は ブ ド ウ 栽 培 法 の 改 良 で 知 ら れ,ヴ ォ ル テ ー ル 〔François-Marie AROUET[Voltaire]( − )〕やディドロ〔Denis DIDEROT
( − )〕ら編纂の『百科全書』にも執筆している。その息子のオラス= ベネディクト〔Horace-Bénédict de SAUSSURE( − )〕がソシュール家 の歴史のなかでは最も有名で,地質学・物理学・植物学など多くの分野で早熟 ぶりを発揮した。 歳でジュネーヴ・アカデミー(現ジュネーヴ大学の前身) の哲学および自然科学教授, 歳で学長に任命されている。 年には学術 調査の目的でモンブラン初登頂に成功した。彼の長女アルベルティーヌ=アド リエンヌ〔Albertine-Adrienne de SAUSSURE( − )〕は,特に文学的領域 で活躍した点でフェルディナンと並び異彩を放っている。彼女はジュネーヴの 旧家ネッケル家のジャック〔Jacques NECKER( − )〕(ジュネーヴで植物 ) II R , noE . ) II R , noE . ) Ibid.
学の教授)と結婚した関係で,フランス・ルイ王朝末期の財務長官ジャック・
ネッケル〔Jacques NECKER( − )〕は義伯父,スタール夫人〔Madame
de STAËL( − )〕は義理の従姉妹にあたる。スタール夫人がジュネー
ヴ近郊コペの城館で開いていた文学サロンに出入りし,ドイツ観念論・ロマン 主義の重要人物たちと交友関係があったと伝えられる。アウグスト・シュレー
ゲル〔August SCHLEGEL( − )〕の『劇的芸術・文学について』〔Über
dramatische Kunst und Literatur( − )〕をフランス語に翻訳したり,また 彼女自身にも『漸進的教育』〔Éducation progressive〕という著書がある。彼女 はフェルディナン・ド・ソシュールの大叔母にあたるが,彼が生まれる約 年前にすでに亡くなっているので,二人の直接の出会いはなかった。 この二人を結ぶのは,アドルフ・ピクテ〔Adolphe PICTET( − )〕と いう人物である。ピクテはソシュール家の隣人で,アルベルティーヌ=アドリ エンヌの友人でもあった。友人とはいえ 歳の年齢差があるので,若きピク テはこの隣家の教養ある婦人から当時の文学や哲学などについて多くのことを 聞き知ったのではないだろうか。 .回想録(ピクテ) フェルディナン・ド・ソシュールは 年, 歳のときに自らの青年時代 について回想録を綴っている。当該の手稿は 年に息子ジャック〔Jacques
de SAUSSURE( − )〕とレイモン〔Raymond de SAUSSURE( − )〕
によってジュネーヴ公共大学図書館(現ジュネーヴ図書館)に寄贈され, 年にロベール・ゴデル〔Robert GODEL( − )〕によって公表された。 まずはこのゴデル版「回想録」を参照しながら, 年代,ソシュールの言語 学者としての形成期に焦点を当ててみよう。 ソシュールは少年時代,すでに 歳を越えた老ピクテをしばしば訪れる。 『印欧語の起源』の著者である尊敬すべきアドルフ・ピクテは,私が 歳 か 歳の頃, 年のうちの何日かを過ごした田舎の別荘の,家庭ぐるみ でつきあう隣人であった。ヴェルソワ近くのマラニーにある彼の地所でし
ばしば会ったものである。この偉大な老人に質問をして多くの事柄を聞き 出す勇気はとてもなかったが,彼の書物に対しては子供心に深い賞賛の念 を密かにあたためていて,その著作の何章かを真剣に精読していたので あった。サンスクリット語の音節 つか つの助けを借りれば ―― こう いうことがこの本の,そしてこの頃のあらゆる言語学の理想にほかならな かったが ―― 消え去った民族の生活を再発見できるという理想は,私の うちに熱狂の炎を燃やした。これほど素朴なものはない。子供時代のこの 読書からいまでも時おり甦ってくるこの思い出ほど,言語学の喜びでこれ ほど甘美な,偽りのない思い出は私にはないのだ。) ソシュールの記憶が正しいとすれば,「 歳か 歳の頃」というのは 年頃のことである。ちょうどこの時期, 年 月から翌 年 月にかけ て普仏戦争があり,ソシュールとピクテが会っていた時期と重なっている。 若かりし頃にドイツにもフランスにも滞在したことのあるピクテが,今まさに 戦われている普仏戦争について何も知らなかったはずはない。ややこじつけめ いているが,ピクテが生まれる前年の 年からフランスの支配下にあった ジュネーヴがナポレオン軍の敗退によって独立したのは 年のことであり, その頃ピクテは少年ソシュールとほぼ同じ年齢だった。 年のウィーン会議 でスイスの独立があらためて確認され,同時にジュネーヴはスイス連邦への編 入を要望し,承認されている。その際ジュネーヴはレマン湖畔のヴェルソワか らその西にあるボセまでの地域約 km をフランスから獲得した。面積的に はそれほど広くはないが,これによってジュネーヴはスイスの飛び地ではなく なった。その意味でこの地域の獲得は非常に重要かつ象徴的だったと言える。 ヴェルソワとは目と鼻の先にあるマラニーで,老ピクテが少年ソシュールに何 を見ていたのかは推測の域を出ず, 歳のソシュールもそのことについては 何も言及していない。しかし,微笑ましくもある二人の会談と同時期に,隣国
) « Souvenirs de F. de Saussure concernant sa jeunesse et ses études », Cahiers Ferdinand de Saussure , Librairie Droz, Genève, , p. ; Ms. fr. / , p. . ※Cahiers Ferdinand de Saussure は以下 CFS と略記。
ではその後のヨーロッパの歴史を決定づけるような戦争が行われていたことは たしかである。また 年に始まる言語学の歴史の第一期がちょうどこの頃 に終わりを迎えようとしていたことになるが,もちろんソシュールはまだその ような言語学の状況のことなど知らない。ピクテを通じて知り得た「消え去っ た民族の生活を再発見できる」という「言語学の理想」は,当時少年だったソ シュールに「熱狂の炎を燃やした」。ソシュールにとっては,ピクテとの出会 いこそが言語学の原体験だった。ただしこの出来事の記憶にはいくつかの疑問 点がある。それについてはすぐあとで述べる。 専門家ではないながら民族学や語源学に造詣の深かった母方の祖父アレクサ ンドル=ジョゼフ・ド・プルタレース伯爵〔Alexandre-Joseph de POURTALÈS ( − )〕にも影響を受けたとソシュールは言っている。ただ,こちらは あくまで好奇心を搔き立てられたという程度だったようだ。ソシュールはこの 年, 年にジュネーヴのマルティーヌ学院に入学し,ギリシア語を学び始 める。 「回想録」によれば,それから 年後の 年, 歳のとき,ソシュール は「機は熟したと感じ〔je me sentis mûr〕」,「ギリシア語,ラテン語,ドイツ語 の単語を少数の語根に還元するための試論」)と題した論文をピクテに捧げて いる。これはいわばソシュールの処女論文である。ここでの「語根」とは,単語 を構成する原初的な核のようなもののことで,ソシュールは二つの子音で一つ の母音を挟むタイプの語根構成を設定している。例はギリシア語,ラテン語, ドイツ語から取られているが,少年ソシュールの推論としては,あるゆる言語 に含まれる単語はすべて の語根に還元することができ,それによって「こ
とばの一般的体系〔un système général du langage〕」を打ち立てることができ るというものであった。彼の議論をごく手短に要約してみよう。
ソシュールはまず子音を つのグループに分ける。
) « Essai pour réduire les mots du Grec, du Latin et de l’Allemand à un petit nombre de racines », CFS ( ), pp. − .
.喉音グループ〔Gutturales〕=K .唇音グループ〔Labiales〕 =P .歯音グループ〔Dentales〕 =T .流音グループ〔Liquides〕 =L, R 次にソシュールは言葉の誕生と発展について説明しているのだが,それによ れば,人間は自然の音を模倣する擬声語の状態から,言葉として使用する音の 数を徐々に増やしていく。第一段階ではまず母音が獲得され,それから子音が, 喉音,唇音,歯音の順に獲得される。流音はずっと後になってから歯音を変形 するかたちで得られる。第二段階になると,喉音,唇音,歯音のいずれか一つ と任意の母音一つを使って,たとえばak, ka, pa といった新しい種類の語を作 る。しかしこれではまだ恒常的な語根は獲得されない。母音は変化を蒙りやす く,「旅行く先のどんな空の色にも染まる」。)これにもう一つ子音が加わると 確固とした弁別特徴が得られる。二つの子音(第一子音=prote,第二子音= deutère)と任意の母音 A を用いると つの形態ができる。
KAK. KAP. KAT.
PAK. PAP. PAT.
TAK. TAP. TAT.
そして流音(L, R)によって つの語根が追加される。(L, R で始まる語は 原始形態の第一子音が切り落とされ,その結果第二子音が最初に来ているもの と想定されているので除外される。) KAR. KAL. PAR. PAL. TAR. TAL. ) Op. cit., p. .
さらに第一子音と第二子音が同一のものは除外され,最終的には の語根 が残る。 KAP : 空洞になっていたりたわんでいるものすべて KAT : 隠す,気遣う,慈しむ,保存する,褒め称える KAL : 空洞になっていてよく反響するもの KAR : 頭,力など PAT : 地,固いものなど PAK : 調整する,配列する,締める,挟む PAR : 横切る,分割する PAL : 動揺,群集,樹液(芳香,精気),生,発達 TAK : 芸術・技術,産業など TAP : 発達の途中で窒息しているもの TAL : 支える,持つ,産む TAR : 混乱させる,動かす,憤激させる,損傷する,悪化させる こうして得られた の語根それぞれに,個別的形態である語幹〔radicaux〕 が分類され,例証される。 「試論」は 頁あまりに及ぶものだが,語根を抽出するにあたってサンスク リット語を参照していなかったり,そもそも歴史的な視点をまったく考慮に入 れていないなど,言語学上のごく基本的な手続きが欠けており,ソシュール自 身も「回想録」のなかで「子供じみたもの」と言っている。ただし,「語根」と いう発想自体は,ピクテを含め当時の言語学においては広く流通していたもの であり,実際ピクテも『印欧語の起源』のなかで,単一の原始言語(印欧祖語) について,「単音節の動詞的語根に富んでいるがゆえに,接辞の助けを借りて あらゆる種類の派生語をふんだんに生じさせた言語」)と規定している。また
) Adolphe PICTET : Les origines indo-européennes ou les Aryas primitifs, e
éd., Librairie Sandoz et Fischbacher, Paris, , p. .
ボップもやはり印欧語の単語を単音節の語根から派生してできたものと考えて いた。ソシュールの「語根」も結果的に単音節になっているが,母音が変化し ても弁別特徴としては揺るがない,二つの子音の組み合わせ方に力点を置いて いる点に独創性を認めることができる。またのちに『覚え書』で想定するソナ ント的要素を含む語根もやはり基本的に子音・母音・子音という構成になって おり,「試論」の執筆は少年時代のたんなるエピソード以上の意味をもってい る。 ソシュールは「試論」の末尾で「私は自分が夢想に耽っていること,乳壺の 寓話を思い出さねばならないことを分かっています」)と述べたうえで,さら にピクテに宛てて一通の手紙を同封する。 クルー・ド・ジャントー, 月 日 同封の手稿を送らせていただきました。不要な部分はすべて取り除いた つもりですが,おそらくなお読みづらいかと存じます。しかしぜひとも一 読していただきたいのです。私は一生徒にすぎませんし,よく知りもしな い事柄について考えを述べるのは失礼と思われるかもしれません。昨年来 打ち立てた体系を明白なものとみなすに到らなかったら,こんなことはし なかったでしょう。私はいつも細部を研究する前に体系を仕立て上げるの に熱中しました。[…] 私はこの仮説が確かなものかどうか見きわめるためにいくつかの語を調 べることに取りかかりました。そうこうしているうちに休暇も終わり,作 業を中断せざるを得なくなりました。しかし一年経って私が新たに見出し たのは,私の考えを確固としたものにするのみだったということを言わね ばなりません。だからこそこうして上で述べた意見を先生にお尋ねしてみ る決心がついたのです。 ) CFS ( ), p. . 出典はラ・フォンテーヌの寓話「乳搾り女と乳壺」。「捕らぬ 狸の皮算用」に耽ると失敗するというような教訓。
きっと私はおかしいのでしょう。サンスクリット語の単語を二つも知っ ていれば,私は自分自身を論駁することもできるのでしょうが。しかし白 状しますと,今のところ私は自分の考えが本当らしく思えてなりません。 もしこの苦心の末の駄作(それを執筆するのに残念ながら数日しかなかっ たのです)少しでも正しいところがあるかどうか見ていただけたら光栄に 存じます。 ピクテはすぐに手紙で返事を寄こしてくれたのだが, 歳のソシュールは その一部を記憶している。「我が若き友よ,雄牛の両角を捉えたご様子です ね。」)だがそのあとのコメントに少年ソシュールはかなりショックを受けた ようで,「ことばの普遍的体系」についての研究は断念してしまったという。「こ のとき( 年)から,もし他の学説が見つかったならそれを受け入れる心 積もりではいたが,しかし実際のところ,自分の失敗した試みに嫌気が差して, 二年間は言語学を忘れていた。」)「試論」に添付された手紙には年号がないが, 「回想録」のなかにある日付に従えば,ソシュールがピクテに「試論」を送っ たのは 年 月 日ということになる。 .回想録(鳴鼻音の発見) 夏休みが明けて 年の秋にはコレージュに入学するが,この時期につい てソシュールは「ただひたすら失うためだけの一年」)だったと述べている。 ギ ム ナ ジ ウ ム 試験の成績が良かったにもかかわらず,親の意向で公立高等学校の予備課程で あるコレージュに通わされたのだが,周りの同級生の何人かもこれと似たよう な状況だったようだ。「しかしその一年のあいだに,おそらく偶然でも他所で はお目にかかれなかったであろうような事柄を発見してしまった。」)ソシュ ) CFS ( ), p. . 「雄牛の両角を捉えた」というのは,難題に真正面から立ち向 かうことの譬え。 ) Ibid. ) Ibid. ) Op. cit., p. .
ールは,それがコレージュ一年目の前期か後期か,つまり 年後半か 年前半かの記憶は曖昧なのだが,このおよそありえないような「偶然」によっ て,のちに「鳴鼻音〔la nasale sonante〕」と判明するものを「発見」する。
ある授業でヘロドトスのテクストを読んでいるときに,τετάχαται )という 形態にふと目がとまった。マルティーヌ学院ではアッティカ方言に基づいたハ ースの文法書 )を使っていたため,τεταγμένοι εἰσί という表現のほうが普通だ と思っていたが,この形態を見た瞬間,「その一年間は復習ばかりで,当然な がらたいていはうわの空だった私の注意は,突如として異常な仕方で引かれ た。」)このときソシュールは「λεγόμεθα : λέγονται ゆえに τετάγμεθα : τετάχNται ゆえに N=α」と瞬時に思いつき,その推論を「今現在もなお」,すなわち「回 想録」を書いた 年の時点になっても,鮮明に記憶している。当時 歳の 少年ソシュールは「どうして n が α になりうるのか」について何度も考えた。 だがこのときは,二つの子音に挟まれる場合にこの現象が起こるという特徴は 見て取ったものの,この n が特別な鼻音であることに気づく由もなかった。 ソシュールは「まるで写真で撮ったように私の記憶のなかに留まっているこ の出来事」について,手稿のなかで自ら注を施している。)「今日」になって振 り返ってみると,「ギリシア語から鳴鼻音へと導きえた形態は,τετάχαται の他 にも無数にあるように見える」が,しかしそれは「誤り」である。πόδα, πόδας, ἑπτά, εἵαται などは一見したところ形態論的に不明瞭であり,n が α になると いう現象が「ギリシア語そのものによって」認識されるために必要な形態は, τετάγμεθα(一人称・複数形)との形態論的対応関係が一目でわかる「中動相・ 完了・三人称・複数形」の τετάχαται でなければならなかった。 手稿を見る限り,この注はあとから書き足されたものであるが,そこでソ シュールは少年時代に受けた「閃光〔l’éclair〕」を文字通りフラッシュ・バック ) τάκω「命じる」の直説法・中動相・完了・三人称・複数形。τετάγμεθα は一人称・複 数形。これと λέγω「言う」のそれぞれ対応する形態が比例式の関係に置かれている。 ) C. HAAS : Grammaire élémentaire de la langue grecque et spécialement de la prose attique ( eéd.), J. C. Müller-Darier, Genève, .
) Ibid.
している。そこには,「最初」,「突然」,「瞬間」などの語彙(« subitement », « au premier moment », « du premier coup », « instantanément »)が目立つ。ソシュール 自身「自分でもあまりよくわかっていないようだった」と告白しているように, この「閃光」は,数多くのデータを一つ一つ根気よく検証したうえで帰納的に 導かれたものではない。ソシュールは言語学史上最大級のものとなりえたかも しれない「発見」を,無邪気な思い出と,すぐ下で見るようなライプツィヒ時 代の苦い経験とともに書き留めているわけだが,いずれにせよこの「発見」が 「偶然」の産物であることを強調している。年齢が低すぎるという親の判断で コレージュに通ったことも,ギリシア語の授業で非アッティカ方言に接したこ とも,τετάχαται という形態に遭遇したことも,すべては「偶然」である。そ してソシュールはそれが「発見」だったことを,のちに偶然知ることになる。 年から 年まではジュネーヴ公共高等学校に通い,二年目,つまり 年頃にボップの文法書でサンスクリット語を学び始める。また同じ時期 にクルティウスの『ギリシア語源学要綱』)の第二版を読んでいるが,このと きすでにソシュールはボップとクルティウスのあいだに齟齬があることを認識 している。 まずソシュールは,ギリシア語の τατός )などいくつかの語を -n の語根と 結びつけるクルティウスの説を手がかりに,τετάχαται の α を鼻音によって説 明できるのではないかと漠然と予測した。次にボップの文法書によって,サン スクリット語には母音的なr ˚(二つの子音に挟まれるなどの条件に応じて母音 として現れる r)があることを知り,「私は瞬時に真理の展望を持った」)(ソ シュールは余白に「τετάχαται のそれよりもさらに大きかった」と付け加えて いる)。ソシュールはこのサンスクリット語の母音的流音からの類推で,bhar- : bhrtas
˚ )から tan- : tntas˚ (実際に現れる形態は tatas)を導いている。
) Grundzüge der Griechischen Etymologie( − ).
) τείνω「張る」(語根 TAN,サンスクリット語 tan- に相当)の動形容詞,男性・単数・ 主格形。
) Op. cit., p. .
しかしここで「真理の展望」の障害となったのはボップの「権威」だった。
「サンスクリット語のr
˚に注意すべきではなく,『φερτός は反論の余地なく
bhrtas
˚ の無益さを証明している』」)というボップの文章は「並外れた,いわれ
のない効果〔un effet prodigieux, injustifié〕」を及ぼした。この文章が書かれて いたのがボップの『サンスクリット文法』なのか『比較文法』なのか,ソシュ ールの記憶ははっきりしていないのだが,後者を手に入れた日付を「 年 月」)と記している。この日付はあとで重要な意味をもつことになる。ソシュ ールは,「鳴鼻音」を検証するにあたって,「私の憐れな『諸言語に関する試論』 を通じて権威には従わなければならないと理解して以来,萎縮していた」(強 調筆者))と述べている。ソシュールの言に従えば, 年 月の「試論」以 降,「二年間は言語学を忘れ」,にもかかわらず「試論」の半年後に「鳴鼻音」 を発見し, 年に『サンスクリット文法』によって,あるいは 年 月 に『比較文法』によって「鳴鼻音」の検証作業を試みたが,ボップの権威は絶 大だった,ということをここでは確認しておく。 .回想録(ジュネーヴ大学時代) 年から 年まではジュネーヴ大学に通うが,「家族の伝統」に従っ て化学や物理学の講義を取らざるを得ず,またもや一年を「無為に失った」。) この間ソシュールは,ジュネーヴで知り合いだったレオポルト・ファーヴル 〔Léopold FAVRE( − )〕の友人でサンスクリット学者のアベル・ベル ゲーニュ〔Abel BERGAIGNE( − )〕に手紙を書き,パリ言語学会への 入会を申請している(入会は 年 月 日に承認された)。このときソシュ ールは「接尾辞-t- について」〔«Sur le suffixe -t-»〕という論文をジュネーヴか らパリ言語学会に送っている。当時はまだ彼のなかでボップの権威が依然とし て強く,「私の唯一の師匠となっていたボップと い違うことを言っているの ) Op. cit., p. . ) 手稿と照らし合わせると,CFS ( )のほうは「 月」が抜けている。 ) Op. cit., p. . ) Op. cit., p. .
ではないかと,一行一行震えながら書いた」)という。ベルゲーニュにはその
後パリに滞在していた時期( − 年)に直接会っており,高等研究実習
学院〔École Pratique des Hautes Études〕で彼のサンスクリット語の講義にも出
席している。) ソシュールがジュネーヴ大学に通っていた当時,同大学はジュネーヴ・アカ デミーを改編するかたちで創設されたばかりであり( 年),印欧歴史比較 言語学を学ぶ機会としては,私講師をしていたルイ・モレル〔Louis MOREL〕 の講義くらいしかなかった。これはモレル自身が前年にライプツィヒで聴いた クルティウスのギリシア・ラテン文法に関する講義をそっくり焼き直したよう なものだったが,ソシュールにとっては「印刷された著作よりも生き生きとし たものが伝わった」。)しかしモレルへの言及は,知的好奇心を刺激されたとい うエピソード以上に重要な意味をもっており,ソシュール自身そのことを明記 している。「私が鳴鼻音を考えていたこと,私がそこに重要性を認めていたこ とに,モレルは第二の日付を与えてくれた。」)ソシュールは講義のあと,散 歩しながらモレルと「まさしくその問題」について,「クルティウスは何と言っ ているのですか」と訊ねたことをはっきりと記憶している。これが「第二の日 付」( − 年)だとすると,「第一の日付」は,ボップの『サンスクリッ ギ ム ナ ジ ウ ム ト文法』とクルティウスの『ギリシア語源学要綱』を読んだ公共高等学校の二 年目( − 年),あるいはボップの『比較文法』を手に入れた「 年 月」ということになる。 .回想録(ライプツィヒ時代)) 年 月,ソシュールは当時印欧比較言語学の中心地だったライプツィ ヒへ留学する。しかしこの選択に関しても,学問上の動機からではなく,「偶 ) Ibid. ) ベルゲーニュにはヴィクトル・アンリ〔Victor HENRY( − )〕との共著もある。 Manuel pour étudier le Sanscrit védique( ).
) CFS ( ), p. .
) Ibid. ソシュールはこの「第二の日付」に「非常に正確な」という形容詞をいったん 付け加えてから抹消線を引いている。
然による〔par hasard 〕」)ことを強調している。当時ライプツィヒにはリュシ アン・ゴーティエ〔Lucien GAUTIER( − )〕とアドルフ=ラウル・ゴ ーティエ〔Adolphe-Raoul GAUTIER( − )〕兄弟や,彼らの従弟エドモ ン・ゴーティエ〔Edmond GAUTIER( − )〕,エドゥアール・ファーヴル 〔Édouard FAVRE( − )〕といったジュネーヴの友人がおり,彼らはライ プツィヒ大学の神学部や法学部で学んでいた。ソシュールの両親は「 歳半」の 息子を留学させるにあたって,「同郷人が周囲にいるような外国の都市」を希望 したのである。リュシアン・ゴーティエはのちにジュネーヴ大学でソシュール の同僚として教鞭を執るが,ソシュールの第二回一般言語学講義( − 年)に出席して講義録を残したレオポルト・ゴーティエ〔Léopold GAUTIER ( − )〕は彼の息子である。エドゥアール・ファーヴルは歴史家として 活躍し,ソシュールが亡くなったときに追悼文を書いている。ソシュールがパ リ言語学会に入会する際に仲介役となったレオポルト・ファーヴルは彼の兄に あたる。) ソシュールはライプツィヒに到着してから大学のプログラムに目を通し,
ヒュプシュマン〔Johann Heinrich HÜBSCHMANN( − )〕による自由講
座のかたちでの古ペルシア語の講義に惹かれ,自己紹介するために,アウグス トゥス広場に程近いヒュプシュマン宅を訪れる。ライプツィヒで最初に知り 合ったこの快活なドイツ人講師の手厚いもてなしに,ソシュールは「はじめか ら嬉しかった」。)このときヒュプシュマンは「鳴鼻音に関するブルークマンの 論文を読んだかどうか」ソシュールに尋ねたが,ソシュールは「ブルークマン の名前すら知らなかった」。)カール・ブルークマン〔Karl BRUGMANN( − ) この節の一部の初出は次のとおり。金澤忠信,「ソシュールとドイツ人」,『LAC ワー クショップ論文集』第 号,日本学術振興会「人文・社会科学振興のためのプロジェク ト研究事業 V− 」,文学・芸術の社会的媒介機能の研究(LAC), 年, − 頁。 ) Ibid .
) Cf. Saussure, l’Herne, Paris, , p. .
) CFS ( ), p. . ソシュールはまず「たいそう喜んだ〔singulièrement ravi〕」と 書いて抹消線を引いた。
)〕の当該の論文は 年の夏休みの間に出版され,大きな反響を呼んで いた。しかし「三年半前から」,つまり 年の春頃から「初歩的な真理の類 だと思っていたことを,ドイツ人学者との最初の会見で,彼があたかも学問上 の征服のように示したので,私はほとんど自分の耳が信じられなかった」。)ソ シュールはヒュプシュマンに「それはたいして驚異的であるとか新しいように は見えません」と恐る恐る答えている。ヒュプシュマンはゲルマン語にも鳴鼻 音に相当する要素があること,ゲルマン語学者たちがそれを重要視しているこ となどを教えてくれたが,ソシュールはこのとき,ゴート語も含め,ゲルマン 語をまったく知らなかった。彼はヒュプシュマン宅を出るとすぐに『シュトュ ーディーエン』〔Studien〕誌を購入し,新機軸を提起しているというブルーク マンの論文を読んだ。 歳のときのこの逸話について, 歳のソシュールはまず次のように書い た。「このとき以来,私の周りで重視されている考えに比べて私の考えはけっ して悪くないと突如として気づき,印欧諸言語の予備知識がなくても,ひとつ ひとつの言語を見極めながら分析的視点のもとでそれらを研究しようという気 が湧いた。」)ここには,鳴鼻音発見の発表で先を越された失望というよりも, 権威の前に萎縮していた態度から脱却する契機が描写されているが,ソシュー ルはこの文章に抹消線を引き,「思っていたことに反して,私はそれを読んで も大して驚かなかった。このとき[ ]を正確に測ることができなかった。」 と書き直している。書き直しはこのあとの苦い経験によるものだろうが,事の 重大さ,最初に大発見をしながら無知ゆえに発表しなかったことの帰結を,名 づけえぬまま,空白として残している。 ライプツィヒ大学にはあまり足繁く通わなかったようである。それは「フラ ンス語圏の外国人という資格に鑑みれば至極当然」)で, 歳の留学生はライ プツィヒのドイツ人研究者たちの輪のなかに入り込むことができず,ジュネー ヴ出身者からなる比較的小さなコミュニティのなかに閉じこもることが多かっ ) Ibid. ) Ibid. ) Op. cit., p. .
た。それでもレスキーン〔August LESKIEN( − )〕のスラヴ語とリト アニア語,ヒュプシュマンの古ペルシア語,ヴィンディシュ〔Ernst WINDISCH ( − )〕)のケルト語の講義には出席した。のちに論敵となるオストホ フ〔Hermann OSTHOFF( − ))のサンスクリット語は初級の講義に二 回出ただけで,ゴート語,ゲルマン語文法にはほとんど出ていない。ブラウネ 〔Wilhelm BRAUNE( − )〕のドイツ語史には聴講生として出席した。 比較文法関係では,クルティウスの講義に定期的に出席し,二度発表も行って いる。オストホフの講義には 年に最初の数回顔を出した程度だった(オ ストホフは 年にライプツィヒを離れている)。ブルークマンの講義には 年にやはり最初の数回出ただけだった。ソシュールはブルークマンにた いして個人的には好感を抱いていたと仄めかしているが,「回想録」を書いて いるうちに,これを書く真の動機に突如気づく。「この文章は部分的には,私 がブルークマン氏から何も剽窃していないことを立証するために書かれている のだと,私はふと気づいた」。)そしてソシュールはブルークマンとの個人的な 友好関係については語らずに,あくまで「学問的な関係」について語る。 ソシュールは 年にクルティウスの演習授業で a ˆ と ā の母音交替に関す る発表をした。ブルークマンはその場に居合わせなかったが,翌日「大学の第 二校庭(大校庭)」でソシュールを見つけ,「stātor : status や māter : paˆ ter のˆ
ような交替の例が実際まださらにあるかどうか」)を尋ねた。ソシュールはブ ルークマンが質問をしてきた状況をはっきりと憶えていて,彼の言葉をそのま まドイツ語で書き記している。このエピソードを「今日」,すなわち 年に 語るとき,もしそれが「作り話」に聞こえるならば,それは「今の世代」が, 年におけるいくつかの問題の研究の進展状況や,具体的に誰がどのよう な貢献をしたのかについて分からないからだとソシュールは言う。たとえばグ スタフ・マイヤー〔Gustav MEYER( − )〕はソシュールの名前を出さ ) ちなみにヴィンディシュはニーチェ〔Friedrich NIETZSCHE( − )〕と交友があっ た。 年にニーチェがライプツィヒを訪れた際,他の友人らとともに会っている。 ) Op. cit., pp. − . ) Op. cit., p. .
ずに a ˆ : ā : ō ; a ˆ : ē : ō ; a ˆ : ō : ōの母音交替をまる写ししているが,)そのこ とについて誰も指摘してこなかった。ブルークマン自身も母音交替についてあ まりよく理解しておらず,『覚え書』から一部借用しているとソシュールは考 えている。 年にヘルマン・ヒルト〔Hermann HIRT( − )〕が『印
欧語の母音交替論』〔Der indogermanische Ablaut〕で『覚え書』を評価してい る が,ソ シ ュ ー ル 自 身 は ア ン ト ワ ー ヌ・メ イ エ〔Antoine MEILLET( − )〕宛ての手紙のなかで「ヒルトと彼の『母音交替』はあなたの言うよう にとりわけ批判的能力の面で欠陥があるように思われます。一般に,母音交替 についての書物は,せせこましいドイツ人たちよりはましなやり方で理解され るべきでしょう。」)と述べている。 ソシュールは 年にブルークマンの講義に出席するのを中断した理由を 説明するために,「上に挿入すべき」と記してさらに 頁の紙面を費やしてい る。そこで問題になっているのはやはり鳴鼻音の「発見」についてなのだが, ソシュールはこの問題にたいするやるせない思いをなかなか断ち切れない。ま ずソシュールは「なぜ私は,どちらが先かという問題ですらない,この奇妙な 問題〔cette singulière question〕を持ち出したのか?」)と自問する。ソシュー
ルは「奇妙な偶然によって〔par un singulier hasard〕」,) 年秋に,鳴鼻音に
関するブルークマンの論文が出版されてからわずか数週間後,それについては 何も知らずにライプツィヒにやって来た。このときすでに鳴鼻音発見の優先権
) Gustav MEYER : Griechische Grammatik, Leipzig, . た だ し 長 ソ ナ ン ト に 関 し て は,ルイ・アヴェ〔Louis HAVET( − )〕,ヘルマン・ムラー〔Hermann MÖLLER ( − )〕,ヨハネス・シュミット〔Johannes SCHMIDT( − )〕とともにマイ ヤーが長ソナントの理論を Jenaer Literaturzeitung( 年 月 日)で是認している ことにたいして,当初ソシュールは歓迎していたようである。ソシュールは彼らを引き 合いに出し,オストホフが Morphologische Untersuchungen のなかで,長ソナントの理論 からいくつかの重要な点を借用しながらこの理論を却下している点を批判している。Cf. Mémoire, p. sqq. ; Archives de Saussure, / , ff. − . ※« Archives de Saussure » は
ソシュール家からジュネーヴ図書館に委託された資料を表す。« f. »は紙片の番号(複数 枚の場合は « ff. »)。以下同様。
) CFS ( ), p. . ) CFS ( ), pp. − .