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[浦添研究]龍福寺御焼香の次第について: 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Title

[浦添研究]龍福寺御焼香の次第について

Author(s)

長間, 安彦

Citation

浦添市立図書館紀要 = Bulletin of the Urasoe City

Library(6): 18-26

Issue Date

1994-12-25

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/20587

(2)

〔浦添研究〕

龍福寺御焼香の次第について

し は じ め に

本 史 料 は 、 「 大 清 成 豊 五 年 乙 卯 九 月 中 日 記 評 定所

J

(以下、日記と記す)に所収される次第書であ る。毒事刻の作業は、本号で紹介する以前にすでSに『琉 球王国評定所文書j第9巻(浦添市教育委員会、 1993 年)でなされている。重複の無駄を承知のうえで、 この史料を取り上げた訳は、龍福寺が、①琉球(沖 縄)浦添で最初に建立された寺院であること(1)。②創 建 (1265~74 年)後、英祖王統の家廟として位置付 けられていたと思われる(ル③その後1476年、那覇 に中山盟主廟崇元寺が創建されるまでは、舜天・英 視・察f主各王統の硯扉(位牌)、並ひやに天孫氏・第一 尚氏主統を弔い配る国廟的な役割jを担っていたこと (3)。さらに、

C

I

近世、廃藩置県以後、沖縄戦(第二次 世界大戦)まで、廃寺・再興・移転等を繰り返しな がらも存続した古利で、その号名を継承する

r

(

臨済 宗妙心寺派)龍福寺

J

が今尚、沖縄市泡瀬に現存す る等からである(4)0 本史料(以下、次第書と記す)の内容から、④を 除き、①から③のことが端的に知れる訳ではない。 琉球王国の祭・政を掌爆した第三尚氏が、普天間神 宮参詣 (1644年に開始)の際に、前王朝の菩提寺に 過ぎない本寺において毎年、焼香・祭礼を執り行な い、首里王府公事の一環に組み込んでいたことの事 実を、歴史的な事柄として捉えれば、古琉球時代の 琉球王国の重要な寺院としての龍福寺の姿が、おぼ ろげに見えてくる。 次第書を掲載する前提として、「議福寺御焼香」に 至るまでの歴史的経緯などを簡略にまとめ、さらに、 史料所収の日記から「龍福寺御焼香」周辺記事なら

長 問 安 彦

びに関連史料を提示して、次第書内容の理解の助け にしたいと思う。同時に、国王行幸の途(浦添濁内 のみ)における史跡をも簡単に紹介しよう。

2

.

龍福寺の変遷と王の碗扉

『球腸

J

等の近世史料によると、龍福(竜福)寺 は、英tll王代の威淳年間(1 265~74年)、小那覇の津 に漂着した禅錐なる補陀洛僧が、浦添城西に建立し た琉球(沖縄)初の仏寺であるといわれる。当初は 補陀洛

U

J

極楽寺と号していたが後、尚円王代の成化 年間(1 470~76年)に天徳山龍福寺、尚穆王 9 年 (1760 年)には補陀洛山龍福寺に改号した。 その在地も、英祖王統以後、浦添城西に建立され た 本 寺 へ の 往 来 は 道 険 し い が た め 、 尚 巴 志 王 代 (1421~39年)に前谷(場所不明)、その後火災に遇 い久しく荒廃していたが、尚円王の命により城の南 (当時の浦添村=仲間村)に再興された。しかし、 慶長14(1609)年、島津軍の琉球侵攻により城とも ども再び焼失。侵攻8年後に、浦添城普請の際に尚 寧王の命を以て

1

8

制のごとく重修され、本寺の継続 維持がなされて後に、近世期の首塁王府「龍福寺御 焼香

J

1

義礼に至るのである。 『琉球国旧記』に拠れば、侵攻の際倭兵は寺院に 安置されていた硯廃(位牌)・神像(文殊菩際騎獅仔) を門外に運び出し、戦乱の炎から救った、とある。 硯扉・神像等の行方に関連して、『琉球回出来記j(以 下、『由来記j)の「諸寺旧記」項、「天徳

I

U

円覚寺j には、同寺に蔵する大般若経六百巻は「素為龍福之 什物也

J

という。く什物〉とはく秘蔵の宝物〉をいい、 それはもと龍福寺の所蔵であったことが記されてい

-1

8

(3)

る。その移管の理由として、「余謂、雄為龍福之什物、 窮郊僻邑、而総

f

呂少尖。故畢不可用之。」とあるコ大 般若経の功能を必嬰とする「公府

J

(王府)にとって 般若経を蔵する龍福寺は「窮郊僻邑」の地に在るか ら、経典を円覚寺に移すという。推測するに、尚円 王の時の龍福寺関

U

J

住持・芥穏、が、1-1

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4

年に円覚寺 の開 I lJ住持に就く際、移管したのであろうか。 ~li楽 (龍福)寺の号の由来、禅鑑の素性、何故に補

p

t

i

名 {曽か、さらには、文殊菩薩像の安琶の問題などにつ いての詳細な研究は、多国孝正著「沖縄仏教の周辺 禅鑑禅師をめくって

J

(

r

窪徳忠先生沖縄調査

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0

悶年記念論文集.

i

中縄の宗教と民俗j第 4書房、

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8

年)、真喜志塔子著

l

琉球綴楽寺とf'

J

覚寺の建立 について

J

(

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南島史学

J

2

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号・第

2

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号、南島史学 会、

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年・

1

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年)、島尻勝太郎者

r

"t~邑福寺の運命」

(

f

沖縄歴史研究j第

2

号、沖縄必史研究会、

1

9

6

6

年) 等を参照してほしい。 第二尚氏の創設者・尚円は、京都臨済;去の芥環を 首里城隣接の天徳山円覚寺の閉山住持とした

(

1

4

9

4

年)。それ以前、芥隠、は天徳Ilj龍福寺ヰ1興の照山fj:持 に迎えられている。それ以後の摩代住符は、単に王 府管理の官寺であれ宗廟として本堂において、先王 龍福寺に安置されていた獅子像 尊拝の祭礼を執り行ない、「由来記j の「諸寺!日記」 をみると、尚円王代に安置されていた先王神主(位 牌)に加えて、

f

品敬王即位

1

5

年後の

1

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2

8

年には天孫、 氏・第一尚氏の各王神主をも追加・奉安して、実質 的に第二尚氏以前の<王廠>としての性格を持ち得 た寺院とした。 但し、尚敬王即位年の段階で本寺西壇には尚寧王 神主が安置される理由は、尚寧王の出生地や彼の家 筋の成立に起fBしてのことであるof浦添域の前の碑 文

J

(1

5

9

7

年建立。

f

たいへいきょう・たいらばし積 み

1

'

1し時の碑の文

J

)

[1古]氏家譜・小禄家

J

に、その 辺の事情をみることができる。尚 ~i と龍福寺の関わ り方のみを掲げると、「尚寧天子 ー二十五JY;子之年 従浦添御即{立。

I

君主互拝彼i也之仏塔為[nJ神社。三歳一 度五年再度被回龍御。 ー

J

(

r

城の商lの碑│裏文) の記述や、また、尚寧の浦添本家の裳が「浦添ょう とれ」内にあること等([向氏家譜

J

)

から、浦添の龍 福寺に尚寧神主が在ったことの経緯が推祭できよ f ノ。 第二尚氏 7 代呂・尚寧王(1 589~1620年在位)の 後、 9 代目玉・尚賢 (1641~47年在位)の時、初め て普天間参詣が王府公事になる(1

6

4

4

年)が、それ に伴い国王一行が龍福寺を参拝するのは、なにも行 幸の途中に本寺が在るからでトはない。先に述べた先 王統位牌の順次奉安は、第一尚氏の龍福寺の取り扱 い方に対して、第二尚氏が慎重な姿勢を見せながら、 本寺での国王直参の祭干しを行なし, (一時途絶えるが)、 先の各王統御霊を鎮めることは国家平安につながる ものと考えていたことの証しでもあろうが、その裏 には王朝交替が順当な易姓革命の下で、政権が引き 継がれたものではないことの畏れ、いわゆる官)1王朝 のく夜、霊・怨念〉への恐怖を、時の為政者が感じて いたからではなかろう制比敬忠の念からではなか ろう。龍福寺における公事「御焼香j は、そのよう な裏事情があっての行事にも思える。だからこそ、 第二尚氏以前の王蔚・菩提寺として、普天間参詣の 折りに参拝したのである。

(4)

国王直参の普天間参詣が執り行なわれた道光25年、 龍福寺での御焼香も執行された。この時の「例格j 次第を以て、成豊5年9月の次第書の調査・清書に 至ったことを、 (a)(b)(c)の内容は指し示している。(c) にいう「御直参jとは、国王直々の参詣を意味して いる。道光25年時の国三Eは尚育で、即位11年目に充 たる。龍福寺御焼香の件は「言上記

l

に詳しい、と ある。「言上記jとは、いかような文書であるのかは 不明。但し書きにいう「中比よりこ・八月親方を以 御廃香jとは、『球陽』の次の記述に関連した事項で ある。尚賢王代

(

1

6

4

4

年)から国王直参参拝が再開 をいう。以上の

2

条文には

2

件の「次第書

J

がみえ された尚育王代(1 845年)の「中比」が、尚敬王 ~p る。前者は「普天間御参詣之時龍福寺御焼香之御次 佼

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年(1

7

3

0

年)頃に充たる。 第」を指し、道光

2

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年(1

8

2

5

年)の例を以て取り調 ベ、清書して街書院当に差し上げた次第書である。 卜八年春秋始遣使子龍福寺、進香先王神主。 後者は

l

普天間御参詣之御次第j を指しており、御 春秋仲月初戊日、玉、遺紫巾官一員、前五龍福

3

.

次第書の成立について

次第書の成立について、「日記

J

(

1

8

5

5

9

月中)に は次のように記述されている。原文書事刻は、『琉球王 国評定所文書』第9巻(以下、『評定所文書第九巻J) に依る。 一御次第書之儀、道光弐拾五年之伊jを以取調部清 書為致、御書院当御取次差上候事。 附、御発駕より普天間江之御次第者先達而差上 置候付、友之通龍福寺御焼香之御次第計 表上候也。 普天間御参詣之時龍福寺御焼香之御次第 ぐ後略〉 附の文中にある「普天間江之御次第者先達而差上積 候付j とは、 一有]而普天間被遊 御参詣候節、御次第書之儀前々より御座元日記 ニ者何分不相見得候得共、{御書院日記ニ者初而之 事故、表方より御次第書差上候段相見得、御次 第書等相記置候付、此節茂書写させ取調部、左之 日致J 通清書為綱審院当御取次差上候事。 普 天 間 御 参 詣 之 御 次 第 く後略〉

R

A

元日記には次第が記録されていない。しかし、表 方より「御次第害等j を差し上げ、記録してあるこ とが分かったので、この時に書き写し清書して、御 書院当に取り次いだ。「止七節茂書写させ←│とは、成豊5 年乙卯

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(

1

8

5

5

年)にも書き写したことを述べて おり、それ以前にも書き写し作業がなされたようだ。 「普天間御参詣之御次第

J

を書き写した時、同時に {龍福寺街も廃香之御次第」も清書されたことが分か る。 (a)にいう「道光弐拾五年之例j とは、 (a) [より] 一 此 節 者 普 天 間 御 参 詣 之 初 龍 福 寺 茂 被 遊 御 焼 香候段、御意被成下候付、早速寺社方・下庫理 召寄、御座構弁諸事手組申渡させ候事。 但、本文御廃香一件者委ク言上記ニ棺見得候 也。 「普天間御参詣之初、前々者龍福寺江茂被遊御 参拝、中比より二・八月親方を以御焼香、街l 直参者無御

R

A

候処、道光廿五巳年普天間御参 詣之捌より、猶又龍福寺江茂為被遊 御参拝御 事候付、先御当分者右衛i例 格 通 被 遊 御 参 拝 候旨、御意被成下候問、言者事無間i量可被相勤 候。以上。く後略

>J

( c) ) b ( 寺、進香歴代先王神主、永著為例。 (d) 春秋仲月は旧暦の 2・8月に当り、紫巾官とは毅方 クラスの高官のことである。さらに、その翌年

(

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1

年)には、議福寺での行香礼式が定められた。 始定龍福寺行香干し式。 自背龍福寺、奉安先王神主。市未有行香宇

L

。似

(5)

-20-浦添番所百jで込浦添間切の惣地頭以下の役人衆から の迎えを受けたが、この時点、で龍福寺参拝が挙行さ れた様子はみられない。 平良村外れから浦添番所に至る街道は、中頭プJj古 海道の一部で、「公事選」と称された官道である。浦 添街道とも俗称され現在、県道

1

5

3

号線にやや並走す る古道でもある(7ん番所に至る道筋に、経塚の碑文・ 来月卜二日御奉行様役々衆普天

l

司御参詣ニ付、 安波茶橋が在る。 平宇

L

甚欠。由是、[日年、始遺使子龍福寺、春秋、 行香。又毎偶五節・抗日望(正月初]七日・三月初 三日・五月初五日・七月初七日・九月初九日・ 冬至・歳暮・十二月晦日)、設卓ー廟之正面、飾 香炉ー・燈篭一対、毎朝汀香。起七月十三日3': 十五日、進御茶湯、報タ行香。 (e) この文は、

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7

3

0

年の事項を詳細に述べたものであろ うが、昨年の春秋の

E

歪代先主の法要に加え、 1月・ 3月・ 5月・ 7月・ 9月の5節、冬至・歳暮・大晦 自のす丹望には毎朝、香(線香)を焚き、さらに 7月

1

3

-

-

-

1

5

日のお盆の期間にも朝夕、呑を焚きお茶を 供えることが、礼式として定められている。

4

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浦添から普天間への参拝経路

日記の目録に、「普天間江初而街]参詣、龍福寺被遊 街l参拝候付数ケ条之事」とあるが、それら全文を 掲載することは控えるが、本節では、「普天間御参詣 之御次第(蓄)

J

から参詣道、並びに浦添│笥切の対応、 をみよう。 8月中日記 (f評定所文書

J

第9巻)に、在番奉行 衆の普天間参詣に伴つての対応策が記述される。掲 げるに、 であろう。参詣に先立ち、国中倹約中であれども、 王子衆・摂政・三司官、担当部署A役々衆から「羊か ん

J

I

腹之子餅

J

I

蒸し餅jを、浦添按弓地頭、浦添・ 宜野湾惣地頭からは「御神酒」が献上された。 当日五ツ時前(朝7時)に御供の王子、三司宮、 時口が奇城、く首里森〉で御拝の後、御車高居にて出 発、くそのひやふ(閤比屋武街i獄)>において「次第

J

の通り推~拝を行ない、王子・三可官は花当山く安国 山〉角で駕篭に乗り、毅方・申口たちはく観運紅(天 女橋)>付近から騎馬にて出立、平良橋西側で西原間 切の抑j理並び{立衆の

i

!llえを受け、さらに、一行は平 良村外れに至り進み、浦添番所に向う(6)。 -j甫添番所前ニ而両惣地頭・安波7茶村地頭・夫地 頭 ・ 大 さ は く り [ 美 ] 御 迎 立 御 拝 仕 。 ( 1 ) 一還御之時両惣地頭・安波茶村地顕者仲間村、犬 地頭・大さはくり者安波茶村後ニ而同断。 御通路筋之儀、御主1還共真壁道より浦添・宜野 経塚の碑文は、公事道側に立つ古琉球期の金石文 湾之様御通、旦浦添・宜野湾問番所ニ江街

l

休庭、被 で現在、字経塚の氏神として!日暦

1

0

1

日に祈願さ 成候問、御通路筋払除其外諸事先例之通無間違 れる。その建立縁起に図り「チョウチカ・チカ」を 紹勤候様、真和志・西原・浦添・宜野湾問ケ間 三度練り返し唱えると、地震が鎮まるという民間信 切羽可被申渡候。以上。 八月廿二日 国吉親雲ヒ 御物奉行 他の条文によると、奉行様・役々衆の与那原への 遠出、国許(鹿児島)使者の来琉などの事情でこの 年、在番奉行衆の普天間参詣は中止。しかし、図主 直参の参詣は予定通り実行されたので、文中にいう 「通路筋」の内、首里から宜野湾へ通じる街道は 4 か間切人民により、払除(道路掃除)が行なわれた 仰を生み出した。

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4

年頃、琉球の真言宗中興の祖 といわれる臼秀が、妖怪退治のために金剛・胎蔵の 両界憂陀経の特定仏に関わるー経文(金関経)を刻 んだ小石を土中に埋め妖怪を封じ、金剛嶺3文字を 彫った石碑を建立。この一帯を「金剛嶺獄」、または 「経墓jと典籍・旅日記類は記している(810

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4

4

年の 尚賢、

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4

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年の尚育 4行は、この碑文をどう授たで あろうか。 安波茶橋は、尚寧王代の

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5

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7

年に建造された石橋 である。人民往来の利便、尚寧の故郷・浦添の龍福

(6)

寺仏塔への 3年毎に l度、 5年毎に 2度の拝礼行幸 を順調に行なわんがため、首里から浦添までの道普 請が竣工され、石橋2基が安波茶川(小湾}l1)上流 に架けられた

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)

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6

0

9

年の島津の琉球進攻の際、薩摩 箪はこの橋を渡り、首里玉城へと向った。尚寧の故 郷への思慕が築かせた橋が、進攻を容易にさせてし まった感がする。付近に参詣の折り、

E

塁王が一服し た「赤ffi1井戸

J

が、今も古橋ともどもに残っている。 一行はこの橋がなければ、整備されない脇道を通ら ねばならなかった。 一部損壊している安波茶石橋!基 (f)に続く一つ書きは、宜野湾番所着および「普天 間御参詣

J

の次第が詳細に記述される。祭礼を終え た後、国王一行は普天間神宮寺を出立し、「浦添後川 原上jに至る。浦添城(跡)、または仲間村の後方(北 側)にある川原、現在の牧港河原をいい、学当山付 近を指している。宜野湾照明]境である。 首皇玉府行政機構のひとつである御双紙庫理に よって、道光

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9(

1

8

3

9

)

年に書き替えられた、次の 2件の図がある

(

1

図 帳 勢 頭 方

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1

図 帳 当 方j お よび解説、『首里城関係資料集』所載、沖縄開発庁沖 縄総合事務局

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8

7

年)。図い図

2

(

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)

の文に関連 する配置図であろう。「図帳j解説によると、勢頭方 は諸儀式の警備や餐護システムに携わり、当方はイ ベントの舞台進行係として機能した部署と考えられ る。「安波茶村迦jは、今も御待毛と伝承される地で ある。または御待所ともいう。 前文に続いて、!普天間参詣次第書jは、浦添番所 内での様子、御橋居の出立が記される。後述するが、 龍福寺御焼香は普天間参詣の帰路に挙行されたので、

(

g

)

(

h

)

と次の文(;)は、ぐ浦添番所から龍福寺

V

参拝する 前段階のこと〉を示している内容であり、次の5節 に掲げる「譲福寺御焼香之御次第 jの前文に位置付 けされる文書(次第)といえよう。 一御多葉粉盆・薄御茶上、着座人数江高出。 一王子・按可・三司官・親方・御物奉行・申口・ 吟味役より御菓子、両惣地頭より神酒進上付、 巨録供奉之申口取次差出候得者、同三司官より 御書院奉行御取次披露、御菓子御廃合ニ而上ケ、 末々迄被下之。 一偶]犠居可申段、下庫理当より三司官江案内仕候 得者、御多葉粉盆下ケ、美御迎人数御礼手を合退 去。 一個1縞居候段、御書院当江棺達候得者、同当より言 と有之、被遊御発駕。 一美御迎之王子以下吟味役迄、番所前方士西表J1ゐ御 拝仕。 一珍仲間村王子以下吟味役迄美御迎立御拝仕。 (g) ー御二審院・下庫理人数、安波茶村迦ニ而美御迎;右 同断。 浦添番所において、以上の献上・賜事が滞りなく実 一浦添番所着御、供奉之王子以下申ロ迄御座着 施された後、龍福寺での御焼香儀礼が執行されたの く後略〉 ※以上の文は、記号(i)とする。 美御迎、王子・按司・三司宮・親方出仕ニ而着腹、 である。 申口・吟味出{上御座末ニ着態。 但、両惣地頭・安波茶地頭・申口座以下之人 者出

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土退去。 ( ) h 22

(7)

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ー一仁左¥

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5

.

龍福寺御焼香之御次第(書)

龍福寺での首里王府の公事儀礼に関する詳細な史 料は以外と少ない。「諸寺!日記」から、尚敬王町i位l 年

(

1

7

1

3

年)の段階で、文殊菩薩獅子

i

象(木像)・歴 代先王の方丈中央大視界が本寺仏殿に、商埴には尚 寧王神主、向氏呉志頭按可朝騎先柱

l

の位牌、東壇に は│司氏羽地按司朝維先祖の位牌と無銘の鐘I口が安 置されていたことが分かり、また、尚穆王代の

1

7

6

0

年には、極楽寺(後の龍福寺)開祖である禅鑑禅師 の神位牌をも安註されたことが知れる([由来記jf球 陽1)0

3

節に掲載した「球湯j 巻120)(dXε)にみるよ うに、

1

7

3

0

年(行香礼式│定めにより、親方派遣の 本寺倒的モ Nが行なわれたことも周知されるのである。 他のt府の公事儀礼に関する史料として

J

冬至当日 之公事

Jr

正五九月弁之獄末吉御参詣之時公事

J

i

標 題 欠 (

I

弓覚寺参詣等)

J

(

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史料編集室紀要j第

1

3

号、 沖縄県立図書館史料編集室、

1

9

8

8'

1

0)、「琉球

t

t

l

王家 年中行事正月式之内

J

(本紀要

2

号所収、

1

9

9

0

有)等 がある。 次に掲げる

l

普天間御参詣之時龍福寺御焼香之御 次第」の内容は、これを十分に補足し得る貴重な史 料といえる。 一浦添番所古iJニ而供奉人数八巻仕。 附、普天

f

海江 街}発駕之時、此所二百供奉人数八巻街1免 付けたり文の「供奉人数八巻御免」は、首里から普 天間へ向う途中、浦添番所前で 患をいれ、次いで その出発に当たり御供衆が「八巻」を解いたことを 意味するく(1)文章参照〉。一つ書きの番所前での「八 巻仕」は、普天間参詣を終えた 行が浦添に到着、 番所内での接見:を執り行なった後、龍福寺への御橋 居出立の擦に御供衆が八巻を被ったことをいう。 龍福寺仏殿之前二部御下続。 附、住持御門前西表四間程ニ而美倒]迎。 道光25年(尚育王代)、威豊5年(尚泰王代)頃の住

(8)

持についてその名は不詳。住持(僧侶)は本寺の御 門から4間程の所で、国王の御橋居の訪れを迎える べきことが述べられている。これは定石の行為であっ たのである。以下の文書が、龍福寺における働焼香 次第の本旨部分である。 一仏殿内商表 通御真正面より 御入、直御お御座江御着、王子客殿、三司官・親 方六尺縁、申口三尺縁中上にして立御拝着座。 附 一御相御座、御書之問末壱問自主者縫物縁御遊 寺社中取ニ而兼而直置。 一御拝敷赤糸縁御畳之上ニ黄縫物縁御窪、'1' 取ニ而兼而御供台之前江直置。 御控倒l座として、寺社中取が仏殿の御書の聞に、縁 が黄縫物の廷を敷き、さらに御拝のために、御供台 前に赤糸縁の躍にも黄縫物縁

i

f

i

l

J

笈が敷かれた。その 準備が事前に調われた後、国王が着座した。その後 に、下

E

整理当が線香

5

本を焚き、ご香箱蓋にて国王 に差し渡され、国王の御焼香が行なわれ、それに併 せ、着座の王子以下の者も御拝を行なう。 一御書鋭当より御焼香之言上イ士候得者、御拝御座ニ 而'tL御拝 着御、下康理当ニ而御香五本焼上、御香箱之ふた ニ直差上候得者 御直御焼香被遊御拝、着座之人数御招約二市御 拝仕。 附、御香上之花当仏殿真正面より遇、三尺縁 ニ市当請取此時花当御辻迦、御勝手江引 御供台東表江拍居。 一御焼香御座被遊 着御候得者、早速中取罷出、御担御座御遊御 勝手江下。 一右相済、御書院当より御書之潤江着御之言上{土、 御照堂末之壱間御通 着御、(同〕当ニ而御戸閉 之、王子御書之問客居表、三司官主居表、親方 客居表、申口問所前三畳敷答居表江頃々着座。 一住持御書之間御座末ニ而出仕、同所勝手表江着 座、寺社中取一人間所前三畳敷ニ而出仕退去。 御書の問において、喫煙・お茶が接遇され、ひと息 いれしる。 一御多葉粉盆上、着座人数江茂多葉粉盆出。 ー御薄茶]二、着E巨人数江茂御茶被下。 附、御宮仕里之子た、着座人数花当。 ー右芳和済候得者、当より三司官江案内、勢頭江申 達御鱗屑させ、着座人数多葉粉盆下(此時住持 御一干しニ而御先退去) 一御多葉粉盆下。 御焼香・接遇など、龍福寺での公事儀礼が済んで、 いよいよ帰城となる。 一勢頭より御橋居候段当承、御書院当江中日逮候得 者、向当より言上{士、如普天間 御発駕。 一住持妙美御迎所勤方如最前。 以上。 卯九月 本寺到着同様に、御門前にて先に待機していた住持 の迎え送りを受け、「還御之時両惣地頭・安波茶村地 頭者{中間村、夫地頭・大さはくり者安波茶村後ニ而」 美御迎立拝仕られ、一行は浦添を出立、再び「諸人 平良が御作所美御迎立御拝{士

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(普天間参詣次第に記 す)がなされ、そして観蓮紅に着き、首里械に至る のである。 次第書(音量福寺御焼香)にみる龍福寺は、仏殿内 に御書之間・伺i照堂が配置された寺であり、門を構 御焼香御拝が滞りなく執行された後、国王並び王子 えた境内であることが分かる。配置に関しては、戦 たちは御書の聞に引き控え、本寺住持もその部屋の 前まで山門・本堂・仏堂なる建造物があった、とい お勝手側に着く。 う([(浦添市立浦添小学校)創立百周年記念誌

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-2

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(9)

年を参照)。本堂が次第蓄にいう「仏殿j、仏堂が「街] の安置・祭干しの関係史料等も提示し、コメントすべ 門」に相応するのであろうか。 きであろうが、しかし、この問題を本稿で取り上げ るとテ マが拡がりすぎる。あえて、「龍福寺御焼香」 以!ーが近世期、古琉球からの古車IJ

I

龍福寺」で執 に関わる次第についてのみを紹介するに止めた。 行された国王

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直参による先王尊位(前王朝)への街i 焼香次第である。その前後の行程は、同次第蓄を所 収する日記の│普天間御参詣之御次第(書)

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をも参 照しながらでは分かり難い。龍福寺では焼香儀礼の みが行なわれているが、務天間神宮寺では、祝部・ 内侍による神楽の演舞、住持(神宮寺)への拝領物 j員戴等の次第もある。また、このことの差は、日記 に述べる[参詣J

I

参拝」の用語の使い分けからも、 王府がどの守に重点を置いた公事行革であるかを、 感じざるをえない。薩摩役人(在番奉行衆)の能天 間参詣への鱗席、また、『琉球臨 II]~己j にいう普天間 参詣の由来説「当時議州之人。疑乎本国人不為崇仏。 而故。王以至於庶人。遠到普天問。以使立願。而明 乎深信仏法之事」等、その背景に薩摩との兼ね合い が担問見られる。しかし、王府は龍福寺を天孫天か ら第 尚氏までの宗廟として位置付けているので、 両寺での祭礼執行の相違への疑問は推測の域でしか ない。熊野権現派と禅宗派による違いか。

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. おわりに

[浦添研究〕とはなっているものの、本稿は

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琉 球王国評定所文書

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第9巻所l俣の日記に記録される 2件の次第書(普天間御参詣・龍福寺飼日克香)の一 つ書を分解し、特にテ マである龍福寺への参拝状 況を紹介したにすぎない。研究論文にはほど遠いも のとなった。地域の歴史・文化に興味を抱く市民(浦 添の)は多い。先の書籍がなかなか入手できにくい 状況にあるので、とりあえず、市民のニ スに少し でも応えんがため、本号に龍福寺街l焼香の次第書を 抜粋、掲載した。併せて、龍福寺前史、周辺史料(写 真・図)なども添えることで、次第書内容の理解の 助けとした。幾分かは〔浦添研究〕になろうか。 2 件の次第書内容を読み違えているかも知れない。こ 批判を乞う。また、第二尚氏による崇元寺・円覚寺 における先王昭穆の安置と祭記、龍福寺の先モ神主 〔注〕

(

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)

く前文略〉営精舎必浦添城西、号極楽寺、(旧!Jl:尚 存)延以庖於濡。是我朝、党{呂・併乎之始也。([琉 球史料議書

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P2

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、東京美術、

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年)。 (2)く前文略〉建寺松浦添村名古量福市為歴朝王廟先是 元戚熊年間英祖1始子浦添城西名極装疑是英倒之 家筋也欺く後文略>([球陽」原文編

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182~

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、 角)11書f占、

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年再版)。 (3)方丈中央大硯扉/先王舜天王尊位/舜馬順照尊 位/先王義本王尊

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立/英祖王尊位/大成王尊位/ 英主主、王尊位/玉城主尊位/西成主尊位/察皮王尊 f立/武亭主尊位/忠、紹王等位/~品巴;亡、ヨニ尊位 歴 代主叔妙宗諸尊位・歴代先妃諸香位・先遠宗貌諮 香{立等く後文略>

u

琉 球 史 料 叢 書j第 l巻P 207~

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、東京美術、

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年)。 龍福寺記に記録された「方丈中央大硯厚手

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の日吉 穆神主は、第二尚氏の王等伎とともに崇元寺・円 覚寺などにも安置され、祭最

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が執行されていた。 各寺での先王祭柁の儀式の違い、祖廟としての扱 い方については、まま見山和行著「琉球の王権儀礼 祭天儀礼と宗廟祭最Eを中心に

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(

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王権の基層 へj叢書史層を振る第1lI巻、新潮社、

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年)に 詳しい。豊見山氏は本論で、「円覚寺は第二尚氏の

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王統街l耳目j、崇元寺は舜天以来のすべての王の

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歴 代の国庫刻、龍福寺は天孫氏から第一尚氏王統まで の宗廟として位置付けられ、それに対応した壬腐 祭紀が体系的に展開されていった

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(同書

P2

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)

と述べている。天孫氏安慢の問題等については、 高良倉吉箸「近世琉球における天孫氏問題 現在 正九年の天孫氏位粋安置ー件の詮議から

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(

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球陽 論叢j ひるぎ社、

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年)を参照。

(

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)

西原栄正著「極楽寺の変遷(龍福寺考)

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浦添市 文化財調査報告書第2集・うらそえの文化財

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P 26~35 、浦添市教育委員会、 1982年)を参照のこ と。

(10)

(5)堀一郎はその著『宗教・習俗の生活規制』の中で、

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世紀中葉以後、京都天台宗僧侶から流行した「御 霊信仰

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(怨恨の念は死後に報復し得るとする信仰 で、仏教とシャ マニズムの合弁による一種の俗 信)は、「多くの蜜獲すべき弊害を及ぽしたが、権 力の座を不可視の力によって脅かし、不安を醸成 せしめた点で、見のがすことの出来ない現象jで あると指摘している。同書(未来社、

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刷)

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。 (6)

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琉球王国評定所文書』第9巻所収の「年中各月 日記│く

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普天間御参詣之御次第>

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0 (7)

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浦添市文化財悉皆誠査報告書

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浦添市文化財調 査報告書第

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集(浦添市教育委員会、

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年)所 収の「歴史の道」に述べる道筋並び添付地図を参 照のこと。 (8)

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経墓(在自首里。往浦添邑大路。東傍松山中。 又称金冊。嶺)

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(

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琉球国!日記

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巻 6)0

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く前文略〉 普天間・新城・神山村罷遇、宜野湾番所ニ而休息、 嘉数・仲間・安波茶・経墓・平良村・首皇道罷通 〈 略 >

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(自道光

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年至明治

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年『福地家文書日記 抄』那覇市歴史資料室所蔵)。

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)

万暦

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年)建立の『浦添城の前の碑文』 に、首里儀保から浦添(城)までの道路工事並び 完成祝いについて記録される。「みちにいしはめ j

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-「ミちはしつミつけて」など、石畳および敷設道 路に関する記述がみられるが、明確に浦添の川原 に石橋を架けることを述べてはいない。石碑は浦 添城の城門前に建立され、碑文の始めは「たいへ いけうたひらはしつミ申時のひのもんj と記され る。現存する安波茶橋の挟石の用い方等の築法か ら、この時に架橋されたものと推定される([浦添 市史j第

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巻、同書

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巻、浦添市教育委員会、

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年)。

参照

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