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た 15 世紀末頃 武田信虎による甲斐統一を経て その子武田信玄により領国を拡大 戦国有数の大名となった 通説では 甲斐国は 鎌倉時代から戦国時代まで 武田家が守護を務めた稀有の国の一つと言われているが 全て甲斐源氏一色ではなかった 異説に 鎌倉末期二階堂氏が 逸見 牧荘を領し甲斐守護だったとする説

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Academic year: 2021

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平 成 30 年 3 月 3 日 横 浜 歴 史 研 究 会 清 水 漠

甲 斐 ・武 田 氏 親 族 《穴 山 氏 の興 亡 》

はじめに - 甲 斐 源 氏 に つ いて ⒈ 素 地:長 元 2 年 ( 1029 )源 頼 信 が 甲 斐 守 に 任 じ ら れ た の に 始 ま る 。頼 信 の 祖 父 は 源 経 基 (経 基 王 )。 経 基 は 清 和 源 氏 の 祖 と 言 わ れ 、 清 和 天 皇 の 孫 で あ る 。 当 時 関 東 で は 、 上 総 国 の 豪 族 平 忠 常 が 、 反 乱 を 起 こ し 手 が 付 け ら れ な い ほ ど の 勢 力 を 誇 っ て い た 。 追 討 使 源 頼 信 は 、甲 斐 に 下 向 し 大 乱 を 制 し た 。甲 斐 在 国 は 半 年 足 ら ず で あ る が 、武 人 と し て の 声 望 を 高 め 、 甲 斐 国 の 存 在 を 世 に 広 め た 。 ⒉ 始 祖 : 甲 斐 源 氏 の 始 祖 は 、そ の 頼 信 の 孫 新 羅 三 郎 義 光 (初 代 ) で 、陸 奥 で の「 後 三 の 役 」で 手 柄 を 立 て 、甲 斐 守 と し て 甲 斐 ( 北 杜 市 若 神 子 )に 着 任 し た の が 始 ま り と 言 わ れ て い た が 、 実 際 に 入 国 し た の は 、 義 光 の 子 義 清 ( 2 代 )・ 清 光 (3 代 )親 子 で あ る 。 ( 志 田 諄 一 氏 説 ) 。1 100 年 代 常 陸 に 進 出 し た 義 光 が 嫡 子 義 業 に 佐 竹 郷 、次 男 義 清 に 武 田 郷 ( ひ た ち な か 市 ) を 与 え て 勢 力 拡 大 を 図 ろ う と し 、 在 地 勢 力 大 穣 (だ い じ ょ う) 氏 と 衝 突 し た こ と に よ り 訴 え ら れ た も の で あ っ た 。 注 : 大 治 5 年 ( 113 0) 常 陸 国 司 が 、 住 人 義 清 ・ 清 光 の 濫 行 を 訴 え る 。《 長 秋 記 》 そ の 結 果 二 人 は 甲 斐 国 市 河 荘 ( 甲 斐 荘 園 と し て 始 め て の 荘 園 、十 世 紀 初 頭 成 立 )に 流 罪 に な っ た 。( 義 清 土 着 説 武 田 氏 常 陸 発 祥 説 ) 注 : 義 清 は 、 常 陸 国 武 田 郷 に 因 み 「 武 田 冠 者 」 と 注 記 さ れ て い る 。《 尊 卑 分 脈 》 清 光 は 、進 出 し た 地 名 (八 ヶ 岳 南 麓 の 山 の 名 ?) に 因 み「 逸 見 冠 者 」(へ み 今 の 山 梨 県 北 杜 市 ) と 呼 ば れ た 。 ⒊ 発 展 ㈠ : 義 清 ・ 清 光 親 子 及 び 清 光 の 子 ら は 、 そ の 後 約 5 0 年 の 間 に 、 今 の 甲 府 盆 地 一 帯 に 勢 力 を 広 げ 、 居 住 地 名 を 氏 姓 と し て 甲 斐 源 氏 発 展 の 基 礎 を 築 い た 。 概 ね 三 勢 力 に 分 け ら れ る 。 (山 梨 県 の 歴 史 よ り ) ① 逸 見 グ ル ー プ・逸 見 郷 (北 杜 市 谷 戸 or 若 神 子 ) を 拠 点 と し た 、清 光 の 後 継 者 で 、 甲 斐 源 氏 の 棟 梁 武 田 信 義 (4 代 ・ 武 田 太 郎 )で あ る 。 甲 府 盆 地 の 北 部 も 支 配 。 嫡 子 忠 頼 ( 一 条 氏 )、 兼 信 ( 板 垣 氏 )、 有 義 (逸 見 氏 )等 が 属 す る 。 ② 東 郡 (ひ が し ご う り) グ ル ー プ ・ 甲 府 盆 地 の 東 部 ( 牧 荘 ・ 八 幡 荘 安 田 郷 を 勢 力 下 に 収 め た 清 光 の 四 男 安 田 義 定 。 ③ 西 郡 (に し ご う り)グ ル ー プ・甲 府 盆 地 の 西 部 及 び 南 部 に 勢 力 を 張 っ た 加 賀 美 遠 光 、 及 び そ の 子 秋 山 光 朝 、 南 部 光 行 ら 。 ⒋ 発 展 � :鎌 倉 時 代 か ら 戦 国 時 代 に か け て 、武 田 氏 一 族 間 の 争 い 、又 、時 の 権 力 者 ( 鎌 倉 幕 府 ・ 南 朝 ・ 北 朝 ・ 室 町 幕 府 )に 対 し 、 支 援 又 は 庇 護 を 受 け 、 時 に は 反 抗 し て き ⑴

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た 。 1 5 世 紀 末 頃 、 武 田 信 虎 に よ る 甲 斐 統 一 を 経 て 、 そ の 子 武 田 信 玄 に よ り 領 国 を 拡 大 、戦 国 有 数 の 大 名 と な っ た 。通 説 で は 、甲 斐 国 は 、鎌 倉 時 代 か ら 戦 国 時 代 ま で 、 武 田 家 が 守 護 を 務 め た 稀 有 の 国 の 一 つ と 言 わ れ て い る が 、全 て 甲 斐 源 氏 一 色 で は な か っ た 。 異 説 に 、 鎌 倉 末 期 二 階 堂 氏 が 、 逸 見 ・ 牧 荘 を 領 し 甲 斐 守 護 だ っ た と す る 説 も あ る 。 ( 網 野 善 彦 説 ) ⒌ 発 展 ㈢:他 国 に お け る 甲 斐 源 氏 の 足 跡 と し て 、安 芸 国・武 田 氏 、信 濃 国・小 笠 原 氏 、 若 狭 国 ・ 武 田 氏 等 、 全 国 各 地 で 、 甲 斐 源 氏 = 武 田 氏 一 族 が 、 所 領 支 配 を 梃 子 に 、 土 着 し 守 護 ・ 地 頭 ・ 代 官 な ど で 活 躍 ・ 発 展 し た 。 《まとめ》 ◎ 初 代 新 羅 三 郎 義 光 は 、 甲 斐 守 に 任 官 ・ 在 国 の 形 跡 は な い 。 二 代 義 清 ・ 清 光 親 子 が 、 11 30 年 頃 (? ) 甲 斐 国 に 土 着 した ( 義 清 土 着 説 )。 従 って武 田 氏 の 出 自 は常 陸 国 であ る。 ◎ 三 代 清 光 以 降 、 男 子 に 数 多 く 恵 ま れ 、 甲 斐 国 内 各 地 に 住 み 、 夫 々 の 地 名 を 名 字 と し て 勢 力 を 拡 大 して いった。 ◎ 鎌 倉 時 代 か ら 戦 国 時 代 に か け て 、 甲 斐 国 の 守 護 は 、 武 田 氏 が 通 説 で あ る 。 又 武 田 氏 一 族 は、全 国 各 地 で 、守 護 ・守 護 代 ・地 頭 等 で 活 躍 発 展 した。 ◎ 武 田 一 族 の 代 表 的 人 物 は 、 武 田 信 玄 で あ り 、 甲 斐 国 20 万 石 か ら 、 信 濃 ・ 駿 河 ・遠 江 等 々 領 有 し、最 終 120 万 石 の戦 国 大 大 名 と なっ た。 (石 高 の表 示 は推 定 値 )

【穴 山 氏 の成 立 】

⒈ 穴 山 義 武 ・ 初 代 ( 生 没 年 不 詳 1350 ~ 13 60 頃 活 躍 ): 穴 山 氏 の 初 代 は 、 穴 山 義 武 と 言 わ れ る 。 義 武 は 、 甲 斐 守 護 武 田 信 武 (10 代 ) の 子 で あ る 。 然 し 義 武 が 穴 山 氏 を 興 し た と い う 証 拠 は な く 、 系 図 上 で 確 認 す る の み 。 穴 山 氏 は 、 義 武 以 前 に 存 在 し て い た 地 元 の 有 力 者 = 豪 族 で あ っ た 。〈 平 山 優 説 〉 甲 斐 守 護 武 田 信 武 は 、 何 故 穴 山 一 族 に 息 子 義 武 を 養 子 に 入 れ た か 。 甲 斐 源 氏 の 宗 家 は 逸 見 氏 一 族 で 甲 斐 国 北 西 部 ( 山 梨 県 北 杜 市 ) 一 帯 を 支 配 し て い た が 、 後 に 武 田 氏 に 実 権 を 奪 わ れ 対 立 関 係 に あ っ た 。信 武 は 、逸 見 氏 の 南 (東 ) 下 =盆 地 へ の 進 出 を 阻 止 す べ く 、 逸 見 氏 支 配 地 域 に 近 い 、“ 穴 山 = 七 里 岩 の 台 地 上 の 要 害 (山 梨 県 韮 崎 市 ) ” を 支 配 す る 穴 山 氏 に 養 子 を 出 し た ( 韮 崎 市 誌 ) 。 父 信 武 と と も に 足 利 尊 氏 を 支 え 、 南 北 朝 内 乱 時 は 北 朝 方 に 属 し た 。 ⒉ 穴 山 満 春 ・ 二 代 ( 生 没 年 不 詳 1390 ~ 14 30 頃 活 躍 ): 義 武 に は 実 子 が な く 甲 斐 守 護 武 田 信 満 (1 3 代 )の 弟 満 春 (の ち 信 元 ) を 養 子 に 迎 え て 穴 山 家 の 存 続 を 図 っ た 。南 朝・北 朝 が 統 一 さ れ た 翌 年 明 徳 4 年 (1392) に 、河 内 領 一 帯 ・ 南 部 郷 を 支 配 し て い た 南 朝 方 の 南 部 氏 宗 家 が 陸 奥 国 に 転 住 し 、 そ の 跡 に 穴 山 氏 に 与 え ら れ た と 言 わ れ る (磯 貝 正 義 『 武 田 信 重 』 韮 崎 市 誌 ) 。 穴 山 氏 の 「 河 内 領 」 進 出 は 、 満 春 の 時 代 と 思 わ れ る 。 然 し な が ら 残 存 し た 南 部 氏 一 族 と 、「 河 内 領 」 支 配 を め ぐ っ て 争 い が 続 い た 。 一 度 高 野 山 で 出 家 し た が 、 還 俗 し 武 田 信 元 と 称 し 、 甲 斐 守 護 に な っ た 。 ⑵

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「 河 内 領 」: 戦 国 期 は 河 内 谷 と よ ば れ 、 現 在 の 山 梨 県 南 巨 摩 郡 と 西 八 代 郡 の 一 部 。 ⒊ 伊 豆 千 代 丸 ・ 三 代 ( 生 没 年 不 詳 ): 武 田 信 長 ( 武 田 家 14 代 武 田 信 重 の 弟・ 房 総 武 田 氏 の 祖 )の 子 。穴 山 家 に 養 子 と し て 入 っ た と 言 わ れ る が 詳 細 不 明 。 ⒋ 穴 山 信 介 ・ 四 代 ( 生 年 不 明 〜 1450 年 没 ): 甲 斐 守 護 武 田 信 重 (1 4 代 )の 子 。甲 斐 守 護 武 田 信 守 (15 代 ) の 弟 で 穴 山 氏 を 継 ぐ 。信 介 の 事 績 の 史 料 は ほ と ん ど な い が 、 こ の 頃 よ り 穴 山 氏 は 、「 下 山 」 ( 現 在 の 山 梨 県 身 延 町 )を 根 拠 に ,抵 抗 す る 南 部 氏 に 対 抗 す べ く 活 動 し て い た と 思 わ れ る 。 ➡ 穴 山 家 は 、 四 代 ま で 全 て 武 田 家 か ら の 養 子 で 継 承 さ れ た 。 ⒌ 穴 山 乙 若 丸 (生 没 年 不 詳 ): 信 介 の 嫡 男 で あ る が 早 世 し た 。 墓 は 現 在 の 南 部 町 中 野 の 松 岳 院 に あ る 。 ⒍ 穴 山 信 懸( の ぶ と う )(生 年 不 明 ~ 1513 年 没 ): 穴 山 乙 若 丸 の 弟 。息 子 穴 山 清 五 郎 に よ り 暗 殺 さ れ る 。⇐こ の 頃 甲 斐 国 内 は 内 乱 状 況 に あ り 、 下 剋 上 の 風 潮 下 、 穴 山 一 族 内 部 で は 、 武 田 派 ( 信 懸 ) と 甲 斐 に 侵 攻 し て 来 た 今 川 派 ( 清 五 郎 )に 分 裂 し て い た 。伊 勢 (北 条 )早 雲 と 親 密 の 関 係 に あ っ た と も 言 わ れ る 。 ⒎ 穴 山 信 風 ( 信 綱?) (生 年 不 詳 ~ 1531 年 没 ): 信 懸 の 三 男 。信 懸 死 後 家 督 を 相 続 し 、享 禄 四 年 (153 1) 死 亡 。⇐信 風 の 動 向 は 、穴 山 氏 の 歴 史 の 中 で 最 も 不 明 。永 正 14 年 (15 17 ) 甲 斐 国 武 田 信 虎 が 、駿 河 今 川 氏 親 の 甲 斐 侵 攻 に 勝 利 ・ 和 睦 。 甲 斐 国 人 衆 が 武 田 信 虎 に 叛 乱 を 興 す も 、 天 文 元 年 (15 32 ) 武 田 信 虎 が 、 今 井 信 元 を 破 り 、 甲 斐 統 一 な る 。 反 武 田 派 で 国 中 西 郡 の 有 力 国 人 衆 大 井 氏 も 降 伏 し 、 大 井 氏 の 息 女 が 、 信 虎 の 正 室 と な り 嫡 男 武 田 信 玄 が 生 ま れ る 。 ⒏ 穴 山 信 友 (1 506 生 ~ 1 560 没 ): 信 風 が 逝 去 後 、 穴 山 家 の 家 督 を 相 続 し た が 、 信 友 が 信 風 の 子 で あ る と い う 証 拠 は な い 。 穴 山 氏 初 期 の 頃 よ り 、 武 田 家 よ り 何 代 に わ た り 養 子 を 迎 え て お り 、 更 に は 天 文 年 間 (1 530 ~ )の 初 め 頃 、武 田 信 虎 (18 代 ) の 娘「 南 松 院 」( 武 田 信 玄 の 姉 ) を 正 室 と し 、 武 田 家 と の 関 係 を 強 化 し 、 武 田 氏 御 一 門 衆 =御 親 類 衆 と し て 活 躍 し た 。 武 人 と し て ば か り で な く 、 文 人 と し て も 優 れ て い た 。 正 室 南 松 院 は 、 美 人 と 言 わ れ 仏 道 へ の 帰 依 厚 く 、 京 都 ・ 天 竜 寺 の 高 僧 よ り 「 葵 庵 理 誠 」 の 法 号 を 授 け ら れ た 。 穴 山 氏 の 河 内 領 支 配 は 、 信 虎 の 南 部 氏 な ど の 敵 対 勢 力 の 一 掃 、 甲 斐 国 の 統 一 な ど と 共 に 発 展 し て き た 。 金 山 経 営 と 材 木 資 源 の 活 用 が 、 財 政 の 基 盤 と し て き た 。 こ の 頃 本 拠 地 を 、 河 内 領 の 中 心 地 「 下 山 」 に 南 部 か ら 移 し た と 言 わ れ る 。 信 友・信 君 (梅 雪 )時 代 が 、武 田 氏 の 後 盾 も あ り「 穴 山 家 の 最 盛 期 」で あ る と 言 え る 。 ⒐ 穴 山 信 君 ( 梅 雪 以 下 梅 雪 と 表 示 )( 天 文 10 年 1541 ~ 天 正 10 年 1582) : 信 友 の 嫡 子 。 幼 名 勝 千 代 。 永 禄 元 年 ( 155 8) 家 督 を 相 続 。 永 禄 3 年 ( 1560 ) 武 田 信 玄 の 次 女 「 見 性 院 」 を 正 室 に 迎 え 、 武 田 氏 と の 結 び つ き を 強 め た 。 天 正 8 年 ( 1580) 出 家 し 「 梅 雪 斎 不 白 」 と 称 し た 。 天 正 10 年 3 月 (1582 ) 武 田 勝 頼 と 袂 を 分 か ち 、 織 田 ・ 家 康 連 合 軍 に 降 伏 し 、 武 田 氏 滅 亡 後 織 田 信 長 か ら 「 河 内 領 」 の 安 堵 を 得 た 。 同 年 6 月 ⑶

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徳 川 家 康 と 共 に 安 土 城 に て 織 田 信 長 に 対 面 。 そ の 後 家 康 と 堺 見 物 後 、 本 能 寺 の 変 が 起 こ り 、 梅 雪 は 、 京 都 宇 治 田 原 近 辺 で 、 野 党 ( 土 民 ) の 襲 撃 を 受 け 落 命 。 注 : 武 田 家 を 支 え た 「 武 田 二 十 四 将 」 の 一 人 。 人 柄 = 風 貌 は 怖 く 、 文 武 に 秀 で 風 流 を 好 む 。 独 特 の 領 国 経 営 を し 、 家 臣 ・ 領 民 の 人 望 あ っ た 。 信 玄 に も 可 愛 が れ た 。 ⒑ 穴 山 信 治 ( 勝 千 代 )( 生 年 元 亀 3 年 1572 ~ 天 正 15 年 1588 没 享 年 16 歳 ) 梅 雪 横 死 後 、 家 督 相 続 し 、 元 服 し 信 治 と 名 の る 。 1588 年 死 亡 に よ り 、 穴 山 氏 の 正 統 は 断 絶 。 《まとめ》 ◎ 穴 山 は 七 里 岩 台 地 に あ る要 衝 の 地 。 穴 山 氏 は、 初 代 義 武 以 前 から存 在 した 地 元 の豪 族 で あ つた と 推 定 さ れ る 。 甲 斐 守 護 ・ 信 武 ( 10 代 )は 、 息 子 義 武 を 、 甲 斐 源 氏 宗 家 逸 見 氏 ( 甲 斐 国 北 西 部 を 支 配 = 今 の山 梨 県 北 杜 市 )の 南 (東 ) 下 を 防 ぐため 、 穴 山 家 に 養 子 と し て入 れ た。 (佐 藤 八 郎 説 ・韮 崎 市 誌 ) ◎通 説 では、 義 武 に 実 子 がないため、 再 び 甲 斐 守 護 ・信 春 (1 2 代 )は 、弟 満 春 を 養 子 に 入 れ 相 続 させた。 ◎南 北 朝 が統 一 した 頃 (139 2 頃 )、 南 朝 方 であ った南 部 氏 宗 家 が 、陸 奥 国 に 配 置 転 換 と なり 、 穴 山 氏 が 継 い だ 。 満 春 、 高 野 山 で 出 家 し た が 、 室 町 幕 府 将 軍 義 持 に 呼 び 戻 さ れ 武 田 信 元 と名 乗 り 、南 部 氏 に 奪 われていた河 内 領 (下 山 ・南 部 )を 奪 回 し よう とした。

【穴 山 氏 の滅 亡

- 逆 臣 梅 雪 宇 治 田 原 越 え な ら ず 、 神 君 家 康 伊 賀 越 え な る

《梅 雪 の前 半 》

・ 天 文 10 年 (154 1) 穴 山 梅 雪 誕 生 、 幼 名 勝 千 代 。 (家 康 154 2~ 1 616 信 玄 1521 ~ 15 73 勝 頼 1546~ 1582 ) ・ 永 禄 元 年 (1558 ) 穴 山 信 友 隠 居 ( 死 去 1560) 。 梅 雪 家 督 相 続 。 同 3 年 穴 山 家 統 率 こ の 頃 武 田 信 玄 次 女 見 性 院 を 正 室 に 。 (い と こ 同 志 結 婚 ) ・ 永 禄 4 年 (1561 ) 川 中 島 の 激 戦 ( 第 4 次 )。 梅 雪 、 武 田 軍 の 左 翼 担 当 し 奮 戦 。 ・ 元 亀 3 年 (1572 ) 梅 雪 の 嫡 男 穴 山 勝 千 代 ( 信 治 ) 誕 生 。 ・ 元 亀 4 年 (1573 ) 4 月 12 日 武 田 信 玄 信 濃 駒 場 で 死 す 。 → 「 甲 府 ・ 信 玄 公 ま つ り 」 ( 天 正 元 年 ) 「 甲 陽 軍 艦 」 に よ れ ば 、 信 玄 の 遺 言 は 、《 そ の 死 を 3 年 間 秘 匿 し 領 国 を 安 定 さ せ 、 遠 征 =戦 を し て は な ら ず 、 も し 敵 が 攻 め て き た ら 領 国 内 で 戦 う こ と 。 武 田 勝 頼 は 、 信 玄 の 孫 武 王 丸 信 勝 が 、 1 6 歳 で 元 服 す る ま で の 陣 代 ( 中 継 ぎ ) で あ り 、 武 田 家 の 当 主 を 示 す 旗 印 (風 林 火 山 の 旗 な ど)を 使 用 し て は な ら な い 》 と 。 《 更 に 、 死 す 時 枕 頭 に 、 武 田 氏 一 族 の 代 表 と し て 武 田 信 豊 と 穴 山 梅 雪 を 呼 び 、 勝 頼 の 補 佐 を 依 頼 し た 》 と 言 う 。 ➡ 武 田 家 の 嫡 流 は 孫 信 勝 で あ り 、 勝 頼 は あ く ま で 諏 訪 家 の 当 主 で あ る 。 ➡ 信 玄 の 遺 言 は 、勝 頼 と 梅 雪 と の 対 立・離 反 の 遠 因 と な っ た と 考 え る 。 ⑷

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・ 天 正 元 年 (1573) 武 田 勝 頼 が 家 督 相 続 し 、 信 玄 は 病 気 療 養 中 と 宣 伝 す る が 、 信 玄 死 す の 噂 は 全 国 に 広 ま り 、徳 川 家 康・織 田 信 長 陣 営 を 元 気 づ け 、 反 抗 し 始 め た 。家 康 は 、駿 河 ・ 遠 江 ・ 三 河 で 軍 事 行 動 を 強 め た 。 勝 頼 は 、 信 玄 の 遺 言 を 破 り 、 武 田 軍 を 出 陣 さ せ 、 同 2 年 遠 州 の 要 衝 ・ 高 天 神 城 を 落 と し た 。 ➡ こ の 頃 の 勝 頼 は 、 ま だ 武 田 家 当 主 と し て の 地 位 は 盤 石 で は な く 、 戦 に 勝 つ こ と に よ っ て の み 維 持 さ れ て い た と 思 わ れ る 。 ・ 天 正 3 年 ( 1575 ) 5 月 三 河 国 長 篠 ( 設 楽 ヶ 原 )の 戦 い 。 武 田 軍 、 織 田 ・ 徳 川 連 合 軍 に 大 敗 。 ➡ 勝 頼 は 決 戦 を の ぞ み 、 諸 将 ( 山 県 昌 景 ・ 馬 場 信 春 ら ) は 反 対 、 梅 雪 は 強 硬 に 反 対 し た 。 戦 で 梅 雪 は 、 積 極 的 に 戦 わ ず 戦 線 離 脱 し た 。 所 謂 「 敵 前 逃 亡 = 軍 規 違 反 」 を し た と 言 わ れ る 。 高 坂 正 昌 ( 春 日 虎 綱 ・ 信 玄 以 来 の 武 将 ・ 四 天 王 の 一 人 ・ 甲 陽 軍 艦 の 原 著 者 著 者 小 幡 景 憲 ) は 、 勝 頼 に 梅 雪 切 腹 さ せ る べ き と 進 言 し た と 言 う 。 武 田 家 「 御 親 類 衆 筆 頭 」 の 穴 山 氏 ・ 穴 山 衆 を 切 る 事 が で き な か っ た の は 、 勝 頼 の 温 情 か 。 家 中 分 裂 を お そ れ た か 。 ➡ も と も と 勝 頼 と 梅 雪 は 折 り 合 い が 悪 く 、 勝 頼 の 温 情 は 、 逆 に 梅 雪 が 勝 頼 を 侮 る よ う に な っ た と 言 わ れ る 。 ・ 天 正 3 年 (157 5) 5 月 梅 雪 駿 河 国 江 尻 城 代 に (勝 頼 が 任 命 ) 。 前 任 山 県 ら 武 田 軍 の 有 力 武 将 が 相 次 い で 死 亡 ,人 材 不 足 に 。 ➡ 人 材 が 払 底 し た 事 に 加 え て 、 家 康 と 向 き 合 い 、 駿 河 ・ 遠 江 の 支 配 を 固 め る に は 、 梅 雪 が 、 御 親 類 衆 で あ り 、 本 拠 地 が 駿 河 国 と 地 続 き の 河 内 領 の 経 営 、駿 河 国 の 状 況 を 熟 知 、旧 今 川 家 臣 団 と の 結 び つ き 、更 に は 、 そ の 能 力 を 買 っ た も の と お も わ れ る 。 ・ 天 正 4 年 (1576 ) 4 月 信 玄 の 葬 儀 。 梅 雪 参 列 。 ・ 天 正 5 年 (1577 ) ~ 天 正 8 年 (1580 ) 天 正 4 年 よ り 、 駿 河 国 を め ぐ り 、 武 田 ・ 徳 川 間 の 争 い を 始 ま る 、 天 正 8 年 迄 。 天 正 6 年 3 月 上 杉 謙 信 急 死 。御 舘 の 乱 始 ま る 。同 8 月 上 杉 景 勝 と 和 睦 (甲 越 同 盟 ) 。 天 正 7 年 武 田 ・ 北 条 の 関 係 悪 化 (甲 相 同 盟 の 決 裂 ) 。 天 正 8 年 北 条・織 田 の 同 盟 な る 。同 4 月 信 長 、石 山 本 願 寺 と 和 睦 。 勝 頼 、 重 要 な 同 盟 国 失 う 。 こ の 年 、 信 君 (梅 雪 )、 出 家 「 梅 雪 斎 不 白 」 と 称 す 。 ➡ こ の 間 、 江 尻 城 主 と し て 甲 斐 ・ 武 田 家 ( 勝 頼 ) に 忠 義 を つ く す も 、 武

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田 領 の な か で 最 も 厳 し い 位 置 = 駿 河 ・ 遠 江 に い た 梅 雪 は 、 常 に 緊 張 感 を 保 ち 、 時 代 の 流 れ を 把 握 し て い た 一 方 、 勝 頼 の 考 え ・ 治 世 体 制 は 、 依 然 と し て 旧 体 制 で 、 武 田 家 の 行 く 末 に 、 一 番 危 機 感 を 持 っ て い た の で は な い か 。 ⑸ 《 梅 雪 の 終 焉 》 ・ 天 正 9 年 (1581 )1 月 梅 雪 の 進 言 に よ り 、 新 府 城 築 城 開 始 。 12 月 完 成 、 移 転 。 ➡ 梅 雪 は 、「 織 田 ・ 徳 川 ・ 北 条 軍 が 攻 め て 来 た 場 合 、 防 ぎ よ う が な い 。 籠 城 策 し か な い 」と 進 言 。築 城 に つ い て は 、武 田 一 族 衆 の 中 に は 反 対 す る 重 臣 も 多 く 、 勝 頼 と 武 田 一 族 衆 と の 対 立 は 決 定 的 に な っ た 。 ➡ さ ら に こ の 頃 、梅 雪 は 、勝 頼 と の 関 係 強 化 の 一 環 と し て 、嫡 男 勝 千 代 と 、 勝 頼 息 女 と の 婚 姻 を 目 論 み 、 勝 頼 に 申 出 る も 、 勝 頼 こ れ を 断 り 、 武 田 典 厩 信 豊 の 嫡 子 と の 婚 姻 を 決 め た 。 勝 頼 と の 関 係 は 最 悪 と な る 。 3 月 高 天 神 城 、 家 康 に よ り 落 城 、 勝 頼 の 権 威 失 墜 。 ➡ こ の 前 後 よ り 、武 田 氏 の 退 潮 は 明 ら か に な り 、駿 河・遠 江 の 支 援 者 (国 人 衆 ) は 、 離 反 し 始 め た 。 6 月 ~ 12 月 織 田 信 長 は 、 甲 斐 ・ 信 濃 の 武 田 領 攻 撃 の 準 備 (兵 糧 備 蓄 )を 始 め た 。 ・ 天 正 10 年 (1 582 )1 月 25 日 信 濃 ・ 木 曽 義 昌 ( 正 室 は 信 玄 の 息 女 真 理 姫 ) の 離 反 。 2 月 2 日 勝 頼 、 人 質 で あ っ た 義 昌 の 母 、 嫡 子 、 娘 を 処 刑 。 2 月 3 日 信 長 、 金 森 長 近 軍 は 飛 騨 口 、 織 田 軍 は 伊 那 口 、 徳 川 軍 は 駿 河 口 、北 条 氏 政 軍 は 関 東 口 か ら 侵 攻 す る 配 置 を 決 め る 。 織 田 軍 大 将 は 、 織 田 信 忠 。 2 月 25 日 梅 雪 、穴 山 衆 5 百 人 程 を 甲 府 に 送 り 、人 質 と さ れ て い た 妻 (見 性 院 )、 嫡 男 勝 千 代 ら を 連 れ 出 し 本 拠 地 下 山 に 帰 還 さ せ た 。 → 梅 雪 謀 反 。 武 田 家 中 に 動 揺 、 逃 亡 兵 続 出 。 2 月 下 旬 ~ 3 月 上 旬 家 康 と の 「 降 伏 条 件 ・ 梅 雪 寝 返 り 交 渉 」 成 立 。 内 容 :「 信 長 が 、 甲 斐 を 領 国 に 編 入 し た 時 、 自 ら の 知 行 地 = 河 内 領 の 安 堵 と 梅 雪 の 地 位 を 安 堵 す る こ と を 、 信 長 に 斡 旋 す る 。 又 そ れ が 不 可 能 の 場 合 、 家 康 が 扶 助 す る 。 穴 山 衆 、 特 に 梅 雪 の 妻 子 に つ い て は 、 人 質 と し て 差 し 出 す が 、 身 分 は 保 証 す る 。」 → 家 康 の 口 説 き 文 句 :「 信 長 陣 営 に 入 る 事 は 、 武 田 家 に 対 す る 裏 切 り で は な く 、 名 門 武 田 家 を 守 る 最 善 の 道 」 と 説 得 し た と 言 わ れ て い る 。 武 田 家 を 裏 切 る 理 由 : 一 般 論 ・ 戦 国 時 代 の 家 臣 (団 ) は 、 居 住 地 域 を 支 配 す る 在 地 領 主 。 大 名 を 主 君 と し て 仰 ぐ の は 、 主 君 が 自 分 の 所 領 を 外 敵 か ら 守 っ て く れ る か ら で 、 見 返 り に 奉 公 ( 戦 に 参 加 ・ 税 金 の 負 担 ) し 、 戦 に 勝 て ば 、 新 所 領 を 得 る こ と が 理 由 で あ っ た 。 主 君 に そ の 技 量 が な け れ

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ば 、 新 し い 主 君 を 選 ぶ の が 一 般 的 で あ る 。 状 況 ・ 梅 雪 に と っ て 、 長 篠 敗 戦 後 、 駿 河 ・ 遠 江 で 、 徳 川 家 康 と 対 峙 す る の は 、 最 も 厳 し い 立 場 に 置 か れ て い た 。 一 方 勝 頼 は 、 御 館 の 乱 後 、 ⑹ 北 条 氏 に 、 北 ・ 東 か ら 攻 勢 を 受 け 、 そ れ に 対 応 せ ざ る を 得 な か っ た 。 結 論 ・ こ う し た 状 況 下 梅 雪 は 、 家 康 と 内 通 し 勝 頼 を 見 限 る 道 を 選 択 し た 。 個 人 的 関 係 ・ 信 玄 の 遺 言 。 嫡 子 勝 千 代 と 勝 頼 息 女 と の 結 婚 不 成 立 。 統 治 軍 事 方 針 の 考 え の 対 立 ( 勝 頼 側 近 衆 の 重 用 有 力 武 田 一 族 と の 軋 轢 ) 。 ➡ 武 田 家 を 存 続 さ せ る に は 、 織 田 ・ 徳 川 氏 と の 連 携 し か な く 、 そ れ は 勝 頼 に は 不 可 能 。 な ら ば 武 田 一 族 で あ り 、 武 田 宗 家 と 血 の 濃 い 穴 山 氏 = 梅 雪 し か な い と 考 え た 。 2 月 末 頃 勝 頼 、 新 府 城 に 。 兵 士 1 万 5 千 余 か ら 1 千 人 余 に 。 3 月 2 日 高 遠 城 ( 勝 頼 の 異 母 弟 仁 科 盛 信 )、 一 日 で 陥 落 。 3 月 4 日 梅 雪 、 家 康 と 駿 府 ・ 蒲 原 城 に て 対 面 。 3 月 8 日 ~ 10 日 梅 雪 、 秋 山 寅 康 の 息 女 ・ 於 都 摩( お つ ま)を 養 女 と し て 、 家 康 に 差 し 出 す 。 家 康 は 浜 松 に 連 れ 帰 り 側 室 と し た 。 翌 年 於 都 摩 は 、 家 康 五 男 ・ 万 千 代 を 生 む が 、 万 千 代 9 歳 の 時 死 亡 。そ の 養 育 を 梅 雪 未 亡 人 見 性 院 に 委 ね た と 言 う 。 3 月 11 日 勝 頼 、郡 内 領 主 小 山 田 信 茂 の 勧 め で 、3 日 新 府 城 に 火 を 放 ち 岩 殿 城 (大 月 市 ) へ 籠 城 の 為 進 む 。 小 山 田 氏 の 裏 切 り に よ り 、 最 後 は 、 織 田 軍 (滝 川 一 益 ) と 激 戦 、 田 野 に て 勝 頼 37 歳 、 嫡 男 信 勝 1 6 歳 、 勝 頼 夫 人 (北 条 氏 女 )1 9 歳 、 主 従 こ と ご と く 戦 死 (自 害 ) 。 → 甲 斐 源 氏 武 田 氏 滅 亡 。 梅 雪 、甲 府 に て 織 田 信 忠 と 対 面 。勝 頼 の 首 級 と も 対 面 し た 。 3 月 20 日 諏 訪 大 社 ・ 法 華 寺 に て 、織 田 軍 本 体 を 率 い た 信 長 に 出 仕 。 金 三 百 両 と も 、 金 子 二 千 枚 と も 言 わ れ る 金 を 献 上 。 → 信 長 と の 主 従 関 係 が 成 立 。 3 月 29 日 信 長 、戦 後 の 甲 斐 の 分 割 策 を 発 表 。甲 斐 国 は 河 尻 秀 隆 、 河 内 領 は 穴 山 梅 雪 、 江 尻 領 は 徳 川 家 康 。 信 長 は 、 4 月 1 0 日 甲 府 を た ち 富 士 山 を み て 東 海 道 を 経 て 、 安 土 城 に 帰 る 。 4 月 25 日 梅 雪 、亡 母 南 松 院 (信 玄 姉 ・ 穴 山 信 友 妻 )の 十 七 回 忌 法 要 で 、「 武 田 家 再 興 」 を 宣 言 。 5 月 8 日 梅 雪 、 織 田 ・ 徳 川 へ の 帰 属 、 本 領 安 堵 に 対 す る お 礼

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の 為 、 家 康 と 共 に 、 安 土 城 に 向 け 、 浜 松 を 出 発 。 5 月 15 日 安 土 城 到 着 。信 長 の 歓 迎 を 受 け る 。19 日 能 興 行 酒 宴 。 6 月 2 日 京 都 で 、 信 長 か ら 茶 会 の 提 案 あ り 、 応 ず る 。 5 月 21 日 梅 雪 、 家 康 と 共 に 京 都 ・ 奈 良 ・ 堺 見 物 へ 。 5 月 29 日 梅 雪 ・ 家 康 堺 入 り (信 長 側 近 長 谷 川 秀 一 案 内 役 )。 ⑺ 6 月 1 日 信 長 、 京 都 に 入 り 、 本 能 寺 に 泊 ま る 。 6 月 2 日 払 暁 「 本 能 寺 の 変 」 明 智 光 秀 の 謀 反 。 6 月 2 日 早 朝 梅 雪 、 家 康 堺 を 出 発 。 河 内 国 枚 方 で 、 知 ら せ に 来 た 京 都 の 豪 商・茶 屋 四 郎 次 郎 と 会 い 、本 能 寺 で 光 秀 謀 反 、 信 長 横 死 を 知 る 。 梅 雪 ・ 家 康 は 驚 愕 し 、 と り あ え ず 京 都 ・ 宇 治 田 原 を 経 て 桑 名 に 脱 出 を 計 る が 、 梅 雪 は 、 河 内 国 飯 盛 山 西 麓 で 別 行 動 を 取 り 、宇 治 田 原 の 草 内 ( く さ じ く さ う ち 現 京 田 辺 市 )で 、 一 揆 (落 ち 武 者 狩 り )に 襲 わ れ 落 命 。 家 康 は 、 茶 屋 四 郎 次 郎 の 金 銀 の 支 援 、 伊 賀 忍 者 等 の 支 援 を 受 け 、 無 事 桑 名 を 経 て 、 岡 崎 に 帰 還 。 → 世 に い う 「 神 君 の 伊 賀 越 え 」 と 言 わ れ る 決 死 の 逃 避 行 。 → 大 河 ド ラ マ 「 真 田 丸 」 梅 雪 = 榎 本 孝 明 家 康 =内 野 聖 陽 別 行 動 の 理 由:① 家 康 と の 同 行 は 、落 ち 武 者 に 襲 わ れ る 可 能 性 あ り と 判 断 。 回 避 し た 。 ② 梅 雪 は 、 家 康 を 疑 っ た 。 殺 害 さ れ る か も と 。 ③ 家 康 が 、 梅 雪 が 邪 魔 に な り 暗 殺 を 命 じ た 。 ④ 梅 雪 が 家 康 の 身 代 わ り に な り 、 家 康 の 逃 避 を 助 け た 。 ➄ 梅 雪 、「 痔 病 」 の 為 、 家 康 か ら 一 里 ほ ど 遅 れ た 。 運 悪 い 。 → 別 行 動 の 理 由 は 明 ら か で な い 。 今 後 研 究 し た い 。 【 そ の 後 の 穴 山 氏 一 族 ・ 穴 山 衆 】 ・ 天 正 10 年 (158 2)6 月 6 月 ~ 10 月 旧 武 田 領 を め ぐ り 、 上 杉 ・ 北 条 ・ 徳 川 方 が 相 次 い で 侵 攻 し 争 乱 が 始 ま る ( 天 正 壬 午 の 乱 ) 。 10 月 下 旬 徳 川 ・ 北 条 氏 和 睦 、 同 盟 成 立 。 ( 天 正 壬 午 の 乱 終 結 ) ・ 天 正 11 年 (158 3) 3 月 梅 雪 息 女 、 家 康 重 臣 酒 井 忠 次 子 息 小 五 郎 に 嫁 ぐ 。 6 月 家 康 五 男 万 千 代 誕 生 。生 母 下 山 殿 ( 於 都 摩 の 方 梅 雪 養 女 )。 ・ 天 正 12 年 (158 4)3 月 小 牧 ・ 長 久 手 の 戦 い 勃 発 。 穴 山 衆 参 陣 。 ・ 天 正 15 年 ( 1588 ) 6 月 武 田 信 治 ( 勝 千 代 ・ 梅 雪 嫡 男 ) 死 去 。 家 康 は 、 武 田 家 断 絶 を 惜 し み 、 五 男 万 千 代 (信 吉 )に 武 田 家 を 継 が せ る 。 但 し 時 期 不 明 。 ・ 天 正 18 年 (15 90)7 月 小 田 原 合 戦 ・ 北 条 氏 、秀 吉 に 降 伏 。東 北 地 方 も 制 し 、秀 吉 、 天 下 統 一 。こ の 時 穴 山 衆 は 、駿 河 城 下 を 警 護 。見 性 院 (梅 雪 未 亡 人 )も 、 家 康 の 庇 護 の も と 駿 河 城 に 居 住 か 。 8 月 家 康 、 関 東 に 移 封 。

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武 田 万 千 代 ( 信 吉 )下 総 小 金 城 3 万 石 に 封 じ ら れ 、 万 千 代 に 従 い 、 穴 山 衆 、 甲 斐 を 離 れ る 。 ・ 文 禄 元 年 (1592 ) こ の 年 、 武 田 万 千 代 、 下 総 佐 倉 城 主 に 。 ・ 慶 長 5 年 (1600 )9 月 関 ヶ 原 の 合 戦 。 ・ 慶 長 7 年 (1602 )11 月 武 田 信 吉 、 常 陸 国 水 戸 28 万 石 を 。 穴 山 衆 も 水 戸 に 移 る 。 ⑻ ・ 慶 長 8 年 (1603 )9 月 武 田 信 吉 死 去 。 享 年 21 歳 。 こ れ に よ り 武 田 家 除 封 。 ・ 慶 長 14 年 (160 9) 家 康 十 一 男 頼 房 、 常 陸 水 戸 城 主 に 。 25 万 石 。 御 三 家 。 こ れ に よ り 穴 山 衆 は 、 普 通 の 水 戸 藩 士 に 降 格 。 ・ 元 和 8 年 (1622 )5 月 見 性 院 (武 田 信 玄 息 女 ・ 梅 雪 妻 ) 死 亡 。 穴 山 氏 断 絶 。 【 見 性 院 と 保 科 正 之 (1611 ~ 167 2 】 ⒈ 見 性 院 は 、 夫 梅 雪 ・ 嫡 男 勝 千 代 (信 治 )死 後 も 、 家 康 よ り 庇 護 を 受 け る 。 ⒉ 家 康 、 江 戸 幕 府 開 府 後 は 、 武 蔵 国 (今 の さ い た ま 市 )に 知 行 地 600 石 を 拝 領 し 、 江 戸 城 田 安 門 内 の 比 丘 尼 屋 敷 で 余 生 を 送 っ て い た 。 ⒊ 2 代 将 軍 秀 忠 の 乳 母 は 、 秀 忠 近 習 の 井 上 半 九 郎 の 母 で 、 秀 忠 は 何 回 も ご 機 嫌 伺 い に 乳 母 殿 を 訪 ね て い た 。 ⒋ 北 条 家 家 臣 神 尾 伊 予 の 娘 お 静 ( 於 志 津 ) は 、 乳 母 殿 の 給 仕 役 ( 下 女 ) と し て 仕 え て い た 。 こ こ で 秀 忠 が 、 お 静 を 見 初 め た と 言 わ れ る 。 ⒌ 乳 母 殿 に 気 に 入 ら れ た お 静 は 、 使 い と し て 、 比 丘 尼 屋 敷 に 住 む 見 性 院 を 度 々 訪 れ 親 し く な っ た と 思 わ れ る 。 ⒍ や が て 、 お 静 は 秀 忠 の 子 を 懐 妊 し 、 慶 長 16 年 (16 11)5 月 、 見 性 院 ・ 信 松 院 ( 信 玄 六 女 信 長 嫡 男 信 忠 と 婚 約 す る が 解 消 八 王 子 在 住 )の 支 援 を 得 て 、保 科 正 之 誕 生 。 ⒎ 老 中 土 井 正 勝 ら を 通 じ 、 秀 忠 に 知 ら せ る も 「 覚 え が あ る 」 と の 事 に て 正 式 に 認 知 さ れ ず 、 江 戸 城 入 り は で き な か っ た 。 秀 忠 は 、 謹 厳 実 直 ・ 側 室 持 た ず 恐 妻 家 。 正 室 ( 継 室 ) は 、 お 江 与 ( お 江 ・ お ご う 浅 井 長 政 と お 市 の 子 姉 は 茶 々 ) で 、 年 上 ・ 嫉 妬 心 強 い 。 そ の 後 、 見 性 院 が 、 養 子 と し て 預 か っ た と も 言 わ れ る 。 ⒏ 元 和 3 年 (161 7) 正 之 7 歳 。 見 性 院 は 、 武 門 の 子 と し て 養 育 す る こ と を 願 出 、 認 め ら れ た の か 、 或 は 秀 忠 の 指 示 か 不 明 で あ る が 、 高 遠 藩 ( 2 万 5 千 石 ) 藩 主 保 科 正 光 の 養 子 に 。 養 育 費 と し て 、 5 千 石 加 増 さ れ た と 言 う 。 保 科 家 の 先 々 代 正 俊 は 、 武 田 氏 の 武 将 ( 槍 弾 正 ) 。 先 代 正 直 も 武 田 氏 の 武 将 、 高 遠 城 で 織 田 ・ 徳 川 連 合 軍 と 戦 う 。 江 戸 時 代 に な っ て も 、 見 性 院 と 高 遠 藩 ・ 保 科 家 と の 《 主 従 の つ な が り 》 は あ っ た と 思 わ れ る 。 江 戸 城 登 城 の 折 、 表 敬 訪 問 。 ⒐ 保 科 正 之 。 3 代 将 軍 家 光 の 異 母 弟 、 4 代 将 軍 家 綱 の "補 佐 役 ” 。 会 津 藩 祖 。 ⒑ 見 性 院 の 墓 は 、 現 在 さ い た ま 市 ・ 清 泰 寺 に あ り 、 門 に は 、 葵 の 御 紋 が あ る 。 お わ り に 「 逆 臣 ・ 裏 切 り 者 と い う レ ッ テ ル の 見 直 し 」 「 経 緯 」: ① 武 田 家 対 す る 親 族 意 識 ( 母 は 信 玄 姉 ・ 妻 は 信 玄 二 女 ) は 強 く 、 信 玄 存 命 中 は 忠 誠 を 尽 く し た 。 ② す で に 諏 訪 家 を 継 承 し た 勝 頼 が 武 田 を 継 ぐ と 、 梅 雪 (特 に 妻 見

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性 院 ) は 、「 嫡 子 勝 千 代 こ そ 正 統 な 後 継 者 」と 反 発 し 対 立 し 始 め た 。③ 表 面 化 は 、長 篠 の 戦 い で の 、梅 雪 の 行 動 = 退 却 。高 坂 政 昌 は 、梅 雪 の 切 腹 を 進 言 、勝 頼 は 、家 中 の 分 裂 を 恐 れ 、 温 情 を 行 う 。 決 定 的 な の は 、 甲 府 か ら の 妻 子 奪 取 。 「 評 価 (私 見 ): ① 梅 雪 は 、 江 尻 城 の 城 主 を 務 め 、 西 の 徳 川 氏 、 東 の 北 条 氏 と 、 領 土 問 題 等 々 の 交 渉 を 行 い 、信 玄 の「 外 務 大 臣 的 役 割 」を 果 た し 、早 く か ら 徳 川 ・ 織 田 氏 の ⑼ 考 え → 新 時 代 の 到 来 に 注 目 し て い た 。 ② 武 田 家 の 古 い 封 建 的 体 質 に 違 和 感 を 持 っ て い た の で は な い か 。勝 頼 で は 駄 目 だ と 考 え て い た の で は な い か 。③ 織 田 ・ 徳 川 側 に 入 る こ と に よ り 、甲 斐 国 を 、武 田 家 (穴 山 家 )を 守 り 、河 内 領 を 中 心 に 再 興 を 果 た す べ く 勝 頼 を 裏 切 っ た の で は な い か 。 ④ 穴 山 梅 雪 は 「 逆 臣 で あ る 」「 裏 切 り 者 で あ る 」 と い う 評 価 は 、 再 検 討 さ れ て も 良 い の で は な い か 。 以 上 《 参 考 図 書 》 ・「 山 梨 県 の 歴 史 」 山 川 出 版 社 200 0 年 ・「 武 田 信 玄 - 伝 説 的 英 雄 か ら の 脱 却 - 」 中 公 新 書 19 97 年 ・「 図 説 武 田 信 玄 の 世 界 」 秋 田 書 店 19 88 年 ・「 穴 山 武 田 氏 ・ 中 世 武 士 選 書 」 平 山 優 戎 光 祥 出 版 2011 年 ・「 英 傑 の 日 本 史 風 林 火 山 編 」 井 沢 元 彦 角 川 文 庫 2010 年 ・「 武 田 二 十 四 将 」 英 和 出 版 社 2014 年 《 参 考 論 文 ・ 当 会 で の 発 表 分 》

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・「 武 田 の 家 名 を 遺 さ ん と 苦 闘 し た 穴 山 伊 豆 守 信 君 ( 梅 雪 )」 竹 村 紘 一 副 会 長 約 10 年 前 特 別 講 演 会 で 発 表 ・「 清 和 源 氏 の 真 実 」 加 藤 導 男 会 長 平 成 2 9 年 12 月 例 会 で 発 表 ⑽

参照

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