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島津氏の琉球出兵と権力編成: 沖縄地域学リポジトリ

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Academic year: 2021

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Title

島津氏の琉球出兵と権力編成

Author(s)

紙屋, 敦之

Citation

沖縄史料編集所紀要(5): 1-41

Issue Date

1980-03-31

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/7180

Rights

沖縄県沖縄史料編集所

(2)

島津氏 の琉球出兵 と権力編成 は じ め に

紙 屋 敦

慶 長 一 四 年 ( 〓 ハ 〇 九 ) 三 月 ' 島 津 氏 は 三

名 余 の 軍 勢 を 派 遣 し て 琉 球 を 侵 略 し た 。 琉 球 出 兵 に 関 す る こ (1 ) れ ま で の 研 究 は 、 ① 島 津 氏 に よ っ て 琉 球 出 兵 の 口 実 に 利 用 さ れ た 諸 問 堤 -朝 鮮 出 兵 時 の 軍 役 末 進 問 題 。 徳 川 幕 (2 ) 府 へ の 来 聴 問 題 な ど 、 ① 島 津 民 は 琉 球 貿 易 の 独 占 を 目 的 と し て い た 戦 後 、 島 津 氏 は 琉 球 王 府 を 中 国 貿 易 の 機 1 -関 と し て 利 用 し た 、 こ と な ど を 明 ら か に し て き た 。 し か し 、 ① は 、 上 述 の 諸 問 題 を 口 実 と し て 琉 球 出 兵 を 行 な っ た 島 津 氏 の 内 部 事 情 が 不 問 に 付 さ れ て い る 。 ① は 、 琉 球 統 治 の 基 本 方 針 を 定 め た 捉 十 五 ヶ 条 の 貿 易 条 項 を 即 琉 球 出 兵 の 目 的 に 短 絡 的 に 結 び つ け て よ い も の か 疑 問 で あ る 。 概 し て こ れ ま で の 研 究 に は 、 琉 球 出 兵 を 島 津 氏 の 権 力 (3 ) 矛 盾 の 表 現 な ら び に そ れ を 克 服 し た 権 力 編 成 の 問 題 と し て 捉 え る 視 点 が 欠 け て い た よ う だ 。 薩 琉 関 係 史 を 薩 摩 側 か ら み る 場 合 p 島 津 民 の 琉 球 支 配 と 藩 政 の 展 開 と を 統 1 的 に 把 握 す る 視 点 が 必 要 で あ る こ (4 ) (5 ) と は 言 う ま で も な い こ と で あ る 。 そ こ で 本 稿 は 、 琉 球 出 兵 を 慶 長 期 島 津 氏 の 権 力 編 成 と の 関 連 で お さ え 、 琉 球 出 兵 を め ぐ る 権 力 内 部 の 対 立 (第 1 章 )p 琉 球 出 兵 の 動 機 と 目 的 (第 二 葦 )p 島 津 氏 の 権 力 編 成 と 琉 球 支 配 (第 三 章 )な ど に つ い て 考 察 し 、 あ わ せ て 薩 琉 関 係

=

琉 球 支 配 の 構 造 的 特 質 を 検 討 し た い 。

(3)

押 琉 球 出 兵 を め ぐ る 権 力 内 部 の 対 立 こ れ ま で 琉 球 出 兵 の 内 情 を 照 射 し た 研 究 は な か っ た 。 そ こ で 本 章 で は 、 琉 球 出 兵 を め ぐ る 島 津 氏 権 力 内 部 の 対 立 を 図 式 的 に 示 し 、 そ の 背 景 に あ る 権 力 矛 盾 に つ い て 言 及 し て お き た い 。 (6 ) 慶 長 一 一 年 六 月 一 七 日 、 島 津 家 久 は 徳 川 家 康 に 大 島 出 兵 の 許 可 を 請 い 許 さ れ た (こ の 時 以 後 を 狭 義 の 琉 球 出 兵 と よ (7 ) ぷ こ と に す る 。 こ の 両 者 が 全 体 と し て 琉 球 出 兵 の 過 程 で あ る ) ◎ そ れ よ -三 ケ 月 前 の 三 月 、 島 津 氏 は 大 島 出 兵 を 企 図 し 、 (8 ) そ の た め の 談 合 を 開 い た 。 次 の 史 料 は 、 島 津 義 弘 が 上 洛 中 の 島 津 家 久 に 大 島 出 兵 の 談 合 の 模 様 を 伝 え た 書 状 で あ る が 、 談 合 を 通 じ て 、 大 島 出 兵 を 唱 導 す る 大 名 島 津 氏 (義 弘 。 家 久 父 子 ) と そ れ に 反 対 す る 勢 力 と の 対 立 が あ ら わ に さ れ た こ と が わ か る 。 (島 津 義 久 ) 在 京 御 辛 労 之 至 申 侯 も 疎 二 俣 、 偽 琉 球 大 島 渡 海 之 御 談 合 於 鹿 児 島 御 座 候 二 付 、 我 等 事 も 可 参 由 承 侯 条 竜 伯 様 致 (忠 詮 ) 御 供 罷 出 侯 、 於 様 子 者 桂 太 郎 兵 衛 尉 可 中 上 由 申 侯 問 定 可 逆 言 上 侯 、 然 者 諸 侍 出 物 之 儀 日 限 於 相 違 者 知 行 を 可 被 召 上 侯 旨 御 書 出 を 以 被 欄 出 侯 、 然 処 、 今 度 御 上 洛 井 石 舟 作 之 出 物 五 十 人 ほ と 末 進 衆 在 之 事 二 俣 、 誠 二 一 腰 を う -知 行 を う -は な し 御 奉 公 を 専 二 存 、 出 物 関 目 申 侯 人 数 も 同 前 二 御 座 候 へ ハ 、 御 書 出 も 徒 二 罷 成 、 後 日 之 御 為 二 罷 成 間 数 通 出 合 侯 、 右 之 仕 合 奥 州 様 被 聞 召 侯 哉 と 尋 申 侯 へ ハ 、 中 上 侯 ハ 、 忽 二 人 を -づ し 申 事 二 而 致 周 拾 不 申 上 通 出 物 請 取 衆 被 申 侯 、 か げ -1 ニ お い て ハ 如 此 被 申 候 、 無 御 存 事 二 人 の 噺 を 請 候 事 笑 止 之 儀 英 傑 、 ケ 様 成 様 子 貴 所 へ 可 申 人 在 之 間 数 間 、 内 々 為 御 心 得 令 啓 侯 、将 又 不 人 中 事 候 へ 共 、 今 度 大 島 渡 之 御 談 合 三 日 こ て 侯 ツ ゝ

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島津氏の琉球出兵 と権力編成 (川 上 久 隅 ) (久 国 ) 其 内 竜 伯 様 7 日 ハ 談 儀 所 へ 御 振 舞 一 日 ハ 南 林 寺 へ 御 振 舞 こ て 候 、 談 合 衆 之 内 慰 蚊 。 伊 集 院 宮 内 少 輔 。 河 上 式 部 (経 永 ) (忠 統 ) (忠 元 ) (伊集 院 久 治 ) 太 夫 。 村 田 刑 部 少 輔 此 四 人 御 供 に て 侯 、 談 儀 所 へ ハ 我 等 も 参 侯 、 慰 牧 ◎ 喜 入 摂 津 守 ◎ 新 納 武 蔵 入 道 。 抱 節 此 四 人 も 御 供 に て 終 日 之 御 振 舞 に て 侯 、 彼 四 人 も 如 此 侯 故 御 談 合 に も 両 日 ハ 不 被 罷 出 侯 、 其 外 之 人 数 -八 ツ 時 分 に 被 罷 出 侯 而 日 不 人 前 二 御 暇 被 申 侯 二 付 、 御 談 合 も は か ゆ き か ね 侯 、 笑 止 之 体 二 俣 つ る 、 然 ハ 談 儀 所 御 振 舞 も 御 書 出 二 令 相 違 、 金 銀 を ち -は め た る 体 侯 、 竜 伯 様 調 こ 1 々 感 を 御 付 被 成 侯 、 ケ 様 二 俣 へ ハ 何 の 御 書 出 も 徒 二 罷 成 侯 、 是 又 為 御 存 侯 、 猶 追 々 可 申 侯 、 恐 々 謹 言 (慶 長 十 一 年 ) 卯 月 二 日 (

)

(島 津 家 久 ) 陸 奥 守 殿 参 こ れ に よ る と 、 大 島 出 兵 の 談 合 は 三 月 に 三 日 間 鹿 児 島 で 開 か れ た 。 当 時 家 久 は 、 徳 川 家 康 の 参 内 (四 月 二 八 日 実 施 ) に 屈 従 す る た め に 上 京 中 で 留 守 だ っ た (二 月 1 五 旦 泉 泊 出 船 ) 。 義 弘 は 談 合 に 出 席 を 求 め ら れ た の で p 島 津 義 久 (龍 伯 ) に 同 行 し て 鹿 児 島 に 赴 き 談 合 に 参 加 し た 。 と こ ろ が 談 合 衆 の 大 方 が 大 島 出 兵 の 談 合 に 消 極 的 な 姿 勢 で あ っ た こ と を 目 の あ た -に し て 憤 慨 し た 義 弘 は 、 あ え て こ と の 顛 末 を 家 久 に 注 進 し た の で あ る 。 い わ -、 義 久 は 三 日 間 の 談 合 の 内 1 日 は 談 儀 所 へ 、 も う 7 日 は 南 林 寺 に 談 合 衆 の 内 川 上 久 隅 (慰 蚊 ) 。 伊 集 院 宮 内 少 輔 。 河 上 久 国 。 村 田 経 永 の 四 人 を 伴 っ て 終 日 参 詣 し 、 談 合 を 欠 席 し た 。 た だ し 、 談 儀 所 へ は 自 分 を は じ め 、 川 上 久 隅 。 喜 入 忠 続 。 新 柄 忠 元 ◎ 伊 集 院 久 治 (抱 節 ) の 四 人 も 義 久 の お 供 を し た 。 ま た 、 義 久 の 談 儀 所 。 南 林 寺 参 詣 に お 供 し な か っ た 談 合 衆 の 面 々 は 、 午 後 二 時 ご ろ ( 「 八 ツ 時 分 」 ) 談 合 の 席 に 顔 を 出 し て 日 没 前 に は 退 席 す る と い っ た 有 様 - 3

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で 、 談 合 は ま っ た く 行 な わ れ な か っ た も 同 然 で あ っ た 、 と 。 義 弘 の 非 難 は 、 特 に 義 久 が 大 島 出 兵 の 談 合 を ボ イ コ ッ ト す る 動 き の 先 頭 に 立 っ て い た こ と に 対 し て 向 け ら れ て い た と い っ て よ い 。 (10 ) 談 合 の そ の 後 は 五 月 一 日 付 家 久 宛 の 義 弘 書 状 に よ る と 、 「大 島 之 儀 御 談 合 被 申 置 候 、 稚 然 、 渡 海 之 船 作 な と も 末 被 企 p 御 談 合 為 被 申 置 迄 こ て 其 以 後 兎 角 之 噂 1 号 口 も 無 之 侯 、 然 時 ハ 来 秋 之 渡 海 如 何 可 相 調 哉 と 存 計 侯 」 と あ る 。 つ ま -、 三 月 の 談 合 か ら 一 ケ 月 余 も 立 っ た の に 、 秋 に 予 定 さ れ た 大 島 出 兵 の た め の 軍 船 は 楚 造 さ れ ず 、 具 体 的 な 準 備 は 何 一 つ 進 捗 し な か っ た 。 ま た 、 大 島 出 兵 が 噂 に 上 る こ と す ら な か っ た 。 次 に 、 琉 球 出 兵 が 実 施 さ れ た 慶 長 一 四 年 の 出 兵 反 対 派 の 動 向 を み て み よ う 。 例 え ば 、 本 田 親 政 を 厳 島 地 頭 に 任 命 す る 島 津 家 久 の 内 意 を 川 上 久 国 。 島 津 久 慶 の 二 人 に 伝 え た 元 和 五 年 ( 一 六 一 九 ) 四 月 二 二 日 付 島 津 久 元 。 (ll ) (本 田 親 政 ) (家 繁 ) 伊 勢 貞 昌 連 署 状 に よ る と 、 「 先 年 琉 球 へ 御 人 数 被 遥 侯 時 も 歴 々 不 行 儀 二 俣 処 、 伊 賀 守 。 市 来 八 左 衛 門 両 人 迄 -ぎ こ 被 相 噂 侯 故 御 褒 美 共 被 成 侯 」 と あ る よ う に 、 琉 球 出 兵 中 も 大 将 の 命 令 を 無 祝 し て 勝 手 な 行 動 を と る 重 立 つ 家 (12 ) 臣 が い た 。 ち な み に 、 琉 球 出 兵 の 軍 勢 は 、 「 鹿 児 島 。 加 治 木 。 国 分 方 」 す な わ ち 家 久 。 義 弘 ◎ 義 久 三 者 の 軍 事 力 と ' 種 子 島 。 北 郷 ・ 肝 付 。 佐 多 氏 な ど 1 所 衆 (外 城 を 私 領 と す る 上 級 給 人 ) の そ れ と か ら 構 成 さ れ て い た 。 琉 球 出 (13 ) 兵 中 の 行 動 を 「 -ち ぎ 」 と 評 価 さ れ た 本 田 親 政 ・ 市 来 家 繁 の 二 人 は 「 鹿 児 島 方 式 頭 」 で あ っ た 。 (14 ) ま た 、 こ れ は 薩 摩 藩 の 旧 聞 を ま と め た 「 旧 詩 集 」 の 中 の 話 で あ る が 、 琉 球 出 兵 の 軍 勢 が 鹿 児 島 の 砥 園 洲 海 岸 を 出 船 し た 慶 長 一 四 年 二 月 六 日 、 軍 勢 の 中 に 次 の よ う な 不 穏 な 動 き が あ っ た 。 (久 高 ) (増 宗 ) 慶 長 十 四 年 琉 球 御 征 伐 之 時 、 樺 山 権 左 衛 門 。 平 田 太 郎 左 衛 門 両 人 を 大 将 と し て 被 差 遣 節 、 御 領 国 中 之 諸 士 樺 山

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島津氏の琉球出兵 と権力編成 (忠 元 ) (虫 く い ) 殿 を 大 将 と し て 其 下 知 に 付 事 ハ 成 間 数 と 申 侯 湖 、 新 納 武 蔵 守 罷 出 甚 し -敬 ひ 被 成 故 諸 士 合 点 し て 起 し □ な -す な わ ち 、 出 征 す る 家 臣 団 の 一 部 が 、 樺 山 久 高 を 大 将 と し て 仰 ぎ 、 そ の 命 令 に 従 う こ と を 拒 否 し た と い う の で (15 ) あ る 。 確 か に こ れ は 、 前 述 し た 琉 球 出 兵 の さ い の 「 歴 々 不 行 儀 二 俣 」 と い う 事 態 を 想 起 す れ ば 、 あ -え な い こ と で は な か っ た と 思 わ れ る 。 事 件 の 本 質 は 「 旧 詩 集 」 が い う よ う に 、 樺 山 久 高 の 大 将 と し て の 器 量 不 足 が 出 征 す る 家 臣 た ち を し て 不 服 従 の 態 度 を と ら せ た の で は な -p そ れ は 二 部 家 臣 団 の 琉 球 出 兵 に 対 す る 反 対 の 意 思 表 示 で あ っ た の で は な か っ た か 。 と こ ろ で 、 樺 山 久 高 を 大 将 と し て 拒 否 し た 家 臣 た ち が 、 も う 一 人 の 大 将 (実 は 副 大 将 ) の 平 田 増 宗 に 対 し て は 反 対 し て い な い こ と は 注 目 に 値 す る 。 つ ま -そ こ に は 、 平 田 増 宗 も か れ ら 同 様 に 琉 球 出 兵 に 反 対 す る 側 に あ っ た と い う こ と が 推 測 さ れ る か ら で あ る 。 両 者 の 立 場 の 相 違 を み る と 、 樺 山 久 高 は 、 朝 鮮 出 兵 の 時 天 正 二 〇 年 二 五 九 二 ) 島 津 久 保 (こ の 時 点 で は 島 津 義 弘 の 後 継 者 ' 文 禄 二 年 < 一 五 九 三 > 九 月 八 日 於 朝 鮮 戦 死 ) に よ っ て 家 老 に 任 命 さ れ て 以 来 在 職 三 一 年 、 義 弘 ◎ 家 久 二 代 に 仕 え た 。 平 田 増 宗 は 慶 長 三 年 父 歳 宗 が 朝 鮮 で 病 死 し た 跡 (16 ) を 受 け て 、 父 同 様 義 久 の 家 老 に な っ た 。 以 上 の 検 討 に よ っ て ' 琉 球 出 兵 を 唱 導 、 推 進 し た の が 島 津 氏 の 当 主 家 久 と そ の 父 義 弘 で あ っ た の に 対 し 、 島 津 義 久 な ら び に 義 久 の 家 老 平 田 増 宗 を 中 心 と し た 勢 力 は そ れ に 消 極 的 。 拒 否 的 で あ っ た と 図 式 化 す る こ と が で き る 。 た だ し 、 義 久 と 平 田 増 宗 と が 同 一 次 元 で 琉 球 出 兵 に 反 対 だ っ た わ け で は な い (後 述 ) 0 そ れ で は 琉 球 出 兵 を め ぐ る 権 力 内 部 の 対 立 の 背 景 に あ る も の を 探 っ て み よ う 0 慶 長 一 五 年 ' 島 津 家 久 は 前 年 の 琉 球 出 兵 で 捕 虜 に し だ 琉 球 国 王 尚 寧 を 召 連 れ て 駿 府 。 江 戸 に 参 府 し た . そ の 留 守 中 六 月 一 九 日 、 琉 球 出 兵 の 副 将 平 田 増 宗 が 島 津 義 弘 の 命 令 に よ っ て 暗 殺 さ れ る と い う 事 件 が 発 生 し た 。 戦 国 か 5

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-ら 近 世 初 期 に か け て の 島 津 氏 家 臣 団 の 事 贋 を ま と め た ﹃ 本 港 人 物 誌 ﹄ に よ る と 、 平 田 増 宗 は 「 国 賊 伝 」 の 巻 に 左 (1 7 ) 記 の よ う に 記 載 さ れ て い る 。 義 久 公 卿 家 老 、 倍 数 地 頭 、 慶 長 十 四 年 琉 球 征 伐 副 将 1〓 ア 渡 海 、 同 十 五 年 六 月 十 九 日 依 野 心 於 入 来 土 瀬 戸 越 被 諒

(18

)

ま ず 平 田 増 宗 の 身 上 を 概 観 し よ う 。 平 田 増 宗 は 父 歳 宗 が 義 久 家 老 、 弟 宗 親 は 「義 久 隠 居 方 家

で あ っ た 。 こ の よ う に 、 平 田 7 族 は 義 久 の 権 力 に 密 着 し て い た 。 増 宗 の 私 領 は 薩 摩 国 日 置 郡 郡 山 に あ -p 知 行 約 三 〇 〇 〇 石 で (19 ) (20 ) あ っ た 。 「 慶 長 十 七 八 年 高 帳 」 に よ る と 、 一 所 衆 7 四 人 を 除 -1 〇 〇 〇 石 以 上 の 家 臣 は 二

人 で p そ の 内 三 〇 〇 〇 石 代 は 二 人 で あ っ た か ら 、 生 前 の 増 宗 の 島 津 氏 権 力 内 部 に お け る 実 力 の ほ ど が 推 し 測 ら れ る 。 慶 長 五 年 「 庄 内 の 乱 」 の 時 、 日 向 国 諸 県 郡 穆 佐 地 頭 か ら 薩 摩 国 薩 摩 部 活 敷 地 頭 に 転 任 さ せ ら れ た 。 そ れ で は 平 田 増 宗 が 暗 殺 さ れ る 理 由 に な っ た 「 野 心 」 と は 何 で あ っ た か 。 幕 末 の 史 家 伊 地 知 季 安 の 考 証 に な る (21 ) ﹃ 家 久 公 御 養 子 御 願 7 件 ﹄ に よ る と 、 関 ケ 原 の 戦 で 西 軍 に 加 担 し た 島 韓 氏 が 存 亡 の 危 機 に 直 面 し て い る 最 中 、 島 津 義 久 の 孫 島 津 忠 偽 (大 隅 国 垂 水 領 主 一 万 八 六 八 九 石 余 ) を 擁 立 し て 島 津 氏 の 権 力 を 奪 取 す る 陰 謀 が あ っ た 。 そ の 主 謀 者 は 鴇 か つ て 島 津 氏 に 対 す る 謀 反 い わ ゆ る 「 庄 内 の 乱 」 (慶 長 四 年 三 月 -翌 年 三 月 ) を 起 こ し た 伊 集 院 忠 真 で あ っ た が p そ れ に 平 田 増 宗 も 加 担 し て い た と い う 。 こ の 陰 謀 は 、 慶 長 七 年 四 月 二 日 徳 川 家 康 が 関 ケ 原 の 戦 で 反 旗 を (22 ) ひ る が え し た 島 津 義 弘 に 替 え て 先 代 の 義 久 に 本 領 を 安 堵 し 、 義 弘 の 子 家 久 に 家 督 相 続 さ せ る こ と を 認 め た こ と に ょ っ て 島 津 氏 の 存 続 が 決 定 し p 結 局 挫 折 し た 。 伊 集 院 忠 兵 は 鴨 家 康 に 臣 従 の 挨 拶 を す る た め に 上 洛 す る 家 久 に よ っ て 同 年 八 月 一 七 日 日 向 国 諸 県 郡 野 尻 に お い て 誰 戟 さ れ たT0)3 そ れ と 同 時 に 、 家 久 は 平 田 増 宗 の 嫡 子 宗 次 も 殺 害 し

(8)

島津氏 の琉球出兵 と権力編成 (24 ) だ 。 ﹃本 清 人 物 語 ﹄ の 宗 次 の 項 は 「 慶 長 七 年 八 月 十 七 日 於 野 尻 横 死 年 十 七 」 と あ る 。 こ の こ と は 、 平 田 増 宗 芸 ボ 次 父 子 と 伊 集 院 忠 実 と の 結 び 付 き を 連 想 さ せ る 。 ま た 、 平 田 増 宗 暗 殺 事 件 後 、 今 度 は 増 宗 の 弟 宗 親 が 島 津 忠 偽 の 子 菊 袈 裟 (久 葦 ) を 擁 立 、 謀 反 を 起 こ す 陰 謀 の (25 ) 嫌 疑 を か け ら れ て 慶 長 一 七 年 四 月 二 六 日 切 腹 を 命 ぜ ら れ 、 ! 旋 仙 八 人 全 員 が 課 哉 さ れ る と い う 事 件 が 発 生 し た 。 こ れ に 関 連 し て こ の 陰 謀 に 巻 き こ ま れ た 島 津 忠 の 。 久 章 父 子 は 、 同 年 六 月 7 六 日 、 事 情 聴 取 に 出 向 い た 島 津 家 久 の 使 者 比 志 島 国 貞 に 対 し p 平 田 宗 親 の 陰 謀 と は 一 切 無 関 係 で あ る こ と P 家 久 (島 津 氏 の 嫡 流 ) に 対 し て 逆 意 は な い (26 ) こ と な ど を 誓 っ た 起 請 文 を 差 し 出 し た 。 島 津 義 久 の 血 筋 の 者 (具 体 的 に は 島 津 忠 偽 。 久 葦 父 子 ) を 島 津 氏 の 当 主 に 擁 立 す る 伊 集 院 忠 実 の 陰 謀 が 挫 折 し た 後 は 、 そ れ が 平 田 宗 親 に 継 承 さ れ て い っ た こ と が わ か る 。 平 田 増 宗 は 、 こ う し た 陰 謀 の 線 上 に 位 置 し て い た の で は な か っ た か 。 増 宗 の 「 野 心 」 は 、 現 当 主 の 島 禅 家 久 を 廃 し て 義 久 の 血 筋 の 者 を 擁 立 し 、 島 津 氏 の 権 力 を 掌 撞 す る こ と で あ っ た と い え よ う 。 (27 ) 「 三 州 御 治 世 要 覧 」 は 、 島 津 義 弘 が 平 田 増 宗 を 暗 殺 し た 背 景 を 、 「 三 年 以 前 、 島 津 下 総 ニ テ 入 来 衆 申 相 野 九 郎 左 衛 門 江 可 討 果 由 被 仰 付 侯 へ ト モ 子 今 不 得 討 侯 、 御 留 主 二 被 召 置 候 儀 御 気 遣 二 被 思 召 上 候 、 山 賊 ノ 体 二 而 急 度 殺 害 可 仕 侯 」 と 記 述 し て い る 。 三 年 以 前 、 恐 ら -慶 長 二 年 島 津 氏 が 大 島 出 兵 を 企 図 し た 時 期 か ら 、 義 弘 は 増 宗 暗 殺 の 機 会 を ね ら っ て い た 。 今 度 、 島 津 家 久 が 琉 球 国 王 尚 寧 を 召 連 れ て 鹿 児 島 を 出 発 蒜 長 一 五 年 五 月 一 六 日 ) P 駿 府 。 江 戸 に 参 府 し た 留 守 に 増 宗 を 国 許 に 残 し 置 -こ と が 島 津 氏 に と っ て 危 険 で あ る と 判 断 し た 義 弘 は 、 こ と が 起 こ る 前 に 増 宗 排 除 = 殺 害 の 挙 に 出 た 、 と 。 ま た 、 伊 地 知 事 安 は ﹃ 家 久 公 卿 養 子 御 願 山 件 ﹄ の 中 で 、 「 其 御 留 守 ニ (28 ) は 六 月 十 九 日 、 押 川 公 近 平 田 増 宗 を 威 殺 い た し 、 労 内 乱 を 被 相 像 事 二 御 座 候 」 と 述 べ 、 義 弘 は 増 宗 の 挙 動 に 内 乱 7

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-の 生 起 す る 危 機 を 予 想 し た か ら で あ る ' と し た 。 以 上 の 通 -で あ る と す る な ら ば 、 平 田 増 宗 暗 殺 事 件 は 、 後 世 の 史 家 を し て 内 乱 勃 発 の 危 機 と 評 価 さ せ た よ う な 慶 長 期 島 津 氏 の 権 力 の 危 機 に 、 大 名 の 側 か ら 終 止 符 を 打 つ た め に 仕 掛 け ら れ た 先 制 攻 撃 で あ っ た と い え る 。 慶 長 期 の 島 津 氏 は 、 豊 臣 政 梅 の 採 っ た 島 津 氏 権 力 分 断 政 策 に よ っ て 太 閤 検 地 後 、 権 力 が 、 国 分 の 義 久 、 加 治 木 の 義 弘 、 鹿 児 島 の 家 久 に 分 散 さ れ て い た 。 そ こ で 関 ケ 原 の 戦 後 の 政 治 的 危 機 を 克 服 し た 慶 長 七 年 に 島 津 氏 一 八 代 当 主 を 襲 っ た 家 久 の 下 に 権 力 を 一 元 化 す る 課 題 に 直 面 し て い た . 次 章 で 述 べ る よ う に 、 家 久 と 義 弘 は 慶 長 一 一 年 三 月 大 島 出 兵 の 談 合 を 開 催 、 六 月 に は そ れ を 権 力 編 成 を 推 進 す る た め の 方 策 と し て 軌 道 に 乗 せ る こ と に 成 功 し た が p 義 久 は 、 琉 球 と の 善 隣 友 好 の 立 場 か ら そ れ に 反 対 だ っ た 。 ま た 、 出 兵 に も と づ く 軍 役 の 過 重 化 を 恐 れ た 家 臣 団 は 大 島 出 兵 に 反 対 し た 。 そ の こ ろ 、 島 津 氏 は 太 閤 検 地 の 一 作 配 当 を 原 則 に し た 知 行 宛 行 以 来 、 一 万 数 千 人 に の ぼ る 膨 大 な 家 臣 団 に 対 し て 適 切 な 知 行 制 度 を 確 立 し て お ら ず 、 家 臣 団 の 不 満 は 蓄 積 し て い っ た 。 し た が っ て 、 知 行 問 題 に 端 を 発 す る 大 名 と 家 臣 団 と の 矛 盾 は 、 琉 球 出 兵 と い う 対 外 問 題 と 相 ま っ て 相 乗 的 に 深 化 さ れ て い っ た と み な さ れ る 。 か か る 時 期 に 、 家 久 に 世 子 が い な い の を 好 機 に 、 反 島 津 氏 勢 力 は p 平 田 増 宗 の 下 に 結 集 し 、 義 久 の 血 筋 の 者 を 擁 立 し て へ 大 名 島 津 氏 と 権 力 抗 争 を 展 開 し た の で あ る 。 琉 球 出 兵 は 、 島 津 氏 の 権 力 矛 盾 が 集 中 的 に 表 現 さ れ た 事 件 で あ っ た 0 ニ 琉 球 出 兵 の 動 機 と 目 的 琉 球 出 兵 へ の 道 は 、 慶 長 二 年 大 島 出 兵 の 企 画 と 同 一 四 年 琉 球 出 兵 の 実 施 と い う 二 つ の 段 階 に わ け る こ と が で

(10)

島津氏 の琉球出兵 と権力編成 ( 29 ) き る 。 慶 長 二 年 三 月 、 島 津 氏 は 大 島 出 兵 の 談 合 を 開 い た 。 島 津 氏 は 何 を 契 機 に い つ ご ろ 大 島 出 兵 を 決 意 し た の か を ま ず 検 討 し よ う 。 こ の 問 題 を 考 え る 場 合 、 肥 前 国 平 戸 領 主 の 松 浦 鎮 信 が 島 津 氏 の 家 老 比 志 島 国 貞 。 島 津 忠 長 の 二 人 に 宛 て た 慶 長 7

0

年 八 月 1 五 日 付 書 状 と 、 そ れ に 琴 見 ら れ て い た 幕 府 老 中 本 多 正 純 が 松 浦 鎮 信 な ら び に 長 崎 奉 行 小 笠 原 一 席 に (30 ) 宛 て た 同 年 七 月 二 八 日 付 奉 書 (鍋 島 氏 の も と に 八 月 一 四 日 到 着 ) の 写 二 通 の 存 在 を 看 過 す る こ と は で き な い 。 松 浦 鎮 信 の 書 状 は 、 こ の 年 中 国 の 福 州 か ら 琉 球 に 帰 国 す る 琉 球 船 が 逆 風 に 遭 っ て 平 戸 に 漂 着 し た 、 そ の こ と を 松 浦 氏 が 幕 府 に 注 進 し た と こ ろ 、 そ の 琉 球 船 の 積 荷 を 長 崎 奉 行 へ 引 き 渡 す よ う 幕 府 は 命 令 し た 。 そ こ で 松 浦 氏 は 島 津 氏 に 対 し 荷 物 (特 に 薬 種 ) を 幕 府 に 献 上 す る こ と を 勧 め 、 松 浦 氏 が 琉 球 船 の 積 荷 を 長 崎 奉 行 に 引 き 渡 す こ と の 同 意 を 求 め て き た の で あ る 。 し か し 、 松 浦 鎮 信 が 島 津 氏 に 書 状 を 寄 越 し た 真 意 は 他 に あ っ た 。 そ れ は 、 自 分 宛 の 幕 府 老 中 奉 書 を 島 津 氏 に 見 せ る た め で あ っ た 。 松 浦 鎮 信 は そ の 理 由 を 、 「琉 球 船 之 儀 二 付 御 注 進 申 上 侯 処 こ 、 御 返 書 井 御 下 知 之 通 被 仰 下 僕 条 、 則 為 御 披 見 持 せ 進 入 仕 侯 、 早 々 御 覧 被 成 御 分 別 可 然 存 候 」 と 述 べ る 。 「御 下 知 之 通 」 と は 奉 書 の 内 容 を 指 す が 、 松 浦 鎮 信 は あ る 問 題 で の 「衛 分 別 」 を 島 津 氏 に 促 し た の で あ る 。 す な わ ち 、 幕 府 は 漂 着 琉 球 船 の こ と で 松 浦 鎮 信 に 次 の 三 点 を 指 示 し て き た 。 9 -1 流 舟 之 儀 を ハ 彼 唐 人 二 被 出 被 成 、 再 琉 球 へ 接 着 申 侯 問 之 船 中 に て の 扶 持 方 等 安 へ 被 仰 御 渡 可 被 成 侯 事 1 去 年 も 奥 州 へ 流 寄 侯 琉 球 之 者 共 此 方 β 被 為 送 達 候 へ 共 、 終 其 以 後 御 礼 を も 不 申 上 侯 、 其 通 を -琉 球 へ 可 被 仰 渡 事

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一 彼 船 之 荷 物 之 儀 ハ 小 笠 原 一 層 へ 御 渡 可 被 成 侯 、 委 細 之 儀 一 魔 と 可 然 様 御 相 談 可 被 成 事 荷 物 の こ と は 前 述 し た 。 幕 府 は 松 浦 氏 に 対 し 、 中 国 人 を 通 じ て 琉 球 船 を 本 国 に 送 還 す る 。 帰 国 す る ま で の 船 中 の 食 糧 は 長 崎 代 官 村 山 等 安 か ら 受 け 取 っ て 琉 球 船 に 渡 す こ と を 命 じ た 。 ま た 、 先 年 奥 州 に 漂 着 し た 琉 球 船 の 船 員 を 幕 府 が 琉 球 に 送 還 し こ と に 対 し 、 い ま だ 琉 球 国 王 が 幕 府 に お 礼 の 使 者 を 寄 越 さ な い こ と は 遺 憾 で あ る と い う 幕 府 の 意 思 を 通 告 す る よ う 松 浦 氏 に 命 じ た 。 松 浦 鎮 信 が 島 津 氏 に 求 め た 「御 分 別 」 と は 、 外 で も な い こ の 来 聴 問 題 の 解 決 で あ っ た 。 慶 長 七 年 琉 球 船 が 奥 州 伊 達 領 に 漂 着 し た 。 翌 年 正 月 幕 府 は 島 津 氏 を 通 じ て 船 員 を 琉 球 に 送 還 し 、 琉 球 国 王 に 幕 府 に 対 す る 来 聴 を 要 求 し た 。 幕 府 が 琉 球 に 来 聴 を 求 め た 理 由 は 、 一 六 世 紀 半 ば の 勘 合 貿 易 の 途 絶 後 、 不 通 に な っ て い る 日 明 貿 易 の 復 活 交 渉 を 中 国 -明 の 朝 貢 国 で あ る 琉 球 に 斡 旋 さ せ る 目 的 で 、 そ の た め に ま ず 琉 球 を 幕 府 に 従 属 さ せ る 必 要 が あ っ た か ら で あ る 。 こ の よ う に 幕 府 の 来 聴 要 求 に 琉 球 を 日 本 の 従 属 下 に 置 く と い う 意 図 を 察 知 し た 琉 球 は 、 そ れ に 応 じ な か っ た 。 そ れ は 、 前 近 代 の 東 ア ジ ア に お い て は 、 最 初 に 国 書 を 遣 わ し (3 1 ) だ 方 が 国 際 関 係 に お い て 下 位 に 立 つ と い う 外 交 慣 行 が あ っ た か ら で あ る 。 そ の た め に 来 聴 問 題 は 日 琉 間 の 政 治 問 題 化 し て い た 。 そ う し た 重 大 な 時 期 に 、 幕 府 が 松 浦 氏 に 来 聴 問 題 で 琉 球 と の 接 触 を 命 じ た こ と が 、 島 津 氏 に 来 聴 問 題 解 決 の た め に 強 硬 手 段 の 行 使 を 決 断 さ せ る 契 機 に な っ た と 思 わ れ る 。 慶 長 九 年 九 月 島 津 義 久 は 琉 球 国 王 に 来 聴 を 促 し た 国 (32 ) (島 津 家 久 ) 書 の 中 で 、 「忠 恒 任 若 年 維 有 短 慮 之 企 、 愚 老 親 往 古 之 約 盟 種 々 加 助 言 、 敢 押 留 之 」 と 述 べ た 。 つ ま -島 津 家 久 は 来 聴 問 題 の 解 決 手 段 と し て 「 短 慮 之 企 」 お そ ら -琉 球 へ の 武 力 出 兵 を 意 図 し て い だ が 、 自 分 は こ れ ま で の 薩 琉 間 の 善 隣 友 好 関 係 に 鑑 み て 家 久 の 意 見 を 抑 え て い る 、 と 。 し か し 、 松 浦 鎮 信 か ら の 情 報 で 幕 府 の 琉 球 政 策 の 方 針 を

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島津氏の琉球出兵 と権力編成 知 っ た 家 久 は 、 琉 球 へ の 武 力 出 兵 に 否 定 的 な 義 久 の 意 見 を 抑 え 、 琉 球 に 武 力 的 圧 力 を か け て 来 聴 問 題 を 一 挙 に 解 決 す る 方 向 に 島 津 氏 の 方 針 を も っ て い っ た の で は な か ろ う か 。 そ う 推 測 す る 理 由 は 、 来 聴 問 題 で 幕 府 が 松 浦 氏 に 琉 球 と の 接 触 を 命 じ た こ と は 、 対 琉 球 関 係 の 窓 口 を 多 様 化 さ せ る 可 能 性 が あ っ た 。 だ が そ れ は 、 -し 来 聴 問 題 の 処 理 を 誤 ま れ ば 、 島 津 氏 が 戦 国 時 代 以 来 築 き 上 げ て き た 対 琉 球 関 係 の 同 氏 に よ る 独 占 体 制 を 崩 壊 さ せ 兼 ね な い 危 (3 3 ) 険 性 を 内 包 し て い た か ら で あ る 。 要 す る に 、 松 浦 鎮 信 の 書 状 な ら び に 同 氏 宛 の 幕 府 老 中 奉 書 写 を 披 見 し て 、 幕 府 が 必 ず し も 島 津 氏 の み を 琉 球 政 策 の 担 い 手 と し て 考 え て い な い こ と を 知 っ て 衝 撃 を 受 け た 島 津 氏 は 、 来 聴 問 題 で 琉 球 に 譲 歩 を 迫 ま る 圧 力 を か け る (も ち ろ ん 誓 」 に は そ れ だ け で な -版 図 拡 大 の 野 心 も あ わ せ も っ て い た は ず で あ る 。 ) た め に 大 畠 出 兵 を 企 図 し 、 そ の た め の 談 合 を 慶 長 二 年 三 月 に 開 い た の で あ る 。 島 津 家 久 は 徳 川 家 康 の 参 内 に 屈 従 す る た め に 鹿 児 島 を 出 発 、 同 年 二 月 7 五 日 に は 薩 摩 国 京 泊 を 出 船 し て い る の で p そ れ ま で に は 大 島 出 兵 の 方 針 は 決 定 さ れ て い た は ず で あ る 。 以 上 に み た 琉 球 と の 来 聴 問 題 と は 別 に 、 当 時 島 津 氏 が 直 面 し て い た 内 政 上 の 問 題 に 知 行 制 度 の 確 立 が あ っ た 。 豊 臣 政 権 下 で 義 久 ◎義 弘 。家 久 の 三 者 に 分 散 さ れ た 大 名 権 力 を 家 久 の 下 に 7 元 化

-再 編 ◎ 強 化 す る 課 題 を 背 負 っ た (誕 ) 島 津 氏 は 二 作 配 当 を 原 則 と し た 太 閤 検 地 の 知 行 配 当 以 来 p い ま だ 知 行 問 題 の 適 正 な 解 決 が で き て い な か っ た た め に 、 家 臣 団 と の 間 に 矛 盾 を 激 化 さ せ て い だ 。 「 庄 内 の 乱 」 に は じ ま る 反 島 津 氏 の 権 力 闘 争 は こ う し た 矛 盾 を 基 礎 (35 ) に 闘 わ れ た で あ ろ う 。 知 行 問 題 の 解 決 こ そ は 島 津 氏 に と っ て 急 務 で あ っ た と い え よ う 。 さ て 、 知 行 問 題 解 決 の 姿 勢 は 、 慶 長 一

年 三 月 五 日 に 出 水 地 頭 本 田 正 親 が 同 衆 中 の 大 井 右 京 亮 に 知 行 の 陀 言 に (36 ) は 応 じ ら れ な い と い う 島 津 氏 の 方 針 を 伝 え た 書 状 の 中 に 明 ら か で あ る 0 - l

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l-此 度 之 就 御 配 当 こ 、 貴 所 先 祖 従 以 来 之 御 陀 申 可 被 成 侯 へ 共 、 此 節 ノ 御 配 当 l六 い つ れ の 御 俺 等 御 法 度 之 由 被 仰 (慶 長 五 年 ) 出 侯 間 不 罷 成 侯 ' さ て ハ 追 而 時 分 を 以 被 成 申 侯 へ 、 其 刻 御 涯 分 取 次 串 へ く 侯 、 随 而 先 年 水 俣 江 肥 後 勢 参 候 裾 、 き 所 事 於 黒 渡 船 等 御 馳 走 侯 て 、 長 島 之 往 通 事 開 二 無 之 様 二 御 才 覚 子 今 無 忘 却 侯 、 ケ 様 成 も 後 日 ハ 可 致 披 露 侯 島 津 氏 は 慶 長 一

年 の 初 め ご ろ 、 家 臣 団 に 「御 配 当 」

-知 行 配 当 を 実 施 す る 方 針 で い た こ と が わ か る 。 こ れ に よ る と 、 そ の 基 本 方 針 は 、 知 行 に 関 す る 柁 言 を 一 切 禁 止 し 、 と い う こ と は 家 臣 団 か ら 要 求 の あ っ た 恩 賞

-加 増 問 題 は 一 時 棚 上 げ し て お い て 、 家 臣 団 に 知 行 地 の 適 正 配 分 を 行 な う と い う も の で あ っ た 。 と こ ろ で こ の 時 点 で 島 津 氏 が 知 行 配 当 の 実 施 を 意 図 し た 背 景 は 、例 え ば 、慶 長 六 年 八 月 七 日 に 島 津 義 久 。 義 弘 。 (37 ) 家 久 の 三 人 が 連 署 制 定 し た 条 書 の 第 四 条 に 、 一 殿 役 於 不 相 勤 は 門 壱 ツ 付 領 主 の 知 行 壱 石 可 被 召 上 、 付 、 百 姓 無 之 門 屋 敷 だ -と も 領 主 前 よ -殿 役 可 仕 事 と 規 定 さ れ た こ と の 中 に 看 取 さ れ る よ う に 、 大 名 -領 主 (給 人

)

1

農 民 の 封 建 的 な 関 係 が ゆ ら い で い た こ と で あ っ た 。 殿 役 は 門 。 屋 敷 百 姓 の 大 名 に 対 す る 夫 役 で あ る 。 こ の 条 項 は 、 百 姓 が 殿 役 を 履 行 し な か っ た 場 合 、 そ の 門 。 屋 敷 を 知 行 す る 領 主 に 対 す る 罰 則 を 規 定 し た も の で あ る が 、 百 姓 が 殿 役 を 未 進 す る 原 因 は 、 「百 姓 無 之 門 屋 敷 」 の 発 生 に う か が わ れ る よ う に 、領 主 の 悪 意 的 な 収 奪 に 起 因 す る 知 行 地 の 荒 廃 で あ っ た 。 こ の 条 書 の 第 九 条 は 、 「 惇 者 百 姓 以 下 に よ ら ず 、 走 た ら む 時 互 に 許 容 致 す べ か ら ざ る 事 」 と 、 走 り 百 姓 の 還 住 を 領 主 に 命 じ て い る 。 ま (38 ) た こ の 条 書 と ほ ぼ 同 文 の 条 書 が 、 同 九 年 間 八 月 一 九 日 に 家 久 。 義 久 の 連 署 で 出 さ れ た 。 要 す る に こ こ で は 、 知 行 地

=

門 。 屋 敷 の 荒 廃 が 殿 役 未 進 を 結 果 し 、 そ れ が 島 津 氏 の 権 力 機 構 の 維 持 に と っ て 障 害 に な っ て い た と い う こ と

(14)

島津氏 の琉球出兵 と権 力編成 を 指 摘 し て お く 。 と こ ろ で 知 行 配 当 は 検 地 を 前 提 と す る 。 し か し 、 慶 長 内 検 (慶 長 〓 ハ ∼ 一 九 年 ) 以 前 に 敏 内 総 検 地 が 実 施 さ れ た (39 ) 形 跡 は な い 。 慶 長 一

年 九 月 幕 府 は 島 津 氏 に 郷 帳 。 国 絵 図 の 提 出 を 命 じ た が 、 島 津 氏 は こ れ を 機 会 に 家 臣 団 に 知 行 高 の 報 告 を 求 め 、 検 地 に か え て 領 国 の 石 高 を 把 握 し た 。 同 年 一

月 〓 日 付 の 大 隅 国 本 城 領 主 島 津 忠 直 が 提 出 (40 ) し た 高 目 安 に よ る と P 忠 直 の 知 行 は 惣 高 六 八 九 七 石 一 升 五 合 、 そ の 内 自 分 高 は 三 五

石 (内 1 〇 五 石 五 斗 は 殿 役 分 ) 、 与 力 分 高 は 三 三 九 七 石 7 斗 二 升 五 合 、 内 七 五 六 石 三 升 は 「宙 二 御 軍 役 之 衆 」

-衆 申 (島 韓 氏 直 臣 ) 二 ハ 七

石 は 「 石 船 作 之 盛 l二 尚 岡 へ 付 」 。 九 一 石 五 斗 は 殿 役 分 で あ っ た 。 「 石 船 」 は 同 年 七 月 、 幕 府 が 島 津 氏 に 江 戸 城 築 (41 ) 城 の 用 に 供 す る た め の 石 鋼 船 三

隻 の 建 造 を 課 し た 御 手 伝 普 請 の こ と で あ る 。 郷 帳 は 慶 長 一 一 年 四 月 に 完 成 、 幕 府 に 提 出 さ れ た が ' 知 行 配 当 は 実 施 さ れ な か っ た 。 そ の た め に p 大 井 右 京 亮 (42 ) (亜 ) の 知 行 の 陀 言 は 、 同 二 二 年 一 二 月 、 同 一 四 年 二 月 と 続 い た 。 以 上 の よ う に 、 島 津 氏 は 慶 長 一

年 代 初 頭 に 、 対 外 的 に は 琉 球 と の 間 の 贋 著 し た 来 聴 問 題 を 打 開 す る た め に 大 島 出 兵 を 、 ま た 、 国 内 的 に は 大 名 権 力 の 再 編 。 強 化 策 の 要 で あ る 知 行 制 度 の 確 立 を 企 図 し て い た 。 問 題 は こ の 内 外 二 つ の 政 策 の 相 互 関 連 で あ る 。 例 え ば 慶 長 二 年 四 月 二 日 付 の 島 津 家 久 宛 同 義 弘 書 状 (前 章 に 掲 出 ) に よ る と 、 義 弘 は 「今 度 御 上 洛 井 石 舟 作 之 出 物 五 十 人 ほ と 末 進 衆 在 之 事 」 と 、 軍 役 未 進 問 題 を 憂 慮 し て い る の で あ る が 、 そ う し た 知 行 問 題 と 三 月 に 開 か れ た 大 島 出 兵 の 談 合 が 不 調 で あ っ た こ と を 並 記 し て 家 久 に 伝 え た よ う に 、 こ の 両 政 策 は 当 初 別 々 に 意 識 さ れ て い た 。 し か し 同 年 四 月 に 郷 帳 が 出 来 、 そ の 結 果 、 大 量 の 隠 知 行 の 存 在 が 露 顕 し た こ と が 契 機 に な っ て 事 情 は 一 変 し 、 こ の 両 政 策 は 権 力 編 成 を 推 進 す る 際 の 不 可 分 の 両 輪 と し て 意 識 (

4

4 ) さ れ て い っ た 。 義 弘 が 在 京 中 の 家 久 に 郷 帳 。 国 絵 図 を 作 成 、 幕 府 に 提 出 し た こ と を 知 ら せ た 同 年 五 月 1 日

付書

- 13

(15)

-の 左 記 の 一 節 は p そ の 意 味 で 特 筆 す べ き 内 容 を 含 ん で い る 。 御 分 国 申 拾 壱 万 八 千 石 之 加 -れ 知 行 有 之 由 候 、 さ -と て ハ 過 分 な る 儀 共 二 俣 、 此 度 図 田 帳 罷 上 供 二 付 而 も 彼 隠 知 行 無 乳 明 事 者 無 心 元 存 候 、 然 者 大 畠 渡 船 之 儀 銀 子 百 貫 目 程 入 可 申 談 合 こ て 候 、 如 此 造 作 入 候 危 渡 海 さ へ 被 成 衛 企 侯 処 ' 目 之 前 二 有 之 拾 壱 万 八 千 斜 之 隠 知 行 無 沙 汰 事 案 外 二 俣 、 是 非 共 闘 敷 被 仰 付 露 顕 任 侠 様 二 貴 所 御 分 別 に 侯 ハ て 不 叶 儀 二 俣 、 於 軍 刀 も 我 等 一 人 彼 か -れ 地 之 事 申 候 へ と も 誰 そ 被 打 合 候 事 も 無 之 労 以 笑 止 之 事 と 存 計 二 俣 す な わ ち 郷 帳 作 成 の 結 果 、 島 津 氏 が 家 臣 団 に 軍 役 を 賦 課 で き な い 隠 知 行 が 二 万 八

石 (太 閤 検 地 後 の 給 地 高 に 比 べ て か ) あ る こ と が 判 明 し た の で あ る 。 郷 帳 提 出 の 際 に 隠 知 行 を 乱 明 で き な か っ た こ と を 心 配 し た 義 弘 は 、 軍 船 の 建 造 に 銀 一

貫 目 ほ ど を 必 要 と す る 大 島 出 兵 を 企 て て い る の に 、 眼 前 に あ る 二 万 八

石 の 隠 知 行 を そ の ま ま に 放 置 し て お -の は 論 外 で あ る と し て 、 家 久 に 隠 知 行 の 乱 明 を 促 し た 。 義 弘 は 一 人 国 許 に あ っ て 隠 知 行 の 乱 明 を 主 張 し た が 、 誰 一 人 そ れ を ま じ め に 取 -あ げ る 者 は い な か っ た 。 だ か ら 、 家 久 の 裁 断 を 仰 ぐ の で あ る

こ こ に 初 め て 義 弘 の 論 理 の 中 で p 大 島 出 兵 と 隠 知 行 の 乱 明

-知 行 問 題 の 解 決 と い っ た 、 島 津 氏 が 急 務 と し て い た 対 外 政 策 と 国 内 政 策 と が 結 合 p 一 体 化 し た こ と を わ れ わ れ は 知 る こ と が で き る 。 義 弘 の 右 の 助 言 を 受 け た 家 久 は 、 同 年 六 月 六 日 国 許 の 家 老 島 津 忠 長 と 樺 山 久 高 の 二 人 (お そ ら く 談 合 衆 か ) に 大 (45 ) 畠 出 兵 の 「 国 家 」 的 (島 津 氏 に と っ て の ) 意 義 を 強 調 し た 左 記 の 書 状 を 出 し た 。

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島津氏の琉球出兵 と権力編成 尚 々 ゆ た ん 無 之 や う に た の み 入 侯 (岩 切 国 信 ) 其 後 ハ 無 音 、 偽 岩 切 令 上 着 新 説 珍 重 候 、 然 者 大 島 入 之 儀 来 秋 必 々 可 有 之 事 簡 要 侯 、 若 々 ゆ た ん 侯 て ハ 不 可 然 候 、 如 捌 底 当 年 ハ 石 漕 ふ ね 作 同 江 戸 へ 運 送 又 縁 中 之 儀 侯 而 過 分 之 入 め 上 下 之 つ か れ に て 候 間 、 当 年 大 島 之 事 相 調 侯 ハ す ハ 後 年 迄 之 つ か れ に な -侯 ハ ん ま ∼ 、 国 家 之 た め を 被 思 召 侯 ハ ∼ 折 角 可 被 入 念 事 此 時 候 、 あ ま -気 遣 侯 間 悪 筆 に て 申 渡 候 、 渡 海 衆 江 此 旨 能 々 可 申 侯 、 謹 首 (慶 長

一 年 ) 六

日 (島津 忠長 ) 紹 益 (樺 山 久 高 ) 樺 権 左 衛 門 尉 (島韓家 久 ) 忠 恒 御 判 - 1 5-(46 ) 家 久 は 、 今 年 は 石 鋼 船 建 造 と 「 緑 申 」 の 出 費 の た め に 大 名 。 家 臣 団 共 に 経 済 的 に 疲 弊 し て い る こ と を 指 摘 し 、 こ の 経 済 的 疲 弊 を 後 日 に 持 ち こ さ せ な い た め に は 大 島 出 兵 の 実 施 が 不 可 避 で あ る こ と を 強 調 し 、 こ の 秋 に 予 定 さ れ た 大 島 出 兵 の 用 意 を 強 -命 じ た 。 さ し づ め 大 畠 出 兵 に 島 津 氏 の 財 政 難 打 開 の 切 り 札 を 見 出 し た と い っ た 家 久 の 口 調 で あ る 。 要 す る に 、 こ こ に は 大 島 出 兵 が 琉 球 に 対 し 版 図 拡 大 を 意 図 し て い た こ と が 明 ら か で あ る 。 家 久 は p 右 の 命 令 を 国 許 に 伝 え る と と も に 六 月 一 七 日 、 徳 川 家 康 に 大 島 出 兵 の 許 可 を 請 い 許 さ れ た . つ ま り そ れ は 、 こ れ ま で 島 津 氏 の 私 的 政 策 で あ っ た 大 島 出 兵 が 、 幕 府 公 認 の 国 家 的 政 策 に 止 揚 さ れ た と い う こ と を 意 味 し

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て い る 。 家 康 が 琉 球 出 兵 を 許 可 し た 理 由 は 、 琉 球 に 軍 事 的 圧 力 を 加 え る こ と に よ っ て 、 来 聴 問 題 で 琉 球 側 に 譲 歩 を 迫 ま る 島 津 氏 の 意 図 を 支 持 し た か ら で あ っ た と い え よ う 。 し か し 島 津 氏 の 真 意 は 、 幕 府 権 力 を 背 景 に 三 月 の 大 島 出 兵 の 談 合 以 来 顕 然 化 し て き た 権 力 内 部 の 反 対 派 を 抑 え て 、 大 島 出 兵 を 実 現 さ せ る こ と に あ っ た は ず で あ る 。 と も あ れ 、 島 津 氏 は 幕 府 の 対 明 政 策 (昌 明 貿 易 の 復 活 ) の 7 環 と し て あ る 琉 球 釆 鰐 問 題 の 解 決 手 段 と し て ' 琉 球 出 兵 を 位 置 づ け る こ と に よ -、 そ れ を 契 機 に 家 臣 団 の 隠 知 行 を 摘 発 す る と 同 時 に 琉 球 に 領 土 を 拡 張 す る と い う 政 策 を 二 つ な が ら 軌 道 に 乗 せ る こ と が で き た の で あ る 。 し か し 、 島 津 氏 が 慶 長 二 年 の 秋 に 予 定 し た 大 島 出 兵 は 行 な わ れ な か っ た 。 同 年 六 月 、 尚 寧 を 琉 球 国 王 に 封 ず る 明 の 冊 封 使 夏 子 陽 が 琉 球 に 到 着 し た 。 そ の こ と を 九 月 二 日 、 島 津 家 久 は 幕 府 に 報 告 し た 。 そ れ に 対 し 、 徳 川 家 康 の 側 近 山 口 直 友 は 二 月 1 五 日 付 返 書 の 中 で 、 「 就 中 琉 球 へ 唐 船 着 申 由 仰 越 侯 、 然 者 御 国 之 商 人 彼 地 へ 売 買 ニ (之 カ ) 可 解 題 由 蒙 仰 侯 、 尤 存 侯 、 併 来 年 之 御 働 □ 隔 に ハ 罷 成 間 数 侯 哉 、 過 御 分 別 間 数 侯 」 と 述 47 ) べ た 。 こ れ に よ る と ' 幕 府 は 琉 球 出 兵 を 慶 長 一 二 年 に 予 定 し て い た よ う で あ る 。 ま た 、 家 久 が 父 義 弘 に 宛 て た 慶 長 一 一 年 H 月 山 九 日 付 (讐 (肥 前 唐 津 寺 沢 正 成 ) 書 状 に よ る と 、 「 夜 前 従 寺 志 州 御 注 進 之 趣 、 来 春 駿 府 衡 普 請 衆 へ 写 被 持 侯 間 為 御 披 見 進 ヒ 申 侯 、 然 者 当 国 之 儀 者 琉 球 就 任 置 御 赦 免 之 由 侯 」 と あ -、 幕 府 は 翌 二 一年 春 に 実 施 す る 駿 府 城 修 築 の 御 手 伝 普 請 を 「琉 球 仕 置 」 (疏 球 出 兵 か ) を 理 由 に 島 津 氏 に つ い て は 免 除 し た 。 い ず れ に し ろ 琉 球 出 兵 は 慶 長 二 一年 以 降 と い う の が 、 そ れ を 許 可 し た 時 の 幕 府 の 方 針 で あ っ た と 思 わ れ る 。 幕 府 は 冊 封 硬 の 釆 琉 機 会 に 日 明 貿 易 の 復 活 に つ い て 交 渉 す る 用 意 が (49 ) め に 琉 球 国 王 を 通 じ て 島 津 氏 に 、 鳥 原 宗 安 の 渡 琉 を 求 め て き た 。 そ こ で 島 津 氏 は 九 月 に 鳥 原 宗 安 を 琉 球 に 遣 わ し 、 幕 府 が 日 明 貿 易 の 復 活 を 希 望 す る 旨 の 「 呈 大 明 天 使 書 」 を 冊 封 使 に 、 ま た 琉 球 国 王 に も 日 明 交 渉 の 斡 旋 を 依 あ -、 そ の 基 本 方 針 を 家 久 に 命 じ て い た 。 明 健 は 釆 琉 す る と 、 チ巳:!菱 I ._.,主 /㌔ 年 に 薩 磨 に 遣 わ し だ 中 国 船 の 消 息 を 問 う た

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島津氏 の琉球出兵 と権力編成 (50 ) 頼 す る 「 呈 琉 球 国 王 書 」 を 送 っ た こ と は 周 知 の 事 実 で あ る 。 島 津 氏 の 琉 球 出 兵 の 目 的 を 具 体 的 な 政 策 の 中 で 明 ら か に し よ う 。 そ の 前 に 、 幕 府 が 島 津 氏 に 琉 球 出 兵 の 出 動 準 備 命 令 を 下 し た の は 慶 長 7 三 年 八 月 1 九 日 で あ る 。 同 年 春 、 琉 球 (51 ) 国 王 の 使 者 (使 僧 自 徳 。 使 者 宜 保 親 雲 上 ) が 来 聴 問 題 の 件 で 鹿 児 島 に 到 着 し た 。 そ の こ と を 報 告 し て き た 島 韓 家 久 に 対 し 、 四 月 八 日 義 弘 は 、 「 従 琉 球 之 使 僧 之 儀 二 付 預 使 札 侯 、 具 承 届 侯 、 誠 今 度 之 御 返 事 二 相 究 儀 候 条 、 猶 以 (島 津 義 久 ) (cq.A ) 龍 伯 様 へ 被 得 御 意 御 談 合 侯 ハ て ハ と 申 事 侯 」 と 答 え た 。 こ れ に よ る と 、 島 津 氏 は こ の 時 点 で 琉 球 と の 来 聴 交 渉 は 決 裂 し た と 判 断 ' そ の 対 応 策 を 協 議 し た よ う で あ る 。 そ し て 島 津 氏 は 本 田 元 親 を 使 者 に 立 て 、 徳 川 家 康 の 指 図 を 仰 い だ 。 そ れ に 対 し 、 山 口 直 友 は 八 月 1 九 日 、 「 御 人 数 を 被 健 、 先 御 使 者 を 御 渡 被 成 、 渡 海 仕 侯 様 可 被 仰 通 事 専 1 存 侯 、 其 上 に て も 相 済 不 申 侯 者 、 被 得 御 謡 p 御 人 数 を も 御 渡 被 成 尤 存 候 、 不 及 申 侯 へ 共 ' 随 分 御 人 数 を 不 及 被 (53 ) 渡 、 渡 海 仕 侯 様 御 才 覚 専 一 存 侯 」 と 家 康 の 命 令 を 家 久 に 伝 え た 。 す な わ ち p 島 津 氏 は 琉 球 出 兵 の 軍 勢 を 動 員 し て も よ い . し か し 出 兵 前 に も う 7 度 琉 球 に 来 聴 を 促 す 使 者 を 遣 わ し 、 そ れ で も 琉 球 国 王 が 釆 鰐 に 応 じ な い 場 合 は ' 家 康 の 同 意 を 得 て 軍 勢 を 出 動 さ せ て も よ い 。 だ が で き る だ け 武 力 出 兵 し な い で 来 聴 問 題 を 解 決 す る べ き で あ る 、 と 。 幕 府 は 島 津 氏 に 琉 球 出 兵 の 出 動 準 備 を 命 じ た も の の 、 な る べ -武 力 出 兵 は 回 避 し た い と い う の が 本 音 で あ っ た 。 幕 府 に と っ て は い か な る 形 で あ れ 琉 球 を 服 属 さ せ 、 琉 球 を 媒 介 に 日 明 貿 易 の 復 活 交 渉 が 成 立 す れ ば そ れ で よ か っ だ か ら で あ る 。 だ が p 島 津 氏 の 場 合 は 違 っ た . 琉 球 出 兵 の 目 的 の 第 1 は 、 軍 役 賦 課 を テ コ に 家 臣 団 の 隠 知 行 を 乱 明 す る こ と で あ っ た 。 島 津 氏 は 幕 命 に よ っ て 使 者 (大 慈 寺 龍 雲 ) を 琉 球 に 遣 わ し 、 重 ね て 来 聴 を 促 す 1 万 、 慶 長 1 三 年 九 月 (54 ) 六 日 に 琉 球 出 兵 の 軍 役 令 を 発 表 し た 。 そ れ に よ る と ' 家 臣 団 の 全 知 行 地 四

万 二 一 八

石 五 斗 を 対 象 に 、 そ の 内 - 1

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7-七 万 五

石 を 「琉 球 渡 海 衆 」 p 三 二 万 七

石 を 「 在 国 衆 」 に 分 け 、 前 者 に 軍 役 一 五

人 二 〇 〇 石 に 付 二 人 役 ) 、 後 者 に 出 銀 一

七 貫 九

日 ( 一 石 に 付 三 分 三 厘 ) と 琉 球 渡 海 衆 一 五

人 五 ケ 月 分 の 兵 糧 米 一

七 五 石 ( 一 石 に 付 三 合 二 勺 七 才 ) を 賦 課 す る 方 針 を 示 し た 。 前 述 し た よ う に 慶 長 二 年 四 月 に 郷 帳 作 成 の 結 果 、 給 地 に 二 万 八

石 の 隠 知 行 の あ る こ と が 明 る み に な っ て い た 。 こ の 軍 役 令 は 、 隠 知 行 の 存 在 を 一 切 無 祝 し て 全 給 地 を 軍 役 賦 課 対 象 と し た 点 が 大 名 権 力 の 隠 知 行 乱 明 の 姿 勢 を 表 明 し た も の と し て 注 目 を ひ -0 そ の 第 二 は 、 琉 球 に 版 図 を 拡 大 す る こ と で あ っ た 。 琉 球 出 兵 の 島 津 軍 が 薩 摩 国 山 川 港 を 出 帆 し た 慶 長 一 四 年 三 (55 ) 月 四 日 、 島 津 家 久 が 大 将 の 樺 山 久 高 に 与 え た 琉 球 占 領 構 想 を 示 し た 袖 判 条 章 の 中 に そ の 意 図 は 露 骨 に 現 さ れ て い

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(島 津 家 久 ) (花 押 ) 覚 一 琉 球 よ -あ っ か い を 入 侯 ハ ゝ 無 異 儀 其 筋 に 可 有 談 合 事 1 い つ れ の み ち に も 利 運 に 相 済 侯 は ゝ 、 少 も 無 逗 留 早 々 軍 衆 六 七 月 之 比 者 可 引 取 事 一 琉 球 歴 々 の 人 質 、 其 外 島 々 の 頭 々 の 者 迄 質 入 を 取 侯 て 当 国 へ 引 こ し 、 琉 球 向 後 の 諸 役 儀 於 此 方 可 相 定 事 一 自 然 琉 球 国 主 居 城 に 取 寵 、 な か -龍 城 の か -こ と 相 見 侯 は ∼ 、 悉 焼 は ら ひ 、 か ら 城 計 に 成 、 人 数 少 も た め ら は す 引 取 ' あ た -の 島 々 の 者 人 質 に 取 、 手 に 付 候 て 可 為 帰 陣 事 1 兵 糧 米 お き め さ せ へ き 事 、 此 申 琉 球 人 の 申 付 た る よ -、 い か に も か ろ -お き め さ せ へ き 事 右 条 々 不 可 有 違 変 侯 事

(20)

島津氏 の琉球出兵 と権力編成 慶 長 十 四 年 三 月 (久 高 ) 樺 山 梅 左 衛 門 尉 殿 第 1

-三 条 は 琉 球 征 服 が 順 調 に い っ た 場 合 p 第 四 。 五 条 は そ れ が 不 調 に 終 わ っ た 場 合 に お け る そ れ ぞ れ の 対 応 策 を 示 し て い る 。 そ れ に よ る と 、 ① 琉 球 征 服 の 成 否 に か か わ ら ず 島 津 氏 は 短 期 間 (五 ケ 月 ) で 戦 闘 行 為 を 切 り あ げ (56 ) 軍 勢 を 薩 摩 に 引 き 揚 げ る 方 針 で あ っ た 。 そ れ は 船 舶 の 往 来 が 季 節 風 に 規 定 さ れ る 薩 琉 問 の 交 通 事 情 に よ る と い う よ -は 、 前 章 で 述 べ た 島 津 氏 内 部 の 権 力 闘 争 が 長 期 間 の 外 征 を 困 難 に し た と い え る 。 ① 琉 球 征 服 に 成 功 し た 場 合 は 、 「 琉 球 歴 々 」 、 「島 々 の 頭 々 」 の 人 質 を 取 っ て 薩 摩 に 連 行 L P 琉 球 の 役 儀 (租 税 。 課 役 ) は 以 後 島 津 氏 が 定 め る 。 ⑧ も し 琉 球 国 王 が 首 里 城 に 寵 城 、 長 期 戦 が 予 想 さ れ る 場 合 は 琉 球 全 土 の 占 領 は 断 念 す る が 、 琉 球 国 王 が 居 住 す る 沖 縄 島 以 外 の 周 囲 の 島 々 は 占 領 す る 。 問 題 は 「 其 外 島 々 」 。 「 あ た -の 島 々 」 の 範 囲 で あ る 。 島 津 軍 の 進 入 経 路 か ら 判 断 す る と 、 そ れ に は 当 然 奄 美 諸 島 (奄 美 大 島 ・ 喜 界 島 。 徳 之 島 。 沖 永 良 部 島 。 与 論 島 ) が 含 ま れ る と 考 え ら れ る 。 つ ま -第 五 条 は ≠ 奄 美 諸 島 を 占 領 し 駐 留 す る 島 韓 軍 の 兵 糧 米 は 、 そ れ ら 島 々 か ら こ れ ま で 「 琉 球 人 」

-琉 球 王 府 が 収 奪 し て い た 貢 粗 よ -は 少 額 に し て 徴 収 す べ き で あ る と 指 示 し た 、 と 理 解 さ れ る の で あ る 。 「 あ た り の 島 々 」 の 占 領 は 、 再 度 琉 球 を 侵 略 す る た め の 橋 頭 壁 確 保 的 な 意 味 が 考 え ら れ な -も な い が 、 そ れ は 紛 れ も な -琉 球 に 対 す る (57 ) 版 図 拡 大 で あ っ た 。 ﹃ 善 安 日 記 ﹄ に よ る と 、 前 年 八 月 使 侶 大 意 寺 龍 雲 を 琉 球 に 通 わ し た 島 津 氏 は 、 「篠 役 (朝 鮮 出 兵 時 の 軍 役 未 納 分 -紙 屋 注 ) 被 勤 哉 、 大 島 を 割 分 て 給 る か 否 か 」 と 大 島 割 譲 を 琉 球 に 迫 ま っ た と 伝 え ら れ て い る 。 島 津 氏 の 琉 球 出 兵 は 、 琉 球 に 対 す る 版 図 拡 大

-領 土 獲 得 を 目 的 と し て い た と 結 論 す る こ と が で き る 。 ま た そ れ を 決 定 づ け た の は 、 隠 知 行 の 存 在 で あ っ た o - 1

(21)

9-三 島 津 氏 の 権 力 編 成 と 琉 球 支 配 島 津 氏 が い わ ゆ る 「慶 長 内 検 」 と 呼 ば れ る 領 内 総 検 地 を 施 行 し 、 大 名 権 力 の 再 編 。 強 化 に 向 け て 第 一 歩 を 踏 み 出 し た の は 慶 長 一 六 年 以 降 で あ る 。 そ れ は 、 島 津 氏 が 琉 球 に 占 領 後 実 施 し た 検 地 が 同 年 四 月 に 終 了 し た の を 待 っ て 九 月 、 琉 球 支 配 の 基 本 方 針 を 発 表 し た 時 期 と 機 を 同 じ -し て い る 。 つ ま -島 韓 氏 は 、 大 名 権 力 の 再 編 。 強 化 と 琉 球 支 配 と を 相 互 連 関 的 に 構 想 し て い た と い え る 。 ま ず 、 権 力 編 成 論 と し て み た 慶 長 再 検 の 問 題 点 を 明 ら か に し 、 そ れ と の 関 連 で 琉 球 支 配 が 島 津 氏 の 権 力 編 成 の ど の 部 分 に 位 置 づ け ら れ て い っ た か を み よ う 。 J ﹃ 島 津 国 史 ﹄ に よ る と 、 島 津 家 久 は 琉 球 支 配 の 基 本 方 針 を 定 め た 慶 長 〓 ハ 年 九 月 一 九 日 と 同 日 、 「 文 禄 丈 量 以 (58 ) 常 へ 経 界 梢 壊 ' 賦 役 不 均 、 農 民 病 之 、 公 命 有 司 議 薩 摩 。 大 隅 ・ 諸 県 郡 丈 量 事 」 と 島 津 領 の 検 地 に つ い て 役 人 に 検 討 を 命 じ た 。 し か し P そ れ 以 前 か ら す で に 「 御 支 配 」

-知 行 配 当 へ の 動 き は 始 ま っ て い た 。 例 え ば 、 島 津 義 弘 は 同 年 四 月 一 日 、 「今 度 之 御 支 配 之 事 誠 以 不 軽 儀 侯 、 就 天 稚 為 少 之 儀 両 老 中 被 遂 細 談 、 可 然 相 調 侯 様 二 可 被 入 精 之 (59 ) 適 、 堅 被 仰 出 侯 而 肝 要 存 侯 」 と 家 久 に 「御 支 配 」 に 向 け た 体 制 づ -を 命 じ た 。 そ こ で 家 久 は 五 月 一

日 家 老 の 伊 勢 貞 昌 に 、 一 我 等 鎖 分 先 年 太 閤 様 御 時 御 検 地 被 仰 付 竿 相 通 侯 間 内 検 申 付 候 事 、 付 、 知 行 高 之 事 1 琉 球 之 事

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島津氏 の琉球出兵 と権力編成 (.60 ) と 琉 球 支 配 の 基 本 方 針 策 定 と と も に 、 「内 検 」 な ら び に 「知 行 高 」 改 正 の 検 討 を 命 じ た 。 島 津 氏 が 慶 長 一 〇 年 に 企 図 し た 知 行 制 度 改 正 の 方 針 は 、 こ こ に 具 体 化 さ れ る 段 階 に 至 っ た の で あ る 。 そ れ で は へ 慶 長 7 六 年 に 大 名 権 力 の 再 編 ・ 強 化 が 着 手 可 能 に な っ た 条 件 と は 何 か 。 一 つ は 、 琉 球 検 地 を 実 施 し た 島 韓 氏 が 検 地 技 術 を 修 得 し た こ と で あ る 。 島 津 氏 は 同 年 三 月 7 四 日 つ い で 二 二 日 へ 琉 球 に い る 検 地 衆 に 急 い で 帰 国 す る よ う 命 じ て い る 。 ま た 一 つ は ' 慶 長 一 五 年 六 月 一 九 日 に 反 島 津 氏 勢 力 の 首 魁 平 田 増 宗 を 課 戦 し た こ と 。 お よ び 、 反 島 津 氏 勢 力 が 拠 -ど こ ろ に し た 島 津 義 久 が 翌 〓 ハ 年 一 月 二 1 日 に 死 去 し た こ と な ど に よ っ て 、 義 弘 。 家 久 が 反 島 津 氏 の 権 力 闘 争 を 粉 砕 す る 自 信 を 得 た こ と で あ る 。 検 地 は 慶 長 〓 ハ 年 7 0 月 二 三 日 検 地 条 目 が 発 表 さ れ て 始 ま っ た 。 そ し て 翌 年 そ れ は 完 了 し た 。 (62 ) 慶 長 内 検 の 特 筆 す べ き 点 は 、 粗 一 石 五 升 を 高 一 石 と す る 粗 高 制 が 成 立 し た こ と で あ る 。 そ れ は 、 ﹃ 薩 藩 政 要 艶 に よ る と , 慶 長 一 六 、 一 七 年 に 薩 摩 。 大 隅 ・ 日 向 諸 県 郡 を 検 地 し , 太 閤 検 地 通 -に 粗 大 豆 二 石 を 分 米 嘉 に し て 高 を 計 算 し た ら 惣 高 三 七 万 七 九 七 四 石 八 升 六 合 克 勺 に な -、 太 閤 検 地 の 表 高 六

万 九 五 三 三 石 (慶 長 四 年 一 月 (64 ) 九 日 の 加 増 分 を 含 む ) に 比 べ て 大 幅 に 不 足 し た 。 そ こ で 検 地 後 、 改 め て 粗 1 石 五 升 を 高 一 石 に 修 正 し て 高 六 1 万 九 〇 五 五 石 八 斗 余 に な っ た 。 こ れ は 慶 長 一 九 年 五 月 1 四 日 付 の 「高 頭 並 高 之 作 様 」 を 書 付 け た 一 紙 が 御 支 配 所 に あ っ た の に よ っ て こ の よ う に 考 証 し た 、 と 。 問 題 は 慶 長 一 九 年 五 月 一 四 日 の 「高 頭 並 高 之 作 様 」 が 何 を 論 拠 と し て 作 ら れ た か で あ る 。 次 の 同 年 三 月 二 二 日 (65 ) 付 「薩 隅 諸 懸 郡 高 究 」 は 、 そ の 論 拠 に な っ た と 思 わ れ る 史 料 で あ る 。 - 2 1-薩 隅 諸 懸 郡 高 究

(23)

京 竿 惣 高 六 拾 壱 万 石 俵 付 惣 合 百 七 拾 壱 万 二 千 拾 七 俵 内 百 七 拾 万 八 千 俵 残 -四 千 拾 七 俵 余 分 京 竿 之 高 〆 千 四 百 三 拾 五 石 分 己 上 慶 長 十 九 年 三 月 甘 二 日 京 竿 高 拾 石 二 付 甘 八 俵 ツ ゝ (66 ) ま ず 、 こ の 「 薩 隅 諸 懸 郡 高 究 」 の 主 体 は 誰 で あ る か を 検 討 し よ う

﹃島

津 国 史 ﹄ は 、 こ の 史 料 を 以 っ て 慶 長 一 九 年 三 月 二 二 日 慶 長 内 検 の 丈 量 終 る と 理 解 し て い る が 、 そ れ は 誤 解 で あ る 。 要 す る に 、 こ れ は 島 津 氏 を 主 体 と み て い る 。 「薩 隅 諸 懸 郡 高 究 」 が 出 さ れ て く る 経 緯 を み る と P 慶 長 一 八 年 三 月 二 日 p 島 津 義 弘 は 、 「 一 御 分 国 申 (67 ) 検 地 帳 相 調 可 有 御 進 上 事 付 へ 御 書 二 ツ 之 事 」 と 、 島 津 家 久 に 検 地 帳 を 幕 府 に 提 出 す る こ と を 指 図 し た 。 そ こ で 家 久 は 「御 検 地 以 後 薩 隅 諸 懸 割 符 之 御 宋 印 二 ツ 」 「 隅 州 御 給 之 御 朱 印 之 写 .1 ッ 」 「諸 懸 郡 御 給 之 御 宋 印 之 写 一 ツ 」 「高 麗 へ 之 御 朱 印 数 十 六 」 「 奥 州 様 へ 之 御 宋 印 壱 ッ 」 「 出 水 御 給 之 御 宋 印 之 事 」 な ど の 島 津 氏 の 知 行 権 を 保 障 し (68 ) た 豊 臣 秀 吉 朱 印 状 を ま と め 、 慶 長 内 検 の 検 地 帳 に こ れ を 添 え て 幕 府 に 提 出 し た と 思 わ れ る 。 同 年 、 黒 田 。 松 浦 ◎ (69 ) 大 村 。 毛 利 ・ 福 島 ・ 山 内 の 西 南 諸 大 名 も 同 様 に 知 行 目 録 を 幕 府 に 提 出 し た 。 幕 府 は 諸 大 名 の 表 高 -御 前 帳 高 を

(24)

島津氏 の琉球出兵 と権 力編成 確 定 す る 前 提 作 業 と し て 、 ま ず 各 大 名 に 所 街 の 石 高 の 報 告 を 求 め た の で あ る 8 島 津 氏 が 豊 臣 政 権 下 の 知 行 権 を 保 障 し た 豊 臣 秀 吉 宋 印 状 を 添 え て 提 出 し た の は 、 慶 長 内 検 の 丈 量 後 の 高 究 で 高 は 三 七 万 七 九 七 四 石 余 し か な か っ た が 、 こ れ ま で の 表 高

=

知 行 高 六

万 九 五 三 三 石 を 徳 川 政 権 下 で も 確 保 し た い と い う 意 図 か ら で あ っ た 。 島 津 氏 は こ れ ま で の 表 高 維 持 を 希 望 し て 幕 府 と 交 渉 し た 結 果 、 幕 府 が 島 津 氏 の 表 高 と し て 7 応 の 石 高 を 畢 不 し た の が 慶 長 1 九 年 三 月 二 二 日 の 「薩 隅 諸 懸 郡 高 究 」 で あ っ た の で は な か っ た か 。 幕 府 は 表 高 を 京 竿 (太 閤 検 地 ) の 六 一 万 石 に 定 め る た め に 、 草 高 (級 ) 一 七 一 万 二

一 七 俵 の 内 一 七

万 八

俵 を 籾 二 八 俵

=

京 竿 高 一

石 で 換 算 す る 案 を 示 し た 。 し た が っ て 草 高 に 余 分 が 生 じ た 。 そ れ に 対 し 、 島 津 氏 は 同 年 五 月 一 四 日 、 「粗 壱 石 五 升 (三 俵 -紙 屋 注 ) ニ 而 高 壱 石 二 購 、 高 頭 右 之 通 六 拾 壱 万 九 千 五 拾 五 石 八 斗 余 二 為 被 相 究 」 め た 。 こ の よ う に 考 え れ ば 、 ﹃ 薩 藩 政 要 録 ﹄ の 粗 高 制 成 立 の 経 緯 の 説 明 が 無 理 な -理 解 さ れ る 。 な お 、 島 津 氏 の 表 高 が 六

万 五 六

七 石 余 に 決 定 す る の は 元 和 三 年 ( 〓 ハ 一 七 ) 九 月 五 日 の 徳 川 秀 忠 領 知 判 物 に お い て で あ る 。 こ の よ う に 島 津 氏 の 粗 高 制 は 、 幕 府 が 同 氏 の 表 高 -御 前 帳 高 を 決 定 す る 過 程 で 案 出 さ れ た の で あ っ た 。 こ の 粗 高 制 を 基 礎 に 、 島 津 氏 は 慶 長 一 九 年 六 月 知 行 配 当 に 着 手 し た 。 そ の 前 に 、 知 行 配 当 を う け る 有 資 格 者 の (70 ) 調 査 が 行 な わ れ た 。 慶 長 一 七 年 二 一月 三

日 の 「御 分 国 申 諸 侍 高 人 数 付 井 兵 異 数 之 事 」 に よ る と 、 給 地 高 三 二 万 五 五 四 七 石 一 升 七 合 五 勺 、 家 臣 数 1 万 二 二 二

人 で あ っ た 。 た だ し 、 こ れ に は 「 壱 所 衆 又 被 官 末 梢 究 」 と あ る 。 (71 ) 翌 一 八 年 二 一月 一 日 の 「人 衆 賦 帳 」 に よ る と P 前 年 未 調 査 だ っ た 「 壱 所 衆 又 被 官 」 を 含 む 家 臣 数 は 1 万 三

人 p 給 地 高 は 四 五 万 七 四 八

石 1 斗 九 升 八 合 四 勺 で あ っ た o こ の 家 臣 数 な ら び に 給 地 高 の 調 査 を 実 施 し た 上 で 、 「応 此 中 公 役 之 高 被 宛 行 者 也 」 と い う 文 言 記 載 を 持 つ 知 行 -

(25)

23-目 録 が 六 月 か ら 八 月 に か け て 全 家 臣 に い っ せ い に 発 給 さ れ た . 「 公 役 之 高 」 は 「 薩 隅 諸 懸 郡 高 究 」 の 六 一 万 石 、 つ ま -島 津 氏 の 表 高 -御 前 帳 高 で あ る 。 要 す る .に 、 島 津 氏 は 知 行 配 当 に あ た -p 扱 高 で 定 ま っ た 御 前 帳 高 (幕 府 が 軍 役 を 賦 課 す る 時 の 基 準 高 ) を 基 準 に 、 家 臣 団 の 知 行 を 額 面 は そ の ま ま で 兼 高 か ら 粗 高 に 切 -換 え る と い う 知 行 制 度 の 一 大 改 革 を 実 施 し た の で あ る 。 高 一 石 を 粗 大 豆 二 石 か ら 粗 1 石 五 升 に 変 更 し た の で p 計 算 上 は 給 地 は 四 七 ◎ 五 パ -セ ン ト 減 少 し た こ と に な る 。 だ が そ の 分 蔵 人 地 が 増 加 し た わ け で は な い 。 ま た 家 臣 数 も 寛 永 一 六 年 二 六 三 九 ) は 1 万 二 七 四 五 人 で あ る (72 ) か ら 大 幅 な 削 減 は な か っ た 。 と す る と へ 粗 高 利 へ の 移 行 に よ っ て 生 じ た 給 地 高 の 差 額 は そ の ま ま 家 臣 団 の 扶 持 に 充 て ら れ た と し か 考 え ら れ な い 。 島 津 氏 は 天 正 7 五 年 ( 一 五 八 七 ) に 豊 臣 政 権 に 降 服 し て 領 土 を 薩 摩 。 大 隅 。 日 向 諸 県 郡 に 削 減 さ れ た 後 も ' 膨 大 な 家 臣 団 を 整 理 せ ず 抱 え て き た 。 太 閤 検 地 後 の 知 行 割 は 一 作 配 当 を 原 則 と し て い た の で 二 票 与 え ら れ て も 知 行 地 が 確 定 し な か っ た 家 臣 が 数 多 く い た の で は な い か と 想 像 さ れ (肇 慶 長 二 年 四 月 に 露 顕 し た 二 万 八

石 の 隠 知 行 は 、 太 閤 検 地 下 の 知 行 制 度 が 釆 し た 矛 盾 の 極 限 状 況 を 皮 映 し て い た と い え る 。 島 津 氏 は 粗 高 制 に よ っ て 初 め て 一 万 三

人 に の ぼ る 膨 大 な 家 臣 団 を し か る べ -扶 持 す る こ と が 可 能 に な っ た 。 粗 高 制 の 意 義 は 、 第 一 義 的 に 家 臣 団 対 策 に あ っ た の で あ る ⑳ 次 に p 島 津 氏 は 太 閤 検 地 と 比 べ て よ -き め の こ ま か い 在 地 掌 握 を 実 現 し た . 例 え ば 、 文 禄 五 年 ( 一 五 九 六 ) 二 (讐 -き 崎 月 二 三 日 付 の 山 田 有 栄 宛 知 行 名 寄 帳 「 大 山 村 給 地 分 遣 苑 之 屋 敷 」 に よ る と 、 太 閤 検 地 の 耕 地 把 握 は 、 「下 田 壱 寺 田 門 之 内 反 四 歩 壱 石 壱 升 三 合 新 次 郎 」 と 耕 地 を 小 字 単 位 に 把 握 し た 。 そ れ に 対 し 、 慶 長 一 九 年 八 月 二 日 付 の 千 釜 弥 (te ) 千 足 野 せ 町 十 山 次 右 衛 門 尉 宛 知 行 名 寄 帳 「 段 之 原 助 拾 郎 屋 敷 」 に よ る と 、 慶 長 内 検 の そ れ は 、 「下 田 什 訓 闘 七 畦 三 俵 二 斗 九 升

(26)

島津氏 の琉球出兵 と権力編成 九 合 八 勺 九 才 助 拾 郎 」 と 耕 地 に 小 字 毎 の 「 せ 町 」 番 号 を 付 し た 。 こ の 畝 町 は 慶 長 内 検 を 初 見 と す る 。 畝 町 は 耕 地 の 7 区 画 を 意 味 す る の で p 畝 町 番 号 化 は 大 名 権 力 (島 津 氏 ) が 耕 地 を 精 微 に 把 握 し た と い う こ と を 意 味 す る 。 そ れ は ま た 、 門 。 屋 敷 に 対 す る 土 地 割 替

=

門 別 制 度 の 一 層 の 推 進 を 想 定 さ せ る 。 粗 高 制 に 基 づ -知 行 制 度 の 成 立 (76 ) に 対 応 し て 当 然 、 基 礎 構 造 の 改 革 す な わ ち 門 割 制 度 の 展 開 が み ら れ た で あ ろ う 。 と こ ろ で 慶 長 内 検 は 、 上 述 し た よ う に 膨 大 な 家 臣 団 を 扶 持 す る た め に ま ず 給 地 の 確 保

=

知 行 制 度 の 確 立 が 急 務 と さ れ て い た の で 、 蔵 人 地 の 強 化 が 不 十 分 に 終 わ っ た と い う 問 題 点 を 残 し た こ と に 注 目 し て お -必 要 が あ る 。 例 え ば 、 太 閤 検 地 後 の 蔵 人 地 は 二

万 石 で あ っ た 。 慶 長 内 検 の そ れ は 確 定 で き な い が 、 知 行 配 当 前 に は 一 五 万 二

へ77 ) 五 五 石 あ っ た と 推 測 さ れ る 。 寛 永 内 検 後 の 寛 永 一 六 年 は 蔵 人 地 一 九 万 五 六 七 一 石 で 、 そ の 内 薩 摩 。 大 隅 。 日 向 諸 (78 ) 県 郡 に 一 六 万 二 三 四 四 石 、 道 之 島 に 三 万 二 八 二 九 石 が あ っ た 。 蔵 人 地 は 明 ら か に 減 少 傾 向 に あ る 。 し か も 粗 高 制 で あ る こ と を 考 慮 す る と 、 島 津 氏 の 貢 租 を 主 体 に し た 財 政 基 盤 は き わ め て 脆 弱 で あ っ た と い え る 。 そ の 結 果 、 元 和 二 年 ( 〓 ハ 1 六 ) に は 借 銀 が 7

0

0

0

貫 余 に 達 し だ た め に 同 五 年 七 月 三 日 、 島 津 氏 は 、 「 倍 銀 相 重 国 役 依 難 成 」 こ と を 理 由 に 、 「 諸 士 井 諸 寺 社 」 に 対 す る 高 四 分 の 1 ( 1 0 0 石 以 上 ) な い し 三 分 の 二 ( 1 0 0 石 未 満 ) の 上 知 令 を (79 ) 発 布 す る 事 態 に 追 い こ ま れ た 。 以 上 の 検 討 の 結 果 、 慶 長 内 検 は 島 津 氏 の 貢 租 を 主 体 と し た 財 政 基 盤 の 強 化 を 果 せ な か っ た と い う 問 題 点 を 指 摘 す る こ と が で き る 。 そ れ ゆ え に 琉 球 支 配 は そ れ を 補 完 す る た め に 島 津 氏 の 権 力 編 成 の 中 に 位 置 づ け ら れ て い っ た 。 琉 球 占 領 後 慶 長 一 四 年 七 月 七 日 、 徳 川 家 康 は 島 津 家 久 に 琉 球 を 与 え 、 統 治 さ せ た 。 翌 年 九 月 三 日 ' 徳 川 秀 忠 は 琉 球 国 王 尚 寧 を 召 し 連 れ て 江 戸 に 参 府 し た 家 久 に 対 し 、 琉 球 の 貢 網 を 収 め る こ と を 許 し た が し か し ' 明 の 冊 封 を 受 け て い る 国 王 尚 氏 の 更 迭 は 禁 じ た 。 そ れ は 琉 球 を 征 服 は し た が 国 家 と し て 存 続 さ せ 、 不 通 に な っ て い る 日 明 貿 - 2

(27)

5-(80 ) 易 の 復 活 交 渉 を 斡 旋 さ せ る た め か ら で あ っ た 。 幕 府 の こ う し た 琉 球 政 策 の 原 則 を 前 提 と し て 、 島 津 氏 は 占 領 後 の 琉 球 に 施 行 し た 検 地 が 慶 長 一 六 年 四 月 に 終 了 し た の を 待 っ て 九 月 、 琉 球 支 配 の 基 本 方 針 を 発 表 し た 。 そ れ に よ る と 、 ① 琉 球 か ら 道 之 島 (奄 美 諸 島 ) を 分 離 し て 島 津 氏 の 支 配 下 に 置 -、 ま た 琉 球 王 府 に は 特 産 物 の 上 納 を 課 す 。 ① 琉 球 王 府 の 再 生 産 の た め の 主 た る 条 件 を 島 津 氏 が 支 配 す る 、 と い う 二 つ の 方 針 が 特 筆 さ れ る 。 (81 ) ① は う 琉 球 国 王 の 支 配 領 域

-本 琉 球 は ' 慶 長 一 六 年 九 月 一 九 日 の 知 行 宛 行 状 に よ る と ' 「 悪 鬼 納 井 諸 島 高 八 万 (82 ) 九 千 八 拾 六 石 」 と 定 め ら れ た 。 「 悪 鬼 納 井 諸 島 」 は 、 同 月 一 〇 日 に 定 め ら れ た 琉 球 特 産 物 の 責 納 規 定 に よ る と 、 「 沖 那 波 。 け ら 満 ・ 与 部 。 伊 世 那 ・ 伊 江 ・ と な き 島 。 粟 国 島 ・ 久 米 島 。 や え ま 島 ◎ 宮 古 島 」 で あ る 。 慶 長 検 地 の 高 は 二 万 三 〇 四 云 九 斗 六 升 A襲 っ た か ら 、 こ の 知 行 宛 行 状 は 琉 球 国 王 の 支 配 領 域 以 外 の 地 域 、 つ ま り 道 之 島 (奄 美 諸 島 ) 二 万 三 九 五 五 石 は 島 津 氏 の 側 で 支 配 す る と い う 同 氏 の 方 針 を 言 外 に 示 し て い た 。 こ の 道 之 島 分 割 に よ っ て 島 津 氏 は 、 慶 長 一 一 年 以 来 の 琉 球 に 対 す る 領 土 拡 張 の 野 心 を 実 現 し た 。 し か し こ こ で は 島 津 氏 が い か な る 形 態 の 道 之 島 支 配 を 構 想 し て い た の か が 明 示 さ れ て い な い 点 に 注 意 し て お -べ き で あ る 。 (84 ) ① は 、 本 琉 球 統 治 の 基 本 方 針 を 定 め た 慶 長 一 六 年 九 月 一 九 日 の 綻 十 五 ヶ 条 の 中 の 三 つ の 貿 易 条 項 、 1 薩 摩 御 下 知 之 外 唐 江 跳 物 可 被 停 止 之 事 一 従 薩 州 御 判 形 無 之 商 人 不 可 有 許 容 事 一 従 琉 球 他 国 江 商 船 一 切 被 遥 間 数 之 事 に よ っ て 明 ら か な よ う に 、 琉 球 王 府 の 主 要 な 再 生 産 の 基 盤

=

貿 易 は 、 全 面 的 に 島 津 氏 の 管 理 下 に お か れ る こ と に

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