ベートーヴェンと宗教 121 Dankgesang eines Genesenen an die Gottheit op. 132 Der Sieg des Kreuzes Ave verum Requiem

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ベートーヴェンと宗教

 

 

 

  個人の宗教性あるいは非宗教性は、私的な事柄であり、他人 が関わることではないと今日では考えられている。このことに、 私 は ま る で 異 論 は な い。 そ れ で も な お、 本 日、 ﹁ ベ ー ト ー ヴ ェ ン と 宗 教 ﹂ と い う テ ー マ に 取 り 組 も う と す る の に は 次 の 二 つ の 理由がある。 一.歴史家というものは、また私のような音楽学者もその ひとりだが、歴史的な人物の私生活をあれこれとかぎま わる、一種の覗き魔である。 二.ベートーヴェンにとって宗教は、彼の本質すべて、そ してそのまま彼の音楽を貫く最も重要な事柄であった。   幸いにも、我々はベートーヴェンのまったく個人レベルの宗 教的な生活や感情に関する情報を提供する、非常に詳細で特に オーセンティックな資料を多数見ることができる。現存する多 数の私的な書類、すなわち手紙や会話帳、日記帳は、二百年後 の今もなお、彼の考えや感覚を示し、それによって我々は彼の 宗教的な姿勢を良く知ることができるのである。   一見したところ、ベートーヴェンの純粋な宗教作品はそれほ ど数が多いようには見えない。ミサ曲が二つ、宗教オラトリオ が一つ、それにカノンが一つ、宗教的な歌詞を伴ういくつかの 合 唱 曲 や、 い わ ゆ る ︽ ゲ レ ル ト 歌 曲 集 Geller t-Lieder ︾ な ど の 複 数の歌曲がある。それでも、さらに少なからぬ宗教作品、とり わけ二つのオラトリオが構想されていた。しかし、これらはス ケッチ止まり、もしくはまったく具体的に着手されずに終わっ

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ベートーヴェンと宗教 て い る。 だ が 合 唱 の 終 楽 章 を 持 つ ︽ 交 響 曲 第 九 番 ︾ に 代 表 さ れ る よ う に、 宗 教 性 の 強 い 作 品 は さ ら に 多 く 存 在 す る。 ﹁ 病 の 癒 えた者の神への感謝の歌

Dankgesang eines Genesenen an

die Gottheit ﹂ を 含 む ︽ 弦 楽 四 重 奏 曲 イ 短 調 ︾ op. 132 の よ う に 、 明 らかに宗教的関連を持つ純粋な器楽作品もいくつかある。ベー ト ー ヴ ェ ン の 音 楽 に は 一 貫 し て 宗 教 性 が あ る と 言 っ て も よ い。 彼は、常に宗教的なものを探究し続けた。例えば、一八一八年 にウィーン楽友協会より ﹃十字軍の勝利

Der Sieg des Kreuzes

﹄ というタイトルのオラトリオの作曲を依頼されている。この作 品は、もっぱら歴史英雄的な内容のみによるものである。しか し、ベートーヴェンは依頼者への手紙の中で、この主題におけ る宗教性は固く尊重されるべきであると強調している。そして、 同協会の音楽家で会計係でもあったヴィンツェンツ・ハウシュ カへの手紙には、次のように書いている。 私は宗教的な主題以外は持ち得ない。しかし、あなたがた が 英 雄 的 な も の を 望 ん で い る こ と は、 私 も 承 知 し て い る。 ただ私は宗教的なものも混ぜ込むのが、より適切なのでは ないかと思う。フォン ・ ベルナルト氏が[台本作家として] ふさわしいと思うが彼にも支払って欲しい。   ベルナルトが台本を完成することができたのは、五年後にな ってのことだった。ベートーヴェンはその本に全く不満であり、 この件はお蔵入りとなった。   ベートーヴェンは、他の多くのジャンルと同様に、宗教音楽 の 領 域 に お い て も 非 常 に 明 確 に 先 人 た ち と の 差 別 化 を 図 っ た。 彼らは、宮廷音楽家としての職業的な立場から、多くの典礼用 作品を残している。ハイドンは十四曲のミサ曲、モーツァルト は十八曲のミサ曲とさらに多くの礼拝用作品、キリエ楽章、リ タニア、モテットなどを残している。モーツァルトは、ザルツ ブルクでの職務を離れたあと、ある特定の理由で未完となった ︽ ミ サ 曲 ハ 短 調 ︾、 そ れ に 機 会 音 楽 で あ る ︽ ア ヴ ェ ・ ヴ ェ ル ム A ve v er um ︾、 そ し て、 も ち ろ ん 晩 年 に は 依 頼 さ れ て の も の で あ る が ︽ レ ク イ エ ム R equiem ︾ を 作 曲 し た。 ま た、 フ リ ー メ ー ソンのための一連の作品も、当然、宗教作品と見なされる。ち なみに、フリーメーソンの思想がどの程度までベートーヴェン に影響を及ぼしていたのかについても、我々は後ほど触れるこ とにしよう。   ベートーヴェンの全作品においては、ただ二つのミサ曲があ り、典礼用作品は一曲もない。この二つのミサ曲について、ベ ートーヴェンが実際にどの程度まで礼拝のための典礼音楽であ ると考えていたかという点についても、後ほどさらに深く考察 する。

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  まず、四つの最も重要な宗教作品について簡潔に言及しよう。 と い う の は、 ﹁ ベ ー ト ー ヴ ェ ン と 宗 教 ﹂ と い う 漠 然 と し て い る と同時に多様であるテーマにおいては、まずできる限り確証的 な事実、すなわち彼の作品を対比させることが適切な方法だか らである。 一.ゲレルト歌曲集   この歌曲集が成立したのは一八〇二年の初頭である。この中 で 最 も 有 名 な 作 品 は、 ﹁ 天 は 永 遠 の 栄 誉 を 讃 え る Die Himmel

rühmen des Ewigen Ehre

﹂ で、 こ れ は 様 々 な 編 曲 で 聴 く こ と ができる ︵伴奏付きや無伴奏、混声合唱や男声合唱など︶ 。     こ れ ら の 詩 は、 一 七 五 七 年 に 出 版 さ れ た ﹃ 宗 教 的 な オ ー ド と リ ー ト

Geistliche Oden und Lieder

﹄ と い う タ イ ト ル の 詩 集 の 中にある。つまり当時、生まれてからすでに約五十年が経過し ていたわけであるが、こうした詩にベートーヴェンに作曲しよ うという気にさせたものは、いったい何だったのだろうか。確 かに出版後、再版が何度となく行われたが、現実には時代遅れ の 詩 で あ り、 当 時、 一 般 的 に い わ ば ﹁ 歴 史 的 な ﹂ テ キ ス ト に 作 曲することはあまりなかった。むしろ作曲家たちは、ちょうど その時に出版された最新の詩集からテキストを選ぶのが常だっ た。そのような状況を考えると、ベートーヴェンがゲレルトの 詩集にとても感銘を受けたということが推測される。当時、彼 は特別な精神状態にあり、我々は彼が独特なやり方で自らを宗 教へと導いたことに、いくどとなく気づかされるだろう。   一 八 〇 一 年 の 六、 七 月、 ベ ー ト ー ヴ ェ ン は 親 し い 友 人 で あ る フランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラーとカール・アメンダに送 った手紙の中で、初めて聴覚を失い始めていることについて述 べている。   アメンダへの手紙の中で、彼は次のように神への不満を表し ている。 私は、君が側にいてくれたらと、どれだけ思うことだろう。 というのも、君のベートーヴェンは自然や創造主と争って、 とてもみじめな状況にあるのだ。彼がその創造物を小さな 偶然のさらし者にし、花の盛りを台無しにしたと何度もの のしっている。聞いてくれ、聴覚という何ものにも代え難 い部分が非常に衰えているのだ。君が側にいた頃から、す でに私はそれを感じながら黙っていたが、今ではますます ひどくなってきた。回復するかどうかは、ただ待ち続ける しかないのだ。   アメンダは神学者であった。ベートーヴェンが彼に対してこ のように率直に書いていることには、とても驚かされる。ヴェ

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ベートーヴェンと宗教 ーゲラーへの手紙の中でも、ベートーヴェンは同様に述べてい るが、これについては最後に再度取り上げ、そこで引用するこ とにする。   このベートーヴェンの危機は、一八〇二年十月六日、十日付 け で 二 人 の 弟 た ち に 宛 て た、 有 名 な ﹁ ハ イ リ ゲ ン シ ュ タ ッ ト の 遺 書 ﹂ で、 ほ ぼ 終 わ り を 告 げ る。 送 ら れ る こ と の な か っ た こ の 手紙は、次のように締めくくられている。 では、私は君に別れを告げる、それも悲しみながら。そう、 君へ。これまで期待していた、せめてある程度までは回復 するだろうという切なる希望から、私はまったく見放され てしまったのだよ。さながら秋の葉が地上へ落ち、生気を 失うように、私の希望も枯れ果ててしまったのだ。私はこ こ に 来 た 時 と ほ と ん ど 同 じ 状 態 で、 こ こ を 立 ち 去 る の だ。 美しい夏の日に、しばしば私を元気づけた大いなる勇気さ えも消え去ったのだ。ああ、神の心よ、私にもう一度、清 らかなる 喜び 4 4 の一日を与えたまえ。もう随分長いこと、心 からの共感という真の喜びから遠ざかっている。ああ、い つ、いつなのか、神よ。私が自然と人の殿堂でその歓喜を 再 び 感 じ る こ と が で き る の は。 あ り え な い の か。 ま さ か、 ああ、それではあまりに辛すぎる。   こ う し た ベ ー ト ー ヴ ェ ン の 危 機 が、 ゲ レ ル ト 歌 曲 集 に お け る 歌 詞 の 選 択 に 関 連 し て い る と い う 証 拠 は な い。 し か し、 ハ イ リ ゲ ン シ ュ タ ッ ト の 遺 書 に ゲ レ ル ト の 詩 と 多 少 な り と も 言 葉 が 一 致 す る 箇 所 が、 多 数、 存 在 す る こ と も 注 目 す べ き 点 で あ る。 ゲ レ ル ト の ﹃ 宗 教 的 な オ ー ド と リ ー ト Geistliche Oden und Lieder ﹄ は、 五 十 四 の 詩 を 含 ん で い る。 ベ ー ト ー ヴ ェ ン は そこからわずか六節を選び出した。そのうちの四つは、人間に 対する倫理的な要求を明確に提示している。これはいかにもベ ートーヴェンらしいものである。なぜなら、宗教も常に倫理的 な背景を持ち、そして信仰は人道主義的︱倫理的な前提へと導 くからである。これも、また後に取り上げる。同様に、前出の 歌 曲 第 四 番 の 有 名 な ︽ 自 然 に お け る 神 の 栄 光

Die Ehre Gottes

aus der Natur

︾ に お け る ﹁ 天 は 永 遠 の 栄 光 を 讃 え Die Himmel

rühmen des Ewigen Ehre

﹂ は、 い か に も ベ ー ト ー ヴ ェ ン 的 で あ る と 同 時 に、 ﹁ 有 情 の 自 然 ﹂ と い う 彼 ら し い 宗 教 的 な イ メ ー ジにふさわしい。ベートーヴェンの自然愛はよく知られている。 し か し、 こ れ は 花 々、 草、 森 を 楽 し み た い と い う ﹁ 自 然 志 向 ﹂ ではなく、それ以上のものであった。一八一二年から一八一八 年までの間に書かれた日記帳に、ベートーヴェンは重要視して いた自然哲学の論文の中から多くの箇所を抜き出し、自然に対 する彼の考え方を示した。   例 え ば、 一 七 五 五 年 の カ ン ト の 著 書 ﹃ 天 界 の 一 般 自 然 史 と 理

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Allgemeiner Natur

geschichte und

Theorie des Himmels

﹄ か らは、次の通りである。 もし宇宙の構造や稲光の美において摂理があるのなら、神 は存在する。しかし一方で、この摂理が普遍的な自然法則 から流れ出ることが可能であったならば、自然そのものは 最高の英知の当然の成果であるということも、少なからず 成り立つのである。   もちろん、ベートーヴェンは自分の音楽にしか関心を示さな いような、いわゆる専門馬鹿だったわけではない。それどころ か、ボンでは四年制小学校さえも修了しなかったにも関わらず、 素晴らしい教養を身につけ多くの哲学書を読んだ。こうした事 実 に、 我 々 の 多 く は ︵ 私 は 当 然 そ の 中 に 入 る が ︶ ひ る ま ざ る を 得ない。     ベ ー ト ー ヴ ェ ン の ︽ ゲ レ ル ト 歌 曲 集 ︾ は、 そ の コ ラ ー ル 的 な 構造において、彼自身の他の歌曲や、同時代のものと明らかに 区別され、部分的にはまるで教会コラールのような印象を与え る。 同 時 に、 私 は ベ ー ト ー ヴ ェ ン が こ の 歌 曲 集 を 礼 拝 用 に 想 定 し て い た と は 考 え て い な い。 今 日 で は、 時 お り ﹁ 天 は 讃 え る Die Himmel r ühmen ﹂ の合唱版が礼拝の中で用いられるが、し かしベートーヴェンはむしろこの歌曲集を歌うことが、礼拝の 個人的ないし家庭レベルでの代用となり、教会に行く 代 4 わり 4 4 と なると想定していたのである。忘れてはならないのは、私たち がまだ啓蒙主義を直接的に受け継ぐ時代に生きており、宗教と 教会は今日に至るまで分離の中にあるということである。 二.オラトリオ   オリーブ山上のキリスト   一 八 〇 三 年 八 月 に ︽ ゲ レ ル ト 歌 曲 集 ︾ が 出 版 さ れ る 前 に、 ベ ートーヴェンは壮大で宗教的、しかし典礼音楽ではないもうひ と つ の 作 品 で あ る オ ラ ト リ オ ︽ オ リ ー ブ 山 上 の キ リ ス ト ︾ を 作 曲 し た。 当 時、 危 機 的 状 況 に 置 か れ て い た ベ ー ト ー ヴ ェ ン は、 宗教的なジャンルに忠実に留まっている。初演は、一八〇三年 四月五日にウィーンで行われた。   ベ ー ト ー ヴ ェ ン は、 こ の ︽ オ リ ー ブ 山 上 の キ リ ス ト ︾ に ま っ たく満足していなかった。彼は、このオラトリオをのちに一度、 改変したため、完成して出版されたのは八年半後の一八一一年 十月になってのことだった。彼の存命中、この作品からのいく つかの曲が演奏会で上演されることはあった。特に当時のフラ ン ス 語 圏 で は、 ﹁ オ リ ー ブ 山 の 音 楽 ﹂ の 伝 統 が あ っ た た め に か なり頻繁に演奏されたが、今日ではほとんど聴かれることはな い。

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ベートーヴェンと宗教 出 版 が 遅 れ た た め、 こ の オ ラ ト リ オ に は op. 85 と い う ︽ ミ サ 曲 op. 86 ハ 長 調 ︾ に 直 近 の 作 品 番 号 を 与 え ら れ た 。 し か し 実 の ところ、両者の成立は直近ではなかった。それでは、ベートー ヴ ェ ン の 二 つ の 壮 大 な 典 礼 音 楽、 す な わ ち ︽ ミ サ 曲 ハ 長 調 ︾ と ︽ミサ・ソレムニス︾ に移ることにしよう。 三.ミサ曲 op.   86  ハ長調   こ こ で は ︽ ミ サ 曲 ハ 長 調 ︾ に つ い て、 そ の 特 殊 な 成 立 事 情 や 初演について簡潔に取り上げよう。このミサ曲は、ベートーヴ ェンがハイドンのかつての雇い主であるニコラウス・エステル ハージ侯から一八〇七年の春に注文を受けて生まれたものであ る。そして、エステルハージ侯の妻の聖名祝日である九月十二 日より後の日曜日に上演された。ベートーヴェンの作曲はいつ も な が ら 遅 れ た た め 初 演 の リ ハ ー サ ル は 不 十 分 な も の と な り、 さらにハイドンのミサ曲風のものを嗜好していたエステルハー ジ侯はまったく気に入らなかった。   ツィエリンスカ伯爵夫人に宛てた手紙の中で、エステルハー ジ侯は不満を爆発させている。 このミサ曲は、耐え難く滑稽でひどいものである。演奏が そもそもまともに上演されたかもよくわからない。だから、 私はひどく怒っているし、屈辱を覚えている。   これと反対にベートーヴェンは、自分にとって初めてのミサ 曲に完全に高い評価を下していた。そして、たとえそれが特定 の交響曲演奏会での抜粋のみであっても、この作品が上演され るようにいつも気にかけていた。   一八〇八年六月八日に、ベートーヴェンはライプツィヒのブ ライトコプフ・ウント・ヘルテル社にこの作品の出版を提案し ており、そこには次のように書かれている。 ご承知のとおり、ミサ曲について自分自身で言及すること は好みませんが、それにしても私はこの作品においてテキ ストを今までにほとんどなかったような方法で扱っている と思っています。アイゼンシュタットでは、例えばエステ ルハージ侯爵夫人の洗礼名の日でのエステルハージ侯も含 めて、数々の場所で多くの賞賛を受けました。この総譜と そのピアノ編曲は、あなた方に必ずや採算をもたらすこと を、私は確信しています。   こ の ﹁ 多 く の 賞 賛 ﹂ と い う 表 現 が、 あ ま り 的 確 で な い こ と を 我々は知っている。しかし、このベートーヴェンのミサ曲にお けるテキストの取り扱い方が、実際に新しい方法であることは

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事実である。どういった点に関してか。一般的に、カトリック の教会音楽はラテン語と固く結びついている。ハイドンやモー ツァルトのミサ曲でも、ケルビーニやヴェルディのレクイエム でも、ペルゴレーシやロッシーニ、ドヴォルザークのスターバ ト・ マ ー テ ル で も、 す べ て ラ テ ン 語 で 書 か れ て い る。 し か し、 実際の典礼では、はるか昔からカトリックの教会でもドイツ語 は取り入れられていた。その始まりは、オーストリア皇帝ヨー ゼ フ 二 世 に よ る も の で あ る。 彼 は 一 七 九 〇 年 に 他 界 し て お り、 すなわち当時すでに一八年が経っていたが、しかし教会改革と 密接に結びついている啓蒙主義の精神に、彼のすべてはなおも 影響を及ぼしていた。それは、至る所でドイツ語による宗教音 楽 の 普 及 に 貢 献 し て い た。 い わ ゆ る ﹁ ド イ ツ 語 ミ サ 歌 曲 ﹂ は 主 要演目となり、ドイツ語テキストを含む多数の聖歌集が出版さ れた。これに関しては、例えばシューベルトの ︽ドイツミサ曲︾ 、 さ ら に は ベ ー ト ー ヴ ェ ン の ︽ ゲ レ ル ト 歌 曲 集 ︾ も ま た 思 い 浮 か ぶことだろう。確かに、そのコラール的な旋律形成は、こうし た聖歌集の影響を受けているということがわかる。当然、この 新たなるドイツ語聖歌の主目的は、会衆に礼拝への理解を促す ことである。言葉がより重要となったのである。   そして、これこそがまさにベートーヴェンの新たな試みであ ったのだ。ラテン語で書かれている場合でも、彼の音楽におい て は、 ミ サ 曲 の テ キ ス ト の 言 葉 は そ れ ぞ れ 正 し く 解 釈 さ れ た。 もはや音楽は絶対的な優位性は持たず、正確な言葉の解釈に奉 仕することになった。まさに ︽ミサ曲 ハ 長 調 ︾ の キ リ エ の 冒 頭 部は、教会音楽における簡潔さへの新たな挑戦を顧慮している。   ベートーヴェンが、ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社に このミサ曲をラテン語のみならずドイツ語の歌詞と共に出版す ることを独自に提案したことは、時代精神にふさわしい。ドイ ツ語のテキストによってプロテスタントの購買層も惹きつけら れるということで、彼は躊躇する出版社にこの作品を受け入れ る気にさせることを考えたのかもしれないが、真実はわからな い。 い ず れ に せ よ、 出版社は理解を示し、 ドイツ語テキストを 入 れ て 製 作 さ せ た。 ミサ曲の六つの部分 ︵ キ リ エ、 グ ロ ー リ ア、クレド、サンク トゥス、ベネディク ト ゥ ス、 ア ニ ュ ス・ デ イ ︶ は 三 つ の い わ ゆる聖歌にまとめら れ、典礼的な関連を まったく解消した。 ミサ曲ハ長調 初版タイトルページ (Beethoven-Haus Bonn 所蔵)

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ベートーヴェンと宗教   ベートーヴェンが、このテキストを目にしたのは随分と遅い 時点で、すでに彫版が完成した後のことだった。これに関する 彼の反応は興味深い。このテキストは、ほぼ一種の小さな信条 を 表 現 し て い る も の で、 同 時 に 美 学 的 な プ ラ ン を 含 ん で い る。 まず簡単に説明すると、ラテン語ミサのキリエはじつはギリシ ャ 語 で、 ﹁ K yrie eleison, Christe eleison, K yrie eleison ﹂︵ 主 よ 憐 れ み た ま え、 キ リ ス ト よ 憐 れ み た ま え、 主 よ 憐 れ み た ま え ︶ と、慈悲を求める祈りをそのつど三回繰り返している。これに 対して、非常に長いグローリアのテキストは、全体として神の 賛美である。   ベートーヴェンは次のように書いている。 翻 訳 は、 グ ロ ー リ ア で は 非 常 に 適 切 で あ る よ う に 思 う が、 キ リ エ の 方 は そ う で も な い。 冒 頭 の﹁ 我 々 は ち り の 奥 深 く に あ り て 崇 拝 す る

tief im Staub anbeten wir

﹂ は 適 切 だ が、 他 の 様 々 な 表 現、 例 え ば﹁ 不 滅 た る 世 界 の 支 配 者 ewger W eltenher rscher ﹂、﹁ 全 能 Allge w altige ﹂ な ど は、 よ りグローリアの方に合うように思われる。全般的な性質と し て は、 ⋮⋮ キ リ エ に は、 心 か ら の 帰 依、 そ し て 宗 教 的 な 感 情 の ひ た む き さ が あ る。 と は い え、 ﹁ 神 よ、 我 ら を 憐 れ み た ま え Gott erbar me dich unser ﹂ に は 痛 ま し さ が な く、 全 体 の 根 底 に は 穏 や か さ が あ る。 こ こ で の﹁ 全 能 者 Allge w altiger ﹂ と い う 表 現 は、 全 体 の 意 味 に 合 っ て い る と は 思 え な い。 ﹁ 我 々 を 憐 れ み た ま え eleison erbar me dich unser ﹂ と あ り つ つ も、 全 体 は 晴 れ や か な の で あ る。 ⋮⋮ このキリエ・エレイソンは、いうなればこのミサ曲全体の 前奏部である。これほど強い表現をしてしまうと、本当に 力強くなければならないところに余地がなくなってしまう。   つ ま り ベ ー ト ー ヴ ェ ン は、 ド イ ツ 語 の テ キ ス ト に よ っ て も、 典礼的な関連を考えていた。しかし、もう一方で彼はドイツ語 化 さ れ た 聖 歌 を あ ら ゆ る 演 奏 会 プ ロ グ ラ ム に 何 度 も 取 り 入 れ、 そうすることによって、彼にとってこの作品は、どんな典礼的 な文脈もなしに成り立ちうることを明らかにした。この作品は、 現在でもなおかなり頻繁に典礼の中で演奏されるものの、この ことによって典礼的な一義性は失われた。 四.ミサ・ソレムニス   このもうひとつの大規模な典礼作品は、もともと典礼音楽と して生まれたものである。というのも、この作品は、一八二〇 年三月九日に行われたベートーヴェンの重要なパトロンである ルドルフ大公のオルミュッツ大司教叙任に際して祝祭ミサ曲と して計画されたのである。しかし、完成するまでに二年を要す る壮大な作品となった。この初演が、サンクトペテルブルクの

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旧 フ ィ ル ハ ー モ ニ ー・ ホ ー ル で 行 わ れ、 そ の プ ロ グ ラ ム に ﹁ オ ラ ト リ オ Or atorium ﹂ と 書 か れ た こ と に は 理 由 が あ る。 ベ ー ト ー ヴ ェ ン 自 身 も こ の ﹁ オ ラ ト リ オ Or atorium ﹂ と い う 言 葉 を 利 用しており、ゲーテやツェルターへの手紙の中で、このミサ曲 も ﹁ オ ラ ト リ オ と 同 様 に 上 演 ﹂ さ れ る と 書 い て い る。 ウ ィ ー ン では、まず個別に楽章が演奏された。つまり、一八二四年五月 七 日 に ケ ル ン ト ナ ー ト ー ア 劇 場 に お い て ︽ 交 響 曲 第 九 番 ︾ の 初 演が行われた演奏会では、キリエ、グローリア、アニュス・デ イ が 演 奏 さ れ た の だ が、 こ れ ら は プ ロ グ ラ ム に ﹁ 三 つ の 聖 歌 ﹂ と記された。これは、世俗的な場所におけるミサ曲の演目が禁 じられていたことによる、検閲上の理由からかもしれない。   ここに述べられたルドルフ大公の叙任という外的要因を、過 大評価するべきではないだろう。ベートーヴェンは、特に芸術 的な領域において自分の芸術を広範に発展させることを非常に 意識して進む作曲家だった。彼のパトロンが大司教に選ばれた という理由だけで、ミサ曲を一曲作曲したりはしなかった。特 にグローリアとクレドの扱いにくい典礼テキストを音楽的な形 態へと仕上げることに彼は心惹かれ、もう一度、壮大な宗教作 品を作曲したいと考えたのである。それどころか、さらに二つ のミサ曲も計画したのだった。   ある日記帳に、彼はこの作曲作業の始まりについて記録して いる。 真の教会音楽を作曲するために、修道士のすべての教会聖 歌などに目を通した。これは、そもそもあらゆるカトリッ ク詩篇や聖歌における、最も正確に翻訳され、完璧な章句 を見つけ出すためでもある。   これは、彼が宗教的なテキストの厳密な解釈と聴く者へのメ ッセージにとても心を砕いていたことを示している。キリエと サ ン ク ト ゥ ス に ﹁ 敬 虔 に Mit Andacht ﹂ と 付 け 加 え ら れ て い る のには意味がある。     一 八 二 四 年 九 月 十 六 日 に、 友 人 で あ る ピ ア ノ 製 作 者 の ヨ ハ ン・アンドレアス・シュトライヒャーに宛てた手紙の中で、ベ ートーヴェンは次のように書いている。 親愛なる友よ、私の最新の長大なミサ曲における声楽パー ト譜をオルガンかピアノ編曲と共にいくつかの合唱協会に 譲るというあなたの希望を、私は主として次の理由で喜ん で受け入れます。こうした協会は、公的な、特に礼拝の儀 礼において、非常に多くの人々に影響を与えることが可能 だ か ら で す。 歌 手 た ち や 聴 衆 に 宗 教 的 な 感 情 を 喚 起 さ せ、 持続させることは、この壮大なミサ曲を作曲するにあたっ

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ベートーヴェンと宗教 て私にとって最大の関心事であったからです。   このように、ベートーヴェンはミサ曲の作曲によって、聴衆 を宗教的な気持ちにさせ、ミサの場で感じるような心の状態に 置くことを、非常に意識していたのである。   ︽ ミ サ・ ソ レ ム ニ ス ︾ で は、 最 大 規 模 の 様 式 的 統 一 が 行 わ れ ているが、全体としてはある意味、カトリックの教会音楽の提 要 で あ る と い え る。 ベ ー ト ー ヴ ェ ン が、 例 え ば ︽ 第 九 番 ︾ で は なく、他ならぬこの作品を明らかに最も重要で、最も卓越した、 最も壮大な作品であると見なしていたことがよく理解できる。 ベートーヴェンは、一八二二年七月六日に以前の生徒であるフ ェルディナント・リースに書いた手紙において、次のように告 白している。 私の最も重要な作品は、つい先ごろ書いたミサ曲である。   ベートーヴェンは、このような評価を友人、同業者、出版者 宛ての多数の手紙の中でも繰り返している。   こうしたことから、もう少しこの作品の詳細に踏み込み、キ リ エ の 冒 頭 部、 ク レ ド の ﹁ そ し て 肉 と な る Et incar natus ﹂、 ベ ネ デ ィ ク ト ゥ ス の 冒 頭 部、 そ し て ア ニ ュ ス・ デ イ の 二 箇 所 と、 以上の四つの部分について取り上げたい。   ま ず モ ー ツ ァ ル ト の ︽ 魔 笛 ︾ の 序 曲 の 冒 頭 部、 そ し て そ の 後 に ︽ ミ サ・ ソ レ ム ニ ス ︾ の キ リ エ 冒 頭 部 を 聴 い て も ら い た い。 この二作品の類似性を聴き逃すことはできないだろう。ベート ー ヴ ェ ン は、 ︽ 魔 笛 ︾ を 非 常 に 高 く 評 価 し て お り、 当 時 の 聴 衆 も当然、この作品を熟知していた。モーツァルトの死後まもな く、 こ の 作 品 は ヒ ッ ト し た。 そ し て、 ベ ー ト ー ヴ ェ ン に と っ て、モーツァルトのオペラを想起させて、聴衆に冒頭から荘重 なザラストロの雰囲気を感じさせることは明らかに重要だった。 自 筆 譜 で は、 こ の 楽 章 に ﹁ 心 よ り、 心 へ と 至 ら ん こ と を V on

Herzen – Möge es wieder – zu Herzen gehen

﹂ と書き加えてい る。   ク レ ド に は、 ﹁ Et incar

natus est de spiritu sac

to e x Maria vir gine et homo fac tus est ﹂ という主要なテキスト部分がある。 翻 訳 す る と、 次 の よ う な 内 容 で あ る。 ﹁ そ し て、 彼 は 聖 霊 に よ り て 処 女 マ リ ア か ら 肉 と な り、 人 と な ら れ た ﹂。 神 が イ エ ス に おいて人に、すなわち肉となったということである。キリスト 者 は こ の こ と を 信 じ、 ク リ ス マ ス に お い て、 神 が 人 と な る こ と、つまりイエスの誕生を祝うのである。まさにこのこと、ク リ ス マ ス に 立 ち 戻 ら な く て は な ら な い の で あ る。 ベ ー ト ー ヴ ェ ン の 前 後 の あ ら ゆ る 作 曲 家 た ち は、 こ の ﹁ そ し て 肉 と な る Et incar natus ﹂ を 特 別 な 方 法 で 扱 っ て い る。 ベ ー ト ー ヴ ェ ン は、

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グレゴリオ聖歌や教会旋法に手本を求めている。日記の記述に よれば、その際、彼は明らかに修道士たちを考慮にいれている。 初版では、この部分が誤って印刷された。というのも、テノー ルの独唱のみとして記されたのだ。残念ながら、今日でも時お り、そのように上演される。しかし、ベートーヴェンはこの作 品の中の数多くの感動的な箇所のひとつであるこの部分を、テ ノール合唱全員に歌わせることを望んでいた。こうした重要な キリスト教的な告白を、単独ではなくキリスト教的な共同体全 体で歌わせるのである。これは非常に重要な点であると考えら れる。   ベ ネ デ ィ ク ト ゥ ス 冒 頭 の ヴ ァ イ オ リ ン 独 奏 に よ る 出 だ し も、 テキストそのものから生まれたものである。この八分の十二拍 子の導入部は、非常に際立っていて、何かしら不思議なものが ある。 ﹁ Benedic tus, qui v

enit in nomine Domini

﹂のテキストは、 訳 す と ﹁ 主 の 名 に お い て 来 た る 者 に 祝 福 あ れ ﹂ と な る。 聖 書 に よれば、イエスのイエルサレム入場の際、住民がヤシの枝を振 り、この言葉でもって彼を讃えたのだという。しかし、明らか に ベ ー ト ー ヴ ェ ン は、 す で に ﹁ そ し て 肉 と な る Et incar natus ﹂ と 表 現 さ れ た イ エ ス の 託 身 に よ っ て、 こ の テ キ ス ト を 枝 の 主 日 の 代 わ り に ク リ ス マ ス と 関 連 づ け よ う と し た。 ﹁ Hochgelobt sei, der da k ommt ﹂ の ﹁ こ こ に 来 る 者 ﹂ は、 つ ま り ﹁ こ こ に 生 ま れ た 者 ﹂ と す れ ば、 当 然、 ク リ ス マ ス に 関 連 づ け ら れ る で あ る。   音 楽 雑 誌 ﹃ チ ェ チ ー リ ア C Ä CILIA ﹄ に は、 す で に こ の ミ サ 曲 の初期の批評が見られる。著述家、音楽教育者で作曲家のゲオ ルク・クリストフ・グロスマンによるものである。 ベ ネ デ ィ ク ト ゥ ス で は、 下 行 す る ふ た つ の フ ル ー ト と 共 に、ソロのヴァイオリンが可能な限りの高音から下りてき て、私たちのまわりを春風のように漂う。 [そして今度は] それらが天使の愛らしい動きを伝える。 ヘンデルもその ︽メ サイア︾において、このように美しい表象を描いている。   これは、ヘンデルの ︽メサイア︾ の降誕部分の導入部である、 八分の十二拍子のピファのことである。当時、八分の六拍子又 は八分の十二拍子の作品は、 ﹁牧人の音楽﹂ ないし ﹁クリスマス の 音 楽 ﹂ そ の も の と し て 聴 衆 に 認 識 さ れ て い た。 こ の た め、 ベ ートーヴェンの時代の聴衆はみな、この八分の十二拍子の単独 のヴァイオリンを降誕、すなわち幼児キリストの生誕と結びつ けていた。ベートーヴェンはこのような方法で、ベネディクト ゥスに最初から完全にある種の宗教的、降誕的な雰囲気を与え たのである。こうすることによって、ベートーヴェンは聴衆の 気分を巧みに操ったと言える。つまり、彼はこうして聴衆の心 に特別な方法で訴えることを考案できたのである。

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ベートーヴェンと宗教   最 後 に、 ア ニ ュ ス・ デ イ に 目 を 向 け よ う。 キ リ エ と 同 様 に、 こ こ で も 三 度、 慈 悲 の 願 い を 繰 り 返 す。 ﹁ Agnus Dei, qui

tollis peccata mundi,

miserere nobis ﹂。 三 度 目 は、 ﹁ miserere nobis ﹂ の 代 わ り に ﹁

dona nobis pacem

﹂ と な る。 訳 す と、 ﹁ 神 の 子 羊 よ ︵ イ エ ス を 指 す ︶、 世 の 罪 を 取 り 除 き、 我 ら を 憐 れ み た ま え ﹂ あ る い は ﹁ ⋮ 我 ら に 安 息 を 与 え た ま え ﹂ と な る。 こ の ﹁ 我 ら に 安 息 を 与 え た ま え

dona nobis pacem

﹂ は、 ラ テ ン 語 の ミ サ 曲 に お い て は、 ア ニ ュ ス・ デ イ の 独 立 し た 一 部 と な る こ と が 多 い が、 ベ ー ト ー ヴ ェ ン の ︽ ミ サ・ ソ レ ム ニ ス ︾ の 場 合 も そうである。彼は、自筆譜において ﹁ Dona nobis pacem ﹂ とい うタイトルの横に ﹁内的および外的平和を表す darstellend den inner n und äußer n F rieden ﹂ と鉛筆で注釈をつけている。ある 筆 写 譜 に お い て、 彼 は さ ら に ﹁ 内 的 お よ び 外 的 平 和 の た め の 祈 4 り 4 Bitte 4 4 4 4 4 um inner n und äußer n F rieden ﹂ と 記 し て い る。 こ の 祈りは、彼にとって生きるか死ぬかの意味を持っていた。そう、 彼は戦争に直面していたのである。一八〇九年、ナポレオン軍 がウィーンを包囲攻撃した時、ベートーヴェンは衝撃のあまり、 ﹁ た い て い の 時 間 を 弟 の カ ス パ ー の 家 の 地 下 室 で ﹂ 過 ご し、 ﹁ 砲 撃 が 聞 こ え な い よ う に 頭 を ク ッ シ ョ ン で 覆 っ て い た ﹂ と フ ェ ル デ ィ ナ ン ト・ リ ー ス は 伝 え て い る。 ベ ー ト ー ヴ ェ ン が ﹁ Dona nobis pacem ﹂ に お い て 戦 争 の 音 楽 を 二 度 鳴 ら し て い る こ と に は理由がある。一度目には、その音楽がほんの短く鳴り、ソリ ス ト た ち ︵ ア ル ト と テ ノ ー ル ︶ に よ っ て 大 き な 不 安 が 引 き 起 こ さ れ ︵﹁ 不 安 そ う に timidamente ﹂ と 添 え 書 き さ れ て い る ︶、 絶 望的な慈悲の祈りが続く。二度目の戦争の音楽は、今度は合唱 が慈悲の祈りと憐れみを始める前に、テンポがプレストへと加 速 し、 テ ィ ン パ ニ と ト ラ ン ペ ッ ト で 終 わ る。 す べ て が 鎮 ま り、 素晴らしく穏やかな ﹁ Dona nobis pacem ﹂ の主題が再び加わる。 現世の平和が見せかけに過ぎないことを、ベートーヴェンは終 結前の二十九小節で表している。至福の平和のただ中でティン パ ニ が 遠 い 国 か ら の よ う な ピ ア ニ ッ シ モ で も う 一 度 鳴 ら さ れ、 再び戦争の恐怖を蘇らせるのである。この部分でティンパニ奏 者が革張りのバチで叩くなら、戦争の太鼓を想起させ、感動的 な効果を与える。このように、まったく個人的な経験に手を加 え、一般化し、宗教的な領域にまで高めるのは、ベートーヴェ ンに特徴的なことだといえるのである。 五.ベートーヴェンの宗教性   ベートーヴェンは、非常に宗教心の厚い人物だった。ボンで は、当時一般的な教会教育を受けていた、と考えてよいだろう。 加えて、オルガニスト補助者の職に就いたのはとても早かった。 もちろん、それがそのまま彼の宗教性について表すものではな い。しかし、それによって少なくとも早い時期から宗教的︱教 会的な事柄と密接であったことは明らかである。

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  危機的状況が、ベートーヴェンに、特別な意味で宗教的思考 を開かせたことは、難聴によって引き起こされ、ハイリゲンシ ュ タ ッ ト の 遺 書 で 明 白 と な っ た 最 初 の 危 機 と の 関 連 に お い て、 す で に 暗 示 さ れ て い る。 そ の こ と は 極 め て 人 間 的 な 特 徴 で あ り、また広く知られている。しかし、 ﹁平常の時期﹂ においても、 ベートーヴェンの個人的な文書において非常に多くの言葉が宗 教的思考を示している。   ベートーヴェンは、二十歳の時に母親を失い、アルコール中 毒の父親がいた。彼は父親に禁治産の宣告を下し、弟たちの養 育責任を引き受けた。二十二歳でウィーンへ向かって以降、故 郷を再び見ることもなく、生涯、家族も持たなかった。彼は常 に病気がちで、成人してからは障害者となり、少なくとも人生 の最後の十年間は、まったく耳が聞こえなかった。これは、彼 の人生を影絵のように映す伝記的に重要な情報である。特に晩 年において、彼がしだいに宗教に向かっていったことはよく知 られているが、それは彼が宗教に慰めを求めていた証拠であろ う。 確 か に、 彼 の 周 囲 に は 多 く の 友 人 や 賛 美 者 た ち が い た が、 それでも、時には彼自らが選んだ社会的な孤立の体験は、非常 に深刻なものだったに違いない。若い時には家族の結びつきを 求め続けたが、最後の十年間はずっと孤独だった。恋愛関係も まったくなくなった。   ベートーヴェンが、当時ますます宗教にのめり込んでいった ことを示す重要な証拠は、特に彼の日記に見られる。ベートー ヴェンは日記を一八一二年夏につけ始めた。これは、彼の人生 に お い て さ ら に 大 き な 危 機 的 時 期 で あ る。 七 月 六 日 と 七 日 に、 彼 は か の 有 名 な 手 紙 を 書 い た。 今 日、 ﹁ 不 滅 の 恋 人 へ ﹂ と 名 付 けられて有名な、あの手紙である。ベートーヴェンはこの手紙 の中で、他人と結ばれた恋人をあきらめている。その後、彼は ひどい抑鬱状態に陥った。この時、彼はその日記をつけ始めた のだ。日常的な事柄はほんのわずかで、彼の日々の読書、詩集、 戯曲、そしてごく一般的な古代、古典、そして当時の文学から の引用が多数を占め、それに加えて文章やキーワード、そして 宗 教 的 な 見 解 を 示 す 大 量 の コ メ ン ト が 含 ま れ て い る。 確 か に、 それぞれのテキストがベートーヴェンの考えを示すものと言え るかどうかは確実ではない。しかし、宗教が彼にとってかなり の関心事であったことは確かである。キリスト教に関する言説 がほとんど現れないことは驚くに当たらない。ベートーヴェン 自身がキリスト教に根付いていたからである。彼の知的好奇心 は、他の宗教、例えば自然崇拝や極東の宗教にも向けられた。   さらに、ベートーヴェンがいくつかの文献、大抵はドイツ語 に訳された英語の文献から、特にインドの宗教について抜き出 したものは興味深い。それは結局のところ、キリスト教的な文 言でも表しうるような箇所である。

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ベートーヴェンと宗教   例えば、恐らく一八一五年の後半に、ベートーヴェンはフリ ー ド リ ヒ・ ク ロ イ カ ー の 著 書 ﹃ バ ラ モ ン の 宗 教 シ ス テ ム と そ の 哲 学 Das br ahmanische R eligionssystem im Zusammenhange dar gestellt ﹄ から次のように抜粋している。 すべての願望や欲求から解き放たれているもの、それは権 力 者、 た だ ひ と り で あ る。 権 力 者 よ り 偉 大 な も の は な く、 彼 の 精 神 は そ れ 自 体 で 密 接 に 絡 み 合 っ て い る。 権 力 者 は、 宇宙のどこにでも存在している。⋮⋮彼の全知は、自らの 啓示から生まれており、その観念はあらゆる他のものを包 含している。⋮⋮ああ、神よ、あなたはすべての時空にお ける真なる、永遠の至福たる、普遍の光である。あなたの 英知は限りない法則を認識し、あなたは常に自由にあなた の栄光のために行動する。 ベートーヴェンにとっての関心は、キリスト教への反論では なく、宗教の統一だということが、これらの記述から推測でき るだろう。彼のフリーメーソンへの関心も、またキリスト教へ の反発ではないことがわかる。フリーメーソンのいずれかの支 部へ所属するのが当時では珍しいことではないというのは、よ く知られていることだが、例えばレッシングやモーツァルトの ような少なからぬ人々が、他の人々より強くフリーメーソンに 共感していたことも目新しいことではない。ベートーヴェンに 関して言えば、我々はこれまで彼のフリーメーソンへの親近性 を、 彼 の 人 生 や 作 品 と 重 要 な 関 係 が あ る と は 見 て い な か っ た。 しかし、最近の研究は、それに異議を唱えている。いずれにせ よ、彼は非常に若いうち、つまりすでにボンにいる頃から、彼 の教師であるネーフェを通してフリーメーソンの活動、すなわ ち啓明団に関係しており、その関心が失われることはなかった。 シ ラ ー の 詩 ﹃ 歓 喜 に 寄 せ て ﹄ に 作 曲 す る と い う 何 度 か の 試 み に は、強力な意思が表れている。この詩は、フリーメーソンのテ キストに直接的に由来するものではないが、同団体では頻繁に 使用され、そのテキスト集の中では何度も掲載されている。ベ ートーヴェンによるこうしたシラーの詩への作曲は、つまり宗 教作品を具現化していることになるのである。 ベ ー ト ー ヴ ェ ン は、 シ ラ ー に よ る 全 二 十 四 の 詩 節 の 中 か ら、 慎重に九つを選び出して、その中からさらに神に関するものを 選び取った。 ﹁ そ し て 天 使 は 神 の 前 に 立 つ

Und der Cher

ub steht v or Gott ﹂ ﹁ 兄 弟 た ち よ、 星 空 の 上 に は 愛 す る 父 が き っ と 住 ん で い る だ ろ う Br üder , über m Ster

nenzelt muss ein lieber

V ater w ohnen. ﹂ ﹁ も ろ び と よ、 ひ れ 伏 す の か?   こ の 世 よ、 創 造 主 を 感 じ るか? Ihr stürzt nieder , Millionen? Ahnest du den Schöp

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-fer , W elt? ﹂   歓喜の主題は響かせていないものの、音楽が突如として変化 するのは、まさにこの三箇所である。そして、特に心を捕らえ、 作品全体をひとつの宗教音楽にしているのも、まさにこれらの 部 分 で あ る。 こ の ︽ 交 響 曲 第 九 番 ︾ は、 少 な く と も ド イ ツ 語 圏 においてはそのように感じられ、ある意味では宗教の代用とな る芸術作品の模範となったのである。   フリーメーソンは完全なる宗教運動だった。彼らはアンチ教 会派ではあったが、アンチ・キリスト教ではなかった。ベート ーヴェンをフリーメーソンに惹きつけたものは、恐らくその秘 密会議や特殊な儀式ではなく、明らかにその博愛的で倫理的な 目 標 で あ っ た。 彼 に と っ て、 宗 教 は 根 本 的 に、 自 己 目 的 で も 純 粋 な 知 的 好 奇 心 の た め の も の で も な か っ た と 思 わ れ る。 逆 に、彼は宗教的関心から二つのことを導き出している。ひとつ は、彼の道徳的︱倫理的信条、そしてもうひとつは神に与えら れた運命という考え方である。彼の手紙や日記における多数の 箇所からは、彼がある意味、たやすくはない運命を克服する力 を、特に宗教的信条から生み出したことが読み取れる。 六.ベートーヴェンの道徳的 倫理的信条   ベ ー ト ー ヴ ェ ン の 手 紙 に は、 ﹁ 神 ﹂ を 表 す 言 葉、 す な わ ち “Gott” , “Gottheit” , “der Allerh öchste” や、 そ れ に 類 似 し た 言 葉 が 年 を 追 う ご と に 増 え て い る。 一 七 九 五 年、 一 八 〇 一 年、 一 八 〇 七 年、 一 八 〇 九 年、 一 八 一 一 年、 一 八 一 三 年、 一八一四年、一八一五年には、それぞれ一通のみ、一八〇二年、 一 八 一 二 年、 一 八 一 六 年、 一 八 二 一 年 に は、 そ れ ぞ れ 二 通 で、 そして一八一七年と一八一九年には、それぞれ七通、一八二二 年と一八二三年にはそれぞれ四通、一八二五年には十通、そし て人生最後の年における四ヶ月では、再び四通に書かれている。 つまり、最後の十年間で明らかに増加しているのである。   このように、ベートーヴェンにとって神は人生のあらゆる状 況におけるいわば呼びかけ相手であり、とても生き生きとした 強力な神との関係が見られる。これは、次のように多くの手紙 において確証される。   調理番の女中との関係が困難な状況になった時の、神への呼 びかけ。 昨日、その女は去ってゆき、二度と戻ってくることはない。 ⋮⋮神よ、昨日から炊事をしなくてはならない我を哀れみ

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ベートーヴェンと宗教 たまえ。   家族のもめ事の証人としての神への呼びかけ。 神は私の証人である、私はあなたと不幸な弟だけを夢想し、 世話してやっている忌々しい家族の存在を完全に遠ざける のだ。神よ、私の願いを聞き入れたまえ。私はおまえ[甥 のこと]をもはや信用できないからだ。   そして、和解の際の、神への呼びかけ。 我らに平和があるように。神よ、兄弟の自然な絆が再び不 自然に引きちぎられるという試練を与えないでください。   ﹁ 短 い 祈 り ﹂ の よ う な も の が、 他 の 多 く の 箇 所 で 見 ら れ る。 例 え ば ﹁ 近 代 的 な 時 代 ﹂ に お い て も 神 は ベ ー ト ー ヴ ェ ン に 影 響 を与える。 これまで考えもしなかったが、この新しい時代がもたらそ うとしていると思われるような権威を行使することもでき るだろう。待ち望まれる蒸気砲、そしてすでに行われてい る汽船の航行のために、神に感謝しよう。   神とは、人が依り頼むことができる者である。 神は、この重い課題[甥の教育]を背負う私を決して見放 したりはしない。私はこれから先も神を依り頼む。     または、 私はすでに数週間、床についている。しかし、神が私を再 び救うであろうことを願っている。   さらに、 神は決して私を見放したりはしない。私の目を閉じる誰か を、見つけてくださるだろう。   そして、自らの高潔さの証人としての、神への呼びかけ。そ れは、今日の読者にとってはどこか照れくさいものかもしれな い。   パトロンであるルドルフ大公への、一八一七年九月一日の手 紙には、次のように書かれている。 神は私の願いを全て受け入れ、再び私を多くの災いから解 放してくれることでしょう。なぜなら、私は幼い頃から神

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に全幅の信頼のもとに仕え、精一杯、善行に励んだからで す。このように、私は神のみを信じ、そして神が私を、い かなる苦悩にあっても破滅させることはないと願います。   一八二一年七月十八日には、再びルドルフ大公に宛てて次の ように書いている。 神は、私の心を知られ、私が人として、神、そして自然が 命ずるあらゆる務めを厳粛に果たしてきたことをご存知な ので、最後には私を再びこうした苦難から解放してくださ ることでしょう。   二百年前の人間を、今日の我々における心理学的な物差しで 判断することは、極めて危険であることには違いない。それで もなお、この高い倫理的尺度を捧げ持つ態度は、やや疑わしい。 ベートーヴェンは、確かに高い道徳的︱倫理的信条を持ち、明 らかに自らにその義務を繰り返し負わせていた。だが、当然の こ と な が ら、 彼 は 超 人 で は な か っ た。 ︱ ︱ 彼 は、 親 切 な 人 間 で、 ﹁ 社 会 的 な 性 質 ﹂ を 持 ち、 修 道 院 や 未 亡 人、 孤 児 の た め に 慈 善 演 奏 会 を 開 い た り し て い た ︱ ︱ そ し て 一 方 で は、 使 用 人 た ち を まるで下等な人間であるかのように扱っていた ︱ ︱ 彼は、ユー モ ア に 溢 れ る 一 方、 突 然 怒 り 出 し た り、 高 圧 的 だ っ た り し た ︱ ︱ 彼 に と っ て、 友 情 を 保 つ こ と は 重 要 だ っ た ︱ ︱ そ し て、 紛 れもなく人間嫌いだった ︱ ︱ 彼の高い倫理的信条は、仕事上の 事件や、いくつかの出版者との交渉において、抜け目なくふる まい、偽り、裏切ることを防げなかった。 七.ベートーヴェンの運命の克服   一八二七年三月十四日、つまり死の十二日前、ピアニストで 作曲家のイグナーツ・モシュレスに、ベートーヴェンは彼にと って最後の手紙を書いた。 確かに、私は非常に過酷な運命に見舞われました。しかし、 私は天の定めに従い、ただ神に祈るのみです。神はその意 において、私を困窮から守るために、ここで死ぬべきよう 導かれました。この祈りは、とてもつらく恐ろしいに違い ない私の運命を、神の意志への忠誠と共に耐え抜くための 強い力を私に与えることでしょう。   ヴォルフガング・ヒルデスハイマーは、モーツァルトに関す る 本 の 中 で、 ベ ー ト ー ヴ ェ ン を ﹁ 偉 大 な る 苦 悩 の モ デ ル ﹂ と 名 付 け て い る。 こ れ は 確 か に 正 し い。 私 は こ の 講 演 の は じ め に、 ベートーヴェンが一八〇一年七月二十九日に若き友人であるフ ランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラーに宛てた手紙を簡単に紹介 しているが、その中で彼は聴覚を失い始めたことを初めて次の

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ベートーヴェンと宗教 ように語っている。 ヴェーリング[ベートーヴェンの医者]は、仮に全快しな くとも確実に良くなるだろう、と言う ︱ ︱ 私はすでに幾度 も創造主と自分の存在を呪っている。プルタルコスは、私 を諦念[従順の意味]へと導いた。私は短い人生を与えら れたが、そこで神の不運な創造物となるにせよ、私は可能 な限り、運命に抵抗しよう。   これは、まったく驚くべき自己認識である。ベートーヴェン は、あきらめること、そして彼の運命においてそれを受け入れ ることが、彼の性格には合わないということを明らかに認識し ていた。逆に、運命に対抗することが彼らしい性質だった。さ もなければ、難聴にもかかわらず、さらに作曲を続ける力を見 いだすことはできなかっただろう。   それでも、日記 は次のような記述で始まる。 忠誠、おまえの運命への心からの忠誠によってできること は、献身的な奉仕のみである[恐らく、日常生活をなんと かやっていくこと] ︱ ︱ ああ、辛い戦いだ!   ⋮⋮不断の 礼節を絶対遵守するのである。おまえは人間である必要は ない。それはおまえのためでなく、他者のために。おまえ に は、 お ま え 自 身 や 芸 術 に お け る 幸 運 以 外 に は な い。︱ ︱ ああ神よ!   私に克服する力を与えよ、そう、私を命に縛 り付けるものは何ひとつあってはならない。   ベートーヴェンは、芸術家としての自分の価値を充分に認識 していた。彼は、自分の芸術作品、自分自身、そして彼の音楽 の聴き手と向き合い、自分の天賦の才能を感じていた。その上、 芸術そのもの、彼の芸術、すなわち音楽は、彼にとって年月が 経つ内にますますそれ自体が宗教となっていった。そうした活 動は、彼にとって一種の礼拝となったのである。   日記には、次のような記述がある。一八一四年に書かれたも ので、同時にベートーヴェン自身の口による結びの言葉である。 生 命 あ る も の 全 て は、 [ 音 楽 の ] 崇 高 に 捧 げ ら れ る。 そ し て芸術の神聖よ。たとえ補助手段を用いても私を生かして 下さい。もしそれが見つかるのなら。⋮⋮おまえは、おま えと、人間と、全能の神に対して責任がある。それでこそ、 おまえは全てをもう一度、発展させることができる。おま えの中に封じ込まれねばならぬものの全てを。

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