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近代世界経済システム: 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Author(s)

狩俣, 真彦

Citation

沖縄大学紀要 = OKINAWA DAIGAKU KIYO(7): 133-155

Issue Date

1990-03-31

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/5742

(2)

近代世界経済システム

狩俣真彦 次 1はじめに 2ヨーロッパの奇蹟 3モンスーンアジアの経済発展 4むすび 1はじめに 1983年に急逝したレイモン゛アロンは『世紀末の国際関係』の中で「平和 は不可能だが、戦争は起りそうにない」とくり返し述べている。つまり20世紀 末も冷戦が続くという見立てである。幸いにして、東欧の政治改革の動きによ ってアロン的世界から、少し早めに、足を洗うことになった。しかし改革は持 続するだろうか。「コンミュニズムイズイムポシブル、デモクラシイイ

ズイムフ。ロバブル」と椰愉する向きもあるという'3

本稿は近代的経済発展あるいはインダストリアリズムとその波及に関するオ ムニバスな考察である。今後も同じテーマでしばらく書き足していく予定であ る。本稿では、時代の文脈に当てられたこともあって、次のように主張してい る。専制は経済発展と両立しない。したがって長期的な経済発展は民主的な政 体のもとでのみ持続する。第2に世界は ̄つの経済システムになっており、デ カプリングは内に衰退をもたらし外には波乱を及ぼす。

最初に本稿の概略を説明する。第1節ではポールウネディの『大国の興亡j)

に沿って近代的経済発展が始まる1500年当時のワールド゛シーンとその後の 発展経過をとりあげる。当時ユーラシア大陸には明王朝、ムガール帝国、オス -133-

(3)

マン・トルコ、ヨーロソパ文明が発展段階を同じくして横ならびに存在してい た。しかしヨーロッパのみが近代的経済発展をとげ、他の文明は衰退した。こ の歴史的過程をポール。ケネディは「ヨーロッパの奇蹟」とよんだが、ヨーロ ッパが対外的には各国間で競い合い(勢力均衡)、国内では民主的な政治体制 になったのが、発展の理由である。対照的に他の文明は専制の故に近代的経済 発展になじまず、衰退することになった。 第2節は、ハリー・オーシマの『モンスーンアジアの経済発展』と渡辺利夫

の『アジア経済をどう促えるかj)の両著に拠って、アジアニーズの経済発展を

とりあげる。ヨーロッパ発のインダストリアリズムは、その後各地に波及した が、今日の経済発展の中核はアジアニーズである。モンスーン・アジアでは「人 口転換」と「工業転換」の組み合わせが発展に必要であるが、それをいかにし て成功させたか、ということが問題である。解答は、世界経済システムとの結 びつきを強めることにあった。すなわち、日本から資本財。中間財を輸入する ことによって工業化をはか')、その結果生みだされる工業製品をアメリカに輸 出することによって、国際収支のバランスをとりながら発展をすすめることで 成功をとげたのである。太平洋トライアングルと名づけられた方式である。新 従属論の人々は国際経済から遮断しないと先進国への従属はさけられない、と 説いたので、アジアの発展は新従属論に反する経済発展とみることもできる。 注1レイモン・アロン著『世紀末の国際,J係」昭和堂 『外交フォーラム』1989年12月号の永井陽之助教授の発言 注2ポール・ケネディ著『大国の興亡』草思社 注3ハリー・オーシマ著『モンスーンアジアの経済発展』勁草書房 渡辺利夫箸『アジア経済をどう促えるか』NHKブックス 2ヨーロッパの奇蹟 近代的経済発展は、1500年前後に、ユーラシア大陸の北西端に位置するヨ

ーロッパではじまったと考えられる9当時の世界地図(図2-,)を眺めると、

-134-

(4)

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(5)

ユーラシア大陸上にはヨーロッパと並んでいくつかの文明が存在していること に気づく。東端の中国には明王朝が繁栄しており、少しおくれてムガール帝国 がインドに登場し、地中海からヨーロ,vパを望む位置にオスマン・トルコが展 開し、はるか彼方に-当時の通信・運輸事情のもとでは、そしてオスマン帝 国によって交易路が遮断されていたので-イワン3世のひきいるモスクワ公 国がモンゴルの範をたって独立を達成していた。

ヨーロッパを含めて以上の諸文明はそれぞれの特質はあるものの、総じてほ

ぼ同一の発展段階にあり、ヨーロッパが特にすすんでいるとは考えられず、し

たがってヨーロッパが何時の日か世界を支配するに至るとは想像もつかないこ とであった。 第1にヨーロッパには大平原がなく、大文明の展開に必要な領域に欠けてい た。第2に地政学的にみて、ヨーロッパは北側を氷にとざされ、西側を海洋で

遮断されているものの、南側からの包囲戦略に対して脆弱で不安定であった。

オスマン・トルコによるコンスタンチノーブルの攻撃と陥落、そしてビザンチ ン帝国が滅亡したのは1453年であり、ヨーロッパにはなまなましい記憶がい まだに残っ〒いた。オスマン帝国の活発な戦略展開は地中海全域で止むことな

く続けられていたので、ローマがいづれはコンスタンチノーブルと同様な運命

をたどることになる、と考える向きも少なくなかった。第3にこのような情勢

にあっても、小さな王国や額主国家、都市国家に分裂したヨーロッパは、統一

してイスラムに対決することは不可能であった。 しかし、その後滅亡したのはオスマン帝国であり、発展をとげたのはヨーロ ッパであった。イマヌエル、ウオーラステン流にいえば、世界帝国はすべて亡

び、ヨーロッパ世界経済のみが近代的経済発展の軌道にのったのである。こう

した歴史経過を理解するために、最初に滅亡した帝国の弱点をさぐり、ついで

比較的にヨーロッパの特質を考えることにしたい。なほ、この節はボール.ケ

ネデーの有名な『大国の興亡」の第1章に沿って書かれているので、参照いた

だければ幸いである。

最初に帝国の中の帝国である中国について考えてみたい。1500年当時、中

国の人□はすでに1億から1億3千万人に達していたと推計されておh、ヨー

-136-

(6)

ロッパの約2倍の大きさである。遺産としての文化や灌概施設にめぐまれ、儒 者の役人によって運営される行政機構も高度なものであった。11世紀にはすで に製鉄産業が盛え、その産出量は7世紀後のイギリス産業革命初期の産出量を しのぐ12万5千トンに達していた。 2) ニーダムによると、1世紀から15世紀の間においては中国の科学・技術は一 般にヨーロッパより可成り進んでいた。ヨーロッパが急速に発展するのは、ル ネッサンスの科学革命においてであh、それ以前には中国の発明・発見に影響 されることが大きかった。その技術の内容についてニーダムは三つの発明、す なわち印刷術・火薬・羅針儀をあげており、その他にも機械的時計装置・鋳鉄 法・パスカル三角法・運河の貯水式水門・船尾式の舵などがヨーロッパに影響 を与えたと記している。 よく知られている鄭和の遠征は、以上のような高度の技術~この場合は造 船技術と航海術一を反映するエピソードである。有名な提督・鄭和は明の成 祖の命を受け1405年から1433年にまたがって7回の遠征を試みた。カンボ ジア、シャム、スマトラ、インド、セイロン、ペルシャ、アラビア、東アフリ カを訪門したが、大型船62隻、-隻平均の乗員が448名、したがって全兵員は 3万人をこえた。ヴァスコ・ダ・ガマの艦隊が三隻・60名の兵員が分乗したのに くらべて、その偉容が想像できろ。明の海軍は当時1,350隻の艦艇を保有してい た。 最後の遠征後、明は海外展開から手を引き、内向きの内陸主義に政策を変更 した。この政策変更が唯一の理由ではないけれども、明はその後急速に衰退し ていった。内陸主義はある種の鎖国政策であるから海外交易の大部が遮断され ることになる。交易の遮断は交易当事者の交易の利益をうばうので、ときには 死活をかけた利害関係者の反乱を呼ぶ。外敵を封じるために経済封鎖をしたと 考えられるが、逆に外部勢力の反撃を強めることになった。もちろん、衰退の 理由は他にもある。 それらはまとめて帝国の戦略の手の広げすぎと呼ぶことができる。事例をあ げれば、万里の長城の改築、北京への遷都・海外遠征、朝鮮出兵等である。戦 略の拡張は王朝の財政を圧迫する。財政赤字はより過酷な徴税に行きつかざる -137-

(7)

をえないが、これは内部からの反乱の種をまくことに等しい。その際に、適切

な政策判断を立案し政策変更に導くのが官僚制度の役割と考えられるが、専制

下で三脆九叩頭の礼を曰常化された官僚に、それを望むことは無理である。結

局専制王朝は次のような興亡のサイクルの罠におちいってしまう?

第1段階はじめに王朝交替の大戦争がある。戦乱によって農業が荒廃する。

第2段階そこで、新王朝は成立早々には、政権維持のための慈恵政策とし

て、租税の減免がおこなわれるとともに、動乱で荒廃した農業生産力の昂揚 がはかられる。これで農業危機は一応とにもかくにも救われる。 第3段階しかし王朝が隆盛期に達する頃には、国家経費(王室の著侈的消

費、天災復興費、防衛または侵略のための対外戦争費)の増大がようやく不

可避となる。増税手段がとられる。天災が頻発する。農民の窮乏が増大し、

農業危機が切迫する。

第4段階ついで国内が動揺し、ある時は政権争奪のための宮廷闘争が、あ

る時は農民のくばらばらな、効果のない>反租税闘争が散発する。王朝の基 礎がゆらぎはじめる。かくして、政権維持のために対人民慈恵政策を最も必 要とする危機の瞬間に、租税が最高にひきあげられる。大規模の暴動がおこ

り、これを物質的力として利用する政権争奪戦が爆発する。王朝がたおれ、

新王朝がかわる。かくてふたたびさきの循環の反覆。

次にオスマントルコについて、その盛衰を跡づけてみよう。オスマン朝の全

盛期はスレイマン1世(在位1520-66年)の頃と考えられるが、バルカン

半島を席巻し、クリミアではジェノヴアの貿易拠点を奪い、エーゲ・海ではヴェ

ネチアと張り合い、その領土をレヴァントまで広げていた。

当時ヨーロッパで勢力を極めたのがハプスブルグ家のカール5世である。彼

はイスパニアの国王であh、|司時にネーデルランド、オーストリア、ハンガリ

アの領有者であり、神聖ローマ帝国の皇帝であった。こうして、スレイマン1

世とカール5世の衝突がくりかえされるが、攻撃の先手は常にスレーマン1世

にあり、カール5世は防戦に寧日なき状態であった。オスマン朝はフランスと -138-

(8)

同盟してハンガリー征服戦争を続け、150年間にわたってハンガリーの大半を 占拠した。ウィーンは1529年と1683年の二度にわたりトルコの包囲にあえ いだ。バルカンに進出し、東ローマ帝国を滅ぼし(1453年)、地中海を制顧 (1538年の海戦でベネチア・ハプスブルグ連合艦隊を破る)したオスマン朝 も1571年のレパント海戦に敗れ、その後衰退をたどった。 オスマントルコも戦略的に手を広げ蘂すぎその費用に苦しむことになった。中

央ヨーロッパで大部隊を駐屯させており、地中海・エーゲ海、紅海等でも戦闘

を続けていた。専制の弱点から異議の申し立てや政策変更の要求はおこりよう

もなかった。宗教の弾圧がきびしく自由な思想や創意の発展がはばまれ、レパ

ントの敗戦後も軍事改革や近代化はおこらず、内むきに対応するのみであった。

ムガール帝国はインドのデリーを中心に1526年に成立した。ムガールはモ ンゴルのなまりと考えられている。全盛期のムガールにおいても盛んに領土を 拡げ、土木工事、遷都が行われた。また綿織物工業が全国的に広がり、アラビ ア貿易が展開された。 しかし、ここでも衰退はオスマン帝国と同じパターンでおこっている。第6 代アウランゼブ帝は、スンニ派以外のイスラム教徒を厳しく弾圧し、ヒンズー 教寺院を破壊した。各地で反乱をまねくことになった。他方では、帝国の支配 層の暮しはヴェルサイユの太陽王をしのぐ程の乱費を極めていた。徴税は組織 的な掠奪のようになったが、チェックの仕組みは専制下では望むべくもなかっ た。あいつぐ飢鰹や洪水、疫病に対し公共サービスは全く提供されなかった。 帝国の末期であった。 以上、三つの専制帝国の盛衰を検討した。そこにはいくつかの共通する弱点 (近代的経済発展がおこる上での)がある。専制は権力の拡大あるいは徴税の 増加を目論む立場からの合理主義である。最初は慈恵的に、やがて戦略を拡大 し徴税を強化する、そして反乱をまねいて滅亡する。次の専制がとってかわる が、同様のパターンの循環が続く。専制は循環的で発展的でない。第2の弱点 は近代経済発展が資本主義的発展であったことと関係する。資本主義的発展は 個人の創意によって技術の発展が興こり、企業の発展が導かれることを期待し ているが、独裁は思想を統制するので個人の創意は育たない。 -139-

(9)

次に近代的経済発展のアリーナとなったヨーロッパ文明をとりあげてみよう。

ここで強調したい点は、ヨーロッパは経済的にはひとつにまとまった地域であ

るが政治的にはいくつかの国家に分裂して争っていた、ということである。イ

マヌエル.ウオーラステインは経済的にまとまって自足圏を作っている地域が

いくつかの国家に分れている場合を世界経済と呼んだ。そしてひとつの国家に

統一支配されている経済自足圏を世界帝国と名づけた。これまでとりあげてき

た、明王朝、ムガール朝、オスマントルコは、すべて世界帝国であり、唯一の

世界経済はヨーロッパ世界経済であると考えた。また発展段階として、世界帝

国は世界経済に発展し、最後に資本主義世界経済から社会主義世界政府へ移行

すると考えていた:)

ここではヨーロッパの分裂が結果として民主的な政体を生み、民主的政体が

近代資本主義の発展を支える風土であったという二点をとりあげていきたい。

ヨーロッパの政治経済はヨーロッパの地形足深く根ざしている。(図2-2)

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グ壁塞一 、■〃ロロロ■ロロ Europe--PhysicalGeography JoshuaSGoldsteinLONGCYCLES291ページより -140-

(10)

巨大な半島はその三面を海洋によって囲まれている。半島の中央部からいくつ かの河)||が海洋にそそいでおり、内陸貿易の中枢になっている。河川の出口に は海岸線に沿って都市がひらけており、これら諸都市は沿岸都市、内陸都市と 結ばれているのみでなくヨーロッパ外部に対しても開かれている。図2-3に みられるように、やがて国家間ゲームの時代が到来するようになった時、ひと つの河川沿いにそれぞれひとつの国家が誕生することになったのである。 いま図2-3にもとづいて、過去500年の間に活躍した主要12ケ国を列挙す ると、トルコに向って時計の針の方向へ、オーストリア、イタリー、スペイン、 ポルトガル、フランス、イギリス、オランダ、ドイツ、スエーデン、ロシアの I頂になる。日本とアメリカが矢印で方向のみ示してある。ヨーロッパの地理的 特質が政治の多様化をもたらしたのみでなく、生産物の多様化をもたらし、交 換と市場の発展をうながすことになった。それにつれて交易を促進する制度と しての為替手形、信用制度、銀行、信用や保険制度が発達することになった。 図2-3TheMajorNaIions 7

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JoshuaSGoldsteinLONGCYCLES291ページより -141-

(11)

ヨーロッパの交易品は、材木、穀物、ワイン、羊毛、ニシン等であったが、そ の特徴は嵩ばる商品ということにあり、造船業の発展につながった。 政治の中心が散在することは、商業活動が自由に発展することにつながった。 一方で商人を掠奪し追放する領主がいても.一方で商人を保護しその活動を育 成する領主がいたのである。やがて各地の政権は市場や経済と両立することを 学び、国内秩序を提供して税金という形で経済繁栄の分け前にあづかるように なった。まことに、アダム・スミスの言葉通りに「遅れた野蛮な段階から脱し て、豊かな繁栄した社会を築くために必要なことは、平和、低い税金、そして 寛大で公正な行政のみである」という展開になった。 ヨーロッパ各国の政治分裂は、各国の軍事競争に拍車をかけることになった のも事実である。幸い、すでに指摘した地理的特質に支えられて、ヨーロッパ がひとつの帝国に統一されることにはならなかった。初期の激しいマキアベリ ズムの時代を経て、現実主義的な勢力均衡へとつながっていった。他方ヨーロ ッパ各国の競争は各国の軍事力を強め、相対的に軍事バランスが欧州に優勢と なり、ヨーロッパによる世界の分害||をもたらすことになった。ポール、ケネデ ィは以上のような経過を総合して「ヨーロッパの奇蹟」とよんだ。 6) 証明するのは不可能だが、こうしたさまざまな要素が、いわばなんらかの内 的な論囲によって結びつくことが発展の必要条件だったのではあるまいか。 それは-個々をとればのちの時代のものにくらべて原子的であったにせよ -経済面での自由放任主義と政治的・軍事的多様性、知的な自由とがいっ しょになったものであり、これらがたがいに作用しあって、「ヨーロッパの 奇蹟」をつくりあげたのである。この奇蹟は、歴史的にみてきわめてユニー クなものであり、これらのすべての要素が再現されただけでは、他の場所で も同じ結果を生むということはないと考えてもよいだろう。これらの重要な ファクターの混在は、明にも中東やアジアのイスラム帝国にも、あるいはこ れまでみてきたどの社会にも欠けていた。そのためにこれらの国々は停滞し、 そのあいだにヨーロッパが世界の舞台の中心におどりでたのだといえるだろ つ◎ -142-

(12)

その後、ヨーロッパにおいて蒸気エンジンと動力織機が出現し、世界の産出 高比率を劇的に変えた。(表2-1)1750年から1830年の間にイギリスの

表2-1(a)RelatlveSharesofWorldManufacturlngOutput,

l75L1900 ノ万0ノ800ノ830ノ860ノ880 (Europeasawhole)23.228.134.253.261.3 UnitedKingdom L94.39.519.922.9 HabsburgEmpire Z93.23.24.24.4 France 4.04.25.27.97.8 GermanStates/Germany 2.93.53.54.98.5 ItalianStates/Italy 2.42.52.32.52.5 Russia 5.05.65.67.07.6 UnitedStates O10.82.47.214.7 Japan 3.83.52.82.62.4 ThirdWorld73.067.760.536.620.9 china 32.833.329.819.712.5 India/Pakistan 24.519.717.68.62.8 〃O57825864027 9284632832161 J61 1 21

表2-1(b)PerCapitaLevelsoflndustrianzation,

175L1900 (relativetoUK・inl900=100) ノ万0ノ800ノ830ノ860 (Europeasawhole)881116 UnitedKingdom lO162564 HabsburgEmpire 77811 France 9912Z0 GermanStates/Germany 88915 ItalianStates/Italy 88810 Russia 6678 UnitedStates 491421 Japan 7777 ThirdWorld7664 china 8664 1ndia 7663 0 8475852089342 828122113 J JI

卿羽川刀羽鬼Ⅳ旧胡、231

PaulKennedyTheRiseandFallofTheGreatPowers149ページより -143-

(13)

紡績業の機械化が進んだ結果、能産性は400倍になった。1750年のヨーロッ パと第3世界の世界生産にしめる相対比率は23:73であったが1900年には 62:11に逆転している。また1人当りの工業水準ではヨーロッパと第3世界 は1750年には同じレベルであるが1900年には18分の1におちることになった。 ポール・ケネディ著『大国の興亡』草思社第1章に拠っていろ。 湯浅剋男『文明の歴史人類学』新評論234ページ 湯浅剋男同上書164ページ イマヌエル.ウォーラーステイン箸『資本主義世界経済I』名古屋大学 出版会226ページ JOSHUASGOLDSTEIN,LONGCYCLESYaleUniuersityPress l988P,290 ポール.ケネディ同上書63ページ 1234 注往往注 注5 注6 3モンスーンアジアの経済発展 第1節において世界帝国が経済発展に失敗して衰退し、滅亡したのに対して、 ヨーロッパ世界経済のみが経済発展に成功したことを説明した。世界帝国が失 敗した理由は、専制ないし独裁は資本主義的な経済発展になじまない。何故な らば資本主義的発展は個人的創意を前提としており、専制はそれを許さないか らということであった。逆にヨーロッパ世界経済においては政治的な競争が経 済競争とパラレルな関係にあり、それは資本主義的発展がおこるのに好都合な 環境を準備した、と考えられる。いづれにもせよ、近代的経済発展をとげた歴 史的経過はポール・ケネディが述べたように「ヨーロッパの奇蹟」的な出来事 であったに相違ない。 その後、ヨーロッパにおこったインダストリアリズムは各地に波及し、今日 では経済発展の核はアジアのニーズとアセアンである。次にアジアの経済発展 を考えてみたい。経済発展とは1人当り生産(所得と生産は三面等価の原則に よって等しい)が増加すること、そしてその増加が長期的に持続することであ -144-

(14)

る。1人当り所得の増加は、分母である人口の抑制と分子であるGNPの増加 が相伴うことが必要である。 最初に人口の変化を考えよう。人口の変化は出生率と死亡率の変化による。 出生率マイナス死亡率が正の数字であれば増加、負の数字であれば減少となる。

図3-1は人口転換の概念図である'3第1局面においては出生率も死亡率も高

いために人口停滞の罠を脱出できない。貧しい社会では死亡率は高くならざる をえないので、本能的に高出生率を尊ぶ価値や慣習を生み、種族の維持につと める。第2局面では豊かさの故か外生的な理由によって死亡率が低下したのに、

慣習化した出生率は時間をかけてしか低下しないため、人口の増加や爆発がお

こる。第3局面は出生率も遂に低下をとげ、人口増が安定する局面である。 図3-1人口転換の概念図 I:

、、

」増加 --== 渡辺利夫『アジア経済をどう促えるかJ13ページより -145-

(15)

図3-2世界各国の人口転換係数 渡辺利夫『アジア経済をどう促える力J33ページより

図3-2は人口転換を1からOの間に係数化して示したものである。係数が

1のとき人口転換が完了し、係数が小さい程、人口転換のおくれを示している。

日本を含む先進国は勿論のことアジアニーズでも人口転換がすすんでいる。ま

た、その他の東南アジア諸国では係数がかなり低くなっている。

次に産業の転換について考えることにする。産業転換については、昔からコ

ーリン、クラークの図式がよく知られている。クラークは全産業を第1次、第

2次、第3次の3セクターに分類し、数字の低い方を低次産業、高い方を高次

産業と定義した。そして生産性の低い低次産業から生産性の高い高次産業に移

行することを経済発展と考えた。

2)

図3-3と図3-4は、日米の産業構造の変イヒと出生率の変化を示してある。

ここではハリー・オーシマ教授の考えにもとづいて、産業構造の変化を分折し

たい。先に人口転換を考えた時、死亡率の低下が先におこり、おくれて出生率

の低下がおこるが、両者が一致する時点を人口転換と名づけた。アナロジカル

に、工業化によって工業の雇用がふえ農業雇用が減り、かくして両者が一致す

る点を工業転換と呼び、サービス産業が増加し工業の比率がおち、両者の雇用

が一致する点を第2転換あるいはサービス転換と呼ぶことにする。

-146-

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西曰イブ ドギラ イリン ツ本スス 先進国 韓 国 ムロ 湾 シンガポール 香 港 アジアNIES インドネシア フイリピン タイ マレーシア 東南アジア 中国

(16)

図3-3アメリカの産業構造転換(1870~1970年)

% % % % % % ㈹ 0 3 0 4 J0 20 0 総雇用に占めるシェア(出生率←毎除く) mDUqJ・瓜一 ■Ⅱ■ ■■■ ■■ Hu■ 皿士挙部PE H■ BOODd5」DC 、 ) H7OⅡⅡIUDUHgOⅡ900U9nOO9ZOU9mDU9△①IgE、ロロ⑭、ロ97m (注)()の中の数値は1,000人単位.

ハリー・オーシマ『モンスーンアジアの経済発展j59ページより

図3-4日本の産業構造転換(1906~1980年)

総雇用に占めるシェア(出生率を除く) 00% 【Ⅱ Jyf 腓 蔭P上 l出生率C'/DC ソ【幻MUI9ZOI9JOI“OIO”I9GOIO70ION[ (注)()の中の数値は1,000人単位 ハリー・オーシマ『モンスーンアジアの経済発展j59ページより -147-

(17)

図3-3によれば、アメリカの工業転換は1900年前後に完了したことにな る。農業国アメリカから工業がより大きな比重をしめる経済へと移行をとげた ことになる。また工業国アメリカからサービス産業がより大きい比重をしめる 第2転換期はかなり早く、1930年前後であることが読みとれる。図3-4は 日本の産業転換を示し、工業転換が1960年、サービス転換も1970年頃には 始まっている。欧米の先進国の大部分はサービス転換をとげているが、アジア では日本のみがサービス転換を終っている。図3-5と図3-6はそれぞれ 図3-5台湾の産業構造転換(1905~1980年) 70% % 0 6 % 0 3 % 0 4 % 』0 0ノ ノ⑪ 0 2 総雇用に占めるシェア(出生率を除く) 1出生率O''1Ⅵ IPF Julゴンー144, 10% 区割《排 9001910I9ZOI9JOl9」0’95019601070IO8C (注)()の中の数値は1,000人単位.

ハリ・オーシマ『モンスーンアジアの経済発展160ページより

-148-

(18)

図3-6韓国の産業構造転換(1910~1980年) D0% DIX 6lx 90 謬菫部門~(6.800 【X 〕% 、O〔 総雇用に占めるシェア(出生率を除く) S0u 0% 1国a二厘k7m 00% 200) IDⅡ 珊門iI7oc HX J、 0% IbJU HOOl_ Q4C DlOlq2010]OIMOI9SOI9601970l98U (注)()の中の数値は,1,000人単位.戦後は韓国のデータ. ハリー・オーシマ『モンスーンアジアの経済発展j61ページより 台湾と韓国についての産業の変化を示したものである。台湾の工業転換は1970 年頃であり、韓国は少しおくれて1970年代の後半であることが読みとれる。 アジアの産業構造の変化を雇用と所得についてまとめたのが表3-1と表3 -2である。アセアン4ケ国のサービス部門が台湾に接近するくらいに高くな っているのはインフォーマル・セクターの大きさのせいであろう。また香港・ シンガポールのサービス部門が高いのは、ひとつには農業部門の低さに対応し

ている。初期の経済発展の時期に農業部門が経済発展のための余剰を負担する

ように、ここではサービス部門が余剰資本と労働力供給の源となる。また規模

の経済の点から小国は工業化に不利であるから、サービス部門の発展に力をい

-149-

(19)

れるのは当然である。 さて、表3-1と表3-2にもどると、アジアには発展段階のことなる3つ のグループの国が存在していることになる。東アジアの国々はすでに工業転換 を終っており、サービス転換への過程にある。第2のアセアンの国々は工業転 換をすすめているが、まだ完了していない国々である。そして第3のグループ の南アジアの国々は未だ農業経済が中心の国々である。 表3-1構造変化:産業部門別雇用シュア (%) JHOZ 980年盃虐重 東アジア 日本 韓国 台湾 香港 シンガポール 東南アジア 西マレーシア フィリピン インドネシア タイ 南アジア スリランカ インド ネパール 922056112389764 ●b●●●●●●●●●●●●● 457678292333604 3455 757787579 702506956949459 ●●●●●B●●●●●●●●● 314921561040029 1131 535677578 260887850266304 口●●●●●●●P●●■●●● 168081061050731 3212531111111 336340321164410 0●●●●●●■●●●e●●● 553467121100001 一一一一一一一一一一一一一 551398248789619 ●●●●●●●●●●●●●●● 502878800192340 4434541321121 028388148566142 ●●●●●●●●●●●●●●● 484339746605664 3222351211112- 856216016472042 ●●●●の●●●●●の巴●●● 083209637756639 44334423221121 212498046003100 ●●●●●●●●■●●●●●● 122100211325017 ’’1 262619180883145 ●●●●●●■●●c●●●●● 214301222022108 ハリー・オーシマ『モンスーンアジアの経済発展』99ページより -150-

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表3-2構造変化:産業部門別生産シェア (%)

980年霊凝|]950年1980年羅墓'1950年1980年霊裟

東アジア 日本 韓国 台湾 香港 シンガ・ポール 東南アジア 西マレーシア フィリピン インドネシア タイ 南アジア スリランカ インド ネパール 438325736093036 ●●●●●●●0●●■●●●● 029333340909502 2233 444445557 000620720509098 ●●●●●●●●●●●●●●● 646711553957886 222224246 1 843083458944526 ●●●●●●●●●●●●●●● 566645221221201 ’一一一一一一一一一一一一一一 622083453442733 ●●□●●●●●●●●●●●■ 102303231400123 515856128581085 ◆●●●●●●●●●●●●●● 290777274967965 333241212121111 300680880301031 ●●●●●●●●●●●●●●■ 311607567093063 444543333422321 168939256526099 ●■●●●●●●●●●●●◆● 789898484123621 432347333332231 700800600200091 ●●⑪◆●●●●●●●①●●● 053582880069240 554356334342422 747381-015288840 ●■■COC●●●●●●、●⑪ 012001000013111 - - -1 ハリー・オーシマ『モンスーンアジアの経済発展』、0ページより 工業転換を終えたアジアニーズについて工業化がなぜ成功したか、その説明 は複雑であろう。第1節でとりあげた「ヨーロッパの奇蹟」が複雑であったよ うに。ここでは1点のみを強張したい。それは、ニーズの工業化が世界経済に 結びついた工業化であるということである。世界経済と途上国の経済発展との 関連については、世界経済から遮断した経済発展とリンクした発展が考えられ る。新従属派のように途上国は世界システムに従属していると考えれば、世界 システムから遮断することが発展につながることになる。ニーズの発展は輸出 志向型の工業化として工業転換を成しとげている。したがって世界システムに リンクすることが、この場合の発展のひとつの理由といえる。 3) 表3-3を見ると、ニーズの世界輸出にしめるシェアーは1965年の16% から1987年には7.4%に達している。アセアンと合計では9.5%となり日本 の輸出比率と全く等しくなる。貿易で見る限りでは日本と同じサイズの経済が 太平洋に誕生したことになるのである。渡辺利夫教授は図3-7にもとづいて、 -151-

(21)

ニーズの発展は日本から輸入した資本財をもとに工業化をすすめ、その製品を アメリカに輸出するという形で、国際収支のバランスをとっていると説明する。 図3-8はこれを裏づけている。消費財についてみると輸出の大部がアメリカ 向けである。資本財の輸入については対日輸入が最大である。中間財(工業部 品)についても同じく日本からの輸入がすべてである。日本からの資本財輸入 とアメリカへの製品輸出によって成り立っている。太平洋トライアングルと呼 ばれることもあるが、世界システムにリンクした経済発展である。ポール・ケ ネディ流にいえば、「アジアの奇蹟」ということになろう。 表3-3世界貿易に占めるアジアNIES、

ASEAN諸国,日本、アメリカの比率(単位%)

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注 アジアNIESは,韓国,台湾,香港,シンガポールを,また ASEAN諸国は,タイ,マレーシア,インドネシア,フィ リピンを含む。 渡辺利夫『アジア経済をどう促えるかJ’173ページより 図3-7輸出。投資拡大循環メカニズム

輸出一輸入一投賢一生産性上昇

「--輸

輸入代替, 出

資本財 (日本) 消費財 (アメリカ) 渡辺利夫「アジア綜済をどう(足える力J1176ページより -152- IZI・国グループ名 1965年 1970年 1975年 1980年 1985年 1986年 1987年 輸出 アジアNIES ASEAN諸国 日本 アメリカ 6998 ●●●C l145 1 2668 ●●●0 2164 1 6971 ■●●● 2163 1 0585 ●P■● 4261 1 2577 □●●□ 6291 1 5147 ●●●● 6200 11 4164 ●●●● 7290 1 輸入 アジアNIES ASEAN諸国 日本 アメリカ 1957 ●●●● 2142 1 9620 ●●■● 2164 1 3895 ●00G 3162 1 5021 ●●●● 4273 1 6989 ●●●● 5168 1 6715 ●●●0 5168 1 4823 ●●●● 6167 1

(22)

図3-8アジアNIESにおける工業製品の純輸出(輸出一輸入)

〈単位’億ドル) 川 肌] 00 と【 △40 △4[ へ6[ △bU へH【 H[ U【 00 △ZOO M] 32 X】 j(] X] 、( △△△△凹型 bL へ80 DC と【Ⅱ 9801984 30 (年) (年) 注:△はマイナス記号。 渡辺利夫『アジア経済をどう促える力J179ページより -153- 3 2 1 00 00 00 80 60 40 20 0 △20 △40 △60 △80 △100 △200 300 200 P 100 80 60 40 20 0 △20 △40 △60 △80 △10 1965197019751980]98419651970197518001984△20 (年) (年) O0 00 q OO 80 60 40 20 0 20 40 60 80 00 00 pq 、 。 1965197019751980198419651970197519801084 300 200 ケ 100 80 60 .10 20 0 △20 △40 △60 △80 △100 △200 一一、』』■・P j 財 閥 中 く 一一d一一一 F

P IDD ■pq 対日 01 j 財 本 質 く 一ケ 』

P ID j 計 A向 く 一。一一|』 P 一一|■ P

(23)

注1渡辺利夫『アジア経済をどう促えるか』NHKブックス第1章 注2ハリー・オーシマ箸『モンスーンアジアの経済発展』勁草書房第2章と 第3章

注3渡辺利夫同上書第12章

4むすび l) かってクリフォード・ギアーツは内インドネシア(ジャワの大半とバリ・ロ ンポクの1部)の水田稲作について、増加する人口圧力の下で水田稲作によっ て雇用吸収をはかり、農村共同体の相互扶助的な所得配分機構によって生存を 続けているが、究極的には自滅的な社会過程である、と考えた。そして貧困の 共有による農業インボルーションと名づけた。 幸いにもニーズ諸国は、人口の転換と工業の転換に成功して、インポルーシ ョンの罠を脱出し、-人当りの所得の成長を続けることが出来るようになった (表4-1)。デジアの経済発展の政治制度についての分折が不足だったこと痛 感しつつ、本稿を終ることにする。 アジア諸国における1人当たり国民総生産(GNP)および1人当たり 生産・労働者1人当たり生産の年平均成長率 (*ドル,%) 表4-1 DuU刮岸■: 3,N、 皿DK■ 由、Ⅱ侭7, DHD巴 ハリー・オーシマ『モンスーンアジアの経済発圃78ページより -154-

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注1 ギアーツのインボルーションについては、渡辺利夫同上書第4章 原洋之助著『クリフォード・ギアーツの経済』リプロポート、Iオアジア 経済を多面的に解明した好著。 CLIFFORDGEERTZAGRICULTURALLNVOIUTIONTHE PROCESSESOFECOLOGICALCHANGEINII⑩ONESIA Univ・ofCaliforniaは手頃なペーパー版がある。 -155-

参照

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